Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
<第15章・“戦時共産主義“>の試訳のつづき。
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第15章・第四節/最高経済会議の設立②。
(07) 最高経済会議は、巨大な私的部門がその統制の外に残ったままだったということだけでも、「国民経済と国家財政を組織する」という課題を、部分的にすら実現しなかった。
供給人民委員部に譲歩しなければならなったので、食糧その他の消費用品を配分するという任務を全うすることもしなかった。
実際のところ、最高経済会議は、ソヴィエト・ロシアの国有産業を管理する—いや正確には、管理することを試みる—主要な機関になった。換言すると、異なる名前をもつ産業人民委員部だった。
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(08) ボルシェヴィキは、十月のあとすぐに、企業の国有化を開始した。
ほとんどの場合、所有者または経営者が「破壊活動(sabotage)」に従事したという理由で、工場施設を剥奪した。
剥奪したそれらを、ボルシェヴィキは工場委員会に委ねた。
ときには—従前の臨時政府の地方政府閣僚だったA. I. Konovalov の織物工場について生じたことだが—、政治的復讐を動機として収用が行なわれた。
国有化された企業の所有者は、補償を受けなかった。
国有化のこうした任意で無計画の段階が最高に達したのは、1917年12月のPutiov 工場の収用だった。
ほとんどの収用は、政府の指示によってではなく、地方機関自身の主導でもって行なわれた。—最初は地方ソヴェトによって、のちには最高経済会議の地域支部によって。
1918年8月に行なわれた調査によれば、国有化された567企業のうち、そして没収された214企業のうち、五分の一だけが直接にモスクワによる指令にもとづいていた(注72)。
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(09) ロシア産業の体系的な国有化は、1918年1月28日の布令でもって始まった(注73)。
これを起動させたのは、Lari n だった。
ベルリンでの通商交渉に出席したLarin は、ドイツの実業家たちはロシアの大企業の支配権を握るつもりだ、と結論づけた。
ボルシェヴィキは、ブレスト=リトフスク条約で、ソヴィエトの経済諸法の規制から中央諸国の会社を除外することに同意し、それらがロシア領土内で資産をもち、事業活動を行なうことを認めた。
国有化された資産の所有者には、適正に補償がなされるものとされていた。
ロシア人がその企業をドイツ人に売却する場合、当該ドイツ人は支配権を握るか補償を受けるかの選択をするのを可能にする、そういう条項があった。
Lari n はレーニンに、国有化措置を一挙に行なうことだけがドイツがロシアの産業の支配者になるのを阻止することができる、と説得した(注74)。
レーニンがそうするのを躊躇したとすれば、ドイツの反応を懸念したからだった。多数のボルシェヴィキはそうした措置がドイツとの外交関係に亀裂を生み、反ボルシェヴィキ「十字軍」を形成する刺激になることを怖れていたのだ。
この恐怖には、結局は根拠がなかった。「不誠実だ」と不満を述べながらも、「[ドイツは]全ての[ロシアの]産業の国有化を黙認し、ロシアに対して宣戦を布告することはなかった」(注75)。
国有化される資産についてドイツの利害関係者には完全な補償が保証され、連合諸国のそれには否認された、というのがその理由だった。
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(10) 1918年6月28日の布令は、100万ルーブルの資本をもつか、それ以上を会社か組合が所有している全ての企業と鉄道の国有化を、補償なくして、命じた。
国有化された事業の施設その他の資産は、国家に移された。
経営者たちは、厳しい制裁で威嚇されつつ、その地位にとどまるよう命じられた。
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(11) それ以降、国有化の過程が進行した。
1920年の秋までに、最高経済会議は、総計200万人の労働者のいる、3万7226企業を、名目上は管轄した。
国有化された企業の13.9パーセントは1人しか雇用せず、ほとんど半分には機械装備がなかった。
