秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

冨澤祥郎

2524/西尾幹二批判061。

  さて、No.2523で引用した西尾幹二の文章は、いったい何を、あるいは何について叙述して、あるいは論じて、いるのだろうか。
 このように課題設定する前に、西尾幹二の<真意>を探ろうとする前に、そもそもこの人はつねに真面目にその「真意」を表現しようとしているのか、という問題があることを指摘しておかなければならない。
 ①「事実」または「真実」を明らかにする。②付与された紙数の範囲内で「作品」(文芸評論的、政治評論的な、等々)を仕上げて提出する。③世間的「知名」度を維持または形成する。④その他。
 付加すると、こうした西尾の<動機>自体の問題もある。西尾自身が、自分が書いてきたものは全て「私小説的自我」の表現だったと明言したことがあることも、想起されてよい。
 元に戻ると、西尾幹二は、明らかに自分自身を含むものについて、こう叙述したことがある。
 (1) 月刊正論2002年6月号=同・歴史と常識(扶桑社、2002)p.65-p.66。
 「日本の運命に関わる政治の重大な局面で思想家は最高度に政治的でなくてはいけない」。
 「いよいよの場面で、国益のために、日本は外国の前で土下座しなければならないかもしれない。そしてそれを、われわれ思想家が思想的に支持しなければならないのかもしれない。正しい『思想』も、正しい『論理』も、そのときにはかなぐり捨てる、そういう瞬間が日本に訪れるでしょう、否、すでに何度も訪れているでしょう。」
 (2) 月刊諸君!2009年2月号、p.213。
 「思想家や言論人も百パーセントの真実を語れるものではありません。世には書けることと書けないことがあります。」
 「公論に携わる思想家や言論人も私的な心の暗部を抱えていて、それを全部ぶちまけてしまえば狂人と見なされるでしょう」。
 以上。
 このように書いたことがある西尾幹二の文章ついては、上の(1)に該当していないのか、上の(2)が述べるように100パーセント「全部ぶちまけている」のか否か、をつねに問題にしなければならない。
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  上は気にしなくてよいという仮の前提つきで、あらためて真面目に問題にしよう。
 No.2522で引用した西尾幹二の文章は、いったい何を、あるいは何について、叙述しあるいは論じているのか。
 「歴史」に関するもののようだ。次のように言う。
 「歴史」は、「過去の事実を知ること」ではなく、「事実について、過去の人がどう考えていたかを知ること」だ。
 「歴史」とは「『事実について、過去の人がどう考えていたかを知ること』」であって、かつまた「『異なる過去の時代の人がそれぞれどう感じ、どう信じ、どう伝えたかの総和』」なのではないか。
 歴史学者ではなく、一冊の歴史叙述書も執筆したことがない西尾の「歴史」論議を真面目に相手にする必要はない、と書けば、それで済む。
 秋月瑛二という素人でも、おそらく上の文章の100倍の長さを超える文章で、疑問を提起することができる。
 ここでの「歴史」はかなり限られた意味だ、そして「歴史」との区別も不明瞭だが「歴史」書も古事記、神皇正統記、大日本史、本居・古事記伝といった次元のものに限られている気配がある、過去の人が「考えていた」ものだけでなく遺跡・遺構・遺物や公家等の日常的な日記類(広く古文書類)も歴史の重要・貴重な「史料」だ、一時間前も一日前も一年前も10年前も「過去」であって「歴史」に属する、例えば秋月瑛二にも<個人史>または<自分史>があって、それも「歴史」の一つだ。
 『異なる過去の時代の人がそれぞれどう感じ、どう信じ、どう伝えたかの総和』が「歴史」だとも書くが、過去の人々が「どう信じ」たかも含めているのは気にならなくもないし、「総和」と言っても、過去の人々が「どう感じ、どう信じ、どう伝えたか」は各人によって相違する、矛盾することがあるのであり、「総和」などど簡単に語ることはできない。等々、等々。
 要するに、真剣な検討に値しない。「歴史」概念自体がすでに不明瞭だ。
 何を、どういうレベル、どういう単位で叙述する、または論じるのか。
 西尾は、上の文章に限られないが、おそらく、きちんと叙述しておくべき、自らだけは分かっているつもりなのかもしれない<暗黙の前提>を明記することを怠っている。
 ところで、「対象」とは日本語文でよく使われる言葉だが、哲学者のマルクス・ガブリエル(Markus Gabriel)は、「対象」(Gegenstnd)を<「真偽に関わり得る思考」(wahrheitfähige Gedanken)によって「考える」(nachdenken)ことのできるもの>と定義し、対象の全てが「時間的・空間的拡がりをもつ物」(raumzeitliche Dinge)であるとは限らない、「夢」の中の事象や「数字」も「形式的意味」での「対象」だ、とコメントする。また、「対象領域」(Gegenstandsberich)という造語?も使い、これを「特定の種類の諸対象を包摂する領域」と定義し、それら諸対象を「関係づける」「規則」(Regeln)が必要だとコメントする。
 M,Gabriel, Warum es die Welt nichi gibt (Taschenbuch/2015, S.264. 清水一浩の邦訳を参照した)。
 西尾においては、論述「対象」が何か自体が明瞭ではなく、「対象領域」を構成する別の対象との「関係づけ」も曖昧なままだ、と考えられる。「歴史」に関係する諸対象を「関係づける」「規則」を「歴史」(・「哲学」)の専門家ではない素人の西尾が知っているはずもない。
 よくぞ、『歴史の真贋』と題する書物を刊行できるものだと、(編集者の冨澤祥郎も含めて)つくづく感心してしまう。もっとも、「歴史」を表題の一部とする西尾の書は多い。
 専門の歴史家、歴史研究者、井沢元彦や中村彰彦のような歴史叙述者(後者は小説の方が多いが)は、かりに西尾の論述を知ったとして、どういう感想を持ち、どう評価するだろうか。
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  ついで、「事実」の把握または認識に関する叙述であるようだ。
 そして、以下のように語られている。「過去の事実」=「歴史」だとすると(こう理解させる文がある)、「歴史」と無関係ではない。
 「歴史」は、「過去の事実」について「過去の人がどう考えていたかを知ること」だ。「過去の事実を直(じか)に知ることはできない」。
 「人間の認識力には限界があって、我々が事実を知ることは不可能であり、過去の人が事実をどう考え、どう信じ、そしてどう伝えていたかをわれわれは確かめ、手に入れようと努力し得るのみである」。
 「なぜなら、事実そのものは、把握できないからです。
 事実に関する数多くの言葉や思想が残っているだけなのです。」
 以上。
 この辺りに、西尾幹二に独特の(そう言ってよければ)「哲学」または<認識論・存在論>が示されていそうだ。
 「人間の認識力には限界があ」るのはそのとおりかもしれないが、そのことから、「事実を知ることは不可能」だとか、「事実そのものは、把握できない」ことになるのか?
 きっと、「事実」という言葉の意味の問題なのなのだろう。全知全能では全くない秋月瑛二でも、つぎのような「事実」を「認識」している。
 ・いま、体内で私の心臓が拍動している。・「呼吸」というものをしている。・ヘッドフォンから美麗な音楽が流れている。
 これらは、私の感覚器官・知覚器官、広くは「認識器官」を通じて「私」が「認識」していることだ。最後の点を含めて、近年の「私」に関する「過去の事実」でもある。
 「私」が介在していなくともよい。「私」が存在した一定の年月日に日本で〜大地震や〜事件、等々が起きたことは、「私」の感覚器官が直に(じかに)認知していなくとも、「過去の事実」として把握または認識することができる。
 私の生前に、一定の戦争に日本が勝利したり、敗北した(降伏文書の署名をし、外国によって「占領」された)ことも、「過去の事実」のようだ。
 そんなことを言いたいのではない、と西尾幹二は反応するかもしれないが、西尾の上の文章は、以上のようなことも否定することになる。そうでないとすれば、文章内容の十分な限定、条件づけを西尾という人は、行うことのできない人物なのだ。
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 (つづく)

