秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

共産青年同盟

2563/O.ファイジズ・NEP/新経済政策③。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 第9章の試訳のつづき。
 第7章、第8章、第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
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 第9章・革命の黄金期?
 第五節
 (01) NEP は、革命が排除することを約束したがなしで済ますことがまだできない「ブルジョア文化」の残滓にとっての一時的猶予だった。
 NEP は、社会主義経済が必要とした専門的能力をもつ職業人階層—「ブルジョア専門家」、技術者、エンジニア、科学者—との闘いを、停止させた。
 それが意味したのはまた、宗教に対する闘いの緩和だった。教会はもう閉鎖されず、聖職者たちは従前のようには(あるいはのちのようには)迫害されなかった。
 啓蒙人民委員のLunacharsky のもとで、ボルシェヴィキは、寛大な文化政策をとった。
 今世紀の最初の20年間、ロシアの「白銀の時代」の芸術上のavan-garde は、30年代も流行し続け、多数の芸術家が、新しい人間とより精神的な世界を創造するという革命の約束から刺激を得ていた。//
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 (02) しかしながら、NEP は、ブルジョア的習慣と心性(〈byt〉と呼んだ)との闘いの中止を意味しなかった。 
 内戦の終焉とともに、ボルシェヴィキは、この文化戦線での長期の闘いを準備した。
 彼らは、革命の到達点は高次の—より共同的で、公共生活により活発に参加する—人間の創造だと考えた。そして、こうした人格を社会の個人主義から解放することに着手した。
 共産主義ユートピアは、こうした新しいソヴィエト人間(New Soviet Man)を設計すること(engineering)によって建設されるだろう。//
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 (03) ボルシェヴィキはマルクスから、意識は環境によって形成されると学んだ。
 そして、思考と行動の様式を変更する社会政策を定式化することから、この人間の設計という課題を開始した。//
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 (04) 家族は、彼らが最初に取り組んだ舞台だった。
 彼らは、「ブルジョア的家族」は社会的に有害だと見た。—宗教という砦、家父長的抑圧、「利己主義的な愛」は、ソヴィエト・ロシアが国家の託児所、洗濯場、食堂のある完全に社会主義のシステムへと発展するに伴い消滅するだろう。
 〈共産主義のABC〉(1919年)は、未来の社会を予見した。そこでは、大人たちは一緒に、彼らの共同社会の子どもたち全員の世話をするだろう。//
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 (05) ボルシェヴィキはまた、家族の絆を弱める政策も採用した。
 結婚を教会による統制から切り離し、離婚を単純な登録の問題に変えた。その結果として、世界で最高の離婚率となった。
 住居不足と闘うために、典型的には一家族一部屋で、一つの台所とトイレが共用の共同アパート(kommuki)を編制した。
 ボルシェヴィキは、人々を共同して生活させることで、人々はより集団的な性格になるだろう、と考えた。
 私的空間と私的財産はなくなるだろう。
 家庭生活は、共産主義的な友愛と組織に置き換えられるだろう。
 そして、個人は、相互の監視と共同社会の統制のもとに置かれるだろう。//
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 (06) 新しい様式の住居が、こうしたことを念頭に置いて、1920年代半ばに設計された。
 構築主義的な建築家は、「共同住宅」を設計した。それによると、衣類すらも含む全ての財産は住民が共同で使用するものになり、料理や子どもの世話のような家事は、交替制で諸チームに割り当てられ、全員が一つの大きな共同寝室で、男女で区別され、性行為のための私室が付くが、眠ることになる。
 この種の住居は、ほとんど建設されなかった。—あまりに野心的で、構築主義思考が短期間で政治的に受容されるには至らなかった。
 しかし、考え方自体は、ユートピア的想像やZamyatin の小説〈We〉(1920年)の中で、大きな位置を占めた。//
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 (07) 教育は、ボルシェヴィキにとって、社会主義社会の創成のための鍵だった。
