秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

反ユダヤ主義

1757/ナチスの反ユダヤ主義②-R.パイプス別著5章3節。

 前回の試訳のつづき。p.255~p.257。
 なお、見出しに「別著」と記しているのは、R・パイプスの1990年の著、Richard Pipes, The Russian Revolution (ニューヨーク・ロンドン)とは「別著」であるR・パイプスの1995年の著、Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (ニューヨーク)、という本の訳だという意味だ。
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 第3節・ナツィの反ユダヤ主義②。
 このような展開について最大の責任があったのは、いわゆる<シオン賢者の議定書(Protocols of the Elders of Zion)>、これに関する歴史家であるノーマン・コーン(Norman Cohn)の言葉によるとヒトラーのジェノサイドのために『保証書』を与えた偽書、だった。(44)
 この偽造書の執筆者の名は、特定されていない。しかし、ドレフュス事件の間に1890年代のフランスで、反ユダヤの冊子から収集されて編まれたもののように見える。この冊子の刊行は、1897年にバーゼルで開催された、第一回国際シオニスト大会に刺激を受けたものだった。
 ロシアの秘密警察である帝制オフラーナ(Okhrana)のパリ支部は、これに手を染めていたと思われる。
 この本〔上記議定書(プロトコル)〕は、ある出席者から得られたとされる、特定できない時期と場所でユダヤ人の国際的指導層によつて開かれた会合の秘密決定、キリスト教国家を従属させユダヤ人の世界支配を樹立する戦略を定式化する決定、を暴露するものだと主張する。
 想定されたこの目標への手段は、キリスト教者たちの間に反目を助長することだった。ときには労働者の騒擾を喚起し、ときには軍事競争と戦争を誘発し、そしてつねに、道徳的腐敗を高めることによって。
 ひとたびこの目的を達成するや出現するだろうユダヤ人国家は、いたる所にある警察の助けで維持される、僭政体制(despotism)になるだろう。それは、穏和なものにする、十分な雇用を含む社会的利益がないばかりか、自由が剥奪された社会だ。//
 このいわゆる『議定書』は、最初は1902年に、ペテルブルクの雑誌に公刊された。
 そして、三年後、1905年の革命の間に、セルゲイ・ニルス(Sergei Nilus)が編集した、<矮小なる者の中の偉大なる者と反キリスト>というタイトルの書物の形態をとって登場した。
 別のロシア語版が続いたが、外国語への翻訳書はまだなかった。
 ロシアですら、ほとんど注目を惹かなかったように見える。
 きわめて熱心な宣伝者(propagator)だったニルスは、誰もこの本を真面目に受け取ってくれないと愚痴をこぼした。(45)//
 <議定書>をその瞠目すべき履歴に乗せたのは、ロシア革命だった。
 第一次世界大戦はヨーロッパの人々を完全な混乱に追い込み、彼らは、大量殺戮の責任を負うべき罪人を見つけ出したかった。
 左翼にとって、第一次大戦に責任がある陰謀者は『資本家』であり、とくに兵器製造業者だった。すなわち、資本主義は不可避的に戦争に至るとの主張は、共産主義の多くの支持者の考えを捉えた。
 このような現象は、陰謀理論の一つの変種だった。//
 別の、保守派の間で一般的だった考えは、ユダヤ人に向けられた。
 第一次大戦に対して他の誰よりも大きい責任のある皇帝・ヴィルヘルム二世は、戦闘がまだ続いている間にもユダヤ人を非難した。(46)
 エーリッヒ・ルーデンドルフ(Erich Ludendorf)将軍は、ユダヤ人はドイツが屈服すべくイギリスとフランスを助けたのみならず、「おそらく両者を指示した」と、つぎのように主張した。
 『ユダヤの指導層は、<中略>来たる戦争はその政治的、経済的目的、つまりユダヤのためにパレスチナに国家領土と一つの民族国家としての承認を獲ち取り、ヨーロッパとアメリカで超国家かつ超資本主義の覇権を確保すること、を実現する手段だと考えた。
 この目標に到達する途上で、ドイツのユダヤ人は、すでに屈服させていた諸国〔イギリスとフランス〕でと同じ地位を占めるべく奮闘した。
 この目的を達するためには、ユダヤの人々にとって、ドイツの敗北が必要だった。』(47)//
 このような「説明」は、<議定書>の内容を反復しており、そして疑いなく、その書の影響を受けていた。//
