秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

仏教

2491/西尾幹二批判051—神話と日本青年協議会①。

  前回に関連して、つづける。
 私が読んだ順に記すと、西尾幹二は2019年に、「神話」についてこう語った。
 月刊WiLL2019年4月号=岩田温との対談。p.219-p.220。
 ①「神話は歴史とは異なります。…。
 歴史は…、諸事実の中からの事実の選択を前提とし、事実を選ぶ人間の曖昧さ、解釈の自由を許しますが、神話を前にしてわれわれにはそういう自由はありません。

 2017年にも、ほとんど同じ文を書いていた
 2017年1月/「つくる会」20周年挨拶文—全集第17巻(2018)所収、p.715。
 ②「神話と歴史は別であります。…。
 歴史は諸事実の中からの事実の選択を前提とし、事実を選ぶ人間の曖昧さ、解釈の自由を許しますが、神話を前にしてわれわれにはそういう自由はありません。

 以上、完全な同文ではないが、ほとんど同じだ。
 なお、この欄でかつて西尾幹二は文章の「使い回し」をしていると批判し、<コピー・ペースト>をしているふうに記したのは誤りで、お詫びして訂正する。「…」の部分も一致していない。
 しかし、ほとんど同じ文だ。①と②を比べて一読すれば、すぐに分かるだろう。西尾は②の印刷文書を見ながら発言したのか、あるいは対談のゲラ段階で②を対談発言の中に書き加えたのか。
 なお、②の文章の前には、つぎの一文がある。上掲同頁。
 「史の根っこをつかまえるのだとして、いきなり『古事記』に立ち環り、その精神を強調する方が最近は目立ちますが、これもそのまま信じられるでしょうか」。
 初めてこの欄に記すが、これは西尾の<保守>派内のライバル・櫻井よしこ批判であり、皮肉または当てこすりだ。
 櫻井よしこは、西尾が上を書く直前に、<古事記の精神を強調>し、「古事記」の精神・価値観を理解して掲げるのが「保守」だ旨を書いていた。「3月号」になっているが、実際にはもっと早く発行されていると見られる。 
 櫻井よしこ「これからの保守に求められること」月刊正論2017年3月号(産経)、p.85-p.86。
 古事記の「精神」を強調する限りでは、西尾と同じで、「歴史」把握のための「いきなり」が良くないのだろうかと、西尾の言い分はやや不思議でもあるのだが。
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  上のような「神話」と「歴史」の区別、<歴史—解釈を許す、神話—解釈を許さず「信じる」だけ>という対置の根拠はいったいどこにあるのだろうと、不可解だった。
 少しは理解できたのは、以下による。
 すなわち、秋月なりに言い換えれば、「理屈」ではない、「神話」とはそもそも「信じるべき」ものなのだ。そのようなものとして西尾は「神話」という語を用いているのだ。そして、日本の「王権」の由来が「神話」にあることも、日本人は「信じるべき」なのだ。
 西尾幹二「神話の危機」2000年10月—同・日本の根本問題(新潮社(編集担当・冨澤祥郎)、2003) 所収、p.210-p.235。
 例のごとく西尾の文章の「論旨」をたどるのは容易ではない。上の点に焦点を当てて、叙述の順に部分的に抜粋引用する。長くなる。
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 ・「古事記の冒頭に、国生みの神話があり、…」、「神の上に神がいる」。日本民族以外と比べると「神らしくない神」だ。
 ・「日本の神様は、規範を持たない。掟を持たない」。仏教、儒教を「取り入れ」、「他の神を自らの神にするということに余りこだわりがない」。ふつうは「神仏習合」と言うが、その前に「神神習合」があったともされる。「神仏習合も神神習合の一つのバリエーションと考えられるのでしょう」。
 ・他の文明圏では「宗教」は血を流す対立を繰り返し、「不寛容」だったが、「日本の神様はどうもそうではない」。
 ・日本の神は「絶対唯一神」ではない。「自らの上に神を持たないがゆえに、すべてが神になり得る構造。…仏もまた神の一種としてとらえることが出来たという構造」、これは、「日本民族の主体性」を「暗黙のうちに自己表現」しているのではないか。
 ・仏教伝来時も、「すべてのものを神として迎え入れる日本の神の概念が非常に包容力を持ったものであったから、これを包み込むことが可能であったのです」。
 ・「死ねば仏になる」と言うが、これは「死ねば神になる」のと同じで、「日本では神は自然万物とつながっており、そこに断絶がない。…明らかに神道と仏教が一緒になっている姿です」。「日本人にとって仏教というものは、難しい宗教哲学というよりも、美を味わう存在だ」と言えるだろう。だから素晴らしい「仏教彫刻」を残したのであり、「日本の神話と仏教信仰とは初めから何らの矛盾なく整合したのだ」。「仏教の導入に象徴される、何でも包容する日本のアイデンティティ…」。
 ・「日本文明の特徴」は「排他性の少ない、自然形成によるアイデンティティの高さのようなもの」でないか。
 ・日本民族は「自分の原理」を主張しなかったのではなく、「何時の頃からか、自分の国を『神の国』と自覚するようになります」。
 ・「神と仏が一つになるという思想が日本の根っこだという考えが、平安末期から北畠親房を経て出来あがった日本の国家観念です」。
 ・「日本の仏教は、…社会的にほぼ幕府に利用される一方で、思想的にはアニミズム的な要素が非常に強いのでインドの哲学のようにはならない」。「そのような体系的思考は日本の仏教には向いていない」のではないか。
 ・「日本人は完結した神話と伝統の中でずっと生きてきたのです。『大鏡』、『愚管抄』、『神皇正統記』—これらの書物はすべて神代と人代とを区別せず、天皇がまっすぐに神代につながっている。天皇譜と神話の神々の世界とが一直線につながっているのです」。
 ・「日本の天皇は神話によって根拠づけられ、神話と王権が直結している」。
 ・「神話とつながるということは、自然万物とつながるということなのです。日本の天皇の場合は神話の世界とも、自然とも全部つながっている。これは世界に類例がありません」。
 ・豪族の祖先も「神話」に出てくるので、「われわれは祖先崇拝を通じて神話とつながっている」。
 ・神話学者は理解できない。「過去の日本人にとっては、神話は学問化されない何物かであり、天皇の存在とつながった信仰の対象でもあったのです」。
 ・「宗教にとって重要なのは自らの信仰であって、知識ではありません」。
 ・「研究の対象が、信仰や神話…になりますと、相手は自然現象ではなく、人間の心です。自分の心の客観化など不可能なことです」。「信仰がどういうことかを知ることは、物体の法則を知ることと同じではない」。
 ・「つまり、信じるということは、一つを信じることであって、あれもこれも信じるということではないのです」。「かように、宗教というものは科学とは正反対なものです」。
 ・「近代科学」、「合理的な学問」に対して仏教にはまだ抵抗力があったが動揺し、「神話はもっと大きな深刻な打撃を受けました」。
 ・「神話を虚構化」した「合理主義者」の津田左右吉を引き継いで戦後に「神話破壊の現象」を出現させた「その筆頭が丸山真男です」。
 ・津田史学は今なお「猛威」を奮っていて、「古代史において『日本書紀』をきちんと読まないで『魏志倭人伝』ばかり持ち上げるのも、同じ合理主義の現れです」。「中国語で書かれた歴史を信じて、なぜ日本人が書いた歴史を信じないのか」。
 ・「日本の神道の場合は、何が入ってきても全部習合したため、無垢でありつづけることができた。しかし、近代化に対峙したときに、今度こそ大きな危機にさらされることになった」。
 ・「日本の神話の危機、日本の神道の危機は、日本そのものの危機と言っていいかもしれない」。
 ・「日本は神の上に神があり、またその上に神があって、絶対の神がない。無限定の神は何をも自らの神にすることが出来るという包容力とフレキシビリティがある。そのことは日本の深い強さであると同時に、近代科学文明というものにさらされたときにはある種の大きな脆さであるようにも思える」。「理論までも外から得て自己を防衛することはできません」。
 ・「日本人の持っている長い歴史には、歴史が物語っている何かがある。…、日本人の中に自ずと宿っている生命感、神秘感といったものを回復することが重要だと思います」。
 ・日本の「神話」は、「物語—こうした神話らしい楽しいお話」がある、「…文学」でもあり、「生命というものを感じさせる話が多い」。それを「ことごとしい科学分析の対象にしても仕方がない」。
 ・「神話がまっすぐ天皇制度につながっているということで、近代以降神話は解体の危機にさらされている」が、「もし王権につながってこないのなら日本の神話はほとんど意味がない」。
 ・「神話が王権の根拠になっていることが、世界史の中で日本民族が自己を保っている唯一のよりどころなのです」。
 ・「日本人は外のものをもう借りない」。自分で「再構成」し、自分が「発信者」になる。そのときに、「日本人のこれからの文明の発展と自己回復力の源」になるのは、「神話に表現されているような自然と自己の同一性といったもの」だと信じている。
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 以上。
 日本・日本人・日本民族への強いこだわりは別として、凡人の秋月でも気づくような「仏教」認識の誤り、<こころ・神話>と<物体・科学>の単純で幼稚な対置・二分論、「神話に表現されているような自然と自己の同一性といったもの」等々の実体がほとんど不明の空疎な言辞、「生命」に言及する等のニーチェの影響があると見られる表現、等々、感じることは多い。
 また、この人にとって、—上の一の2017年、2019年の文章では明確でなかったが、この文章では—「神話」とは王権・「天皇」の生成・存続の根拠であり、かつ「神道」と全くかほとんど同一のものであることも確認できる。
 興味深く、かつ重要なのは、明らかに「仏教」よりも「神道」が優先されていることにも関連して、つぎだ。
 この「危機に立つ神話」は、「日本青年協議会・日本文化研究所共催」の「セミナー」での「講演」記録だと末尾に明記されている。p.235。
 後者は前者の関連団体。
 この講演は、西尾が「つくる会」の会長だった2000年に行われた。 
 しかし、興味深いことに、「つくる会」の実質的分裂または縮小化のあった2006年以降に、西尾幹二は、「日本青年協議会」について、こう発言した。2009年のこと。
 ・「日本青年協議会、これは日本会議の母体で、日本会議はこれの上部団体ですから、今でも日本青年協議会は存在し、組織は日本会議と一体です」。
 ・「日本会議」に「『新しい歴史教科書をつくる会』なんてえらい被害を受けた」。「会はすんでのところで乗っ取られにかかり、ついに撹乱、分断されたんです。悪い連中ですよ」
 ・「日本会議」の「正体がよくわかったので、残された人生の時間に彼らとはいっさい関わりを持たないでいきたいと思います」。
 以上、西尾幹二=平田文昭・保守の怒り(草思社、2009)
 →No.2464「四付」
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 以降へと、つづく。

2263/「わたし」とは何か(1)。

 一 ときどき覗いているネット上の<松岡正剛/千夜千冊>の最近の思構篇/1757夜は、リチャード・ゴンブリッチ・ブッダが考えたこと—プロセスとしての自己の世界(邦訳書、2009•2013)についてだ。いつもよりかなり長くて、西欧におけるブッダ・仏教の理解等に論及する。興味深かったので、一週間ほど前に一気に読んでしまった。そして、今は内容の詳細をほとんど忘れた。
 上の書の邦訳者である浅野孝雄(東京大学医学部卒、脳神経学者、と松岡はとりあえず紹介する)の著書・別の邦訳書に関心を持ったので、松岡が言及しているつぎの二つを入手してみた。
 1 浅野孝雄・古代インド仏教と現代脳科学における心の発見(産業図書、2014)。
 2 浅野孝雄訳/ウォルター・J・フリーマン・脳はいかにして心を創るのか—神経回路網のカオスが生み出す志向性・意味・自由意志(産業図書、2011)。
 何と魅力的な主題だろうか。
 後者にある浅野の訳者あとがきによると、フリーマン(1927〜)は物理学・数学、電子工学、哲学、医学、内科学・神経精神医学をこの順で学び、1995年以降、Berkeley の「神経生物学」教授。多数の賞を受け、「哲学」の講義をしたこともある、という。
 この邦訳書の冒頭には日本の読者向けに分かりやすくまとめてもらったという著者の「日本語版への序論」が20頁ほど付いているが、全く理解不能ではないものの、まだむつかしい。
 二 ウォルター・J・フリーマン/浅野孝雄訳・脳はいかにして心を創るのか(2011)の目次のあとの本文・第一章の最初からしばらくは、まだ理解することができ、かつ興味深い。こうだ。
 ——
 「あなたを操っているのは、いったい誰」か。「あなた自身なのか、それともあなたの脳なのか」。もし「あなたの脳でない」とすれば、操っている「あなたとは一体何なのだろう」。
 ルネ・デカルトは「脳を含む身体を、魂が動かす機械」だと考えた。彼によると、「あなた自身が、あなたの脳を統御している」。
 しかし、近年の脳科学は「あなた」または「あなたの脳」がいくぶんかでも「支配力」をもつとの考えを否定する。「神経遺伝学者」は、…。「神経薬理学者」は、…。神経科医師は処方薬を飲むか否かの自由を認めるが、「社会生物学者はその自由さえも奪って」しまう。あなたが薬を服用するのは「幼少時の教育によって形成された従順な行動様式」に従っており、服用しないとすれば「両親に対するあなたの反抗的態度の社会的反復」にすぎないのだ。
 「生まれついた」からか「育てられた」からかという、長く続く生まれ・育ち論争の「核心」にあるのは「遺伝的・環境的決定論という教義」だ。だが、この教義は「あなた自身の積極的関与を否定し、あなたの全ての決定が周囲環境によって強制された」とする点で、大きな問題を孕む。この決定論は、キリスト教神学における運命予定説の遺残」にすぎない。
 以上、上掲書1-2頁。6頁くらいまでは読んだが、省略する。

2221/J・グレイ・わらの犬(2002)⑪-第4章02。

 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。=<わらの犬-人間とその他の動物に関する考察>。
 邦訳書からの要約・抜粋または一部引用のつづき。邦訳書p.136-9。
 第4章・救われざる者(The Unsaved)
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 第5節・ホメロスのハゲタカ(Homer's Vultures)。
 ・「ニーチェの超人は、人類が…奈落の底に落ちこむのを見る。絶大な意志の行使によって、超人は人間をニヒリズムから救い出す。」
 「ニヒリズム」が掲げる理念は「人間が無意味の深淵から救われる」ことだが、「キリスト教が登場する以前、世にニヒリストはいなかった」。
 ・ホメロス・イーリアスには「ニヒリズム」はない。そこでの神々は、「ハゲタカ」になっても「人間を救わない」。「もとより救うべきほどの何もない」。
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 第6節。死すべき運命(In Search of Mortality)
 ・「仏陀は自己の滅却(extinction of the self)に救いを求めた」が、「自己のないところ」での「救い」とは何か。
 「涅槃(Nirvana)は煩悩を離れた悟りの境地」だが、「自然に任せておけばだれもが…手にする以上のもの」を約束しない。
 「死は、生涯の苦行の後に仏陀が約束した平穏を万人にもたらす」。
 ・「動物はなぜ、煩悩から解脱する」のを願わないのか。「輪廻転生」(the round of rebirth)を知らないからか。「考えるまでもなく、生死をくり返すことはないと知っているからか」。
 ・「仏教は、死すべき運命の模索」で、仏陀は「輪廻転生の迷いから脱する悟りの道」を説く。
 「死すべき運命を知っている人間」は、仏陀が追求した道に「すぐ手の届く」ところにいる。「救いが約束されている以上、人生の快楽を否定することはない」。
 *
 第7節・死にゆく動物(Dying Animals)
 ・「自分の死を思い描ける」ことで人間は動物と異なるとされる。だが、「死んでどうなるか」を動物以上に知らない。「生命活動の停止」と理解しても、「それが何を意味するか」を知らない。
 「時の経過」を人間が恐れないのは、「いずれ死が訪れる」ことを知っているからだ。「時間に抵抗」するのは「死を恐れて」いるからだ。
 「動物が人間ほどには死を恐れない」のは、「時間に縛られていない」からだ。
 ・「自殺」は「人間の特権」だと言うのは、「人間と動物の死に方になんの違いもない」ことを理解していない。肺炎、麻酔薬、…、ほんの少し前まで人間は「進んで死に向かい合っ」て、「多くは猫が静かな場所を捜して息を引き取るのと同じ本能で死を願った」。
 ・「道徳」が生まれて、「そのような死に方は忌避される」に至った。「選択の自由が一種の信仰」である現代では「死を選ぶことは許されない」。
 人間と動物の違いは、「人間が異様なほど生に執着する」に至ったことだ。
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 第8節・クリシュナムルティの重荷(Krishnamurti's Burden)
 ・19世紀末以降のカルト集団が「現代の救世主」に祭り上げたクリシュナムルティは、「重荷を一身に引き受け」られないとしてその役割を否定した。彼の教えは「古来の神秘主義」と多々共通する。
 ・「人間は動物と共有している生き方を捨てきれず、また、捨てようと努めるほど賢くもない。
 不安や苦悩は、静穏や歓喜と同じ人間本来(natural)の心情である。
 自身のうちにある獣性を脱却したと確信すると、そこで人間は偏執、自己欺瞞、絶えざる動揺といった固有の特質をさらけ出す。」
 ・クリシュナムルティの生涯は「並はずれたエゴイズムの貫徹」で、他人には「無私無欲を説き」、自分は「神秘的な陶酔」を「ありきたりの癒やし」と結びつけた。
 ・彼の生き方は何ら不思議ではない。「獣性を排斥する者は人間をやめるわけではなく、ただ自分を人間の戯画に仕立てる」だけだ。
 「よくしたもので」、「大衆は聖人君子(the saints)を崇める反面、同じ程度に忌み嫌う」。
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 第9節以降につづく。

2209/折口信夫「神道の新しい方向」(1949年)②。

 折口信夫「神道の新しい方向」(1949年)②。
 折口信夫全集第20巻/神道宗教篇(中公文庫、1976)より。②はp.464以下。原出/1949年06月。
 ***(つづき)
 ②。
 ・「只今におきましても、神道の根源は神社にあり、神社以外に神道はない、と思っていられる方が、随分世の中にあるだろうと思います。
 それについて、なお反省して戴かなければならない。
 相変わらずそうして行けば、われわれは遂に、西洋の青年たちにも及ばない、宗教的情熱のこれっぱかりもないような生活を、続けて行かなければならないのです。
 思うて見れば、日本の神々は、かつては仏教家の手によって、仏教化されて、神の性格を発揚した時代もあります。
 仏教教理の上に、そういう意味において、従来の日本の神と、その上に、仏教的な日本の神というものが現れてまいりました。
 しかし同時に、そういう二通りの神をば信じていたのです。
 しかもその仏教化せられた日本の神々は、これは宗教の神として信じられていたのではないのです。
 たとえば法華経では、これに附属した教典擁護の神として、わが国の神を考え、崇拝せられて来たにすぎません。
 日本の神として、独立した信仰の対象になっていた訳ではありません。
 だから日本の神が本道に宗教的に独立した、宗教的な渇仰の的になって来たという事実は、今までの間になかったと申してよいと思います。」
 ・「日本の神々の性質」は「多神教なものだという風に考えられて来ておりますが、事実においては日本の神を考えます時には、みな一神教的な考え方になるのです」。
 例えば、多数の神があっても「天照大神」、「高皇産霊神」、「天御中主神」のいずれかを感じるというように、「一個の神だけをば感じる考え癖」がある。
 「最卑近な考え方では、いわゆる八百万の神というような神観は、低い知識の上でこそ考えておりますが、われわれの宗教的あるいは信仰的な考え方の上には、本道は現れてはまいりません」。
 日本の信仰にはそういう風があると見えて、「仏教の側で申しましても、多神的な信仰の方面を持ちながらも、その時代時代によって、信仰の中心はいつでも移動いたしておりまして、二三あるいは一つの仏・菩薩が対象として尊信されてまいりました。
 釈迦であり、観音であり、あるいは薬師であり、地蔵であり、そういう方々が中心として、信じられていたのです。
 これが同時に日本人の信仰の為方でと思います」。
 ・日本人が「数多の神」を信じているように見えても、「やはり考え方の傾向は、一つあるいは僅かの神々に帰してくるのだと思います」。
 「植民地に神社を造った」経験からは「皆まづ天照大神を祀っております」。この考え方は「間違った考え」を含んでいた、または「指導する神道家が間違った指導をしていた」ことを意味するのだろうが、「その間違いの根本に、そういう統一の行われる一つの理由があった。
 つまりどうしても、一神に考えが帰せられなければならならぬというところがあったのだと思います」。
 ・「神社において、あんなに尊信を続けられて来たという風な形に見えていますけれども、神その方としての本道の情熱をもっての信仰を受けておられたかということを、よく考えて見る必要があるのです。
 千年以来、神社教信仰の下火の時代が続いていたのです。
 ギリシア・ローマにおける『神々の死』といった年代が、千年以上続いていたと思わねばならぬのです。」
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 ③につづく。
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 現在読みかけの本を4つだけ。
 1. 飯倉晴武・地獄を二度も見た天皇-光厳院(吉川弘文館/歴史文化ライブラリー、2002)。
 2. 及川智早・変貌する古事記・日本書記(ちくま新書、2020)。
 3. 安西祐一郎・心と脳認知科学入門(岩波新書、2011)。
 4. 松岡正剛・心とトラウマ(角川ソフィア文庫、2020)。