 学校と共産主義青年同盟を通じて、彼らは、青年に新しい生活様式を教え込もうとした。
 ある理論家は、「柔らかい蝋のような子どもたちは可塑性が高く、優れた共産主義者になるはずだ。我々は家庭生活の邪悪な影響から子どもたちを守らなければならない」と宣言した。(注05)
 社会主義的諸価値の涵養は、ソヴィエトの学校のカリキュラムの指導原理だった。
 実際の活動を通じて子どもたちに科学と経済を教育することが、強調された。
 学校は、ソヴィエト国家の小宇宙として編制された。学習計画と成績は、図表や円グラフで壁に掲示された。
 生徒たちには、生徒評議会と「反ソヴィエトの考え方」の教師を監視する委員会を設置することが奨励された。
 学校の規則を破った子どもたちの学級「裁判」すらがあった。
 服従の意識を注入するために、いくつかの学校は、政治的な教練を導入した。それには、行進、合唱、ソヴィエト指導部に対する忠誠の誓約が伴っていた。//
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 (08) 子どもたちは、「革命家」の真似事をした。
 1920年代に最も人気のあった校庭遊びは、赤軍と白軍、ソヴィエトのカウボーイ・インディアンだった。それらでは、子どもたちが内戦の諸事件を演じ、特別に遊び用に売られていた空気銃がしばしば用いられた。
 もう一つは探索・徴発で、その遊びでは、一グループが徴発部隊の役を演じ、別のグループは穀物を隠す「クラク」として振る舞った。
 このような遊びが子どもたちに奨励したのは、世界をソヴィエト的に「仲間」と「敵」に分けること、正しい目的のために暴力を用いることを受容すること、だった。//
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 (09) 教育制度は、政治的には、活動家の生産と連動していた。
 子どもたちは、ソヴィエト・システムの実践と儀礼を教え込まれて、献身的な共産党員になるよう成長した。
 党は、とくに農村地帯での党員数拡大を必要とした。ボルシェヴィキ活動家の数が、人口に比してきわめて少なかったからだ。
 この世代—ソヴィエト・システムで初めて学校教育を受けた—は、党員の補充に適していた。//
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 (10) ソヴィエトの子どもたちは10歳で、1922年にボーイ・スカウト運動を範として設立された共産主義少年団(Pioneer)に加入した。そこで彼らは、「われわれ共産党の教条を断固として支持する」と誓約した。
 1925年までに5人に一人がこの組織に入り、その数は年々と増えていった。
 共産主義少年団員は頻繁に、行進、合唱、体操、スポーツを行なった。
 特別の制服(白シャツと赤いスカーフ)、団旗、旗、歌があり、それらによって団員は強い帰属意識をもった。
 この少年団から排除された者(「ブルジョア」出自が理由とされたのとほぼ同数いた)は、劣等感をもたされた。//
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 (11) 15歳で子どもたちは、少年団からコムソモール(共産青年同盟)へと進むことができた。
 全員が進んだのではなかった。
 1925年、共産青年同盟には100万の同盟員がいた。—15歳から23歳までの者全体の約4パーセントだった。 
 青年同盟に加入することは、共産党員としての経歴の第一歩だった。
 この組織は、熱狂者の予備軍として機能し、腐敗や悪用を非難する心づもりのあるスパイや情報提供者とともに、党の仕事を自発的に行なう者を提供した。
 この組織が強い魅力を持ったのは、まだ幼くて内戦で闘えなかったが、1920年代と1930年代の記憶で喚起された積極的行動礼賛の中で育った世代に対してだった。
 多数の者が、共産主義者であるからではなく、社会的活力を発散する場が他にないがゆえに、共産青年同盟に加入した。//
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 (12) Walter Benjamin は、1927年にモスクワを訪問して、こう書いた。
 「 ボルシェヴィズムは私的な生活を廃絶させた。
 官僚機構、政治活動家、プレスが力強くて、利害関心のための時間はほとんどこれらに集まっている。
 そのための空間も、他にはない。」(注06)
 人々は多くの面で、完璧に公共的生活を送ることを余儀なくされていた。
 革命は、公共的詮索から自由な「私的な生活」に対して寛容ではなかった。
 存在したのは党の政策ではない。人々が私的に行なう全てのことが「政治的」だった。—何を読んだり考えたりするかから、家庭の中で暴力的か否かに至るまでが。そして、これらは集団による譴責の対象となった。
