秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

加地伸行

2786/西尾幹二批判079—全集未完結。

   西尾幹二全集第22巻A(2024.10)を一瞥して驚いたのは、「後記」の短さだ。他の巻では「後記」で長々と、すでに収載されている文章の一部を反復したりして、その巻の自分の文章・主張の「意義」を強調したりしていた。
 この第22巻Aの「後記」はたった5頁で、この巻には何を収めているかについての言及すらない。
  この巻は全体として〈運命と自由〉と題され、「後記」も「運命」に論及している。
 しかし、「要するに『運命』とは個人の情熱の外にない」という(相変わらず?)訳の分からない言辞があり、「個人」だけかと思えば「個人の『運命』」と「日本の『運命』」があるようであり、最末尾の文章は、こうなっている。
 「今こそ『運命』の声に静かに耳を傾けようではないか」。
 何のことか、何を言いたいのか、さっぱり分からない。
 これはひょっとして、西尾幹二の生前最後の文章なのだろうか。
 見苦しく、悲惨なものだ。「運命」という言葉・概念も、一種のイメージとして使われていて、当然ながら、きちんとした定義はない。西尾幹二における「自由」概念と同じく、何らかの「ひらめき」と「思い込み」によって、言葉・概念が使われ、文章ができあがっている。
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  全集22巻Aということは同22巻Bもあり得るはずだ。
 しかし、この22Bはまだ刊行されていないようだ。
 とすると、西尾幹二は「本人編集」であるので、結局は全巻の刊行はないまま終わったことになる。
 もともと「本人編集」で、各巻の編集時点での西尾の〈気分〉で、その内容、収録する本や文章は決められていたと見られる。そして、少なくとも実質的には、編集時点での「書き直し」、「書き換え」を疑い得た部分もあった。
 そうであるとは言え、形式上「22B」が欠落するので、西尾幹二が最初に意図したようには全集は完結しなかったことになる。
 異様な「本人編集の全集」だったとは言え、気の毒なことだ。
 現時点での国書刊行会(出版元)のウェブサイトには載っていないが、つい昨年まで、この欄で紹介した<西尾幹二は太陽だ>との加地伸行の文章とともに、「第22巻」の「A」と「B」のかなり細かな(刊行予定の)内容も掲載されていた。
 現時点ではそのサイトの頁は存在しないので、結局は何が収載されないままになったかは、分からない。
 だが、ずっと興味だけはもっていたのは、つぎの二つの西尾著がどういうふうに収載され、「後記」で西尾はどう位置づけるのだろうか、ということだった。
 ①西尾・国家と謝罪(徳間書店、2007)。
 ②西尾・皇太子さまへの御忠言(ワック、2008)。
 一つの書物でも西尾幹二全集は分断し、それらの一部を別々の巻に収録するということをしていたので、これらの一部がすでにどこかに収録されている可能性はある。だが、中心部分の収載は行われていないはずだ。
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 「22A」の45%ほどは、西尾・あなたは自由か(ちくま新書、2018)が占めている。
 ついでながら、元の新書とは違って「章」別の構成になっている。それは別としても、「第四章は『正論』2014年2-4月号に連載したものを加筆修正した」と注記されているので(p.261)、その「加筆修正」は、最初の発表文章を全集収載時点で「書き換え」したものになっている可能性が高いことに注意しておくべきだろう。
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 国書刊行会の全集刊行開始時点(2011年)でのウェブサイトでは、〈皇太子さまへの〜〉は「22B」の一部の「天皇・皇室」関係論稿として位置づけられていた記憶がある(上の①については記憶がない)。
 「22B」では、上の二つはきちんと収録され、めでたく?完結する予定になっていたのだろうか。
 どうも、怪しい。
 というのは、「22A」にはまだ半分以上の余裕があり、早めに収録することを意図すれば、上のいずれかのかなりの部分を収録できたはずだ。そしてまた、「22A」には、書物・雑誌上の文章ではない、「西尾幹二のインターネット日録」に掲載された「電子的」文章までが収載されている(全部ではない)。
 西尾幹二は最後には、上の二つ、①と②の収録を避けた、少なくとも収載に積極的ではなかった、のではないか。
 ①は、〈新しい歴史教科書をつくる会〉の「分裂」過程と八木秀次等や〈日本会議〉批判を内容としている。そして、「歴史教科書問題」と題した全集 17巻(2018)には収載されていないものだ。
 そうすると、あくまで推測だが、現在の天皇・皇后両陛下は「離婚すべきだ」旨を皇太子・同妃殿下時代に書いていた②とともに、全集の中に入れて歴史的記録にすることに少なくとも積極的ではなかったのではないか。
 こんなところにも、〈本人編集〉の影響または「影」が表れているように、秋月には思われる。
 そうだとすると、全集が「未完結」で終わったのは、何ら気の毒なことではない。
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  全集「22A」を見ていて、さらに不思議なことをようやく発見した。
 全集のこの巻の表紙のすぐつぎの写真の裏側の写真。
 こう注記されている。
 「いよいよ全集は完結が近づいた。大型の議論をしている余裕はもうなく、手早く仕事を処理してくれる人材を著者が選んで『三人委員会』に委嘱した。2023年4月1日撮影」。
 ①これはいったい誰が書いた文章なのだろうか。内容からして、国書刊行会の中の誰かとしか考えられないが、こう「表に出る」のは権限を超えるのではないか。奇妙で、不思議だ。この全集には最初から、著者と出版社の間の「全集刊行委員会」というものはなかったのだ。
 ②この「三人委員会」は、「22A」の編集に関与したのかどうか。時期的にはそう思われるが、西尾は「後記」で「三人委員会」に全く触れておらず、明確ではない。
 ③撮影されている西尾以外の三人が「三人委員会」のメンバーだろう。しかし、最も不思議で奇妙だが、その氏名が何ら記載されていない。秋月も、立ち姿と顔だけでは分からない(関係者には、写真で見て分かる人もいるのだろう)。
 この写真はこのような意味でじつに奇妙なもので、全集自体の「いい加減さ」を明瞭に示していると思われる。
 国書刊行会のこの全集担当者は気の毒だとずっと思ってきたが、その担当者でも回避できないミスがあったと思われる。
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 なお、まさかとは思うが、この「22A」で明らかにされた「三人委員会」(誰々かは現在不明なまま)が編集して、「第22巻B」が刊行されるのだろうか。
 どうなろうと勝手で、お好きなようにという感じだが、そうなれば、「西尾幹二全集」は、(少なくとも最後は「本人編集」ではない、という一貫しない)ますます奇妙奇天烈なものになるだろう。そして、恥ずかしい印象だけ残して、内容はあっという間に忘れられるだろう。西尾幹二という名前も。
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  西尾幹二について、「自我自尊」・「唯我独尊」、「時代錯誤」・「古色蒼然」等々と全体的印象を語ったことがある。
 この巻を一瞥しても、その印象は変わらない。西尾幹二については、まだ書けることが「山ほど」残っている。それを書くことをもう諦めているのではない。
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2701/加地伸行の妄言と西尾幹二。

  「本人編集」の西尾幹二全集(国書刊行会)が刊行され始めたのは、2011年の秋だった。
 出版元は当時、宣伝用の冊子またはパンフを作成したのだろう。
 その内容を、現在でもネット上で読める。
 爆笑?気味にでも面白く読めるのは、加地伸行の「推薦の言葉」だ。加地のこのときの肩書は、「大阪大学名誉教授/立命館大学白川静記念東洋文字文化研究所長」。
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  全文の引用も能がない?ので、一部は省略・要約して、加地伸行の西尾幹二全集への「推薦の言葉」を紹介する。ほんの少しは<歴史的>意味があるかもれない。一行ずつ改行する。
 「西尾幹二氏は多作である。
 全集全二十二巻もの刊行が可能な著述家は、現在、ほとんどいない。」
 多方面に常に発言する「コメンテイターなる評論家」はいる。/
 同じように見えても、西尾は「決定的に異なる」。
 コメンテイターは「依頼者の意向やその場の雰囲気に合わせ」るので、「以前の発言と矛盾した発言をしても平気だ。世に迎合する者の常」だ。/
 「西尾氏は異なる。
 すぐれた学問的業績があり、それに基づいた確乎とした保守思想を有し、その一定の立場から発言するので、いかなる方面に対しても的確な見解を出し得、かつその内容に矛盾がない。
 不動にして一貫した姿勢、これは思想家であればこそなしうることである。」/
 「言わば、西尾氏は太陽である。
 太陽として輝いている。

  〔以下、二文略〕
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  すさまじく面白いのは、反復になるが、こうだ。
 西尾幹二は、「すぐれた学問的業績があり、それに基づいた確乎とした保守思想を有し、その一定の立場から発言するので、いかなる方面に対しても的確な見解を出し得、かつその内容に矛盾がない」。
 加地伸行は、本当にこう考えていたのだろうか。いやきっと、そう思い込んでいたのだろう。
 だが、2011年時点にせよ、「すぐれた学問的業績」があったとは到底思えない。加地はいったい西尾のどの著作を思い描いていたのか。
 「確乎とした保守思想を有し、その一定の立場から発言するので、いかなる方面に対しても的確な見解を出し得、かつその内容に矛盾がない」。
 これは全く事実に反する。例えば日本会議・椛島有三に対する西尾幹二の態度は揺れ動いた。
 「的確な見解を出し得、かつその内容に矛盾がない」。
 こんなことはない。西尾幹二が平気で前言と矛盾することを書いてきたことは、この欄で再三触れた。政治に屈服することがあり得ることも、西尾は早い段階で自分自身で書いていた。
 「依頼者の意向やその場の雰囲気に合わせ」るので、「以前の発言と矛盾した発言をしても平気だ。世に迎合する者の常」だ。
 こういう世のコメンテイター類に対する加地伸行の批判は、そのまま西尾幹二に当てはまる、と言って間違いではない。
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  西尾幹二全集全22巻は、2024年当初の時点で未刊のようだと、最近に知った。
 それに加えて、加地伸行がどうやら今でも月刊誌の巻頭に毎号に短文を掲載しているらしいことも、興味深いことだ(最近号で確認してはいない)。
 加地伸行の「教養・知識」、そして人生は、いったい何のために役立ってきたのか。
 老齢の妄言家の文章をしきりと掲載する出版社・雑誌があるとは、日本はなんと<贅沢な>国のことだろう。苦しんでいる人、困っている人はいくらでもいるというのに。
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2637/月刊正論(産経新聞社)と皇室。

  月刊正論(産経新聞社)という雑誌のすごいところは、いや凄まじいところは、<祝・令和—改元特大号>と謳った同2019年6月号の<記念特集・新天皇陛下にお伝えしたいこと>に西尾幹二と加地伸行の文章を掲載していることだ。
 西尾幹二は2008年に〈皇太子さまへの御忠言〉(ワック)を出版し、2012年にそれに加筆して文庫(新書?)化して再刊した。また同年には別途『歴史通』に「『雅子妃問題』の核心」という文章を書いて、現在の天皇(当時の皇太子)は「…と言ってのけた」と表現するなどし、現在の皇后(当時の皇太子妃)を「地上に滅多に存在しない『自由』の実験劇場の舞台を浮遊するように、幻のように生きている不可解な存在」表現し、離婚せよの旨を明確に出張した。さらに、2008年8月のテレビ番組で西尾は、雅子妃は「仮病」だから「一年ぐらい以内にケロッと治る」だろう、雅子妃は「キャリアウーマンとしても能力の非常に低い人。低いのははっきりしている」、「実は大したことない女」と発言したらしい。
 加地伸行の当時の皇太子・同妃に対する主張も似たようなものだった。
 しかるに、二人のこうした主張・見解を知っていたはずだが、菅原慎一郎を編集代表とする月刊正論2019年6月号は、当時の皇太子・同妃が天皇・皇后に即位する時点で、「新しい天皇陛下にお伝えしたいこと」の原稿執筆を依頼した。そして、この二人は、文章執筆請負業の「本能」からか?、原稿を寄せた。
 西尾幹二、加地伸行は、かつてのそれぞれ自身の発言・文章に明確には言及しておらず、むろん取消しも撤回もせず、当然のこととして「詫び」もしていない。
 よくぞ、「新天皇陛下にお伝えしたいこと」と題して執筆できたものだ。
 二人の「神経」の正常さを疑うとともに、月刊正論(・菅原慎一郎)の編集方針(原稿執筆依頼者の選定を含む)もまた、「異常」だと感じられる。
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  月刊正論の元編集代表(2010年12月号〜2013年11月号)だった桑原聡は、「天皇陛下を戴く国のありようを何よりも尊い、と感じることに変わりはない」旨を編集代表としての最後の文章の中で書いた。
 これは、いわば<ビジネス保守>の言葉だけの表現ではないか、との疑問はある。
 上の点はともかく、月刊正論、そして産経新聞社、産経グループ全体が読売新聞社系メディアよりも<より親天皇(天皇制度)>的立場にあった(ある)、という印象はあるだろう。
 しかし、現在の天皇・皇后、上皇・上皇后各陛下等々の皇室の方々は、月刊正論・産経新聞社・産経グループを「最も支持し、最も後援してくれる」最大の味方だと感じておられるだろうか。
 すでに誰かが書いているだろうように、また書かずとも広く理解されてしているだろうように、桑原聡の上の言葉とは違って、月刊正論(・産経新聞社)は全体として皇室の「味方」だとは思えない。
 前天皇の「退位」に反対した(終身「天皇」でいるべきだと主張した)櫻井よしこ、平川祐弘、八木秀次、加地伸行らは月刊正論や産経新聞「正論」欄への主要な執筆者だった(秋月による「あほ」の人たち)。当時の天皇はこの議論に「不快」感をもったとも報道されたようだが、その真否を確言できないとしても、当時の天皇の意向とはまるで異なっていたことは明確だった。
 現在の皇后、雅子妃、前皇太子妃を最も厳しく攻撃し、批判したのは、西尾幹二だっただろう
 その西尾幹二はまた、月刊正論や産経新聞「正論」欄への継続的な執筆者だった(2023年時点でどうかは知らない)。
 現在の皇后、雅子妃も、現在の天皇、前皇太子も、西尾幹二が自分たちについてどのように書き、どのように主張していたかを、よくご存知だったと思われる。
 皇居内の「私的」空間にはおそらく主要な新聞紙が置かれ、それらのうちいくつかには西尾幹二のものも含む単行本の宣伝広告も掲載されていただろう。そして、皇族であっても「私的に」本や雑誌を購入することは可能だ。
 西尾幹二によって、小和田家まで持ち出されて攻撃された雅子妃は、ひどく傷つかれただろう。西尾幹二の言い分は、「病気」治癒を却って遅らせるものだった。前皇太子も、激しい怒りを感じられたに違いない。
 西尾幹二は前皇太子・同妃が2019年(5月)に新天皇・新皇后として即位するとは思いもしていなかっただろう。2016年に「意向」表面化、2017年にいわゆる退位特例法成立だったが、西尾は早くとも2012年まで、皇太子等を批判し続けた。「不確定の時代を切り拓く洞察と予言」の力(西尾・国家の行方(産経新聞出版、2020)のオビ)が、彼にはなかったのだ。
 西尾幹二は2008年に、自分の文章を「一番喜んでおられるのは皇太子殿下その方です。私は確信を持っています」と発言したようだが、いったいどういう「神経」があれば、こういう態度がとれたのだろう。
 現在の天皇・皇后にとって、西尾幹二は「最大の敵」ではなかったか、と思われる。
 その人物を、改元=新天皇・新皇后即位の記念号の執筆者の一人として起用した月刊正論(編集部)もまた、「異様」だ。
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 参考→Yoshiki, 即位10年奉祝曲・Piano Concerto "Anniversary"