2194/折口信夫「神道の新しい方向」(1949年)①。

 折口信夫「神道の新しい方向」同全集第20巻/神道宗教篇(中公文庫、1976)より。p.461以下。原出/1949年06月。一文ごとに改行。太字化は秋月。
 ***
 ・昭和20年の終戦前、「われわれには、この戦争に勝ち目があるのだろうかという、静かな反省が起こっても来ました」。
 不安でした。「それは、日本の国に果して、それだけの宗教的な情熱を持った若者がいるだろうかという考えでした」。
 ・「日本の若ものたちは、道徳的に優れている生活をしているかも知れないけれども、宗教的の情熱においては、遙かに劣った生活をしておりました」。
 「それが幾層倍かに拡張せられて現れた、この終戦以後のことでも訳りますように、世の中に、礼儀が失われているとか、礼が欠けているところから起る不規律だとかいうようなことが、われわれの身に迫ってきて、われわれを苦痛にしているのですが、それがみんな宗教的情熱を欠いているところから出ている。
 宗教的な、秩序ある生活をしていないから来るのだという心持ちがします。
 心持ちだけではありません。
 事実それが原因で、こういう礼儀のない生活を続けている訳です。
 これはどうしても宗教でなければ、救えません。」
 ・「ところが唯一ついいことは、われわれに非常に幸福な救いのときが来た、ということです。
 われわれにとっては、今の状態は決して幸福な状態だとは言えませんが、その中の万分の一の幸福を求めれば、こういうところから立ち直ってこそ、本道の宗教的な礼譲のある生活に這入ることが出来る。
 義人の出る、よい社会生活をすることが出来るということです。」
 ・「しかし時々ふっと考えますに、日本は一体宗教的の生活をする土台を持っているか、日本人は宗教的な情熱を持っているか、果して日本的な宗教をこれから築いてゆくだけの事情が、現れて来るかということです。
 事実、仏教徒の行動などを見ますと、<中略>というような感じのすることもございます。
 殊に、神道の方になりますと、土台から、宗教的な点において欠けているということが出来ます。」
 ・「神道では、これまで宗教化することをば、大変いけないことのように考える癖がついておりました。
 つまり宗教として取り扱うということは、神道の道徳的な要素を失って行くことになる。
 神道をあまり道徳化して考えております為に、そこから一歩でも出ることは道徳外れしたもののようにしてしまう。
 神道は宗教じゃない。
 宗教的に考えるのは、あの教派神道といわれるものと同様になるのだという、不思議な潔癖から神道の道徳観を立てて、宗教に赴くことを、極力防ぎ拒みして来ました。」
 ・「…、明治維新前後に、日本の教派神道というものは、雲のごとく興ってまいりました。
 どうしてあの時代に、教派神道が盛んに興って来たかと申しますと、これは先に申しました潔癖なる道徳観が、邪魔をすることが出来なかった。
 いったん誤られた潔癖な神道観が、地を払うた為に、そこにむらむらと自由な神道の芽生えが現れて来たのです。」
 ・「ただこの時に、本道の指導者と申しますか、本道の自覚者と申しますか、正しい教義を持って、正しい立場を持った祖述者が出て来て、その宗教化を進めて行ったら、どんなにいい幾流かの神道教が現れたかも知れないのです。
 それから幸福な、仮に幸福な状態が続いてまいりました。
 その為にまた再び、神道を宗教化するということが、道徳的にいけない、道徳的な潔癖に障るような気持ちが、再び盛んに起こってまいりました。
 そうして日本の神道というものは、宗教以外に出て行こうとしました。」
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 ②につづく。折口信夫、1887年~1953年。

2170/折口信夫「神道に見えた古代論理」(1934)。

 折口信夫全集第20巻-神道宗教篇(中公文庫、1976)より。
 折口信夫「神道に見えた古代論理」(1934年)。p.416~の一部。
 一文ごとに改行する。旧字体を原則として改める。
 ***
 ・「神道の歴史において、一番に考えなければならない事は、神道の極めて自然に発生的に変化してきたという以外に、なお不自然に飛躍してきた部分のある事である。<中略>」
 ・「しかし、じつは我々の知識による判断であるから、自然的な或いは不自然的な発展過程だと明確に決め込むには、十分の警戒を要する事である訳だ。
 たとえば仏教が社会を規定していた時代には、仏教的な神道が生まれ、儒教が世間の指導精神となっていた時代には、儒教的な神道が現れたのである。
 がしかし、なおも陰陽道が盛んになる以前の古い時代においても、種族的な信仰としての陰陽道が神道にとり入れられ、神道の神学の一部を形成したこともあるに違いない。
 これは、じつは元来宗教的に何の立場もない神道として、如何ような説明でも出来たためである。
 だからその発達の途中にとり入れられたものでも、時代を経るに従うて自然的なものになって、後の神道観からは、こう言うものが神道の最初から存在し、発達してきたと見る事もあり、また観者の中には、神道の中にある陰陽道的要素或いは仏教的要素などをば、それだとするを潔しとしない者もあるのだ。
 従って我々には歴史の経過以外に、素朴なものの考えられ様はないのだから、神道要素として含まれている仏教・陰陽道・道教・儒教などをば取り除いて見れば、神道と考えられるものがなくなる訳である。
 と同時に、我々の神道に対する従来の先入主を取り去って考えなければ、結局神道についての正常な理解は得られないのみならず、事実、人間の思考においては最初の出発点について考えることは空想なのだから、不用意な推定には必ず誤りが混じてくるのである。」
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 折口信夫、1887年~1953年。

2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。

 「死は事実ではない。概念である」。
 ある霊長類学者によると、ニホンザルは仲間の「死」を理解できない。
 「私たちホモサピエンスは、その進化の過程で、いつの時代にか死を発見した」。
 「死」の「理解」・「概念化」・「認識」があった。
 「死の発見は、ホモサピエンスに、絶望的な恐怖とともに、精神世界のビッグバンをもたらした。
 生と死の認識、つまり霊魂観念と他界観念の発生である。それは、宗教の誕生であった。」
 新谷尚紀監修=古川順弘執筆・神様に秘められた日本史の謎(洋泉社新書、2015)、「はじめに」。
 神道・神社・宗教に関する、かなりの数の書物に目を通した。
 上の本は、かなり上質だと思える。
 上の叙述のあと、さらにこうある。p.5。
 人間が「想像し創造した」、日本の「神さま仏さま」の「歴史的な追跡と整理」は可能だ。
 第一は、古代の動向の整理だ。
 ①「古代日本の神々への信仰とその伝承」。
 ②「中国から伝来した陰陽五行の思想や道教の信仰などの受容とその消化と醸成」。
 ③インドから中国、韓半島を経て「日本に請来され」、その後も7ー9世紀の遣唐使随行の僧侶たちにより「請来された圧倒的な仏教信仰」。
 これら三者が「古代社会において大きな奔流となっていった」。そして、「併存混淆状態であった」。簡単には、①「神祇信仰」、②「陰陽五行信仰」、③「仏教信仰」。
 第二は、「中世神祇信仰の複雑奇妙な動態」。
 上の①も「古代のまま」ではなく、②も「卜占や防疫や呪術の信仰として中世的な進化を遂げ」、③も「顕密体制の根底を維持」しつつ、新仏教の伝来・発達により「動揺しまた活性化」した。
 「武家政権の誕生と大陸貿易の活性化」により、「新たな中世的神仏信仰や霊異霊妙信仰」が生まれた(祇園天神・牛頭天王、毘沙門天、泰山夫君・新羅明神など)。
 以下は、省略。
 上の①「神祇信仰」=「古代日本の神々への信仰とその伝承」は、今日でイメージされる「神道」ではないと考えられる。
 少なくとも、津田左右吉も指摘していただろうように、日本人(日本列島生活者たち)の「民俗的宗教」または「宗教的信仰」と律令制下の国家(・天皇家)が束ねる「神祇信仰」とを分ける必要がある。そして、いずれも、つまり後者ですら、今日にいう「神道」と同じものだとは言い難いだろう。
 櫻井よしこのつぎの文二つは、<あほ丸出し>だ。
 「古事記」は、「日本の宗教である神道の特徴を明確に示しています」。
 =櫻井よしこ・月刊正論2017年3月号(産経)。
 「神道の価値観」は「穏やかで、寛容である。神道の神々を祭ってきた日本は異教の教えである仏教を受け入れた」。
 =櫻井よしこ・週刊新潮2019年1月3日=10日号(新潮社)。
 <仏教伝来>以前にあったという「神道」とは、いったい何のことか?
 常識に属するが、日本書記や古事記の編纂は<仏教伝来>よりも後のこと。
 ところで、上の新谷尚紀監修著の特徴の一つは、「神祇信仰」・「仏教信仰」と「陰陽五行信仰(+道教信仰)」を並列させることだろう。むろん「併存混淆状態」だったことを前提としてだ。
 その的確さを判断する資格・能力はないが、今日では「神道」でも「仏教」でもなさそうな宗教的「信仰」・「儀礼」・「習俗」が現に存在しているのは確かだろう。
 太古の日本人(日本列島居住者たち)は「時間」や「方位」をどうやって感得し、把握したのだろうか。
 何らかの知識を蓄えていたに違いない。そうでないと、生き残ることはできない。
 だが、おそらくは公式の仏教伝来以前から、半島や大陸の人々との交流を通じて、「時間」(=つまり「暦」)や方向・方位に関する、より綿密で体系的な「知識大系」を得てきたのだろうと推察している。
 以下は、付け足しの、ほとんど断片的記述。
 「干支」による年表記を、日本書記も古事記も用いている。
 干支、そして「えと」は、日本「古来」のものか? 違うだろう。
 「鬼門」(表鬼門・裏鬼門)封じは、日本「古来」の「神道」上のものか? 違うだろう。
 京都御所を取り囲む塀の東北角には「猿が辻」といわれる、「へこみ」が、現在でもある。
 「五芒星」のマークが、晴明神社の石鳥居についている。晴明神社は神社だから、これは「神道」の何らかの表徴なのか? 違うだろう。安倍晴明は神道者か?
 「妙見」信仰というのは北極星または北斗七星への信仰らしい。そして、これを神仏とする、今の分類でいう仏教寺院も神社もあるようだ。
 これらは全て、櫻井よしこのいう<神道の穏やかな寛容さ>によって生まれたのか? 馬鹿なことを書かない方がよい。
 無知か、何らかの<政治的>動機にもとづいている。後者だとすると、日本会議、神道政治連盟、神社本庁の「運動」員・「活動」員としてのものだろう。

 *下は、京都御所の北東角・「猿が辻」(かつて撮影したもの)。

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2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。

 京都・泉涌寺直近の、宮内庁管理地だが実質的には同寺境内と言い得る月輪陵・後月輪陵の葬礼様式は仏教・火葬で、孝明天皇についての後月輪東山陵は神道・土葬だ、というのは幼稚かつ単純な誤解だった。
 前者の区画でも土葬は行われている。火葬-仏教、土葬-儒教または神道という対照関係は日本では成立していなかったようだ。
 前者-仏教様式、だとしても、後者=孝明天皇陵-神道様式、だと明確に断定できるかというと、後者についてはなお疑問符がつく。
 1868年09月-明治改元(1月に遡及)。
 同年03月-五箇条の御誓文。神仏判然令。
 同年01月-鳥羽伏見戦争。
 1867年12月-大政奉還・倒幕の密勅。坂本龍馬暗殺。王政復古宣言。
 同年01月-明治天皇践祚。
 1866年12月-孝明天皇崩御。
 孝明天皇の死はまだいちおうは「公武合体」政策上にあったが尊王・倒幕の動きが強くなっていたときに生じた。
 「政治」体制・過程とともに「宗教」、そして「葬礼」の様式についての意識変化も生じていたようだ。
 1867年に入ってからの、孝明天皇陵の造営に関する興味深い文書が、つぎの著に紹介されている。
 大角修・天皇家のお葬式(講談社現代新書、2017)。
 実際に造営が行われ、現在に残る孝明天皇陵にとってどの程度決定的だったかは著者も明記していないが、大きな影響を与えただろうと推察される。
p.100ー101によると、<孝明天皇紀>に収載されている文書のようだ。
 幕府に置かれ、山陵(天皇陵)の管理を職掌とした山陵奉行・戸田忠至(宇都宮藩)は、孝明死後に、大角修がつぎのように要約する文書を提出した。p.101ーp.102。
 「仏法伝来以後、上古淳朴の習わしが失われ、この数百年は玉体を灰にして九輪塔をたてるようになったのは恐懼悲嘆の至りである。
 後光明天皇から火葬は廃止されたけれども、その後も山頭堂(荼毘所の葬場殿)で荼毘の作法が行われている。
 山頭堂から廟所までは僧たちが密行と称して、表面は火葬、内実は埋葬と称している。
 このような表裏不合の葬礼では四海臨御の皇室の傷にもなると痛哭する。
 名分国体は天下人心の向背にかかわることなので、元来の埋葬に戻してほしい。」
 これの原文・読み下し文も掲載されているが、それをさらに秋月流に「くずして」紹介すると、つぎのとおりだ。「」は上掲書での原語。
 <今般、御陵御造営のこと、取り調べて進達するよう、広橋大納言殿から言いつけがあった。
 「中古、仏法渡来已後」、造営の様式も変革されて、ついに「上古淳朴の風」、「刻薄残忍」になってしまい、「持統天皇に始め奉りて御荼毘」のこと、代々「御常例」となり、「恐れ乍ら万乗〔天子〕の玉体を一旦灰燼に委せ奉り」、九輪石の御塔を「御表」としてしまうのが「数百年来」の御定制となり、「遷延〔ずるずると延びて〕今日に」至ったことは、「恐懼悲嘆の至り」である
 ……、「後光明天皇御新喪御時より御火葬廃され」たけれども、その後、「御代々」の葬儀では「御龕前堂へ入御、御式なされ、済夫より山頭堂〔荼毘所〕にて御荼毘の御作法」がある。
 その場所から御廟所までは「寺門僧徒とも御密行と称」して「御表面は御火葬、御内実は御埋葬」と言っている、と存じている。<中略>
 「勿体なくも一天万乗の大君として表裏不合の御礼節」があることは「四海臨御の御体裁」として、恐れ乍ら「御瑕瑾にも渡さるべきかと痛哭」いたしている。<中略>
 「断然内外一致の御埋葬の御礼儀に復され、右御荼毘無実の御規式一切御廃止」となるように、していただきたい。
 まさに「名分国体は天下人心の向背に関係」しているので、「右」を早々に「御英断」し、「臣子忠孝の標準、御教誨」をすることがなければ、御陵のことは「取調」することができないので、「微衷」を申し上げる。…>
 この上申文書が大きな影響を与えたにちがいない。実際には、つぎのように変わったようだ。p.102以下。
 ①後光明天皇の葬礼以後は火葬〔荼毘に付す〕をしなくなったが、それまで(仁孝天皇まで)の火葬の際の仏教的「密行」を同様に行ってきたところ、これを廃止した。
 ②これまでは遺体の入る「棺」を「廟所」(陵所)まで運んだのは「僧」だったが、「御所衛士と戸田忠至が手配した人夫がかつぎ」、戸田が先導して登って「地中の石槨に棺を納めた」。
 要するに、「仏式」の排除、「仏僧」の関与の排除が明確だ。後者は江戸時代は、泉涌寺の僧侶たちだったのだろう。
 しかし、第一に、「火葬」の否定の趣旨は明確だとしても、火葬ではなく土葬が「上古淳朴の風」に合致することの根拠が明確に語られているわけでもなさそうだ。持統天皇の名を明記して、それ以来まずくなった、とは言っている。「玉体を一旦灰燼に委せ」るのが怪しからんと、明確に述べているのかどうか。
 また、第二に、火葬の否定よりも、実際には火葬ではないにもかかわらずそのふうの儀礼を(仏教式で)行っているという、つまり「御表面は御火葬、御内実は御埋葬」で、「御荼毘無実の御規式」が「表裏不合」だということを、強調しているようでもある。
 仏教色排除という「変革」の方針だけは明確であっても、天皇・皇族の陵墓の様式や葬礼の仕方について、「宗教」的または「思想」的な深い、確固たる考え方を前提にしていたわけではなさそうに見える。それでもしかし、数百年の「慣例」を破る「新しい」ものではあった。
 なお、戸田らはもともとは、孝明天皇の陵地自体を、泉涌寺近辺を排して、吉田山(吉田神社がある)または天智天皇山科陵の丘を構想していたようだ。p.102。
 泉涌寺=仏教寺院からの、地理的にも完全な離脱だ。
 しかし、泉涌寺関係者の猛反対があり、また英照皇太后(孝明の后)が多数の陵墓のある泉涌寺から「ひとり先帝だけ」遠ざけるのは「しのびず」、泉涌寺以外では「十分に供養ができない」として泉涌寺(付近)を望んだことで、結局は現在の後月輪東山陵となった、という。同上。
 よくありがちな、折衷的、妥協的解決だ。
 孝明天皇陵へは、今でも泉涌寺の名を掲げる「総門」を入らないと到達できない。同寺の境内にある、という感覚が生じてもやむを得ないだろう。
 しかし、仁孝天皇までの月輪陵・後月輪陵は山丘の西麓の平面地にあって、両区画への一つの入り口となる門がある。泉涌寺霊明殿から東を向いて供養・読経する場合に、ほぼ正面に各陵墓はある。陵墓には九重石塔があるなど、仏教式だ。
 一方、孝明天皇陵は山丘中腹にある円墳様式で、南面していると見られる。つまり、拝礼場所は、円墳の南側にある。泉涌寺内の霊明殿と向かい合っていない。なお、これを造営できるだけの丘が泉涌寺の東に存在しなかったとすれば、孝明天皇陵は別の箇所に築かれたのではないだろうか。
 明治天皇陵以降は、仏教寺院近辺には設営されなくなる。

 **以下、すべてネット上より。
 一段め左は、上が北。同右は、孝明天皇(+英照皇太后)陵への門(西向き)。
 二段め左は月輪陵・後月輪陵。同右の地図は再掲。


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2131/津田左右吉・日本の神道(1948)-第1章④。

