前々回、前回のつづき。江藤淳編・憲法制定経過〔占領史録第三巻〕(講談社)の江藤淳「解説」による。
・宮沢俊義はおそらく1946.04に執筆し、雑誌「世界文化」5月号に「八月革命と国民主権」を発表した。その一部を抜粋引用する〔江藤解説にはもっと長く引用されている〕。
<ポツダム宣言には「日本の最終的な政治体制は自由に表明された人民の意思にもとづいて決せられる」とある〔この宮沢の引用は直接・そのままの引用ではない-後記〕。これは「人民が主権者だという意味」だ。これをもって日本は「日本の政治の根本建前とすることを約した」のだ。この「国民主権主義」は「それまでの日本の政治の根本建前である神権主義」とは「本質的性格」を全く異にする。「敗戦によって…神権主義を棄てて国民主権主義を採ることに改めた」のだ。
かかる改革は日本政府や天皇が「合法的に」は為し得ない。「従って、この変革は、憲法上からいえば、ひとつの革命だといわなくてはならぬ」。むろん「まづまづ平穏に行われた変革」だが、「憲法の予想する範囲内においてその定める改正手続によって為されることのできぬ改革であるという意味で、…憲法的には、革命をもって目すべき」と思う。
「日本の政治は神から解放された」。「神が―というよりはむしろ神々が―日本の政治から追放せられた」。「神の政治から人の政治へ、民治へと変った」。/「この革命―八月革命―はかような意味で、憲法学の視点から」は、有史以来の「革命」だ。「日本の政治の根本義がコペルニクス的ともいうべき転回を行ったのである」。>(p.402-3)
・江藤淳はこの論文を以下のように分析・論評する(すべてには言及しない-秋月)。
①「それまでの日本の政治の根本建前」につき、宮沢自身が前年秋には採っていた美濃部直伝の「合理主義的」国家観を「惜しげもなく放擲し」、一転して明治憲法の解釈に穂積八束・上杉慎吉流の「正統」説を採用して、明治憲法を「神権主義」にもとづくものと断定している。
②憲法改正の根拠とされたポ宣言第十項「…日本国政府は日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障碍を除去すべし…」ではなく、第十二項「前記諸目的が達成せられ且日本国国民の自由に表明せる意思に従ひ平和的傾向を有し且責任ある政府が樹立せらるるに於ては聯合国の占領軍は直に日本国より撤収せらるべし」の一部〔下線〕を援用して、「八月革命」 発生を主張している。ポ宣言を「受諾した瞬間に、いわば自動的に」「八月革命」という「コペルニクス的」転回があったと力説する。
③この新説は「無条件降伏」説で、ポ宣言は日本と連合国側の双方を拘束するとの宮沢俊義の前年秋の立場を「百八十度翻している」。(以上、p.404-5)
<なおも続ける。>
八月革命説
明治憲法(大日本帝国憲法)の憲法改正条項は同憲法73条で、つぎのとおりだった(カタカナをひらがなに直した)。
「第73条 1項 将来此の憲法の条項を改正するの必要あるときは勅命を以て議案を帝国議会の議に付すべし
「第73条 1項 将来此の憲法の条項を改正するの必要あるときは勅命を以て議案を帝国議会の議に付すべし
2項 此の場合に於て両議院は各々其の総員三分の二以上出席するに非されは議事を開くことを得す出席議員三分の二以上の多数を得るに非されは改正の議決を為すことを得す」
現憲法96条が各議院の<3分の2以上>の賛成を「発議」要件としているのも、この旧憲法を踏襲したかに見える。
それはともかく、この条項にもとづく明治憲法の改正という形で日本国憲法が成立したことは周知のとおりだ。
日本国憲法の施行文はこう言う。-「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。」
このあとに、御名御璽、計15人の内閣総理大臣・国務大臣の連署、前文、第一章第一条…と続く。
憲法学の専門家には当たり前のことを書いているだろうが、天皇が定めた「天皇主権」の欽定憲法である明治憲法の「改正」の形で「国民主権」の日本国憲法を制定できるのか、という、<憲法改正権の限界>という問題があった。
形式的・手続的には明治憲法の改正であっても<憲法改正権の限界>を超えるもので、新憲法の制定に他ならず、ポツダム宣言の受諾によって「国民主権」への革命があったのだとするのが<八月革命説>で、宮沢俊義・東京大学法学部教授が1946年になってから唱えたこの説がどうやら主流の説らしい。
だが、GHQができるだけ日本人の意思によって憲法が制定(改正)されたかの印象を作りたかったからかどうか、少なくとも表面的には、天皇の発議により両議院(衆議院と貴族院)が審議し、議決し、天皇が裁可し、公布せしめたのが日本国憲法だ。
枢密顧問への諮詢を経て帝国議会に憲法「改正」案(じつはGHQ作成の原案に若干の修正を加えたもの)を附議した際の天皇の言葉は、「朕…国民の自由に表明した意思による憲法の全面改正を意図し…」だった。
上の段落は、阪本昌成が憲法の制定過程やその「有効性」をどう叙述しているかに関心を持って見た、阪本昌成・憲法Ⅰ(国制クラシック)p.108(有信堂、2000)による。
阪本は自説を展開することはなく、「学界では、主権在民をうたう新憲法(民定憲法)護持の立場が圧倒的で、改正無限界説からの分析は精緻になされることはなかった」とのみ記述している。改正無限界説に多少の<未練>はあるかの如き印象をうける。
実際になされた天皇の発言、天皇に始まる手続、天皇による裁可と公布を見ると、<八月革命説>は相当にフィクションであり、<改正無限界説>に立って、明治憲法の「改正」により現憲法が生まれた(天皇自身も無限界説的な理解をしていた)、と説明する方が私にはわかりやすい。
