Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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第15章・第九節/労働組合政策②。
(06) 大会が労働組合に注意を向けたとき、メンシェヴィキはボルシェヴィキと袂を分かった。
メンシェヴィキは最大の全国的労働組合のいくつかから強い支持を受けていたので、自立した労働組合という考え方に賛成だった。
ボルシェヴィキは、労働組合は「生産を組織」し、「疲弊している国の経済力を再生 」させるために国家の機関、その代理者として奉仕すべきだ、と主張した。
労働組合の任務の中には、労働をするという普遍的な義務を履行させることがある。
ボルシェヴィキの決議案にはこうあった。
「大会は、労働組合は必ずや社会主義国家の機関へと改変されるだろう、と確信する」。
「労働組合の国家当局機関との完全な融合の全過程(いわゆる<ogosudarstvleniia>の過程)は、これら両者の合同の緊密した調和ある活動と、国家装置および経済に責任をもつ全ての機関を指揮するという任務のための広範な労働者大衆の労働組合による鍛錬の完璧に不可避の結果として、起きなければならない」(注145)。
これは、ロシアの歴史的伝統ときわめてよく合致していた。国家は早晩に、ときにはそれら自身が主導して独立した自治的団体として形成された全ての諸機構を、自らのうちに吸収し、従属させる、という伝統とだ。
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(07) 個々の工場委員会は全ロシア労働者支配会議に従う、次いでこの会議は諸労働組合とそれらの大会に説明責任を負う、労働組合の本来の役割は「社会主義国家の機関」として奉仕することだ、と布令されると、工場委員会の運命は、覆い隠された。
第1回労働組合大会のあとの労働者支配機構の歴史は、容赦のない下降だった。すなわち、一つずつ、縮小し、衰退し、死んだ。
労働者の全権幹部会の全国的な網を作ろうとする1918年春の運動は失敗したが、これは、運動の最後の喘ぎだった。
1919年までに、工場委員会とそれによる労働者支配は、記憶の中の存在になった。
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(08) 労働組合について述べると、その権威が内戦時に頂点近くに達したり政府が労働紀律の施行のために頼るに至ったりしたことがなくとも、その影響力を増大させた。
党は、労働組合官僚を任命する権利をますますもつようになり、党官僚が是認しない、選挙された役員を追放した(注146)。
1919年と1920年には、国家と党の諸決議は、労働組合は国民経済を作動させるのを助けているという基本的原則を、口先だけで依然として述べていた。
しかし、実際にはその頃、労働組合の主要な任務は、政府の諸指令の伝達者として寄与することだった。
これは、トロツキーが1920年4月に、労働組合の役割をつぎのように明確に語ったことだった。
「建設途上の社会主義国家では、労働組合は、労働条件の改善にむけて闘うために必要とされるのではない。労働条件の改善は、社会的政治的諸組織全体の任務だ。
そうではなく、生産目的のために労働者階級を組織するために必要とされる。つまり、教育し、訓練し、割当て、寄せ集め、一定の期間ごとの彼らの仕事を個々の範疇の労働者群や個々の労働者に与えるためにだ。
ひとことで言うと、政府と連携して、権威をもって、労働者たちを単一の経済計画の枠組みの中へと送り込むためにだ。」(注147)
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(09) 労働組合は、短命の工場委員会よりも、噛み砕くには固い胡桃だった。すなわち、内戦後の1919-20年に、選挙で選出された役員を党が指名した官僚で置き換えるという実務に関する爆発的論争が、党員内部で巻き起こることになる。
この係争は大きな摩擦を生み、レーニンに、党内での分派を非合法化する口実を与えることになる。
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(10) 労働組合の役割は構成員の利益を守ることではなく国家に奉仕することだ、といったん確定すると、組合への加入が義務的なものになることはその論理的帰結だった。
強制的加入は布令によったのではなく、労働組合ごとに徐々に導入された。そして1918年の末には、労働者の四分の三が義務的な労働組合に加入していた(注148)。
構成員数が大きくなればなるほど、労働組合はそれだけ重要になった。