 津田左右吉・日本の神道(1948)/同全集第9巻(1964)。
 第1章・神道の語の種々の意義。紹介のつづき。
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  「神」の語が形容詞として用いられることもある。なお、古典的シナ語では品詞の区別が語形に現れない。
 道家の「神人」の「神」は「道を得た人」の形容であり、シナを「神州」、天下・帝位を「神器」とするのも同じ。いずれも「宗教的意義での神」から転化したものだろう。
 後世でも同様だが、「道教」で「人の形を備えた」「神」への崇拝が始まったように、変化もある。これは「仏または仏教に伴って伝えられたインドの神に関する知識」が誘った趣もある。「仏そのものが神と称せられてもいた」のだから。そして、「仏を宗教的祭祀の対象」と見たからで、「シナにもとからあった神」との区別のために「胡神戎神」という語も作られた。六朝時代の仏教徒が主張した「神不滅」論では、「神」は「形」に対するものだが、現代的意味での「霊魂」の性質をも付与されていたようだ。
  以上のとおりだから、「神道」に種々の意義があるのは当然だ。
 「神」の語は「宗教的意義」をもって、「とくに祭祀の対象」として用いられたから、「祭祀祈祷」または広く「宗教」が自然に「神道」と称せられることとなる例は多く、「仏教もまた神道と言われてきた」。
 「神道」の語は「神を祭る道」、「神についての道」の意味だろうが、「神」を形容詞と見てもよいようだ。そして、形容詞として使われつつ、「宗教的意義」のない「神道」という呼称もある。「道家の道が神道と呼ばれたことがある」のもその例だ。道家が「虚静無為の境地にあるもの」を「神」と称したとすれば、「神道」は「神を説く道」かとも思われるが、「道家の道」=「神道」というのはむしろ、晋代に「易」と道家が結びついたことによるのだろう。
 呪術・その他の方術を「神道」と称するのは、「神」を「不可思議な働き」の意味で用いてその「術」を形容したものだ。
  日本書記で「日本の民族的宗教としての神の崇拝が神道と称せられている」のは、「宗教的意義での神道の名を日本に適用してもの」だ。「ただ、仏が神と言われ、仏教が神道と称されていた実例がシナには多く、日本でも仏が神と呼ばれたことがあるから、仏教に対立するものとしての従来の民族的宗教に神道の名を負わせたことは、この点から見て少しく異様の感があるようでもある」。
 だが、「久しい前からカミの語には神の字があてられていたのと、書記編述のころには、仏を神と呼ぶ習慣もすたれていたようであるのと、この二つの事情から、こういうことが行われたのであろう」。
  こうして「神道」との名称が用いられはじめたが、後世には日本語化して、「神の道」と言うようにもなった。もとの日本語に「神の道」という語があったのではない。「道」という語をこういう趣旨で使うのはシナに限られる。
 人が歩行する道の意味が転じて、「人の行為の規範」、「事物に対する理法」、そしてこれらに関する一定の「教説」、現代語での「主張」の如きもの、または「特殊の知識技術」を指すに至ったのであって、「神道」の「道」もそういう転化しての意味だ。
 日本でも後に、慈遍が「皇道」を、真淵が「神代の道、皇神の道」、宣長が「神の道、日の大神の道、日のみこのうけつたへます道」、「神のみ国」等を言うのは、シナの用例に倣ったものだ。真淵や宣長が「特に」こういう言い方をするのは、「道」を日本語で表現しようとしたからだろう。
 たんに「神道」でも大きな支障はないにもかかわらずこうした語を作った点に「彼らの国学者的態度がある」けれども、「そのじつ、こういう意義で道ということを言うのは、シナ思想を受け継いだものである」。彼らがこうした語を作ったのは「旧来の神道」を非として自分たちの主張は「違う」と示そうとしたのだろうが、「道の語を用いた」ことは、以上のように「考えねばならぬ」。
  「神ながらの道」という語は〔平田〕篤胤に由来するのかさらに〔本居〕宣長に由来するのかは不明だが、「宣長の門下のもの」が使い始めたようだ。
 「神ながら」の語は続紀上での宣明や万葉の歌にもしばしば出るが、これは「道の名でもなく道とすべきことでもない」。古典には「神ながらなる道」は決して見えない。
 篤胤は「惟神」、「神随」を「カミナガラ」に当てた。書記・孝徳天皇大化3年「惟神」の訓読みとその条の注記があるために、「カミナガラ」と「神道」に何らかの関係がある、またはこの語が「神道の中心観念」の表現であると憶測され、「神なからの道」の語が思い浮かばれたのだろう。そして、いったんこの語が出現すると「神道」と同じ昔から、いや「それよりも古く」からあったと世間で「錯認」され、「神なからの道」の語も用いられるようになった。明治初年の大教宣布の詔にも公式に、「惟神之大道」という語がある。
 しかし、「惟神」の二字は「カミナガラ」の語を写しておらず、独立した概念ではなくて、文章の主語はあくまで「神」で、「惟」は発語にすぎない。誤った訓み方が定着し、「後の学者もこれらのことに気づかず」、そうして「神ながらの道」という語が作られ、かつ「古い語」のように思われてきたのだ。
  ①「神道の名に種々の意義」があること、②それが元々は「シナの成語を適用した」ものであること、③それが「いかにしていかなる意義で日本に用い初められるようになった」かは、上記で「ほぼ明らかにせられたと思う」。
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 以上で、第1章は終わり。

2120/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史13②。

 小倉慈司・山口輝臣・天皇と宗教/天皇の歴史09(講談社、2011)。
 上の書のうち山口輝臣担当部分から、いくつかを抜粋・要約または引用しておこう。
 私自身を含めて、何らかの通念・イメージ・「思い込み」が形成されてきているので、そうした<通念>とは矛盾するような資史料・文献・事実等を、著者はある程度は意識的に採用している可能性はあるだろう。但し、私が要するに無知・勉強不足だっただけかもしれない。
 まず取り上げたいのは、「宗教」それ自体が、あるいは「神道」がどのようにイメージされていたか、だ。
 第一。旧憲法・旧皇室典範は<宗教宣言>(国家自体の「宗教」に関する記述)を回避したが、伊藤博文による「起案の大綱」はこう書いている、という。p.236。この時期での伊藤の「神道」に関する「認識」等は、相当に興味深い。1888年頃と見られる。新仮名遣いに改める。一文らしきものごとに改行する。
 「欧州においては憲法政治の萌せること千余年、…また宗教なる者ありてこれが機軸を為し、深く人心に浸潤して人心これに帰一せり。
 しかるに、我国にありては宗教なる者その力微弱にして、一も国家の機軸たるべきものなし。
 仏教は一たび隆盛の勢いを張り上下の心を繋ぎたるも、今日に至りてはすでに衰替に傾きたり。
 神道は祖宗の遺訓にもとづきこれを祖述するとはいえども、宗教として人心を帰向せしむるの力に乏し
 我国にあって機軸とすべきは独り皇室あるのみ
 皇室=神道、ではない、ということが明瞭だ。伊藤は、憲法にもとづく新国家の「機軸」は、「神道」ではなく「皇室」だ、とする。
 このあたりの論述は、山口輝臣の「往々にして明治維新によってすべてが定まったかのように描」くのは「怠惰なうえに明らかな誤りである」(p.219)という理解にもとづく。「神仏分離」を過剰に重視してはならないのだ(同上)。
 太政官と並ぶ神祇官の設置から始まる明治新政権が、かりに「神祇官」=「神道」だとしてもだが、当初から<神道>を中軸にしようとしていた、というイメージは誤っていることになる。
 明治の最初の10年間で、「神祇」に関する国制・所管行政組織も毎年のように変遷していった。
 第二。明治4年(1871年)、<岩倉使節団>が渡米・渡欧するが、同行者の久米邦武は、船中をこう回想している、という。p.222。
 宗教は何かと訊かれそうだ。ある人が「仏教」だと言ったが「仏教信者とはどうも口から出ない」。では何だと問われると、困る。「儒教だ、忠孝仁義」だと言おうとすると、一方で、「儒教は宗教ではない」、「一種の政治機関の教育」だ、と言う。
 「神道を信ずると言うが相当との説」があるが、「それはいかぬ。なるほど国では神道などと言うけれども、世界に対して神道というものはまだ成立ない。かつ、何一つの経文もない。ただ神道と言っても世界が宗教と認めないから仕方がない」。
 かくて「神儒仏ともにどれと言う事も出来ないから、むしろ宗教は無いと言おう」としたが、それはダメだ、「西洋」では「無宗教はいけない」。そういう話になって「皆困った」。
 以上。興味深い、1871年時点に関する回想記だ。
 第三。そもそも明治期、旧憲法制定・施行の頃まで、日本人にとって「宗教」とは何だったのか。山口は、p.223以下で、こう説明・論述している。
 ・「宗教」という語・観念は、「19世紀中頃」に生まれ、「それ以降、はじめて宗教について考えるようになった」。
 ・「宗教」はreligion (又は類似の欧米語)の訳語として「創造」された。その経緯から、ほとんど「宗教」=<キリスト教>だった。
 ・次いで、「~教徒」という語から<仏教>がそれとして意識・観念された=「宗教という名に値しそうなものは日本には仏教しかない」。だが、「それを信じているとは言いにくい」。なぜなら、西洋人がキリスト教を信じているようには「仏教を信じていない」から。/以上。
 要するに、「宗教」という言葉・観念は少なくとも現在よりは相当に狭く、「神道」があっても(むろんこの言葉はすでにあった)、「神道」を簡単に含み入れることができるようなものではなかったのだ。
 第四。むしろ、<神道は宗教ではない>、との理解が一般的だった。山口によれば、つぎのとおりだ。p.232以下。
 ・1884年(明治17年)、政府は「神職・神社を宗教の枠外に置くことと引き換えに、葬儀への関与を禁じた」。これは、キリスト教式の「葬儀」の自由化、「葬儀を独占」したい仏教・僧侶たちの意向を反映するものだった。
 ・「神社が宗教ではないのはおかしい」と感じられるかもしれないが、「この時代の常識」だった。-「藩閥政府は19世紀の常識をもとに、仕組みを拵えた」。当然のことだ、「彼らのような『素人』が、独自の宗教理解を捏造し得たと考える方が、どうかしていよう」(p.234)。
 ・1887年(明治20年)、釈宗演という僧侶は日記にこう書いた。
 「この神道なるものの宗旨は何かと云ば何等の点にあるか。予いまだにその教を聞かざりしも、天下の世論従えば、純然たる宗教とは認めがたきが如し。
 彼の皇統連綿は比類無き美事なれども、これを以て直ちに宗教視することは穏当ならずと覚ゆ」。
 第五。かくして、明治新政権は、山口によると「第三の道」を選択した、という。
 上の釈宗演は、つづけてこう書いていた。
 ・「国教、否帝室の奉教は何なる宗旨なるか」。ひそかに考えるに「仏教にあらずんば必ず耶蘇教ならん」。p.235。
 また、福沢諭吉は1884年に「宗教もまた西洋風に従わざるを得ず」(表題)と新聞紙上で明言し(p.230)、中村正直はすでに1873年に「陛下、…先ず自ら洗礼を受け、自ら教会の主となり、しこうして億兆唱率すべし」と書いていた(同上)。
 現在では信じ難い感があるが、これが<第一の道>だ。つまり、文明開化=西欧化するためのキリスト教の「国教」化だ。
 <第二の道>は、「祭政一致」、つまり「祭」=「神道」という理解を前提としての、「神道と国家」の一体化、つまりは「神道の国教化」だ(この一文も秋月)。
 上に少し触れたように「神祇」に関する所管官庁は変遷する。神祇官→神祇省→教務省→内務省社寺局(p.205参照)。
 山口輝臣によると、「国学者」たちは「祭政一致」・「神仏分離」・「神社の優遇とキリスト教の敵視」を追求した(第一章第3節の表題「学者の統治」)。しかし、藩閥政治家たちの主流派、伊藤・木戸・大久保・大隈重信らは「誤っている」または「行き過ぎ」と考えて、「軌道修正」をした(p.205-6)。
 「国学者たち」は、「素人」政治家によって、1871-2年に「一掃」された(同上)。
 従って、<第三の道>となる。上の第一に紹介したように、伊藤によると、「神道」は「国家の機軸」になり得ず、それとすべきは「皇室」だ。
 繰り返すが、皇室・天皇=「神道」では全くない、ということが興味深い。
 具体的には、憲法の中に「国教」に関する条項を設けない、その点は曖昧なままにする、という「現実的」選択だったのだろう。
 以下、再び山口による。p.239以下。
 ・「天皇を機軸」とするため、「天皇」の存在・その統治権の根拠を「万世一系」に求めた(旧憲法1条)。憲法のほか、皇室典範、その他の告文でも同様。
 ・天皇の「神聖」性(旧憲法3条)は「祭政一致」論者には嬉しいものだったが、<天皇無答責>の旨(伊藤・<憲法義解>)を定めただけ。 
 ・この道は「祭政一致や国教」に関心をもつ人々の「夢を完全には潰さないが、それらのいずれとも異なる道だった」。 
 以上で今回は終える。
 「国体」概念・観念はまだ登場しない。この語は旧憲法・旧皇室典範にはない。
 しかし、山口はつぎの二つは重要な課題のままだったとしている、と記しておこう。p.241。
 ①「天皇家の宗教」は何か。②「天皇が機軸である」とは具体的に何であり、どうすればよいのか。
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 以上は、1890年頃の話。敗戦まで、さらに戦後、いったいどう「展開」したのか。
 1868年~1889年はほぼ20年間。1890年~1945年は、55年間。1945年~2020年は、75年間。日本国憲法(1947年~)のもとで、我々はいったい何を議論してきたのだろうか。
 <神道は日本人の宗教です>、<先ず神道の大祭司としてのお務めを>と一文書くだけで済むのか。

2112/J・グレイ・わらの犬(2002)⑥-第2章03。

 ジョン・グレイ(1948-)の別の著書、John Gray, Gray's Anatomy: Selected Writings (2009,2013、レシェク・コワコフスキに関する一文がある)の謝辞(Ackowleagement)の文章の最後に、「Mieko」(みえこ・ミエコ)に感謝する旨の一文がある。この人は著者の配偶者で、日本人か、日本生まれの女性ではないだろうか。
 J・グレイは以下の著で西欧哲学・思想を大胆に?相対化して中国の仏教や道教への関心を示しているが(余計ながら、「隣の芝生は美しい」の類かもしれないとも感じるが)、このことと上記のこととの関係は、むろんよく分からない。
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 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。=<わらの犬-人間とその他の動物に関する考察>。
 邦訳書からの要約・抜粋または一部引用のつづき。ごく一部を原文により変更している。邦訳書p.72~p.88。太字化は紹介者。
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 第2章・欺瞞。
 第12節・仮想の自己〔Our Virtual Selves〕。
 「意志決定の表現」が「行動」だというが、「意志が決断する」ことはほとんどない。就寝・覚醒、夢の記憶・忘却、思考の喚起・忌避、これらの選択に「意志は関与しない」。
 「人間の行動は一続きに長く繋がった無意識な反応の末端であり、習慣と技巧(skills)の複雑極まりない組み合わせから起こる」。「自己認識」をいかに追求しても人間は自明のもの(self-transparent)にはならない。
 フロイトは人間の精神が大部分は「無意識に作動」すると理解した。「抑圧した記憶」の浮揚が適切な対処を可能にするという意味では正しいが、「記憶の検索」では「知覚の裏にある前意識の精神活動(preconcious mental activities)」を再現できない。「無意識」ではなく「前意識」が「意識の自覚」を生む。
 「意識」の「自己認識」に対する作用の限定性は人間の「主体性」(control of our lives)を否定しがちだ。とかく「行動」=「思考の帰結」と理解したい。しかし、誰もが大部分は「ものを考えずに」生活しているのであり、「意識の働きという概念」(sense of concious agency)は「矛盾する衝動のせめぎ合いから生まれる人為的構造(artefact)」だろう。
 人間は本能と習慣の生物だと言いたいのではなく、要するに「そのときどきの情況に対処しながら生きている」。
 人は概して自分=「統一された意識の主体」、人生=「行動の総和」と理解するが、「最新の認知(cognitive)科学と仏教古来の教義」は一致して、これを「錯誤」(illusive)と見なす。認知科学者のF・バレラ〔Francisco Varela〕はこう言う。-「人間という極致世界と微細存在の本質は、稠密に凝集した不分離の個体」ではなく、浮かびまた消失する変転する現象体だ。「仏教」はこのことを「凝視」(direct observation)で立証でき、「自己はいっさい空であり(the self is empty of self-nature)、そこには把握できる実体はない(void of any graspable substantiality)」と教える。
 自己をキメラ(chimera)と捉える点でも認知科学は仏教に倣う。-認知・認識はある「状態」から次へと切れ目なく移行するのではなく、「断続する行動パターン」だ。この有意義な理解によって、「認知の主体」としてホムンクルス(homuncular)を措定する愚を避けることができる。
  外から見る人間の特性として、「一貫した行動」を信じたいために、「体内にいて行動を指示する一寸法師」=ホムンクルスを想定するのは、間違いだ。ロボット工学者のブルックス〔R. A. Brooks〕は言う。-ロボットには「中央制御機構」はなくその動作は「競合する行動の集積」だが、観察者には「一貫した定形と映る行動」が浮かび上がる。
 これは人間にも当てはまる。人間の姿はじつは「知覚と行動の千変万化する情景」だ。「人間の自我は、…存在の根底をなす統一性の表現ではない。人間個人は昆虫の集団に構造のよく似た有機的組織体である。」
 「不変の自己」という考えは捨て難いが、そうではないことは「誰しもどこかで知っていよう」。
  第13節・無名氏〔Mr. Nobody〕。
 作家のG・リース〔Goronwy Rees〕は振り返って「人間個々の人格」(personal identity)という考えを疑問視し、こう書いた。-私は「客観的に記述できる歴史を負った個々人の持続的な特性」を自己のうちについぞ発見しなかった。「永遠不滅にして独立独歩の、思考する存在」を名乗ったことなどない。
 スコットランドの哲人、D・ヒューム〔David Hume〕も、「不変の自己」を発見しなかった。-大方の人間は「相互に関係を維持しつつ、目にも止まらぬ速さで絶えず波動しながら継続する知覚作用の集積」だ。「精神」(the mind)という舞台には「幾多の知覚が相次いで登場し、限りなく変化する情況で入り乱れ、多様な姿で通り過ぎ、引き返し、いつの間にか退場する」。単一性も時間を隔てた同一性もない。「精神を形成するのは、継起する知覚だけだ」。舞台の場所、筋立ての素材について何も把握できない。
 G・リースは、娘によると「無名氏」を自認していた。これは何ら異常でない。人間は全て「情動の塊」(all bondles of sensations)であり、「統一のとれた不変の自己」は<マヤ(maya)>=ベーダーンタ哲学での「幻影」でしかない。「一貫した自己」を知覚するようプログラムされているが、じつは「変化」があるだけで、そういう「自己認識の幻想」もまたプログラムに組み込まれている。
 我々自身に生じている変化は「見る側の自己が瞬息の間に去来するから確かには観察できない」。「自我(Selfhood)とは、意識の粗放がもたらす副作用である。内部活動はきわめて微妙かつ繊細なので、意識では捉えきれない」。
 「言葉の原点が鳥獣の遊びに遡る」のと同様に、「自我の幻想」・「不変の自己の幻想」も「言葉から生まれる」。幼少時に両親が話しかける言葉で「自己を認識」する。「記憶」を貫くのはその名だ。長じて「独白」し「自分史」を作り、「言葉」で「将来の可能性」を想定する。こうして「言葉で造り上げた仮想の自己」を過去・現在・未来に、さらには「死後の世界」にまで投影する。「死後」の「仮想の自己」は「生きているうちから既に亡霊」だ。
 「自我(the I)とは、たまゆらの事象である。にもかかわらず、これが人の生を支配する。人間はこのありもしないものを捨てきれない」。正常な意識で現在に向かい合う限り「自我」(sensation of selfhood)に揺るぎはない。「これが、人間の根本的な誤り(premordial human error)だ。そのおかげで、我々の人生は夢の中ですぎてゆく」。
 第14節・究極の夢〔The Ultimate Dream〕。
 仏教では、「直観の修行」(practice of bare attention)でもって「知覚」を鈍磨させている「習慣」という紗幕を引き剥がす。「凝視」(refinement of attention)でもって「現実」を深く洞察する。その「現実」とは、凡庸な注意力でもって単純化され判りやすくされた、「たまゆらの儚い(momentary, vanishing)世界」だ。
 「過去との繋がり」を絶つという意味を含む「悟りの境地」(ideal of awakening)は、「幻想」が雲散霧消して「もはや煩悩に惑わされる憂いがない」(suffer no longer)ということだが、これはキリスト教の「救済」(salvation)の教義と変わらない。しかし、「幻想」からの解放という考え自体が、「幻想」だ。「瞑想」(meditation)は真実を露わにし得ない。
 「進化心理学(evolutionary psychology)や認知科学(cognitive science)」が教えるのは、人間は「悠久の血脈に連なる末裔、尾部の一端」だということだ。先人をはるかに超えてはいるが、「脳と脊髄は遠い過去の記憶を暗号に変えて保存している」。 
 道教(Taoism)は「人間は夢から覚醒できない」と認める。<荘子>は<老子>よりも神秘主義的だが、西欧やインドのそれとはなお異なる。荘子は懐疑論的(sceptic)でもあり、「仏教の中心にある現象と現実の確然たる二元論」も、「幻想を超越する企て」も、ない。「人生を夢と捉え、かつ夢から醒めようとはしなかった」。
 グレアム〔A.C.Graham〕の言うように、「仏教徒は夢から覚め、荘周は覚めて夢に入る」。「夢だという真実」に目覚めることは「真実」に対する反目を意味しない。
 荘周は「救済」の理念を受容しない。「もともと自己のない人間が自己の幻想から覚醒するはずがない」。
 「人間は、幻想を捨てきれない。幻想は、所与の自然条件だ。そうだとしたら、それに従うしかないではないか(Why not accept it ?)。」
 第15節・実験〔The Experiment〕。
 「現代の哲学者」は哲学は人に「生き方」を教えると高言するほど「思い上がって」いないが、「何を教えるか」の返答を迫られている。「明晰な思考を定着させる」と立派に言うかもしれない。
 しかし、「曇りのない知見は、歴史、地理、物理学など、広い分野に学んで身につくものである」。
 哲学は「中世には、教会に知的な足場を提供」し、19-20世紀には「進歩神話を後押し」した。「信仰」や「政治」から外れた「現代の哲学」は、「主題のない学問領域、教理の求心力を失った因習の牙城」だ。
 古代ギリシア哲学は「知識の探求」にすぎないのではなく「生き方」、「弁証法的議論の基礎」、「精神鍛錬の武具」であって、目的は「真実」ではなく「精神の平穏」・「静謐」だった。老荘思想においても同じ。
 「幸福」は「静安」のうちにしか見出し得ないのか。スピノザは、ストア学派の哲人たちと同じく「精神の平穏」=「精神の不安から救われること」を願い、パスカルは「救済」を求めて苦闘した。しかし、「真理」ではなく「幸福と自由」が問題であるならば、哲学に最終判断を求める必要はない。「信仰や神話」にも、見るべきものがあってよい。
 「かつて哲学者は真理の探究を装って精神の平穏を目指した。現代人はこのあたりで方向変換を図った方がよくはないか。
 「棄却できる幻想」と「捨てたくとも捨てられない幻想」をまず見分ける必要がある。その先は、「克服できない幻想」を見極めるよう努めればよい。
 「数ある虚偽の何を排除するか、なしでは済まされない虚偽とは何か。それが疑問だ。それこそが、実験である。」
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 第2章終わり。

