秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

内戦

2770/M. A. シュタインベルク・ロシア革命⑧。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017)の一部の試訳。
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 第四章—内戦
 第一節④
 (20) 内戦の終了とともにソヴィエトの経済と社会に生じていたのは、より大きな厄災の状況だった。
 歴史家たちは、この原因は長年の戦争と社会的転覆—深い根源をもつ厄災の継続(38)—のうちにより多くあるのか、それとも、ソヴィエトの政策の特有の効果であるのか、を議論している。
 しかし、大厄災たる結果だったことについては一致がある。破滅した経済、都市部の人口減少、大量の国外逃亡という危機、農民の反乱、ストライキ、そして共産主義者の中にすらある公然たる不満。
 1921年までに、工業生産高は戦争前の20パーセントへと落ちた。
 『プロレタリアート独裁』としてソヴェト支配の基盤だと想定されていた労働者たちは、荒廃して飢えた都市から逃亡するか、兵士または行政官になった。そうして、労働者階級の規模は、戦争前の半分以下にまで縮小した。
 マルクス主義者の言うプロレタリアートの『脱階級化』は、革命の厄介で逆説的な効果だった。労働者階級出身で『労働者反対派』の指導者だったAlexander Shliapnikov が1922年の党大会でLenin をこう冷笑したように。
『存在しない階級の前衛となって、おめでとう』(39)。
 農民たちは耕作する土地で、彼ら自身が生きていくのに必要な生産しかしなくなった。
 しかし、彼ら自身の生存すら、干魃が広い地域を飢餓の縁に追い込んだときには、脅かされた。その飢饉は、1921〜22年に、大規模で襲うことになった。
 これの頂点にあるのは、疾患と病気の蔓延だった(ある歴史家の言葉では『近代史における最も過酷な公衆の健康の危機』)。また、数百万の子どもたちにとってを含む住宅欠如、都市部での暴力犯罪、地方での山賊、大量の泥酔者、生き残ろうとする、道徳意識なき民衆による放蕩しての悪態その他の、想像し得る全ての態様等々。
 Lenin が1921年3月の党大会で、ロシアは『打ちのめされて死に際にあった男のように、7年の戦争の中から出現してきた』と語ったとき、彼は強調しすぎてはいない。
 あるいは、若干の歴史家が論じてきたように、ロシアは『トラウマ』の状態で、内戦を終えた(43)。
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 (21) 民衆の反乱は、損傷を受けた革命およびトラウマとなった革命という感覚を増大させた。
 農民がもう白軍の勝利を怖れなくなったあとでは、ボルシェヴィキは、よりマシな悪魔ではなくなった。
 農民たちは穀物徴発隊を待ち伏せして襲い、国家の権威の代理人たちを攻撃した。
 1920年の遅くに、西部シベリア、中部Volga、Tambov 地方、およびウクライナで、大量の蜂起が勃発した。
 どこにでも見られた主要な要求は、同じだった。すなわち、穀物の強制取得〔徴発〕の廃止、自由取引の復活、そして農民に耕作地と生産物に対する完全な支配権を付与すること。
 このリバタリアンな考えは、農民が革命で自らの手によって獲得したと思ったものだった。
 いくつかの農民集団は、憲法会議の再招集を主張した。
 都市労働者の騒擾はさほどに拡散しなかったが、政治的にはより不安定だった。
 1921年の初め、抗議集会、示威行動、ストライキが散発して起きた。
 労働者たちの要求は主として肉体的生存の問題に関係していて、とくに食糧と衣類を要求した。
 しかし、経済的な欲求不満は、かつてと同様に、政治的不満を惹き起こした。
 労働者たちは、市民権の回復、工場の実力強制的経営の廃止を要求した。憲法会議を呼びかける者もいた。
 1921年3月、ペテログラードに近い島にあるKronstadt 海軍基地で反乱が起きた。
 Kronstadt の海兵たちは1917年の七月事件—Trotsky は当時に『ロシア革命の誇りと栄光』と賞賛した—と十月の権力奪取の際にボルシェヴィキを支援したことで有名だったが、今や、一党支配の終焉、言論とプレスの自由の回復、憲法会議の招集、全権力の自由に選出されたソヴェトへの移行、穀物徴発を含む経済の国家統制の廃止、を要求した。
 『人民委員体制はくたばれ』は、海兵と労働者たちのあいだの一般的なスローガンになった。
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 (22) この危機を複雑にしたのは、共産主義者たちの中にあった不満だった。彼らは、革命の中核的諸原理は生き延びるために犠牲にされた、と感じていた。
 不満をもつ党派は、以前にも発生していた。
 1918年、『左翼共産主義者』は、世界革命に対する裏切りだとして、ブレスト=リトフスク条約に反対した。また、労働者支配の侵奪だとして、工業への厳格な労働紀律の導入を批判した。
 1919年、『軍事反対派』は、新赤軍は伝統的紀律を採用し、帝制下の将校たちを用いるとのTrotsky の構想を非難した。
 しかしながら、内戦が終わると、党の政策に対する内部批判はより公然たる、かつより激烈なものになった。もはや勝利することはなかったけれども。
 『民主主義的中央派』は、党の権威主義的中央集権化や官僚主義化の増大に異論を唱え、諸問題の自由な討議と地方党官僚の選挙を要求した。
 『労働者反対派』は、工業での伝統的紀律、経営への『ブルジョア専門家』の利用、労働組合の国家への従属に反対した(44)。
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 (23) 1921年の春は、転換点だった。
 異論は鎮静化され、粉砕された。
 3月に開かれた第10回党大会は、党内の分派を禁止した。その結果、いかなる組織勢力の周りにも、共産主義者のあいだでの批判が合流することができなくなった。
 しかし、党内部での反対派の抑圧は、農民の蜂起、労働者のストライキ、あるいはKronstadt を粉砕するために使われた暴力に比べれば、温和だった。
 Lenin 、Trotsky その他の党指導者たちは、これを正当化した。おそらくは彼ら自身に対するものであっても。彼らは、自分たちが歴史の正しい側にいると確信していたのだから。
 同時に、こうした妥協は必要であるように見えた。多くの異論に直面したから、というだけではない。経済的には後進国であるロシアが経済的諸問題を解決し、社会主義への途を急速に進むために国際主義的な支援が必要であるところ、そのような支援を提供すると想定された、世界全体の社会主義革命が『遅れ』ていたからだ。
 1921年、『戦時共産主義』の残虐性と英雄主義は、宥和的で穏健な『新経済政策』あるいはNEP の導入によって放棄された。
 多くは、変わらなかった。
 共産党による国家の統制権は無傷で残ったままだった(他政党の公式の禁止によって強化された)。そして、党内紀律も強化された(分派の禁止等々)。
 経済については、『管制高地』の完全な支配権は国家が維持した。銀行、大中の産業、輸送、外国貿易、商業全体。
 しかし、小規模の企業、小売取引は、規制を受けつつも、再び許容された。
 そして、非難された穀物や生産物の徴発に代わって、政府は『現物税』を導入し、これをさらに現金税に変えた。
 Lenin は、NEPが社会主義への途上での『後退』であることを認めた。より急進的な者たちは耐え難いものと考えた。
 しかし、おそらくはLenin を含む多数のボルシェヴィキは、遅れた農業国家にはふさわしい、社会主義への新しい途だとNEPについて考え始めた。
 1920年代に、党内でつぎの二つの議論が激しく行なわれた。一つに、民衆の文化的、経済的レベルを向上させ、社会主義的協同の利益を民衆に理解させる、緩やかな社会主義への移行の主張、二つに、戦時共産主義の英雄的急進主義の復活であっても、より戦闘的な行進の強行の主張。
 この議論はようやく、1920年代末に、Stalin による『大転換』によって決着がついた。複雑さと妥協の中で突き進み、新しい経済、社会、文化へと跳躍しようとする、『上からの革命』。
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 第四章第一節、終わり。

2769/M. A. シュタインベルク・ロシア革命⑦。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
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 第四章—内戦
 第一節③
 (13) これは、敵の抑圧のみに関してではない問題だった。
 内戦のあいだ、政府と党〔ボルシェヴィキ、共産党〕は、全ての生活領域で、とくに経済と社会について、ますます中央集権的で、上意下達の、実力強制的な支配の手法を採った。
 学者たちは、イデオロギー的志向とは対立する状況や必要性がどの程度多く権威主義への傾斜—とくに、Lenin がのちに『戦時共産主義』と称した経済政策—を形成したのかを、議論しつづけている。
 これについて整理して論述するのは、本当にほとんど不可能だ。
 問題をさらに複雑にすることに、またロシアとボルシェヴィズム以外にも十分に適用し得る相互連関を示唆してもいるのだが、この権威主義の多くの側面は、世界大戦中にヨーロッパじゅうで見られた、経済と社会を総動員するための実践を反映し、かつ発展させた。—なかんずく、影響力が大きかった、政治的には保守の側の例である、ドイツの『戦時社会主義』(<Kriegssozialismusu>)(28)。
 『必然性の王国』は、きわめて強く、かつ苛酷になった。
 経済の状態に関する1918年春のある報告は、全部門での『組織解体』、『危機』、『衰退』、『不安定化』、『麻痺』による『崩壊の状況』を記述した(29)。
 衰退した経済を回復させ、その経済を動力として戦闘をし、建設をすることは、最も緊急性が高いの事項になった。
 しかし、これを行なう方法は、状況以上のものだった。—それゆえに、絶望的な必要性という状況のもとで解放された未来を実現しようとする『戦時共産主義』という逆説的な観念も生まれた。
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 (14) 食糧問題、とくに労働者と兵士への供給の問題は、きわめて切迫していた。
 1918年5月、政府は『食糧独裁』を宣告した。これには、全ての穀物取引の国家独占、厳格な価格統制、物不足を利用した投資だと非難される私的『袋持ち男』の規制、農民から穀物その他の農業生産物を徴発するための武装派遣隊の設置が含まれていた。
 食糧独裁は、大量の『余剰』を蓄えているとされた田園『ブルジョアジー』に対する階級闘争だと捉えれば、『革命的』側面をもった。また、社会化された農業へと向かう第一歩と理解することもできた。
 しかし、必要性こそが、それを発動させた主要な駆動力だった。
 農民革命は、市場化できる産物を生産する大規模農地による農業を生んだのではない。大部分はますます、伝統的で小規模の、最低限を充たす農業となった。
 いずれにせよ、農民には、穀物を市場に出す動機がほとんどなかった。市場には買うものがほとんどなく、金銭はますます無価値になっていたからだ。そうして農民たちは、生産物を蓄え込んだ。
 なおまた、食糧独裁は大部分で失敗だった。農民たちがしばしば暴力的に挑発に抵抗し、価格の安さに抗議した、というのみではない。加えて、政府は、経済の分野で民間部門の代わりをすることができるほどに強くはなかった(30)。
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 (15) 工業の分野では、ボルシェヴィキは、市場関係と私有財産を廃止するという歴史的目標に向かって着手した。
 しかし、今や生産の崩壊が行動を要求していた。
 国家経済最高会議〔SCNE〕が、社会主義への移行の長期計画を策定するために、1917年12月に設立された。
 若干の国有化が、内戦の前に行なわれた。だが、ほとんどは国家中央ではなく、地方ソヴェトと工場委員会による作業だった。
 経済危機と内戦の到来によって、私的経済からのより決定的な離反が促進された。
 政府は1918年6月に、大規模工業の全てを国有化した(小工場は1920年)。
 小売業の大部分は、1918年末までに禁止された。『市場のアナーキー』を制御するためだった。
 経済をめぐるこの闘いは、ブルジョアジーの抑圧に限定されはしなかった。
 政府は成人男子全員について強制労働を導入し、厳格な労働紀律を定め、『労働者支配』を独任制の経営に変えた(そして、経営と技術に関する『専門家』の俸給と権限を高めた)。また、工業の動員について労働組合を制約し、ストライキを禁止した。
 イデオロギー的に熱狂した地方の活動家や組織は、資本主義を抑圧する行動について大きな役割を果たした。そして、地方の民衆に大きく訴えることができた。とくに『ブルジョアジー』に『強制寄付』をさせるような行為、労働者住宅にするための家屋やアパートの徴発によって。
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 (16) 同時に、労働者たちの不満は増大していた。
 経済上の苦労や工場紀律の拡大への憤慨によって、メンシェヴィキ、エスエル、そしてアナキストすらの議論にあらためて関心をもつようになった。これらは、民衆の権力である強い地方機関にもとづく複数政党による民主制の回復を呼びかけていた。
 労働者たちはまた、共産党権力は十月革命の精神を喪失するか裏切った、という実体的感覚に応えようとした。
 1918年の早くにペテログラードで、社会主義者の主要な反対諸政党は、工場代議員の特別会議〔Extraordinary Assembly of Factory Delegates〕と称される、一種の反ソヴェトを設立した
 この会議は、経済的諸問題の発生は、ボルシェヴィキ国家の官僚層が原因であるというよりも、民主主義的に労働者の行動を機能させることに、労働組合、工場委員会 、地方ソヴェトが失敗したことが原因だ、と論じた。
 対照的に、ボルシェヴィキ指導部は、国家は労働者国家であるがゆえに、労働者は生産手段をもち、ゆえに、搾取される、ということはあり得ない、と議論した。
 政府が1918年5月に工場労働者へのパンの配給を増やしたとき、上記の代議員会議は労働者たちに対して、ストライキをするよう呼びかけた。その際に政府と党(ボルシェヴィキ)を、労働者を『買収』し、労働者を『民衆の別の層』と分断しようととしていると非難した。また、『人民の権力の復活』だけが飢えの問題を解決するだろうと論じた。
 これに反応した政府は、ストライキを抑圧し、この運動の指導者たちを逮捕した(31)。
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 (17) 政治的関係も、同じく、戦時危機とイデオロギー的な愛着の混合によって形成された。
 党の政治手法としてますます顕著になっていたのは、中央集権化、階層性、指令と布令による支配、異論に対する抑圧と制裁、社会全般の監視の拡大、だった。
 これらは、社会主義革命を起こすための、かつてのボルシェヴィキにあった、前衛党モデルの遺産でもあった。
 しかし、多くのボルシェヴィキが主張しただろうように、異なってもいた。とくに、政治的社会的システムの転覆ではなく、それの建設のために用いられたのだから。
 地方のソヴェトと委員会は下からの革命の特徴面だったけれども、今や統御されていた。
 工場委員会と労働組合の権限は、独任制経営と厳格な労働紀律が優勢となって、形骸化した。
 低減した工場自治は、『経済の軍事化』政策によって1920年代にさらに少なくなった。この政策に含まれていたのは『労働徴用』で、労働者たちを軍事的紀律と違反への苛烈な制裁に服従させた。
 常習的欠勤、低い生産性、製品の『窃盗』その他の非行は、とくに輸送や軍需のような基幹産業では、『犯罪的』行為、『職場放棄』、『裏切り』と見なされた。
 逮捕、すみやかな審判、労働収容所への追放その他の制裁は、通常のことになった。その際にCheka はますます、基礎的な役割を果たした。
 こうしたことは、望ましい効果を生んだ。すなわち、少なくとも公式の統計によると、1920年代に、生産性が向上した(32)。
 他方では、軍事化されたこの新しい政治的環境のもとで、かつては是認され、称讃された、1917年の逞ましい地方主義と直接民主制は、今や危険な断片化とアナーキーだと考えられた。
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 (18) しかしなお、多くの共産主義者たちは、自分たちは新しい社会、新しい文化、新しい人間を創出するために—必然の王国から自由の王国と跳躍するために—闘っている、と信じていた。
 『戦時共産主義』についてのある初期のロシアの歴史家の言葉では、内戦の年月は『ロシア革命の英雄的時代』だった(33)。
 暴力は、暴力の基盤に対する高潔な闘いであるがごとく見えた。
 経済の崩壊は、資本主義の終焉であるかのごとく見えた。
 実験の時代だった。その多くは、全ての『前線』で社会的、文化的生活様式を変えるものとして、支配党と国家によって称賛された。
 一つの戦場が、家庭であり、性であり、男女関係だった。
 党の特別支部である女性部(Zhenotdel、1919年設立)は、共同台所と共同保育によって家庭生活の不平等な負担から解放された、また、人格において自由で大胆で積極的な『新しい女性』を生み出すために活動した。
 党の青年部であるKomsomol (1918年設立)は、若年層に新しい集団主義的精神を吹き込む活動をした。
 コミューンが国じゅうに組織された。とくに、都市部での学生と労働者の『ハウス・コミューン』、若干の実験的な農業コミューン。
 子どもに家がない(homeless)という恐ろしい問題ですら、理想主義者にとっては、子どもを新しい方法で育てるよい機会だった。ほとんどの両親の遅れていると見える考え方や価値観から自由なやり方で。
 労働者の文化生活を変えようとする『プロレタリ文化』運動は、1917年の末に出現した。その多くを主導したのは、労働者階級の作家、詩人、芸術家、活動家だった。そしてしばしば、『迫害された』人間性を輝く新世界、幸福と自由の楽園で『復活』させる(好まれた表現)という夢想を好む、急進的で新しい『プロレタリア文学』を生み出した。
 芸術家、建築家、作家たち—多くは国家機構、とくに啓蒙人民委員部〔文部科学省〕から支援を受けていた—は、新しい世界を想像した。そして、不可能な建築プランを描くことすらした(34)。
 この歴史的な時代では、想像不可能なことは何一つないように見えた。この時代には、最も残虐な暴力と最も急進的な理想像はいずれも、同じ行路の一部だった。1918年の公共彫刻公園を叙述する言葉を借りれば、『苦痛と悲哀を通じて、全ての拘束鎖からの解放を目ざして絶え間なく闘いながら』進む行路(35)。
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 (19) ほとんどの歴史家は、内戦時代の実力強制と暴力の文化はボルシェヴィキの行く末に決定的な影響を与えた、と見ている。Robert Tucker がスターリン主義の起源に関する影響力ある研究書で論じたところでは、それはつぎのようなものを『形成する経験』だった。『ボルシェヴィキ運動の革命的な政治文化を軍事化し』、『好戦的熱狂、革命的自己犠牲主義』と<elan>』の遺産を残し、『安易な実力強制への依存、行政的命令による支配、中央集権的行政、略式司法』の遺産も残し、『冷酷性、権威主義と「階級憎悪」』というボルシェヴィキの精神(ethos)を『残虐性、狂信、異論をもつ者に対する絶対的な不寛容』に転換し、『国家という様式を通じて社会主義が建設されるという確信を抱くのを困難にする』、そのような経験(36)。
 Sheila Fitzpatrick がこう論じたのは有名だ。内戦は『新しい体制に炎による洗礼を与え』たが、『ボルシェヴィキが危険を冒して獲得し、あえて追求すらしたかもしれない』洗礼だった(37)。
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 つづく。

