秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

労働者反対派

2586/R・パイプス1994年著第9章第三節③。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。日本共産党が「創立」され、コミンテルンの支部となった1922年のことにも論及がある。
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 第三節・「労働者反対派」③。
 (14) Shliapnikov は、「統一」は至高の目標だと認めた。しかし、党員たちとの意思疎通の欠如のゆえに、党は過去、つまり権力奪取以前に有していた統一を失った、と論じた。(注84)
 この断絶は、ペテログラードでのストライキの波やKronstadt 暴乱で示されている。 
 問題は、労働者反対派ではない。「我々がモスクワや他の労働者都市で見ている不同意の原因は労働者反対派につながるのではなく、クレムリンに向かっている」。
 労働者たちは強制的に党から遠ざけられたと感じている。
 伝統的にボルシェヴィズムの基盤だったペテログラードの金属労働者の中には、2パーセント以下の党員しかいない。
 モスクワでは、入党している冶金労働者の割合はわずか4パーセントにまで落ちた。(*) 
 Shliapnikov は、経済の破綻は「客観的」要因から、とくに内戦から生じた、とする中央委員会の論拠を否認した。
 「我々の経済に今観察しているのは、我々とは関係のない客観的原因の結果のみではない。
 我々が見ている崩壊の責任の一部は、我々が採用したシステムにもある。」(注85) 
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 (脚注*) 1922年前半のペテログラードからレーニンの書記局への秘密報告書は、その市で工場労働者のわずか2ないし3パーセントだけが共産党に加入していると述べて、Shliapnikov の評価の正しさを確認している。RTsKhIDNI, F. 5, op.2, delo 27, list 11.
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 (15) 労働者反対派の動議は票決に付されず、代議員たちは、レーニンが提案した二つの決議案への賛成か反対かを投票することで意見を表明することができた。二つの決議案とは、「党の統一について」と「我々の党におけるサンディカリスト的およびアナキスト的逸脱について」で、これらは労働者反対派の議論を批判し、支援者たちを非難していた。
 前者は25の反対票、2の保留票に対して413の賛成票を獲得し、後者は30の反対票、3の保留票、1の無効票に対して375の賛成票を獲得した。(注86)
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 (16) 労働者反対派は決定的な敗北を喫し、解散を命じられた。
 これは最初からの宿命だったが、強く確立していた中央党機構の利益に挑戦したことだけが理由ではなく、反対派は一党国家という思想を含めた共産主義の非民主主義的諸前提を受容していた、という理由からでもあった。
 労働者反対派は、イデオロギー的に、そしてますますその構造上、民衆の意思を無視するようになっていた党内の民主主義的手続を擁護した。
 反対派が党の統一は至高の善だといったん認めてしまえば、その破壊だという責任追及を自らに招くことなくして、進み続けることはできなかった。//
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 (17) 共産党の歴史上の挿話的事件について、多くの紙面を割いた。労働者反対派は初めて、そして判明するように最後に、基本的に異なる方途を示して党に対抗した、というのが、その理由だった。
 支持基盤が国民全体の中のきわめて薄い層に縮小した党は、その一般的には言われる主人である労働者出身の自分たちの党員からの反乱に、今や直面した。
 党は、その事実を承認して退くか、さもなくば、それを無視して権力に居座り続けるか、どちらかをすることができた。
 後者を選ぶ場合は、国を運営するために採用したのと同じ独裁的方法を、党に持ち込むほかに選択の余地はなかっただろう。
 レーニンは後者を選んだ。かつ、支持者たちの熱心な支持を得て、そうした。その中には、のちにその方法が自分たちに向けられたときに、人々の護民官と民主主義擁護者のふりをすることになる、トロツキーやブハーリンもいた。
 レーニンは、この運命的な歩みをとることによって、一般党員に対する中央機構の優越性を確実にした。
 そして、スターリンが中央機構の確固たる主宰者になろうとしていたときだったので、レーニンは、スターリンの優越的支配力をも確実にした。//
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 (18) 党内にこれ以上に反対が出現するのを不可能にすべく、レーニンは、第10回党大会で、「分派」形成を不法とする、新しくかつ致命的な規約を採択させた。「分派」は、自分たち自身の基盤をもつ組織的集まり(organized groupings)と定義された。
 「党の統一について」という決議の鍵となる最後の文章は、当時は秘密にされていたが、違反者に対して厳格な制裁を与えようとするものだった。
 「党内部での、および全てのソヴィエト諸活動での厳格な紀律を維持するために、そして全ての分派主義を排除して最も偉大なる統一を獲得するために、大会は中央委員会に対して、紀律違反または分派主義の復活や容認がある場合には、党からの除名までをも含む全ての手段を用いることを授権する。」(+)
 除名には、中央委員会委員と委員候補の三分の二の投票が必要だった。
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 (脚注+) Desiatyi S"ezd RkP(b): Stenograficheskii otchet (1963), p.573. この条項は、トロツキーを非難するために、1924年1月の党会議で、スターリンによって初めて公にされた。I. V. Stalin, Sochineniia, VI (1947), p.15.
