秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

卑弥呼

2155/「邪馬台国」論議と八幡和郎/安本美典⑥。

 八幡和郎が崇神天皇=「壱与」(卑弥呼の次世代)と同時代とするために346年を「基準」年としていることはすでに触れた。
 346年=神功皇后新羅出征年・応神天皇誕生年、だ。なお、日本書記に従うと、応神の誕生は、仲哀天皇の死の同年か翌年になる。
 A/八幡和郎・本当は謎がない「古代史」(ソフトバンク新書、2010)。
 この著によると、前回までには紹介を略したが、①346年と⑤崇神=「3世紀中頃(から後半)」までは、つぎのように「推理」される。p.131ー2。
 ②応神には兄がいるので父・仲哀天皇と「30歳以上は離れているとみるべき」だ。そうすると、仲哀の誕生年は、「310年代後半ごろ」だ。
 ③仲哀の父・ヤマトタケルは「若くして死んだらしい」ので、両者の年齢差は小さく、ヤマトタケルの「活躍」時期は、「4世紀初頭あたりということになる」。
 ④ヤマトタケルは父・12代景行天皇の「比較的若いころの子供のよう」だ。
 ⑤その景行天皇の祖父・10代崇神天皇の「全盛期」は「三世紀のなかごろということになる」。「そうすると」、崇神天皇は卑弥呼の後継者である「イヨの同時代人」ということになる。
 はなはだ漠然としていると思える。
 B/八幡和郎・最終解答・日本古代史(PHP文庫、2015)。
 このB著で八幡和郎は、崇神以降の「推定生年」および神武天皇以降の「推定即位年」を記した表まで示している。
 その際の根拠として、先の書の「346年基準」のほか、つぎを加えていると見られる。
 ①「若いころの子か年を取ってからの子かなどというあたりを加味」する。p.67。
 ②各世代の差を(仲哀ー応神36年のほかは)「25歳」とする(=25歳のときの子だとする)。p.79。仲哀ー応神を36年とするのは、応神には異母兄がすでに二人いたことからの推定だ。p.78。
 なお、③「系図」(+実在)は正しいとする、というのが前提。p.67。
 八幡による崇神以降応神までの即位年・出生年の推定(左)とすでに記した安本美典による推定(右)を比較してみよう。②の安本は、仲哀+神功皇后。
 ①15応神天皇-出生346年/即位380年頃。安本・在位402年~425年。
 ②14仲哀天皇-出生310年/即位4世紀中。安本・在位390年~402年。
 ③13成務天皇-出生265年/即位4世紀前。安本・在位386年~390年。
 ④12景行天皇-出生260年/即位300年頃。安本・在位370年~386年。
 ④11垂仁天皇-出生235年/即位3世紀後。安本・在位357年~370年。
 ⑤10崇神天皇-出生210年/即位3世紀中。安本・在位343年~357年.
 この項の前回までの比較表よりも詳しく、八幡によるその点は無視するが、微細に異なる点もある。
 安本推計については、同じく前々回④の記述を参照。
 そこで参照したのは、安本美典・邪馬台国と卑弥呼の謎(潮文庫、1987)だった。
 それとおそらく全く同じ表(と叙述)が、以下にも掲載されている。
 安本美典・倭王卑弥呼と天照大御神伝承(勉誠出版、2003)。
 ともあれ、崇神天皇について、約100年の違いが出ている。
 この違いは、01/安本の「基準年」は応神出生=346年ではない。02/安本は一代(世代ではなく天皇在位の代)の差を<10~11年>と見る(詳細は省略)、03/安本は八幡が考慮しない要素も考慮する、ということにあり、決定的には01と02によるだろう。
 ところで、八幡和郎が上のように推定している主目的は、(最終的には邪馬台国大和説の否定(北九州邪馬台国僭称説)で)、卑弥呼・壱与の時代は崇神とほぼ重なっており、前者が大和王権の祖ではあり得ない、と主張することにある。
 上のBでこう書かれる。
 「壱与が女王だった時期が崇神天皇の在世中あたりだつたということはかなりの確率で間違いありません」。p.80。
 上のAでは、こうだった。p.132ー3。
 「邪馬台国は大和朝廷の前身だという可能性は、普通には完全に排除されるべきものだろう」。
 「4世紀に…朝鮮半島に軍事介入した大和朝廷は、邪馬台国に卑弥呼という女王がいて、洛陽の都に使いを送ったことをまったく記憶していなかったことは確かだ」。
 ところで、八幡和郎は、上のB(2015年)で、上の部分を含む表を見よとしつつ、つぎの<おそろしい>ことも書いている。
 「中国政府は、…〔中国の〕古代史の実年代についての公的解釈を統一しましたが、日本政府も是非するべきだと思います」。
 日本書記と古事記で一致がなく、また古代諸天皇の「実在」否定説も有力にあるにもかかわらず、八幡は、「日本政府も是非」、「古代史の実年代」を統一すべきだ、と主張するのだ。
 よほど、自分の推定に「自信」があるのに違いない。
 「『日本書記』の系図や統一過程は全面的に信用できる」。p.64の見出し。
 「崇神天皇から応神天皇までの実年齢を推定するのは簡単」。p.73の見出し。
 「古代天皇の実年代はこうだ!」。p.77の表のタイトル。
 異様であり、傲慢だとしか思えない。
 学者でも一致がないか、議論すらしていない事項について、八幡は「日本政府も是非」、「古代史の実年代」を統一すべきだ、というのだ。道徳・倫理についての<教育勅語>〔1890年)による緩やかな統制よりも、おそろしい提唱ではないか。
 ***
 八幡和郎は、学説上の根拠文献・参照文献を、上の点に特定しては、一つも挙げていない。
 八幡和郎の「頭の中」に関して、いぶかしく感じているのは、少なくともつぎだ。
 第一に、八幡は崇神天皇の「全盛」年を3世紀中頃とか3世紀中頃以降後半とかとも書いている。上のBでは「出生210年/即位3世紀中」とやや特定した。
 崇神天皇の在位年は日本書記によると(干支年の「翻訳」が必要だが)紀元前97年~紀元前30年とされるが、「繰り上げ」があって信頼性がないするのが通説だろう。
 一方、古事記の<分注・没年干支>によると解釈により258年と318年のいずれかだとされる(60年周期で干支は同一になる)。
 これを八幡は考慮していないようだといつぞやは書いたが、八幡の崇神出生210年という推定は、前者の258年(没年)にかなり近い。
 安本美典・倭王卑弥呼と天照大御神伝承(勉誠出版、2003)のp.190やp.205によると、那珂通世(紀年論先駆者)や水野祐(三王朝交替説論者)は記載がある場合の<古事記・没年干支>を信頼できるものと考え、前者は258年説、後者は318年説に立った、という。
 八幡和郎は、これらの説を知っている可能性がある。そのうえで、那珂説に傾斜して自らの出生年推定を導いているのではないか。
 第二に、その意味自体については争いがない<古事記・没年干支>によると、応神の父とされる仲哀天皇の没年は362年、応神天皇の没年は394年だ。八幡はこれについて何ら言及することなく、応神には兄がいたうんぬんだけ述べて、仲哀ー応神を36年とする。
 差は古事記によれば32年、八幡によれば36年。これは偶然だとは感じられない。八幡は、古事記による記載をある程度は信頼して「安心して」、両者は「30歳以上は離れているとみるべき」などと書いているのではないか。
 第三に、八幡は、各世代の差を(仲哀ー応神36年のほかは)「25歳」と想定する。在位期間と即位後の生存期間は同じ意味ではないが、父子直系継承の場合はこれら二つは同じだと見てもよいだろう。しかし、「25年」の根拠はいったい何か?
 上の安本美典著(2003年)によると、古代の天皇一代の長さについて、津田左右吉は20~25年(安本p.159)、直木孝次郎・井上光貞は20~30年(p.160)、那珂通世はほぼ30年(p.177)と想定して、各(実在)天皇の在位期間等を推定した、という。
 これらと八幡和郎が推論根拠とする「25年」もまたおおよそ一致しており、八幡はすでに何らかの学説・文献上の知識にもとづいて、「安心して」書いているとみられる。
 安本美典はこれを<長すぎる>とする。
 いずれにせよ、八幡和郎は、まるで自分の「頭」でだけ考察したかのごとく記述し、かつまたこれら学者たち以上に?傲慢にほとんど断定し、「政府」が古代の「実年代」を確定せよという趣旨まで書いてしまう。これは、異常・異様だろう。研究書の体裁をとらない新書・文庫では、何を書いてもよいのか。

2148/「邪馬台国」論議と八幡和郎/安本美典⑤。

 日本の天皇(さらに卑弥呼・天照大御神まで)に関する安本美典の「年代論」は、すでに言及している、つぎの一部にも書かれている。
 安本美典・邪馬台国と卑弥呼の謎(潮文庫、1987)。
 つぎの著にも、興味深い資料が掲載されているので、紹介しておこう。
 安本美典・新版/卑弥呼の謎(講談社現代新書、1988)。
 この著p.93以下によると、徳川幕府の各将軍、足利幕府の各将軍、鎌倉幕府の将軍・執権の「在位」年数の平均は、ぎのようになる。それぞれについて、各将軍等ごとの「補任・辞任」の年の一覧表(後二者については「月」も)掲載されているがここでは省く。
 最終的にはつぎのとおり。Bでは空位期間を含む/含めないの二つがある。
 A/徳川幕府・15代・1603~1867年-平均17.67年
 B/足利幕府・16代・1338~1573年-平均14.69年/13.50年
 C/鎌倉幕府・19代・1192~1333年-平均08.32年
 日本の3例の比較だが、時代が古くなればなるほど短くなっている。
 中国の「王」の在位年数の、世紀別平均年も掲載されている。根拠となる史料は、東京創元社・東洋史辞典の巻末「アジア各国統治表」のうちの「中国歴代世系表」上の、「即位・退位」時期のようだ。複数の王朝に分立している場合は、それら全てを合算して計算していると見られる。
 A/17~20世紀・15王・延べ334年-平均22.27年
 B/13~16世紀・33王・延べ476年-平均14.42年
 C/09~12世紀・96王・延べ1308年-平均13.63年
 D/05~08世紀・83王・延べ845年-平均10.18年
 E/01~04世紀・96王・延べ965年-平均10.05年
 時代が古くなればなるほど、短くなっている。計算の詳細な過程は書かれていないけれども。
 何のために安本美典がこういう作業をしているかというと、日本の各天皇の「在位」のおおよその期間を推論するためだ(なお、卑弥呼または天照大神の世代にまで及ぶ)。
 安本美典は、珍しく?、欠史八代も含めて、神武とそれ以降の天皇の「実在」を想定する。この点で、八幡和郎と同じだ。
 但し、安本はさらに神武以前の天照大御神までの「世代」数(5)も、日本書記に書かれているとおりだと仮定する。但し、日本書記上の生没年等の記事は(ある天皇以前は)全く信用しないし、直系継承ではなかっただろうともほぼ断定する。
 一方、八幡和郎による「崇神」=「壱与」までの推論の計算根拠は定かではなく、神武と崇神の間の代数については、「実在」か否かを疑っているフシもある。以下がその部分の叙述だ。下掲書、p.30ー31。
 「もし、神武天皇から数えて崇神天皇が10世代目というのなら、神武天皇はだいたい西暦紀元前後、つまり金印で有名な奴国の王が後漢の光武帝に使いを送ったころの王者だということになります。
 しかし、10代めというのは少し長すぎるので、実際には数世代くらいかもしれないとすれば、2世紀のあたりかもしれません。」
 八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない(扶桑社新書、2011)。
 八幡によると、崇神天皇は「3世紀中頃から後半」(上掲書p.30)。
 上の前半は神武~崇神をおよそ250-270年間とするようだ。かりに神武「全盛」期を紀元0年前後とし、崇神の「3世紀中頃から後半」を260年だとし、そして10世代・10天皇で割ると、一天皇在位平均は、26年になる。280年だとすると、28年になる。
 上の後半では、「数世代」=「3世紀中頃から後半」マイナス「2世紀のあたり」だ。
 かりに「数世代」=2~4世代で、かりに「3世紀中頃から後半」を260年、「2世紀のあたり」が110年、だとすると、260-110=150を前提として、1世代=150÷2~4で、平均は37.5年~75年、ということになる。しかし、「かりに」が多い。いずれにせよ、八幡和郎における「推論」・「推測」の計算根拠はよく分からない。