2061/司馬遼太郎「華厳をめぐる話」(1993)。

 司馬遼太郎「華厳をめぐる話」同・十六の話(中央公論社、1993/中公文庫1997、初出1989)、司馬遼太郎全集第54巻(文藝春秋、1999)収載。
 司馬遼太郎のこの随筆または紀行文の冒頭に、興味深い文章がある。全集、p.351。
 ・「この地でさまざまな"因縁"(関係性)が構成され、それが"縁起"となって、…という"因果"をうんでいる」。
 ・「孤立せる現象など、この宇宙に存在しない」。「一切の現象は相互に相対的に依存しあう関係にある」。
 ・「たがいにかかわりあい、交錯しあい、無限に連続し、往復し、かさなりあって、その無限の微小・巨大といった運動をつづけ、さらには際限もなくあらたな関係をうみつづけている。大は宇宙から小は細胞の内部までそうであり、そのような無数の関係運動体の総和を…"世界"という」。
 きわめて<哲学>的にも見える文章だが、「華厳経」(盧舎那仏・釈迦如来=東大寺大仏)に関する「話」だ。
 特段に難解な日本語が用いられているわけではない。しかし、このように叙述することのできる司馬の筆力も相当のものだろう。筆力のみならず、一個の人間としての感受性も優れていたに違いない。
 上の文章から想起するのは、私は正確な意味を知らないが、<弁証法>というものだ。
 「大は宇宙から小は細胞の内部まで」何かと何かが「交錯しあい」「相対的に依存しあ」いながら「あらたな関係」を生み出す、というのは単純化すれば<正-反-合>ということにもなる。むろん、対立し矛盾し合うのは二つの「階級」でも「生産力と生産関係」でもない。革命が「あらたな関係」を生み出して「社会主義・共産主義」社会になるのでも全くないけれども。
 また、関連して想起するのは、人間社会の現在または過去・「歴史」に関して、司馬の上の文章を借りると、「因縁」・「縁起」・「因果」を、「相互に相対的に依存しあう」「一切の現象」を、あるいは「かかわりあい、交錯しあい、無限に連続し、往復し、かさなりあ」う「無限の微小・巨大といった運動」の「総和」を、正確にまたは厳格に叙述する、ということの、苛酷なほどの困難さだ。
 人間とその社会の「歴史」を、過不足なく可能なかぎり正確にまたは厳密に叙述してきた者が、はたしているだろうか。
 ここでさらに思い浮かべるのは、レシェク・コワコフスキの大著・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978)の「はしがき(Preface)」の中の言葉だ。この欄の№1839/2018年09月01日に掲載。
 L・コワコフスキはそこで、つまり大著の冒頭で、くどいほどに叙述対象に限定を加え、くどいほどに叙述の困難さを述べている。
 最も一般的で、注目されてよい叙述は、つぎの文章だろう。
 「いかなる主題に関する著作者も、完全には自己充足的でも自立してもいない分離した断片を『生きている全体』から切り出すことを余儀なくされる。/これが許されないとすれば、全てのものが何らかの態様で結びついている限り、我々はもっぱら世界史を記述すればよいことになる。」
 つまり、マルクス主義の歴史の叙述についても、「全てのものが何らかの態様で結びついている」ので、厳密には、あるいは正確には、「世界史」全体の叙述が必要になる、と言うのだ。
 したがって例えば、第一に、もちろん強い関係はあるけれども、対象は「マルクス主義」の歴史であって「社会主義思想の歴史ではなく、…政治的党派や運動の歴史でもない」。
 また第二に、「政治史、思想史であれあるいは芸術史であれ」、著者の主観的な「歴史的評価」のみがあって「歴史的説明」は存在しない、と最初から言ってしまえば、どんな「歴史的手引書」を執筆することもできなくなるのだから、「素材の提示、主題の選択について、また多様な思想、事象、人物や著作物に付着させる相対的な重要性」について、「著者の見解や志向が反映される」のは不可避だ。
 なお、<〜の歴史>ではなく<〜の主要潮流>というタイトルにしているのも、重要な意味があるのだと思われる。歴史全体を描くなどという大それたことをするつもりはない、という釈明?を、あらかじめ行っていることにもなる。
 ひるがえって考えて、複雑・多様な「全体」から一部を「切り出す」ことを余儀なくされるのは、小説(・フィクション)でないかぎり、歴史叙述・歴史学の宿命だろう。
 また、もともと、「言語」による抽象化、<立体的・総合的な>描写様式が開発されていない、ということによる平板化・単純化もまた、人間の知的営為としての歴史叙述の限界であり宿命なのだろう。
 しかし、困ってしまうのは、このような意識または自覚なく、歴史叙述の「訓練」を受けていないシロウトが「歴史」に関する書物や小論を平気で執筆して、公刊していることだ。櫻井よしこや江崎道朗のごとし。その他、小説と明記しないままの、<思い込み>による<歴史物語>の作成者たち。
 アカデミズム内にある者ならば、対象(・時代)の限定のほかに、叙述・検討する「視座・観点」の特定の必要、基礎とする史資料の適切な提示の必要といった「訓練」をいちおうは受けているに違いない。
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 詳しい説明・コメントは省略するが、司馬遼太郎が「大は宇宙から小は細胞の内部まで」というからには、人間の「脳内」も(身体全体も)、無数の要素の相互依存とその統合によって成っている、と言えそうだ。すでにこの欄で触れている二著から、一部を引用的に紹介しておく。
 アントニオ・ダマシオ/田中三彦訳・デカルトの誤り-情動・感情・人間の脳(ちくま学芸文庫、2010)、p.198-9。
 ・この「反復的な回路で活動しているのは一連のfeedforward とfeedback のループ」だが、この「仕組みでもっとも重要なことは、基本的な生体調節と関わっている脳構造がじつは行動調節にも関わっていて、認知プロセスの獲得と正常な機能に不可欠であるという事実だろう」。「視床下部、脳幹、辺縁系は身体の調節だけでなく、たとえば知覚、学習、想起、情動と感情、そして推論と創造性といった、心的現象のよりどころであるすべての神経的プロセスにも介入している。身体調節、生存、そして心は、密接に絡み合っている。」
 ジュリオ・トノーニほか/花本知子訳・意識はいつ生まれるのか(亜紀書房、2015)、p.126。
 ・「理論のかなめとなる命題」は、「意識を生み出す基盤は、おびただしい数の異なる状態を区別できる、統合された存在である」ということだ。「差違と統合が同時に存在する」というのは、「脳という物質のなかには、本当に何か特別なものがある」ということだ。〔情報統合理論〕
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 司馬遼太郎・空海の風景(1975)は、ずっと昔に概読したような気がする(1975年芸術院恩賜賞受賞作)。
 あらためて読み直したいものだ。たんなる「宗教」話ではなくて、当時の日本人が構築した学問大系(大乗仏教・顕密)らしきものの「雰囲気」を知るためにも。司馬の人間というものに対する好奇心は相当なものだと思われる。

2015/聖徳太子-江崎道朗21の準備。

 聖徳太子に関して最も新しく得た知識は、おそらく親鸞(浄土真宗)が聖徳太子を崇敬していた、ということだ。
 <聖徳太子信仰>というレベルの話なので、聖徳太子または厩戸王子の存否(たぶん該当人物はいたのだろう)やかつて行った事跡の真否等とは関係がない。
 京都の東西の本願寺の阿弥陀堂(本堂)には阿弥陀如来像の脇に聖徳太子の像か画が置かれているらしい。
 浄土真宗寺院に限られているわけではない。京都市内の最も中心地にある有名寺院の一つかもしれない頂法寺(六角堂。六角烏丸東入ル)は天台宗系だが聖徳太子開基と伝えられ、聖徳太子に由緒があるとされる如意輪観音を本尊とし、西国観音霊場の札所の一つであるとともに京都に特有の洛陽三十三観音霊場めぐりの第一番札所だ。かつまた、親鸞も参詣したことがあるらしく、それに関連する文章の掲示が六角通りの南側(本堂の向かい)にある。
 関連してさらに進めると、大師堂(だいしどう。多くは弘法大師=空海の仏堂)とは別の太子堂(たいしどう)という聖徳太子を祀る仏教施設がある寺院もある。
 その前で参拝したかは忘れているが、寺院の本堂は参拝したことがある、太子堂をもつものに以下がある。
 六角堂頂法寺(上記)、鶴林寺(加古川市)、瑞泉寺(富山県南砺市)、大聖勝軍寺(大阪府八尾市)。東京・世田谷区の「太子堂」(円泉寺)は訪れたことがない。
 「太子堂」と称さなくとも、聖徳太子を祀る特別の建物をもつ寺院や、その他由縁のある寺院は少なくない。
 広隆寺(京都・太秦)、法隆寺、四天王寺。
 斑鳩寺(兵庫県太子町)、叡福寺(大阪府太子町。直近に陵墓あり)。
 他にもきっとあるだろう。「太子」との地名が今に残るのもスゴい。
 なお、四天王寺(大阪市)の西門付近には「大日本仏法最初四天王寺」と刻む大きな石柱が立っている。この寺は仏教伝来にかかわる対物部氏戦争の勝利の結果として聖徳太子の発願により建立されたとされている。
 学校教科書による知識以外で、聖徳太子に関連して最も早く興味深く感じたのは、つぎの書物によってだったかもしれない。
 梅原猛・隠された十字架-法隆寺論(新潮社、1972。新潮文庫、1981)。
 この著者の一行で済むところを二、三行かけるおどろおどろしい?文章も記憶にあるが、法隆寺・聖徳太子をめぐるいくつかの「謎」のうち、最も印象に残ったのは、法隆寺中門の柱の数が奇数で、真ん中を通れないようになっていることの指摘だった(神社の楼門もそうだが、たいていの門の柱数は偶数で、そうすると柱の間の空間数は奇数となり、必ず真ん中が空く)。
 なるほど不思議なことで、この点だけによるのではなく他に多数の論拠が示されていたが、梅原猛によると、法隆寺は聖徳太子を鎮魂しその「怨霊」を中に「封じ込める」ための施設だとされる。
 なぜ「怨霊」になったか。手元にこの書物を置いていないが、要するに「政治闘争」に敗北し、その子・山背大兄王一族も含めて全員が殺戮されたからだ(自殺・心中の強制を含む)。
 おそらく上のあとで読んだ、井沢元彦の書物も面白かった(関心を惹いた)。これは単行本の段階で新刊で読んでいる。
 井沢元彦・逆説の日本史2/聖徳太子の称号の謎(小学館、1994。小学館文庫、1998)。 聖徳太子の「怨霊」視は梅原と同じだが、「徳」という漢字の諡号の不思議さの指摘は意表をついた。
 聖徳太子は皇位に就かなかったようだが、かつてつぎの諡号をもつ6名の天皇がいた。
 ①孝徳、②称徳、③文徳、④崇徳、⑤安徳、⑥順徳。
 崇徳天皇(・上皇)以降の3名で十分かもしれない。つぎの書のように、崇徳は菅原道真、平将門とともに日本の三大「怨霊」とされることがある。
 山田雄司・怨霊とは何か-菅原道真・平将門・崇徳院(中公新書、2014)。
 安徳天皇は8歳で下関の海に沈んだ。
 順徳天皇は承久の変を起こした後鳥羽天皇の子で、佐渡に流されてそこで死んだ。
 なお、後鳥羽は安徳天皇在位(生存)中に!京都で即位した安徳の異母弟だ。
 そして、いま手元にあるの井沢著(文庫版)を見ていると、後鳥羽は死後4年間は「顕徳(院)」と呼ばれたらしい(!、p.174-5)。
 井沢元彦によると<聖徳>から始まるというのだが、「徳」が付くのは偶然なのか。孝徳、称徳等については省略。
 脱線するが、京都・神泉苑で御霊会が最初に開催された記録の残る9世紀前半に「怨霊信仰」は成立したとの文献実証主義学説もあるようだ。しかし、「怨霊信仰」という言葉・観念の意味の問題ではあるものの、「怨霊」意識とそれを恐れる(だからこそ「怨霊」と称する)意識は、もっと早くからかなり広く成立していたように推察される。
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 上の前半に書いたことは、聖徳太子の、神道ではなく仏教とのつながりの強さだ。
 <太子信仰>とは、日本の宗教の一種で、かつ強いて分ければ、仏教的なものだった。
 (こういうやや曖昧な形の文章にしているのも、かつて神道と仏教の明確な区別はあったのか疑問だからだ。また、むろん明治新政権が採用したはずはないが、幕末までの時点で欧州のキリスト教に該当した日本の宗教は「神道」ではなく「仏教」だったのではないか、との感触がある。)
 さて、江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 この著で江崎道朗は、「聖徳太子」という言葉を数十回も登場させ、多くは「十七条の憲法」という語も用いる。
 江崎は、どのような意味で、またはどのような趣旨・脈絡で「聖徳太子」に言及し、「聖徳太子」を尊敬する趣旨を述べているのか。きちんと確認しておきたい。無惨さ、悲惨さはここにもある。

1979/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05③。

  泉涌寺-月輪陵-後月輪東山陵-孝明天皇陵となると、孝明天皇自体について、幕末期の<孝明天皇暗殺>説に触れたくなる。岩倉具視を首謀者とするのかもしれない「暗殺」、または意図的な治療遅延等による「殺人」が万が一にでも事実であったとすると、つまりは幕府および徳川家に対する敵意が薩長両藩や「過激」公家たちほどでは全くなかった孝明天皇がもう少しは長く存命していれば、<幕末・明治の変革>の様相は変わっただろうし、<明治維新>の印象・イメージも大きく変わるに違いない。
 学者・アカデミズム界を超えるか少なくとも同等の推論をしている、本来は小説家・作家の中村彰彦のいくつかの本(暗殺説)にも触れたくなる。
 この主題を忘れているわけではない。但し、「明治維新」を項とするところで、別に扱った方がよいだろう。
 泉涌寺が<天武天皇系の天武から称徳・孝謙天皇まで>の天皇を供養の対象にしていないこと(位牌のないこと)にも今回は触れない。女性・女系天皇とか、光仁・桓武天皇による<王朝交代>説とかに関係してくる。
  上の後者に少しは関連性があるが、泉涌寺自身が制作・頒布している小冊子(<御寺・泉涌寺>)内の「泉涌寺略年表」にしたがうとすると、前回・前々回に記した以上のことが分かる。
 称光天皇(即位1412年、後花園天皇の前代)の御陵は、京都市伏見区深草の深草北陵の中にあるが、1428年に泉涌寺で「火葬、奉葬」が行われている。
 後小松天皇(即位1382年)の御陵も同じく深草北陵の中にあるが、上皇となったのちに没した1433年に泉涌寺で「火葬、奉葬」が行われている。なお、別の資料によると、泉涌寺月輪陵内にではなく、泉涌寺塔頭の雲龍院境内に「灰塚」がある。
 後土御門天皇(即位1464年)の「灰塚」が月輪陵内にあるとされるが(この欄の前回参照)、1500年に泉涌寺で「火葬、奉葬」が行われている。但し、御陵自体は、上と同じく深草北陵の中にある。
 後柏原天皇(即位1500年)の御陵も深草北陵の中にあるが、1526年に泉涌寺で「火葬、奉葬」が行われている。なお、泉涌寺月輪陵内に「灰塚」がある(前回参照)。
 後奈良天皇(即位1526年)の御陵も深草北陵の中にあるが、1557年に泉涌寺で「火葬、奉葬」が行われている。なお、前代と同じく泉涌寺月輪陵内に「灰塚」がある(前回参照)。
 正親天皇(即位1557年)の御陵も深草北陵の中にあるが、1593年に泉涌寺で「火葬」はないようだが「奉葬」が行われている。前代と同じく泉涌寺月輪陵内に「灰塚」がある(前回参照)。 
 後陽成天皇(即位1586年)の御陵も深草北陵の中にあるが、1617年に泉涌寺で「奉葬」が行われている。前代と同じく泉涌寺月輪陵内に「灰塚」がある(前回参照)。 
同じ「略年表」によると月輪陵または後月輪陵に陵墓のある後水尾、明正、後光明、後西、霊元、東山、中御門、櫻町、後櫻町、光格、仁孝の各天皇の「奉葬」を行ったと明記されており、後月輪東山陵に陵墓のある孝明天皇についても同じだ。
  これによると、15-16世紀に、泉涌寺で天皇の「火葬」が行われていた。その場所は筆者には分からず(諸資料にも書かれておらず)、推測するしかない。
 「火葬」もせず、また陵墓自体は別にあって(深草北陵)、泉涌寺が「奉葬」したという、「奉葬」の意味はよく分からない。
 推測になるが、遺体・遺骸を存置しての丁寧なまたは本格的な「法要」ないし「葬送の儀礼」、要するにきちんとした<葬儀>は泉涌寺で行い、遺体・遺骸は泉涌寺より南の深草まで移して「埋葬」した、そこが最終的な「陵墓」となった、ということなのだろう。
 以上の今回記したこともまた、少なくとも孝明天皇までの、天皇と仏教・寺院の関係の深さを、とりわけ仏教寺院である泉涌寺との鎌倉時代以降の関係の深さを示している。
 もちろん、「奉葬」は仏僧たちが、仏教的様式で行ったに違いない。泉涌寺のどの建物で、ということになると、現存建物の中では舎利殿か仏殿かしか考えられないが、特別の建築物が一時的にせよ造られたのかもしれない。