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 (19) レーニンと彼の決議に賛成投票をした多数派はその潜在的な意味に気づいていなかったように見えるけれども、これはきわめて深刻な結果をもたらした。
 Leonard Shapiro は、この条項を共産党の歴史における決定的な出来事だと見なしている。(注87)
 トロツキーの言葉によると、単純に述べれば、支配者は「国家を覆っている政治体制を、支配している党の内部生活へと」移し換えた。(注88) 
 これ以来、党もまた、独裁制によって運営されることになった。
 反対は、個人的な、つまり組織されていないものであるかぎりでのみ許容されることになる、
 決議は党員から、中央委員会によって統御された多数派に異議を唱える権利を剥奪した。個人的反対はつねに代表されていないものとして無視することができ、一方で組織的反対は違法(規約違反)だったからだ。
 「官僚主義的厳格さを確実にすることほど、うまく考案されたものはなかった。この官僚主義的厳格さが、共産主義運動でまだ生きていた全てのものを最終的に窒息死させた。
 なぜなら、レーニンが1922年に総書記(書記長)という役職を作り、スターリンがその役職の初代に就くのに同意したのは、主として分派禁止を実行するためだったのだから。/
 分派禁止の帰結は、翌年〔1922年〕の第11回党大会での光景で、可視的になった。
 労働者反対派を「アナクロ・サンディカリスト的逸脱」と非難するレーニンの決議案に第10回党大会で反対票を投じる勇気があった30人の代議員のうち、6人以外は粛清され、より従順な代議員に換えられていた。
 Molotov は、党内分派は全て排除された、と勝ち誇った。(注90)
 1923年に開かれた第12回党大会の頃までには、残存していた6人のうち3人は同様に排除され、Shliapnikov がその一人だった。(注91)
 このような見えない粛清が、中央委員会の確固たる支配を確実にした。中央委員会は、その地位と利益を維持したい代議員たちで党大会を埋め尽くさせた。
 敢えて示せば、第12回党大会(1923年)の代議員の55.1パーセントは党の仕事だけを行なっている常勤職員で、30パーセントは非常勤の職員だった。(注92)
 第12回党大会で、そしてその後で、全ての決議が満場一致で採択されたのは、何ら驚くことではない。
 モスクワ公国時代の「全国集会」のように、この大会は(歴史家のVasilii Kliuchevskii の言葉では)「政府が自分の機関に意見を諮問する」ものだった。//
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 (20) このような恐るべき障害に直面しても、労働者反対派はなお継続しようと努めた。
 金属労働者組合内の共産党員派は、党の決議を無視して、1921年5月に120対40の票決でもって、中央によって提示された役員名簿を拒絶した。
 中央委員会はこの票決を無効とし、この組合その他の労働組合の指揮権を奪った。
 労働組合の一員であることが義務となり、これ以降は労働組合の財政は国家の援助によって賄われた。(注93)//
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 (21) 反分派決議は労働者反対派を非合法の団体にし、これを迫害する根拠になった。
 レーニンは、復讐心をもって、指導者たちをしつこく攻撃した。
 彼は、1921年8月に中央委員会総会に対して、彼らを除名するよう求めた。しかし、彼の動議は、必要な三分の二に1票不足して挫折した。(**)
 そうであっても、労働者反対派の指導者たちは嫌がらせを受け、あれこれの口実のもとで党の役職から排除された。(注94)
 意見聴取を受けることができなかったので、労働者反対派は愚かにも、この事案を、コミンテルンの執行委員会へと、事前にロシア代表団の同意を得ておくことなく、持ち出した。
 今やすでにロシア共産党の一部門であるコミンテルン執行委員会は、訴えを却下した。
 1923年9月、ストライキの波のあとで、労働者反対派の支持者たちは逮捕された。(注95)
 スターリンは、全員が殺害されるのを確実にすることになる。
 Kollontai は、唯一の例外だった。彼女は1923年にノルウェイに、つぎにメキシコへ送られた。最後にはスウェーデンに送られ、大使として務めた。—外交代表団の長となった歴史上初めての女性だ、と言われた。
 これは、自由恋愛の国で自由恋愛の主導者の彼女にスターリンの代わりをさせるという、彼の下品なユーモア感覚を満足させたように思われる。
 Shliapnikov は、1937年に射殺された。
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 (脚注**) Lenin, PSS, XLV, p.526-7; Odinadtsatyi S"ezd, p.748.
 この場合のレーニンの行動は、彼が職責にある間は、どの党指導者もどの党集団も除名や除名による威嚇をされなかったという、レーニン崇拝者がしばしば語った主張と矛盾している(例えば、Vadmin Rogovin, Byla li al'ternativa? 1992, p.25.)。この著者は彼のRussian Revolution (p.511) でも同じ誤りを冒している。
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 後注。 
 (84) Desiatyi S"ezd, p.71-76.
 (85) Ibid., p.361.
 (86) Ibid., p.571-6, p.769.
 (87) Schapiro, Origin of the Communist Autocracy, p.319-320.
 (88) Leon Trotsky, The Revolution Betrayed (1937), p.96.
 (89) Isaac Deutscher, The Prophet Unarmed: Trotsky, 1921-1929 (1959), p.115-6.
 (90) Odinadtsatyi S"ezd p.583-p.602, p.646.
