秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

原発

2130/池田信夫のブログ016-近代啓蒙・西尾幹二。

 池田信夫ブログマガジン2020年1月20日号は「『不自然なテクノロジー』が人類を救う」と題して、この欄で別の著の一部を紹介したスティーヴン・ピンカー〔Steven Pinker〕/橘明美=坂田雪子訳・20世紀の啓蒙(草思社・2019)〔S. Pinker, Enlightment Now: The Case for Reason, Science, Humanism and Progress(2018)〕を紹介するふうだ。
 但し、池田はこの著については「本書のアメリカ的啓蒙主義に思想的な深みはない」とするだけだ。
 そして、むしろ、啓蒙主義によって「人類は幸福になった」とし、科学技術(テクノロジー)は「平和と安全」をもたらした、として、「原子力」の安全性や「環境」の改善等を強調する。
 ***
 この文での「啓蒙主義」・「西洋文明」・「テクノロジー」等の厳密な意味は問題になりうるとして、また西尾幹二がいかなる気分・「主義」で文章を書いていたかは正確には知らないとしても、以下の西尾の文は、おそらく明らかに「啓蒙主義」・「西洋文明」・「テクノロジー」に反対・反抗したい<気分>を示しているだろう。すでに、ある程度は言及した。
 西尾幹二=岩田温「皇室の神格と民族の歴史」歴史通2019年11号再収載。p.222。
 ・女系天皇否認は「日本的な科学の精神」だ。
 ・「自然科学ではない科学」が蘇らない限り、「分析と解析だけでは果てしない巨大化と極小化へとひた走って」しまう。
 ・「自分たちの歴史と自由を守るために自然科学の力とどう戦うか、それが現代の最大の問題で、根本にあるテーマ」だ。
 なお、この対談には岩田温のつぎの発言もある。
 ・「皇室は、近代的な科学に抗う『日本文化の最後の砦』であり、無味乾燥な『科学』では言い尽くせない複雑な人間社会の擁護者であるともいえ」そうだ。
 これらは総じて、天皇・皇室あるいは日本の神話を「近代科学」・「自然科学」の対極に見ていて、後者を疑問視・批判するとともに、「日本」を対峙させる。
 西尾幹二には、「社会科学」を軽蔑するかのごとき、つぎの文章もある。
 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。
 ・「経済学のような条件づくりの学問、一般に社会科学的知性では扱うことができない領域」がある。それは「各自における、ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由という問題」だ。
 これらには「近代」も「啓蒙」も出てこないが、岩田は別論として西尾幹二は、もともとは西欧から生まれた「近代啓蒙主義」にもとづく、またはそれに連なる人文社会系学問および「自然科学」(生物心理学から宇宙論まで)を批判するという<気分>をもつことが明らかだと思われる。
 <批判>あるいは「限界の指摘」どころか、西尾は「自然科学の力とどう戦うか、それが現代の最大の問題で、根本にあるテーマ」だとか、「社会科学的知性」が扱わない「ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由という問題」がある、というのだから、明治期以降に日本も「継受」してきた(和魂洋才?の)「自然科学」・「社会科学」を<否定>するニュアンスすらがある。
 これは困ったものだ。「血迷っている」、と評してよい。
 近代啓蒙、「ヨーロッパ近代」なるものに自分も影響を受けていることを肯定しつつ、所詮は西欧・欧米の「精神」にもとづくものなので、簡単に別の言葉を用いれば、それらにおける「自由と民主主義」=(自民党の名の由来でもあるLiberal Democracy)を「日本」的に修正する、「日本化」することに秋月もまた反対ではなく、むしろそう主張してきた。「自然科学」はよく知らないが、<人文社会科学>の「欧米かぶれ」は今だにひどすぎる、と感じている。日本の「人文社会科学」(ここでは狭義の「文学」を除く)はより自主的で「日本的」なものにしなければならないだろう。
 その意味では、「日本」は「西洋」とも「東洋」とも違うのだろう。
 しかし、西尾幹二のように、「日本文化は西洋と東洋の対立の中にあるのではなく、西洋と東洋がひとまとめて、日本文化と対立している。そういう風に私は思っています」(上の前者)と発言するのは、「日本・愛国」主義の月刊WiLL(ワック)読者のお気に召すかもしれないが、「血迷った」空文であり、観念的被害意識の発露だ。
 ***
 反近代・反啓蒙には大きく二つがある、とも言われる。
 一つは「右翼」からのもので、「近代科学」の進展や世界規模での交流についていけず、「民族」・「一国家」、あるいは「非科学的」かもしれない「精神」的なもの・宗教・「神話」等への執着を示す。
 もう一つは「左翼」からのもので、「近代科学」の進展や世界化は<資本主義の発展>だと見なし、「資本主義」のもとでの科学技術の発展・「大衆文化」の成熟は<資本主義的欺瞞>のもとにあり、「真」の人間の成長にはむしろ有害だと見なす。
 わずかの文章から簡単に推察することはできないが、西尾幹二の近年の上に引用した文章には、上の二つの<気分>が、いずれもある。
 皇室・「日本」・「神話」の重視は、上の「右翼」的反近代論だと言える。
 一方、すでに№2124〔2020.01.17〕に書いたように、「自然科学」と戦うのが「現代」の最大の課題だとか、「社会科学」は(「条件」づくりではなく「真に」)重要な「ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由」の問題には役立たないとかの旨の言明は、擬似マルクス主義「左翼」である<フランクフルト学派>の「反啓蒙」論(・「反経験主義」)に相当に似ている。
 池田信夫は上記の本文の中で、一般論としてこう記す。
 「啓蒙主義に対して『美しい自然を人間が汚してきた』というハイデガーやアドルノのようなロマン主義は、いつの時代にも絶えない。
 『人類は破滅の道を歩んでいる』とか『西洋文明はもう終わりだ』といった暗い予感は、啓蒙主義より人気がある。
 しかし、西洋文明は終わらない。
 反啓蒙主義者が『帰るべき自然』と考えているものは、西洋文明が自然破壊を破壊し尽くした後に生まれた農耕社会なのだ。」
 「ハイデガーやアドルノののようなロマン主義」とフランクフルト学派は同義ではない。しかし、上の「西洋文明」を(西洋から発達した)「資本主義文明」あるいは「自由主義経済のもとでの文明」と読み替えると、上の「ロマン主義」やフランクフルト学派の基本的な論調と西尾幹二の「気分」はかなり似ている。西尾は、<大衆とは異なる鋭敏な知識人>の一部がかつてそうだったように、現況に「暗い未来」を感じとっているかのようだ。悪化しているとして現況を嘆く(ふりをする)のは「知識人」には「人気」があることかもしれない。
 むろん、両者が全く同じだとは言わない。西尾にはジョン・グレイ<わらの犬>が皮肉っている<道徳主義>・<人格主義>・<教養主義>が多分にある。これらは現代では日本でも相当に廃れている。
 そして、上の点はどの程度にフランクフルト学派論者に当てはまるかは分からないが、西尾はこうしたもの(=人格・教養等)が尊重された(と彼が思っている)時代への「ノスタルジー(郷愁)」があるようだ。
 しかし、<処方箋>を示すことなく、具体的な政策論を展開することもなく、「ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由」の問題が大切だなどと幼稚に言っているだけでは、何も始まらない。
 西尾が資本主義社会と社会主義社会を「相対化」して、共通する「現代」文明の(あるいは共通する「真の?自由」の喪失の)病弊があると言いたいようであることは別に触れることにしよう。
 ***
 思い出したが、西尾幹二は<いわゆる保守派>には珍しい<反・原発>論者だ。ろくに読んでいないから確言できないが、原発・原子力の<安全性>に関する非イデオロギー的・科学技術的議論を行っているのではなく、中島岳志にような「『保守』精神」論から出発したり、独自の「現代文明」論・「現代の科学技術」論を基礎にしているのだとすれば、ろくな結論と論理構成にはなっていないだろう。
 ***
 「各自の、ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由の問題」を扱わなければならない、という旨の西尾幹二の高邁な?一文は、おそらくは現に生きている日本を含めた世界じゅうの人間たちのほとんどを「軽蔑」・「蔑視」するものだ。
 「物質」あるいは「物的条件」よりも「こころ・精神」が大切、という主張は一部の宗教家や哲学者によって歴史上、幾度となく語られてきた。西尾が特段新鮮なことを述べているわけではない。
 そもそもは、「脳科学」・「進化心理学」等々は、西尾幹二が知る以上にはるかに、人間の「精神」・「意識」・「こころ」に迫ろうとしている。アメリカが中心のようだが、近代啓蒙の基盤なくして、この分野での急速な進展は生じなかっただろう。
 この点は別として、キリがない話なので池田信夫の上の文章から手がかりを得て書くと、原発によるのであれ何であれ、「電気」エネルギーの助けがなければ、西尾幹二の住居の暖房も冷房もたぶん機能しない。「停電」・電力供給の停止の怖さを、西尾は想像したことがあるのか。「水道」事業もまた、長い歴史をもつ人間の技術的工夫の結果だ(一部は近代以前に遡り、一部では現在なお整備されていない国々が地球にはある)。「死亡率」は戦争・内乱によるのを含めるのかどうか知らないが、「幼児死亡率」とともに各段に下がったと思われる。これは医学・人間生物学・栄養学・薬学等およびこれらに関係する技術的開発の、さらには医療制度(医療保険制度を含む)等の社会制度(・法制度)のおかげでもある。
 常識的なことなのでキリがない。それでも西尾は、自分だけは「こころ」だけで生きているつもりで、いや「こころ・精神」が大切だ、と言い張るのか。「自然科学」と戦う、というその「自然科学」の成果を、西尾自身がタップリと享受している。
 エネルギー供給、交通手段の確保・運営、生活必需品の生産・販売等々、「より快適な条件で生物として生きていく」ために、多くの人々が働いている。
 台風・豪雨等の前や最中には、道路・河川・建物等の安全確保のために「働いて」いる多くの関係者がいる。災害によって生命を失う人もいる。西尾は、冷笑するのだろうか、いや「生命」よりも身の「安全」よりも、「各自における、ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由という問題」の方が大切だ、と。
***
 「社会科学」もまた、人間で構成される「社会」を対象とするかぎり、その人間の「意志・意思」の決定の過程・ありようは、重要な研究対象となる。<合理的意思決定>論、<意思の自由>論(例えば刑法上の「責任能力」の議論)、<人間・日本人一般または各人の「心理」>等々は、人間一般の又は個別の人間の「こころ」の問題に直接または密接に関係する。経済学も経営学も法学も歴史学も同様。
 キリがないので、この点は別に機会があれば、書こう。
 西尾幹二は、「ふつうの、まともな人間のこころ」を持つのか?

