秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

共同体

0583/憲法学者・樋口陽一の究極のデマ―その6・思想としての「個人」・「個人主義」・「個人の自由」

 樋口陽一の文章をあらためていつか再引用してもよいが、樋口陽一その他大勢の憲法学者の「人権」 論の基礎にはその主体としての(自由なかつ自律した)「個人」があり、それを(又はその「尊厳」を)尊重するということが憲法の最も枢要な原理とされる。だが、そのような、個々の自然人たる(アトムとしての)「個人」が(社会)契約によって国家を構成しそれと対峙する、というイメージ自体が、一つの「思想」であり、一つのイデオロギーだろう。
 以下、何回か、<個人主義>を批判又は疑問視する文章の引用のみを続ける。
 一 佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社、1996)。
 欧州の元来の定義「ブルジョアジー」がそうであるように「市民」は「まず財産主」であり、それを守るための「安定した社会秩序」を必要とし、「社会秩序の維持」のためには「公共の事柄」への義務・責任を負った。この義務・責任は「それなりの見識や判断力、知識、道徳心など」を必要とし、これらは「広義の教育」、「日々の経験」、「人々との会話」、「読書」、「芸術」が与えた。/
 「人は、こうしたものを、いかなる意味での『共同体』もなしに、すなわち剥き出しの個人として、身につけることはできない。近隣、家族、友人たち、教会、それに国家、それらを広義の『共同体』と呼んでおくと、様々なレベルでの『共同体』と一切無縁に、人は価値や判断力を身につけることはできない」。/
 近代社会は「封建的」共同体からの「個人の解放」を促し、「通俗的には、共同体からの個人の解放こそが『個人主義』の成立であり、それこそが近代リベラリズムの条件だ」と理解されている。「しかし、これは基本的な誤解であるか、あるいは少なくとも事態の半面を見ているにすぎない。事実上、一切の共同社会から孤立した個人などというものはありえないし、また仮にありえたとしても、彼は、どのようにして、社会の価値、ルール、目に見えない人間関係の処世、歴史的なものの重要性、個人を超えた価値の存在を学ぶのだろうか。通俗的な近代リベラリズムの誤りは、裸で剥き出しの抽象的個人から社会や社会のルールが生み出され、ここに一定の『権利』をもった『個人』なるものが誕生すると見なした点にある」/
 「しかし、ロジカルにいっても、何の価値や判断力も、さらには恐らく理性さえまだ学んでいない、『無』の個人からどのようにして権利をもち、社会のルールについて判断力をもった個人が生まれるというのだろうか」。
 以上、上掲書p.57-58。
 樋口陽一における<視野狭窄>性・<観念>性・<通俗>性の指摘は、ほとんど上で尽きている。
 (この項、つづく。)