 (91)  Desiatyi S"ezd, p.778; Odinadtsatyi S"ezd p.583-p.597; Dvenadtsatyi S"ezd RKP(b), p.729-759.
 (92) Vadmin Bogovin, Byla li al'ternativa? (1992), p.89.
 (93) S. Volin, Deiatel'nost' Menshevikov v profsoiuzakh pri sovetskoi vlasti (メンシェヴィキ運動史に関する国際研究, No.13, 1982), p.87.
 (94) V.V. Kosior in Odinadtsatyi S"ezd p.127; Molotov, ibid., p.54-55 も.
 (95) Carr, Interregnum, p.292-3; Isaac Deutscher, Stalin (1967), p.258.
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 第三節、終わり

2585/R・パイプス1994年著第9章第三節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
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 第三節・「労働者反対派」②。
 (06) ロシアの労働組合の指導者たちは、彼らの国は「プロレタリアート独裁」だという主張を、真面目に受け取った。論法の微妙さに馴染みのない者たちだったので、彼らは、知識人で成り立っている党指導部がどのようにして労働者自身以上に労働者にとっての利益を知っているのか、理解できなかった。
 彼らは、工業経営から労働者代表を排除することや、従前の工業指導者が「専門家」を装って権限ある地位に復帰することに反対した。
 これらの者たちは旧体制下で行なってきたのと同じように自分たちを扱う、と不満を述べた。
 はて、何が変わったのか? 革命とは何のためにあったのか?
 彼らはさらに、赤軍に指揮階層を導入することや軍内の身分制の復活にも反対した。
 党の官僚主義化と中央委員会への権限の集積にも、反対した。
 彼らは、地方の党役職が中央によって任命されるという実務を、非難した。
 党が労働大衆と直接に接触するように、党の命令機関の人員は頻繁に交替すべきだ、そうすれば本当の労働者たちに心を開いて近づけるだろう、と提案しもした。(注70)//
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 (07) 労働者反対派の出現は、19世紀末に遡る敵愾心がまだ燻っていることを明るみに出した。すなわち、政治的に積極的な労働者たちの少数派と彼らを代表し、彼らのために語っていると主張する知識人たちの間の反目関係を。(注71) 
 マルクス主義よりも通常はサンディカリズムに傾斜した急進的な労働者たちは、社会主義知識人層と協力し、彼らに指導された。政治経験が不足していることを知っていたからだ。
 しかし、彼らは、自分たちと相手の間にある溝を意識することをやめなかった。
 そして、今や「労働者国家」が誕生したとすれば、「白い手」の権威に服従する理由はもうなかった。(*) //
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 (脚注*) Krupskaiaは1925年に、Clara Zetkin に対して、「農民と労働者の広範な層は、知識人を大土地所有者やブルジョアジーと同一視している。人々のあいだでの知識人界への憎悪は強い」と書き送った(IzvTsK, No. 2/289, 1989.2, p.204.)。
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 (08) 労働者反対派が表明した問題点は、1921年3月の第10回党大会の討議の中心になった。
 開催される直前に。Kollontai は党内用に小冊子を発行し、体制の官僚主義化を攻撃した。(注72) 
 (党の規約は党内論争を公にするのを禁じていた。)
 彼女は、もっぱら労働者男女から成る労働者反対派は党指導部は労働者の気分を喪失したと感じている、と論じた。昇っていく権限の階梯が高くなるほどに、労働者反対派への支持が少なくなっている、と。
 こうしたことが起きているのは、ソヴィエト組織が共産主義を見下す階級敵に奪われているからだ。小ブルジョアジーが官僚機構の統制権を掌握し、一方で、「専門家」を偽装した「大ブルジョアジー」は産業経営と軍事指揮権を奪取したのだ。//
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 (09) 労働者反対派は第10回党大会に、二つの決議を提出した。一つは党組織に関係し、もう一つは労働組合の役割に関係していた。
 独立の決議—すなわち中央委員会が発議していない決議—が党大会で討議されるのは、これが最後となる。
 第一の文書は、内戦中に採用された軍事指揮についての慣例が永続化したこと、および指導部が労働者大衆から疎遠になったことによって生じた、党の危機を語っていた。
 党の事務は〈glasnost〉(公開性)も民主主義もないまま、労働者を信頼していない者たちによって官僚主義的に処理されている。それによって、労働者たちは党への信頼を失い、大挙として離党している。
 この状況を是正するためには、党は全体的な粛清を行なって、日和見主義分子を除去し、労働者の参加を増大させるべきだ。
 全ての共産党員に、少なくとも一年毎に三ヶ月の肉体労働が要求されなければならない。 
 全ての役職者は党員から選出され、党員に対して責任を負わなければならない。中央による任命は例外的な場合だけに限定されるべきだ。
 中央諸機関の人員は、定期的に交替されるべきだ。役職の過半は、労働者のために留保されなければならない。
