秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

勝岡寛次

2441/高森明勅のブログ①-2021.11.19。

  11月19日付け。<旧皇族で天皇陛下よりお若い方は既婚女性だけという事実>
 「旧皇族」という場合、実際に皇族であったことがある人(最近の真子さまもこれにあたる)と、そのような人の子孫で自分自身は一度も皇族であったことはない人(例えば竹田恒泰)を厳密には区別して考え、前者のみを指す、というのは、一つの常識的な概念用法かと思われる。高森によると、国会での宮内庁次長答弁もその旨らしい。
 ほとんどもっぱら高森明勅のブログから検討状況を知ってきたのだが、手っ取り早くついさっき見た後出の勝岡寛次論考から引用すると、皇位継承問題を考える菅内閣の有識者会議が今年7月の中間報告が出した二つの方向性のうちの一つは、以下だった。
 「皇族の養子縁組を可能とすることで、皇統に属する男系の男子が皇族となることを可能とすること」。
 ここでいう養子縁組の具体的イメージは無知なためかさっぱり湧かないが、ともあれ、「皇統に属する男系の男子」という表現が用いられ、「旧皇族」の男子ではない、ということに気づく。
 高森は上の厳密なまたは常識的な語法を採用すべきと主張する。これによるとおそらく、例えば竹田恒泰は前者であっても後者ではないのだろう。
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  高森が上のブログで、「先頃、保守系の論者の文章の中で、『元皇族』と『旧皇族』を“別の”概念の言葉として使っているのを見かけた(『日本の息吹』11月号)。もはや何をか言わんやだ」と書いている。
 『日本の息吹』とは日本会議の月刊機関誌。秋月瑛二は、何を隠そう、F・フュレの一著等の読者であるとともに、この雑誌の読者なのだ(だからいざとなれば、『日本の息吹』の文章も正確に引用できる)。
 さて、上に該当する部分は少なくて、勝岡幹次「旧皇族の皇籍復帰を考える—有識者会議の議論から」のうち、つぎではないかと思われる。p.13 。
 「旧皇族には多くの元皇族(内親王)が嫁がれていることから、皇族にとっては身内も同然なのだ」。
 勝岡は、「旧皇族」の国民にとっての疎遠さに反駁する論脈で、こう述べている。疎遠感は、皇族離脱からすでに長く経つことのほか、男系男子に限定すると祖たる天皇は室町時代にまで遡ることも理由の一つだろう(この点では、八幡和郎の明治天皇の内親王の末裔(女系!)という理解の上で含めるべきとの議論は現実的だが、実現可能性はほとんどないのでないか)。
 しかし勝岡は、「旧皇族」と「元皇族」の意味の違いをきちんと説明していない。
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  したがって、高森がわざわざ言及した意味は私には不分明だ。
 しかし、上の厳密かつ常識的な概念用法からすると、上の論考で勝岡寛次は、次のように、目を剥く!言葉遣いをしている。
 (検討会の提言にいう)「皇統に属する男系の男子とは旧皇族(旧宮家)のことを指す」。p.11。
 ここでは、今回の冒頭で触れた、現に皇族であったことがある者と皇族だったことはないがその子孫(の男子)とは区別されておらず、全員が「旧皇族」だ。
 自民党総裁選挙中に高市早苗は「旧皇族復帰案」を支持したらしく、高森はそこでの「旧皇族」の用法を批判する。
 思うに、自民党の<いわゆる保守派>は、言葉遣いについても、有力な支持母体である日本会議や神道政治連盟の強い影響を受けている。
 考え方や歴史認識についてもそうで、男系男子で続いてきた我が国の伝統も考慮し、とか言っていた菅前総理大臣もそうだろう。
 政治家は歴史家でも学者でもない。だから多くを期待しても無駄だが、特定政治団体・運動団体の見解・概念用法だけを知って発言するのは危険だ。
 明治の皇室典範発布前には、男系男子に継承者を限るか、という論点について、政府内でも、現在よりも自由で活発な議論があったのではないか。
 今の方が制約が多そうなのは、不思議なことだ。
 現在の「皇族」数、とくに男子の数の減少が今後についての検討が必要なそもそもの問題なのだが、これ以上は省略する。
 ——

