秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

人民の悲劇

2397/O·ファイジズ・人民の悲劇-ロシア革命(1996)第15章第2節③。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924。
 ほとんど行ってきていない試訳者自身のコメントを例外的に付す。試聴してみた Dmitri Shostakovich, Symphony #2 in B op.14("To October")のCDのクライマックス以降に労働者らしき人々の(途中から女声も入る)合唱があるが、下記の記述にある「口笛」は聴き取れなかったた。原作者による操作・変更なのか等は不明だ。「皮肉」と言うのも、適訳かは自信がないが、著者の判断・解釈だと思われる。
 ——
 第15章/勝利の中の敗北。
 第2節・人間の精神の技師③。
 (9)1917年の革命は、ロシアのいわゆる銀色の時代の半ばに起こった。銀色の時代とは今世紀の最初の30年間で、全ての芸術でアヴァン-ギャルド(avant-garde、前衛)が人気を博した。
 この国のすぐれた作家と芸術家たちはProletkult に参加し、その他の文化活動家たちは、内戦中にまたはその後で加わった。
 Belyi、Gumilev、Mayakovsky、Khodasevich は、教室で詩を教えた。Stanislavsky、Meyerhold、Eisenstein は、劇場で「十月革命」を実践した。Tatlin、Rodchenko、El Lissitsky、Malevich は、視覚的芸術の先駆者となった。
 一方で、Chagall はVitebsk の郷里の町で芸術人民委員にすらなり、のちにはモスクワ近郊の孤児の区画で絵画を教えた。
 こうした人民委員と芸術家の連結は、部分的には共通する原理的考え方から生まれた。すなわち、芸術には社会的課題があり、大衆と気持ちを合わせる使命がある、という考えだ。古いブルジョア的芸術に対する新時代的(modernist)な拒否感もあった。
 しかし、便宜的な恋愛関係でもあった。
 というのは、文化的活動家たちは、最初はあった条件にもかからわらずほとんど自立性を失っていたので、味気ない近年にはひどく必要となった追加的な配給や作業素材の供給は言うまでもなく、アヴァン-ギャルドに対するボルシェヴィキの経済的支援を、好都合なものだと見なしたからだ。 
 Gorky は、ここでの中心人物だった。—彼は芸術家たちにはソヴィエトの人間として、ソヴィエトに対しては指導的芸術家として振る舞った。
 1918年9月、Gorky は、Lunacharsky が率いる人民委員部による芸術や科学の分野の処理に協力することに同意した。
 Lunacharsky の側では、「ロシアの文化を救う」ためのGorky の種々の取り組みに最大限の支援をした。レーニンは、多くの困窮した知識人を雇っていた世界文学出版所から、歴史的建造物や記念碑の保存に関する委員会についてまで、そのような「些細な問題」に苛立っていたけれども。
 Lunacharsky は、Gorkyは革命の突風によって貴重なものが破壊されるという見込みを信用も恐れもしないで、不満を言いつつ完全に知識人層の陣営の中にいることが判ったと、愚痴をこぼした。//
 (10)アヴァン-ギャルドの虚無主義的な部分は、とくにボルシェヴィキに魅せられた。
 彼らは喜んで、古い世界の破壊にいそしんだ。
 例えば、Mayakovsky のような未来主義(Futurist)詩人たちは、ボルシェヴィキに身を投じて、ボルシェヴィキを「ブルジョア芸術」に対する彼らの闘いの同盟者だと見た(イタリアの未来主義者は、同じ理由でファシストを支持した)。
 未来主義者は、Proletkult 運動の内部で急進的な因習打破の方向を追求し、レーニンを激怒させ(文化問題についての彼の保守性)、Bogdanov やLunacharsky を当惑させた。
 Mayakovsky は、こう書いた。「胡椒博物館に弾丸を打ち込むときだ」。
 彼は「古い美的な屑」だとしてクラシックを拒否し、Rastrelli は壁にぶつけなければならない(ロシア語のrastrelli は処刑を意味する)と駄洒落を言った。
 Proletkult の詩人であるKirillow は、こう書いた。
 「我々の明日の名前で 我々はラファエル(Raphael)を燃やす。
 美術館を破壊し、芸術の花を押しつぶす。」
 これはおおよそは、知識人の空威張りであり、自分たちの才能がはるかに乏しいことに衝撃を受ける第二級の作家たちの、ヴァンダル人的(vandalistic、破壊者的)素振りだった。//