 ボルシェヴィキの、ユダヤ人が高度に可視的な体制による世界革命への激情と公然たる要求は、西側の世論が贖罪者を探し求めていたときに、発生した。
 戦後には、とくに中産階級や職業人の間では、共産主義をユダヤ人による世界的陰謀と同一視し、共産主義を<議定書>が提示したプログラムを実現するものと解釈するのが、一般的(common)になった。
 一般的な感覚〔常識的理解〕は、ユダヤ人は「超資本主義」とその敵である共産主義の二つについて責任があるという前提命題は拒んだかもしれないが、一方で、<議定書>の論法は、この矛盾を十分に調整することができるほどに融通性があった。
 ユダヤ人の究極の目的はキリスト教世界を弱体化することだと語られたので、情勢とは無関係に、彼らは今は資本主義者として行動でき、別のときは共産主義者として行動できるだろう、とされた。
 実際に、<議定書>の著者によれば、ユダヤ人は、自分たちの「弱い兄弟たち」を戦上に立たせるために、反ユダヤ主義と集団虐殺(pogrom)に助けを求めることすらする。(*)//
 ボルシェヴィキが権力を掌握して彼らのテロルによる支配を開始したのち、<議定書>は、予言書としての地位を獲得した。
 傑出したボルシェヴィキの中にはスラブ的通称の背後に隠れたユダヤ人がいる、という知識がいったん一般的になると、物事の全体が明白になるように見えた。すなわち、十月革命と共産主義体制は、世界支配を企むユダヤ人にとって、決定的な前進だった。
 スパルタクス団の蜂起やハンガリーおよびバイエルンでの共産主義「共和国」には多くのユダヤ人が関与していて、根拠地ロシアの外部でユダヤ人の権力を拡大するものだと理解された。
 <議定書>の予言が実現するのを阻止するためには、キリスト教者(「アーリア人」)は危険を認識し、彼らの共通の敵に対して団結しなければならなかった。//
 <議定書>は、1918-1919年のテロルの間に、ロシアでの人気を獲得した。その読者の中に、ニコライ二世がいた。(**)
 この書物の読者層は皇帝一族の殺害の後で拡大し、ユダヤ人は広く非難された。
 1919-1920年の冬に敗北した数千人の白軍の将官たちが西ヨーロッパでの庇護を探り求めたとき、ある程度の者たちは、この偽書を携帯していた。
 そのことは、この書物を有名にして、総体的にヨーロッパ人の運命と無関係では全くなく、共産主義はロシアの問題ではなくてヨーロッパ人もまたユダヤ人の手に落ちるだろう世界の共産主義革命の第一段階だと、ヨーロッパ人に警告するという彼らの関心に役立った。//
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 (44) Norman Cohn, Warrant for Genocide (London, 1967).
 (45) 同上、p.90-98。
 (46) R・パイプス・ロシア革命(1990年)、p.586。
 (47) Erich Ludendorf, Kriegsfuerung und Politik 〔E・ルーデンドルフ・戦争遂行と政治〕 (ベルリン、1922年)、p.51。
 (*) Luch Sveta Ⅰの<議定書>、第三部 (1920年5月)。 このような霊感的発想をするならば、ヒトラーが気乗りしていない兄弟たちをパレスチナに送るためにホロコーストを組織するのをユダヤ人が助けた、というテーゼをソヴィエト当局が許し、またそのことによってそのテーゼの信用性を高めた、というのはほとんど確実だ。 L.A.Korneev, Klassovaia sushchnost' Sionizma (キエフ、1982年) 。
 (**) アレクサンドラ皇妃は、1918年4月7日(旧暦)付の日記に、こう記した。
 『ニコライは、私たちにフリーメイソンの議定書を読み聞かせた。』(Chicago Daily News, 1920年6月23日、p.2。)
 この書物は、エカテリンブルクでのアレクサンドラの身の回り品の中から発見された。N.Sokolov, Ubiistvo tsarskoi sem'i (パリ、1925年)、p.281。
 前に述べたように、これはまた、コルチャク(Kolchak)のお気に入りの読み物だった。
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 ③へとつづく。

1755/R・パイプス別著(ボルシェヴィキ体制下のロシア)第5章第3節。

 リチャード・パイプス『ボルシェヴィキ体制下のロシア』。計587頁。
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (Vintage/USA, 1995).
