秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

前皇帝家族殺害

2913/R.Pipes1990年著—第17章②。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第三節/Ekaterinburgのボルシェヴィキは監禁を望む。
 (01) Tobolsk には鉄道路線がつながっていなかったので、革命の騒乱にただちには巻き込まれなかった。この時期には「革命」は主として、鉄道を使って移動する武装した者たちによって拡散されたのだ。
 このことは、つぎの説明になる。すなわち、1918年2月まで、Tobolsk には共産党の細胞がなく、そのソヴェトはエスエルとメンシェヴィキの支配下にあった。
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 (02) Tobolsk の隔離状態は、近くのEkaterinburg とOmsk のボルシェヴィキが皇帝家族の居宅に関心を示したときに、終わった。
 Ekaterinburg は2月に、Ural 地方のソヴェト大会を開催し、ボルシェヴィキが支配する、5名で成る幹部会を選出した。
 その議長の26歳のAlexander Beloborodov は、その職業は錠前屋または電気技師だったのだが、かつて立憲会議へのボルシェヴィキ代議員だった(脚注1)
 しかし、幹部会で最も影響力をもったのは、Sverdlov と友人関係があったために、Ural 地方の軍事人民委員のIsai Goloshchekin だった。
 1876年にユダヤ人家庭にVitebsk で生まれ、1903年にレーニンに参加し、1912年に中央委員会の委員になった。
 Goloshchekin はまた、Ekaterinburg のチェカの一員としても務めた。
 この人物とBeloborodov は、皇帝家族の運命に対して重大な役割を果たすことになった。
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 (脚注1) この人物について、Granat, XLI, Pt. p.1, p.26-29 を見よ。反ユダヤ主義君主制主義者たちは、皇帝家族の殺害を非難しようと決意していて、Beloborodov の本当の名前は「Weissbart」だと決定した。これにはいかなる根拠もないけれども。
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 (03) 1918年の春と夏のEkaterinburg の政治状況に関して我々が知っていることは、ほとんどただ一つの共産党文献から来ている。Ekaterinburg の悲劇に関する最も初期の共産党の見方を提示してもいる、P. M. Bykov の文書だ。
 Ekaterinburg のボルシェヴィキは、前皇帝がTobolsk で享受している快適さに立腹し、前皇帝とその周囲の者たちに認められた自由の程度を警戒した。
 彼らは、春の雪解けの到来とともに皇帝家族は逃亡するのではないかと、怖れた(注11)。
 その当時、あらゆる種類の疑わしい者たちがTobolsk やその周りに集まっている、という根強い風聞が広まっていた(脚注2)。
 Ekaterinburg の共産党員たちの中には、皇帝の警察に迫害されたための素直な感情をもって、ニコライ二世—血のニコライ—を憎悪する過激な者もいた。
 しかし、多くの共産党員たちは、君主制の復活を怖れていた。何らかの抽象的な政治的考慮からというより、自分たちの生命についての恐怖からだった。
 彼らは、Robespierre がLouis 16世に対して国民公会が死刑判決を下すよう申立てた—「もし国王が有罪でないならば、彼から王冠を奪った者たちはどうなるのだ」(注12)—ように、判断した。
 彼らは、ロマノフ家が一刻も早く迅速に退去することを望んだ。そして、前提皇帝が逃亡しないことを確実にするために、Ekaterinburg で彼らの統制下に置こうとした。
 このために、1918年の3月-4月に、Sverdlov と接触した。
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 (04) Omsk も同様の考えだったが、モスクワとの連絡関係がなく、最後には敗れた。
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 (05) Ekaterinburg にあるUral 地方ソヴェトは、1918年2月に早くも皇帝家族について討議したが、そのときに川の氷が解ける5月までに逃亡するか誘拐されるだろう、という怖れを表明する者もいた。
 3月初め、Ekaterinburg のボルシェヴィキは、Sverdlov の許可を得て、皇帝家族を移動させることを要請した(注13)。
 同様の要請は、Omsk からもあった。
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 (06) 全ての可能性を排除すべく、Ekaterinburg は3月16日に、Tobolsk へ、そこの状況を探索する秘密使節団を派遣した。
