秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

国家についての考察

0636/佐伯啓思・国家についての考察(2001)を読む-「朝日新聞」の「大きな欺瞞」。

 一 佐伯啓思・国家についての考察(飛鳥新社、2001)p.76以下は「『他国への配慮』と国益」との節名で、前回紹介したようなことを、再述又は別論している(この本全部は、12/15に読了した)。
 7 ①「国益」観念が背後にない「他国への配慮」・「国際的友好」は無意味だ。そして「国益」が意義あるためにはその国の「正義」あるいは「共有価値」で支えられている必要がある。「正義」・「共有価値」は「生活上の習慣や文化的様式の中に暗黙のうちに表出」されるものだろう。
 しかし、「今日の日本」のように「暗黙裡」のものであれ「正義」あるいは「共有価値」の「存在そのものが怪しくなっている」場合には、「ナショナル・アデンティティ」の名のもとに「日本という国家を構成する精神的基盤について論議するのは当然のこと」だ(p.76)。
 ②「他国への配慮」・「国際的友好」を唱える者たちもかかるナショナリズムを前提としている筈だが、この「進歩主義的立場に立つ国際主義者」は「反国家主義」を標榜し「インターナショナリズムをナショナリズムと対立させる」ために自らの「インターナショナリズム」を骨抜きにしている。「国益」・「ナショナル・アデンティティ」を排除した「国際主義」は「ただ空疎な美辞麗句」にすぎない。
 彼らの「国際主義」は「反ナショナリズム」から発しているがゆえに、その「国際主義」自体が「『自己陶酔的で排他的な』ナショナリズムの単なる裏返し」となり、「『自己卑下的で追従的な』インターナショナリズムへと転化」している。その対中国姿勢、対国旗・国歌法姿勢等こそ、「まさに『自己陶酔的で排他的』なナショナリズムをただ裏返しただけに過ぎない」(p.76-77)。
 ③彼らの「友好」・「配慮」は「きわめて独善的」で「一国主義的」でもある。「ナショナル・アデンティティ」を排除した「国際主義」は「真の意味での国際主義=国家間主義(インターナショナリズム)とはなりえない」。「友好」・「配慮」は、「奇妙なことに『自己卑下的で追従的な』国際主義を『排他的で自己陶酔的に』追求するという結果となりかねない」(p.77)。
 ④「朝日新聞」社説が「ナショナリズム」や「ナショナル・アデンティティ」を「根本から否定」しているとは思わないが、それを語ることを「躊躇」しているために、五輪ナショナリズムはよいが「現実のナショナリズムは危険」だなどという「トンチンカン」な論説を展開している。「過激なナショナリズムを高揚させるほどの国家への切迫した思いも一体感も現代の日本人は持ってはいない」。五輪ナショナリズムは過激だが「国家意識は低調」ということは「通常は考えにくい」(p.78)。
 ⑤既述のように「朝日新聞」社説の「反ナショナリズム」は「裏返された」ナショナリズムで「隠された」ナショナリズムを背後にもつ。ナショナリズムあるいは「国家という『主体』」なくして「他国への配慮」・「国際的友好」を語り得ないのは自明のことで、朝日新聞」社説も「戦後進歩主義者」もこれを前提とせざるをえない筈だ(p.78-79)。
 ⑥しかし、「今日の日本」ではこの「国家という『主体』」という「自明性が見えなくなってしまっている」。小林よしのりの本も新しい教科書の会の運動も「戦前復古ではなく、現在の『主体』をいかに構成するかという関心」に導かれていると考える。
 「朝日新聞」社説もかかる「主体」の必要性を前提とする筈だが、しかし、「この『主体』がほとんど崩壊、もしくは溶解しつつあるとき、その主体の構成を図るための議論をナショナリズムと規定して排斥するのは一体なぜなのか?
 「ナショナリズムを隠蔽した反ナショナリズム」、「反ナショナリズムの内に潜むナショナリズム」、「この奇妙な二重構造」・「顕揚と隠蔽」あるいは「無意識の検閲」、「ここに大きな欺瞞があるのではないか?」 そしてそれこそが「『戦後的なもの』を内側から溶解させてしまった根本」要因ではないか?(p.79-80)。
 ⑦この「二重性」・「無意識の検閲」は後述もするが、そもそも「反ナショナリズムの思想的拠点は何」なのか。次にこれを扱う(p.80)。
 二 以上でp.57-80のメモは終わり。この部分は、この著の序章「なぜ『国家』を論じるのか」の次の第一章「現代日本の国家意識」の1「『戦後的なもの』の溶解」の後半ほぼ3/4にあたる。
 このあと、2「『世界市民主義』とは何か」、3「逆立ちした国家意識」とつづき、第二章「『二重言説』の戦後日本」以降へと移っていく。いずれも<朝日新聞>と無関係ではないが、覚書的紹介はとりあえずここでやめる。
 のちに丸山真男宮沢俊義(・日本国憲法)に触れるところや佐伯自身の「国家」観・論の展開が見られるところがあるので、別の機会にこの欄で言及したい。
 三 それにしても、朝日新聞、そして若宮啓文は、上のような朝日新聞的「反ナショナリズム」批判(又は批判的分析)にどう反応する(又は反応した)のだろうか。若宮啓文が佐伯啓思のこの著を一顧だにすることなく単純な「ナショナリズム」批判をしている(した)ことは明瞭だ。彼らがしていることは本能的・感覚的な「ナショナリズム」嫌悪感の表明にすぎないだろう。朝日新聞の社説執筆者やその一人だった若宮啓文の思考の<驚くべき底浅さ>は、佐伯啓思の丁寧な(そしてこの人にしては珍しく朝日新聞と明示しての大胆な?批判を含む)論述と比べると、きわめてよく分かる。
 若宮啓文はもう遅いかもしれないが、より若い世代の「戦後進歩主義者」は、佐伯啓思の上掲書を一度きちんと読んでみたらどうか。