0382/1/14成人の日の朝・読・産三紙社説比べ。

 明日からの新サイト「あらたにす」で、日経・読売・朝日三紙の社説等が読み比べられるらしい(ますます読売を定期購読する必要はなくなった)。
 これを記念して?、日経の代わりに産経を入れて、今年1月14日の成人の日関係の三紙社説を比べてみた。
 結論は、朝日1、読売6、産経8(10点満点、6点以上合格)。
 朝日社説は、恥ずかしいと思わないのか、と言いたいほどヒドい。<手抜き>社説の最たるもの。
 他人(谷川俊太郎)の文(・詩)を引用・紹介して字数を稼ぎつつ執筆の苦労を削減するのは<築地をどり>の流儀かもしれぬが、この社説で主張しているのは、大げさな「そこで、一つ提案をしたい」との前口上の後の、「大人になったら、ぜひ自分の力で考え、自分の足で立ってみよう」、ということだけだ。
 「考えをめぐらすなかで、他人の意見に耳を傾けてもいい。でも、その発言をただうのみにするのではなく、「自分はどう思うか」と一歩立ち止まって考える。そんなくせを、まずはつけたい」とも書いているが、こんなことを全国紙の社説が何故書かなければならないのか。どこかの中学校・高校の平凡な校長が卒業式にでも生徒に語っているような内容だ。
 しかも、「「えらそうに」と反発されそうだ。それでもあえてこの一文を書いたのは、いまだに自分自身が心もとないからだ。長いこと大人をやっているが、自分で考え抜くことがどれほどあったか。自分の意見と思っていることが、実は他人の受け売りではなかったか。/そうした自戒を込めつつ、…」と社説子自身が畏まっているのだから、説得力ないこと夥しい。
 もっとも、「長いこと大人をやっているが、自分で考え抜くことがどれほどあったか。自分の意見と思っていることが、実は他人の受け売りではなかったか」というのは朝日新聞の記者としての本音と実態かもしれず、そうだとすると<貴重な告白>ではある。
 前回に言及の座談会で朝日・若宮啓文(論説主幹)は「議論を通して社説を作っていく。議論が割れるとか判断が難しいときは、最終的に論説主幹の責任で断を下す…」と言っている。上のような程度の社説でよく議論がまとまり、あるいは若宮主幹の「断」が下ったものだ、とじつに感じ入る次第だ。
 ほとんど無内容の朝日に比べて、産経の社説(主張)は読ませる。格調も高く、衝いているポイントが鋭い。
 まず朝日が触れてもいない統計数字(新成人135万人等)への言及がある(読売にもある)。
 その数字が戦後最低で、「少子化」時代を実感する旨の指摘もある。この程度のことすら、朝日は触れていないのだ(読売は、新成人をめぐる歴史的・社会的環境については産経よりも詳しい)。
 産経社説の(読売とも違う)特徴はそのあとにある。次のように言う。
 かつては「大人になるためには自我の確立が欠かせないこと」で、イエ・ムラ・セケンがともすれば「自我を押しつぶす圧力と感じられる」こともあったが、それらとの「葛藤を経験する」ことが「自我を鍛えた側面もあった」。
 「しかし、今や自我を抑圧する外的圧力は総じて力が衰えた個人を尊重するあまり、家族がめいめい起きたいときに起きて、食べたいときに食べるという生活習慣を身に付けた青年も珍しくなくなった。自由すぎて葛藤する機会もないのが実情ではないか」。
 こんな環境では「本当の自我」ではない「子供のような肥大した自我」が形成されてしまう。
 「大人になるということは、自我を他者に映し出す技術に他ならない。そうして客観的に自我を把握するのである」。それは他人の喜びと悲しみを自分のものにできる心を育てるだろう。「子供サイズの自我の殻を破って、…大人サイズの自我を確立してほしい」。
 朝日社説が「成人の日に―「KY」といわれてもいい」とのタイトルだったのに対して、こちらは「大人サイズの自我確立を」。どちらがより優れた社説であるかは一目瞭然だろう。
 1/30の書き込みで佐伯啓思の<家族・村落共同体からの「個人」の解放は進展しすぎているほどで、一方、「自我の確立した主体的個人」が出現してはおらず、「「近代的自我」なるものは衰弱している」>との叙述を紹介した。産経社説のいう<イエ・ムラ・セケン>は「共同体」であり、同社説の指摘するとおり、「共同体」の「外的圧力」が「衰えた」ことにより、あるいは<個人を尊重するあまり>、あるいは<自由すぎて葛藤する機会もない>ためにこそ、以下は佐伯著から引用すれば、「自我の確立した主体的個人」は出現せず、「「近代的自我」なるものは衰弱している」のであり、このことは新成人にも当然のごとくあてはまっているのではないだろうか。
 「団塊」世代は大人数がひしめき合っていたために、また、家族や地域(・学校)がそれなりにまだ機能していたために、今の若者とは異なる<自我>形成環境にあっただろう。こうした世代間比較を考えさせる点に論及している産経社説は、なかなか鋭い観点をもっていると感じた。
 むろんより専門的な研究・検討は必要なのだろう。「戦後民主主義」教育のみを受けた者を両親とする、そして右肩上がりの経済成長を経験したことがない若者が大人になり、社会人となっていく。異なる<時代感覚>と<自我>をもつ者たちによって今後の日本は担われていく…。こんなことを感じさせる産経社説だった。一方、朝日社説からは、時代も歴史も何も感じ取ることはできない。10年前、20年前でも通じるようなことを書いていたのが、朝日新聞1/14の社説だった。
 読売新聞についての仔細は省略する。/2回続けて、朝日新聞批判となった。

