一 西尾幹二・ソ連知識人との対話(文藝春秋、1979)。正確な同一性を確認していないが、同・全集第7巻(2013)の冒頭に収載されているようだ。
いつまで続いたか知らないが、「日本文芸家協会とソ連作家同盟」との間の取り決めに従ってソ連が毎年3名の日本人「文学者」を招待して<親善旅行>をさせるということが行なわれた。西尾は1977年に作家の加賀乙彦、高井有一とともに参加した。
日本側は多くは作家・小説家で、西尾のような<文芸評論家>は少なかったこと、しかしなお、政治や歴史等とは異なる、これらの枠外の分野でこの時期に西尾は活動していたことは、注記されておいてよいだろう。
この旅行(1977年は例外的に約一ヶ月)は、1980年に参加した入江隆則によると、「(ロシアにいる間は)通訳付きの大名旅行」だった。
入江隆則・告白(洋泉社、2008年)、244頁。
西尾らの場合もずっと一人の「エレナ・レジナ」という名の通訳が同行したほか、ホテル宿泊費、ソ連内の交通費、基本的な食事費は全てソ連側が負担したようだ。
そのような元来の「負い目」に関係なく、西尾はあれこれと旅行記、旅行中に感じたことを書いて、一冊の書物にしている。
対ソ連認識・意識あるいは「反共」感覚という観点から見た場合、なかなか簡単には形容、叙述できないが、当時の西尾幹二の<純朴さ>(<幼稚さ>)が際立っているだろう。
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第一に、上記の女性通訳は、日本の作家類の「親善使節団」?のために用意された、ソ連共産党の党員、そしてソ連作家同盟に関係のある党員だったと推察されるが、そのような属性について、西尾幹二はまるで関心を示していない。
スターリン批判後のブレジネフの時代で、スターリン支配下に比べて統制は緩和され、1989年以降に向かってソ連の国家と社会は破綻へと進んでいただろうが、それでもソ連共産党が「一党支配」し、社会各層の幹部層にはなお多く共産党員が配置されていただろう。
従って、エレナおばさんの言動には、その本来の人柄とともに、党員であること自体や、作家同盟やさらに上部の共産党の意向が反映されていると思われる。しかし、1960年の<安保学生>ではなく、三島由紀夫との若干の交流があったとは言え、西尾幹二はもともとソ連について平均的レベルの知見しか持たないでソ連を訪れたようだ。従って、遭遇し、会話するソ連の人々のうちどの程度が共産党員なのか、その問題を考慮して言動や発言を理解すべきだ、といった問題関心が西尾には全くなかった、と思われる。
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第二に、従ってまた、ソ連各地のソ連作家同盟または関係団体の人たちとの「会話」も、<ソ連知識人との対話>というほどの次元にまでは達していない。
多少は相手側に耳の痛いことも西尾は言ったり質問したりしたようだが、ソ連の「政治体制」の<本質>に抵触するものでは全くない。
それどころか、「死や実存に直面する『個』の危機の主題」(p.26)、「ソ連に“個”の危機は存在するか」(p.197、第9章の表題)、「ソ連人の精神生活の中に、『個』の危機という主題がはたして存在したことはあるのだろうか」(p.206-、p.210)といった関心をもって、接触した「知識人」らしき者たちと「対話」しても、ほとんど成果がなかっただろうことは明らかだ。
そしてつまるところは、例えば、「個」が不分明になり、「技術文明に寸断された現代世界は、その調和ある統一性がついに失われたことに特徴づけられている」のではないか(p.207)、等々と述懐しておくことに自分の文章の意味を求めているように見える。これは「二つ」の世界を<現代>という語で相対化する議論で、ソ連解体後にひとしきり流行したものだ。
危機にあったのはソ連、社会主義・共産主義だけではない、「自由主義」・「資本主義」も同様の問題を抱えている、というわけだ。
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ところで、西尾幹二は、トルストイ、ドストエフスキー、さらにソルジェニーツィンに言及しながら、<ドクトル・ジバゴ>で1956年にノーベル文学賞を(本人は辞退したはずだが)受けたボリス・パステルナークには何ら言及していないようだ。パステルナークと<ドクトル・ジバゴ>(の叙述内容)に立ち入った方が、西尾の文章よりも「ソ連」についてよく理解できるのではないか。
