Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
=アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
第15章の試訳のつづき。
——
第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
第五節。
(01) 1986年4月26日、Scandinavia の放射線量測定器が奇妙で異常な測定値を示し始めた。
ヨーロッパじゅうの核科学者たちは、最初は測定器の異常を疑い、警告を発した。
しかし、数字は虚偽ではなかった。
数日以内に、衛星写真は放射線の根源を正確に指摘した。北部ウクライナのChernobyl 市の原子力発電所。
調査が行われたが、ソヴィエト政府は説明や手引きをしなかった。
爆発の5日後に、80マイルも離れていないKiev では、メーデー行進が行われた。
数千の人々が、市内の空気中の見えない放射能に気がつくことなく、ウクライナの首都の街路を歩き過ぎた。
政府は、危険を十分に知っていた。
ウクライナ共産党の指導者、Volodymyr Shcherbytskyi は、明らかに苦悩しながら、4月末に到着した。ソヴィエト書記長は個人的に彼に、パレードを中止しないように命じていた。
Mikhail Gorbachev はShcherbytskyi に、こう言った。「パレードをやり損ったなら、きみは党員証をテーブルに置くことになるだろう」。(64)//
----
(02) 事故から18日後、Gorbachev は突如として方針を転換した。
彼はソヴィエトのテレビに登場して、一般国民(public)には何が起きたかを知る権利がある、と発表した。
ソヴィエトの撮影班は所定の場所へ行き、医師や地方住民にインタビューし、起こったことを説明した。
悪い決定がなされた。
タービン検査は間違っていた。
原子炉は、溶解していた。
ソヴィエト同盟全体から来た兵士たちは、くすぶっている遺物の上にコンクリートを注いだ。
Chernobyl から20マイルの範囲内にいた者たちは全員が、曖昧なままで、家や農場を放棄した。
公式には31名とされた死亡者数は、実際には数千名に昇った。コンクリートをシャベルで入れたり、原子炉の上でヘリコプターを飛ばしたりした兵士たちは、放射能のためにソヴィエト連邦の別の地方で死に始めた。//
-----
(03) 事故の心理的な影響も、同様に深刻だった。
Chernobyl は、ソヴィエトの技術能力の神話—多くの者がまだ信じていた数少ない一つ—を打ち砕いた。
ソヴィエト連邦が国民に、共産主義は高度技術の将来を導くだろうと約束していたとしても、Chernobyl によって、人々は、ソヴィエト連邦はそもそも信頼できるのかという疑問を抱いた。
より重要なことに、Chernobyl はソヴィエト連邦と世界に、ソヴィエトの秘密主義の過酷な帰結を思い起こさせることになった。Gorbachev 自身は現在とともに過去も議論することを拒むという党の方針を再検討したとしても。
事故に揺り動かされて、ソヴィエト指導者は〈glasnost〉政策を開始した。
字義通りには「公開性」、「透明性」と訳される〈glasnost〉によって、公務員や私的個人がソヴィエトの制度や歴史に関する真実を明らかにしようと勇気づけられた。1932-33年の歴史も含めて。
この政策決定の結果として、飢饉を隠蔽するために張られた蜘蛛の糸の網—統計の操作、死者名簿の破壊、日記を書いていた者たちの収監—は、最後には解かれることになる。(注65)//
----
(04) ウクライナ内部では、過去の裏切り、歴史的大惨害の記憶を事故が呼び起こし、ウクライナ人は自分たちの秘密主義的国家を強く疑うようになった。
6月5日、Chernobyl 爆発からちょうど6週間後、詩人のIvan Drach は公的なウクライナ作家同盟の会合で、立ち上がって語った。
彼の言葉は、異様に感情が極まっていた。Drach の子息は適切な防護服を着けないで事故に派遣された若い兵士たちの一人で、今は放射線障害に苦しんでいた。
Drach 自身は、ウクライナの近代化を助けるだろうとの理由で、原子力発電の擁護者だった。(注66)
今では彼は、核の溶解、爆発を隠蔽した秘密主義による偽装のいずれについても、またそれらに続いた混乱について、ソヴィエト・システムの責任を追及した。
Drach は、公然とChernobyl を飢饉になぞらえた最初の人物だった。
彼は、長い間喋って、「核の雷波はnation の遺伝子型を攻撃した」と宣言した。
「若い世代は何故、我々から離れたのか?