2768/M. A. シュタインベルク・ロシア革命⑥。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
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 第四章—内戦
 第一章②
 (07) ボルシェヴィキは、社会主義者とリベラル派が民主主義革命の聖なる目標だと長らく見なしてきた民主的機構に反対する、という劇的な行動を行なった。だが、その前にすでに、対立する見解を抑圧し始めていた。
 10月後半のプレスに関する布令は、多数の新聞を廃刊させた。その中には、リベラル派および社会主義派の新聞も含まれていた。『抵抗と不服従』を刺激し、『事実の明らかに中傷的な歪曲によって混乱の種を撒く』、あるいは、たんに『民衆の気分を害して、民衆の心理を錯乱させる種を撒く』、そういう可能性があったからだ(19)。
 11月の後半に、主要な非社会主義政党、人民の自由〔People’s Freedom〕の党として公式には知られていた立憲民主党(カデット、Kadets〕を非合法化した。その指導者は逮捕され、全党員が監視のもとに置かれた(20)。
 ソヴェト指導部の中で依然として活動していた非ボルシェヴィキの僅かの者たち—とくに左翼エスエル、中でもIsaak Steinberg—は、上の布令を批判した。これに対して、伝えられるところでは、Trotsky は、階級闘争がもっと激烈になるとすぐに必要になるだろうものに比べれば『寛大なテロル』にすぎない、と警告した。『我々の敵に対しては、監獄ではなくギロチンが用意されるだろう』(21)。
 1917年12月に、政府は『反革命と破壊行為に対する闘争のための全ロシア非常委員会』を設立した。これは、Vecheka またはCheka として(イニシャルから)知られるもので、革命に対する反抗を発見して弾圧することを任務とする保安警察だった(22)。
 Cheka を設立した動機の一つは、歴史家のAlexander Rabinowich が示したように、左翼エスエルが政府の連立相手として歓迎されているまさにそのときすでに、ボルシェヴィキをその左翼エスエルによる妨害から自由にする機関が必要だったことだ。内部報告書でのCheka の幹部の一人の説明によると、左翼エスエルは、彼らの『「普遍的」道徳観、人間中心主義を強調し、自由な言論とプレスを享受するという反革命的な権利に制限を加えることに抵抗することで、反革命に対する闘いを大いに妨げている』(23)。
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 (08) 全国土にわたる『赤』と『白』の間の軍事闘争としての内戦は、1918年の夏に本格的に始まった。
 多くの点で、実際に経験されたように、内戦は1914年に始まった国家の暴力の歴史を継続させたものだった。
 ソヴェト国家は、1918年3月に『最も厄介で屈辱的な〔ブレスト=リトフスク〕講和条約』(党自身の判断)を受け入れて、ドイツとの戦争を何とか脱していた。党指導部の少数派は、軍が崩壊し前線の兵団が完全に『士気喪失』した以降はゲリラ戦争としてであっても(24)、国際的階級闘争の原理は条約の条件を拒否して、帝国主義と資本主義との戦争の継続を要求する、と主張したけれども。
 講和によって生まれると想定された『ひと息』は、かろうじて数ヶ月だけ続いた。そのあと白軍(かつての帝制将軍に率いられる反ボルシェヴィキ勢力の連合で、1918年初めに姿を見せ始めた)と赤軍(戦争人民委員であるTrotsky の指導で1918年半ばに設立された軍団)のあいだで継続的に戦闘が勃発した。
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 (09) しかし、内戦は、赤と白の単純な二進法が示唆する以上に複雑で変化が著しい経験だった(25)。
 内戦の歴史に含まれるのは、テロル、エスエルやアナキストおよびボルシェヴィキ『独裁』にも白軍が代表するように見えた右翼独裁への回帰にも反対する社会主義者たちによる武装闘争だった。赤と白の両方と闘った農民の『緑』軍は、主に農民の自治に対する大きくて目前の脅威をもたらす者たちに依拠していた。国じゅうの民族独立運動もあり、イギリス、フランス、アメリカその他の連合諸国による武力干渉もあり、ポーランドとの戦争もあった。
 1920年の末頃までに、種々多様なことから、また大量の流血を通じて、赤軍とソヴェトが状況を支配した。白軍は敗れ、ボルシェヴィキ権力に反抗するその他の運動は粉砕された(当分のあいだは)。そして、ソヴィエト諸政府が確立され、Georgia、Armenia、Azerbaijan、東部Ukraine で防衛された。
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 (10) 赤軍とソヴェト権力がいかにして勝利したかを、歴史家は多く議論してきた。
 ほとんどの歴史家は、つぎの点で一致している。すなわち、軍事、戦略、政治的立場が共産党の側に有利だった。
 軍事的には、赤軍は驚くほどに効率的な軍隊だった。とくに、白軍の指導部の淵源が帝制時代の軍隊にあったことと比較して、その起源が自由志願の赤衛隊にあったことを考えるならば。
 兵士たちの中から新しい『赤軍』指揮官を養成した一方で、政府が『軍事専門家』に赤軍に奉仕して、その権威を高めるよう強いたことはこれを助けた。赤軍は命令の伝統的階層構造を復活させた。
 戦略的には、赤軍は地理的な中心部の外側で活動することで有利になった。ソヴェト政府はロシアの中心地域を支配していたが、このことは、人口、工業、軍需備品の多くを統制できることを意味した。一方で、白軍は、別の軍隊の協力が限られている、外縁部で活動していた。
 このことは、ロシアの主要な鉄道はモスクワから放射状に伸びていたので、とくに重要だった(モスクワは1918年3月から実効的な首都になった。その頃、やがてドイツの手に落ちる可能性が出てきたので、政府はペテログラードを去った)。赤軍は、効率のよい、輸送や連絡の線を持つことになったので。
 一方で、白軍は、農業地をより多く支配した。それで、彼らの兵団の食料事情は良かった。
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 (11) だがとりわけ、白軍は、政治的有利さの点で苦しんだ。
 白軍指導者たちは、自分たちは旧秩序を復活させることができないと、と理解していた。
 しかし、彼らの背景とイデオロギーからして、民衆の多数の望みを承認することも困難だと気づいていた。
 『ロシアは一つで不可分』という帝国的理想に依拠していたので、彼らは、非ロシア民族の者たちに戦術的に譲歩を提示することすら拒んだ(非ロシア民族は辺縁地域での支持を獲得するためには不可欠だったかもしれないが)。そして白軍は、非ロシア民族の支配下の土地で、民族主義を抑圧した。
 農民たちは、内戦中にどちらの側についても熱狂的に支持することはなかった。
 赤軍と白軍のいずれも、農民たちから穀物と馬を奪い、自分たちへと徴兵した。そして、反対者だと疑われる者に対してテロルを用い、ときには村落全体を焼き払った。
 だが、農民にとって重要なのは土地であるところ、ボルシェヴィキは—賢明にも、または偽善的に、農民たちの動機いかんを判断して—、農民による土地掌握を是認した。一方で、白軍指導者たちは、法と私有財産の原理の名のもとで、村落革命のために何も行なわなかった。言うまでもなく、彼らの基盤的な後援層の一つである土地所有者たちの支持を得て。
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 (12) 内戦は、凶暴な事態だった。
 いずれの側も、大量の投獄、略式処刑、人質取り、その他の、反対者と疑われる者に対する『大量テロル』を行なった。
 どの戦争でも見られる『行き過ぎ』があったが、両方の側の指導部によって看過された。
 赤と白の暴力は、釣り合いから見て似たようなもので、お互いさまだった。
 しかし、ボルシェヴィキは、とくにCheka を通じて、この血に汚れた(blood-staind)歴史を残すのに顕著に貢献した。(『非常』措置を普通のことにして)生き延びるに必要なことは何でもするという実際的な意欲があったばかりではなく、暴力と実力強制を、世界を作り直し、歴史を前進させる手段として積極的に容認した。
 『プロレタリアート』(ほとんどは言わば、労働者階級の<名前で>階級戦争を闘っている者)の暴力は、歴史的に必要なものであるのみならず、道徳であり善だった。これこそが階級戦争を終わらせるものであり、そして、暴力の全てを終わらせ、損傷している人間性を回復し、新しい世界と新しい人類を創り出す階級戦争だった(26)。
ボルシェヴィキは、暴力と実力強制は偉大な歴史的過程、『自由の王国への跳躍』、の一部だと考えた。これは、不平等と抑圧の古い王国で利益を得る者たちとの闘争なくしては遂行することができない。
 ボルシェヴィキは、Lenin が述べたように、『民衆の大多数』の利益のために、そして『資本主義者の抵抗を破壊する』ために用いられる『ジャコバン』的手段(フランス革命時の急進派とギロチンを想起させる)を採ることを、何ら怖れていなかった(27)。
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2566/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第一節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 この書(総計約590頁)のうち、章単位で試訳掲載を済ませているのは、数字番号のない結語のような末尾の「ロシア革命の省察」(約20頁)を除くと、つぎだけだ。原書で約40頁。これら三者(ロシア・イタリア・ドイツ)の共通性と差異を考察している。
 第5章/共産主義・ファシズム・国家社会主義。
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 この書物の第8章の節別構成は、つぎのとおり。
 第8章・ネップ(NEP)-偽りのテルミドール。
  第1節・テルミドールではないネップ。
  第2節・1920-21年の農民大反乱。
  第3節・アントーノフの登場。
  第4節・クロンシュタットの暴乱。
  第5節・タンボフでのテロル支配。
  第6節・食糧徴発制の廃止とネップへの移行。
  第7節・政治的かつ法的な抑圧の増大。
  第8節・エスエル〔社会主義革命党〕の『裁判』。
  第9節・ネップ制度のもとでの文化生活。
  第10節・1921年飢饉。
  第11節・外国共産党への支配の増大。
  第12節・ラパッロ〔条約〕。
  第13節・共産主義者とドイツのナショナリストとの同盟。
  第14節・ドイツとソヴィエト連邦の軍事協力の開始。
 以上のうち、この欄に試訳の掲載を済ませているのは、以下に限られる。
 第6節〜第10節。5年前の2017.04.10〜2017.04.27 のこの欄に掲載した。
 以下、第一節〜第五節の邦訳を試みる。
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 第8章・ネップ(NEP)—偽りのテルミドール。
 第一節・テルミドールではないネップ。
 (01) 「テルミドール」(Thermidor)は、フランス革命暦の七月で、その月にジャコバンの支配が突如として終わり、より穏健な体制に譲った。
 マルクス主義者にとって、この語は反革命の勝利を表象するものだった。その反革命は最後には、ブルボン王朝の復活に行き着いたからだ。
 それは、彼らが何としてでも阻止すると決意している展開だった。
 経済の破綻と大量の反乱に直面して、レーニンは1921年3月に、経済政策を急進的に変更させることを強いられていると感じた。その変更は、私的企業に重大な譲歩をする結果となるものであり、新経済政策(NEP)として知られるようになった路線だった。国の内外で、ロシア革命もまたその路線を辿り、テルミドール段階に入った、と考えられた。//
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 (02) このような歴史的類推を用いることはできないことが、判明した。
 1794年と1921年の最も顕著な違いは、フランスではジャコバン派がテルミドールに打倒され、指導者たちは処刑されたのに対して、ロシアでは、ジャコバン派に相当する者たちが新しくて穏健な路線を実施した、ということだった。
 彼らは、変化は一時的なものだと理解したうえで、そうした。
 1921年12月に、ジノヴィエフはこう言った。「同志たちよ、新しい経済政策は一時的な逸脱、戦術的な退却にすぎず、国際資本主義の前線に対する労働者の新しくて決定的な攻撃のための場所を掃き清めるものだ、ということを明瞭にしてほしい」。(注02)
 レーニンは、NEP をブレスト=リトフスク条約になぞらえるのを好んだ。これは当時は誤ってドイツ「帝国主義」への屈服と見られたが、後退の一歩にすぎなかった。つまり、長くは続かず、「永遠に」ではなかったのだ。(注03)//
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 (03) 第二に、NEP は、フランスのテルミドールとは異なり、経済の自由化に限定されていた。
 トロツキーは、1922年にこう言った。「我々は、支配党として、経済分野での投機者を許容することができる。しかし、政治領域でこれを認めることはできない。」(注04)
 実際に、NEP のもとで許容された限定的資本主義が全面的な資本主義の復活になることを阻止する努力を行ないつつ、体制は、政治的抑圧の強化をそれに伴わせた。
 モスクワが対抗する社会主義諸政党を破壊し、検閲を系統化し、秘密警察の権限を拡大し、反教会の運動を立ち上げ、国内と外国の共産主義者への統制を厳しくしたのは、1921-23年のことだった。//
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 (04) 退却の戦術的性格は、当時は広くは理解されていなかった。
 共産主義純粋主義者たちは、十月革命への裏切りだと見て憤激し、一方では、体制への反対者たちは、恐ろしい実験は終わったと安心してため息をついた。
 レーニンは、頭脳が働いた最後の二年間、繰り返してNEP を擁護しなければならず、革命はその行路上にあると強く主張した。
 しかしながら、彼の心の奥深くでは、敗北の感覚に取り憑かれていた。
 彼は、ロシアのような後進国で共産主義を建設する企ては時期尚早であって、不可欠の経済的、文化的基盤が確立されるまで延期されなければならない、と気がついていた。
 計画どおりに進んだものは、何もなかった。
 レーニンは一度、うっかり口をすべらした。「車は制御不能だ。運転してはいるが、車は操縦するようには進んでいない。だが、何か非合法なものに、何か違法なものに操縦されて、神だけが知る行方へと、向かっている。」(注05)
 経済破綻の状況の中で行動する国内の「敵」は、白軍の連結した諸軍よりも大きな危険性をもって体制に立ちはだかっていた。
 「共産主義への移行という企てをしている経済戦線では、我々は1921年春までに、Kolchak、Denikin、あるいはPilsudski が我々に与えたものよりも重大な敗北を喫した。はるかに重大で、はるかに根本的で危険な敗北だった。」(注06)
 これは、レーニンは1890年代に早くも、ロシアは十分に資本主義的で、社会主義の用意ができている、と間違って主張した、ということを認めるものだった。(注07) //
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 後注。
 (02) A.L.P.Dennis, The Foreign Politics of Soviet Russia (1924), p,418. Ost-Information, No,191 (1922,01,11) から引用。
 (03) Lenin, PSS, XLIII, p.61; XLIV, p.310-1.
 (04) Odinadsatyi S"ezd RKP(b); Stenograficheskii Otchet (1961). p.137.
 (05) Lenin, PSS, XLV. p.86.
 (06) Ibid., XLIII. p.18, p.24; XLIV, p.159.
 (07) R. Pipes, Struve: Liberal on the Left (1970), あちこちの頁に.
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 第一節、終わり

