まず、これは安倍首相による年頭記者会見のうちの新元号に関する部分につき、「遺憾の意を表明せざるを得ない」として、それ以外の部分の表現は穏便さを装いつつも、実質的には厳しく批判するものだ。
にもかかわらず、上掲誌の同号に目立って特集が組まれ(建国記念日と「御即位三十年奉祝感謝のの集い」)、いくつかの者の文章があるにもかかわらず、上の論点に関するものは一つもない。会長・田久保忠衛に対するインタビュー記事も同様。
「日本会議」とだけ名うつ「見解」であるからにはしかるべき機関決定手続を履践しているのだろうが、それにしては、最末の一頁とそれ以外の印象が違いすぎる。
以上は、まだ表面的・形式的な印象であり、問題点だ。
日本会議「見解」(以下、<見解>)の問題は、その内容・実質にある。
かねて感じてきたことだが、日本会議の事務総局やら役員または幹事の中には、冷静かつ論理的に緻密に皇室・天皇に関する「法」的議論をすることのできる、同じことだが「法」的見解を作ることのできる人員が全くいないのだろう。
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一 論点の前提の一つの整理。
元号が「改め」られるとして、新元号については、時系列的に、つぎの4つの時点が経過していく。
①内閣による決定。
②公表。これは③ではない、事実上、メディア等の報道等によって新元号が明からになること、又はメディア等が一般に明らかにすることをいう。本来は③も②の一部だろうが、分けておく必要があるだろう。
③公布。憲法上の国事行為としての正規の「公布」。今上陛下が在位中であれば現天皇が、皇位継承がすでになされていれば新天皇が行うこととなる。
④施行。公布されたとおりに新元号が法的にも正規に使用され始めるには、この「施行」が必要だ。<発効>と称する場合もある。
日本の「国」等の年表示には日本の「元号」を用いることとされていめる場合が「法的にも」多いので、いつの時点から「発効」し、国・地方自治体等の使用義務が発生するかは重要な問題だ。
二 日本会議<見解>は上のどの点に関して、どのようなものか。
1.新元号決定権限が「内閣」にあることは、<見解>も否定していないようにも解される。
しかし、<見解>の基本前提は、引用すると、「新元号の制定については、新天皇がご即位後決定し公布するというのが、本来の在り方である」というものだ。のちの文をも読んで善解したとしても、<「決定」は内閣がしてもよいが、その決定は新天皇ご即位後に行うべきだ>、という主張をこの日本会議は最低でも、又は少なくともしているものと理解することができる。
2.そうなると、安倍内閣方針ではおそらく、上の④のみが新天皇の即位と同一時点になるのに対して、<見解>は、①~④のすべてが新天皇即位後になされるべきと主張していることになるだろう。
これは政府方針との間の重大な対立であって、今頃に公にするのは遅すぎるという感が生じる。しかし、遅い、早いは、ここで書きたい当面の問題ではない。
3.政府方針の背景に「国民生活に支障が生じることがないように」との配慮があるとされている。これに対して、<見解>は、「本来の在り方」と「国民生活への支障」発生の抑止の二つはつねに矛盾するのではないとして、つぎを提案していると解される。
この部分をいちおう全文引用すると、以下。
「新元号は新天皇のご即位後に閣議決定し公表すると共に、『国民生活への支障を回避』するために『施行』時期を遅らせるという方法もあり得た。」
4.上に最初に用いた①~④を用いて理解すると、<見解>はおそらく少なくとも①~③は今年5月1日になされるもの(なされるべきもの)と主張しているのだろう。
しかし、④の「時期を遅らせる方法もあり得た」とはいったい、いかなる意味で、いかほどの「遅らせた」時期を想定しているのかは、さっぱり分からない。
<見解>によると、それは「国民生活への支障を回避」するために必要な期間であり、6月初頭、8月初頭、あるいは10月初頭であってよいのかもしれない。
三 日本会議<見解>の奇妙さ・異様さ。
かりに上の4で記したような<見解>理解が誤ってはいないとすると、日本会議はじつに不思議で矛盾した、したがって奇妙奇天烈な「見解」を出していることになろう。
つまり、新天皇即位後の①~③よりも④新元号の「施行」が<遅れてよい>のだとすると、新天皇就位後、その新元号の施行時までは正規には「平成」がなお数カ月ほどは続くことになる。
この「遅らせ」を日本会議は許容することで上記の二つの趣旨は矛盾しないようになる、と主張している、と解される。だが、それではそもそも、一天皇=一元号で皇位継承時に元号を「改める」ことにはならないではないか。
ひょっとすると<見解>は5月1日の早い時期に①~③を全て実施したあと、5月1日-2日の深夜にでも「遅れて」施行する(発効させる)とでも想定しているのだろうか。
そもそも<見解>が理解する「国民生活への支障を回避」とは何なのだろうか。1日程度「遅らせば」回避できるようなものなのか。それだと、①~④の全てを新天皇就位後に行うこととおそらく何ら、少なくともほとんど(98パーセントは)変わらないだろう。
くり返すが、では<もっと遅らせてもよい>となると、一天皇=一元号で皇位継承時に元号を「改める」ことにはならない。新天皇は「平成」時代と新元号の二つにまたがって在位することになるだろう。こんなことを日本会議は本当に考えているのか。
四 そもそも日本会議とは何か。
天皇に元号決定権があると正面から主張しているわけでもないことが、すでに胡散臭い。
「本来のあり方」と現行元号法が矛盾しているならば、そのこと自体を今回のような「譲位」が予想され得た時点(つまり皇室典範付則改正・特別法制定のとき)以降に明確にかつ激しく主張しておくべきだった。
「日本」、天皇・皇室制度の「本来のあり方」等々とこの人たちが語るわりには、本当に真剣には法的・制度的問題を考えていないし、運動もしてきていないのが、この日本会議だと私は感じてきている。ほぼスローガンだけ、精神論だけ。
あるいは、決定・公布・施行の各語がもつ意味を、正確には理解していないままなのかもしれない。これも、信じ難いことだが。
もっともそうした力不足があって、「今回の元号制定方式が、将来の先例とならないよう求める」と書いていることからすると、いわば<今回はまぁよいが、今後は反省してね>という類の言葉の上での「存在証明」(逆アリバイ作り)で、上で紹介したような日本会議「見解」もまともに「現実」になることはないと、とっくに諦めているのだろう。
しかし、「現実化」する可能性がほぼ全くない「提案」または叙述であっても、何がしかの論旨と論理の一貫性をもって行われるべきだろう。
この日本会議には(その役員たちにも)、その能力はないようだ。