1195/西尾幹二=竹田恒泰と小川榮太郎の本、全読了。

 8月中に読了した書物に、少なくとも次の二つがある。いつ読み始めたかは憶えていない。感想、伴う意見等を逐一記しておく余裕はない。以下は、断片的な紹介またはコメントにすぎない。
 第一、西尾幹二=竹田恒泰・女系天皇問題と脱原発(飛鳥新社、2012)。

 1.第三部は「雅子妃問題の核心」。かつて対談者の二人はこの問題に関して対立していて、私は西尾幹二の議論に反対していた(ということはたぶん竹田と同様の見方をしていた)。この本では、正面からの喧嘩にならずに平和的にそれぞれが言いたいことを言っている。
 離れるが、①皇太子妃に「公務」などはありえない。皇后についても同様だ。②美智子皇后が立派すぎるのであり、皇后陛下を標準として考えてはいけない。かつての時代を広く見れば、模範的な皇族を基準とすれば、異様な皇族など、いくらでもいたはずだ、皇太子妃であっても。また、おおっぴらに語られることはなくとも、異様な天皇もいたであろう。それでも皇統は続いてきた。皇族が「尊い」理由は各人の人格・人柄等にあるのではなく「血統」にある。皇太子妃は皇太子の配偶者であるというだけで、「尊い」と感じられるべきだろう。

 2.本件当時に「怒り」のような感情を抱いたものだが、2012年4月に羽毛田宮内庁長官は今上天皇・皇后の薨去後の方法についての希望ごを記者会見で発表したことがあった。
 今上天皇が何らかの意見をお持ちになることはありうるだろうが、天皇の「死」を前提にする具体的なことを平気で宮内庁長官がマスコミに対して話題にすること自体に大きな違和感を覚えた。

 よろしくない場合もあるが、日本と日本人は井沢元彦の言うように「言霊」の国なのではないか。一般人についてすらその将来の「死」に触れることが憚られる場合もある。ましてや天皇や皇族についてをや。

 また、この本p.148によると、羽毛田は皇后陛下のご本意と異なることを発表したらしい。ひどいものだ。竹田は宮内庁ではなく皇居域内に建物はあっても「宮外庁」だと言っていたが、その通りのようだ。羽毛田は元厚生労働省の官僚。憲法改正の必要はないとしても、皇室に関係する組織のあり方は行政機関も含めて、検討の必要がある。
 3.第四部の「原発問題」では二人の意見は基本的に一致しているようだが、私は賛同していない。竹田の最初の論考に原発労働者の実態が詳しく書いてあった記憶があるが、それを読んだとき(この欄には何も書かなかったはずだが)、それなら労働環境を改善すればいいだけのことで、原発自体に反対する理由にはならない、と感じたことがある。その他、二人の<反原発>文献は読んでいない。

 第二、小川榮太郎・国家の命運-安倍政権・奇跡のドキュメント(幻冬舎、2013)。
 1.p.143-4、昨年末の総選挙についてのマスコミ報道-マスコミは二大政党からの選択という「文脈を敢えて無視するかのように、『第三極』をクローズアップした。民主党三年三カ月の検証番組はなかった。自民党に政権復帰能力があるかどうかの検証もなされなかった。第三極や多党化という泡沫的な現象を追うばかりだった」。「日本のマスコミのこの二十年に及ぶ、度重なる浅薄な選挙誘導の罪、日本を毀損する深刻度において民主党政権と同格だ」。以上、基本的に同感。
 朝日新聞等の「左翼」マスコミは民主党政権に対して何と「甘く」、優しかったことだろうか。批判するにしても<叱咤激励>にあたるものがほとんどだっただろう。そして思う、いかに「政治的」新聞社・報道機関であっても<報道>業者であると自称しているかぎり、「事実」についてはさすがに真っ赤なウソは書けない。あれこれの論評でもって庇おうとしたところで、「事実」自体を変更することは(あくまで通常はだが)朝日新聞であってもできない。民主党政権にかかわる「事実」こそが、同党政権を敗北に導き、同党の解党の可能性を生じさせている。

 2.つぎの文章は、しっかりと噛みしめて読まれるべきだろう。-安倍晋三の「微妙な戦いは、我々国民一人一人が、安倍政治の軌道を絶えず正し、強い追い風で安倍の背中を押し続けない限り、不発に終わる。そして、もしそれが不発に終われば、日本は、中国の属国となってその前に這いつくばり、歴史と伝統を失い、日本人ではなく単に日本列島に生息する匿名の黄色人種になり下がるであろう。/その危機への戦慄なきあらゆる政策論は、どんな立場のものであれ、所詮平和呆けに過ぎない」(p.203)。

 3.知らなかった(大きくは報道されなかった)ので戦慄すべきことが書かれている。p.234以下。

 「事実上の発射準備」である「射撃管制用レーダーの照射」を中国海軍艦艇が行ったのは1/30で、翌月に小野寺防衛相が明らかにし抗議した。「最早挑発ではない。歴とした武力による威嚇」であることに注目すべきことは言うまでもない。問題は、以下だ。
 「
民主党政権時代にも、レーダーの照射は少なくとも二回あったが、中国を刺激するとの理由で公表しなかった」。

 小川が書くように(p.235以下)、民主党政権が続いて「その極端な対中譲歩が続いて」いれば、尖閣諸島はすでに「実効支配されていた可能性が高いのではないか」。

 小川はその理由を言う。-中国が「軍事」衝突なく施政権を奪えば、尖閣に日米安保は適用されない。「もし民主党政権が『中国を刺激するな』を合い言葉に、軍事行動なしに中国に施政権を譲ってしまえば。その段階でアメリカには防衛義務はなくなる」。
 ここでの「施政権」とは、「事実上の支配」とおそらくほぼ同義だろう。民主党政権が中国による何らかの形での尖閣上陸と実力・武力・軍事力による「実効支配」を、日本の実力組織(さしあたり、海上保安庁、自衛隊)を使って妨げようとしなかったら、かかる事態は生じていたかと思われる。小川はさらに、次のように書いている(p.237)。

 「勿論、民主党政権は口先で抗議を続けただろう。型通りの抗議を続けながら泣き寝入りを…。しかし現在の国力の差では、中国に実効支配を許したものを日本が取り返すことは至難だ」、日本は「世界の笑い者になる」。この点だけでも、「安倍政権の誕生は、間一髪だった」。

 さて、中国が強い意思をもって尖閣に上陸し「支配」しようとする状況であることが明らかになったとき、朝日新聞は、あるいは吉永小百合を含む「左翼」文化人は何と言い出すだろうか。<戦争絶対反対。上陸と一時支配を許しても、その後で中国政府に強く抗議し原状回復を求めるとともに、中国の不当性を国際世論に広く(言葉を使って)訴えればよい。ともかく、日本は武力を用いるな>、という大合唱をし始めるのではないか。かかる「売国奴」が「左翼」という輩たちでもある。

 4.この本は安倍晋三支持の立場からのもので、そうでない者には異論もあるかもしれない。だが、悲観的、絶望的気分が生じることの多い昨今では(今年に入っても程度は質的に異なるが、似たようなことはある)、奇妙に安心・楽観的気分・希望を生じさせる本だ。  