例えば、→1905/ソヴィエト体制下の「洗脳」とドクトル·ジバゴ(1919年1月)。
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二 つぎの中に、ソルジェニーツィンに関する叙述がある。
西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。同・全集第22巻A(2024)所収。
前後に同旨の文章がつづく。それは、「過度の自由社会はかえって『自由』を破壊する」という文章に象徴されているかもしれない。それはまた、「自由であるというだけでは、人間は自由になれない」などの文章を含んでいる、同・国民の歴史(扶桑社、1999)の最終章と共通性がある。
もっとも、西尾における「自由」論は、何やら深遠なことを言っているように見えて、「自由」概念の意味が明確でなく、適当に使われている、気分だけのレトリックにすぎないから、騙されてはならない。
こうした、じつは訳が分からない「自由」論は、1978年頃の側ではソルジェニーツィンの文章のうち、あえて以下のような部分をとくに引用する西尾の心理とも共通しているだろう。「反共」か否かとは関係がないのだ。
「たとえどんな場合でも社会主義を選択するよう提案する気はさらさらない」が、「われわれの社会を改造する理想として、諸君の社会を推奨することはできない」。
「現在の精神的枯渇状態にある西側の制度は、魅力あるものではない。…西側では人間性が酷薄になり、東側ではそれが強固になっていることは、まぎれもない事実である。わが民族は60年の間、…、西側の経験を遥かに凌ぐ精神的学校で学んだのである。艱苦と死によって抑圧された人生が、西側のおざなりな法規で規定された人生よりも、ずっと強力で、深い人間性をつくりだしたのである。」
「われわれの国のような底無しの無法状態に社会はとどまることはできないが、諸君の国のような無精神の法律的安穏にどっぷり漬かることも無益なことである。何十年もの間、圧政の下に呻吟してきた人間の魂は、広告の醜悪な圧力や、テレビによる愚昧化、…ている今日の西側の大衆生活がわれわれに提示できるものよりも、何かもっと高邁で、温かく、純潔なものに惹かれているのである。」
「ここ(西側社会)では自発的な自己規制になどはほとんど出会うことはない。法律の枠が割れはじける音を出すまでは、誰もが皆、我が道をゆくのである。…私は今までの生涯を共産主義の下で暮らしたが、次のようにいいたい。公平な法的秤が全く存在しない社会は恐ろしい。しかしだからといって、法的秤以外の、別の秤の存在しない社会も、同じように人間にとって価値がないものである。」
西尾による引用はもっと長文だが、割愛する。
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興味深いのは、長々と引用するだけあって、西尾はこのようなソルジェニーツィンの主張を、つぎのように、基本的には肯定的に評価していることだ。
「現代のわれわれの自由主義文明の弱点に対する一個の徹底的批評としてみたとき、…相当に挑発的であり、説得的でもあります。直接的衝撃性を備えた言葉です。…ひとつひとつに、稲妻のような瞬発的迫力があります。それは結果的に、西側自由主義社会の弱点と矛盾を白日の下にさらすリアリティを秘めているのです。/共産主義社会には自由がなかった、私たちには自由がある、といった素朴な反共思想では世界史は説明がつかないことは以上で明らかです。」
西尾幹二は、「西側自由主義社会の弱点と矛盾」を指摘されるのに共感を覚える者であり、既述のように、そのかぎりでは、「左翼」とされるアドルノらフランクフルト学派(ドイツ)と似ている。
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三 西尾幹二は<新しい歴史教科書をつくる会>10周年集会に、この会は「反共」だけではなく「反米」も掲げた最初の運動団体だった旨の文を寄せた。
<保守派>であれば「反共」を前提とするのは当然だとの物言いだ(同・保守の真贋(徳間書店、2017)も参照)。しかし、この人物がそもそもどの程度に「反共」だったのか、共産主義・社会主義をどの程度理解していたのかは、相当に疑わしく思っている。この人物がマルクス、レーニン等の「マルクス主義者」とされる者やその「思想」内容に論及していたのを読んだことがない(この点、谷沢永一と異なる)。
