秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

古川薫

1664/明治維新⑤-吉田松陰と木戸孝允。

 一部の「保守」派あるいはかなり多くの国民にとって、吉田松陰は<偉人>なのだろう。
 そのことを全否定するつもりもないが、全肯定するつもりもない。<偉人>か否かは、どうやって決めるのか。
 水戸学-藤田東湖-吉田松陰(-一定の長州藩士)。とりあえず素人の頭の中に浮かんだラインを書いた。
 吉田松陰/留魂録-古川薫・全訳注(講談社学術文庫、2002/原著1990)。
 これに、松陰が「死罪」となった経緯を示す、松陰自身の文章が載っている。
 1859年。その後、10年も経つと、明治新政府ができて、「内戦」も終わっている(西南戦争等は別論)。
 以下は原文でも現代語訳でもない、読み下し文。最初と最後の1/3ほどだけ。
 「7月9日、初めて評定所呼び出しあり、三奉行出座…/
 …何の密議をなさんや。吾が性公明正大たることを好む。余、是に於て六年間幽閉中の苦心たる所を陳じ、終に大原公の西下を請ひ、鯖江侯を要する等の事を自首す。鯖江侯の事に因りて終に下獄とはなれり。」(p.82、第二章)
 古川の「解題」によると(おそらく基本的には諸研究者の一致はあると見られる)、「下獄」=死罪(斬首)の基礎は「自首」で、その内容は、①勤王派公卿・大原重徳を長州に招いて「反幕」の旗揚げを図ったこと、②老中・間部詮勝(鯖江侯)の「暗殺」を企てたこと。
 吉田松陰の死は安政の大獄による不当なもの(逆殺)という見方もあり、そういう印象もあるのかもしれない。
 だが、これを読むと、まず少なくとも、当時の政府側(江戸幕府)による<暗殺>ではないし、(上では分からないが)当時としてはとくに残虐な処刑方法だったのではなさそうだ。 
 逮捕-取調べ、という<手続>は履んでいる。そして「自白」を基礎にしている。
 「自白(自首)」内容が事実そのままだったかどうかは、判断し難い。
 だが、明治憲法・刑事法制下での「犯罪」に関する取り扱いを想定して比べてみても、政府要人の「暗殺」企図に対する処断としては、当時としてはありうるだろう、という感想は抱く。
 吉田松陰はすでに幕府(当時の国の政府)に知られていると勘違いしていたという話もあるし、<誠を尽くして説明すれば政府・公務員も理解してくれる>と考えた「甘さ」・「若さ」があった、ともされる(古川、p.43)。 
 おそらくは、吉田松陰の上の文章部分を基礎にして、長州藩士側の文献史料も含めて、吉田松陰の死と「その遺体の埋葬」に関する小説類は書かれている。
 当時としてはさほど無茶苦茶な処刑ではなかったとしても、<首と胴体の離れた>、髪が乱れて(出血があるから当然の推測だが)「軽く」なった松陰の遺体を抱えて、埋めた長州藩士たちが、井伊直弼や幕府に対して、<こいつらは絶対に許せない>と憤懣するところがあっても、これまた、自然なことかもしれない。
 引用は省くが、つぎの著(小説)は、松陰「殺害」=処刑によって<幕府は長州を敵に回してしまった>と、重要な画期だったとしている。
 村松剛・醒めた炎-木戸孝允(1987)。
 既にこの欄に書いたが、松陰の「死体」を見て、処理をした者数名の中に、木戸孝允(桂小五郎)と伊藤俊輔(・博文)がいた。
 吉田松陰の死の影響力の大きさは、この「留魂録」そのものにもあっただろう。
 これは、死の直前の遺書であり、かつ若き長州藩士たちへの「遺言」でもある。
 一番最後に記された個人名は、「利輔」、すなわちのちの伊藤博文だ。p.116。
 この書を、ある程度の範囲の者たちは<回し読み>をして、胸に刻んだ、という。
 松陰が彼らに教えたこと、「遺言」にも記したことが、一定の人々に<精神的>影響を与えなかったはずはない、と思われる。人によるし、程度の差はあるだろうが。
 木戸孝允(桂小五郎)は、五箇条誓文の文章を最終的に決定し、それの奏上の形式も最終的に決した、とされる(むろん当時の政権中枢の支持・決裁を受けたが)。
 よくも悪くも(?)、明治期初年までの木戸孝允は、重要な人物だ。
 何が、いかなる情念、怨念、あるいは人間関係、あるいは出身地(出身藩)が、木戸孝允等々を動かしたのか。
 誰についても言えるだろう。西郷隆盛についても。あるいは動く現在の<歴史>についても。
 <歴史を動かす・変える(現実化する)>のは、理念・建前論・知識等々の<綺麗ごと>だけではないのだ、後者もまた無視してはいけないが、という関心からも明治維新を考える。

