Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
第8章の試訳のつづき。
——
第8章/ネップ(NEP)-偽りのテルミドール。
第二節・1920-21年の農民大反乱。
(01) 1921年3月までに、共産党員たちは努力をして、何とかして国民経済を国家の制御のもとにおくことに成功していた。
この政策はのちに、「戦時共産主義」として知られることになる。—レーニン自身が、1921年4月に、これを廃棄するときに初めて用いた言葉だ。(注08)
これは、言うところの内戦や外国による干渉という非常事態でもって、経済的実験作業の大厄災的な結果を正当化するためにこしらえられた、間違った名称だった。
そうではなく、当時の諸記録を精査してみると、この政策は実際には、戦争状態への緊急的対応というよりも、できるだけ速く共産主義社会を建設する試みだった、ということに、疑いの余地はない。(注09)
戦時共産主義は、生産手段および他のほとんどの経済的資産の国有化、私的取引の廃止、金銭の排除、国民経済の包括的計画への従属化、強制労働の導入といったものを、内容としていた。(注10)//
----
(02) こうした実験は、ロシア経済を混乱状態に陥ち入れた。
1913年と比較して、1920-21年の大規模工業生産額は82パーセントを失った。労働者の生産性は74パーセントが減り、穀物生産は40パーセントがなくなった。(注11)
住民が食料を求めて農村地帯へと逃げ出して、都市部には人がいなくなった。ペテログラードはその人口の70パーセントを失い、モスクワは50パーセント以上を失った。
その他の都市的なおよび工業の中心地域でも、減少があった。(注12)
非農業の労働力は、ボルシェヴィキによる権力掌握の時点の半分以下にまで落ちた。360万人から、150万人へ。
労働者の実際の賃金は、1913-14年の水準の3分の1にまで減った。(*)
ヒドラのような闇市場が、必要なために根絶されず、住民たちに大量の消費用品を供給した。
共産党の政策は、世界で15番めに大きい経済を破滅させることになり、「封建主義」と「資本主義」の数世紀で蓄積した富を使い果たした。
当時のある共産党経済学者は、この経済崩壊は人類の歴史上前例のない大災難(calamity)だと言った。(注13)//
----
脚注(*) E. G. Gimpelson, Sovetskii rabochii klass 1918-1920 gg (1974), p.80; Akademia Nauk SSSR, Instiut Ekonomiki, Sovetskoe harodnoe khoziaistvo v 1921-1925 gg (1960), p.531, p.536.
これらの統計の詳細な研究は、1920年のソヴィエト国家には93万2000人の労働者しかいなかった、労働者と計算された被雇用者の三分の一以上は実際には一人でまたは単一の助手、しばしば家族の一員、をもって仕事をする芸術家だったから、ということを明らかにした。Gimpelson, loc, cit., p.82., Izmeneniia sotsial'noi struktury sovetskogo obschestva: Okiabr' 1917-1920 (1976), p.258.
----
(03) 種々の実際的目的のために、内戦は1919-20年の冬に終わった。そして、これらの政策の背後の駆動力として戦争が必要だったとするなら、今やそれらを放棄すべきときだったはずだろう。
そうではなく、白軍を粉砕した後の数年間、労働の「軍事化」や金銭の排除のような、最も乱暴な実験が行なわれ続けた。
政府は、農民がもつ穀物「余剰」の強制的没収を維持した。
農民たちは政府の禁止に果敢に抵抗し、隠匿、播種面積の減少、闇市場での産物の販売を行なって反応した。
1920年に天候が悪くなったので、パンの供給不足はさらに進行した。
それまでは食糧供給の点では都市部と比べて相対的には豊かだったロシアの農村地域は、飢饉の最初の兆候を経験し始めた。//
----
(04) このような失敗の影響は経済的だけではなく、社会的なものだった。ボルシェヴィキを支持する薄い基盤をさらに侵食し、支持者を反対者に、反対者を叛乱者に変えた。
ボルシェヴィキのプロパガンダは「大衆」に対して、1918-19年に被った苦難は「白衛軍」とその外国の支援者が原因だ、と言ってきた。「大衆」たちは、対立が終わって、正常な状態が戻ることを期待していた。
共産党はある程度は、軍事的必要を正当化の理由とすることで、その政策の不人気を覆い隠してきた。
内戦が過ぎ去ってしまうと、このような説明で請い願うことはもはや不可能だった。
「人々は今や確信をもって、厳格なボルシェヴィキ体制の緩和を望んだ。