2523/西尾幹二批判060。

  西尾幹二の近年、2020年の著に、つぎがある。編集担当は、冨澤祥郎。
 西尾幹二・歴史の真贋(新潮社、2020)。85歳になる年の著。
 第一部冒頭の章の表題は「神の視座と歴史—『神話』か『科学』の問いかけでいいのか」で、2019年5月の研修会での報告文(?)だとされる。
 『歴史の真贋』と題する著の冒頭に置くのだから、それなりに重要視しているのだろう。
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  その冒頭の章のさらに冒頭で引用しているのは、つぎの1997年著の「あとがき」の冒頭だ。
 西尾幹二・歴史を裁く愚かさ(PHP研究所、1997)。62歳のとき、編集担当者は当時PHP研究所出版部の真部栄一。
 引用される文章は、以下。「(中略)」も2020年著の原文どおり。
 「歴史は、過去の事実を知ることではない。
 事実について、過去の人がどう考えていたかを知ることである。
 過去の事実を直(じか)に知ることはできない。
 われわれは、過去に関して間接的情報以外のいかなる知識も得られない。(中略)//
 ところが、どういうわけか、現代の知識人は過去の事実を正確に把握できると信じている。
 事実が歴史だと思いこんでいる。
 そして、その事実について過去の人がどう考えていたかは捨象して、自分が事実ときめこんだ事実を以て、現在の自らの必要な欲求を満たす。//
 それは事実の架空化による事実への侵害である。」//
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  この引用のあとに続けて、西尾は2020年に(正確には2019年。但し、例のごとく単行本に収載するに際しての「大幅な改稿、加筆」がある、という(p.360))、趣旨・意図をこう説明する。
 「人間の認識力には限界があって、我々が事実を知ることは不可能であり、過去の人が事実をどう考え、どう信じ、そしてどう伝えていたかをわれわれは確かめ、手に入れようと努力し得るのみである、ということが言いたかったのです。
 それも現在の制限された条件の下で、最大の知力と想像をもってもわずかに推察し得るのみであります。
 もう一度言います。
 『事実について、過去の人がどう考えていたかを知ること』が歴史であって、しかも『異なる過去の時代の人がそれぞれどう感じ、どう信じ、どう伝えたかの総和』が歴史なのではないか。
 それは事実を確かめる手段であるだけではなく、時には目的そのものですらあります。
 なぜなら、事実そのものは、把握できないからです。
 事実に関する数多くの言葉や残っているだけなのです。
 ところが実際には、手続や手段として情報を精査することなく、それをつい疎かにして、結果として知られたひとつの情報を『事実』として観念的に決めてしまうことが、まま行われてはいないでしょうか。」
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  歴史学者ではない西尾が、よくぞ「歴史」を表題の一部とする書物を多数執筆できたものだ、という気が、ふつうは生じるだろう。
 これも、<新しい歴史をつくる会>という(政治)運動団体の初代会長になってしまったという何らかの偶然によることなのか。自分には「歴史」または「歴史学」について語り論じる資格があり、かつ初代会長として語り、論じなければならない(上の1997年著は会長時代のもの)と「思い込んだ」からなのだろうか。
 こんなことは些細なことだ。ただし、25年近く前の文章をそのまま引用するとは、よほど自信があるか、よほど進歩・変化していないのだろう、という感想は記しておいてよいかもしれない。
 上にこの欄で引用した文章には、「歴史」のみならず、「事実」、「過去」、「把握」・「認識」等(・「言葉」等)に関する西尾幹二の基本<哲学>のようなものが表現されている、と考えられる。
 そこで、2020年という近年の著の冒頭に置かれてもいるので、かなり拘泥して、以下に取り上げてみる。
 (つづく)

2522/西尾幹二批判059。

 櫻井よしこや江崎道朗は、本当に気の毒だと思う。
 毎週のように、またはしばしば、取るに足らない、ならよいが、陳腐で、かつ悪いことに、間違いを含む、あるいはかつての自分の主張や事実の叙述と異なる文章を平然と書いて、それぞれの「個人名」で執筆して、将来に、半永久的に残しているからだ。
 恥ずかしい文章・書物が、執筆者「個人名」付きで、将来に半永久的に残る。これはとても「恥ずかしい」ことで、そういうことになるのは、本当に気の毒だと思う。
 西尾幹二も、多数の著者があり、個人全集まで刊行して(完了した?)、「どうだ、すごいだろ」と得意がっているかもしれないが、櫻井よしこや江崎道朗と比べて覆い隠す文章技巧に長けているためにすぐには暴露されないかもしれないが、本質的にはこれら二人と変わらないだろう。
 種々の意味や次元での「間違い」、自己矛盾に、西尾幹二の文章・書物も充ちている。
 気の毒だと思う。櫻井よしこと江崎道朗の二人に比べればという限定付きで、この時代に西尾幹二は目立っているので、または「よりましな」著述者だと見られていると思われるので、それだけ将来に「恥ずかしい」文章が「西尾幹二」という個人名付きで残るのは「恥ずかしい」ことに違いなく、本当に気の毒なことだ。
 1935年に生まれて、85歳以上まで生きた「真の保守思想家」(新潮社・2020年著のオビ)とも言われた人物の本質は、少し立ち入れば容易に暴露される。ああ、恥ずかしい。気の毒だ。1990年前後以降の実際には書いた文章を、この人は書かなかった方が良かった、幸せだった、と秋月瑛二は思う。

2479/高森明勅のブログ②—2021年11月12日。

  内親王だった女性と某民間人の結婚をめぐるマスコミの報道姿勢についてこう書く(もともとはテレビ放送予定の発言内容だったようだ)。
 ①「その人物は早い段階で弁護士に相談したが、法的に勝ち目がないと言われていたことを、自ら語っている。にも拘らず、…ご婚約が内定した後に、にわかに“金銭トラブル”として週刊誌で取り沙汰されるようになった。この間の経緯は、不明朗な印象を拭えない」。
 ②「一次情報にアクセスできず、又しようともせずに、真偽不明のまま無責任なコメントを垂れ流して来たメディアの責任は大きい」。
 ③「『週刊現代』の記者が当該人物の代理人めいた役割を果たしていたことは、ジャーナリズムにとってスキャンダルと言ってよい事実だが、その記者に直撃取材をしたメディアはあるのか」。
 ④「上皇后陛下の半年間に及ぶ失声症、皇后陛下の今もご療養が続く適応障害に続いて、眞子さまも複雑性PTSDという診断結果が公表された。名誉毀損罪、侮辱罪で相手を訴えることも事実上できず、言論による反論の自由すらない皇室の方々に対して、いつまで一方的な誹謗中傷を続けるのか」。
 上のうちほとんど無条件で共感するのは、③だ。
 この『週刊現代』の人物は、母親の元婚約者とかに「食い込んで」いたようで、要所要所で感想を聞いたりして、『週刊現代』(講談社)に掲載したようだ。但し、法職資格はなく、「法的」解決のために動いた様子はない。
 この記者(講談社の社員?)の氏名を同業者たち、つまりいくつかの週刊誌関係者、同発行会社、そしてテレビ局や新聞社は知っていたか、容易に知り得る立場にあったと思われる。
 一方の側の弁護士は氏名も明らかにしていたように思うが、この記者の個人名を出さなかったのは、本人が「困る」とそれを固辞したことの他、広い意味での同業者をマスメディア関係者は「守った」のではないか
 そう感じているので、「その記者に直撃取材をしたメディアはあるのか」(上記)との疑問につながるのはよく分かる。
 (『週刊現代』の記事は個人名のあるいわゆる署名記事だったとすると上の多くは適切ではなくなるかもしれないが、その他のメディアがその氏名情報を一般的視聴者・読者に提供しなかったことの不思議さ、「その記者に直撃取材をしたメディアはあるのか」という疑問の正当性に変わりはないだろう。)
 マスメディアは一般に、大臣等の政治家の名前を出しても、各省庁の幹部の名を出さない(情報公開法の運用では、たしか本省「課長」級以上の職員の氏名は「個人情報」であっても隠してはならないはずだが。公開することの「公益」性を優先するのだ)。
 個人情報の極め付けかもしれない氏名を掲載または公表すべきか、掲載・公表してよいか否かの基準は、今の日本のマスメディアにおいて曖昧だ、またはきわめていいかげんだ、と思っている。
 立ち入らないが、例えば災害や刑事事件での「死者」の氏名も個人情報であり、警察等の姿勢どおりに安直に掲載・公表したりしなかったりでは、いけないはずなのだが。
 災害や刑事事件には関係のない『週刊現代』の記者の氏名の場合も、その掲載・公表には<本人の同意>が必要だ、という単純なものではない筈だ。
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  高森の上の④も気になる。「誉毀損罪、侮辱罪で相手を訴えることも事実上できず、言論による反論の自由すらない皇室の方々…」というあたりだ。
 天皇は民事裁判権に服さない(被告にも原告にもなれない)という最高裁判決はあったと思う。但し、皇族についてはどうかとなると、どいう議論になっているかをよく知らない。
 しかし、かりに告発する権利が認められても、いわゆる親告罪である名誉毀損罪や侮辱罪について告訴することは「事実上できず」、反論したくとも、執筆すれば掲載してくれる、または反論文執筆を依頼するマスメディアは今の日本には「事実上」存在しないだろう。
 そういう実態を背景として、相当にヒドい言論活動があるのは確かだ。
  「上皇后陛下の半年間に及ぶ失声症」の原因(の一つ)は、高森によると、花田紀凱だ。
 「皇后陛下の…適応障害」が少なくとも継続している原因の一つは、おそらく間違いなく西尾幹二だ。
 「仮病」ではないのに「仮病」の旨を公的なテレビ番組で発言して、「仮病」なのに病気を理由として「宮中祭祀」を拒否している、または消極的だとするのは、立派に「名誉毀損罪」、「侮辱罪」の構成要件を充たしている。
 告訴がないために免れているだけで、西尾幹二は客観的にはかなり悪質な「犯罪者」だ(これが名誉毀損だと思えば秋月を告訴するとよい)。
 『皇太子さまへの御忠言』刊行とテレビ発言は2008年だった。その後10年以上、西尾幹二が大きな顔をして「評論家」を名乗る文章書きでおれるのだから、日本の出版業界の少なくとも一部は、相当におかしい。この中には、西尾の書物刊行の編集担当者である、湯原法史(筑摩書房)、冨澤祥郎(新潮社)、瀬尾友子(産経新聞出版)らも含まれている。
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2460/西尾幹二批判039—「客観」と「主観」。