 革命の究極的な狙いは、人々が相互監視と「反ソヴィエト行動」批判によって互いに管理し合う透明な社会を生み出すことだった。//
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 (13) 一定範囲の歴史家たちは、以下のことが達成された、と考えている。—1930年代までに、国家の公的文化の中で自分自身のidentity と価値観を喪失した「非リベラルなソヴィエト的主体」を生み出すこと。
 この解釈に従えば、ボルシェヴィキの公的な論議(discourse)によって定義された用語法から離れて個人が考えたり感じたりすることは、実際上不可能だった。また、異論を唱える全ての思考や感情は「自己の危機」と感じられる可能性が高く、強烈な個人による粛清が求められることになる。(注07)
 おそらくこれは、ある程度の人々に—学校やクラブで吹き込まれた若者、感受性の強い者たちや恐怖からこのようなことを信じた大人たちに—当てはまることで、このような人々はきっと少数派だった。
 現実には、人々は全く反対のことを主張することができた。—継続的な公共的詮索によって、自分の中に閉じ籠もり、自分自身のidentity を維持するためにソヴィエトへの順応の仮面をかぶって生きることを強いられた。
 彼らは、異なる二つの生活をすることを学んだ。
 一つは、革命の用語を口ずさみ、忠実なソヴィエト市民の一人として行動する。
 もう一つは、自分の家庭のprivacy の中で生きる。あるいは、自由に疑問を語ったり冗談を言ったりすることのできる、頭の中の内部的逃亡地で生きる。//
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 (14) ボルシェヴィキは、この隠された自由の領域を恐れた。
 彼らは、人々がその仮面の下で何を考えているかを知ることができなかった。
 彼ら自身の同志ですら、反ソヴィエト思想を隠している、ということがあり得た。
 ここで、粛清(purges)が始まった。—潜在的な敵の仮面を剥ぐというボルシェヴィキの必要から。
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 第五節まで、終わり。つづく。

2353/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)-第16章第2節②。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.789-p.791。一行ずつ改行。
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 第二節・征圧されない国②。
 (10)農村地帯の生活が全て暗黒だったのではない、というのは本当だ。
 NEP〔「新経済政策」〕のもとで、近代的世界の飾りつけが、ある程度は村落にも届き始めた。
 電気がやって来た。 
 Andreevskoe にすら1927年に初めて電線がつながり、Semelov の夢はついに実現した。
 レーニンは、ロシアの後進性に対する特効薬として、この新しい技術を激賞した。その有名な標語は、こうだった。
 「共産主義とは、ソヴェト権力プラス全国土の電化だ」。
 レーニンは電力を魔法の力と同一視したようだ。そして一度は、電灯は—またはその名を知られるようになった「小さなIlich灯」は—、農民小屋の聖像に取って代わるだろう、と予言した。
 ソヴィエトの情報宣伝活動では、電灯は近代化(enlightenment)のたいまつの象徴となった。暗黒が貧困と悪の暗喩であるように、電気の光は全ての良きものを喩えるものとなった。
 写真は、農民にとっては、光をもつ新しい電気の球体の、ほとんど宗教的不思議さをもつ驚愕物だった。
 レーニンが見たように、全国的な電気網は、離れた村落を都市の近代的文化へと統合するものだっただろう。
 後進国の農民ロシアは、工業の光によって暗黒から抜け出し、急速な経済成長、大衆的教育、手労働の退屈仕事からの解放、という輝かしい新しい未来を享有するだろう。
 これらの多くは、御伽噺(fantasy)だった。数世紀にわたる後進性は、たんに切り替えるだけでは克服できなかった。
 レーニンは、長い間夢想主義(utopianism)に批判的だったが、H. G. Wells が述べたように、「電気技師の夢想」の誘惑に屈して、ロシアに深く根ざして存在する社会問題を克服するために、技術を信頼した。(*23)//
 (11)1920年代には、農村地帯の文明化の別の兆候も見られた。
 病院、劇場、映画館、図書館が、田舎の地方に出現し始めた。
 NEP の時期には、広範囲で農業改良が見られ、農業革命と言えるまでに進んだ。
 地域共同体の農作を不効率にしていた狭い交雑した耕作〔帯状〕区画は、再整理されるか、または配分土地のほとんど1億ヘクタールにまで拡張された。
