秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

光格天皇

2103/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11②。

  藤田覚・江戸時代の天皇/天皇の歴史06(講談社,2011)、p.280-1によると、少なくとも江戸時代、生前に譲位して(つまり前天皇であって)生存中の天皇は「太上天皇」と号され、死亡すると「~院」と称された。おそらく、死亡による譲位・退位の場合も、崩御した天皇はほとんどすみやかに「~院」と称されたのだろう
 したがって、<日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08>(№2098・2019/12/11)が、光格天皇は父の閑院宮典仁について<「太上天皇」の尊号付与>を願い出たと記述したのは誤ってはいないと思われる。しかし、その直後に、<「天皇」ではなく、「太上天皇」=「院」号付与に関する2例を先例として挙げた>と記述しているのは、典仁親王はまだ存命だったので誤りになる。
 この誤解は、太上天皇=上皇=「~院」という等式や、上皇による「院政」という言葉に影響を受けていたのだろう。
 現在での歴史記述や一般的論議では「天皇」や太上天皇の簡略形としての上皇、そしてときには後者の意味での「~院」という語を使って、多くの場合は問題がないのだろう。
 しかし、当時の言葉遣いは、以下のとおりで、この時期に「天皇」号の使用も改められた(再興された)、とされる。上掲書、p.281等。
 在位中の天皇が「~天皇」と呼ばれることはないし、「天皇」とすら称されない。
 光格天皇在位の時代を基準にすると、村上天皇についてその死後の967年に「村上天皇」と追号されたのは、天皇が死後に「~天皇」と追号された最後だった。そして、円融天皇の死(991年)以降はずっと、「~院」、つまり例えば「円融院」と追号されてきた。この場合の「院」は、上皇・太上天皇の就位とは関係がない。
 これを変えたのは光格天皇(119代)で、光格天皇は死後に「光格天皇」という諡号を付与され(翌年の1842年)、天皇が死後に「~天皇」と追号されたのは、じつに874年ぶりだった(!)、とされる。「天皇」号の<再興>もまた光格天皇についてであり、次代の仁孝(120代)の時代になる。
 なお、追号ではなく厳密な意味での諡号は、887年に崩御した「光孝天皇」以来、何と954年ぶりだった(!)とされる。上掲書、p.281。
  知識がかつてなかった上のことを前提として、<尊号一件>にかかわる「太上天皇」や「院」号の問題に触れる。
 光格天皇(119代)は即位後に、実父・閑院宮典仁について、「太上天皇」尊号の付与を幕府に願い出た。幕府側は最終的にも拒否したのだったが、光格が先例として挙げたのは、つぎの2件だった、とされる。その時点では死亡しているので、天皇在位者ではなかったにもかかわらず生前は「太上天皇」尊号がおくられ、死後は「院」号が付与された例となる。
 1/守貞親王=後高倉院。1221年即位の後堀河天皇(86代)の父。高倉(80代)の子、後鳥羽(92代)の実兄。承久の乱を契機とする後鳥羽の系統ではない後堀河の即位にもとづき、「太上天皇」の尊号を送られて実質的に朝政に関与し、死後は「後高倉院」とされた。
 2/伏見宮貞成親王=後崇光院。1428年践祚の後花園天皇(102代)の父。北朝3代・崇光天皇の孫、伏見宮家初代の栄仁親王の子。存命中は「太上天皇」の尊号がおくられ、死後は「後崇光院」と称された。
 なお、この伏見宮貞成親王(後崇光院)の父・栄仁親王が伏見宮家第1代で、戦後に「皇籍」を離れた男子とその後裔男子たちは、男系でのみたどると、この伏見宮栄仁親王(1351-~1416。室町・南北朝時代)に行き着く。
 これら2例では、後高倉院、後崇光院はともに「天皇」ではなかったが上の2天皇との関係では「院政」を敷いた、あるいは実質的に政治(主として朝政)に関与した、とされる。但し、代数をもつ歴代天皇には加えられない。
 以上の2例につき、藤田覚・幕末の天皇(講談社学術文庫、2013/原著1994)、p.112も参照。
 ところで、上掲書二つには言及がないが、つぎの例も加えてよいのではないかとも思われる。
 3/誠仁親王=陽光院。1586年に即位した後陽成天皇(107代)の父。正親町天皇(106代)の子。
 しかし、誠仁親王=陽光院は正親町が30余年在位したためか天皇に就位せず、誠仁親王の死後にその子の後陽成が天皇となった。したがって、「太上天皇」と尊号されたことはなく、この点で、「院」号を受けたにもかかわらず、上の後高倉院・後崇光院の例とは異なるようだ。
  朝廷・幕府関係一般の問題に発展しそうであるため、<尊号一件>問題の経緯の詳細は省く。しかし、ともあれ、朝廷側が幕府に要請すること自体、あるいは尊号付与をいったんは天皇・朝廷の独断で決定したこと自体が、それまでと比べて異様だつたと、とされる。この光格の幕府に対する姿勢をふまえて、のちの孝明天皇も存在する。あるいは、幕府側が天皇・朝廷の意見を「聴取」したり「勅許」を求めたりする実例の発端が(後水尾と比べても強い)光格の姿勢・見解にあった、とも言われる。しかし、光格や孝明が江戸幕府の打倒や「徳川」家の廃絶を考えていたわけでは、むろんない。
 幕府側(11代将軍・德川家斉、老中・松平定信)は承久の乱・応仁の乱いう混乱期の「悪しき事例」だったとして、拒否した(上の2は応仁の乱と厳密には関係がないともされる)。また、子が天皇になっても生前に「太上天皇」と尊号されなかった天皇の父親の方がむしろ多いともされる。
 しかし、光格天皇がこだわったのは、御所でまたは朝議の際に典仁は「天皇の実父とはいえ親王であるため、関白はおろか三公(太政大臣・左大臣・右大臣)より下に座らなければなら」ないこと-これは幕府側の諸<法度>を根拠とするとされる-を嘆いたためだという(藤田覚・江戸時代の天皇(2011)、p.259)。親への「孝行」が強い理由の一つだ。
 なるほどと思わせる理由だが、幕府側にはそんな心情を慮る気持ちがなかったようでもある。
 この事件の決着後に、朝廷側の「議奏」だった中山愛親は、上官の「武家伝奏」だった正親町公明とともに幕府側から「閉門・逼塞」を命じられ、朝廷側にそれぞれの役職を解任することが要求された(藤田・上掲書p.261-2)。
 この中山愛親とは、前回に記述のとおり、明治天皇の実母・中山慶子の父親の中山忠能(1809-88)の、実の曾祖父だ(~1814)。「墓」は廬山寺内にある。
 とりあえず推測として書いておくが、中山愛親等々の、この事件で幕府に<苦渋を舐めさせられた>一部の公家たち・朝廷官僚たちの後裔たちの間に、幕府に対する何らかの<心のしこり>ができた、そのような意識・精神の伝達が各家で行われた、後の時期での幕府や「徳川家」に対する厳しい姿勢にもつながった、と想像することは全く不可能ではないだろう。
 さて、江戸幕府の介在なく、典仁親王に「慶光〔きょうこう〕天皇」と追諡され、かつさかのぼって太上天皇とも尊号されたのは、時代が変わった、明治17年(1884年)のことだった。1794年の典仁没後、90年後のことになる。「皇威」を高める光格天皇の努力に、その子孫の明治天皇が遅れて応えたことになる。但し、慶光天皇は歴代の天皇の1代には数えられない。しかし、「天皇」であるがゆえの「陵」は、その後に整備された。
  今回に記したようなことも、<いわゆる保守系>月刊雑誌である月刊正論(産経)・月刊WiLL(ワック)、月刊Hanada(飛鳥新社)の三誌をいくら毎号読んでも出てこず、「知識」にならないだろう。