 使節団が戻って報告書を提出したあと、Ekaterinburg はTobolsk へ、皇帝家族を移送するための基礎作業を行なう武装部隊を派遣した。
 また、想定される逃亡経路に、巡視兵を配置した。
 この武装部隊が3月28日にTobolsk に着くと、同じ目的でOmsk が派遣した武装共産党員の一グループが先にいることに気づいた。
 2日前に到着したOmsk グループは、市議会(Duma)を解散させ、現地のソヴェトからエスエルとメンシェヴィキを追放していた。
 両グループは、どちらに権限があるかを論争した。
 弱かったEkaterinburg 派遣隊は、撤退せざるを得なかった。しかし、4月13日にボルシェヴィキのS. S. Zaslavskii が率いる増強部隊とともに戻ってきて、権限を掌握した。
  Zaslavskii は、皇帝家族を監禁するよう要求した(注14)。
 このために。監獄内に小部屋が用意された(注15)。
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 (07) こうした出来事によって、それまで皇帝家族が享受していた静穏さは破られた。
 Alexandra は、彼女の日記の3月28日/4月10日に、子どもたちの助けを借りて、宝飾品を衣服に「縫い合わせた」と記した(脚注2)
 皇帝家族は逃亡する計画を立てていた、と明らかにする証拠資料はない。また、支持者がこのために案出した謀略的構想なるものも、根拠がないことが判った。しかし、追放されるのではなく幽閉されるのだという重苦しい感覚が、皇帝家族の居宅に充満した。
 どんなに微かで非現実的なものであれ、ボルシェヴィキから逃れる全ての可能性が、今や消失した(注16)。
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 (脚注2) 特異な英語で書かれた前皇妃の日記の全体は、公刊されていない。アメリカの報道記者のIsaac Don Levine は、日記の写真と範囲が広い抜粋を、つぎで公表した。Chicago Daily News, 1920年 6月22-26日,28日。Eyewitness to History(New York, 1963)。
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 (08) 3月末、Goloshchekin は、モスクワへと向かった。
 彼はSverdlov にTobolsk の状況を報告し、皇帝家族が逃亡するのを阻止する緊急の措置が必要だと警告した。
 ほとんど同時期に—4月第一週に—、モスクワのソヴェト中央執行委員会の幹部会も、地方警備の代表者からTobolsk の状況に関する報告を聞いた。
 5月9日にSverdlov が中央執行委員会に行なった説明によると、地方に関するこの情報によって、政府は前皇帝をEkaterinburg へと移送するのを是認するよう説得された。
 しかしながら、この説明は、政府の意図に反して展開した事態を事後的に正当化する試みだった。
 なぜなら、〔中央執行部委員会〕幹部会は4月1日に、「可能ならば」ロマノフ家をモスクワに移動させると決定したことが、知られている(注17)。
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 第三節、終わり。

2911/R.Pipes1990年著—第17章①。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳。
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 第一節/ロシアの国王殺しの独特さ。
 (01) 1918年7月16-17日の夜、およそ午前2時半、ウラル地方のEkaterinburg で、チェカの一隊が、前皇帝のニコライ二世、妻、子息と4人の娘たち、家族の医師、3人の召使いを、地下室で、殺害した。
 これに関する多くのことが、確実さをもって知られている。
 しかしながら、この悲劇へと至った歩みは、莫大な文献があるにもかかわらず曖昧で、適切な全ての文書資料が公にされるまで、研究者たちに残されたままだろう(脚注)
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 (脚注) Kolchak 提督が犯罪の調査のために任命した特別委員会の長のNicholas A. Sokolov に関する、基礎的な文書は残っている。Ubiistvo tsarskoi sent’i(Paris, 1925)(仏語と独語でのみ利用できる).
 二次文書のうち最良なのはつぎだ。Paul Bulygin, The Murder of the Romanovs(London, 1935); S. P. Melgunov, Sud’ba Imperatova Nikolai a II posle otrecheniia(Paris, 1957).
 その他のロマノフ一族の運命について、主要な資料はつぎだ。Serge Smirnov, Autour de l’Assassiant des Grands-Ducs(Paris, 1928).
