秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

劉少奇

2164/L・コワコフスキ著第三巻第13章第6節④-毛沢東。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の最終第6節の試訳のつづき。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の展開。
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 第6節・毛沢東の農民マルクス主義④。
 (32)毛沢東とその「急進派」グループは、1966年春、「ブルジョア・イデオロギー」が最も傷つきやすい場所、すなわち大学、に対する攻撃を開始した。
 学生たちは、「反動的な学問的権威たち」に反抗して立ち上がるよう駆り立てられた。学者たちは、ブルジョア的知識で身を固め、毛主義的教育に反対しているのだ。
 毛沢東が長く明瞭に語ってきた内容について、つぎのことが指摘されていた。
 教育を受ける代わりに、時間の半分は学習に、半分は生産的労働に捧げられるべきだ。教員の任命と学生の入学はイデオロギー上の資格または「大衆との連環性(links)」に従うべきであって、学問上の成績によるのではない。共産主義プロパガンダは、カリキュラムの中で最も重要な特徴になる。
 党中央委員会は今や、「資本主義の途を歩む」全ての者の排除を呼びかけた。
 官僚層が毛思想に口先だけで追従して実際にはそれを妨害したとき、毛沢東は、彼以前のどの国のどの共産党指導者たちもあえては冒険しなかった道へと進んだ。彼は、組織されていない若者たち大衆に、毛の反対派たちを破壊するよう訴えたのだ。
 大学や学校は紅衛兵分隊や革命の突撃兵団を設立し始めた。これらは、「大衆」へと権力を回復し、頽廃した党と国家の官僚機構を一掃すべきものとされた。
 大衆集会、行進、街頭闘争が、全ての大都市での日常生活の特質になった(農村部はまだ相当に広く免れていた)。
 毛のパルチザンたちは、「大躍進」が惹起していた不安や欲求不満を巧妙に利用し、それらを経済の失敗について責められるべき官僚たちに向け、資本主義の復活を望んでいると非難した。
 数年間、学校と大学の機能は完全に停止した。毛主義グループは生徒や学生たちに、社会的出自と指導者に対する忠誠さのおかげで、彼らは「ブルジョア」学者の知らない偉大なる真実の所有者だ、と保障した。
 このように鼓舞されて、若者たちの一団は知識をもつことだけが罪である教授たちを苛め、ブルジョア・イデオロギーの証拠を求めて教授たちの家を探し回り、「封建主義の遺物」だとして歴史的記念物を破壊した。
 書物は、まとめて焼却された。
 しかしながら、当局は慎重に、博物館を閉鎖した。
 闘いの呼び声は平等、人民の主権、「新しい階級」の特権の廃絶、だった。
 数カ月後、毛主義者たちは、そのプロパガンダを労働者に対しても向けた。
 このプロパガンダはもっと困難な対象だった。なぜなら、労働者階級のうち賃金が多く安定した部門にいる者たちは、賃金の平等を求めて闘ったり、共産主義の理想を掲げてさらに犠牲を被る、という気がなかった。
 しかしながら、ある程度の貧しい労働者たちは、「文化革命」のために動員された。
 こうした運動の結末は、社会的混乱であり、生産の崩壊だった。
 紅衛兵の中にある異なる分派や労働者たちはやがて、「真の」毛主義の名前でもってお互いに闘い始めた。
 暴力的衝突が多数発生し、秩序を回復するために軍が介入した。//
 (33)つぎのことが、明らかだ。つまり、かりに毛沢東が知の無謬の淵源である自分は全ての批判から超越したところにいる、よって反対者たちは自分を直接に攻撃することはできない、と考えてなかったならば、党の権益層を破壊するために党外の勢力に呼びかける、という危険なことをあえてはしなかっただろう。 
 かつてのスターリンのように、毛沢東自身が党を具現化したものだった。そして、そのゆえに、党の利益という名のもとで党官僚機構を破壊することができた。