1977/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05①。

  明治期を含めてそれ以降の天皇に関する制度・儀礼等のみが日本の天皇に関する「伝統」だと錯覚しているような主張・議論は、2016年の当時の天皇陛下の「おことば」に対しても見られた。
 極論すれば、天皇は死ぬまで天皇でいろ、という主張があった。
 それも内閣府が所管した正規の審議会・検討会(正確には「公務負担のあり方」が主題だったとしても)で表明された。この欄で「あほ」と決めつけた、(生前)譲位不可・摂政設置論者の櫻井よしこ渡部昇一平川祐弘だ。八木秀次はその委員ではなかったが、同じ主張の先鋒的な論者だった。
 いちいちその内容や各人の差異に立ち入らない。自分で「公務」の範囲を勝手に?広げておきながら大変だとは何事か、とほぼ明瞭に書いた者もいた。
 昭和天皇は亡くなるまで天皇であられた、それに比べて今の天皇は…、と昭和天皇を引き合いに出して、暗に?前天皇を批判した(櫻井よしこのような)者もいた。
 八木秀次は摂政設置で対応しないで譲位を認めれば改元(元号の変更)も必要になって大変だということを理由の一つに挙げていたが、その指摘のとおりで、摂政設置による対応がかりに行われていれば、平成-令和という改元もなかった。
 なお、今次の対応は「一代かぎり」との説明・理解がかなり広く見られるようでもあるが、特例法は皇室典範の附則の中で言及されることによって皇室典範の一部になっている。菅義偉官房長官が<先例になり得る>と当時に(特例法制定の際に)述べていたのは、適切かと思われる。この点は別途触れることもあるだろう。
  上に名を上げた人々は大まかには<親日本会議>の者たちだろう。
 「つくる会」分裂の原因およびその後の月刊正論(産経新聞社)による八木秀次の厚遇等々を見ても、八木秀次が<親日本会議>であることははっきりしている。
 椛島有三は当時に、八木くんはいい人ですよ、と言ったとか。
 櫻井よしこは、日本会議の憲法問題フロント組織または大衆団体である美しい日本の憲法をつくる会とやらの共同代表を、日本会議代表の田久保忠衛とともに務めて?いる。
 その櫻井よしこと江崎道朗に顕著に見られるのは(これまで私が知った人々の中でに限って)、聖徳太子を、とくにその(発したとされる)十七条の憲法を、きわめて高く評価しながら、聖徳太子と仏教との関連に、全くと言ってよいほど触れていない、ということだ。
 こんな非常識なことはないだろう。仏教寺院の中に現在でも<太子堂>を設けている寺院関係者は、そのような聖徳太子に対する論及の仕方(不作為を含む)をどう感じるだろうと、私にとって本来は他人事ながら(この表現は再検討を要するかもしれないが)感じてきた。以下は、このことに関係する。
  上皇・上皇后両陛下が、6月12日(水)、京都市内の孝明天皇陵、明治天皇陵に行かれた。
 前者に関連して、「みてら」との名が現在でも残る泉涌寺(せんにゅうじ)の名が、あらためて全国的に知られることになったかもしれない。
天皇陵の所在に関心をもって、天皇陵のかなりの部分の近くに仏教寺院があって、その寺院がいわば「菩提寺」として法要を行い、また墓陵の管理も(天皇家・皇室または幕府等の要請または了解のもとで)行ってきたのだろう、と数年前に推測した。
 そのきっかけとなったのは、天皇在位者ではないが、聖徳太子の陵(宮内庁管理)と叡福寺(大阪府南河内郡太子町)の地理的関係を知ったときだったかもしれない。この御陵には、叡福寺の境内を通過しないと訪れたり、参拝することができない、と思われる。なお、叡福寺は真言宗系だが単立の「太子宗」が宗派だとされている。
 ついでおそらく、「みてら」=泉涌寺を知ったことだろう。泉涌寺は現在、真言宗泉涌寺派本山とされる。
 もっとも、天皇や皇室との所縁が直接だったり、かなり深かったり、ほとんどなかったりと、いろいろな仏教・寺院があるので(一方で、徳川家ゆかりとかの寺院もある)、そうしたことを知ったり感じたりして、仏教・寺院と天皇・皇室(制度)の関係に関心を基礎的に持っていたのだろう。
 ほぼ二年前になるが、あくまで私的な試みとして、特定の天皇と推察できる特定の「菩提寺」たる寺院を、主としては陵墓の位置に着目して、整理したことがある。
 2017/05/06=№1531に記したものを、形式を少し変えて、再掲する。
 天皇名(カッコ内は即位年)、推察される寺院=「菩提寺」、現在の御陵名、地名の順。
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  聖武天皇(0724)・東大寺/佐保山南陵◎-奈良市法蓮町。
 嵯峨天皇(0809)・大覚寺/嵯峨山上陵○-右京区北嵯峨朝原山町。
 陽成天皇(0876)・真正極楽寺(真如堂)/神楽岡東陵○-左京区浄土寺真如町。
 光孝天皇(0884)・仁和寺/後田邑陵△-右京区宇多野馬場町。
 宇多天皇(0887)・仁和寺/後田邑陵○-右京区鳴滝宇多野谷。
 醍醐天皇(0897)・醍醐寺/後山科陵◎-伏見区醍醐古道町。
 朱雀天皇(0930)・醍醐寺/醍醐陵△-伏見区醍醐御陵東裏町。
 冷泉天皇(0967)・霊鑑寺/桜本陵○-左京区鹿ヶ谷西寺ノ前町等。
 円融天皇(0969)・仁和寺/後村上陵○-右京区宇多野福王子町。
 花山天皇(0984)・法音寺/紙屋川上陵○-北区衣笠北高橋町。
 一条天皇(0986)・龍安寺/円融寺北陵○-右京区龍安寺朱山龍安寺内。
 後一条天皇(1016)・真正極楽寺(真如堂)/菩提樹院陵○-左京区吉田神楽岡町。
 後朱雀天皇(1045)・龍安寺/円乗寺陵△-右京区龍安寺朱山龍安寺内。
 後冷泉天皇(1045)・龍安寺/円教寺陵△-同上。
 堀河天皇(1086)・龍安寺/後円教寺陵○-同上。
 鳥羽天皇(1107)・安楽寿院/安楽寿院陵◎-伏見区竹田内畑町。
 崇徳天皇(1123)・白峯寺/白峯陵◎-坂出市青海町。
 近衛天皇(1141)・安楽寿院/安楽寿院南陵◎-伏見区竹田内畑町。
 後白河天皇(1155)・法住寺/法住寺陵◎-東山区三十三間堂廻り町。
 六条天皇(1165)・清閑寺/清閑寺陵◎-東山区清閑寺歌ノ中山町。
 高倉天皇(1168)・清閑寺/後清閑寺陵◎-同上。
 後鳥羽天皇(1183)・勝林院(三千院内)/大原陵-左京区大原勝林院町。*隠岐。
 順徳天皇(1210)・勝林院(三千院内)/同上。*佐渡。
 土御門天皇(1198)・金原寺/金原陵-長岡京市金ケ原金原寺。*鳴門市。
 後堀河天皇(1221)・今熊野観音寺〔泉涌寺?〕/観音寺陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 四条天皇(1232)・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 後嵯峨天皇(1242)・天竜寺/嵯峨南陵-右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町天竜寺内。
 亀山天皇(1259)・天竜寺/亀山陵-同上。
 後宇多天皇(1274)・大覚寺/蓮華峯寺陵-右京区北嵯峨浅原山町。
 後醍醐天皇(1318)・如意輪寺/塔尾陵-奈良県吉野町吉野山塔ノ尾如意輪寺内。
 後村上天皇(1339)・観心寺/檜尾陵-河内長野市元観心寺内。
 長慶天皇(1368)・天竜寺/嵯峨東陵-右京区嵯峨天龍寺角倉町。
 後花園天皇(1428)・常照皇寺/後山国陵-右京区京北井戸町丸山常照皇寺内。
  後水尾天皇(1611)・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 明正天皇(1629)・泉涌寺/同上。
 後光明天皇(1643)・泉涌寺/同上。
 後西天皇(1654)・泉涌寺/同上。
 霊元天皇(1663)・泉涌寺/同上。
 東山天皇(1687)・泉涌寺/同上。
 中御門天皇(1709)・泉涌寺/同上。
 櫻町天皇(1735)・泉涌寺/同上。
 桃園天皇(1747)・泉涌寺/同上。
 後櫻町天皇(1762)・泉涌寺/同上。
 後桃園天皇(1770・泉涌寺/同上。
 光格天皇(1779)・泉涌寺/後月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 仁孝天皇(1817)・泉涌寺/同上。
 孝明天皇(1846、1866没)・泉涌寺/後月輪東山陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
***
  参照したのは、宮内庁HPでの陵墓一覧表の所在地の記載のほか、つぎの二つ。
  ①藤井利章・天皇と御陵を知る事典(日本文芸社、1990)。
 ②別冊歴史読本・図説天皇陵-天皇陵を空から訪ねる(新人物往来社、2003)。
上の一覧で平安期末までの天皇についての◎、○、△は、この②の中の山田邦和「天皇陵への招待」上掲②所収p.181による。大まかには(秋月の表現だが)、当該天皇の陵墓であることがほぼ確実、かなり確実、それら以外、の区別だ。これら以降は、全て◎だ。
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  こうして見ると、天皇の陵墓は寺院がもともとは管理し、「法要」等の儀礼を中心となって行ってきている、とほぼ、またはかなりの程度推測できる。
 そしてまた、葬礼=葬儀自体が寺院で行われた、ということもかなり多くあったに違いない。
 後水尾天皇から孝明天皇までの江戸時代の天皇の葬儀は、全て泉涌寺で行われたことがはっきりしている。そのこともあって、泉涌寺についての「みてら」という感覚は、かつては圧倒的だっただろう。
 よく知らないが、御所から泉涌寺までの葬送の御車、行列のコースも決まっていた、という。当時はまだ現在の「東大路」はなかったので、いずれかの地点で鴨川を渡り、六波羅密寺または方広寺の西側あたりを南下したあと、それとも七条辺りで川を渡って?、今もある「泉涌寺道」という緩やかな坂を上がったのだろう。
 とすると、明治、大正、昭和の各天皇の御陵・陵墓が仏教または寺院と無関係であるようであるのは、明治維新以降のこの200年に充たない間の時代に限られてのことだ、ということが明瞭になる。
 まさに、明治維新は、いや正確には明治新政権が採用した政策は、日本のそれまでの伝統を「覆す」、「変革する」、あるいは「否定する」ものだったわけだ。
 革新・変革は全て「新儀」、新しい「伝統」の創出だ、というような趣旨を言った(極論好きの、または天皇中心ドグマの)天皇もいたらしい(後醍醐天皇)。
 ここで日本会議(派)諸氏に尋ねたいものだ。
 天皇に関連する「伝統」の維持、継承は重要であるとして、天皇の死にかかわる、天皇の葬礼、葬儀、陵墓に関する「歴史と伝統」とはいったい何なのか? 仏教との関連が些細な論点だとは思えない。
(泉涌寺関係をさらにつづける。)

1559/神は幸せか?①-2006年のL・コワコフスキ。

 L・コワコフスキ(1927~2009)は、「神学」者でもあったらしい。
 そしてキリスト教関係の諸概念・「教義」・故事来歴・歴史をきっと(欧米知識人にしばしばあることだが)をよく「知っている」のだろう。
 しかし、頭の「鋭い」、探求好きのこの人は、「神」の存在を「信じて」いただろうか?
 信じてなどいないのではないか。そうでなければ、「神は幸せか?」という奇妙な問いを発したりはしないのではないか。「神」について<幸せ>かどうかという発問をするのは、敬虔な信者にとってはありえないことではないか ?
 いや、この人は「神」の存在を信じていたようにも見える。但しそれは、「悪魔」と一体として、または同時に存在するものとしてだ。
 自分の周囲に、またはその「東方」に、かつてL・コワコフスキは「悪魔」が具現化したものを、あるいは「悪魔」のさんざんの所業を見てしまったのではないか。
 こんなことを思ったのは、以下の小論考(エッセイ)を読む前のことだ。
 L・コワコフスキ、79歳のときの文章。
 Is God Happy ? (2006), in : Leszek Kolakowski, Selected Essays (2012).
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 神は幸せか? ①。
 シッダールタ、のちのブッダの初期の伝記から明らかになるのは、人間の状態の悲惨さに全く気づかなかった、ということだ。
 王族の子息として、音楽や世俗的な快楽に囲まれて、愉楽と贅沢の中で青年時代を過ごした。
 シッダールタは、神が彼を啓発しようと決定するまでに、結婚していた。
 ある日彼は、哀れな老人を、そしてひどい病気の人の苦しみを、そして死体を、見た。
 老化、苦痛、死というものの存在--彼が気づいていなかった人間の全ての痛ましい様相--が彼の身近になったのは、ようやくそのときだった。
 これを見てシッダールタは、世俗世界から離れて僧になり、ニルヴァナ(Nirvana)への途を探求しようと決意した。//
 我々はそして、人間の残酷な現実を知らない間は彼は幸せだった、と想像するかもしれない。
 彼の人生の最後に、長くて苦難の旅のあとで、地上の状態を超えるところにある本当の幸せをかち得た、と想像するかもしれない。//
 ニルヴァナを、幸せの国のごとく叙述することができるのか?
 この執筆者〔私〕のように、初期仏教の教義を原典で読めない者には、これは確かでありえない。< happiness (幸せ) > という語は、翻訳文には出てこない。
 < conciousness (意識) >、< self (自己) >のような言葉の意味が今日の言語の元々の意味に対応しているのは確かだ、というのは困難だ。
 ニルヴァナは自己の断念を要求すると、我々は語られている
 これは、ポーランドの哲学者、エルツェンベルク(Elzenberg)が主張するように、誰かが幸せであるということとは関係がない、つまり主体はなく、ただ幸せだけがありうる、ということを示唆していると理解してよいのかもしれない。
 これは馬鹿げているように思える。
 しかし、我々の言語は、絶対的な現実を叙述するために決して適切なものではない。//
 ある神学者は、我々は、神は神ではないと言って、否定によってのみ神を語ることができる、と論じた。
 我々はおそらく同じように、ニルヴァナとは何であるかを知ることができないし、ニルヴァナはニルヴァナでない、としか言えない。
 だが、たんなる否定で満足するのはむつかしい。もう少し何かを語りたい。
 そして、ニルヴァナの国ではどうなのかについて語るのは許されると想定しても、最も困難な疑問は、これだ。この国の人は、周りの世界に気づいているのか?
 そうでなければ、かりにその人は地上の生活から完全に離れているのだとすれば、その人はいかなる種類の現実の一部なのか?
 そして、その人が我々が経験している世界に気づいているのだとすれば、その人はまた、悪魔にも、苦しみにも気づいているに違いない。
 しかし、悪魔や苦しみに気づいていながら、なおも完全に幸せである、ということはありうるのか?//
 同じ疑問は、キリスト教の天国の、幸せな住人に関しても生じる。
 彼らは、我々の世俗世界から完全に離れて、生きているのか?
 そうでないなら、地上の存在の悲惨さに気づいているなら、世界に生起する恐ろしい物事、世界の極悪非道な一面、悪魔と痛みと苦しみとを知っているなら、言葉のいかなる認識可能な意味においても、彼らは幸せではありえない、のではないか?
 (<幸せ>という言葉をここでは、<航空機内のこの座席で happyですか>とか、<このサンドイッチで全くhappyですか> とか言うような、<十分な(content)>や<満足した(satisfied)>という以上のことを意味しないものとして使っている、ということを明確にしておくべきだろう。
 幸せに対応する言葉は、英語では広い射程の意味をもつ。他のヨーロッパの諸言語では、もっと制限的だ。したがってドイツ語では言う、<幸せだ(happy)、でも、ぼくは幸運(gluecklich)ではない>。)//
 仏教とキリスト教のいずれも、魂の究極的な解放は、完全な静穏、精神の完全な平穏だ、と示唆している。
 そして、完全な静穏とは完璧な不変と同じ意味だ。
 しかし、私の精神が不変の状態にあるとすれば、そして何からも影響を与えられないとすれば、私の幸せは、一個の石の幸せのごときものだろう。
 一個の石は悪魔からの救いを完全に具現化したものでニルヴァナだと、我々は本当に言いたいのか?//
 真に人間的であるということは、同情を感じる、他人の苦痛や愉楽に共感する、という能力をもつことを含んでいるので、若きシッダールタは、幸せだったに違いない。あるいは、ただ彼が無知だった結果として、幸せだという幻想を味わったに違いない。
 我々の世界では、この種の幸せは、子どもたちにだけ、一定の子どもたちにだけある。
 五歳以下の子どもたちと言っておこうか、愛する家族の中にいて、彼に身近な者の大きな苦しみや死を経験したことがない。
 おそらくこのような子どもは、私がいま考えている意味において、幸せでありうる。
 五歳を超えると、我々はたぶん、幸せであるには年を取りすぎている。
 もちろん、我々は、刹那的な愉楽、不思議と大幻惑の瞬間、そして神や宇宙と一体となる恍惚感すらも、体験することができる。我々は、愛や歓びを知っている。
 しかし、不変の状態としての幸せは、我々には到達できそうにない。本当の秘儀の世界でのきわめて稀な場合をおそらく除いては。//
 これが、人間の状態というものだ。
 しかし、我々は幸せは聖なる存在のおかげだと推論できるのだろうか?
 神は幸せなのか?
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 あと1回、つづく。