 この本のうち、すでに試訳の掲載を済ませているのは、以下だ。
 ①p.240-p.253。第5章:共産主義・ファシズム・国家社会主義ー第1節・全体主義という概念。/第2節・ムッソリーニの「レーニン主義者」という出自。
 ②p.388-p.419。第8章:ネップ・偽りのテルミドールー第6節・強制的食糧徴発の廃止とネップへの移行。/第7節・政治的かつ法的な抑圧の強化。/第8節・エスエル「裁判」。/第9節・ネップのもとでの文化生活。/第10節・1921年の飢饉。
 ③p.506-p.507。終章:ロシア革命に関する考察ー第6節・レーニン主義とスターリニズム。
 上の①のつづきの部分(ヒトラーと社会主義との関係等)について、試訳を続行する。
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 第5章/共産主義・ファシズム・国家社会主義。
 第3節・ナツィの反ユダヤ主義①。
p.253~。
 ボルシェヴィキとファシズムの出自は、社会主義だった。
 国家社会主義(National Socialism)は、異なる種子から成長した。
 レーニンの出身が位置の高いロシアの官僚階層の出身で、ムッソリーニのそれは疲弊した工芸職人階層であるとすると、ヒトラーは小ブルジョアの背景をもち、社会主義への敵意とユダヤ人への憎悪で充満した雰囲気の中で、青年時代をすごした。
 当時の政治的、社会的な理論に通じた熱心な読者だったムッソリーニやレーニンとは違って、ヒトラーは無知で、観察やときたまの読書や会話から知ったものを拾い上げた。
 ヒトラーには理論的な基礎がなく、意見と偏見だけはあった。
 そうだったとしてすら、最初にドイツの自由を排除し、つぎにヨーロッパじゅうに死と破壊を植え込んだ、そのような致命的な効果を与えて彼が用いることとなる政治的イデオロギーは、消極的にも積極的にも、ロシア革命によって奥深く影響されていた。
 消極的には、ロシアでのボルシェヴィズムの勝利とヨーロッパを革命化する企ては、ヒトラーの本能的な反ユダヤ主義と、ドイツ人を恐れさせる「ユダヤ共産主義」の陰謀という妖怪とを正当化した。
 積極的には、ロシア革命は、大衆操作の技術をヒトラーに教え、一党制の全体主義国家のモデルを提供することによって、ヒトラーが独裁的権力を追求するのを助けた。//
 反ユダヤ主義は、国家社会主義のイデオロギーと心理において、中心的で逸れることのない目標として独特の位置を占める。
 ユダヤ人恐怖症の起源は古典的太古にさかのぼるけれども、ヒトラーのもとで不健全で破壊的な形態を帯びたそれは、歴史上かつて見ないものだった。
 このことを理解するには、ロシアおよびドイツの民族主義運動に対するロシア革命の影響について記しておくことが必要だ。//
 伝統的な、20世紀以前の反ユダヤ主義は、もともとは宗教上の敵意によって強くなった。つまり、キリスト殺害者で、キリスト教の福音を頑強に拒む邪悪な人々だというユダヤ人に対する先入観。
 カトリック教会や一部のプロテスタント教派のプロパガンダのもとで、この敵意は、経済的な争いや金貸しで狡猾な商人としてのユダヤ人への嫌悪によって補強された。
 伝統的な反ユダヤ主義者にとって、ユダヤ人は「人種」でも民族を超える共同体でもなく、誤った宗教の支持者であり、人類への教訓として、故郷を持たないで(homelss)苦しみ、漂流するように運命づけられていた。
 ユダヤ人は国際的な脅威だとの考えが確立されるためには、国際的な共同社会が存在するに至っていなければならなかった。
 これはもちろん、世界的な商業と世界的な通信の出現とともに19世紀の過程で発生した。
 これらの発展は、地域と国家の障壁を超えて、近代までは相当に保護された自己完結的な存在だった共同体や国家での生活に対して、直接に影響を与えた。
 人々は、突然にかつ訳が分からないままに、自分たちの生活を支配することができなくなる感覚を抱き始めた。
 ロシアでの収穫が合衆国の農民の生活状態に影響を与え、あるいはカリフォルニアでの金の発見がヨーロッパでの価額に影響を与え、国際的な社会主義のような政治運動が全ての既存体制の打倒を目標として設定したとき、誰も、安全だと感じることはできなかった。
 そして、国際的な出来事が持ち込む不安は、全く自然なこととして、国際的な陰謀という考えを発生させた。
 ユダヤ人以上に誰がその役割をより十分に果たすのか?。最も可視的な国際的集団であるのみならず、世界的な金融とメディアで傑出した位置を占めている集団は誰か?。//