天皇主権と国民主権、欽定憲法と民定憲法とはそれぞれ正反対のようでもあるが、欽定憲法と言っても明治天皇が大日本憲法の具体的条文を策定されたわけでは全くないし、天皇主権といっても天皇の実際上の権限・地位が相当に限定された、殆ど「象徴」的なものだったことはよく知られている筈で、少なくとも天皇の地位については現憲法との<連続性>の方がむしろ強調されてもよい、と思われる。「革命」が起こった、と理解したのは一時期の(一部の者の)<熱狂>と<昂奮>の結果で、説明の仕方としては合理的ではないのではないか。
天皇が自ら(および子孫の誰か)を「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とすることに異存がなかったとすれば、<改正の限界>を超えていた、と理解する必要はなかったのではなかろうか。
ここでこんなことを書いても無意味かもしれない。但し、現憲法の制定に昭和天皇の「意思」が深く関係していると思われることは確認しておきたい(占領下だったのであり、100%の「自由」な意思に基づくものだったとは一言も言っていない。念のため)。
当初の関心の対象だった現憲法の「有効」性については、阪本昌成はいっさいこれを疑っていないようだ。憲法学の中の少数派と見られる阪本の教科書において、<日本国憲法無効論>は本文中のカッコの中で「無効だ、と主張する少数説もないではない」と言及されているにとどまる。これでもひょっとして<親切>な方かもしれない。
現憲法96条が各議院の<3分の2以上>の賛成を「発議」要件としているのも、この旧憲法を踏襲したかに見える。
それはともかく、この条項にもとづく明治憲法の改正という形で日本国憲法が成立したことは周知のとおりだ。
日本国憲法の施行文はこう言う。-「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。」
このあとに、御名御璽、計15人の内閣総理大臣・国務大臣の連署、前文、第一章第一条…と続く。
憲法学の専門家には当たり前のことを書いているだろうが、天皇が定めた「天皇主権」の欽定憲法である明治憲法の「改正」の形で「国民主権」の日本国憲法を制定できるのか、という、<憲法改正権の限界>という問題があった。
形式的・手続的には明治憲法の改正であっても<憲法改正権の限界>を超えるもので、新憲法の制定に他ならず、ポツダム宣言の受諾によって「国民主権」への革命があったのだとするのが<八月革命説>で、宮沢俊義・東京大学法学部教授が1946年になってから唱えたこの説がどうやら主流の説らしい。
だが、GHQができるだけ日本人の意思によって憲法が制定(改正)されたかの印象を作りたかったからかどうか、少なくとも表面的には、天皇の発議により両議院(衆議院と貴族院)が審議し、議決し、天皇が裁可し、公布せしめたのが日本国憲法だ。
枢密顧問への諮詢を経て帝国議会に憲法「改正」案(じつはGHQ作成の原案に若干の修正を加えたもの)を附議した際の天皇の言葉は、「朕…国民の自由に表明した意思による憲法の全面改正を意図し…」だった。
上の段落は、阪本昌成が憲法の制定過程やその「有効性」をどう叙述しているかに関心を持って見た、阪本昌成・憲法Ⅰ(国制クラシック)p.108(有信堂、2000)による。
阪本は自説を展開することはなく、「学界では、主権在民をうたう新憲法(民定憲法)護持の立場が圧倒的で、改正無限界説からの分析は精緻になされることはなかった」とのみ記述している。改正無限界説に多少の<未練>はあるかの如き印象をうける。
実際になされた天皇の発言、天皇に始まる手続、天皇による裁可と公布を見ると、<八月革命説>は相当にフィクションであり、<改正無限界説>に立って、明治憲法の「改正」により現憲法が生まれた(天皇自身も無限界説的な理解をしていた)、と説明する方が私にはわかりやすい。
天皇主権と国民主権、欽定憲法と民定憲法とはそれぞれ正反対のようでもあるが、欽定憲法と言っても明治天皇が大日本憲法の具体的条文を策定されたわけでは全くないし、天皇主権といっても天皇の実際上の権限・地位が相当に限定された、殆ど「象徴」的なものだったことはよく知られている筈で、少なくとも天皇の地位については現憲法との<連続性>の方がむしろ強調されてもよい、と思われる。「革命」が起こった、と理解したのは一時期の(一部の者の)<熱狂>と<昂奮>の結果で、説明の仕方としては合理的ではないのではないか。
天皇が自ら(および子孫の誰か)を「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とすることに異存がなかったとすれば、<改正の限界>を超えていた、と理解する必要はなかったのではなかろうか。
ここでこんなことを書いても無意味かもしれない。但し、現憲法の制定に昭和天皇の「意思」が深く関係していると思われることは確認しておきたい(占領下だったのであり、100%の「自由」な意思に基づくものだったとは一言も言っていない。念のため)。
当初の関心の対象だった現憲法の「有効」性については、阪本昌成はいっさいこれを疑っていないようだ。憲法学の中の少数派と見られる阪本の教科書において、<日本国憲法無効論>は本文中のカッコの中で「無効だ、と主張する少数説もないではない」と言及されているにとどまる。これでもひょっとして<親切>な方かもしれない。
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