2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。

 <日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史07①>(№2082・2019/11/22)で、光格天皇と京都・廬山寺の間の関係に触れ、<同07②>(№2096・12/08)で、「慶光天皇廬山寺陵」に言及して写真も紹介した。
 廬山寺の実質的には境内に「慶光天皇陵」があることを述べている一般的文献を、のちに見つけた。
 藤田覚・幕末の天皇(講談社学術文庫、2013/原著1994)。p.108-9に、こうある。
 「…京都御苑の清和院御門を出て、三条実方、実美親子を祀る梨木神社を過ぎると右手に廬山寺(<略>)がある。紫式部の邸宅址とされる庭園があり、現在の本堂…。その門に『慶光天皇御陵』と書いた看板が立てられている。
 本堂の右手の道を進むと墓域となるが、その奥に『慶光天皇御陵』がある。
 陵内へは柵で周囲を囲まれているので入れないが、正面奥、前面の両側に石灯籠があり、石の柵に囲まれた、台座の上に二重の塔(多宝塔)のような墓石がある。これが慶光天皇の墓である。」
 以上について、<同07②>(12/08)で紹介した写真のうちの一つをそのまま下の一段めの左に再掲する。
 上掲著は、さらにこう書く。p.109。
 「ちなみに、泉涌寺(<略>)の月輪陵にある江戸時代の歴代天皇の墓石は、慶光天皇の石塔と同じような造りであるが、二重の石塔ではなく九重の塔の形をしているという。」
 「さらにそのすぐ奥、やや左手に小さな円墳が見える。…大正天皇や昭和天皇と同じ円墳である。」
 これらの叙述またはコメントはなかなか興味深く、考えさせられもする。
 著者・藤田覚が実見したのは原著1994年の刊行前だったのだろうから、2019年はそれから25年以上も経っている。私は、本堂の建物近くの「門」の掲示には気づかなかった。また、中央奥の墓基が慶光天皇の陵墓だろうとは推測したが、注意を惹いたのは、台座の上の「二重の塔(多宝塔)のような墓石」のさらに上の九重の円形石部分だった。
 また、上のBはおそらく実見はしないままで月輪陵の墓石は「二重の石塔ではなく九重の塔の形をしているという」と書くが、前者では墓基の上に九重の円形石があるのに対して、ネット上にあった(この欄ですでに紹介した)写真からすると、後者では墓基の脇に正方形の石の九重の石塔が立っているように見える。
 これらは、墓碑・墓基の直前までは一般人は立ち入れないことからする不明瞭さかもしれない(廬山寺でも鉄柵の手前から撮影している。なお、孝明天皇陵の円墳の前に一般人は行けない)。仏教様式における石塔等の位置づけや意味に関する知識が当方に欠けているからでもあるが。
 さらに、上掲書のCには「円墳」の所在に言及がある。気がついていなかったが、確かに、撮った写真には「円墳」らしきものがある。下の一段めの右に拡大して紹介する。但し、上の著者もこれと慶光天皇の墓との関係には少なくとも明示的には言及していない。また、円墳が一つだけしかないようであるのも不思議なような気がする。
 なお、<同07②>(12/08)で廬山寺のすぐ北に隣接する清浄華院にあった(墓石ではない)九重石塔の写真を紹介しているが、「慶光天皇廬山寺陵」の区画内にもこれとほぼ同じの石塔が写真に写っていた。こちらは明らかに慶光天皇以外の皇族についての墓石だ。
 下の二段目に、前者を少し修正したものと後者の写真を紹介する。
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 ところで、藤田・上掲書は、つぎのようにさらに書いている。p.109。
 「慶光天皇御陵」の右手の「白壁の塀で区切られ」た「墓域」には、「江戸時代の公家が多数葬られている」。
 「その中にある中山家の墓所の一角に、ひときわ大きな石塔がある。
 …、正面に『正二位藤原朝臣愛親』、横に文化十一年〔1814年-秋月〕八月一八日と刻まれている」。
 この区画は、この覧で「一般の墓地」の区画と記した部分だと見られるが、私は長方形の区画の奥の方までは入り込まなかった。
 上の「愛親」=「中山愛親」は、光格天皇の実父への「尊号」付与にかかわる<尊号一件>のときの、朝廷側の「議奏」だった
 しかも興味深いことに、藤田の実見にもとづく叙述のとおりだとすると、つぎのことが分かる。
 すなわち、明治天皇の父方の祖父(仁孝天皇)の、そのまた祖父の典仁親王(のちに「慶光天皇」と追号)と、明治天皇の母方の祖父(中山忠能)の、そのまた曾祖父の中山愛親とは、いずれも実質的に特定の廬山寺という仏教寺院に葬られている、ということだ。
 典仁親王-光格天皇-仁孝-孝明-明治天皇。
 中山愛親-忠尹-忠頼-忠能-中山慶子-明治天皇。
 明治天皇は現在の皇統につながる。もっとも、現在の廬山寺(ろざんじ)は、紫式部・源氏物語に関する由緒を優先して強調しているようではある。
 <尊号一件>に関係する「太上天皇」追号の先例等には、さらに別に触れることとする。
 少なくとも江戸時代には「太上天皇」=「院」ではなかったこと、その点で誤解があった。その機会に記すが、この点は、藤田覚・江戸時代の天皇/天皇の歴史06(講談社、2011)、p.281、を参照。

