秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

哲学

2499/R・パイプスの自伝(2003年)⑧。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部第三章の試訳のつづき。
 「ニーチェ」への言及がある。
 著者が16歳、1939年秋の「思春期」または「青春期」にニーチェの『権力への意思』を手にして読んでいたらしい(No.2486/自伝②参照)ことの背景も分かる。だが遅くとも1945年にはニーチェ哲学には「幻滅」していたようで、この著執筆時点では①ニーチェの一定の言葉は「無責任で煽動的な無駄話」(irresponsible & infllamatory prattle)だと明記し、②別の言葉(『道徳の系譜』内)は「ぞっとさせる」(appalls me)と明記している。また、それより前に③『ツァラストゥラ』のYiddish 語訳によりその作品の「尊大さ・仰々しさ」(pomposity
は消失した旨も書いている(今回の(*脚注)参照)。
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 第三章・知と美への萌芽 ②。
 (13) 私は、その言語〔音楽〕を学び直そうと決めた。
 ふつうは日曜の午前中に、音楽協会での演奏会に足繁く通うようになった。そこで、J ・ホフマン(Joseph Hoffman)やW・バックハウス(Wilhelm Backhaus)といったピアニストの秀れた単独演奏を聴いた。
 私は、ピアノの練習を始めた。
 1938年11月に、ある音楽家と親しくする個人教育に登録した。その人の名は、それにふさわしく、Joachim Mendelssohn だった。
 背の低い彼は私にとても親切に接して、私は作曲家になる運命にあると感じさせた。
 戦争が勃発したとき、私は副教本の準備をしていた。
 私はまた、ポーランドの指導的な伴奏者のピアノ・レッスンも受けていた。その人の名はRosenbaum だった、と思う。
 彼は嫉妬の言葉を出すくせがあり、私の演奏は全く柔らかくならなかった。
 父親は私の音楽への関心を励ましてくれ、オペラや私の最初の演奏会に連れて行った。私がワーグナーの管弦楽を称賛し始めたとき、その音楽は彼が理解できないままで衝撃を与えたにすぎなかったけれども。
 総じて父親には、私のかつての子ども時代の成長を理解するのが困難だった。そして、私が思春期に入るまでには、私を深く理解するのを諦めていた。//
 (14) 若い人たちは自分たち自身について全く現実主義的であり得る。かりに何かがあると、過剰な自己嫌悪の陥りがちでもある。
 私はすみやかに、音楽は好きだけれども、ピアノ弾きでも作曲でも、自分の才能は良くても平凡なものだと、気づいた。
 私は悔しい思いをもって、同じ世代の者たちが簡単にピアノ演奏を学び、しかもその演奏は上手であることを観察した。
 残念だが、音楽の神秘的な言語を理解できても、それを語ることは学べない、との結論に至った。
 戦争勃発まで個人指導を受けつづけたが、その頃までには、私は音楽家になる運命にはないと分かり、ワルシャワを去った後ではそれに関する努力を全くしなくなった。//
 (15) だが、私は美術に、代わりのものを見出した。デッサン、彫刻、絵画にではなく、美術史にだった。
 1937-38年の冬(このとき14歳だった)のいつかの午後に、私はワルシャワ公共図書館にいて、中世の美術に関する図付きのドイツの歴史書を捲っていた。そのとき、ビザンチン時代の繊細な伝統的絵画を過ぎて、Padua のArena 礼拝堂からの、Giotto の〈Descent from the Cross〉が目に留まった。
 この14世紀初頭のフレスコ画は、ヨーロッパ美術に新時代を築いた一連のイェスの生涯を描いた絵の一つで、Beethoven の交響曲第7番と同じく、私の心を動かした。
 空にいる小さな天使たちの泣き声でさらに強まる傍観者たちの悲しみは、私が実際にほとんど悲嘆の声を聴くことができるほどに、とても納得できるものだった。
 それは、圧倒的な美的経験だった。Kenneth Clark ならば、私の美術への熱情を掻き立てたものを、「Vision の瞬間」と称しただろう。 
 私はまじめに、視覚芸術の全ての分野—絵画、建築、彫刻—の歴史書を勉強し始め、ノートに写し取った。
 O・Keller の音楽史の半分をドイツ語から翻訳した。
 1938年の夏、西部ポーランドの私有地で過ごしていたとき、毎朝早く起床して、昔からの公園のテーブルに座り、ヨーロッパ美術史の手引書の数頁を読み通した。
 私にはその問題についての指導はなく、種々の流派の芸術家の名前、彼らの時代、主要作品に勉強は集中しており、歴史的および美学的な背景には及んでいなかった。
 この主題への関心は、音楽への志向が弱まったときにも続いた。そして、1940年の大学(college)に入ったとき、これに人生を捧げることを考えていた。
 この熱情が、我々がポーランドを脱出するときに、なぜ私がミュンヘンのピナコテークを訪れると強く主張したのかの理由だった。//
 (16) Beethoven、Giotto のつぎに、ニーチェがやって来た。
 私はこのドイツの哲学者を、全く偶然に1938年の秋に発見した。そのとき、私が図書館で借りようと思っていた本は貸し出されていて、その代わりに、名前だけは馴染みがあったが何も知らないこの人物についての、Henri Lichterberger の伝記本を借りた。
 家に帰り、本を開いて、私は釘付けになった。強いがぼんやりした自分の感情が、その文章の中に表現されているのを読んだからだ。
 私は、「ニーチェの哲学は厳格に個人主義的だ」と読んだ。
 彼は「きみの良心はきみに何と語るか?」と問う。「きみは、自分でそうありたいと思うものにならなければならない」。
 ニーチェは、こう続ける。
 「そして人はとりわけ、自分自身を、自分の本能を、能力を、完全に知らなければならない。
 そして人は、自分の生活規範を自分の個性にふさわしいように整序しなければならない。…。
 自分自身を見出す一般的で普遍的な規範など存在しない。…。
 誰もが、自分自身で、自分の真実と自分の道徳を創造すべきだ。
 ある人にとって何が善か悪か、何が有用か有害かは、他者にとってと同じである必要は全くない。」
 (17) こうした言葉は、自己の独自性を模索する思春期には、麻薬のごとく作用した。つまり、他の誰もが私に順応するよう告げるのに対して、ニーチェは、私に反抗せよと促す。
 今では、彼の助言は無責任で煽動的な無駄話だと思う。
 「自由な精神」のためのニーチェの道徳—「何も真実ではなく、全てが許される」—は、私をぞっとさせるものだ。(後注3)
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 (後注3) 「Nichts ist wahr, Alles ist erlaubt.」ニーチェ・道徳の系譜,Ⅲ-No.24.
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 これはヴィクトリア時代には賢い名文句(bon mot)のように聞こえるかもしれないが、20世紀には、大量虐殺のための根拠(rationale)を与えた。
 このような思想への幻滅は、第二次大戦とホロコーストの経験の結果だった。
 1945年8月の日記に、私はつぎのように書いた。
 「私にはつねに、自分が最もふつうではないと考える対象や思想に魅惑される傾向があった。
 もっと若くてもっと無邪気だったとき、この傾向によって、ニーチェの哲学の熱心な支持者になった。「善」、「共感」、「幸福」といったふつうの観念に対するニーチェの攻撃は、私に訴えた。なぜなら、私は(後者の諸観念は)支配的でかつ俗悪だと考えたからだ。
 私はそれ以降に、それらはこの世界できわめて稀にしか遭遇し得ないものだということを、学んできた。
 私はそれらを称賛して広く受容されている思考へと導く書物によって誤導された。—それらは、さらに加えて、とても論理的で、自明のことなのだ!
 今では、それらを見つけるのはきわめてむつかしいことだと、知っている。」(*脚注)
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 (*脚注) だが、ニーチェに対する疑念は、もっと早くに経験した。それは、友人のOlek が〈ツァラトゥストラはこう言った〉をYiddish〔ユダヤ人の言語の一つ〕 に翻訳したときで、たちまちにニーチェのこの作品は骨抜きにされていた。Yiddish は、全ての尊大さ・仰々しさ(pomposity)を消失させてしまう。
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 追記すれば、ニーチェは最初の知的影響を私に与えた。そして、私は私自身である資格をもつという考えは、ずっと私にとどまり続けている。
 (18) 私はHoly Cross 通りの古本屋を探し回った。そして、数ペニーで、Shopenhauer、Kant その他の哲学者のドイツ原語かポーランド語訳かの書物を買うことになる。
 私には哲学の素養がなかったので、読んだものをぼんやりとだけ理解した。
 だが、何かが残り、知りたいという情熱は消えることなく燃えつづけた。
 父親は、私の哲学への関心を必ずしも喜んでいなかった。
 あるとき、Kant の〈Prolegomena〉を私が読んでいるのを見て、父親は、心を「重たくする」、もっと実際的な物事を勉強すべきだ、と言った。//
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 第三章③へとつづく。

2376/西尾幹二批判026—同2019年著①。

 一 岡本裕一郎・いま世界の哲学者が考えていること(ダイアモンド社、2016)にいつかまた触れたいが、「はじめに」では、①「IT(情報通信)革命」、②「 BT(生命科学)革命」が社会や人間を根本的に変えようとしている、③「資本主義や、宗教からの離脱過程」が方向変換しつつある、④「環境問題」もある、なんていうことが書いてある。
 そして、<哲学は今、何を問うているのか>と問い、目次・構成にそった形で、序章の最後にこの書で扱う対象をこう要約している〔ここではさらに要約)。
 ①哲学は今、何を解明しているか、②IT は何をもたらすか、③BT・バイオテクノロジーは何を…、④資本主義にどう向き合うべきか、⑤宗教は今の私たちにどんな影響をもつか、⑥私たちの「環境」はどうなっているのか。
 こういう、哲学と「現代」の問題・世界に関心をもつと、つぎの西尾著は<別世界>の中にあるようだ。国家、民族、自由と民主主義、「共産主義」等々への関心を私が失った、というのでは、全くないけれども。
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  西尾幹二・国家の行方(産経新聞出版、2019)を、だいぶ遅れて入手した。
 上の書よりも後に編まれたものだが、対象は<旧態依然>としている。だが、産経新聞や雑誌・月刊正論、その他の<いわゆる保守>派にはお馴染みの、あるいは得意な?主題かもしれない。私にだって、十分に馴染みはある。
 それにしても、書物の「オビ」の宣伝文句・惹句というのは面白い。
 この西尾著のオビは、こう書いている。なかなかすごいのではないか。
 「日本はどう生きるのか。
 民族の哲学・決定版
 不確定の時代を切り拓く洞察と予言、西尾評論の集大成。」<以上、表>
 「自由、平等、平和、民主主義の正義の仮面を剥ぐ。
  <中略>
 今も力を失わない警句。」<以上、裏>
 誰が発案したのか知らないが、産経新聞出版の担当者はなかなかゴマすりが(依然として?)、あるいは宣伝が(L・コワコフスキによると「嘘つき」だが非難に値しない?)、なかなか上手い。
 さて、産経新聞上の「正論」欄101篇(1985-2019)を収録して、「国家の行方」という表題にしている。
 1989-91年以降の90年代の日本の新聞や「論壇」の状況に興味はあるが、なかなか辿れないので、少しは役立つような気がする。
 この1985-2019年の34年間ほどの西尾幹二が寄稿した「正論」を全て収載しているような書き方をしている。しかし、この点は怪しいのではないか。つまり、2019年時点での加筆・修正は行っていないとしても、割愛して収載対象から除外した個別の「正論」欄文章はあるのではないか。
 こんなことを書くのも、西尾幹二全集を西尾は実質的には個人・自主編集しているようで(むろん出版社の国書刊行会に事務的な「手伝い」編集者・担当者はいる)、各巻の出版の時点で、かつての文章二つ以上を併せて一つにしたり、また、刊行・出版の時点で「加筆・修正」したと明記してあるものまであるからた。
 西尾幹二全集は、決して主題ごとに、この人物の「過去の」、「歴史となっている」文章を〔主題ごとに可能な限り時代・時期順に)そのまま掲載・収載している「全集」ではない。各巻の「しおり」にではなく、本体そのものに西尾以外の人物による「ヨイショ」文章が同じ(またはそれ以上の活字の)大きさで付いているのも、目を剥くことだが。
 かつまたついでに書けば、①最初の新聞・雑誌投稿時点、②それらを単行書としてまとめた時点(の加筆・修正)、かつその時点での概括、③「全集」出版時点での西尾による概括・論評(ほぼ「自賛」)等の種別が少なくともあって、この「全集」は、はなはだ読みにくい。三島由紀夫全集のように(第三者による)詳細な<索引(可能ならば人物・事項別)>を付けるつもりなどはきっとないのだろう。全集収載の諸文章の初出・加筆の年次別の詳細な一覧をまとめるだけの「誠実さ」をこの人は持っているのかどうか。<全巻完結>とだけ大々的に?宣伝させるのだろう。
 元に戻ると、このような西尾の自分の「過去の」文章に対する対応をその「全集」編集の仕方で少しは知っているために、上の書でも、きっと今の時点で<まずい>とあるいは表向き主題に合わないと西尾が判断する「正論」欄文章は、その旨を明記することなく(この点が重要だ)、除外しているのではないかと、天の邪鬼に、あるいは疑心暗鬼に想像してしまうわけだ。
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  ここまで一気に書いたら、もう長くなった。
 冒頭の「はしがき」にあたるものと、2019.03.01付産経新聞に掲載した文章で成る「おわりに」だけを読み終えた。
 全体としてのこのような書自体と、上の二つの論考?について、すでに言いたいこと、書きたいことが山ほど?ある。
 この人が書いていることは、しょっちゅう(少なくとも主要主張または重点レベルで)変わり、決して一貫していない。かつまた、政治(・国際政治)・外交、日本政府の政策について、元来はこれらに「ただの」シロウトの、文学部卒・文芸評論家が、これほどに偉そうに、<上から目線>で、国際政治(アメリカ政治・外交を含む)・日本の政治や政策について、何やら長々と?語っていること、そしてまとめてこういう書物を刊行できること自体に、西尾がこの著の冒頭では論難している「日本国家」と日本社会の退廃を十分に感じとることもできる。
 さらには、元来の学者・研究者から離れて、新聞・雑誌出版業界に「こき使われて」、こんな文章を書くための準備に日々を費やして、もっと重要で基礎的なことの「入力」を忘れてしまった、つまりは<文章執筆請負自営業者>になり果てて、思想・哲学も、そして元来は研究対象だったはずのドイツの「哲学」・「歴史学」等の状況を平行して把握しておくことも忘れてしまった人物の<悲哀>を、あるいは西尾の好きな言葉では「悲劇」を、十分に感じさせる書物だ。
 その意味では、時代的・歴史的意義をやはりもつ(決して好意的・肯定的評価ではないが)。
 回を改めて、つづけよう。
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2308/西尾幹二批判020ー「哲学・思想」。

