Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(2002).
/B. G. ローゼンタール・新しい神話·新しい世界—ニーチェからスターリン主義へ(2002年)。
一部の試訳のつづき。
第三編/新経済政策(NEP) の時期でのニーチェ思想—1921-1927。
----
序
第二節②。
(07) 他の積極的手段には、LEF(芸術の左翼戦線、avan-garde 連合)、VAPP(全ロシア・プロレタリア作家同盟)のような組織やこれらが刊行する雑誌に対する資金援助があった。
Agitprop の長は1924年に、党が考える様式に添って書かれた、そして「広範な大衆に社会主義の精神についてイデオロギー教育をする」のに適した文学を擁護した。
党は関連する動きとして、ボルシェヴィキの英雄たちと、革命前の探偵物語の英雄的主人公であるNat Pinkerton に因んだ「赤いPinkerton」に関する冒険物語の執筆を励ました。
Marietta Shaginian(1888-1982、Merezhkovsky たちのかつての同僚)の小説である〈Mass-Mend〉(1924年)は、民衆が神秘的なもの(オカルト、occult)に嵌っていることを利用していた。
この小説では、プロレタリアの「白い魔術」が資本主義陰謀家の「黒い魔術」を打ち負かす。(注8)
党は特定の様式または語法を命令しなかった。そうする気は実際になかった。しかし、遅かれ早かれ単一の社会主義的芸術様式が支配するだろうと、広く想定されていた。
文筆家や芸術家の競い合う諸組織は、それは自分たちだということを確実にしようとした。//
----
(08) 党はまた、大衆や党員たちがNEPは社会主義の放棄であるとか、ボルシェヴィキ幹部による意欲の減退または方向性の喪失であるとかと解釈しないように保障しなければならなかった。
〈Pravda〉で最も頻繁に使われた隠喩—「任務」、「途」、そして「社会主義建設」におけるがごとき「建設」—は、上からの統制、目的志向性、指導性を含意していた。
〈Pravda〉上の隠喩は、管下にある他の新聞類でも同じように使われた。
「任務」(task)は通常、上級の当局によって与えられた。
「途」(path)は、「任務」の意味を補強した。
レーニンは、この「途」を、物事を行なう唯一の方策があるという確信を表現するために用いた。「一つの戦略、一つのイデオロギー、一つの方向」だ。
1920年代の半ばまでには、「レーニン主義の途で」とか「社会主義への途」とかの語句は、至るところで見られた。そして、「途」は「線(路線)」へと狭まった。スターリンの「線(路線)」(line)というように。
ときには、「途」と「路線」は一緒に用いられた。1926年に、ある編集者が「一般的路線」を社会主義への「高速道」と同一視したように。(注9)
----
(09) 「途」という隠喩は、マルクスやエンゲルスに由来しなかった。
これは直線的な歴史の動きを想定していたが、曖昧な隠喩として使われた。
ボルシェヴィキは、Merezhkovsky からこの「途」という隠喩を取り上げたのかもしれない。
「途」(the path)は、キリスト教的神秘主義の中心的表象だ。
ボルシェヴィキたちが、そしてLunacharsky やかつて神学生だったスターリンがこのことを知っていたかはともかく、「途」という隠喩は、世俗的な救済のためのイデオロギーであるボルシェヴィズムの宗教的性格を示していた。
「途」という隠喩はまた、ある保証の感覚も伝えていた。実際に、党指導者たちは、大衆が困惑しているとしても方向を失ってはいない、と言われた。
また別の次元では、「途」という隠喩は、党の将来の方位を映し出していた。共産主義の社会は、まだ遠く離れたところにあった。//
----
(10) 上級党学校は、党意識(〈partiinost'〉)、プロレタリア化、実践性を教え込んだ。
知識のための知識は、「スコラ哲学」または「ブルジョア・アカデミズム」だとして蔑まれた。
Sverdlovsk大学には、神学校の雰囲気があった。
狂熱的な生活様式は、政治的な忠誠心と関連していた。
「ブルジョア的」ソヴィエト科学アカデミーと対抗すると自認した社会主義アカデミーは、学術計画(高等教育の組織化と統制)と集団的な学術研究を擁護した。
それに加盟した学者たちは、広範な聴衆が入手しやすい辞典、教科書、編集書を執筆して送り出した。また、マルクス主義の観点から社会科学についての再作業(再評価)を行なった。
党は1923年に、アカデミーに対して物理科学を含めることを認めた。
赤色教授研究所は、若い党政治家、学者、広報者たちをマルクス主義でもって訓練した。
上級党学校との間の、そして各々の内部での競争は、部門や学生たちが味方する党内闘争によって、加速された。//
----
(11) 1924年の「社会主義」アカデミーから「共産主義」アカデミーへの変化は、1925年頃の大きな転換の予兆だった。1925年には、作家や芸術家たちの対立組織間の闘いが激化し、外国の出版物の輸入や外国旅行に対する規制が厳しくなった、
第14回党大会(1925年)は、ソヴィエト同盟を自己充足の産業国家にすると決議し(「一国社会主義」)、GOSPLAN(国家計画局)に、総合的な経済計画のための統括数字(予想)をまとめるよう指示した。
最初の案は、均衡ある発展を強調し、それにはBogdnov とBayarov の見方が生かされていた。(注10)