2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。

  今上天皇は<神武天皇を初代として126代>と皇統譜上はなっているようだが、この<126代>にはいかほどの意味と信憑性があるのだろうか。
 神武天皇やのちの天皇の実在性を疑えば、126代も簡単に虚構になってしまう。しかし、神武やその後の8代を実在とし、かつ王朝交替も否定して<一系>性を肯定したとしても、126代ということの<根拠>はけっこういいかげんだと思われる。
 ふと思うのだが、例えば光格天皇は、あるいは後醍醐天皇は、あるいは天武天皇、持統天皇は、即位する際に自分は神武以降の何代めの天皇にあたるということを明確に意識していたのだろうか。日本書記の記述をほぼ絶対のものとして、自らの代数を数えていたのだろうか? 種々の歴史関係書を見ていると、即位当時の文献に<~代めとして即位する>と宣明したとある、といった記述は全くかほとんどないようだ。
 「天皇」という漢風称号自体も天智または天武あたりの時代から使われ出したらしいのだが、この「天皇」という言葉の発生・成立については詮索せず、大和朝廷の長または「大王」位も含める。
  光格天皇の実父の閑院宮典仁のように、実際には天皇に在位したことがないにもかかわらず、のちに「天皇」(慶光天皇)と称され、かつ「~天皇陵」(慶光天皇陵)まで存在する皇族は、他にもあるようだ。
 以下、代数は明治期以降の皇統譜のもの。
 1/「岡宮天皇」=草壁皇子。
 草壁皇子は天武(40代)・持統(41代)の子で、文武(42代)・元正(44代)の父。妃は元明(43代)=持統の妹。 
 続日本紀の巻第一の分注に、758年に「勅があって、天皇の号を追贈し、岡宮御宇天皇と称した」とある。
 宇治谷孟・全現代語訳/続日本紀・上(講談社学術文庫、1992)、p.13。
 陵は「岡宮天皇真弓丘陵」と呼ばれ(宮内庁の掲示と石碑がある)、現在の奈良県、橿原市南の高取町内にある(但し、場所の治定の正確さには争いがあるようだ)。
 2/「春日宮天皇」=志貴皇子。
 志貴皇子は天智(38代)の子で、光仁(49代)の実父。草壁・大津・高市・川島・刑部各皇子とともに、いわゆる「吉野の盟約」をした6皇子の一人。持統(41代)・元明(43代)と同父だが、天武・持統の血統ではない。光仁即位後に、「春日宮御宇天皇」と追尊された。
 陵は「春日宮天皇田原西陵」と呼ばれ(宮内庁の掲示と石碑がある)、奈良市矢田原町にある(光仁陵が東にあって、「-田原東陵」とされる)。
 3/「崇道天皇」=早良皇子。
 桓武天皇(50代)と同父母(光仁・高野新笠)の弟。桓武在位中に「崇道天皇」と追号された。
 陵は「崇道天皇八嶋陵」と呼ばれ、奈良市八島町にある。但し、文久・明治期の治定で、正確さには疑問があるという。
 この陵付近にも小さな崇道天皇社がいくつかあるようだが、著名なのは、京都市上高野の<崇道神社>で、この神社の唯一の祭神が、崇道天皇=早良親王。御所の東北にあるのは、比叡山延暦寺とともに、<怨霊封じ>のためともいわれる。
 この神社の頒布による小冊子p.4によると、ほぼ同じ場所に出雲高野神社と伊多太神社があり、崇道天皇を祀ることとなって前者が崇道神社と改称された。現在でも本殿すぐ近くに摂社のごとく伊多太神社が別にある。
 崇道天皇=早良皇子は神泉苑での最初の御霊会(863年)で祀られた第一の人物で、上御霊神社や下御霊神社でも代表的な「御霊」とされている。
 4/「飯豊天皇」=飯豊皇女(・飯豊女王)。
 日本書記によると、履中天皇(17代)の孫で、同じく孫である仁賢天皇(24代)・顕宗天皇(23代)の姉。
 清寧天皇(22代)崩御後の(仁賢・顕宗による譲り合いでの)天皇不在中に「姉の飯豊青皇女が、忍海の角刺宮で、仮に朝政をご覧になった」。崩御後、「葛城の埴口丘陵」に葬られた。
 以上、宇治谷孟・全現代語訳/日本書記・上(講談社学術文庫、1988)、p.324。
 陵は「飯豊天皇埴口丘陵」と呼ばれ(宮内庁の掲示と石碑がある)、奈良県葛城市新庄町北花内にある。
 上の1と2は実の子が天皇に就位したことにより、天皇号が付与されたとみられる。
 はおそらく、いったん皇太子とされたが死亡により天皇になれになかったことが直接の理由ではなく、しばしば指摘されているように、その死亡にかかわる経緯からする<鎮魂>のためだろう。
 は、短期間にせよ、実質的に天皇と同じ役割を果たした(とされている)ことによるのだろう。なお、日本書記や古事記ではなく<扶桑略記>では「24代」と明記されているらしい(皇統譜上は23代・顕宗、24代・仁賢)。とすると、日本で最初の「女帝」=「女性天皇」だったことになる。
 なお同じく<扶桑略記>では神功皇后は「15代」とされているらしい(皇統譜上は14代・仲哀、15代・応神)。しかし、神功皇后は、日本書記での記載ぶりを別とすれば、「天皇」と追号されておらず、「~天皇陵」と称されるものも存在しない(この点で4=飯豊天皇と違う)。陵は奈良市内にあるが、あくまで「神功皇后~陵」だ。
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 さて、光格天皇の父・閑院宮典仁がのちに「慶光天皇」と称されたのは、光格が天皇になったためで、上の1や2と同じまたは同類で、「先例」があったと見られるかもしれない。
 しかし、事情は異なる。
 江戸時代には天皇・皇室に天皇就位や継承を決定する自由または自立性はなく、全て幕府の「許可」が必要だった。いったん天皇になった者の父親についての「天皇」または「太上天皇」号の付与についても同じ。
 光格天皇が幕府に願い出たのは実父・典仁についての「太上天皇」尊号の付与で、幕府側はこれを拒否した(いわゆる「尊号一件」という事件)。
 光格天皇が先例として挙げたのは上の1・2ではなかった。この二つは「天皇」号の例だ。
 そして、光格が挙げた先例は「天皇」ではなく、「太上天皇」=「院」号に関する2例だった、とされる(別に書く)。
 藤田覚・江戸時代の天皇/天皇の歴史06(講談社、2011)参照。p.259。
 では誰によっていつ閑院宮典仁に「慶光天皇」号が付与されたかというと、明治維新後に明治天皇(・明治新政府)によってだった。旧幕府と違って、光格天皇による「皇室の権威」を高める努力に応えた、ということかもしれない。
 しかし、「慶光天皇」が歴代の、皇統譜上の天皇の一人とされたわけではない。
 もともと明治期以降の皇統譜では、日本書記等が明らかに無視して天皇在位を否定している大友皇子に「弘文天皇」という諡号を与えて代数をもつ天皇に数えているのだから、明治新政権は、日本書記等をその点では少なくとも全く信用していないことになる。水戸光圀編纂・大日本史等々による歴史「解釈」の影響があったのかもしれないが、現在で「126代」というのも、その意味するところは相当に曖昧であることになるだろう。
 天皇であるための「要件」は何か。あるいは、日本史全体を通して、何だったのか?
 三種の神器の継承のなかった天皇もいた。即位礼や大嘗祭の挙行をしなかった(できなかった)天皇もいた。かりに神武等々を含めて古代の天皇は全て実在だったとしても、「天皇」たることの本質や要件はやはり曖昧なのではないか。
 126代の全天皇が三種の神器の継承をしたわけでも、即位礼や大嘗祭を挙行したわけでもない。といったことも、廬山寺・「慶光天皇」に関連して考える。
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 以下、各段が、岡宮天皇・草壁皇子陵、春日宮天皇・志貴皇子陵、飯豊天皇陵。いずれも、ネット上より。


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2096/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史07②。