  1999年(『国民の歴史』出版)の10年以上前に、つぎの<講座もの>が出版されていた。 
 新・岩波講座/哲学〔全16巻〕〔岩波書店、1985-1986)。
 各巻の表題はつつぎのとおり。「」を付けず、改行もしない。
 1/いま哲学とは、2/経験・言語・認識、3/記号・論理・メタファー、4/世界と意味、5/自然とコスモス、6/物質・生命・人間、7/トポス・空間・時間、8/技術・魔術・科学、9/身体・感覚・精神、10/行為・他我・自由、11/社会と歴史、12/文化のダイナミックス、13/超越と創造。14/哲学の原理と発展ー哲学の歴史1、15/哲学の展開ー哲学の歴史2、16/哲学的諸問題の現在ー哲学の歴史3。
 当然のことだろうが、「自由」を扱う巻はあり、論考もある。
 この時期はまだソ連・東欧社会主義諸国が存在し、「マルクス主義」哲学者も(日本では)多かったと見られる。
 これらの点は別として、この講座の編集委員(11名。中村雄二郎、加藤尚武、木田元、村上陽一郎ら)による<まえがき>を一瞥すると、つぎのことが興味深い。
 一つは、「哲学の終焉」の危機感などは全く感じさせない、つぎのような叙述をしている。「学問分野としての哲学は、…、研究者の層が厚い。また、前回…が出版された後、研究動向の多彩な展開がみられると共に若いすぐれた担い手たちも育っている」。
 二つに、つぎのような叙述が冒頭にあることが注目されてよいだろう。一文ごとに改行する。
 「…今日、私たち人類はこれまで経験したことのない状況に直面している。
 エレクトロニクスや分子生物学に代表される科学・技術の発達が人間の生存条件を一片させつつある
 と同時に、文化人類学、精神医学、動物行動学の成果からも、人間とはなにかということ自体が改めて問い直されるに至っている。」
 ここで興味深いのは、30年以上前すでに、「文化人類学、精神医学、動物行動学」の成果を参照しなければならないことが(たぶん)意識されていた、ということだ。
 この講座(全集)の第6巻の表題は上記のように、<物質・生命・人間>、第9巻のそれは<身体・感覚・精神>だった。
  西尾幹二が、「哲学」や「思想」にかかわるものとして、「物質・生命・人間」や「身体・感覚・精神」という主題を1999年に意識していたか、その後に何らかの関心を持ってきたかは、相当に疑わしい。
 また、西尾が、「哲学」や「思想」に、「エレクトロニクスや分子生物学に代表される科学・技術の発達」が関係してくるだろうことを、あるいは「文化人類学、精神医学、動物行動学の成果からも、人間とはなにかということ自体が改めて問い直されるに至っている」ということを、どの程度意識してきたかも、相当に疑わしい。このような問題意識は、1999年時点では、ゼロだったのではないか。
 というのは、例えば2018年の西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書)p.36-p.37でも、こんな間違いおよび幼稚なことを書いているからだ。忠実な引用はしない。何回かこの欄で触れてきたからだ。
 ①教育・居住条件の整備(Libertyに対応)と②教育の内容・生活の質(Freedomに対応)は異なる。後者の②は「経済学のような条件づくりの学問、一般に社会科学的知性では扱うことのできない領域」だ。その扱えない問題というのは、「各自における、ひとつひとつの瞬間の心の自由という問題」だ。
 この部分の文章は、<知の巨人>、<思想家>であるらしい、そして1999年著(のとくに前半)は「グローバルな文明史的視野を備えていて」、「これからの世紀に読み継がれ、受容される使命を担っている」と自賛している西尾幹二の、記念碑的な、後世へも(かりにこの人への関心が続くならば)伝えられるべき貴重なものだろう。
 ここにおける「各自における、ひとつひとつの瞬間の心の自由」という表現の奥底にるのは、弱者・愚者を含む「各自」ではない、強者・賢者である「自分(西尾幹二本人)の、ひとつひとつの瞬間の心の自由」を尊重し、高く評価せよ、という強い主張ではないか、と想像している。
 この点はともかく、上の哲学講座の構成やその編集委員の「まえがき」からしても、「ひとつひとつの瞬間の心の自由」が「精神医学、動物行動学」あるいは「分子生物学」と無関係ではないことがとっくに示唆されている。
 現在の脳科学は、「意思の自由」・「自由な意思」の存否またはあるとすればどこ・どの点に、を議論している。
 この欄で言及したように、臨床脳外科医・脳科学者の浅野孝雄も、人間の「こころ」に迫っていて、当然に「自由」性を視野に入れている。
 西尾は、「自由」に関する「哲学」はもちろん、彼には当たり前だが<理系>とされる学問分野における「ひとつひとつの瞬間の心の自由」の研究を全く知らず、関心すらないのだ、と思われる。
  西尾幹二が、「哲学」・「思想」に自分は関係していて、「自由」を論じる資格があるなどと考えること自体が奇妙で、不思議なのではないか。
 同旨を、たぶんもう一回書く。

2287/西尾幹二批判012ー『国民の歴史』④。

 西尾幹二2009年に『国民の歴史』(1999年)への反応について、「私の思想が思想としては読まれず、本の意図が意図どおりに理解されないのは遺憾でした」と書いた(全集第18巻p.695掲載)。
 この人は自分を「思想家」だと自認している(いた)フシはある。 
 福井義高・日本人が知らない最先端の世界史(祥伝社、2016)のオビに、<新しい思想家の出現>という推薦の言葉を載せていた。ということは、自分は古い、または現在の「思想家」だと考えていたようにも思える(これは2016年のこと)。そうでないと、「新しい思想家」とは形容しないのではなかろうか。なお、この部分は福井義高に対する私の皮肉や批判を何ら含むものではない。
 西尾幹二にとって「思想家」だと自称しなかったとしても、他者からそう見られることはきわめて嬉しいことだったに違いない。一部には、そう形容した人や編集者がいたかもしれない。何といっても、全集刊行出版社の国書刊行会によると、西尾は「知の巨人」なのだから。
 一方、すでに紹介したことだが、2011年、全集刊行開始とほぼ同時期に、こんなふうに発言していた。一文ずつ改行。
 月刊WiLL2011年12月号(ワック、編集長・花田紀凱)p.242以下。<『西尾幹二全集』刊行記念・特別対談>「私の書くものは全て自己物語です」(聞き手・遠藤浩一)。
 「遠藤さんもご存知のように、私の書くものは研究でも評論でもなく、自己物語でした
 …を皮切りに、ソ連文学官僚との対話や西ドイツの学校めぐり、…や新しい歴史教科書をつくる会の会長時代の体験記、…、はては自分のガン体験まで、『私』が主題でないものはありません
 私小説的な自我のあり方で生きてきたのかもしれません。」p.245。
 ここで対象となっている「私の書くもの」の範囲は明確ではないが、すでに刊行されたか刊行予定のいくつか(11巻・自由の悲劇、13巻・全体主義の呪い等)は間違いなく含んでいると見られる。そして、どの程度の範囲までこの発言の趣旨が及んでいるかを明確にしていないようだ。
 しかし、聞き手の遠藤浩一は、つぎのようにまとめており、西尾も特に異議を挟んでいない。p.246-7。
 「全集の全てが先生の個人物語であり、これまで私小説的な自我で生きてこられたということでした。
 この私小説的な自我の表現こそ、西尾幹二という表現者の本質ではないかと思います。」
 『国民の歴史』等の全ての執筆物が「自己物語」であり「私小説的な自我の表現」だと論評するのは、おそらく行きすぎだろう。しかし、少なくとも1999年の『国民の歴史』以前の西尾にとって重要だったはずの仕事が『私』を主題とする「自己物語」だと2011年に語られていることは、やはり無視することはできない。
 つまり、「私の書くものは研究でも評論でもなく、自己物語でした」と少なくとも1990年前後までの自分の仕事について2011年に発言した同じ人物が、1999年の『国民の歴史』を「研究」書・「学術」書として執筆できるはずはなかったのだ。
 したがって、2009年の「私の思想が思想としては読まれず、…遺憾」だったという文章は、「私の思想」というかたちで示した「自己表現」・「自己物語」が理解されなかった、という意味で理解することができる。
 あるいは、西尾は傲慢に、<自分の思いつき・考え>を<私の思想>と同一視して、言い換えているのかもしれない。
 これらのとおりだとすると、理解されなかったのは当たり前のことだ。
 西尾幹二の「私の思想」に込められた、「我」の表現、「自己物語」を第三者が(少なくとも容易に)理解できる筈はない。あるいはまた、<自分の思いつき・考え>をそのまま理解しろと言うのは傲慢極まりなく、むしろ自分の文章の論理展開等に原因があったかもしれない。この人においては、<自分を認めよ>という意識・感覚が強すぎるのだろう。それほどの<超人>なのか。
 さて、もともと「思想」がどこにあるのか、と前回に本欄で書いたところだが、「私の思想」を『国民の歴史』というタイトルの「歴史随筆」として、非体系的に、「随筆」・「散文」の寄せ集めとしてまとめたのが、1999年の『国民の歴史』ということになるだろう。
 しかし、西尾において、2018年には、『国民の歴史』は突然に?、「歴史哲学」を示したもので、「グローバルな文明史的視野を備え」る、「これからの世紀に読み継がれ、受容される使命を担」ったものに変化(転化?)してしまう。
 もともと西尾幹二が書いたものを真剣に(真面目に)読むのは時間の無駄だ(全集も。かりに所持しても誰も真面目には精読・熟読していないのではないか)。その根本原因の一つは、一貫性のなさであり、ほぼ同趣旨だが、「概念」の曖昧さやその動揺だ。
 これは「自然科学」的知性とも、西尾のいう「社会科学的知性」とも異なる「文学的」知性なのかもしれない。
 だが、「思想」といいつつ、日本での「思想」や「哲学」に関する議論状況をほとんど知らず、「我流」で「自己表現」として「私の思想」なるものを展開しているにすぎないだろう。また、<概念の曖昧さ・動揺>は当然のことだ(これが「文学」的、「文学部」的知性なのか?)、と考えているようでもある。
 これら二点には、また別に論及することにする。

2251/アリストテレスの「学問分類」-西尾幹二批判003。

 
 Newton2020年6月号(ニュートンプレス)の特集は<哲学>で、種々の興味深いことが書かれている。
 中でも、アリストテレスによる<学問分類>を紹介しているところが秋月にはきわめて面白い。
 「アリストテレスは学問分類をつくり、『万学の祖』と呼ばれています」と本文で述べて、その「学問分類」を紹介している(p.32)。
 この特集全体の「監修」はつぎの4名。金山弥平、金山万里子、一ノ瀬正樹、伊勢田哲治。元大学教授、現教授、現准教授だが専門は分からず(私には)、執筆担当または監修責任部分も明記されていない。しかし、かなりの素養のあることは、素人の秋月のせいかもしれないが、よく分かる。
 さて、これによると、アリストテレスは、「学問」をつぎの三種に分けた。
 A/理論的学問、B/実践的学問、C/制作的学問。A~Cの符号は秋月。
 これらを総じてアリストテレスは「哲学」と呼び、「論理学」は「哲学」に含めず、後者のための「道具」と見なした、という。
 先走って筆者なりに表現すると、ここでの「哲学」はほぼ、人間の「知的」営為全体だ。「知」への関心・愛着こそが Philosophy の原意だともされてきた。
 つぎに、上の書によると、上の三種はそれぞれ、さらに次のように分けられる。単純な分類ではなく、次の段階へと発展・展開するもののようにも感じられる(この部分は秋月)
 A/理論的学問→a・数学、b・自然学、c・形而上学
 B/実践的学問→a・倫理学、b・政治学
 C/制作的学問→a・弁論術、b・詩学。a~cの符号は秋月。
 上の7つについて、簡単な説明もあるが、ここでは省略する。
 