 (11)スターリンは、作家のことを「人間の精神の技師」(engineer of human souls)と叙述したことがあった。
 アヴァン-ギャルド芸術家たちは、ボルシェヴィキ体制の最初の数年の間に人間の本性の偉大な変革者になるものと想定されていた。
 彼らの多くは、人間の精神をより集団主義的にするという社会主義の理想を共有していた。
 19世紀の「ブルジョア」芸術の個人主義的前提を彼らは拒否した。そして、芸術表現の現代的様式を通じた異なるやり方で世界を見るように、人間の心性を鍛えることが自分たちはできると考えたのだ。
 例えば、モンタージュ(montage、合成)は断片的だが結合した映像でコラージュ(collage、寄せ集め)の効果をもち、見物者に対してサブリミナルな(subliminal、潜在意識上の)教育的効果をもつものと考えられた。
 Eisenstein は1920年代の三大宣伝映画で—<ストライキ>、<戦艦ポチョムキン>、<十月>—この技巧を用い、その技巧の上にその映画理論の全体を築いた。
 映画が生み出すと想定された「心理(psychic)革命」が、大いにもてはやされた。<特に優れた>現代芸術の様式は、現代人についての心理学のように、「直線と直角」および「機械の力強さ」を基礎にしていた。(*21)//
 (12)アヴァン-ギャルド芸術家たちは、「心理革命」の先駆者として、多様な実験的形態を追求した。
 このときにはまだ芸術に対する検閲はなく—ボルシェヴィキには他に多くの切実な関心事があった—、芸術には相対的に自由な領域があった。
 そのゆえに、警察国家で芸術上の爆発が起きるという逆説が生じた。
 こうした初期のソヴィエト芸術の多くには、現実的で永続的な価値があった。
 とくにRodchenko、Malevich、Tatlin といった芸術家たちのような構成主義者(Constructivist)は、現代主義様式に大きな影響を与えた。
 このことは、ナツィの芸術については、あるいはスターリン時代の芸術に流行した、社会主義リアリズムのぞっとするほどに途方もない悪趣味については、言うことができない。
 だがしかし、ほとんど不可避的に、アヴァン-ギャルド芸術家たちが抱いた実験的精神をもつ青年たちの熱い感情があったので、彼らの製作物の多くは、今日ではむしろ滑稽に(comical)思われるかもしれない。//
 (13)例えば、音楽の分野では、指揮者のいない交響楽団があった(リハーサルでも本演奏でも)。そうした交響楽団は、自由な集団的作業を通じて平等と人間性を実現するという考え方による社会主義様式の先駆者だと自認していた。
 工場でサイレン、蒸気原動機(turbine)や汽笛を道具として使ったり、電気的手法での新しい音響を創り出したりする演奏会を催す運動があった。これらは、労働者に近い新しい音楽的美意識を生み出すだろう、と考えた人々がいたようだ。
 Shostakovich は、疑いなくいつものように皮肉でもって、彼の交響曲第二番(「十月に捧げる」)の絶頂部に工場での口笛の音を加えることをして、楽しんだ。
 同様の奇矯さ(eccentric)は、社会主義的にするために著名なオペラの名前を変えたり、オペラの台詞を作り直したりすることにも見られた。
 <Tosca>は<コミューンのための闘い>となり、舞台は1871年のパリへと移された。<Le Huguenots>は<十二月主義者(Decembrists)>となり、ロシアが舞台とされた。一方、Glinka の<ツァーリのための生活>は、<槌と鎌>として書き換えられた。//
 ——
 ④へとつづく。

2364/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)-第16章第3節「レーニンの最後の闘い」③。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.798-p.801. 一文ずつ改行。
 ——
 第三節・レーニンの最後の闘い③。
 (13)レーニンの最後の覚書は、三つの主要問題にかかわっていた。—いずれの点についてもスターリンが元凶だった。
 第一はジョージア案件で、ロシアは国境民族国との間のどのような統一条約に署名すべきかという問題だった。
 スターリンは、ジョージア出自であるにかかわらず、レーニンが内戦中に大ロシア民族排外主義だと批判したボルシェヴィキたちの先頭にいた。
 党内のスターリン支持者のほとんどは、同等に帝国主義的見方をもっていた。
 彼らは、国境地帯やとくにウクライナのロシア労働者による植民地化、原地の農民集団(小ブルジョア民族主義者)の抑圧を、共産主義権力の促進と同一視した。