1963/西尾幹二2007年著-「つくる会」問題①。

 西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007年7月)。
 記録しておく価値があるだろう。上掲書の一部。p.77~。
 西尾幹二「八木秀次君には『戦う保守』の気概がない」初出/諸君!(文藝春秋)2006年8月号。西尾幹二、71歳の年。
 八木秀次論というよりもむしろ、いわゆる「つくる会」の歴史の<認識>にかかわって。
 一部ずつ引用。直接の引用には、明確に「」を付す。但し、原文とは異なり、読み易さを考慮して、一文ごとに改行していることがある。
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・諸君!2006年5月号の八木秀次氏の私(西尾)に関する文章は「私の虚栄心をくすぐってくれた題である。これにリードがついて『執拗なイジメの数々…私〔秋月-八木のこと〕は林彪のごとく<つくる会>を去っていくしか術はなかった』と氏の行動が表現されている」。
 ・「一人の男として、会のトップに立つべき人として、足を引っ張られたとか、イジメられたとかは口が裂けても言ってはならないはずだが、全文を読み終ると、八木氏はこのリードの通り弁解めいた弱音をさらけ出し、〃ボクちゃんはイジメられたけど正しかったんだよお〃と訴えているように読める。」
 ・私(西尾)は2006年1月17日に<つくる会>の名誉会長を辞任した。
 「振り返れば、前年〔2005年-秋月〕の12月初旬、八木氏は突然、私に対して態度が大きくなり、ふてぶてしくなり、あっと驚く非礼があり、執行部の中心にいた彼が『宥和』を図ると称して執行部に反対する四人組(新田均氏、勝岡寛次氏、松浦光修氏、内田智氏の四理事)+宮崎正治・前事務局長の反乱側にひそかに寝返ったのである。
 執行部会議に名誉会長、すなわち西尾は出て来るべきではないと彼が私に面と向かって言ったのは12月25日だった。
 私は困難が発生したから乞われて執行部会議に臨時に出ていただけなのに、そういう言い方だった。
 執行部を中心とした良識派は八木氏の急激な変貌ぶりに危機感を覚え、守りを固めた。」
 ・私(西尾)は2006年1月16日の理事会で「『お前はなぜそこにいる』という意味の重ねての無礼な反乱側の挑発に腹を立て、名誉会長の称号を返上した」。
 ・「…渡りに船でもあり、辞任に不満はないが、クーデターは許せないと思った」。
 「平時に」理事会にも出ないが、大事なのでと執行部側から出席を求められ、「名誉会長の最後の義務だと思ってやりたくもない務めを果たしていた」。
 「しかし何度もいうが、会の精神を変えてしまうクーデターは許せない」。
 ・「というのは、単なるポストをめぐる争いではなく、会を教科書をつくる会ではなく、なにかまったく別の違ったものに変質させてしまう考え方をもつ人々による計画的簒奪であることが、後日少しずつ分るようになるからである。」
 ***
 ・「すでに反乱側の少数派は12月の段階で会を乗っ取ろうとし、事務局まで割って、執行部側の事務局員をイジメて追い出そうとしていた(実際に二人追い出された)。
 今思えば11月半ばから八木氏の会長としての職務放棄、指導力不足は意識的なサボタージュで、彼によってすでに会はこの早い時期に分裂していたといえる。」
 ・八木氏は先月号=2006年5月号で「悲劇の主人公を演じている」が、「六人のうち私と藤岡氏を除く三副会長、遠藤浩一、工藤美代子、福田逸の諸氏のうち工藤、福田の両氏を副会長に指名したのは八木氏その人だった」。
 「彼はその三副会長に背中を向け、電話もしない。
 六人の中で孤立したのではなく、他の五人から自分の意志で離れて『四人組+宮崎』派にすり寄ったのである。
 しかも何の説明もしなかった。
 三副会長は怒って辞表を出した。
 それでも八木氏は蛙の面に水である。
 都合が悪くなると情報を閉ざし、口を緘するのが彼の常である。」
 ・言いたいことはガンガン言えばよい。「しかし彼は黙っている」。
 「語りかける率直さと気魄がない。
 それで後になって自分は置き去りにされていたとか、自分の知らない処でことが進んでいたとか繰り言をいう。
 すべてそういう調子だった。」
 ・「今考えると、サボタージュを含むすべての行動は計画的だったのかもしれない。
 しかし前記の論文では自分はイジメられて追い出されたという言い方をしている。//
 自分がしっかりしていないことを棚に上げて、誰かを抑圧者にするのはひ弱な人間のものの言い方の常である。」
 <つづく-秋月>