2636/加地伸行・妄言録—月刊WiLL2016年6月号<再々掲>。

 加地伸行月刊WiLL2016年6月号(ワック)での発言と秋月瑛二のコメント(2017年07月16日No.1650)の再々掲。
 対談者で、相槌を打っているのは、西尾幹二
 最初に掲載したとき、冒頭に、つぎの言葉を引用した。
 「おかしな左翼が多いからおかしな右翼も増えるので、こんな悪循環は避けたい」。
 平川祐弘「『安倍談話』と昭和の時代」月刊WiLL2016年1月号(ワック)。
 2023年5月末の時点で書くが、平川祐弘はこのとき、自分自身が「おかしな右翼」と称され得ることを全く意識していなかったようで、可笑しい。
 なお、花田紀凱編集長の月刊Hanada(飛鳥新社)の創刊号は2016年6月号で、加地伸行の対談発言が巻頭に掲載されたのは、「分裂」後最初の月刊WiLLだった。おそらく、手っ取り早く紙面を埋めるために起用されたのが、加地伸行・西尾幹二の二人だったのだろう(対談だと録音して容易に原稿化できる)。
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 <あほの5人組>の一人、加地伸行。月刊WiLL2016年6月号p.38~より引用。
 「雅子妃は国民や皇室の祭祀よりもご自分のご家族に興味があるようです。公務よりも『わたくし』優先で、自分は病気なのだからそれを治すことのどこが悪い、という発想が感じられます。新しい打開案を採るべきでしょう。」p.38-39。
 *コメント-皇太子妃の「公務」とは何か。それは、どこに定められているのか。
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 「皇太子殿下は摂政におなりになって、国事行為の大半をなさればよい。ただし、皇太子はやめるということです。皇太子には現秋篠宮殿下がおなりになればよいと思います。摂政は事実上の天皇です。しかも仕事はご夫妻ではなく一人でなさるわけですから、雅子妃は病気治療に専念できる。秋篠宮殿下が皇太子になれば秋篠宮家が空くので、そこにお入りになるのがよろしいのでは。」p.39。
 *コメント-究極のアホ。この人は本当に「アホ」だろう。
 ①「皇太子殿下は摂政におなりにな」る-現皇室典範の「摂政」就任要件のいずれによるのか。
 ②「国事行為の大半をなさればよい」-国事行為をどのように<折半>するのか。そもそも「大半」とその余を区別すること自体が可能なのか。可能ならば、なぜ。
 ③ 「皇太子はやめるということです。皇太子には現秋篠宮殿下がおなりになればよい」-意味が完全に不明。摂政と皇太子位は両立しうる。なぜ、やめる? その根拠は? 皇太子とは直近の皇嗣を意味するはずだが、「皇太子には現秋篠宮殿下」となれば、次期天皇予定者は誰?
 ④「仕事はご夫妻ではなく一人でなさる」-摂政は一人で、皇太子はなぜ一人ではないのか?? 雅子妃にとって夫・皇太子が<摂政-治療専念、皇太子-治療専念不可>、何だ、これは?
 ⑤雅子妃は「秋篠宮家が空くので、そこにお入りになるのがよろしい」-意味不明。今上陛下・現皇太子のもとで秋篠宮殿下が皇太子にはなりえないが、かりになったとして「空く」とは何を妄想しているのか。「秋篠宮家」なるものがあったとして、弟宮・文仁親王と紀子妃の婚姻によるもの。埋まっていたり、ときには「空いたり」するものではない。
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 「雅子妃には皇太子妃という公人らしさがありません。ルールをわきまえているならば、あそこまで自己を突出できませんよ。」 p.41。
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 「雅子妃は外にお出ましになるのではなくて、皇居で一心に祭祀をなさっていただきたい。それが皇室の在りかたなのです。」p.42。
 *コメント-アホ。これが一人で行うものとして、皇太子妃が行う「祭祀」とは、「皇居」のどこで行う具体的にどのようなものか。天皇による「祭祀」があるとして、同席して又は近傍にいて見守ることも「祭祀」なのか。
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 「これだけ雅子妃の公務欠席が多いと、皇室行事や祭祀に雅子妃が出席したかどうかを問われない状況にすべきでしょう。そのためには、…皇太子殿下が摂政になることです。摂政は天皇の代理としての立場だから、お一人で一所懸命なさればいい。摂政ならば、そ夫人の出欠を問う必要はまったくありません。」
 *コメント-いやはや。雅子妃にとって夫・皇太子が<摂政-「お一人で一所懸命」、皇太子-「出欠を問う必要」がある>、何だ、これは? 出欠をやたらと問題視しているのは加地伸行らだろう。なお、たしかに「国事行為」は一人でできる。しかし、<公的・象徴的行為>も(憲法・法律が要求していなくとも)「摂政」が代理する場合は、ご夫婦二人でということは、現在そうであるように、十分にありうる。
 以下、p.47とp.49にもあるが、割愛。
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 この加地伸行とは、いったい何が専門なのか。素人が、アホなことを発言すると、ますます<保守はアホ>・<やはりアホ>と思われる。日本の<左翼>を喜ばせるだけだ。
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 以上。

2302/加地伸行・妄言録−月刊WiLL2016年6月号(再掲)。

 No.1650/2017/07/06の「妄言」とそれへのコメント部分のそのままの再掲。
 記していないが、この発言を聞いている対談相手は、西尾幹二
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 <あほの5人組>の一人、加地伸行。月刊WiLL2016年6月号p.38~より引用。
 「雅子妃は国民や皇室の祭祀よりもご自分のご家族に興味があるようです。公務よりも『わたくし』優先で、自分は病気なのだからそれを治すことのどこが悪い、という発想が感じられます。新しい打開案を採るべきでしょう。」p.38-39。
 *コメント-皇太子妃の「公務」とは何か。それは、どこに定められているのか。
 「皇太子殿下は摂政におなりになって、国事行為の大半をなさればよい。ただし、皇太子はやめるということです。皇太子には現秋篠宮殿下がおなりになればよいと思います。摂政は事実上の天皇です。しかも仕事はご夫妻ではなく一人でなさるわけですから、雅子妃は病気治療に専念できる。秋篠宮殿下が皇太子になれば秋篠宮家が空くので、そこにお入りになるのがよろしいのでは。」p.39。
 *コメント-究極のアホ。この人は本当に「アホ」だろう。
 ①「皇太子殿下は摂政におなりにな」る-現皇室典範の「摂政」就任要件のいずれによるのか。
 ②「国事行為の大半をなさればよい」-国事行為をどのように<折半>するのか。そもそも「大半」とその余を区別すること自体が可能なのか。可能ならば、なぜ。
 ③ 「皇太子はやめるということです。皇太子には現秋篠宮殿下がおなりになればよい」-意味が完全に不明。摂政と皇太子位は両立しうる。なぜ、やめる? その根拠は? 皇太子とは直近の皇嗣を意味するはずだが、「皇太子には現秋篠宮殿下」となれば、次期天皇予定者は誰?
 ④「仕事はご夫妻ではなく一人でなさる」-摂政は一人で、皇太子はなぜ一人ではないのか?? 雅子妃にとって夫・皇太子が<摂政-治療専念、皇太子-治療専念不可>、何だ、これは?
 ⑤雅子妃は「秋篠宮家が空くので、そこにお入りになるのがよろしい」-意味不明。今上陛下・現皇太子のもとで秋篠宮殿下が皇太子にはなりえないが、かりになったとして「空く」とは何を妄想しているのか。「秋篠宮家」なるものがあったとして、弟宮・文仁親王と紀子妃の婚姻によるもの。埋まっていたり、ときには「空いたり」するものではない。
 「雅子妃には皇太子妃という公人らしさがありません。ルールをわきまえているならば、あそこまで自己を突出できませんよ。」 p.41。
 「雅子妃は外にお出ましになるのではなくて、皇居で一心に祭祀をなさっていただきたい。それが皇室の在りかたなのです。」p.42。
 *コメント-アホ。これが一人で行うものとして、皇太子妃が行う「祭祀」とは、「皇居」のどこで行う具体的にどのようなものか。天皇による「祭祀」があるとして、同席して又は近傍にいて見守ることも「祭祀」なのか。 
 「これだけ雅子妃の公務欠席が多いと、皇室行事や祭祀に雅子妃が出席したかどうかを問われない状況にすべきでしょう。そのためには、…皇太子殿下が摂政になることです。摂政は天皇の代理としての立場だから、お一人で一所懸命なさればいい。摂政ならば、その夫人の出欠を問う必要はまったくありません。」
 *コメント-いやはや。雅子妃にとって夫・皇太子が<摂政-「お一人で一所懸命」、皇太子-「出欠を問う必要」がある>、何だ、これは? 出欠をやたらと問題視しているのは加地伸行らだろう。なお、たしかに「国事行為」は一人でできる。しかし、<公的・象徴的行為>も(憲法・法律が要求していなくとも)「摂政」が代理する場合は、ご夫婦二人でということは、現在そうであるように、十分にありうる。
 以下、p.47とp.49にもあるが、割愛。
 この加地伸行とは、いったい何が専門なのか。素人が、アホなことを発言すると、ますます<保守はアホ>・<やはりアホ>と思われる。日本の<左翼>を喜ばせるだけだ。
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2084/平川祐弘・新潮45/2017年8月号①。