 櫻井よしこは光格天皇を「皇室の権威を蘇らせ、高めた」として、高く評価する。
 問題は、そのことが「神道」の権威をいかほどに高めたのか、だろう。
 櫻井は「日本の宗教」=「神道」で、かつ「天皇家の宗教」=「神道」と単純かつ幼稚に考えているので、「皇室の権威」が高まることは「神道」の力が大きくなることと全く同義で、そのゆえにこそ、光格天皇を高く評価しているのかもしれない。
 しかし、江戸時代はまだ<神仏習合>の時代で、儒教ないし儒学・朱子学の影響も大きくなっていた。
 櫻井よしこのように「幸福に」は叙述できないことは、光格天皇と京都市に現在もある廬山寺という仏教寺院との関係について、すでに述べた。
 光格天皇と廬山寺の関係については、まだ重要なことが残っている。
 光格天皇の近親者たちのの墓陵が、廬山寺の境内にある。正確にいえば、同寺経営・管理とみられる一般の墓地の区画と同寺の建物部分の間の、宮内庁管理地の区画内にある。入口辺りにある宮内庁設置の掲示施設によると、以下の皇族等の「墓」がある。2名は、あと回しにする。
 ①東山天皇後宮新崇賢門院藤原実子、②同皇子直仁親王、③同皇子直仁親王妃脩子、④同曽孫美仁親王、⑤同曽孫美仁親王妃因子、⑥同玄孫孝仁親王、⑦同玄孫孝仁親王妃吉子、⑧同五世皇孫致宮、⑨同五世皇孫愛仁親王。
 ⑩光格天皇皇子俊宮、⑪同皇子埼宮、⑫同皇女多址宮、⑬同皇女治宮。
 ⑭仁孝天皇皇子胤宮。
 上の東山天皇(113代)は、光格天皇(119代)の曾祖父、仁孝天皇(120代)は光格天皇の子。また、東山天皇皇子直仁親王とは東山天皇から分岐した閑院宮家の第一代(光格は第三代で東山天皇の三世の孫=曽孫)。
 東山天皇自身の陵墓は京都・泉涌寺直近の「月輪陵」内に、光格天皇と仁孝天皇(=孝明天皇の父)の陵墓はやはり泉涌寺直近の「後月輪陵」内にある。
 また、東山天皇皇后幸子女王、光格天皇皇后欣子内親王、仁孝天皇女御贈皇后繁子、仁孝天皇女御尊称皇太后禮子、の4名についても「月輪陵」・「後月輪陵」にある。各天皇の皇后またはそれに準じた女性たちだ。
したがって、<廬山寺陵>には、光格天皇に血縁が近い者で天皇または皇后ではかった人たちの多数の「墓」があることになるだろう。
 しかし、あと2名が残っている。掲示によれば、冒頭に記載されている2名だ。陵名自体が<慶光天皇廬山寺陵>と称される。
 ①慶光天皇、②慶光天皇妃成子内親王。
 この「慶光天皇」は、江戸時代には、その名前自体が存在しなかった。
 該当する人物は存在していて、1870年(明治3年)にこのように追号され、名前だけは「天皇」ということになった。しかし、天智の子の弘文天皇=大友皇子のように、「皇統譜」に正規に天皇として記載・登録されたわけではない(他にも追号または諡号が明治期に決まった過去の歴代天皇がある-別に書く)。
 「慶光天皇」とは、光格天皇の実父、閑院宮典仁のことだ。上に出てきた東山天皇の孫、直仁親王の子で、閑院宮二代目にあたる。
 この人が明治維新後に「慶光天皇」と呼ばれ、その陵墓が廬山寺にある。
 そして、その墓陵の様式は仏教式だ。現在は厳密には廬山寺ではなく宮内庁の管理地だろうが、かつて廬山寺が<菩提寺>として管理し、法要等をしていたことは、先に書いた位置関係からしても明確だと思われる。
 そして、やはり「九重仏塔」と称してよいと考えられるものが墓碑にある。しかし、興味深いのは、どうも泉涌寺直近の(孝明天皇陵の丘の麓にある)「月輪陵」・「後月輪陵」の写真にある「九重仏塔」・「九重石塔」は各墓碑そのものの脇に立てられているように見える、少なくとも四方形の九重石塔もあるのに対して、「廬山寺陵」のそれらは、四方形の石積みの塔はなく、各墓碑のまさに上が「九重石塔」になっている、ということだ。石塔と一体となってその下部に中心的な墓碑部分がある。
 以下の写真のとおり。ともかくも、仏教様式ではあるとは見られる。
 では、なぜ代数もない「慶光天皇」=閑院宮典仁は「天皇」と(明治になってから)称されたのか。「天皇」称号にかかわる他の点も含めて、次回とする。代数表記は明治以降の皇統譜、宮内庁HPにしたがったもの。
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 この項の前回に光格天皇について「火葬」としたのは陵墓の孝明天皇陵と比べての小ささからする勝手な推測で、実際には「土葬」だった。改める。
 「月輪陵」に陵墓のある天皇のうち、後陽成天皇(107代、1617年没)までは「火葬」、後光明天皇(110代、1654年没)以降は「土葬」に変わった、とされる。なお、死亡年の順序と即位の代数の順序は一致しない。後水尾天皇(108代)は1680年没、明正天皇(109代・女性)は、1696年没。
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 下の二つは廬山寺陵の二つの陵墓。前者が中央奥にある。
 その下の二つは、廬山寺陵の宮内庁掲示板と、廬山寺のすぐ北にある寺院・清浄華院で見かけた円形の石による<九重石塔>(これは墓碑の上にあるのではなく、少なくとも今は独立の石塔だ)。いずれも、2019年。

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2082/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史07①。

 櫻井よしこは2017年初頭にこう書いていた。週刊新潮2017年2月9日号。つぎの二文は、連続したものだ。
 「光格天皇の強烈な君主意識と皇統意識が皇室の権威を蘇らせ、高めた
 その〔皇室の〕権威の下で初めて日本は団結し、明治維新の危機を乗り越え、列強の植民地にならずに済んだ。」 本欄№1620-2017/07/03も、参照。
 櫻井よしこは、今年・2019年初頭に、実際の執筆は昨年末だろうが、こう書いた。 週刊新潮2019年1月3=10日号。
 「日本の国柄の核は皇室である。皇室の伝統は神話の時代に遡り、それは神道と重なる
 「神道の価値観」は「穏やかで、寛容である。神道の神々を祭ってきた日本は異教の教えである仏教を受け入れた」。
 光格天皇についても神道についてもロクに勉強せず上のようなことを書いているのだから、真剣にとり上げるに値しないことははっきりしている。
 しかし、著名な?日本の週刊誌の一つに活字となって述べられているので、少しコメントし、さらにいくつかのことを書き記そう。
 上の二つの論考?から感じ取れるのは、あるいは上の二つを単純に結びつけると読み取れるのは、こういうことだろう。
 「日本の国柄の核」は「その伝統」が「神道と重なる」「皇室」であり、「光格天皇」は「皇室の権威を蘇らせ、高めた」。
 こう要約するのは、決して誤りではないだろう。実際に櫻井よしこは、こう「認識」している可能性が高い。
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 光格天皇と神道または仏教との関係について、素人でも簡単に分かることをまずいくつか記す。
 なお、光格天皇の在位は1779年~1817年、没は1840年。つまり、仁孝天皇(追号)に「譲位」をした。それから200年ほど後の現上皇による「譲位」まで、生前退位(譲位)の最後の例だった。
  既述のように、光格天皇の陵墓はいまは宮内庁管理地だがかつては明確に泉涌寺の境内にあり、現在でも泉涌寺の本堂(仏殿)近くを通らないと参拝できない、東山後月輪陵の中にある。先代の後桃園天皇(まで)の陵墓は東山月輪陵の中にあっていちおうは別だが接している。光格天皇(・上皇)の薨去後に、狭くなっていたので、新しく区画を造成?したのだろう。
 神道式の墓地はあるようだが、どのようなものかよく知らない。しかし、光格天皇の陵墓が「仏教式」であることははっきりしている。のちに改めて触れるが<九重仏塔>が用いられている。
  櫻井よしこ(ら日本会議派諸氏)は天皇はまるでずっと神道式の葬礼を受けてきたと勘違いをしているのかもしれない。少なくとも、日本書記・古事記の編纂の時代から1300年ほどはそうだ、と思い間違いをしているのかもしれない。
 天武天皇皇后だった持統天皇が天皇で最初に「火葬」されたことはよく知られている。
 光格天皇も、その陵墓の規模からしても、「火葬」されたことは明確だ。
 これらは、持統天皇以降ずっと連続していたとは書かないが、「仏教」の影響だった、または「仏教」式そのものだった、と考えられる。
  ついでに書いておけば、古事記が成立し日本書記も完成した後の聖武天皇・同妃光明子(光明皇后)が<篤い>仏教徒だったこともよく知られている。
 東大寺正倉院には聖武天皇・皇室の所持品だったものが国宝も含めて多数ある。正倉院は東大寺内にあるのであって、神社である春日大社ではない。
 同じ時代に、いわば国営・国立の仏教施設である国分寺や国分尼寺の設置・建設も始まった。奈良市内に現在もある法華寺は門跡寺院の一つだが、光明皇后による開設で国分尼寺のいわば総本山とされ、代々女性僧侶が住職であるらしい。
 この時代、元明天皇時代に日本書記も編纂・提出されていたが、<神道>は何だったのか?
 こんな<教科書>的なことを櫻井よしこに教えても無駄だろうが、櫻井のために書いているのではないので、続けよう。
  京都市内の京都御苑すぐ東(寺町通東側)、梨木神社(寺町通西側、祭神は三条実美)の真東辺りに、廬山寺〔ろざんじ〕という寺院がある。
 この寺による小冊子によると、この寺院の場所に平安時代にあった邸宅で紫式部が「一生の大部分」を過ごし、「結婚生活」を送ったとされる。当然に<源氏物語>の執筆地ということになる。但し、石山寺(大津市)で一時期にせよ<源氏物語>を執筆したとされていて、石山寺本堂には「源氏物語の間」だったか「紫式部の間」だったかがある。
 上は余計な話題だ。
 光格天皇に戻すと、光格天皇と廬山寺は関係が深い。
 同寺仏殿(本堂)内の掲示等々によると、光格天皇の「愛用の品々」が現在でも廬山寺に残されており、同天皇とゆかりがあるという「茶室」もある。また、上皇となってのちの仙洞御所(上皇用の住居)の建物の少なくとも一部が廬山寺に「下賜」された。
 どこかの神社ではない。蘆山寺は、れっきとした仏教寺院だ。
 廬山寺による小冊子によると、明治維新まで京都に「宮中の仏事を司る」寺院が四つあって、廬山寺はその一つだった(ほかは二尊院等だとされる)。
 明治維新後の1873年=明治5年に(小冊子によるとおそらく)自立性が剥奪されて比叡山延暦寺の一部となり、1948年に再び独立した(天台圓浄宗)。
 光格天皇が「皇室の権威を蘇らせ、高めた」のは確かなようなのだが、しかし、櫻井よしこは、上のような仏教との関係の深さを全く知らないのだろう。<神仏習合>の時代が長くつづいたのだとすると、自然なことだと感じられもするが、櫻井ら日本会議派諸氏は「知りたくない」、「知っても書きたくない」ことかもしれない。
 ***
 さらに続ける。