——
第三節へとつづく。
/B. G. ローゼンタール・新しい神話·新しい世界—ニーチェからスターリン主義へ(2002年)。
一部の試訳のつづき。
第三編/新経済政策(NEP) の時期でのニーチェ思想—1921-1927。
----
序
第二節②。
(07) 他の積極的手段には、LEF(芸術の左翼戦線、avan-garde 連合)、VAPP(全ロシア・プロレタリア作家同盟)のような組織やこれらが刊行する雑誌に対する資金援助があった。
Agitprop の長は1924年に、党が考える様式に添って書かれた、そして「広範な大衆に社会主義の精神についてイデオロギー教育をする」のに適した文学を擁護した。
党は関連する動きとして、ボルシェヴィキの英雄たちと、革命前の探偵物語の英雄的主人公であるNat Pinkerton に因んだ「赤いPinkerton」に関する冒険物語の執筆を励ました。
Marietta Shaginian(1888-1982、Merezhkovsky たちのかつての同僚)の小説である〈Mass-Mend〉(1924年)は、民衆が神秘的なもの(オカルト、occult)に嵌っていることを利用していた。
この小説では、プロレタリアの「白い魔術」が資本主義陰謀家の「黒い魔術」を打ち負かす。(注8)
党は特定の様式または語法を命令しなかった。そうする気は実際になかった。しかし、遅かれ早かれ単一の社会主義的芸術様式が支配するだろうと、広く想定されていた。
文筆家や芸術家の競い合う諸組織は、それは自分たちだということを確実にしようとした。//
----
(08) 党はまた、大衆や党員たちがNEPは社会主義の放棄であるとか、ボルシェヴィキ幹部による意欲の減退または方向性の喪失であるとかと解釈しないように保障しなければならなかった。
〈Pravda〉で最も頻繁に使われた隠喩—「任務」、「途」、そして「社会主義建設」におけるがごとき「建設」—は、上からの統制、目的志向性、指導性を含意していた。
〈Pravda〉上の隠喩は、管下にある他の新聞類でも同じように使われた。
「任務」(task)は通常、上級の当局によって与えられた。
「途」(path)は、「任務」の意味を補強した。
レーニンは、この「途」を、物事を行なう唯一の方策があるという確信を表現するために用いた。「一つの戦略、一つのイデオロギー、一つの方向」だ。
1920年代の半ばまでには、「レーニン主義の途で」とか「社会主義への途」とかの語句は、至るところで見られた。そして、「途」は「線(路線)」へと狭まった。スターリンの「線(路線)」(line)というように。
ときには、「途」と「路線」は一緒に用いられた。1926年に、ある編集者が「一般的路線」を社会主義への「高速道」と同一視したように。(注9)
----
(09) 「途」という隠喩は、マルクスやエンゲルスに由来しなかった。
これは直線的な歴史の動きを想定していたが、曖昧な隠喩として使われた。
ボルシェヴィキは、Merezhkovsky からこの「途」という隠喩を取り上げたのかもしれない。
「途」(the path)は、キリスト教的神秘主義の中心的表象だ。
ボルシェヴィキたちが、そしてLunacharsky やかつて神学生だったスターリンがこのことを知っていたかはともかく、「途」という隠喩は、世俗的な救済のためのイデオロギーであるボルシェヴィズムの宗教的性格を示していた。
「途」という隠喩はまた、ある保証の感覚も伝えていた。実際に、党指導者たちは、大衆が困惑しているとしても方向を失ってはいない、と言われた。
また別の次元では、「途」という隠喩は、党の将来の方位を映し出していた。共産主義の社会は、まだ遠く離れたところにあった。//
----
(10) 上級党学校は、党意識(〈partiinost'〉)、プロレタリア化、実践性を教え込んだ。
知識のための知識は、「スコラ哲学」または「ブルジョア・アカデミズム」だとして蔑まれた。
Sverdlovsk大学には、神学校の雰囲気があった。
狂熱的な生活様式は、政治的な忠誠心と関連していた。
「ブルジョア的」ソヴィエト科学アカデミーと対抗すると自認した社会主義アカデミーは、学術計画(高等教育の組織化と統制)と集団的な学術研究を擁護した。
それに加盟した学者たちは、広範な聴衆が入手しやすい辞典、教科書、編集書を執筆して送り出した。また、マルクス主義の観点から社会科学についての再作業(再評価)を行なった。
党は1923年に、アカデミーに対して物理科学を含めることを認めた。
赤色教授研究所は、若い党政治家、学者、広報者たちをマルクス主義でもって訓練した。
上級党学校との間の、そして各々の内部での競争は、部門や学生たちが味方する党内闘争によって、加速された。//
----
(11) 1924年の「社会主義」アカデミーから「共産主義」アカデミーへの変化は、1925年頃の大きな転換の予兆だった。1925年には、作家や芸術家たちの対立組織間の闘いが激化し、外国の出版物の輸入や外国旅行に対する規制が厳しくなった、
第14回党大会(1925年)は、ソヴィエト同盟を自己充足の産業国家にすると決議し(「一国社会主義」)、GOSPLAN(国家計画局)に、総合的な経済計画のための統括数字(予想)をまとめるよう指示した。
最初の案は、均衡ある発展を強調し、それにはBogdnov とBayarov の見方が生かされていた。(注10)
——
第三節へとつづく。