 平川祐弘「天皇の『祈り』とは何か」新潮45・2017年8月号。 
 副題に「御厨座長代理の悪意ある記事に応える」とある。
 もっとも、編集者の意図は、いわゆる天皇退位特例法が成立したのちに、退位反対・摂政設置を主張していた一人だった平川祐弘の同法成立後の感想・意見を求めるものだったように思われる。その機会に、平川は主として、その方向で議論した有識者会議「御厨座長代理」に物申したかったのだろう。なお、周知のとおり、この約1年後に、新潮45(新潮社)は廃刊となった。
 渡部昇一・櫻井よしこらとともに平川祐弘は譲位反対・摂政設置を現憲法や現皇室典範の諸条項をまるで読むこともしないで主張していたので、この欄で併せて「アホの四人組」と敢えて称したことがあった。憲法を少しは知ってはいたが<いわゆる国事行為委任法>で解決できるとか論じていた八木秀次を含めていた。のちに、加地伸行も含めて「アホ」は5人だと書きもした。
 勇気が必要だった「アホ」呼称だったのだが、2017年になっても、平川祐弘は変わらなかったようだ。以下、その旨を指摘する。
 決定的な「アホ」らしさは別に(②で)記述することにする。
 平川は上の記事でまずこんなことを書いている。上掲誌p.46-p.47。
 ・「連綿として続く天皇家は、卑近な国政の外にあって、…『天壌無窮』に続くことによって、その万世一系という命の永続の象徴性によって、日本人の永生を願う心のひそかな依りどころとなっている」。
 ・「天皇は敗戦後の憲法では国民統合の象徴だが、歴史に形づくられた伝統では民族の永続の象徴である。
 …永生を願う気持はおのずと宗教的な性格を帯びる。」
 ・「日本では古代から天皇家はまつりごとを司どってきた」。これは「政治」であるとともに「祀事と書くと祭祀、すなわち民族宗教の儀礼となる」。
 「天皇家にはご先祖様以来の伝統をきちんと守って、まず神道の大祭司としてのおつとめを全うしていただきたい。
 その方が卑近な皇室外交などの政治的なお勤めよりもはるかに大切なのではあるまいか。」
 ここで区切る。<いわゆる保守派>かつ<日本会議派>諸氏の見解・主張なので、とくに大きく驚くには当たらないだろう。
 そして、櫻井よしこらとともに、現1947年憲法(日本国憲法)上の「政教分離」=「政祭分離」の原則にまるで無頓着であることも明らかだ。この思考方法は当然のこととして、<戦後憲法の定めよりも歴史的伝統が優先する>を前提としているのだろう。
 「政教分離」原則に何一つ言及することができないのもすでに「あほ」なのだが、これは等閑視する。また、「古代」以来の天皇家と宗教との関係に関する平川の無知らしきことにもここでは言及しない(先日に書き忘れたが、仏教寺院・東大寺と大仏(毘盧遮那仏)の建立も、聖武天皇らによる。奈良「仏教」と天皇・皇室の関係の深さは常識だろう)。
 いわゆる特例法に至るまでの議論では平川祐弘も明記していなかったと記憶することを、ここでは明確に述べているのが、やや驚き、やや気を惹く。
 すなわち、天皇は日本の「民族宗教」である「神道の大祭司としてのおつとめ」をその他の「卑近な」仕事よりも優先してもらいたい、という明瞭な主張だ。
 ここに明らかに、上にすでに述べた現憲法の条項に関する「無知」がある。国事行為・「公的(象徴としての)行為」・「私的」行為の三分など、また国費・宮廷費・内廷費の三区分など、この人にとってはどうでもよいのだ。
 憲法・現皇室典範も皇室経済法も、ほとんど何も知らなくて、政府の諮問会議に出席・発言した、というのだから「どうかしている」。
 こう書けば、平川祐弘はこう反論?するのかもしれない。p.48 にこうある。
 ・「長い目で見ない人は経済学部出だけではなく、法学士に多い。
 視野が六法全書に限定されがちだからである。」
 思わず苦笑する、「経済学部出」や「法学士」に対する偏見だ。
 「法学士」という古くさい?呼び方は別としても、「視野が六法全書に限定されがち」だとするのは、友人・知人に立派で良識のある「法学士」さまが存在しないためかもしれない。
 「六法」とは6つの法律だけを意味しない(法律ではない憲法もふつうは含めていう)。また、容易に購入できる市販の「六法全書」には「皇室用財産」に論及する国有財産法や皇室経済法も掲載されているだろう。また、むろん法学部卒業生によって理解の程度は異なるだろうが、「法」には、平川祐弘がおよそ知らないような「法哲学」・「法思想」あるいは「法の歴史」が反映されている。戦後日本の法制とこれらとの関係にここでは立ち入らないけれども。
 また、平川祐弘が知らないような「卑近な」現実生活上の諸問題の指針や解決基準となるためにも、「法律」あるいは「法政策」は必要なのだ。むろん、現在・現行の法制・法政策が素晴らしいとは、ひとことも言わないけれども。
 平川が人間として、日本人として生活しているからには、諸税法は当然のこととして、水道法・下水道法・電気事業法・道路法・道路運送法・建築基準法・河川法・都市計画法等々、そして地方自治法や学校教育法等々と平川自身も関係しており、相当の程度に「恩恵」もまた受けているはずなのだ。
 イタリア語を読み、源氏物語を囓ったことのある「知識人さま」には分からない世界がある。
 さて、上掲誌で平川は、渡部昇一の見解・主張に同感するとして渡部昇一を「称え」たのち、こう書く。p.49。
 ・「これからはご在位のまま、まず祭事のおつとめをお果たしください、というのが私どもの意見である」。
 正確には「意見だった」と記すべきだろう。
 そして、上の記事で特徴的なのは、「御厨座長代理」やマスコミ(とくに毎日新聞)に対する鬱憤めいた批判・非難を長々と書き記しながら、自分や渡部昇一らの上の主張がなぜ諮問会議(検討会)や国会、国民世論の多数派を形成することができなかったのか、という問題について、反省も洞察も全く見られないことだ。
 ここで取り上げているのは1917年夏の文章だが、平川はおそらく、現在でもこれを「理解」することができていないのだろう。
 日本の歴史について、「祈り」-宗教-「神道」-天皇、という<あほ>としか表現できない、単純で幼稚な理解しかもっていないからだ、と思われる。
 もっとも、いちおうつぎのようには書いている。p.52。とくに最後の一文。
 「噂される上皇職の人数からだけでも天皇の権威がいまや二分されようとしている。
 やはり穏当なのは京都にお住まいになって…ゆったりと晩年をお過ごしになる事ではないのか。
 国民多数が退位に賛成したのは、天皇様ご苦労様でしたという気持ちからだった。」
 最後の一文はともあれ、八木秀次らが懸念していた?上皇と天皇の「権威の分裂」は、現実には生じなかっただろう。平川が上に書く「天皇の権威」の分裂は、すでにかつて記したように、「天皇」とは別に「摂政」が設置されても、もともと「天皇」と「摂政」の間に生じる可能性があったものだ。
 「座長代理」・一部マスコミ批判・非難には立ち入らない。
 ***
 さて、平川祐弘が本当に「アホ」であるらしいことは、上の雑誌論考の冒頭の第一文によって、すでに明らかだ。
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 ②につづく。

2006/「文学」的観念論ノート。

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 古都保存法という法律がある。これは略称または通称で、正確には<古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法>(昭和40年法律1号)という。
 この法律2条1項はこう定める。「この法律において『古都』とは、わが国往時の政治、文化の中心等として歴史上重要な地位を有する京都市、奈良市、鎌倉市及び政令で定めるその他の市町村をいう」。
 京都、奈良、鎌倉各市およびその他の「政令で定める」市町村が、「古都」とされる。
 この政令である<古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法第二条第一項の市町村を定める政令>(昭和41年政令232号)によると、 政令で定める「古都」とはつぎの市町村だとされる。
 「天理市、橿原市、桜井市、奈良県生駒郡斑鳩町、同県高市郡明日香村、逗子市及び大津市」。
 さて、鎌倉のほか天理、逗子各市および斑鳩町にはたぶん、かつて天皇・朝廷の所在地はなかった筈だ。それに、かつて「都」があったはずの大阪市が列挙される中に入っていない。
 とこんなことを議論しても無意味だ。「都」の一種だと概念論理的にはいえる「古都」について、「都」それ自体の意味とは無関係に、上の法律は「わが国往時の政治、文化の中心等として歴史上重要な地位を有する」特定の市町村だと定義しているのだから。
 ***
 <大阪都>構想に関して、竹田恒泰や西尾幹二らは、「都」は一つだけだ、東京とは別に大阪「都」というのは本来?おかしいと、歴史学的に?または文学的に?主張し、または感想を述べているらしい。
 言葉・概念をすぐに<文学的>に解してしまう文学(部)系「知識人」・「評論家」あるいは「物書き」(文章執筆請負業者)の弊害が顕著だ(もっとも竹田は法学部卒のはずだが)。
 現行の地方自治法(昭和22年法律67号)は「普通地方公共団体」の中に都道府県(・市町村)が、「特別地方公共団体」の中に「特別区」等があることを定めているが、都道府県の各意味、いずれが都道府県にあたるのかの特定を行っていない。
 そして、3条1項で「地方公共団体の名称は、従来の名称による」とだけ定める。
 したがって、明治憲法公布時の「府県制」(・「市制」・「町村制」)のほか1943年の東京「都制」という名称の各法律によるものをそのまま継承することとしている。
 特別区というのは戦後・地方自治法上の制度で、同法281条1項は「都の区は、これを特別区という」と定める。
 今日まで「都」の名称を継承したのは(昭和18年以降の)東京だけで、上の「特別区」の区域は実質的には東京都だけにあり、また旧東京市(昭和18年まで)の区域に該当するものだった。
 しかし、どこにも「都」の定義はなく、「都」とは将来的にも「東京都」に限る、という旨の規定はない。
 2012年(平成24年)に、略称<大都市地域特別区設置法>、正式名称<大都市地域における特別区の設置に関する法律>(平成24年法律80号)が公布された。
 この法律によると一定大都市地域での「特別区」の最終設置権限機関は「総務大臣」だ(3条)。住民投票(選挙人の投票)等を経ての関係自治体の<合意>で決定されるのではない。
 また、「特別区の設置」とは、「関係市町村を廃止し、当該関係市町村の区域の全部を分けて定める区域をその区域として、特別区を設けることをいう」(2条3項)。
 そして、「都」という語・制度との関係について、こう定める。第10条。
 「特別区を包括する道府県は、地方自治法その他の法令の規定の適用については、法律又はこれに基づく政令に特別の定めがあるものを除くほか、都とみなす。」
 現在「都」ではない「道府県」も、これにより、法制上は「都」となる(そうみなされる)。
 また、確認しないが、例えば大阪府を大阪都と名称変更することについては、すぐ上の厳密な規定ぶりからして、上掲の地方自治法3条1項「地方公共団体の名称は、従来の名称による」との抵触を回避するために、別の特別法(法律)が総務大臣の最終決定と同時か一定期間経過後に必要になるのかもしれない。
 いずれにせよ、「都」は東京に限られるのではない。
 天皇陛下がおられる、皇居のある東京に限るべきだ、と主張するのも自由勝手だが、そんな議論は現実の政治・行政上は、とっくに否認されている。
 ところで、大阪府下に「特別区」をおくといういわゆる<大阪都構想>が橋下徹・大阪維新の会で唱えられたとき、そんなことは法律を改正するか新法律を制定しないと、つまりは国・中央の立法機関の国会がそれを認めなければ、実質的には政府・与党がそれを了解していなければ実現する可能性はゼロであることは分かっていたので、政策的議論、行政政策・地方制度(とくに大都市制度)としての優劣の議論はさておき、そもそもその現実的な実現可能性について疑問をもったものだ。
 ところが何と、2012年(平成24年)というのは年末に安倍晋三第二次内閣が誕生した年だが、自民党等の賛成を得て、上記の法律が成立してしまったので、驚いてしまった。
 これはたんなる「理論的」、「政策論的」優劣の問題ではない。
 上記のとおり法律成立がただちに<大阪都>容認を意味するのではないが中央政界、とくに自民党の同意を取り付ける、という橋下徹らの<政治力>または<人間力>によるところもすこぶる大きかっただろう。
 現行の、「生きている法制度」を変更する・改正するというだけでも大変なことなのだ。むろん、その新しい法制を利用して、元来の「理念」を現実化するのも大変なことはその後の経緯が示している。
 橋下徹はしばしば、学者先生の<空理空論>を批判し揶揄しているが、その気分はよく分かる。
 東京にだけ「都」という語は使うべきだ、「都」は一つに決まっている、などとのんきに?書いたり、発言しているだけでは、世の中は変わらない。
 ***
 天皇・皇室に関する日本国憲法を含む現行法制を全く無視して、あるいは無視していることも意識しないで、奇妙なことを、例えば加地伸行(1936-)は語りつづける。
 加地伸行「宮中にて祈りの御生活を-新しい天皇陛下にお伝えしたいこと」月刊正論2019年6月号p.255.は、かつての現天皇・現皇后に対する自らの罵詈雑言にはむろん?少なくとも明示的には触れることなく、つぎのように書く。
 「伝統を墨守する」方法は「ただ一つ」、「皇居の中で静かに日々をお暮らしになり、可能なかぎり外部と接触されないこと」。「庶民や世俗を離れ、可能なかぎり皇居奥深く在されること」。「宮中におかれて、専一、祈りの御生活」を。
「国事行為の場合には他者との面会もやむをえないが…」とも書いているが、またもや加地の幼稚な天皇観が表れているだろう。
 「祈り」とは何か。幼稚な彼は「祭祀王」という語を用いず、「祈り」と宗教・神道との関係にも触れることができない。
 加地伸行は一度、「内閣の助言と承認」を必要とする、上にいう「国事行為」の列挙を日本国憲法7条で確認しておく必要がある。
 そして、「可能なかぎり」「外部と接触」せずに「皇居奥深く在され」て「祈って」いただきたい、というのは日本の天皇の歴史全体を通じても現憲法に照らしても、特殊な天皇観だということを知らなければなない。
 さらに書けば、この人物はかつての自らの皇室関係発言を「恥ずかしく」感じてはいないのだろうか。
 なぜ、「新天皇」への言葉の原稿執筆依頼を平然と引き受けることができるのだろうか。何についても語る資格があると思っているらしき「古典的知識人」のつもりらしい「名誉教授さま」の神経は、凡人たる私にはさっぱり分からない。