2147/岡田英弘著作集第三巻・日本とは何か(2014)②。

 岡田英弘著作集第三巻・日本とは何か(藤原書店、2014)。
 以下、第Ⅴ部・発言集より。
 <日本の神話の起源
 ・「日本の神話の起源を論じるときには、二つの点から考えなければならない。
 一つは、神話というのは「現実を説明する方途」の一つだ、という点である。
 これは歴史と同じ機能なので、神話と古代史は混同されやすいのである。」
 ・日本の神話も「実際に行われていた祭りや宗教儀式の説明として、『日本書記』が編纂される過程で、新たにつくりだされていったのであろう」。
 ・「日本の神話は、時系列に沿って物語が進行する特異な構造になっている。それがギリシア神話などと大きく違うところである。
 『日本書記』を書いた人々は、『史記』、とくに「五帝本紀」の叙述の仕方を、明らかに意識していたと思われる。
 「五帝本紀」の「帝」というのは、天の神であり、また大地母神の夫であり、「五帝本紀」は、五人の帝が交代で天下を統治する、という筋書きである。
 『日本書記』を歴史に組み替えるとき、「五帝本紀」を意識して、同じようなパターンで神々の行動を時系列に並べた、ということであろう」。
 ・「もう一つの点は、神々の中心をなす神格が、アマテラスオホミカミになっていることである。…。それなのに中心の神格となっているのは、壬申の乱はアマテラスオホミカミの庇護によって成功した、という当時の人たちの認識が働いているからである。
 アマテラスオホミカミが中心に据えられていること一つをとっても、日本神話が今のような形をとった年代がわかる。」
 以上、p.505-p.506。初出、シンポジウム「古代史最前線からの眺望」月刊正論(産経)1998年5月号p.319-p.320。
 <古代から大和民族は存在したか
 ・「民族というのは、20世紀になって発生した観念である。19世紀に興った国民国家という体制が生んだ観念だと言っていい。
 現実に、大東亜戦争のあと、…独立した諸国を見ると、初めはそこに民族などない。独立してから民族をつくり始めている。」
 ・「大和民族はどうか。じつは日本人のあいだで民族という観念が共有されるようになったのも、20世紀に入ってからのことである。そもそも「民族」という言葉には外国語の用語がない。
 20世紀になって、日本で発明された純粋の日本語なのである。」
 ・「7世紀の日本天皇の出現で大和民族が生まれたのではないか、と疑問を持つ人がいるに違いない。じつは、そのときできたのは、民族ではなく、いわば日本というアイデンティティなのである。」
 ・「当時の日本列島には倭人のほかに、新羅人も百済人も高句麗人もいた。韓半島を見ても、新羅には高句麗人も百済人も漢人もいたし、百済には倭人も新羅人も高句麗人も漢人もいた。…。
 つまり、日本列島も韓半島も、さまざまな人たち、異質の者たちの雑居状態だった。」
 ・「こうした状況を変えたのは、シナにおける唐の勃興である。
 唐の皇帝に対して独立を保つために、日本という政治的アイデンティティが急遽発明された。
 白村江の敗戦以前にも倭王はいたが、日本列島全体を支配していたわけではなかった。日本はいわば連合組織だったのだが、唐という脅威を前に、その連合組織が団結した。
 3世紀、倭人の諸国が寄り集まって選挙で卑弥呼を女王に立て、後漢王朝が滅びた大混乱に対処したのと同じようなことが、このとき繰り返されたのである。
 天皇という王権に人々が結集した。そこから新たに日本文明が発達をし始めるのである。」
 以上、p.511ーp.513。初出、、シンポジウム「古代史最前線からの眺望」月刊正論(産経)1998年5月号p.327ーp.330。
 *** 

2139/「邪馬台国」論議と八幡和郎/安本美典④。

  八幡和郎が考えるように、邪馬台(ヤマト)国と大和朝廷・「天皇」・「日本」は連続していないとすれば、後者の皇統にある者たちがのちに「倭」とか「大倭」という語を国名や天皇の和風諡号に使ったのは、とんでもない間違いをしていたことになるだろう。
 その理由を論理的に想定できるのは、つぎの可能性だ。
 本当は「邪馬台国」も「卑弥呼」も自分たちとは関係がない、本当は遠い先祖や先輩たちでなかった。それにもかかわらず、天武・持統や日本書記編纂者等は<勘違い>をして、自分たちは魏志東夷伝倭人条に出てくる「邪馬台国」や「卑弥呼」の後継者だと思い込んだ。そして、この大いなる誤解のもとで、正規の文書や史書でも「倭国」とか「倭根子…」という語を使ってしまった。
 こんな大きな勘違いをしたのだろうか。しかし、中国(魏)の史書を見ただけで、自分たちは「倭国」の「倭人」たちの後裔だと思い込んでしまうものだろうか。
 それに、のちに「邪馬台国が滅びて数十年たったあと」で「その故地を支配下に置いた大和王権」は、その九州の土地で、大陸とやり取りのあった「女王の噂」など本当に「何も聞かなかった」のだろうか。
 八幡和郎は、「女王の噂など何にも聞かなかったというだけで、すべて問題は解決する」と言う。しかし、八幡によると崇神天皇は「壱与」と同世代なのだが、崇神の孫の景行天皇または崇神の曽孫のヤマトタケルが九州を支配したとき、その土地の人々の全てがはかつての「女王国」・「邪馬台国」に関する記憶を全く失っていたのだろうか。それほどまでに完璧な「邪馬台国の滅亡」があったのだろうか。
  シロウトの気楽さで、もう少し八幡和郎の「頭の中」を覗いてみよう。
 万世一系の天皇と邪馬台国は何の関係もないはずなので、八幡は論及する必要もないのだが、上記のとおり、崇神天皇は「卑弥呼」の後継者とされる「イヨ」の「同時代人」だとほとんど断定している。
 A/八幡和郎・本当は謎がない「古代史」(ソフトバンク新書、2010)。
 p.132-「邪馬台国の卑弥呼の没年は240年代とされ、そうすると崇神天皇はその後継者であるイヨの同時代人ということになる」。
 崇神天皇についての推測は、こうも記述されている。
 B/八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない~新皇国史観が中国から日本を守る~(扶桑社新書、2011)。
 p.30-「だいたい、崇神天皇は3世紀の中頃から後半にかけて活躍されたということになります」。
 p.46-「さらに、その景行天皇の祖父にあたる崇神天皇の全盛期は3世紀のなかごろと推定されます」。
 専門家でも学者・研究者でもない八幡和郎は、なぜこう大胆に書けるのだろうか。
 崇神天皇=「イヨ/トヨ(壱与・台与)」と同時代=3世紀の中頃ないし後半。
 このように八幡が「推論」する、その論理を辿ってみよう。これは紀年論・年代論だ。
  上のBも同旨だが、Aの方が少しは詳しいようなので、以下は、ほとんど上のAを検討対象にする。 
 崇神天皇でもどの天皇でも、歴史上存在しなかった天皇であれは、その在位期間を推測するのは当然に無駄なことだ。実在していたとしても生没年や践祚・即位と退位の年が文献等の上で明確でない場合にこそ、何らかの「基準」となる年を想定・固定して、そこから諸資料を通じて活動・在位の時期を<推論>・<類推>していくということになる。
 講談社の<天皇の歴史>シリーズ(全10巻、2011)にはどの巻末にも歴代天皇表が5頁にわたって掲載されていて、29代・欽明天皇以降については「在位期間」の年月日が記載されている。おそらく、欽明についての539年~571年以降は(月日省略)争う余地が全くないと考えられているのだろう。
 但し、26代・継体の507年即位というのもほぼ史実のように見えるし、稲荷山古墳出土の鉄剣の刻み文字から、21代・雄略天皇の活動年は471年を跨ぐ前後ということも、学界でもおそらくほとんど一致して承認されているかと思われる。
 不分明になるのは日本書記が記す天皇没年(これはふつうは次代天皇の践祚または即位の年だ)と全天皇についてではないが古事記が記載する没年(古事記没年干支)とが一致していない天皇からだ。
 それでも継体までは辛うじて「ほぼ一致」と言えるが、それ以前はかなり異なっている(允恭についての453年・454年、雄略についての479年・489年はまだマシだ)。
 崇神天皇については、日本書記では没年は紀元前29年とされ、古事記では(干支は明確でも60年毎に同じ干支になるので)318年説と258年説があるらしい。
 後者の258年というのは、八幡「推論」の結果とかなり近いが、八幡が干支年にこだわって上の後者を採用しているわけではない。
 さて、八幡和郎が確からしいとして「基準」とする年はいつなのだろうか。
 上のAによると、つぎのとおり。
 神功皇后の朝鮮半島への遠征年=応神天皇の出生年、346年。p.130-1。
 神功皇后による<三韓征伐>の記録・伝承を背景として、つぎの①と②の二つを根拠としていると見られる。そして、これらから、③の<推論>が行われる。
 ①<新羅本紀>によると、「倭人」が新羅の首都・金城を包囲したのは、346年と393年の2回。神功皇后の遠征年はこれらのうちいずれかだ、と八幡は考える。
 ②石上神宮にある国宝「七支刀」の刻み文字から、「369年」に百済王から倭王に送られたものだと分かる(この説が「多い」)。
 ③このときすでに「対百済外交」が行われていただろうから、①の346年と392年のうち、早い方の346年の「ことだろう」、とする。
 七支刀については、八幡自身によって「『日本書記』で神功皇太后に贈られたとされている」と説明されている。
 この日本書記の原文(但し、現代語訳文)は、つぎのとおり。秋月がつぎの著で確認する。
 新編日本古典文学全集/日本書記1・巻一~巻十(小学館、1994)、p.461。
 「〔神功〕摂政52年秋9月の丁卯朔の丙子(10日)に、…らは千熊長彦に従って来朝した。
 その時に、七枝刀一振・七子鏡一面をはじめ種々の重宝を献った。
 そうして謹んで、『…。…。この水を飲み、そうしてこの山の鉄を採って、永く聖朝に献上いたします。次いで、「百済王が孫の…に語って、……」と言いました』と申し上げた。これより後は、毎年相次いで朝貢した。」
 ここにある一振りの「七枝刀」が、現存する上の「七支刀」のことだと(たぷんほぼ一般的に)考えられているようだ。
 さて、出発点としての「基準」年はむろん最も重要なはずだが、このような論拠と推論でよいのだろうか。
 むろんよくは分からない。しかし、つぎの重要な疑問が生じる。
 第一に、神功皇后の遠征「年」を、倭人が「新羅の首都・金城を包囲」した記録が残るという、上の二つの年に限定しまうのは、それでよいのか。
 346年と393年の二つだけで、しかもこれらは47年も隔たっている。
 神功は、半島にまで身重で出征して帰国して現在の福岡県宇美町で応神天皇を生んだ、とされる。
 「新羅の首都・金城を包囲」していなくとも、神功皇后が半島にまで出向いたと理解してよい年は、ほかにもあるのではないか。
 当時の半島には百済・新羅・高句麗の三国があったが、高句麗に向かったかもしれないし、新羅への軍に同行したが首都を「包囲」するまでには至らなかった、ということもあり得るだろう。
 安本美典・神功皇后と広開土王の激闘(勉誠出版、2019)。
 上の安本著は、高句麗の「広開土王碑の碑文」には、つぎのことも書かれていた、という。p.95-96。
 01/391年-倭が「海を渡ってきて、新(?)羅を破り、これを臣民とする」。
 02/400年-倭が「新羅城のうちに満ちあふれていた」。
 03/404年-倭が「不軌にも帯方界に侵入」した。
 また、<新羅本紀>と日本書記には、八幡の挙げる393年のほか、つぎの情報も記述されている、という。
 04/402年-「王子の未斯欣が、倭の人質になった」。
 この04の新羅王子「未斯欣」は、上記の日本書記1p.431に出てくる「微叱己知」と同じ人物だろう。
 また、この「微叱己知」を「質」にした記事は、こういうことも書いている。神功皇后が新羅まで行っていることは(日本書記上でだが)明らかだ。
 05/402年?-新羅王を誅殺しようとある者が言ったが、皇后は「自ら降伏してきた者を殺してはならない」と言い、新羅王の縛を解いて、地図・文書等を収め、「矛を新羅王の門に立て」た。
 これら5件はいずれも、八幡が基準とする346年よりもかなり後のことだ。
 第二に、「七支刀」は神功皇后の時代に献上された、と日本書記は確かに記述している(摂政52年9月の条)。
 しかし、八幡自身がp.130で「これを贈られたのが本当に神功皇太后だったかどうかはともかくとして」と明記するように、誰がもらった刀なのかが、刀自身から明確になるわけではない。せいぜい「倭王」としか理解できないだろう。
 従って、七支刀が刻む年号=369年を手がかりとして、346年と392年のうち369年より前の346年を選択する、という八幡の推論方法が適切だとはとても思えない。
 なお、安本の上掲書p.256によると、古事記の「応神天皇記」に、百済・照古王が「横刀と大鏡」を献上した旨の記載がある、という。神功皇后ではなく応神天皇の時代に関する叙述だ。
 さて、346年=神功皇后の「活躍」年=仲哀死後十月十日で応神天皇を生んだ年
 これを「基準」とするのは、かなり危ないように見える。
  八幡和郎は上を「基準」年として、崇神天皇の「全盛時」は、「3世紀のなかごろということになる」、と推論結果を叙述する。
 「基準」年が大幅に間違っていると、推論結果も間違っている可能性が高いだろう。
 安本美典・邪馬台国と卑弥呼の謎(潮文庫、1987)。
 この書は末尾に、推古天皇~卑弥呼の間の、天皇在位・「活躍」期間を想定した安本による図表(・グラフ)がとじ込みで添付されている(厳密な数字化はされていない)。
 この1987年書での図表・グラフを現在の安本は放棄したわけでもなさそうなので、応神~崇神に限って、八幡和郎による想定と比較してみよう。*は、神功皇后と計。安本推定の細かな数字は、グラフに対する秋月の目視による。
 ①15応神天皇-八幡・出生/346年。  安本・在位/402年~425年。
 ②14仲哀天皇-八幡・出生/310年代後半。安本・在位/390年~402年*。
 ③12景行天皇-八幡・全盛/3世紀末? 安本・在位/370年~386年。
 ④10崇神天皇-八幡・全盛/3世紀半以降。安本・在位/343年~357年
 このとおりで、崇神天皇について約100年の開きが出ている。
 その結果として、八幡においては神武天皇は卑弥呼よりも前の(昔の)人物であるのに対して、安本によれば、神武天皇は卑弥呼よりも後の(新しい)人物になる。
 知的な「推論」過程・方法の差異に関心がある。もう少しつづけよう。

