この第22巻Aの「後記」はたった5頁で、この巻には何を収めているかについての言及すらない。
2 この巻は全体として〈運命と自由〉と題され、「後記」も「運命」に論及している。
しかし、「要するに『運命』とは個人の情熱の外にない」という(相変わらず?)訳の分からない言辞があり、「個人」だけかと思えば「個人の『運命』」と「日本の『運命』」があるようであり、最末尾の文章は、こうなっている。
「今こそ『運命』の声に静かに耳を傾けようではないか」。
何のことか、何を言いたいのか、さっぱり分からない。
これはひょっとして、西尾幹二の生前最後の文章なのだろうか。
見苦しく、悲惨なものだ。「運命」という言葉・概念も、一種のイメージとして使われていて、当然ながら、きちんとした定義はない。西尾幹二における「自由」概念と同じく、何らかの「ひらめき」と「思い込み」によって、言葉・概念が使われ、文章ができあがっている。
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二 全集22巻Aということは同22巻Bもあり得るはずだ。
しかし、この22Bはまだ刊行されていないようだ。
とすると、西尾幹二は「本人編集」であるので、結局は全巻の刊行はないまま終わったことになる。
もともと「本人編集」で、各巻の編集時点での西尾の〈気分〉で、その内容、収録する本や文章は決められていたと見られる。そして、少なくとも実質的には、編集時点での「書き直し」、「書き換え」を疑い得た部分もあった。
そうであるとは言え、形式上「22B」が欠落するので、西尾幹二が最初に意図したようには全集は完結しなかったことになる。
異様な「本人編集の全集」だったとは言え、気の毒なことだ。
現時点での国書刊行会(出版元)のウェブサイトには載っていないが、つい昨年まで、この欄で紹介した<西尾幹二は太陽だ>との加地伸行の文章とともに、「第22巻」の「A」と「B」のかなり細かな(刊行予定の)内容も掲載されていた。
現時点ではそのサイトの頁は存在しないので、結局は何が収載されないままになったかは、分からない。
だが、ずっと興味だけはもっていたのは、つぎの二つの西尾著がどういうふうに収載され、「後記」で西尾はどう位置づけるのだろうか、ということだった。
①西尾・国家と謝罪(徳間書店、2007)。
②西尾・皇太子さまへの御忠言(ワック、2008)。
一つの書物でも西尾幹二全集は分断し、それらの一部を別々の巻に収録するということをしていたので、これらの一部がすでにどこかに収録されている可能性はある。だが、中心部分の収載は行われていないはずだ。
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「22A」の45%ほどは、西尾・あなたは自由か(ちくま新書、2018)が占めている。
ついでながら、元の新書とは違って「章」別の構成になっている。それは別としても、「第四章は『正論』2014年2-4月号に連載したものを加筆修正した」と注記されているので(p.261)、その「加筆修正」は、最初の発表文章を全集収載時点で「書き換え」したものになっている可能性が高いことに注意しておくべきだろう。
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国書刊行会の全集刊行開始時点(2011年)でのウェブサイトでは、〈皇太子さまへの〜〉は「22B」の一部の「天皇・皇室」関係論稿として位置づけられていた記憶がある(上の①については記憶がない)。
「22B」では、上の二つはきちんと収録され、めでたく?完結する予定になっていたのだろうか。
どうも、怪しい。
というのは、「22A」にはまだ半分以上の余裕があり、早めに収録することを意図すれば、上のいずれかのかなりの部分を収録できたはずだ。そしてまた、「22A」には、書物・雑誌上の文章ではない、「西尾幹二のインターネット日録」に掲載された「電子的」文章までが収載されている(全部ではない)。
西尾幹二は最後には、上の二つ、①と②の収録を避けた、少なくとも収載に積極的ではなかった、のではないか。
①は、〈新しい歴史教科書をつくる会〉の「分裂」過程と八木秀次等や〈日本会議〉批判を内容としている。そして、「歴史教科書問題」と題した全集 17巻(2018)には収載されていないものだ。
そうすると、あくまで推測だが、現在の天皇・皇后両陛下は「離婚すべきだ」旨を皇太子・同妃殿下時代に書いていた②とともに、全集の中に入れて歴史的記録にすることに少なくとも積極的ではなかったのではないか。
こんなところにも、〈本人編集〉の影響または「影」が表れているように、秋月には思われる。
そうだとすると、全集が「未完結」で終わったのは、何ら気の毒なことではない。
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三 全集「22A」を見ていて、さらに不思議なことをようやく発見した。
全集のこの巻の表紙のすぐつぎの写真の裏側の写真。
こう注記されている。
「いよいよ全集は完結が近づいた。大型の議論をしている余裕はもうなく、手早く仕事を処理してくれる人材を著者が選んで『三人委員会』に委嘱した。2023年4月1日撮影」。
①これはいったい誰が書いた文章なのだろうか。内容からして、国書刊行会の中の誰かとしか考えられないが、こう「表に出る」のは権限を超えるのではないか。奇妙で、不思議だ。この全集には最初から、著者と出版社の間の「全集刊行委員会」というものはなかったのだ。
②この「三人委員会」は、「22A」の編集に関与したのかどうか。時期的にはそう思われるが、西尾は「後記」で「三人委員会」に全く触れておらず、明確ではない。
③撮影されている西尾以外の三人が「三人委員会」のメンバーだろう。しかし、最も不思議で奇妙だが、その氏名が何ら記載されていない。秋月も、立ち姿と顔だけでは分からない(関係者には、写真で見て分かる人もいるのだろう)。
この写真はこのような意味でじつに奇妙なもので、全集自体の「いい加減さ」を明瞭に示していると思われる。
国書刊行会のこの全集担当者は気の毒だとずっと思ってきたが、その担当者でも回避できないミスがあったと思われる。
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なお、まさかとは思うが、この「22A」で明らかにされた「三人委員会」(誰々かは現在不明なまま)が編集して、「第22巻B」が刊行されるのだろうか。
どうなろうと勝手で、お好きなようにという感じだが、そうなれば、「西尾幹二全集」は、(少なくとも最後は「本人編集」ではない、という一貫しない)ますます奇妙奇天烈なものになるだろう。そして、恥ずかしい印象だけ残して、内容はあっという間に忘れられるだろう。西尾幹二という名前も。
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四 西尾幹二について、「自我自尊」・「唯我独尊」、「時代錯誤」・「古色蒼然」等々と全体的印象を語ったことがある。
この巻を一瞥しても、その印象は変わらない。西尾幹二については、まだ書けることが「山ほど」残っている。それを書くことをもう諦めているのではない。
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