  西尾幹二について「真顔で論ずるのは、所詮、愚か者の所行」かもしれないが(批判038参照)、秋月瑛二には、西尾の著作と人間を真面目に論じる十分な理由がある。
 二項対立思考で単純に「反共産主義」=「保守」と理解したのは一般論として間違いではなかったかもしれないが、2007-8年頃に日本で「保守」を標榜していた雑誌や論者が上の意味での本当の「保守」だったかは極めて疑わしい。
 今日の<いわゆる保守>は日本共産党と180度の真反対に対峙しているのではなく、多分に共通性もあり、30〜20度しか開いていないのではないか旨を、すでに一年以上前に秋月はこの欄に書いた。
 保守派の中でもすぐにこの人物は信用できないと感じた者はいるが、西尾幹二は相対的にはまだマシな論者だと—じっくりと読むことなく—判断してしまっていた。2015年の安倍内閣戦後70年談話の歴史理解の基本的趣旨は村山談話と、翌2016年の安倍首相・岸田外相による日韓・慰安婦問題の「最終決着」文書の趣旨はいわゆる河野談話と、基本的には何ら変わりがないことを、櫻井よしこや渡部昇一らと違って、西尾は気づいていたと思われる。
 月刊正論(産経新聞社)のとくに桑原聡編集代表のもとでの異様さはかなり早くに気づいていたが、江崎道朗のヒドさを知って<いわゆる保守>そのものに疑問を持ち、ようやく決定的・最終的に西尾幹二から離反したのは、まさに2018年末の同全集17巻・歴史教科書問題(国書刊行会)を見てからだ。
 約10年間も、西尾の「レトリック」に惑わされ、じっくりと読解することなく、肯定的にこの人物を評価していたことを、極めて強く、恥じている。
 何と馬鹿な判断をしてしまったことか。痛恨の思いだ。
 すでにある程度は書いたし、これからも書くが(999回まで番号がある)、個々の文章の紹介や分析等を通じて、この人の「本性」・「本質」を指摘して、秋月瑛二自身の自己批判の文章としなければならない。
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  前回の批判038の最後に、個人全集第17巻には「自分史の一種の『捏造』、『改竄』が見られる」と書いた。
 具体的にその点に言及する前に、「自分史」という言葉にも含まれている「歴史」というものの捉え方自体にも、西尾には独特なところがある。
 別に論及するが、近年の単著の冒頭で、歴史は「文献」から明らかになる旨を書いて、遺跡や埋蔵物等々の「物」自体も史料になり得ることを完全に無視している。ニーチェ的「古典文献学」によると、「文献」だけが歴史叙述の素材なのだろうか。
 小林秀雄の『本居宣長』や『古事記伝』を読んで本居宣長を理解したつもりになったり、本居の「古事記伝」を読んで古事記を読んだつもりになった人がいるかもしれないが、西尾幹二もその手の一人ではないだろうか。
 こんなことを書くのも、西尾幹二・国民の歴史(原書1999)の最初の方で日本の「神話」に言及していながら、古事記や日本書紀という言葉は出てこず、この人はこの両書をきちんと読まないままで、日本の「神話」と中国の「歴史」書の同等性等を抽象的に論述するという大胆不敵なことをしている、と考えられるからだ。
 また、上の全集第17巻(2018)の「後記」の最後の方に、つぎの部分がある。
 この巻に収載した三つの文章には「ごく初歩的な歴史哲学上の概念が提示」されていると自ら書いたあと、こう続ける。
 「歴史は果たして客観たり得るのか、主観の反映であらざるを得ないのか」。
 80歳を過ぎて、このような「ごく初歩的な」問いを発していること自体に、また何やら深遠な「歴史哲学上の」?問題を提示しているつもりであるようなことにも、西尾幹二という人物の決定的な「幼稚さ」が表れている。
 何冊もの歴史叙述書を書いてきた研究者が、絶えずこのような問題に直面しつつ、苦悩しつつ執筆しているだろうことは、容易に推察できる。
 外国のものだが、R・Pipes のロシアに関する歴史書や、L・Kolakowski の「思想史」の書物でも、それを感じることがある。
 では、西尾幹二は、第一次的な史料・資料を用いた歴史書をいったい何冊書いてきたのか。歴史叙述書自体の執筆をしたことがないのだから(同・国民の歴史は歴史散文または歴史随筆、よくて歴史評論だ)、第一次史資料を豊富に用いた歴史書を一冊でも書いているはずがない。
 にもかかわらず、西尾幹二は何故、上のような「大口を叩ける」のだろうか。不思議でしようがない。
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  秋月瑛二が15-16歳のころ、つぎのような問題を友人の一人に語ったことがある。
 上にある青空はそれを見て、意識して初めて「ある」=「存在している」ことになるのであって、それなくして「ある」=「存在している」とは言えないのではないか?
 とりあえず「青空」には拘泥しないことにしよう。
 素朴に、または単純幼稚に問うていたのは、今または後年になって振り返ると、「存在」するから「意識」するのか、「意識」して初めて「存在」するのか、という問題だ。
 別の概念を使うと、「客体」が先か「主体」が先か、という問題だ。
 あるいは「客観的事実」と「主観的意識」の関係の問題だ。
 「歴史」とは「過去」に関する一定の態様・様相だ、と差し当たり言っておくことにしよう。
 西尾幹二が上で何やら深遠な問いであるかのごとく「大口を叩いて」いるのは、「過去」の様相・態様は「客観的」な事実として認識・理解(これら二語の意味も問題にはなる)できるのか、それとも「主観」の反映にすぎないのか、だ。要するに、結局は、「存在」と「意識」の関係、「客体」と「主体」の関係の問題がある、というだけのことだ。
 これを人類または人間は古くから思考し、または「哲学し」てきたのであり、単純素朴には、15-16歳の秋月瑛二ですら抱いた疑問・問題だったのだ。
 それを、80歳を超えた西尾幹二が未だ設定されていない問題であるかのごとく、少なくとも西尾には未だ不分明の「歴史哲学」!!上の問題として、書いている。
 さすがに、歴史書を執筆したことがない、「哲学」書をろくに読まないで「物書き」になってしまった人物だけのことはある。
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  最近に試訳したフランスの歴史学者のF・フュレの文章(英訳書)に、唐突につぎが出てきた。
 <ニーチェにあるのは、事実ではなく、解釈だけだ。
 三島憲一は下掲書のニーチェ部分を担当し、小見出しの一つに「『解釈』だけが存在する」と掲げ、最小限の一部だけ再引用すると、ニーチェはこう書いた、とする。141頁。
 「…実証主義に対してわたしは言いたい。違う、まさにこの事実なるものこそ存在しないのであり、存在するのは解釈だけなのだ。」。
 今村仁司.三島ほか・現代思想の冒険者たち—00現代思想の源流/マルクス.ニーチェ.フロイト.フッサール(講談社、新装版2003)
 この言明はもちろん、「客観的事実」と「主観的解釈」の問題にかかわる。
 西尾幹二は、このようなニーチェの考えの影響を、今でもかなり受けたままではないだろうか。
 ついでに、つぎのことも書いておこう。
 西尾幹二はナショナリストであり、「日本」主義者だ、と書いて、おそらく本人も異議を唱えないだろう。
 しかして、ニーチェは(19世紀後半の)ドイツの、少し広くして西欧の、もっと広く言えば欧米の「思想家」(とされる人物)だ
 そのようなニーチェについて、日本ナショナリストの西尾幹二は、いったいどういう精神・神経でもって、2020年に、堂々とつぎのように書けるのか。
 恥ずかしくないのだろうか。矛盾をいっさい感じないのだろうか。
 2020年刊行、『歴史の真贋』あとがき(新潮社)。
 私は「ニーチェの影響を受けた」。
 「ニーチェが私の中で特別な位置を占めていることは、否定できない」。
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 追記/ なお、根本的には、客観的「存在」が先にあり、それを人間は諸器官を通じて「意識」する、と現在の秋月は考える。意識、認識する「主体」が消滅しても、過去の事実も含めて、「存在」は消滅しない。かかる<素朴実在論>?で、少なくとも一般的な平凡人には何ら差し支えないだろう。
 かつての同じ15-16歳の時代を思い出すと、じっと自分の左の手のひらを見ながら、この手、この掌は「自己」の一部なのか、と思い巡らしたことがあった。「自己」、「自我」はこの手、この掌にはない、と感じていたからだ。また、世界をこう三分していた。①自分の自己、②他人の自己、③これら以外の外界。
 <私小説的自我>でもって生きてきたらしい西尾幹二は、80歳を過ぎた現在、こうしたことを、どう考えているだろうか。
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2447/西尾幹二批判035—「日本に迫る最大の危機」。