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(11) 同盟罷業(ストライキ)をする権利は労働者の利益にとって基本的なものと考えられ、1917年6月の第3回全ロシア労働組合大会でも再確認された(注149)。
共産党政権はずっと、ストライキを非合法とする布令を発することがなかった。
それにもかかわらず、ボルシェヴィキが国家企業に反抗する労働の停止を許容しようとしなかったことは、明白だ。
工業企業の圧倒的多数が私人の手にあった場合には、立法的命令によってストライキを非合法化することができなかった。
しかし、ボルシェヴィキは、この権利を認めるつもりはなかった。
1918年1月の労働組合大会で、労働組合主義者のG. Tsyperovich は、
「生産の労働者支配という新しい条件」のもとではストライキを「より健全に実行することができる」と理解して、「以前と同じく、職業的労働者運動は、ストライキを労働者の利益を防衛する手段だと考えつづける」、 という動議を提出した。
ボルシェヴィキが支配しているこの大会は、この決議案を黙殺した(注150)。
実際には、存在しているかぎりにおいてだが、私人が所有する企業に対してはストライキが許容され、国有企業に対しては認められなかった。
進展した企業国有化は、ストライキを違法とする効果をもった。
ソヴィエト・ロシアでのストライキをする権利の事実上の廃止は、かくして、ある研究者によって、つぎのように明言されている。
「(ソヴィエト政府が)最初に採用した考え方は、集団交渉と労働組合の強さは、労働休止を呼びかける権利にではなく、国家や党との政治的関係に依存している、ということだった。
いかなる場合でも、ストライキを回避し、終結させる責任があるという負担は、今では労働組合へと、ストライキの権利が最も重要だったはずの組織へと、移された。
労働組合は、自分たちに強さを与え、構成員を防衛することを可能にするまさにその力を、拒否しなければならないという信じ難い地位に、とどめ置かれた。」(注151)
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(12) これは、ソヴィエト・ロシアでの労働組合主義の終焉を叙述していた。
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第九節、終わり。
「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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第15章・第九節/労働組合政策②。
(06) 大会が労働組合に注意を向けたとき、メンシェヴィキはボルシェヴィキと袂を分かった。
メンシェヴィキは最大の全国的労働組合のいくつかから強い支持を受けていたので、自立した労働組合という考え方に賛成だった。
ボルシェヴィキは、労働組合は「生産を組織」し、「疲弊している国の経済力を再生 」させるために国家の機関、その代理者として奉仕すべきだ、と主張した。
労働組合の任務の中には、労働をするという普遍的な義務を履行させることがある。
ボルシェヴィキの決議案にはこうあった。
「大会は、労働組合は必ずや社会主義国家の機関へと改変されるだろう、と確信する」。
「労働組合の国家当局機関との完全な融合の全過程(いわゆる<ogosudarstvleniia>の過程)は、これら両者の合同の緊密した調和ある活動と、国家装置および経済に責任をもつ全ての機関を指揮するという任務のための広範な労働者大衆の労働組合による鍛錬の完璧に不可避の結果として、起きなければならない」(注145)。
これは、ロシアの歴史的伝統ときわめてよく合致していた。国家は早晩に、ときにはそれら自身が主導して独立した自治的団体として形成された全ての諸機構を、自らのうちに吸収し、従属させる、という伝統とだ。
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(07) 個々の工場委員会は全ロシア労働者支配会議に従う、次いでこの会議は諸労働組合とそれらの大会に説明責任を負う、労働組合の本来の役割は「社会主義国家の機関」として奉仕することだ、と布令されると、工場委員会の運命は、覆い隠された。
第1回労働組合大会のあとの労働者支配機構の歴史は、容赦のない下降だった。すなわち、一つずつ、縮小し、衰退し、死んだ。
労働者の全権幹部会の全国的な網を作ろうとする1918年春の運動は失敗したが、これは、運動の最後の喘ぎだった。
1919年までに、工場委員会とそれによる労働者支配は、記憶の中の存在になった。
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(08) 労働組合について述べると、その権威が内戦時に頂点近くに達したり政府が労働紀律の施行のために頼るに至ったりしたことがなくとも、その影響力を増大させた。