 なぜ、上の紹介が関心を惹いたかというと、こうだ。
 第一。<理系>・<文系>の区別、あるいは<自然科学>・<人文学>・<社会科学>(・「医学」)といったよく用いられる「学問」分類は、はたして人間の「知」的営為あるいは一定の意味での「精神」活動の段階・構造あるいは対象を的確に捉えて分類しているのか、という疑問をそもそももつに至っている。
 これは、直接には学校教育制度での「教育」内容・体系や日本での「学問」分野の設定・分類にかかわる。
 しかし、この全体または根本的なところを問題にしている研究者等はいるのだろうか。あるいは、全体・根本の適正さもまた問題にしなければならないのではないか。
 そのうちにいずれ、<幼稚な>西尾幹二の学問体系の認識の仕方には触れるだろう。
 人間の「知」とは何かが、脳科学・脳生理学・生物進化学、遺伝学等々も含めて、問われなければならず、そうしないと、無駄な「知」的作業、悪弊ばかりの「知的」活動も生まれてくる。それ自体が、人間の「知的」活動の必然的成り行きなのかもしれないけれども。
 なお、説明されているように今日にいう「自然科学」に最も近いのは、上の「自然学」だ。「法学」は上の「政治学」の中にかなり入りそうだ。
 第二。上のCのa・「弁論術」について、「聴衆に対するすぐれた説得法を対象」とする、との説明がある。また、「詩学」については、「文芸や演劇を対象」とする、とされる。
 これらも(「制作的学問」とアリストテレスが言ったらしいもの)もまた「知的」活動であり、広義には「学問」であり「哲学」でもあるだろう。「知的」、「精神」活動であることに変わりはない。
 上の二つに関連して、「政治」と「文学」の<二つの論壇>で自分は活躍?しているかのごとき迷言を吐いた小川榮太郎を思い出さなくもない。
 だが、もっとも直感的に想起したのは、西尾幹二がやっていること、やってきたことはアリストテレスのいう「弁論術」に最も適確には該当するだろう、ということだ。
 西尾幹二は文芸評論家でも少なくともかつてはあって、自らを「文学者」と呼ぶことにあるいは躊躇しないかもしれない。その意味では、小川榮太郎とも共通して上の「詩学」にも親近的で、傾斜しているかもしれない。
 しかし、何よりも、西尾幹二本人が明言しているように(002参照)、「理論的」であれ「実践的」であれ、西尾は「学問」をしているとは自己認識していない。
 この「理論的」と「実践的」の区別は、「理論・原理」科学と「政策・応用」科学の区分を想起させるところがあるが、どちらであっても、西尾幹二は追求してきていないし、追求してこなかった、と思われる。論理的・理論的な「筋道」、概念の首尾一貫性等々は、この人にとっては後景に退いている。
 では何を目ざしているのかは、別途ゆっくりと「分析」することとしよう。
 前回に紹介したように、西尾自身の言葉によるとやってきたことの全ては「研究でも評論でも」ない「自己物語」であり、「私小説的な自我のあり方」を-おそらくは本質的・究極的にはという限定つきだろうが-問題にしてきたのだ。
 なお、ついでながら、「詩学」にはさらに、「音楽」・「絵画」等の<言語>によらない表現活動も含めてよいのだろう。これらもまた、人間の「知的」、「精神的」活動であることに変わりはない。これらも含めて、「知」は体系化・構造化される必要があるものと思われる。
 
 当然のこととして、アリストテレスの若干の著作(むろん邦訳書)にあたって確認してみようとしたが、どうもよく分からない。
 アリストテレス=出隆訳・形而上学(岩波文庫、1959)は明らかに「哲学」の種別を問題にしているので、この書で上のような<学問分類>が語られているのかもしれないが、簡潔にまとめてくれているような叙述はないようだ。
 したがって、上のNewton2020年6月号のアリストテレスに関する叙述・紹介の適正さを私自身は保障しかねるのだが、「監修」者たちがとんでもない間違いをしているわけではおそらくないだろう。 

2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第一巻。
 =Leszek Kolakowski, Die Hauptströmungen des Marxismus-Einleitung・Entwickliung・Zerfall. -Erster Band〔第一巻〕(P. Piper, München, Zürich, 1977).
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. -Vol. 1: The Founders(Oxford, 1978).
 第6章の試訳をつづける。
 ドイツ語訳書を第一に用いる。英訳書も参照する。
 第6章・1844年の草稿(=パリ草稿)・疎外労働理論・青年エンゲルス。
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 第2節・認識の社会的性格と実践的性格①。
 (1)マルクスにとって、人間を根本的に性格づけるのは労働だ。労働は、人間が能動的あるいは消極的に同時にかかわる、自然との接触だ。そのゆえに彼は、伝統的な認識論上の諸問題について、新しい観点からその考え方を検討しなければならなかった。
 マルクスは、デカルトやカントが設定した諸問題の正統性を承認することができない。
 自己意識という行為が対象へと移行するのがどのようにして可能であるのか、という問題を探求するのは間違っている、とマルクスは主張する。なぜなら、出発点たる行為として純粋な自己知覚を前提とすることは、自然と社会でのその主体の存在から完全に自立して自分自身を把握することができるという、主体に関するフィクションにもとづいているからだ。
 他方で、彼は、自然をすでに知られている現実だと見なすことや、人間とその人間の主体性を自然の産物だと見なすことも、同様に間違っていると考える。あたかも、人間の自然との実際的な関係を無視して、自然それ自体を考察することが可能であるかのごとくなのだから。
 正しい出発地点は、人間の自然との能動的な接触(aktiver Kontakt, active contact)にある。そして、この接触を、一つに自己意識をもつ人間、二つに自然へと分別することは、抽象化によってのみ成り立つことだ。
 世界に対する人間の関係は、元来は観想(Kontemplation, contemplation)や受動的な感知ではない。事物が主体に対して表相を伝えたり、あるいはその本来の存在を主体が感知し得るものへと変換させることによって可能となるような、観想や感知ではない。
 知覚(Wahrnehmung, perception)とは最初から、自然と人間存在の実際的な指向とが結びついた、協力の結果なのだ。人間存在は社会的意味での主体なのであり、事物を適正な対象だと、「何かのために」役立つものとして作られたものだと、見なすのだ。//
 「人間は、多面的(allseitig, many-sided)なやり方で、ゆえに全面的(total, whole)人間として、自分の多面的な存在を我が物とする(aneignen, assimilate)。
 世界に対する<人間的>関係の全ては、つまり、見る、聴く、嗅ぐ、味わう、感じる、思考する、直観する、看取する、意欲する、活動する、愛すること等々は、簡単には、人間の個性(Individualität, personality)たる全ての諸器官が、直接に共同体的器官の形態である諸器官のごとく、それらの<対象的>関係またはそれらの<対象に対する関係>において、その同一物たる対象を我が物とすることなのだ。
 <人間的>現実を我が物とすること、人間が対象と関係するということは、<人間的現実を確証すること(Bestätigung)>だ。」(2)
 「眼は、<人間的>眼になってきた。眼の対象が社会的で<人間的>で、人間によって人間のために由来する対象になってきたのにつれて。
 人間の感覚(Sinn)はゆえに、直接にその実践の中で<理論家>になってきた。
 感覚は、物事それ自体のために<物事>と関係するが、しかし、物事それ自体は、物事自体や人間に対して<対象的で人間的な>かかわり方をするのであり、また逆のことも言える。」(3)
 「対象は、眼に対しては耳に対するのとは異なるものになる。眼の対象は、耳の対象とは別のものだ。
 それぞれの本質的力がもつ特有性がまさしくその<特有の本質>(eigentümliches Wesen)であり、ゆえにまた、対象化する特有の仕方や、生き生きとした<対象的で現実的な存在>でもある。<中略>
 最も美しい音楽であっても非音楽的な耳に対しては何の意義をも有しないように、それだけでは対象にはならない。なぜなら、私の対象は私の本質的力を確証するものでのみあり得るからだ。
 また、私には、私の本質的力が主体的能力であるような場合にのみそうなのだ。なぜなら、私にとって対象がもつ意義は、私の感覚が非社会的人間の感覚とは異なる社会的人間の感覚となるような場合にこそ生じるからだ。」(4)
 (2)看取できるだろうように、マルクスは、カントおよびヘーゲルが哲学的著作で設定した認識論上の関心方向を取り上げている。すなわち、どのようにすれば、人間の意識(Bewußtsein, mind)は世界を「手元に」(bei sich, at home)再現することができるのか。
 合理的意識(rational consciousness)と、直接に非合理的な形で単直に存在している世界の間の外部性(Fremdheit)を止揚することは可能なのか、可能ならばどのようにして?
 我々がこの問題に一般的内容を与えるとすれば、マルクスはこの問題を古典的ドイツ哲学から継承した、と言うことができるだろう。
 しかし、マルクスが問う特有の問題は、詳しく立ち入れば異なり、とりわけカントが設定する問題とは区別される。
 カントの教説においては、自由で理性的な主体と向かい合う自然の外部性(Fremdheit, alienness)を克服することができない。
 認識する主体的事項の二元性、すなわち所与のものと<先験的>(a priori)形態との間の基本的な区別は、現実の条件のもとでは除去することができないし、経験的データの多様性が合理化されることもない。
 自己決定をする、そのゆえに自由な主体は、必然性によって制約される自然と向かい合う。自分とは別個のものとして、耐え忍ばなければならない非合理性と。
 同様に、理想や倫理的要請も、非合理な世界から派生することはあり得ない。このことで、理想と現実の対立は避けられないものになる。
 世界の統合は、すなわち主体と客体、人間的自由と自然の必然性、感覚と思考とを含む統合は、理性が効果的には達成することのできない限界的仮定(Grenzpostulat)だ。それは、理性が現実には決してどこにも生成させることができず、止むことなく追い求めなければならないものだ。
 かくして、現実は主体にとって、その精神的能力や倫理的理想にとって、到達することのできない限界(Grenze, limitation)だ。
 ヘーゲルの見方では、カントの二元論は合理主義の放棄を意味しており、止むなき努力では達成できない限界である統合という仮説は、反弁証法的な世界観(Weltsicht)の例だ。
 人間が帰属している二つの世界の分裂が全ての個々の認識上および道徳上の行為についてやはり同等に甚だしいものであれば、それの止揚を目指す際限なき努力は、不毛なまま無限に続くもの(Unendlichkeit, infinitude)であり、内部的分裂を自分で治癒することのできない人間を際限なく再生産するだろう。
 ゆえに、ヘーゲルは、主体が存在を漸次的に我が物とする過程を提示しようとする。主体がもつ元来は隠れている理性を、つまりその精神的本質を、連続的に再認識するものとして。
 存在しているというまさにその事実のうちに理性を発見できないならば、理性は無能だ。また、理性がそれ自体の完全さを押し包んで、同時に非理性的な世界の重荷を負うならば。
 しかし、理性がその世界に出現している理性を発見するとき、現実を自己意識の産物だと、絶対的なものが自己限定する活動の結果だと理解するとき、世界を主体のために我が物として回復することができる。
 哲学は、その作業を行う責任をもつものだ。//
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 (2) MEW, Ergänzungsband, 1. Teil, S. 539f.
 =マルクス・エンゲルス全集第40巻/マルクス初期著作集(大月書店、1975)、460頁。
 (3) 同上, S. 540. =同上、461頁。
 (4) 同上, S. 541. =同上、462頁。
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 ②へとつづく。 


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2122/J・グレイ・わらの犬(2002)⑧-第3章02。