 党の事務の焦点は、中心にではなく、細胞に当てられなければならない。(注73)//
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 (10) 労働組合に関する決議案も、同様に過激だった。(注74)
 これは、「事実上ゼロ」の状態にまで減じた労働組合の弱体化に抗議した。
 国の経済の再建には、大衆の最大限度の参加が必要だ。「面倒な官僚主義機構にもとづく組織編成の制度と方法」は、生産者の「創造的な主導性や自立性を損なっている」。
 党は、労働者とその組織への信頼を示さなければならない。
 国家の経済は、生産者たち自身によって底辺から再組織されるべきだ。
 やがては、大衆が経験を積むにつれて、経済の管理は、共産党が任命するのではなく労働組合と「生産者」団体が選出した、新しい組織の全ロシア生産者会議に移管されるべきだ。
 (この決議に関する討論で、Shliapnikov は、「生産者」に農民が含まれることを否定した。)(注75)
 このような組織編成のもとで、党は、経済の指揮を労働者に委ねて政治に集中することができるだろう。//
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 (11) 労働者出身の老共産主義者たちによるこれらの提案は、ボルシェヴィキの理論と実務について明らかに無知だった。
 レーニンは、最初の挨拶で、「明瞭なサンディカリスト的逸脱」を示すと明確に非難した。
 彼は続けた、このような逸脱は、経済が危機にあり武装蛮族が国に蔓延している状況でないならば、危険ではないだろう、と。ここで武装蛮族という言葉で意味させたのは、農民反乱だった。
 「小ブルジョア的」自発性の危険は、白軍が提起するそれよりも大きい。かつて以上に、党の統一がいっそう必要だ。(注76)
 コロンタイについては、レーニンは冗談めいた雑談として明らかに彼女の労働者反対派の指導者との個人的関係に言及して、彼女の主張を斥けた。
 (「ああ神よ、同志Kollontai と同志Shliapnikov は『階級的紐帯と階級意識』で結ばれている」。)(+)
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 (脚注+) Lenin, PSS, XLIII, p.41. Angelica Balabanoff, My Life as a Rabel (1973), p.252 を参照。
 レーニンは、Kollontai が労働者反対派に加わったことに激怒し、彼女に語りかけることも、彼女に関して語ることすらも、拒んだ。Angelica Balabanoff, Impressions of Lenin (1964), p.97-98.
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 (12) 労働者反対派は、レーニンとその仲間に、一つの問題を突きつけた。
 「プロレタリアート」が背を向けているときに、どのようにして「プロレタリアート」の名前で統治するのか?
 一つの解決策は、ロシアの労働者階級を無視することだった。
 今ではしばしば、「本当の」労働者は内戦に生命を捧げており、代わって存在するのは社会的残りかすだ、と語られた。
 ブハーリンは、ロシアの労働者階級は「農民化」しており、「客観的に言って」労働者反対派は農民反対派だ、と主張した。またチェカの一人はメンシェヴィキのDan に、ペテログラードの労働者は本当のプロレタリアートが全て前線へ行ったあとに残った「滓」(〈svoloch〉)だ、と語った。(注77)  
 レーニンは、第11回党大会で、ソヴィエト・ロシアにマルクスの意味での「プロレタリアート」がいる、ということすら否定した。産業労働の階層は詐病者と「あらゆる種類の臨時要員」で充ちている、というのがその理由だった。(注78) 
 Shliapnikov は、このような主張に反駁して、労働者反対派を支持する第10回党大会の代議員41人のうち16人は1905年以前にボルシェヴィキ党に加入しており、全員が1914年以前に入党している、と特に言及した。(注79)//
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 (13) (労働者反対派の)挑戦に対処するもう一つの方策は、「プロレタリアート」を抽象概念と解釈することだった。この見方では、党はその定義上「人民」(people)であり、生きている人民が何を望んでいると考えていようとも、人民のために行動する。(注80)
 これは、トロツキーが採用した方途だった。
 「党のいわば革命的で英雄的な優越性という意識を、持たなければならない。この優越性は、重要な勢力(〈stikhiia〉)が一時的に躊躇していても、必然的に党の独裁制を断固として主張する。労働者の中にすら一時的な動揺がある場合であっても、それにもかかわらずだ。…
 この意識がなければ、党は、転換点の一つごとに目的を持たないまま衰亡するかもしれない。そのような転換点は多数ある。…
 党は全体として、形式的要因の上に超えたところに党の独裁制があり、その独裁制は労働者階級の気分が動揺しているときでもその根本的な利益を擁護する、という理解のもとで、一緒になって統合している。」(注81) 」
 言い換えると、党はそれ自体で当然に存在しているのであり、その存在が労働者階級の利益を反映しているというまさにその事実によって存在している。
 生きている人民—〈stikhiia〉—の生きている意思は、たんなる「形式的」要因にすぎない。
 トロツキーはShliapnokov を、「民主主義の物神崇拝(fetish)」だと批判した。
 「労働者運動内部での選挙の原理が、言ってみれば、党の上に置かれている。まるで党は、その独裁制が労働者民主主義内部での刹那的な気分と一時的に衝突するという事態にすら、この独裁制を断固として主張する権利を有しないがごとくに。」(注82)
 経済管理を労働者に委ねるのは不可能だ。彼らの中にはほとんど共産党員がいないという理由だけでも。