2108/「邪馬台国」論議と八幡和郎・西尾幹二/安本美典③。

 専門家として叙述する資格も、意図もない。同じ立場にあるはずの、八幡和郎らの所説に論及する。
  <魏志倭人伝>は3世紀後半ないし末に執筆されたとされるので、数十年または100年程度は前のことも含めて、「倭」に関して叙述している。
 その中には「対馬」、「一大(支?))=壱岐、「末盧」=松浦、「伊都」=怡土(糸)、「奴」=儺・那〔福岡市の一部〕といった現在に残る地名と符合するものもあるので、そのかぎりで、少なくともこうした地域の地理や人々の状態を、全てが事実ではなかったにせよ簡単にでも記載していることは間違いないだろう。これら地域に限らず、「倭人」全体についてもそのようなところはあるが、逐一には挙げない。
 7世紀後半から8世紀前半にかけて執筆・成立した日本書記・古事記等がいかに紀元前660年の神武天皇即位やそれ以前の「神話」を記述しているとしても、<魏志倭人伝>よりも400年以上のちに書かれたものだ。
 <魏志倭人伝>が全体として「歴史資料に値しない」(西尾幹二)などとは言い難いのはほぼ常識的なことだ。
 なお、西尾は、<魏志倭人伝>からは「互いに無関係な文書が、ただ無造作にのりづけにして並べられているという無責任な印象を受ける」ようで、「書き手の陳寿という人物のパーソナリティはなにも感じられない」等とする。
 歴史叙述者は自分の「パーソナリティ」を感じさせなければならないのだそうだ。
  <魏志倭人伝>には、「倭人」、「倭國」、「倭地」、「倭種」、「倭女王」、「親魏倭王」、「遣倭」・「賜倭」〔倭に遣わす・賜る〕、等の「倭」という語が出てくる。
 <伝>は2000字ほどの漢字文で長い文章ではないので「倭」という漢字を数えてみると、見落としがあり得るのでやや曖昧にして、計19-20回ほどだ。
 この「倭」=ワ・ウァが当時の魏の人たちまたは執筆者・陳寿が勝手に名づけたのか、当時に北九州にいた人の対応によるのか(ワ=当時の言葉でのの「輪」(ワ)ではないかとの「推測」もある)はよく知らない。
 どちらにしても、<魏志倭人伝>という当時の中国の史書は日本を「倭」と呼んだ。
 一方、日本書記の中にもまた、しばしば「倭」という語が出てくる。
 ネット上に日本書記の漢文全文が掲載されていて、「倭」で検索することもできる。
 それによって検索してみると、計算間違いがあり得るのでやや曖昧にすると、およそ190回も「倭」がヒットする
 著名なのは、崇神天皇(10代)の項(巻第五)に出てくる、つぎだろう。
 「倭迹迹日百襲姫命」、または「倭迹迹日姫命」。なお、「倭迹速神浅茅原目妙姫」というたぶん別の姫命の名もある。
 垂仁天皇(11代)の項〔巻第五)には、つぎの人名も出てくる。
 「倭姫命」(古事記では「倭比売命」)、「倭彦命」(古事記では「倭日子命」)。前者は垂仁の皇女で、後者は崇神の弟のようだ。
 崇神の項には「倭大国魂神」という神の名も出て来る。「天照大神」とともに最初は宮中でのちに外で祀られた、という。確証はないだろうが、現在にも奈良盆地内ある大和神社(やまと-)は、北にある石上神宮や南にある大神神社ほどには全国的には知られていないが、この「倭大国魂神」を祀っている、とされている。ちなみに、「大和」という名からだろう、境内に、戦艦大和の模型を設置する小さな建物がある。
 その他、「倭京」=藤原京以前の飛鳥の宮廷、「倭国造」=現在の奈良県の一部の国造、もある。
 以上よりも関心を惹くのは、地名または国名としての「倭」だ。
 例えば、神武天皇(初代)の項(巻第三)の中に、「倭国磯城邑」という語がある。現代語訳書によると、この辺りの文章は、「その時…が申し上げるのに、『倭の国の磯城邑〔ルビ/しきのむら〕に、磯城の八十梟帥〔ヤソタケル〕がいます。…』と」。
 宇治谷孟・全現代語訳/日本書記・上(講談社学術文庫、1988)、p.98。なお、この現代語訳書は、原文の「倭」を全て忠実に「倭」とは記載していない。
 ここでの「倭」は、文脈からすると、現在の奈良県・かつての大和国の意味だろう。現在でも「磯城郡」がある(かつては桜井市全域、橿原・天理・宇陀市の一部を含み、現在は、田原本・川西・三宅の各町が残る)。
 一方、「倭」が上よりも広域を指す語として用いられていることもある。
 例えば、かなり新しい時期のものだが、天武天皇(40代)の下巻(巻第二十九)に、こう出てくる。日本書記の執筆・編纂者が、まだこうも記述していたことは注目されてよいだろう。
 天武3年「三月…丙辰、対馬国司…言、銀始出于当国、即貢上。由是、…授小錦下位。凡銀有倭国、初出于此時」。(旧漢字体は新体に改めた)。
対馬で初めて「銀」が産出して、これが「倭国」で最初だ、というのだから、ここでの「倭国」は、天武・持統天皇時代に<支配>が及んでいたかぎりでの、日本全体のことだと理解することができるだろう。
 また、「大倭」も、例えば天武天皇時代にも使われている。但し、「大倭・河内・摂津・山背・…」と並列させて用いられていることがある。天武4年の項にその例が二つある。この「大倭」という語の、日本書記全体の検索はしない。
 さて、日本書記(や古事記)での「倭」は何と読まれていたのだろうか。現在の諸現代語訳のルビ振りが当時の読み方を正確に反映しているのかどうかは分からないが、おそらく間違いなく<ヤマト>であって、<ワ>ではないだろう。
やまとととひももそひめのみこと(倭迹迹日百襲姫命)」、「やまとひめのみこと(倭姫命)」という具合にだ。
 地域または国名としての「倭」もまた、<ヤマト>だと考えられる。
 そして、国名を漢字二文字にするという方針のもとで「倭」→「大倭」という変化が行われた、と推察される(紀ー紀伊、等も)。この「大倭」を、「倭」という卑字?を嫌ってのちに改めたのが、「大和」=ヤマトだ。倭→大倭→大和、こう理解しておかないと、「大和」という文字は「ヤマト」とは読めない。
 以上は推察まじりだが、おおよそは一般に、このように考えられていると見られる。
 そして、この「大倭」または「大和」が、いつの頃からだろうか、聖徳太子の時代の頃から天武・持統時代または日本書記等の編纂の時代までに「日本」という国号へと発展したのだろう。「日本」という語・概念の成立の問題には立ち入らない。
 以上は何のために記したかというと、八幡和郎の考え方を批判するためにだ。
  八幡和郎の邪馬台国・大和朝廷(王権)分離論は、八幡独自のものでも何でもない。
 八幡和郎が邪馬台国の「卑弥呼」時代と大和朝廷(王権)の時期的関係をどう見ているのかは定かではないが、これは後者の「成立」とか「確立」とかの時期、そしてこれらの用語の意味にもかかわっている。
 しかし、神武天皇は卑弥呼よりも前、崇神天皇は卑弥呼よりもあと(の次の「台代」)の時代と考えていることは間違いない。なお、卑弥呼は3世紀半ばに活躍したと見られている。
 八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない~新皇国史観が中国から日本を守る~(扶桑社新書、2011)。
 ・「神武天皇はだいたい西暦紀元前後、…になります」、しかし、崇神との間が10代でなく数世代だとすれば「二世紀のあたりかもしれません」。p.30-p.31。
 ・「崇神天皇は、その〔卑弥呼の〕後継者である台代の同世代人とみられます」。p.47。
 また、最近の、八幡和郎「邪馬台国畿内説の人々が無視する都合の悪い話」アゴラ2019年12月19日は、こう書いている。
 ・「大和政権が北九州に進出したのは、邪馬台国が滅びてから半世紀以上経ってからのことだと推定できる」。/とすれば、「北九州に邪馬台国があったとしても統一をめざして成長する大和政権と接点がないのが当たり前だ」。
 八幡は神武天皇の実在を否定していないが、大和王権の実質的創建者を崇神天皇と見ているようなところがあり(この点で(神武-)崇神-応神-継体王朝という王朝交替説と部分的に類似する)、その孫・景行天皇とさらにその子の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)時代に王権の支配領域の範囲を著しく拡大したというイメージを持って書いていると推察される。従って、上の「北九州に進出」や「統一をめざして成長する大和政権」は、崇神とその後の数世代をおそらく想定しているのだろう。
 安本美典のつぎの本は、北九州説・畿内説と上の二つの前後関係を主な基準として邪馬台国と大和朝廷(王権)の関係に関する学説を10に分類している。
 安本美典・邪馬台国ハンドブック(講談社、1987)。
 これによると、八幡和郎のように<邪馬台国=九州説>に立つ説も、大和朝廷「成立」の時期を邪馬台国以前と見るか以後と見るかに二つに分かれる。
 前者の中には前回にこの欄で触れた<僭称説>も入り、本居宣長等が唱えた。しかし、八幡和郎によると邪馬台国の人々は(魏の使者も)大和王権の存在を知らなかったはずなので、八幡和郎説?はこれに該当しない。
 一方、後者には、津田左右吉らが入る、とされる。以上、とくにp. 231。
 いずれにせよ、八幡説?は新奇でも独自でもない。
 しかし、その説が論理的にみて成立し得るのだろうか、が問題だ。