 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。=<わらの犬-人間とその他の動物に関する考察>。
 邦訳書からの要約・抜粋または一部引用のつづき。「」引用は原則として邦訳書。太字化は紹介者。
 第3章・道徳の害〔The Vices of Morality〕。
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 第6節・正義と流行〔Justice and Fashion〕。
 「ソクラテスの哲学とキリスト教信仰」は「正義は永遠だ」と説くが、極まりない「浅見」だ。
 ジョン・ロールズ〔John Bordley Rawls〕<正義論>は一時期の英米哲学界を風靡した。だが、「一般の道徳観念に根ざす公平意識〔moral intuitions of fairness & relies〕の枠」だけで正義を説明する趣意で、「倫理学」〔ethics〕の足場がない。その理由は控えめな態度なのか、その結果は「ありきたりの道徳論〔conventional moral beliefs〕を神妙〔pious〕に述べる」にとどまる。
 ロールズ追随者たちは「道徳」に関する「自分の直観〔intuitions〕」の厳密な検証をしない。それでよいとしても、精査をすれば「歴史」、しかも古くない歴史に気づくはずだ。誰もが「偏見の害」を知っていよう。「道徳」を敏感に意識しても、思考は「ひどく浅薄で、この上なく気紛れ〔shallow & transient to the last degree〕」だ。
 ロールズ<正義論>の基礎にある「平等主義」〔egalitarian beliefs〕は、かつての道徳論の核心の「性習慣」〔sexual mores〕に通じる。「きわめて地方的でかつ変遷が早い」ものでも人々は「道徳の要」として尊重するからだ。「時代の流れ」で今は「衆目の一致する平等主義」も、いずれ別の考えに取って代わられて「不変の真理」〔unchangeable moral truth〕の体現ではなくなるだろう。
 「正義は習慣〔custom〕の産物である」。習慣が変われば、「帽子の流行」と同じく「正義の観念〔ideas〕」も変化する。
 第7節・育ちのいいイギリス人のだれもが知っていること〔What Every Well-bred Englishman Knows〕。
 G・B・ショーが言った「育ちのいいイギリス人は善悪の区別を除いて世の中のことを何も知らない」は、「道徳哲学者」〔moral philosophers〕にも当てはまる。「哲学者は自分の無知を美徳と考えている」。
 第8節・精神分析と時の運〔Psychoanalysis and Moral Luck〕。
 「啓蒙運動〔the Enlightenment〕の思想家」から「人間は誰でも善良になれる」という確信・結論は出てこない。フロイトの主張は要するに、「善良になれるかどうかは時の運〔good luck〕」ということだ。
 性格・正義感は「幼児の境遇による」とのフロイトの見方を承認しつつ、誰もが「努力次第で」善人になれると執着する。「さもないと、優れた容姿や頭脳と同様、善良な人柄も時の運と認めなければならない」からだ。「自分の心情」は捨て難くとも、「自由意志は幻想だ」と割り切るべきだ。「善良な人物は幸運なのだ」という「厄介な事実を突きつける」ことで、フロイトはニーチェ以上に大きく「道徳〔morality〕の概念」を揺るがした。
 第9節・道徳は媚薬〔Morality as an Aphrodisiac〕。
 「道徳」は人類をほとんど「善導」せず、「罪悪」を増幅した。キリスト教は「罪の喜び」〔pleasures of guilt〕を否定するが、「信者崩れ」には、「不道徳なふるまいをする興奮」で「快楽」を増す例がある。
 第10節・分別を徳とする弱み〔A Weakness for Prudence〕。
 ソクラテス以来の哲学者たちは「道徳」や「分別」の必要を説いたが、「利己心」〔self-interest〕を語った方がよかった。「当面する課題」の方が「将来」のそれよりも重要だ。後者は「遠い先」のことで、かつ「仮定の域を出ない」。
 「自分の将来を案じたところで、今の自分を考える以上の深い意味はない。案じることのない将来だとしたらなおさらだ」。
 第11節・道徳の創始者ソクラテス〔Socrates, Inventor of Morality〕。
 たぶんソクラテスは「合理主義者」ではなく「諧謔を好む詭弁家」で、「哲学」を遊戯と見なしたが、ホメロスにとっての「危険に満ちた世界を巧みに生きる心得」としての「道徳」が、彼の影響で「最高善を追求する営為」に変わった。
 ホメロスのギリシア世界とは違って、ソクラテスは「善と幸福」を一体視した。諸福利・価値の彼方に「至善」がある。これがプラトンにより、「全価値が調和して精神の総体〔spiritual whole〕をなす神秘的融合」=「善の実相」となる。これをのちのキリスト教が「神」概念に同化した。かくして、ソクラテスこそが、「『道徳』の元祖」だ。
 「道徳」が全てに優先するというのは、「キリスト教と古典ギリシア哲学の折衷から生じた偏見に他ならない」。ホメロス時代に「道徳」も「至善」もなかった。
 人はとかく「究極的には道徳が勝ち残ると信じる顔で生きたがる。だが、本心からそう思ってはいない。意識の底で、運命と偶然には抵抗できないことを知っている」。この点、現代人は「古典ギリシア哲学」ではなくソクラテス以前の「古代ギリシア人」に近い。
 第12節・道徳の不徳〔Immoral Morality〕。
 「ある世代の平和と繁栄は、前世代の不正の上に築かれる」。「自由社会のひ弱な感性は戦争と帝国主義の落とし子」だ。個人についても同じで、「優しさは、安全が約束された波静かな社会でもてはやされる」。だが、「価値」が高いと口では認める特性も「日常生活には役立たない」。世間が褒める多くは「不正」・「罪悪」から湧いてくるのであり、「道徳」についても同じ。
 マキアヴェッリ・<君主論>は「不道徳のすすめ」だとされ、権力維持には「豪放な気組みと偽善が必要」との発言は今では尚更嫌われる。ホッブズ・<リヴァイアサン>は、「力と策略は乱世の徳」だと言い、マンデヴィル・<蜂の寓話>は、「強欲、虚栄、羨望など、悪弊が繁栄の原動力」だとした。ニーチェが今なお意味をもつとすれば、「非情や遺恨」といった「忌むべき動機」を昇華したものが「道徳」だという暴露にある。この人々は「禁断の真実」を喝破した。「道徳」は役立たず、「悪徳」だけが栄華をもたらす。
 「道徳哲学」は以上を認めない。アリストテレス・<中庸>が問題を回避するように、「中間」に本質がある。「勇気は無鉄砲と逃げ腰の中間」で、「分別、正義、共感」はみな極端のいずれかに偏しないことに価値がある。但し、彼もまた「複数の徳目」の非並立性には困った。「美徳」はときに「悪徳」に依拠する。人間は「一筋縄ではいかない」。
 「道徳哲学は、喩えてみれば、まず大体が小説だ。ともかくも、哲学者は一大長編を書かなくてはならない。だからと言って、驚くには値しない。人の世の真実は、哲学の関心外だ。
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 第13節以降へ。

2112/J・グレイ・わらの犬(2002)⑥-第2章03。

 ジョン・グレイ(1948-)の別の著書、John Gray, Gray's Anatomy: Selected Writings (2009,2013、レシェク・コワコフスキに関する一文がある)の謝辞(Ackowleagement)の文章の最後に、「Mieko」(みえこ・ミエコ)に感謝する旨の一文がある。この人は著者の配偶者で、日本人か、日本生まれの女性ではないだろうか。
 J・グレイは以下の著で西欧哲学・思想を大胆に?相対化して中国の仏教や道教への関心を示しているが(余計ながら、「隣の芝生は美しい」の類かもしれないとも感じるが)、このことと上記のこととの関係は、むろんよく分からない。
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 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。=<わらの犬-人間とその他の動物に関する考察>。
 邦訳書からの要約・抜粋または一部引用のつづき。ごく一部を原文により変更している。邦訳書p.72~p.88。太字化は紹介者。
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 第2章・欺瞞。
 第12節・仮想の自己〔Our Virtual Selves〕。
 「意志決定の表現」が「行動」だというが、「意志が決断する」ことはほとんどない。就寝・覚醒、夢の記憶・忘却、思考の喚起・忌避、これらの選択に「意志は関与しない」。
 「人間の行動は一続きに長く繋がった無意識な反応の末端であり、習慣と技巧(skills)の複雑極まりない組み合わせから起こる」。「自己認識」をいかに追求しても人間は自明のもの(self-transparent)にはならない。
 フロイトは人間の精神が大部分は「無意識に作動」すると理解した。「抑圧した記憶」の浮揚が適切な対処を可能にするという意味では正しいが、「記憶の検索」では「知覚の裏にある前意識の精神活動(preconcious mental activities)」を再現できない。「無意識」ではなく「前意識」が「意識の自覚」を生む。
 「意識」の「自己認識」に対する作用の限定性は人間の「主体性」(control of our lives)を否定しがちだ。とかく「行動」=「思考の帰結」と理解したい。しかし、誰もが大部分は「ものを考えずに」生活しているのであり、「意識の働きという概念」(sense of concious agency)は「矛盾する衝動のせめぎ合いから生まれる人為的構造(artefact)」だろう。
 人間は本能と習慣の生物だと言いたいのではなく、要するに「そのときどきの情況に対処しながら生きている」。
 人は概して自分=「統一された意識の主体」、人生=「行動の総和」と理解するが、「最新の認知(cognitive)科学と仏教古来の教義」は一致して、これを「錯誤」(illusive)と見なす。認知科学者のF・バレラ〔Francisco Varela〕はこう言う。-「人間という極致世界と微細存在の本質は、稠密に凝集した不分離の個体」ではなく、浮かびまた消失する変転する現象体だ。「仏教」はこのことを「凝視」(direct observation)で立証でき、「自己はいっさい空であり(the self is empty of self-nature)、そこには把握できる実体はない(void of any graspable substantiality)」と教える。
 自己をキメラ(chimera)と捉える点でも認知科学は仏教に倣う。-認知・認識はある「状態」から次へと切れ目なく移行するのではなく、「断続する行動パターン」だ。この有意義な理解によって、「認知の主体」としてホムンクルス(homuncular)を措定する愚を避けることができる。
  外から見る人間の特性として、「一貫した行動」を信じたいために、「体内にいて行動を指示する一寸法師」=ホムンクルスを想定するのは、間違いだ。ロボット工学者のブルックス〔R. A. Brooks〕は言う。-ロボットには「中央制御機構」はなくその動作は「競合する行動の集積」だが、観察者には「一貫した定形と映る行動」が浮かび上がる。
 これは人間にも当てはまる。人間の姿はじつは「知覚と行動の千変万化する情景」だ。「人間の自我は、…存在の根底をなす統一性の表現ではない。人間個人は昆虫の集団に構造のよく似た有機的組織体である。」
 「不変の自己」という考えは捨て難いが、そうではないことは「誰しもどこかで知っていよう」。
  第13節・無名氏〔Mr. Nobody〕。
 作家のG・リース〔Goronwy Rees〕は振り返って「人間個々の人格」(personal identity)という考えを疑問視し、こう書いた。-私は「客観的に記述できる歴史を負った個々人の持続的な特性」を自己のうちについぞ発見しなかった。「永遠不滅にして独立独歩の、思考する存在」を名乗ったことなどない。
 スコットランドの哲人、D・ヒューム〔David Hume〕も、「不変の自己」を発見しなかった。-大方の人間は「相互に関係を維持しつつ、目にも止まらぬ速さで絶えず波動しながら継続する知覚作用の集積」だ。「精神」(the mind)という舞台には「幾多の知覚が相次いで登場し、限りなく変化する情況で入り乱れ、多様な姿で通り過ぎ、引き返し、いつの間にか退場する」。単一性も時間を隔てた同一性もない。「精神を形成するのは、継起する知覚だけだ」。舞台の場所、筋立ての素材について何も把握できない。
 G・リースは、娘によると「無名氏」を自認していた。これは何ら異常でない。人間は全て「情動の塊」(all bondles of sensations)であり、「統一のとれた不変の自己」は<マヤ(maya)>=ベーダーンタ哲学での「幻影」でしかない。「一貫した自己」を知覚するようプログラムされているが、じつは「変化」があるだけで、そういう「自己認識の幻想」もまたプログラムに組み込まれている。
 我々自身に生じている変化は「見る側の自己が瞬息の間に去来するから確かには観察できない」。「自我(Selfhood)とは、意識の粗放がもたらす副作用である。内部活動はきわめて微妙かつ繊細なので、意識では捉えきれない」。
 「言葉の原点が鳥獣の遊びに遡る」のと同様に、「自我の幻想」・「不変の自己の幻想」も「言葉から生まれる」。幼少時に両親が話しかける言葉で「自己を認識」する。「記憶」を貫くのはその名だ。長じて「独白」し「自分史」を作り、「言葉」で「将来の可能性」を想定する。こうして「言葉で造り上げた仮想の自己」を過去・現在・未来に、さらには「死後の世界」にまで投影する。「死後」の「仮想の自己」は「生きているうちから既に亡霊」だ。
 「自我(the I)とは、たまゆらの事象である。にもかかわらず、これが人の生を支配する。人間はこのありもしないものを捨てきれない」。正常な意識で現在に向かい合う限り「自我」(sensation of selfhood)に揺るぎはない。「これが、人間の根本的な誤り(premordial human error)だ。そのおかげで、我々の人生は夢の中ですぎてゆく」。
 第14節・究極の夢〔The Ultimate Dream〕。
 仏教では、「直観の修行」(practice of bare attention)でもって「知覚」を鈍磨させている「習慣」という紗幕を引き剥がす。「凝視」(refinement of attention)でもって「現実」を深く洞察する。その「現実」とは、凡庸な注意力でもって単純化され判りやすくされた、「たまゆらの儚い(momentary, vanishing)世界」だ。
 「過去との繋がり」を絶つという意味を含む「悟りの境地」(ideal of awakening)は、「幻想」が雲散霧消して「もはや煩悩に惑わされる憂いがない」(suffer no longer)ということだが、これはキリスト教の「救済」(salvation)の教義と変わらない。しかし、「幻想」からの解放という考え自体が、「幻想」だ。「瞑想」(meditation)は真実を露わにし得ない。
 「進化心理学(evolutionary psychology)や認知科学(cognitive science)」が教えるのは、人間は「悠久の血脈に連なる末裔、尾部の一端」だということだ。先人をはるかに超えてはいるが、「脳と脊髄は遠い過去の記憶を暗号に変えて保存している」。 
 道教(Taoism)は「人間は夢から覚醒できない」と認める。<荘子>は<老子>よりも神秘主義的だが、西欧やインドのそれとはなお異なる。荘子は懐疑論的(sceptic)でもあり、「仏教の中心にある現象と現実の確然たる二元論」も、「幻想を超越する企て」も、ない。「人生を夢と捉え、かつ夢から醒めようとはしなかった」。
 グレアム〔A.C.Graham〕の言うように、「仏教徒は夢から覚め、荘周は覚めて夢に入る」。「夢だという真実」に目覚めることは「真実」に対する反目を意味しない。
 荘周は「救済」の理念を受容しない。「もともと自己のない人間が自己の幻想から覚醒するはずがない」。
 「人間は、幻想を捨てきれない。幻想は、所与の自然条件だ。そうだとしたら、それに従うしかないではないか(Why not accept it ?)。」
 第15節・実験〔The Experiment〕。
 「現代の哲学者」は哲学は人に「生き方」を教えると高言するほど「思い上がって」いないが、「何を教えるか」の返答を迫られている。「明晰な思考を定着させる」と立派に言うかもしれない。
 しかし、「曇りのない知見は、歴史、地理、物理学など、広い分野に学んで身につくものである」。
 哲学は「中世には、教会に知的な足場を提供」し、19-20世紀には「進歩神話を後押し」した。「信仰」や「政治」から外れた「現代の哲学」は、「主題のない学問領域、教理の求心力を失った因習の牙城」だ。
 古代ギリシア哲学は「知識の探求」にすぎないのではなく「生き方」、「弁証法的議論の基礎」、「精神鍛錬の武具」であって、目的は「真実」ではなく「精神の平穏」・「静謐」だった。老荘思想においても同じ。
 「幸福」は「静安」のうちにしか見出し得ないのか。スピノザは、ストア学派の哲人たちと同じく「精神の平穏」=「精神の不安から救われること」を願い、パスカルは「救済」を求めて苦闘した。しかし、「真理」ではなく「幸福と自由」が問題であるならば、哲学に最終判断を求める必要はない。「信仰や神話」にも、見るべきものがあってよい。
 「かつて哲学者は真理の探究を装って精神の平穏を目指した。現代人はこのあたりで方向変換を図った方がよくはないか。
 「棄却できる幻想」と「捨てたくとも捨てられない幻想」をまず見分ける必要がある。その先は、「克服できない幻想」を見極めるよう努めればよい。
 「数ある虚偽の何を排除するか、なしでは済まされない虚偽とは何か。それが疑問だ。それこそが、実験である。」
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 第2章終わり。