1531/日本の保守-「宗教と神道」・櫻井よしこ批判④07。

 櫻井よしこは、天皇・皇族と「仏教」・仏教寺院との長い関係を無視してはいけない。
 この点を、とくに「陵墓」との関係で述べる(続き)。神社にもときに触れる。
 ○ 仏教寺院と天皇陵墓との密接な関係を感じ知ったのは、泉涌寺に少し遅れて、崇徳天皇の陵墓を参拝したときだった。 
 目的はむしろ四国八八カ所の札所・白峯寺にあったが、近くに御陵があるという知識はあった。寺院を一めぐりしたあとで寺務所で尋ねると簡単に陵墓の場所を教えてくれ、簡単にそこまで行けた。
 陵墓の前の礼拝場所は、寺務所がある場所の高さとほとんど変わらず、ほとんど直線で行けて、間に金網製の門のようなものだけがあった(夜間には閉めるのだと思われる)。
 そのときに思ったことだった。現在はともかく、つまり今は国・宮内庁が管理していても、かつては、少なくとも幕末までは白峯寺自体が御陵を管理し、各種の回向、法要類をしていたに違いない、と。
 そうでないと、白峯寺と崇徳天皇陵墓の間の近接さ、かつ標高のほぼ同じさは理解できない。明治改元の直前だったか、京都市には、崇徳天皇の神霊を祀る「白峯神宮」という神社までできた。「白峯寺」と「白峯神宮」、偶然であるはずがない。陵墓自体の名称も、「白峯陵(しらみねのみささぎ)」という。
 崇徳とその陵墓等について竹田恒泰に一冊の本があること、上田秋成・雨月物語の最初の話は崇徳・西行の「白峯」であることは既に触れた。
 なお、崇徳天皇陵墓へは、そこに上がる一本の長い石段が下方から続いている。だが、かなり近くまで車が入る寺院(白峯寺)に寄ってから御陵へ行く方が(ほぼ同じ高さなので)、下から昇るよりは(年配者には)相当に楽そうに見える。
 つぎに、寺院ではなく神社だが、すぐ近くに陵墓があり、それを予めは知っていなかったので驚き、また感心したことがあった。
 薩摩川内市・新田神社。古くて由緒ありそうな神社だが、参拝を終わって右の方へ抜ける道があったので進んでみると、神社の本殿とほぼ同じ高さ、かつ本殿の裏側辺りの位置に(但し、向きは正反してはいないと感じた)、陵墓があった。途中に小さな小屋があって宮内庁との文字があったので、宮内庁管理の陵墓だと分かった。 
 天皇ではなく、何と<ニニギノミコト/瓊瓊杵尊>の墓だった。天照大神の孫で高天原に「天下った」とされ、此花咲耶(このはなさくや)姫が妻だった、とされる。
 神武天皇ですらその陵墓(橿原神宮近く)の真否については疑われているので(文久か明治に「治定」した)、三代前(神武の曾祖父とされる)の人 ?・神 ?の本当の陵墓なのかはもちろん怪しい(しかも鹿児島県ということもある。但し、「降臨」があったという日向・宮崎県には近い)。
 ともあれ同じ山(全体として可愛(えの)山陵とも)に接近して神社と皇族ゆかりの陵墓があり、①陵墓の<宗教>関連性と②現在の形式的な ?国家と「宗教」の分離の二つを感じ取れる。かつては、この神社自体がその一部として管理していたに違いない(現在でもこの神社の重要な祭神の一つだ)。
 若い巫女さん(社務所のアルバイト ?)は「あちらは関係がありません」とあっさり言っていたが。
 ○ 関門海峡に沈んだ安徳天皇にも、陵墓がある。かつて管理していたのは阿弥陀寺という寺院だったが、これが明治の神仏混淆禁止によって赤間神宮になったらしい。戦前はこの神社の管理だったと思われる。
 この神社の境内かそれに接してか、平家武士何人かの墓碑もある。この地は怪談・耳なし芳一の話の舞台で、芳一が耳以外に書かれるのは、神道ではなく、仏教の呪文・文字のはずだ。また、赤く目立つ楼門は<竜宮造り>というふつうは仏教寺院の山門にときどき見られるもので、神仏習俗時代の名残りを残している。
 阿弥陀寺という寺はなくなったが地名としては残っており、安徳天皇陵墓所在地は下関市「阿弥陀寺町」という。
 安徳天皇の母親は平清盛の娘・徳子で、平家滅亡後に殺されることなく、京都・大原に(たぶん実質的に)幽閉され、建礼門院と称した。その後にあるのが、仏教寺院・寂光院だ。そして、天皇の母親だと皇族のようで、現在もすぐ右隣(東)に、建礼門院の陵墓がある。かつては寂光院という寺が、管理等々をしていたはずだ。
 寺院との間を直接に同じ高さで行き来できるように思うが、現在は遮断されていて、寂光院の前の道にまで降りなければならない。かつ原則的には一般に公開していない、と思われる。
 ○ 実経験や本から得て知っていることをこうして書いていると、キリがない。
 天皇(・皇族)陵墓のうちかつて仏教寺院が管理しかつ法要類をしていたものの資料・史料は手元にない。江戸幕末以前のことなので、全体の一覧は簡単に見出せそうにない。また、管理等々の厳密な意味も問題になりうる。
 さらに陵墓とは正確には、当該天皇等の遺骨が存置され、守られている場所をいう。
 この点で、上記の安德天皇陵は、厳密では「墓」ではない。幼くして亡くなったこの天皇の遺体自体が見つかっていない(ついでに言うと、生きている間に京都で別の天皇が三種の神器なく即位する(それ以降は安德は偽扱いされる)という「悲劇」に遭っている)。
 山田邦和「天皇陵への招待」下掲②所収のp.181によると、元明から安德までの奈良時代から平安時代末までの38天皇(重祚は1とする)の天皇陵にかぎっても、上の点で信頼が置けるのは、わずか9陵にすぎない(◎、これに崇德陵は含まれる)。それ以前の天皇陵についてはもっと割合は低くなるはずだ。
 また、現地又は付近地である可能性が高い(但し、決め手がない)ものと山田が記号化しているものを秋月が計算すると、15陵が増える(○。◎との合計は24陵。安德は別カウント。それ以外は△)。
 さらに、陵墓を管理する寺院というのはその直近に(泉涌寺のように)位置しているとは限らず、ある程度の「付近」というのはありうると思われる。
 これらの点も考慮しつつ、宮内庁HPでの陵墓一覧表の所在地から、仏教寺院管理陵墓だった推察できるものは、以下のとおりだ。なお、これまでと同様に、以下も参照している。
 ①藤井利章・天皇と御陵を知る事典(日本文芸社、1990)。
 ②別冊歴史読本・図説天皇陵-天皇陵を空から訪ねる(新人物往来社、2003)。
 数字は即位年。高倉天皇以前の陵名後の◎○△は上記参照。*は火葬地。所在地は宮内庁HP記載のとおり。関係寺院はあくまで秋月の「推測」で、厳密な「研究」によるのではない。
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 聖武天皇0724・東大寺/佐保山南陵◎-奈良市法蓮町。
 嵯峨天皇0809・大覚寺/嵯峨山上陵○-右京区北嵯峨朝原山町。
 陽成天皇0876・真正極楽寺(真如堂)/神楽岡東陵○-左京区浄土寺真如町。
 光孝天皇0884・仁和寺/後田邑陵△-右京区宇多野馬場町。
 宇多天皇0887・仁和寺/後田邑陵○-右京区鳴滝宇多野谷。
 醍醐天皇0897・醍醐寺/後山科陵◎-伏見区醍醐古道町。
 朱雀天皇0930・醍醐寺/醍醐陵△-伏見区醍醐御陵東裏町。
 冷泉天皇0967・霊鑑寺/桜本陵○-左京区鹿ヶ谷西寺ノ前町等。
 円融天皇0969・仁和寺/後村上陵○-右京区宇多野福王子町。
 花山天皇0984・法音寺/紙屋川上陵○-北区衣笠北高橋町。
 一条天皇0986・龍安寺/円融寺北陵○-右京区龍安寺朱山龍安寺内。
 後一条天皇1016・真正極楽寺(真如堂)/菩提樹院陵○-左京区吉田神楽岡町。
 後朱雀天皇1045・龍安寺/円乗寺陵△-右京区龍安寺朱山龍安寺内。
 後冷泉天皇1045・龍安寺/円教寺陵△-右京区龍安寺朱山龍安寺内。
 堀河天皇1086・龍安寺/後円教寺陵○-右京区龍安寺朱山龍安寺内。
 鳥羽天皇1107・安楽寿院/安楽寿院陵◎-伏見区竹田内畑町。
 崇徳天皇1123・白峯寺/白峯陵◎-坂出市青海町。
 近衛天皇1141・安楽寿院/安楽寿院南陵◎-伏見区竹田内畑町。
 後白河天皇1155・法住寺/法住寺陵◎-東山区三十三間堂廻り町。
 六条天皇1165・清閑寺/清閑寺陵◎-東山区清閑寺歌ノ中山町。
 高倉天皇1168・清閑寺/後清閑寺陵◎-東山区清閑寺歌ノ中山町。
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 後鳥羽天皇1183・勝林院(三千院内)/大原陵-左京区大原勝林院町。*隠岐
 順徳天皇1210・勝林院(三千院内)/大原陵-左京区大原勝林院町。*佐渡
 土御門天皇1198・金原寺/金原陵-長岡京市金ケ原金原寺。*鳴門市
 後堀河天皇1221・今熊野観音寺/観音寺陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 四条天皇1232・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 後嵯峨天皇1242・天竜寺/嵯峨南陵-右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町天竜寺内。
 亀山天皇1259・天竜寺/亀山陵-右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町天竜寺内。
 後宇多天皇1274・大覚寺/蓮華峯寺陵-右京区北嵯峨浅原山町。
 後醍醐天皇1318・如意輪寺/塔尾陵-奈良県吉野町吉野山塔ノ尾如意輪寺内。
 後村上天皇1339・観心寺/檜尾陵-河内長野市元観心寺内。
 長慶天皇1368・天竜寺/嵯峨東陵-右京区嵯峨天龍寺角倉町。
 後花園天皇1428・常照皇寺/後山国陵-右京区京北井戸町丸山常照皇寺内。
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 後水尾天皇1611・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 明正天皇1629・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 後光明天皇1643・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 後西天皇1654・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 霊元天皇1663・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 東山天皇1687・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 中御門天皇1709・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 櫻町天皇1735・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 桃園天皇1747・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 後櫻町天皇1762・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 後桃園天皇1770・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 光格天皇1779・泉涌寺/後月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 仁孝天皇1817・泉涌寺/後月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 孝明天皇1846-1866・泉涌寺/後月輪東山陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
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 以上。かなり厳しく「墓陵」性があるものに限ったが、より古い時代も含めて、本当の「墓陵」だと信じて、またはそのはずだと考えて、寺院や神社が管理等に関与したことはあっただろう。
 陵墓に関する前回に、次の著から、1870年(明治3年)の「御陵御改正案写」の内容に触れた。
 外池昇・幕末・明治期の陵墓(吉川弘文館、1997)。
 その中に、「僧徒」が陵墓に「九重石御塔或ハ…」をそのままにしているのは「混淆之一端」だとして批判している部分があった(p.333)。
 上掲①の藤井利章著が各陵墓について掲載している写真又は説明によると、後水尾天皇~仁孝天皇までの御陵には「九重」の「石塔」がある(16世紀即位の後陽成天皇陵についても、陵墓の所在地は違うが、同じ)。
 この「九重」の「石塔」が<仏教>的なのだとすると(上の1870年文書はそう読める)、この石塔は明治時代も昭和戦前もずっと、撤去されないままで存置されたままだったように解される。いったん撤去されたが、戦後に再び設置されたとは考え難いからだ。
 それだけ<神仏分離>は徹底されなかったこと、天皇陵墓についてすら、江戸期までの、「仏教」のまたは神仏混淆・習合の長い「伝統的歴史」は変わらなかった、と言えるものと思われる。
 ○ 櫻井よしこは、仏教を無視して、日本の宗教を神道に<純化>させるがごとき危険な主張をしない方がよい。秋月瑛二はあえてどちらかというと、神道の方に好みがあったが、この点とは別に、こう批判しなければならない。
 そんなことは明言していないと、釈明・反論したいだろう。
 しかし、明治天皇を中心にしたという「五箇条の御誓文」を出発点とする日本国家形成や、明治天皇と「明治の元勲」たちによる旧皇室典範の制定をほぼ全面的に賛美する姿勢、「神道は日本の宗教です」という思い詰めたがごとき言葉、聖徳太子に言及する際に神道の寛容性を示すものとしてか「仏教」に言及しないこと、等々からして、櫻井の最近の主張の背景にあるものはほとんど明らかなのだ。
 国家基本問題研究所の役員たちは、櫻井よしこをいつまで「理事長」にまつり上げておくつもりなのだろうか。
 月刊正論、月刊WiLL、月刊Hanadaのそれぞれの編集長・編集部が「営業」のためにこの人物を利用しているのだろうことは、いずれまた述べる。

1530/櫻井よしこ・憲法とはなにか(2000)批判のつづき。

 ○ 櫻井よしこは、前回に言及した2000年刊行の本で、日本の「憲法」の最初は聖徳太子の「十七条の憲法」だとし、その二条についてつぎのように述べる。
 原文は「二曰。篤敬三寳。三寳者仏法僧也。則四生之終帰。萬国之極宗。何世何人非貴是法。人鮮尤悪。能教従之。其不帰三寳。何以直枉。」で、<二に日す、篤く三宝を敬え。三宝とは、仏、法、僧なり。…>という現代語訳になる。
 櫻井いわく。これを仏教だけのことしか書いていないと批判する神道等他宗教の人もいるようだが、長谷川三千子の指摘等によると「仏法」とは「もっと普遍的な価値観」だったのかもしれない。/「太子自身も仏道に励み、斑鳩寺を私寺として建てたことや、天皇をも仏法に導いたことは、恐らく読者の皆さんも高校や中学の歴史で学んだことでしょう」。p.191-2。
 仏法の普遍的意味に立ちいらなくとも、なんと、ここでは櫻井は、聖徳太子と「仏教(仏法)」の密接な関係を認め、「高校や中学の歴史で学んだ」だろう、とまで言う。
 今年2017年に週刊新潮で聖徳太子に言及した場合の、櫻井よしことは大違いだ。
 一貫性のなさ。櫻井よしこはこれで一貫している。また、考え方、理解の仕方が変わったのならば、きちんと説明すべきだろう。
 ○ ところで、井沢元彦の逆説の日本史シリーズ(週刊ポスト連載)の内容は相当に「血肉」のようになっていて、だいぶ前に読んだのと該当巻・頁を特定するのが面倒で却ってこの欄で明記することが少ない。
 聖徳太子等に関する第二巻ではなく、第一巻に、興味深いことが書いてある。
 井沢元彦・逆説の日本史/古代黎明編・封印された「倭」の謎(小学館、1993/のち文庫化)
 <雲太、和二、京三>というのは平安時代にできた言葉(p.144)だ。
 そして、第一位・出雲(出雲大社)、第二位・大和(東大寺)、第三位・京(御所)と、建物の規模の大きいもの順の意味らしい(そのように理解するのが通常らしい)。
 井沢元彦p.149. によると、これはまた、聖徳太子・十七条の憲法の第一・第二・第三という各条の重要性の順序に合致する、という。
 これは、少しは意表を衝くのではないだろうか。(出雲大社がかつて本当に現在の二~三倍ほどの高さを持っていた、との考古学資料も出たことについては割愛)。
 第一・「和の精神」/出雲の平和的な「国譲り」伝説-跡地での出雲大社。
 第二・仏教/東大寺(大仏ではなく、それを包含する建物・大仏殿のとくに高さ)。
 第三・天皇/御所。「承詔必謹。君則天之。臣則地之。天覆地載。」-<天皇の命令を受ければ必ず謹んで従いなさい。君はすなわち天であり、臣はすなわち地である。> 
 そして井沢は、「和」の精神こそ、天皇よりも仏教よりも大切な「日本」の精神だと強調する。その是非はともかく、聖徳太子は「和」のつぎの第二として「仏教・仏法」を挙げていた、ということに注目せざるをえない。
 これは、櫻井の現在の感覚とは相当に異なるだろう。
 ○ 櫻井よしこの本に戻る。
 櫻井は明治憲法制定過程に言及する中で長谷川正安の本を使い(p.197-8)、それに間違いなく従って、「憲法思想」は「政府的立場」と「民間的立場」、憲法論議は「神勅にもとづいた神権国家説」と「天皇もまた法の下の支配者であるという法治国家説」の二つの大きな流れに収斂された、と書く(p.198)。
 憲法制定史を概観し整理しておくには、重要な二分であるような印象がある。しかし、櫻井よしこはこの二つの立場・国家観の対立がその後にどうなったかにいっさい言及しない。
 たぶんこの辺りの文章を書いていたときは長谷川正安の本を手元において見ていたが、そのうちに忘れたか、読みやすい又は理解しやすい別の文献を見つけて、そちらに関心が移ってしまったのだ。
 週刊誌二頁くらいだと分からないが、それをまとめて一冊にしたような場合には(櫻井・憲法とはなにか(小学館)も似たようなものだ)、そういった仕掛け・楽屋裏がバレてしまう。
 さらに、櫻井よしこは何のこだわりもなくいったん引用、言及したようだが、長谷川正安とは、憲法に関して岩波新書をいく冊も出版していた、著名な、日本共産党の党員学者だった(当時/名古屋大学)。
 日本共産党・同党員の本だからいっさい引用・言及してはいけない、とは言っていない。
 しかし、上のような<二分>自体にじつは、単純な<権力・民衆>や<神権・民権>の各対立という共産党学者的な見方がすでに出ている、ということに気づくべきだろう。
 櫻井よしこの「無知」は、たとえばこういった点にも見られる。
 また、いったん言及した根拠文献がいつのまにか消失してしまっている、ということもあるわけだ。
 国家基本問題研究所の役員たちは、こんな櫻井よしこが「所長」でいることを、恥ずかしいとは感じないのだろうか。