 ユダヤ人を、見えざる上位者の一団が統轄する、紀律のとれた超国家的共同社会とする見方は、最初はフランス革命の騒ぎの中で登場した。
 フランス革命への役割は何もなかったけれども、反革命のイデオロギストたちはユダヤを容疑者だと見なした。一つは、公民的平等を与えた革命諸法律によって彼らは利益を得たとの理由で、また一つは、フランスの君主主義者が1789年の革命についての責任があると追及したフリーメイソン(Masonic)運動と彼らは広くつながっているとの理由で。
 ドイツの急進派は、1870年代までに、全てのユダヤ人はどこに公民権籍があろうと秘密の国際組織によって支配されている、と主張した。この組織はふつうは、実際の仕事は慈善事業だった、パリに本拠がある国際イスラエル連合(the Alliance Israelite Universelle)と同一視された。
 このような考えはフランスで、ドレフュス(Dreyfus)事件と結びついて1890年代に一般的になった。
 ロシア革命に先立って、反ユダヤ主義は、ヨーロッパで広汎に受容されていた。それは主としては、パリア・カスト〔最下層貧民〕として彼らを扱うことに慣れていた社会で対等なものとしてユダヤ人が出現してきたことへの反作用だった。また、解放された後にすら同化することを拒むことへの失望によっていた。
 ユダヤ人は、その同族中心主義や秘密主義、いわゆる「寄生的」な(parasitic)な経済活動や「レバント」的(Levantine)挙措だと受け止められたことで、嫌悪(dislike)された。
 しかし、ユダヤ人に対する恐怖(fear)は、ロシア革命とともに生じた。そして、その最も厄災的な遺産であることが判明することになる。//
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 (秋月)今回の部分には注記はない。
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 ②へとつづく。

1376/試訳ー共産主義とファシズム・「敵対的近接」/01

 フランソワ・フュレエルンスト・ノルテの交換書簡である、以下の著を試みに訳しておく。その著は、Francoir Furet = Ernst Nolte, "Feindliche Naehe " Kommunismus und Faschismus im 20. Jahrhundert - Ein Briefwechsel(Herbig, Muenchen, 1998)で、仮訳すれば、F・フュレ=E・ノルテ・<敵対的近接>-20世紀の共産主義(=コミュニズム)とファシズム/交換書簡(ヘルビッヒ出版社(ミュンヒェン)、1998年)だ。
 フュレのフランス語文章は、Klaus Joeken とKonrad Dietzfelbinger によってドイツ語に訳されている。
 フーバー大統領回顧録の一部を試みに和訳した際と同様のことを記しておかなければならない。筆者・秋月は共産主義・ファシズムあるいは政治思想史・欧州史等の専門家ではないし、ドイツ語の専門家でもない(ましてや翻訳を業とはしていない)。
 だが、この本の邦訳書は未公刊のようであるので、多少の関心を惹くことができれば幸いだ。
 本文は全体で118頁しかないので、全文を訳出する予定で、かつ(フーバー大統領回顧録の場合とは違って)最初から頁数どおりに訳していく。
 以下の第一回めの「序言」でノルテが書いているように、この本には各章または各節のタイトル・見出しはなく、数字番号すらない。
 全体・概要を把握する一助になるだろうと思って、あえて「第1節」というような見出し(表題)を付け、かつ各冒頭の1-2行めの言葉だけを記しておくと、つぎのようになる。
 第1節/序言〔ノルテ〕 p.05-
 第2節/「一つの長い注釈」〔フュレ〕 p.11-
 第3節/エルンスト・ノルテ 1996年02月20日 p.17-
 第4節/フランソワ・フュレ 1996年04月03日 p.27-
 第5節/エルンスト・ノルテ 1996年05月09日 p.39-
 第6節/フランソワ・フュレ 1996年08月 p.49-
 第7節/エルンスト・ノルテ 1996年09月05日 p.61
 第8節/フランソワ・フュレ 1996年09月30日 p.85-
 第9節/エルンスト・ノルテ 1996年12月11日 p.97-
 第10節/フランソワ・フュレ 1997年01月05日 p.109-p.122