我々が、どう生きたか、今どう生きているかの真実を公然と語らず、話さなかったからだ。
我々は欺瞞に慣れてきた。…
1933年飢饉に関する委員会の長であるReagan 〔当時のアメリカ大統領〕を見るとき、1933年に関する真実に迫る歴史の研究所はどこにあるのかと、不思議に思う。」(注67)
党当局はのちにDrach の言葉は「感情が噴出している」と否定し、彼の演説の内部的な筆写物ですら検閲した。
「nation の遺伝子型」を攻撃する「核の雷波」—これは直接にジェノサイドを意味していると誤って広く記憶された言葉だった—は、「痛々しく攻撃した」に換えられた。(注68)//
----
(05) しかし、後戻りはできなかった。
Drach の論評は、当時に聞いた者たちや、のちにそれを反復した者たちの感情を揺さぶった。
事態は、きわめて迅速に進行した。〈glasnost〉は現実になった。
Gorbachev は、よりよく機能させようと望んで、ソヴィエト諸制度の作動の欠陥を明らかにする政策を意図した。
他の者たちは、〈glasnost〉をより広義に解釈した。
本当の物語と事実に即した歴史が、ソヴィエトのプレスに出現し始めた。
Alexander Solzhenitsyn やその他のグラクの記録者たちの著作が、初めて印刷されて出版された。
Gorbachev は、Khrushchev 以来の、ソヴィエト史の「黒点」を公然と語る二番目のソヴィエト指導者になった。
そして、Gorbachev は先行者とは違って、テレビで発言した。
「ソヴィエト社会の適切な民主主義化の欠如は、…1930年代の個人崇拝、法の侵犯、恣意性と抑圧をまさに可能にしたものだ。—それはあからさまな、権力の悪用にもとづく犯罪だった。
数千人の党員と非党員たちが、大量弾圧の犠牲になった。
同志たちよ、これが苦い真実だ。」(注69)//
----
(06) 同じくすみやかに、〈glasnost〉は不十分であるとウクライナ人には感じられ始めた。
1987年8月、指導的な反対派知識人であるVyacheslav Chornovil は30頁の公開書簡をGorbachev に送り、「表面的」にすぎない〈glasnost〉を始めたと彼を責めた。それは、ウクライナその他の非ロシア人共和国の「架空の主権性」を維持しているが、これらの国の言語、記憶、本当の歴史を抑圧している、と。
Chornovil は、ウクライナの歴史の「空白の問題」の一覧を自分で作成し、人々と事件の名称はまだ公式の説明に含まれていない、とした。すなわち、Hrushevsky、Skrypnyk、Khvylovyi、大量の知識人弾圧、national な文化の破壊、ウクライナ語の抑圧、そしてもちろん、1932-33年の「ジェノサイド的」大飢饉。(注70)//
----
(07) 他の者たちもつづいた。
スターリンによる犠牲者を記念するソヴィエトの社会団体である記念館(Memorial)のウクライナ支部は初めて、公然と証言録と回想記を収集し始めた。
1988年6月、別の詩人のBorys Oliinyk は、悪名高いモスクワでの第19回党大会で立ち上がった。—この大会は史上最も公開的で論議があったもので、初めてテレビで生中継された。
彼は、三つの論点を提起した。ウクライナ語の地位、原子力発電の危険性、そして飢饉。
「数百万のウクライナ人の生命を奪った1933年飢饉の理由が、公にされる必要がある。
そして、この悲劇について責任を負う者たちが、その氏名でもって明らかにされなければならない。」(注71)//
----
(08) このような論脈の中で、ウクライナ共産党は、アメリカ合衆国議会の報告書に対応する用意をしていた。
困惑していた党は、ソヴィエト連邦が最後に弱体化している年月にしばしば行なったように、委員会を設置することを決定した。
Shcherbytskyi は、ウクライナ科学アカデミーと党史研究所—これらは〈欺瞞、飢饉とファシズム〉出版の背後にあった組織だった—の学者たちに、一般的な非難に反駁する、とくにアメリカ合衆国の議会報告書が下した結論に対抗する、そのような任務を託した。
委員会のメンバーたちはもう一度、公式に否定するつもりだった。
それがうまくいくように、彼らには、公文書資料を利用することが認められた。(注72)//
----
(09) 結果は、予期しないものだった。
学者たちの多くにとって、諸文書資料は驚嘆すべきものだった。
政策決定、穀物没収、活動家たちの抗議、市街路上の死体、孤児の悲劇、テロルと人肉喰い、に関する正確な説明が、諸文書資料には含まれていた。
欺瞞はなかった。委員会はこう結論づけた。
「飢饉の神話」も、ファシストの謀みもなかった。