2555/O.ファイジズ・内戦と戦時共産主義②。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 第7章の試訳のつづき(で最終回)。
 第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した
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 第7章・内戦とソヴィエト・システムの形成②。
 第五節。
 (01) 奇妙に感じられるかもしれないが、レーニンがソヴィエト・ロシアで広く知られるようになったのは、ようやく1918年の9月だった。—そして、そのときに彼があやうく死亡しかかったからだった。
 レーニンは、ソヴィエト権力の最初の10ヶ月の間、ほとんど公衆の前に出なかった。
 彼の妻のNadezhda Krupskaya は、「誰も、レーニンの顔すら知らなかった」と回想した。(注6) 
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 (02) このボルシェヴィキ指導者がFanny Kaplan というテロリストの暗殺者が放った二発の銃弾で傷ついた8月30日、全てが変わった。撃たれたのは、レーニンがモスクワのある工場を訪問していたときだった。
 ソヴィエトのプレスで、彼の回復は奇跡だと大きく喧伝された。
 レーニンは、超自然的な力で守られた、人々の幸福のために自分の生命を犠牲にすることを怖れない、キリストのごとき人物として喝采を浴びた。
 レーニンの肖像が、街頭に現れ始めた。
 彼は〈ウラジミール・イリイチのクレムリン散歩〉というドキュメント・フィルムで初めて広く観られた。これは、同年の秋のことで、殺されたという大きくなっていた風聞を打ち消した。
 これが、レーニン個人崇拝の始まりだった。—レーニンの意思の反して、自分たちの指導者を「人民のツァーリ」として持ち上げたいボルシェヴィキが考案した個人崇拝。//
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 (03) かくして、赤色テロルも、始まった。
 Kaplan は一貫して否認したが、エスエルと資本主義諸国家のために働いていたとして訴追された。
 彼女は、ソヴィエトはよく連係した国際的な外部の敵に包囲されている、という体制の偏執狂的理論の、生きている証拠だった。—この理論は、白軍や反革命的蜂起への連合諸国の支援によって明証された。また、ソヴィエトが生き残るには継続的な内戦を闘わなければならない、という理論の。
 同じ論理は、スターリン時代の全体を通じるソヴィエトのテロルを正当化することになる。//
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 (04) プレスは、レーニンの生命を狙った企てに対する大衆的報復を訴えた。
 数千人の「ブルジョアの人質」が逮捕された。
 チェカの牢獄を見れば、膨大な数の異なった人々が拘禁されていることが明らかになっただろう。—政治家、商人、貿易業者、公務員、聖職者、教授、売春婦、反対派労働者、そして農民。要するに、社会の縮図だった。
 人々は、「ブルジョアの挑発」(狙撃または犯罪)の現場の近くにいたという理由だけで逮捕された。
 ある老人は、チェカの一斉捜索の際に法廷服姿の男の写真を身に付けているのを発見されたという理由で、逮捕された。それは、1870年代に撮られた、死亡している親戚の写真だった。//
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 (05) チェカの拷問方法の巧妙さは、スペイン的尋問に匹敵していた。
 地方のチェカにはいずれにも、得意分野があった。
 Kharkov では、「手袋だまし」を使うまでに至った。—被害者の手を水泡ができた皮膚が剥げ落ちるまで沸騰している湯に入れた。
 Kiev では、被害者の胴体をネズミ籠に固定し、ネズミ類が逃げようとする被害者の身体を噛み尽くすように、胴体を温めた。//
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 (06) 赤色テロルは、社会の全領域からの抗議を呼び起こした。
 党内部にも、その過剰さについて、批判があった。
 しかし、指導部内の「強硬派」(レーニン、スターリン、トロツキー)は、チェカを支持した。
 レーニンは、内戦でのテロル行使に怖気付く者たちには耐えられなかった。
 彼は、1917年10月26日にカーメネフが提案した死刑廃止の決議を第二回ソヴェト大会が採択した際の意見聴取で、「きみたちは、狙撃隊なくしてどうやって革命をすることができるのか?」と尋ねた。
 「自分たちが武装解除すれば、きみたちの敵もそうするとでも期待しているのか?
 他に鎮圧するどんな手段があるのか?
 監獄か?
 内戦中にそれはいかほどの意味があるのか?」(注7)//
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 (07) 〈テロリズムと共産主義〉—スターリンが詳細に研究した書物—で、トロツキーは、テロルは階級闘争で勝利を獲得するためには不可欠だと主張した。
 「赤色テロルは、破壊される宿命にあるが死滅するのを望まない階級に対して用いられる武器だ。
 白色テロルがプロレタリアートの歴史的勃興を妨害することができるなら、赤色テロルは、ブルジョアジーの破滅を早める。
 この促進は—たんなる速度の問題だが—、一定の時期には、決定的な重要性をもつ。
 赤色テロルなくして、ロシアのブルジョアジーは、世界のブルジョアジーとともに、ヨーロッパで革命が起きるはるか前に、我々を窒息させるだろう。
 このことに盲目になってはならない。あるいは、これを否定する詐欺師になってはならない。
 ソヴィエト・システムが存在するというまさにそのことの革命的で歴史的な重要性を認識する者は、赤色テロルもまた容認しなければならない。」(注8)//
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 (08) テロルは、最初から、ボルシェヴィキ体制の統合的要素だった。
 この数年間のその犠牲者の数は、誰にも分からないだろう。しかし、赤軍による農民とコサックの大量殺戮の犠牲者数を計算するとするなら、内戦による戦闘で死んだ者たちの数と同程度だった可能性がある。—100万を超える数字。//
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 第六節。
 (01) チェコ軍団は、Samara で捕われたあとで崩壊した。
 1918年11月に第一次大戦が終わったあとでは、戦闘を継続する理由がなかった。
 赤軍に抵抗する有効な兵力がなくしては、Komuch (立憲会議議員委員会)がVolga 地域を掌握しきれなくなる前の、時間の問題にすぎなかった。
 エスエルは、Omsk へ逃げ去った。そこでの彼らの短期間の指令政府は、シベリア軍の右翼主義将校たちによって打倒された。シベリア軍将校たちは、反ボルシェヴィキ運動の最高指導者になるようKolchak 提督を招いた。
 Kolchak はイギリス、フランス、アメリカ各軍の支援を受けていた。これら諸国は、ボルシェヴィキを権力から排除するために政治的な理由でとどまっていた。大戦が今では終わって、連合諸国がロシアに干渉する軍事的理由はもうなかったけれども。//
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 (02) 10万人を擁するKolchak の白軍は、Volga 地域へと進んだ。そこでは、ボルシェヴィキが、1919年春に彼らの戦列の背後で起きた大規模の農民蜂起に対処するために戦っていた。
 赤軍は死にもの狂いの反抗をして、6月半ばまでにKolchak 軍をUfa へと退却させた。そのあと、Ural とそれ以上の諸都市は、白軍が結束を失い、シベリアを通って退却したときにすみやかに引き続いて、赤軍が奪い取った。
 Kolchak はついにIrkutsk で捕えられて、1920年2月にボルシェヴィキによって処刑された。// 
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 (03) Kolchak の攻撃が大きくなっていたあいだ、Denikin の勢力はDonbas 炭鉱地域と南西ウクライナに突入した。この地方では、コサック軍が赤軍によるコサック撃退の大量テロル運動(「非コサック化」)に対する反乱を起こしていた。
 イギリスとフランスの軍事支援を受け、今や明確な政治的理由で反ボルシェヴィキ活動をしていた白軍は、簡単にウクライナに入った。
 赤軍は供給の危機に苦しんでいて、3月と10月の間に南部前線で100万人以上の脱走兵を失った。
 後方は農民蜂起に襲われていた。その当時赤軍は、馬や必需品を徴発し、増援のための徴兵を求め、脱走兵を匿っていると疑った村落を弾圧した。
 ウクライナの南東角では、赤軍はNestor Makhno の農民パルチザンたちに大きく依存していた。彼らはアナキストの黒旗のもとで闘ったが、補給がよく、紀律もある白軍とは比べものにならなかった。//
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 (04) 7月3日、Denikin はそのモスクワ指令(Moscow Directive)、ソヴィエトの首都を総攻撃せよとの命令、を発した。
 これはイチかバチかの賭けだった。赤軍の一時的な弱さを利用しての白軍騎兵隊の速度を考慮していたが、訓練を受けた予備兵、健全な指揮管理と補給戦で守備されていない後方の白軍を残す危険もあった。//
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 (05) 10月14日、白軍は北へと前進し、モスクワからわずか250マイルのOrel を奪取した。
 しかし、Denikin 兵団は大きく伸びすぎていた。
 Makhno のアナキスト・パルチザンやウクライナ民族主義者たちから基盤を防衛するに十分な兵団を後方に残さないままで、出発していた。そして、モスクワ攻撃の真っ最中に、これらと交渉するために撤兵することを余儀なくされた。
 通常の補給がなかったので、Denikin 兵団は分解して農場を略奪した。
 しかし、白軍の主要な問題は、農民たちの恐怖だった。彼らは、白軍は土地所有者たちの報復軍ではないかと思った。
 白軍の勝利は、土地に関する革命を元に戻してしまうのではないか。 
 Denikin の将校たちは、ほとんどが大地主の子息だった。
 白軍は、土地問題について、大地主たちの余った土地は将来には農民層に売却されるというカデット(Kadet)の政策綱領以上に進むつもりはないと明言していた。
 この考え方によると、農民たちは、革命で大地主から奪った土地の四分の三を返却しなければならないことになる。//
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 (06) 白軍がモスクワに向かって進軍したとき、農民たちは赤軍の背後に集まった。
 6月と9月の間に、Orel とモスクワの二つの軍事地域だけから、25万人の脱走兵が赤軍に復帰した。
 これらの地域では、地方農民が1917年に相当に広い土地を獲得していた。
 農民たちの多くがどれほど暴力的な徴発や派遣官僚たちを嫌悪していたとしても、土地に関する革命を守るために白軍に対抗する赤軍の側に付いただろう。//
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 (07) 赤軍は20万の兵団でもって、半分の数の白軍が南へと撤退するよう強いた。白軍は紀律を失った。
 Denikin 軍の残余は、黒海沿岸の連合国の主要な港のあるNovorossisk で敗北した。そのうち5万の兵団は、1920年3月にクリミア地域へと急いで避難した。
 連合国の船舶に争って乗ろうとする、兵士や民間人の絶望的な光景が見られた。
 兵士たちが優先されたが、全員が救われたのでは全くなく、6万人の兵士がボルシェヴィキの手中に残された(ほとんどがのちに射殺されるか、強制収容所に送られた)。
 Denikin 批評者にとって、避難の不手際が決定的だった。
 将軍の謀反はモスクワ指令の批判者だった男爵Wrangel への地位継承を余儀なくした。Wrangel は、1920年にクリミアで、ボルシェヴィキに抵抗する最後の一戦を行った。
 しかし、これは白軍の不可避の敗北を数ヶ月だけ遅らせたにすぎなかった。//
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 (08) 白軍の失敗の原因は何だったのか?
 Constantinople、パリ、ベルリンにあった白軍側のエミグレ共同社会は、長年にわたってこの疑問に苦悶することになる。
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 (09) 彼らの信条に同調する歴史家たちはしばしば、彼らには勝ち目がなかった「客観的」要因を強調した。
 赤軍は、数のうえで圧倒的に優勢だった。
 彼らは、錚々たる諸都市と国の工業のほとんどがある中央ロシアの広大な地勢を統御した。直接の燃料でなくとも、ある前線から別のそれへと移動することができる鉄道網の中核部分も支配した。
 これとは対照的に、白軍はいくつかの異なる前線に分かれ、作戦を協同して展開するのが困難だった。また、補給の多くを連合諸国に頼らなければならなかった。
 こうした要因があった。
 しかし、彼らの敗北の根源にあったのは、政策の失敗だった。
 白軍は、大衆の支持を獲得することのできる政策を立案することができず、またその意欲ももたなかった。
 ボルシェヴィキと比べて、彼らにはプロパガンダがなく、赤旗や赤い星に対抗できる自分たちのシンボルもなかった。
 彼らは、政治的に分裂していた。
 右翼君主制主義者と社会主義的共和主義者を含む何らかの運動が政治的合意に達する論点があっただろう。
 しかし、実際には、白軍が政策について合意するのは不可能だった。
 合意を形成しようとすらしなかった。
 彼らのただ一つの考えは、1917年10月以前に時計を巻き戻すということだった。
 彼らは、新しい革命的状況に適合することができなかった。
 民族独立運動を受け入れるのを彼らが拒んだことは、悲惨だった。
 そのことは潜在的にきわめて貴重だったポーランド人やウクライナ人の支持を失わせ、コサックとの関係を複雑にした。コサックたちは、白軍指導者が準備していた以上のロシアからの自立を欲していた。
 しかし、こうした彼らの無為無策の主要な原因は、土地に関する農民革命を受容することができなかったことにあった。//
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 第七節。
 (01) 農民たちは、革命が脅かされるかぎりでのみ、白軍に対抗する赤軍を支持した。
 白軍が敗北するや、農民たちは反ボルシェヴィキに変わった。ボルシェヴィキの食料徴発によって、農村的ロシアの多くの地方は飢餓の淵に立っていた。
 1920年秋までに、国土全体が農民との戦争で燃えさかった。
 怒った農民たちは、武器を手に取り、ボルシェヴィキを村落から追い出そうとした。
 彼らは徴発部隊と戦う組織を結成していた。そして、田園地帯にあるソヴィエトの基盤施設を破壊するために、ウクライナのMakhno 軍やTambov 中央ロシア地方のAntonov の反乱部隊のような、より大きい農民軍に加入した。
 どこであっても、彼らの意図は、基本的には同一だった。すなわち、1917-18年の農民による自治支配を復活させること。
 ある者たちは、これを混乱したスローガンで表現した。「共産主義者のいないソヴェトを!」、あるいは「ボルシェヴィキ万歳!、共産主義者に死を!」。
 多くの農民が、ボルシェヴィキと共産党は二つの別の政党だと錯覚していた。
 1918年3月の党名の変更は、遠く離れた村落にはまだ伝えられていなかった。
 農民たちは、「ボルシェヴィキ」は平和と土地をもたらし、「共産党」は内戦と穀物の徴発を持ち込んだ、と考えていた。//
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 (02) 1921年までに、ボルシェヴィキ権力は、田園地帯の多くで存在するのを止めた。
 都市部への穀物の輸送は、反乱地域の内部では停止した。
 都市部での食料危機が深化したとき、労働者たちはストライキへと向かった。//
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 (03) 1921年2月にロシアじゅうに押し寄せたストライキは、農民蜂起と同じく革命的だった。 
 ストライキ実行者は制裁を予期し得たので(即時解雇、逮捕と収監、そして処刑すら)、行動に移すのは必死の絶望的行為だった。
 初期のストライキは体制側との取引の手段だったが、1921年のそれは、体制を打倒する企てだった。//
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 (04) 労働者たちは、労働組合を党-国家に従属させるボルシェヴィキの試みに激怒した。
 トロツキーは、輸送人民委員として、鉄道労働組合(十月蜂起に反対だった)を解体させて、国家に服従する一般輸送組合に置き換えようと計画した。
 この計画は労働者のみならず、ボルシェヴィキの労働組合主義者をも憤激させた。組合主義者たちは、これを、全ての自立的労働組合の権利を廃絶しようとする広範な運動の一部だと捉えた。
 1920年に、党内に労働者反対派(Workers' Opposition)が出現していた。これは、経営についての労働組合の諸権利を守り、中央から指名された工場管理者、官僚たち、「ブルジョア専門家」の力の増大に抵抗しようとした。これらの者たちは、「新しい支配階級」だとして労働者たちの怒りの対象となっていた。//
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 (05) モスクワは、反乱が起きた最初の工業都市だった。
 労働者たちは、ストライキへと進んだ。
 彼らが訴えたのは、共産党員の特権の廃止と自由な取引、市民的自由(civil liberties)およぼ立憲会議(憲法制定議会)の復活だった。
 ストライキはペテログラードへと広がり、ここでも同様の要求が掲げられた。
 〔2021年〕2月27日の革命四周年記念日、ペテログラードの街頭につぎの宣言文が出現した。
 新しい革命を呼びかけるものだった。
 「労働者と農民は自由(freedom)を必要とする。
 彼らは、ボルシェヴィキの布令によって生きたいとは思っていない。
 自分たちの運命を統御したいと望んでいる。//
 我々は、逮捕された社会主義者と非党員労働者たちの解放を要求する。
 戒厳令の廃止、全ての労働者の言論、プレス、集会の自由、工場委員会、労働組合、およびソヴェトの自由な選挙を要求する。//
 集会を呼びかけ、決議を採択し、当局に代表団を派遣し、きみたちの要求を実現しよう。」(注9)//
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 (06) 反乱はその日に、Kronstadt 海軍基地へと広がった。
 1917年、トロツキーはKronstadt の海兵たちを、「ロシア革命の誇りと栄誉」と呼んだ。
 彼らは、ボルシェヴィキに権力を付与するに際して不可欠の役割を果たした。
 しかし今では、ボルシェヴィキ独裁の廃止を要求していた。
 彼らは、共産党員のいない新しいKronstadt ソヴェトを選出した。
 言論と集会の自由、「全ての労働人民への平等な配給」を要求し、海兵たちの多くの出身である農民層への残虐な措置の廃止を求めた。
 トロツキーは、反逆鎮圧の指揮権を握った。
 3月7日、海軍基地への砲撃でもって、攻撃が始まった。//
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 (07) この危機的状況の中で、3月8日にモスクワで、第10回党大会が開かれた。
 レーニンは、労働者反対派の打倒を決意して、この派を非難する票決を獲得するとともに、分派を禁止する秘密決議をそのときに採択させた(共産党の歴史の中で最も致命的に重大なものの一つ)。
 これ以来、党が国家を支配したのと同じく独裁的に、中央委員会が党を支配することになる。
 分派主義だという非難を受けるのを怖れて、誰一人、この決定に反対しなかった。
 スターリンの権力への上昇は、この分派禁止の所産だった。//
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 (08) 同じく重要なのは、この大会の第二の目印である、食料徴発を現物税に換えることだった。
 これは戦時共産主義の中心的な拠り所を放棄し、農民たちが現物税を納入すれば余剰の食糧品を販売するのを許すことで新しい経済政策(NEP)の基礎となった。
 レーニンは、代議員たちがNEP は資本主義の復活だと非難するのを懸念して、農民蜂起を鎮圧するために(彼は、「Dinikin 軍とKolchak 軍の全てを合わせたよりはるかに危険だ、と言った)(注10)、そして農民層との新たな同盟関係を築くために必要だ、と強く主張した。//
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 (09) ボルシェヴィキは同時に、民衆の反乱の鎮圧にも力を注いだ。
 3月10日、300人の党指導者たちがKronstadt の前線へ行くために大会を離れた。
 空からの砲弾攻撃のあとで、5万人の精鋭部隊が氷上を横断して海軍基地に突撃した。
 これで、1万人の生命が失われた。
 つづく数週間で、2500人のKronstadt の海兵たちが裁判手続なしで射殺された。別の数百人は、レーニンの命令にもとづいて、白海の島にある従前の修道院、ソヴィエト最初の巨大な収容所に送られた。その収容所では多数の者が、飢え、病気、体力消耗によってゆるやかに死んだ。
 指導者の逮捕と自由取引の復活のあとで、ストライキはペテルブルクとモスクワで勢いを失った。
 しかし、現物税を導入したにもかかわらず、農民叛乱は強くて鎮圧できなかった。
 食料徴発が飢饉の危機をもたらしていたVolga 地域では、農民たちは、今では生きるために、いっそうの決意をもって戦った。
 容赦なきテロルが、Tambov その他の地方の反乱地帯で用いられた。
 村落は、焼かれた。
 抵抗が抑えられるまでに、数万人の人質が取られ、数千人以上が射殺された。
 「国内の前線」で、ボルシェヴィキは内戦に勝った。
 だが今や、統治する仕方を知る必要があった。//
 ——
 第八節。
 (01) 内戦はボルシェヴィキにとって、成長期の経験だった。
 成功のモデル、「いかなる要塞も突破することができた」、革命の「英雄的時代」になった。
 一世代にわたる政治的習癖が形成された。—軍事的成功の新しい例が取って代わった1941年までは。
 スターリンが「ボルシェヴィキ的方法」または「ボルシェヴィキ的速さ」で物事を行うことについて語るとき—例えば五ヶ年計画について—、彼が念頭に置いたのは内戦での党の方法だった。
 ボルシェヴィキは内戦から、恒常的な「闘争」、「運動」、「戦線」とともに犠牲的行為の崇拝、統治の軍事的スタイルを継承した。
 革命の敵と永続的に闘争する必要性に、彼らは固執した。外国にであれ国内にであれ、至るとこるにいる敵たちとの戦いに。
 農民たちへの不信も引き継いだ。また、労働力の軍事化を伴う計画経済の原型と新しい社会の作り手だという国家についての夢想家的見通し(utopian vision)も。
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 第7章、終わり。