 つまり、前回も<邪馬台国>の「邪馬台」と大和朝廷の「大和(ヤマト)」の共通性または類似性を指摘したが、大和政権(・王権・朝廷)が「邪馬台国」の存在を知らない、または知らなかったとすれば、なぜ、大和政権を継承したはずの天武・持統天皇、元明天皇ら、そして記紀執筆者・編纂者は、「倭」あるいは「大倭」という語を、日本書記等で用いているのだろうか。
 日本書記には、なぜ、<魏志倭人伝>にいう「倭国」と同じ「倭」という語が、先述のように100回以上も出てくるのか?
 日本書記において、天武3年(674年)に関する記載として、既に紹介した「凡銀有倭国、初出于此時」とある場合の「倭国」は何のことか。
 「迹迹日百襲姫命」、「姫命」等々はなぜ「倭」と冠せられているのだろうか。なお、日本書記ではヤマトタケルノミコトは一貫して「日本武尊」のようだが、古事記では「倭建命」と記載されている、とされる。
 八幡和郎は、つぎのような名文?を、2011年に活字として残した。上掲書、p.49。
 ・「邪馬台国とか卑弥呼とかという名も、中国側での呼称で、本当にそういうクニや人物の名前だったかは不明です」。
 たしかに、100%明確ではないのだろう。八幡によれば、「中国側」が勝手に「邪馬台国」とか「卑弥呼」とか称したのであり、北九州の人たちがそう呼称したわけではない、ということになるのだろう。
 中国の史書を「信頼できない」とする1999年の西尾幹二著の(悪い)影響を受けていなければ幸いだ。八幡もまた、「媚中」史観を持たないためには、1700年以上前の3世紀の中国語文献を簡単に信用してはならないという「主義」者なのかもしれない。
 しかし、「邪馬台」と「ヤマト」の共通性・類似性は全くの偶然だとは思えないし、「卑弥呼」も、勝手に魏の使者が名づけたのではなく、固有名詞ではない「日御子」・「日巫女」・「姫御子」といった語に対応するものと理解する方がより自然だろう。
 そんなことよりも、以下に述べるように、日本書記の執筆者は遅くともその成立年までに、「邪馬台国」・「卑弥呼」という呼称をすでに知っていたと見られることは、重要なことだ。
 かりに大和政権と邪馬台国が無関係だったとすれば、大和政権の継承者たちは、邪馬台国や「卑弥呼」に言及する中国側文献などは無視するか、言及しても否定するか何らかの意味で消極的な評価を加えるだろう。
 しかし、日本書記自体が、神功皇后に関する項で、<魏志倭人伝>にこう言及している。漢字原文を引用するのも不可能ではないが、宇治谷孟・上掲書p.201-2による。
 「39年、この年太歳己未。-魏志倭人伝によると、明帝の景初3年6月に、倭の女王は…を遣わして帯方郡に至り、洛陽の天子にお目にかかりたいといって貢をもってきた。<中略>/
 40年、-魏志にいう。正始元年、…を遣わして詔書や印綬をもたせ、倭国に行かせた。
 43年、-魏志にいう。正始4年、倭王はまた使者の…ら、8人を遣わして献上品を届けた。
 この日本書記の記載から明らかであるのは、第一に、<魏志倭人伝>を見て読んでいる以上、「邪馬台国」・「卑弥呼」が登場して、それらについて書かれていることも知っていた、ということだろう。
 第二に、「倭」、「倭王」、「倭の女王」と書かれていること自体を、何ら不思議にも、不当にも感じていないように見える、ということだ。
 第三に、ここでの「倭の女王」を明らかに「卑弥呼」のことだと理解している。神功皇后の項で、上の文章をわざわざ挿入しているからだ。したがつて、「卑弥呼」=神功皇后という卑弥呼論が、日本で初めて説かれている。
 第三は、<年代論>に関係するので、ここでは(まだ)立ち入らない。
 この第三点を除く、上の二つだけでも十分だろう。
 さらに加える。
 ①<魏志倭人伝>ではなく高句麗(当時)の「広開土王(好太王)碑」の中に、文意については争いがあるのを知っているが、ともかくも「倭が海を渡った」旨が、「倭」を明記して刻まれている。当時の高句麗もあるいは広く朝鮮半島の人々は、今の日本のことを「倭」と称していたことが明らかだろう。広開土王は391-2年に即位した、とされる。大和王権の崇神天皇よりも(八幡和郎はもちろん安本美典においても)後代の人だ。
 ②日本書記編纂には知られておらず、存命中だったかもしれない本居宣長の知識の範囲にもなかっただろうが、のちの江戸時代になって、「漢委奴國王」と刻んだ金印が博多湾の志賀島で発見された。「委奴」については、ヤマト、イトという読み方もあるようだが、どうやら多数説は「漢のワのナの国王」と読むらしい。
 これまた、中国側の「勝手な」呼称なのかもしれないが(紀元後1世紀中のものだとされることが多い)、「倭」または「委」というクニとその中の「奴」という小国の存在が認められていたことになる。かつまた、当時の北九州の人々も(王を含めて)それをとくに怪しまなかったようでもある。
 以上、要するに、日本人の書いた文献、つまり日本書記(や古事記)に出てくる「倭」というのは、<魏志倭人伝>における「倭」、「卑弥呼」が女王として「邪馬台国」にいた「倭国」と連続したものだと理解するのが自然だと思われる。
 そうでなければ、日本書記の中に「倭」が上のようにしばしば登場するはずがないのではないか。
  上で書き記し忘れた、より重要なことかもしれないが、、諸代天皇・皇族の名前自体の中に、「倭」が使われていることがある。 
 日本書記では、和風諡号の中の「ヤマト」にあたる部分は「日本」という漢字を用いている。以下は、例。
 孝霊天皇(7代)=「大日本根子彦太瓊天皇」(おおやまとねこふとにのすめらのみこと)。
 開化天皇(9代)=「稚日本根子彦大日日天皇」(わかやまとねこおおひひのすめらのみこと)。
 しかし、古事記では、それぞれ「大根子日子賦斗迹命」、「若根子日子毘々命」だとされる。「日本」と「倭」は、交換可能な言葉なのだ。
 また、日本書記でも、「倭根子」を登場させることがある。
 ①景行・成務天皇(12-13代)の項(巻第七)、宇治谷孟・上掲書p.154。
 景行天皇が「八坂入媛」を妃として生んだ「第四を、稚倭根子皇子という」。
 ②孝徳天皇(36代)の項(巻二十五)。漢字原文。宇治谷書には、「倭」が省略されている。。
 2年2月15日、「明神御宇日本倭根子天皇、詔…。朕聞…。」
 =「明神〔あきつかみ〕として天下を治める日本天皇は、…に告げる。…という。」宇治谷孟・全現代語訳/日本書記・下(講談社学術文庫、1988)、p.168。
 ③天武天皇の項・下(巻第二十九)。
 12年1月18日、「詔して、『明神御八洲倭根子天皇の勅令を…たちよ、みな共に聞け。……』といわれた」。=宇治谷孟・上掲書(下)、p.294。
  以上のとおりで、繰り返せば、日本書記(や古事記)に出てくる「倭」というのは、<魏志倭人伝>における「倭」、「卑弥呼」が女王として「邪馬台国」にいた「倭国」と連続したものだと理解するのが自然だ。
 従って、八幡和郎の言うつぎのようには「解決」できるはずがない。
 八幡和郎・前掲アゴラ2019年12月19日。
 「邪馬台国が九州にあったとすれば、話は簡単だ。
 邪馬台国が滅びて数十年たったあと、その故地を支配下に置いた大和王権は大陸に使者を出した女王の噂などなんにも聞かなかったというだけで、すべて問題は解決する」。
 このようには「すべて問題は解決する」ことができない。
 厳密には「その故地を支配下に置いた」時点での大和王権ではなかったかもしれないが、その大和王権の継承者である天武・持統天皇や日本書記編纂者は、<魏志倭人伝>を、そして「卑弥呼」という「大陸に使者を出した女王」の存在を知っており、「卑弥呼」=「神功皇后」という推理までしている
 これは<魏志倭人伝>の内容の信頼性を少なくともある程度は肯定していることを前提としており、西尾幹二や八幡和郎よりも、1300年ほど前の日本人の方がはるかに、<魏志倭人伝>やそこで描かれた「倭」、つまりのちに「日本」となった国の歴史について、知的・誠実に、向かい合っている、と言えるだろう。
 1300年ほど後の西尾や八幡の方が、知的退廃が著しいのだ。その理由・背景は、<日本ナショナリズム>=<反媚中史観>なのかもしれないが、「卑弥呼」・邪馬台国の頃の3世紀の歴史を考察するに際して、そんな<政治的>気分を持ち出して、いったいいかなる成果が生まれるのだろうか。
 年代論等は、さらに別に触れる。
 八幡和郎は(かつての故地だったと当然に知らないままで)大和政権はある程度の戦闘を経て、北九州を支配下においた、というイメージを持っているようだ。しかし、他の地域はともかくも、九州・邪馬台国の有力地である筑紫平野(有明海側)の山麓の勢力と激しく闘った、という記録はなく、かつての故地だったからこそ円滑に支配領域を拡大した(あるいは元々支配していた)という旨の指摘も、確かめないが、読んだことがある(たぶん安本美典による)。荒唐無稽にも<磐井の乱>(6世紀前半)を持ち出して、旧邪馬台国の後裔たちの反抗だとは、八幡和郎は述べていないけれども。
 八幡和郎は、「邪馬台国」論議の蓄積を十分に知らないままで、勝手な記述をして、「皇室」やその維持の必要性について「理解していただく論理と知識を、おもに保守的な読者に提供しよう」とする「傲慢さ」を、少しは恥ずかしく思うべきだろう。

