Leszek Kolakowski, Modernity on Endless Trial(Chicago Uni. Press,1990)。
 試訳のつづき。邦訳書はないと見られる。
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 第一部/Modernity、野蛮さと知識人について。
 第一章・際限なく審判されるModernity ⑥。
 (22)文学的にせよ哲学的にせよ、Modernityに対する批判は、我々の文明の自己防衛機構としてますます多様に、看取され得るかもしれない。しかし、これまでのところ、Modernity が予測できない速さで進展していくのを阻止することができなかった。
 我々のどんな生活領域を思い浮かべようと、悲嘆は全てに横溢し、我々の自然の本能は問いかけざるを得ない。何がおかしいのか? 
 そして、問いつづける。神に間違いがあったのか? 民主主義に間違いがあったのか? 社会主義にか? 芸術? 性? 家族? 経済成長にか?
 我々はまるで全てを覆う危機の感情をもって生きているように見える。それにもかかわらず、安易な言葉一つによる見せかけの解決(「資本主義」、「神は忘れ去られた」等々)に逃げ込まなければ、危機の原因を明確に特定することができないままで。
 楽観論はしばしば大きな人気を博し、熱狂的に傾聴される。しかしそれは、知識人界による嘲笑を受ける。我々は、陰鬱であるのが好きなのだ。//
 (23)変化の中身よりも、我々を恐れさせ、終わることなき不安状態に我々を置く目が眩むほどの速さの方が印象的だとときには思える。その不安とは、もはや確実なものや確立されたものは何もなく、新しいものはそのうちに全てが廃れてしまう、という感情だ。   
 我々の中には、自動車もラジオもなく、電灯が驚くべき斬新なものである地球の場所で生まれて今なお生活している数少ない人々もいる。
 彼らの生涯の間に、どれほど多数の文学、芸術の派が生まれて消滅したか、どれほど多数の哲学的またはイデオロギー的な流行が生起しては去って行ったか、どれほど多数の国家が建設され、消失したか!
 我々はみんな、そのような変化に関与し、にもかかわらず、そうした変化を嘆き悲しんでいる。我々が安全に依拠することのできる何らかの実体を、その変化は奪い取っているように思えるからだ。//
 (24)犠牲者たちの無数の焼却された遺体の灰できわめて肥沃となったので、そのような土壌があるナツィの絶滅収容所の近くでは、キャベツが早く成育しすぎるので玉となる時間がなく、葉が離れた幹が出来た、と聞いたことがある。
 明らかに、そのようなキャベツは食用にならない。
 この話は、病的な速さの進歩に関する思考に役立つ寓話であるかもしれない。//
 (25)文明の多様な分野での最近の成長曲線—ある程度は潜在的なものだが—でもって推論してはならないし、その曲線は何かの理由で下降するか、またはおそらくSカーブに変わる違いないと、そして変化は相当に遅れてやって来るか、文明を破壊する大厄災が原因となって初めて生じるだろう、と我々はもちろん知っている。//
 (26)Modernity に対して<だけ>(tout court)「賛成」すると「反対」するのいずれかであるのは、むろん愚かなことだろう。技術、科学、経済的合理性の発展を止めようとするのは無意味であるだけが理由ではなく、Modernityも反modernity も野蛮かつ反人間的な形態で表現されるかもしれない、というのが理由だ。
 イランの宗教革命は、明らかに反modern だ。そしてアフガニスタンでは、ナショナリストと貧しい種族の宗教的抵抗を攻撃して多様な形態でModernityの精神を持ち込んでいるのは侵略者だ。
 伝統主義の愉楽と悲惨がそうであるように、進歩の恩恵と恐怖がしばしば分ち難く結びついていているのは、明らかに本当だ。//
 (27)しかしながら、Modernityの最も危険な特徴を指摘しようとするとき、私は一つの決まり文句で自分の恐怖をまとめてしまいがちだ。すなわち、禁忌(taboos)の消滅。
 「良い」禁忌と「悪い」禁忌を区別すること、わざとらしく前者を支持して後者を排除すること、はできない。
 非合理的だと偽って一方を排除すれば、将棋倒し的に他方を排除してしまう結果になるだろう。
 性的禁忌のほとんどは廃棄され、数少ない遺物は—近親相姦や小児性愛のように—攻撃されている。
 多様な国々の諸グループは公然と子どもたちとの間に性的関係を結ぶ権利を主張する。彼らをレイプする権利をだ。そして、—首尾が良くなければ—該当する法的制裁の廃止を主張する。
 死者の遺体への敬意に関する禁忌は、消滅する候補の一つであるように見える。そして、有機体を移植する技術は多数の生命を救い、疑いなくもっと多くの生命を救うだろうが、死者の遺体が多様な産業目的のための生きている又は原料たる素材の補用部品を貯蔵したものにすぎなくなる世界を、恐怖でもって予期する人々に共感を覚えないことは、私にはむつかしい。
 死者と生者への—そして生命自体への—敬意はおそらく、分けることができない。
 共同で生活するのを可能にした多様で伝統的な人間的絆は、それがなければ我々の存在は欲望と恐怖にのみ支配されていただろう人間的絆は、禁忌のシステムがなければ存続することができそうにない。
 一見は愚かな禁忌ですらもつ有効性を信じることの方が、それらを消滅させてしまうよりも、おそらく良いことだ。
 合理性と合理化が我々の文明にある禁忌の存在自体の脅威となる程度にまて、それらは残存しようとする禁忌の力を侵蝕している。
 しかし、意識的な計画によってではなく本能によって作られた障壁である禁忌は、理性的技術によって救われ得るし、または選択的に救われるだろう。
 この領域では、我々はつぎのような不確実な希望にのみ依拠することができる。すなわち、社会的な自己保持衝動は十分に強くてその消散に反応することができるだろう、そして、この反応は野蛮な形態で発生することはないだろう、という望み。//
 (28)要点は、つぎのことだ。すなわち、「合理性」の通常の意味では、人間の生命や人間の個人的権利を尊重する合理的根拠は、ユダヤ人の小エビの消費、キリスト教徒の金曜日の肉食、イスラム教徒の飲酒、これらを禁止することの合理的根拠以上には存在しない。
 これらは全て、「非合理的」禁忌だ。
 そして、国家の必要に応じて利用し、廃棄し、破壊することのできる国家装置の中の交換可能な部品として人々を扱う全体主義システムでは、ある意味では、合理性が勝利している。
 今でもなお、生き残るためには、嫌でも非合理的な価値のいくつかを復活させて、その合理性を否定せざるをえない。それによって、完璧な合理性は自己を破壊する到達点であることが判明するのだ。//
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 第1章、終わり。第2章の表題は、「野蛮人を求めて—文化的普遍性という幻想」。