2554/O.ファイジズ・内戦と戦時共産主義①。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 この著のうち、第7章の試訳。
 第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
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 第7章・内戦とソヴィエト・システムの形成①。
 第一節。
 (01) ブレスト=リトフスク条約によって、Czech とSlovak の兵士たちの大勢力—戦争捕虜とAustro-Hungary 軍からの脱走者—は、ソヴィエト領域内に取り残された。
 ナショナリストたちは自分たちの国のAustro-Hungary 帝国からの独立のために戦うと決心したので、戦争でロシア側に付いた。
 しかし、今ではフランスで戦っているチェコ軍の一部として戦闘を継続したかった。
 彼らは、敵の戦線を横切る危険を冒すのではなく、東方へと進み、世界をまさに一周して、Vladivostok とアメリカ合衆国を経てヨーロッパに着こうとした。
 〔1918年〕3月26日、ソヴィエト当局とPenza で合意に達した。それによれば、チェコ軍団の3万5000人の兵士は、自衛のための明記された数の武器をもつ「自由な市民」としてシベリア横断鉄道で旅をすることが認められた。//
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 (02) 5月半ばまでに、ウラルのCheliabinsk にまで到達し、そこで、地方ソヴィエトやその赤衛隊との戦闘に巻き込まれた。後者は彼らの銃砲を没収しようとした。
 軍団は、自由ソヴィエト・シベリアを通過して進もうと決め、グループに分かれ、軍備も紀律も乏しい赤衛隊から次から次へと町々を奪取した。赤衛隊は、よく組織されたチェコ軍団を見るやパニックに陥ってただちに逃げ去った。
 6月8日、チェコ軍団の8000人がヴォルガのSamara を奪った。そこは右翼エスエル(the Right SRs)の要塞地で、指導していたのは立憲会議〔憲法制定議会〕の閉鎖の後に当地へと逃亡した者で、Komuch(立憲会議議員委員会)という政府を形成していた。その政府で、チェコ軍団は力を握った。
 右翼エスエルは、フランスとイギリスがボルシェヴィキを打倒してドイツとオーストリアに対する戦争に再び戻るのを助けるつもりだ、と約束した。
 こうして、内戦—赤軍と白軍の間の軍事隊列で組織されていた—は、新しい段階に入った。それには最終的には、14の連合諸国が関わることになる。//
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 (03) 南ロシアのドン河地方で、すでに戦闘は始まっていた。その地方で、Bykhov 修道院を脱出していたコルニロフ(Kornilov〉と彼の白軍は、4000人の義勇軍を設立した。ほとんどは将校たちで、2月に氷結した平原を南へKuban 地方へ退却する前に、赤軍からRostov を短期間で奪った。
 コルニロフは4月13日に、Ekaterinodar 攻撃の際に殺された。
 将軍Denikin が指揮権を受け継ぎ、白軍を再びドン地方に向かわせた。そこではコサック農民たちがボルシェヴィキに対して反乱を起こしていた。ボルシェヴィキは銃で脅かして食料を奪い取り、コサック居住地で大暴れしていた。
 6月までに、4万人のコサック兵が将軍Krasnov のドン軍に合流した。
 その軍は、白軍とともに、北のヴォルガ地方を睨む強い位置にあり、モスクワを攻めるべくチェコ軍団と連係した。//
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 第二節。
 (01) 内戦の物語はしばしば、白軍と連合諸国のロシアへの干渉によってボルシェヴィキが闘うことを強いられた戦闘だった、と語られている。
 事態に関するこのような左翼史観では、赤軍は「非常手段」の行使について責められるべきではない、そのような措置は内戦で用いるよう余儀なくされたのだ—専断的命令とテロルによる支配、食糧徴発、大衆徴兵、等々—、なぜなら、ボルシェヴィキは反革命に対して革命を防衛するために決然とかつ迅速に行動しなければならなかったからだ、ということになる。
 しかし、このような見方は、内戦の全体像や内戦のレーニンとその支持者にとっての革命との関係を把握することができない。//
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 (02) レーニンらの見方では、内戦は階級闘争の必要な段階だった。
 彼らにとっては、内戦は革命をより激しく軍事的な態様で継続させるものだった。
 トロツキーは6月4日にソヴェトに対してこう言った。
 「我々の党は、内戦のためにある。
 内戦、万歳!
 内戦は、労働者と赤軍のためにあった。内戦は反革命に対する直接的で仮借なき闘いの名において行われた。」(注1)//
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 (03) レーニンは、内戦に備えており、おそらくは歓迎すらした。自分の党の基盤を確立する機会として。
 この闘争の影響は予見し得るものだっただろう。「革命」側と「反革命」側への国内の両極化。国家の軍事的および政治的な権力の拡張、反対者を抑圧するテロルの行使。
 レーニンの見方では、これら全てがプロレタリアート独裁の勝利のために必要だった。
 彼はしばしば、パリ・コミューンが敗北した理由はコミューン支持者たちが内戦を起こさなかったことにある、と言った、//
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 第三節。
 (01) チェコの勝利の平易さによって、今は戦争大臣のトロツキーに明らかになったのは、赤軍は、赤衛隊に代わる常備軍、職業的将校、指揮系統の中央集権的階層制を備え、帝政時代の徴兵軍をモデルにして再編成されなければならない、ということだった。
 この政策方針には、多数の反対が党員内部にあった。
 赤衛隊は労働者階級の軍と見られたが、ボルシェヴィズムの見方では、大衆徴兵は敵対的な社会勢力である農民層に支配された軍をつくることになる。
 党員たちはとくに、トロツキーの考えにある帝制時代の元将校の徴兵に反対した(内戦中に7万5000人がボルシェヴィキによって徴兵されることになる)。
 党員たちはこれは古い軍事秩序への元戻りであって、「赤軍将校」として彼らが昇進するのを妨害するものだと見た。
 いわゆる軍部反対派は、下層部にある不信と職業的将校やその他の「ブルジョア専門家」へのルサンチマンをあちこちで明確にしていた。
 しかし、トロツキーは、批判者たちの論拠を嘲弄した。革命的熱狂では、軍事的専門知識の代わりにならない。//
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 (02) 大衆徴兵は、6月に導入された。
 工場労働者や党活動家は最初に召集された。
 地方には軍事施設がなかったので、農民たちを動員するのは予想したよりもはるかに困難だった。
 最初の召集による募兵で想定していた27万5000人の農民のうち、4万人だけが実際に出頭した。
 農民たちは、収穫期に村落を去りたくなかった。
 徴兵に対しては農民蜂起が発生し、赤軍からの大量脱走もあった。
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 (03) ソヴィエトの力が地方で強くなるにつれて、農民の徴兵の割合は改善した。
 赤軍は、1919年春までに100万人の兵士をもち、1920年までに300万人に大きくなった。
 1920年の内戦の終わりまでには、500万人になった。
 赤軍は多くの点で大きすぎて、効率的でなかった。
 赤軍は荒廃した経済が銃砲、食糧、衣類を供給できる以上の早さで大きくなった。
 兵士たちは士気を失い、数千人の単位で、武器を奪って脱走した。その結果、新規の兵士たちが、十分な訓練を受けることなく、戦闘に投入されなければならなかった。そのことだけでも、脱走兵をさらに増やしそうだった。
 赤軍はこうして、大衆徴兵、供給不足、脱走の悪循環に陥っていった。これはつぎには、戦時共産主義(War Communism)という苛酷なシステムを生んだ。この戦時共産主義というシステムは、命令経済を目指すボルシェヴィキの最初の試みで、その主要な目的は全ての生産を軍隊の需要に向かって注ぎ込むことだった。//
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 (04) 戦時共産主義は、穀物の独占で始まった。
 しかし、包括的射程で経済の国家統制を含むように拡大した。
 戦時共産主義は、私的取引の廃止、全ての大規模産業の国有化、基幹産業での労働力の軍事化を目指した。そして、1920年のその絶頂点では、金銭を国家による一般的な配給制に換えようとした。
 これはスターリン主義経済のモデルだったので、その起源を説明し、どの点が革命の歴史に適合するかを判断することは、重要なことだ。//
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 (05) 一つの見方は、こうだ。戦時共産主義は内戦という緊急事態への実践的な対応だ。—推測するにレーニンが1918年春に構想し、1921年の新経済政策で回帰することになる混合経済からの一時的な逸脱だ。
 この見方は、この二つの時期にボルシェヴィキが追求した社会主義の「ソフト」な範型は、内戦期やスターリン時代の「ハード」な、または反市場・社会主義と対置される、レーニン主義の本当の顔だ、と考える。
 別の見方は、こうだ。戦時共産主義の根源はレーニンのイデオロギーにある。—布令によって社会主義を押し付ける試みであり、ボルシェヴィキが大衆的抗議を受けて1921年にやむなくようやく放棄したものだ。//
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 (06) どちらの見方も、正しくない。
 戦時共産主義は、内戦へのたんなる反応ではなかった。
 内戦を闘うための手段であり、農民その他の社会的「敵」に対する階級闘争のための一体の政策体系だった。
 こう説明することで、この政策が白軍を打倒したあと一年間も維持された理由が明らかになる。
 ボルシェヴィキは明確なイデオロギーを有していた、と言うこともできない。
 ボルシェヴィキは政策方針に関して分かれていた。—左翼は資本主義システムの廃棄へと直接に向かうことを望んだが、レーニンは、経済の再建の為に資本主義の手段を用いることを語った。
 この分裂は、内戦のあいだを通じて何度も浮上し、そのために戦時共産主義の政策は絶えず中断し、党の統一という関心に変わった。//
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 (07) 戦時共産主義は本質的には、都市部の食料危機と彼らの権力の基盤があった都市部の飢餓からの労働者の脱出に対する、ボルシェヴィキの政治的反応だった。
 ボルシェヴィキ体制の最初の6ヶ月間で、およそ100万人の労働者が大きな工業都市から脱出し、食料供給地で生活することのできる農村地帯へと移動した。
 ペテログラードの金属工業は最も悪い影響を受けた。—この6ヶ月間で、その労働者数は250万からほとんど5万に落ちた。
 ボルシェヴィキがかつては最強だったNew Lessner とErickson の工場施設には、10月にはそれぞれ7000人以上の労働者がいたが、4月までに200人以下になった。 
 Shliapnikov の言葉によれば、ボルシェヴィキ党は「存在していない階級の前衛」になっていた。(注2)//
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 (08) 危機の根源は、紙幣を使って買えるものは何もないときに、農民たちは紙の金のために食糧用品を売ろうとはしないことにあった。
 農民は生産を減らし、余剰を貯え、家畜を太らせるために穀物を用いるか、都市部からやって来る商売人との間の闇市場でそれを売った。
 都市部の商売人は農民たちと取引するために農村地帯を旅行した。
 彼らは、衣類や家庭用品を詰めた袋を持って都市部を出発し、地方の市場でそれらを売るか交換し、今度は食料を詰めて帰っていった。
 労働者たちは、彼らが工場で盗んだ道具類で農民たちと取引をし、あるいは物々交換すべく、斧、鋤、簡易ストーブ、煙草ライターのような簡単な用具を製造した。
 このような大量の「袋運び屋」によって、鉄道は占められた。
 モスクワと南方の農業地帯の間の主要な接合地であるOrel 駅では、毎日3000人の「袋運び屋」が通り過ぎた。
 彼らの多くは、列車を乗っ取った武装集団とともに旅行した。//
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 (09) ボルシェヴィキは、5月9日に、穀物を彼らが独占することを発表した。
 農民たちの収穫の余剰は全て、国家の所有物になった。
 武装集団が村落へと行って、穀物を徴発した。
 (余剰がないために)穀物を見つけられない場合に彼らが想定したのは、「富農」(クラク、kulak)—ボルシェヴィキが考案した「資本主義」的農民層という正体不明(phantom)の階級—が隠している、「穀物を目ざす戦争」が始まった、ということだった。//
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 (10) レーニンは、衝撃的な激烈さをもつ演説で、戦いの火蓋を切った。
 「クラクは、ソヴィエト政権に対する過激な敵対者だ。…
 この吸血鬼どもは、人民の飢えにもとづいて富裕になった。…
 仮借なき戦いを、クラクに対して行え!」(注3)
 部隊は、必要な穀物量が手放されるまで、村民たちを打ち叩いて、苦痛を与えた。—しばしば、次の収穫のために絶対不可欠の種苗までが犠牲になった。
 農民たちは、貴重な穀物を部隊から隠そうとした。
 徴発に抵抗する数百の農民蜂起が発生した。//
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 (11) ボルシェヴィキは政策を強化することで対応した。
 1919年1月に、穀物独占に代えて、一般的な食糧賦課(Food Levy)を導入した。これによって、独占は全ての食糧品に拡大され、地方の食料委員会は収穫見込み量に従って賦課する権限を剥奪された。これ以降、モスクワは、農民たちの最後の食料や種苗を奪っているのかどうかについて何ら考慮することなく、必要としたもの全てを農民たちから剥奪することになる。//
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 (12) 食糧賦課の目的は、赤軍の増大する需要に合わせることだけではなかった。
 カバン人の商売を根絶することで、労働者たちが工場にとどまり続けるのを助けた。
 労働力の統制は、戦時共産主義の本質部分だった。—トロツキーはこう言った。「国家の計画に適合するために必要とされる場所へと全ての労働者を配置するのは、独裁者の権利だ」。(注4)
 この計画経済に向かう一歩が、1918年6月の大規模産業の国有化だった。
 国家が指名する管理者に、工場委員会と労働組合の権限(1917年11月の布令で工場が担った)が移し換えられた。これは産業との関係に混乱をもたらし、1918年春のボルシェヴィキに対する労働者反対運動の契機となった。
 国有化布令は、ペテログラードで計画されていた総ストライキの3日前に発せられた。これは新しい工場管理者に、行動につき進む労働者に対しては解雇でもって威嚇することを許した。//
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 (13) 配給制度は、戦時共産主義の最後の構成内容だった。
 左翼ボルシェヴィキは、配給券発行は共産主義秩序を創設する行為だと見た。—金銭の代替物。彼らは間違って、金銭の消滅は資本主義システムの終焉を意味すると考えた。
 配給制度を通じて、ボルシェヴィキ独裁制はさらに、社会の統制を強めた。
 配給のクラス分けは、新しい社会階層秩序での人の位置を明らかにした。
 赤軍兵士と官僚層は第一等級の配給を得た(粗末だが十分だった)。
 ほとんどの労働者は第二等級だった(十分ではなかった)。
 一方で階層の底にいる〈ブルジョア(burzhooi)〉は、第三等級の配給で対応しなければならなかった(ジノヴィエフが回想した言葉によると、「匂いを忘れない程度のパンだけ」だった (注5))。//
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 第四節。
 (01) 全体主義国家の起源は、戦時共産主義にあった。戦時共産主義が行ったのは、経済と社会の全ての側面の統制だった。
 ソヴィエト官僚制度は、この理由で、内戦のあいだに劇的に膨れ上がった。
 帝制時代の国家の古い問題—国の大多数の上に位置する能力のなさ—は、ソヴィエト国家では継承されなかった。
 1920年までに、540万の人々が政府のために働いた。
 ソヴィエト・ロシアにいた労働者数の二倍の数の役人がいた。そして、この役人たちは、新しい体制の主要な社会的基盤だった。
 プロレタリアート独裁ではなく、官僚層の独裁制だった。//
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 (02) 党に加入することは、官僚制の階位を通って昇進するための最も確実な方法だった。
 1917年から1920年までの間に、140万人が入党した。ほとんど全員が下層または農民の背景をもち、多くが赤軍出身者だった。赤軍での経験は、数百万の徴兵者たちに、紀律ある革命的前衛の下級兵士であるボルシェヴィキの思考と行動の様式を教えた。
 党指導部は、この大量の流入が党の質を落とすだろうと懸念した。
 識字能力の水準はきわめて低かった(4年間の基礎学校の課程以上の教育を受けていたのは、1920年に党員の8パーセントだけだった)。
 党員たちの政治的能力に関して言うと、未熟だった。文筆業のための党学校では、学生の誰一人としてイギリスやフランスの指導者の名前を言うことができず、何人かは帝国主義とはイギリスのどこかにある共和国だと思っていた。
 しかし、別の観点からは、この教育不足は党指導部にとっての利益になった。教育不足は支持者の自分たちへの政治的従属性を支えるものだったからだ。
 教育が不足する党員たちは党のスローガンを鸚鵡返しで言ったが、全ての批判的思考を政治局と中央委員会に委ねていた。//
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 (03) 党が大きくなるにつれて、党は地方ソヴェトを支配するようにもなった。
 これが意味したのは、ソヴェトの変質だった。—議会によって統制される地方的革命組織からボルシェヴィキが全ての現実的権力を行使する党国家(Party-State)の官僚制的機構への変質。そこでは執行部が優越的地位をもった。
 上級のソヴェトの多く、とくに内戦で重要と見なされた地域でのソヴェトでは、執行部は選挙で選出されなかった。モスクワの党中央委員会が、党官僚の中からソヴェトを管理させるべく派遣した。
 田舎の(rural, 〈volost'〉)ソヴェトでは、執行部は選挙で選出された。
 この場合は、ボルシェヴィキの勝利は部分的には、投票制度と投票者の意向に依存していた。
 しかし、ボルシェヴィキの意思の貫徹は、第一次大戦で村落を離れて内戦中に帰郷した、青年やより学識のある村民たちの支持をも理由としていた。
 この者たちは、軍事技術や軍事組織に近年に熟達し、社会主義思想もよく知っていて、ボルシェヴィキに加入する心づもりがあり、内戦が終わるまでには田舎のソヴェトを支配していた。
 例えば、この問題が詳しく研究されているVolga 地域では、〈volost'〉ソヴェトの執行部構成員の三分の二は、35歳以下の識字能力ある農民男性で、1919年秋にボルシェヴィキ党員として登録されていた。その前の春には、この割合は三分の一だった。
 この意味で、独裁制は農村地帯での文化革命に依拠していた。
 農民世界の至るところで、共産主義体制は、公務階層(official class)に加わりたいとする、教養ある農民の息子たちの野心にもとづいて築かれていた。//
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 第五節以下へ、つづく。

