「大ウソ26追」のさらに追加たる性格をもつが、番号数字を改める。
前回の最後に書いたのは、今回の伏線でもある。
一 岩波書店刊行のロバート・W・デイヴィス〔内田健二=中嶋毅訳〕・現代ロシアの歴史論争(1998)p.239以下は、1920年8月に始まった<タンボフ県の農民反乱>-指導者の名から「アントーノフ運動」ともいう-に対する中央政府=党中央の命令・指令類の全文又は主要部分を紹介している。これらは「チェーカー〔秘密警察〕報告」を掲載する、1994年刊行のKrest'yanskoe vosstanie という書物(史料集 ?)によるらしい(p.437の注記参照)。
上の反乱は「恐るべき無慈悲さ」で鎮圧された(p.238)。タンボフ県ソヴィエト議長・政府全権代表・トゥハチェフスキー(タンボフ赤軍司令官)は連名で、1921年6月11日付の「命令第171号」を発した。内容は、以下のとおり。p.239-p.240による。
「一 自分の名前を明言することを拒否する市民は裁判なしで即座に処刑される。
二 武器が隠されている村の居住地では人質がとられ、もし武器が引き渡されなければ人質は銃殺刑に処せられる。
三 もし隠匿された武器が発見されたときは、その家族のうちの年長の就業者は裁判なしで即座に銃殺刑に処せられる。
四 住居に匪賊を隠している家族は逮捕され県外に追放される。その財産は没収される。その家族の年長の就業者は裁判なしで即座に銃殺刑に処せられる…。
六 匪賊の家族が逃亡した場合には、その財産はソヴィエト権力に忠実な農民のあいだで分配され、住居は焼き払うか取り壊される。
七 この命令は厳格にそして無慈悲に遂行されるべし。」
この命令について「知っていておそらくそれに反対しなかったレーニン」(p.242)は、ブハーリンに対して鎮圧に関する報告書を送ったが、トゥハチェフスキーらの処置は「全く便宜的なもので正しい」とし、報告書につぎの書き込みをした(p.242による)。
「ブハーリンへ--秘密。大いにうろたえた罰として一行一行読み通したのち、これを返却せよ。/〔1921年〕八月一七日 レーニン。」
つぎに、上記の「命令第171号」の翌日、同年6月12日に以下の「簡潔第二の命令」が発せられた。著者は「より一層恐ろしいもの」と形容する。p.240。
「一 匪賊が隠れている森林は毒ガスで浄化される。その際、毒ガスの雲が森林全体に広がって、隠れているものすべてを皆殺しにするよう注意深く準備するものとする。
二 砲兵監は必要数の毒ガス弾と必要な専門家を直ちに送るものとする。
三 軍部隊の指揮官はこの命令を断固として精力的に遂行する。
四 実施された処置を報告すべし。」
この毒ガス使用命令がどの程度実施(現実化)されたかははっきりしないが、著者はつぎのように書く。p.241。
「毒ガス命令の実際の適用についての証拠はいくぶん曖昧である。しかし軍のある文書ははっきりと、一つの郷で五九の化学兵器を投下したことに言及している」。
二 以上は、「命令(指令)」の具体的内容の紹介。岩波書店刊行の本による。
タンボフの農民反乱については、上のデイヴィスの書から、とりあえず次の二つの興味深いことを知ることができる。
第一に、この反乱が鎮圧され収束したのは1921年7月末で、レーニンによるネップ政策の導入決定(党大会、1921年3月)よりも後だ、ということだ。また、この時点で、3月の決定(=現物税の採用)はこの地域では実施(現実化)されていなかった、ということも分かる。以上、p.245。
第二に、<タンボフの農民反乱>の「綱領」はエスエル(社会革命党)の理念に強く影響されたもので、①憲法制定会議の開催・自由選挙、②出版の自由、③土地の社会化、を要求していた、とされる(p.244)。逆にいうと、これらはボルシェヴィキ政権のもとでは実施されていない、又は保障されていないという実態があったわけだ。
また、「食糧とその他の必需品は協同組合を通じて供給される」などの経済政策を反乱農民側は主張した。そして、「この経済分野の提案は多くの点でネップと共通していた」とされる(p.244)。
食糧の供給は<戦時共産主義>のもとでは基本的に、農民からの(余剰部分の)直接徴用(徴発)とその都市住民への配給によっていた。これを<ネップ>によって改めたのだったが、同様の施策の要求はすでに反乱農民側に見られ、中央政府・党中央は当初の時点ではこれを拒否していた、ということになる。
デイヴィスの叙述に戻ると、こうある。p.244。
タンボフの歴史家たちによれば、「アントーノフのネップ」は「決してあらわれなかった」。「タンボフ農民の闘争は『レーニンの』ネップの導入を刺激した」。歴史家たちのこの論じ方は「説得的」だ。
以上、岩波書店刊行の本による。レーニンらボルシェヴィキは、「大ロシア」国民との間で、国民を敵として「戦争」をしていた(「内戦」)。常識的な意味での政治も行政も、存在しない。