 P. M. Bykov のボルシェヴィキ文書の最初の版・‘Poslednie dni poslednego tsar ia’ in Rabochaia revoliutiia na Urale(N. L. Nikolaev, ed.)(Ekaterinburg, 1921), p.3-p.26 は役立つ。
 Harvard Uni. のHoughton 図書館に預託されたSokolov 委員会の関係資料一式は、不可欠だ。
 学術上の選集には、Nicholas Ross により編集されたつぎがある。Gibel’
tsarskoi sem’i (Frankfurt, 1987).
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 (02) 二人のヨーロッパの君主が、革命的激変の結果として生命を失なった。1649年にCharles 1世、1793年にLouis 16世。
 だが、ロシア革命に関する多くがそうであるように、皇帝家族の殺害に関する表面的なことはよく知られているが、多くのその他のことには独特なところがある。
 Charles 1世は、公式に責任を提示し、彼に防御の機会を与えた、特別の司法裁判所によって尋問を受けた。
 審理は公開で行なわれ、その記録は審理が進行中でも公にされた。処刑も公衆の目の前で行なわれた。
 同じことは、Louis 16世についても言えた。
 彼は国民公会の面前で審判され、法律家が王を弁護する長い審理の後の過半数以上の票決によって、死刑に処せられた。
 審理の記録も、公刊された。
 パリの中央部で昼間に、処刑は実行された。
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 (03) ニコライ二世は、訴追もされず、裁判にかけられもしなかった。
 彼に死を宣告したソヴィエト政府は、関係する文書記録を一度も公刊しなかった。事件に関して知られている事実は、主として、一人の熱心な調査者の努力の結果だ。
 ロシアの場合は、犠牲者は退位した君主だけではなく、妻、子どもたち、補佐者たちもそうだった。
 真夜中に実施された殺害行為は、正規の処刑以上に、ギャングが実行する虐殺のごときものだった。
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 第二節/ボルシェヴィキ支配の最初の一ヶ月の前皇帝と家族。
 (01) ボルシェヴィキが権力を奪取しても最初は、Tobolsk で生活する前皇帝、その家族と補佐者たちに大きな変化はなかった。そこに追放したのは、臨時政府のケレンスキーだった。
 1917-18年の冬、知事の居宅とその別館での生活は以前と同様に送られていた。
 一族は、散歩、近くの教会での宗教活動への出席、新聞の受け取り、友人との文通が許された。
 1918年2月、政府からの補助金が削減され、受け取る額は一ヶ月に600ルーブルへと減った。だがそれでも、彼らはなお相当に快適に生活していた。
 より切迫した問題を多数抱えていたボルシェヴィキは、全員が公的案件から離れていたロマノフ一家について、考えを及ぼすことがほとんどなかった。
 彼らは1917年11月初めに前皇帝の扱いを議論したけれども、何も決定しなかった。
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 (02) ブレスト=リトフスク条約の締結と結びついて、状況が変わり始めた。
 条約はボルシェヴィキ体制に対して、激しい憎悪をもたらした。
 この雰囲気の中では、皇位復活の企てを排除することができなかった。ボルシェヴィキがドイツ人将校のあいだにある親君主主義感情に気づいたので、なおさらそうだった。
 混乱を避けるために、ロマノフ家を舞台から引き下ろす用意がなされた。
 3月9日、レーニンは、ロシアの王位と噂された相続人であるMichail大公を追放する布令を発した。
 Michael は、1917年3月にニコライから提示された王位を拒否して以来、政治には何の関心も示さなかった。
 彼は、ペテログラード近くのGatchina にある所有地で、静かに暮らしていた。政治を避け、公衆の目から離れるようにしながら(注02)。
 政治的出来事に関係しなかったことは、王位を断ったあとで驚くペテログラード・ソヴェトの役人たちの前に姿を現し、自分の土地で猟をする許可を求めた、ということからも理解できるかもしれない(03)。
 1917年の夏、彼はイギリス大使館に英国へのヴィザの発給を求めた。しかし、「閣下の政府は、皇帝家族の一員が戦争中に英国へ行くのを望んでいない」との説明とともに却下された(脚注1) (注04)。
 1917年の末、彼はレーニンに、自分の貴族名を妻のBrasoba 伯爵夫人のものに変えたいと申し出た。だが、返答はなかった(注05)。
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 (脚注1) Michail の友人のO. Poutianine がつぎのように主張するのは、ゆえに、不正確だ。Michail は、ロシアの民衆は自分を害さないだろうと信じて、イギリスへの政治的亡命を希望しなかった、と。Revue des Deux Mondes, XVIII(1923年11月15日), p.297-8.