また、上の西尾自身の言葉では、少なくとも「素朴な反共思想」だけ持ってはいけないのだ。この人は、心理の奥底では共産主義・社会主義を容認する部分があったのではなかろうか。
もちろん、この人はいろいろなことをその場かぎりで(頼まれ文章ごとに)書いたので、共産主義等に対して一貫した「思想」をもっていたなどという、幻想を抱いてはいけないのだが。
なお、上でも触れた同・国民の歴史(原書1999年)の最終章には、今後の我々の時代には何も良いことは起こらず、「共産主義体制と張り合っていた時代を、懐かしく思い出すときが来るかもしれない。私たちは否定すべき対象さえももはや持たない」との断定的文章がある。
これによると「反共」攻撃、「反共」闘争はもはや必要がない。そして、現在も<日本会議>が設立趣旨で謳っているのと同じ見解が示されている。
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四 L・コワコフスキはポーランド共産党員(統一労働者党員)になったあと、その有能さのゆえに、早くも1950年にモスクワ「視察」旅行へと派遣された、という。明確に「反党」的になり、除名されたのは1960年代だが、共産主義・社会主義への不信は、現実のモスクワを見てすでにモスクワ旅行の際に芽生えた、とされる。
私事だが、この欄で既述のように、私は社会主義国家時代の東独・ドレスデンを訪れたことがある。その際、団体・グループから離れて勝手に「ドレスデン新都市」駅へ行ってその待合室で見た勤労大衆(?)の様子を衝撃をもって憶えている(1980年頃)。
時代は同じではないが、西尾幹二は「ソ連知識人」と交流したことはあっても、社会の隅々まで、あるいは共産党官僚機構の実態まで、ソ連との「親善」旅行では知り得なかったのだろう。
「自由」概念がそもそも同じでないだろうから、「共産主義社会にはなく、われわれにはある」と単純には言えないだろう。
しかし、ポーランド育ちのL・コワコフスキですら幻滅させるものが、私ですら「愕然とする」ものが、社会主義社会にはあったと思われる。そのかぎりで、人々の精神構造も含めて(これは遺伝子ではなく出生後の教育・社会環境による。「国家」への意識・人間関係意識も含む)、やはり両体制は「質的に」異なっていた(異なっている)と感じる。
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いつまで続いたか知らないが、「日本文芸家協会とソ連作家同盟」との間の取り決めに従ってソ連が毎年3名の日本人「文学者」を招待して<親善旅行>をさせるということが行なわれた。西尾は1977年に作家の加賀乙彦、高井有一とともに参加した。
日本側は多くは作家・小説家で、西尾のような<文芸評論家>は少なかったこと、しかしなお、政治や歴史等とは異なる、これらの枠外の分野でこの時期に西尾は活動していたことは、注記されておいてよいだろう。
この旅行(1977年は例外的に約一ヶ月)は、1980年に参加した入江隆則によると、「(ロシアにいる間は)通訳付きの大名旅行」だった。
入江隆則・告白(洋泉社、2008年)、244頁。
西尾らの場合もずっと一人の「エレナ・レジナ」という名の通訳が同行したほか、ホテル宿泊費、ソ連内の交通費、基本的な食事費は全てソ連側が負担したようだ。
そのような元来の「負い目」に関係なく、西尾はあれこれと旅行記、旅行中に感じたことを書いて、一冊の書物にしている。
対ソ連認識・意識あるいは「反共」感覚という観点から見た場合、なかなか簡単には形容、叙述できないが、当時の西尾幹二の<純朴さ>(<幼稚さ>)が際立っているだろう。
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第一に、上記の女性通訳は、日本の作家類の「親善使節団」?のために用意された、ソ連共産党の党員、そしてソ連作家同盟に関係のある党員だったと推察されるが、そのような属性について、西尾幹二はまるで関心を示していない。
スターリン批判後のブレジネフの時代で、スターリン支配下に比べて統制は緩和され、1989年以降に向かってソ連の国家と社会は破綻へと進んでいただろうが、それでもソ連共産党が「一党支配」し、社会各層の幹部層にはなお多く共産党員が配置されていただろう。
従って、エレナおばさんの言動には、その本来の人柄とともに、党員であること自体や、作家同盟やさらに上部の共産党の意向が反映されていると思われる。しかし、1960年の<安保学生>ではなく、三島由紀夫との若干の交流があったとは言え、西尾幹二はもともとソ連について平均的レベルの知見しか持たないでソ連を訪れたようだ。従って、遭遇し、会話するソ連の人々のうちどの程度が共産党員なのか、その問題を考慮して言動や発言を理解すべきだ、といった問題関心が西尾には全くなかった、と思われる。