1594/三谷博・明治維新を考える(2012)と櫻井よしこ。

 「光格天皇の強烈な君主意識と皇統意識が皇室の権威を蘇らせ、高めた。その〔皇室の〕権威の下で初めて日本は団結し、明治維新の危機を乗り越え、列強の植民地にならずに済んだ。」
 櫻井よしこ・週刊新潮2017年2月9日号。
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 全部を読んだわけではないが、ふと印象に残る叙述を見つけることがある。
 仲正昌樹(1963~)のつぎの二つも、そうだ。なお、この人の書物はたいていは所持している。
 仲正昌樹・精神論ぬきの保守主義(新潮選書、2014.05)。
 仲正昌樹・松本清張の現実と虚構(ビジネス社・B選書、2006.02)。
 三谷博(1950~)のつぎの本も、きわめて興味深い。この人の書物も、かなり所持している。
 三谷博・明治維新を考える(岩波現代文庫、2012.11/原書・有志舎、2006)。
 櫻井よしこのように、明治維新・明治天皇・五箇条の御誓文を単純素朴に「讃える」悲痛な人もいて、何とも嘆かわしい。櫻井よしこが旧幕府を<因循固陋>・<非開明>とイメージし、「機能停止」に陥っていた(週刊新潮2013年10月10日号)と理解するのも、何とも嘆かわしい。
 この人は<明治維新>についてきちんとその関連歴史を<勉強>してみようという気がたぶん全くない。だから、「無知」をさらす。あるいはそもそも、そうイメージするのが「保守」だと思い込んでいる。
 三谷・上掲書p.219-220は、日本共産党員だったとみられる遠山茂樹の明治維新に関する書物に論及したあとで、最後の方で、自分の論として、つぎのような旨を言う。
 ①明治維新における「復古」とは、現状の「全面否定」で、「保守」とは正反対の、「進歩」・「革命」の発想に近い
 ②「復古」の行き先が「神話的伝承の世界」だったことは、明治維新の「復古」・改革に「かなりの自由度」を与えた。明治政府が「文明開化」・「ヨーロッパ化」を「臆面もなく」追求できた条件の一つは、この「空虚さ」にあった
 別途の議論が必要だろうが、櫻井よしこや「日本会議」が追求しているらしい「日本の国柄」らしきもの、「天皇を戴く日本」というものには、じつは何の<価値>もない、と秋月瑛二は考えている。
 すなわち、<日本の天皇・皇室>は、いざとなれば、共産主義とも両立しうる。あるいは、逆の言い方をすると、日本の共産主義者たちは、いざ必要とあれば、<日本の天皇・皇室>の存在をも利用する。
 <天皇・愛国>の主張だけでは決して、反共産主義の主張にはならない。
 かくして、三谷博の上記に関連させると、明治維新の「復古」対象としての「神話的伝承の世界」が、何の<価値>もない「空虚」だった、ということもじつによく分かる。
 神話世界・天皇中心政治の中に、いかなる「価値」をも取り込むことができたわけだ。
 つい数年前まで尊皇と「攘夷」を唱えた者たちが、「臆面もなく」、開国・文明開化の政治路線を歩んだ。
 明治維新を主導したともされる薩長(土肥)勢力とは、いったい何だったのか。
 櫻井よしこが高く評価する光格天皇も、天皇・皇室と幕府に関する基本的考え方については、孫の孝明天皇と変わらなかったと思われる。
 孝明天皇は対幕府協調・「公武合体」路線、あるいは世俗政治・行政は原則的に幕府に任せるという「大政委任」の考え方で、幕府を潰そうとは考えていなかった。
 幕府内にも優秀な官僚たちはいた。井伊直弼もそうだっただろう。彼らこそが「開国派」(通商条約締結・施行)で、これに天皇・皇室側が注文をつけた最初は、岩倉具視を含む「一部の公卿たち」の働きかけによっていた。井伊直弼は、水戸藩士らの「テロル」に遭った。理由は<違勅>だったのだろう。
 「開国」的動きを掣肘し、それを「反幕府」の運動へと変形させようとしたのは、-旧幕府側にも善良な?ミスはあったが-長州藩や「一部過激公卿」だった。のちの著名人物、「元勲」たちがいっぱい出てくる(薩摩藩は最後の局面で幕府をつき離す。そしてここにも「元勲」たちがたくさん生まれる)。
 その結果として、<暴力>・大きな「内戦」を伴う政権体制の基本的な変化=「革命」的なものになってしまった。
 徳川時代の最初・家康に「復古」したのでは、江戸幕藩体制を否定できない。鎌倉時代戻っても武家政権になるし、平安時代も<藤原摂関政治>だった。となると、奈良・飛鳥の<律令制度>をさらに遡って、「純粋な」日本の往古にたち戻らなければならない。神武天皇時代の初心・初業への「復古」なのだ。
 かくして、体制否定の論理または「イデオロギー」が、<天皇>親政、<神武天皇創業という日本の古代に立ち返る>ことだった、と思われる。だがこれはおそらく、元々は一部の者のみが考えていたことで-長州にある程度の「信者」はいたが-、孝明天皇没後の1867年くらいから「公」になり、多くは<後づけ>で用いられたのではないかと想定している。旧時代とは異質という意味での「新しい」ものである必要があった。
 今から見ての当時の最終盤の現実的な争点は、幕府機構または「徳川家」を残すか否かだった。
 幕府機構は解体しても、旧幕臣や徳川氏も協力する新体制、というのも、想定しえただろう。
 それをすら、つまり「徳川氏」の政治関与すら絶対に許せない、と考えた者たち・集団がいた。彼らには、<天皇第一>(これは反幕府・幕府解体につながる)の「原理」は必要だったかもしれないが、攘夷も、開国も、「基本政策」問題は全て、おそらく関係がなかった。権力奪取の後で、種々の重要な政策問題に付け焼き刃的に対処せざるを得なかった。
 だから、より漸進的な変革はありえた、と考えられるが、現実は、より血が流れる、より多くの人が殺戮される「革命」的なものになった。当初の<理念宣告>を貫くために、神仏分離・廃仏毀釈等々の「無理」もしなければならなくなった。
 明治維新の「復古」とは「革命」に近い、という三谷博の理解も、十分に納得できる。
 現在の日本の「特定」の「保守」派らしき人々が、明治維新をかつての日本の素晴らしい事象のごとく描くのは、どこかおかしいのではないか。エドマンド・バーク的な「保守主義」の立場にたてば、むしろ批判的立場にいても不思議ではないのではないか。
 あるいは、彼らは<保守革命>という、劇的な変化を夢想しているのではないか、とも思われる。それは、日本共産党的「左翼」・共産主義者たちと、発想は変わらない。
 いずれにせよ、明治維新に関する「歴史認識」いかんもまた、鋭く問われている、と言えるだろう。明治維新に関する上の簡単な秋月の叙述は、粗雑な、思いつきの文章にすぎない。