 民族問題担当人民委員として、スターリンは9月遅くに、それまでに存在した三つの非ロシア共和国(ウクライナ、ベラルーシ、トランスコーカサス)は自治地域をもたず、中核的権限をモスクワの連邦政府に譲って、ロシアに加わらなければならないと提案していた。
 スターリンの提案は「自律化計画」と称されるようになったが、 ツァーリ帝国の「統一した唯一のロシア」を復元させるものだっただろう。
 それは、レーニンが連邦的統合計画の策定をスターリンの仕事として割り当てたとき、彼が想定していたものでは少しもなかった。
 レーニンは、ロシアに対する非ロシア人の歴史的な不満を正当なものと見ていた。そして、広範な文化的自由と同盟から離脱する正規の権利を(どのような意味であれ)もつ、(大きな民族集団には)「主権」共和国の地位を、(小さな民族集団には)「自治」共和国の地位を認めることで、これを宥和する必要があると強調した。//
 (14)スターリンの案は、ジョージアのボルシェヴィキたちによって激しく反対された。民族的権利を譲歩して、自分たちは脆弱な政治的基盤を樹立しようとしていることになる。
 スターリンとその仲間のジョージア人、モスクワのコーカサス局長のOrdzhonikidze はすでに1922年3月に、ジョージアの指導者たちの意見とは大きく異なり、ジョージアをアルメニアとアゼルバイジャンとともにトランスコーカサス連邦へと統合させていた。
 ジョージアの指導者たちは、スターリンとその子分はジョージアを彼らの領地のごとく扱い、自分たちの気持ちを踏みにじっていると感じた。
 彼らは自律化計画を拒否し、モスクワが押し通すならば脱退すると脅かした。(+)
 (+原書注記)—その他の共和国の反対は、より慎重なものだった。ウクライナはスターリンの提案に関する意見を提出するのを拒み、べラルーシはウクライナの決定に従うつもりだと言った。//
 (15)レーニンが介入したのは、この点だった。
 彼はまず初めに、スターリンの側に立った。
 スターリンの提案は望ましいものではなかったけれども—のちに1924年に批准されてソヴィエト同盟条約となる連邦的同盟のために諦めるよう、レーニンは強く主張した—、ジョージアが最後通告を発したのは間違いだった。彼はそのように、10月21日の電話で怒って告げた。
 その翌日、ジョージア共産党の中央委員会全員は、抗議して辞職した。
 このようなことは、党の歴史上かつてなかった。
 しかしながら、11月遅くから、レーニンが概してはスターリンに反対し始めていたとき、彼の見地が変わった。
 ジョージアからの新しい証拠資料によって、レーニンは再考した。
 レーニンは、Dzerzhinsky とRykov が率いる事実解明委員会を、Tiflis に派遣した。彼はその委員会から、論議の過程でOrdzhonikidze が、傑れたジョージアのボルシェヴィキたちをひどい目に遭わせたことをことを知った(彼らはOrdzhonikidzeを「スターリン主義者のくそったれ」と呼んだ)。
 レーニンは、激怒した。
 それはスターリンが粗暴さを増しているとの彼の印象を確認するもので、ジョージア問題を異なる観点から考えるようになった。
 レーニンは、12月30-31日の党大会に対する文書で、スターリンを旧式のロシア民族排外主義者、「ごろつきの暴君」に喩えた。そのような者は、ジョージアのような小さい民族を苛めて従属させることができるだけで、ロシアの支配者に必要なのは「奥深い慎重さ、感受性」であり、かつ正当な民族的要求に対して「譲歩をする心づもり」だ。
 レーニンはさらに、社会主義連邦では、「現実にはある不平等を埋め合わせる」ためには、ジョージアのような「被抑圧民族」の諸権利は「抑圧者たる民族」(すなわちロシア)のそれよりも大きくなければならない、とすら主張した。
 1月8日の、彼の生涯の最後になる手紙で、レーニンはジョージアの反対派たちに、「私の全ての心を込めて」彼らの主張を支持するだろう、と約束した。(*38)//
 (16)その遺書でのレーニンの第二の主要な関心は、今ではスターリンの統制下にある党の指導機関の権力増大を阻止することにあった。
 彼自身の命令が至高のものだった2年前、レーニンは、党内での一層の民主主義と<glasnost>〔情報公開〕を求める民主主義的中央派の提案を非難していた。
 しかし、スターリンが大きな独裁者となった今では、レーニンが類似の案を提出した。
 彼は、党の下部機関にいる一般の労働者や農民から募った50名ないし100名を加えて、中央委員会を民主化することを提案した。
 レーニンはまた、政治局に説明責任を負わせるため、中央委員会はすべての政治局会合に出席し、それらの文書を調査する権利をもつ必要がある、と提案した。