2091/西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書,2018)④。

 西尾幹二は、もしかすると(vielleicht)、自身を「思想家」だと考えている(または考えてきた)のかもしれない。
 というのは、つぎの書のオビか何かの宣伝文に、自分の名で、<新しい思想家出現!>とか書いていたからだ。
 福井義高・日本人が知らない最先端の世界史(祥伝社、2016)。
 少なくとも<民主主義対ファシズム>史観の虚妄性・偽善性については秋月よりもはるかによく知っていて、英・独・仏・ロシア各言語を読めるというのだから優れた人であることは認めるが、「新しい思想家」とまで称賛されたのでは、福井もさすがにいい迷惑・有難い迷惑だと思ったのではなかろうか。
 そして、「新しい思想家」が出てきた、というからには、西尾幹二自身が「古い」、現在の「思想家」だと自認しているのではないか、と感じたものだ。
 上の疑問が当たっているかどうかは別として、西尾幹二は、哲学・思想分野に詳しいようでみえて、実のところどの程度の素養・蓄積があるかは疑わしいと思っている。
 哲学・思想にも法哲学(・法思想)、経済哲学(・経済思想)、政治哲学(・政治思想)等と様々ある。講座・政治哲学(岩波書店)も刊行されたことがある。
 これらの夾雑物?を含まない「純哲」=「純粋の哲学」という学問分野もあるらしく、哲学(または思想)分野のアカデミズム(学界)もある。
 この欄で既に触れたように、岩波講座/哲学〔全10巻〕(2008-2009)新・岩波講座/哲学〔全16巻〕(1985-1986年)が、各時代の哲学(哲学学)アカデミズムの総力挙げて?刊行されている。
 アカデミズム一般を無視するとか、岩波書店だから嫌悪するとかの理由があるかのかどうかは知らない。だが、西尾幹二の書の長い<主な参考文献>の中には<世界の名著>(中央公論社)<人類の知的遺産>(講談社)のいくつかは挙げられているにもかかわらず、上のいずれも挙げられず(個別論文を含む)、本文の中でも言及されていないようであるのは、不思議で奇妙だ。哲学(・思想)にとって、「自由」(と必然)は古来からの重要主題であり続けているにもかかわらず。
 上の<講座・哲学>類には「自由」に関係する論考も少なくない。
 また、この欄で既述のように、<岩波講座・哲学/第5巻-心/脳の哲学>(2008)は、デカルト以来の「身脳(心身)二元論」の現在的段階と将来にかかわるもので、当然に人間・ヒトの「自由」や「自由意思」に関係する。
 西尾幹二が「自然科学」を拒否して「哲学・思想」という「精神」を最も尊いものとし、哲学は「万学の女王の玉座」(上の講座本の「はしがき」冒頭)に位置していると考えているとすれば、100年くらい、少なくとも40年ほどは時代遅れだろう。
 また、「物質」を対象とする「自然科学」ではない「哲学・思想」という「精神」を人間・個性にとって最も尊いと考えているとすれば、そのわりには、多様な「哲学・思想」分野にさほど通暁しているわけではないことは、日本の哲学(哲学学)アカデミズムの状況をほとんど知らないようであることからも分かる。
 いまや、フッサールの某著を引き合いに出すまでもなく、学問分野としての「哲学そのものの存立基盤が脅かされている」、とされている(上記「はしがき」ⅶ)のだが。
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 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。
 もう一度、第1章後半の、Freedom とLiberty の違い問題に言及する。
 西尾は、こう書いている。あらためて抜粋的に引用する。p.34-p.56。A・スミス言及部分にはもうほとんど触れない。
 p.34。/「世には二つの『自由』があります」。
 p.35。/「ヒトラーが奪うことのできた自由は『公民の権利』という意味での自由であり、奪うことのできなかった自由は『個人の属性』としての自由です。
 『市民的権利』としての自由と『個人的精神』としての自由の概念上の区別だというふうにいえば、もっと分かりやすいかもしれません。」
 「ヒトラー独裁体制」の下での「ドイツ国防軍の内部」の動き等は「まだ、『公民の権利』『市民的権利』の回復のための戦いであり、どこまでも前者の自由の概念」に入る。
 「強制収容所の苛酷な条件においても冒すことのできない人間の内的自由」があった、という場合の「自由の概念は『個人の属性』としての、あるいは『個人的精神』としての自由の概念を指しています」。
 「この二つの自由を区別するうえで、英語は最も用意周到な言語です
 すなわち、前者をliberty とよび、後者をfreedom と名づけております。
 フランス語やドイツ語には、この便利で、明確な区別がありません。
 フランス語のliberté には、内面的道徳的自由をぴったり言い表す一義性は存在しません。」
 liberté は「邪魔されないこと、制限されないことを言い表す以上のもの」ではありません。
 p.36-。/逆に、「ドイツ語のFreiheit には、二つの自由概念の両義性を含んではいますが、やはりどうしても後者の自由概念、内面的道徳的自由のほうに比重がかかりがちです」。
 人間が住居を快適にまたは立派に整えたり、子どもの成長を妨げる悪い条件をなくすのは「liberty の問題」で、「真の生活」が行われることや子どもが「成長」することは「freedom の問題」で、これら「二つの概念上の区別をしっかりと意識しておく必要があるでしょう」。
 「ところで、私の友人の話によると、アダム・スミスは、『自由』という日本語に訳されていることばにliberty だけを用いているそうです。
 それはそうでしょう。経済学とはそういう学問です。」
 「住居をいかに快適に整えるか、子供の教育環境をいかによくするか、が経済学の課題と等質です」。ここから先は、快い住居での「真の生活」やよい環境での「子供の成長」は、「経済学のような条件づくりの学問、一般に社会科学的知性では扱うことのできない領域」に入ってくる。「ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由という問題です」。
 p.37。/「サイバーテロなどコンピュータ社会に特有の不安」からいかに免れるかは「所詮liberty の自由概念の範囲です。」
 「liberty の領域が広がるか、制限されるのかの問題」ではなく、「まったくそれと異なる自由概念、精神の自由の問題をここであらためて示唆していることを強調しておきたいと思います」。
 p.43-。/〔p.38-p.42で長々と引用した〕エピクテトスが論じたのは「アダム・スミスのような経済学者がまったく予想もしなかった自由の概念ではないでしょうか。freedom の極言形式といってもいいでしょう」。 
 p.44-/「ヒトラーやスターリンの20世紀型テロ国家」は社会の全成員から「liberty (公共の自由)を全面的に奪い取って」、「freedom (精神の自由)も死滅してしまうのでないか」。21世紀でもなお、これら国家と同質の「全体主義的強権体制は中国、北朝鮮その他」ではまだ克服されていない。
 ハンナ・アーレントの「全体主義」。ナチス、ソ連、毛沢東、…。
 p.45-。/「敵の内容が移動していくことが全体主義が終わりの知らない運動であることの証明で、…体制の敵に何ら咎め立てられる『個人の罪』が存在しないことが特徴です。
 ここでは敵視されない人々はliberty を保障されます」。
 p.56。/一方、V・E・フランクル・夜と霧(邦訳書1956年〕〔p.47-p.55に長い紹介・引用あり〕から言えることは、「人間はliberty をことごとく失っても、freedom の意識をまで失うものではないということ」です。
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 紹介、終わり。
 こうぬけぬけとかつ長々とliberty とfreedom の違いを語られると、思わず納得していまう人もいるかもしれない。しかし、西尾幹二の<思い込み>にすぎない。
 どのようにすれば、このように自信をもって、傲慢に書けるのだろうか。
 既述のように、このように両者を単純に理解することはできない。A・スミスもF・ハイエクも、liberty とfreedom を西尾の理解のように単純に対比させて用いたのではないと見られることは、すでに記した。
 また、西尾のいう二種の「自由」以外に、種々に分類・体系化される「自由」が日本国憲法上保障されるとされていることもすでに示した。
 話題を移せば、そこでの諸「自由」は西尾に従えばどのように、liberty とfreedom に分けられるのだろうか。
 精神・内心の自由はfreedom で、それ以外はliberty なのか? いや、宗教の自由や学問の自由も「内面的道徳的自由」であり、その他全ての「自由」はこれを基礎にしたfreedom だとも言えそうだ。そうすると日本国憲法上の「自由」はすべてfreedom だ、ということになる。
 そして、西尾のように公共生活条件の整備がlibertyという自由概念の問題だとするのは、相当に違和感の残る概念用法だ。freedom 享有の基盤づくりを、再び「自由」=liberty いう必要はないし、そのような用法は日本にはない。また、freedom 享有の基盤づくりに際して問題になるのがliberty の概念だというのも、きわめて難解で、こうした用法は避けた方がよいだろう。
 要するに西尾の概念用法をある程度は「理解」することができるが、しかし、了解・納得できるものではない。西尾幹二の<思い込み>にすぎない。
 なお、平川祐弘と同様に、「文学」系知識人らしきものによる「経済学のような条件づくりの学問、一般に社会科学的知性」に対する侮蔑意識が明記されているのは、まことに興味深いことだ。
 物質・生活条件整備ではなく「心」・「精神」・「内面的道徳性」が、こうした人たちにとっては尊いのだ。ある意味で、この人たちは物質・身体と心・精神を峻別する16-17世紀のデカルト的意識状態にまだいるのではないだろうか。
 人間、日本人の生活条件よりも、自分の「精神」・自分の「独自性」こそがおそらく尊いとされるべきなのだろう。なぜならば、自分たちは、衣食住に関係する多数の仕事を行っている「庶民」ではなく、水・エネルギー供給・交通手段等々の利益を享受しているとしても、それに感謝することもなく、高見で「きみは自由かね」と問う資格のある「知識人」だと自負しているのだろう。そのような「文学」畑の人間が、建設的な政策論議をろくに行うことができないで、「教養」と「精神論」だけしか示すことができずに、情報・出版産業界での非正規文章執筆自営業者となり、その数と影響力によって日本を悪くしてきた。
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 さて、この問題に再度触れようと思ったのは、西尾が第1章の参考文献としてハンナ・アレントのものを挙げていることに気づいたからだ。
 さらにそのきっかけは、池田信夫blog/2009年5月19日で、つぎの書を紹介し、論及していたことだった。
 仲正昌樹・今こそアーレントを読み直す(講談社現代新書、2009)。
 池田によって紹介される、仲正のH・アレント・<革命について>の理解はこうだ。
 アレントはフランス革命を否定しアメリカ独立革命を肯定したが、「彼女はliberty とfreedom を区別し、前者をフランス革命の、後者をアメリカ独立革命の理念とした」。
 「Liberty は抑圧された状態から人間を解放した結果として実現する絶対的な自然権だが、Freedom は法的に構成される人為的な概念で、いかなる意味でも自然な権利ではない」。
 すでに、西尾幹二の両語の理解と質的に異なることは明らかだろう。
 仲正昌樹の上掲著の<二つの自由>以降は難解だが、おおよそは池田の紹介のようなことが書かれている。
 ハンナ・アレント/志水速雄訳・革命について(ちくま学芸文庫、1995/原邦訳書1975)にさらに、原書、Hannah. Arendt, On Revolution(1963)も参照しつつ、立ち入ってみよう。
 (つづく)