1510/日本の保守-宗教・神道と櫻井よしこの無知④02。

 ○ 櫻井よしこ「これからの保守に求められること」月刊正論2017年3月号(産経)p.84-89。
 この櫻井よしこの論考は、月刊正論3月号の<ポスト安倍・論壇は誰か ?>を主題とする、<保守>に関する特集の中にある。そして、この月刊正論3月号は、10人以上の論者に「保守」を語らせながら(その中にこの欄で紹介した小川榮太郎のものもあった)、前に八木秀次「保守とは何か」、最後に櫻井よしこ「これからの保守…」をもってきてそれらを挟むという編集スタイルをとっている。
 このように八木秀次と櫻井よしこを<保守>論者として重視するという編集姿勢そのものにすでに、産経新聞的または月刊正論的、または月刊正論編集部・菅原慎太郎的な<保守>の現況の悲惨さ、惨憺さが現れているだろう。
 上の櫻井論考は6頁あるが、神道・古事記等々は出てきても、「仏教」という語は一回も出てこない。
 櫻井よしこは「保守の特徴」の第一は「日本文明の価値観を基本とする地平に軸足を置」くことだとしている(そして「世界に広く心を開き続ける」ことだとする)。
 この程度のことは誰でも語ることができるし、場合によってはナショナル左翼もまた、この文章自体に反対することはないかもしれないレベルのものだ。
 問題はもちろん、「日本文明の価値観」として何を想定するかにさしあたりはなる。
 櫻井よしこが一切「仏教」に触れていないことは既に記した。櫻井が頻繁に言及しているのは、「十七条の憲法」と「五箇条のご誓文」で、後者は「ご誓文」だけの場合も含めて、(6頁に)7箇所も出てくる。
 「日本文明の価値観」を示したものとして櫻井が最初に挙げるのが「十七条の憲法」で、これと「五箇条のご誓文」は重なるとか似ているとかしきりに言っている。
 そして、聖徳太子・十七条の憲法-天武天皇・古事記-神道-天皇・皇室という流れの中で、「神道」を位置づける。
 明記はないが、「五箇条のご誓文」は(神道・)天皇・皇室中心の<明治>国家の最初の宣言文書という扱いだと理解して、まず間違いないだろう。
 ○ 「十七条の憲法」といえば聖徳太子だが、この人物名の問題は別として、聖徳太子は、仏教を日本で容認してよいかどうかの蘇我氏と物部氏の間の紛議・対立に際して前者を支持して仏教容認派勝利を決定的にした。これは、中学生の教科書にもあるだろう。
 櫻井は上の論考でも最近の別の文章でも聖徳太子を高く評価しているが、「仏教」とのかかわりはどう見ているのだろうか。週刊新潮2017年3/09号にこうある。
 「神道の神々のおられるわが国に、異教の仏教を受け入れるか否かで半世紀も続いた争いに決着をつけ、受け入れを決定したのが聖徳太子である。キリスト教やイスラム教などの一神教の国ではおよそあり得ない寛容な決定である」。
 この部分以外に「仏教」は出てこない。
 しかも、「異教」のそれを受容したことに日本文明または神道の「寛容」性を見る、という文脈の中で位置づけている。
 この頃からおよそ1400年経った。しかも150年ほど前にすぎない1800年代の後半までは、<神仏混淆>・<神仏習合>と言われる時代が長く続いた。かりに600年~1850年として、1250年も続いた。
 この歴史を、櫻井よしこは無視、または少なくとも軽視しているのではないか。
 天皇譲位問題に関するこの人の主張の基礎と同じく、ほとんど明治期以降にしか目を向けていないのではないか。あるいは、<明治日本>を最良・最高の日本だったと観念しているのではないか。
 別の観点から批判的にいえば、日本文明は「異教の仏教」を受け容れたが、基本的にいえば、キリスト教やイスラム教を受容しなかった。
 キリスト教・イスラム教と仏教は、日本人と日本国家にとって、明らかに違うだろう。
 しかし、櫻井よしこの文章には、そこに立ち入っていく姿勢・雰囲気はまるでない。
 聖徳太子以前の時代にだけ「日本文明」を限れば別だが、今や、あるいは飛鳥・奈良・平安等々という時代を通じてずっと、ある程度は日本化した、また日本で新登場した(新解釈された)と見てよい「仏教」を無視または軽視して、日本の伝統的な「文明」も「文化」も語ることはできない、と考えられる。
 櫻井よしこの視野は、偏狭だ。
 ○ 西尾幹二は「仏教に篤い心を持つ天皇も歴史上少なくありませんでした」と述べた(前回参照)。
 そのとおりだ。諸天皇・皇族は、<信教>のことなどを考える物質的・精神的余裕がなかった時代は別だが、おおむね神仏をともに崇敬していて、中には「仏教」により強く傾斜した天皇も少なくなかった、と思われる(逆に神道の方を重んじた時代・天皇もあったかもしれない)。
 キリがないだろうが、例えば西国三十三カ所巡拝(観音菩薩信仰)は平安時代の花山天皇に由来するともされる。
 また例えば、京都市には今でも無数に(正確には数多く)「門跡」寺院というのが残っていて、これは天皇・皇族が出家して法主等を務めた「仏教」寺院を意味する。
 北白川の曼殊院には秋篠宮殿下家族がご訪問の際の写真が掲示されている。有名寺院の中でも、他に、青蓮院、聖護院、三千院、仁和寺、大覚寺等々、数多く「門跡」である仏教寺院はある。
 櫻井よしこの蒙を啓くためにも、天皇・皇族の<墓陵/陵墓>について、以下に述べる。
 なお、秋月瑛二はこの問題についても<専門家>ではない。そうでなくとも、櫻井よしこがきっと知らないことを知っているし、櫻井よしこが関心を持たないことにも興味をもつのだ。
 ○ 櫻井よしこは、光格天皇を、天皇・皇室の<皇威>を高めた天皇として高く評価していたようだ。
 しかし、光格天皇は、櫻井よしこが本当は反対だったはずの<生前退位>を行なった天皇(最後の)であり、「院政」を敷いたかはこの概念の理解にもよるだろうが、現在のところ最後の<上皇>だった。
 天皇・皇室問題に関連して櫻井よしこがこの天皇に触れたとき(週刊新潮で取り上げたとき)、上のことはどの程度意識されていたのだろう。
 かつまた、光格天皇の死後どのように天皇の「墓陵」は造営されて管理された(管理されている)のか。
 いつぞや「美しい日本」との連載ものの中で下り参道の珍しい例として泉涌寺(京都)を挙げ、ほんの少し「御寺(みてら)」と呼ばれて天皇陵も周辺にあることを記した。
 明治天皇の曾祖父にあたる光格天皇の墓陵は「後月輪陵」といって、泉涌寺の周辺にある。以下、地図も付いて分かりやすいので、つぎの書物を参照する。
 藤井利章・天皇と御陵を知る辞典(日本文芸社、1990年)。
 祖父の仁孝天皇も同じ「後月輪陵」、父親の孝明天皇はその東の「後月輪東山陵」で、-現地で確認したことはないが-泉涌寺の近くでいわば寄り添っている。
 さらに、17世紀最初の皇位継承者だった後水尾天皇から、明生、後光明、後西、霊元、東山、中御門、桜町、桃園、後桜町、そして1770年即位の後桃園天皇まで、200年近くの各天皇の墓陵・御陵は全て「月輪陵」であり、泉涌寺の周辺に集中している。
 何となく「御寺(みてら)」という語を印象的に記憶していたが、こうして見ると、泉涌寺と天皇(家)の関係は、少なくとも日本近世ではきわめて密接だった。
 いや、場所的に近いだけで、寺院と墓陵は別だろう、という人が必ず出てくるので、さらに立ちいる。とりあえずは、上掲書の後水尾天皇の項にこうあるとだけ紹介する。
 「…崩御され、…泉涌寺において陵地を決定し、…夜入棺して、泉涌寺の僧徒がこれを手伝った」。p.243。
 つづける。