0635/佐伯啓思・国家についての考察(2001)を読む-朝日新聞批判・その4。

 一 11月の半ば以降だったのだろうか、佐伯啓思・国家についての考察(2001、飛鳥新社)を再び読み出して、計320頁のうち、300頁を読み了えた。もう少しだ。
 先週金曜日あたりからの数日間で、竹内洋・学問の下流化(中央公論新社、2008.10)をほぼ2/3のp.196まで読んでしまった。小論を集めてまとめたもので読みやすいが、読後感の<軽さ>は、この人の他の本にも見られるわかりやすい文章のためだろうか。それとも、この人の思考・思想自体の<軽さ>によるのだろうか。けっこう面白い本であることは確かだが。
 二 さて、佐伯啓思の上掲書のメモのつづき。全体についての紹介的覚書を記すつもりはないが、佐伯が<朝日新聞>という名を明示して所謂<進歩派>を批判又は分析するのは珍しいと思われるので、もう少し続ける。
 朝日新聞らの<反ナショナリズム>の分析は前回までにも紹介した。佐伯は「『国益』とは何か」と節名を変えて、朝日新聞らの<反ナショナリズム>または<ナショナリズム批判>を、「他国への配慮」という点に着目して次のように批判する。
 6 ①<反ナショナリズム>に「裏返され、萎縮し、隠されたナショナリズムを見る思いがする」。
 国際関係は基本的には「国益」をめぐる対立の場だ。この対立は常に「力」のそれや「紛争」になりはしないが、1.「他国への配慮」は「国益の追求」のためにも不可欠で、前者は後者の「手段の一つ」となる、2.諸国家の利害調整のために国際ルール・国際機関が形成され、かかる「制約条件」のもとで「相互に国益を追求する複数国家のシステム」こそが「国際秩序」というものだ(p.71-72)。
 ②「国益」とは次の「二つの側面の適切な結合」だ。1.「国民生活の豊かさの追求や安定の確保という…物質的側面」、2.「比較的長期に」「歴史性に根ざし」て「共有している文化的価値を実現してゆくという…精神的次元にかかわる側面」。「国民の統合」を前提とする「近代国家」は何らかの「価値の共有」を必要とし、その「価値を実現」する「条件を作り出す」ことが「長期的な『国益』」になる。
 「国益」は「共有する価値の裏づけとその実現」という「理念的・精神的支え」を必要とする。しかもその価値は「歴史性」と「普遍性」をもつ必要がある。「国益」とは「少々おおげさ」には「その国の『正義』」、「他国に対する自国の正当な言い分」だ。「正義」なき「利益」追求は他国に正当化されないし、「利益」と結合しない「正義」は「宙に浮いた」もので国民に支持されない。要するに、「国益とは、国民の幸福や生活の向上という功利的な『利益』と、国際的に主張しうる自国の立場や価値という『正義』の結合」に他ならない(p.72-73)。
 ③従って、「国益」を議論するにはその国の「価値」・「正義」の議論が必要で、これは「広い意味でのナショナル・アイデンティティ」に関する議論となる。しかし、この議論が「今日の日本」では「きわめて困難」だ。その理由は、この議論が「戦後を疑う」ことから
出発せざるをえないことにある。「戦後を疑う」のは「否定する」と同義ではないにしても、「戦後の価値観の中で否定され隠されたものを再び明るみに出し、…日本にとっての『正義』とは何かを改めて問い直す作業」だ。これは「『戦後的なもの』の中でタブー視された価値をいったんはすべて解放する」という「困難な作業」を伴う(p.73-74)。
 ④「ナショナル・アイデンティティ」は「作り出された」ものだとしても、かかる「フィクション」を想定できないと「国益」観念は定義できず、国際社会での「確かな立場」は取れない。そうなれば、憲法前文にいう「国際社会で名誉ある地位を占める」ことも、そもそも「他国への配慮」とか「国際的に友好的」という観念さえも無意味になる(p.74)。
 ⑤「戦後的なもの」の擁護者は「自由主義、民主主義、平和主義、人権主義など」を「正義」とし、この点に「議論の余地はない」と考えるが、本当にそれが「国民の正義」で実際に「共有された価値」ならば「ナショナリズムの復興」を怖れる必要はない。
 「ナショナリズム」とは「国民の共有された価値の実現を図ろうとする運動」だ。「国民の共有された価値」が「自由主義、民主主義、平和主義、人権主義など」ならば、これらの実現を図る「国民運動」になる。
 にもかかわらず、「朝日新聞」社説等の「戦後的なもの」の擁護者は、「明らかにナショナリズムの高揚に恐怖し、それを復古主義だと唱える」。それは、「戦後的なもの」が「国民の正義」、「共有された価値」になっていないからだ。「彼ら自身がそれを認めている」。
 「ナショナル・アイデンティティ」、「正義」、「価値」に関する議論の余地は存在している。それは「戦後的なもの」という「枠を解除した」議論である必要がある(p.74-75)。
 ⑥「戦後的なもの」の擁護者-「戦後進歩主義者」-は「ナショナル・アイデンティティ」・「日本の国益」といった観念は「政治的に構成されたフィクションにすぎない」と言うかもしれない。「その通り」だが、「民主主義や人権主義という観念」も、「平和主義」も、同じく「政治的に構成されたフィクション」だろう(p.75)。<次の節へとつづく>