 (34)疑いなくこの理由で、文化革命というのは、つぎのような時期だった。すなわち、すでに極端な程度にまで達していた毛沢東個人崇拝(cult)が、スターリンの死の直前のスターリン個人崇拝を-感じられるほどには可能でないが-凌ぐすらするほどの、グロテスクで悪魔的な様相を呈した、という時代。
 毛沢東が至高の権威ではない活動分野は、存在しなかった。
 病人は、毛の論文を読んで治癒した。外科医は「赤い小語録」の助けで手術を行った。公共の集会は、人類がかつて生んだ最も偉大な天才が創った金言(aphorism)を、声を揃えて朗読した。
 追従はついには、毛沢東を称賛する中国の新聞からの抜粋が、ソヴィエトのプレスに読者の娯楽のために論評なしで掲載される、という事態にまで達した。
 毛沢東の最も忠実な側近で国防大臣の林彪(Lin Piao)は(やがて裏切り者で資本主義の工作員だったと「判明」したのだが)、マルクス=レーニン主義研究に用いられている資料の99パーセントは指導者〔=毛沢東〕の著作から取られているはずだ、換言すれば、中国人は毛以外の別の出典からマルクス主義を学習すべきではない、と断言した。//
 (35)もちろん、称賛の乱舞の目的は、毛沢東の権力と権威が掘り崩されるのをいかなるときでも防止することだった。
 毛沢東はエドガー・スノウ(Edgar Snow)との会話で(スノウが<The Long Revolution>,1973年、p.70, p.205で言及したように)、フルシチョフは「彼には個人崇拝者が全くいないので」おそらく脱落する、と述べた。
 のちに、林彪の汚辱と死の後に、毛沢東は、個人崇拝という堕落の責任を林彪に負わせようとした。
 しかしながら、1969年4月、文化革命の終焉を告げる党大会で、毛沢東の指導者としての地位およびその後継者としての林彪の地位は、公式に党規約の中に書き込まれた。-これは、共産主義の歴史で未だかつてなかった事件だった。
 (36)<毛沢東主席の著作からの引用>である「赤い小語録」もまた、このときに有名になった。
 もともとは軍部用のものとして準備され、林彪が序文を書いていたのだが、すみやかに普遍的な書物となり、全ての中国人の基本的な知的吸収物となった。
 これは、市民が党、大衆、軍、社会主義、帝国主義、階級等、関して知っておくべき全てを包含する、加えて多数の道徳的および実際的な助言も付いた、民衆用の教理書(catechism)だった。例えば、人は勇敢かつ謙虚であるへきで逆境に挫いてはならない、将校は兵士を撃ってはならない、兵士は金銭を支払わずに商品を奪ってはならない、等々。
 これには、選び抜かれた訓示文がある。すなわち、「世界は進歩している、未来は輝いている、この一般的な歴史の趨勢を誰も変えることができない」、等々(<引用>, 1976年、p.70)。
 「帝国主義は、つねに悪事を行っているがゆえに、長くは続かないだろう」(p.77)。
 「工場は、徐々にのみ建設することができる。
 農民は、少しずつ土地を耕すことができる。
 同じことは、食事を摂ることについても当てはまる。<中略>
 一呑みでご馳走の全てを飲み込むのは、不可能だ。
 これは、漸次的(piecemeal)解決方法として知られている」(p.80)。
 「攻撃は、敵を破るための主要な手段だ。しかし、防衛なしで済ますことはできない」(p.92)。
 「自分を守り、敵を破壊するという原理は、全ての軍事原則の基礎だ」(p.94)。
 「ある者はピアノを上手に演奏し、別の者は下手だ。彼らが演奏する旋律には、ここに大きな違いがある」(p.110)。
 「全ての性質は、一定の量で表現される。量がなければ、性質もあり得ない」(p.112)。
 「革命的隊列の内部では、正しいか間違っているか、達成したか不足しているか、の区別を明瞭に行うことが必要だ」(p.115)。
 「労働とは何か?、労働とは闘争だ」(p.200)。
 「全てが善だというのは正しくない。なおも不足や欠点がある。
 しかし、全てが悪だというのも正しくない。これもまた、事実に合致していない」(p.220)。
 「僅かばかりの善を行うことは、困難ではない。
 困難なのは、全人生を通じて善を行い、悪を決して行わない、ということだ」(p.250)。//