2042/講座・哲学(岩波)や哲学学者と政治・社会系学者・評論家。

 岩波講座/哲学〔全10巻〕(2008-2009)の各巻共通の編集委員一同による「はしがき」は、途中で、「以上のような現状認識を踏まえた上で、…」と述べて、編集の基本方針を記している。
 その前に叙述されている「現状認識」は、番号が付されてはいないが、四点を記しているものと解される。
 第一は、「大哲学者の不在」を含む「中心の喪失」だ。興味深いのでもう少し引用的に抜粋すると、つぎのようになる。
 「20世紀の前半、少なくとも1960年代まで」は、「実存主義・マルクス主義・論理実証主義」の「三派対立の図式」が「イデオロギー的対立も含めて成り立っていた」。
 20世紀後半にこの図式が崩壊したのちも、「現象学・解釈学・フランクフルト学派、構造主義・ポスト構造主義など大陸哲学の潮流」と「英米圏を中心とする分析哲学やネオ・プラグマティズムの潮流」との間に、「方法論上の対立を孕んだ緊張関係が存在していた」。
 だが現在、「既成の学派や思想潮流の対立図式はすでにその効力を失っている」。
 <日本の>哲学状況はどうなのだと問いたくなるが、かなり面白い。
 第二は、「先端医療の進歩や地球環境の危機」によって促進されて、諸問題が顕在化した、ということだ。
 第三はのちに紹介するとして、第四は、「政治や経済の領域におけるグローバル化の奔流」が諸問題を発生させている、ということだ。
 上の第二点と一部は重複すると考えられるが、第三に、つぎのように語られている。全文を引用しよう。ここでは、一文ごとに改行する。
 「哲学のアイデンティティをより根底で揺るがしているのは、20世紀後半に飛躍的発展を遂げた生命科学、脳科学、情報科学、認知科学などによってもたらされた科学的知見の深まりである。
 かつて『心』や『精神』の領域は、哲学のみが接近を許された聖域であった。
 ところが、現在ではデカルト以来の内省的方法はすでにその耐用期限を過ぎ、最新の脳科学や認知科学の成果を抜きにしては、もはや心や意識の問題を論ずることはできない
 また、道徳規範や文化現象の解明にまで、進化論や行動生物学の知見が援用されていることは周知の通りであろう。
 そうした趨勢に対応して、…、哲学と科学の境界が不分明になるとともに、『哲学の終焉』さえ声高に語られるにまでになっている。」
 以上。
 このように叙述される「現状」の「認識」は、正当なものではないか、と思われる。
 そして、「文学部哲学学科」の存在意義というちっぽけな問題は別として、つぎの感想が生じる。
 第一に、人文社会系の学者・研究者および評論家類(自称「思想家」を含む)の中には、「実存主義・マルクス主義・論理実証主義」の「三派対立の図式」になお「イデオロギー的」にこだわっている者がいるのではないか。そうでなくとも、「現象学・解釈学・フランクフルト学派、構造主義・ポスト構造主義」、「分析哲学やネオ・プラグマティズム」といった「潮流」にこだわり続ける者も少ないのではないか、ということだ。
 むろん、そうした「哲学」の「潮流」などを知らない、意識していない人文社会系の者の方が、はるかに多いかもしれない。そんなことを知らなくとも、学界・大学や情報産業界の一部で「生きて」いける。
 第二は、まさに上に明記されている、「生命科学、脳科学、情報科学、認知科学」は、人文社会系学問(歴史学を当然に含む)や社会・政治系の評論家類の営為の対象となり得る、ヒト・人間の「性質」・「本性」にかかわっている。この<自然科学>の進展を、この人たちは、どれほどに知っているのか、知ろうとしているのか、ということだ。
 経済学部出身らしい池田信夫の言述を(好意的・積極的に)評価するのは、この人がこの分野にも強い関心を向けていると見られることだ。
 この欄に名を出したことはないが、雑誌・Newton の愛読者だという元々は文科系の大原浩にもたぶん上のことがあてはまる。
 また、福岡伸一(<動的平衡>というテーゼ)や茂木健一郎(少なくとも当初は<クオリア>への関心)は、人文社会系の学者・研究者や読者たちと交流?する意識を排除していない、と推察される。
 圧倒的多数の人文社会系学者・研究者や社会・政治系評論家類(自称「思想家」を含む)は、おそらく、人間の(覚醒・意識の成立を前提とする)「認識」が(究極的に)脳内作業であって、「文章」を書くことも全く同様であること(むろんメカニズム・システムは複雑多様だが)を意識していない、と推察される。「自分」は<物質>などとは無関係の、「独立の」、「個性ある」、たんなる生物ではない<知識人>だと考えている、のではないか。これは<右も左も、斜め右上も斜め左下も、中央手前も奥も>、変わりがない。
 そうであっても、学界・大学や情報産業界の一部で「生きて」いける。
 なお、上の講座(全集)の第5巻の表題は<心/脳の哲学>。
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 上の講座(全集)は21世紀に入ってからのものだ。ソヴィエト連邦等の解体後であるとともに、今日までの10年間で、「脳科学」・「神経生物学」等はさらに進展している可能性がある。
 では、一つ前の同様の企画ものである講座(全集)は、異なる編集委員によってどういう「まえがき」を書いていただろうか。
 新・岩波講座/哲学〔全16巻〕は1985-1986年に刊行されている。上よりも20年ほど前だ。このとき、まだソヴィエト連邦等が存在した。
 各巻に共通する編集委員「まえがき」を一瞥すると、つぎのことが興味深い。
 第一に、「哲学の終焉」の危機感などは全く感じさせないような叙述をしている。つぎのとおりだ。
 「学問分野としての哲学は、明治期以降一世紀あまりの歴史をふまえて、研究者の層が厚い。また、前回…が出版された後、研究動向の多彩な展開がみられると共に若いすぐれた担い手たちも育っている。」
 ほぼ20年後の上述の講座(全集)とは、相当に異なっていることが分かる。
 しかし、第二に、つぎのような叙述が冒頭にあることは注目されてよいだろう。一文ごとに改行する。
 「…今日、私たち人類はこれまで経験したことのない状況に直面している。
 エレクトロニクスや分子生物学に代表される科学・技術の発達が人間の生存条件を一片させつつある。
 と同時に、文化人類学、精神医学、動物行動学の成果からも、人間とはなにかということ自体が改めて問い直されるに至っている。」
 30年前すでに、「文化人類学、精神医学、動物行動学」の成果を参照しなければならないことが(たぶん)意識されてはいたのだ。
 なお、この講座(全集)の第6巻の表題は<物質・生命・人間>、第9巻のそれは<身体・感覚・精神>。
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 この講座(全集)類の発行は日本の「哲学学界」または「哲学学・学界」を挙げての一大行事だっただろう。そしてまた、「まえがき」は時代と「編集委員」の意識を反映している。
 もっとも、学界所属者たちがいかほどに「まえがき」記述と同じ意識・認識だったかは疑わしい。
 また、「哲学」学界は略称<純哲>とも言うらしいのだが、<法哲学>、<社会哲学>、<経済哲学>?等々の学界と共通する意識・認識だったとは言えないだろう(但し、2008年ものの編集委員の一人は「法哲学」の井上達夫)。純粋の「哲学」の方が「こころ」・「精神」そのものに最も関係するかもしれない。
 なお、少し元に戻ると、あえての推測なのだが、1985-86年時点では、公式に?表明するか否かはともかく、日本ではなおも「マルクス主義哲学」の立場に立つ哲学・学者・研究者は多かったのではないか。その影響は、今日の比ではおそらくなかっただろう。
 この点は、1985-86年とソ連解体と日本共産党や「マルクス主義」の動揺のあとの2008-09年の、無視できない、学界を包む雰囲気の違いだろう。

2019/茂木健一郎・生命と偶有性(2010年)。

 L・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(英訳書1978年、独訳書1977-79年)は、全体に関するPreface、第一巻(・創生者たち)のIntroduction に続いて、第一章(・弁証法の起源)の、見出しのない序説らしきものの後の第一節(数字つき大段落)の見出しを「人間存在の偶然性(contingency of human existence, Zufälligkeit des menschlichen Daseins)」としていた。
 <マルクス主義の歴史>に関する長い叙述の本文を、人間の、又は人間にとっての<偶然性と必然性>という主題から開始していたわけだ。
 ちなみに、その最初の段落の文章は、つぎのとおりだった。合冊版、p.12.
 「存在全体を知的に包括的に把握するのは哲学にとっての宿願だったし、現在でもそうだが、それを原初的に刺激したのは、人間の不完全さ(imperfection, 弱さ: Hinfälligkeit)に関する知覚だった。
 哲学的思考を刺激して作動させたこの人間の不完全さという感覚、および全体を理解することで人間の不完全さを克服しようとする意志のいずれをも、哲学は神話の世界から受け継いだ。」
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 茂木健一郎・生命と偶有性(新潮選書、2015年/原書2010年)。
 この書の「目次」をそのまま書き写すと、以下のとおり。
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 まえがき
 第一章/偶有性の自然誌
 第二章/何も死ぬことはない
 第三章/新しき人
 第四章/偶有性の運動学
 第五章/バブル賛歌
 第六章/サンタクロース再び
 第七章/かくも長い孤独
 第八章/遊びの至上
 第九章/スピノザの神学
 第十章/無私を得る道
 あとがき
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 茂木健一郎とは「脳科学者」として知られる人物だが(1962~)、この書の構成・見出しだけからしても、「生命と偶有性」をタイトルとするこの書は「哲学書」でもあるのではないか。
 「まえがき」の中にはこんな一文がある。
 偶有性とはまた、「現在置かれている状況に、何の必然性もないということ」だ。「たまたま、このような姿をして、このような素質をもち、このような両親のもとに生まれてきた。他のどの時代の、どの国で生まれても良かったはずなのに、偶然に現代の日本に生まれた」。
 「そのような『偶有的』な存在として、私たちはこの世に投げ出されている」。
 わざわざ引用するほどの珍しい感覚または認識では全くないだろうが、上のようなことを忘れてしまって、当面・直面する、とりあえずの<自分の役割>を果たそうとするだけに終始している人々も多いだろう。
 また、自分がヒト・人間であり、「偶有性」があることも完全に忘却して、当面・直面する<文字のつながる文章作成>作業、つまりは「言葉」世界での加工業にいそしんでいる、とりわけ<文学>畑の評論家類もいるに違いない。 
 やや唐突だろうが、「論壇」人であり、あるいは思想家・哲学者であるためには、「論ずる」こと、思考することも<脳内作業>であること、各人の神経細胞(ニューロン)の連続的「発火」作業であることを、深いレベルで知覚しておく必要があると思われる。
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 L・コワコフスキに戻ると、この人はときどき<人間のMisery>という句を用いている。
 勝手な読み方だが、このMisery=悲惨さ、というのは、特定の地域・時代でヒト・人間として生まれることは「偶然」であり、いつか「必然」的に「死」があること、そしてそれまで生きて「意識」をもち続ける間は<食って>、脳・心臓等々を動かしていかざるを得ないこと、といった意味を含んでいるのではないか、と思われる。
 ちなみに、上の「目次」の中にある「スピノザ」は、L・コワコフスキの最初の研究論文(・研究書)の対象人物だった。
 精神医学者(精神病理学者)と「哲学」研究者の対談が成立していることは、この欄の№1856(2018年10月14日)の精神医学者かつ「臨床哲学」者・木村敏に関する項で言及している。