飢饉は、実際に存在した。飢饉は起きた。それを否認することはもはやできなかった。//
——
第15章第五節、終わり。
=アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
第15章の試訳のつづき。
——
第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
第五節。
(01) 1986年4月26日、Scandinavia の放射線量測定器が奇妙で異常な測定値を示し始めた。
ヨーロッパじゅうの核科学者たちは、最初は測定器の異常を疑い、警告を発した。
しかし、数字は虚偽ではなかった。
数日以内に、衛星写真は放射線の根源を正確に指摘した。北部ウクライナのChernobyl 市の原子力発電所。
調査が行われたが、ソヴィエト政府は説明や手引きをしなかった。
爆発の5日後に、80マイルも離れていないKiev では、メーデー行進が行われた。
数千の人々が、市内の空気中の見えない放射能に気がつくことなく、ウクライナの首都の街路を歩き過ぎた。
政府は、危険を十分に知っていた。
ウクライナ共産党の指導者、Volodymyr Shcherbytskyi は、明らかに苦悩しながら、4月末に到着した。ソヴィエト書記長は個人的に彼に、パレードを中止しないように命じていた。
Mikhail Gorbachev はShcherbytskyi に、こう言った。「パレードをやり損ったなら、きみは党員証をテーブルに置くことになるだろう」。(64)//
----
(02) 事故から18日後、Gorbachev は突如として方針を転換した。
彼はソヴィエトのテレビに登場して、一般国民(public)には何が起きたかを知る権利がある、と発表した。
ソヴィエトの撮影班は所定の場所へ行き、医師や地方住民にインタビューし、起こったことを説明した。
悪い決定がなされた。
タービン検査は間違っていた。
原子炉は、溶解していた。
ソヴィエト同盟全体から来た兵士たちは、くすぶっている遺物の上にコンクリートを注いだ。
Chernobyl から20マイルの範囲内にいた者たちは全員が、曖昧なままで、家や農場を放棄した。
公式には31名とされた死亡者数は、実際には数千名に昇った。コンクリートをシャベルで入れたり、原子炉の上でヘリコプターを飛ばしたりした兵士たちは、放射能のためにソヴィエト連邦の別の地方で死に始めた。//
-----
(03) 事故の心理的な影響も、同様に深刻だった。
Chernobyl は、ソヴィエトの技術能力の神話—多くの者がまだ信じていた数少ない一つ—を打ち砕いた。
ソヴィエト連邦が国民に、共産主義は高度技術の将来を導くだろうと約束していたとしても、Chernobyl によって、人々は、ソヴィエト連邦はそもそも信頼できるのかという疑問を抱いた。
より重要なことに、Chernobyl はソヴィエト連邦と世界に、ソヴィエトの秘密主義の過酷な帰結を思い起こさせることになった。Gorbachev 自身は現在とともに過去も議論することを拒むという党の方針を再検討したとしても。
事故に揺り動かされて、ソヴィエト指導者は〈glasnost〉政策を開始した。
字義通りには「公開性」、「透明性」と訳される〈glasnost〉によって、公務員や私的個人がソヴィエトの制度や歴史に関する真実を明らかにしようと勇気づけられた。1932-33年の歴史も含めて。
この政策決定の結果として、飢饉を隠蔽するために張られた蜘蛛の糸の網—統計の操作、死者名簿の破壊、日記を書いていた者たちの収監—は、最後には解かれることになる。(注65)//
----
(04) ウクライナ内部では、過去の裏切り、歴史的大惨害の記憶を事故が呼び起こし、ウクライナ人は自分たちの秘密主義的国家を強く疑うようになった。
6月5日、Chernobyl 爆発からちょうど6週間後、詩人のIvan Drach は公的なウクライナ作家同盟の会合で、立ち上がって語った。
彼の言葉は、異様に感情が極まっていた。Drach の子息は適切な防護服を着けないで事故に派遣された若い兵士たちの一人で、今は放射線障害に苦しんでいた。
Drach 自身は、ウクライナの近代化を助けるだろうとの理由で、原子力発電の擁護者だった。(注66)
今では彼は、核の溶解、爆発を隠蔽した秘密主義による偽装のいずれについても、またそれらに続いた混乱について、ソヴィエト・システムの責任を追及した。
Drach は、公然とChernobyl を飢饉になぞらえた最初の人物だった。
彼は、長い間喋って、「核の雷波はnation の遺伝子型を攻撃した」と宣言した。
「若い世代は何故、我々から離れたのか?
