Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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 第四節/チェカと司法人民委員部の対立②。
 (07) モスクワとペテログラードでは、左翼エスエルとの取決めにより、チェカは政治的犯罪者の処刑を行なうことができなかった。
 左翼エスエルがチェカの中で活動しているあいだは—つまり1918年7月6日までは—、上の両都市のいずれでも、正規の政治的処刑は起こらなかった。
 2月22日布令の最初の犠牲者は、「Eboli 皇子」という偽名でチェキストを装った通常の犯罪者だった(注54)。
 しかしながら、諸州では、チェカ機関はこのような制約に拘束されず、政治的犯罪を理由として市民を決まり事のように(routinely)処刑した。
 例えば、メンシェヴィキのGrig orii Aronson は、つぎのことを思い出す。1918年の春に、Vitebsk のチェカは、労働者全権代表者会議のポスターを配布した責任を追及して、2人の労働者を逮捕し、処刑した(脚注)
 どれだけ多くの者たちがこのような恣意的な処刑の犠牲になったかは、おそらく明らかにならないだろう。
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 (脚注) Grig orii Aronson, Na zare krasnogo terrora(Berlin, 1929), p.32. ゆえに、G. Leggett がLatis に従って、1918年7月6日まではチェカは犯罪者だけを処刑し、政治的反対者を免じていた、と語るのは、正しくない。Leggett, The Cheka: Lenin’s Political Police(Oxford, 1986), p.58.
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 (08) 帝制期の保安制度の憲兵隊を見習って、チェカは武装部隊を設置した。
 その統制下にある最初の軍事部隊は、小さなフィンランド人派遣団だった。
 他の部隊が追加されて、1918年4月に、チェカには6つの歩兵団、50の騎兵団、80の自転車団、60の機銃砲団、40の砲兵団、および3台の武装車があった(注55)。
 チェカが行なったおそらく唯一の民衆のための行動を1918年4月に実行したのは、これらの分隊だった。その行動とは、住居用の建物を占拠し、民間人にテロルを加えていたアナキストの蛮族である「黒衛団」(Black Guards)をモスクワで武装解除した、というものだった。
 基礎的なな軍事力の獲得は、政治警察が国家の内部の事実上の国家に膨張していく第一歩にすぎなかった。
 1918年6月のチェキストのある会合では、正規のチェカ軍団を設置する、あるいはチェカに鉄道および国境の安全を確保する権限を付与する、といったことが語られた(注56)。
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 (09) 設立後の最初の数ヶ月にチェカは種々の努力を行なったが、大きな部分は通常の商業活動と闘うことにまで及んだ。
 小麦粉袋の販売のような、最も日常的な小売取引業務が今や「投機」の中に分類され、チェカの任務には投機に対する闘いが含まれた。そのために、チェカの組織員は多くの時間を農民の「運び屋」を追跡することに費やした。鉄道の乗客の荷物を検査したり、闇市場を手入れしたりした。
 「経済犯罪」にかなり没頭したことで、1918年春には出現し始めていた、より危険な反政府陰謀に目を光らし続けることが妨げられた。
 この分野での1918年前半の唯一の成果は、Savinkov の組織のモスクワ本部を暴いたことだった。
 しかし、これは偶発的な出来事だった。そして、いずれにせよ、チェカは、Savinkov の祖国と自由を防衛する同盟に浸透することができなかった。これは結果として、7月にIarosravl 蜂起が起きてチェカを突然に驚かせることにつながった。
 さらに驚愕だったのは、左翼エスエルの反乱計画を知らなかったことだった。左翼エスエルの指導者たちがその意図をほとんど漏らさなかったのだとしても。
 事態をさらに悪くしたことに、左翼エスエルの陰謀はチェカ本部の内部で密かに企てられ、チェカの武装部隊に支持されていた。
 この大失態によって、Dzerzhinskii は7月8日に、その職を辞することを強いられた。Peters が暫定的に引き継いだ。
 8月22日、Dzerzhinskii は復職した。その日はまさに、もう一度屈辱的な苦難を味わう日だった。すなわち、レーニンの生命を狙うテロリストの企てがほとんど成功するのを阻止できなかったこと。
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 第四節、終わり。