1938/日本の「保守」・西尾幹二の2008年頃の主張。

 西尾幹二・皇太子さまへの御忠言(ワック、2008年)はきっとアホらしくて所持していない。
 万が一入手していたとしても(そしてどこか隅にあるとしても)、捲って読んだことはない。
 今のところ、特段の突発事がないかぎり、本年2019年5月1日に現在の皇太子が天皇に、現皇太子妃・雅子様が皇后になられる。
 この時期だからこそ今のうちに、<保守>派の少なくとも一部がかつて皇太子や同妃についてどう発言していたかをあらためて記録しておいてよいだろう。
 西尾幹二はどちらかというと肯定的にこの欄で言及することが多かったが(これもこの一年以上はやめている)、その天皇・皇室論のうちの現皇太子・同妃<批判>だけは賛同できなかった。
 冒頭に書いたとおり単行本は読んでいないが、ときどきの関係論考は読んだことがあって、この欄でも明確に批判または疑問視してきた。
 あらためて彼の文書を読み直す余裕はないので、自らのこの欄へのかつての記載から振り返ってみる。
一例になるだろうが、①2008/11/08付の、<0615/西尾幹二の月刊諸君!12月号論稿を読む。やはりどこかおかしい>によると、西尾幹二は月刊諸君!(文藝春秋)2008年12月号にこう書いた。
 「私が危惧するのは、いまのような状態をつづければ、あと五十年を経ずして、皇室はなくなるのではないかということです。雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくないように見受ける。というか、明確に拒否されて、すでに五年がたっている。…皇太子殿下はなすすべもなく見守っておられるばかりなのではないか。これはだれかがお諫めしなければならない。…、言論人がやらなきゃいけない」。
 この当時に秋月がすでに指摘しているが、「雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくないように見受ける」との指摘はおかしい。
 「宮中祭祀」なるものがいつの頃からかあったとして、皇太子も、ましてや皇太子妃も、その<主体>ではあり得ない。
 また、上の「なさる」が参加する、関与する、という趣旨だったとしても、「宮中祭祀」への参加・関与が皇太子妃の「公務」とはどこにも定められていない。
 ②2008/06/13付の本欄<0548/取り返しのつかない、一生の蹉跌、ではないか-中西輝政・八木秀次・西尾幹二>によると、西尾幹二は月刊WiLL2008年5月号(ワック)につぎの旨を書いた。
 1.小和田家が皇太子妃を「引き取るのが筋」だ。(=おそらく皇太子との「離婚」が前提。)   
2.「秋篠宮への皇統の移動」との提言も「納得がいく」。(=つまりは現皇太子は、次期天皇としてふさわしくないという見解の表明だ)。
 こうなると、論及する気もなくなる<アホらしい>ものだった。
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 今回はこの程度にするが、この頃、<保守派>の少なくとも一部は何を血迷っていたのだろうか。
 上の②の表題にも出てくるように、西尾幹二、中西輝政、八木秀次は、<一致団結して>ではないが、それぞれに皇太子妃・雅子様を批判し、現皇太子の天皇就位資格を疑問視していたのだ。
 八木秀次も入っていることからすると、日本会議は(むろん正規の決定などしていないにせよ)このような論調に反対だった、八木のような主張を阻止しようとした、とは言い難い。容認していたのだろうと推察される。
 中西輝政、八木秀次の主張・発言内容には今回は触れないが、「平成」が終わろうとしている今、これら三人は、かつてのそれぞれの自分の主張・発言の内容の<適否>について、現時点での何らかの「総括」が必要なのではないか。
 なお、重視していなかったので当時はあまり取り上げなかったが、「アホ」の一人の加地伸行も当時に西尾幹二の主張を支持する論調だった。そして、のちに2016年になって明確に、皇太子・皇太子妃に対する<罵詈雑言>を吐く。その際の対談相手は、西尾幹二だ。
 その内容を分かり易く?列記したのが、以下だった。
 2017/07/16付の、<1650/加地伸行・妄言録-月刊WiLL2016年6月号>。
この上の最後の秋月の文章は以下。
 「この加地伸行とは、いったい何が専門なのか。素人が、アホなことを発言すると、ますます<保守はアホ>・<やはりアホ>と思われる。日本の<左翼>を喜ばせるだけだ」。

1908/言葉・文章と「現実」①-「文学部」出身者。

 言葉・観念・文章・修辞と「現実」について、書こうと思う。
 そして、両者の違いについての意識・感覚が少ないかほとんど全くない場合があるのは、大学の出身学部でいうと相対的には(経済学・経営学・法学・政治学)ではなく「文学部」(・外国語学部または一部の「教育学」)の出身者であり、そういう人々がかなり多く日本の<(知的)情報産業界>の要職に就いているらしいがゆえに、必要だったまたは不可避だった以上に戦後日本は<悪くなった>、という面があることも、 書こうと思う。
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 渡部昇三(故人)、櫻井よしこ、小川榮太郎、江崎道朗、平川祐弘、加地伸行、長谷川三千子、花田紀凱
 こう並べただけで一定の<主張・思考>の傾向がある。(櫻井よしこが外国の「歴史」卒業とされている以外は)全て日本の大学の「文学部」出身者だ。外国語学部出身者を含む。
 文学部にもいろいろあるが、哲学/思想・(狭い)文学系に著しいかもしれない。
 本来は「社会学」は社会系のはずだし、「歴史学」も総合的な社会系のように思われるが、しかし、日本の悪しき<文学部>系の影響を、これらも受けている可能性がある(心理学、地理学は、理・文の両者にかかわるだろう)。
 いつぞや池田信夫が日本の人文社会系学部の廃止を主張しており、共感するところがある(極論としてはいったん指導教師-学生の関係を全て断ち切るべきだ)。しかし、では司法・行政の官僚または人文社会系の「専門家」・「技術者」をどう養成するかという重要な問題は残る。
 しかし、上に上げたような「文学」関係分野は、そもそも大学という「高等」教育機関には不要ではないか。人文社会系学部全体とはいえなくとも、人文系学部くらいは原則廃止くらいの方が、日本のためになる。
 これは「素養」・「教養」のようなものにかかわる。大学で本来、「素養」・「教養」のごときものを教育する必要があるのか?
 現実には通用しない主張であり、議論であることは承知している。
 より大きな問題は、「大学」なるものに、同世代人口の今や半分近くが進学しているという「現実」そのものにあるのだろう。
 この数は、-時期によって異なるが-戦前の「旧制中学」への進学者よりもはるかに多く、従ってまた、現代日本の「大学教授」様たちは、戦前の「中学」の教師たちよりもはるかに(相対的な)知的等のレベルは劣っている。大学の大衆化は、大学教師の大衆化・劣化でもある。
 それにそもそも、明治以降の「教養」重視教育も関係があるものと思われる。
 「教養」がある、「知識」が多い、というだけで、なぜエライのか??
 教養や知識は「現実」に対して何らかの意味で<有用>であって初めて、有意味なものになる。
 それでもしかし、(すぐに役立たなくとも)長期的に有益であればよい、あるいは、<役立たない学問にこそ意味がある>というような主張をする人がいるだろう。
 しかし、日本のいわゆる<リベラル・アーツ>教育・研究のあり方は、根本的に再検討されるべきだろう。
 本当に「何ら役に立たない」のであれば、存在しても無意味だと考えられる。
 役に立っているのは、某大学であれ、某々大学であれ、その「文学部」であれ、そこを卒業している、という<レッテル付け>でしか、もはやないのではなかろうか。
 しかし、似たようなことは、50パーセント近い大学進学率となると、経済学部や法学部についても、もちろん言える。
 しばしば思うのだが、現在の学校・教育制度の根本的な変化がないかぎりは、<戦後レジーム>の終焉はない、と考えられる。矛盾しているようでもあるが、逆に、<戦後レジーム>の終焉があってはじめて、六三三四制という学校・教育制度の変化も生じるのではないか、と思われる。
 しかし、ほとんど誰もそれを口にしないのは、いつか触れたが、右であれ左であれ、斜め右上であれ斜め左下であれ、手前であれ奥であれ、<戦後レジーム>の受益者たち(またはそう「感じて」または「思い込んで」いる者たち)が、日本の既成権益階層(establishment)を形成しているからだ、と思われる。
 その中には、少なくとも中堅以上の、新聞社、放送局、雑誌・書籍等の出版会社、簡単に言って<情報産業界>の社員等も含まれる。これらに登場したり、執筆したりしている者も含まれる。
 なお、別の論点だが、情報産業の中では「広告・宣伝」がむしろ最重要の業務であって、新聞社、放送会社のほとんどは、かなり、又はほとんど「広告・宣伝」業者でもある。「広告・宣伝」企業の一員であるにもかかわらず、<ジャーナリスト>などと自分を考えない方がよいと感じる者もいっぱいいる。
 一度誰かが調査・研究すればよいと思われる。
 テレビ番組の制作者・構成作家、新聞の論説委員・記者、雑誌の編集者等々には、かりに大学出身者だとして、いったいどの学部出身者が多いか? 「文学部」ではなかろうか。
 表向きのテレビ・コメンテイター類や論壇?雑誌の執筆者ではなくて、日本の「知的」雰囲気を形成しているのは、じつは、テレビ番組の制作者・構成者、雑誌の編集者等々、だろう。

1650/加地伸行・妄言録-月刊WiLL2016年6月号。

 「おかしな左翼が多いからおかしな右翼も増えるので、こんな悪循環は避けたい」。
 平川祐弘「『安倍談話』と昭和の時代」月刊WiLL2016年1月号(ワック)。
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 <あほの5人組>の一人、加地伸行。月刊WiLL2016年6月号p.38~より引用。
 A「雅子妃は国民や皇室の祭祀よりもご自分のご家族に興味があるようです。公務よりも『わたくし』優先で、自分は病気なのだからそれを治すことのどこが悪い、という発想が感じられます。新しい打開案を採るべきでしょう。」p.38-39。
 *コメント-皇太子妃の「公務」とは何か。それは、どこに定められているのか。
 B「皇太子殿下は摂政におなりになって、国事行為の大半をなさればよい。ただし、皇太子はやめるということです。皇太子には現秋篠宮殿下がおなりになればよいと思います。摂政は事実上の天皇です。しかも仕事はご夫妻ではなく一人でなさるわけですから、雅子妃は病気治療に専念できる。秋篠宮殿下が皇太子になれば秋篠宮家が空くので、そこにお入りになるのがよろしいのでは。」p.39。
 *コメント-究極のアホ。この人は本当に「アホ」だろう。
 ①「皇太子殿下は摂政におなりにな」る-現皇室典範の「摂政」就任要件のいずれによるのか。
 ②「国事行為の大半をなさればよい」-国事行為をどのように<折半>するのか。そもそも「大半」とその余を区別すること自体が可能なのか。可能ならば、なぜ。
 ③ 「皇太子はやめるということです。皇太子には現秋篠宮殿下がおなりになればよい」-意味が完全に不明。摂政と皇太子位は両立しうる。なぜ、やめる? その根拠は? 皇太子とは直近の皇嗣を意味するはずだが、「皇太子には現秋篠宮殿下」となれば、次期天皇予定者は誰?
 ④「仕事はご夫妻ではなく一人でなさる」-摂政は一人で、皇太子はなぜ一人ではないのか?? 雅子妃にとって夫・皇太子が<摂政-治療専念、皇太子-治療専念不可>、何だ、これは?
 ⑤雅子妃は「秋篠宮家が空くので、そこにお入りになるのがよろしい」-意味不明。今上陛下・現皇太子のもとで秋篠宮殿下が皇太子にはなりえないが、かりになったとして「空く」とは何を妄想しているのか。「秋篠宮家」なるものがあったとして、弟宮・文仁親王と紀子妃の婚姻によるもの。埋まっていたり、ときには「空いたり」するものではない。
 C「雅子妃には皇太子妃という公人らしさがありません。ルールをわきまえているならば、あそこまで自己を突出できませんよ。」 p.41。
 D「雅子妃は外にお出ましになるのではなくて、皇居で一心に祭祀をなさっていただきたい。それが皇室の在りかたなのです。」p.42。
 *コメント-アホ。これが一人で行うものとして、皇太子妃が行う「祭祀」とは、「皇居」のどこで行う具体的にどのようなものか。天皇による「祭祀」があるとして、同席して又は近傍にいて見守ることも「祭祀」なのか。 
 E「これだけ雅子妃の公務欠席が多いと、皇室行事や祭祀に雅子妃が出席したかどうかを問われない状況にすべきでしょう。そのためには、…皇太子殿下が摂政になることです。摂政は天皇の代理としての立場だから、お一人で一所懸命なさればいい。摂政ならば、そ夫人の出欠を問う必要はまったくありません。」
 *コメント-いやはや。雅子妃にとって夫・皇太子が<摂政-「お一人で一所懸命」、皇太子-「出欠を問う必要」がある>、何だ、これは? 出欠をやたらと問題視しているのは加地伸行らだろう。なお、たしかに「国事行為」は一人でできる。しかし、<公的・象徴的行為>も(憲法・法律が要求していなくとも)「摂政」が代理する場合は、ご夫婦二人でということは、現在そうであるように、十分にありうる。
 以下、p.47とp.49にもあるが、割愛。
 この加地伸行とは、いったい何が専門なのか。素人が、アホなことを発言すると、ますます<保守はアホ>・<やはりアホ>と思われる。日本の<左翼>を喜ばせるだけだ。