  西尾幹二の諸君!2008年12月号によると、日本の「論壇誌」は「イデオロギー」に嵌まらないで、「現実」に目を開き、「現実」を回復しなければならない。
 しかし、まさにその同じ論考の中で、雅子皇太子妃(当時)に関する「現実」をおそらくは完全に無視する文章を書いている。
 西尾によると、「自分の好むひとつの小さな現実を見て、他のすべての現実に目を閉ざそうとする怠惰な心の傾き」がイデオロギーの意味のようなのだが、この「怠惰な心の傾き」は、西尾幹二にも厳然と存在するようだ。
 西尾は、皇室問題での自分の主張を非難する二つの立場について、こう反駁する。
 「二つの立場の、どちらも方々も、あれほど明白になっている東宮家の危機を、いっさい考慮にいれないのです。
 問題は何もない、と言い張るのです。
 目を閉ざしてしまうのです。」
 <危機>というのは評価または解釈が混じる言葉だ。では、<日本に迫る最大の危機>という中見出しのあとのつぎの文章はどうだろうか。
 「雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくないように見受ける。
 というか、明確に拒否されて、すでに五年がたっている。
 <見受ける>だけだと、厳密には、あくまで「推測」なのかもしれない、とも言える。
 しかし、上を全体として読むと、<雅子妃は宮中祭祀を『なさる』意思がなく、拒否し続けている>ということを、西尾が「事実」または「現実」だと受け取っていることは明確だろう。
 なお、その原因にはここでは西尾はいっさい触れていない。
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  元に戻って記すと、西尾『皇太子さまへの御忠言』による「提言」は、西尾によると「典型的な二種類の反応」を惹起した。
 一つは、多くの選択権・無制約をよしとする「いわば平和主義的、現状維持的イデオロギー」で、将来の皇后にも「もっと自由を」、「新しいご公務を」、とするもの。
 もう一つは「むしろ古風な、がちがちに硬直した、皇室至上主義的イデオロギー」で、例えば「臣下の身」で「不敬の極み」だとするもの。自称「旧皇族」から国学院大・皇學館大学の教授まで、「伝統保守イデオロギー」からの反発も「熾烈」だった。
 これら二つ、一方は「新しい時代の自由」、他方は「旧習墨守」という「固定観念への執着」を見て、西尾幹二はこう感じた、という。
 「私は思わず笑いがこみあげてきました」。
 そのあと、既述の「あれほど明白になっている東宮家の危機」をめぐって、「自由派」も「伝統派」も、「現実はいっさい見ない、現実はどうでもいい」、「自分たちの観念や信条の方が大切なのです」と批判する。
 「論壇誌」に対しては、あらためてこう指弾する。
 「イデオロギーに頼って『ことなかれ主義』に手を貸し、揺れ動く世界の現実から目を逸らしているうちに、日本に迫る最大の危機すら曖昧になってしまう
 それが今の雑誌ジャーナリズムを覆う、いちばんの病弊なのではないですか。」
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  西尾幹二の議論が雅子皇太子妃に宮中祭祀を「なさる」意思がなく、それを拒否している、という西尾にとっての「現実」から出発していることは疑い得ない。
 その理由は一般に「ご病気」とされていたが、西尾の別の発言によるとそれは「仮病」だ。そのような「行動と思想」をもつ人物が将来に皇后になるかもしれない、これは「日本に迫る最大の危機」だ、そのような危険性を、「自由派」も「伝統派」も見ていない(自分はちゃんと見ている)、というわけだ。
 その後の事態の推移をも踏まえてということにはなるが、詳細は省いて、西尾幹二の以上のような指摘・主張は、いささか異様、異常ではないだろうか。
 「つくる会」分裂後の八木秀次に対する「人格攻撃」も凄いものだったが、皇太子妃問題をめぐって自分を批判する両派に対する反批判も、なかなかのものだ。
 「私は思わず笑いがこみあげてきました」。
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  ところで、西尾は、皇太子妃の宮中祭祀を「なさる」意思の欠如を問題にしている。
 ここでは、皇太子妃も宮中祭祀を「行う」主体の一人であることが前提とされている。このような表現をする点は、天皇退位問題に関する「5バカ」の一人、妄言者の加地伸行も同じ。
 そうだとすると、少なくとも天皇・皇后、皇太子・同妃の四名は、宮中祭祀の場所である宮中三殿で、全員で一緒に?、三殿またはいずれかの「殿」の祭神に対して「祭祀」を行う、ということなのだろうか。
 西尾幹二は、宮中祭祀とはどういうものであるのか、その際に皇太子妃はどうある「べき」かをいったい何がどのように定めているのか、正確に知っているのだろうか。明治時代、大正時代、さらには「皇太子妃」がいたとして江戸時代とそれより以前は、どうだったのか?
 不十分な理解のままであったとすれば、西尾の議論のほとんど全てが、ガラガラと崩れることになるだろう。
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  ついでに。この西尾論考は、諸君!12月号の実質的には巻頭に置かれている。
 月刊雑誌・諸君!は、その後一年以内に廃刊となった。以上のような西尾論考を重視したこととその反応は、小川榮太郎が新潮45(新潮社)の廃刊の引き金を引いた程ではかりにないとしても、諸君!編集部と文藝春秋の判断に影響を与えたのではなかろうか。
 また、西尾も明記するように、<保守>派内でも異論があり、西尾幹二(や中西輝政)はその中でも少数派だっただろう。
 いずれにせよ、<保守>派内に亀裂を生んだことは間違いない。
 翌2009年8月末実施の総選挙で自民党は大敗し、政権は民主党に移る。
 西尾幹二に限らないが、<保守>派論者はいったい何をしていたのだろう。政権交替は、自民党だけの「責任」ではあるまい。
 雅子皇太子妃・皇室問題が「日本に迫る最大の危機」だと!?
 西尾幹二は、「ねごと」を書いていたのだ。他にも多数書いている(編集者はきちんと読むべし)。
 それにもかかわらず、産経新聞出版(編集者・瀬尾友子)、新潮社(同・冨澤祥郎)、筑摩書房(同・湯原法史)らは、近年にも西尾の本を出版している。こちらも、大いに不思議だ。
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2380/古田博司「歴史に必然なんかない」(歴史通2012年7月号)。

  古田博司「時代の触覚11/歴史に必然なんかない」歴史通2012年7月号(ワック出版、2012年)。
 この頃の<歴史通>には古田博司と宮脇淳子がよく書いている。季刊雑誌のほぼ毎号ではないか。
 また、推測だが、この<歴史通>という雑誌名は、産経新聞社および月刊正論らが始めた(そしていつか、何故か、たち消えになっている)「歴史戦」というキャンペーンと関係があったのではないだろうか。そして、今や<歴史通>と<月刊WiLL>は融合、統合?したような様子であるのは(私の印象では)何故なのだろう。
 この当時の編集長は立林昭彦。のち、花田紀凱のあとの月刊WiLL(ワック)編集長。この立林と花田はともに、櫻井よしこを理事長とする国家基本問題研究所の評議員。
 2000年前後、そして民主党政権だった2009-2012年頃は、月刊正論らには、現在と比べるといろいろな人が幅広く執筆していた。
 所収も堂々と?書いていたし、小林よしのりも書いていた(確認しないので今思い出すのはこの二人だが、現在は絶対にまたはほとんど執筆者になっていない人が他にもいる筈だ)。
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  さて、「歴史に必然なんかない」という表題に興味を持ったのでは全くない。
 「学者」批判、とくに「歴史」、「哲学」の学者への皮肉っぶりもよろしいのだが、目を惹いたのは、つぎの部分だ。
 古田は、ドイツやフランスではなく経験主義?のイギリスだというようなことを書いた直後にこう記す。以下、引用。
 「お手本はドイツ人やフランス人ではない。アングロサクソンになる。
 彼らに一度くらい敗けたからといって、いつまでもすねていると、敗け甲斐がない。ちゃんと真似ようではないか。//
 前にそう書いたら、編集部に削られたことがあった。」
 戦勝国にはフランスも入っている、などと瑣末なことを言いたいのではない。
 注目は、上の最後の部分、「編集部に削られた」だ。
 「すねている」とか「敗け甲斐」という表現の仕方が原因ではないだろう。
 アングロサクソン、つまりアメリカやイギリスを「ちゃんと真似よう」、英米をモデルにしよう、少なくとも(独仏よりも)支持しようという、多分に諧謔も込めた主張が、「編集部」のお気に召さなかったのだろうと思われる。
 どの雑誌の「編集部」か明記されていない。親英米の主張を許さないとは、どの雑誌(または新聞)だったのだろうか。
 また、「削られた」というのは必ずしも正確ではなく、「削ってほしい」、「表現を変えてほしい」という<要請>に古田が「しぶしぶ、いやいや」従ったのを「削られた」と表現した(そのように彼は感じた)可能性はある。
 しかし、確認すべきは、雑誌「編集部」なるものの<力の強さ>、表現・出版活動に関係する(むろん国家の一部ではないが)「権力」の大きさだ。
 対外的には個人名をあまり知られない、雑誌等の編集者、とりわけ編集長(・編集代表)、またついでに記せば、同じく個人名は知られることが一般には少ない、テレビ番組、とくに報道関連番組のディレクター類。
 この人たちかどんな本を読み、どんな人間関係の中にあり、どんな「歴史観」・「世界観」をもっているかは、現実には今の日本を相当程度に維持したり、変えたりしている。つまり、影響力が相対的に大きいように見える。
 原稿を提出した執筆者のその原稿の一部を「削る」(と少なくとも感じられる)ことをする権限を、「編集部」は有しているのだ。
 ついでに言えば、テレビの上記のディレクター類は、番組の基本方向や雰囲気を決定し、コメンテイターらを選別する「大きな権力」をもっているか、それを分有していると見られる。
 新潮社の冨澤祥郎とか、筑摩書房の湯原法史(西尾の新書<あなたは自由か>を担当)とかの個人名を、組織に埋没させることなくもっと公にすべきだ(なぜこんな本を編集して出版するのか問うべきだ)と、近年はとくに感じている。
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  2017年6月、西尾幹二はつぎのことを自らのウェブサイトで明らかにした。
 産経新聞6月1日付「正論」欄に掲載された文章は、一部についてつぎのような「変更・修正」を求められて、西尾も従ったものだ、という。
 元々の原稿—「櫻井よしこ氏は五月二十五日付『週刊新潮』で、『現実』という言葉を何度も用い、こう述べている。」
 変更後の実際に掲載された文章—「現実主義を標榜する保守論壇の一人は『週刊新潮』(5月25日号)の連載コラムで「現実」という言葉を何度も用いて、こう述べている。」
 このような変更・修正を求めるに際して同新聞「正論」欄担当者は、つぎの旨を西尾に語った、という。
 ①「櫻井氏の名前は出さないで欲しい」。②「同じ正論執筆メンバー同志の仲間割れのようなイメージは望ましくないから」。
 この件については、むしろ西尾幹二を擁護したい気分で、すでにこの欄に記した。→No.1607(2017年6月28日)
 西尾よりも、櫻井よしこの方が、産経新聞グループには貢献度が高いのだろう。
 あるいは産経新聞編集部にとっては少なくとも、「同じ正論執筆メンバー同志の仲間割れのようなイメージ」を抱かれないことの方が、「自由な」言論よりも、と大げさに書かなくても、たんなる個人名の明記よりも、大切なのだ。
 この件もまた、「編集部」の力強さ・「権力」の大きさを示している。
 そして、西尾幹二もまた自分の文章の大半が産経新聞に掲載されることを、かつまた継続して「正論」欄への寄稿の依頼(文章執筆の発注)を受けることを優先した。そして、あとで<ぐじゃぐじゃと>と不満を書きつつも、そのときはやむをえず?従ったのだろう。
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  月刊正論(産経新聞社)の編集について編集代表の力が大きそうであることは(かつ適切とは思えないことは)、つぎの人物がその立場にいたときに何度かこの欄に記したことがある。
 桑原聡。とくに、桑原聡①・No.1226〔2013.11.15) 桑原聡②・No.1225(2013,11.14)
 適菜収という訳の分からない文章書きを雑誌デビューさせたのは、この人物だと見られる。
 さらに恐ろしいことを書いていたのは、桑原聡編集長時代の月刊正論内の読者投稿欄を担当していた、川瀬弘至だった。この人物は、<読者への回答>の一部でこう明記した。 
 「日本と日本人を間違った方向に導くと判断した時には、我々は異見を潰しにかかります」。
 ナツィスは「民族」を理由に、ソヴィエト(・共産主義)は「思想」を理由に、少なくとも「体制・指導者への従順さ」の欠如を理由として、大量殺戮を行った。
 さいわい、川瀬弘至は産経新聞の一社員にすぎない。
 しかし、「我々」の「判断」した「異見」は「潰しにかかる」という言い方は、ナツィスや共産主義者、要するに「全体主義」者の意識・考え方を、十分に彷彿させるところがある。
 だから、今の日本で巧妙に生きていくためには、<文章書き>は、左であれ右であれ、上であれ下であれ、新聞・雑誌、出版社の「編集部」に従順でなければならず、反抗してはならない。
 むしろ某のように、自分のブログにその人物の写真まで掲載して褒めて、編集代表に媚び、原稿執筆の注文をできるだけ多く受けなければならない。
 一定の活字産業が(地上波テレビとともに)衰退気味であるらしいのは、けっこうなことだ。
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2366/西尾幹二批判025b/『国民の歴史』⑦b。