 これとの関係で、トロツキーはつぎの趣旨のジノヴィエフを引用した。国の最大の工業中心地のペテログラードでは、労働者の99パーセントが共産党を選択していないか、または選好していてもメンシェヴィキや黒の百人組にもある程度は共感している。(注83)
 換言すると、共産主義(「プロレタリアートの独裁」)と労働者支配のどちらも支持できるが、しかし、どちらもそうしないこともあり得る。民主主義は、共産主義を破滅させる宿命にある。
 トロツキーまたは他の共産党指導者がこのような見方の馬鹿々々しさを理解していた、ということを示すものは何もない。
 例えば、ブハーリンは、共産主義は民主主義と両立することはできない、ということを明示的に承認した。
 1924年、非公開の中央委員会総会で、彼はこう言った。
 「我々の任務は、二つの危険の存在を認めることだ。
 第一は、我々の党機構の中央集権化から発生する危険だ。
 第二は、政治的民主主義の危険だ。これは、民主主義が縁を超えて進めば発生し得る。
 反対派は、第一の危険—官僚制—だけを見ている。
 官僚主義の危険の背後には〈政治的民主主義の危険があることを、反対派は見ていない〉。…
 プロレタリアートの独裁を維持するためには、我々は党の独裁を支持しなければならない。」(**)
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 (脚注**) Dmitri Volkogonov, Triumf i tragediia, I/1 (1989), p.197. 強調を追加した〔〈〉内の斜字体部分—試訳者〕。
 ブハーリンは自分の考えをトロツキーに宛てて書いていた。トロツキーは、後述する理由で1924年までにその考え方を変え、労働者反対派が早くに主張していた考え方の強い擁護者になった。
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 後注
 (70) Desiatyi S"ezd, p.240.
 (71) これにつき、私〔R. Pipes〕のSocial Democracy and the St. Petersburg Labor Movement, 1885-1897 (1963) を見よ。
 (72) Rabochaia oppozitsiia(限定私家版). 英語版は、The Workers' Opposition in Russia (London, n.d.).
 (73) Desiatyi S"ezd, p.651-6.
 (74) Ibid., p.685-691.
 (75) Ibid., p.359-360, p.362, p.530.
 (76) Ibid., p.27-29.
 (77) Ibid., p.223-4; F. Dan, Dva goda skitanii (1922), p.122.
 (78) Odinadtsatzyi S"ezd, p.37-38.
 (79) Desiatyi S"ezd, p.530.
 (80) RR, p.131-2 を参照。
 (81) Desiatyi S"ezd, p.351-2.
 (82) Ibid., p.350.
 (83) 上述、p.373 〔第8章第二節・農民反乱〕を見よ。
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 ③へと、つづく。

2584/R・パイプス1994年著第9章第三節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第三節へ。
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 第三節・「労働者反対派」①。
 (01) 1920年夏、共産党は反対派(heresy)によって揺さぶられた。その反対派を党支配層は「労働者反対派」(Workers' Opposition)と名付けた。
 これは、ボルシェヴィキの工業労働者の不満を反映していた。知識人たちが国を支配しているという不満、より明確には工業の官僚主義化と、それと同時に生じている、労働組合の権限と自立性の縮小、に対する不満を内容としていた。
 報道担当者は古くからの共産主義者だったけれども、この運動は、党に所属したりメンシェヴィキに傾斜したりもしていない労働者の多数派の気分をも表現していた。
 主要な支持基盤は、労働者反対派が〈gubkom〉を握ったSamara、ドンバス地域、ウラルだった。
 大きな影響力をもったのは、冶金、鉱業、織物工業だった。(注64)
 長のAlexander Shliapnokov は、国で最強の労働組合で伝統的にボルシェヴィキにはきわめて友好的な、金属労働者の組合を動かしていた。
 労働者を基盤とする上級のボルシェヴィキ活動家で、第一次大戦中にShliapnokov は、ペテログラードの地下活動を指揮し、1917年十月に労働人民委員部を掌握した。
 彼の愛人のAlexandra Kollontai は、この運動の最も明瞭な理論家だった。
 労働者反対派とともに、「民主主義的中央派」として知られる第二の反対派が出現した。
 著名な共産主義知識人で構成されていて、党の官僚主義化と「ブルジョア専門家」の工業界への採用に反対した。
 これの支持者たちは、ソヴェトがもっと権力をもつことを望み、経済運営での主要な役割を要求する労働組合には反対した。
 指導者の一人で、やはり労働者出身の古くからのボルシェヴィキであるT. V. Sapronov には、党大会でレーニンを「無学」(〈nevezhda〉)で「独裁的」だと呼ぶ向こうみずさがあった。(*) 
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 (脚注*) 記録が印象に残って、この形容句はスターリンが1924年に初めて公にした。Stalin, Ob oppozitsii (1928), p.73.
