レフとスヴェトラーナ、No.20。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。p.105-p.110。
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 第5章③。
 (23) 密送の仕組みが発展するにつれて、スヴェータはレフと同様に多くの報せを得られるようになった。
 1月20日、彼女は家族や友人たちと乾杯して、レフの30歳の誕生日を祝った。
 そしてOlga 叔母に会いに行った。叔母はスヴェータがレフに送るための小荷物を持っていた。
 スヴェータは、レフのために何かと労力を使おうとする人々を嫌がっていることを知って、「あなたの考えを伝えたけれど、枕と夏服を受け取るのを拒みました」と説明した。
 オルガは、急いで地方ソヴェトに行ったのだった。ソヴェトはレニングラード・プロスペクトにある共同住宅のレフの古い部屋に、「ジブシー」を移していたからだ。
 彼女はそれを「ジプシー」から返してもらうよう当局に掛け合っていた。彼らは、レフの持ち物を全て自分のトランクに詰めて放り出していた。
 オルガは、レフは自分の所有物を失えば気を動転させるだろうと気遣った。しかし、レフが本当に心配したのは、両親が持っていた写真だけだった。
 彼は叔母にこう書き送った。
 「あの部屋はもう僕のものではありません。僕の持ち物について気にかける必要はありません。
 判決で僕の物が全くなくなったのは確かで、それらは形式的にはあなたと僕の所有物のはずでしょう。でも、今では取り戻すのは遅すぎます。
 かつまた、それを必要ともしていません。
 何かがもし残っていたら、僕のために保存しないで、売って下さい。あなたには金がもっと必要です。
 それらは、人間の生活には重要ではありません。騒いだり神経をすり減らす価値のないものです。」
 (24) 物質的条件は、モスクワの誰にとっても厳しかった。
 店舗は空で、食料の供給は不足し、基礎的な物品ですら配給された。
 スヴェータの家族は、多くのモスクワ市民と同様に、ジャガイモや他の野菜を食べて生き延びていた。それらは、日曜日に地下鉄と列車で旅をする郊外の割当区画で栽培していた。
 1947年の春までに、モスクワの生活条件は飢餓を人々が不安になり始めるまでに悪化した。不安は、ウクライナの飢饉の噂で大きくなった。ウクライナでは1946-47年に、数十万の人々が飢餓で死んだ。
 スヴェータはレフへの手紙で「ウクライナで起きていることについては、考えるだけで耐えられません」と明確に書いた。検閲があれば、受け付けられなかっただろう。
 「人々はシベリアかベラルーシ行きの列車に、群がって詰めかけています。でも、そこに行っても、ジャガイモしかありません。
 列車は、モスクワに入って来るのを止められています。にもかかわらず、市内には大群の物乞いたちがいます。
 モスクワの住民の少なくとも半分は、戦争中よりも悪い生活をしています。
 レヴィ、これを見るのは痛ましい。
 みんな、秋までの日数を計算し、収穫量はどうなるだろうと自問しています。
 当分は、家では全て十分です。…
 肉を少しも見ないのは本当ですが、菜食主義のような人々がいて、彼らはしばしば100歳になるまで生きると言われています。
 収入に関するかぎり、事態は悪くなりました。パパは1300ルーブルを貰っており、私の月給は930ルーブルです〔注〕。でもこのお金はすぐになくなってしまいます。」
 (原書注記—モスクワの工場労働者の平均月額賃金は、約750ルーブルだった。)
 (25) 手紙を交換し始めた最初から、二人は、「Minimum(最小限)」「Maximum(最大限)」という暗号符で呼んだものについて議論してきた。二つを合わせると短く「minimaxes」だった。
 前者は、レフが科学的仕事のできる収容所の別の部署への移動を願い出ることを指した。後者はもっと野心的に、レフの判決の短縮を、あるいは釈放をすら、獲得するよう訴えることを指した。
 スヴェータは最初から楽観的だった。
 彼女は、1946年8月28日にこう書き送った。
 「二つともに完全に可能です。