2362/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)-第16章第3節「レーニンの最後の闘い」①。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.793-5。一文ずつ改行。
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 第16章・死と離別。
 第三節・レーニンの最後の闘い①。
 (1)レーニンの体調が悪い兆候が明らかになったのは1921年で、その頃彼は、頭痛と疲労を訴え始めた。
 医師たちは診断することができなかった。—身体上の衰弱の結果であるとともに、精神的な支障のそれでもあった。
 過去4年間、レーニンは、事実上は休みなく、毎日16時間働いていた。
 本当に休んだ期間だったのは、ケレンスキー政府から逃げていた1917年の夏と、1918年8月のカプランの暗殺未遂からの回復に必要とした数週間だけだった。
 1920-21年の危機は、レーニンの健康に対して多大の負担を課した。
 「レーニンの憤激」による肉体的兆候は、つまりKrupskaya がかつて叙述したような不眠と苛立ち、頭痛と極度の疲労は、労働者反対派や国土全体での反乱との激烈な闘いの間に、レーニンを悩ませつづけた。
 クロンシュタットの反乱者、労働者と農民、メンシェヴィキ、エスエル、聖職者たちは逮捕され、多数の者が射殺され、レーニンの憤激の犠牲となった。
 1921年夏までに、レーニンはもう一度勝利者として立ち現れた。
 だが、彼の精神的な消耗は、誰が見ても明瞭だった。
 記憶の喪失、会話の困難、奇妙な行動が見られた。
 何人かの医師は、レーニンの腕と首にまだあるカプランの二発の銃弾に毒性があったことに原因があると判断した(首の中の一つは1922年春に外科手術により除去された)。
 しかし、 別の医師たちは、脳性麻痺ではないかと疑った。
 この推測の正しさは、1922年5月25日にレーニンが最初の大きな脳発作に見舞われたことで、確認された。それによってレーニンは、右半身が事実上不随になり、しばらくの間は言葉を発せられなかった。
 その死まで世話をすることとなった妹のMaria Ul'ianova によると、兄のレーニンは、今や「自分の全てが終わった」と認識した。
 彼はスターリンに、自殺するために毒をくれ、と頼んだ。
 Krupskaya はスターリンにこう言った。「彼は生きたくない。これ以上生きることはできない」。
 彼女はレーニンにシアン化合物(cyanide)を与えようとしたのだったが、おじけづいた。それで二人で、「情緒の乏しい、しっかりして断固たる人物」であるスターリンに頼むことに決めた。
 スターリンはのちに死の床に同席することになるけれども、レーニンの死を助けるのを拒んだ。そして、政治局会議で、反対の一票を投じた。
 当分の間は、スターリンにとって、レーニンは生きている方が役に立った。//
 (2)レーニンが1922年夏に、Gorki にある国の家で回復している間、彼は自分の後継者問題に関心を寄せた。
 この問題の処理は、苦痛となる仕事に違いなかった。全ての独裁者がそうだろうように、自分自身がもつ権力に激しく執着し、明らかに他の誰も十分には継承できないと考えただろうからだ。
 レーニンが最後に記した文章は全て、自分を継承するのは集団的指導制がよいと考えた、ということを明らかにしている。
 彼はとくに、トロツキーとスターリンの間の個人的な対立を憂慮した。自分がいなくなればこの対立が党を分裂させかねない、ということが分かっていた。そして、両者の均衡をとることで、分裂を予防しようとした。//
 (3)レーニンの目から見ると、両者に長所があった。
 トロツキーは、輝かしい演説者であり、行政官だった。内戦に勝利する上で、彼ほどに力を発揮した者はいなかった。
 しかし、トロツキーの自負と傲慢さによって—過去にメンシェヴィキだった経歴やユダヤ人的な知的な風貌はもちろんのこと—、党内では人気がなかった(軍隊と労働者反対派の両方ともに、大部分は彼に個人的に反対だった)。
 トロツキーは、生来の「同志」ではなかった。
 彼はつねに、集団的指揮の場合の大佐であるよりも、自分の軍の将軍でありたかっただろう。
 党員各層内で彼を「外部者」たる地位の置いたのは、まさにこの点だった。
 トロツキーは、政治局の一員だったけれども、党の職位にあったことがなかった。
 彼は、稀にしか党の会合に出席しなかった。
 レーニンのトロツキーに対する気持ちを、Maria Ul'ianova はこう要約した。
 「彼はトロツキーに共感していなかった。—あまりに個性的すぎて、彼と集団的に仕事するのをきわめて困難にしている。
 しかし、彼は勤勉な働き手であり、才幹のある人物だ。V.I.〔レーニン〕にはそれが主要なことだったので、彼を候補に残そうとしつづけた。
 それが意味あることだったか否かは、別問題だ。」(*31)//
 (4)スターリンは、対照的に、最初は集団的指導制という必要性にははるかに適任であるように見えた。
 彼は内戦中は他の誰も望まない莫大な数の指令的業務をこなしていたので—彼は民族問題の人民委員、Rabkrin〔行政管理検査院〕の人民委員、革命軍事評議会の一員だった—、その結果として、すみやかに穏健で勤勉な中庸層の評価をかち得た。
 Sukhanov は1917年に、彼を「灰色でぼやりした」と描写した。
 全ての党指導層の者が、スターリンの潜在的な力とその力を行使したいという野心を、過少に評価するという間違いを冒した。そうした後援の結果として、彼は徐々に多くの地位を獲得するに至った。
 レーニンは、他の者たちとともに、スターリンの選抜について責任があった。
 なぜなら、レーニンは彼ほど不寛容な人物にしては、スターリンの多くの悪業については、党の統一を守るためにはスターリンが必要だと信じて、じつに顕著な寛容さを示したからだ。その悪業の中には、レーニン自身に対する粗暴さの増加もあった。
 このような理由で、スターリン自身が要求し、かつ明らかにカーメネフの支持を受けて、レーニンは1922年4月に、スターリンを初代の党総書記〔書記長〕に任命することに同意した。
 これはきわめて重大な指名だったと、のちに判ることになる。—まさにこれが、スターリンが権力を握るのを可能にした。
 だが、レーニンはこのことに気づくに至り、スターリンをその職から排除しようとした。しかし、そのときはもう遅すぎた。(*32)//
 (5)スターリンの権力の増大の鍵は、地方の党機構を彼が統御したことにあった。
 書記局の長および組織局での唯一の政治局員として、友人たちを昇進させ、対抗者たちを解任することができた。
 1922年だけの期間に、組織局と書記局によって1万人の地方官僚が任用された。これらのほとんどは、スターリンの推薦にもとづくものだった。
 この彼らは、1922-23年のトロツキーとの間の権力闘争の際に、スターリンの主要な支持者となる。
 スターリン自身と同様に、彼らの多くはきわめて貧しい出身基盤をもち、正規の教育をほとんど受けていなかった。
 彼らは、トロツキーのような知識人に不信を抱き、スターリンの知恵を信頼する方を選んだ。スターリンは、イデオロギーが問題であったときに、プロレタリアの団結とボルシェヴィキの紀律を単純に訴えかけたのだつた。//
 (6)レーニンは、モスクワによる「任用主義」によるスターリンの権力増大を、地方での反対派(例えば労働者反対派は1923年までウクライナとSamara に残っていた)の形成を抑止するものとして、受け入れた。
 スターリンは、書記長として、潜在的な悶着者を地方の党機構から根こそぎ排除することに多くの時間を使った。
 チェカ(1922年にGPUと改称)から毎月、地方の指導者たちの活動に関する報告書を受け取った。
 スターリンの個人的秘書のBoris Bazhanov は、パイプを吹かせながらクレムリンの広い仕事場を行ったり来たりする彼の癖を思い出す。スターリンはそして、あれこれの党書記を除外し、その者をあれこれの別の者に交替させよと、ぶっきらぼうに指示したものだった。
 政治局員を含めて、1922年の末までにスターリンの監視の下に置かれなかった党指導者はほとんど存在しなかった。
 レーニン主義正統を遵守するという外装をとりつつ、スターリンはこうして、自分の対抗者全員に関する情報を収集することができた。その中には、彼らが秘密のままにしておきたいだろう多くの事があり、スターリンはそれを自分に対する忠誠さを確保するために利用することができた。(*33)//
 (7)レーニンが脳発作から回復している間、ロシアは三頭制(triumvirate)で統治されていた—スターリン、カーメネフおよびジノヴィエフ。これは、1922年の夏の間に、反トロツキー連合として出現した。
 この三人は党の会合の前に集まって自分たちの戦略に合意し、票決の仕方を支持者たちに指令した。
 カーメネフは長い間、スターリンを好んでいた。二人は一緒にシベリアへの流刑に遭っていた。また、レーニンが十月のクー反対を理由としてカーメネフを党から追い出そうとしたとき、スターリンは彼の防御へと回った。
 カーメネフは党を指導したいとの野心があり、そのことで、より重大な脅威だと彼は見なしたトロツキーに対抗するスターリンの側に立つようになつた。
 トロツキーはカーメネフの義兄だったので、これは、親族よりも党派を優先することを意味した。
 ジノヴィエフについて言うと、彼はスターリンをほとんど好んではいなかった。
 しかし、トロツキーに対する嫌悪が大変なものだったので、敵を打倒するのに役立つかぎりで、悪魔と手を組んだのだろう。
 二人は、党の主導権の獲得に近づくために、凡庸な人間だと見なしたスターリンを利用していると思っていた。
 しかし、スターリンが彼らを利用していた。そして、いったんトロツキーを打倒すると、彼はこの二人の破滅に乗り出すことになる。//
 ——
 ②へつづく。

2356/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)-第16章第2節③。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.791-3。一行ずつ改行。
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 第二節・征圧されない国③。
 (14)共産青年同盟とともに、赤軍は、退屈している村落の青年たちを組織する手段だつた。
 軍から戻った青年たちはししばしば、地方ソヴェトや古い農村地帯の秩序に対する共産青年同盟という十字軍で、指導的な役割を担った。
 兵役経験者の一グループは、「暗黒、宗教、戯言その他の悪に対する闘争」を組織する方法について議論すべく、村落で「大会」を開いた。
 軍隊生活に慣れて成長したので、この青年退役者たちは、村落での生活にすぐに退屈するようになった。彼らの一人が述べたように、村落には「どんな種類の文化もなかった」。
 彼らは村落の田舎じみた古い生活様式を軽侮し、完全に村落を去れないとすれば、都市的で軍隊的な表むきの装いを採用することで、何とかして離れようとした。
 ある資料が語るところによると、全ての「元兵士、地方活動家、共産青年同盟員は—すなわち自分を進歩的な人間だと考えている者たちは—、軍服またはそれに準じた制服を着て、動き回った」。
 こうした青年たちの多数は、のちに、スターリンの集団化運動に積極的な役割を果たした。
 彼らの多くは穀物徴発隊に加わった。この部隊は、1927年以降は村落との内戦を再開することになる。
 また、集団的農場を組織する「主導的グループ」を設置した。
 教会に対する新たな攻撃に参加した。
 農民の抵抗を鎮圧するのを助けた。
 そしてのちには、役人または新しい集団的農場での機械操作者になった。(*27)//
 (15)だがなおも、村落にはボルシェヴィキの力が完全には及ばなかった。
 これが、NEP の失敗の根本原因だった。
 ボルシェヴィキは、平和的な手段では農村地帯を統治することができず、農村に対する暴力的支配(terrorizing)に訴えた。これは最終的には、集団化となる。
 1918-21年に起きたことは、農民と国家の関係に深い傷痕を残した。
 農民と国家の間の内戦は終わったけれども、両者は1920年代の不安な軌跡の過程で、深い疑念と不信でもってお互いに向かい合った。
 農民は、消極的で日常的なかたちをとる抵抗—故意の遅延、習慣的に指示内容を理解しないこと、無気力と怠惰—を通じて、ボルシェヴィキを寄せつけないようにした。
 Volost の街区部分で党がソヴェトの支配権を握ったとき、農民たちは、こぞって諸ソヴェトから撤退し、村落共同体で政治的に再結集した。
 絶対主義的国家が再生したことで、国家または大地主(gentry)権力層—ある農民が述べた「税を徴収することにだけ関心をもつ」ーが占めるものとしてのvolost と、農民が支配する領域としての村落の間の古い分離が再び作り出された。 
 Volost の街区の周囲では、ボルシェヴィキの権威がなかった。
 ボルシェヴィキ党員のほとんど全てが、volost の街区に集中した。そこでは、できたばかりの国家機関を運営するために彼らが必要だった。
 ボルシェヴィキの地方党員はほとんど村落に居住せず、農民層との何らかの現実的な紐帯をほとんど結ばなかった。
 地方党員の15パーセントだけが、農作に従事した。10パーセント以下は、割り当てられた地域の出身者だった。
 地方の党会合について言うと、それは主として国家政策、国際的事件に、そして性道徳にすらかかわっていた。—だが、農業問題を扱うのはきわめて稀れだった。//
 (16)地方ソヴェトは、きわめて無力だった。
 制度上はvolost 管理権限に従属したけれども、その主要部分を占める農民の議員は、村落共同体の利益に反することを行なう気がなかった。地方ソヴェトの財源は、その共同体からの税収に依存していた。
 村民たちは実際にしばしば、うすのろかアルコール中毒者を、あるいは村落の年配者に借金がある貧しい農民を、ソヴェトへと選出した。
 これは農民たちの計略であり、1917年以前のvolost 行政について用いられたものでもあった。
 ボルシェヴィキは、いつもの不器用なやり方で、権力の集中、地方ソヴェトの数の削減でもって対応した。しかし、これは事態をいっそう悪くした。ソヴェトを一つも有しない大多数の村落を生んだからだ。
 1929年までに、平均的な一つの地方ソヴェトは、1500人の住民数を併せることとなる9つの村落を支配するのを試みた。
 電話を持たず、ときには交通手段もないソヴェトの職員たちは、力を発揮することができなかった。
 税を適切に徴集することができず、ソヴィエト諸法律を実施することもできなかった。
 地方の警察はきわめて弱小で、一人の警察官が平均して、18ないし20の村落にいる2万の人々について職責を負った。(*28)
 1917年以降の10年間、田園地帯の圧倒的大部分には、ソヴェト権力がまだ存在しなかった。//
 (17)NEPに関して書くボルシェヴィキには—ブハーリン(Bukharin)がその古典的な例だが—、農村地帯では豊かさが増大し、文化が発展して、この政治的問題を解決するだろう、という共通する想定があった。
 これは、間違いだった。
 NEP の小規模自作農制のもとでは、村落の政治文化は、顕著に「農民的」にすらなった。これは、国家と基本的に対立するもので、大量の情報宣伝も教育も、国家と農民の間の溝を埋めることのできる見込みがなかった。
 つまるところ、教育を受けた農民たちは一体なぜ、共産主義による統制または共産主義思想の浸透について、ますます懐疑的になったのか?
 農民層と国家の間の媒介者たる役割を唯一果たすことができただろう地方の知識人は、農民という大海の中のちっぽけな島にすぎなかった。彼ら自身は本能的に都市的文化に馴染んでおり、どう見ても農民から信用されなかった。(*29)
 NEPが長くつづくにつれて、農村地帯でのソヴィエト体制の野望とその無能さの間の分裂は大きくなった。
 ボルシェヴィキ活動家は、村落を都市部に従属させるための新しい内戦を開始しなければ、革命が変質して退化するだろうと、「富農(kulak)の泥沼に入り込むだろう」と、ますます恐れた。
 ここに、スターリンによる村落に対する内戦、集団化という内戦の根源があった。
 村落を統治する手段を持たず、ましてや村落を社会主義の方向へと変化させる手段を持たず、ボルシェヴィキは、村落自体の廃絶を追求することになった。//
 ——
 第2節、終わり。つづく第3節の表題は、<レーニンの最後の闘い>。

2345/V·シャラモフ・コルィマ·ストーリー(2018)—序文③。

 Varlam Shalamov, Kolyma Stories, translated by Donald Rayfield(The New York Review of Books, 2018)の、(ロシア語から英語への)翻訳者・Donald Rayfieldよる序文の試訳のつづき。
 ①・②で掲載した部分を「第1節」とし、以下を「第2節」とする。大きな区切りがあるためで、数字や表題は原書にはない。
 ——
 第2節。
 (1)1988-89年にペレストロイカがしっかりと確立されると、Sirotinskaya はシャラモフの原稿を準備して—彼は能筆で、解読に問題はなかった—、それの出版に取りかかった。
 しかしながら、編集は加えらなかった。そして読者は、後半に主題、出来事、登場人物が何度も出てきていて、別々の章の中の名前に矛盾点や類似点すらあることに、気づくことになっただろう。
 それにもかかわらず、この作品のもつ容赦なき力強さは、ナツィとソヴィエトのいずれであれ、20世紀の恐怖の記録としてこの作品を独特なものにしている。著者は、自分の誤った判断を含めていかなる緩和または穏和化も拒否しており、見た光景であれ聞いた言葉であれ、類稀な記憶力を示していた。
 収容所で彼はたまには親切にされたにもかかわらず、そこには、慰安となるものはなく、神または人間性に対する信頼もない。
 ただ動物たちだけが、礼節をもって振る舞う。—仲間が逃げられるように狩人の銃弾を受ける雄熊やアトリ鳥、受刑者を信頼して監視兵に対して怒って唸るハスキー犬、あるいは、受刑者が魚を掴むのを助ける猫。//
 (2)作品がもつ芸術的な力はさて措き、シャラモフの物語は、衝撃的な証言書だ。
 多数の例のうちの一つは、1942年から1945年にかけて、アメリカの不動産業者がコルィマに、大量の墓所を掘り返すためにブルドーザーを、金鉱石を運ぶためにトラックを、奴隷たちが使う用に鋤とつるはしを、監視兵たち用に食糧と衣服を送った、というものだ。
 シャラモフの仲間の一人が述べるように、コルィマは、「オーヴンのないアウシュヴィッツ」だった。//
 (3)シャラモフは、何らかの形態で、共謀罪で訴追されることがあり得た。彼自身が、スターリン主義の継承者として、容赦なく残虐なことを犯した、内戦中の赤軍の英雄たちに対する敬愛の念を示していた。
 彼の長編の一つである<金メダル>は、社会革命党〔エスエル〕のテロリストのNadia Klimova を、ほとんど神格化している。
 シャラモフが被った苦しみにもかかわらず、彼は、理想に燃えて、自分の死をもって償う心構えで行なったものである場合は、革命の殺人者たちを決して非難しなかった。
 また、強制労働のシステムに協力する職を決して引き受けない、と公言したけれども、救急医療員にいったんなるや、<永久凍土>で彼が詳述しているように、彼が病院の床磨きに行くのを許さず、鉱山での重労働へと送り出した青年の自殺について責任を感じた。//
 ——
 第2節がつづく。