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 (02) 労働者反対派は、熱烈なボルシェヴィキだった。
 彼らは、党の独裁、労働組合での党の「指導的役割」を承認していた。
 「ブルジョア的」自由の廃棄や諸政党に対する抑圧にも、同意した。
 農民層への党の対応には何も間違いはない、と考えていた。
 1921年のKronstadt 暴乱のときには、彼らは、暴乱鎮圧のために形成された赤軍軍団に最初に自発的に加わった。
 Shliapnokov の言葉によると、レーニンとの違いは目標にではなく、手段にあった。
 彼らは、新しい官僚機構に組み入れられている知識人層が国の支配階級である労働者を遠ざけているのは受け入れ難い、と感じた。
 なぜなら、国の「労働者」政府はじつに一人の労働者も権限ある地位につけていない。指導的役人たちのほとんどは、工場や農場で働いたことがないばかりか、しっかりした仕事に就いたことがない。(注65) //
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 (03) レーニンは、この異論をきわめて深刻に受け取った。彼は「労働者の自発性」を無視するつもりはなかった。それはボルシェヴィキ党の創立以来つねに闘ってきたものだったが。
 彼は、労働者反対派はメンシェヴィズムとサンディカリズムの一種だと非難して、すみやかにそれを粉砕した。
 しかし、そのために、共産党内に残っていた民主主義の要素を最終的に破壊する手段を用いた。
 レーニンは、労働者の望みを無視しつつボルシェヴィキ独裁制は労働者の政府だというフィクションを維持する一方で、本来の支持者からすら政府を確実に離反させた。//
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 (04) 労働者反対派は、第9回党大会(1920年3月)で出現した。それは、工業に単独者経営を導入するというモスクワの決定に関係していた。
 それまでは、ソヴィエト・ロシアの国有化された企業は、委員会によって運営されていた。その委員会には、技術的専門家や党職員と並んで、労働組合と工場委員会の代表も加わっていた。
 このような仕組みは非効率であることが分かり、工業生産の崩壊の原因だと批判された。
 党指導部はすでに1918年に、単独者による経営への移行を決定していた。だが、労働者側の抵抗があったため、その実施は困難だった。
 内戦が終わった今や、第9回党大会は、「上から下まで、所定の仕事については所定の人間が責任を負うという、頻繁に語られた明確な原理」を実施することを決議した。「審議や決定の過程である程度の位置を占める〈合議制〉は、執行の過程では無条件に〈個人主義(独任制)〉に道を譲らなければならない」。(注66)
 この決議を予期して、ソヴィエト労働組合中央評議会は、1920年1月に、単独者管理に反対することを票決していた。
 レーニンは、この要求を考慮しなかった。 
 同様に、ドンバスの労働者たちの意向も無視した。彼らの代議員たちは、20対3で、工業の運営での合議制を維持することに賛成票決をしていた。(注67)
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 (05) 1920年と1921年に全国的に導入された新しい制度のもとで、労働組合と工場委員会はもはや決定には参画せず、職業的経営者が下した決定の執行にのみかかわった。
 レーニンは、労働組合が経営に干渉することを禁止する決議を、第9回党大会に採択させた。
 彼は、このような推移をつぎのような論拠で正当化した。搾取階級を排除した共産主義のもとでは、労働組合は労働者の利益をもはや守る必要がない。それは政府によって行なわれるからだ。
 労働組合の固有の役割は、生産を改善し、労働紀律を維持して、政府の代理者として行動することにあった。
 「プロレタリアート独裁のもとでは、労働組合は資本家という支配階級に対する労働の売り手の闘争のための組織から、支配する労働者階級の道具へと変容したのだ。
 労働組合の任務は主として、組織化と教育の領域にある。
 これらの任務を労働組合は、自己完結的な、組織的に離れた勢力としてではなく、共産党に導かれるソヴィエト国家の道具として、履行しなければならない。」(注68)
 換言すれば、ソヴィエトの労働組合は、これ以来、労働者ではなく、政府を代表すべきものになった。
 トロツキーはこのような見方に賛成し、「労働者国家」では労働組合は雇用主を敵と見る習癖から脱して、党の指導のもとで生産性を高める要因に変質しなければならない、と論じた。(注69)
 労働組合の役割に関するこのような見方が現実に意味したのは、労働組合の役員は組合員によって選出されるのではなく、党が指名した、ということだった。
 ロシアの歴史過程でしばしば生じたように、自分たちの利益を守るためにある社会集団が設立した組織は、国家によってその国家自体の目的のために奪い取られた。//
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 後注。
 (64) Shliapnikov to Lenin, 1921.8.21, RTsKhIDNI, F. 2, op.1, delo 24625.
 (65) Rigby, Lenins' government, p.149-p.156.
 (66) Deviatyi S"ezd Rkp(b): Protokoly (1960), p.411.
 (67) Ibid., p.177.
 (68) Ibid., p.417.
 (69) Desiatyi S"ezd, p.813-5.