 スターリン賞を貰ったTupolev やRamzin 〔注ー下記〕のことを知っているでしょう。十分には知られていない、他の例も多数あります。」
 (原書注記ーAndrey Tupolev(1888〜1972)、ソ連の航空機設計家。1937年に逮捕され、受刑者としてNKVDの秘密の調査発展研究所で働いた。1943年にスターリン賞を授与された。Leonid Ramzin(1887〜1948)、ソ連の暖房技師。1930年~1936年は収容所の受刑者で、やはり1943年にスターリン賞を得た。)
 MDV が労働収容所にいる科学者を見つけ、ソヴィエト経済の専門家部門へと、とくに収容所の統制下にある軍事研究施設へと再任用する政策を採用していたのは、本当だった。
 問題は、収容所の幹部たちが通常は輩下の科学者を釈放する気がないことだった。発電所、生産実験所、照明の仕組み等々を彼らに依存していたからだ。
 レフは、すでに電気グループへの配転によって得た以上のものを達成できる希望がある、とは考えていなかった。
 「最大限」については、全く望みをもたなかった。
 スヴェータにこう書いた。「最大限を願い出することで、きみの活動力を無駄に費やさないで欲しい」。
 しかし、彼女は二つともに追求し続けた。
 12月にこう書き送った。
 「あなたには自信がない。私にも大した自信はない。たぶん、あなたと変わりはない。
 でもレフ、少しでも可能性があるなら、試してみる価値があるのではない?
 何も得られなくとも、不必要な苦しみが今以上に増えるのではないと思う。
 だから、我々は冷静で、希望に惑わされないでいる必要がある。—でも、行動です。
 何もしないで自然に生まれるものは、何一つありません。」
 (26) レフは1947年2月頃には、どんな訴えを考えても遅すぎる、と結論づけていた。
 物理研究所での科学研究は「学生の作業」のようなもので、移転を何ら保証するものではない、と思った。Strelkovを通じて誰かが収容所の科学行事でペチョラを訪れる予定があることを知れば、その人に頼んでみる、とスヴェータに約束したけれども。
 判決に対する異議は、フランクフルト〔an der Oder〕の軍事法廷によるレフの調査を再検討することを意味するだろう。
 全てはもう確定してしまっていると思っていたので、自分の経験を繰り返す意味を認めなかった。また、自分の状況をいっそう悪くさせる必要もなかった。
 レフは、5月1日の長い率直な手紙で、「最小限」や「最大限」について語り合うのはもうやめようとした。
 「異議が成功する可能性が少しでもあるためには目撃証人が必要で、そんな証人は決して召喚されないだろうから、最大限については考えていません。証人を何とかして発見するのも困難でしょう。
 証言の時間と…評決の発表の間に、新しいウソが突如として作られないだろうとは、確信を持っては言えません。
 人は二度目には経験を積んでいる、というのは本当です。…でも、成功の可能性はなおも微々たるものです。
 全ての行為は、少なくとも二つの異なる動機にもとづきます。—「善意」、これは自然な説明です。「悪意」、これは共謀的な考え方をして「汚いこと」を隠蔽します。
 最大の問題は、僕に有利な事実の多くに目撃証言者がいない、ということです。そして、誰も僕を信じようとしません。
 紳士的な教授(訴追官)は、自分たちの前に来る者が、愛国心や普遍的良識への忠誠心のような真摯な動機をもつことはあり得ない、と確信しています。…
 「最小限」については、核と宇宙の研究の軍事上の秘密の重要性によって、58条1bによって有罪とされてこの地域で労働している者には、とくに特別に殊れた者以外の者には、いかなる可能性も排除されています。
 労働収容所で過ごした者は、Yakutia、Komi、Kolyma や若干のその他を例外として、遠く離れた地方の町ですら大きな経済・産業の中心で働くことは許されていません。この事実は、当局がこの政治的条項を、まだ緩やかな条項であっても、どのように見なしているかを、十分に示すものです。
 どの宣誓証言者も、受刑者のための人物であっても、こうした条項を無視することはできません。
 この二ヶ月以内に、『Tukhachevsky 時代』(1937年)に有罪とされた、ここの誰かが釈放されるでしょう。