1944/L・コワコフスキ著第三巻第四章第12節①。

 なかなかに興味深く、従って試訳者には「愉快」だ。スターリンなら日本共産党も批判しているという理由で、スターリン時代に関するL・コワコフスキの叙述を省略する、ということをしないでよかった。
 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。第三巻分冊、p.157-.
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第12節・スターリニズムの根源と意義・「新しい階級」の問題①。
 (1)共産主義者および共産主義に反対の者のいすれもが、スターリニズムの社会的根源と歴史的必然性に関して参加している論議は、スターリンの死後にすぐに始まり、今もなお続いている。
 我々はここで全てのその詳細に立ち入ることなく、主要な点のみを指摘しておこう。
 (2)スターリニズムという基本教条の問題は、その不可避性の問題と同一ではない。ともかくもその意味するところを解明するのが必要な問題だ。
 歴史の全ての詳細は先行する事象によって決定されると考える人々には、スターリニズムの特有な背景を分析するという面倒なとことをする必要がない。しかし、そういう人々は、その「不可避性」をあの一般的な原理の一例だと見なさなければならない。
 その「不可避性」原理は、しかしながら、受容すべき十分な根拠のない形而上学的前提命題だ。
 ロシア革命の行路のいかなる分析からしても、結果に関する宿命的必然性はなかった、と理解することができる。
 内戦の間には、レーニンが自身が証人であるように、ボルシェヴィキ権力の運命が風前の灯火だった、そして「歴史の法則」なるものはどういう結果となるかを決定しない、多数の場合があった。
 レーニンを1918年に狙った銃弾が一または二インチずれていてレーニンを殺害していれば、ボルシェヴィキ体制は崩壊していただろう、と言えるかもしれない。
 レーニンが党指導者たちをブレスト=リトフスク条約に同意するよう説得するのに失敗していたならば、やはりそうだっただろう。
 このような例は他にも、容易に列挙することができる。
 こうした仮定によって生起しただろうことに関してあれこれと思考することは、今日では重要ではなく、結論は出ないはずだ。
 ソヴェト・ロシアの進展の転換点-戦時共産主義、ネップ(N.E.P, 新経済政策)、集団化、粛清-は、「歴史的法則」によるのではなく、全てが支配者によって意識的に意図された。そして、それらは発生し「なければならなかった」、あるいは支配者はそれら以外のことを決定できなかった、と考えるべき理由はない。//
 (3)歴史的必然性の問題がこうした場合に提起され得る唯一の有意味な形態は、つぎのようなものだ。すなわち、その際立つ特質は生産手段の国有化とボルシェヴィキ党による権力の独占であるソヴェト・システムは、統治のスターリニスト体制により用いられて確立されたのとは本質的に異なる何らかの手段によって、維持することができていなかったのか?
 この疑問に対する回答は肯定的だ、ということを理性的に論じることができる。//
 (4)ボルシェヴィキは、講和と農民のための土地という政綱にもとづいてロシアで権力を獲得した。
 これら二つのスローガンは、決して社会主義に特有ではなく、ましてマルクス主義に特有なものでもない。
 ボルシェヴィキが受けた支持は、主としてはこの政綱のゆえだった。
 しかしながら、ボルシェヴィキの目標は世界革命だった。そして、これが達成不可能だと分かったときは、単一政党の権威を基礎とするロシアでの社会主義の建設。
 内戦の惨状のあとでは、何らかの主導的行為をする能力のある党以外には、活動力のある社会勢力は存在しなかった。このときまでに存在したのは、社会の全生活やとくに生産と配分に責任をもち得る、政治的、軍事的かつ警察的装置という確立していた伝統だつた。
 ネップは、イデオロギーと現実の妥協だった。第一に、国家はロシアでの経済的な再生に取り組むことができなかった、第二に、実力行使によって経済全体を規整する試みは厄災的な大失敗だった、第三に、市場の「自然発生的な」働きからのみ助けが得られることができた、ということを認識したことから生じたものだった。
 経済的妥協は、いかなる政治的譲歩も含むものとは意図されておらず、国家権力を無傷なままで維持させた。
 農民はまだ社会化されておらず、唯一つ主導的行為をする能力をもつのは、国家官僚機構だった。
 この階級は、「社会主義」を防護する堡塁だった。そして、そのシステムのさらなる発展は、膨張への利益と衝動を反映していた。
 ネップの結末と集団化の実施は、たしかに歴史の意図の一部ではない。そうではなく、システムとその唯一の活動的要素の利益によって必要とされた。
 すなわち、ネップの継続は、つぎのことを意味しただろう。第一に、国家と官僚機構が農民層の情けにすがっていること、第二に、輸出入を含む経済政策の大部分が、彼ら農民層の要求に従属しなければならないこと。
 もちろん我々は、かりに国家が集団化ではなく取引の完全な自由と市場経済へ元戻りするという選択をしていればどうなったか、を知らない。
 トロツキーと「左翼」が抱いた、ボルシェヴィキ権力を打倒しようとの意図をもつ政治勢力を発生させるだろう、との恐怖は、決して根拠がなかったわけではなかった。
 少なくとも、官僚機構の地位は強くなるどころか弱くなっていただろう。そして、強い軍事と工業の国家を建設するのは無期限に先延ばしされただろう。
 経済の社会化は、民衆の莫大な犠牲を強いてすら、官僚機構の利益であり、システムの「論理」のうちにあった。
 事実上は社会から自立していた支配階級と国家の具現者であるスターリンは、ロシアの歴史上は以前に二度起こっていたことを行った。
 彼は、社会の有機的な分節から自立した新しい官僚制階層が生じるように呼び寄せ、それを全体としての民衆、労働者階級、に奉仕することから、あるいは党が相続したイデオロギーから、最終的には全て解放した。
 この階層はすぐにボルシェヴィキ運動内の「西欧化」要素を破壊し、マルクス主義の用語法をロシア帝国の強化と拡張のための手段として利用した。
 ソヴィエト・システムは、それ自身の民衆たちに対する戦争を絶えず行った。それは民衆が多くの抵抗を示したからではなく、主としては支配階級が戦争状態とその地位を維持するための攻撃とを必要としたからだ。
 微小な弱さであっても探ろうとしている外国の工作員、陰謀者、罷業者その他の者にもとづく敵からの国家に対する永続的な脅威は、権力を官僚機構が独占していることを正当化するためのイデオロギー的手段だ。
 戦争状態は、支配集団自体に損傷を与える。しかし、これは統治することの必要な対価の一部だ。//
 (5)マルクス主義がこのシステムに適合したイデオロギーだった理由に関してはすでに論述した。
 それは疑いなく、歴史上の新しい現象だった。しばしば歴史研究者や共産主義批判者が論及するロシアとビザンティンの全ての伝統-市民的民衆に<向かい合う>国家がもつ高い程度の自律性や<chinovnik>の道徳的かつ精神的な特質等-があったにもかかわらず。
 スターリニズムは、ロシア的伝統とマルクス主義の適合した形態にもとづいて、レーニズムを継承するものとして発現した。
 ロシアとビザンティンの遺産の重要性については、Berdyayev、Kucharzewski、Aronld Toynbee、Richard Pipes(リチャード・パイプス)、Tibor Szamuely やGustav Wetter のような著述者たちが議論している。//
 (6)このことから、生産手段を社会化する全ての試みは結果として必ず全体主義的社会をもたらす、ということが導かれるわけではない。全体主義的社会とは、全ての組織形態が国家によって押しつけられ、個人は国家の所有物のごとく扱われる、そういう社会だ。
 しかしながら、全ての生産手段の国有化と経済生活の国家計画(その計画が有効か否かを問わず)への完全な従属は、実際には全体主義的社会へと至ってしまう、というのは正しい。
 システムの基礎が、中央の権威が経済の全ての目標と形態を決定する、そして労働分野を含む経済はその権威による全ての分野での計画に従属する、ということにあるのだとすれば、官僚機構は、活動する唯一の社会勢力になり、生活のその他の分野をも不可分に支配する力を獲得するに違いない。
 多数の試みが、国有化することなく、経済的主導性を生産者の手に委ねつつ財産を社会化する手段を考案するために、なされてきた。
 このような考え方は、部分的にはユーゴスラヴィアに当てはまる。しかし、その結果は微小で曖昧すぎるものであるため、成功する明確な像を描くことができていない。
 しかしながら、根本的なのは、相互に制限し合う二つの原理がつねに作動している、ということだ。
 経済的主導性が生産のための個々の社会化された単位の手に委ねられる範囲が大きければそれだけ、またこの単位がもつ自立性の程度が大きければそれだけ、「自然発生的」な市場の法則、競争および利潤という動機、これらがもつ役割は大きくなるだろう。
 生産単位に完全な自律性を認める社会的な所有制という形態は、全員に開かれた、完全に自由な資本主義に元戻りすることになるだろう。唯一の違いは、個人的な工場所有者が集団的なそれに、すなわち生産者協同組合に、置き換えられることだけだ。
 計画の要素が大きくなればそれだけ、生産者協同組合の機能と権能は大きく制限される。
 しかしながら、程度の違いはあるけれども、経済計画という考え方は、発展した産業社会で受け入れられてきた。そして、計画と国家介入の増大は、官僚機構の肥大化を意味している。
 問題は、現代の産業文明の破壊を意味するだろう官僚機構をどのようにして除去するかではなく、代表制的な機関という手段によってその活動をどのようにして制御するかにある。//
 (7)マルクスの意図に関して言うと、彼の諸著作から抽出することのできる全ての留保にかかわらず、マルクスは疑いなく、社会主義社会は完全な統合体(unity)、私的所有制という経済的基盤が排除されるにともなって利益の衝突が消失する社会、の一つだろうと考えていた。
 マルクスは、この社会は議会制的政治機構(これは不可避的に民衆から疎外した官僚制を生じさせる)や市民の自由を防護する法の支配(rule of law)のようなブルジョア的諸装置を必要としないだろう、と考えた。
 ソヴィエト専制体制は、制度的な方法によって社会的統合体を生み出すことができるという考えと連結して、この教理を適用する試みだった。//
 (8-1)マルクス主義は自己賛美的ロシア官僚制のイデオロギーとなるべく運命づけられていた、と語るのは、馬鹿げているだろう。
 にもかかわらず、偶然にとか副次的にとかいうのではなく、マルクス主義は、この目的のために適応させることのできる、本質的な特質をもっていた。
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 段落の途中だがここで区切る。②につづく。

1878/笹倉秀夫・法思想史講義(下)(2007)③。

 笹倉秀夫・法思想史講義(下)(東京大学出版会、2007)。
 この笹倉という人物は、一期だけのようだが、民科法律部会(「学会」の一つ)の理事だった。当然に、ずっと会員だったのだろう。
 さて、上掲書のp.305に、こうある。
 ①「<ロシア革命のあと理想的な社会をめざして進んでいたソ連邦は、スターリンの時代に誤った道をさらに進み、それが多くの問題を引き起こした。他の国での社会主義化でも同様の問題が生じた>という面が、確かにある。
 ロシア革命後はよかったがスターリン時代に誤った、「という面が、確かにある」と記述し、「確かにある」というその内容を、< >で包んでいる。
 問題は、またはきわめて奇妙なのは、< >の出典、参照文献等がいっさい記載されていないことだ。
 前の頁下欄に不破哲三・マルクスの未来社会論(2004)を参照文献として記しているが、注記の箇所が異なるので、この不破哲三著を読め、と言っているわけでもない。
 そうすると、< >内の内容は、笹倉秀夫自身による理解だ、ということになるだろう。
 そしてこれは、現在の、正確には1994年党大会以降の、日本共産党の基本的理解・認識とまったく同一だ。
 また、p.309に、こうある。
 ②「レーニンは、晩年にその『遺書』で、スターリンを『粗暴』であるとし、かれが権力を握ることの危険性を警告した。スターリンは、このレーニンの遺言を消し去り、レーニンの後継者としてふるまうことによって、まさにその遺言どおりの危険を生じさせた。
 あれあれ、これも日本共産党関係文献が「主張」し、理解しているようなこととまったく同じ。少なくとも、反スターリニズムの「共産主義者」と同じ。私ですら、こうした主張・認識は誤りだ、一部を過大視、誇張する「政治的」目的をもつものだ、と反論することができる。
 さらに、p.313に、こうある。
 ③「一党独裁や個人指導については、レーニンは1902年に前衛党論を書いたときに考えてはいなかった。だがかれは前述のように、1920年頃の内戦と外国の干渉・侵略という内外の危機に直面して諸自由を制限しだした。
 渓内謙・現代社会主義を考える(1988)一つだけを参照文献として注記しているが、この渓内自体がレーニンだけはなお擁護しようとする日本共産党員とみられるソ連(・ロシア)史学者なのだから、公平性・客観性はまるでない。
 そもそも、笹倉秀夫は<1902年の前衛党論>なるもの(つまりレーニン「何をなすべきか?」)をきちんと読んだのだろうか。
 また、「1920年頃の内戦と外国の干渉・侵略」とはいったい何のことだろうか。
 「内戦」は1918年には始まっている。農民に対する食料(穀物)徴発制度自体が農民の「自由」を認めるものではない。秘密警察(チェカ、チェーカー)設立は1917年12月。「内戦」の敵はもちろん反対政党(エスエル・メンシェヴィキ)の幹部たちを「見せ物裁判」で形式的な手続で「殺戮」したのはレーニンの時代。その前に1918年2月に『社会主義祖国が危機!』との布令を発して反抗者の略式処刑を合法化したのもレーニン。のちにスターリンが大テロルまたは「大粛清」のために最大限に活用した刑法典の発布もレーニンの時代。「1920年頃」には田園地帯での飢饉も始まっていた。1921年のクロンシュタット蜂起は、もともとはほとんどが戦闘的なボルシェヴィキ(共産党員)だった海兵たちの反乱。
 少なくとも親日本共産党の、幼稚で無知な笹倉に、上のような断片的な一部を説いてもきっと無意味なのだろう。
 ところでそもそも、上の笹倉著は『法思想史講義』という名を謳っているのだが、ロシア・ソ連での「法思想」には(レーニン刑法もスターリン憲法もパシュカーニスも)まったく論及していないのは、いったい何故なのだろうか。
 この人は「法思想」を「思想」と混同しているのではなかろうか。しかも、「政治思想」に相当に偏った「思想」だ。区別がつき難いところはむろんあるだろうが、一定の自立性・自律性をもつ「法思想史」をたどり、まとめるという作業は全く不可能とは言えないだろう。
 上掲書が、それを行っているとは、また試みようとしているとすらも、全く感じられない。