1782/西尾幹二と「日本会議」-2009年対談書。

  西尾幹二・保守の真贋(徳間書店、2017.09)の中に、平田文昭との対談の一部が「『日本会議』について」と題して、2頁分だけ収載(再録)されている。
 その元になっているのは、つぎの、p.280~p.282。
 西尾幹二=平田文昭・保守の怒り-天皇・戦争・国家の行方-(草思社、2009.12)
 この本を昨秋に広大な書庫(?)で探してみたが見つからないので購入したところ、いつだったか、同じこの本が二冊あることに気づいた。すでに所持していたのだ。
 西尾幹二全集だけは巻順に並べて(飾って?)いるが、他の同著書類は一箇所に集めているわけではないし、さすがに対談書までは所持していないのかと思っていた。
 さて、上の2017年著に再収されている部分ではないが、「日本会議」について、元の対談書には興味深い部分もある。
 その辺りにさらに関心をもったのは、ネット上で、この西尾幹二=平田文昭の対談書を、「正誤表」をつけて修正してるのに、出版停止にも絶版にも、修正版の新しい本の刊行もしていないと、それこそ罵倒している文章を見つけたからだった(たぶん昨秋)。
 おそらくは第一刷以降に挿入された一枚の「正誤表」によって西尾幹二発言についての「正誤」訂正の前後を正確に比較してみると、つぎのとおり。
 Aは「正誤表」による修正前、Bは修正後。冒頭に「家」とあるのは「生長の家」で、「生長の」が省略されている。<後日追記ーちょうどページの切れ目だった。>
 違いを明確にするために、ここでは敢えて、原書および「正誤表」とは異なり、一文ずつ改行する。この点と一部の太字化、下線、色づけは秋月によるものであることを明記しておく。
 A「家信者の活動家で芋づるのようにつながっていることはある時期までわかりませんでした。
  宮崎事務局長が別件で解任されかかったら日本会議本部の椛島有三氏が干渉してきて、内部の芋づるの四人の幹部と手を組んで猛反発し、会はすんでのところで乗っ取られかかり、ついに攪乱、分断されたんです。
  悪い連中ですよ。」
 B「家信者の活動家で芋づるのようにつながっていることはある時期までわかりませんでした。
  このうち松浦氏ひとりは生長の家活動家ではなかったとも聞いていますが、四人が一体となって動いていたことは間違いありません。
  宮崎事務局長が別件で解任されかかったら日本会議本部の椛島有三氏が干渉してきて、内部の芋づるの四人の幹部と手を組んで猛反発し、会はすんでのところで乗っ取られかかり、ついに攪乱、分断されたんです。
  悪い連中ですよ。」
 以上が(改行を除き)正確な引用で、訂正の前後の違いは、上のBの太い黒字下線の一文が追加挿入されているにすぎない。
 (なお、椛島有三は、現在も日本会議事務総長。
 「四人」とはp.263によると「新田均、松浦光修、勝岡寬次、内田智」で、Bにだけ(正誤表では)出てくる「松浦氏」とは松浦光修であることが分かる。「宮崎事務局長」とは、同頁によると、話題にしている時期の<新しい歴史教科書をつくる会>事務局長だった宮崎正治。) 
 こう見ると、この訂正は松浦光修のために(?)厳密さ、正確さを期したものであって、第一刷本を絶版にするほどの「誤り」では、社会通念上は、または常識的には全くない。
 もっとひどい書物はいくらでも出版、流布されている。
 かりに問題があれば「松浦氏」が仮処分等の申し立てをして法的に争えばよいだけで、わざわざ「正誤表」をつけて発行しているのだから、まだはるかに良心的な方だろう。
 しかるに、私の目を惹いたネット上の書き込みは何だったのだろう。
 現在も掲載されているのかは確認しないが、一枚の「正誤表」が封入されているこだけをもって、それによる訂正・追記の内容に立ち入ることなく、上記の西尾幹二=平田文昭の対談書の全体を非難し、貶めようとするものだ。
 そして、納得がいく。これをネット上に書き込んだのは、椛島有三を事務トップとする「日本会議」または同会もしくは椛島有三に親近的な組織・団体の活動員なのだろう。
 この対談書が「日本会議」に正面から批判的である(西尾幹二もそうだが、平田文昭の方がより厳しい)ことが<気にくわなかった>に違いない。
 2009年時点で「日本会議」や椛島有三等が公式にどういう対応をこの対談書の中身についてしたのかは知らないが、ネット上での書き込みの内容は-このとおり秋月瑛二の貴重な時間をのちに費やさせるごとく-相当に陰湿で、「気味が悪い」ものだった。
 なお、私には特別の関心はないが、上の訂正の仕方だと、<新田均、勝岡寬次、内田智>の三人は「家活動家」だと書かれて、事実誤認だとは考えなかったように見える。おそらく、きっと。
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