 つづき。
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   これまた既に指摘したことだが、「歴史」と「神話」という語の意味がそもそも不明なので、両者の「等価値」とか、「解釈の自由」の存否を説かれても、何ら心に、あるいは知的関心に、訴えるところがない。
 また、これも既述のことだが、そもそも、漢書・魏志倭人伝=「歴史」、日本書記・古事記=「神話」という、西尾における一般的印象または通念らしきものから出発していること自体に問題がある。日本書記・古事記は、決して、全体として「神話」ではないからだ。そんなことを主張しているのは、西尾が忌み嫌う日本の日本史学者にも一人もいないだろう。
 西尾幹二は、日本書記も、古事記も、全体を読まずに執筆している。おそらくは、今日に至るまで、両文献の全体をきちんと読んでいないだろう。
 そうでありながら、あれこれと論じている傲慢さは、いったいどこから来ていたのだろうか。
 2 さて、日本書記・古事記は全体として「神話」で、それを「解釈する自由」はなく、「全体として一つであり、人間の手による分解と再生を許しません」というのだとすると、非常に面白い帰結が出てくる。
 西尾幹二は知らないのだろうか、日本書記には、「一云」(一説では)とという書き方をしている箇所がしばしばあり、断定はしてはいないが、有力な「事実」または「伝承」として採用していると解されている。
 興味深い第一は、「神功皇后」と邪馬台国女王とされる卑弥呼との関係だ。邪馬台国・卑弥呼をめぐって、有名な記載がある。1300年前の日本人による「神話」が、中国史書を利用している例でもある。
 日本書記神功皇后39年の条には、面倒くさいからそのままの引用は避けるが、「魏志」に「明帝景初3年6月」に「倭女王」が〜を派遣して「朝貢」を求めたとある、等が記述されている。
 他にも魏志に依拠しての「倭王」への言及はあるが、ここではとくに「倭女王」とされ、そしてその人物は、元の魏志倭人伝の記述と照合すると「卑弥呼」と呼ばれた女王ということになる。
 つまり、日本書記は(年次の点はここでは省略するが)、「神功皇后」=卑弥呼と理解しているようだ。
 8世紀の日本書記、西尾の言う「神話」が、中国文献上の「卑弥呼」とは日本の文献に出てくる人物の誰かについて論及している。そして、日本で最初に、<神功皇后説>を主張したのだ。
 新編日本古典文学全集・日本書記1(小学館、1994)p.450.参照。
 西尾幹二はもちろん、神功皇后の実在を否定しないだろうし、その記載も「自分が神の世界と一体となる絶え間ない研鑽にほぼ近い」という「認識」として支持するに違いない(論理的に、そうなる)。
 そうだとすると、西尾は、邪馬台国=大和説にすでに立っていることになる。日本書記は「神武東遷」以降、「大和朝廷」は大和盆地を根拠としていた、という書き方をしているからだ(今の明日香村内部・近辺で位置は変わり、のちに難波、大津への移転?はあるが)。
 第二に、今でも「箸墓」と称されている古墳があるが、日本書記によると孝霊天皇の皇女とされる倭迹迹日百襲姫の墓が「箸墓」だと、同じく日本書記は明記している。崇神天皇10年の条。これも有名な記載部分。
 「即ち箸に陰を撞きて薨ります。乃ち…。故、時人、其の墓を号けて箸墓と謂ふ。」 
 同上日本書記1(小学館、1994)p.284.参照。
 「解釈を許さない」西尾幹二によれば、現在も墓らしく存在している「箸墓」の被葬者は、紛れもなく、倭迹迹日百襲姫になるはずだ。もちろん、この人物は孝霊天皇の娘として実在していた(はずだ)。
 とすると、「卑弥呼」の墓が箸墓だとするのは誤っているか、または「卑弥呼」=倭迹迹日百襲姫だということに論理的にはなるだろう。なお、神功皇后の「陵」に関する記載は日本書記にあるが(「狭城盾列陵」)、これと「箸墓」の関係は日本書記上は明瞭でない。
 と、このように、日本書記自体が魏志を含む中国の「史書」を読んでそれを参考にして「解釈」を加えたり、現在にまで続く問題にすでに一定の回答を与えたりしている。
 しかし、西尾幹二は日本書記(・古事記)をおそらくまともには読みすらしないで、「アホな」ことを書いている。
 ①「今の日本で邪馬台国論争が果てるところを知らないのを見ても、『魏志倭人伝』がいかに信用ならない文献であるかは立証されているともいえる」。
 ②1753年の『明史日本伝』の誤った叙述からして、それよりも1500年も古い「魏志倭人伝は歴史資料に値しない」という叙述は「もう終わってもいいくらいだ…」。
 以上、全集版『国民の歴史』、p.132-3。
 まことに余計で失礼ながら、西尾幹二という人物は—さすがに<文学>畑らしく情緒・レトリックはあっても?—、「推論」能力がないのではなかろうか。
 第一に、答えが出ないのは問題を提示する文献がそもそも信用できないからだ、ということにはならない。文献自体の問題とは別に、問題提示の全体の文章自体が完全に明瞭な解答を得られるだけの要素・ヒントを与えていない、ということもありうる。そもそも、当時の「邪馬台国」付近?の人々が「女王」の所在地を外国人に明確かつ正確に語るだろうか、という問題もある。
 第二に、同じ国の、と言っても全く違う王朝なのだが、より新しい国家的文献に誤りがあるからと言って、より古い文献も誤っている、ということには絶対に(論理的に)ならない。
 日本語能力と「論理」性があれば、高校生でもこんなことは書かない。
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 佐伯啓思監修・季刊雑誌『ひらく』の編集委員でもある新潮社出版部の冨澤祥郎さん、「真の保守思想家」(西尾2020年著『歴史の真贋』(新潮社)のオビ)とは一体、どういう意味かね?