党は、労働組合官僚を任命する権利をますますもつようになり、党官僚が是認しない、選挙された役員を追放した(注146)。
1919年と1920年には、国家と党の諸決議は、労働組合は国民経済を作動させるのを助けているという基本的原則を、口先だけで依然として述べていた。
しかし、実際にはその頃、労働組合の主要な任務は、政府の諸指令の伝達者として寄与することだった。
これは、トロツキーが1920年4月に、労働組合の役割をつぎのように明確に語ったことだった。
「建設途上の社会主義国家では、労働組合は、労働条件の改善にむけて闘うために必要とされるのではない。労働条件の改善は、社会的政治的諸組織全体の任務だ。
そうではなく、生産目的のために労働者階級を組織するために必要とされる。つまり、教育し、訓練し、割当て、寄せ集め、一定の期間ごとの彼らの仕事を個々の範疇の労働者群や個々の労働者に与えるためにだ。
ひとことで言うと、政府と連携して、権威をもって、労働者たちを単一の経済計画の枠組みの中へと送り込むためにだ。」(注147)
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(09) 労働組合は、短命の工場委員会よりも、噛み砕くには固い胡桃だった。すなわち、内戦後の1919-20年に、選挙で選出された役員を党が指名した官僚で置き換えるという実務に関する爆発的論争が、党員内部で巻き起こることになる。
この係争は大きな摩擦を生み、レーニンに、党内での分派を非合法化する口実を与えることになる。
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(10) 労働組合の役割は構成員の利益を守ることではなく国家に奉仕することだ、といったん確定すると、組合への加入が義務的なものになることはその論理的帰結だった。
強制的加入は布令によったのではなく、労働組合ごとに徐々に導入された。そして1918年の末には、労働者の四分の三が義務的な労働組合に加入していた(注148)。
構成員数が大きくなればなるほど、労働組合はそれだけ重要になった。
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(11) 同盟罷業(ストライキ)をする権利は労働者の利益にとって基本的なものと考えられ、1917年6月の第3回全ロシア労働組合大会でも再確認された(注149)。
共産党政権はずっと、ストライキを非合法とする布令を発することがなかった。
それにもかかわらず、ボルシェヴィキが国家企業に反抗する労働の停止を許容しようとしなかったことは、明白だ。
工業企業の圧倒的多数が私人の手にあった場合には、立法的命令によってストライキを非合法化することができなかった。
しかし、ボルシェヴィキは、この権利を認めるつもりはなかった。
1918年1月の労働組合大会で、労働組合主義者のG. Tsyperovich は、
「生産の労働者支配という新しい条件」のもとではストライキを「より健全に実行することができる」と理解して、「以前と同じく、職業的労働者運動は、ストライキを労働者の利益を防衛する手段だと考えつづける」、 という動議を提出した。
ボルシェヴィキが支配しているこの大会は、この決議案を黙殺した(注150)。
実際には、存在しているかぎりにおいてだが、私人が所有する企業に対してはストライキが許容され、国有企業に対しては認められなかった。
進展した企業国有化は、ストライキを違法とする効果をもった。
ソヴィエト・ロシアでのストライキをする権利の事実上の廃止は、かくして、ある研究者によって、つぎのように明言されている。
「(ソヴィエト政府が)最初に採用した考え方は、集団交渉と労働組合の強さは、労働休止を呼びかける権利にではなく、国家や党との政治的関係に依存している、ということだった。
いかなる場合でも、ストライキを回避し、終結させる責任があるという負担は、今では労働組合へと、ストライキの権利が最も重要だったはずの組織へと、移された。
労働組合は、自分たちに強さを与え、構成員を防衛することを可能にするまさにその力を、拒否しなければならないという信じ難い地位に、とどめ置かれた。」(注151)
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(12) これは、ソヴィエト・ロシアでの労働組合主義の終焉を叙述していた。
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第九節、終わり。



























