1817/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑩。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017).  試訳/第10回。
 第3章・内戦。
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 第2節・戦時共産主義(War Communism)。
 ボルシェヴィキは、崩壊に近い状態で戦争中の経済を引き継いだ。その最初でかつ重大な課題は、経済を作動させることだった。(12)
 これは、内戦時の経済政策という現実的な脈絡の中で、のちに「戦時共産主義」という名称が与えられた。
 しかし、イデオロギー上の意味ももっていた。
 ボルシェヴィキは、長期的観点からは、私有財産と自由市場の廃止および必要に応じての生産物の配分を意図していた。そして、短期的には、これらの理想に近いものを実現させる政策を望んだかもしれなかった。
 戦時共産主義における現実主義とイデオロギーの間の均衡関係は、長いあいだ論争の対象になってきた。(13)
 問題は、国有化と国家による配分といった政策は戦争という非常事態への現実的な対応だとするか、それとも共産主義が指示するイデオロギー上の要求だとするか、これらのいずれによって、もっともらしくし説明することができるのか、だった。
 この論議では、両派の学者たちが、レーニンや他のボルシェヴィキ指導者の公的文章を引用することができる。ボルシェヴィキたち自身が、確実な回答をすることができないからだ。
 新しい経済政策のために戦時共産主義が頓挫した1921年時点でのボルシェヴィキの見方からは、明らかに現実的な解釈が選好された。すなわち、戦時共産主義がいったん失敗したとするなら、そのイデオロギー上の土台に関してはなるべく語らない方がよかったのだ。
 しかし、初期のボルシェヴィキの見方からは-例えば、Bukharin と Preobrazensky の<共産主義のイロハ>の見方からは-、それの反対が真実(true)だった。
 戦時共産主義が実施されている間、ボルシェヴィキがその政策にイデオロギー上の正当化を与えるのは自然だった。-マルクス主義という科学的イデオロギーで武装した党は、たんに保ち続けるようもがいているのではなく、事態を完全に掌握している、と主張するために。//
 論議の背後にある問題は、ボルシェヴィキはどの程度すみやかに共産主義へと移行できると考えていたのか、だ。
 これに対する答えは、1918年について語るのか、それとも1920年について語るのか、によって異なる。
 ボルシェヴィキの最初の歩みは用心深く、将来に関する公式説明もそうだった。
 しかしながら、1918年半ばでの内戦勃発から、ボルシェヴィキに初期にあった用心深さは消え失せ始めた。
 絶望的な状勢を見渡して、ボルシェヴィキはより急進的な政策へと変化し、徐々に中央政府の支配がおよぶ範囲を、元々は意図していたよりも広くかつ急速に拡張しようとした。
 1920年、ボルシェヴィキが内戦での勝利と経済での崩壊へと向かっていたとき、高揚感と絶望感とが定着した。
 多くのボルシェヴィキには、古い世界が革命と内戦の炎の中へと消え失せるとともに、新しい世界がその燃え滓の中から不死鳥のごとく起ち上がるように思えた。
 この希望はおそらく、マルクス主義というよりも無政府主義的イデオロギーにもとづくものだった。しかし、そうではあっても、マルクス主義の言葉遣いで表現された。すなわち、プロレタリア革命の勝利と共産主義への移行は、おそらく数週間後あるいは数箇月後にまで切迫している、と。//
 経済政策の領域で最重要なものの一つである国有化は、このような帰結を例証するものだ、とされた。
 優秀なマルクス主義者として、ボルシェヴィキは、十月革命後にきわめて速やかに銀行と信用機関を国有化した。
 しかし、工業全体の国有化に、ただちには着手しなかった。すなわち、最初の国有化布令は、プチロフ工業所のような、防衛生産と政府契約を通じて国家に緊密に関与していた個々の大コンツェルンにのみ関係するものだった。//
 しかしながら、情勢は多様で、ボルシェヴィキの元来の短期的意図をはるかに超える範囲で、国有化が行われることになった。
 地方ソヴェトは、その権限にもとづいて工場施設を収奪した。
 ある範囲の工場施設は、所有者または経営者が放棄した。別のいくつかの工場施設は、かつて経営から排除されていたその労働者たちの請願によって、あるいは無秩序の労働者たちからの保護を求める経営者の請願すらによって、国有化された。
 1918年夏、政府は、全ての大規模工業を国有化する布令を発した。そして、1919年秋までに、この布令の対象となった企業の80パーセントが実際に国有化された、と推算された。
 これは、新しい経済最高会議(Supreme Ecconomic Council)の組織能力をはるかに超えるものだった。すなわち、実際には、かりに労働者たち自身が原料の供給や最終製品の配分を調整して工場施設を作動させ続けることができなければ、その工場施設はしばしばすぐに閉鎖された。
 だが、そのようであっても、ボルシェヴィキは、さらに進めなければならないと感じていた。
 1920年11月、政府は少なくとも紙の上では、全ての大規模工業を国有化した。
 もちろん実際には、ボルシェヴィキには、それらを管理することはもとより、新しい獲得物をどう呼び、どう分類するかも困難だった。
 しかし、理論上は、生産の領域全体が今やソヴィエト権力の手中にあり、工芸品店舗や風車ですら、中央が指揮する経済の一部になった。//
 同じような経緯によって、ボルシェヴィキは内戦が終わる頃まで、自由取引のほとんど完全な廃絶と事実上の貨幣なき経済に向かって進んだ。
 町での配給(1916年に導入)、および理論上は農民層がその余剰の全てを渡すことが必要な穀物の国家独占(臨時政府が1917年春に導入)を、先任者たちから継承していた。
 しかし、町にはパンや他の食糧がまだ不足していた。市場で買える工業製品がほとんどなかったので、農民たちが穀物等を売りたくなかったからだ。
 十月革命のすぐ後でボルシェヴィキは、金銭ではなく工業製品を農民たちに代わりに提供して、穀物の配達量を増加させようとした。
 彼らはまた、取引き全体を国有化し、内戦勃発後は、基礎的な食糧および工業製品の自由な小売り販売を禁止し、消費者協同組合を国家の配分組織網の中に編入しようとした。(14)
 これらは、町での食糧危機および軍隊への供給の問題を見ての緊急措置だった。
 しかし、明らかにボルシェヴィキは、これらをイデオロギー上の言葉で正当化できた-また、実際にそうした。//
 町での食糧危機が悪化するにつれて、物々交換が取引の一般的形態になった。そして、貨幣は、その価値を失った。
 1920年までに、労賃と給料は部分的には現物(食糧と製品)で支払われており、貨幣ではなく商品を基礎にした予算を案出する試みすらなされた。
 衰亡していく都市でまだ機能していた範囲でも、公共サービスは個々の利用者が対価を支払う必要がもうなかった。
 ある範囲のボルシェヴィキは、これをイデオロギー上の勝利だとして褒め讃えた。-この「貨幣に対する見下し」は、社会がすでに共産主義にきわめて接近していることを示すものだったのだ。
 しかしながら、楽観的ではない観察者には、それは悪性のインフレのように見えた。//
 ボルシェヴィキにとっては不運なことに、イデオロギー上の命題と現実上のそれは、つねにそう都合よく一つになるものではなかった。
 それらの分裂は(そのイデオロギーが実際にはどういう具体的な意味をもつのかに関して、ある範囲のボルシェヴィキには曖昧さがあったこととともに)、とりわけ、労働者階級に関する政策について明確だった。
 例えば労賃に関して、ボルシェヴィキには実務での厳格な平等主義的(egalitarian)政策以上の平等主義志向があった。
 生産を最大限にまで高めるために、ボルシェヴィキは、工業での出来高払いを維持しようとした。しかし労働者たちは、そうした支払い制度は本質的に不平等で不公正だと考えた。
 不足分と配給制によっておそらく、内戦期の都市内の不平等さは減らされていった。しかし、そのことがボルシェヴィキによる成果だとは、ほとんど見なされなかった。
 実際に、戦時共産主義のもとでの配給制度は、赤軍の兵士、重要工業の熟練労働者、共産党員の行政公務員およびある範囲の知識人など、一定の範疇の国民の利益になった。//
 工場の組織は、別の厄介な問題だった。
 工場は、中央の計画や調整機関の指導に従って、労働者たち自身によって(「労働者による統制」に対するボルシェヴィキの1917年の是認が示唆すると思われるように)、それとも、国家が任命した経営者によって、運営されることとされたのだろうか?
 ボルシェヴィキは後者を支持した。しかし、戦時共産主義の間の事実上の結果は、妥協的な、かつ場所によってかなりの変動のあるものだった。
 ある工場群は、選出された工場委員会によって稼働されつづけた。
 別の工場群は、しばしば共産党員だがときどきは従前の経営者、主任技師である、任命された管理者によって稼働された。任命される者の中には、工場施設の従前の所有者すらがいた。
 だがまた別の場合には、工場委員会または労働組合出身の一人の労働者や労働者集団が、工場施設の管理者に任命された。そして、このような過渡的な編成が-労働者による統制と任命管理者制度の中間が-しばしば、最もうまくいった。//
 農民層に対処するについて、ボルシェヴィキの最初の問題は、食料を取り上げるという現実的なものだった。
 国家による穀物の収奪は、私的な取引を非合法することや金銭に代わる代償として工業製品を提供すること、これらのいずれかで成し遂げられたのではなかった。すなわち、国家には、提供できる品物がほとんどなかった。そして、農民層は生産物を手渡したくないままだった。
 町々や赤軍に食料を供給する緊急の必要があったので、国家には、説得、狡猾、脅迫または実力行使によって農民たちの生産物を取り上げるしか方法はほとんどなかった。
 ボルシェヴィキは、穀物の徴発(grain requisitioning)という政策を選んだ。これは、-通常は武装した、かつ可能ならば物々交換のできる品物をもった-労働者および兵士の部隊を派遣して、退蔵穀物を農民の食料小屋から取り上げる、というものだった。(15)
 明らかにこれは、ソヴィエト体制と農民層の間に緊張関係を生み出した。
 しかし、占拠している軍隊がかつてずっとそうだったように、白軍も同じことをした。
 ボルシェヴィキが土地に頼って生きていかなければならないことは、おそらく農民たちを驚かせた以上に、自分たちを驚かせた。//
 しかし、明らかに農民層を驚かせて警戒させたボルシェヴィキのこの政策には、別の側面があった。
 第一に、ボルシェヴィキは、村落に対立集団を作って分裂させることで、穀物収奪を容易にしようとした。
 村落での資本主義の発展によって農民たちの間にはすでに明確な階級分化が生じていると信じて、ボルシェヴィキは、貧農や土地なき農民からの本能的な支持と裕福な農民に対する本能的な反感を得ることを期待した。
 そのことからボルシェヴィキは、村落で貧農委員会を組織し始め、富裕農民の食料小屋から穀物を取り出していくソヴェト当局に協力するようにその組織に促した。
 この試みはひどい失敗だったことが分かった。一つの理由は、外部者に対する村落の正常な連帯意識だった。別の理由は、以前の貧農および土地なき農民の多数は、1917-1918年の土地奪取とその配分によって彼らの地位を向上させていた、ということにあった。
 さらに悪いことに、田園地帯での革命に関するボルシェヴィキの理解は自分たちのそれと全く異なるということを、農民たちに示してしまった。//
 人民主義者と論争したかつてのマルクス主義者のようにまだ考えているボルシェヴィキにとっては、<ミール>は衰亡している組織であって、帝制国家によって堕落させられ、出現している村落資本主義によって掘り崩されており、そして社会主義の発展にはいかなる潜在的能力も持たないものだった。
 ボルシェヴィキはさらに、村落地域での「第一の革命」-土地奪取と平等な再配分-は、すでに「第二の革命」、つまり貧農の富農に対する階級戦争へと継承されている、と考えた。この階級戦争は、村落共同体の統一を破壊しており、最終的には<ミール>の権能を破壊するはずのものだった。(16)
 一方で農民は、歴史的には国家によって悪用されたが、最終的には国家の権力を放擲して農民革命を達成していた真の農民組織だと、<ミール>を理解していた。//
 ボルシェヴィキは1917-1918年には農民層に好きなようにさせたけれども、田園地帯に関する長期方針は、ストリュイピンのそれと全く同じく破壊的なものだった。
 ボルシェヴィキは、<ミール>および土地を分割する細片地(strips)の仕組みから家父長制的家族まで、村落の伝統的秩序のほとんど全ての点を是認しなかった。
 (<共産主義のイロハ>は、農民家族が各家庭で夕食を摂るという「野蛮」で贅沢な習慣を放棄し、村落共同体の食事室で隣人に加わるときを、期待すらしていた。(17))
 彼らは、ストリュイピンのように、村落への余計な干渉者だった。
 そして、原理的に彼の小農的プチ・ブルジョアジーへと向かわせたい熱意には共感はできなかったけれども、農民の後進性に対する深く染みこんだ嫌悪感を持っていたので、各世帯の分散した細片地を近代的な小農業に適した四角い画地にして安定させようとするストリュイピンの政策を継続した。(18)
 しかし、ボルシェヴィキの本当の(real)関心は、大規模農業にあった。そして、農民層に対する勝利という政治的命題からだけ、1917-18年に起きた大きな土地の分解は大目に見て許した。
 残っている国有地のいくつかで、ボルシェヴィキは国営農場(<ソホージ(sokhozy)>)を始めた。-これは事実上は、大規模な資本主義農業の社会主義的な同等物で、労賃のために働く農業従事者の作業を監督する、管理者が任命されていた。
 ボルシェヴィキはまた、集団的農場(<コルホージ(kolkhozy)>)は伝統的なまたは個人的な小保有農業よりも優れている、と考えていた。
 そして、内戦期に、通常は動員を解除された兵士や食うに困って町々に逃げ込んだ労働者たちによって、いくつかの集団的農場が設立された。
 集団的農場では、伝統的な農民村落のようには、土地が細片地に分割されるということがなかった。そうではなく、集団的に(collectively)土地で働き、集団的に生産物を市場に出した。
 初期の集団農場の農民には、しばしば、アメリカ合衆国その他での夢想家的な(ユートピアン)農業共同体の創始者のイデオロギーに似たものがあった。そして、資産や所有物のほとんど全てを貯蔵した。
 かつまた彼らは、夢想家たちに似て、ほとんど稀にしか、農業経営に成功したり、平穏な共同体として長く存続したりすることがなかった。
 農民たちは、疑念をもって国家的農場や集団的農場を見ていた。
 それらは、あまりにも少なくてかつ力強くなかったので、伝統的な農民の農業に対する重大な挑戦にならなかった。
 しかし、それらのまさに存在自体が、ボルシェヴィキは奇妙な考えを抱いていて、とても信頼できるものではない、ということを農民たちに思い起こさせた。
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 (12) 経済につき、Silvana Malle, <戦時共産主義の経済組織・1918-1921年>(Cambridge, 1985)を見よ。
 (13) Alec Nove, <ソヴィエト同盟の経済史>(London, 1969), Ch. 3. を見よ。
 (14) 商取引に関する政策につき、Jule Hessler, <ソヴィエト商取引の社会史>(Princeton, NJ, 2004),Ch. 2. を見よ。
 (15) 食料収奪につき、Lars T. Lih, <ロシアにおけるパンと権力・1914-1921年>(Berkley, 1990)を見よ。
 (17) N. Bukharin & Preobrazhensky, <共産主義のイロハ>、E. & C. Paul訳(London, 1969)p.355.
 (18) ストリュイピン改革の時期と1920年代の間の継続性につき、とりわけ田園地帯での土地安定化の作業をした農業専門家の存在を通じての、George L. Yaney, 「ロシアにおけるストリュイピン土地改革から強制的集団化までの農業行政」、James R. Millar, <ソヴィエトの村落共同体>(Urbana, IL, 1971)所収, p.3-p.35.を見よ。
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 第3章(内戦)のうち、「はじめに」~第2節(戦時共産主義)までが終わった。