 ——
 ②へと、つづく。
 

2388/O·ファイジズ・人民の悲劇-ロシア革命(1996)第15章第1節③。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924。
 この書に邦訳書はない。試訳のつづき。一文ずつ改行し、段落の区切りに//と原書にはない数字番号を付す。
 ——
 第15章・勝利の中の敗北。
 第一章・共産主義への近道③。
 (14-02)農民たちの小規模農地では市場用のものはほとんど作られず、消費用の物品がなくて食料の余剰は全て国家が持っていくという状況では、彼らの農地はぎりぎりの生存のための生産と村落と国との連結のための役割へと落ち込んだ。
 ボルシェヴィキは農民と取引をする物品をもたず、「穀物のための闘い」で冷厳な実力を行使した。武装部隊を派遣して農民たちの食糧を奪い取り、国じゅうの農民反乱を蹴散らした。
 これは、もう一つの隠れた内戦だった。
 ボルシェヴィキは、注意深く、自分たちの土地布令が神聖化した農民の小規模農地所有制度について口先だけの賛意を示したけれども—これは結局は、白軍との内戦で多数の農民の支持を獲得した理由だった—、ソヴィエトの農業の将来は、国家のために直接に生産する巨大な集団農場とソヴィエト農場—<コルホーズ,kolkhozy>と<ソホーズ,sovkhozy>—だ、と考えていた。
 厄介な農民たち—小所有者たる本能、迷信、伝統への執着をもつ—は、これらの社会主義的農場によって廃棄されるだろう。自分たちのために働く全ての農民は、<コルホーズ>または<ソホーズ>の「労働者」へと再配置されるだろう。
 Miliutin は、穀物、肉、ミルク、飼料を生産する農業工場を夢見ていた。それは、社会主義秩序を小規模農場への経済的な依存から解放するだろう。//
 (15)ここでもまた、ボルシェヴィキは、布令によって社会主義を創出することができるという夢想(utopianism)に囚われていた。
 ロシアの農民たちは元来、用心深かった。
 近代的技術と集団的労働チームによる大規模農場は本当に彼らの利益iなるので父親や祖父が維持してきた伝統—家族農業、共同体と村落—と訣別する十分な理由になる、と農民たちを説得するには、農学上の証拠にもとづく穏やかな教育をして、数十年を要しただろう。
 だが、1919年2月、ボルシェヴィキは、社会主義的土地機構に関する法令を採択した。これは一挙に、全ての農民農業は「旧式だ」と宣告した。
 大地主が所有するが耕作されていない全ての土地は、これによって新しい集団農地に変わった。このことは、大地主の資産は革命の貴重な獲得物だという主張を知っていた農民たちを大いに戸惑わせた。  
 1920年までに、1万6000箇所以上の集団農場および国営農場があり、合計でほとんど数千万エイカーの土地の広さがあり、数百万の被用者(多くは移住した都市住民だった)がそこで働いていた。
 国家が設置した最大の国営農場(<sovkhozy>)は、10万エイカー以上の広さがあった。一方、地方農民の協同組合が設置した多様な集団農場(<kolkhozy>)のうちの最小のものは、50エイカー以下だった。//
 (16)大きな集団農場の多くは、実験的な共産主義的生活様式の縮図だった。
 複数の家族が所有物を提供し合い、宿舎で一緒に生活した。
 女性たちは男性たちと並んで重い農業仕事を行い、ときには子どもたちのために託児所が設置された。
 宗教的慣行は存在しなくなった。
 この本質的には都市的生活様式は、工場での在来の組合組織をモデルにしたもので、地方の農民たちには相当に馴染みのないものだった。彼らは集団農場では土地や用具だけではなく妻や娘たちも共有されている、と考えた。全員が一緒に、巨大な毛布の中で寝ていたのだ。//
 (17)農民たちにとって醜聞ですらあったのは、集団農場のほとんどは農業について何も知らない人々によって運営されている、ということだった。
 国営農場は、大部分は都市部から逃亡した失業労働者で構成された。
 一方、集団農場は、土地を所有しない労働者、地方の職人たち、および、
不運にも飲み過ぎて、あるいはたんなる怠惰で自分の農場をうまく経営できなかった、最も貧しい農民たちで成っていた。
 農民集会では、集団農場の拙劣な運営に関する不満が圧倒的に述べられた。
 タンボフ地方の農民たちは、「彼らは土地を手にしたが、農業の仕方を知らない」と不服を発言した。
 ボルシェヴィキですら、集団農場は「個人の農民たちから投げかけられる批判に耐えることのできない、怠け者の避難場所」になっていていることを、やむなく認めざるを得なかった。
 食料の徴発を免れ、用具や家畜について国家の寛大な譲渡があったにもかかわらず、きわめて僅かの集団農場しか利益を挙げられず、多くの集団農場は損失を計上した。
 全収入のうち集団農場自体が生んだものは3分の1未満で、残りは主に国家が与えていた。
 いくつかの集団農場は、経営状態がひどいために、その農場での労働義務を地方農民に課すという徴用をしなければならなかった。
 農民たちはこれを新しい形態の農奴制と見なし、集団農場に反抗して闘いを挑んだ。
 それらの半分は、1921年の農民戦争により鎮圧された。//
 (18)こうした共産主義の実験に反抗したのは、農民層だけではなかった。
 工業分野でも、軍事化政策は労働者のストライキ、抗議運動、懈怠による消極的抵抗を増加させた。
 紀律を強化すべく意図された政策は、いっそうの不紀律(indiscipline)を生んだだけだった。