 さらには、中央統制委員会は、Rabkrin と統合し、300名ないし400名の意識ある労働者の組織へと簡素化して、政治局の権力を調査する権利をもたなければならない、とも。
 このような提案は、時機に遅れた努力だった(多くの点でGorbachev の<perestroika>と似ていた)。党幹部と一般党員の間の広がる溝を架橋しようとし、社会に対する党の全面的な支配力を失うことなく、指導部をより民主主義的に、より公開的でより効率的にしようするものだったが。//
 (17)レーニンの最後の文書の最後の論点は—そしてはるかにかつ最も爆弾を投じたような効果があったのは—、後継者の問題だった。
 レーニンは、12月24日の覚書で、トロツキーとスターリンの対立への懸念を漏らしていた。中央委員会の規模を拡大しようと提案していた理由の一つは、ここにあった。—そして、まるで集団的指導制の擁護を覆すかのごとく、多数の党指導者たちの欠陥を指摘し始めた。
 カーメネフとジノヴィエフは、十月にレーニンに反対の立場をとったことで、批判された。
 ブハーリンは、「全党のお気に入りだ。しかし、その理論的見地は、留保付きでのみマルクス主義者だと分類することができる」。
 トロツキーについては、彼は「現在の中央委員会の中では、個人的には最も有能な人間だ。しかし、過剰な自信を示してきており、仕事の純粋に管理的な側面に過剰に没頭してきている」。
 だが、レーニンの最も破壊的な批判が用意されていたのは、スターリンについてだった。
 書記長になって、彼は「無制限の権力を手中に積み重ねてきた。だが、私には、彼が十分に慎重にこの権力を用いる仕方をいつも分かっているのかどうか、確信がない」。
 1月4日にレーニンは、つぎの覚書を付け足した。/
 「スターリンは粗暴すぎる。そしてこの欠点は、我々の間では我慢することができ、共産主義者の中では何とかあしらうことができるけれども、書記長としては耐え難いものになる。
 この理由で、私は、同志諸君がスターリンをその地位から排除して、つぎのような別の者と交替させることを考えるよう、提案する。その者は、同志スターリンよりもただ一つでも優れた点を、すなわち、寛容さ、忠誠さ、丁重さ、同志諸君への配慮をもつ、そして気紛れではないこと、等。」(*39)/
 レーニンは、スターリンは去らなければなないことを明瞭にしていた。//
 (18)レーニンの決意は、3月の最初にさらに強くなった。彼には秘密のままにされていたが、その頃、数週間前にスターリンとKrupskaya の間で起きたことを知ったからだ。
 12月21日にレーニンはKrupskaya に、外国通商独占に関するスターリンとの闘いでの戦術が勝利したことを祝うトロツキーへの手紙を、口述した。
 スターリンの情報提供者が、この手紙について知らせた。スターリンは、この手紙は自分に対抗するレーニンとトロツキーの「連合」の証拠だ、と捉えた。
 その翌日、スターリンはKrupskaya に電話をした、そして、彼女自身が述べるところでは、彼女に向かってレーニンの健康に関する党規則を破ったと主張し、中央統制委員会で彼女の取調べを始めると脅かして、「嵐のような粗野な雑言」を浴びせた(医師たちは彼女が口述聴取をするのを認めていたけれども)。
 受話器を置いたとき、Krupskaya の顔は蒼白になっていた。異様に興奮して泣きじゃくりながら、部屋を歩き回った。
 スターリンによるテロルの支配が始まっていた。
 3月5日にレーニンがこの事件についてやっと知らされたとき、彼はスターリンに対して、「粗暴さ」を詫びよ、さもないと「我々の関係は壊れる」危険がある、と要求する手紙を書き送った。
 権力をもって完全に傲慢になっていたスターリンは、無礼な返書で、死にゆくレーニンに対する軽蔑の気持ちをほとんど隠そうとしなかった。(+)
 〔(+原書注記)—1989年まで公表されなかった。〕
 スターリンはレーニンに思い起こさせた。Krupskaya は「あなたの妻であるだけではなく、私の古くからの同志だ」。
 二人の「会話」の間、自分は「粗暴」ではなかった、事件の全体が「愚かな誤解にすぎない。…」
 「しかしながら、あなたが『関係』の留保について考えると言うなら、私は上の言葉を『撤回』する。
 この全体がどのように想定されているのか、あるいはどこに私の『落ち度』があるのか、いったい何が正確には私に求められているのか、を理解することができないけれども、私は撤回することができる。」(*40)//
 (19)レーニンは、この事件で打ちのめされた。
 彼は一夜で病気になった。
 医師の一人は3月6日に、状態をこう記した。