 (37)文化革命の動乱は、1969年まで続いた。そして一定の段階で、状況を明確に統制することができなくなった。すなわち、多様な分派やグループが紅衛兵内部で発生し、それぞれが、毛沢東の誤りなき解釈なるものを主張した。
 革命の主要なイデオロギストの陳伯達(Ch'en Po-ta)はしばしば、パリ・コミューンの例を引き合いに出した。
 唯一の安定化要因は、軍だった。毛沢東は思慮深く、大衆の議論を管理するようには、また官僚化した指導者たちを攻撃するようには、軍を激励しなかった。
 地方での衝突があまりに烈しくなったときには、軍は秩序を回復させた。そして、地方の司令官たちは革命家たちを助けるのにさほど熱心ではなかった、ということは注記に値する。
 党の組織が大幅に解体してしまったとき、軍の役割は当然にますます大きくなった。
 劉少奇を含む主要な若干の人物を解任するか政治的に抹殺したあとで、毛沢東は、革命的過激主義者たちを抑制するために、軍を用いた。
 闘争の結果として変わった党指導層の構成は、多くの観察者にとっては、いずれの分派にも明確な勝利を与えない、妥協的な解決だったように見える。
 「急進派」は、毛の死後にようやく敗北することとなる。//
 (38)上述のように、1955年と1970年の間には、いくつかの重要な点でソヴィエトの範型とは異なる、新しい変種の共産主義の教理と実践で構成される毛沢東思想の展開があった。//
 (39)1958年1月に毛が宣言したように(Schram, p.94)、永続革命理論が毛沢東思想の根本的なものだ。
 文化革命が進行していた1967年、彼はこう述べた。この革命は一続きの無限の長さの最初の革命だ、そして革命の二つ、三つまたは四つが起きたあとでは全てが良くなっているだろうと考えてはならない、と。
 毛沢東は、安定すればつねに不可避的に特権と「新しい階級」が出現する、と考えていたように見える。
 従ってこのことによって、革命的大衆が官僚制の萌芽を摘み取る、定期的な衝撃的措置が必要になる。
 かくして明らかに、階級または対立がない確定された社会秩序は、決して存在し得ないことになる。
 毛沢東はしばしば、「矛盾」は永遠のもので、永続的に克服されなければならない、と繰り返した。
 ソヴィエトの修正主義者たちに対する毛の追及内容の一つは、その修正主義者たちは指導者と大衆の間の矛盾について何も語っていない、ということだった。
 劉少奇の誤りの一つは、社会は調和し統合するという未来を信じたことだった。
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 ⑤につづく。

2163/L・コワコフスキ著第三巻第13章第6節③-毛沢東。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の最終第6節の試訳のつづき。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の展開。
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 第6節・毛沢東の農民マルクス主義③。
 (19)毛沢東は、1959年7-8月の廬山(Lushan)党会議で自己批判の演説を行い(そのときはむろん公表されなかった)、「大躍進」が党の敗北だったことを認めた。
 彼は、経済計画について何の考えもなかった、石炭と鉄は自発的に動かないで輸送が必要であるとは考えていなかった、と告白した。
 彼は農村部での鉄精錬政策について責任をとり、国は厄災に向かっている、共産主義を建設するには少なくとも1世紀が必要だろうと見ている、と宣言した。
 しかしながら、指導者たちが誤りから学んだので、「大躍進」は全てが敗北なのではなかった。
 誰もが、マルクスですら、過ちを冒す。その場合に重要なのは、経済だけが考慮されるべきではない、ということだ。//
 (20)1960年には広く知られるようになった中国・ソヴィエト紛争は、とりわけソヴィエト帝国主義を原因とするもので、存在はしたものの共産主義の理想や実現方法に関する考え方の差異によるのではなかった。