内戦終了とともに、共産党は負担を軽くし、戦時中の制限を廃止し、いくつかの基礎的な自由を導入し、より正常な生活のための組織づくりを始めるだろう。…
だが、きわめて不幸なことに、こうした期待は失望に転じる運命にあった。
共産主義国家は、軛を緩める意思を何ら示さなかった。」(注14)//
----
(05) 今や、ボルシェヴィキを支持しようとする人々にすら、つぎのような疑問が現われ始めた。すなわち、新しい体制の本当の目的は自分たちの運命を改善することではなく権力を保持し続けることではないか、この目的のためには自分たちの幸福を、そればかりか生命すらをも犠牲にしようと準備しているのでないか。
このことに気づいて、その範囲と凶暴さで先例のない反乱が、全国的に発生した。
内戦の終わりは、すぐに新しい戦いの発生につながった。赤軍は、白軍を打倒した後、今ではパルチザン部隊と闘わなければならなかった。
この部隊は一般には「緑軍」として知られたが、当局は「蛮族」(bandits)と名づけたもので、農民、逃亡者、除隊された兵士たちで構成されていた。(注15)//
----
(16) 1920年と1921年、黒海から太平洋までのロシアの農村地帯で見られたのは、蜂起の光景だった。これらの蜂起は、巻き込んだ人数でも影響を与えた領域の広さでも、帝制下でのStenka Rajin やPugachev の農民叛乱を大きく凌駕するものだった。(注16)
その本当の範囲は、今日でも確定することができない。関連する資料が適切にはまだ研究されていないからだ。
共産党当局は懸命に、その範囲を小さくしようとした。かくして、チェカによると、1921年2月に118件の農民反乱が起きた。(注17)
実際には、そのような反乱は数百件起き、数十万人のパルチザンが加わっていた。
レーニンは、この内戦の前線から定期的に報告を受け取っていた。全国にまたがる地図があり、巨大な領域に叛乱があることを示していた。(注18)
共産党歴史家はときたま、この新しい内戦の範囲について一瞥していて、いくつかのクラクの「蛮族」は5万人を数え、もっと多くの反乱があったことを認めている。(注19)
戦闘の程度や激烈さのイメージは、反乱への対抗に従事した赤軍による公式の死者数から得ることができる。
近年の情報によると、ほとんどがもっぱら農民その他の家族的反乱に対して向けられた、1921-22年の運動での赤軍側の犠牲者の数は、23万7908人に昇る。(注20)
反乱者側の損失は、ほとんど確実に同程度で、おそらくはより多かった。//
-----
(17) ロシアは、農民反乱のようなものに関しては、何も知ってこなかった。かつては、農民たちは伝統的に武器を大地主たちに向かって取り、政府に対しではなかった。
帝制当局が農民騒擾を〈kramola〉(扇動)と名づけたのと全く同様に、新しい当局は、それを「蛮族」と呼んだ。
しかし、抵抗したのは、農民に限られなかった。
かりにより暴力的でなかったとしても、もっと危険だったのは、工業労働者たちの敵対だった。
ボルシェヴィキは、1918年の春までに1917年10月には得ていた工業労働者たちの支持のほとんどを、すでに失っていた。(注21)
白軍と闘っているあいだは、メンシェヴィキとエスエルの積極的な助けもあって、ボルシェヴィキは、君主制の復活の怖れを吹聴することで労働者たちを何とか結集させることができた。
しかしながら、いったん白軍が打倒され、君主制復活の危険がもはやなくなると、労働者たちは大挙してボルシェヴィキを捨て去り、極左から極右までの全ての考えられ得る選択肢のいずれかへと移行した。
1921年3月、ジノヴィエフは、第10回党大会の代議員に対して、労働者、農民大衆はどの政党にも帰属していない、そして、彼らの相当の割合は政治的にはメンシェヴィキまたは黒の百人組を支持している、と言った。(注22)
トロツキーは、つぎのような示唆に、衝撃を受けた。彼が翻訳したところでは、「労働者階級の一部が、残りの99パーセントの口封じをしている」。これは、ジノヴィエフの言及を記録から削除されるよう求めた部分だった。(注23)
しかし、事実は、否定できなかった。
1920-21年、自らの部隊を除いて、ボルシェヴィキ体制は全国土を敵にしていた。自らの部隊すらが、反乱していた。
レーニン自身がボルシェヴィキについて、国民という大海の一滴の水にすぎない、と叙述しなかったか?(注24)
そして、その海は、激しく荒れていた。//
----
(18) 彼らは、制約なき残虐さと新経済政策に具体化された譲歩を、弾圧と強いて連結させることによって、生き延びた。
しかし、二つの客観的要因から利益も得ていた。
一つは、敵がまとまっていないことだった。新しい内戦は、共通する指導者または計画のない多様な個人の蜂起で成っていた。