前回の最後に書いたのは、今回の伏線でもある。
一 岩波書店刊行のロバート・W・デイヴィス〔内田健二=中嶋毅訳〕・現代ロシアの歴史論争(1998)p.239以下は、1920年8月に始まった<タンボフ県の農民反乱>-指導者の名から「アントーノフ運動」ともいう-に対する中央政府=党中央の命令・指令類の全文又は主要部分を紹介している。これらは「チェーカー〔秘密警察〕報告」を掲載する、1994年刊行のKrest'yanskoe vosstanie という書物(史料集 ?)によるらしい(p.437の注記参照)。
上の反乱は「恐るべき無慈悲さ」で鎮圧された(p.238)。タンボフ県ソヴィエト議長・政府全権代表・トゥハチェフスキー(タンボフ赤軍司令官)は連名で、1921年6月11日付の「命令第171号」を発した。内容は、以下のとおり。p.239-p.240による。
「一 自分の名前を明言することを拒否する市民は裁判なしで即座に処刑される。
二 武器が隠されている村の居住地では人質がとられ、もし武器が引き渡されなければ人質は銃殺刑に処せられる。
三 もし隠匿された武器が発見されたときは、その家族のうちの年長の就業者は裁判なしで即座に銃殺刑に処せられる。
四 住居に匪賊を隠している家族は逮捕され県外に追放される。その財産は没収される。その家族の年長の就業者は裁判なしで即座に銃殺刑に処せられる…。
六 匪賊の家族が逃亡した場合には、その財産はソヴィエト権力に忠実な農民のあいだで分配され、住居は焼き払うか取り壊される。
七 この命令は厳格にそして無慈悲に遂行されるべし。」
この命令について「知っていておそらくそれに反対しなかったレーニン」(p.242)は、ブハーリンに対して鎮圧に関する報告書を送ったが、トゥハチェフスキーらの処置は「全く便宜的なもので正しい」とし、報告書につぎの書き込みをした(p.242による)。
「ブハーリンへ--秘密。大いにうろたえた罰として一行一行読み通したのち、これを返却せよ。/〔1921年〕八月一七日 レーニン。」
つぎに、上記の「命令第171号」の翌日、同年6月12日に以下の「簡潔第二の命令」が発せられた。著者は「より一層恐ろしいもの」と形容する。p.240。
「一 匪賊が隠れている森林は毒ガスで浄化される。その際、毒ガスの雲が森林全体に広がって、隠れているものすべてを皆殺しにするよう注意深く準備するものとする。
二 砲兵監は必要数の毒ガス弾と必要な専門家を直ちに送るものとする。
三 軍部隊の指揮官はこの命令を断固として精力的に遂行する。
四 実施された処置を報告すべし。」
この毒ガス使用命令がどの程度実施(現実化)されたかははっきりしないが、著者はつぎのように書く。p.241。
「毒ガス命令の実際の適用についての証拠はいくぶん曖昧である。しかし軍のある文書ははっきりと、一つの郷で五九の化学兵器を投下したことに言及している」。
二 以上は、「命令(指令)」の具体的内容の紹介。岩波書店刊行の本による。
タンボフの農民反乱については、上のデイヴィスの書から、とりあえず次の二つの興味深いことを知ることができる。
第一に、この反乱が鎮圧され収束したのは1921年7月末で、レーニンによるネップ政策の導入決定(党大会、1921年3月)よりも後だ、ということだ。また、この時点で、3月の決定(=現物税の採用)はこの地域では実施(現実化)されていなかった、ということも分かる。以上、p.245。
第二に、<タンボフの農民反乱>の「綱領」はエスエル(社会革命党)の理念に強く影響されたもので、①憲法制定会議の開催・自由選挙、②出版の自由、③土地の社会化、を要求していた、とされる(p.244)。逆にいうと、これらはボルシェヴィキ政権のもとでは実施されていない、又は保障されていないという実態があったわけだ。
また、「食糧とその他の必需品は協同組合を通じて供給される」などの経済政策を反乱農民側は主張した。そして、「この経済分野の提案は多くの点でネップと共通していた」とされる(p.244)。
食糧の供給は<戦時共産主義>のもとでは基本的に、農民からの(余剰部分の)直接徴用(徴発)とその都市住民への配給によっていた。これを<ネップ>によって改めたのだったが、同様の施策の要求はすでに反乱農民側に見られ、中央政府・党中央は当初の時点ではこれを拒否していた、ということになる。
デイヴィスの叙述に戻ると、こうある。p.244。
タンボフの歴史家たちによれば、「アントーノフのネップ」は「決してあらわれなかった」。「タンボフ農民の闘争は『レーニンの』ネップの導入を刺激した」。歴史家たちのこの論じ方は「説得的」だ。
以上、岩波書店刊行の本による。レーニンらボルシェヴィキは、「大ロシア」国民との間で、国民を敵として「戦争」をしていた(「内戦」)。常識的な意味での政治も行政も、存在しない。