1527/日本の保守-「宗教と神道」・櫻井よしこ批判④06。

 櫻井よしこは、天皇・皇族と仏教の関係について、あまりにも無知なのではないか。
 ○ 天皇・皇族の墓=陵墓のかなりの部分は、一定の長い間、仏教寺院によって維持・管理されてきた、と見られる。
 江戸時代の天皇の陵墓は、光格天皇、孝明天皇を含めて、全て泉涌寺(京都市東山区)の周辺(東から南)にある。このことは、先に書いた。
 つぎの本に、興味深いことが書かれている。
 外池昇・幕末・明治期の陵墓(吉川弘文館、1997)。
 そもそもは明治期の神仏分離令・神仏判然令から始める必要がある必要があるのだろうが、割愛してこの本のp.330あたりから読むと、当初の神祇官という重要官署の所管対象に、祭祀の施行のほかに陵墓の維持・管理も含めるかどうかという議論があったようだ。1868年(明治元年)に陵墓は「穢れ」でないとの前提でこれの管理も含めて神祇官が所掌するとされたところ、陵墓事務(山陵)については別の官署・「諸陵寮」を設置すべきとの考え方がのちに政府・神祇官内でも出てきて、1869年9月に「諸陵寮」が置かれた。
 同「寮」は、とくに泉涌寺周辺の多数の陵墓の存在とそこでの祭祀について、注目していたようだ。江戸時代の全天皇の陵墓がそこにあったのだから、当然ではあろう。
 「諸陵寮」の1870年(明治3年)8月の一文書「御陵御改正案写」はつぎのように書く(p.332-4。漢字カナ候文、直接引用を混ぜる。厳格な正確さはない可能性もある)。
 ・維新復古となり「神仏混淆不相成旨」を先般布告した。
 ・「御陵御祭典」が全て「神祇道」でもって行われることになり誠に「恐悦至極」だ。
 ・しかるところ(然処)、御陵に関係している「泉涌寺」その他(其外)が依然として「巨刹」を構えてそのままになっているのは(其儘被差置候者)、恐れ入ることだ(恐入次第)。
 ・歴代皇室の「御祭典御陵之御取扱」方法は官民の「模範」で、仏教との「混淆」をしてはならない旨を神社に普く「布告」した。
 ・「泉涌寺」ら全ての「御陵ニ関係之寺院」は、一山残らず「還俗」することを、人選の上で「相当の職務」に就かせることを命じた。
 ・「寺院境内ニ御陵」がある寺院は「僧徒」から「還俗」の出願があればよいが、そうでなければ「塔中一院」であっても「還俗」しなければならない。
 ・「僧徒」たちは「御陵ニ関係」しては全くなくとも、「九重石御塔」または「法華堂杯」をそのまま建て置いて「御祭典」をしているのは「浮屠混淆」の一端なので、少しずつ是正されるのは当然だ。
 ・「御陵」とは「御霊之所在」で、「寺院ニモ往年格別」の「勅諚」は下されなかったけれども、是正されるべきは「自然」だ。
 ・「肝要御陵之御取扱」が「浮屠混淆」であっては、じつに堪えざる懸念がとくに心を苦しめる(不堪懸念殊更苦心)。
 ・「先」ずは「泉涌寺御改正」を別紙のとおり行うように「寮儀」を差し出すので、すみやかに「御評決」していただきたい。
 ・<別紙>-「御歴代御陵祭祀」は「神典」でなされるべきところ、「泉涌寺をも被廃」=廃止するのは「当然の御儀」だと奉り存じ候。 
 以上、終わり。
 泉涌寺に関連しなくても、いくつか興味深い。例えば、
 ①寺院での祭祀・法要類については、従来は「格別」の「勅諚」類がなかった。つまり、神社と同等の扱いだった。
 ②「寺院境内ニ御陵」という言葉があり、これは「御陵」が「寺院」の「境内」にある、という了解または認識を前提としている、と思われる。寺院の所有区画と陵墓の区域とは厳密には区別されていなかったようだ(近代的「所有権」観念のなさによるのかもしれない)。
 さて、皇族である聖徳太子らの合葬陵墓が大阪府太子町・叡福寺の中または直近にあること、多数の天皇陵墓が京都市東山区・泉涌寺の近くにあることは、すでに記した。
 これらは、現時点でのことだ。
 ○ いくつかの論点が、少なくともかつては、あった。
 第一は、陵墓自体の様式・築造法の問題だ。詳しい知識はないが、神道的または仏教的な仏具ないし神具が置かれたり、墓碑自体が神道式または仏教的ということもありうる。
 第二に、陵墓の維持・管理の問題だ。少なくともかつては実質的に寺院または神社がこれを行っていたことはあった、と見られる。
 神社についてはこの欄でまだ言及したことがないが、現在の姿・位置関係から推察して、それがありうるだろうという例をいくつか知っている。
 第三は、陵墓の前又は直近での慰霊行事の主体の問題だ。形式上は皇室または幕府等々による命令(又は委託)によることがあったかもしれないが、陵墓の維持・管理を実質的に寺院または神社が行っている場合には、これもまたそれぞれの寺院や神社が主体として行っていたのではないだろうか。
 第四は、周辺に陵墓がある場合にとくに、寺院(・神社)内部での上のような行為、つまり慰霊・法要や供養の祈祷の類が認められたかどうか、だ。これまた、陵墓の維持・管理が実質的に寺院(・神社)によっている場合には、大きな問題にならないと思われる。
 ◯ これらが明治期以降どうなって、そして現在に至っているのか。
 上の1870年(明治3年)の<建議書>について言うと、まず、つぎの点の解釈が問題になりうる。
 「御歴代御陵祭祀」は「神典」でなされるべきで「泉涌寺をも被廃」=廃止するのは「当然の御儀」だ。=「御歴代御陵祭祀神典ニ被為依候上ハ、泉涌寺ヲモ被廃候儀当然ノ御儀と奉存候」。
 これは、泉涌寺という仏教寺院の廃絶までを意味しておらず、維持・管理をこの寺院に任さないことも含めて、上の第二、第三を明確に禁止し、かつ場合によっては第四も許さない、という厳しい趣旨だとも読める。
 だが、実際には、これよりも厳しい措置を想定していたようだ。
 外池昇(1957~)の上掲著は、<別紙>について、つぎのように注記している(p.344)。
 「泉涌寺にある総ての陵を泉涌寺から徹底的に分離して管理」する具体策を述べる。
 ①「総ての僧侶」の「復飾」、②その僧侶から人選して「御陵守護に当たらせる」、③「寺中の仏像・経典・梵鐘等の仏器類」の「撤却」、③「本堂を取り除く」、④「寺領」は「陵田」(陵墓の土地)とする。p.344。
 これは、泉涌寺という仏教寺院それ自体の廃止・廃絶を意味するだろう。
 さらには、上に触れた第一の点にかかわって、14の陵墓について、つぎのことすら提言されていた、とされる(同上、p.344)。同寺周辺の他陵については省略。
 ①「仏式の九重塔」を除去して「円丘」を築く、②崩御年号記載の「大石」を前面に設置、③「石垣、玉垣」、「鳥居」の造立、等々。
 ところが、重要なのは、こうした建議はそのままでは採用されたり、実施されたりすることがなかっつた、ということだ。つまり、<神仏分離>を徹底することはできなかった。
 おそらくは、上の第一の点での多少の造作、変更はあった。第二、第三で述べた管理・供養類への主体的関与は(仏教寺院には)なくなった。しかし、寺院それ自体が廃止・廃絶されたわけではなく、すぐ近くに陵墓はありつつ、かつ陵墓面前ではなくとも、当該天皇等に対する慰霊・供養・法要等は寺院内でずっと行われてきた。
 第二、第三は、戦前は国家と世俗宗教との分離、戦後は国家と「宗教」自体の分離の結果だ。陵墓維持・管理は国家の仕事(現在は国・宮内庁)であって、寺院等のすることではない、という法的建前があったし、現憲法のもとでは、寺院のみならず、神道神社についてもある(政教分離、国家と「宗教」との分離)。
 しかし第四については、戦前の実際はよく知らないが(たぶん戦後と同じでないか)、少なくとも戦後は、仏教寺院が天皇の位牌を置いて法要する等のことは、もちろん全ての寺院ではないが、特定範囲の寺院には許されてきた。遺族ともいえる天皇家もまた、それを迷惑に思って封じたりはしてこなかった。
 泉涌寺の「霊明殿」には、天武以降の奈良時代の天皇以外の全天皇(とされる。だが、特定の天皇以降だろう)の「位牌」があって、毎朝読経がされている、とこの寺院で聞いた。
 なお、陵墓それ自体は寺院の土地とは区別されつつ、特定の天皇(・上皇)ゆかりの寺院には、当該天皇(・上皇)の位牌が正面に一つまたは一~三程度置かれて法要を行う畳敷きの部屋が現在でもあることがある(例、仁和寺、青蓮院等々)。その室がある建物に向かう、唐破風であったりする「勅使門」が現在でもあることもある。
 ○ 結局のところ、櫻井よしこのように、天皇・皇室の<宗教>を神道に<純化>させて、仏教と切り離したい、または切り離すのが天皇家の歴史的伝統だと理解している人物が、なんと国家基本問題研究所理事長であっても、いるのかもしれないが、それは過っている、ということだ。
 櫻井よしこは、「無知」を自覚、自認しなければならない。

1510/日本の保守-宗教・神道と櫻井よしこの無知④02。

 ○ 櫻井よしこ「これからの保守に求められること」月刊正論2017年3月号(産経)p.84-89。
 この櫻井よしこの論考は、月刊正論3月号の<ポスト安倍・論壇は誰か ?>を主題とする、<保守>に関する特集の中にある。そして、この月刊正論3月号は、10人以上の論者に「保守」を語らせながら(その中にこの欄で紹介した小川榮太郎のものもあった)、前に八木秀次「保守とは何か」、最後に櫻井よしこ「これからの保守…」をもってきてそれらを挟むという編集スタイルをとっている。
 このように八木秀次と櫻井よしこを<保守>論者として重視するという編集姿勢そのものにすでに、産経新聞的または月刊正論的、または月刊正論編集部・菅原慎太郎的な<保守>の現況の悲惨さ、惨憺さが現れているだろう。
 上の櫻井論考は6頁あるが、神道・古事記等々は出てきても、「仏教」という語は一回も出てこない。
 櫻井よしこは「保守の特徴」の第一は「日本文明の価値観を基本とする地平に軸足を置」くことだとしている(そして「世界に広く心を開き続ける」ことだとする)。
 この程度のことは誰でも語ることができるし、場合によってはナショナル左翼もまた、この文章自体に反対することはないかもしれないレベルのものだ。
 問題はもちろん、「日本文明の価値観」として何を想定するかにさしあたりはなる。
 櫻井よしこが一切「仏教」に触れていないことは既に記した。櫻井が頻繁に言及しているのは、「十七条の憲法」と「五箇条のご誓文」で、後者は「ご誓文」だけの場合も含めて、(6頁に)7箇所も出てくる。
 「日本文明の価値観」を示したものとして櫻井が最初に挙げるのが「十七条の憲法」で、これと「五箇条のご誓文」は重なるとか似ているとかしきりに言っている。
 そして、聖徳太子・十七条の憲法-天武天皇・古事記-神道-天皇・皇室という流れの中で、「神道」を位置づける。
 明記はないが、「五箇条のご誓文」は(神道・)天皇・皇室中心の<明治>国家の最初の宣言文書という扱いだと理解して、まず間違いないだろう。
 ○ 「十七条の憲法」といえば聖徳太子だが、この人物名の問題は別として、聖徳太子は、仏教を日本で容認してよいかどうかの蘇我氏と物部氏の間の紛議・対立に際して前者を支持して仏教容認派勝利を決定的にした。これは、中学生の教科書にもあるだろう。
 櫻井は上の論考でも最近の別の文章でも聖徳太子を高く評価しているが、「仏教」とのかかわりはどう見ているのだろうか。週刊新潮2017年3/09号にこうある。
 「神道の神々のおられるわが国に、異教の仏教を受け入れるか否かで半世紀も続いた争いに決着をつけ、受け入れを決定したのが聖徳太子である。キリスト教やイスラム教などの一神教の国ではおよそあり得ない寛容な決定である」。
 この部分以外に「仏教」は出てこない。
 しかも、「異教」のそれを受容したことに日本文明または神道の「寛容」性を見る、という文脈の中で位置づけている。
 この頃からおよそ1400年経った。しかも150年ほど前にすぎない1800年代の後半までは、<神仏混淆>・<神仏習合>と言われる時代が長く続いた。かりに600年~1850年として、1250年も続いた。
 この歴史を、櫻井よしこは無視、または少なくとも軽視しているのではないか。
 天皇譲位問題に関するこの人の主張の基礎と同じく、ほとんど明治期以降にしか目を向けていないのではないか。あるいは、<明治日本>を最良・最高の日本だったと観念しているのではないか。
 別の観点から批判的にいえば、日本文明は「異教の仏教」を受け容れたが、基本的にいえば、キリスト教やイスラム教を受容しなかった。
 キリスト教・イスラム教と仏教は、日本人と日本国家にとって、明らかに違うだろう。
 しかし、櫻井よしこの文章には、そこに立ち入っていく姿勢・雰囲気はまるでない。
 聖徳太子以前の時代にだけ「日本文明」を限れば別だが、今や、あるいは飛鳥・奈良・平安等々という時代を通じてずっと、ある程度は日本化した、また日本で新登場した(新解釈された)と見てよい「仏教」を無視または軽視して、日本の伝統的な「文明」も「文化」も語ることはできない、と考えられる。
 櫻井よしこの視野は、偏狭だ。
 ○ 西尾幹二は「仏教に篤い心を持つ天皇も歴史上少なくありませんでした」と述べた(前回参照)。
 そのとおりだ。諸天皇・皇族は、<信教>のことなどを考える物質的・精神的余裕がなかった時代は別だが、おおむね神仏をともに崇敬していて、中には「仏教」により強く傾斜した天皇も少なくなかった、と思われる(逆に神道の方を重んじた時代・天皇もあったかもしれない)。
 キリがないだろうが、例えば西国三十三カ所巡拝(観音菩薩信仰)は平安時代の花山天皇に由来するともされる。
 また例えば、京都市には今でも無数に(正確には数多く)「門跡」寺院というのが残っていて、これは天皇・皇族が出家して法主等を務めた「仏教」寺院を意味する。
 北白川の曼殊院には秋篠宮殿下家族がご訪問の際の写真が掲示されている。有名寺院の中でも、他に、青蓮院、聖護院、三千院、仁和寺、大覚寺等々、数多く「門跡」である仏教寺院はある。
 櫻井よしこの蒙を啓くためにも、天皇・皇族の<墓陵/陵墓>について、以下に述べる。
 なお、秋月瑛二はこの問題についても<専門家>ではない。そうでなくとも、櫻井よしこがきっと知らないことを知っているし、櫻井よしこが関心を持たないことにも興味をもつのだ。
 ○ 櫻井よしこは、光格天皇を、天皇・皇室の<皇威>を高めた天皇として高く評価していたようだ。
 しかし、光格天皇は、櫻井よしこが本当は反対だったはずの<生前退位>を行なった天皇(最後の)であり、「院政」を敷いたかはこの概念の理解にもよるだろうが、現在のところ最後の<上皇>だった。
 天皇・皇室問題に関連して櫻井よしこがこの天皇に触れたとき(週刊新潮で取り上げたとき)、上のことはどの程度意識されていたのだろう。
 かつまた、光格天皇の死後どのように天皇の「墓陵」は造営されて管理された(管理されている)のか。
 いつぞや「美しい日本」との連載ものの中で下り参道の珍しい例として泉涌寺(京都)を挙げ、ほんの少し「御寺(みてら)」と呼ばれて天皇陵も周辺にあることを記した。
 明治天皇の曾祖父にあたる光格天皇の墓陵は「後月輪陵」といって、泉涌寺の周辺にある。以下、地図も付いて分かりやすいので、つぎの書物を参照する。
 藤井利章・天皇と御陵を知る辞典(日本文芸社、1990年)。
 祖父の仁孝天皇も同じ「後月輪陵」、父親の孝明天皇はその東の「後月輪東山陵」で、-現地で確認したことはないが-泉涌寺の近くでいわば寄り添っている。
 さらに、17世紀最初の皇位継承者だった後水尾天皇から、明生、後光明、後西、霊元、東山、中御門、桜町、桃園、後桜町、そして1770年即位の後桃園天皇まで、200年近くの各天皇の墓陵・御陵は全て「月輪陵」であり、泉涌寺の周辺に集中している。
 何となく「御寺(みてら)」という語を印象的に記憶していたが、こうして見ると、泉涌寺と天皇(家)の関係は、少なくとも日本近世ではきわめて密接だった。
 いや、場所的に近いだけで、寺院と墓陵は別だろう、という人が必ず出てくるので、さらに立ちいる。とりあえずは、上掲書の後水尾天皇の項にこうあるとだけ紹介する。
 「…崩御され、…泉涌寺において陵地を決定し、…夜入棺して、泉涌寺の僧徒がこれを手伝った」。p.243。
 つづける。

1508/日本の保守-「宗教観念」・櫻井よしこ批判④。

 ○ 西尾幹二・維新の源流としての水戸学/GHQ焚書図書開封第11巻(徳間書店、2015)に、つぎの旨の叙述がある。p.41-70、p.78-、p.95-101、p.167など。(以下、必ずしも厳密でない再述がありうる。但し、大きくは誤っていない)
 水戸光圀・大日本史の編纂にあたって論争点になった三つの「難問」があった。
 ①南朝(後醍醐)は正統か-楠木正成は逆賊でないのか、のほか、
 ②大友皇子(天智の子)は天皇としてよいか、②神功皇后を皇統の一代に数えるべきか。
 これらは、明治維新後の新政府の「歴史」理解の問題ともなり、「水戸学」・大日本史と同じ結論が維持された。
 ①南北朝のうち南朝が正統、②大友皇子は天皇に即位していた(弘文天皇と追号)、③神功皇后(=応神天皇の母)は天皇と同様には扱わない(天皇のように一代とは数えない)。
 以下は、内容も秋月の文になる。
 日本書紀は天武天皇とそれ以降の天武系の天皇のもとで編纂されたので、天智の子・大友皇子(母は伊賀采女)を天皇扱いにしているはずがない(当然だと思うので、確認しない)。大友が天皇に即位していたことを認めてしまえば、<壬申の乱>で天武は天皇を弑逆したことになるからだ。天皇から皇位を奪い取ったことになるからだ。
 大友が即位していなければ、辛うじて、天智天皇の死のあとの弟と子(天武からいうと甥)の間の<皇位継承の争い>という説明ができる。
 明治になって公式に大友皇子=弘文天皇とされたので、当然だが、その一代だけとっても(天智より後は)、日本書紀と今日の理解での各天皇の代数は、少なくとも一つずつ異なる
 <保守>の人々はときに、例えば櫻井よしこも、平気で<~代までつづく>と今日までの代数を示すが、これは明治期以降に「確定」 ?したものだ。
 ○ 同じく、西尾幹二・維新の源流としての水戸学/GHQ焚書図書開封第11巻(徳間書店、2015)は、西尾自身の言葉として、つぎのことを主張している。同旨は多々あるようだが、つぎの一箇所に限る。p.40。
 明治新政府の「廃仏毀釈というのは善い意味でも悪い意味でも非常に影響の大きい運動」でした。「『国家神道』が唱道され、仏教を廃し神道を重んじる」ことになった。「それが天皇家の復活に寄与したという一面がある」。
 「しかし長い目で見ると、仏教を否定したのは精神史上マイナスであったといわざるをえません。仏教に篤い心を持つ天皇も歴史上少なくありませんでした」。
 神道の重視は「天皇家の復活には役立った」。「しかし、その結果、日本人の宗教を痩せ衰えさせてしまったという面があるのです」。
 秋月瑛二も、この辺りの理解に賛同したい。私は、神社も寺院もたいていは好きで(レーニンやロシア革命にだけ関心があるのではない)、全国のかなり各地を回っているが、神社・神道と寺院・仏教の違いや類似性、日本化した(おそらく神道の影響を受けた、強いて今日的に分類すれば)仏教・寺院の存在を、肌感覚で感知することがある。
 ○ 櫻井よしこの、以下の論考は、その<保守(主義)宣言>と理解して、今後も複数回とり挙げる。
 櫻井よしこ「これからの保守に求められること」月刊正論2017年3月号(産経)p.84-。
 この中に、つぎの一節がある。
 「古事記は」、「日本が独特の文明を有することや、日本の宗教である神道の特徴を明確に示して」いる。
 「神道は紛れもなく日本人の宗教です」。p.85。
 このあと段落すら変えないで(改行することなく)、櫻井は古事記の話に入り、「自然が神々であり、それらはやがて人間になり、天皇と皇室が生まれたわけです」と、段落を結ぶ。p.85-86。 
 先に最後の部分に触れると、櫻井よしこは竹田恒泰の著を参照文献のごとく括弧内で挙げている。しかし、竹田恒泰もさすがに自然・神々・人間・天皇の関係を(永遠の自然史の流れとしてはともあれ)「事実」として主張しているのではなく、あくまで古事記に記述された<物語>の内容を説明しているだけだと思われる。
 しかるに、この櫻井よしこの書き方では、まるで天皇とは「現人神」だ。
 そのように「観念」するのはまだよいが、「神」と「天皇」・人間を同一視するかの叙述を「事実」のごとく叙述すべきではないだろう。
 そもそもはこのあたりにすでに、<観念・意識・精神>と<現実・事実>の境界の不分明な櫻井よしこの叙述の特徴が出ている。
 ○ 本来言及したいのは、上の点ではない。
 神道は日本の宗教である、というとき、二つの基本的な論点がある。
 一つは、そもそも「宗教」とは何かだ。明治期には、むしろ特定の<宗教>もどきのものとは神道は扱われなかったという逆説的な理解も可能だ。
 つまり、日本の神道は「宗教」ではなく、「伝統的習俗」類であって、例えば現在の憲法がいう「宗教」とは異なる、という理解も不可能ではないのだ。
 二つは、では、「仏教」は、日本の宗教ではないのか、という問題だ。
 上の引用部分では明らかではないが、櫻井よしこは明らかに、仏教よりも神道を重視している。一つだけとすれば、間違いなく、躊躇することなく、神道を挙げるに違いない。
 一つだけ取り上げる、又は最重視する「宗教」を敢えて名指しする、という考え方は、日本の<保守>あるいは日本国家や日本人にとって、望ましいことなのだろうか。
 ここで再び、冒頭近くに紹介した西尾幹二の主張・叙述に、目を向けるべきではないだろうか。
 櫻井よしこの「頭」は、観念的・単純で、偏狭なのだ。もともと関心があるテーマなので、つづける。