あちこちで自然発生的に炎が上がったが、職業的に指揮され、十分な装備のある赤軍とは、戦いにならなかった。
もう一つの要因は、反乱者側には政治的な選択をするという考えがなかったことだった。ストライキをする労働者も、反乱している農民も、政治的観点からの思考をしなかった。
同じことは、多数の「緑軍」運動についても言えた。(注25)
農民の心情に特徴的なもの—変更可能なものと政府を見なすことができないこと—は革命とそ後の多くの革命的変化の後も存続した。(注26)
労働者と農民は、ソヴィエト政府が行なったことで、きわめて不幸だった。つまり、政府がしたこととそれが把握し難かったことのあいだには、帝制期に急進的でリベラルな扇動には彼らは耳を貸そうとしなかったのとまさに同様の関係があった。
そうした理由で、当時のように今も、他の全てのものが残ったままでいるかぎりは、直接的な苦情を満足させることで宥めることができる、ということにはならなかった。
これが、NEP の本質だった。人々がいったん平穏になれば奪い返す、そのような経済的恵みでもって自分たちの政治的な生き残りを獲得しようとすること。
ブハーリンは、あからさまにこう述べた。
「我々は、政治的な譲歩を回避するために、経済的な譲歩を行なっている」。(注27)
これは、ツァーリ体制から学んだ実務だった。主要な潜在的挑戦者である地主階層(gentry)を、経済的利益でもって骨抜きにすることで、その専横的特権を守った、という実際。(注28)
----
後注。
(08) Lenin, PSS, XLIII, p.205-245.
(09) RR, p.671-2.〔RR=R. Pipes, Russian Revolution, 1990〕
(10) Ibid., p.673.
(11) Ibid., p.696. この主題についてはさらに、V. Sarabianov, Ekonomika i ekonomicheskaia politika SSSR, 2.ed., とくにp.204-247.
(12) Desiatyi S"ezd RKP(b) :Stenograficheskii Otchet (1963), p.290. さらに、Paul Avrich, Kronstdt 1921 (1970), p.24 を見よ。Krasnaiagayeta,1921.2.9 を引用している。また、League of Nations, Report on Economic Conditions in Russia (1922), p.16n.
(13) L. N. Kritsman, Geroicheskii period velikoi russkoi revoliutsii 2.ed. (1926), p.166.
(14) Alexander Berkman, The Kronstadt Rebellion (1922), p.5.
(15) Oliver H. Radkey, The Unknown Civil War in Soviet Russia (1976), p.32-33.
(16) Vladmir Brovkin の近刊著、Behind the Front Lines of the Civil War を見よ。
(17) Seth Singleton in SR, No. 3 (1966.9) , p.498-9.
(18) RTsKhIDNI, F. p.5, op.1, delo 3055, 2475, 2476. それぞれ、1919年5月、1920年下半期、1921年全体。Ibid., F. p.2, op. 2,delo 303. これは、1920年5月の前半。
(19) I. Ia. Trifonov, L¥Klassy i klassovaia bor'ba v SSSR v nachale NEPa, I (1964), p.4.
(20) B. F. Krivosheev, ed., Grif sekretnosti sniat (1993), p.54.
(21) RR, p.558-565.
(22) Desiatyi S"ezd, p.347.
(23) Ibid., p.350.
(24) 上述、p.113.
(25) Radkey, Unknown Civil War, p.69.
(26) R. Pipes, Russia under the Old Regime (1974), p.157-8 を見よ。RR, p.114. p.118-9.
(27) 1921年7月8日、コミンテルン第3回大会での Bukharin。The New Economic Politics of Soviet Russia (1921) , p.58.
(28) R. Pipes, Old Regime, p.114.