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第二に、従ってまた、ソ連各地のソ連作家同盟または関係団体の人たちとの「会話」も、<ソ連知識人との対話>というほどの次元にまでは達していない。
多少は相手側に耳の痛いことも西尾は言ったり質問したりしたようだが、ソ連の「政治体制」の<本質>に抵触するものでは全くない。
それどころか、「死や実存に直面する『個』の危機の主題」(p.26)、「ソ連に“個”の危機は存在するか」(p.197、第9章の表題)、「ソ連人の精神生活の中に、『個』の危機という主題がはたして存在したことはあるのだろうか」(p.206-、p.210)といった関心をもって、接触した「知識人」らしき者たちと「対話」しても、ほとんど成果がなかっただろうことは明らかだ。
そしてつまるところは、例えば、「個」が不分明になり、「技術文明に寸断された現代世界は、その調和ある統一性がついに失われたことに特徴づけられている」のではないか(p.207)、等々と述懐しておくことに自分の文章の意味を求めているように見える。これは「二つ」の世界を<現代>という語で相対化する議論で、ソ連解体後にひとしきり流行したものだ。
危機にあったのはソ連、社会主義・共産主義だけではない、「自由主義」・「資本主義」も同様の問題を抱えている、というわけだ。
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ところで、西尾幹二は、トルストイ、ドストエフスキー、さらにソルジェニーツィンに言及しながら、<ドクトル・ジバゴ>で1956年にノーベル文学賞を(本人は辞退したはずだが)受けたボリス・パステルナークには何ら言及していないようだ。パステルナークと<ドクトル・ジバゴ>(の叙述内容)に立ち入った方が、西尾の文章よりも「ソ連」についてよく理解できるのではないか。
例えば、→1905/ソヴィエト体制下の「洗脳」とドクトル·ジバゴ(1919年1月)。
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二 つぎの中に、ソルジェニーツィンに関する叙述がある。
西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。同・全集第22巻A(2024)所収。
前後に同旨の文章がつづく。それは、「過度の自由社会はかえって『自由』を破壊する」という文章に象徴されているかもしれない。それはまた、「自由であるというだけでは、人間は自由になれない」などの文章を含んでいる、同・国民の歴史(扶桑社、1999)の最終章と共通性がある。
もっとも、西尾における「自由」論は、何やら深遠なことを言っているように見えて、「自由」概念の意味が明確でなく、適当に使われている、気分だけのレトリックにすぎないから、騙されてはならない。
こうした、じつは訳が分からない「自由」論は、1978年頃の側ではソルジェニーツィンの文章のうち、あえて以下のような部分をとくに引用する西尾の心理とも共通しているだろう。「反共」か否かとは関係がないのだ。
「たとえどんな場合でも社会主義を選択するよう提案する気はさらさらない」が、「われわれの社会を改造する理想として、諸君の社会を推奨することはできない」。
「現在の精神的枯渇状態にある西側の制度は、魅力あるものではない。…西側では人間性が酷薄になり、東側ではそれが強固になっていることは、まぎれもない事実である。わが民族は60年の間、…、西側の経験を遥かに凌ぐ精神的学校で学んだのである。艱苦と死によって抑圧された人生が、西側のおざなりな法規で規定された人生よりも、ずっと強力で、深い人間性をつくりだしたのである。」
「われわれの国のような底無しの無法状態に社会はとどまることはできないが、諸君の国のような無精神の法律的安穏にどっぷり漬かることも無益なことである。何十年もの間、圧政の下に呻吟してきた人間の魂は、広告の醜悪な圧力や、テレビによる愚昧化、…ている今日の西側の大衆生活がわれわれに提示できるものよりも、何かもっと高邁で、温かく、純潔なものに惹かれているのである。」