1157/週刊朝日12/21号、森田実-日本での「右派」性は欧州では<あたりまえ>のこと。

 〇週刊朝日12/21号の表紙は「原発再稼働派 悪夢の430議席」と大きく謳っている。中身を読むと「原発再稼働派」とは少なくとも「民自公維」の四党を指しているらしい。
 記事中の森田実の予測では4党合計で419、田崎史郎のそれでは436なので、これらから「430」と記者(そして編集長)は表現したようだ。
 細かくいえば国民新党や新党改革も単純な「反・脱原発」派ではないと思うが、それは別として、興味深いのは週刊朝日がこの430議席/480を、「悪夢」と表現していることだ。
 すなわち、週刊朝日は「原発再稼働派」ではない、日本未来の党、社民党、共産党(、ついでに新党日本=田中某)らと同じ立場(・立ち位置)にいることを自ら明瞭にしているわけだ。
 前回に書いたばかりだが、日本未来の党、社民党、共産党らは「左翼」政党と称してよく、これらと同じ立場に立つのも、朝日新聞社系の週刊誌ならば、不思議でも何でもない。朝日新聞グループの「左翼」性をあらためて確認することになる
だけだ。
 その「左翼」性からすれば、自民党単独過半数獲得等の予想は、まさに「悪夢」に違いない。朝日新聞本紙も週刊朝日も最近は何やら精彩を欠くよう見えるのは、民主党による「歴史的」政権交代に喝采を浴びせたことを少しは気恥ずかしく感じているからだろうか。それならばよいが。一時的に温和しくしているだけの可能性が高い。
 〇森田実は一部の自民党候補の推薦者に名を連ねているが、そのことと矛盾するかのような次のような発言を、上記週刊朝日に載せている。
 「参院選で維新が飛躍すれば、公明を外した『自維連立』も考えられる。そうしたら極右政権の誕生で、一気に『戦争ができる国』へかじを切ることになる」(p.32)。
 一部の自民党候補の選挙公報上の推薦者になっておいて、上のような、「極右…」とか「戦争ができる…」とかの表現はひどいだろう。
 ひょっとすれば、週刊朝日の記者または編集長・小境郁也が元の森田の言葉を修正・改竄したのかもしれない。それくらいのことを、朝日グループの記者たちはするだろうし、これまでもしてきた。
 そうでないとすれば、元日本共産党員だった森田の「地」の気分が思わず出たことになるのかもしれない。どちらでもよい、些細な問題だが。
 〇森田実の発言の正確さはともかく、自民党(とくに安倍晋三)や維新の会(とくに石原慎太郎)の主張について「右派」、「右翼」、「右傾化」といった批判をしばしば目にする。
 だが、きちんと指摘しておきたいことだが、①国家が国家・国民の防衛のための軍隊(国防軍・自衛軍)をもつこと、②「集団自衛権」をもち、かつ行使することは、NATOに加盟している諸国、つまりドイツも社会党出身大統領のフランスも、あるいはチェコ等々でも当たり前のことであり、当たり前の現実であって、<ごくふつう>のことなのであり、欧州的意味での「左翼」政権の国でも変わりはない、ということだ。
 上の二点の主張をもって「右派」、「右翼」、「右傾化」というならば、NATOに加盟している諸国はすべて「右派」、「右翼」であり「右傾化」していると叙述しなければならない。朝日新聞は、そのような書きぶりをしないと論旨一貫していないことになる。
 つまりは、上の二点のような主張をし、憲法改正や憲法解釈変更を唱えることをもって「右派」、「右翼」、「右傾化」と評する一群の者たちがなお存在するというのは、じつに日本に特殊・特有の、異様な現象なのだ。このことに気づかない、1947年時点での思考状態のままで停止したままの政党や人々を、できるだけ早く消滅させ、またはできるだけ少なくする必要がある。日本が生き延びるためには。

1110/橋下徹の「手順」・「情報公開」感覚と「役立たず知識人」や月刊正論。

 〇橋下徹のツイッターについて松井一郎が「今日もストレスがたまっているんやな、という感じで見てます。早く寝ればいいのに」と語ったそうだが(産経新聞4/18の記事「一日平均11ツイート/つぶやきすぎの橋下市長に松井知事『ストレスたまってるんやな』」)、たしかに「ストレス」もあるだろう。但し、内容の当否について議論の余地はあるとしても、並々ならぬ文章力、論理構成力、熱意等々によるところも大きいだろう。
 宮崎哲弥月刊ヴォイス5月号(PHP)で、橋下徹は「他方で非常に手続き的政正当性にこだわる側面があって、府政にせよ、市政にせよ、つぶさにみればプロシージャー(手続き)に重きが置かれているのが特徴的です。…やはり弁護士出ということでしょう」と発言している(p.66)。
 さすがに宮崎は長年にわたって橋下徹を観察して、よく理解しているようだ。上は原発再稼働問題に関連したものではないが、ブログを読んでいると、橋下徹は、原発の危険性を過度に強く認識しているというよりも、民主党政府が進めている再稼働に向けての「手順」を問題視し、批判している、と理解できる。
 消費税問題について小沢一郎の言い分の方が正しいと橋下徹が言って小沢グループは喜んだと伝えられているが、これまた、民主党は選挙マニフェストで逆のことを書いていた、それとの矛盾を指摘する小沢の方が「論理的」に正しい、というだけのことで、全体として小沢一郎という政治家への信頼を語っているのでは全くないと思われる。
 朝日新聞が消費増税に賛成していることも橋下徹は批判している。また、橋下徹が市長選で「公約」していなかった教育関係条例の制定を朝日新聞の(大阪の?)記事が批判したこと等々に対して、その記事の記者を名指ししてツイッターで、ではなぜマニフェストに書いたのと真逆のことをしている民主党を批判しないのかと、正しい「論理」でもって反論・批判したりしている。異なるテーマも含むが、例えば、以下。
 「朝日新聞は本当にご都合主義。原発の是非を決める住民投票について大阪市議会は否決をしたけど、朝日新聞はそれにご不満。僕は署名した5万5000人の熱い思いをしっかりと受け止めて関西電力に対して新しい電力供給体制に向けての株主提案をします。しかし朝日新聞は住民投票をやりたい模様。」

 「朝日新聞はいつも僕に言ってるじゃない。物事を二者択一に単純化するな!もっと議論を尽くせ!中身を説明しろ!議論が拙速だ!白か黒かで決めるな!…だから今回は朝日新聞のご意見に従ったのですが。原発を是か非かで決めちゃいけないと。」(3/28)。 

 「君が代起立斉唱条例の採決の際には強行採決だ!と朝日新聞や毎日新聞は批判し続けた。マニフェストにも載っていなかった!と。消費税増税に関する今回の民主党内での決定についてはどう考えるんだ?国政は議院内閣制なので法案を出す前に過半数を獲る攻防がある。まさに今の状況。」

 「しかし朝日も毎日も消費税増税だから民主党には決めろ決めろの大プレシャーをかける。民主党のマニフェストにも増税のぞの字もなかった。むしろ消費税は上げないと明言していた。ほんと朝日も毎日も都合が良いよ。自分たちの好きなことは決めろ!自分たちの嫌いなことは決めるな!赤ん坊だね。」(同上)
 原発再稼働問題については、例えば以下。 

 「定期検査後の再稼働に原子力安全委員会の安全コメントは現行法上不要だ。ただそれは福島の原発事故が発生する前の平時の手続き。定期検査が目的だから定期検査だけで良い。民主党政権は完全に統治を誤った。今大飯に求められているのは定期検査ではない。安全性なのだ。定期検査と安全性は全く異なる」

 「民主党政権は、大飯の原発を定期検査の手続きで再稼働している。政権(保安院)が確認したのは定期検査を確認したまでだ。定期検査については、安全委員会はコメントしなくても良い。ところが定期検査の手続きを踏んだだけなのに、民主党政権は安全宣言をした。完全に国民を騙した。」

 「安全委員会は法令上、定期検査についてコメントをする立場にはない。ということは民主党政権は、大飯の定期検査をやっただけだ。これが今回の安全委員会のコメントではっきりとした。にもかかわらず政権は安全宣言。危険だ。これはもはや統治ではない。」