1918/L・コワコフスキ著第三巻第四章第3節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(英訳書、1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
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 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
 第3節・1947年の哲学論争。
 (1)文学のつぎは、哲学が戒めを受ける番だった。
 党による運動の対象は、1946年に出版された、G. F. Aleksandrov の<西洋哲学史>だった。
 この書物の内容は完全に正統派で、マルクス=レーニン主義からの引用で充ちており、党に真に献身する気持ちで書かれていた。
 これはほとんど歴史的な価値のない、民衆むけの陳列書だったが、叙述する諸教理の「階級的内容」に十分な注意を払っていた。
 しかしながら、党が嗅ぎつけたのは、この書は西洋哲学のみを対象にしており、その叙述が1848年で終わっており、ロシア哲学の比類なき優越性を十分に描写していない、ということだった。
 1947年6月、中央委員会は大がかりな議論を組織し、そこでジダノフは、哲学に関する著者に対する訓令を定式化した。
 彼は演説の一部でAleksandrov の書物に触れ、これは党の精神を叙述していない、と宣告した。この著者は、マルクス主義は哲学の歴史上の「質的な跳躍」をしたもので、哲学が資本主義に対する闘争でのプロレタリアートの武器となる、そういう新しい時代の始まりを画したものであることを指摘していない、と。
 Aleksandrov は腐敗した「客観主義」に堕している。すなわち、多様なブルジョア思想家の思索をたんに中立的な精神で記録したにすぎず、唯一の正しい(true)、進歩的なマルクス=レーニン主義哲学の勝利のために果敢に闘うことを行っていない。
 ロシア哲学を割愛していること自体が、ブルジョア的傾向に屈服している標識だ。
 Aleksandrovの仲間たちがこの明瞭な欠陥を批判してこなかったことは、同志スターリンの個人的な介在のおかげで明らかになった。そしてそのことは、彼ら全員が「哲学戦線」にいるのではなく、彼ら哲学者たちがボルシェヴィキの戦闘的精神を喪失していることの明白な証拠だ。//
 (2)ジダノフがソヴィエト同盟の哲学上の仕事について定めた規範は、三点に要約できるだろう。
 第一に、哲学の歴史は科学的唯物論の誕生と発展の歴史であり、かつ観念論がその発展を阻害している間は観念論との闘争の歴史だ、ということを絶対に忘れてはならない。
 第二に、マルクス主義は、哲学上の革命だ。すなわち、マルクス主義はエリートたちの手から哲学を奪い取り、哲学を一般大衆の財産にした。
 ブルジョア哲学はマルクス主義の成立以降は衰亡と解体の過程にあり、価値のある何物をも生み出すことができないでいる。
 過去百年の哲学の歴史は、マルクス主義の歴史だ。
 ブルジョア哲学と闘うために舵をとる羅針盤となったのは、レーニンの<唯物論と経験批判論>だった。
 Aleksandrov の書物は「歯抜けの菜食主義者」の精神を示している。重要問題は階級闘争ではなく、ある種の普遍的な文化のごとくだ。
 第三に、「ヘーゲルの問題」はマルクス主義によってすでに解決されており、それに立ち戻る必要はない。
 一般論として、哲学者は過去を掘り返すのではなく社会主義社会の諸問題に参加し、現今の諸論点に関係しなければならない。
 新しい社会では、もう階級闘争は存在しない。しかし、新しき者に対する古き者の闘いはまだ残っている。
 この闘いの形態は、ゆえに進歩の主導的力および党が選ぶ道具は、批判と自己批判だ。
 これこそは、進歩的社会の新しい「発展に関する弁証法的法則」だ。//
 (3)「哲学戦線」の主要な構成員は全てこの議論に参加し、党の訓令に不和雷同し、マルクス主義に対する創造的な貢献をしかつソヴィエト哲学にあった誤りを是正したことについて同志スターリンに感謝を捧げた。
 Aleksandrovは儀礼的な自己批判を実施し、自分の著作が重大な過ちを含むことを承認した。それでもしかし、まだ慰めになったのは、彼の仲間たちが同志のジダノフによる批判を支持したことだった。
 Aleksandrov は党に対する揺るぎなき忠誠を誓約し、彼の方向を改めることを約束した。//
 (4)討議の間、ジダノフは、哲学に関する特別の雑誌の発行という考え方に反対し(三年前に<マルクス主義の旗の下に>が出版をやめていた)、党が月刊で出版する<ボルシェヴィキ>がこの分野の基礎を完全に十分に包含する、と論じた。
 しかしながら、最終的には、彼は譲歩して、<哲学の諸問題>の創刊に同意した。その第一号はその後すぐに刊行され、速記記録による討議の内容の報告を掲載した。
 最初の編集者は、V. M. Kedrov だった。この人物は、自然科学の歴史を専門にしており、たいていのソヴィエトの哲学者よりは文化を深く知っていた。
  しかしながら、彼は、この雑誌の第二号に著名な理論物理学者M. A. Markovの 「物理学的認識の自然」と題する論文を掲載するという、重大な過ちを冒した。その論文は、量子物理学の認識論的側面に関するコペンハーゲン学派の考え方を擁護するものだった。
 この論文は公式の週刊誌<Literary Gazettea〔文芸週報〕>でMaksimov によって攻撃され、Kedrov は見当違いだとして職を失った。//
 (5)1947年の議論は、ソヴィエトの哲学者が何をどのように書くべきかに関して疑問とする余地を、何ら残さなかった。
 かくして、ソヴィエト哲学の様式は、多年にわたり固定された。
 ジダノフは、スターリン・ロシアの時代に長く最高の権威を維持しつづけたエンゲルスの定式を反復するだけに抑えたのではなかった。その定式とは、哲学史の「内容」は唯物論と観念論の間の闘争だ、というものだ。
 新しい定式によれば、その真の内容は、マルクス主義の歴史だ。すなわち、マルクス、エンゲルス、レーニン、そしてスターリンの諸著作だ。
 換言すると、過去の理論家を分析したりそれらの階級的起源を解明したりすることは、哲学の歴史家が行うべき仕事ではない。彼らが行わなければならないのは、目的意識をもちかつ完全に、とっくに過去のものになったもの全てに対するマルクス=レーニン主義の優越性を証明し、一方で観念論の反動的な機能の「仮面を剥ぐこと」に、寄与することだ。
 例えば、アリストテレスについて叙述する際には、アリストテレスはあれこれのこと(例えば、個別的弁証法と普遍的弁証法)を「理解することができず」、あるいは恥ずかしくも観念論と唯物論との間で「揺れ動いた」、ということを示さなければならない。
 ジダノフの定式がもった効果は、事実上は哲学者たちの間の違いを排除することだった。
 唯物論者でありかつ観念論者である者が、つまり「揺れ動いた」者または「一貫しない」者がいたのだ。そして、そうしたことがこの定式の目的だった。
 この時代の哲学の出版物を読む者は誰でも、つぎのような印象を確実にもつだろう。すなわち、哲学の全体が「物質が始原的」と「精神が始原的」という二つの対立する主張から成っており、前者の見方が進歩的で、後者は反動的で迷信的だ、とされていること。
 聖アウグスティヌスは観念論者で、B・バウアー(Bruno Bauer)も同様だった。そして、読者の印象に残るのは、これらの哲学者たちは多かれ少なかれみな同じだ、ということだった。
 長く引用しないままでは、この時代のソヴィエト哲学の成果が信じ難いほどに未熟だったと理解するのは、検証していない者にとっては困難だろう。
 全体的に、歴史的研究は壁に打ち当たった。哲学の歴史に関する書物はほとんど出版されず、哲学上の古典の翻訳書についてもそうだった。アリストテレスとLucretius の<De Natura>を除いては。
 受容された唯一の歴史は、マルクス主義の歴史、またはロシア哲学の歴史だった。
 前者は、四人の古典を薄めて叙述したもので成り立っており、後者は、ロシア哲学の「進歩的な貢献」と西側の著作に対する優越性にかかわっていた。
 かくして、Chernyshesky はいかにフォイエルバハよりもはるかに優れているかを示したり、ヘルツェン(Hertsen)の弁証法、Radishchev の進歩的美学、Debrolyubov の唯物論等々を称賛する論文や小冊子があつた。//
 (6)もちろん、イデオロギー的迫害は、論理の研究を省略したわけではなかった。マルクス=レーニン主義でのその位置は、最初から疑わしいものだったが。
 一方で、エンゲルスとプレハノフは、全ての運動と発展に内在する「矛盾」について語った。そして、彼らの定式からすると、矛盾の原理、ゆえに形式論理一般は、普遍的な有効性を主張できないもののように見えた。
 他方で、古典著作者の誰も、論理を明白には非難しなかった。レーニンも、論理は基礎的な次元で教示されるべきものということに好意的だった。
 ほとんどの哲学者が当然のこととしていたのは、「弁証法的論理」は思索のより高い形態であり、形式論理は運動という現象には「適用できない」、ということだった。
 しかしながら、いかにして、またいかなる程度にこの「限定された」論理を受容できるのかは、明白でなかった。
 哲学の著作者たちは、一致して「論理形式主義」を非難した。しかし、誰も、これと、狭い限定の範囲内では許される「形式論理」との間の違いを正確に説明することができなかった。
 1940年代遅く、基礎的論理は中高等学校の高学年や哲学学部で教育された。
 若干の教科書も出版された。一つは法学者のStrogovich のもので、もう一つは哲学者のAsmus のものだった。
 イデオロギー的な整理の仕方は別として、これらは旧態依然の手引書だった。アリストテレスの三段論法以上に進むことはほとんどなく、現代的な記号論理学(symbolic logic)を無視していた。つまり、いずれも19世紀の高等学校で用いられた教科書によく似ていた。
 しかしながら、Asmus のものは、党精神に欠け、かつ政治的意識が希薄で形式主義的でイデオロギーに問題があるとして、激しく攻撃された。こうした批判がなされたのは、高等教育省が1948年のモスクワで組織した討議でだった。
 政治を無視しているという追及がなされた主要な理由は、Asmusが三段論法的推論の例として、戦闘的イデオロギーの内容を欠く「中立的」前提を選択したことにあった。//
 (7)哲学者たちにとって現代論理学は、封印された分野だった。
 しかしながら、完全に無視されたのではなかった。それは、技術的諸問題に集中し、彼らに災厄を招いただけだろう哲学上の議論に巻き込まれないように気を配っていた、数学者たちの小集団のおかげだった。
彼らの尽力によって、記号論理学に関する二つの優れた書物の翻訳書が、1948年に出版された。すなわち、Alfred Tarski の<数学的論理学>と、Hilbert とAckermannの<理論論理学の基礎>だ。
 さもなければ無名だった者が執筆した論文<哲学の諸問題>は、これらの書物を「イデオロギー上の転換>だとして非難した。
 この分野でのある程度の改善は、1950年に哲学に関するスターリンの小論によってなされた。論理の擁護者たちが、言語のごとく論理には階級がない、つまり論理のブルジョア的形態とか社会主義的形態とかはなくて全人類に有効なただ一つの形態がある、とする見解を支持するために呼びかけたときに。
 形式論理の地位とそれの弁証法的論理との関係は、スターリン時代におよびその時代のあとで、しばしば議論された。
 ある者は、論理には形式的と弁証法的の二種があり、それぞれが異なる事情へと適用される、前者は「認識の低い次元」を示すものだ、と主張した。
 別の者は、形式論理だけが言葉の正しい意味での論理だ、論理は弁証法と矛盾はしないものだが、弁証法は科学的方法に関する別の、非形式的な規範を提供する、と考えた。
 全体としては、「形式主義」批判は、ソ連邦での論理研究の一般的水準を落とすのに役立った。それはすでに極めて低いものだったが。//
 (8)ソヴィエトの哲学は、スターリン支配の最後の数年に、どん底に落ちた。
 哲学に関する団体や定期刊行物を継続させたのは、奴隷根性、告げ口、その他類似の党に対する奉仕だけが資格であるような人々だった。
 この時期に出版された弁証法的唯物論や歴史的唯物論に関する教科書は、その知的貧困さにおいて悲惨なものだ。
 その典型的な例は、F. V. Konstantinov が編集した<歴史的唯物論>(1950年)と、M. A. Leonov の<弁証法的唯物論概要>(1948年)だった。
 Leonov の本は、別の哲学者で戦争で死んだF. I. Khaskhachikh の未出版の原稿から大部分を盗作(crib)したものだと暴露されて、流通しなくなった。
「哲学戦線」のすでに言及した以外の構成員たちは、D. Chesnokov、P. Fedoseyev、M. T. Yovchuk、M. D. Kammari、M. E. Omelyanovsky (Msakinovと同じく物理学での観念論に対する見張り役だった)、S. A. Stepanyan、P. Yudin、およびM. M. Rosental だった。
 最後の二人は、権威をもった<コンサイス哲学辞典>を編纂し、この本は数版を重ね、改訂版も出た。//
 (9)スターリン時代を通じてずっと、ソヴィエト同盟には言及すること自体に値する哲学に関する一冊の書物も出現しなかった、当時の知的文化の状態を指し示す者やその名前を記録する価値のある哲学著作者は一人も存在しなかった、と安全に言うことができる。//
 (10)つぎのことを追記しておこう。この時期には、哲学上の諸著作から独自性のある思想や個性的な様式を排除する、制度的な装置が存在した。
 ほとんどの書物は、出版の前に、一つのまたは別の哲学小集団によって討議された。そして、きわめておずおずと教理問答書(catechism)の拘束を超えようとすらして、それらの書物を責め立てて党の警戒心を示すのは、関係者の義務だった。
 このような活動はしばしば、同じ文章でもって履行された。その結果は、全ての書物が事実上は同一になる、ということだった。
 上で言及したLeonov の事例は、注目すべきだ。想像され得るかもしれないが、剽窃した叙述(plagiarism)は感知されることがなく、執筆者の書き方はお互いによく似ていたのだから。//
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 つぎの第4節の表題は「経済論議」。