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第二節、終わり。
第8章の試訳のつづき。
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第8章/ネップ(NEP)-偽りのテルミドール。
第二節・1920-21年の農民大反乱。
(01) 1921年3月までに、共産党員たちは努力をして、何とかして国民経済を国家の制御のもとにおくことに成功していた。
この政策はのちに、「戦時共産主義」として知られることになる。—レーニン自身が、1921年4月に、これを廃棄するときに初めて用いた言葉だ。(注08)
これは、言うところの内戦や外国による干渉という非常事態でもって、経済的実験作業の大厄災的な結果を正当化するためにこしらえられた、間違った名称だった。
そうではなく、当時の諸記録を精査してみると、この政策は実際には、戦争状態への緊急的対応というよりも、できるだけ速く共産主義社会を建設する試みだった、ということに、疑いの余地はない。(注09)
戦時共産主義は、生産手段および他のほとんどの経済的資産の国有化、私的取引の廃止、金銭の排除、国民経済の包括的計画への従属化、強制労働の導入といったものを、内容としていた。(注10)//
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(02) こうした実験は、ロシア経済を混乱状態に陥ち入れた。
1913年と比較して、1920-21年の大規模工業生産額は82パーセントを失った。労働者の生産性は74パーセントが減り、穀物生産は40パーセントがなくなった。(注11)
住民が食料を求めて農村地帯へと逃げ出して、都市部には人がいなくなった。ペテログラードはその人口の70パーセントを失い、モスクワは50パーセント以上を失った。
その他の都市的なおよび工業の中心地域でも、減少があった。(注12)
非農業の労働力は、ボルシェヴィキによる権力掌握の時点の半分以下にまで落ちた。360万人から、150万人へ。
労働者の実際の賃金は、1913-14年の水準の3分の1にまで減った。(*)
ヒドラのような闇市場が、必要なために根絶されず、住民たちに大量の消費用品を供給した。
共産党の政策は、世界で15番めに大きい経済を破滅させることになり、「封建主義」と「資本主義」の数世紀で蓄積した富を使い果たした。
当時のある共産党経済学者は、この経済崩壊は人類の歴史上前例のない大災難(calamity)だと言った。(注13)//
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脚注(*) E. G. Gimpelson, Sovetskii rabochii klass 1918-1920 gg (1974), p.80; Akademia Nauk SSSR, Instiut Ekonomiki, Sovetskoe harodnoe khoziaistvo v 1921-1925 gg (1960), p.531, p.536.
これらの統計の詳細な研究は、1920年のソヴィエト国家には93万2000人の労働者しかいなかった、労働者と計算された被雇用者の三分の一以上は実際には一人でまたは単一の助手、しばしば家族の一員、をもって仕事をする芸術家だったから、ということを明らかにした。Gimpelson, loc, cit., p.82., Izmeneniia sotsial'noi struktury sovetskogo obschestva: Okiabr' 1917-1920 (1976), p.258.
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(03) 種々の実際的目的のために、内戦は1919-20年の冬に終わった。そして、これらの政策の背後の駆動力として戦争が必要だったとするなら、今やそれらを放棄すべきときだったはずだろう。
そうではなく、白軍を粉砕した後の数年間、労働の「軍事化」や金銭の排除のような、最も乱暴な実験が行なわれ続けた。
政府は、農民がもつ穀物「余剰」の強制的没収を維持した。
農民たちは政府の禁止に果敢に抵抗し、隠匿、播種面積の減少、闇市場での産物の販売を行なって反応した。
1920年に天候が悪くなったので、パンの供給不足はさらに進行した。
それまでは食糧供給の点では都市部と比べて相対的には豊かだったロシアの農村地域は、飢饉の最初の兆候を経験し始めた。//
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(04) このような失敗の影響は経済的だけではなく、社会的なものだった。ボルシェヴィキを支持する薄い基盤をさらに侵食し、支持者を反対者に、反対者を叛乱者に変えた。
ボルシェヴィキのプロパガンダは「大衆」に対して、1918-19年に被った苦難は「白衛軍」とその外国の支援者が原因だ、と言ってきた。「大衆」たちは、対立が終わって、正常な状態が戻ることを期待していた。
共産党はある程度は、軍事的必要を正当化の理由とすることで、その政策の不人気を覆い隠してきた。