 イデオロギー的に「反原発」ではないことはもちろん、原発の危険性・安全性に関する特定の立場・考え方に立っているわけでもないように見える。
 橋下徹にとっては、決定の「手続」・「手順」、「統治」のシステム・プロセス(・仕方)に基本的な関心があるように見える。
 そのかぎりで、産経新聞4/20の社説「原発と橋下市長/電力確保の責任はどうした」は、気分は分かるが、必ずしも橋下徹に対する正面からの批判になっていない面があることを否めないだろう。
 〇橋下徹は、「手順」を重視するほか、(プロシージャーではなく)ディスクロージャーにも相当に熱心な政治家(地方自治体首長)だ。
 4/16~4/19の、大阪市改革プロジェクトチームと各部局の施策・事業(改革)担当者との間の「オープン議論」が、出席者全員の顔と発言内容(声)も含めて、すべて、大阪市のホームページを通じて、ユーストリームでビデオ(動画)として、(事後的にだろうが?)「公開」されていることをごく最近になって知り、一部を実際に見て驚いた。橋下徹はもちろん、大阪市職員の顔も発言もすべて、おおっぴらだ(なお、その会議に配布された資料は上記ウェブサイトから入手することもできる)。
 〇「ワンフレーズ・ポリティクス」とかいう言葉があり、小泉純一郞の手法はそれだと言われもしたが、橋下徹のツイッターや上記動画を見ると、橋下徹は「ワン・フレーズ」どころではない。
 テレビ等では数語で何かを断定するかのごときコメントを発しているような印象もあるが、それはテレビ局の「編集」による「ぶった切り」によるところも大きいようだ(橋下徹がテレビ用に意識して短くしている側面もあるだろう)。
 〇橋下徹のツイッターの内容や動画上での会議での発言の仕方等を見聞きしていると、いったいどこに「ファシスト」、「アナーキスト」、「デマゴーグ」がいるのかと、そのように断定的に書いた者たちの<神経>を疑いたくなる。
 上掲の宮崎哲弥発言が載っている座談会で、萱野稔人は橋下徹について「彼や彼の政策を現段階で『〇〇主義』と表現するのは、過大評価でもあるし、見くびっていることにもなる気がします」と言っている(月刊ヴォイス5月号p.73)。
 萱野稔人とはどういう人物か知らないが(宮崎に「萱野さんは本当に左翼だったの?」と言われている。p.71)、上の発言は、的確だろう。
 同じ座談会の中で宮崎哲弥は橋下徹について「彼のうちにナショナリスティックな意気が宿っていることは疑いえません」と、また「文化左翼の嫌いな体育会的な気風も多分にもっている」と、語っている(p.66)。
 なぜ「左翼」は橋下徹を嫌うのかについては書いたこともあるが、宮崎哲弥も言及しているように、簡単には、「保守」的または「右派」的な心性をもつ人物だからこそ、「左翼」はこぞって批判した(している)に違いないと考えられる。そして逆に、石原慎太郎は自らに近い「心性」・「感性」を橋下徹のうちに見出したのだろう。
 日本共産党は誰が「敵」かを、さすがに鋭く掴んでいるように思われる。
 民主党・自民党推薦だった前市長平松某よりも、自分たち・日本共産党にとってのはるかに強い脅威を、橋下徹に見出したからこそ、あえて民主党・自民党が推したのと同じ候補を支持したのだ(自党独自の候補を降ろしてまで。<反・反共統一戦線>)。
 そうした中で、自称<保守>派の佐伯啓思・中島岳志・藤井聡・東口暁という<西部邁・佐伯啓思グループ>が種々の観点から橋下徹を批判し、<保守>派らしき、「真正保守」を名乗る編集部員もいる産経新聞社発行の月刊正論5月号の巻頭で適菜収は橋下徹を「全体主義」者扱いし、国家解体を狙う「アナーキスト」だ、「デマゴーグ」だと断じた。
 月刊正論編集長・桑原聡までが-くどいが繰り返しておく―橋下徹を「きわめて危険な政治家」、「目的は日本そのものの解体にある」と明言した。
 こういう構図は、どこかきわめて奇妙なのではないか。倒錯が見られるのではないか。
 中国共産党の「工作」は、日本の<保守>系論壇・雑誌(評論家・編集者等々)にすら及んでいるのではないかとすら考えたくなる。
 小泉純一郞・民主党・橋下徹をすべて「(構造)改革」派と一括して理解して批判する佐伯啓思も、あまりに単純かつ短絡的だ。小泉「改革」と民主党(の意図した)「改革」と橋下徹(の意図している)「改革」とは、一括できるほどに同じなのか(=共通性が大きいのか)? 佐伯啓思にしてすら、学者らしき抽象化・単純化、概念・言葉の操作(・遊び)があると思えてならない。
 上記の萱野稔人の言葉を再び引用したいところだ。
 別の、中央公論5月号の<官僚覆面座談会>から、最後の二つを、一部省略して紹介して、今回は終えておこう。
 B「…期待しすぎてもいけないけれど、彼のような政治家を殺してはいけないと思う」。
 A「…ここでした批判や意見についても徹底的に勉強して、対抗するために研鑽を積む」だろう、「批判をすべて養分にしてしまう。そういう希有な人物であることは間違いない」。(以上、中央公論5月号p.133)。

1047/朝日新聞の9/21社説-「左翼」丸出し・幼稚で単純な「民主主義」観。

 朝日新聞の9/21社説(の第一)を読んで、呆れてモノが言えない、という感じがする。
 9/19の「脱原発集会」を最大限に称える社説だ。
 平然と大江健三郎の名前を出して、その言葉が印象的だなどと書いているが、大江健三郎という名が「左翼」の代名詞となっているほどだとの知識くらいは持っているだろう。同じ「左翼」の朝日新聞(社説子)にとっては、そのような、<特定の>傾向のある人物らが呼びかけた集会であることは、何ら気にならないようだ。ずっぽりと「左翼」丸出しの朝日新聞。
 この社説が説くまたは前提とする「民主主義」観も面白い。
 まず、「民主主義」を善なるものとして、まるで疑っていない。限界、さらには弊害すらあることなど、全く視野に入っていないようだ。怖ろしいことだ。
 「人々が横につながり、意見を表明することは、民主主義の原点である。民主主義とは、ふつうの人々が政治の主人公であるということだ」。
 こういう文章を平気で書ける人物は、よほどの勉強不足の者か、偽善者であるに違いない。
 また、間接民主主義よりも「直接民主主義」の方が優れている、という感覚を持っているようだ。「市民主権」論の憲法学者・辻村みよ子らと同様に。以下のように能天気で書いている。
 「国の場合は、議会制による間接民主主義とならざるを得ないが、重大局面で政治を、そして歴史を動かすのは一人ひとりの力なのだ。/米国の公民権運動を勇気づけたキング牧師の「私には夢がある」という演説と集会。ベルリンの壁を崩した東ドイツの市民たち。直接民主主義の行動が、国の政治を動かすことで、民主主義を豊かにしてきた」。
 「プープル主権」論は間接民主主義よりも直接民主主義に親近的なのだが、その「プープル主権」論の発展型が社会主義国に見られる、あるいはレーニンらが説いた「プロレタリア民主主義」あるいは「人民民主主義」に他ならない。朝日新聞の社説は、じつは(といっても従前からで目新しくもないが)<親社会主義(・共産主義)>の立場を表明していることになるのだ。
 その次に、以下の文章がつづく。
 「日本でも、60年安保では群衆が国会を取り囲んだ。ベトナム反戦を訴える街頭デモも繰り広げられた。それが、いつしか政治的なデモは沖縄を除けば、まれになった。……」
 ここでは、「60年安保」闘争(騒擾) や「ベトナム反戦」運動が、何のためらいもなく、肯定的に捉えられている。
 さすがに朝日新聞と言うべきなのだろう。「60年安保」闘争(騒擾) にしても「ベトナム反戦」運動にしても、このように単純には肯定してはいけない。むしろ、「60年安保」騒擾は、憲法改正(自主憲法の制定)を遅らせた、戦後日本にとって決定的に重要な、消極的に評価されるべき<事件>だった、と考えられる。背後には、いわゆる進歩的知識人がいたが、そのさらに奥には社会主義・ソ連(ソ連共産党)がいて、「60年安保闘争」を支え、操った。そんなことは、朝日新聞社説子には及びも付かないのだろう。
 唖然とするほどに幼稚な「左翼」的、単純「民主主義」論の朝日新聞社説。これが、日本を代表する新聞の一つとされていることに、あらためて茫然とし、戦慄を覚える。

1037/「戦後」は終わった(御厨貴)のか?

