Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime(1994年).
「第1章・内戦:初期の戦闘(1918年)」のつづき。
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第一節/赤軍が勝利した理由①。
(01) ほとんど3年のあいだロシアを引き裂いた内戦は、13世紀のモンゴルの侵略以降では、ロシアの最も破滅的な事件だった。
語ることができないほどの暴虐行為が、敵意と恐怖から行なわれた。数百万人が、戦闘、および寒さ、飢え、病気で死んだ。
ロシアは、戦闘が終わるとすぐに、ヨーロッパの人々が経験したことのない飢饉にさらされた。大規模の飢饉で、数百万人以上が死んだ。
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(02) ロシア革命に関して用いられる多くの用語と同じく、「内戦」(Civil War)には、一つ以上の意味がある。
この語は、通常の用語法では、1917年12月から1920年11月まで続いた赤軍と多様な反共産党軍または「白」軍の間の軍事闘争のことを指している。1920年11月に、白軍勢力の残存者はロシアの領土から立ち去った。
しかしながら、もともとは、「civil war」はもっと広い意味をもっていた。
それは、レーニンにとっては、「プロレタリアートの前衛」である彼の党と国際的「ブルジョアジー」の間の世界的な階級戦争を意味した。この語の最も包括的な意味での「階級戦争」であって、軍事闘争はその一面にすぎなかった。
レーニンは、権力奪取後ただちに内戦が勃発するのを期待したのみならず、内戦を引き起こすためにこそ、権力を奪取した。
彼にとっては、十月のクー・デタは、それが世界的な階級闘争につながらなければ、無意味な冒険だった。
革命の10年前、Paris Commune を分析して、彼は、内戦を惹起することができなかったことがその崩壊の原因だった、という点で、マルクスに同意した。(脚注1)
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(脚注1) Lenin, PSS, XVI, p. 454. マルクスは、1871年4月12日のKugelmann 博士への手紙で、コミューンの者たちは内戦の開始を望まなかったがゆえに敗北した、と書いた。Karl Marx, Pis’ma k L. Kugel’manu(Petrograd, 1920), p. 115.
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レーニンは、世界大戦が勃発した瞬間から、戦争の終止を呼びかける平和主義の社会主義者を非難した。
本当の革命は、平和を望まなかった。「平和は、philistines〔ペリシテ人〕と僧侶のスローガンだ。プロレタリアのスローガンは、『内戦』でなければならない」。(注01)
ブハーリンとPreobrazhenskii は、広く読まれた共産主義読本で、つぎのように書いた。
「内戦は、革命の表現だ。…
内戦なくして革命が可能だと考えるのは、革命は『平和』革命であり得ると考えるのと同じだ。」(注02)
トロツキーはもっとあからさまに、こう書いた。
「ソヴィエトの権威は、組織された内戦だ」。(注03)
このような宣明から見て、内戦は外国および国内の「ブルジョアジー」によって共産党指導者に押しつけられたものではない、ということは明確だ。内戦は、共産主義者の政治綱領の中心にあった。
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(03) 従前のロシア帝国(ドイツによる占領下を除く)の住民にとって、内戦は1917年十月に始まった。ボルシェヴィキはその月に、臨時政府を打倒し、対立諸政党の弾圧へと進んだ。その当時にすでに、ロシアの新聞紙は、まだ「赤」軍も「白」軍もなかったが、〈Grazhdanskaia voina〉(内戦)と題するコラムを掲載した。その見出しのもとで報告されていたのは、ボルシェヴィキとその権力の承認を拒否する者たちの間の対立だった。
ボルシェヴィキが好んで語った「二つの戦線での戦争」は、現実だった。そして、70年後ですら、どちらの側により多くの力が注がれたのかを決定するのは困難だ。
軍事力がしばしば行使された民間人に対する闘争だったのか、それとも、白軍との間の軍事闘争だったのか。
1918年4月23日、レーニンは、表面的には驚くほど馬鹿げていると思える主張を行なった。—「内戦は主としては終わった、と確実に言うことができる」。(注04)
こう述べたとき、彼は、明らかに、まだほとんど形成されていなかった白軍との戦争ではなく、民間人対立者との間の戦争を意味させていた。
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(04) この章と次の章は、主として、用語の在来的な意味での、すなわち軍事的な意味での内戦、を扱う。
この対象は、きわめて複雑だ。莫大な領域に散らばる、多数の抗争を含んでいるからだ。
主要な諸軍隊に加えて、頻繁に味方する側を変える、短命のパルチザン勢力や、外国の兵団の諸分遣隊があった。
ロシアのような巨大で多様な帝国が分解し、その断片があらゆる方向へと飛ぶとき、一貫した構造は存在しない。
そして、一貫した構造がないとき、歴史家は、現実を歪めるというリスクを冒してのみ、何らかの構造を叙述するふりをすることができる。