内戦が過ぎ去ってしまうと、このような説明で請い願うことはもはや不可能だった。
「人々は今や確信をもって、厳格なボルシェヴィキ体制の緩和を望んだ。
内戦終了とともに、共産党は負担を軽くし、戦時中の制限を廃止し、いくつかの基礎的な自由を導入し、より正常な生活のための組織づくりを始めるだろう。…
だが、きわめて不幸なことに、こうした期待は失望に転じる運命にあった。
共産主義国家は、軛を緩める意思を何ら示さなかった。」(注14)//
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(05) 今や、ボルシェヴィキを支持しようとする人々にすら、つぎのような疑問が現われ始めた。すなわち、新しい体制の本当の目的は自分たちの運命を改善することではなく権力を保持し続けることではないか、この目的のためには自分たちの幸福を、そればかりか生命すらをも犠牲にしようと準備しているのでないか。
このことに気づいて、その範囲と凶暴さで先例のない反乱が、全国的に発生した。
内戦の終わりは、すぐに新しい戦いの発生につながった。赤軍は、白軍を打倒した後、今ではパルチザン部隊と闘わなければならなかった。
この部隊は一般には「緑軍」として知られたが、当局は「蛮族」(bandits)と名づけたもので、農民、逃亡者、除隊された兵士たちで構成されていた。(注15)//
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(16) 1920年と1921年、黒海から太平洋までのロシアの農村地帯で見られたのは、蜂起の光景だった。これらの蜂起は、巻き込んだ人数でも影響を与えた領域の広さでも、帝制下でのStenka Rajin やPugachev の農民叛乱を大きく凌駕するものだった。(注16)
その本当の範囲は、今日でも確定することができない。関連する資料が適切にはまだ研究されていないからだ。
共産党当局は懸命に、その範囲を小さくしようとした。かくして、チェカによると、1921年2月に118件の農民反乱が起きた。(注17)
実際には、そのような反乱は数百件起き、数十万人のパルチザンが加わっていた。
レーニンは、この内戦の前線から定期的に報告を受け取っていた。全国にまたがる地図があり、巨大な領域に叛乱があることを示していた。(注18)
共産党歴史家はときたま、この新しい内戦の範囲について一瞥していて、いくつかのクラクの「蛮族」は5万人を数え、もっと多くの反乱があったことを認めている。(注19)
戦闘の程度や激烈さのイメージは、反乱への対抗に従事した赤軍による公式の死者数から得ることができる。
近年の情報によると、ほとんどがもっぱら農民その他の家族的反乱に対して向けられた、1921-22年の運動での赤軍側の犠牲者の数は、23万7908人に昇る。(注20)
反乱者側の損失は、ほとんど確実に同程度で、おそらくはより多かった。//
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(17) ロシアは、農民反乱のようなものに関しては、何も知ってこなかった。かつては、農民たちは伝統的に武器を大地主たちに向かって取り、政府に対しではなかった。
帝制当局が農民騒擾を〈kramola〉(扇動)と名づけたのと全く同様に、新しい当局は、それを「蛮族」と呼んだ。
しかし、抵抗したのは、農民に限られなかった。
かりにより暴力的でなかったとしても、もっと危険だったのは、工業労働者たちの敵対だった。
ボルシェヴィキは、1918年の春までに1917年10月には得ていた工業労働者たちの支持のほとんどを、すでに失っていた。(注21)
白軍と闘っているあいだは、メンシェヴィキとエスエルの積極的な助けもあって、ボルシェヴィキは、君主制の復活の怖れを吹聴することで労働者たちを何とか結集させることができた。
しかしながら、いったん白軍が打倒され、君主制復活の危険がもはやなくなると、労働者たちは大挙してボルシェヴィキを捨て去り、極左から極右までの全ての考えられ得る選択肢のいずれかへと移行した。
1921年3月、ジノヴィエフは、第10回党大会の代議員に対して、労働者、農民大衆はどの政党にも帰属していない、そして、彼らの相当の割合は政治的にはメンシェヴィキまたは黒の百人組を支持している、と言った。(注22)
トロツキーは、つぎのような示唆に、衝撃を受けた。彼が翻訳したところでは、「労働者階級の一部が、残りの99パーセントの口封じをしている」。これは、ジノヴィエフの言及を記録から削除されるよう求めた部分だった。(注23)
しかし、事実は、否定できなかった。
1920-21年、自らの部隊を除いて、ボルシェヴィキ体制は全国土を敵にしていた。自らの部隊すらが、反乱していた。
レーニン自身がボルシェヴィキについて、国民という大海の一滴の水にすぎない、と叙述しなかったか?(注24)
そして、その海は、激しく荒れていた。//
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(18) 彼らは、制約なき残虐さと新経済政策に具体化された譲歩を、弾圧と強いて連結させることによって、生き延びた。
しかし、二つの客観的要因から利益も得ていた。