我々が、どう生きたか、今どう生きているかの真実を公然と語らず、話さなかったからだ。
我々は欺瞞に慣れてきた。…
1933年飢饉に関する委員会の長であるReagan 〔当時のアメリカ大統領〕を見るとき、1933年に関する真実に迫る歴史の研究所はどこにあるのかと、不思議に思う。」(注67)
党当局はのちにDrach の言葉は「感情が噴出している」と否定し、彼の演説の内部的な筆写物ですら検閲した。
「nation の遺伝子型」を攻撃する「核の雷波」—これは直接にジェノサイドを意味していると誤って広く記憶された言葉だった—は、「痛々しく攻撃した」に換えられた。(注68)//
----
(05) しかし、後戻りはできなかった。
Drach の論評は、当時に聞いた者たちや、のちにそれを反復した者たちの感情を揺さぶった。
事態は、きわめて迅速に進行した。〈glasnost〉は現実になった。
Gorbachev は、よりよく機能させようと望んで、ソヴィエト諸制度の作動の欠陥を明らかにする政策を意図した。
他の者たちは、〈glasnost〉をより広義に解釈した。
本当の物語と事実に即した歴史が、ソヴィエトのプレスに出現し始めた。
Alexander Solzhenitsyn やその他のグラクの記録者たちの著作が、初めて印刷されて出版された。
Gorbachev は、Khrushchev 以来の、ソヴィエト史の「黒点」を公然と語る二番目のソヴィエト指導者になった。
そして、Gorbachev は先行者とは違って、テレビで発言した。
「ソヴィエト社会の適切な民主主義化の欠如は、…1930年代の個人崇拝、法の侵犯、恣意性と抑圧をまさに可能にしたものだ。—それはあからさまな、権力の悪用にもとづく犯罪だった。
数千人の党員と非党員たちが、大量弾圧の犠牲になった。
同志たちよ、これが苦い真実だ。」(注69)//
----
(06) 同じくすみやかに、〈glasnost〉は不十分であるとウクライナ人には感じられ始めた。
1987年8月、指導的な反対派知識人であるVyacheslav Chornovil は30頁の公開書簡をGorbachev に送り、「表面的」にすぎない〈glasnost〉を始めたと彼を責めた。それは、ウクライナその他の非ロシア人共和国の「架空の主権性」を維持しているが、これらの国の言語、記憶、本当の歴史を抑圧している、と。
Chornovil は、ウクライナの歴史の「空白の問題」の一覧を自分で作成し、人々と事件の名称はまだ公式の説明に含まれていない、とした。すなわち、Hrushevsky、Skrypnyk、Khvylovyi、大量の知識人弾圧、national な文化の破壊、ウクライナ語の抑圧、そしてもちろん、1932-33年の「ジェノサイド的」大飢饉。(注70)//
----
(07) 他の者たちもつづいた。
スターリンによる犠牲者を記念するソヴィエトの社会団体である記念館(Memorial)のウクライナ支部は初めて、公然と証言録と回想記を収集し始めた。
1988年6月、別の詩人のBorys Oliinyk は、悪名高いモスクワでの第19回党大会で立ち上がった。—この大会は史上最も公開的で論議があったもので、初めてテレビで生中継された。
彼は、三つの論点を提起した。ウクライナ語の地位、原子力発電の危険性、そして飢饉。
「数百万のウクライナ人の生命を奪った1933年飢饉の理由が、公にされる必要がある。
そして、この悲劇について責任を負う者たちが、その氏名でもって明らかにされなければならない。」(注71)//
----
(08) このような論脈の中で、ウクライナ共産党は、アメリカ合衆国議会の報告書に対応する用意をしていた。
困惑していた党は、ソヴィエト連邦が最後に弱体化している年月にしばしば行なったように、委員会を設置することを決定した。
Shcherbytskyi は、ウクライナ科学アカデミーと党史研究所—これらは〈欺瞞、飢饉とファシズム〉出版の背後にあった組織だった—の学者たちに、一般的な非難に反駁する、とくにアメリカ合衆国の議会報告書が下した結論に対抗する、そのような任務を託した。
委員会のメンバーたちはもう一度、公式に否定するつもりだった。
それがうまくいくように、彼らには、公文書資料を利用することが認められた。(注72)//
----
(09) 結果は、予期しないものだった。
学者たちの多くにとって、諸文書資料は驚嘆すべきものだった。
政策決定、穀物没収、活動家たちの抗議、市街路上の死体、孤児の悲劇、テロルと人肉喰い、に関する正確な説明が、諸文書資料には含まれていた。
欺瞞はなかった。委員会はこう結論づけた。
「飢饉の神話」も、ファシストの謀みもなかった。
飢饉は、実際に存在した。飢饉は起きた。それを否認することはもはやできなかった。//
——
第15章第五節、終わり。