 ロシアの全工場の4分の3が、1920年の前半6ヶ月の間に、ストライキに見舞われた。
 逮捕と処刑の脅かしにもかかわらず、全国の都市労働者たちは、抗議しながら行進し、こう呼号した。「人民委員よ、くたばれ!」
 一般にあった感覚は、内戦終結から長く経つが、ボルシェヴィキは労働者階級に対する戦争類似の政策を維持している、というものだった。
 まるで全産業システムが永遠の国家緊急事態の罠に嵌まったかのごとくだった。平時ですら戦時体制にあり、この状態が労働者階級を搾取し、弾圧するために用いられていた。//
 (19)トロツキーの政策は、党内でも、党員各層からの反対に遭遇していた。
 トロツキーは、鉄道の混乱の原因だとして非難する鉄道労働組合を破壊して、国家機構に従属する総運送労働組合(Tsektran)に変えようとした。その高圧的なやり方は、ボルシェヴィキの労働組合指導者たちを激怒させた。彼らは、トロツキーの政策は労働組合の自立の全権利を剥奪する作戦の一環だと見た。
 労働組合の役割に関する論争が、1919年の初めから巻き起こった。
 その年の党の基本方針は、労働組合は直接に産業経済を管理すべきであるという理想を設定した。—しかしこれは、労働者階級がそのための教育を受けていてのみ可能だった。従って、そのときまでは、労働組合の役割は仕事場での労働者の教育と紀律に制限されるべきだ、との見解があった。
 独任者による経営への趨勢が継続するにつれて、多数派へと増加していた労働組合指導者たちは、労働組合による直接の経営という約束は遠い将来へと先延ばしされるのではないかと懸念するようになった。
 彼らは、1920年1月の第3回労働組合大会で、独任制経営の原理を課そうとする党指導者たちの努力を何とか打ち負かした。
 同年4月の第9回党大会で、彼らは党指導部と妥協して、その原理を受け容れる代わりに、経営者の一部として自分たちを任用するよう提案した。//
 (20)—労働組合と党・国家の間の—微妙な均衡は、1920年夏にトロツキーが提示した、運送労働組合を国家官僚機構の一端とするという案によって、ひっくり返った。
 労働組合の自治という原理全体が、今や危うくなっていた。
 労働組合指導者たちだけがトロツキーに反対したのではなかった。
 党の指導層自体の多くが、労働組合側を支持した。
 トロツキーの個人的対抗者のジノヴィエフは、「労働者を整列させる警察的やり方」だとトロツキーの案を非難した。
 Shlianikov は、1月にKollontaiが加わったが、労働組合の権利を防衛するためにいわゆる労働者反対派を結成した。そして、より一般的に言えば、労働者階級の「自発的な自己創造性」を抑圧すると彼らが言う「官僚主義」の蔓延に抵抗した。
 労働者反対派への労働組合、とくに金属労働者、の支持は拡大した。労働組合の間には、階級的連帯の感情—労働者による統制という理想と「ブルジョア専門家」に対する嫌悪の両者で表現されていた—が、最も強く根づいていた。
 彼らは、工場管理者や官僚層に対する嫌悪の声をますます大きくし、それらは「新しい支配階級」、「新しいブルジョアジー」だと非難した。
 こうした感情の多くは、党の別の主要な反対派、すなわち民主主義的中央派によっても表明された。
 ほとんどは知識人のボルシェヴィキであるこのグループは、党の官僚主義的中央主義と、直接に労働者が支配する機関としてのソヴェトの解体に、反対していた。
 彼らの基盤が最も強かったモスクワのより急進的な党員の中には、地方行政での<グラスノスチ、glasnost>、公開性を促進するために、地区の党執行部を党員各層一般に開放すらする者もいた。
 この者たちが、最初にこの言葉〔glasnost〕を用いた。//
 (21)これら二つの異論派的論議—労働組合と党・国家に関する—は、1920年の秋の間に一般的な危機へと融合し、かつ発展していった。
 9月の臨時党大会で、二つの反対党派は結びついて、民主主義と<glasnost>の促進を意図する一連の決議を通過させた。すなわち、全ての党会合は党員各層に公開されるものとする。下級党機関は上級機関の官僚の任用につきより多くのことを発言できるものとする。上級機関は党員各層に対する説明責任を負うものとする。
 反対党派はこの勝利に勇気づけられて、労働組合をめぐる闘いの準備をした。
 11月の第5回労働組合大会で、トロツキーは、全ての労働組合役員は国家によって任命されると提案することによって、戦いに挑んだ。
 これは、党内に激しい対立を発生させた。トロツキーは、即時の、かつ必要ならば強制的な労働組合の国家機構との融合を強く主張し、反対党派は必死になって、労働組合の自立性のために闘った。
 レーニンは、トロツキーの目標を支持した。しかし、痛手となる体制内部の分裂を回避するために、より高圧的ではない実行手段を擁護した。
 レーニンは警告した。「労働組合問題で党が争論するならば、それは確実にソヴィエト権力に終止符を打つだろう」。
 党中央委員会は、見込みもなく、この問題で分裂した。そして、つづく3ヶ月の間、党のプレス内での対立は激しくなり、各党派は、つぎの3月の第10回党大会で確実に起きるだろう決定的な闘いに備えて、支持をかき集めようとした。(*13)
 政権は明らかに危機に陥っており、国じゅうが反乱の暴動とストライキに巻き込まれていた。そのため、ロシアは、新しい革命の瀬戸際にあった。//
 ——
 ③および第15章第1節、終わり。
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