一つは、敵がまとまっていないことだった。新しい内戦は、共通する指導者または計画のない多様な個人の蜂起で成っていた。
あちこちで自然発生的に炎が上がったが、職業的に指揮され、十分な装備のある赤軍とは、戦いにならなかった。
もう一つの要因は、反乱者側には政治的な選択をするという考えがなかったことだった。ストライキをする労働者も、反乱している農民も、政治的観点からの思考をしなかった。
同じことは、多数の「緑軍」運動についても言えた。(注25)
農民の心情に特徴的なもの—変更可能なものと政府を見なすことができないこと—は革命とそ後の多くの革命的変化の後も存続した。(注26)
労働者と農民は、ソヴィエト政府が行なったことで、きわめて不幸だった。つまり、政府がしたこととそれが把握し難かったことのあいだには、帝制期に急進的でリベラルな扇動には彼らは耳を貸そうとしなかったのとまさに同様の関係があった。
そうした理由で、当時のように今も、他の全てのものが残ったままでいるかぎりは、直接的な苦情を満足させることで宥めることができる、ということにはならなかった。
これが、NEP の本質だった。人々がいったん平穏になれば奪い返す、そのような経済的恵みでもって自分たちの政治的な生き残りを獲得しようとすること。
ブハーリンは、あからさまにこう述べた。
「我々は、政治的な譲歩を回避するために、経済的な譲歩を行なっている」。(注27)
これは、ツァーリ体制から学んだ実務だった。主要な潜在的挑戦者である地主階層(gentry)を、経済的利益でもって骨抜きにすることで、その専横的特権を守った、という実際。(注28)
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後注。
(08) Lenin, PSS, XLIII, p.205-245.
(09) RR, p.671-2.〔RR=R. Pipes, Russian Revolution, 1990〕
(10) Ibid., p.673.
(11) Ibid., p.696. この主題についてはさらに、V. Sarabianov, Ekonomika i ekonomicheskaia politika SSSR, 2.ed., とくにp.204-247.
(12) Desiatyi S"ezd RKP(b) :Stenograficheskii Otchet (1963), p.290. さらに、Paul Avrich, Kronstdt 1921 (1970), p.24 を見よ。Krasnaiagayeta,1921.2.9 を引用している。また、League of Nations, Report on Economic Conditions in Russia (1922), p.16n.
(13) L. N. Kritsman, Geroicheskii period velikoi russkoi revoliutsii 2.ed. (1926), p.166.
(14) Alexander Berkman, The Kronstadt Rebellion (1922), p.5.
(15) Oliver H. Radkey, The Unknown Civil War in Soviet Russia (1976), p.32-33.
(16) Vladmir Brovkin の近刊著、Behind the Front Lines of the Civil War を見よ。
(17) Seth Singleton in SR, No. 3 (1966.9) , p.498-9.
(18) RTsKhIDNI, F. p.5, op.1, delo 3055, 2475, 2476. それぞれ、1919年5月、1920年下半期、1921年全体。Ibid., F. p.2, op. 2,delo 303. これは、1920年5月の前半。
(19) I. Ia. Trifonov, L¥Klassy i klassovaia bor'ba v SSSR v nachale NEPa, I (1964), p.4.
(20) B. F. Krivosheev, ed., Grif sekretnosti sniat (1993), p.54.
(21) RR, p.558-565.
(22) Desiatyi S"ezd, p.347.
(23) Ibid., p.350.
(24) 上述、p.113.
(25) Radkey, Unknown Civil War, p.69.
(26) R. Pipes, Russia under the Old Regime (1974), p.157-8 を見よ。RR, p.114. p.118-9.
(27) 1921年7月8日、コミンテルン第3回大会での Bukharin。The New Economic Politics of Soviet Russia (1921) , p.58.
(28) R. Pipes, Old Regime, p.114.
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第二節、終わり。