1812/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑨。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017).  試訳/第9回。 
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 第三章・内戦(The Civil War)。
 (はじめに)
 十月の権力奪取はボルシェヴィキ革命の終わりではなく、始まりだった。
 ボルシェヴィキはペテログラードを征圧し、一週間の路上戦闘ののち、モスクワでもそうした。
 しかし、たいていの州中心地で起ち上がったソヴェトはまだ、ブルジョアジーの打倒(地方レベルではしばしば、町のしっかりした市民層が設置した「公共安全委員会」の排除を意味した)のために資本家の指導に従わなければならなかった。
 そして、地方ソヴェトが弱くて権力を奪えないとしても、資本家から支援が与えられそうにはなかった。(1)
 各州のボルシェヴィキは、中心地と同様に、当時にメンシェヴィキとエスエルが支配して成功裡にその権限を主張する地方ソヴェトに対する方針を案出しなければならなかった。
 さらに、田園地帯のロシアでは、町が持った権限による拘束が大幅になくなっていた。
 旧帝国内の遠方の非ロシア領域には、複雑に混乱した、さまざまの状況があった。
 いかなる在来の意味でも国家を統治する意図をもってボルシェヴィキが権力を奪取したのであれば、ある程度は長くて困難な、アナーキーで非中央志向の、分離主義的な傾向との闘いが前方に横たわっていたのだ。//
 実際、ロシアの将来の統治形態の問題は、未決定のままだった。
 ペテログラードでの十月革命で判断して、ボルシェヴィキはその「全ての権力をソヴェトへ」とのスローガンを留保した。
 一方で、このスローガンは1917-18年の冬の州の雰囲気には適合しているように見えた。-しかし、これはおそらく、中央政府の権威が一時的に崩壊したことを言い換えたものにすぎない。
 ボルシェヴィキは「プロレタリア-トの独裁」という別のスローガンで正確に何を意味させたかったのか、を見分ける必要がまだあった。
 レーニンがその最近の著述物で強く示唆したように、これが旧所有者階級による反革命運動を粉砕することを意味しているとすれば、新しい独裁制は、帝制期の秘密警察と類似の機能をもつ実力強制機関を設立することになっただろう。
 それがボルシェヴィキ党の独裁を意味しているとすれば、レーニンに対する政治的反対者の多くが疑ったように、その他の政党が継続して存在することは大きな問題を生じさせた。
 だがまだ、新体制は旧ツァーリ専制体制のように抑圧的に行動することができただろうか?、そしてそうしてもなお、民衆の支持を維持しつづけることができただろうか?
 さらに、プロレタリア-ト独裁は、幅広い権力と労働組合や工場委員会を含む全てのプロレタリアの組織の自立を意味しているようにも思われた。
 もしも労働組合や工場委員会が労働者の利益について異なる考え方をもっていれば、何が起こっていたのか?
 もしも工場での「労働者による統制」が労働者による自主管理を意味するとすれば、それは、ボルシェヴィキが社会主義者の根本的な目標だと見なしていた経済発展に関する中央志向の計画と両立したのだろうか?//
 ロシアの革命体制はまた、全世界でのその位置を考慮しなければならなかった。
 ボルシェヴィキは自分たちは国際的なプロレタリア革命運動の一部だと考えており、ロシアでの勝利はヨーロッパじゅうに同様の革命を誘発するだろうと期待していた。
 彼らはもともとは、新しいソヴェト共和国は他国と在来の外交関係を保たなければならない国家だとは思っていなかった。
 トロツキーが外務人民委員に任命されたとき、彼は若干の革命的宣告を発して、「店終い」をしようと考えていた。
 1918年初めのドイツとのブレスト=リトフスク講和の交渉でのソヴィエト代表者として、彼は(成功しなかったが)過去のドイツの公的代表者たちにドイツ国民、とくに東部戦線のドイツ兵士たちについて語って、外交過程の全体を覆そうとした。
 伝統的な外交には必要な承認が遅れたのは、ボルシェヴィキの指導者たちが強く、ロシア革命はヨーロッパの発展した資本主義諸国での労働者の革命によって支えられないかぎり長くは存続できない、と信じていたからだ。
 革命的ロシアは孤立しているという事実が徐々に明らかになってようやく、ボルシェヴィキは、外部世界に対する彼らの地位を再査定し始めた。そして、その時期までは、革命的な呼びかけを伝統的な国家間の外交と結合させる習癖が、堅く揺るぎないものだった。//
 新しいソヴェト共和国の領土的境界と非ロシア諸民族に対する政策は、別の大きな問題を成していた。
 マルクス主義者にとってナショナリズム(民族主義)は虚偽の意識の一形態だったけれども、レーニンは戦前に、民族の自己決定権の原理を用心深く擁護した。
 ナショナリズムが有する実際上(pragmatic)の意味は、それが脅威にならないかぎりは残ったままだ。
 1923年、のちにソヴィエト同盟の結成が決定されたときに採択された政策は、「民族性の形態を認める」ことによってナショナリズムを解体することだった。民族性を認めるとは、分離した民族共和国、少数民族の保護および民族的言語や文化、民族エリートたちへの支援といったものだ。(2)//
 しかしながら、民族の自決には限界があった。従前のロシア帝国の領土を新しいソヴェト共和国に編入することに関して明確になったように。
 ペテログラードのボルシェヴィキが、ハンガリーについてそうだったように、アゼルバイジャン(Azerbaijan)のソヴェト権力が革命的勝利をするのを望むのは自然だった。以前はペテルブルクを首都とする帝国の臣民だったアゼルバイジャンは、そのことを高く評価するようには思えなかったけれども。
 ボルシェヴィキがウクライナのソヴェトを支持してウクライナの「ブルジョア」的民族主義者に反対したのも、自然だった。そのソヴェトは(ウクライナの労働者階級の人種的構成を反映して)ロシア人、ユダヤ人および民族主義者だけではなくウクライナの農民層にも「外国人」だったポーランド人で支配されている傾向にあったけれども。
 ボルシェヴィキのディレンマは、プロレタリア的国際主義の政策が実際には旧式のロシア帝国主義と、当惑させるほどに類似していた、ということだった。
 このディレンマは、赤軍(the Red Army)が1920年にポーランドに侵入し、ワルシャワの労働者が「ロシアの侵略」に抵抗したときにきわめて劇的に例証された。(3)
 しかし、十月革命後のボルシェヴィキの行動と政策は全くの空白から形成されたのではなく、内戦という要因がほとんどつねにそれらを説明するためにきわめて重要だった。
 内戦は、1918年半ばに勃発した。それは、ロシアとドイツの間のブレスト=リトフスク講和が正式の結論を得て、ロシア軍がヨーロッパ戦争から明確に撤退した、数ヶ月だけ後のことだった。
 内戦は、多くの前線での、多様な白軍(すなわち、反ボルシェヴィキ軍)との戦闘だった。白軍は、ヨーロッパ戦争でのロシアの従前の連盟諸国を含む諸外国の支援を受けていた。
 ボルシェヴィキは内戦を、国内的意味でも国際的意味でも階級戦争だと見なした。すなわち、ロシアのブルジョアジーに対するロシアのプロレタリア-ト、国際的資本主義に対する(ソヴェト共和国が好例である)国際的な革命。
 1920年の赤軍(ボルシェヴィキ)の勝利は、したがってプロレタリアの勝利だった。しかし、この闘いの苦しさは、プロレタリア-トの階級敵がもつ力強さと決意を示していた。
 干渉した資本主義諸国は撤退したけれども、ボルシェヴィキは、その撤退が永続するとは信じなかった。
 彼らは、より適当な時期に国際資本主義勢力が戻ってきて、国際的な労働者の革命を根こそぎ壊滅させようとするだろうと予期した。//
 内戦は疑いなく、ボルシェヴィキと幼きソヴェト共和国に甚大な影響を与えた。
 内戦は社会を分極化し、長くつづく怨念と傷痕を残した。外国の干渉は「資本主義の包囲」に対する永続的なソヴェトの恐怖を作り出した。その恐怖には、被害妄想(paranoia)と外国恐怖症の要素があった。
 内戦は経済を荒廃させ、産業をほとんど静止状態にさせ、町を空っぽにした。
 これは経済的でかつ社会的な意味はもちろん、政治的な意味をもった。工業プロレタリア-ト-ボルシェヴィキがその名前で権力を奪取した階級-の少なくとも一時的な解体と離散を意味したのだから。//
 ボルシェヴィキが初めて支配することを経験した、というのが内戦の経緯にはあった。そして、これは疑いなく、多くの点で党のその後の展開の型を形成した。(4)
 内戦中のある時期には、50万人以上の共産党員が赤軍で働いた(そして、この集団の中の大まかには半分が、ボルシェヴィキに入党する前に赤軍に加わっていた)。
 1927年のボルシェヴィキの全党員のうち、33%が1917-1920年に入党した。一方、わずかに1%だけが、1917年以前からの党員だった。(5)
 こうして、革命前の地下生活-「古参」ボルシェヴィキ指導者たちの揺籃期の体験-は1920年代のほとんどの党員にとっては風聞によってだけ知られていた。 
 内戦中に入党した集団にとって、党とは最も文字どおりの意味で、戦闘する仲間だった。
 赤軍の共産党員たちは、党の政策の用語に軍事専用語彙を持ち込み、軍の制服と靴をほとんど1920年代および1930年代初めの党員の制服にした。-かつてはふつうの職に就いていた者や若すぎて戦争に行けなかった者たちすら身につけた。//
 歴史研究者の判断では、内戦の経験は「ボルシェヴィキ運動の革命的文化を軍事化した」。そして、「強制力に簡単に頼ること、行政的指令による支配(administrirovanie)、中央志向の行政や略式司法」といった遺産を党に残した。(6)
 ソヴィエト(とスターリニズム)の権威主義の起源に関するこのような見方は、党の革命前の遺産やレーニンの中央志向の党組織や厳格な紀律の主張を強調する、西側の伝統的な解釈と比べて、多くの点でより満足できるものだ。
 にもかかわらず、党の権威主義傾向を補強した他の要因もまた、考察しなければならない。
 第一に、少数者による独裁はほとんど必然的に権威主義的になり、その幹部として働く者たちは、レーニンが1917年の後でしばしば批判した上司気分やいやがらせの習癖を極度に大きくしがちだった。
 第二に、ボルシェヴィキ党の1917年の勝利は、ロシアの労働者、兵士と海兵の支持による。そして、これらの者たちは、古いボルシェヴィキ知識人たちよりも、反対者を粉砕し、如才のない説得ではなく実力でもって権威を押しつけることを嫌がる傾向が少なかった。//
 最後に、内戦と権威主義的支配の連環を考察するには、ボルシェヴィキと1918-20年の政治的環境の間には二つの関係があった、ということを想起する必要がある。
 内戦はボルシェヴィキに何ら責任のない、神の予見できない行為だったのではない。
 反対に、ボルシェヴィキは、1917年の二月と十月の間の月日に、武装衝突や暴力と提携した。
 そして、ボルシェヴィキの指導者たちは事態の前に完璧に十分に知っていたように、十月蜂起は多くの者によって、明白に内戦へと挑発するものだと見られていた。
 内戦は確かに、新体制に対して戦火による洗礼を施した。そして、それによって新体制の将来の行く末に影響を与えた。
 しかし、その洗礼の受け方はボルシェヴィキが危険を冒して採用したものであり、彼らが追求したものですらあったかもしれない。(7)
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 (1) 地方での革命のその後に関する資料につき、Peter Holquist, <戦争開始、革命案出-危機のロシア共産主義、1913年-1921年>(Cambridge & London, 2002)(ドン地域について)、およびDonald J. Raleigh, <ロシア内戦の経験-Saratov での政治、社会と革命的文化、1917年-1922年>(Princeton, NJ, 2002)を見よ。
 (2) Terry Martin, <積極的差別解消(Affirmative Action)帝国>(Ithaca, 2001), p.8, p.10.
 (3) この論点に関する議論につき、Ronald G. Suny, 「ロシア革命におけるナショナリズムと階級-比較的討論」、E. Frankel, J. Frankel & B. Knei-Paz, eds, <革命のロシア-1917年に関する再検証>(Cambridge, 1992)所収、を見よ。
 (4) 内戦の影響につき、D. Koenker, W. Rosenberg & R. Suny, eds, <ロシア内戦における党、国家と社会>(Bloomington, IN, 1989)を見よ。
(5) T. H. Rigby, <ソヴィエト同盟の共産党員, 1917-1967年>(Princeton, NJ, 1968), p.242.<Vsesoyuznaya partiinaya perepis' 1927 goda. Osnovnye itogi perepisi>(Moscow, 1927), p.52.
 (6) Robert C. Tucker, 「上からの革命としてのスターリニズム」、Tucker, <スターリニズム>所収p.91-92.
 (7) こうした議論は、Sheila Fitzpatrick「形成期の経験としての内戦」、A. Gleason, P. Kenez & R. Stites, eds, <ボルシェヴィキ文化>(Bloomington, IN, 1985)所収、で詳しく述べた。
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 第1節・内戦、赤軍およびチェカ。
 ボルシェヴィキの十月蜂起の直後、カデットの新聞は革命を救うために武装することを呼びかけ、コルニロフ将軍の愛国者兵団は親ボルシェヴィキ兵や赤衛隊と衝突してペテログラード郊外のプルコヴォ高地どの戦闘に敗れ、モスクワでは大きな戦闘があった。
 この第一次戦闘で、ボルシェヴィキは勝った。
 しかし、ほとんど確実に、彼らはもう一度戦闘をしなければならなかった。
 ドイツおよびオーストリア-ハンガリーと戦争中の南部戦線にいる大ロシア軍には、北西部のそれによりも、ボルシェヴィキは人気がなかった。
 ドイツはロシアと戦争を継続中であり、東部戦線での講和についてはドイツには有利だったにもかかわらず、連盟諸国から得た支援以上のドイツによる酌量を、ロシア新体制はもはや計算することができなかった。
 東部戦線のドイツ軍司令官は、1918年2月早くの日記にこう書いた。そのときは、ブレスト=リトフスクでの講和交渉の決裂後に、ドイツ軍が新規に攻勢をする直前だった。
 『逃げ出すことはできない。さもなくば、この野蛮者たち〔ボルシェヴィキ〕はウクライナ、フィンランドとバルトをなぎ倒し、新しい革命軍と穏やかに一緒になり、ヨーロッパ全体を豚小屋のごとき陋屋に変えるだろう。<中略>
 ロシア全体が、うじ虫の巨大な堆積物だ。-汚らしい、大挙して脅かすゴロツキたちだ。』(8)
 1月〔1918年〕のブレストでの講和交渉の間、トロツキーはドイツ側が提示した条件を拒み、「戦争はなく、平和もない」という戦略をとるのを試みた。これは、ロシアは戦争を継続しないが、受容できない条件での講和に署名しもしない、ということを意味した。
 これは全くの虚勢だった。ロシア軍は前線で融解しつつあり、一方で、ボルシェヴィキは同じ労働者階級の連帯を訴えたにもかかわらず、ドイツ軍はそうではなかったからだ。
 ドイツはトロツキーの虚勢に対して開き直り、その軍は前進し、ウクライナの大部分を占拠した。//
 レーニンは、講和することが不可欠だと考えていた。
 ロシアの戦力とボルシェヴィキが内戦を闘う蓋然性からすると、これはきわめて理性的だった。
 加えて、ボルシェヴィキは十月革命前に、ロシアはヨーロッパの帝国主義戦争から即時に撤退すべきだと言明していた。
 しかしながら、十月でもってボルシェヴィキは「平和政党」(peace party、平和主義の党)だと理解するのは、相当の誤解を招くだろう。
 十月にケレンスキーに対抗してボルシェヴィキのために闘う気持ちのあったペテログラードの労働者たちには、ドイツ軍に対抗してペテログラードのために闘う気持ちもあった。
 この戦闘的な雰囲気は、1918年の最初数ヶ月のボルシェヴィキ党へ強く反映されていた。そしてこれはのちには、内戦を闘う新体制にとって大きな財産になることになった。
 ブレストでの交渉の時点でレーニンには、ドイツとの講和に調印する必要についてボルシェヴィキ中央委員会すらをも説得することが、きわめて困難だった。
 党の「左翼共産主義者」は、侵略者ドイツに抵抗する革命的ゲリラ戦争を主張した。-「左翼共産主義者」とは若きブハーリン(Nikolai Bukharin)らのグループで、のちにブハーリンは、指導層内部でのスターリンの最後の対立者として歴史上の位置を占めた。
 そしてこの当時はボルシェヴィキと連立していた左翼エスエルも、同様の立場を採った。
 レーニンは最後には、退任すると脅かして、ボルシェヴィキ党中央委員会による票決を迫った。それは、じつに苦しい戦いだった。
 ドイツが攻撃に成功してその後で課した条件は、1月に提示したものよりも相当に苛酷なものだった。
 (しかし、ボルシェヴィキは好運だった。ドイツはのちにヨーロッパ戦争に敗れ、その結果として東部の征圧地を失ったのだから。)//
 ブレスト=リトフスクの講和によって、軍事的脅威からの短い息抜きだけが生じた。
 旧ロシア軍の将校たちは南部のドンやクバンのコサック地帯に兵を集結させており、提督コルチャク(Kolchak)は、シベリアに反ボルシェヴィキ政権を樹立していた。
 イギリスは兵団をロシア北部の二つの港、アルハンゲルスク(Arkhangelsk)とムルマンスクに上陸させた。表向きはドイツと戦うためだったが、実際には新しいソヴェト体制に対する地方の反対勢力を支援する意図をも持って。//
 戦争の不思議な成り行きで、非ロシア人の兵団ですら、ロシア領土を通過していた。-およそ3万人のチェコ人軍団で、ヨーロッパ戦争が終わる前に西部前線に達する希望をもっていた。チェコ軍団はそうして、連盟諸国の側に立って旧宗主国のオーストリアと戦い、民族の独立という彼らの主張を実現したかったのだ。
 ロシアの側から戦場を横切ることができなかったので、チェコ軍はシベリア横断鉄道で<東>へとありそうにない旅をしてウラジオストクにまで行き、船でヨーロッパに帰ろうと計画した。
 ボルシェヴィキは、そのような旅を公式に認めなかった。しかし、地方のソヴィエトは武装した外国人の一団が経路途上で鉄道駅に着くのに敵意をもって反応していたが、こうした反応がなくなったのではなかった。
 1918年5月、そのチェコ軍は、ボルシェヴィキが支配していたチェリャビンスク(Chelyabinsk)というウラルの町のソヴィエトと初めて衝突した。
 別のチェコ軍の一団は、ボルシェヴィキに対抗してエスエルが短命のヴォルガ共和国を設立しようと起ち上がったとき、サマラのロシア・エスエルを支援した。
 チェコ軍はロシアの外で多少とも戦いながら進んで、終わりを迎えた。そして、全員がウラジオストクを去って船でヨーロッパに戻ったのは、多くの月を要した後だった。//
 内戦それ自体は-ボルシェヴィキの「赤軍」対反ボルシェヴィキの「白軍」-、1918年夏に始まった。
 この時期にボルシェヴィキは、首都をモスクワに移転させた。ドイツ軍が攻略するという脅威をペテログラードは逃れていたが、将軍ユデニチ(Yudenich)が指揮する白軍の攻撃にさらされたからだ。
 しかし、国家の大部分はモスクワの有効な統制のもとにはなかった(シベリア、南部ロシア、コーカサス、ウクライナおよび地方ソヴェトを間欠的に都市的ソヴェトが支配したウラルやヴォルガの地域の多くをも含む)。そして、白軍は、東部、北西部および南部からソヴェト共和国を脅かした。
 連盟諸国の中で、イギリスとフランスはロシアの新体制にきわめて敵対的で、白軍を支援した。それらの直接的な軍事介入は、かなり小さな規模だったけれども。
 アメリカ合衆国と日本は、シベリアに兵団を派遣した。-日本軍は領域の獲得を望んで、アメリカ軍は混乱しつつ、日本を抑え、シベリア横断鉄道を警護しようとした。またおそらくは、アメリカの民主主義の規準で推測すれば、コルチャクのシベリア政権を支援するために。//
 ボルシェヴィキの状況はじつに1919年に、絶望的に見えた。そのとき、彼らが堅く支配している領土は、大まかには16世紀のモスクワ大公国(Muscovite Russia)と同じだった。
 しかし、対立者〔白軍側〕もまた、格別の問題を抱えていた。
 第一に、白軍はほとんどお互いに独立して活動し、中央の指揮や協力がなかった。
 第二に、白軍が支配する領域的基盤は、ボルシェヴィキのそれ以上に希薄なものだった。
 白軍が地域政府を設立したところでは、行政機構を最初から作り出さなければならず、かつその結果はきわめて不満足なものだった。
 歴史的にモスクワとペテルブルクに高度に集中していたロシアの輸送や通信制度は、周縁部での白軍の活動を容易にはしなかった。
 白軍は赤軍だけではなくて、いわゆる「緑軍」にも悩まされた。-これは農民とコサックの軍団で、いずれの側にも忠誠を与えず、白軍が根拠にしていた遠い辺鄙な地帯で最も行動した。
 白軍は旧帝制軍隊出身の将校たちを多く有していたが、彼らが指揮をする兵士の新規募集や徴用によって兵員数を確保するのは困難だった。//
 ボルシェヴィキの戦力は、1918年春に戦争人民委員となったトロツキーが組織した赤軍だった。
 赤軍は最初から設立されなければならなかった。旧ロシア軍の解体が早く進みすぎて、止められなかったからだ(ボルシェヴィキは権力奪取後すぐに、全軍の動員解除を発表した)。
 1918年最初に形成された赤軍の中心は、工場出身者による赤衛隊および旧軍や艦隊出身のボルシェヴィキの一団で成っていた。
 この赤軍は自発的な募兵によって膨らみ、1918年夏からは、選抜しての徴兵になった。 労働者と共産党員は、初めて徴兵されることになった。そして、内戦の間ずっと、戦闘兵団のうちの高い割合を提供した。
 しかし、内戦の終わりまでに、赤軍は、主としては農民徴兵者の、500万以上の入隊者のいる大量の組織になった。
 これらの約10分の1だけが戦闘兵団で(赤軍と白軍の両派が配置した戦力は、ある特定の前線では10万人をほとんど超えなかった)、残りの者は供給、輸送または管理的な仕事に就いた。
 赤軍はかなりの範囲で、民間人による行政が破壊されて残した空隙を充填しなければならなかった。すなわち、そのような行政機構は、ソヴェト体制が近年に持つ、最大でかつ最もよく機能する官僚制を伴っていた。また、全ての利用可能な資産の中で最初に欲しいものだった。//
 多くのボルシェヴィキは、赤衛隊のようなmilitia(在郷軍、民兵)タイプの一団をイデオロギー的に好んだ。しかし、赤軍は最初から通常の軍隊の方向で組織され、兵士は軍事紀律に服し、将校は選挙されないで任命された。
 訓練をうけた軍事専門家が不足していたので、トロツキーとレーニンは旧帝制軍出身の将校たちを使おうと強く主張した。この政策方針は、ボルシェヴィキ党内でかなり批判され、軍事反対派は連続する二つの大会で反対にしようとしたけれども。
 内戦の終わりまでに、赤軍には5万人以上の以前は帝制軍将校だった者がいた。そのほとんどは徴兵されていて、上級軍事司令官の大多数はこのグループの出身だった。
 旧将校たちが忠実であるのを確保するために、彼らは通常は共産党員である政治委員に付き添われた。政治委員は、全ての命令に副署して、軍事司令官と最終的責任を共有した。//
 この軍事力に加えて、ソヴェト体制はすみやかに治安機構を設立した。-反革命、怠業および投機と闘争するための全ロシア非常時委員会で、チェカ(Cheka)として知られる。 この組織が1917年12月に創立されたとき、その直接の任務は、十月の権力奪取後に続いた、強盗団、略奪および酒類店の襲撃の発生を統制することだった。
 しかし、それはすぐに、保安警察というより幅広い機能を有して、反体制陰謀に対処した。また、ブルジョア的「階級敵」、旧体制や臨時政府の役人たちおよび反対政党の党員などの、忠誠さが疑わしい集団を監視した。
 チェカは、内戦開始後はテロルの機関になり、処刑を含む略式の司法的機能をもち、白軍の指揮下にあるか白軍へと傾いている地域で、大量に逮捕し、手当たり次第に人質に取った。
 1918年および1919年前半での欧州ロシアの20州に関するボルシェヴィキによる統計数によると、少なくとも8389人が審判を受けることなくチェカによって射殺され、8万7000人が拘束された。(9)
 ボルシェヴィキのテロルと同等のものは白軍にあり、ボルシェヴィキ支配下の領域で反ボルシェヴィキ勢力によって行われた。そして、同じような残忍さが、どちらの側にもあった。
 しかしながら、ボルシェヴィキは自分たちがテロルを用いていることについて率直に認めていた(このことは、略式司法だけではなくて、特定の集団または民衆全体を威嚇するための、個々の罪とは関係がない無作為の制裁があったことを示唆する)。
 ボルシェヴィキはまた、暴力行使について精神的に頑強であることを誇りにしていた。ブルジョアジーの口先だけの偽善を嫌がり、プロレタリア-トを含むいかなる階層の支配に対しても、別の階層に対する強制力の行使に関係させることを認めたのだ。
 レーニンとトロツキーは、テロルの必要性を理解できない社会主義者に対する侮蔑を明言した。
 レーニンは、「怠業者や白軍兵士を射殺する意欲がなかったならば、革命とはいったいどんな種類のものなのだ?」と新政府の同僚たちに説諭した。(10) 
 ボルシェヴィキが歴史上にチェカの活動との類似物を探し求めたとき、彼らはふつうに、1794年のフランスの革命的テロルに論及した。
 彼らはいかなる類似性も、帝制下の秘密警察には見出さなかった。西側の歴史研究者はしばしば、それを引き合いに出すけれども。
 チェカは実際に、旧警察よりもはるかに公然とかつ暴力的に活動した。そのやり方は、一つには1917年にその将校に対処したバルト艦隊の海兵たちによる階級的復讐、あるいは二つには1906-7年のストリュイピンによる田園地帯の武力による鎮圧とはるかに共通性があった。
 帝制期の秘密警察との類似性は内戦後について語るのが適切になった。内戦後にチェカはGPU(国家政治保安部)に置き換えられ-テロルの廃止と合法性の拡大への動き-、保安機関はその活動方法についてより日常的で官僚的で、慎重なものになった。 
 長期的観点から見ると、帝制秘密警察とソヴィエトのそれの間には、明らかに継続性の要素が強くあった(明らかに人員上の継続性はなかったけれども)。
 そして、それが明瞭になるにつれて、保安機能に関するソヴィエトの説明は捕捉し難い、偽善的なものになった。//
 赤軍とチェカはともに、内戦でのボルシェヴィキの勝利に重要な貢献をした。
 しかしながら、この勝利を単純に軍事力とテロルの観点から説明するのは適切でないだろう。とりわけ、赤軍と白軍の間の戦力の均衡度を査定する方法を誰も見出していなかったのだから。
 社会による積極的な支援と消極的な受忍が考察されなければならない。そして、これらの要因が、おそらくは最も重要だった。
 赤軍は積極的支持を都市的労働者階級から得て、ボルシェヴィキはその組織上の中核部分を提供した。
 白軍は積極的支持を旧中間および上層階級から得て、その一部は主要な組織活動家として働いた帝制時代の将校団だった。
 しかし、均衡を分けたのは確実に、人口の大多数を占める農民層だった。//
 赤軍も白軍もいずれも、それらが支配する領域で農民を徴兵した。そしていずれの側にも、かなりの割合で脱走があった。
 しかしながら、内戦が進展するにつれて、農民の徴兵が顕著に困難になったのは、赤軍以上に白軍だった。
 農民たちは穀物徴発というボルシェヴィキの政策に憤慨していた(後述、p.82-83を見よ)。しかし、この点では白軍の政策も変わりはなかった。
 農民たちはまた、1917年のロシア軍での体験がたっぷりと証明していたので、誰かの軍で働く大きな熱意がなかった。
 しかしながら、1917年に農民の支持が大きく低下したのは、土地奪取と村落による再配分と密接に関係していた。
 この過程は1918年末までには、ほぼ完了した(このことは軍役に対する農民の反感を減らした)。そして、ボルシェヴィキはこれを是認した。
 一方で白軍は、土地奪取を是認しないで、従前の土地所有者の要求を支持した。
 かくして、土地というきわめて重大な問題について、ボルシェヴィキの方が、より小さい悪だった。(11)//。
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 (8) J. W. Wheeler-Bennett, <ブレスト=リトフスク、忘れられた平和-1918年3月>(New York, 1971), p.243-4. から引用した。
 (9) 数字は、Aleksander I. Solzhenitsyn, <収容所列島、1918年-1956年>、訳・Thomas P. Whitney(New York, 1974),ⅰ-ⅱ, p.300. から引用した。
 ペテログラードでのチェカの活動につき、Mary McAuley, <パンと正義-ペテログラードにおける国家と社会、1917年-1922年>(Oxford, 1991), p.375-393. を見よ。
(10) テロルに関するレーニンの言明の例として、W. Bruce Lincoln, <赤の勝利-ロシア内戦史>(New York, 1989)を見よ。
 トロツキーの考え方につき、彼の<テロルと共産主義: カウツキー同志に対する返答>(1920)を見よ。
 (11) 農民の態度につき、Orland Figes, <農民ロシア、内戦: 革命期のヴォルガ田園地帯・1917年-1921年>(Oxford, 1989)を見よ。
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 第三章・内戦のうち「はじめに」と第1節(内戦・赤軍・チェカ)が終わり。
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