2107/「邪馬台国」論議と八幡和郎・西尾幹二/安本美典②。

 安本美典著の近年のものは、先だってこの覧で言及した神功皇后ものの一部しか熟読していない。その他の一部を捲っていると、興味深い叙述に出くわした。
 邪馬台国論議や古代史論議に関心をもつ一つの理由は、データ・史資料が乏しいなかで、どういう「方法」や「観点」で歴史・史実に接近するのか、という議論が内包されているからだとあらためて意識した。これも、文献史学と考古学とでは異なるのだろう。
 安本の学問・研究「方法」そのものについては別に触れる。
 ①「私たちは、ともすれは、…、専門性の高さのゆえに難解なのであろうと考える。こちらの不勉強ゆえに難解なのであろう、と思いがちである。
 これだけ、社会的にみとめられている機関や人物が、自信をもって発言しているのであるから、と思いがちである。
 しかし、ていねいに分析されよ。」
 ②「理系の論理で『理解』すべきものを、文系の論理、つまり、言葉による『解釈』にもちこむ」。
 安本美典・邪馬台国全面戦争-捏造の「畿内説」を撃つ(勉誠出版、2017)。p.241.とp.202。
 西尾幹二が「社会的にみとめられている人物」で「自信をもって発言している」ように見えても、「ていねいに分析」する必要がある。さすがに深遠で難解なことを書いている、などと卑下する必要は全くない。
  「理系の論理で『理解』すべきものを、文系の論理、つまり、言葉による『解釈』にもちこむ」というのは、この欄で私が「文学」系評論家・学者に対して-本当は全てに対してではないのだが-しばしば皮肉を浴びせてきたことだ。私自身は「文系」出身者だが、それでも、「論理」や概念の「意味」は大切にしているつもりで、言葉のニュアンスや「情緒」の主観的世界に持ち込んで独言を吐いているような文章には辟易している(江崎道朗の書は、そのレベルにすら達していない)。
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 西尾幹二は2019年の対談で「歴史」に対する「神話」の優越性を語る。しかし、そこでの帰結であるはずの<女系天皇否認>について、<日本神話>のどこに、どのように、皇位を男系男子に限るという旨が「一点の曇りもなく」書かれているかを、具体的に示していないし、示そうともしていない。
 西尾にとって大切なのは、「原理論」・「総論(・一般論)的方法論」の提示なのだろう。
 日本の建国・「国生み」の歴史についても、「魏志倭人伝は歴史資料に値しない」と(章の表題としても)明記し、日本書記等を優先させよ、とするが、では日本書記等の「神話」によれば、日本ないし日本列島のクニ・国家の成立・発展はどう叙述されているかを具体的に自らの言葉でもって叙述することをしていないし、しようともしていない。
 日本書記と古事記の間に諸「神話」の違いもある。また、日本書記は、ある書によれば…、というかたちで何通りもの「伝承」・「神話」を伝えている。
 <日本神話>を尊重してすら、「解釈」や「選択」を必要とするのだ。そのような地道な?作業を、西尾はする気がないに違いない。そんなチマチマしたことは、自分の仕事ではないと思っているのかもしれない。
 西尾幹二・国民の歴史(産経新聞社、1999)第6章<神話と歴史>・第7章<魏志倭人伝は歴史資料に値しない>。=同・決定版/国民の歴史・上(文春文庫、2009)第6章・第7章。以下は、入手しやすい文庫版による。
 西尾の魏志倭人伝嫌悪は、ひとえに<新しい歴史教科書>づくりのためのナショナリズム、中国に対する「日本」の主張、という意識・意欲に支えられているのかもしれない。
 しかし、かりにそれは是としてすら、やはり「論理性」は重要であって、「暴論」はよくない。
 ・p.209。-「今の日本で邪馬台国論争が果てるところを知らないのを見ても、『魏志倭人伝』がいかに信用ならない文献であるかは立証されているとも言える」。
 ・p.209-210。-岡田英弘によると1735年<明史日本伝>はかくも〔略〕ひどい。「魏志倭人伝」はこれより「1500年も前の文章」なのであり、この項は「本当はここでもう終わってもいいくらいなのだ」。
 ・p.216。-「結論を先にいえば、『魏志倭人伝』を用いて歴史を叙述することははなから不可能なのである」。
 ここで区切る。日本の歴史研究者の誰一人として、魏志倭人伝は正確な当時の日本の史実を伝えており。それに従って古代史の一定範囲を記述することができる、と考えていないだろう。
 魏志倭人伝だけを用いて叙述できるはずはなく、また、その倭人伝の中の部分・部分の正確さの程度も論じなければならない。日本のはじまりに関する歴史書を全て見ているわけではないが、かりに「倭国」から始めるのが西尾大先生のお気に召さないとしても、魏志倭人伝のみに頼り、日本書記や古事記に一切言及していない歴史書はさすがに存在しないだろう。
 西尾幹二は、存在しない「敵」と闘っている(つもり)なのだ。
 上の範囲の中には、他にも、まことに興味深い、面白い文章が並んでいる。
 石井良助(1907-1993)の1982年著を紹介してこう書く。p.214以下。
 ・石井は「古文書に書かれている文字や年代をそのままに信じる素朴なお人柄」だ。「全文が書かれているとおりの歴史事実であったという前提に少しの疑いももたない」。
 ・「伝承や神話を読むに必要な文学的センスに欠けているし、『魏志倭人伝』もとどのつまりは神話ではないか、というような哲学的懐疑の精神もゼロである」。
 ・石井は「東京大学法学部…卒業、法制史学者、…」。「世代といい、専門分野といい」、「日本の『戦後史』にいったい何が起こったか」がすぐに分かるだろう。
 ・「文学や哲学のメンタリティを持たない単純合理主義者が歴史にどういう改鋳の手を加えてきたかという、これはいい見本の一つである」。
 以上。なかなか<面白い>。石井良助はマルクス主義者ではなかったが、津田左右吉流の文献実証主義者だったかもしれない。「法制史」の立場からの歴史叙述が一般の歴史叙述とは異なる叙述内容になることも考慮しなければならないのだが、それにしても、「文学や哲学のメンタリティを持たない単純合理主義者」等の人物評価はスゴい。書評というよりも、人格的価値評価(攻撃)に近いだろう。
 そして、西尾幹二にとって、いかに「文学や哲学のメンタリティ」、あるいは「哲学的懐疑の精神」が貴重だとされているかが、きわめてよく分かる文章だ。
 とはいえじつは、西尾のいう「文学的センス」・「文学や哲学のメンタリティ」・「哲学的懐疑の精神」なるものは、今日での世界と日本の哲学の動向・趨勢に対する「無知」を前提としていることは、多少はこれまでに触れた。
 「哲学のメンタリティ」・「哲学的懐疑の精神」と言えば響きがよいかもしれないが、その内実は、「西尾にとっての自己の思い込み・観念の塊り」だろう、と推察される。
 さて、後の方で、西尾は別の意味で興味深い叙述をしている。こうだ。
 p.220。神話と「魏志倭人伝」の関係は逆に理解することも可能だ。つまり、魏の使者に対して日本の官吏は<日本神話>=「日の神の神話」を物語ったのかもしれない。
 しかし、これはきわめて苦しい「思いつき」だろう。「邪馬台国」も「卑弥呼」も、「日の神の神話」には直接には出てこない。イザナキ・イザナミ等々の「神々」の物語=<日本神話>を歴史として「この国の権威を説明するために」魏の使者に語ったのだとすれば、「日の御子」と「女王国」くらいしか関係する部分がないのは奇妙だ。それに、詮索は避けるが、のちに7-8世紀にまとめられたような「神話」は、「魏志倭人伝」編纂前に、日本(の北九州の官吏が知るようになるまで)で成立していたのか。
 ***
 西尾幹二によると、「『魏志倭人伝』は歴史の廃墟である」。p.226。
 このようには表現しないが、八幡和郎のつぎの著もまた、日本ナショナリズムを基礎にして、可能なかぎり日本書記等になぞりながら、可能なかぎり中国の史書を踏まえないで、日本の古代史を叙述している。もとより、日本書記等と魏志倭人伝 では対象とする時代の範囲が同一ではない、ということはある。
 八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない-新皇国史観が中国から日本を守る-(扶桑社新書、2011)。
 冷静に、理知的に歴史叙述をするという姿勢が、副題に見られる、現在において「中国から日本を守る」という実践的意欲、プロローグから引用すれば「皇室」とその維持の必要性を理解する「論理と知識を、おもに保守的な読者に提供しよう」という動機(p.17)、によって弱くなっている。
 この書物もまた、古代史およびそれを含む日本史アカデミズムによって完全に無視されているに違いない。この欄では、あえて取り上げてみる。