1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。

 Leszek Kolakowski (1927.10-)は存命だと今年で92歳になるが、彼もヒト・人間なので永遠には生存できず、2009年の誕生月前に81歳で亡くなっている。
 以下は、L・コワコフスキの逝去を伝えるNew York Times の記事。
 とくに目新しく感じるところは多くない。私の印象に残ったのは、以下だ。
 ①sudden, short illness の後の死だったとされていること。それ以外の子細は公表されていない。
 ②訃報に接して、ポーランド国会が「黙祷」の時間をもったこと。
 ③エッセイ集にL・コワコフスキの英語訳者として名が出てくるAgnieszka Kolakowska は実の娘だと分かったこと(年齢等不詳。後で追記、1960年生まれ )。
 ④一番最後に紹介されているL・コワコフスキの文章は、彼らしく思えること。
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 レシェク・コワコフスキ、ポーランド人哲学者、81歳で逝去。
 New York Times 2009年7月20日。
 記者/Nicholas Kulish。
 ワルシャワ--レシェク・コワコフスキ、マルクス主義を拒否して国外滞在中に母国の連帯運動を活発になるのを助力したポーランド人哲学者が、金曜日に、イギリス、オクスフォードで逝去した。81歳だった。//
 彼の家族は彼の死をポーランドの新聞 Gazeta Wyborza に発表し、彼はオクスフォードの病院で「突然の、短い病気のあとで」死去したと語った。
 それ以上の詳細は、伝えられていない。//
 ワルシャワでは、国会が、彼の栄誉のために、彼のポーランドの自由に対する貢献のために、黙祷をした。//
 長いかつ広範囲の経歴のあいだに、コワコフスキ氏は冷戦というイデオロギー的および軍事的武装競争が極みにあるときに、自分が若いときに支持した共産主義体制の知的な土台を詳細に分析した。
 彼はその影響力が学問の領域をはるかに超える研究者であり、その書いたものは陽気で風刺的で、しかしほとんどは理解しやすい学者だった。//
 ポーランド反対派の指導者の一人である、1985年にGdansk 獄房から執筆したAdam Michnikは、コワコフスキ氏を「現代ポーランド文化の重要な創造者の一人」だと述べた。//
 彼の最も影響力ある著作である、1970年代に出版された三巻本の"マルクス主義の主要潮流-その発生、成長および解体"は、「我々の世紀の最大の幻想」とその哲学を称する、歴史書であり、批判書だった。
 彼は、スターリニズムはマルクス主義からの逸脱ではなく、むしろその自然の帰結だと主張した。//
 きわめて真剣な文章に加えて、彼は戯曲や寓話および魔王が多数の有名な神話上および歴史上の人物と討論する"悪魔との会話"という本も書いた。//
 コワコフスキ氏は、50年以上にわたる経歴の中で30冊以上の書物を出版した。
 彼は、ポーランドの最高の栄誉である白鷲勲位(the Order of the White Eagle)を受け、天才にその資格があると広く知られているMacArthur Foundation 助成金を受けた。//
 2003年には、ノーベル賞がない分野に与えられる、人文社会科学の生涯の偉業に対する、連邦国会図書館の100万ドルのW. Kluge 賞の初代の受賞者になった。
 図書館長のJames H. Billington はこの賞の発表に際して、コワコフスキ氏の学問のみならず、「彼自身の時代での大きな政治的事件への明白な重要性」にも注目を向け、「彼の声はポーランドの運命にとってきわめて重要であり、全体としてのヨーロッパに影響力をもった」、と付け加えた。//
 レシェク・コワコフスキは1927年10月23日にワルシャワの南方のRadom 市で生まれた。その世代のほとんどのポーランド人と同様に、コワコフスキ氏は幼少時に困難な体験をした。
 第二次大戦中のドイツ占領間、コワコフスキと彼の家族は異なる町や村へと移り住むことを強制された。//
 ドイツはポーランドの学校を閉鎖したために、若きレシェクは独学をし、設立されていた地下の学校制度の試験を受けなければならなかった。
 戦争の後、彼は哲学を最初はLodz 大学で学び、のちにWarsaw 大学で博士の学位を得た。
 彼はその大学で教職の地位を得て、哲学史部門の長へと昇った。
 人生のはじめは、彼はナツィズムによる自分の国の破壊に対する反応として共産主義を受け入れ、赤軍をドイツによる数年間の抑圧後の解放者だとして歓迎した。
 しかし、有望な青年マルクス主義知識人への報奨として意図されたモスクワ旅行は、逆に、転換点となった。「スターリン体制が引き起こした巨大な物質的および精神的な荒廃」と彼が叙述したものを、しっかりと見たのだった。//
 2004年のNYタイムズとのあるインタビューで、コワコフスキ氏は、「このイデオロギーは、人々の思考(thinking)を型に入れて作るものだと考えられていた。しかし、ある時点で、きわめて弱くて馬鹿々々しいものになり、結果として、誰も、被支配者も支配者も、信じないようになった」と語った。//
 1956年のPoznan での労働者騒擾のあとで、コワコフスキ氏の著述は検閲と激しく衝突し始めた。
 彼のスターリニズム批判 "社会主義とは何か?" はとくに、公刊禁止となった。
 コワコフスキ氏は、ポーランド統一労働者党から1966年に除名され、Warsaw 大学での地位を1968年に失った。
 彼は、その年に、外国へと移住した。//
 コワコフスキ氏はポーランドを離れたあと、Montreal のMcGill 大学、California 大学Berkley校、Yale およびChicago 大学の社会思想委員会を含む、最高級の研究施設で教育した。しかし、彼の本拠となったのは、Oxford だった。//
 コワコフスキ氏は、妻のTamara と一人娘のAgnieszka を残して先立った。//
 1982年の著名な講義でコワコフスキ氏は、哲学の文化的役割について、こう語った。
 「精神のもつ知的欲求のエネルギーを決して眠らせないこと、明白で決定的だと見えるものを疑問視するのを決してやめないこと、常識がもつもっともらしい純粋な根拠につねに反抗してみること」、そして「科学の正統とされる範囲を超えて存在してはいるが、それでもなお他にも、我々が知るように、人間の生存にとっては致命的に重要な諸問題がある、ということを決して忘れないこと」。
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 以上。
 下は全てRadom 市に存在するのものだと思われる。ネット上から。
 
 Leszek_Kolakowski_grave_2 (2) Leszek_Kołakowski_ssj_20110627 (2)

 Leszek_Kolakowski_Monument_in_Radom,_Poland1 (3) Leszek_Kolakowski_Monument_in_Radom,_Poland2 (2)
 

1874/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第3節④。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 1978年英語版 p.74-p.76、2004年合冊版p.847-p.848。
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 第3節・哲学上の論争-デボリン対機械主義④完。
 (24)1931年以降、スターリンのもとでのソヴィエト哲学の歴史は大部分が、党の布令の歴史だ。
 つぎの20年間、出世主義者、情報提供者および無学者から成る若い世代が国家の哲学生活を独占した。あるいはむしろ、哲学研究の廃絶を完成させた。
 この分野で経歴を積んだ者は、一般的に、同僚を裏切るかまたはときどきの党のスローガンを鸚鵡返しに繰り返すことで、そうした。
 彼らは通常は外国語の一つも知らず、西側の哲学に関するいかなる知識もなかった。しかし彼らは、多少ともレーニンやスターリンの著作を暗記しており、彼らの外部世界に関する知識は、主としてはそれらに由来した。//
 (25)「メンシェヴィキ化する」観念論や機械主義に対する非難は、洪水のごとき論考と博士号論文を発生させた。それらの執筆者たちは、党の布令を反復し、哲学の怠業者たちの狡猾な道筋について、憤慨を表現するのをお互いに競い合った。
 (26)議論全体で、いったい何が本当の論争点だったのか?(それがあれば適切な名前は?)
 明らかに、議論は特定の哲学上の考え方とは何ら関係がなく、むろん政治的考え方とも関係がなかった。
 「機械主義」のブハーリンの政策との連関づけあるいは「メンシェヴィキ化する」観念論のトロツキーの政策との連関づけは、最も恣意的な種類の捏造だった。すなわち、非難された哲学者たちはいかなる政治的反対派にも帰属しておらず、彼らの考え方と政治的反対派のそれとの間には論理的関係が存在しなかった。
 (追及者の論拠は、機械主義者は「質的な跳躍」を否定することで「発展の継続性を絶対化し」た、というものだ。それゆえに、ブハーリンの側ではDeborin主義者は「跳躍」を強調しすぎ、そうしてトロツキー主義者の革命的冒険主義を代表する。しかし、これは議論するに値しない薄弱な類似性を根拠にしている。)
 機械主義者はたしかに科学の哲学に<向かい合った>自立性を強調することで非難を受けたが、それは実際には、無謬の党が科学理論の正確さについて発表し、科学者に対して何が探求すべき課題であるかを指示し、その結果はいかなるものであるべきかを語る、そういう権利をもつのを拒否することを意味した。
 しかしながら、このような責任追及をDeborin主義者に向けることはできなかった。彼らは、最も純粋なタイプのレーニン主義者だったように見える。すなわち、初期のDeborinは、「象形文字」に関する自分のプレハノフ的誤りを認めて撤回しており、反射の理論と矛盾するこの教理を支持しているという理由で、機械主義者たちを攻撃していた。
 Deborin主義者たちは、正当な敬意をレーニンに払っていた。したがって、党の報道官たちは、彼らを攻撃するのに役立つ引用文を発見するのに大いに困惑した。ゆえに、攻撃はほとんど全体的に曖昧で、支離滅裂の一般論から成っていた。すなわち、Deborin主義者はレーニンを「低く評価しすぎた」、プレハノフを「過大に評価しすぎた」、弁証法を「理解していない」、「カウツキー主義」、「メンシェヴィズム」へと転落している、等。
 論争点は単純に、この段階での党があれこれの哲学上の考え方か正当だ(right)とか、Deborin主義者はその考え方とは異なる見解を表明した、ということではなかった。
 係争点は、何らかの教理の実体ではなかった。すなわち、後年に採用された弁証法的唯物論の公式で経典的な範型は、事実上はDeborin のそれと区別することのできないものだった。
 責任追及が分かり易くしているように、重要なのは、「党志向性」(party-mindedness)の原理、またはむしろその適用だった。-むろん、Deborinもそれ自体は受容していたのだから。
 知的な観点からはDeborin 主義者たちの書いたものは内容の乏しいものだったが、彼らは純粋に哲学に関心があり、マルクス主義とレーニン主義の特有の原理の有効性を証明しようと最大限の努力をした。
 彼らは、哲学は社会主義建設を助けるだろう、と信じた。そしてその理由で、彼らは哲学者としての能力のかぎりで哲学を発展させた。
 しかし、スターリンのもとでの「党志向性」は、全く異なるものを意味していた。
 継続的な保障にもかかわらず、哲学にそれ自体の原理を作動させたり、政治に用いられるか適用されるかすることのできる真実を発見させたりするという思考は、まったく存在しなかった。
 党に対する哲学の奉仕は、純粋にかつ単純に、次から次に出てくる諸決定を賞賛することにあった。
 哲学は知的な過程ではなく、考えられ得るどのような形態をとっていても、国家イデオロギーを正当化し、宣伝する手段だった。
 じつにこのことは、全ての人文科学について本当のことだったが、哲学の崩落が最も悲惨だった。
 全ての哲学文化が依って立つ柱-論理と哲学の歴史-は、一掃された。すなわち、哲学は微少な技術的支援ですら得られなかった。それは、歴史科学の頽廃の程度は激しかったにもかかわらず、歴史科学にまったく適用されないやり方だった。
 哲学にとってのスターリニズムの意味は、哲学に強いられた何らかの特定の結論にあったのではなく、奴隷状態(servility)が実際にはその存在理由の全体になった、ということにある。
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 ④終わり。第3節、そして第二章が終わり。

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