 再述になるが、新保祐司の産経7/05「正論」欄は、「戦後体制」または「戦後民主主義」を「A」と略記して簡潔にいえば、大震災を機に①Aは終わった、②Aはまだ続いている、③Aは終わるだろう(終わるのは「間違いない」)、④Aを終わらせるべきだ、ということを同時に書いている。レトリックの問題だなどと釈明することはできない、「論理」・「論旨」の破綻を看取すべきだ(私は看取する)。
 上の点はともあれ、東日本大震災発生によって「戦後」は終わり、「災後」が始まった、ということを最初に述べたのは、菅直人に嫌われてはいない、東京大学教授・御厨貴だったようだ(月刊文藝春秋?)。
 たしかに「災後」ではあるが、「戦後」はまだ終わってはいない、というのが私の認識だ。
 井上寿一は産経8/03の「正論」欄の中で、「『8月15日』から始まった戦後日本の歴史のサイクルは『3月11日』に終わった」という一文を挿入している。「戦後日本の歴史のサイクル」という表現の意味が必ずしもよく判らないので断定できないが、3/11を戦後日本の最大の画期の如く(御厨貴と同様に?)理解しているとすれば、支持することはできない。
 今年の3/11を語るならば、1993年の細川護煕を首相とする非自民連立内閣の成立も、その翌年94年の村山富市を首相とする自社さ連立政権の成立も、大きな歴史の画期だった。これらよりも重要な画期は、2009年総選挙後の民主党「左翼・売国」政権の誕生だったかもしれない。これらの内閣の変遷から視野を外しても、1995年のオウム事件・サリン事件は、戦後「民主主義と自由主義(個人主義)」の行き着いたところを示した、とも言いうる(当時にそんな論評はたくさんあったのではないか)。
 誰でも自分が経験した目下の事象を(たんなる個人的にではない)社会的・歴史的に重要に意味を持つものと理解したがる傾向にあるかもしれないが、今年の3/11をもって「戦後」が終わったなどと論じるのは(あるいはそういう時代認識を示すのは)、「戦後」はまだ続いている、ということを糊塗・隠蔽する機能をもつ、犯罪的な言論だと考える。
 1947年日本国憲法はまだ存続している。自衛隊の憲法上の位置づけに関する議論に画期的な変化が生じたわけではない。日米安全保障条約もそのままだ。なぜ、「戦後の終焉」を語ることができるのか。
 3/11を機会に、「戦後レジーム」の終焉へと、あるいは憲法改正へとさらに奮闘すべきだ、という議論ならば分かる。
 だが、「なすべき」次元の目標と客観的な現実とを混同してはならない。
 根拠論考が(今の時点で)定かでないので引用し難いが、佐伯啓思は、この度の大震災を「戦後」の終わりを超えた、<近代>または(原発に象徴される)<近代文明>の終焉を示すもの(それの限界・欠陥を示すもの)と理解しているように見える(とりあえずは関係文献を参照要求できないが)。
 かりに上のことがあたっているとすれば、反論は可能だ。
 専門家ではないが、ニーチェ、キェルケゴールらは「近代」の限界・欠陥を強く意識したとされる。それは19世紀末だ。グスタフ・クリムトらの<世紀末>芸術運動も時期的には重なっている。何よりも、その後の第一次「世界」大戦こそがすでに、「近代」の終わりの象徴だったのではないか。第二次大戦の勃発も同様かもしれないが、その戦争の最後に「核兵器」が使われて十万人以上が一瞬にして生命を剥奪された、ということはまさしく「近代」(文明)の終わりそのものではなかったのだろうか。もう少し後にずらしても、1989年以降のソビエト解体・東欧「社会主義」諸国の終焉もまた、「近代」の終焉の徴表と理解することが不可能ではない。
 「近代(文明)」の終わりなるものは、もう100年にわたって続いているのではないか? ついでながら、アンドロイド・スマートフォンとやらを含む近年のIT技術の深化・変容は、どのように歴史的に(文明史的に)位置づけられるのだろうか。
 といったわけで、佐伯啓思のいくつかの文章をまじめに(?)読んではいるが(産経新聞、月刊正論、雑誌「表現者」内のものであれば必ず読む。ウェッジを買ったときまたは東海道新幹線のグリーン・カーを利用したときも読む(但し、連載は最終回を迎えた))、全面的に賛同しているわけではない。
 余計ながら、最近のサピオ(小学館)で小林よしのりが、佐伯啓思の産経新聞6/20の佐伯「日の蔭りの中で/原発事故の意味するもの」を、佐伯啓思が<反原発>に立つものとして「さすが」と高く評価している。そのように<反原発>論者に理解されて、佐伯は不満を感じないのだろうか。

1034/佐々淳行・ほんとに彼らが日本を滅ぼす(幻冬舎)を1/3読む①。

 佐々淳行・ほんとに彼らが日本を滅ぼす(幻冬舎、2011.07)を一気に1/3ほどまで読む(計245のところp.86まで)。以下、まずは順を追ってメモしておく。
 ・佐々によると、「菅氏は冥府魔界から人間界に這い出してきた魑魅魍魎の地底人の妖怪の類だ。ウソをいい、人を裏切り、人を欺し、自己愛と総理の椅子に一日でも長くしがみつくこと自体が(略)目的のエゴイストで、国家観も社会正義観もない。日本人の道徳律〔略〕のすべてを欠く。その人格は論評のしようもない程低劣、妖怪としかいいようのない恥知らずである」(序章p.11)。
 こうまで罵倒される首相も珍しいだろう。8/10にようやく明確な近日中の辞任を表明した。かかる人物を首相にならしめた契機になった2009総選挙に際しての、民主党への投票者は、どの程度反省し、後悔しているだろうか。数千万分の一票にすぎず、何の反省も後悔もないのかもしれない。むろん第一の主犯は、そのような投票行動を誘発した朝日新聞等の「左翼」マスメディアにあると思われるが。
 ・日々の新聞・テレビ報道等は断片的で非本質的なものを多く含むため、佐々のこの著によるこの間の経緯の叙述は、資料的にも、わずか5カ月のことだが歴史回顧的にも、大いに役立つ。 
 例えば、原子力対策特別措置法にもとづく「原子力緊急事態宣言」は3/11の午後7時3分に発令された、とされる(p.27)。
 政府(・枝野内閣官房長官)が当初、直接の危険はないが「万全を期すため」と称して規制・指導を行ったこと、最初の塔屋爆発後の政府・東電の混乱や情報提供の不備等々も、具体的に叙述されている。
 ・3/25の福島第一原発付近住民への<自主的な避難の要請>が、原子力災害対策特別措置法による正規の避難「指示」・「勧告」だと「放射性物質による汚染拡大を正式に認定することになり、周辺住民の不安に拍車をかけかねない」(下記新聞)という理由での、中途半端かつ人任せの無責任な措置だったことも、毎日新聞3/26記事を引用しながら指摘している(p.52-53)。
 ・他にも、「菅直人という人間の宿痾ともいうべき『責任逃れ』」、「専門家への丸投げ」、会議・本部の「二〇以上の組織」の乱造、「惨憺たる」東電・原子力安全保安院等の「広報体制」等が言及されている。
 ・佐々によると、原子力安全委員会委員長・斑目春樹は、3/12の首相現地視察に同行して(塔屋爆発前に)「原発は大丈夫です。構造上爆発しません」と進言したらしい(p.59)。
 ・ 4/04に東電は第一原発の汚染水の海中放出を始めた。これは原子炉等規制法64条による(緊急)措置らしい。このように、法学部出身警察・危機管理官僚だった人物らしく、根拠法令(・条項)やその有無にも配慮された叙述がなされているのが、一般新聞・テレビ報道などとは異なる。
 もっとも、この緊急措置の実施は、関係自治体や諸外国への事前連絡・根回しがなかったために混乱や批判も生じた(p.63-64)。
 ・佐々は、5/06の、菅直人首相による浜岡電発運転停止要請に対しても批判的だ。
 理由をあえて整理すれば一つは「法的根拠」のないこと、二つは「人気取り」の側面が大きく、「電力需要への責任など、菅総理は毛頭感じていない」のだろうということ、両者に関連して「政府での検討過程も明らかにされていない」こと、が挙げられている。
 かつてこの欄で、法的根拠がなくとも行政指導ならばできるだろう旨を書いたことがある。厳密な法的理屈はそのとおりだと今でも思うが、重要な政策決定についてはいかに「要請」ではあっても、少なくとも「閣議決定(了解)」くらいは得ておくべきだ、内閣総理大臣かぎりでの行政指導・「要請」権限は濫用されてはならない、ということは今の時点で追記しておきたい。

 ・東電が第一原発一号機は津波襲来から16時間後に「メルトダウン」していたことを認めたのは、5/12だった(p.72)。確認まで二ヶ月以上も要する(p.72)ものなのか、東電は隠してはいなかったのか、疑問は残るだろう。
 
・「言った、言わない」の「水掛け論は、菅内閣の特徴にして看過できない悪弊」だとして具体例も挙げられている(p.73-74)。佐々は第一原発所長・吉田昌郎の継続注入の判断を「称賛に値する」としているが、海水注入延期問題も斑目春樹の「言った、言わない」水掛け論的だった(p.72-73参照)。
 ・第一章は、「菅内閣は危機管理以前に、組織としての体を成していない。/…この人は組織というものがわかっていない」、「保身に走り、言い訳を繰り返す姿は醜い」等と、まとめられている(p.74)。
 本来書きたかったことは、次の国民保護法に関する叙述についてだ。次回以降にする。