しかし、実際には、最高経済会議はこれら企業の一部しか管理せず(ある権威によると4547企業)、残りが国有というのは、名前だけにすぎなかった(注76)。
1920年11月、政府は、ほとんどの中小企業を国有化する追加の布令を発した(注77)。
1921年の初めに、書類上は、政府は、一人の作業場から巨大な工場まで、ほとんど全ての製造施設を所有し、経営した。
現実には、一部しか支配せず、管理したのはさらに少なかった(脚注)。
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(脚注) 防衛産業の組織化については、明確でない。1918年8月、最高経済会議は、Krasin の指揮のもとに軍需用品の生産に関する委員会を設立した。この委員会は、拘束力のある軍部からの命令を受け取り、企業へと渡した。やがて、軍需用品の供給の責任は防衛会議(Sovet Obolony)がもつことになった
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(12) 最高経済会議—かつて「トラストのトラスト」と呼ばれた—は、幹部会によって指揮される、巨大な官僚機構を発展させた。
それは、垂直に(機能面で)また水平に(領域面で)組織される諸機関へと分割されていた。
垂直の諸組織は、<glavki>または<tsentry>と呼ばれた。これらは1920年遅くで42を数え、それぞれが産業生産の一分肢に責任をもち、委員会によって指揮された。
それらは、塗料、塩、紙について各々Glavlak、Glavsol、Glavbum のように、頭文字化された名称をもった(注79)。
この会議の構造や活動を企画するのに大きな役割を果たしたLari n は、のちに、その発想を外国から得ていたことを承認した。
「私はドイツの<戦争社会>に注目し、ロシア語に翻訳し、労働者精神を混ぜ、<glavki>の名前で通用させた」(注80)。
<glavki>に加えて、最高経済会議には、1920年にほとんど1400の、地方支部の網があった(注81)。
会議の組織図は、幹部会が太陽を、<glavki>、<tsentry>や地方諸機関は惑星とそれらの月を示す、天界図に似ていた(注82)。
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③へとつづく。
<第15章・“戦時共産主義“>の試訳のつづき。
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第15章・第四節/最高経済会議の設立②。
(07) 最高経済会議は、巨大な私的部門がその統制の外に残ったままだったということだけでも、「国民経済と国家財政を組織する」という課題を、部分的にすら実現しなかった。
供給人民委員部に譲歩しなければならなったので、食糧その他の消費用品を配分するという任務を全うすることもしなかった。
実際のところ、最高経済会議は、ソヴィエト・ロシアの国有産業を管理する—いや正確には、管理することを試みる—主要な機関になった。換言すると、異なる名前をもつ産業人民委員部だった。
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(08) ボルシェヴィキは、十月のあとすぐに、企業の国有化を開始した。
ほとんどの場合、所有者または経営者が「破壊活動(sabotage)」に従事したという理由で、工場施設を剥奪した。
剥奪したそれらを、ボルシェヴィキは工場委員会に委ねた。
ときには—従前の臨時政府の地方政府閣僚だったA. I. Konovalov の織物工場について生じたことだが—、政治的復讐を動機として収用が行なわれた。
国有化された企業の所有者は、補償を受けなかった。
国有化のこうした任意で無計画の段階が最高に達したのは、1917年12月のPutiov 工場の収用だった。
ほとんどの収用は、政府の指示によってではなく、地方機関自身の主導でもって行なわれた。—最初は地方ソヴェトによって、のちには最高経済会議の地域支部によって。
1918年8月に行なわれた調査によれば、国有化された567企業のうち、そして没収された214企業のうち、五分の一だけが直接にモスクワによる指令にもとづいていた(注72)。
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(09) ロシア産業の体系的な国有化は、1918年1月28日の布令でもって始まった(注73)。
これを起動させたのは、Lari n だった。
ベルリンでの通商交渉に出席したLarin は、ドイツの実業家たちはロシアの大企業の支配権を握るつもりだ、と結論づけた。