1546/櫻井よしこを取り巻く人々-月刊正論編集部とその仲間たち。

 月刊正論編集部が今年3月に、その別冊29号として、<一冊まるごと櫻井よしこさん>という雑誌(一冊の書物のような)を発行している。
 これを私が購入するはずがない。同誌の通常の6月号末尾によると、編集部を構成するのは、以下のとおり。
 (代表・編集人)菅原慎太郎、(編集部)安藤慶太・溝上健良・内藤慎二・八並朋晶
  <一冊まるごと櫻井よしこさん>を発行するくらいだから、よほど櫻井よしこに傾倒している(または「商売」のために最大限に利用している)人々なのだろう。
 菅原慎太郎は、編集人(編集長)としての最初の編集後記(「操舵室から」)に、月刊正論に異動することとなりE・バークを思い出して読もうと思ったが結局読めなかった、というようなことを書いていた。
 すでにこれだけでも、菅原慎太郎の「水準」が分かる。
 第一、エドマンド・バークという「保守」主義者の名前を知っている。しかし、「保守」的というだけでこれを思い出すというのは、それまではそんなことを感じずに済む産経新聞社内の部署にいたということを示す。
 第二に、読まなかったのにわざわざ上のことを書くというのは、私もE・バークの名くらいは知っているのですよ、と言いたかったに違いない。
 そうでなければ、わざわざ書かないはずだ。
 月刊正論の編集代表者が、かりに万が一事実でも、レーニン全集を全巻揃えて自宅に所持しています、とは書かないだろう。
 ネット上で分かる、櫻井よしこが「理事長」の国家基本問題研究所の「役員」名簿(「役員紹介」欄)を見ると、興味深い。 
 いろいろな人がいる。つぎの二人も、「評議員」だ。
 ・立林昭彦/月刊WiLL編集長。 ・花田紀凱/月刊Hanada編集長。
 あれあれ、今年になってたぶん1月に<保守系>三誌は「同人誌」のごとくになっていると書いたのだったが、月刊正論編集部は上記のとおりだとして、あとの二雑誌の編集長もまた、櫻井よしこを理事長として戴く「国家基本問題研究所」の「評議員」なのだった(2月頃に気づいていた)。
 こうなると、<保守系>三誌に繰り返して、頻繁に<櫻井よしことその仲間たち>が登場していることは、謎でも何でもない。
 興味深い氏名は、他にもある。副理事長の田久保忠衛の名前は、もう書いた。
 平川祐弘/理事、屋山太郎/理事、加地伸行/評議員。
 「研究顧問」4名のうち2名-加地伸行・平川祐弘
 ついでに、「客員研究員」の1人-藤井聡
 以上の人々を全くかほとんどか、あるいはひどくか、信用していない。
 屋山太郎、田久保忠衛について、何度か触れた。
 あえて記しておきたいのは、天皇譲位問題について<アホの4人組>とこの欄で称した4人のうち2人が(櫻井よしこを含めて)この研究所の役員であり、加地伸行を加えて(ヒアリング対象になれば平川祐弘らと似たことを言っただろうという意味で)<アホの5人組>と称した5人のうち3人が、この研究所の役員だ、ということだ。
 さらには何と、この研究所の「研究顧問」4名のうち2名は、<アホ>仲間(加地伸行・平川祐弘)だ
 以上に明記した人々は、もうどうしようもないだろう。
 一方、どうしてこの研究所の役員なのだろうかと感じる人々もいる。
 そのような人々には、とくに言いたい。
 国家基本問題研究所の「役員」をしていて、正確には櫻井よしこを「理事長」とするような「研究」所の「役員」の肩書きを付けていて、恥ずかしくないのですか、と。

1488/日本の保守-小川榮太郎とその日本の「保守」批判。

 小川榮太郎は、かなり、又はきわめて、鋭敏な「保守主義」者だ。
 小川が、ほとんど適切に平川祐弘の天皇論・譲位制度反対論を批判し、「日本の保守はじつに危うい」と的確に指摘していることは、すでに言及した。
 月刊正論3月号(産経、1917年)では小川は、<「保守主義」者宣言>と題して、つぎのように書く。保守とは何か、自分にとっての保守、というのがおそらく執筆依頼された主題なので、このような批判的叙述をするのは少しは勇気が必要だっただろう。p.76-。旧かな遣いは勝手ながら現代かな遣いに変えた。
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 「戦後イデオロギーは、今や完全に全日本人の遺伝子に浸透し、保守的な『生き方ないし考え方の根本』そのものが、日本人から失われてしまった。保守を自称する人達も例外ではない」。
 安倍支持保守・安倍批判保守、熱烈天皇主義者、理論派保守(反リベラリズム・バーク・福田恆存・アメリカ共和党に依拠)等々、「様々な自称・他称保守」を見ても、保守的な『生き方ないし考え方の根本』を体現する人は「殆ど見当たらない」。
 「天皇陛下万歳を唱えながら、排他主義のはけ口にしているだけなのかもしれない」。
 蓮舫を批判しつつ「職場では権利の主張に余念がない」かもしれない。等々。
 要するに、「近年保守的な標語が世上に乱舞している状況は、ネットの断片的な情報によって過激化したナショナリズムと評すべきであって、保守的な人間像、保守的なエートスの蘇りではない」。
 「ナショナリズムを否定するつもりは毛頭ない」が、「本当に日本の核になるもの」を「保守」したいのなら「その奥に踏み込まねばならぬ」。「本当に消えつつあるのは、日本人が歴史の持続の中で鍛えあげてきた人間像そのものなのだ」。
 日本が失われるのは「反日勢力に否定された」からではない。「真に侵され、危機に瀕しているのは日本の外被ではない、我々の内側に息づいているべき日本の方なのだ」。「その記憶を取り戻す事こそが『保守』でなくて何なのだろう」。 
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 自分であればこのような表現の仕方はしない、又はできない、と感じはする。
 しかし、小川榮太郎が単純な「安倍支持保守」や「熱烈な天皇主義者」を<保守主義>者と見ていないことはよく分かる。
 秋月瑛二にとつては、「保守」という言葉で自分を意識するか自体も大した問題ではない。がともあれ、「反共産主義」や「反左翼」の意味では<保守>なのだろうという思いはある。
 そのような<保守>感情からすれば、渡部昇一・櫻井よしこらのアホの4人組、加地伸行を含めるとアホの5人組らの「観念保守」は、平川祐弘・八木秀次を含めて、批判されるべき、危険視されるべき人物たちだ。
 そのような気持ちと、小川榮太郎が述べている「保守主義」には、少なくとも部分的には、合致点があるように考えられる。

1486/天皇譲位問題-産経新聞社・月刊正論の困惑と怨念。

 天皇譲位問題-往生際の悪い産経新聞社・月刊正論。
 昨年夏以降の天皇譲位問題の発生とその帰趨は、少なくとも内部的には産経新聞社を困惑させ、混乱させたと思われる。
 もともとの主張は、当時又はのちの「アホの4人組(加地伸行を含めて5人組でもよい)」の主張と同じで、譲位反対・摂政制度利用論だったようだ。
 産経新聞は昨年8/06社説(主張)で、とくに小堀桂一郎の言を紹介したりして、このような方向の主張をしている。
 但し、世論調査の結果と大きな齟齬がでてきたことは、意識したに違いない。
 それでも、記憶に頼れば、阿比留瑠比は、<世論調査結果に一喜一憂しないで…〔じっくりと正しい方向へ〕>という旨を書いていた。産経や阿比留にとって「喜」となる調査結果、「憂」となる調査結果は何かと思いめぐらさせ、それらが推測できそうで、かなり興味深かった。
 11月のヒアリングの頃には社としての主張を確定していたのかどうかは、私にははっきりしない。購読者でないので、いつ頃に転じたのか分からないが、12/23日社説では、「今の陛下の一代に限り、特別措置法で譲位を実現する方向性が出ている。/陛下のお気持ちを踏まえ、できるだけ早く見直す観点からは、自然な流れではないだろうか」となっており、その後はこの線の主張をしてきている。
 世論を完全に無視できず、かつ皇室典範全面改正も認めたくない、という、政府・自民党がもともと提供しようとしていた折衷案的解決にすがったことになるのかもしれない。
 というわけで、産経新聞と譲位問題には現時点では語ることはほとんどないとも言える。
 しかし、同社発行の月刊正論上の「教授」・「先生」はなおも、<ぐじゃぐじゃ>と述べている。「負け犬の遠吠え」というか「敗者のルサンチマン」というか。
 3月上旬辺りが最終編集だろうか、月刊正論5月号(産経)「メディア裏通信簿」欄によると、以下。
 ①「教授」-「天皇陛下のご意思に基づく法整備と退位は憲法上の疑義がある」。「先生」-「完全に憲法違反だぜ」。
 ②「教授」-「摂政設置や国事行為の代行という選択肢もあると指摘されているのに、あえてその方向をとらず、退位にこだわったのは、天皇陛下が摂政に否定だったからでしょう。そういう意味でも〔=天皇の意思によるのだから〕退位制度は国民や国会の意思という理屈には無理がある」。
 上の①については、「おことば」後の記者会見の際に「内閣の助言の承認により」発したという説明を今上陛下はなされた。また、NHKによる放送を予め政権中枢が全く知らなかったとは考え難い。さらにもともと言えば、今上陛下にも一人間としての意思や思考は当然にあるので、その表明を一切封じてよいのか、「国政」に結果として影響を与えることになるのか否かは「お言葉」の時点ではまだ分からない、といった論点もある。
 ②については、もともと摂政設置と国事行為委任法では天皇の行為の全てをカバーできない部分があるという原理的・基礎的な問題点がある。また、「天皇の意思」によるからと言うが、国会が自立的に法律を改正しその原案・法律案を内閣が自立的に作成するということに問題はないだろう。自立性を正面から否定するのはむつかしい。「教授」や「先生」も、政府が改正準備を始めたあとの、彼らにとって賛成できる皇室典範の非改正、現状維持であれば、それがいかに今上陛下の明示の意思表明にもとづくものであっても、形式や手続を問題にしないのだろう。
 そういう中味よりも、もしこれらを正々堂々と主張したいならば、月刊正論の最後の辺りの、「覆面」雑談記事でではなく、産経新聞の「正論」欄とか、あるいは<誰が正しい譲位否定論を潰したか>とでも題した論考を月刊正論にでも掲載すべきだろう。
 そうしないで覆面をかぶって雑談のごとくしゃべっているのは、じつに諦めの悪い、怨念丸出しの、印象のよくないことだ。
 ところで、「教授」は月刊正論も含めて原稿執筆依頼を受けて、執筆して校正・見出しつけにかかわることがあるらしい(p.335)。
 月刊正論に小さくとも必ずのように登場する、「教授」のごとき主張をしかつ恨み節も述べそうな覆面人間は、八木秀次、という人ではないか。
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 同欄から追加の引用。社説には現れていない、産経新聞又は月刊正論編集部の<本音>や<困惑>がかなり分かる。
 月刊正論2016年11月号p.319〔9月上旬に最終編集か〕。「先生」-「俺たち保守派は伝統と法にもとづいて天皇が政治的決定をしないように主張すべき」だし、それが「天皇の立場を守ることになる」。「月刊正論10月号で終身在位制の意義を強調して、ご譲位を遠回しに否定した八木秀次が批判されている」が、「間違っているのは、どっちなんだ」。
 月刊正論2016年12月号p.308〔10月上旬に最終編集か〕。「先生」-「SAPIO11月号では小林よしのりが…男系維持派の渡部昇一や八木秀次たち保守論客をバカみたいな絵で描いていたな」。
 「教授」-「ひどい描き方ですね。しかも名前を書いていない。文句を付けられないように、わざと書いていないんでしようね」。
 /名前を書いていないのは、「教授」も「先生」も同じで、かつ似顔絵もない〔秋月〕。
 同p.309〔10月上旬に最終編集か〕。「編集者」-「産経も読売も、自分たち自身が本音では『困惑』している当事者でもあるから、はっきりものが言えなくて…。」
 「先生」-「少なくとも、月刊正論ではもっと〔譲位に対する〕反対・慎重論を明記して、議論を喚起すべきじゃないか」。
 「編集者」-「また、そんな厳しいことを。……いろいろ考えるとなかなか…。…を読んでも、そこのところを悩んでいるのが、分かるじゃないですか、勘弁してください」。等々。