 「Vladimir Ilich は、狼狽し、怯えた表情を顔に浮かべて横たわっている。目は悲しげで尋ねる眼差しがあり、涙が顔をつたって落ちている。 
 Vladimir Ilich は、取り乱し、話そうとするが、言葉が出てこない。
 そして、『しまった、畜生。昔の病気がぶり返した』とだけ言う。」
 3日後、レーニンは3回めの大きな脳発作を起こした。
 話す力を奪われ、そして政治のために働く力も奪われた。
 10ヶ月後に死ぬまで、一音節を発することができるだけだった。—<vot-vot>(「ここ、ここ」)、<s'ezd-s'ezd>(「大会、大会」)。(*41)//
 (20)レーニンは5月に、Gorki に移された。そこには医師団が、彼の世話をするために配置された。
 晴れた日には、レーニンは外に座っていたものだ。
 ある日、甥の一人が彼を見た。
 レーニンは「開襟の白い夏シャツを着て車椅子に座っていた。
 かなり古い帽子を頭にかぶり、右腕はいくぶん不自然に膝の上に置かれていた。
 私は空地の真ん中にはっきりと立っていたけれども、そうしてすら彼はほとんど気づかなかった。」 
 Krupskaya は彼に読んで聞かせた。—Gorky とTolstoy が最も慰めとなった。そして虚しくも、彼に話し方を教えようと頑張った。
 9月までには、杖と整形外科用の靴の助けを借りて、彼は再び歩くことができた。
 彼はときどき、車椅子を自分で押して地上を回った。
 モスクワから送られる新聞を読み始め、Krupskaya の助けで、左手を使って少しだけ書くことを学んだ。
 ブハーリンは秋に、レーニンを訪問した。のちに彼がBoris Nikolaevsky に語ったところによると、レーニンは、自分の後継者は誰かと、執筆できなかった論文を深く気にかけていた。
 しかし、彼が政治の世界に戻ってくるかは、問題ではなかった。
 政治家としてのレーニンは、すでに死んでいた。(*42)//
 ——
 ④へとつづく

2363/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)-第16章第3節「レーニンの最後の闘い」②。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.795-8。一行ずつ改行。
 ——
 第三節・レーニンの最後の闘い②。
 (8)レーニンは9月までに回復して、仕事に戻った。
 このときにはスターリンの野心を疑うようになっていて、その権力の増大に対する対抗策として、トロツキーを人民委員会議(ソヴナルコム、Sovnarkom)の議長代理(deputy)に任命することを提案した。
 トロツキーの支持者はつねに、このことによって自分たちの英雄がレーニンの後継者になるだろうと論じていた。
 だが、この地位は多くの者には小さいものと見られていた。—権力は政府機構にではなく、党機関に集中していた。そして疑いなく、スターリンはこの理由で、政治局でのレーニンの決定に全く不満でなかった。
 実際、最も抵抗したのはトロツキーで、自分の投票札に「断固として拒否する」と書いた。
 トロツキーは反対する理由として、先だっての5月に導入されたときにその職位を原理的に批判した、と主張した。
 のちに彼は、自分はユダヤ人だからその職位に就かない、そうなれば体制の敵による情報宣伝に油を注ぐだろう、とも主張した(803-4頁を見よ)。
 しかし、彼が拒んだのはおそらく、たんなる「議長代理」でいるのは自分にふさわしくないと考えたからだった。//
 (9)これは、レーニンがソヴナルコムの職務について曖昧な見方をしていた、ということを意味しない。
 また、トロツキーにその職位を提示したのは、レーニンの妹の言葉を借りると「Ilich〔レーニン〕がスターリンの側に立つ」見返りとしての「外交的な素振り」だったと、たんに意味しているのでもない。
 レーニンはつねに、党の仕事以上にソヴナルコムのそれにより高い価値を見ていた。
 ソヴナルコムはレーニンが生んだものであり、それへと彼の全活力を集中させてきた。驚くべきことに、党の活動を知らなくなるまでにすら至っていた。
 彼は1921年10月に、スターリンにこう告白した。
 「知ってのとおり、私は組織局の多大な『割当て』仕事に習熟していない」。
 これは、レーニンの悲劇だった。
 政治家として活動した最後の数ヶ月の間、指導的党組織の権力拡大の問題に取り組んでいたとき、レーニンはいっそう、党と国家の間の権力分離の手段としてソヴナルコムを見ていた。
 だが、レーニンの個人的な権力が所在するソヴナルコムは、彼が病気になり政治から撤退するにつれて、その力を衰退させた。