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 (03) Michail は、今は拘禁されていた。最初はSmolnyi で、のちにはチェカ本部で。
 3月12日、レーニンと政府の残余がモスクワに出発したあとで、彼は、Tobolsk から遠くないPerm へと、警護付きで送られた。
 ボルシェヴィキは、ドイツ軍がペテログラードを占領して皇帝家族を捕まえるのを怖れて、この無防備の地域から移すことに決めたのだ。
 3月16日、ペテログラード・チェカの長のUritskii は、ペテログラードとその近傍にいる一族全員に、登録するよう命じた(06)。
 その月ののち、彼は、これら全員をPerm、Vologda、Viatka の各州のいずれか好きな所に追放する、と命令した。
 いずれかに到着すれば、彼らは、その地方のソヴェトに報告し、住居に関する許可を受けなければならなかった(注07)。
 のちに判ったように、在監中の者やボルシェヴィキ支配の外部での生活者を除く全てのロマノフ家一族は、Perm で死んだ。
 この地域にはペテログラードとモスクワに次いでボルシェヴィキ党員が集中していたので、信頼して皇帝一族に厳しい目を向けさせ続けることができた。
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 (04) これらは、予防的措置だった。ボルシェヴィキ指導層は、前皇帝とその親戚をどう扱うかについて、まだ決めていなかった。
 レーニンは1911年に、「少なくとも100人のロマノフたちの首を刎ねるのが必要だ」と書いていた(8)。
 しかし、このような大量殺戮は危険だっただろう。村落には、強い君主主義心情があったからだ。
 一つの可能性は、ニコライを革命審判所で審理させることだった。
 司法人民委員として当時に知り得る立場にあったIsaac Steinberg は、こう書く。君主制の復活を阻止するために、1918年2月にそのような審判が考慮された、と。—復活すれば、一般に歓迎された退位から一年後に、不人気のニコライが、ボルシェヴィキを煩わせる訴えをロシア人にするのを暗黙に承認することになる。
 Steinberg によると、中央執行委員会の会議で、Spiridonova は、Tobolsk からの経由地でニコライはリンチに遭うだろうという理由で、審判に反対した。
 レーニンは、前皇帝に対する法的手続を進めるのはまだ早すぎる、と決定した。但し、審判のための資料を集めておくように命じた(脚注2)。
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 (脚注2) Steinberg, Spiridonova, Revolutionary Terrorist(London, 1935), p.195. 1918年1月12日/25日に、Vechernii Chas は、Steinberg へのインタビュー記事を掲載した。そこで彼は、審判が行なわれることについて自信を表明した。「知られているように、前皇帝は立憲会議で裁かれることが提起されていた。しかし今では、彼の運命は人民委員会議で決定されるように思われる」。これは、人民委員会議が1918年1月29日にニコライ二世を裁判所に引き渡す決定を採択して以降、確認されてきた。G. Ioffe, Sovetskaia Rossiia, No. 161/9,412(1987年7月12日), p. 4.
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 (05) 4月半ば、ロシアの新聞は、「ニコライ・ロマノフ」の審理が始まりそうだ、との報告記事を掲載した。
 これは、最高調査委員会の長としてKrylenko が準備していた、旧体制の重要人物に対する一連の審判の最初だろう、と言われた。
 前皇帝は、国制上の支配者として—つまり1905年10月17日以降に—冒した「犯罪」についてのみ訴追されるだろう。
 それらの諸「犯罪」の中に、選挙法を恣意的に変更して基礎的諸法律を侵犯した、いわゆる1907年6月3日のクーデタが含まれるだろう。予算の「予備」部分を用いた国費の不適切な支出その他の、権力濫用(注09)。
 しかし、4月22日、プレスは、ニコライが審理されることをKrylenko は否定した、と伝えた。
 Krylenko によると、風聞は誤解にもとづいている。政府が本当に意図したのは、ロマノフの名前を使って、諜報徴発者を裁判にかけることだった。
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 第二節、終わり。第三節へつづく。
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