2106/「邪馬台国」論議と八幡和郎・西尾幹二/安本美典①。

 八幡和郎「邪馬台国畿内説の人々が無視する都合の悪い話」ブログサイト・アゴラ2019年12月19日。
 西尾幹二・国民の歴史(産経新聞社、1999)第6章・第7章=同・決定版/国民の歴史・上(文春文庫、2009)第6章・第7章。
 西尾著の第6章・第7章の表題は各々、「神話と歴史」、「魏志倭人伝は歴史資料に値しない」。
 上の八幡の文章を読んで予定を早める。八幡・西尾批判を行うとともに、この機会に、安本美典の見解・歴史(古代史)学方法論を自分なりにまとめたり、紹介したりする。
 可能なかぎり、別途扱いたい天皇の歴史・女系天皇否認論に関係させないようにする。但し、事柄の性質上、関連してしまう叙述をするかもしれない。
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 八幡和郎「万世一系: すべての疑問に答える」ブログサイト・アゴラ2019年5月31日によると、この人物が天皇の「万世一系」に関係することに「とり組み始めたのは、1989年」で、「霞が関から邪馬台国をみれば」と題する記事を月刊中央公論に掲載してからだった。
 1989年!、ということに驚いた。文脈からすると、邪馬台国論議をその年くらいから「勉強」し始めたというように、理解することができるからだ。ひょっとして、長く検討してきた、とでも言いたいのか。
 ***
 1989年、秋月瑛二はすでにいくつかの邪馬台国に関する文献に親しんでいた。
 井上光貞・日本の歴史第1巻/神話から歴史へ(中央公論社、1965/文庫版1973)は単行本で概読していただろう。文庫版も所持している。
 安本美典は、1988年までに、<邪馬台国の会>のウェブサイトによると、邪馬台国に関係するつぎの書物を出版している。*は、Amazonで入手できるらしい。
 ①邪馬台国への道(1967、筑摩書房)。
 ②神武東遷-数理文献的アプローチ(1968、中央公論社)。
 ③卑弥呼の謎(1972、講談社新書)。*
 ④高天原の謎(1974、講談社新書)。*
 ⑤邪馬台国論争批判(1976、芙蓉書房)。
 ⑥新考・邪馬台国への道(1977、筑摩書房)。
 ⑦「邪馬壱国」はなかった-古田武彦説の崩壊(1979、新人物往来社)。
 ⑧研究史・邪馬台国の東遷(1981、新人物往来社)。*
 ⑨倭の五王の謎(1981、講談社新書)。*
 ⑩卑弥呼と邪馬台国-コンピュータが幻の王国と伝説の時代を解明する(1983、PHP研究所)。*
 ⑪古代九州王朝はなかった-古田武彦説の虚構(1986、新人物往来社)。
 ⑫邪馬台国ハンドブック(1987、講談社)。*
 ⑬邪馬台国と卑弥呼の謎(1987、潮出版)。
 ⑭神武東遷/文庫版(1988、徳間文庫)。*
 ⑮新版/卑弥呼の謎(1988、講談社)。*
 ⑯「邪馬一国」はなかった(1988、徳間文庫)。
 以上。
 秋月は上記<会>の会員ではないし、邪馬台国論議に関与できる資格があるとも思ってもいない。
 しかし、正確な記憶・記録はないが、上のうち、③・④・⑥・⑨・⑫~⑯は所持しており(所在不判明のものも含む)、かつ読了していると思える。⑫は、事典的に役に立つ。⑭は②の改稿版。
 したがって、論議の基本的争点くらいは理解しているつもりだ。
 このような秋月瑛二から見ると驚いたのは、上の西尾幹二の書(1999年)も、八幡和郎の1989年以降の書物やブログ書き込みも、安本美典のこれら著書を全く読まないで、あるいは全く存在すら知らないで、書かれていると見えるということだ。
 古代史に関係する、専門家以外の著作の恐るべき傲慢さがある(もっとも古代史・考古学アカデミズムが、ごく一部を除いて安本の諸業績に明示的に言及しているわけでもない)。
 上の点は別に措くとして、西尾幹二は、魏志倭人伝の記載自体をまるで全体として信頼できないと主張しているようで、中国の「歴史書」よりも日本の「神話」を重視せよとナショナリズム満開で主張し、かつまるで古代史学者はもっぱら魏志倭人伝等に依拠していると主張しているようだ。これは西尾の無知又は偏見で、例えば安本美典の書物を見ればすぐに分かる。安本は、日本書記にも古事記にも注意深く目を通して、分析・検討している。
 一方、八幡和郎は、「邪馬台国」所在地論争について「北九州説」に立つようで、この点は安本美典(および私)とも同じだ。
 しかし、八幡和郎にどの程度の自覚があるのか知らないが、八幡説(?)はまるで性質が異なる。
 すなわち、通常とはかりに言わなくとも、有力な同所在地論争は、「邪馬台国」がのちの「大和朝廷」に発展したことを前提としている。簡単に言えば、「畿内説」に立てば、その地(大和盆地南東部)で成長したことになるし、「北九州説」に立てば、邪馬台国を築いた勢力が「東遷」したことになる(<神武東遷>。「東征」という語は必ずしも適切ではない)。
 八幡和郎の主張は、「大和朝廷」=「日本」国家の起源は、北九州にあった「邪馬台国」とは全く無関係だ、というものだ
 さかのぼって安本著等を見て確認しないが、このような考え方は昔からあった。八幡和郎はどの程度自覚しているのかは、知らない。
 上の12月19日「邪馬台国畿内説の人々が無視する都合の悪い話」は、一定の前提に立って、「畿内説」論者はその前提をどうして理解できないのか、と記しているようなもので、説得力がない。
 八幡によると、北九州にあった邪馬台国が滅亡して「数十年たったあと」、畿内の大和政権が北九州も支配下においた。
 邪馬台国の所在地については中国の歴史書をふまえようという姿勢が(西尾幹二と違って)あるのだが、しかし、つぎのことは八幡和郎にとって「都合の悪い話」ではないか。
 ***
 魏志倭人伝(魏志東夷伝倭人条)によると、中国の使節がここまでは少なくとも来たらしい(これは八幡も肯定する)「伊都」国(現在の前原市辺り)は「女王国」に属し、「女王の都する」国は「邪馬台国」というとされる(女王の名が「卑弥呼」だ)。
 女王国と「邪馬台国(連合)」が同一であるかについてはなおも議論があるのかもしれない。しかし、個々の「クニ」よりも大きな「クニ」または「クニ連合」のことを「邪馬台国」と記載していることに間違いはないだろう(「邪馬一国」説は省略)。
 さて、なぜ、「邪馬台国」と記載されているのか
 話は跳ぶが、ソウルと大宮・大阪のいずれにもある「オ」という母音は、ハングルと日本語では異なる。韓国語でのソウルのソにある「オ」は、日本語の「オ」と「ア」の中間のようだ。
 したがって、ハングル文字での母音表記は大宮や大阪の「オ」とは異なり、コンピュー「タ」やティーチ「ャ」という場合の「ア」や「ヤ」と同じだ。
 何のためにこう書いているかというと、古代のことだから上と直接の関係はないとしても、つまりハングル・日本語と当時の中国語と北九州の言葉の関係は同じではないとしても、「邪馬台」は「ヤマト」と記すことのできた言葉であった可能性があるからだ。
 また、安本その他の諸氏も書いていることだが、当時の「ト」音には二種類があり、福岡県の「山門」郡は「邪馬台」と合わず、「ヤマト(大和)が「邪馬台」と合致する。
 また、「台」は、今日のダ、ドゥといった音に近いらしい(上で参照したアとオの中間的だ)。
 ダを採用すると「邪馬台」=「山田」となる。なお、朝倉市甘木辺りには「馬田」(まだ)という地名があったらしい。甘木という地名自体に「アマ」が含まれてもいる。
 この「邪馬台」と「大和(ヤマト)」の共通性・類似性を、八幡和郎は説明できないように考えられる。
 邪馬台国の成立・消滅のあとに成立・発展したはずの大和(ヤマト)政権は、いったいなぜ、「ヤマト」と称したのか?
 両者に関係がないとすれば、その「国名」の共通性・類似性はいったい何故なのか? たんなる偶然なのだろうか。
 八幡和郎は説明することができるのだろうか。
 八幡は知らないのかもしれないが、かつてすでにこの問題に回答することのできる説がぁった。
 正確な確認は省略するが、すでに畿内にあった大和(ヤマト)政権の強大さ・著名さにあやかって、本当は大和政権ではない北九州の「邪馬台国」が「ヤマト」という美名を<僭称>した、というものだ。
 これは時期の問題を無視すれば、論理的には成り立ちそうだ。
 しかし、八幡和郎は、この説も使うことができない。
 なぜなら、「邪馬台国」が北九州にあった時代、畿内にはまだ「大和(ヤマト)」政権はなかったと八幡は考えるのだから、「ヤマト」と<僭称>することはできない。したがって、中国の歴史書が「邪馬台国」と書き記したのは畿内政権と関係がないことになり、北九州の(伊都国の)人はなぜ、のちに成立する「ヤマト」政権と少なくとも類似した呼称を語ったのか、という疑問が残ったままだ。
 ***
 八幡和郎の論・理解の仕方の決定的弱点は「年代論」にあると思われる。天皇在位の年数をおそらくは平均して30年ほどに想定している。これ自体が、誤りの元になっているようだ。
 さらにいくつか、批判的に指摘しよう。