1452/櫻井よしこ・天皇譲位問題-「観念保守」のつづき②のB。

 ○広く日本史について素人としての関心はある。明治維新とか明治憲法とか明治の「元勲」たちということになると、かつて、ソウル・南山の西側中腹あたりにあった、安重根記念館を訪れたことを思い出す(タクシーで一人で行き、帰りはソウル駅近くまで歩いて降りた)。
 安重根は伊藤博文射殺犯で(1909年)、若き「愛国」テロリストふうかと想像していたが、記念館での展示物を見ていて、教育者であり知識人の一人だったと知った(筆字も達筆だ)。
 おそらくそのときか、日本への帰国直後だが、安重根は伊藤に対する「斬奸状」(にあたるもの)を書いていて、その中に、日本の天皇を弑虐した「罪」を挙げていたことも知った。それは、伊藤が、当時の天皇(明治天皇)の「ご父君」、つまり孝明天皇を殺害した、というものだった。
 朝鮮の人からすれば伊藤という「元勲」と日本の天皇・皇室との関係など本来は関心はないはずだが(日本の天皇のことを気にかける必要はないはずだが)、と思ったりしたが、それ以上の追究は当時はしなかった。しかし、伊藤博文と天皇殺害という関連だけでも、印象に残りつづけたのは確かだ。
 ○あらためて近年に読書渉猟をしていると、孝明天皇は皇女和宮の兄で明治天皇の父親・先代(これらはかつての知識の中にあったと思う)、そしてその当時は傍流だった光格天皇の孫。幕末の天皇で、明治改元直前に死亡していることが確認できる。
 そして、これが上の安重根にも関連するが、孝明天皇の(突然の発症による)死には、徳川幕府に対抗する薩長一派側の意向が働いており、孝明天皇の(その時点で)対幕府融和的な姿勢(「公武合体」方針)を「邪魔」・「有害」だと判断した者たちが、最終的には(直接に手をかけた訳ではむろんないが)朝廷内に関係者がいた岩倉具視が、天皇殺害を命令した、という<噂>があったらしい。
 <噂>がそれらしく思われていたらしいことは、上の安重根の記憶又は認識でも明らかだろう。岩倉具視であれば、まだ若い伊藤(周旋屋だともされた)は明治維新前はさほどの接触はなかっおたかもしれないが、のちに何かを知った可能性はないではない。伊藤から見ればとんだヌレギヌかもしれないのだが、朝鮮半島の人までその少なくとも<噂>を知っていたというのは、驚きの事実だろう。
 一番最近に見たからこそ記せるが、歴史小説を三つ集めた松浦行真・激流百年(サンケイ新聞社、1969)の中の一篇「洛北の虹・岩倉具視」の最後・末尾には、あくまで歴史小説だが、つぎの趣旨の文章がある。
 明治天皇が危篤の岩倉具視を慌てて見舞った、その岩倉の国葬への参列公家衆の一部から、「お上(明治帝)は親のかたきの死に目を見にゆかれた」という「ささやきが聞かれた」。「あの孝明帝の死にまつわるくらい風貌…」。
p.174。
 他にも、歴史小説家・中村彰彦の、学者を超えるかもしれない<推理>(岩倉による暗殺の肯定の方向。小説ではない)を読み終えている。
 ○ところで、光格天皇は(本流の皇嗣ではなかったためもあってか)天皇・皇室・朝廷の「権威」の回復に努めた江戸期には珍しい人物であるらしい。
 櫻井よしこもまた、立派な天皇(の一人)だった旨を、とくに記している。すなわち、同・週刊新潮2017年2/9号のコラム欄は、全体を光格天皇を讃える内容で埋めている。引用はしない。今のところ生前譲位の最後の天皇らしいことと関連させて、皇室改革をし、天皇の権威=「皇威」を高めようとする「強い皇統意識」のもち主だった、という。
 ここでただちに疑問が生じる。孝明天皇は光格天皇の直系の孫で、櫻井よしこが<明治天皇を「中心にして」近代明治日本を建国した>、と褒め称える明治天皇の実の父親だ。
 なお、この「明治天皇を中心にして」という部分は、櫻井よしこ・日本の息吹2017年2月号(日本会議)の文章の中で使われているはずだ。
 そしてまた、孝明天皇は、天皇にしてはきわめて珍しく、武家政権(徳川・江戸幕府)に対してモノを言い、反抗もしている。
 条約(対米通商条約)締結には「勅許」が必要だと、主張したのだ。外交権の行使に天皇の同意がいるとすれば(形式的・儀礼的ならばともかく)、これは立派な「権力」(の一部)に他ならない。もはや「権威」なるものを超えすらしている。
 いや、これ自体が当時の朝廷内の<反幕府>一派が誘導した可能性はあるが、しかし、孝明天皇はどうやら個人としても<攘夷>を(少なくとも当初は)貫きたかったかに見える。
 変節が著しいともいえる薩長一派は、最初は<尊皇攘夷>を掲げて、<開国>方針の徳川・江戸幕府側(例えば井伊直弼)をイジメていたのだ。その返礼として、吉田松陰はタイミングが悪くて刑死になってもいる。この当時は、孝明天皇も<邪魔>ではなかったに違いない。
 孝明天皇とは、じつに、天皇の「権威」を体現しようとした人物だったのではないか。践祚の際に16歳だった明治天皇よりもはるかに、またその後の明治天皇と比べても、<意思>・<肉声>らしきものが感じられる。
 しかるに、櫻井よしこが、光格天皇と明治天皇に皇室の権威という観点から肯定的に言及はしても、孝明天皇に同様の趣旨で触れないのはなぜか。同様の趣旨で肯定的に評価しようとしないのはなぜか。
 櫻井よしこは、藤田覚・幕末の天皇(講談社学術文庫、2013/原著1994)に依拠して、上の週刊新潮で多くのことを引用、紹介している。
 藤田覚の上の著は、しかし、孝明天皇についても多く触れている。半分ほどは孝明についての書物だ。
 そして藤田は冒頭で、つぎのようにも述べて導入している。
 「なかでも孝明天皇は、…国家の岐路に立ったとき、頑固なまでに通商条約に反対し、尊皇攘夷を主張しつづけた。それにより、尊皇攘夷、民族意識の膨大なエネルギー、を吸収し、政治的カリスマとなった」。p.9。
 櫻井よしこがとくに取り上げた光格天皇との関係についても、冒頭部で、つぎのように書く。
 光格天皇の「皇統意識、君主意識は、孫の孝明天皇に引きつがれ、それをバックボーンとして開国・開港という未曾有の危機にあたり、頑固なまでに…鎖国攘夷を主張した」。p.11。
 ちなみに、藤田作だという冒頭の川柳は、ゴロがよいように秋月が少し変えると、以下のようになる。
 <光格がこね、孝明がつきし王政餅、食らうは明治大天皇>。p.9参照。
 かくのごとく、櫻井が依拠し引用している藤田覚著には、たっぷりと孝明天皇も登場するのだ。
 そして、櫻井は、同・週刊新潮の2/16号では、藤田著等によりつつ、孝明天皇に論及している。
 しかし、その扱いは、光格の場合とまるで異なる。<皇威>という観点から孝明天皇を肯定的に紹介する論調では全くない。
 もう一度書こう。櫻井よしこが、光格天皇や明治天皇に皇室の権威を高めたという観点から肯定的に言及しながら、孝明天皇についてはその点はいっさい無視して、称賛していないのはなぜか。孝明天皇も、まさに<皇威>を実際に高めた立派な人物だったとなぜ肯定的に評価しないのか。
 結論は、はっきりしている。
 <薩長史観>を前提とした、戦前に主流の<史観>を持っているからだろう。
 光格はともかく、孝明天皇は、明治新政府登場までに亡くなった、薩長側に対する<敗者>の側の天皇だったのだ。
 歴史は勝者が作る、あるいは描く、ともいう。現在の日本で主流の<史観>も、戦争勝利者であるアメリカらの「連合国」が形成した、とおそらく言えるだろう(「東京裁判史観」という、渡部昇一が好んで用いているらしき概念は、狭すぎる)。
 戦後主流の<史観>を持ちたくないからといって、-「皇国史観」と言ってしまうのは語弊があるかもしれないが、-戦前の日本にあった<薩長中心史観>、つまり明治維新・開国・近代日本の建設をほとんど全面的に<良かった>ものと理解する史観に立つのは、既述のように、たんなる<裏返し>にすぎず、歴史を冷静には見ていない、と考えられる。
 要するに、櫻井よしこの歴史観・歴史認識も、最近の文章ではかなりの程度、「観念」論であり、「政治的」色彩を帯びているのだ。そしてまた、櫻井よしこの天皇譲位反対論も、この「政治的」・「観念的」歴史観に多分に依拠している、と言えるだろう。
 櫻井よしこのような歴史家・歴史研究者ではない者が(私・秋月ごときがこうした欄で何を書いても許されるかもしれないが)、活字となって広く読まれる可能性がある文章の中で、単純すぎる「政治的」・「観念」論を表明しないでいただきたい。読者は、櫻井よしこらが書いていないこと、言及していないことに、むしろ注目する必要がある。
 週刊新潮での櫻井よしこには、同じ趣旨でたぶんもう一回触れる。