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(05) ロシアの内戦は、三つの主要な戦線で戦われた。南部、東部、北西部だ。
その内戦は、三つの主要な段階を踏んだ。
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(06) 第一の段階は、ボルシェヴィキ・クーからフランスでの休戦協定の調印まで、1年のあいだ続いた。
1917-18年の冬に、将軍のAlekseev とコル二ロフ(Kornilov)によるドン・コサック地域での義勇軍(Volunteer Army)の形成とともに始まった。
半年後に、中央Volga とシベリアで、チェコ軍団の反乱があった。その結果、その地域で、二つの反ボルシェヴィキ政権を巻き込む東部戦線が生まれた。それらの政権は独自の軍隊をもち、それぞれ、Samara(Komuch)と、Omsk(シベリア政府)に所在した。
この最初の段階には、前線が急速に変化した、小さな部隊が散発的に戦闘した、という特徴がある。
共産党の文献では、この段階は、ふつう「パルチザン戦闘」(partizanshchina)の時期として言及される。
この段階のあいだ、外国の兵団—反ボルシェヴィキ側のチェコ・スロヴァキア兵団、ボルシェヴィキ側のラトヴィア兵団 —は、本来のロシア軍よりも大きな役割を演じた。
赤軍は、ようやくこの段階の最後、1918年秋に、形成された。
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(07) 第二の、内戦の決定的段階は、1919年3月から11月まで、7ヶ月にわたった。
最初は、東部のKolchak 提督の軍、南部のDenikin 将軍の軍が、赤軍を打倒して退却を強いながら、果敢に、モスクワへと進軍した。
北西部では、Iudenich 将軍が、ペトログラードの郊外に侵入した。
だが、そのときに赤軍は戦いの潮目を変え、先ずKolchak(1919年6月-11月)、次いでDenikin とIudenich(1919年10月-11)を打ち負かした。
Kolchak とDenikin の両軍の戦闘能力は、ほとんど同時に、1919年11月14-15日の頃に壊滅した。
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(08) 内戦の最後の段階は、1920年の拍子抜けするWrangel のエピソードだった。Denikin 軍の残兵はしばらくのあいだ、クリミア半島で、何とか強力さを維持した。
この勢力は、ポーランドとの戦争の勃発(1920年4月)によって注意が逸らされることがなければ、巨大で優越的な赤軍によって、すみやかに総崩れしていただろう。(脚注2)
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(脚注2)共産党歴史家は、通常、1920年のソヴィエト・ポーランド戦争を内戦の一部と見なす。この見方は、西側の若干の歴史家も受容してきた。しかしながら。このような扱いは、正当化するのが困難だ。国の政治的支配をめぐるロシア人の間の闘争ではなく、領土めぐる主権国家の間の在来的戦争であるからだ。こうした誤解は、1920年代のスターリンの論考に由来するように思える。スターリンは、その論考でポーランドのウクライナ侵攻を「協商諸国の第三次作戦」(Tretii Pokhod Antanty)と称した。最初の二つは、Denikin とKolchak の作戦行動だとした。(Pravda, No. III(1920年5月25日), p.1. Norman Davies, White Eagle, Red Star(London, 1972), p.89が引用。)
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この戦争が終わったあとすぐに、赤軍は、注意の全てをWrangel に向けた。
1920年11月、イギリスとフランスの海軍は、白軍が残したものをConstantinople へと退避させた。
これは、軍事的な言葉の意味でのロシアの内戦の終結だった。
政治的、社会的意味では、内戦が本当に終わったわけではなかった。
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(09) ソヴィエトの歴史学、とくにスターリン支配のもとでのそれは、内戦は、反ボルシェヴィキのロシア人が傭兵の一部とする、外国による干渉だったと叙述した。
ロシアの領土内に外国の兵団がいたことは争う余地がないのだが、内戦はずっと完全に、兄弟どうしの戦闘だった、とされた。
1918年の遅くに、連合諸国内部で、ボルシェヴィキに対する「十字軍」が語られた。(注05)
しかし、この計画はどこでも、実現に近づきもしなかった。
3年のあいだの戦争による被害者数が示すのは、数千人のチェコ人義勇軍(反ボルシェヴィキ側)、その数の数倍のラトヴィア人(共産党側)、400人ほどのイギリス人を除いて、戦闘による死者は圧倒的にロシア人とコサックだ、ということだ。
フランスとその連合国は、1919年4月に、親ボルシェヴィキのウクライナ・パルチザンと一回の小戦闘を行なったが、そのあとで撤退した。
アメリカと日本は、赤軍と一度もかかわらなかった。
連合諸国(基本的にイギリス)は、主として、軍事資材を白軍に供給することで貢献した。