 彼の代わりにトロツキーが据わるとしても、スターリンの手中にある党組織への権力移行を止めるには、もう遅すぎた。そしてトロツキーは、このことを知っていたに違いない。(*34)//
 (10)レーニンのスターリンに対する疑念は、10月にスターリンがトロツキーを政治局から排除することを提案したときに深まった。それは、トロツキーがソヴナルコムでの地位を傲慢にも拒否したことに対する制裁だ、とされた。
 レーニンは三頭制の活動をよく知るにつれて、それが支配党派のごとく振る舞い、自分を権力から排除するのを意図している、ということが明瞭になった。
 このことが確認されたのは、レーニンは疲労のためにしばしば早めに退席せざるを得なかったのだが、ある政治局の会合から彼が引き上げるとすぐに、三人組が、レーニンは翌日に初めて知ることとなる重要な決定を行なったときだった。
 レーニンは、そのあと(12月8日に)政治局会合は3時間を超えて進行してはならないこと、決定されなかった案件は次回の会合に持ち越されるべきであることを、命令した。
 同時に、またはトロツキーがのちに主張したところでは、レーニンは、「官僚主義に反対する陣営」への参加を提示するためにトロツキーに接近した。これは、スターリンと組織局内の彼の権力基盤に対抗する〔レーニンとトロツキーの〕連合を意味した。
 トロツキーの主張は、信頼できる。
 これがなされたのはしかし、レーニンの遺言の直前だった。そしてこの遺言は主としては、スターリンとその官僚機構の掌握の問題にかかわっていた。
 トロツキーは、すでに党官僚機構、とくにRabkrin と組織局を批判していた。
 そして我々は、外国通商およびジョージア問題の両者について、レーニンはスターリンに反対するトロツキーと立場を共通にしていたことを、知っている。
 要するに、12月半ばにかけて、レーニンとトロツキーは、ともにスターリンに反対していた。
 そのとき突然に、12月15日の夜、レーニンは二回目の大きな脳発作を起こした。(*35)//
 (11)スターリンはすぐにレーニンの医師たちの管理を担当し、 回復を早めるという口実で、中央委員会から自分への命令を与えさせた。その命令は、訪問者や文書のやり取りを制限することで、レーニンを「政治から隔離」し続ける権限をスターリンに付与するものだった。
 12月24日の政治局のつぎの指令には、「友人も周囲の者も、Vladimir Ilich に政治ニュースを語ることはいっさい許されない。彼を反応させ、昂奮させる原因になり得るからだ」とある。
 レーニンは車椅子に閉じ込められ、「一日に5分ないし10分」だけの口述が認められ、スターリンの囚われ人となった。
 レーニンの二人の主な秘書、Nadezhda Alliiuyeva(スターリンの妻)とLydia Fotieva は、レーニンの言ったことを全てスターリンに報告した。
 のちの事態が示すことになるように、レーニンは明らかにこのことを知らなかった。
 スターリンは一方で、薬物に関する専門家を自認して、発送するよう教科書を注文した。
 スターリンは、レーニンはまもなく死ぬだろう、そして自分に対する公然たる侮蔑心をいっそう示すだろう、と確信した。
 スターリンは同僚に12月中に、「レーニンはだめだ(kaput)」と言った。
 スターリンの言葉は、Maria Ul'ianova を通じて、レーニンの耳に届いた。
 兄は妹に伝えた。「私はまだ死んでいない。だが彼らが、スターリンの指導で、私をもう埋めてしまった」。
 スターリンは、その評価の基盤をレーニンとの特別の関係に置いていたけれども、レーニンに対する本当の感情は、1924年に暴露された。レーニンが衰亡し、死ぬまでまる1年を待たなければならなかったとき、つぎのようにつぶやくのが聞かれたのだ。
 「<本当の>指導者らしく死ぬこともできないのか!」。
 実際に、レーニンはもっと早く死んでいたかもしれなかった。
 12月末にかけて彼は、自殺できるように毒を懇願した。
 Fotieva によると、スターリンは毒を与えるのを拒否した。
 しかし、彼は疑いなくそれを後悔することとなった。
 作業をするのが認められた短い間に、レーニンは、来たる党大会のための一連の文書を口述していたからだ。その中でレーニンは、スターリンの権力増大をを非難し、その解任を要求した。(*36)//
 (12)のちにレーニンの遺書として知られるようになったこれらの断片的な覚書は、12月23日と1月4日の間に短い文章で口述筆記された。—そのうちいくつかは、イアフォンを両耳にはめて隣室に座っている速記者に電話で伝られた。
 レーニンは、厳格に秘密にするように命じ、自分かKrupskaya だけが開封できるように、封筒を密閉した。
 しかし、彼の年配の秘書たちはスターリンのためのスパイでもあり、彼らはその覚書をスターリンに見せた。(*37)