0540/中西輝政=福田和也・皇室の本義(PHP、2005)をほぼ読了。

 中西輝政=福田和也・皇室の本義(PHP、2005)を殆ど読了。記憶に残っている範囲から、いくつかメモしておく。
 ・江戸時代に祭祀復活、略式祭祀の正規化(古い形式に戻すこと)、飢饉の際の施米につとめられたのは、光格天皇
 (この天皇は東山天皇の三世の孫(玄孫)で、後桃園天皇までとは別の(現在につづく)皇統に移った最初の天皇とも言える。なお、竹田恒泰は明治天皇の四世の孫。)
 ・今上天皇は、美智子皇后とともに橿原神宮出雲大社も親拝され、石清水八幡宮も親拝された(p.73)。両陛下は、平成5年以降、各県の護国神社をすべて親拝された(p.151)。
 (上のようなご親拝は天皇の「公的」行為と理解するのが通常の感覚と思うが、「私的」な<宗教的>行為と見なしているのだろう、マスコミは全く又は殆ど報道していない。)
 ・佐藤栄作と田中角栄とで天皇・皇室観はかなり異なる。田中角栄は天皇に対して「反感」をもち「一種不遜な」態度をとっていたとも言われる(p.91)。日本人の一部にある天皇(・皇室)への<怨念>は継続している。「伝統的・文化的」に「型が定まったもの」を崩すことを「進歩」と捉える心情が、戦前の社会主義者(・共産主義者)以外にも残っている(p.93-94)。
 ・現皇室典範(法律)は現憲法施行前に制定されており、かつ旧憲法下で必要だった法律制定手続を経ていない、という問題をもつ(p.104)。
 (この手続の瑕疵は旧憲法自体に違反しているのか、法令上の定めに違反しているのか、それとも旧憲法・法令は明記していない<慣行>に反していたのか、なお確認してみたい。)
 ・「天皇制」を厳しく批判し、「いずれ廃止されるべきである」と書いた横田喜三郎・天皇制。当時、東京大学法学部教授(国際法)、のち最高裁裁判官、勲一等叙勲(p.118-9)。
 ・宮中三殿への日々のお参り、宮中祭祀こそ天皇の「最大の御公務」。また、天皇はご旅行の際には「必ず『三種の神器』を一緒」に携行される。どこに宿泊されても、「毎朝、伊勢の皇大神宮に向かっての遙拝」を必ずされる。だが、多くの国民がこれらのことを知らない(p.136-8)。
 ・宮中三殿には「掌典」という神職、「内掌典」という巫女にあたる神職もいて、「皇居から一歩も外に出ずに神事を務めて」いる。こうした支えがあってはじめて宮中祭祀は成り立つ(p.138)。
 (「掌典」・「内掌典」は宮内庁職員としての<国家公務員>か。そうではなく、天皇の<私的な>使用人として、「公的行為」のための宮廷費からではなく、天皇・皇室の「私事」のための「内廷費」から給料?(報酬・手当?)は出ている。宮中祭祀の挙行を「私事」扱いすることは、<天皇制度の本質>と矛盾すると思われることは、何度も書いた。)
 とりあえず、以上。
 どこかに書いてあったかもしれないが、樋口陽一を含むおそらく殆どの憲法学者が、<統治権の総覧者>から<象徴>への変化・断絶、<天皇主権>から<国民主権>への変化・断絶を強調するのは、一面しか捉えていない。歴史的・伝統的な天皇制度を見るとき、日本国憲法のもとでもそれは<連続して>生き続けている、という理解の方が本質により近いものと考えられる。
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
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  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
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  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
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  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
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  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
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  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
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  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
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