 中国共産党は、スターリンへの忠誠を熱意を込めて表明するとともに、東ヨーロッパの「人民民主主義」の立場を受け入れる動向もまた示さなかった。
 論争の直接の原因は、核兵器に関して発生した。これに関して、ロシアは、中国が使用を統制する力をもつという条件のもとでのみ、中国に核兵器を所有させるつもりだった。
 ここで列挙する必要はないその他の論争点の中には、アメリカ合衆国に対するソヴィエトの外交政策および「共存」という原理的考え方があった。
 対立の射程は二つの帝国主義国のものであって、共産主義の二つの範型のものではない。このことは、中国はソヴィエトによる1956年のハンガリー侵攻を留保なく是認したが、-断交後のその20年後には-チェコスロヴァキア侵攻を激しく非難した、という事実で示されている。毛主義の観点からは、ドュプチェク(Dubček)の政策は途方もない「修正主義」で、リベラルな考え方による「プラハの春」はソヴィエト体制よりも明らかに「ブルジョア的」だつたのだけれども。
 のちに中国の二党派間の争論が内戦の間際まで進行したとき、両派はいずれも根本的には、換言すれば中国の利益と主体性の観点からは、同等に反ソヴィエトであることが明らかだった。//
 (21)しかしながら、ソヴィエトとの対立の第一段階で中国が示したのは、イデオロギー上の差異に重点を置いていること、新しい教理上のモデルを創って世界共産主義の指導者としてのソヴィエトを押しのけ、または少なくともモスクワを犠牲にして相当数の支持を獲得するのを望んでいること、だった。 
 ときが経つにつれて、中国は、自分の例に従うのを世界に強いるのではなく、ソヴィエト帝国主義を直接に攻撃することで好ましい結果を達成する、と決定したように見える。
 「イデオロギー闘争」、つまりは中国とソヴィエトの指導者たちの間での公的な見解の交換は、1960年以降に継続した。但しそれは、国際情勢に応じてきわめて頻繁に変化した。
 しかし、その闘いは容易に、第三世界への影響力を求める、対立する帝国間の抗争となった。それぞれの敵国〔であるソヴィエトと中国〕は、いずれかの民主主義諸国との<アド・ホックな>同盟関係を追い求めた。
 中国が採用したマルクス主義は、中国ナショナリズムのイデオロギー的主柱となった。同じことは、従前にソヴィエト・マルクス主義とロシア帝国主義の間にも生じたことだったが。
 かくして二つの大帝国は対立し合い、ともに正統マルクス主義だと主張し、「西側帝国主義国」に対する以上に敵対的になった。
 「マルクス主義」の進展は、中国共産党がアメリカ合衆国政府を、主として反ソヴィエト姿勢が十分でないという理由で攻撃する、という状況をすら発生させた。//
 (22)中国共産党内部の闘争は、1958年以降に秘密裡に進行していた。
 主要な対立点は、ソヴィエト型の共産主義を選ぶか、毛沢東の新しい完全な社会の定式を支持するか、にあった。
 しかしながら、前者は、モスクワの指令に中国を従わせるのを望むという意味での「親ソヴィエト」ではなかった。
 対立にあった特有な点は、つぎのように要約することができる。
 (23)第一に、「保守派」と「急進派」は、軍に関する考え方が違った。すなわち、前者は紀律と最新式の技術をもつ近代的軍隊を要求し、後者はゲリラ戦という伝統を支持した。
 これは1959年の最初の粛清(purge)の原因となり、その犠牲者の中には、軍首脳の彭徳懐(P'eng Te-huai)がいた。
 (24)第二に、「保守派」は多かれ少なかれソヴィエトに倣った収入格差による動機づけを信頼し、都市部と大重工業工場群を重視した。
 これに対して「急進派」は、平等主義(egalitarianism)を主張し、工業と農業の発展に対する大衆の熱狂的意欲を信頼した。//
 (25)第三に、「保守派」は、先進諸国にいずれは対抗することのできる医師や技術者を養成するために、全ての段階の教育制度の技術的専門化を主張した。
 一方で「急進派」は、イデオロギー的教化(indoctrination)の必要を強調し、この教化が成功するならば技術的工夫はいずれは自然について来るだろう、と主張した。//