0836/渡部裕明・産経新聞論説副委員長・11/14の「歴史的」大失態。

 一 奈良県の桜井市教委が、纒向遺跡内から大規模建物跡が発見された、と発表したらしい。
 産経新聞11/11は「卑弥呼の居館か」との大見出しを打って邪馬台国=近畿説の石野博信(香芝市二上山博物館長・元奈良県立橿原考古学研究所副所長兼附属博物館館長・関西大院卒)の「…卑弥呼の館の可能性はある」との言葉を伝え、辰巳和弘(同志社大教授)は「高床式建物はまさに卑弥呼の居室」と「明言」したと報道する一方で、邪馬台国=九州説の高島忠平(佐賀女子短大学長、元佐賀県教育委員会)は「大型建物跡は4世紀で卑弥呼の時代より50年以上も新しい」として「邪馬台国との関連を否定」した、と伝える。
 (なお、石野博信コメントは「可能性はある」というだけで断定するものではない。辰巳和弘コメントも「高床式建物」は「卑弥呼の居室」という一般論を示すだけで、今回発掘された建物跡の建物が「卑弥呼の居室」だったという趣旨ではないと解される)。
 産経新聞11/12は邪馬台国=近畿説の白石太一郎(大阪府近つ飛鳥博物館長、元奈良県立橿原考古学研究所所員、同志社大院卒)は邪馬台国所在地論争は「だんだん決着に近づいてきた」と「強調」した、と伝え、かつ赤塚次郎(愛知県埋蔵文化財センター調査課長、白石太一郎らとの共著あり)は「畿内説が有利になった」と「指摘」した、とする。
 同新聞は11/14から<卑弥呼いずこに・激論、邪馬台国>の連載を始めるが、第一回(上)に登場の、邪馬台国=近畿説だと思われる寺沢薫(橿原考古学研究所総務企画部長)は、「卑弥呼の宮殿として問題ないか」との先走った(幼稚な)質問に対して、単純な回答を避け、「卑弥呼が調査した辺りにいた可能性は高い」とだけ述べる。この部分を、記事は寺沢の顔写真の下にも引用している。
 11/15(日)に登場の七田忠昭(佐賀県教育・文化財課参事)は、邪馬台国=九州説の立場から「有明海沿岸が最有力」とし、纒向遺跡が示すのは「魏志倭人伝には登場しない別の勢力」ではないか、としている。
 11/16の第三回(下)はまだ読んでいない。
 二 以上、比較的長々と引用したのは、11/14の産経新聞「土曜日に書く/纒向遺跡と国家誕生」を書いた、産経新聞論説副委員長なる肩書きの渡部裕明の文章を奇異に感じたからだ。
 渡部裕明はこの文章(記事)の最後の方で「邪馬台国は大和で決着」との小見出しを付け、こう書いている。
 「邪馬台国九州説を唱える人はまだいる。しかし、それは学問的な発言ではなく、もはや『お国自慢』のレベルでしかないと筆者は感じている」。
 どのように「感じて」いようと勝手だし、それを全くの個人的・私的見解として公にするのも目くじらを立てることではないだろう。
 だが、産経新聞論説副委員長と明記したうえで、このようなことを書いてよいのか。内心で「感じる」ことや個人的・私的に語ることと、このような肩書きを付けて公式に活字にすることとの間には大きな懸隔がある。渡部裕明は、そう思わないか?
 第一に、自らの産経新聞に登場させている、邪馬台国九州説論者、すなわち、高島忠平や七田忠昭に対して失礼ではないか。「学問的な発言ではなく、もはや『お国自慢』のレベルでしかない」などと書いてしまうのは。
 なるほどこの二人は佐賀県に所縁があるのかもしれないが、それを言うならば、産経新聞が登場させている邪馬台国=近畿(畿内)説論者は、赤塚次郎を除く全員が「近畿」地域で仕事をしてきた者たちだ。
 第二に、この「産経新聞論説副委員長」氏は、いったいどの程度、所謂邪馬台国論争についての知識・素養があるのだろうか。
 同じ産経新聞社発行の月刊正論12月号は珍しく邪馬台国問題を取り上げ、黒岩徹「皆既日蝕が明かす卑弥呼の正体」を掲載しているが(p.232~)、この黒岩の文章は明確に邪馬台国=九州説を前提としている。そして、卑弥呼=天照大御神説でもある。
 まさかとは思うが、渡部裕明・産経新聞論説副委員長は、この月刊正論12月号の文章すら知らないまま、読まないままで、堂々と自信たっぷりに新聞紙上で邪馬台国=九州説は「学問的な発言ではなく、もはや『お国自慢』のレベルでしかないと…感じている」などと傲慢不遜な言葉を活字にしてしまったのではないか。
 長年の議論の蓄積があり、多様な論点がある問題について、いくら大(?)新聞の論説副委員長だとしても、上のように簡単に「決着」を付ける能力・資格などありはしない、と考える。
 三 素人の私ですら感じるのだが、産経新聞の11/12の一般記事が書く、纒向遺跡の中の「箸墓古墳」は「かつては4世紀の築造といわれたが、木の年輪幅の違いを利用して伐採年代を割り出す年輪年代測定法の成果などによって、3世紀の邪馬台国時代にさかのぼる可能性が高まった」、かかる研究により「今回の大型建物跡で出土した土器も、3世紀とほぼ特定できたという」こと自体が、まだ確立した学説にはなっておらず、争い・疑問があるところだろう。
 上の記事の文章すら正確には、「可能性が高まった」、「ほぼ特定できた」と叙述しているのであり、高まる「可能性」や「ほぼ…」というだけでは、何ら学問的に確立した考え方・認識にはなっていないことを認めた書き方だ。
 渡部自身も箸墓「築造の時期は、土器の編年や放射性炭素による年代測定などから3世紀半ばから後半と考えられるようになった。卑弥呼の没年と限りなく近づいた」と(こちらは断定的に)書く。
 しかし、これまた何ら学問的に確立した考え方・認識ではない。たしか国立歴史民俗博物館の研究者が見出したとかいう「放射性炭素による年代測定」方法なるものも、いかほどに科学的で信頼がおけるものかについて、専門家の間でも争いがあるはずだ。
 こんな曖昧な自社の記事や研究成果の影響を受けて、渡部裕明・産経新聞論説副委員長が、「箸墓」=卑弥呼の墓、今回遺跡出土の建物=卑弥呼の宮殿と「ほぼ」理解して、「邪馬台国は大和で決着」などという小見出しをつけたのだとすれば、大いにそそっかしいし、後世に、専門家でもないのに日本古代史上の問題に口を出して「結論」まで書いてしまった愚かなジャーナリストとして嗤われ続けるだろう。
 四 渡部裕明が書くように、纒向遺跡の地域=奈良盆地の東南地域が「ヤマト王権発祥の地」だったことは疑いなく、渡部が「もはや動かしがたいだろう」と書くまでもない。
 問題はそのあとに続けて、「邪馬台国(倭国連合)から古墳時代への移行はこの地〔纒向遺跡の地域=奈良盆地の東南地域〕で、直接的に行われたのである」と断定して書いたことだ。そのあとの一段落の文章(省略)では、こう言うための十分に説得的な根拠には全くならない。立ち入らないが、例えば、渡部は、記紀上の神話の記述、<神武東遷>伝承等、との関係をどう理解しているのだろう??

 五 箸墓=卑弥呼の墓説を有力視?させた、国立歴史民俗博物館の研究発表後に、安本美典・「邪馬台国=畿内説」・「箸墓=卑弥呼の墓」説の虚妄を衝く!(宝島社新書)は刊行されている(2009.09)。同・「邪馬台国畿内説」徹底批判(勉誠社、2008.04)もある。
 月刊正論12月号の黒岩徹「皆既日蝕が明かす卑弥呼の正体」は、安本美典の著作等を参考にしており、安本から「貴重な助言」を受けた、と明記している(p.239)。
 渡部裕明・産経新聞論説副委員長は大(?)新聞紙上に傲慢不遜な文章を書くのならば、安本美典の著作等も「参考」にしたらどうか(きっと一度も一冊も読んでいないだろう)。あるいは、安本美典の「貴重な助言」を受けて記事を執筆したらどうか。
 なお、安本は京都大学文学部・院卒、出身も九州ではない。<「お国自慢」のレベルでしかない>などと渡部が書けば、渡部自身が恥を掻くだけだ。
 六 日本史上の大問題に(箸墓=卑弥呼の墓説に関する朝日新聞と同様に)乏しい知識のみで簡単に決着をつけたつもりでいるのが「論説副委員長」なのだから、産経新聞紙上の「論説」のレベルの高さ(=低さ)も分かろうというものだ。何ともヒドく、情けない。

0562/安本美典・大和朝廷の起源、同・倭王卑弥呼と天照大御神伝承(勉誠出版、2005・2003)全読了。

 一 この数日間で、安本美典・大和朝廷の起源―邪馬台国の東遷と神武東征伝承(勉誠出版、2005)、安本美典・倭王卑弥呼と天照大御神伝承―神話の中に、史実の核がある(勉誠出版、2003)を、この順序で、それぞれ全読了した。
 安本美典の2000年以降の本(№はないが、「推理・邪馬台国と日本神話の謎」との統一タイトルのシリーズ扱いのようだ)は、安本がそれまでに主張してきたことの集大成プラス若干の補足的情報で、1934年生まれの安本としては、同じ形式・スタイル・造本で<ライフ・ワーク>を遺しておきたかったのだと思われる。したがって、その主張に馴染みがある者にはごく簡単に読めるし、もともとこの人の文章は(安本は文章心理学の本も出しているが)短く、読みやすく、主張が明晰だ(それと比べて、丸山真男の文章は何と読み難いのか。大江健三郎も、そしてある程度樋口陽一もそうだが)。但し、価格がやや高いのが難。
 二 上の安本・大和朝廷の起源の一部紹介。
 ・p.244-「平等」を至高の「正義」と考えれば「天皇制こそは、わが国において、平等の実現を阻害してきた最大の要因」になる。「いかに人々が平等をめざして戦ってきたか」という「人民の歴史」観は「第二次大戦後、大きく燃えあがり、マルクス主義などによってささえられ、とくに学界を席巻した」。「人民の歴史」観に立つと、「天皇制の源である大和朝廷も、本来、価値的に否定すべきものとして見ることとなる。そして、古代において大和朝廷が果たした一定の積極的役割を、評価しにくくなる」。
 ・p.247-「今日、古代においては、天皇家も、他の氏族と同じていどの権力しかもっていなかったとする議論がさかんである。しかし、私は、そのような議論は、古代における天皇の権威を、実質以上に低くみようとする一定の意図にもとづくものであると思う。/天皇家の権威は、大和朝廷の成立の当初から、他の氏族に比べ、卓越していたとみられる……」。
 ・各天皇の活躍期等/(卑弥呼=天照大御神230年頃)-神武天皇280年~290年頃-北九州から大和への「東遷」3世紀末-崇神天皇360年頃。
 ・時期の理解・主張に違いはあるが、<神武東遷>又は<邪馬台国東遷>を史実とするものに、和辻哲郎、市村其三郎、森浩一、井上光貞らがいる(安本美典が初めて主張といった珍説?では全くない)。
 三 上の安本・倭王卑弥呼と天照大御神伝承の一部紹介。
 ・247年と248年に続けて皆既日食が起きた(前年のものは大和・飛鳥の上では「皆既」にならない)。この史実(天文学的事実)の反映が<天の岩屋>(天照大御神の「隠れ」)伝承で、これは天照大御神=卑弥呼の<死>を意味するだろう(なお、卑弥呼が中国に使いを遣ったのは中国文献によると239年)。
 ・伝承では天照大御神が天の岩屋から再び地上に出てくるが、前後の天照大御神の活動の仕方には違いがある(後では補佐がつき単独では行動しない)など、再登場後の天照大御神は、中国文献で卑弥呼の「宗女」とされる<台与(豊)>のことだろう。
 ・第一代神武から第一六代仁徳まで皇位は父から子に継承されているが、これは信じられない。弟や甥への継承もあった筈。だが、第一代神武は勿論、非実在説の有力な第二代綏靖~第九代開化も(第十代が崇神)、生没年・在位年数等は別として、存在自体は否定できないだろう。
 ・直木孝次郎は(井上光貞も)、第二代綏靖~第九代開化には「事跡記事」(「旧辞」的部分)が全くないことをもって非実在の根拠とする。しかし、仁賢(24代)・武烈(25代)・安閑(27代)・宣化(28代)・欽明(29代)・敏達(30代)という存在が「ほぼ確実な」天皇にも「旧辞」的部分はなく、用明(31代)・崇峻(32代)・推古(33代)という存在が「確実な」天皇にも「旧辞」的部分はない。
 直木孝次郎は、①神武には事跡記事があっても存在を否定し、②綏靖以下八代は事跡記事を欠くことを理由に存在を否定し、③崇神や仁徳は事跡記事があって存在を肯定し、④用明・崇峻・推古には事跡記事が欠けていても存在を肯定する。こんな根拠は「主観にもとづくもので、およそ、論理や実証にたえるような議論とは思えない」(p.168、典拠は、直木・神話と歴史(吉川弘文館))。
 ・第二代綏靖~第九代開化非実在説の井上光貞(中央公論社の全集の初巻)の第二の根拠は名前(和風諡号を含む)が<後世的>だということにある(三王朝交替説の水野祐に大きく依存)。だが、記紀編纂後の桓武以降の天皇も第二代綏靖~第九代開化に似た又は同じ部分(例、ヤマトネコ)のある諡号をもつ。<後世>の記紀編纂期の天皇の名前を真似たのではなく、逆に、第二代綏靖~第九代開化の名前が<後世>に影響を与えた、と見られる。
 ・神功皇后は実在。活躍時期は400年前後。高句麗・広開土王の碑文は391年に倭が半島に侵入してきたことを示す。神功皇后はこの頃の人物。雄略天皇の活躍時期は470年頃。
 ・天皇等の代数と在位年数(10年程度で古代になればなるほど短くなる)が不自然にならない、というのが、コロンブスの卵的な安本美典説の立脚点。p.217、p.280のグラフは卑弥呼=天照大御神説にきわめて説得的。卑弥呼は神功皇后(日本書記の考え方)でも倭姫でも倭迹迹日百襲姫(箸墓被埋葬者とされる)でもない。
 四 以上の紹介はごく一部。安本美典説すべてを支持はしていないが、相当に説得的かつ刺激的だ。
 日本を<天皇を中心とする神の国>だと完全に又は多分に又は一部にせよ考えている日本国民は、日本古代史についてもっと知っておくべきと思うのだが、はたして<保守>派とされる論客たちにはどの程度の知識・見識とどの程度の一致があるのだろう。かなり心許ないのではないか、という気もする。