0380/佐伯啓思・現代日本のイデオロギーにおける「個人」と「共同体」の一端

 「個人の尊重」はけっこうなことで「個人主義」もそれ自体は問題はないかにも見える。自立した個人と自分自身を理解しているかもしれない憲法学者の中には、<欧米と比べてまだ劣る>、自立した個人たる意識・主体性のない日本国民を(高踏的に)叱咤激励したい気分の者もいるかもしれない。このことは、前回も書き、もっと前にも触れた。
 またかかる<個人>の位置づけは、当然に<国家>という「共同体」と対峙する(場合によっては<対決する>)<国家から自由>な<個人>というものを想定し、前提にしているだろう。
 かかる<個人>のイメージははたして適切なのだろうか。
 佐伯啓思・現代日本のイデオロギー(講談社、1998)には引用・紹介したい部分が多すぎるのだが、ずばり「個人」と「共同体」は対立しない」との見出しから始まる部分(p.95-)を以下に要約して、紹介してみる。
 「個人」・「個的なもの」は農村、家族、国家といった「共同体」と対立するもので相容れない、という理解は近代諸科学から「社会主義運動までを貫くモチーフ」だった。その背景の一つにはマックス・ウェーバーの「薄められたマルクス主義」としての<近代化論>があった。「共同体からの個人の解放が自我の確立である、というような思考様式」が教条化し、「呪術的」な権威をもった(p.95-96)。
 だが、かかる思考様式は「もはやほとんど有効性を失っている」。次の「二重の意味」においてだ。
 第一に、家族・村落共同体からの「個人」の解放は進展しすぎているほどで、一方、「自我の確立した主体的個人」が出現してはおらず、「「近代的自我」なるものは衰弱している」。そもそも、一切の「共同体」から解放された「個」というのは「あまりに強引なフィクション」だ(p.96-97)。
 「共同体」の解体によって「個」は「一切の価値体系や規範のルールから切り離される」。そのことに「近代」人は「自由の意味」を見い出し、「近代化」とは「個人の自由の拡大」だと考えた(p.97)。
 しかし、「価値や規範・ルールから切り離された個人」なるものは「不便でかついびつなもの」に帰結する。大勢の「個人」の自由の衝突・確執を調整する、「共有されうる価値の再確認」が必要で、これは「共同体」の再確認を意味する。「個人の自由」とは「その自由の範囲や様式を定める共有された価値、規範」を前提とするのだ。この「価値、規範」を誰かが強引に決めないとすれば、それは「歴史的に生成する」ほかはなく、まさに「共同体」の形成だ(p.97)。
 「家父長的、封建的社会」ならば個人と共同体は対立しうるが、現代日本では、「共同体」と「個人的自由」を対立させることは「さして意味をもたない」(p.97-98)。
 現代日本での「個人の自立」という「不安定な持ち場」からの「共同体」批判は、「個人」自体をいっそう「不安定」にし、それを「空中分解」させるだろう。「個人性」は「共同性」を「離れてはありえない」のだ(p.98)。
 第二に、現代社会では「共同性」は解体されておらず、逆に個人は無意識に「共同性の罠の中に捕らわれて」いきつつある。「個の確立」の主題化、意見・思想の方向性の形成自体が「ある種の共同性」を前提とし、それを作出している。「個の確立」という記号による主題化が「メディア的媒体を通す限り、ある種の共同体がいやおうなく、…作動する」(p.98)。
 現代社会とは「メディアによる共同化作用が絶え間なく生じている社会」だ。共同体の解体・個人の主体化という議論自体が「メディアを媒介に主題化」されると、「この議論をめぐる共同化された言説空間」ができてしまう。
 なぜなら、一つに、議論自体の成立が、日本語という表現手段による、「日本社会の歴史的、文化的文脈」の共有を必要とする。ここでは、議論できるグループ・階層という「共同体」が実際には想定されているのだ。
 さらに、かかる主題化自体が「共同化」作用をもつ。「何の相互につながりもない人が共通の主題のもとで一定の思考の規範を共有する」に至るから。人々はかくして、「私」の、ではなく、「われわれ」の「共同体からの解放」を問題にしだすのだ(以上、p.99)。
 メディアが議論をマーケットの極限まで拡散すれば、「われわれ」とは「国民」に他ならなくなる。ここで、「国民」という「共同体」の「不可避性」という新たな問題に到達する。
 以上のように、「個人の確立」が「戦後日本社会の課題」だとの「表現そのもの」が、「日本という共同体の文脈を前提に提起されている」のだ(以上、p.100)。
 このあと、佐伯の論述は「メディア的環境とそれが拡散する市場世界が生み出す新たな共同体」(p.101)から、さらに「国家」という「共同体」へと進み(p.111~)、「国家」と「個人」の単純な対立視を批判し(p.111の「国家とは…、『わたし』と『他者』がおりなす応答の慣習化された体系」だとの定義からすれば、「個人」は国家の一部または国家を前提にしてこそ存在しうるものだ)、「国家への深いシニシズムや「反国家主義」が横行」(p.122)していることの分析・批判等がなされているが、紹介はこの程度にとどめる。
 樋口陽一井上ひさしの「個人」観又はそれに関する議論と十分に噛み合ってはいないだろう。だが、佐伯啓思の議論を読んでいると、樋口陽一や井上ひさし、そして多くの憲法学者が想定しているようにも思われる、「個人」・「社会」・「国家」観が―専門分野の違いに帰することはできないと見られるほど―いかに単純・素朴(そして幼稚)であるかが分かるように感じる。
 多くの憲法学者は文献を通じて<頭の中>でだけ、単純なイメージを<妄想>しているのではないか。自分自身を含む<現実>・<実態>をふまえて、かつより緻密な理論を展開してもらいものだ。
 なお、立ち入らないが、佐伯啓思の議論の中に<マスメディア>が「共同体」にとっての重要な要素として登場してきているのは興味深い。<マスメディア>論にも関心を持ち続ける。
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