 (26)「保守派」は、論理的には十分に、ロシアと欧米のいずれかから科学知識と技術を求めるつもりだった。
 一方で「急進派」は、科学や技術の問題は毛沢東の金言(aphorism)を読むことで解決することができる、と主張した。//
 (27)一般的には「保守派」はソヴィエト型の党官僚たちであり、技術的および軍事的な近代化と中国の経済発展に関心があった。また、全ての生活領域についての党機構による厳格で階層的な統制が可能だと考えた。
 「急進派」は、近づいている共産主義千年紀というユートピア的幻想に、相当に嵌まっているように見えた。
 「急進派」は、イデオロギーの万能さと、抑圧のための職業的機構によるのではない、「大衆」による(しかし党の指導のもとでの)直接的な実力行使を、信頼していた。
 地域的基盤について言えば、「保守派」は明らかに北京が中心地であり、「急進派」の中心は上海(Shanghai)にあった。//
 (28)両派はもちろん、1946年以降は揺るぎなかった毛沢東のイデオロギー的権威に訴えた。
 1920年代のソヴィエト同盟では同様に、全ての分派がレーニンの権威を呼び起こした。
 しかしながら、ソヴィエトと異なるのは、中国では革命の父がまだ生きており、その毛が「急進派」グループを支持したどころか、事実上はそれを創出した、ということにあった。その結果として、「急進派」構成員たちは、対抗派よりもイデオロギー的にはよい環境にいた。//
 (29)しかしながら、「急進派」は、全ての点についての有利さを活用しなかった。
 1959-62年の後退の結果として、毛沢東は、党指導者たちの中に強い反対派がいることを認めざるを得なかった。そして、彼の力は相当に限定されていたように思われる。
 実際に、ある範囲の者たちは、毛沢東は1964年以降は現実的な権威たる力を行使していなかった、と考えている。
 しかし、中国の政治の秘密深さのために、このような推測は全て、不確実なものになっている。//
 (30)主要な「保守派」は劉少奇(Liu Shao-ch'i)だった。この人物は、1958年末に毛沢東から国家主席を継承し、1965-66年の「文化革命」で資本主義の魔王だとして告発され、非難された。
 彼は共産主義教育の著作の執筆者で、この書物は別の二冊の小冊子とともに、1939年以降は党の必読文献だった。
 その四半世紀後、このマルクス=レーニン=スターリン=毛主義の誤謬なき発現者は、突如として、儒教(Confucianism)と資本主義に毒された人物に変わった。
 批判者たちの主人によると、劉に対する孔子の有害な影響は主につぎの二つ点に見られる。
 劉少奇は、仮借なき階級闘争ではなく、共産主義的自己完成という理想を強調した。また、共産主義の未来は調和と合致だと叙述した。にもかかわらず、毛沢東の教えによれば、緊張と対立は永遠の自然法則だ。//
 (31)1965年末に党内部で勃発して中国を内戦の縁にまで追い込んだ権力闘争は、かくして、対立する派閥間のみならず、共産主義の見方の間の闘いでもあった。
 「文化革命」は一般には 毛沢東が書いて1965年11月に上海で出版した論文によっで開始された、と考えられている。その論文は、北京副市長の呉晗(Wu Han)が作った戯曲を、毛沢東による彭德怀(P'eng Te-huai)の国防大臣罷免を歴史の寓話を装って攻撃するものだと非難した。
 この論文でもって文化、芸術および教育への「ブルジョア的」影響に反対し、国家の革命的純粋さを回復して資本主義の復活を阻止する、そのような「文化革命」を呼びかける運動が、解き放たれた。
 もちろん「保守派」はこの目標に共鳴したけれども、確立されている秩序や自分たちの地位が攪乱されないように、その目標を解釈しようとした。
 しかしながら、「急進派」は何とか、党書記で北京市長の彭程(P'eng Cheng )の解任と主要な新聞の統制を確保し、獲得した。//
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 ④へとつづく。
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