1027/「ストレステスト」の法的問題性-「権威による行政」。

 <法令による行政>を軽視している(そして<権威による行政>を行っているのではないか)という感想は、(前回からのつづきで)第二に、「ストレス・テスト」導入をめぐるいきさつからも生じる。
 産経ニュースをたどれば、菅直人は7/07に参議院委員会で、民主党・大久保潔重の「首相自ら再稼働の条件について説明してほしい」との質問(・要求)に対して、次のように答えている。
 「従来の法律でいえば点検中の原子炉の再開は(経済産業省)原子力安全・保安院のチェックで経産相が決められるが、それでは国民の理解を得るのは難しい。少なくとも原子力安全委員会に意見を聞き、ストレステストも含めて基準を設けてチェックすることで国民に理解を得られるか、海江田氏と細野豪志原発事故担当相に仕組みの検討を指示している」。
 玄海原発再稼働にかかる地元町長と佐賀県知事の同意を得られそうになった時点で、菅直人が「ストレス・テスト」なるものの必要性を唐突に(?)かつ独断的に言い出して、<政治的>にも話題になった。また、上の発言に見られるように、「ストレス・テスト」の具体的内容・基準について細かな想定のない抽象的なイメージしか持っていないことも明らかだった。
 ここで問題にしたいのは、あとで自民党・片山さつきがストレステスト(合格)は再稼働の要件かと質問しているが、
海江田万里経産大臣が「今回、佐賀県玄海町の岸本英雄町長には(玄海原発の)安全性が確保されているとして(再稼働の同意を)お願いしたが、そういうわけにいかなくなった」等と述べているように、結果的にまたは実質的には、再稼働の要件を厳しくしていると見てよいことだ。
 ここでも(より十分な)安全性の確保・確認が大義名分とされている。しかし、詳細は知らないが「法律」とはおそらく原子炉規制法〔略称〕およびそれの下位の法令(・運用基準?)を意味するのだろう、菅直人の言うように「従来の法律でいえば点検中の原子炉の再開は(経済産業省)原子力安全・保安院のチェックで経産相が決められる」のだとすれば、そのような法律(・法令)上の定め以上に厳しい基準を再稼働について課すことは、原発・電気事業者からすれば、法令で要求されていないことを内閣総理大臣の思いつき(?)的判断でもって実質的に要求されるに等しい。
 これは関係法律の「誠実な執行」にあたるのだろうか? 「ストレステスト」なるものがかりに客観的にみて必要だとしても、内閣総理大臣の唐突な思いつきで事業者に対して実質的により大きな負担を課すことになるものだ。そうだとすれば、関係法律(または政令等)をきちんと改正して、あるいは関係法律の実施のために厖大な「通達」類があるのかもしれないがその場合は「通達」類をきちんと見直して改訂したうえで、「ストレステスト」なるものを導入すべきだろう。
 菅直人のあまりにも<軽い>あるいは<思いつき>的発言は、個々の関係法律(上の言葉にいう「従来の法律」)をきちんと遵守する必要はない、それに問題があれば内閣総理大臣という地位の<権威>でもって法令以上のことを関係者に要求し実質的に服従させることができる、という思い込みまたは考え方を背景としているのではないか。
 <軽い>・<思いつき>・<唐突>といった論評で済ますことのできない問題がここには含まれている、と思われる。既存の法令類に必ずしも従う必要はなく、それらの改廃をきちんと行っていく必要もない、そして首相の<権威>でもって「行政」は動かすことができる、と菅直人は考えているのではないか。<独裁者>は、法令との関係でも「独裁」するのだ。
 その他の民主党閣僚等も自民党幹部も、このような菅直人の言動の本質的な部分にあるかもしれない問題を、どの程度意識しているだろうか。
 瞥見するかぎりでは、かかる<法的>感覚または<法秩序>感覚にかかわる問題関心・問題意識は、一般全国紙等々のマスメディアにはない。阿比留瑠比(産経)は有能な記者だと思うが、法学部出身者らしいにもかかわらず、<法令と行政>の関係についての問題意識はおそらくほとんどない(少なくとも彼が執筆している文章の中には出てこない)。阿比留瑠比がそうなのだから、他の記者に期待しても無理、とでも言っておこうか。
 まだ、続ける。

1026/菅直人・民主党内閣は「法治行政」ではない「権威による行政」志向?

 一 よく分からないことが多すぎる。菅直人は、あるいは民主党内閣そのものが、そもそも<法律にもとづく又は法律にしたがった>行政活動という考え方を理解していないか、無視する傾向にあるように感じる。法律(やそれ以下の政令等)の制定・改廃そのものが<政治>でもあるが、法律や政令等(以下、法令)があるかぎりは、それを内閣総理大臣をはじめとする行政部は遵守し、きちんと実施・執行すべきものだろう。また、既存の法令に不備・不都合があれば、淡々と改正や新法令の制定をすべきものだろう。
 現憲法73条は、「内閣」の事務の一つとして「法律を誠実に執行」することを明記している(第一号)。
 はたして菅内閣は「法律を誠実に執行」しているのだろうか、あるいはそもそも、そういう姿勢・感覚を身につけているのだろうか。菅直人にあるのは、<法的権限にもとづく政治・行政>よりも<権威による政治・行政>をより重視しようという感覚ではないかと思われる。法律は「国家」権力そのものなので、それをできるだけ忌避したいという<反国家>=<反法律>心情を有しているのではないかとすら疑いたくなる。あるいは、何となく国家中枢が溶融していて、シマリがないように感じてしまうのは、法令を遵守した行政とそうではない政治的に自由な(具体的な法令が存在しないために法令から自由な)行政との区別がきちんとついていない、ということにも原因があるのではないだろうか。
 以下、専門的な議論に立ち入る能力はないが、いくつかの具体例を紹介し、またはそれらに言及する。こうした諸問題があるにもかかわらず、テレビの報道系番組はもちろんのこと、一般全国紙もまた、以下のような<法的>議論・問題についてほとんど論及することがないのは、いったい何故なのだろうか、というのも、最近感じる不思議なことでもある。
 二 安倍晋三らもすでに批判的に指摘していることだが、今時の大震災・原発事故に関して、法律上の「安全保障会議」が召集・開催されなかった、という問題がある。

 安全保障会議設置法(法律)によると、同会議は内閣に設置され、議長と議員で組織され、議長を内閣総理大臣、「議員」を総務・外務・財務・経済産業・国土交通大臣・防衛の各大臣、内閣官房長官、国家公安委員会委員長およびこれら以外に内閣総理大臣の臨時の職務代理者(内閣法10条)があるときはその者、が担当する(4条・5条)。
 内閣総理大臣は、次に記す事項については、この会議に「諮らなければならない」と定められている(2条1項。 また、諮問なしにでも「意見を述べる」ことができる-2条2項)。
  その法定の事項のすべてを列挙するのは省略して、今時の震災・事故が該当する(または、その可能性がきわめて高い)のは、9つの事項のうち最後に明記されている以下の事項だ。
 「
 内閣総理大臣が必要と認める重大緊急事態(武力攻撃事態等、周辺事態及び前二号の規定によりこれらの規定に掲げる重要事項としてその対処措置につき諮るべき事態以外の緊急事態であつて、我が国の安全に重大な影響を及ぼすおそれがあるもののうち、通常の緊急事態対処体制によつては適切に対処することが困難な事態をいう。以下同じ。)への対処に関する重要事項 」。
 一~八に列挙されているのは大雑把には国防(・防衛)の基本方針・大綱類あるいは「武力攻撃事態」・「武力攻撃予測事態」、「周辺事態」に関する重要事項であり、今時の大震災・原発事故に直接の関係はなさそうだ(但し、この災害を奇貨としてのテロ・内乱等が予想されれば、全くの無関係ともいえないことになろう)。
 さて、今時の大震災・原発事故は、その地域的な広さおよび原発事故の深刻さの程度からみて、上にいう「我が国の安全に重大な影響を及ぼすおそれがあるもののうち、通常の緊急事態対処体制によつては適切に対処することが困難な事態」に該当するように考えられる。一~八号は別としても、今時のような災害発生が上の九号に該当しないとすれば、そもそもいかなる事態が九号に該当することになるのか(何のために九号があるのか)、きわめて疑わしいものと思われる。
 たしかに上の事項には「内閣総理大臣が必要と認める~」という限定が付いており、内閣総理大臣の判断の<裁量>性が認められ、内閣総理大臣が「必要と認め」なければ安全保障会議に諮るべき事項ではないということに形式的にはなりそうだ。
 しかし、今時の大震災・原発事故は、「我が国の安全に重大な影響を及ぼすおそれがあるもののうち、通常の緊急事態対処体制によつては適切に対処することが困難な事態」だと、内閣総理大臣が認めてしかるべき事態ではないかと思われる。すべてが内閣総理大臣の<政治的・政策的>な、自由な判断に委ねられている、とは考え難い。
 そうだとすると、安全保障会議が招集・開催されず、「重要事項」についてその会議に諮ることなく震災や原発事故への対処がなされたことは、菅直人首相による「必要と認める」ことの懈怠を原因とする、安全保障会議設置法の基本的な趣旨に違反した違法な対応だったのではないか、と考えられる。
 むろんその「違法」が法的にまたは裁判上どのように、またはどのような形で問題にされることになるのかはむつかしい問題があるだろう。だが、かりに訴訟・裁判上の問題に直結しなくとも、たんなる<政治>領域に押しやることができず、客観的には<違法=法律違反>を語ることができる場合のあることを承認しなければならないだろう。
 まだあるが、長くなったので、第二点以降は、次回へと委ねる。
 なお、上記法律7条には、「議長は、必要があると認めるときは、統合幕僚長その他の関係者を会議に出席させ、意見を述べさせることができる」とも定められている。