0848/<仏・共連合>の成立?②(終わり)。

 二 (つづき)
 ②別の某県某市のこれまたこの地域では有名な寺院の一つを訪れてみると、残念ながら写真を撮っておらず、文書・パンフをきちんと残していないことに今気づいたのだが、本堂近くに、まるで「九条の会」が主張しているような内容のビラか冊子のようなものが置かれてあった。
 先の①の寺院(・大会)よりも露骨に、「護憲」(と「反戦」)を呼びかけるものだった。
 仏教徒にも「政治的」活動の自由はある、とは一応は言えるのだろう。また、当該寺院の責任者たちは自らの信仰と「九条の会」の主張とは矛盾してない、むしろ合致している、と考えているかもしれない。
 だが、政治的には日本共産党系の運動といってよいのが常識的だと思われる「九条の会」の主張と似たようなことを書いた文書を参拝者の目に付きやすい場所に置くとは、あまりにも「政治的」に<幼稚な>感覚というものだろう。
 その寺院にもいろいろな檀家の人々がいると思われる(訪問者・参拝者の中には、私のような者もいる)。そのような直近の人々の(檀家総会の?)同意を得て、そのような文書を作成しているのだろうか。奇妙に感じながら、その寺院の境内を後にしたものだ。
 ③つぎは、全国的にも有名と見られる、日本の大寺院10に含める人もいるかもしれないほどの大寺院でのこと。
 その寺院の某建物の廊下に、10名の人物の顔写真を掲載した大きなポスターが貼ってあった。
 その10名のうち当該寺院の宗派「管長」以外の9名は、タテ長のポスターの右上から左下への順番で書くと、益川敏英(現京都産業大学理学部教授、ノーベル賞受賞者)、秋葉忠利(広島市長、元日本社会党国会議員)、湯川れい子(音楽評論家)、坪井直(被爆者)、麻生久美子(女優)、張本勲(元プロ野球選手)、田上富久(長崎市長)、小山内美江子(脚本家)、井上ひさし(作家)。
 これだけ並べると推測がつこうが、ポスターの中心には「核兵器のない世界を・あなたの未来のために国際署名にご協力を!」と書かれている。下部には、横書きで「私たちは、/核保有国をはじめとするすべての国の政府がすみやかに核兵器禁止・廃絶の交渉を開始し、締結することに合意するようよびかけます」との一文が記載されている。
 そのまた下に小さく書かれているこのポスターの製作者名は、次のとおり。
 「〇『核兵器のない世界を』国際署名キャンペーン事務局 〇113-8464東京都文京区湯島2-4-4平和と労働センター6階 原水爆禁止日本協議会気付 〔TEL、URL省略〕」
 井上ひさし小山内美江子ですでに「左翼」色は明確なのだが(よく知らないが、益川敏英もたんに名声?を「利用」されているのではない、<確信的な>活動家的信条の持ち主だと書いていた人もいる)、上記事務局の「気付」先とされる「原水爆禁止日本協議会」とはいわゆる(日本)原水協で、日本共産党系(直属の?)団体そのものではないか。

 <核兵器禁止・廃絶>を謳えば、(日本人ならば?)誰でも支持してくれる(はずの)運動であり、またそのためのポスターだと、この有名大寺院の責任者は考えているのだろうか。
 怖ろしいことだ。この寺院は、(日本共産党系・)日本原水協系の活動・運動の、この地域での拠点になっている可能性すらある。あまりも堂々と、建物内に入った者は誰でも通る廊下の壁にポスターは貼られていた。
 こんな例を見ると、①で紹介した文章は、たんなる<観念的理想家>の僧侶・仏教者が書いたのではなく、僧侶・仏教者の中にも日本共産党員は存在していて、そのような者が共産党色は出さないように用心しながら配慮して書いたのではないかとすら思えてくる。
 三 以上の三つの例の寺院はいずれも、直接にコミュニズム(または日本共産党)を支持することを明言したものではない。だが、現在の日本共産党の主張・路線と決して矛盾はしないものだ。<左翼的>(あるいは少なくとも社民党的)であることはほとんど明らかで、共産党員または親共産党の者が書いた、または責任者として貼った、という可能性も否定できない。
 <仏・共連合>という見慣れないだろう言葉を使ったのは、上のことによる。
 仏教徒が現在(とくに日本で)何をすべきかと真摯に思考することを排除するつもりはない。だが、そのような誠実で真摯かもしれない思考と活動の中に<容共(親コミュニズム)>精神が結果としてであれ浸透してきているようで、これまた<戦後>思潮の結果・成りゆきの一つとして、私は怖ろしく感じるし、強い憂慮も覚える。

0847/<仏・共連合>の成立?①

 一 かつて日本共産党と創価学会が「創共協定」なのものを結んだことがあるくらいだから、コミュニスト(共産党員を含む共産主義者、広くは親共産主義者・共産党シンパ)と仏教徒が協力関係に立っても、あるいは(少なくともとりあえずは)同一の目標を目指しても何ら不思議ではないのだろう。
 知識・勉強不足で、新興仏教(の信者たち)は別として、従来からの仏教界(やそのような仏教の信者たち)は総じて<保守>的・<伝統的>で、反「左翼」ではないかと思ってきた。
 だが、「総じて」とは決して言えないようだ。よくよく思い出して見ると、従来的な仏教寺院と仏教関係者が日本で最も多いと推測される京都府で、社・共(社会党・共産党)連合による蜷川虎三「革新」府政がしばらくの間継続したのだった(確認しないが、京都市長も社・共推薦候補が担ったことがあったはずだ)。
 二 ①2000年~2009年の間の半ばに、某県某市で「全日本仏教徒会議」の大会が開かれた。その会場となった某寺は大きな古い寺院で(少なくともその県の代表的な寺院の一つで)、本堂には皇室の菊の紋章が何カ所にも付けられていたりする。
 その大会は「出会い 緑を生き、伝えるわれら」を「開催趣旨の大会テーマ」とした。「開催趣旨」はより正確には次のようなものだった(全文。/は改行)。
 「地球は青い水の星。生命にとって欠かすことのできない水はいのちのみなもとです。/生命の誕生、そして進化を繰り返し、文明の火を灯し進歩してきました。あらゆる生命が共存する地球は、人類の歴史と共に大いなる環境の変化をもたらしています。/また、世界各地で起こる争い、環境破壊、温暖化現象など人間の欲望が加害者となり、限りあるこの地球というすばらしい星を苦しめています。/みほとけの慈悲と共生のこころを21世紀から地球と子孫に伝え、さらに未来に向けてひとりひとりが真剣に考えるつどいとなるよう…〔略〕から発信していきましょう。」
 採択された「大会宣言」は次のようなものだった(全文。/は改行)。
 「地球は青い水の星。生命にとって欠かすことのできない水は、いのちのみなもとです。/生命の誕生、そして進化を繰り返し、文明の火を灯し、進歩してきました。あらゆる生命が共存する地球は、人類の歴史とともに大いなる環境の変化をもたらしています。/人類を中心とする生き方は、地球環境を破壊することとなり、温暖化現象を来していると言わざるを得ません。清らかな水と空気が濁りつつある今日、異常現象や自然の災害は人類の生命をおびやかしています。/21世紀に入り早くも…年が経ちました。心の時代と言われながら、しかも前回の仏教徒会議で『日本仏教者からの平和の願い』を私たちが提言したにもかかわらず、今において人間が人間の生命を奪い取るという悲しいニュースの報道は、心痛の極みであります。/このような時にあたり仏教徒として、私たちは、みほとけの慈悲と共生のこころを現代に生きる人達に伝えていきます。さらに、私たちは明日という未来に向けて、ひとりひとりが真剣に、かつ、信念に満ちた活動を実践していくことを宣言いたします。」
 以上。これらの文章は読みやすい字で書かれて木製の柱の上の掲示板に記載され、その掲示柱はその寺院の山門のすぐ傍らに立てられている。また、すぐ隣に、「出会い、緑を生き、伝えるわれら」という言葉や「全日本仏教会々長」と当該寺院の「貫首」の氏名(個人名)等を刻んだ立派な石碑がある。
 人には諸活動の自由があり、仏教徒にもあるだろう。「清らかな水と空気」の大切さを説くことに反対する気はむろんない。
 だが、大きな違和感も覚えた。たとえば、1.「進化」と「進歩」を肯定するかの如きいわば<進歩主義>は、仏教の教義と合致しているのだろうか。2.「みほとけの慈悲と共生のこころ」と言うが、実質的意味は別としても、「共生」という言葉は何かの教典に明示されているものなのか。3.仏教徒が、「人類を中心とする生き方は、地球環境を破壊することとなり、温暖化現象を来していると言わざるを得ません」と断定してしまってよいのか。
 この文章は、「左翼」的環境保護運動の活動家の書いた少しはマイルドなアジ(アジテーション)・ビラの如くでもある。民主党の「左派」(旧社会党系)や社民党が強調していることと似てはいないだろうか。<地球は人類だけのものではない>との旨の部分は、<日本列島は日本人だけのものではない>と言ったらしい鳩山由紀夫を彷彿しさえする。
 「全日本仏教徒会」なる組織・団体が日本の仏教徒・寺院のうちのどの程度を組織しているのかは知らない。だが、この寺院やこうした文章が示す考え方が仏教界において決して稀少ではないようであることは、次の②・③の例でもわかる。
 (つづく)

0846/佐伯啓思「幸福追求という強迫観念」と日本国憲法13条。

 一 産経新聞3/15の佐伯啓思「幸福追求という強迫観念」を読んで、深い感慨に耽らざるをえなかった。
 二 鳩山由紀夫が「幸福度指数」なるものを持ち出していることに刺激を受けてだろう、佐伯は次のように言う。
 A<アメリカ独立宣言は「幸福追求の権利」等を「普遍的価値」と謳ったが、「自由」とともに「幸福追求の権利」はイギリスに対する「抵抗」の思想だったにもかかわらず、それが忘れられ、「誰もが幸福でなければならない、という一種の強迫観念」を生んだ。これに浸かってしまい、「他人が幸福であれば自分も幸福でなければ面白くない。不幸だと感じた途端、自分の人生は失敗だった」と感じてしまう。この強迫観念に捉えられれば「人は決して幸福になれない。それどころか…人をますます不幸にする」。>
 B<日本にはもともとは「かくも利己的で強迫的な幸福追求の理念」はなかっただろう。①「仏教的な無常観」、②「武士的な義務感」、③「儒教的な『分』の思想」、④「神道的な晴明心」、のいずれを持ち出し、いずれに依拠するにせよ、これらはすべて「個人的な幸福追求に背馳する境地をよし」とするものだ。ここに「日本人の死生観や自然観や美意識」が生まれた。「病と死と別離から逃れえないかぎり、人の生は、本質的に不幸」だ。「幸福」の指標などと言う前に「日本人の背負ってきた死生観や自然観を学び直す」必要がある。>
 このような佐伯啓思の見解・主張を私はほとんど違和感なく受け容れることができる。「病と死と別離から逃れえないかぎり、人の生は、本質的に不幸」だ、との部分も、論争的であるとしても(議論の対象になりうるとしても)、結論的にはそういう他はない、と感じている。
 三 佐伯の一文を読んで深い感慨を覚えた、というのは、佐伯啓思の見解・主張を私個人は十分に納得できるものの、しかし、現在の日本人の多数はむしろ理解できず、あるいは反発するのではないか、という、うんざりとするような気分も同時に湧いたからだ。
 なぜなら、佐伯も言及するアメリカ独立宣言が謳う「自由」や「幸福追求の権利」は現日本国憲法において、まさしく実定法化され(=明文で憲法典にまで書かれており)、少なくとも成文法としては日本国憲法は「最高法規」とされ、それにもとづいて行われた戦後の公教育のための、疑いをもつことが許されないほどの<理念>としてすらされてきた。
 あらためて、現日本国憲法13条を引用しよう。
 「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
 第一文でいう「個人の尊厳」(の保障)が樋口陽一をはじめとする<左翼>(かつおそらくは圧倒的に多数の)憲法学者において、現憲法の最重要の基本理念とされていることは、すでにニュアンスを変えつつ、この欄でも何度も言及した。
 この<個人の尊厳(の保障)>=「個人の尊重」とともに「(自由および)幸福追求に対する権利は…国政上最大の尊重を必要とする」と現憲法は謳っているのであり、かかる憲法規定を知り、学んだほとんどの(かつての、も含む)少年・青年たちには、とりわけ、狭く言えば大学の法学部で憲法を勉強した者たちには、さらには司法試験に合格し専門法曹になったような者たちには、<個人が尊重され>、個人がそれぞれ<幸福を追求する権利をもつ>ことは、疑問を微塵も生じさせないだろうような、しごく常識的で、当然のことになってしまっている、と思われるのだ。
 この13条の淵源はアメリカに、ひいては西欧(欧米)の法(人権・)思想にある。そして、佐伯啓思も指摘するように、必ずしも日本人本来の「人間」観・「人生」観とは合致していない、と思われる。
 だが、そのような問題があることを全くかほとんど意識することなく、<個人の尊厳>と<幸福追求権>の保障が存在することを、現在の日本人の多くは当然視しているのではないか。
 佐伯啓思の一文の内容を諒解しつつ、怖ろしいと感じるのは、上のことにある。
 佐伯啓思の考えていることと、日本国憲法に明示されていることにもよる、多数日本人の意識の間の、この大きな乖離。ここに怖ろしく感じる原因はある。
 それぞれの個人が(自由に)<幸福を追求>することができる、ということ自体は当然のようにも思えるが、佐伯も指摘又は示唆するように、個人は<平等に>「自由」・<幸福追求権>をもつと考えられていることから、他人との間の比較意識、<格差>を嫌う、<そねみ・ねたみ>の意識は容易に生じる。もともと日本人にとっての「自由」とは(他人に害悪を及ぼさない限度での)<気まま>・<放恣>・<何でもアリ>の気分に転化してしまっていること(これはほとんど<多様な個性の尊重>という通念に等しいこと)は、あえて長々と書かなくてよいだろう。
 こうした「自由」・<幸福追求権>を支えるかのごとき<個人の尊重(「個人の尊厳」保障)>の理念も元来は欧米に由来するものであることは、代表的な憲法学者だったらしい樋口陽一が、フランス革命期の<ジャコバン型個人主義>を日本人も(もっと?)体験すべき、と主張していることからも明らかだ。そして簡潔に書くが、丸山真男・樋口陽一(・辻村みよ子)らの日本の「左翼」知識人たちは、日本人は(欧米人のように?)自己を確立した<強い個人になれ>と戦後ほぼ一貫して(戦前から?)主張してきたのだ(そこでは自分は欧米的な「個人」として自立しているが日本の
「大衆」はまだ<遅れている>という暗黙の前提があった)。
 このような欧米的思想を継受した日本国憲法のもとで培養された現代日本「国民」の意識は必ずしも佐伯啓思のそれと同じではないと思われる。佐伯を批判しているのではなく、はがゆい思いで、事実の認識として書いている。
 そして、ここにもまた、日本「国民」の間の<国論の分裂>の根っこを感じ取らざるをえない。
 (「家族」に関する規定のない)日本国憲法も描く<自立した強い個人>の<自由(勝手)>な<幸福追求>活動の保障というイメージは、佐伯啓思の指摘するとおり、やはり日本と日本人の本来の意識とは合致しない、合致するはずがないのではないか。
 「日本人の背負ってきた死生観や自然観」に依拠して日本国憲法をも含めて見直すのか、それともかかる「日本人」意識あるいは<ナショナルなもの>は捨てて<普遍的な>「国際人」(地球市民?)になることを目指すのか、人についても国家についても、基本的なところで<国論の分裂>があり、あちこちで火花を散らしている。
 以上、内容としてはじつに幼稚な、新味のない文章になった。 

0498/産経新聞5/08櫻井よしこ論考と佐伯啓思。

 産経新聞5/08櫻井よしこ「福田首相に申す」は、中国共産党のチベット人・ウイグル人弾圧・「文化の虐殺」が進行中だとしたあと、「近い将来、台湾制覇のため南進すると思われる」と書き、さらにつづけて「そうなれば、日本にとっても深刻な危機が到来する」とする。
 <異形の国家>・共産党独裁の中国は、まずは尖閣諸島を皮切りに沖縄諸島から始めて、日本列島全域を支配することを狙っているものと思われる。太平洋(の軍事管理)を米国と中国で東西に二分しようと中国要人が米国人に発言したとかの報道(氏名・役職等の詳細を確認しないままで記憶で書いている)も、上のことが全くの杞憂でないことを裏付ける。
 となると、日本は中華人民共和国日本州となり日本人は日本「人」ではなく日本(大和?、倭?)「族」と称されるのだろう。中国の一部とされなくとも旧ソ連と旧東欧との関係の如く、中国の<傀儡>政権(日本共産党が存続していれば参加?)のある実質的な<属国>になる可能性もある。
 そうなれば、―最近、伊勢神宮等の神社・神道のことについて書く機会が増えたが―伊勢の神宮を含めた、神社という「日本的な」ものは、―チベットの仏教施設がそうなっていると報道されているように―すべて又は殆ど破壊され、解体されてしまう可能性もある。日本全国から、根こそぎ、「神社」(お宮さん)が破壊され、なくなってしまった日本という地域は、もはや「日本」ではないだろう。同様のことは日本仏教・寺院についても言える。
 上のことが全く杞憂とは言えないのは、1945年の占領開始の頃に、主だったいくつかの神社を除く多数の神社はすべて潰される(物理的にも破壊される、又は自ら破壊しなければならない)のではないかとの危惧と<覚悟>を神社関係者はもった、ということを最近何かで読んだことでも分かる。幸い、GHQは、神社・神道があったからこそ戦争が開始された、とは理解しなかったので<助かった>ようなのだが。
 ところで、櫻井よしこは、福田首相が「念頭に置くべき」なのは、「異民族も含めた中国の人々、そして国際社会に向かって、いかなる普遍的価値観に基づいた言葉を発することができるか」という点だ、とも主張している。
 ここでの「普遍的価値観」とは生命を含む<人権>の尊重、信教の「自由」の保障を含んでいるだろう(民族の自決権は?)。
 かかる「普遍的価値観」はアメリカのそれであり、<左翼>価値観だとして日本の保守派がそれを主張するのは<奇妙な光景だ>と言ったのが佐伯啓思だった。前回言及した、佐伯啓思・学問の力(NTT出版)でも同旨のことが述べられているようだ(p.164~)。だが、アメリカの独立と統一(連邦化)を支えた思想がフランス革命の際の「左翼的革命思想に近い」(p.164)と言えるのかなお吟味が必要だと感じるし、それよりも、戦略的に(本当に「普遍的」かは厳密には怪しいだろうことは認めるが)「普遍的価値観」なるものに基づき中国(・胡錦涛)に対して発言することは当然でありかつすべきことで、少なくとも批判・揶揄されることではあるまい、と考えるが、いかがなものだろう。
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