1481/天皇譲位問題-小林よしのり・天皇論平成29年の一部を読む①。

 ○ 小林よしのり・天皇論平成29年(小学館、2017)のp.479以下を読んだ(又は拝見した)。
 入手が遅れたのは、主題についての関心の薄さ、「観念保守」(=小林よしのりが「自称保守」とか称しているものに近いかもしれない)の文章を思い出すことへの嫌悪にもよる。 
 ○ 最後の方の p.544に、小林が批判の矛先を向けている8名の人物の顔の似顔絵が出てくる。
 ちなみに、昨秋あたりの月刊正論(産経)はこの似顔絵化を、<卑劣>だとか批判していた。
 しかし、小林よしのりの絵から、私でもかなり人物名を特定できる。しかるに、月刊正論(産経)は最終頁あたりで「教授」・「先生」・「女史」等とだけ冠名する人物を登場させて、個人名を隠したままで勝手な?ことを言わせている。
 良心的なのはまだ小林よしのりで、月刊正論編集部(産経)の方が<卑怯>だろう。
 元に戻る。8名のうち、左の2名はすぐには分からなかったが、どうやら加瀬英明と加地伸行らしい。
 残るは、右から、八木秀次、渡部昇一、小堀桂一郎、竹田恒泰、平川祐弘、櫻井よしこ。ほんの少し頭を覗かせているのが大原康男かと思われるが、さしあたり計算から省く。
 上の8名のうち政府・天皇関連有識者会議のヒアリング対象者は、八木秀次、渡部昇一、平川祐弘、櫻井よしこの4名
 なんと、秋月瑛二が「観念保守」と批判し、<アホの4人組>と酷評した4名と全く同じ。100%の合致だ。
 しかも、上の点はかりにさておいても、8人のうち4名が該当するだけでも、相当な<打率>だ。なお、大原康男を含めても、4/4.3くらい、および4/8.3くらいの高い<打率>になる。
 小林よしのりの上の基本的な感覚または彼らの論旨(譲位反対論)に対する非難は、まことに健全だ。
 ○ 加地伸行がヒアリング対象者だったとすれば、平川祐弘と同じかさらに低レベルの発言をしていた可能性がある。 
 たぶん昨年中に、西尾幹二は(確認しないが)月刊正論あたりでたしか天皇・皇室問題で加地伸行と対談していたが、加地の発言にほとんど頷くばかりで、容喙していなかった。加地の発言のあまりのヒドさに思わず、私は当該雑誌自体を放り投げたほどだ。
 もっと前にも、西尾幹二と加地伸行の二人は天皇・皇室問題でかなりひどい対談か論考を載せて話題になったらしい(これもかすかな記憶はある)。
 西尾幹二は、ときに一緒に酒呑みするくらいならよいが、加地伸行レベルの人物と雑誌用の対談などはしない方がよいと思われる。せっかくの高名を辱めるだけだろう。
 ○ とここまで書いて、まだ小林よしのり著の内容にはほとんど立ち入っていない。
 これまた連載にするしかない。


1383/日本の保守-悲惨な渡部昇一・加地伸行。

 天皇譲位問題についての、月刊WiLL9月号(ワック)の渡部昇一、加地伸行、百地章、月刊正論9月号(産経)の渡部昇一、八木秀次、竹田恒泰、月刊Hanada9月号(飛鳥新社)の高森明勅、に触れる。
 あまりにヒドいのは、渡部昇一、加地伸行だ。この二人は、「摂政」の制度の利用で(現実的には)足りるとするが、その際、現行の皇室典範(法律の一つ)が定める「摂政」に関する規定の内容を全く無視している。
 渡部昇一は「天皇がご病気のとき」という要件を勝手にでっちあげており(妄想しており、月刊正論p.56)、加地伸行は「摂政」制度の利用は当然に可能だという前提(思い込み)に立っている(月刊WiLLp.44以下)。
 こうした、議論の作法自体をわきまえない「論考」が保守系とされる月刊雑誌の冒頭近くに置かれ、表紙等でも重要視されていることは、現在の日本の「保守」論壇の悲惨さを曝け出している。
 「保守」言論人のすべてが渡部や加地のごとくではないだろうが、上のような雑誌の編集部が原稿を依頼した十人に満たない中に、皇室典範の規定を一瞥することすらしないで天皇・皇室問題を「論じる」者がいるのだから、「保守」論壇の劣化・悲惨さは明らかだ。
 高森明勅が引用しかつ論及しているが(月刊Hanada、p.293)、天皇が未成年のとき以外に「摂政を置く」と皇室典範が定めている条文は、つぎのとおりだ。第16条二項。
 「天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く。」
天皇陛下の談話以前に書いた原稿だと弁明するかもしれないが、陛下ご自身が問題は「摂政」制度利用では解決されえないことを明言された。
 また、高森明勅は上の条文の解釈に踏み込みつつ(これは当然の作業だ)、「陛下がお考え」の譲位と摂政設置は「似ても似つかない」と結論している。
 詳論しないが、私もまた、上の条文が定める要件は充たされていないだろう、と考える。
 渡部や加地は、天皇・皇室に関する自らのイメージと理解でもって「摂政」・譲位問題を議論している。愚昧きわまりない。
 渡部や加地は、結果としては、現在の天皇陛下が「精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができない」状態にある、と主張していると理解される可能性すらある(誤解だが)。
 百地章と八木秀次はさすがに皇室典範の上の条項を意識しているが、二人ともに<柔軟な解釈>をして適用することを主張または示唆していることが興味深い。
 しかし、このような論法は皇室典範の<解釈による実質的改正>の可能性を説くもので、支持し難い。<柔軟な>解釈なるものは、法的安定性を損なうことにもなる。
 また、百地や八木の解釈がほぼ一致して採用されるとは限らず、正面からこれを説けば、世論はもちろん、「皇室会議」での議論も紛糾するだろう。
 竹田恒泰が言うように(月刊正論p.75)、皇室典範の改正か「特別措置法」制定しかないだろう。立ち入らないが、竹田が後者を主張している根拠は必ずしも十分ではない。特別措置法も(現天皇についてのみ適用する、と竹田はイメージしているのだろうか ?)、いったん成立すれば「制度」(しかも皇室典範の特別法として優先する)になってしまうことに変わりはない。
 問題は、天皇・皇族の高齢化を避けることはできず(喜ばしいことかもしれないが)、いわゆる「高齢化」社会を想定していない法律(皇室典範)が60年以上も改正されることなく存在し続けていることにあるだろう。
 加地伸行が「暴力革命を支持する勢力」による譲位・退位の強制がありうるとして、「退位規程」を作るのに反対しているのは、一見もっとものように見えて、現行の制度・皇室典範についての知識のなさを再び示している。
 加地伸行によると、「議会で過半数を占める特定勢力が、議会の議決によって退位を可能」とする危険もあるのだ、という。
 皇室典範を法律ではなく天皇(・皇室 ?)が定める「家法」にせよとの主張ならばまだ分かる。しかし、憲法自体を改正しないとこれも困難だ。
 憲法第2条「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範 の定めるところにより、これを継承する」。
 加地は、この条項も知らないで適当な文章を書いて、小遣い銭を貰っているのだろう。
 むろん、個別案件の適否は、国会が決めるのではなく、現行の制度を前提にすれば「皇室会議」が議決することになろう。
  「暴力革命を支持する勢力」が「議員」の過半数を占める事態は抽象的には想定できるが、そのような事態にな っているのであれば、現憲法の天皇条項自体が廃止・削除されているのではないか。
 ところで、現皇室典範第28条はつぎのように定める。
 「1 皇室会議は、議員十人でこれを組織する。
  2 議員は、皇族二人、衆議院及び参議院の議長及び副議長、内閣総理大臣、宮内庁の長並びに最高裁判所の長たる裁判官及びその他の裁判官一人を以て、これに充てる。
  3 議員となる皇族及び最高裁判所の長たる裁判官以外の裁判官は、各々成年に達した皇族又は最高裁判所の長たる裁判官以外の裁判官の互選による。」
 マスコミによる外からの「煽動」も考えられるが、基本的には、これらの「議員」となる人物が信頼できないとなれば、日本は、国家と諸制度自体が「脆うい」状況にある、ということになろう。
 加地伸行は、上の規定もおそらく知らないままで原稿を書いているのだろう(摂政を置くことも個別には皇室会議の議決が必要)。
 渡部昇一もそうだが、どうして、このような人物が「保守」系雑誌に、よりにもよって天皇・皇室問題について、登場してくるのか。
 嘆かわしい、悲惨な状態だ。
 ついでに。天皇陛下の「ご負担」軽減というとき、①憲法上明記された国事行為、②その他の「公的」行為、③祭祀を含む「私的」行為、を区別して論じてもらいたい。百地、八木、竹田の論考も丁寧にこの問題に言及してはいない。
 法律、政令の改廃に対する御璽押印と署名だけでも(慣行上または法制上、公布=官報掲載のために必要だ。公布自体は憲法上の国事行為だ)、おそらく一年に数千件にのぼるだろう。

1238/安倍首相が靖国神社を参拝してなぜいけないのか。

 〇朝日新聞12/27朝刊は「狂い咲き」をしていた。
 安倍首相靖国参拝をうけて「参拝制止を一蹴」が最大の活字での一面橫見出しになるのだから、奇怪な新聞だ。
 毎日新聞も一瞥してみたが、かなり似ている。
 〇日本の首相の靖国神社参拝には種々の論点があることを、あらためて考えさせられる。
 安倍首相が堂々とむろん疚しい心理など一切示さずに発言していたのには感動したが、同首相の同日の「談話」の内容を全面的に支持しはしない。わざわざ談話など出し、また外国語訳して各国に伝えることをしなければならないのは、本来は異常なことだ。
 それよりも、<不戦の誓い>をすることは構わないが、「日本は、戦後68年間にわたり、自由で民主的な国をつくり、ひたすらに平和の道を…」等と述べて戦後日本を全体として肯定的に評価しているようであるのは、安倍本来の<戦後レジームからの脱却>という思想とは少なくとも完全には合致していない、と感じる。ともあれ、それは政治的判断の混じった「談話」だとして、ここではこれ以上は触れない。
 アメリカは自国の都合と利益のために「失望」という声明を出した。これを、朝日や毎日は「援軍」のごとく理解して喜んでいるようだ。このアメリカの立場にも触れないが、靖国神社の祭神となっている(合祀されている)いわゆるA級戦犯を作り出したのは他ならぬアメリカ主導の「東京裁判」であったのだから、<A級戦犯認定=東京裁判>批判との印象が生じる可能性のある靖国神社参拝を、いかに現在の「同盟国」の首相の行為であろうとも、少なくとも素直には支持・応援できないだろうことは不思議ではない。靖国神社参拝は、従って当然に、「反米」的性格または側面をもつに至っている、とも言える。
 〇日本の首相の靖国神社参拝についての種々の論点については、この欄で断片的にせよ何回も言及してきた。論点の所在と簡単なコメントを記しておく。
 第一に、憲法上の「政教分離」に反しないか。12/26朝刊では朝日新聞よりも毎日新聞がこの論点の所在に触れて批判的な記事を書いている。そして、平野武(龍谷大名誉教授)の<首相在任中は避けるべき>との旨のコメントを紹介している。この点にやや立ち入れば、月刊WiLL2014年1月号で加地伸行が、「平野武という人物」が伊勢神宮「遷御の儀」に安倍首相が臨席したことを「政教分離に反し、違憲性があると言う」と紹介したうえで、「平野某は政教分離ということの初歩的な意味も分かっていない」等と批判している(p.18)。平野武にとってみれば、一貫した主張なのかもしれない。なお、社民党・福島瑞穂も今回の靖国参拝を「政教分離」違反だと主張したらしい。
 だが、この欄でも述べたことがあるが、「政教分離」違反であるならば、A級戦犯合祀問題以前の憲法問題であり、吉田茂も佐藤栄作も中曽根康弘も小泉純一郎も憲法違反の行為をしてきたことになる。
 毎日新聞はこれまでの首相靖国参拝のそのつど、「政教分離」違反または疑いという報道・主張をし続けてきたのだろうか。今回に限って、またはA級戦犯合祀以降に限って「政教分離」違反という論点を持ち出すのは、論理的には成り立ちえないことだ。
 それに何より、毎年正月の4日あたりに首相が伊勢神宮に参拝することはほとんど「恒例」になっているが、伊勢神宮もまた戦後は神道という宗教の一施設であるところ、毎日新聞は(朝日新聞も)何ら問題にしてきていないのではないか。そのくせ、靖国神社についてだけ「政教分離」違反問題を持ち出すのは論理的に完全に破綻している。なお第一に、社民党が民主党と連立政権を組んで福島瑞穂が大臣だったときもあったかと思うが、民主党の鳩山由紀夫も菅直人も野田佳彦も首相として伊勢神宮参拝をしたはずだ。民主党・社民党連立政権時代、福島瑞穂は、伊勢神宮正月参拝に反対する旨を大々的に主張したのか? 第二に、上記の加地伸行の文章によれば、平野武は首相の伊勢神宮正月参拝は(少なくとも明示的には)問題にしていないらしい(p.19)。学問的に一貫させるつもりならば、首相の伊勢神宮正月参拝を「違憲」視する大?論文を書くべきだろう。
 大きな第二に、靖国神社は首相が参拝すべきではない「死者」が祭神として祀られているか。これが最大の問題だが、いくつかの基本的論点やさらに細かな論点に分岐していく。
 朝日新聞の東岡徹は12/27朝刊で「侵略された中国や、植民地支配を受けた韓国の人々には、靖国神社への嫌悪感が強い」とあっさりと書いている。先の戦争は中国「侵略」戦争で、当時は韓国を「植民地支配」していたということを当然のごとく前提にしている。そのような<悪業>をした指導者たちは断罪されるべきであり(だからこそ「A級戦犯」であり)、彼らを合祀する靖国神社参拝はすべきではない、という理屈のようだ。
 上の前提自体に、少なくとも論じられるべき余地がなおある。1+1=2のごとき当然の前提にしてはならない。前者にも大きな疑問があるが、後者の「植民地支配」という概念の使用にも私は疑問をもっている。ドイツ(・ナチス)の侵攻によるチェコ、ポーランド、バルト三国等の支配は「植民地支配」だったのか。同様に朝鮮(大韓帝国)についても「合邦」か少なくとも日本の事実上の施政権の地域的対象の拡大であって、決して「植民地」として支配したわけではないのではないか。この問題はこの欄でまだ言及したことがない、かねてより有してはいた関心事項だ。
 さてここでの基本的な第一の論点だが、かりに日本がかつて「侵略」や「植民地支配」をしていたとして、その当時の(といっても時期により異なるが)日本の政治指導者たちの「責任」はどのように問われるべきなのか。
 上の「政治指導者たち」という言葉の範囲は不明確だ。「東京裁判」法廷は「平和に対する罪」という新奇の犯罪概念を作り出し、<A級>戦犯という犯罪者として刑罰を下した(ということになっている)。
 ここでむろん、「東京裁判」なるものの合法性・正当性、そして具体的な<A級>戦犯者の範囲の特定の正確さ・合理性・適切さ、という別の第二の論点も出てくる。そしてまた、なぜ特定の25名が<A級>戦犯被告として判決をうけ、なぜそのうち7名は「死刑」だったのか?も論点になりうる。 <A級戦犯合祀の神社参拝はけしからん>と主張する者は、「死刑」ではなくのちに死亡した者も含む被合祀者14名(のようだ)のそれぞれの「罪状」をきちんと語り、説明できなければならない。
 「東京裁判」あるいは実質的にはアメリカまたはGHQ任せで「侵略」・「植民地支配」の指導者の範囲を画定してしまうのは、他人・他国任せのじつに無責任なことではないのか。
 なお、7名の死刑が執行されたのは、1948年12/23で今上天皇(当時、皇太子)の誕生日で、むろん偶然ではない(起訴は4/29で昭和天皇の誕生日)。
 基本的な第三に、絞首刑にあった者は生き返らないが、それ以外の者は「終身(無期)刑」を受けた者も日本の再独立後(主権回復後)には関係各国の同意を得て解放され、政治家として活躍した者もいる。そしてその前提として、もはや「犯罪者」扱いはしない旨の国会決議までなされている。そのうえで、「B・C級戦犯」としての刑死者の遺族に対しても遺族年金が給付されている。「A級戦犯」だった者も、犯罪者扱いしてはいけない、と言うことができる。死刑と終身刑の区別が正確にまたは厳格になされたとはとても思われず、終身刑だった賀屋興宣がのちに大臣になったことを考えると、「A級戦犯」としての刑死者(法務死者、昭和殉難者といいうらしい)は、死刑判決でさえなければ、政治家等としてのちの人生を全うできたかもしれない。
 要するに、日本人は「A級戦犯」者をもはや犯罪者として扱ってはいけないのではないか、という論点がある。朝日や毎日は「A級戦犯」合祀を問題にはしても、そしてこれにかかわる昭和天皇の発言らしきものを「政治利用」しつつも、上記の国会決議等のその後の法律レベルの問題にはまったく言及していない。不正確で、不当な記事づくりではないか。
 これに関連して第四に、サンフランシスコ講和条約で主権回復に際して日本が東京裁判の「諸判決を受け容れ」た、ということの意味が論点になりうる。この欄で触れたことがせあるが、民主党の岡田克也が国会・委員会で条約と法律とはどちらが上位かと質問して、サ講和条約(の理解)に日本はその後ずっと拘束されるのではないか旨を主張した論点だ。
 「裁判」と訳そうと「諸判決」と訳そうと本質的な違いはない(渡部昇一の言説は的を射ていない)。この点は、この欄で紹介したが、稲田朋美は私と同旨のことを記していた。
 この問題は、あるいはサ講和条約の当該条文の意味は、終身刑判決を受けた者や期限のきていない有期刑者は、「諸判決」どおりにきちんと執行する(そうしない場合は関係各国と協議し同意を得て解放する、という趣旨を含む)、という趣旨だ、と解釈して差し支えないと考えている。つまり、日本を当事者とする先の戦争が「侵略」戦争だった等の「東京裁判」の基礎にある考え方または歴史認識まで受容したわけではない、と私は理解している。
 とりあえず思い浮かぶのが、以上のような大きな論点、基本的な論点だ。
 A級戦犯も合祀されている靖国神社を日本の首相は参拝すべきではない、という主張の前提にある、A級戦犯=「犯罪者」=「悪い」政治指導者=「侵略」・「植民地支配」をした「悪者=犯罪者」、という理解は、それぞれの等号=同一視の段階で、きちんと吟味すべきではないのか、とりわけ日本の報道機関は。中華人民共和国や大韓民国の「御用新聞」(・ご注進機関)でないかぎりは。
 その他、「村山談話」などというややこしいが大きな論点もあったが、今回はこれくらいで。