0501/邪馬台国・三角縁神獣鏡問題と人文・社会系「学問」。

 産経新聞5/11の読書欄に安本美典・「邪馬台国畿内説」徹底批判(勉誠出版)の紹介(簡単な書評?)がある。その文の中に「最近は畿内説が有力になってきて、畿内にあったことを前提に議論がなされる傾向もみられる」とある。これは紹介者(書評者?)の自らの勉強・知識にもとづくものだろうか、安本が言っていることを真似ているのだろうか。
 安本の少なくとも安価な本(新書・文庫)はおそらく全て所持しており全て読んでいる。最も新しいのは、安本美典・「邪馬台国畿内説」を撃破する!(宝島社新書、2001)だろう。
 後半1/3は安本の従来の主張の反復及び補強だ。この本だけに限らないが、①邪馬台国所在地=北九州>現在の朝倉市甘木地区説、②卑弥呼=天照大神説、③神武天皇実在説、等はそれぞれ-素人にとってだが―説得力がある。
 ①について、甘木付近(と周囲)と奈良盆地西南部付近(と周囲)に同一又は類似の地名が同様の位置関係で存続していることの指摘は目を瞠らせた(上の本ではp.182-3)。
 ②について、天皇在位年数の統計処理を前提としてのヨコ軸=天皇の代の数、タテ軸=天皇の没年(又は退位年)のグラフ(上の本ではp.177)を延長すると初代(代数1)の神武天皇は280年~290年、その祖母とされる天照大神(代数でいうと、いわば-2)は240年頃になる、という指摘も、上の地名問題とともに安本の独自の指摘(発見?)だったと思うが、相当に説得力がある。
 中国の史書によると、卑弥呼は239年に中国に使者を派遣している。また、中国の史書によると卑弥呼の没年は247~8年らしいが、この両年に(二度)皆既日食があったのは事実のようで、安本は日本の史書による天照大神の「天の岩屋」隠れと再出現は天照大神の死亡とトヨ=台与(安本の上の本p.189はニニギの命(神武天皇の父)の母とされる「万幡豊秋津師比売命」ではないかする)の<女王>継承を意味するのではないか、とする。卑弥呼の死亡年頃に実際に皆既日食があり、天照大神の「天の岩屋」隠れの伝承が一方にある、というのは全くの偶然だろうか。
 上の③を補足すれば、現在は紀元2700年近くになるというのではなく、安本は、記紀上の在位年数や活躍年代の記載は信じられなくとも、北九州から大和盆地に「東遷」し、のちに神武天皇と称された、大和朝廷という機構の設立者にあたる人物がかつて(3世紀後半頃に)存在したこと、その後の支配者(=祭祀者?)の代数、くらいの記憶は7世紀くらいまで残っていても不思議ではない、とする。
 安本説によっても<王朝>の交替=血統の変更は否定されないが、勝手に自分の言葉(推測)で書けば、少なくとも継体天皇以降の天皇家の血統は現在まで続いているのではなかろうか(むろん、奈良時代の天武天皇系の諸天皇、南朝の諸天皇等々、現在の天皇家の直接の祖先ではない天皇も少なくない)。
 さて、安本の上の本の前半は最近の「邪馬台国畿内説」論に対する厳しい批判で、樋口隆康(この本の時点で橿原考古学研究所所長、京都大学卒)、岡村秀典(同、京都大学人文研究所助教授)らが槍玉に挙がっている。
 京都大学の小林行雄等が中国産(魏王から卑弥呼に贈られた)とした、そして京都大学系の人が同様の主張をしているらしい三角縁神獣鏡問題の詳細等には触れない。
 もともと安本美典は<マルクス主義は大ホラの壮大な体系>とか述べてマルクス主義(唯物史観・発展段階史観)歴史学を方法論次元で批判しており、津田左右吉以来の、記紀の「神代」の記述を全面否定する<文献史学>に対しても批判的だ。
 そしてまた、安本自身は京都大学出身だが(但し、日本史又は考古学専攻ではない)、樋口隆康や岡村秀典に対する舌鋒は鋭い。
 ・安本はかつてこう言ったらしい。-「京都大学の考古学の人たちは、オウム真理教といっしょ…。秀才ぞろいだけど…馬車馬のように視野が限られていた」。また、京都大学出身の原秀三郎(静岡大学)も次の旨言ったらしい。-「京大の連中はオウム真理教だよ。秀才の考古ボーイが入ってきて、そこで三角縁神獣鏡を見せられ、小林イズム〔小林行雄の説〕を徹底的にたたき込まれれば、おのずからああいうふうになってしまう」。(p.103)
 安本はこうも言う。-京都大学は近畿という地の利もあり「京大勢がリーダーになりやすい」。「どんなに論理的に無理があろうと」「三角縁神獣鏡説=卑弥呼の鏡」に「固執」する。「強力な刷り込みが行われると、そうなる」のだろうか(p.54)。
 ・安本は、岡村秀典についてこう書く。-「氏の論議の本質は、実証というよりも、空想である。科学的論証の態をなしていない。…著書で証明されているのは、およそ非実証的、空想的な内容であっても、圧倒的自信をもって発言する人たちがいるのだということだけである」(p.148)。p.102の見出しは、「カルトに近い『卑弥呼の鏡=三角縁神獣鏡説』」。 
 ・安本は、樋口隆康「ら」についてこうも書く。-「発掘の成果じたいは立派」でも、「多額の費用をかけた奈良県の…地域おこし、宣伝事業に、邪馬台国問題が利用されている面が、いまや強く出ている」(p.18)、「誤りと無根の事実とに満ちている」(p.20)、「この種の非実証的・非科学的・空想的な議論を、くりかえしておられる」、「氏の頭脳の構造は、どうなっているのであろう」、「与えられた先輩の説…を…八〇年一日のごとく、機会あるごとにくりかえす。念仏や題目を唱える宗教家と、なんら異ならない」(p.30)。
 以上は、たんに邪馬台国又は三角縁神獣鏡問題に関心をもって綴ったのではない。古代史学・考古学という<学問>にどうやら<人情>・<感情>・<情念>が入ってきているらしいということを興味深く感じるとともに、<怖ろしい>ことだとも思い、かつそうした現象・問題は古代史学・考古学に限らず、歴史学一般に、さらに少なくとも人文系・社会系の<学問>分野に広く通じるところがあるのではないか、という問題関心から書いた。
 政治学の分野で、マルクス主義又は少なくとも「左翼」程度に位置しておかないと大学院学生の就職がむつかしい(少なくとも、かつては困難だった)ということは、かつて月刊・諸君!誌上で中西輝政が語っていた。同様の事情は、歴史学、社会学、憲法学等ゝの法学(さらに教育学?、哲学?)についてもあるのではなかろうか。そして、そういうような研究者の育て方で、<まともな>学問が生まれるのだろうか。
 あたり前のことと思うが、安本美典は上の本でこうも書く。-「個人崇拝的な学説の信奉はよくない」(p.102)。
 もともと邪馬台国所在地問題については東京大学系-北九州説、京都大学系-大和説という対立があると知られており、個人レベルではなく大学レベルでの対立があるらしきことを、<非学問的な>奇妙な現象だと感じたものだった。大学レベルではなく指導教授レベルでもよいが、<非学問的な・個人崇拝>的現象は、広く人文系・社会系の<学問>分野に残っているのではないか
 若い研究者にとっては、大学での職を求めるために唯々諾々と?指導教授の学説ないし主張に盲従?していないだろうか。全面的にそうだとは推測しないが、何割かでもそういう現象があれば、その分だけはもはや<学問>ではなくなっているのではないか(「秘儀」の「伝達」の如きものだ)。
 なお、京都にあっても、同志社大学出身・同教授だった森浩一は三角縁神獣鏡問題でも安本説と同じで、かつ邪馬台国=北九州説。一方、京都大学出身の立命館大教授だった山尾幸久の同・新版魏志倭人伝(講談社現代新書、1986)は、京都大学系そのままの、邪馬台国=大和説。
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
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  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
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  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
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  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
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  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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