(The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012)
第8章の試訳のつづき。
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第6節。
(1)ヒトラーは疑いなく、ドイツの支配階層、右翼の政界によって権力を与えられた。だが、彼がそこにいたという理由だけで、権力を掌握した。
彼は右派にいる目的をもって、大衆の大部分を納得させなければならなかった。
言い換えると、ドイツの支配階層によって操り人形のごとく権力を与えられたのではなかった。
現実には、彼は長い間、権力の門を叩いてきていた。
仲間の党員たちがおり、財源等々を持っていた。
そして、全ての対抗者たちを消滅させるこの機会を得た。
ドイツでの公然たる異論が封じられたのは、ほとんどは1934年と1935年に起きたことだった。
私はこれを、ナツィ革命または全体主義の始まりと呼んでいる。
権力掌握以前からヒトラーには大衆に対する魅力があり、政治的エリートたちとは関係がなかった。
しかしながら、ドイツ議会の右派の無知のおかげの権力掌握後に、ヒトラーの革命は起きた。その右派を、彼は左翼に対して行ったように壊滅させることになる。
革命が行なったのは社会全体を服従と沈黙へと縮減することであり、ナツィ体制への忠誠を声明するのを義務づけることで、社会は破壊された。
ヒトラー・ドイツをスターリン・ロシアに最も似たものにしたのは、この特徴だ。すなわち、イデオロギー的な一党国家。完全であるために、私的生活すら、家族内であってすら、被支配者は制約のもとに置かれるという専制体制。//
(2)このような体制の最も重要な特質は、社会生活の全体的な統制、完全に自律性がなくなるまでの市民社会の縮小だ。
だから私は、イタリアは特殊な例だと思う。ファシスト・イタリアは、ナツィ・ドイツが経験したような政治的隷属の程度には全く達しなかったのだから。
ロシアとドイツには、一つの大衆政党、イデオロギーの絶対的優位性があった、とされる。
ファシストと共産主義者では国家の長の役割にわずかな違いがある、とも言われる。共産主義体制の場合よりもファシスト体制の場合に、長の役割はより重要だ。一方、共産主義体制での国家の長の機能的側面は、ナツィ体制に比べて、より強調されてはいる。
そうして、日常生活に関するかぎりでは、二つの体制はお互いによく似ていた。また、両体制はともに、専制政(despotism)の伝統的形態と比べて、全く新しいものだった。
厳密に用いるかぎりで「全体主義」という言葉が好ましく響くのは、これら両体制は新しいからだ。
それらに相応しい言葉は、以前には存在しなかった。
事物が存在して名前が必要となったがゆえに「個人主義」という言葉が1820年と1830年の間にフランスで出現したのと全く同様に、「全体主義」という言葉が、事物が存在するがゆえに作り出されなければならなかった。そしてこの言葉は、ナツィズムとスターリニズムを正確に特徴づけるものとして考案された。
この言葉なくして我々は何をできるのか、私には分からない。
この観念を受け入れようとしない者たちは、まともではない党派的な理由でそうしている、と私は思う。
そのような者たちが代わりにどんな用語を使うのか、私は知らない。//
(3)「暴政(tyranny)」は、古典的古さをもつ典型的な用語だ。
この用語は、全体主義の現象がもつ民主主義的側面を考慮に入れていない。
民主主義的側面とは、イデオロギーの観点を生むということだ。というのは、大衆の間に連帯意識を生み出すために、共通する考えの一体が必要とされ、党または国家の長により宣伝された。そしてこれは、新しい種類の君主政、全体主義的王政、の特徴だった。
全体主義とは民主主義の産物であり、大衆が歴史に参加することだ。これは、H・アレントに見られるが、他の重要でない思想家にはほとんどない理論だ。
西側の政治学は、トクヴィルの民主主義思想を理解していないように思える。—個人の平等は自由への途を開けるだけではなく、専制体制への途も開く。
そして、政治的自由を「民主主義」という言葉と結びつける傾向がいつもある。//
(4)トクヴィルに関して素晴らしいのは、ともに出逢う人々が自分たちを対等だと考えるときに人間性へと向かう新しい時代が始まった、という彼の確信だ。
条件の平等は、人々が平等であることを意味しない。そうではなく、仲間である人間に遭遇するときに近代の人間は自分自身がその人と平等だと思う、ということを人類学的に明らかにしている。
そしてトクヴィルは、これは人間性の歴史における革命だ、と理解した。//
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第8章、全体主義論、終わり。