1218/月刊正論(産経)・桑原聡は適菜収のいったい何を評価しているのか。

 〇何度も書いたことだが、月刊正論(産経新聞社)編集長・桑原聡は同2012年5月号の末尾の編集長欄とでもいえる「操舵室から」一頁の中で、「編集長個人の見解だが、橋下氏はきわめて危険な政治家だと思う」、「橋下氏の目的は日本そのものを解体することにあるように感じるのだ。なぜ…特集を読み判断していただきたい」、とほとんど理由・論拠を示すこともなく明言した。
 以下はたぶんまだ触れていないと思うので、記録に残しておきたい。

 月刊正論の翌月号、つまり2012年6月号の「編集者へ/編集者から」の欄で内津幹人という人が、前号の「操舵室から」について、「民意」という語が8回、百文字に一回以上出てきた、「こういう書き方もあるのか、と学んだ」と皮肉っぽく記したのち、次のように感想を記した。
 「編集長個人の見解だが--これほど自信を感じさせる書き方はない。”個人”以外何百万人が異議を唱えても、俺は勝つ。/特集を読み判断していただきたい--と結ぶ。/編集長はいいなあ、と思う。よく、
男は一度は野球の監督をやりたい、というが、編集長と較べたら子どもの遊びだ」。

 どう読んでも、この文章は前号の桑原聡編集長の文章に対する<皮肉>であり、かつ隠してはいるがかなり批判的な感想の文章だ。

 これに対して、同号の「編集者から」は、上に引用した部分に言及せず、投書者(内津幹人)の後半の叙述の一部を採用して「新聞が橋下氏を取り上げなければ『大阪のバカ騒ぎは収まる』というご指摘はその通りですね。無視こそが最強の意思表示であることは分かりますが、それではメディアの責任は果たせないと思います。悩ましいところです」と書いている。これが全文で、上に引用した「編集長個人の見解だが」、「編集長はいいなあ、と思う」等を含む文章への反応は全くない。

 編集者は「編集者から」応えやすい部分のみを扱ったようで、<皮肉>まじりの部分には反応を避けているのだ。
 それとも批判的感想を含む「皮肉」であるということが、まったく理解できていないのだろうか。そうだとすれば、月刊正論編集者は日本語文章の意味・含意を理解できない、きわめて低能力の「編集者」だろう。

 〇上記の月刊正論2012年5月号は適菜収「理念なきB層政治家…橋下徹は保守ではない」を大阪維新の会特集の最初に置き、かつ雑誌表紙に最も大きい文字でそのタイトルを表示していたのだが、相変わらず、月刊正論は適菜収を重用しているようだ。
 月刊正論2013年8月号では「正論壁新聞」執筆者4人の1人として登場し(最近の他号でもそうかもしれない)、内容のきわめて空虚な文章で1頁余りを埋めたあとで、橋下徹慰安婦発言に言及したあと、次のように断じる。
 「橋下の……を見れば、反日活動家であることは明白である。/不思議なことに、こうした人間を支持する『保守』というのが巷には存在するらしい。これも…語義矛盾ではないか」(p.47)。

 月刊正論という産経新聞社発行の「保守系」雑誌の冒頭近くに適菜収が出てくること自体が奇妙なのだが、上の文章も不思議だ。
 橋下徹に批判的な佐伯啓思らもいるが、橋下徹を支持しているまたは彼に好意的であることを明らかにしている人物に、佐々敦行、加地伸行、西尾幹二、津川雅彦らがいる。また、産経新聞社から個人全集を発行しかつ同新聞紙上に連載欄も持っている石原慎太郎は同じ政党の共同代表だ。

 なお、①中島岳志は憲法改正に反対し、週刊金曜日の編集者の一人でもあるという「左翼」または「かくれ左翼」なので、中島が橋下を「保守ではない」と批判したところで、何の意味もない。

 ②安倍晋三は首相になる前も後も橋下徹と個人的に会話等をしているようだ。政治家どうしだから単純に支持か反対かを分けられないが、安倍晋三は橋下徹を「敵」と見ていないことは間違いないだろう。
 さて、適菜収によれば、石原慎太郎、佐々敦行、加地伸行、西尾幹二、津川雅彦らは、かつ場合によっては安倍晋三も、「不思議」な「保守」らしい。そのように感じること自体が、自らが歪んでいることの証左だとは自覚できないのだろう、気の毒に。

 適菜は、月刊正論誌上でこれから毎号、上記のような人物を批判して「改心」させる文章を書き続けたらどうか。
 〇元に戻ることになるが、上記の月刊正論2012年6月号の「編集者へ」の投稿者(内津幹人)は次のようにも書いていた。

 「執筆者たちは、どんなに偉そうに書くときも、チラッと操舵室が浮かぶだろう。そりゃそうだ。原稿料は生活の糧だ。ボクはどの人を読んでも、操舵室が浮かんだ文字をみつけるのが好きだ。編集長がいなければ、こう書きたいのだろうな、と」。

 この投稿者はかなりの書き手であると見える。この文章は、編集者(・編集長)の顔色をうかがいながら、「生活の糧」である「原稿料」を稼ぐために、編集者(・編集長)の意向に添った文章を書かざるをえない雑誌原稿執筆者の性(さが)または苦労を指摘している。

 適菜収は、週刊新潮上では「保守系」論壇雑誌を批判している文章を書いていることはこの欄でたぶん先月に触れた。適菜は、月刊正論に書かせてもらうときは、編集長・桑原聡の顔色(・意向)をうかがいながら原稿を執筆しているに違いない。
 適菜収は「哲学者」という肩書きしかない。大学や研究所等からの給与はなさそうだ。日本の大学は信頼できないが、まともな研究論文が書けて、ある程度の研究業績があれば、日本の大学の教員の職を見つけることは決して困難ではないだろう。おそらく適菜にはそのような研究業績がなく、当然に博士号すら持っていないのだろうと思われる。

 日本の大学も博士号も決して信頼できるものではなく、アカデミズムの世界以外で大学研究者以上の仕事をした人もあるだろうが(小室直樹ら)、適菜収にはそれだけの実力がないことは、二頁を埋めるだけの内容と密度のある文章が書けていないことでも分かる。

 どのような背景・経歴の人物かよく知らないが、あまり大言壮語は吐かない方がよい。もちろん、そのような人物を重用する月刊正論編集部もおかしい。とても40周年とやらを祝う気になれないし、最新号を購入する気もないのである。

1139/今谷明・天皇と戦争と歴史家(洋泉社、2012.07)から再び。

 〇先日の平泉澄とマルクス主義日本史学者・黒田俊雄への言及は、今谷明・天皇と戦争と歴史家(洋泉社、2012.07)p.125以下の「平泉澄と権門体制論」に依ったものだった。今谷著のp.40以下の「平泉澄の皇国史観とアジール論」の中でも、同旨のことが次のように、より簡潔に述べられていた。
 「戦後、黒田俊雄さんが『権門体制論』〔略〕で、平泉の説と同じことをのべています。ところが黒田さんは平泉ののことをぜんぜんいわないのです。自分が発見したように『権門体制論』を立てるわけですが。しかし…エッセンスはすでに…〔平泉の1922年の著〕のなかではっきりとのべられている…。公家・寺社・武家の鼎立、つまり『権門体制論』の萌芽をすでに平泉はいっていたわけです。/黒田さんは平泉のことを知っているはずなのに出さないのですね。論文にも著書にもまったく引用していない。ちょっとアンフェアではないかと思う。いくら平泉の思想なり人柄が気にくわんといっても、業績は業績で生きているわけだから、それを学説として紹介すべきなのにまったく無視している。平泉の業績が戦後忘却されていたことを考慮すると、ある意味で悪質な剽窃といってもいいすぎではないと思う」(p.56)。
 この今谷の論考の初出は1995年で、黒田俊雄の死後のことだ(黒田の逝去は1993年)。黒田の現役のときにまたは生前に、黒田も読めるように公にしてほしかったものだ、という感じもする。
 今谷明は1942年生まれで(今年に70歳)、実質的には中心的な活躍の時期を過ぎているだろうが、上と似たようなことは、元京都大学教授の竹内洋や、<保守派>として産経新聞によく登場している元大阪大学教授の加地伸行についても感じなくはない。
 現役の国公立大学の教授だった時代に、社会主義・マルクス主義あるいは「左翼」(・<進歩派>)の論者・学者たちを明確に(学術的に)批判してきたのだろうか、という疑問が湧くのだが、実際にどうだったかはよくは知らない。
 上の点はともあれ、「左翼」・マルクス主義学者の黒田俊雄が学説の内容よりも<人・名前>でもって引用等に「差別」を持ち込んでいたという旨の指摘は興味深いし、他の「左翼」・マルクス主義学者たちも、今日でも、かつ分野を問わず、似たような、<学問>と言われる作業をしているのだろう、ということは既に書いた。
 