 この最後に書いた文書全体に、革命が明らかにした現実に対する圧倒的な絶望意識が溢れている。
 レーニンの乱れた文体、誇張した執拗な反復は、麻痺によって悪化してはいないがやはり苦悩している彼の心裡(mind)を露わにしていた。—おそらくは、過去40年間ずっと設定してきた単一の目標が、今や奇怪なほどに大きな(monstrous)間違いだったと判明したことに気づいたがゆえの、苦悩だった。
 この最後の文書全体を通じて、レーニンは、ロシアの文化的後進性に苦しめられている。
 まるで彼は、そしてたぶん自分に対してだけ、メンシェヴィキは正しかったこと、ブルジョアジーに取って代われるだけの教育がロシア民衆にはないためにロシアはまだ社会主義へと進む段階ではないこと、そして、国家による介入によってこの過程の進展を速める試みは結局は必然的に専制体制を生んでしまうこと、を認めているがごとくだった。
 これは、ボルシェヴィキはまだ「統治の仕方を学ぶ」必要があると自身が警告したとき、レーニンが意図したことだったのか?//
 ——
 ③へとつづく。

2331/Orlando Figes·人民の悲劇-ロシア革命(1996)・第16章第1節②。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).=オーランド·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命(London, 1996/2017)。
 試訳のつづき。p.774-6。注記の箇所だけ記して、その内容(ほとんど参照文献の指示)は省略する。
 **
 第16章・死と離別。
 第一節・革命の孤児。 
 (4) 死はありふれたことだったので、人々はそれに慣れてきた。
 路上の死体を見ても、もう注意を惹かなかった。
 殺人はほんの僅かの動機から起きた。—数ルーブルの窃盗、行列飛ばしを原因として。さらには、たんに殺人者の娯楽のために。
 7年間の戦争によって、人々は残虐になり、他人の苦痛に対して無感覚になった。
 1921年、Gorky は、赤軍出身の兵士たちに尋ねた。「人を殺すときには落ち着かないのでないか?」
 「いや、そんなことはない。『相手は武器をもち、自分も持っている。そして、喧嘩になったとする。お互いに殺し合って、土地が広くなるなら、いったいそれがどうだというのだ。』」
 第一次大戦中にヨーロッパでやはり戦ったある兵士は、Gorky に、外国人を殺すよりはロシア人を殺す方が簡単だ、とすら言った。
 「我々は民衆の数が多く、経済は貧しい。村が一つ焼かれるとして、なんの損失か?
 放っておいても、村は自然に崩れ落ちるだろう。」
 生命の価値は安くなり、人々は互いに殺し合うことについて、ほとんど何とも思わなかった。あるいは、その者たちの名で数百万人を殺している他人についてすら。
 ある農民が、1921年にウラルで仕事をしていた科学的調査団に対して尋ねた。
 「きみたちは教養がある。おれに何が起こるのか、教えてくれ。
 Bashkir 人がおれの雌牛を殺した。それで、<もちろん>、そのBashkir 人を殺し、彼の家族から雌牛を奪ってやった。
 教えてくれ。雌牛を盗んだとして、おれは罰せられるのか?」
 調査団が、その男を殺したことで罰せられるとは思わなかったのか、と尋ねた。農民はこう答えた。
 「全く。今では人間は安い。」//
 (5)別の物語が伝えられている。—何の明白な理由もなく自分の妻を殺した夫についての話だ。
 その殺人者の説明は、「彼女に飽きた。それで終わりだ」というものだった。
 まるでこの数年間の暴力が、人間関係を覆っていた薄い膜を引き剥がして、人間の原始的な動物的本能を曝け出したごとくだった。
 人々は血の匂いを好み始めた。
 サディスティックな殺戮方法の嗜好が発展した。—これは、Gorky が専門とする主題だった。/
 「シベリアの農民は穴を掘って、赤軍受刑者を逆さまに入れて、膝から上を地上に出した。そして、その穴を土で埋めて、犠牲者の足が痙攣してなおも抵抗しているのを観察した。生きていた者は最後には死んだだろう。/
 タンボフ地方では、共産党員たちが、地上1メートルの木に鉄道用の大釘で左手と左足を釘づけにされた。人々は、わざと奇妙な形で磔にした者が苦しむのを眺めた。/
 人々はある受刑者の腹を割いて小腸を取り出し、それを木か電柱に釘で打ちつけ、その男を殴打して木の周りを回らせ、腸がその負傷した男の身体から解かれていくのを、観察した。/
 人々はまた、捕えた将校を衣類を剥ぎ取って裸にし、肩の皮膚の一片を肩紋の形に引き裂いて、〔肩章の〕星の場所に押し込んだ。そして、剣帯とズボンの線に沿って皮膚を剥ぎ取ることになる。—この作業は「制服を着せる」と称された。