2365/西尾幹二批判025a—『国民の歴史』⑦a。

  西尾幹二・国民の歴史(1999年)を手にしたのは発刊直後ではなく、2000年代半ばから後半で、このブログサイトを始める前だった。
 その頃は今から思えば単純に<反朝日新聞>・<反日本共産党>・<反共産主義>だったから、そのような自分の立場?と同じ陣営?にいる人の書物として入手した。
 そして、そのような基本的立場にだけ満足して、少しはじっくり見てさすがに「日本的」だと感じたのは挿入されている仏像の写真だけで、本文にはほとんど目を通さなかった。
 それが近年までつづいたのだが、最近に少しは熟読してみようと捲ってみると、10数年の時の経過もあってか、<粗さ>が目につき、ひどい。
 10数年前にじっくりと読んでいたら、この奇妙さ、単純に<つくる会>は立派なことをした(している)とは言えないことに、気づいただろうか。
 年寄りになっても、間違いを冒すものだ。
 自分もまた、二者択一的、二項対立的な思考、いや「思い込み」をしていたものだと、きわめて恥ずかしくなるし、貴重な日々と時間を西尾幹二らの文章を読んで無駄にしてきた、とも思う。
 しかし、責任はあげて自分自身にある。全てを自分が「引き受け」なければならない。
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  朝日新聞・日本共産党・共産主義に最も積極的に反対し、「闘って」いそうだ(そうに違いない)といわゆる<保守>について思い込んだのが、そもそも間違いだった。
 <保守>=反共というのは大いなる「錯覚」だった。この点が不満で、「反共」意識、「反共」性が乏しいか曖昧だと、この欄にしきりと書いていた時期があった。
 しかし、日本の<保守>の中枢点は決して「反共」、その意味での(江崎道朗の造語とは異なる意味での)「自由主義」ではないようだ。
 そのあたりを表現するために「観念保守」とか「原理保守」という言葉を作ってみたりもした。最近では「いわゆる保守」という語を用いている。
 「いわゆる保守」の結節点は「反共」・「自由主義」ではない。「日本」であり、「愛国」、そして「日本民族主義」だ。かつてのイメージの「右翼」に近い。
 「天皇」も挙げてよいかもしれないが、この点では「いわゆる保守」は、男系天皇制度死守で一致している。櫻井よしこも、西尾幹二も同じ。
 「保守」派といっても、「女性」・「女系」天皇容認派とは、かなり思考の仕方が異なる。
 かつて「生長の家」活動家によって、あるいは「つくる会」を追いかけるように設立された日本会議の活動家によって、例えば八木秀次を引っこ抜かれたりして?、「つくる会」が撹乱されて分裂に至った責任の重要な一つは、初代会長・西尾幹二にある。
 ある程度は推測になるが、そのような活動家の事務局や理事の中への浸透に気づかなかった西尾幹二の「政治的音痴」ぶりは甚だしいものがあるように思える。
 しかも、今日ではこちらの方が重要だが、そのような「痛い目」にあったにもかかわらず、日本会議主流派、櫻井よしこ、八木秀次等と同じく「男系」天皇は日本の伝統とうそぶいて、彼らと歩調をともにしているのが西尾幹二という「知識人」あるいは「売文業者」(=文章執筆請負自営業者)のなれの果てだ。
 かつて八木秀次等や日本会議に対して激しい批判をしたにもかかわらず、また櫻井よしこついても皮肉っぼい言辞を吐きながら、なぜ「仲間」でいるのか。それは、「正論」欄に原稿発表の場を設けてくれる(そして全てをまつめて一冊の本にしてくれたりする)産経新聞社に恩義を感じているからだろう。
 「恩義」というより、「寄生して拠り所としたい」という気分だろうか。
 西尾幹二は<産経文化人>にとどまることを選び、そこに最後の「身の置き所」を見出しているのだ。文章執筆を依頼してくれるところがあり、文章「発表」の場をもつというのは、経歴からしても<骨身に染み込んだ最低限の希求>であるに違いない。
 秋月瑛二には想像し難いことだが、誰からも、どの新聞社からも、どの雑誌編集部からも「お呼びがかからない」という状態には、この種の「知識人」・「売文業者」にはきっと耐えられないのだろう。
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  西尾幹二『国民の歴史』(1999、2009、2017)の最初あたりで、西尾はしきりと「神話」と「歴史」の関係等に関心をむもって叙述しているが、疑問も多いこと、のちの叙述と矛盾もあることはすでに触れた。
  すでに、一定の「矛盾」もこの欄で指摘してきた。
 ①1999年『国民の歴史』第6章にはこんな見出しがある。
 ・「歴史と神話の等価値」。・「すべての歴史は神話である」。
 文章を引用すると、例えばこうある。
 ・「古事記」や「日本書記」の「ばかばかしいつくり話に見える神話は歴史ではない」と決めつけてよいのか。
 ・「あえて言うが、広い意味で考えればすべての歴史は神話なのである」。
 ・漢書や魏志倭人伝も「広い意味での歴史解釈の材料の一つとして、少なくとも神話と等価値に扱われるべき性格のものである」。
 以上、全集版(16巻)、p.105-6。
 ②しかし、2017年の「つくる会」20周年集会への挨拶文にはこうある。全集第17巻、p.715。
 「歴史の根っこ」の把握のためいきなり「古事記」に立ち還ろうとする人がいるが、「そのまま信じられるでしょうか」。
 「神話と歴史は別であります。
 神話は解釈を拒む世界です。
 歴史は諸事実のなかからの選択を前提とし、事実を選ぶ人間の曖昧さ、解釈の自由をどうしても避けられませんが、神話を前にしてわれわれにはそういう自由はありません」。
  ついでに記すと、上の前者には、こんな文もある。「歴史」に対してというより、「科学」と対比しているようでもある。
 ①「神話を知ることは対象認識ではない。どこまでも科学とは逆の認識の仕方であらねばならぬ」。
 「認識とは、この場合、自分が神の世界と一体となる絶え間ない研鑽にほぼ近い。」。
 上の後者も「神話を前にして」「解釈の自由」はないと述べて、神話の「対象認識」性を否定しているようにも見えるが、以下のようにも語る。約20年を隔てて、共通性がないとは言えない。
 ②「神話は不可知な根源世界で、全体として一つであり、人間の手による分解と再生を許しません」。
 このあたりの論述の趣旨はよく分からない。というのは、西尾が100パーセント自分の頭から生み出した考えではなく、誰か別の者の著書を参照しているに違いないと思われるが、詳細な議論はなく、「認識」や「解釈」等の語についての立ち入った意味説明は全くないからだ。
 <歴史>に対しては「解釈の自由」があるが、<神話>に対してはない、というのが西尾の主張の骨子のようだ。しかし、その根拠・論拠は不明だ。
 なお、ニーチェがかつてもったこの人への影響力から思い切って推測・憶測だけすると、「悲劇」→「ギリシア悲劇」→「ギリシア神話」という連想が生まれる。
 西尾は、<ギリシア神話>に関するヨーロッパ(の誰か)の議論を、日本の「神話」へと単純に当てはめているのではないだろうか。もちろん、「日本の神話」に関する日本人文筆家に許されることでは全くないが。 
 さて、さらに言うと、1999年の文章の一つで、漢書や魏志倭人伝も「広い意味での歴史解釈の材料の一つとして、少なくとも神話と等価値に扱われるべき性格のものである」と述べるとき、この文のかぎりでは、「神話」も「広い意味での歴史解釈の材料」であることを前提にしているようだ。そうだとすると、「解釈」の対象にならないという言明と、矛盾している。
  どうせ<書きなぐっている>文章だとして、あまり詮索しない方がよいかもしれない。
 ただ、さらについでに、指摘しておくべき価値のあることがある。
 上の1の②の後半は、月刊Will2019年4月号の対談(11月号別冊・歴史通)でもそのまま使われている。
 西尾幹二は、同じ文章を<使い回している>。
 「神話と歴史は別であります。
 神話は解釈を拒む世界です。
 歴史は諸事実のなかからの選択を前提とし、事実を選ぶ人間の曖昧さ、解釈の自由をどうしても避けられませんが、神話を前にしてわれわれにはそういう自由はありません」。

 月刊WiLL2019年11月号別冊・歴史通、p.219。(=全集第17巻、p.715。)
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 (この項、つづく)
 季刊雑誌・佐伯啓思監修『ひらく』の編集委員でもある新潮社出版部の冨澤祥郎さん、「真の保守思想家」(西尾2020年著『歴史の真贋』(新潮社)のオビ)とは一体、どういう意味かね?

