一年以上前に桑原武夫編・日本の名著-近代の思想(中公新書、1962)に言及した。
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http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/154432/
そして、アナーキスト・マルクス主義者・親マルクス主義者等の本が15程度は取り上げられていて多すぎる、1960年代初頭の時代的雰囲気を感じる、とか述べた。あらためて見てみると、桑原武夫の「なぜこの五〇の本を読まねばならぬか」との命令的・脅迫的なタイトルのまえがきの中には、「わたしたちは過去に不可避的であった錯誤のつぐないにあたるべき時期にきている」という、「過去」を「錯誤」とのみ切り捨てて<贖罪>意識を示す言葉もあった。
 また、あらためて50の本の著者全員をメモしておくと、つぎのとおり(1年余前にはかかるリストアップはしていない)。
 福沢諭吉・田口卯吉・中江兆民・北村透谷・山路愛山・内村鑑三・志賀重昂・陸奥宗光・竹越与三郎・幸徳秋水・宮崎滔天・岡倉天心・河口慧海・福田英子・北一輝・夏目漱石・石川啄木・西田幾太郎・南方熊楠・津田左右吉・原勝郎・河上肇・長谷川如是閑・左右田喜一郎・美濃部達吉・大杉栄・内藤虎次郎・狩野亮吉・中野重治・折口信夫・九鬼周造・中井正一・野呂栄太郎・羽仁五郎・戸坂潤・山田盛太郎・小林秀雄・和辻哲郎・タカクラ=テル・尾高朝雄・矢内原忠雄・大塚久雄・波多野精一・小倉金之助・今西錦司・坂口安吾・湯川秀樹・鈴木大拙・柳田国男・丸山真男
 名前すら知らない者も一部いるのだが、それはともかく、これらのうち、幸徳秋水や大杉栄は「読まねばならぬ」ものだったのだろうか。日本共産党員だった野呂栄太郎(山田盛太郎も?)、一時期はそうだった中野重治(他にもいるだろう)、マルクス主義者の羽仁五郎も「読まねばならぬ」ものだったのか。
 すでに被占領期を脱して出版・表現規制はなくなっているはずだが、「右派」と言われる者の本は意図的にかなり除外されているように見える。<日本浪漫派>とも言われた保田與重郎はない。「武士道」の新渡戸稲造もない。「共産主義的人間」(1951)の林達夫は勿論ない。「共産主義批判の常識」(1949)の小泉信三もない(小林秀雄はあるが、福田恆存江藤淳はまだ若かったこともあってか、ない)。
 上のうち秋水、河上、野呂、山田、羽仁、大塚の項を担当して何ら批判的な所のない記述をしているのは河野健二。  桑原武夫と河野健二はいずれもフランス革命研究者だが(中公・世界の名著のミシュレ・フランス革命史の共訳者ではなかったか?)、当時の主流派的フランス革命解釈を採用し、かついずれも親マルクス主義又は少なくとも「容」マルクス主義者だったとすれば、以上のような選択と記述内容になるのも無理はないのかもしれない。
 日本かつ近代に限定した上の本と単純に比較できないが、佐々木毅・政治学の名著30(ちくま新書、2007)という本もある。世界に広げかつ「政治学」関係に絞っている。そして、(良く言えば)バランスのとれた?佐々木毅による本のためかもしれないが、桑原武夫が1960年代に選択したとかりにしたものと比べると、ある程度は変わってきていると考えられる。
 すなわち、30の全部をメモしないが(日本人は福沢諭吉・丸山真男のみ)、ルソー、マルクス、へーゲルらの本とともに、バーク・フランス革命についての省察、ハミルトンら・ザ・フェデラリスト、トクヴィル・アメリカにおけるデモクラシー、ハイエク・隷従への道、ハンナ・アレント・全体主義の起源という、<保守主義>又は<反・左翼>の本も堂々と?登場させている。40年ほど経過して、<時代が(少しは)変わってきた>ことの(小さな?)証拠又は痕跡ではあるだろう。