1023/菅直人と朝日新聞の低劣・卑劣・愚劣ぶり-あらためて。

 何ともヒドイものだ。これほどとは。
 一 菅直人は7/13に、「脱原発」=「将来は原発がない社会を実現する」と記者会見で述べたが、閣僚等から疑問・批判が出ると、7/15に、「私の考え」、「個人的な考え方」だったと釈明?した。
 内閣総理大臣たる者が、英語で「首相」と書かれ、桐の紋まで刻まれた台に自ら積極的に立って行った記者会見(記者発表)での発言を、わずか二日後に「私(個人)」の考えの表明だった(政府方針ではない)と後退させてしまうとは。
 この人は自らの内閣総理大臣たる地位を何と理解しているのだろう。首相としての記者会見(発表)の場で、内閣総理大臣担当者たる立場を離れた「私(個人)」の考えを表明できるはずがないではないか。
 かりにそれが閣内や民主党内で支持されていないこと(または唐突感も含めて疑問視されていること)が判明したとすれば、<私的>だったと逃げるのではなく、首相見解そのものを撤回・変更するというのが、スジというものだろう。
 こんなことが罷り通るのならば、菅直人の中部電力への浜岡原発停止要請はいったい何だったのかと言いたくなる。
 内閣総理大臣による行政指導だったのか、それとも、内閣総理大臣を担当している菅直人個人の<私的>要請(・願望)だったのか? 後者ならば、中部電力はまともに取り上げ、まともに検討する必要はなく、結果として従う必要もなかった。その後に今回のような閣内・民主党内での疑問・批判が出なかったから、たまたま(私的・個人的ではない)内閣総理大臣による要請(行政指導)になったのだとすれば、怖ろしい<政治・行政スタイル>だ。
 思いつきで適当なことを(ウケが良さそうで支持率がアップしそうなことを?)発言しておいて、反対論・疑問論が大きいと見るや、「私(個人)」の考えでしたとして逃げることが可能だとすれば、ヒドい、とんでもない、呆れるほどの<政治・行政スタイル>だ。
 この一点だけを取り上げても、菅直人首相とそれが率いる内閣の不信任に十分に値する。
 産経新聞はほぼ同旨で、7/16社説の大文字の見出しを「首相の即時辞任を求める」と打った。首相が辞任すれば、当然に菅直人内閣は瓦解する。
 産経とともに菅の7/13発言の内容にも疑問を呈していた読売新聞は、7/16社説で、<私的(個人的)>見解への転化をさほど大きくは問題視せず、その代わりに、主としてその発言内容自体をあらためて批判している。
 いわく、「そもそも、退陣を前にした菅首相が、日本の行方を左右するエネルギー政策を、ほぼ独断で明らかにしたこと自体、問題である。閣僚や与党からさえ、反発の声が一斉に噴き出したのは、当然だ」。「その発言は、脱原発への具体的な方策や道筋を示さず、あまりに無責任だった」。「首相は、消費税率引き上げや、環太平洋経済連携協定(TPP)への参加などを掲げ、実現が危ぶまれると旗を降ろしてきた。同様の手法のようだが、今回は明らかに暴走している」。
 二 何ともヒドイのは、菅直人だけではない。朝日新聞も、(やはり)ひどい。
 菅首相の7/13記者会見の内容につき
、「国策として進めてきた原発を計画的、段階的になくしていくという政策の大転換である」とし、「私たちは13日付の社説特集で、20~30年後をめどに「原発ゼロ社会」をつくろうと呼びかけた。…方向性は同じだ。首相の方針を歓迎し、支持する」と社説で明確に支持し、大歓迎した。
 そして内閣や民主党の全体的支持を得られるかどうかに懸念を示しつつも、最後は
「いまこそ、与野党を問わず、政治全体として脱原発という大目標を共有して、具体化へ走り出そう」と結んでいたのだ。
 とあれば、7/15の<私的(個人的)見解>との釈明後に、この問題をあらためて社説で取り上げて不思議ではないし、むしろ取り上げるべきだろう。
 しかし、朝日新聞は逃げた。トンズラを決め込んだ。7/17社説の見出しは、「福島の被災者―「原発難民」にはしない」と「レアアース―WTOを通じた解決を」の二つで、読売・産経が取り上げた重要な問題をスルーした。
 「いまこそ、…政治全体として脱原発という大目標を共有して、具体化へ走り出そう」と大見得を切ったところが、わずか二日後での(閣内・民主党内事情による)挫折?に、さすがに恥ずかしくなったのだろうか。いやいやそんな純情な朝日新聞ではない。要するに、自分たちに都合の悪いことには触れない。それだけのことだ。

1022/産経6/20佐伯啓思「原発事故の意味するもの」を読んで。

 やや遅いが、産経新聞6/20の佐伯啓思「日の蔭りの中で/原発事故の意味するもの」への感想は以下。
 第一に、日本人は「途方もない危険を受け入れることで、今日の豊かさを作り上げてきた」が、「ほんとうのところわれわれ日本人にそれだけの自覚があったのだろうか。あるいは、豊かさであれ、経済成長であれ、近代技術への確信であれ、ともかくもある『価値』を選択的に選び取ってきたのだろうか。私にはどうもそうとも思われない」と述べたあと、次のように続ける。
 「アメリカには強い科学技術への信仰や市場競争への信仰という『価値』がある。中国には、ともかくも大国化するという『価値』選択がある。ドイツにはどこかまだ自然主義的志向(あの「森」への志向)があるようにもみえる。では日本にあるのは何なのか。それがみえないのである。戦後日本は、大きな意味では国家的なあるいは国民的な『価値』選択をほとんど放棄してきた」。
 A ここでの疑問はまず、「価値」という概念の不明瞭さにかかわる。
 戦後日本(日本人・日本国家)は「平和と民主主義」という<価値>を、あるいは佐伯啓思がもうやめようという「自由と民主主義」という<価値>を、あるいは「軽武装のもとでの経済成長」という<価値>を選び取ってきた、とも言えるのではないか。
 B むろん、『日本という「価値」』(NTT出版)を著している佐伯啓思が「価値」という語を無造作に使っているわけではないだろうし、また、上のような<価値>的なものを佐伯が忌避したい気分を持っていることも分かる(つもりだ)。また、いわゆる「価値相対主義」に対する基本的な懐疑も基礎にはあるに違いない(と思われる)。

 だが、何が日本の「国家的なあるいは国民的な」「価値」であるべきか、という問題にさらに進めば、佐伯啓思の上掲書等を読んでも、じつははっきりしていない。戦前の京都学派への関心や好意的(?)評価らしきものから漠然としたものを感じることは不可能ではないが、佐伯は上の「価値」を自ら明確に提言・提示しているわけではない。「価値」をもたない、という指摘が無意味とは思えないが、それよりも、今日の日本はいかなる「価値」をもつべきか、という問いの方が本来ははるかに重要であるはずだと思われる。
 第二に、「脱原発は脱経済成長路線を意味するし、日本の国際競争力を落とす。そのことを覚悟しなければならない。一方、原発推進は、高いリスクを覚悟でグローバルな市場競争路線を維持することを意味する。グローバルな近代主義をいっそう徹底することである」と述べる。
 この二つの間の選択は「将来像」の「『価値』選択」だとも述べており、「価値」概念との関連についての疑問も生じるが、それはここではさておくとしても、次のような疑問がただちに湧く。
 ①「脱原発」=「脱経済成長」=「日本の国際競争力」の低下、②「原発推進」=「高いリスクを覚悟」しての「グローバルな市場競争路線」の維持、という二つの選択肢しかないのか? あまりにも粗雑で、単純な(佐伯啓思らしくない)書きぶりではないだろうか。実際のところ、問題はもっと多様で複雑なような気がする。
 あえて言えば、このような二項対立から出発すれば、もともと日本国家の安定的・持続的な経済成長ですら妨害したい、<日本の経済力>への怨念をもつ、<反国家>、そして<反日>の「左翼」は、簡単に前者の①を選択するだろう。それでよいのか?

1010/中谷巌は産経6/14「正論」で<脱原発>と言うが…。

 〇中谷巌が、産経新聞6/14の「正論」欄で最後にこう主張している。
 「文明論的にいえば、『脱原発』は、自然は征服すべきものだというベーコンやデカルトに始まる西洋近代思想を乗り越え、『自然を慈しみ、畏れ、生きとし生けるものと謙虚に向き合う』という、日本人が古来持っていた素晴らしい自然観を世界に発信する絶好の機会になるのではないだろうか」。
 知識人らしく?「文明論」的に語るのはけっこうだが、これはあまりにも単純でナイーヴな議論ではなかろうか。
 少しだけ具体的に思考してみよう。原子力(発電所)によるエネルギー供給が「ベーコンやデカルトに始まる西洋近代思想」の所産で、今やそれを「乗り越え」、日本古来の「素晴らしい自然観」を発信するときだ、と言うのならば、日本では毎年少なくとも1万人程度は死亡者(事故後3日を超えての死亡者を含む)を生む<凶器>でもある自動車の発明も「近代」の所産で、今やその製造も止めるべきではないのか。
 正確な統計は知らないが毎年必ず少なくない人命を奪っているはずの事故の原因となっている航空機の発明も「近代」の所産で今やその製造も止めるべきではないのか。きりがないが、交通事業に供されている鉄道という近代文明の利器もまた、殺人凶器になりうる「近代」の所産で、今やその供用も利用も止めるべきではないのか。さらにまた、IT技術自体も「近代」の最先端のものかもしれないが、<秘密の私的事項>の狭隘化とでもいうべき危険も内包しているというべきだろう。他にも<危険性>が(本来的・内在的に)付着した、「近代思想」の所産はあり、中谷巌も産まれたときからそれらの恩恵を受けているだろう。
 <脱原発>と言うならば、そしてそれを<西洋近代思想>の限界(または終焉の兆し?)と結びつけて何らかの<文明論>を語るならば、原発と自動車・航空機・鉄道等との<質的な>違いをきちんと明らかにしたうえで主張すべきだろう。
 もともと中谷巌の書いたものをまともに読んだことはなく、信頼するに足る人物とは全く思ってはいないのだが。
 〇脱原発・反原発といえば、西尾幹二(月刊WiLL7月号)や竹田恒泰(新潮45・7月号)はこちらの側の論者であるらしい。きちんと読んだうえで、何かをメモしよう。
 〇小林よしのりの変調とともに隔週刊・サピオ(小学館)を読まなくなったあと、その代わりにというわけでもないが、月刊・新潮45(新潮社)を読むことが多くなった。佐伯啓思の「反・幸福論」の連載があるからでもある。その他、月刊WiLL(ワック)や月刊正論(産経新聞社)も毎号手にしているので、すべてを読むことはできていないにしても、佐伯啓思の論考とともに、何がしかの感想をもち、コメントしたくなった点もあったはずだが、けっこう重たい、簡単にはコメントしたり概括したりできないものもあるので、この欄にいちいち書き込めてはいない。隔月刊・表現者(ジョルダン)の諸論考等も同様。