0614/佐伯啓思・国家についての考察(2001)p.25-全体主義に対立するのは民主主義よりも保守主義。

 一 佐伯啓思・国家についての考察(飛鳥新社、2001)も佐伯の本の中でじくりと味わうべきものの一つだろう。
 全体の詳細な紹介、要約的言及の余裕はない。
 p.23からの数頁は「保守的であること」との見出しが付いている。そして、「保守的である」という気持ちのもち様、態度についての興味深い叙述があり、こうした「態度の背景」には、「人間の理性的能力への過信に対する防御」、「理性万能主義(設計主義)への深い疑問」等がある、とする。
 今回紹介したいのはその次の辺りの文章だ。佐伯啓思は言う(p.25)。
 ・「保守主義が明瞭に対立するのは社会主義にせよ、ファシズムにせよ、社会全体を管理できるとする全体主義に他ならない」。
 ・「理念としていえば民主主義などよりも保守主義の方が全体主義に対立する」。
 ・上のことは、「保守主義の生みの親とも目されるエドモンド・バーク」がその「保守的思考」を、「ジャコバン独裁をもたらすことになるフランス革命批判から生み出した」ことからも「すぐにわかるだろう」。
 二 宮沢俊義をはじめとする戦後・進歩的知識人のみならず日本国民の多くにも、先の大戦は<民主主義対ファシズム>の闘いであり、理論的・価値的にも優れた?前者が勝利した、という認識又は理解が、空気の如く蔓延した(蔓延しつづけている?)ようでもある。
 だが、既述の如くソ連を「民主主義」陣営の一者と位置づけることは、<人民民主主義>という概念などによってかつては誤魔化すことができたかもしれないが、いまや殆ど笑い話に近いほどに、正しくはない。
 また、ヒトラー独裁・ドイツファシズムが<ワイマール民主主義>の中から<合法的に>出現したことをどう説明するか、という問題もある。なお、<日本軍国主義>体制も(そのようなものがあるとして)法的には合憲的・合法的に成立したといわざるをえないだろう。

 つまり、<民主主義対ファシズム>の闘いだったと先の大戦を把握することは歴史の基本を捏造するものだ。従ってまた、今日までずっと<軍国主義・ファシズムの復活を阻止するために、民主主義を守り・徹底する>という目的を掲げてきている又は何となくそういう図式・イメージをもっている者たちもまた、歴史の基本的なところの理解を誤って国家・社会の動向を観察していることになる。
 「左翼」にとっては、とくに日本共産党員をはじめとするコミュニストにとっては、上の佐伯の叙述のように「社会主義」と「ファシズム」を「全体主義」という概念で包括するのは我慢できないことだろうが、社会「全体」の管理可能性を信じる点で、両者にはやはり共通性がある。
 また、この「全体主義」に対立するのはむしろ「個人主義」又は「自由主義」と言うべきであり、「民主主義」は別の次元の主義・理念だろう。
 そしてまた、フランス革命期における<急進的な(又は直接的)民主主義>(ルソー的「人民主権」論の現実化=「ジャコバン独裁」)を警戒したのは、叙上のように、イギリスの「保守主義」者・バークだった。
 佐伯啓思があえて言及しているように、今日において民主主義、さらにはコミュニズム(社会主義・共産主義)を論じる場合において、フランス革命期の「ジャコバン独裁」(ロベスピエールらによる)をどう評価し、どう理解しておくべきかは、不可欠の論点なのだ、と思う。「人民主権」(プープル主権)論の評価についても同じことがいえる。
 フランス革命や「ジャコバン独裁」・「人民(プープル)主権」論に言及してきたし、これからも言及するだろう理由は、まさに上のことにある。

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