 西ヨーロッパで見られるような複数交替収穫が、全共同体土地のほぼ4分の1で導入された。
 化学肥料、選種、最新の道具類がますます農民に使われるようになった。
 日常の農作も近代化された。そして多くの農民が、野菜、亜麻、てん菜のような、市場向け栽培へと転換した。これらは、革命前には、もっぱら大土地所有者(gentry)の商業用農地でのみ栽培されていた。
 かつてこのような改革の先駆者だったSemenov は、地域の協同組合—都市部との商品交換用の組合と道具や家畜の購入時の信用供与目的の組合の双方—に喜んだことだろう。これらは、1920年代に、顕著に増加した。
 1927年までに、全ての農民保有土地の50パーセントが農業共同組合に帰属するものになった。
 このような改良の結果として、生産も着実に上昇した。
 1926年までに、農業生産は1913年の時点に再び達した。そしてつぎの2年間にそれを上回った。
 1920年代半ばの収穫高は、1900年代のそれよりも17パーセント多かった。ロシア農業のいわゆる「黄金時代」だ。(*24)//
 (12)教育の点でも、現実に前進があった。1900年代の傾向を再び取り戻して、1920年代にはいっそう多くの村落の学校が建設された。
 1926年までに、ソヴィエトの全人口の51パーセントは読み書きの能力があったと考えられている(1917年の43パーセント、1907年の35パーセントと比較せよ)。
 村落の中で最も向上したのは、若者たちだった。農民の息子たちはその20歳代初期に、彼らの父親の世代よりも2倍以上の人数が、読み書きできたと見られる。
 また一方で、同じ年代の若い農村女性たちは、彼女たちの母親の世代よりも5倍以上、読み書き能力があったようだ。
 こうした世代間格差の拡大は、人口動態上のものでもあり、文化的なものでもあった。
 1926年までに、農村人口の半数以上が20歳代以下になり、3分の2以上が30歳代以下になった。
 この者たちはたいてい、読み書きができた。
 彼らの多くは、兵役を通じて村落の外の世界を知った。
 長老農民たちの権威に抵抗し、稀にしか教会へ行かず、強い個人主義的感情を示した。この感情が追い求めたのは保有土地の分割で、1920年代の間に急速に進んだ。農民の息子たちが父親から離れて独立し、自分たちの土地保有を開始したのだ。
 農民の息子たちはまた、一族の長としての父親の地位を弱めて、農場の経営についての発言権をいっそう強めるようになった。(*25)
 ロシアの村落は、ボルシェヴィキが間違って考えたように、富者と貧者にさほどに分裂していたのではなかった。むしろ、父親たちとその息子たちの間に分裂があった。//
 (13)世代間の対立があったがゆえに、ボルシェヴィキは、落ち着かない若者たちの組織化を通じて、田園地帯への影響力を築くことができた。
 共産青年同盟(Komsomol)は、田園地域で、党以上に急速に拡大した。—1922年の8万人から、1925年までに優に50万人以上、地方のボルシェヴィキ党員数の3倍までに。
 共産青年同盟は、退屈した十代の村落の若者たちの社交クラブだった。
 この同盟は、教会と古い長老支配秩序に反抗する十字軍へと若者を組織した。
 その中から党に加入させることを通じて、野心的な青年たちに、自らを上昇させ、遅れた村落から離れることのできる可能性をも提供した。彼らの多くは遅れた村落を侮蔑して、都市の世界の輝く光に憧れていた。
 1920年代半ばでのVoronezh の最も農業的な地区の一つの共産青年同盟に関する調査によると、その構成員の85パーセントは農民家庭の出身だった。
 そして、わずか3パーセントだけが農業に従事したいと言った。
 1923年に、民族文化学のある学生は、Semelov がいたAndreevskoe から遠くないVolokolamsk にある村の同世代の者の考え方を、つぎのように概括した。/
 これは、若者たちが年配者に関して語ったことだ。
 「古い人々は馬鹿だ。
 彼らは働いて疲れるだけで、何も得るものがない。
 鋤で耕すこと以外に何も知らない。—これは全てを知らないということだ。…
 農場を放棄する。農作は利益を生まず、それに費やす労働に値しない。…」
 (若者たちは、)逃げ出したい。できる限り早く逃げ出したい。
 逃亡できるだけで、どこへでもよい。—工場、軍隊、大学、あるいは役人になる。—どこであっても、問題ではない。(*26)/
 Semenov とKanatchikov は、30年前に同じ考え方を記していた。
 村落がそこにいる若者たちによって拒絶されていること、これはボルシェヴィキが党員を獲得する、恒常的な源泉的基盤となったように見える。//
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 第2節②、終わり。
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