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②へ、つづく。
「第1章・内戦:初期の戦闘(1918年)」のつづき。
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第一節/赤軍が勝利した理由①。
(01) ほとんど3年のあいだロシアを引き裂いた内戦は、13世紀のモンゴルの侵略以降では、ロシアの最も破滅的な事件だった。
語ることができないほどの暴虐行為が、敵意と恐怖から行なわれた。数百万人が、戦闘、および寒さ、飢え、病気で死んだ。
ロシアは、戦闘が終わるとすぐに、ヨーロッパの人々が経験したことのない飢饉にさらされた。大規模の飢饉で、数百万人以上が死んだ。
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(02) ロシア革命に関して用いられる多くの用語と同じく、「内戦」(Civil War)には、一つ以上の意味がある。
この語は、通常の用語法では、1917年12月から1920年11月まで続いた赤軍と多様な反共産党軍または「白」軍の間の軍事闘争のことを指している。1920年11月に、白軍勢力の残存者はロシアの領土から立ち去った。
しかしながら、もともとは、「civil war」はもっと広い意味をもっていた。
それは、レーニンにとっては、「プロレタリアートの前衛」である彼の党と国際的「ブルジョアジー」の間の世界的な階級戦争を意味した。この語の最も包括的な意味での「階級戦争」であって、軍事闘争はその一面にすぎなかった。
レーニンは、権力奪取後ただちに内戦が勃発するのを期待したのみならず、内戦を引き起こすためにこそ、権力を奪取した。
彼にとっては、十月のクー・デタは、それが世界的な階級闘争につながらなければ、無意味な冒険だった。
革命の10年前、Paris Commune を分析して、彼は、内戦を惹起することができなかったことがその崩壊の原因だった、という点で、マルクスに同意した。(脚注1)
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(脚注1) Lenin, PSS, XVI, p. 454. マルクスは、1871年4月12日のKugelmann 博士への手紙で、コミューンの者たちは内戦の開始を望まなかったがゆえに敗北した、と書いた。Karl Marx, Pis’ma k L. Kugel’manu(Petrograd, 1920), p. 115.
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レーニンは、世界大戦が勃発した瞬間から、戦争の終止を呼びかける平和主義の社会主義者を非難した。
本当の革命は、平和を望まなかった。「平和は、philistines〔ペリシテ人〕と僧侶のスローガンだ。プロレタリアのスローガンは、『内戦』でなければならない」。(注01)
ブハーリンとPreobrazhenskii は、広く読まれた共産主義読本で、つぎのように書いた。
「内戦は、革命の表現だ。…
内戦なくして革命が可能だと考えるのは、革命は『平和』革命であり得ると考えるのと同じだ。」(注02)
トロツキーはもっとあからさまに、こう書いた。
「ソヴィエトの権威は、組織された内戦だ」。(注03)
このような宣明から見て、内戦は外国および国内の「ブルジョアジー」によって共産党指導者に押しつけられたものではない、ということは明確だ。内戦は、共産主義者の政治綱領の中心にあった。
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(03) 従前のロシア帝国(ドイツによる占領下を除く)の住民にとって、内戦は1917年十月に始まった。ボルシェヴィキはその月に、臨時政府を打倒し、対立諸政党の弾圧へと進んだ。その当時にすでに、ロシアの新聞紙は、まだ「赤」軍も「白」軍もなかったが、〈Grazhdanskaia voina〉(内戦)と題するコラムを掲載した。その見出しのもとで報告されていたのは、ボルシェヴィキとその権力の承認を拒否する者たちの間の対立だった。
ボルシェヴィキが好んで語った「二つの戦線での戦争」は、現実だった。そして、70年後ですら、どちらの側により多くの力が注がれたのかを決定するのは困難だ。
軍事力がしばしば行使された民間人に対する闘争だったのか、それとも、白軍との間の軍事闘争だったのか。
1918年4月23日、レーニンは、表面的には驚くほど馬鹿げていると思える主張を行なった。—「内戦は主としては終わった、と確実に言うことができる」。(注04)
こう述べたとき、彼は、明らかに、まだほとんど形成されていなかった白軍との戦争ではなく、民間人対立者との間の戦争を意味させていた。
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(04) この章と次の章は、主として、用語の在来的な意味での、すなわち軍事的な意味での内戦、を扱う。
この対象は、きわめて複雑だ。莫大な領域に散らばる、多数の抗争を含んでいるからだ。
主要な諸軍隊に加えて、頻繁に味方する側を変える、短命のパルチザン勢力や、外国の兵団の諸分遣隊があった。
ロシアのような巨大で多様な帝国が分解し、その断片があらゆる方向へと飛ぶとき、一貫した構造は存在しない。
そして、一貫した構造がないとき、歴史家は、現実を歪めるというリスクを冒してのみ、何らかの構造を叙述するふりをすることができる。