 このように4往復の「交換書簡」が主内容だ。「序言」はテーマに直接に論及しているわけではないが、交換書簡に至る経緯等が記されているので、訳しておいた方がよいと判断した。「一つの長い注釈」(フュレ・幻想の終わり第6章の注13)については、その部分の「訳」の際に説明する(「序言」でも何度か触れられている)。
 全体を3~4回程度に分けて掲載するのが元来の予定だったが、それではこのブログサイトの1回分の掲載容量を超えてしまうだろうと思い直して、試訳作業の途中ではあるが、<第1回・「序説」>部分だけを、まずは紹介する(上記のように、数字番号すら、この書の全体を通じて付されていない)。
 なお、読みやすいように、段落の途中でも改行していることが多い。0
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 F・フュレ=E・ノルテ・<敵対的近接>-20世紀の共産主義(=コミュニズム)とファシズム/交換書簡(1998)01
 序言 <p.5-p.10>
 この交換書簡の特徴を述べることはしない。これの成立と公刊の事情を記しておこう。
 フランソワ・フュレについては、以前からフランス革命に関する指導的な歴史叙述者であることを知っていた。だが、一人の歴史家が自分の専門分野からすれば「資格」がない他の歴史家の仕事を知っている程度においてにすぎなかった。
 彼の側では事情は少しばかり異なっていたことは、1995年末に二十世紀のコミュニズムに関する彼の大著が公刊されたときに初めて明らかになった。彼の大著とは、Le passe d'une illusion, Essai sur l'idee communiste au XXe" siecle 〔秋月訳-幻想の終わり/20世紀の共産主義者の思想に関する省察〕だ。
 この彼の著作についてフランクフルター・アルゲマイネ新聞(Frankfurter Allgemeine Zeitung, FAZ)はすぐに詳しい書評を掲載した。その記事が明らかにしたのは、フュレのテーマはコミュニズムのみではなく、少なくとも含意するところでは、今世紀の第二の「大きなイデオロギー」、すなわちファシスムだ、ということだった。また、その記事には、私の著書が彼の著作の195-196頁にある際立って長い注釈〔秋月-次節「一つの長い注釈」)の中で論及されていると、明確に書かれていた。
 1996年の秋にドイツ語訳書がパイパー出版社(Piper Verlag)から出版されたので、その著書を取り寄せた。見てすぐに分かったのは、私のいくつかの著作が一頁半の長さで、ドイツでは長い間読まなかったほどに、力強く論評されていることだった。
 フュレはむろん、つぎの「悲しい事実」を指摘しなければならないと考えていた。私はユダヤ人をヒトラーの「組織された対抗者」だとし、国家社会主義(ナツィス)の反ユダヤ主義(nationalsozialistisches Antisemitismus)を「理性的核心」だと見なした、という事実をだ。
 この注釈では、同じ程度ではなかったが、同意と批判とが一緒になっていた。
 ほどなくして、ピエール・ノラ(Pierre Nora)が、彼の雑誌「討議」(Debat)が企画するフュレの本についての討論に出席して欲しいと言ってきた。そして、その雑誌の1996年3=4月号、第89号が公刊され、そこには、「20世紀のコミュニズムとファシズム」というタイトルのもとで、Renzo De Felice、Eric J. Hobsbawn、Richard Pipes〔リチャード・パイプス〕、Giuliano Procacci、Ian Kershaw そして私の意見表明とフュレの答えが掲載されていた。
 これと比較できるような討論会は、ドイツでは、私の知る限りでは、構造的な範型による全体主義理解〔秋月-とくにハンナ・アレント〕や1963年の「ファシズムとその時代(Der Faschismus in seiner Epoche)」〔秋月-エルンスト・ノルテの著書〕についてはすでに十分に議論されていたにもかかわらず、催されたことがなかった。
 だが今や、個々に見ると多くの意見の違いはあっても、問題設定自体の正当性は、このきわめて国際的な公開討論の場(Forum)で承認された。
 そのすぐ前に、イタリアの雑誌「リベラル(liberal)」が、フュレと私が手紙を交換して、諸問題についてもっと詳細に意見を述べたい、という気持ちを刺激するような提案を二人にしてきていた。
 我々はお互いにまだ個人的な知り合いではなかったので、ミラノ(Mailand)で出逢うことが計画された。そこで、編集部と考え方を相談することになっていた。