ボルシェヴィキは、ブレスト=リトフスク条約で、ソヴィエトの経済諸法の規制から中央諸国の会社を除外することに同意し、それらがロシア領土内で資産をもち、事業活動を行なうことを認めた。
国有化された資産の所有者には、適正に補償がなされるものとされていた。
ロシア人がその企業をドイツ人に売却する場合、当該ドイツ人は支配権を握るか補償を受けるかの選択をするのを可能にする、そういう条項があった。
Lari n はレーニンに、国有化措置を一挙に行なうことだけがドイツがロシアの産業の支配者になるのを阻止することができる、と説得した(注74)。
レーニンがそうするのを躊躇したとすれば、ドイツの反応を懸念したからだった。多数のボルシェヴィキはそうした措置がドイツとの外交関係に亀裂を生み、反ボルシェヴィキ「十字軍」を形成する刺激になることを怖れていたのだ。
この恐怖には、結局は根拠がなかった。「不誠実だ」と不満を述べながらも、「[ドイツは]全ての[ロシアの]産業の国有化を黙認し、ロシアに対して宣戦を布告することはなかった」(注75)。
国有化される資産についてドイツの利害関係者には完全な補償が保証され、連合諸国のそれには否認された、というのがその理由だった。
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(10) 1918年6月28日の布令は、100万ルーブルの資本をもつか、それ以上を会社か組合が所有している全ての企業と鉄道の国有化を、補償なくして、命じた。
国有化された事業の施設その他の資産は、国家に移された。
経営者たちは、厳しい制裁で威嚇されつつ、その地位にとどまるよう命じられた。
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(11) それ以降、国有化の過程が進行した。
1920年の秋までに、最高経済会議は、総計200万人の労働者のいる、3万7226企業を、名目上は管轄した。
国有化された企業の13.9パーセントは1人しか雇用せず、ほとんど半分には機械装備がなかった。
しかし、実際には、最高経済会議はこれら企業の一部しか管理せず(ある権威によると4547企業)、残りが国有というのは、名前だけにすぎなかった(注76)。
1920年11月、政府は、ほとんどの中小企業を国有化する追加の布令を発した(注77)。
1921年の初めに、書類上は、政府は、一人の作業場から巨大な工場まで、ほとんど全ての製造施設を所有し、経営した。
現実には、一部しか支配せず、管理したのはさらに少なかった(脚注)。
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(脚注) 防衛産業の組織化については、明確でない。1918年8月、最高経済会議は、Krasin の指揮のもとに軍需用品の生産に関する委員会を設立した。この委員会は、拘束力のある軍部からの命令を受け取り、企業へと渡した。やがて、軍需用品の供給の責任は防衛会議(Sovet Obolony)がもつことになった
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(12) 最高経済会議—かつて「トラストのトラスト」と呼ばれた—は、幹部会によって指揮される、巨大な官僚機構を発展させた。
それは、垂直に(機能面で)また水平に(領域面で)組織される諸機関へと分割されていた。
垂直の諸組織は、<glavki>または<tsentry>と呼ばれた。これらは1920年遅くで42を数え、それぞれが産業生産の一分肢に責任をもち、委員会によって指揮された。
それらは、塗料、塩、紙について各々Glavlak、Glavsol、Glavbum のように、頭文字化された名称をもった(注79)。
この会議の構造や活動を企画するのに大きな役割を果たしたLari n は、のちに、その発想を外国から得ていたことを承認した。
「私はドイツの<戦争社会>に注目し、ロシア語に翻訳し、労働者精神を混ぜ、<glavki>の名前で通用させた」(注80)。
<glavki>に加えて、最高経済会議には、1920年にほとんど1400の、地方支部の網があった(注81)。
会議の組織図は、幹部会が太陽を、<glavki>、<tsentry>や地方諸機関は惑星とそれらの月を示す、天界図に似ていた(注82)。
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③へとつづく。



























