 その人物は共産主義青年同盟中央委員会の元委員で、軍用機操縦者、純粋な狂熱者です。そして彼は、ここに残っています。
 彼はここで馬具製作者として働き、この木材工場はまるで自分のものであるかのごとく、収容所の全ての問題に関係していました。…
 彼は一度ならず、我々が作業場で必要とする革のひもを購入するために、自分のパンを売り、タバコを拒否しました。
 そして、彼が行なったことに誰も感謝しておらず、あるいは、彼が釈放されて生活するのが許される場所が決定されたときに、それを思い出しました。
 きみは、きみの判決の刑期を変えることができない。」
 (27) スヴェータはレフの論理を受容する気がなかった。
 6月8日に、こう書き送った。
 「どう言えばよいか、分からない。
 あなたと議論することはできない。なぜなら、あなたがが書いていることは全て本当であること、この不快な真実があなたの状況の99.99パーセントを占めていること、残っているのはほんの僅かの偶然にすぎないだろうこと、を知っているから。
 でも、可能性は存在している。このこともまた、事実です。
 あなたは、心を失望でいっぱいにしないで、やはり努力し続ける方へと向かって欲しい。
 言うのは行うよりも簡単だ、と分かっている。
 あなたの立場に私がいたら、耐えられないでしょう。だから、迫ったり、強く主張したりはしません。ただあなたを、優しく説得しようとしているのです。
 試しつづけることで、事態がもっと悪くなることはあり得ますか?
 そうでないなら、リョーヴァ(Lyova)、たぶんだけど、これまでやって来たことに、あなたはもう一度耐える気持ちになりはしない?」
 スヴェータが選んだのは「最大限」への望みを持ち続けることであり、「最小限」のために積極的に請願することだった。—この方針は、FIANの理事長の支持も得た。この人物は、レフのために文書を書くと約束した。
 彼女はレフに、こうも書いた。
 「私はたぶん間違っている。
 でも、希望や夢なしで生きるよりもこれらを持って生きることの方が易しいというのが、この5年間にあったことではなかったの?」
 (28) しかし、レフには最終的な言葉があった。6月28日に、こう書き送った。
 「ちなみにかつて、Kharakov 研究所出身の化学者で、直流電気技師が職業だったBoris German について書きました。
 この人は、その専門能力で雇用して欲しいと頼んだ。
 ほどなく収容所側は彼を、一時(transit)収容所へと呼んだ(我々と遠くなく、ペチョラ駅に近い)。
 彼はそこで数週間を座ったままで塩漬けにされたあと、「間違って」Vorkuta へと移送された。
 ふつうの仕事(北極圏の炭鉱)の数週間後に、彼は一時収容所に戻った。そこからもう一度「間違って」Khalmer-Yu(北極洋岸の鉄道建設収容所)へと移送された。そこは、電気技師の気配などどこにもない場所だった。
 彼は、どの移送車両でも、慣行に従って持ち物を強引に奪われた。そして、最後に彼は一時収容所で知人に見かけられたけれども、その知人には彼は、肉体的には以前の彼の半分の人間だと思えた。
 いま彼がどこにいるのか、誰も知らない。
 彼は、できるだけ早く手紙を書くと約束したけれど、今まで誰も、彼から何も受け取っていない。
 Anisimov の友人でKuzmich という名の人は、同じような運命に遭ったように思われます。
 その人も「特別の任務」のために呼び出され、その後に消え失せました。
 こんなことは日常茶飯事で、「そうなる」(完全な消耗の最後の段階に進む)最も迅速な方法はきみの専門能力でもって仕事ができるよう移送を頼むことだ、と古い収監者たちは言います。
 これを聞いて、僕は、思わず楽観的に書いた「収容所・内務省(MDV)」あての願い出文書をすっかり破り棄てました。…
 よし、これで終わりにします。」
 (29) レフは木材工場にとどまる他はないと観念して、スヴェータは、どんな「最大限」や「最小限」よりもはるかに大胆なことをする計画を立て始めた。
 すなわち、ペチョラでレフと逢うために秘密の旅をすること。
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 第5章③、終わり。第6章へとつづく。