 それにしても、日本の政治(・政界)の、あるいは「国家中枢」の<溶解ぶり>(メルト・ダウンだ)の中で、上に挙げたような雑誌の<言論>はいったいいかなる程度の影響力を現実的に持っているのだろうか、という虚しい気分もなくはない。そんな現実的効用とは別に、何かを語り、論じたくなるのが、知的生物としての人間の性なのかもしれないが。但し、各雑誌(・発行会社)の<そこそこの>収益のための原稿・論考にすぎなくなっているのであれば、それに付き合わされる読者は何というバカだろう。 

1006/菅直人・岡田克也のレーニン・スターリンに似たウソと詭弁?

 一 不思議なことがあるものだ。
 各新聞6/02夕刊によると、菅直人は6/02の民主党代議士会で「辞任」(朝日)、「退陣」(読売、日経、産経)の意向を表明したとされる。
 ところが、夜の日本テレビ系番組に出てきた岡田民主党幹事長は、「退陣」表明とかの形容・表現は適切ではない、と言う。後に区切りがあることを述べたままでのことだとの旨まで言い、辞める時期ではなく菅首相にこれから何をやってもらうかが重要だなどとも言う。

 菅直人も、なかなか巧妙な言い方をしている。
 6/02の午後10時頃からの会見で(以下、産経ニュースによる)、「工程表で言いますと、ステップ2が完了して放射性物質の放出がほぼなくなり、冷温停止という状態になる。そのことが私はこの原子力事故のまさに一定のめどだ」と述べた。これが「メド」だとすると、冷温停止状態実現の目標は来年1月頃とされているらしいので、「退陣」時期は来年以降になるが、これは、鳩山由紀夫が6月末または7月初めという、あと1カ月くらいの時期を想定していると明言しているのと、まるで異なる。
 当然に記者から質問が出ているが、鳩山との間の「確認書」の存在(鳩山側が作成したようだ)を否定せず、①<原発の収束>も含むのかとの問いに菅は「鳩山前首相が作られたあの確認書に書かれた通りであります」とだけ答える。
 また、②「鳩山由紀夫前首相との合意の内容は、確認書にある通りだと。何を確認した文章なのか」との問いに、「鳩山前首相」との間では「あの合意事項という文書に書かれた」もの以外にない、「あそこに書かれた通り」だとだけ答える。

 ③さらに、「確認書」の三の①と②の時点で辞任していただくという鳩山の発言は間違いか、との問いに、「鳩山さんとの合意というのは、あの文書に書かれた通り」と再び繰り返している。そして、それ以上は「控えた方がいい」とも言う。
 これらで記者たちは、丸めこまれてしまったのか? 情けないことだ。

 菅直人が存在とともに内容も否定していない「確認書」の中に、<原発の冷温停止>などという文言はまったくなく、三には①と②(第2次補正予算の編成にめど)しかないのはなぜか、と何故執拗に突っ込まなかったのだろう。

 菅直人や岡田克也が「確認書」の三の①・②は菅辞任(退陣)の時期を意味しない(退陣の「条件」ではない)と言い張り続けるとすれば、各紙夕刊も、民主党国会議員のほとんども、とりわけ不信任案に賛成しようとしていた鳩山由紀夫や小沢一郎も、菅直人に、見事に<騙された>ことになる。

 鳩山由紀夫は、退陣の「条件」ではないと夕方に発言したらしい岡田克也について、「ウソをついてはいけない」旨を批判的に明言した。

 菅直人・岡田克也か鳩山由紀夫のいずれかがウソをついていることになるが、前者の側だとすると(その可能性がむろん高いと思われる)、菅や岡田は公然とメディア・国民の前でウソをついているわけで、その強心臓ぶりには唖然とし、戦慄すら覚える。

 菅直人は答えるべきだし、メディア・記者たちは質問すべきだ。これからでも遅くはない。

 <確認書の三に①と②があり、かつこれらしかないのは、何故なのか?、そしてこのことは何を意味するのか??>
 「文書のとおり」、「書いてあるとおり」では答えになっていない。<それでは答えにならない>と勇気を持って憤然と(?)反問できる記者は日本の政治記者の中にはいないのか。

 それにしても、戦慄を覚えるし、恐怖すら覚える。旧ソ連や現在の中国・北朝鮮等では、政府当局あるいは共産党(労働党)幹部(書記長等)が公然・平然と<ウソ>をついていたし、ついているだろう。

 現在の日本で、そのようなことが罷り通っていそうなのだ。

 目的のためならば<ウソをつく>ことも許される。これは、レーニン、スターリンらの固い信条だっただろう。菅直人は、レーニンやスターリンに似ているのではないか。内閣総理大臣によって公然と「ウソ」がつかれ、あるいは「詭弁」が弄される事態は、まことに尋常ではない。<狂って>いる。

 二 「詭弁」といえば、先日の、福島第一原発にかかる、菅直人首相の「私は(注水を)止めよとは言っていない」(その旨を命令も指示もしてはいない)との旨の言葉も、ほとんど詭弁に近かったように感じられる。

 谷垣自民党総裁は、上の発言に対して、「わかった。では、東京電力がいったん止めないといけないと感じるような言葉をいっさい発しませんでしたか?(あるいは、そのように感じられる行動をいっさいしませんでしたか?)」とさらに質問し追及すべきだっただろう。

 明確な「命令」・「指示」でなくとも、東京電力とすれば、首相の<気分・雰囲気>を何となくであれ気遣っているものだ、との推測くらいは、私にすらできる。そのような<気分・雰囲気>を感じて、東京電力は形式的には自発的にいったん停止を命じたのではなかったのだろうか(但し、現場の所長が本社側の指示に従わなかった)。
 要するに、菅直人は、「命令・指示はしていない」という(形式的には誤りではない)表現を使うことによって、真の事態を曖昧にして<逃げた>のではないか、と思っている。
 菅直人の言葉の魔術?は、6/02にも発揮されたように見える。

 三 再び「確認書」なるものに戻ると、その「二」で(たしか)「自民党政権に逆戻りさせないこと」とあったのは、興味深いし、かつ怖ろしい。

 つまり、彼ら民主党、とくに菅直人と鳩山由紀夫は、一般論として<政権交代>をもはや否定しようとしているのだ。

 <政権交代>を主張してきたのは彼らだが、いったん政権を獲得すれば、二度と離さない、という強い意向・意思が感じられる。
 だが、政権交代可能な二大政党制うんぬんという議論は、A→B→A(→B)…という交代を当然に予定し、ありうるものと想定しているのではないか。とすれば、自党の政策の失敗等々によって与党から再び野党になることも一般論としては、また可能性としては肯定しなければならないはずだ。

 しかるに、「確認書」の「二」はこれを何としてでも拒否する想いを明らかにしている。
 過去のそれを含む社会主義国は、いったん共産党(労働党)が権力(政権)を獲得すれば、それを他政党に譲ろうとはしなかった(ソ連末期を除く)。そもそもが他の政党の存在すら実質的には認めないという方向へと推移させた。

 菅直人ら民主党の一部からは、そのようなコミュニスト・共産党的匂いすら感じる。

 四 日本の政治・行政をぐちゃぐちゃ・ぐしゃぐしゃ・めちゃくちゃにしている民主党政権が続くかぎり、日本「国家」はますます壊れていく。民主党の一部には、意識的に<(日本)国家解体>を企図している者がいる、とすら感じてしまう。

 2009年の夏・初秋に、そのような民主党政権の成立を許したのは、あるいはそれを歓迎したのは、いったいどのような人々だったのか?? 評論家、学者も含めて、あらためて指弾したい者(名のある者)がいるが、今回は立ち入らない。

ギャラリー
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