「ここ(西側社会)では自発的な自己規制になどはほとんど出会うことはない。法律の枠が割れはじける音を出すまでは、誰もが皆、我が道をゆくのである。…私は今までの生涯を共産主義の下で暮らしたが、次のようにいいたい。公平な法的秤が全く存在しない社会は恐ろしい。しかしだからといって、法的秤以外の、別の秤の存在しない社会も、同じように人間にとって価値がないものである。」
西尾による引用はもっと長文だが、割愛する。
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興味深いのは、長々と引用するだけあって、西尾はこのようなソルジェニーツィンの主張を、つぎのように、基本的には肯定的に評価していることだ。
「現代のわれわれの自由主義文明の弱点に対する一個の徹底的批評としてみたとき、…相当に挑発的であり、説得的でもあります。直接的衝撃性を備えた言葉です。…ひとつひとつに、稲妻のような瞬発的迫力があります。それは結果的に、西側自由主義社会の弱点と矛盾を白日の下にさらすリアリティを秘めているのです。/共産主義社会には自由がなかった、私たちには自由がある、といった素朴な反共思想では世界史は説明がつかないことは以上で明らかです。」
西尾幹二は、「西側自由主義社会の弱点と矛盾」を指摘されるのに共感を覚える者であり、既述のように、そのかぎりでは、「左翼」とされるアドルノらフランクフルト学派(ドイツ)と似ている。
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三 西尾幹二は<新しい歴史教科書をつくる会>10周年集会に、この会は「反共」だけではなく「反米」も掲げた最初の運動団体だった旨の文を寄せた。
<保守派>であれば「反共」を前提とするのは当然だとの物言いだ(同・保守の真贋(徳間書店、2017)も参照)。しかし、この人物がそもそもどの程度に「反共」だったのか、共産主義・社会主義をどの程度理解していたのかは、相当に疑わしく思っている。この人物がマルクス、レーニン等の「マルクス主義者」とされる者やその「思想」内容に論及していたのを読んだことがない(この点、谷沢永一と異なる)。
また、上の西尾自身の言葉では、少なくとも「素朴な反共思想」だけ持ってはいけないのだ。この人は、心理の奥底では共産主義・社会主義を容認する部分があったのではなかろうか。
もちろん、この人はいろいろなことをその場かぎりで(頼まれ文章ごとに)書いたので、共産主義等に対して一貫した「思想」をもっていたなどという、幻想を抱いてはいけないのだが。
なお、上でも触れた同・国民の歴史(原書1999年)の最終章には、今後の我々の時代には何も良いことは起こらず、「共産主義体制と張り合っていた時代を、懐かしく思い出すときが来るかもしれない。私たちは否定すべき対象さえももはや持たない」との断定的文章がある。
これによると「反共」攻撃、「反共」闘争はもはや必要がない。そして、現在も<日本会議>が設立趣旨で謳っているのと同じ見解が示されている。
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四 L・コワコフスキはポーランド共産党員(統一労働者党員)になったあと、その有能さのゆえに、早くも1950年にモスクワ「視察」旅行へと派遣された、という。明確に「反党」的になり、除名されたのは1960年代だが、共産主義・社会主義への不信は、現実のモスクワを見てすでにモスクワ旅行の際に芽生えた、とされる。
私事だが、この欄で既述のように、私は社会主義国家時代の東独・ドレスデンを訪れたことがある。その際、団体・グループから離れて勝手に「ドレスデン新都市」駅へ行ってその待合室で見た勤労大衆(?)の様子を衝撃をもって憶えている(1980年頃)。
時代は同じではないが、西尾幹二は「ソ連知識人」と交流したことはあっても、社会の隅々まで、あるいは共産党官僚機構の実態まで、ソ連との「親善」旅行では知り得なかったのだろう。
「自由」概念がそもそも同じでないだろうから、「共産主義社会にはなく、われわれにはある」と単純には言えないだろう。
しかし、ポーランド育ちのL・コワコフスキですら幻滅させるものが、私ですら「愕然とする」ものが、社会主義社会にはあったと思われる。そのかぎりで、人々の精神構造も含めて(これは遺伝子ではなく出生後の教育・社会環境による。「国家」への意識・人間関係意識も含む)、やはり両体制は「質的に」異なっていた(異なっている)と感じる。
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