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(05) ロシアの内戦は、三つの主要な戦線で戦われた。南部、東部、北西部だ。
その内戦は、三つの主要な段階を踏んだ。
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(06) 第一の段階は、ボルシェヴィキ・クーからフランスでの休戦協定の調印まで、1年のあいだ続いた。
1917-18年の冬に、将軍のAlekseev とコル二ロフ(Kornilov)によるドン・コサック地域での義勇軍(Volunteer Army)の形成とともに始まった。
半年後に、中央Volga とシベリアで、チェコ軍団の反乱があった。その結果、その地域で、二つの反ボルシェヴィキ政権を巻き込む東部戦線が生まれた。それらの政権は独自の軍隊をもち、それぞれ、Samara(Komuch)と、Omsk(シベリア政府)に所在した。
この最初の段階には、前線が急速に変化した、小さな部隊が散発的に戦闘した、という特徴がある。
共産党の文献では、この段階は、ふつう「パルチザン戦闘」(partizanshchina)の時期として言及される。
この段階のあいだ、外国の兵団—反ボルシェヴィキ側のチェコ・スロヴァキア兵団、ボルシェヴィキ側のラトヴィア兵団 —は、本来のロシア軍よりも大きな役割を演じた。
赤軍は、ようやくこの段階の最後、1918年秋に、形成された。
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(07) 第二の、内戦の決定的段階は、1919年3月から11月まで、7ヶ月にわたった。
最初は、東部のKolchak 提督の軍、南部のDenikin 将軍の軍が、赤軍を打倒して退却を強いながら、果敢に、モスクワへと進軍した。
北西部では、Iudenich 将軍が、ペトログラードの郊外に侵入した。
だが、そのときに赤軍は戦いの潮目を変え、先ずKolchak(1919年6月-11月)、次いでDenikin とIudenich(1919年10月-11)を打ち負かした。
Kolchak とDenikin の両軍の戦闘能力は、ほとんど同時に、1919年11月14-15日の頃に壊滅した。
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(08) 内戦の最後の段階は、1920年の拍子抜けするWrangel のエピソードだった。Denikin 軍の残兵はしばらくのあいだ、クリミア半島で、何とか強力さを維持した。
この勢力は、ポーランドとの戦争の勃発(1920年4月)によって注意が逸らされることがなければ、巨大で優越的な赤軍によって、すみやかに総崩れしていただろう。(脚注2)
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(脚注2)共産党歴史家は、通常、1920年のソヴィエト・ポーランド戦争を内戦の一部と見なす。この見方は、西側の若干の歴史家も受容してきた。しかしながら。このような扱いは、正当化するのが困難だ。国の政治的支配をめぐるロシア人の間の闘争ではなく、領土めぐる主権国家の間の在来的戦争であるからだ。こうした誤解は、1920年代のスターリンの論考に由来するように思える。スターリンは、その論考でポーランドのウクライナ侵攻を「協商諸国の第三次作戦」(Tretii Pokhod Antanty)と称した。最初の二つは、Denikin とKolchak の作戦行動だとした。(Pravda, No. III(1920年5月25日), p.1. Norman Davies, White Eagle, Red Star(London, 1972), p.89が引用。)
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この戦争が終わったあとすぐに、赤軍は、注意の全てをWrangel に向けた。
1920年11月、イギリスとフランスの海軍は、白軍が残したものをConstantinople へと退避させた。
これは、軍事的な言葉の意味でのロシアの内戦の終結だった。
政治的、社会的意味では、内戦が本当に終わったわけではなかった。
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(09) ソヴィエトの歴史学、とくにスターリン支配のもとでのそれは、内戦は、反ボルシェヴィキのロシア人が傭兵の一部とする、外国による干渉だったと叙述した。
ロシアの領土内に外国の兵団がいたことは争う余地がないのだが、内戦はずっと完全に、兄弟どうしの戦闘だった、とされた。
1918年の遅くに、連合諸国内部で、ボルシェヴィキに対する「十字軍」が語られた。(注05)
しかし、この計画はどこでも、実現に近づきもしなかった。
3年のあいだの戦争による被害者数が示すのは、数千人のチェコ人義勇軍(反ボルシェヴィキ側)、その数の数倍のラトヴィア人(共産党側)、400人ほどのイギリス人を除いて、戦闘による死者は圧倒的にロシア人とコサックだ、ということだ。
フランスとその連合国は、1919年4月に、親ボルシェヴィキのウクライナ・パルチザンと一回の小戦闘を行なったが、そのあとで撤退した。
アメリカと日本は、赤軍と一度もかかわらなかった。
連合諸国(基本的にイギリス)は、主として、軍事資材を白軍に供給することで貢献した。
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