〇上掲の今谷明著の最初にある樺山紘一との座談会「対話・戦後の歴史研究の潮流をふりかえる」(初出、1994年)もなかなか面白い。
 次の三点が印象に残った。
 第一。樺山が、とくにスターリン批判以降、欧米では「わりあい早くから切れて、マルクス主義に距離をおいて古典のひとつとして捉えている」にもかかわらず、「日本の場合、マルクス主義が非常に根強く残ったのはなぜなんでしょう」、「日本の場合はずっと教条として残」った、「日本だけはどうしてなんでしょう」と質問または問題提起して、今谷明が反応している。かかる疑問は、私もまたかねてより強く持ってきた。欧米では<反共>・反マルクス主義は(知識人・インテリも含めて)ほとんど<常識>であり<教養>の一つであるのに、日本だけはなぜ?、という疑問だ。
 厳密には答えになっていないようだが、今谷は次のように語っている。
 ・「経済学で講壇マルキシズムが非常に根強かった」ことと、「労働運動と連動」していて、「革命運動に影響された」ということがあった。
 ・「例えば文革の実情が明らかになるまではマルクス主義はひとつのモデルだった」。「日本の場合はスターリン批判やハンガリー事件があったにもかかわらず、日本のマルクス主義はびくともしなかった」。「日本の歴史学」は非常に不幸で、「昭和四〇年代くらいまで引きずってきた」、「ある意味では非常に遅れた」、「その間の停滞は惜しい」(p.20-21)。
 このあと、今谷は1989年のベルリンの壁の崩壊まで「気づかなかった」と述べ、樺山は「まだ気がついていないようなところもあるような気がしますけど」と反応している(p.22)。この部分は、樺山の感覚の方が当たっているのではないか。
 第二。今谷が、「アカデミズムに全共闘は残らなかったですね。民青系が大学院に残ったので、その後アカデミズムはマルキシズムが強い―特に歴史学は強い」と述べている(p.25)。
 全共闘系はすべてマルクス主義者ではなかったかのごときニュアンスの発言もあるが、全共闘系の中にはマルクス主義者もいたはずだ。従って、上の発言は、大学院に残り、その後大学教員になっていったのは、ほとんど「民青系」、つまり日本共産党系の者たちだ、というように理解できる。そして、その傾向は「特に歴史学は強い」ということになる。
 マルクス主義にも講座派・労農派、日本共産党系・社会党系等々とあったはずなのだが、日本共産党系のそれが「アカデミズム」(「特に歴史学」)を支配した、という指摘は重要だろう。
 上記の第一点、日本におけるマルクス主義の影響力の残存も、日本共産党の組織的な残存と無関係ではない、いやむしろほとんど同じことの別表現だ、と考えられるだろう。
 第三。今谷が、不思議なのは「マルクス主義歴史学がどうだったかという、マルクス主義内部での…学問的な検討・批判が歴史学で行われていない」ことだ、「歴史学の内部で例えばロシアの革命はいったいなんだったのかという再検討すらされていません」、と述べている(p.30)。
 怖ろしい実態だ。おそらく、日本共産党の歴史観を疑い、それに挑戦することは、学界、とくに日本史学界では、ほとんど<タブー>なのだろう。その点ではすでに、「学問の自由」はほとんど放棄されているわけだ。
 日本共産党はマルクス・レーニン主義のことを(正しい)「社会科学」と呼んでいるらしい。
 歴史学に限らないことだが、日本共産党の諸理論自体を対象とする<社会科学>的研究が大規模に行われるようにならないと、日本の人文・社会系の「学問」やそれを行う中心的組織らしき「大学」(の人文・社会系学部)は、それぞれの名に値しないままであり続けるのではないか。

1079/藤井聡と加地伸行と「西部邁・佐伯啓思グループ」。

 〇産経新聞1/24の「正論」欄、藤井聡「中央集権語ること恐るべからず」は、大阪維新の会・橋下徹・上山信一を批判している。
 だが、揚げ足取りと感じられる部分、橋下らの真意を確定する作業をしないままで批判しやすいように対象を変えている部分が見られ、まともなことを書いている部分が多いにもかかわらず、後味が悪い。
 藤井は「『中央政治をぶっ壊す』とはいかがなものか」として上記のタイトルの旨を指摘し、『』内の上山の記述に依拠しているという大阪維新の会や橋下徹の主張を疑問視している。
 上山の著を読んではいないが、藤井の文章中に「現状」という語があるように、一般論として中央政府の破壊・解体を主張しているのではなく、<現在の日本の>中央政府(中央政治)を上山・橋下が問題にしているのは明らかなことだろう。
 また、藤井は、中央(政府・政治)の重要性や中央・地方の相互補完・適正な協調を主張しているものの、その主張・指摘はそのとおりではあるとしても、上山らにおける「ぶっ壊す」が中央(政治・政府)全面的な破壊を意味していることが何ら論証されていないかぎり、橋下徹らに対する有効な批判になっているとは思えない。「ぶっ壊す」とは大きな改革または変革を意味しているだけで(実質的にはそのような趣旨で)、これを「全面的破壊」を意味していると藤井が理解しているとすれば、ひょっとすれば、悪意が素地にあるのではないか。あるいは、批判してやろうという感情の方を優先させている可能性があるのではないか。
 上山信一の著が正しく読まれているとすれば、藤井の、「現下の喫緊の政治課題は教育、医療、福祉の充実だけではない」以下の叙述にはほぼ同感だ。但し、上山が地方政治・地方行政に焦点をあてて「日本における政治の課題は今や社会問題の解決、つまり教育・医療・福祉の充実が最大のテーマ」である、と書いているのだとすると、上山には、藤井のような批判には反論または釈明したいところがあるに違いないと思われる。常識的にいって、災害対応・外交・軍事等における「国」(中央)の役割を否定する公共政策学・行政学等の「総合政策」学部所属の学者がいるはずはないのではないか(上山信一は国家公務員試験を経た運輸省官僚でもあった)。
 というようなわけで、藤井は国・地方関係等についてとくに奇妙なことを書いているわけではないが、それを大阪維新の会・橋下徹らに対する批判として用いるのは疑問で、その点に奇妙さ・不思議さを感じる。
 産経新聞1/29の連載コラム中の加地伸行のタイトルは「『破壊的改善』望んだ民意」で、橋下徹に好意的だ。
 例えば、加地伸行いわく-「橋下市長は偽悪的に<破壊>と言うが、それが実は<改善>であることを大阪府民は百も承知。あえて言えば<破壊的改善>であろう」。
 同じ「破壊」あるいは「ぶっ壊す」についても、このように、つまり藤井聡と加地伸行のように、理解または寛容性?が異なるのは面白い。
 前々回と同じ表現を使えば、こういう違いが同じ産経新聞紙上で見られるのは興味深いことだ。そして、加地伸行の感覚の方が、私はまっとうだと思っている。
 〇ところで、さらに興味深いことがある。
 藤井聡とは、<西部邁・佐伯啓思グループ>(雑誌・表現者の編集顧問はこの二人とされているので、こう称して誤っていないと思われる)の一員と見られ、前回に言及した書物(NTT出版・「文明」の宿命)においても9人の執筆者の一人だということだ。
 この書物の9人の著者のうち(編者は西部邁・佐伯啓思ら三人)、これで、中島岳志、東谷暁、藤井聡と、じつに3人が、橋下徹(維新の会)を批判的に見ていることを明らかにしていることになる(中島岳志は「批判的」どころか真正面から攻撃している)。
 じつに興味深いことだ。再び、西部邁らは本当に「保守」派なのか、という疑問が首をもたげてくる。
 橋下徹を厳しく批判・攻撃している上野千鶴子、(先日某テレビ番組の中で中島岳志らとともに「現場・現実を知らない学者」と橋下徹に揶揄されていた)山口二郎香山リカ野田正彰、日教組、自治労そして日本共産党等が「左翼」だとすれば、藤井聡をも含む<西部邁・佐伯啓思グループ>は、じつは、少なくとも「左翼」と通底しているのではないか? 極端にあえていえば、「保守」のふりをした「左翼」、あるいは「左翼」心情をもった「保守」なのではあるまいか。
 西部邁、佐伯啓思、そして上記グループの全体について断定することはむろん避けるが、そのように指摘したい人物(「雑菌」)が含まれているのは、ほとんど間違いのないことのように思われる。
 このように指摘して愉快がっているのではない。深刻に憂慮しているのだ。 

0648/天皇・皇室論-サピオの小林よしのりと産経新聞の加地伸行。後者はヒドい。

 〇サピオ1/28号(小学館)の小林よしのり「天皇論」の第二回。
 とくに大きな異存はないし、美智子皇后陛下の失語症前後のいきさつなど、知らなかった情報もある。
 最後の方で、1300年以上続いた「天皇の伝統」の力に約200年の「近代合理主義」は到底及ばないとしたあと(p.81)、「奇妙」なのは「雅子妃は祭祀に熱心でないと非難する保守派の者たちが、祈りの奇跡を信じていない合理主義者であることだ」、「皇室にだけ非合理を要求する」な、という旨の言葉がある(p.82)。
 この辺りはややむつかしい。「雅子妃」批判者が「合理主義者」だということの意味と適切さは必ずしもよく分からないところがある。西尾幹二は「(近代)合理主義者」として皇太子殿下ご夫妻を批判しているのか?
 それに、「祈りの奇跡を信じていない合理主義者」という表現からすると、「非合理性」に充ちた<天皇制>の支持者は、「祈りの奇跡を信じ」る者たちだ、と主張しているようでもある。
 たしかに、昭和天皇に限らず、天皇には(合理的に説明できない)不思議な力があったに違いない(だからこそ、古代に<天皇制>が成立したとも言える。皇室の先祖・天照大御神=卑弥呼だと考えなくとも、古代の天皇たちは優れた祈祷者であった可能性も高い)。
 だが、私は<天皇制>支持者だが、「祈りの奇跡」を100%信じるものではない。明治以降でも各天皇は種々の<祈り>をされたはずだが、全てが叶った=実現したわけではないだろう。
 一方、私は、国家や国民のために<祈る>という心情・姿勢自体は強く肯定するものだ。天皇や皇族に限られない。非合理であっても(=合理的とは言えない)何かを<祈る>ことをする「日本人」の心を尊いと思う。<奇跡>が実際に生じなくとも、その発生を願って<祈る>心こそが美しいと思う。
 〇産経新聞1/06「正論」欄加地伸行論考。
 この人は、昨年の正論大賞受賞者だったと思うが、教授(立命館大学)・名誉教授(大阪大学)という肩書きを付けて、よくぞこんな奇妙な文章を書けたものだ。
 まず、西尾幹二に始まる「現在の皇室」についての「論争」の「詳細は十分には心得ないと自ら書いて(告白して)いる。そのような状況で、いかほどの内容の文章を書ける資格と能力があるのか。読者を馬鹿にするな、と言いたい。
 ①最後にこう書く-「陛下御不例が伝聞される今日、皇太子殿下の責任―<無>の世界の自覚が重要である。もしそれに耐えられないとすれば、残る道は潔い一つしかない」。
 皇位に就くことの辞退でも意味するのかと思ったら、続きの最後の一文は、「諫言者」が「七人有れば…天下を失わず」、だ。どうやら皇太子に対する多数の(七人の?)「諫言者」が必要、という趣旨らしい(この点自体も曖昧だが)。結果として、前半にも見られるが、西尾幹二に親近的な論考になっている。
 だが、そもそも(皇太子殿下が)「もしそれに耐えられないとすれば」という文章の意味と根拠は何なのだろう。加地のいう天皇の本質は<無>だというのが正しい又は適切だとして(この点を大した説明もなく折口信夫に依って簡単に断定しているのも気になるが)、皇太子殿下が「それに耐えられない」可能性のあることを十分に肯定している表現だ。
 そのような(現実的)可能性のあることの根拠を、加地は何一つ記していない。これで正論大賞受賞者、教授・名誉教授なのか。
 ②加地によると、西尾幹二に対する批判には次の二傾向がある。一つは「皇室無謬派(皇室は常に正しいとするいわゆるウヨク)」、二つは「皇室マイホーム派(いわゆるリベラルやサヨク)」。そして、いずれも「皇室を誤らせる」と加地は批判している(つまり西尾幹二批判を全体として批判していることに論理的にはなる)。
 だが、私は西尾幹二の昨年の皇室論、とくに皇太子妃殿下攻撃に対して批判的だが、上の二つの「傾向」のいずれでもない。やや意味不明だが皇室は「無謬」だとは思わない。ちなみに、「いわゆるウヨク」の中に西尾幹二の同調者もいたように思う。
 よくぞ簡単に上のように整理?できたものだ。また、この人は中国文学(しかも古代の?)専門の筈だったと思うが、「いわゆるウヨク」や「いわゆるリベラルやサヨク」の主義・主張についていかほどの学識と知見を持っているのだろうか。
 専門外のことに余り口を突っ込むことは、少なくとも新聞紙上で公になる文章を書くことは、やめた方がよい、とたぶん失礼だろうが、言わせていただく。
 正論大賞受賞者、教授・名誉教授の肩書きなら誰でも(かなりの程度は)感心して読んでくれると思っているとすれば(その現実的可能性がある)、大間違いだ。
 こんな文章が産経新聞の目立つところに出るのだから、日本は大変な時代に入っている、とつくづく思う。

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