 だが、私は健康上の理由で決まっていた時期を守ることができなかったので、心臓手術の期日がすでに決められていた時点の1996年2月に、第一の手紙を書いた。
 私の手紙とフュレの返書は、「リベラル」の5月号に掲載された。そのとき私はまだ、リハビリテーション施設にいた。
 同じ月にもう私は十分に回復することができたので、第二の手紙を書いた。そして1997年4月に、最後の二つの-二人にとって第四の-手紙が、私には適切では全くない「エルンスト・ノルテがフランソワ・フュレと闘う(… a confronto con …)」というタイトルのもとで、その雑誌上に公刊された。
 1996年の末頃にミラノでのある学会で、フュレと個人的に親しくなっており、1997年の6月に、「リベラル」によってナポリ(Neapel)で開催された「20世紀のリベラリズム」というテーマの会議で、我々は再び逢った。そこで、二人で協力して、古く有名な哲学研究所での夜の催し(Abendveranstaltung)を引き受けた。
 そうしている間に、我々の交換書簡集のイタリアでの書物が発行された。
 上の会議のあとで我々が交換していた私的な手紙では、お互いを「Cher ami(親愛なる友!)」あるいは「親愛なる友よ(Lieber Freund)」と話しかけていた。
 7月11日に、「シュタンパ(Stampa)」から電話があった。きわめて不運なことにフュレがテニスをしているときに転倒し、昏睡状態にある、望みはない、追悼文を書いてほしい、と。
 その報せは、私には青天の霹靂だった〔落雷のごとく私に命中した〕。ようやく70歳になったばかりで、ごく最近に「フランス学士院(Academie francaise)」の会員になっていた。ナポリでは、全く健康な様子だった。
 だがしかし、我々はともに8回めの人生10年間を迎えていた。手紙の交換を始めたとき、一方〔私、ノルテ〕には生命の危険があった。他方、彼の最後には、死があった。
 1920年代に生まれた世代は、1991年〔秋月-ソ連崩壊年〕以降に初めてではなく、最初に、20世紀の基本的特徴を包括的に解釈しようと試みることができたが、その世代の者たちは今や別れをを告げている。
 Renzo De Felice は1996年に逝去し、Thomas Nipperdey〔トーマス・ニッパーダイ〕、Martin Broszat そしてAndreas Hillgruber〔アンドレアス・ヒルグルーバー〕 はもう数年前に逝去している。
 この交換書簡は、ひょっとすれば、この世代の者の、最後の非個人的な証言書の一つだ。
 ナポリ(Neapel)で会話していたとき、フュレは、交換書簡は次はパリの雑誌「批評(Commentaire)」で発表される、と語った。そのとおりに、1997年の秋=冬号、第79-80号が公刊された。
 ドイツ語版は、フュレの私あて第一信が、私の「ヨーロッパの内戦(Europaeisches Buergerkrieg)1917-1945」の新版の付録として、1997年の秋に公刊された(ヘルビッヒ出版社、ミュンヒェン)。同じ出版社から、この完全な交換書簡集が出版される。
 パイパー出版社(Piper Verlag)の厚意により、手紙の交換が始まったきっかけになった彼の脚注〔秋月-次節「一つの長い注釈」〕の文章をこの本に収載することが可能になった。
 一つ一つの手紙に表題を付すこと-イタリア語版のように-はやめることにし、中見出しを挿入すること-「批評(Commentaire)」のように-もやめた。その代わり、本文の後に、人名索引の他に事項索引がある。結びの言葉は、すべての手紙について省略した。フランソワ・フュレやエルンスト・ノルテという名前は、人名索引に載せていない。
 どの読者も、この交換書簡には、とくにフュレには、同意と不同意とが密接に一緒になっているという印象を受けるだろう。どの読者も自分で、彼の見解のどこに最も強調したい点があると理解すべきなのか、決定しなければならない。
 しかし、誰もが決して疑ってはいけないのは、先行業績からすれば非常に異なる二人の歴史家の間のこの交換書簡が、論争的にかつお互いを尊敬する精神でもって交わされた、ということだ。これと類似のことは、残念ながらドイツでは、いわゆる歴史家論争の期間でもなされなかった。
   1998年1月、ベルリン(Berlin)にて、エルンスト・ノルテ。 
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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