2340/古田博司・ヨーロッパ思想を読み解く(2014)①。

 古田博司・ヨーロッパ思想を読み解く—何が近代科学を生んだか(ちくま新書、2014)
  古田博司が東洋思想畑の研究者らしく韓国あたりの諸問題について発言していたことは知っていたが、韓国問題についてはもうほとんど関心がなくなっていたこともあって、この人の書物を読むこともなかった(但し、何冊かは所持していた)。
 たぶん昨年あたりに入手した上掲書は、面白い(正確には、面白そうだ)。
 思い切り簡略化して(つまり一部を勝手に削除して)、目次の一部を(体系構成を)紹介すると、こうなる。
 プロローグ/「向こう側の哲学」。
 第一部/「向こう側」をめぐる西洋哲学史。
  第一章・バークリ、第二章・フッサール、第三章・ハイデッガー、第四章・ニーチェ、第五章・デリダ。
 第二部/「向こう側」と「あの世」
  第六章・時間論、第七章・「生かされる生」、第八章・「あの世」と「向こう側」。以上。
 興味深いのは、たぶん「哲学」の基本問題に関係していることだ。それも、ある前提または枠の中で「認識」や「存在」を論じる、その態様の違いではなく、認識・知覚といったものの対象という前提そのものについて、「西洋」・「東洋」・「日本」には違いがある、と指摘していることだ(これをふまえて、バークリからデリダまでの叙述がある)。
 そうだとすると、日本人(または「日本」的思考・認識方法に馴染んだ者)がこの相違に気がつかないで「西洋哲学」に接近しても、根本的なところはほとんど何も理解できないことになるだろう。
 ——
  古田によると、「思考様式」には西洋・日本・東洋の三パターンがある。
 そのまた前提に古田がしているのは、ヒト・人間の「五感」(眼耳鼻舌身・ゲンニビゼッシン)による知覚・認識、ということだろう。問題は、それらと<外界>の関係だ。
 図表らしきものが付いているが、言葉で表現するとやや面倒になる。
 ①「すべて」を「この世」として対象とするのが、日本を除く「東洋」(単細胞型)。
 「あの世」のない儒教的世界観・「この世一元論」だ。
 ②日本は「この世」と「異界」を区別する(単純型)。
 「異界」にはギリギリまで接近するしかない。異界=「向こう側」を「探求」することはできず、「地道で職人的」に「接近」するしかない。
 ③ 西洋では、日本での「異界」の一部は「向こう側」であっても「この世」に属する。この「向こう側」は「この世にありながら見えない世界、我々の五感でとらえることのできない世界」だが、「直観や超越」でもってそれを「とらえ」ようとする(複雑型)。「直観」と「超越」の違いは省略。なお、「この世」に含まれる「向こう側」の奥に?日本では「異界」の一部である「神域」がある。
 「職人芸」によって「接近」するだけか、それとも何とかして「とらえる」のか。ここに日本と西洋の違いがあるようだ。
 そして、まだきちんと読んでいないが、この「とらえ」ようとする試行錯誤が、<西洋哲学史>だ、ということになるのだろう。
 ——
  哲学は森羅万象を対象とするとか、森羅万象の「万物」とかというが、視神経等によっては「見えない」世界(宇宙の深遠から体内のウイルス、電子・光子まで)、死後の世界、生前の世界(あるいは「歴史」)まで、哲学には、あるいはヒト・人間の「思考」には、ひょっとすれば、普遍的なものはなく、あるいは普遍的なものがあっても全部についてそうではなく、大まかには西洋・東洋(・日本)といった違いがあるのかもしれない。
 インドやイスラム世界を含めると、どうなるのだろうか。
 古田の上のような基本的主張・前提も、突っ込もうとすれば、ツッコミ所は多いだろう。
 しかし、「西洋哲学」を逍遥・渉猟して少なくともある程度は理解しているらしきことも含めて、古田には理性的・知性的な(あるいは「学者」らしい)<追求>の姿勢があると見られる。
 この点は、月刊正論(産経新聞社)の執筆者だとしても、渡部昇三、櫻井よしこらとは大きく異なるように見える。
 また、明らかに、西尾幹二よりも、はるかに深いところでの「思考」をしている、と見られる。
 ——
  西尾幹二は、「『哲・史・文』という全体によって初めて外の世界の全体が見える」と書いた(同・歴史の真贋(新潮社、2020))。
 「哲・史・文」の僅か三つだけでは「見えない」し、かつ西尾における「哲・史・文」はいずれも中途半端・表面だけ、ということはすでに書いた。問題は、そんなことよりも(これらも重要だが)、「外の世界の全体を見る」と西尾が記すときに、この人はその意味するところをどの程度深く「思考」したことがあるのか、だ。
 「外界を認識する」と書くことは簡単だが、自分の「外界」の中に、自分の手・足等は入るのか、自分の脳細胞は入るのか、といった問題がある。
 「認識」(見る)主体である自分=「私」とは何か、という問題もある。
 シロウトの秋月瑛二でも知っているような問題を、西尾幹二は思考したことすらないのではなかろうか。根本原因はおそらく、西尾における「自己」の異常肥大、「私」の絶対視にある。ずいぶんと日本的に?、「真実」などよりも絶対的に「私」が重要なのだ。
 これに比べれば、古田博司はずいぶんと冷静だし、深く物事を考えている。物事を、「言葉」の問題に、あるいは「解釈」の仕方だけに、矮小化することはないように(今のところは)感じられる。

2327/西尾幹二批判022—2020年6月12日分の再掲。

 以下、No.2239/2020.06.12/西尾幹二の境地・歴史通-月刊WiLL別冊⑥、のそのままの再掲。一部を削除しただけ。
 **
 
 西尾幹二(1935~)の遅くとも明確には2019年以降の<狂乱>ぶりは、戦後「知識人」または「評論家」、少なくとも<いわゆる保守>のそれらの「行く末」、最後あたりにたどり着く「境地」を示しているだろう。
 西尾幹二=岩田温「皇室の神格と民族の歴史」歴史通/WiLL11月号別冊(ワック)=月刊WiLL2019年4月号の再収載。
 何度めかの引用になるが、西尾幹二は、こう明言した。
 ①「女性天皇は歴史上あり得たが、女系天皇は史上例がないという認識は、今の日本で神話を信じることができるか否かの問いに他なりません。
 大げさにいえば超越的世界観を信じるか、可視的世界観しか信じられないかの岐れ目がここにあるといってよいでしょう。
 …、少しは緩めて寛大に…と考える人…。しかし残念ながらそれは人間世界の都合であって、神々のご意向ではありません」。p.219。
 ②「日本人には自然に対する敬虔の念があります。…至るところに神社があり、儀式はきちんと守られている。
 …、やはり日本は天皇家が存在するという神話の国です。決して科学の国ではない。だから、それを守らなくてはなりません。」p.225。
 上の最後に「天皇家」への言及がある。
 ところでこれを収載する雑誌=歴史通・月刊WiLL11月号別冊(2019)の表紙の下部には、現天皇と現皇后の両陛下の写真が印刷されている。
 ところが何と、広く知られているはずのように、西尾幹二は、中西輝政や八木秀次・加地伸行らとともに、現皇后が皇太子妃時代に皇后就位資格を疑い、西尾は明確に「小和田家が引き取れ」と書き、秋篠宮への皇統変化も理解できる旨を書いた人物だ。
 平成・令和代替わり時点での他の雑誌に西尾幹二は登場していた。むろん、かつての皇太子妃の体調等と2019年頃以降とは同一ではないとは言える。状況が変わったら、同じ事を書く必要はないとも言える。
 しかし、誠実で真摯な「知識人」・「評論家」であるならば、西尾幹二は編集部からの執筆依頼にホイホイと乗る前に、あるいは乗ってもよいがその文章や対談の中で、かつての皇太子妃(・現皇后)、ひいては皇太子(・現天皇)について行った自分の言論活動について、何らかの感想を述べ、態度表明をしておくべきだろう(かつてはそれとして正当な言論活動だった、との総括でも論理的には構わない)。
 西尾幹二は、自らに直接に関係する「歴史」についても、見ようとしていないのではないか。別に触れるようにこれは<歴史教科書問題>についても言えるが、自らに関係する「歴史」を無視したり、あえて触れないようにしているのでは、とても「歴史」をまともに考察しているとは思えない。むろん「歴史家」でも、「歴史思想家」でもない。「歴史」に知識が多い「評論家」とすら言えないだろう。
 
 上掲の対談部分できわめて興味深いのは、西尾は「神話」に何度も言及しつつ、以下の二点には論及しようとはしていないことだ。
 第一。「神話」とか「神々のご意向」と、西尾は語る。
 ここでの神話とは日本で日本人として西尾は発言しているのだから、「日本(の)神話」あるいは「日本(の)神話」上の「神々」のことを指して、上の言葉を使っていると理解する他はないだろう。まさか、キリスト教「神話」またはキリスト教上の「神々」ではないだろう(仏教の「神」はふつうは「神」とは言わない)。
 しかるに、西尾幹二は、「日本神話」という語も、また、<古事記>という語も<日本書記>という語も(その他「~風土記」も)、いっさい用いない。
 これは異様、異常だ。使われていない言葉にこそ、興味深い論点が、あるいは筆者の意図があったりすることもある。
 そしてもちろん、「女系天皇は史上例がない」という西尾の<歴史認識>の正しさを根拠づける「日本(の)神話」上の叙述を一句たりとも、一文たりとも言及しないし、引用もしない。
 これもまた、異様、異常だ。なお、p.223では対談相手の岩田温が、<天照大御神の神勅>に言及している。これにすら、西尾幹二は言及することがない。
 だが、しかし、この「神勅」はかりに「天皇(家)」による日本統治の根拠になり得るとしても(もちろん「お話」として)、女系天皇の排除の根拠には全くならない。(さらには、天照大御神は古事記や日本書紀上の「最高神」として位置付けられているというのも、疑わしい一つの解釈にすぎない。)
 第二。「神話」というのは、世界でどの程度がそうなのかの知識はないが、何らかの「宗教」上のものであることが多い。または、何らかの「宗教」と関係していることが多い。ここでの「宗教」には、自然や先祖への「信仰」を含む、<民俗宗教>的なものも含めておく。
 さて、西尾幹二の発言に特徴的であるのは、「神話」を熱心に語りながら、「宗教」への言及がいっさいないことだ。
 上に一部引用した中にあるように、「神社」に触れている部分はある。また、<宮中祭祀>にも言及している。
 しかし、何故か、西尾幹二は、「神道」という語・概念を用いない。「神社神道」という語はなおさらだ。
 かと言って、もちろん「宗教」としての「仏教」に立ち入っているわけでもない。
 これまた、異様、異常だ。 いったい、何故なのだろうか。
 抽象的に「神話」で済ませるのが自分のような「上級かつ著名」な「知識人・評論家」がなすべきことで、「神道」(・「神社神道」)といった言葉を使うのは「下品」だとでも傲慢に考えているのだろうか。
 それとも、かなりの推測になるが、「神道」→「神社神道」→「神道政治連盟」→日本会議、という(相当に常識化している)連想を避けたいのだろうか。
 西尾幹二は櫻井よしこ・日本会議は<保守の核心層>ではないとそのかぎりでは適切な批判をし、日本会議・神道政治連盟の大多数が支持している安倍晋三政権を「保守内部から」批判したりしてきた。そうした経緯からして、日本会議・神道との共通性または自らの親近性、西尾幹二自身もまた広く捉えれば日本会議・櫻井よしこらと同じ<いわゆる保守>の仲間だ、ということを感じ取られたくないのだろうか。
 