1613/理性・理念・理論と感性・情念・怨念-現実の歴史。

 人が何か行動するときの<衝動>・<駆動力>といったものについて考えている。
 例えば、本郷和人が、つぎの本を書いて刊行したのは、たんなる学究意欲ではないだろう。
 本郷和人・天皇にとって退位とは何か(イースト・プレス、1917年01月)。
 執筆依頼があったのかもしれないが、「いわゆる右といわれている思想家や研究者のなかには平気でウソをついている人がたくさん」いて、中には「知っていてわざとウソをついているのでは」という人もいる、という現状に抗議したい気持ちが強かったのが一つの動機だったのではないだろうか。
 文章や原稿の執筆、書物の刊行、人はなぜこんなことをするのか。
 「食べて生きていく」本能がそうさせている場合もありうる。当然ながら、原稿料・印税等に魅力がある(こんなものは、この欄の秋月瑛二には全くない)。
 自分の<思想>・<考え方>を広く知ってもらいたいとの動機の場合もありうる(大洋の海底に生息する秋月瑛二にもほんの少しだけある)。
 いろいろな衝動・駆動力が混じっているように思われる。
 青少年期に、親その他の肉親・親族、あるいは親しいまたは敬愛する人の死を体験し、かつその死後の遺体を見てしまった若者たちは、その後の人生への影響を何ら受けないだろうか。
 もちろん、人間関係の近さにもよるし、死の原因にもよるし、遺体の処理は時代によって異なるので、時代にもよる。
 いま関心を持っているのは、レーニンの人生とその若年期における実兄の帝制下での刑死との関係だ。
 知りうる情報を増やして、また触れる機会があるかもしれない。
 吉田松陰(1830~1859)。
 子細に立ち入らない。テロルではなく、少なくとも当時においては、「合法的に」処刑された。死罪。井伊直弼、坂本龍馬、大久保利通らがのちに<テロル>に遭って殺されたのとは異なる。しかし、<殺された>ことに変わりはないとも言える。
 この松陰の遺体・死体を現に見て、埋葬した者も当然にいた。
 秋月瑛二でも知っている、のちの著名人、明治維新の功労者とされる者が二人いた。
 おそらくは当然に、松陰と同じ長州藩の者になる。
 桂小五郎(木戸孝允)と伊藤博文(-俊輔)。
 瀧井一博・伊藤博文-知の政治家(中公新書、2012)は、松陰の処刑後について、伊藤を中心において、こう書いている。
 「たまたま木戸孝允の手附として江戸に在勤」していて、「木戸とともに遺骸を引き取る」ことになった。/「変わり果てた師の姿が多感な青年の心に大きな衝撃を与えたことは想像に難くない」。
 伊藤博文、1841~1909年。この年に、満18歳になる。
 但し、瀧井によると、松陰と伊藤はタイプが違い、「松陰の影響から脱した時点」から伊藤の伊藤たる所以が始まるともいえる、とする。
 泉三郎・伊藤博文の青年時代(祥伝社新書、2011)は、根拠史料は分からないが、虚構ではなくして、つぎのように書く。
 伊藤は木戸らとともに、松陰の「遺体の受取」に行く。
 「桶に入れられた遺体は丸裸で、首は胴から離れ髪は乱れて顔には血がついており、見るも無惨な姿だった」。二人らは、「憤慨し、涕泣した」。
 そして、「顔を洗い、髪を整え、桂〔木戸〕の着ていた襦袢で遺体をくるみ、伊藤の帯を使って結び、首を胴体にのせて棺に収めた」。同じく処刑された橋本左内の墓の傍らに「埋葬」した。
 「幕府への憤り、その理不尽な酷刑への憤慨は、十九歳の伊藤に強烈なインパクトを与えた」。
 古川薫・桂小五郎(上下/文春文庫、1984/原書1977)は、小説だ。上の場面をつぎのように描写している。
 「粗末な棺桶」に役人が案内して、「吉田氏の死体です」と言った。一人(尾寺新之丞)が「走り寄ってその蓋をとった」。
 「首と胴の離れた人間の遺体が、無造作に投げこまれている。全裸にされていた」。
 「先生!」。尾寺が「泣き声で首を取り出し、乱れた髪を束ねた」。
 桂が「松陰の顔や身体を丁重にぬぐい清め」、伊藤が「首と胴をつなごうとすると」、役人に制止された(後日の検視の際に叱られると)。
 「小五郎は襦袢を」脱ぎ、遺体に着せて「伊藤は帯を解いてそれを結んだ」。
 「ようやく衣類にくるまれた松陰の胴体を、小五郎がかかえあげ、甕の中におさめた」。
 「まるで子供のような松陰の軽い体重に、強い衝撃を覚えて」、桂は思わず「ああ」と声を洩らす。<中略>
  「松陰の体重の、あまりにも軽すぎる感触が、いつまでも小五郎の手にのこった」。それは「人の命のはかなさ」に驚いたというよりも、そんな「矮小な肉体しか持ち得ない人間が抱く巨大な思想のふしぎさ」に心打たれたのだろう。上巻p.175-177。
 木戸孝允=桂小五郎、1833~1877年。この年に、満26歳だった。
 とくに結論を導こうとしているのではない。
 ただ、人は理念・理屈・理想だけでは動かないだろう。木戸孝允(桂小五郎)や伊藤博文にとって、一時期であれ「師」だった吉田松陰の<死に様>を見たことは、その後の彼らの人生に何らかの影響を与えたに違いないだろう、と推測できる、またはそう推測できるのではないか、というだけのことだ。
 吉田松陰に限らず、他のとりわけ長州藩の仲間たちの「死」を体験してきたに違いない。そのような桂や伊藤たちは、いったいどのような<情念>らしきものを抱くいたのだろうと、想像してみる。
 別に彼らに限らない。幕末・維新時の記録に残る全ての者たちが、理想・理念で全て動いていたわけではなくて、何らかの感情・執念・情念・怨念で行動していたに違いない、と思っている。
 西郷隆盛も、徳川(一橋)慶喜も、等々々、みんなが。
 表向きの、<声明文>とかの公式文書類だけに頼って、歴史が叙述できるはずはない。
 もっとも、例えば、日本共産党・不破哲三のように、もっぱらレーニンの文献だけ(たぶん全集だけ)を読んで、<レーニンの時代>を理解しようとしている者もいる。
 あるいはまた例えば、<五箇条の御誓文>のような(権力所在未確定の時期も含めて)薩長・新政府の公式発表文を読むだけで、<明治維新>の意味が分かるはずがないだろう。伊藤哲夫や櫻井よしこらの明治維新理解に、その弊はないか。

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