 神話について叙述しながら、かつまた「神話と歴史」の関係・異同を論じながら、つまり「神話」と「歴史」という語・概念は頻繁に用いながら、<宗教>に論及することがない、またはきわめて少ないのは、西尾幹二のつぎの1999年著でも共通している。
 西尾幹二・国民の歴史/上(文春文庫、2009/原著・1999)。
 ここで扱われている「歴史と神話」は日本に固有のそれではなく、視野は広く世界に及んでいるようだ(と言っても、欧州と中国が加わっている、という程度だと思われる)。
 しかし、この主題は日本の「神話」と中国の「歴史(書)」=魏志倭人伝の比較・優劣に関する論述の前段として語られていること、または少なくともつながっていることを否定することはできない。
 そして、きわめて興味深いのは、日本または日本人の「神話」あるいは古代日本人の「精神世界」に立入りながら、西尾幹二は決して「神道」とか「仏教」とかを明確には論述していないこと、正確にいえば、「日本の神道」と「日本化された仏教」を区別して叙述しようという姿勢を示していないことだ、と考えられる。
 西尾幹二は「神道」と「仏教」(や儒教等)の違いを知っているだろうが、この点を何故か曖昧にしている。
 これは不思議なことだ。
 しかし、西尾の主眼は<左翼>ないし<左派>歴史観に対して『ナショナリズム』を対置することにあるのだとすると、上のことも理解できなくはない。
 この書には(原書にも文庫本にも)「日本文明(?)」の粋と西尾が思っているらしき日本の彫像等による「日本人の顔」の写真が掲載されている。文庫本に従うと(原著でも同じだった筈だが)、つぎの16だ。
 <2021.03で削除>
 なお、口絵上の上記以外に、本文途中に、つぎの写真もある。便宜的に通し番号を付す。p.395以下。 
 <2021.03で削除>
 一見して明らかなように、これらは全て<仏教>上のもので、現在は全て仏教寺院の中にある。口絵部分の最後の2つの⑮・⑯が見慣れた仏像類とやや異なるが、あとは紛れもなく「仏像」または「仏教関連像」と言ってよいものだと考えられる。
 しかし、興味深いのは、西尾幹二が関心をもってこれらに論及して叙述しているのは、日本人の「精神」や日本の「文化」・「美術」であって、<仏教という宗教>(の内容・歴史)では全くない、ということだ。
 妙法院三十三間堂は平清盛が後白河法皇のために建設して献じた、とされる。
 それはともかく、上のような「日本人の顔」を描く像を「文化」ないし「美術」、広くは日本「精神」の表現とだけ捉えて論述するのは、大きな限界があるように考えられる。
 つまり、諸種・各種の「仏教」・「仏典」等に立ち入って初めて、これらの意味を真に理解できるだろう。
 もちろん、日本「文化」・「文明」や「美術史」上、貴重なものではあるだろう。
 だが、それ以上に踏み込んでいないのが、さすがに西尾幹二なのだ。
 出典を明らかにできないが、西尾幹二は<特定の宗教に嵌まることはできない>と何かに書いていたことがある。
 この人は、仏教の各宗派にも諸仏典にも、何の興味も持っていないように見える。
 おそらくは、日本の仏教または仏教史をきちんと勉強したことがない。あるいは多少は勉強したことがあっても、深く立ち入る切実な関心をこの人は持っていない。
 同じことは、じつは、日本の「神道」についても言えるのではないか、と思っている。
 西尾幹二は、神道の内実に関心はなく、その<教義>にも<国家神道なるものの内実>にもさほどの関心はない。
 そのような人物が何故、「神社」に触れ、「宮中祭祀」に触れ、女系天皇を排除すべき「天皇の歴史」を語ることができるのだろうか。

 「神社」とは神道の施設ではないのか? 「宮中祭祀」は無宗教の行為なのか? 宮中三殿に祀られている「神」の中に、仏教上の「神」に当たるものはあるのか。
 結局のところ、「神社」も「宮中祭祀」も、「天皇」も、かつての皇太子妃(・皇太子)批判も、<神道-天皇>を永続的に守りたいという気持ち・意識など全くなく、西尾幹二は文章を書いている、と思われる。
 <天皇>に触れても、少なくとも明治維新以降、「仏教」ではなく「神道」が<天皇の歴史>と密接不可分の関係を持たされた、というほとんど常識的なことにすら、西尾幹二はまともに言及しようとしない。
 いったい何故か? いったい何のためか?
 おそらく、西尾幹二の<名誉>あるいは<業界での顕名>からすると、そんなことはどうだってよいのだろう。戦後「知識人」あるいは「評論家」という自営文章執筆請負業者の末路が、ここにも見えている。
 **
 以上。
 西尾幹二は、新潮社・冨澤祥郎がおそらく記述しただろうような、<真の保守思想家>か(西尾・新潮社刊行2020年著オビ)、あるいは<知の巨人>か(国書刊行会ウェブサイト)。
 笑わせないでいただきたい。

2295/西尾幹二批判015。

 
 つぎの書の存在にようやく?気づき、古書で入手したので、少しばかりコメントをする。
 西尾幹二・歴史の真贋(新潮社、2020)。
  全体を熟読するつもりは、今のところ全くない。賢明な読者は、本棚の端に飾ることはあっても、そんな無駄な作業をしない方がよいだろう。
 書物の体裁(オビを含む)に目を取られて、さぞや立派な内容をもつ本だろうなどと誤魔化されてはいけない。
 新潮社編集部の冨澤祥郎の作文だろうか、それとも西尾と富澤が話しあって決めたのだろうか、いずれにせよ、西尾も了解していると見られるオビの文にこうある。
 「…、崖っぷちの日本に 必要なものは何かを 今こそ問う。
 真の保守思想家の集大成的論考
 <保守>とか<真の保守>という形容も気にならなくはないが(保守とは?、「真の保守」とは?)、それらよりも「思想家」と謳っていることが目を惹く。
 1999年の『国民の歴史』について、西尾が2009年に「私の思想が思想としては読まれず、本の意図が意図どおりに理解されないのは遺憾でした」等と書いていたことを知って、最近の02/14=No.2285でこう書いた。
 「もちろん、この人〔西尾幹二〕は「思想家」ではなく、<評論家または時事評論家、端的には、一定の出版業界内部での『文章執筆請負自営業者』>にすぎない」。
 但し、「文章執筆」の対象には何「評論」の他に「随筆」も挙げておくのがより正確かもしれない。
 あるいはまた、2011年に西尾が自ら語った自己認識を付け加えれば、以下のようになる。
 「『私』が主題」である「私小説的な自我のあり方で生きてきた」、そのような「評論家」または「随筆家」であり、端的に言えばそのような<一定の出版業界内部での文章執筆請負自営業者>だ。
 他者から「思想家」と(かつ可能ならば「優れた、偉大な思想家」と)見なしてほしいというのは西尾幹二の最大の?宿願かもしれない(特定の一部少数者からを除いて、叶うことがないのは気の毒ではあるが)。
 その他、いろいろと自分自身について<私はこうだ(であるはずだ、と言われている)>と西尾が思っているその他の様々の属性・形容は、A・ダマシオが論述していると浅野孝雄が紹介・検討する<自伝的自己>に該当するだろう。
 この<自伝的自己>について、ダマシオ・浅野によるつぎの文を参考資料として掲げておこう。やはり、ダマシオ・浅野による。
 「人間の栄光と惨めさ、喜劇と悲劇は、フィクションである自伝的自己への固執から生じる」
 西尾幹二における<栄光と惨めさ、喜劇と悲劇>、<自伝的自己への固執>。さて、この人自身は、どう感じているだろう。
  あらためてつくづく感じるのだが、戦後日本の「文学部」出身者が、「文学部」に帰属した過去に拘泥・執着することを続ければどうなるかを、西尾幹二自身が(そしておそらくこの書物も)示しているだろう。
 こうあらためて感じるのも、上の書の「あとがき」にある文章からによる。
 「あとがき」は文学部は「哲・史・文」だとかつて(高校生時代に?)教えられた、から始まり、つぎの文章で結ばれている。
 「『哲・史・文』という全体によって初めて外の世界の全体が見えるという若い日以来の私の理想とその主張に、あらためて活路を拓きたい」と念じ、この書を上梓する。p.359。
 さて、つぎの二つの感想が生じる。つつしんで?指摘させていただく。
 第一。「哲・史・文」だけでは、決して「外の世界の全体」を見ることはできない。社会、自然、人間(・人体)等に関する教養・知識をふまえてこそ、「外の世界」を全体として、総体として、総合的に「見る」ことができる(秋月はそうできている、という意味ではない。むしろそうした教養・知識の乏しさを私は大いに恥じている)。
 この点は、これまでも書いたし、これからも指摘するだろう。
 第二。「哲・史・文」のいずれについても、西尾幹二は中途半端にしか知らない。まるでこれら全体を知っているか、または少なくともそう努めきた、という書きぶりになっているが、とんでもない<思い上がり>だ、という他はない。
 この点は、これまでも書いたし、これからも指摘するだろう。
 途中に、自分は「ニーチェ研究家」とされているが「正しくない」、こう言うのは「専門家でありたくない、あってはならないという私の原則が働いている」からだ、とある(p.356)。この部分は、西尾自身が何の専門家でもないことを自認しているということを示していて、当然の自認ではあるが一つの意味はあるだろう。
 それよりも、特定の専門領域を持たない「哲・史・文」全体の通暁者?だという<自負>を表現していると見られることの方が重要だろう。そして、その自負は間違いであり、とんでもない<思い上がり>だ。
 そして、何の専門家でないとすれば、「哲・史・文」のいずれの分野・世界についても、西尾幹二はただの<しろうと>(に少し毛が生えた者?)であるはずだ。
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