 疑いなく、長い時間と相当の技巧を必要とするものだった。(*4)
  (6)この時期の単一の最大の殺人者は—約500万人の生命を奪ったと算定されている—、1921-22年の飢饉だった。
 どの飢饉でも同じだが、ヴォルガ大飢饉は人と神によって惹き起こされた。
 ヴォルガ地帯はその自然条件によって収穫が十分でないことが多かった。—そして近年では1891-92年に凶作が多く、1906年と1911年に数回の凶作があった。
 夏の旱魃と極端な冷気は、平原地帯の気候では定期的に起きることだった。
 春の突風は砂の表土を吹き飛ばし、収穫を減少させた。
 1921年のヴォルガ飢饉には基礎的条件があった。1920年の凶作は、一年にわたる厳しい冷気と灼熱の夏の旱魃によって、平原地帯に巨大な黄塵が発生したことで起きた。
 春頃には、農民たちが前年に続いて二回めの凶作の被害を受けることが明確になった。
 種の多くは霜が降る寒気で駄目になった。また、現れていた新しい収穫の兆しは、見たところでも草のようにひ弱くて、バッタと野ねずみに食われてしまった。
 悪くはあったが、こうした自然環境の中での異常は、まだ飢饉の原因となるものとは言えなかった。
 農民たちは凶作に慣れていて、つねに穀物を大量に貯蔵していた。しばしば、非常時に備えて、共同集落の貯蔵小屋に。
 内戦時の穀物徴発(requisitioning)によって、自然が災害をもたらす以前に、農民経済が破綻の縁に達していたことが、1921年の危機を大災難に変えた。
 農民たちは徴発を回避するために、生活を維持するだけの生産へと逃げ込んだ。—自分たちや家畜が生きていき、種を保存するのに十分なだけの栽培しかしなくなっていた。
 言い換えると、ボルシェヴィキが奪ってしまうことを怖れたがゆえに、彼らは、安全のための余裕を、つまり過去の悪天候の際には守ってくれたような保留分を残さなかった。
 1920年に、ヴォルガ地帯の種撒き面積は1917年以降の4分の1に減少していた。
 だが、ボルシェヴィキは、さらに—余剰のみならず、生命にまでかかわる食糧貯蔵分や種子まで—奪い(徴発し)つづけた。その結果として、凶作の場合には農民の破滅という結果になることが必然的である程度にまで。(*5)
 **
 ③につづく。
 

2329/Orlando Figes·人民の悲劇-ロシア革命(1996)・目次。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =オーランド·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命(London, 1996/2017)。
 この書物は(Richard Pipes の二つの大著より新しく)1996年に原書(英語)が出版された。
 しかし、これにも、邦訳書がない。2017年にロシア革命100年記念の新装版が出版されたが、日本の出版業界・関係学者たちは無視した。
 目次を見ると、つぎのような構成になっている。試訳してみる。章・節等の言葉は元々はない。第一部(PART ONE)については「節」を省略。
 **
 第一部/旧体制のロシア。
  第一章・専制王朝。
  第二章・不安定な支柱。
  第三章・聖像とゴキブリ。
  第四章・赤いインク。
 第二部/権威の危機(1891〜1917)。
  第五章・最初の流血。
   第一節—愛国者と自由派。
   第二節—「ツァーリはいない」。
   第三節—路線の分岐。
  第六章・最後の希望。
   第一節—議会と農民。
   第二節—政治家。
   第三節—強者への賭け。
   第四節—神よ、王よ、祖国よ。
  第七章・三つの前線での戦争。
   第一節—人に対する鉄。
   第二節—狂ったお抱え運転手。
   第三節—塹壕からバリケードへ。
 第三部/革命のロシア(1917年二月〜1918年三月)。
  第八章・栄光の二月。
   第一節—路上の権力。
   第二節—気乗りしない革命家たち。
   第三節—ニコライ・最後の皇帝。
  第九章・世界で最も自由な国。
   第一節—遠くの自由主義国家。
   第二節—期待。
   第三節—レーニンの激怒。
   第四節—ゴールキの絶望。
  第一〇章・臨時政府の苦悩。
   第一節—一つの国という幻想。
   第二節—赤の暗い側面。
   第三節—白馬に乗る男。
   第四節—民主主義的社会主義のハムレット。
  第一一章・レーニンの革命。
   第一節—蜂起の態様。
   第二節—スモルニュイの独裁者たち。
   第三節—強奪者から強奪する。
   第四節—一国社会主義。
 第四部/内戦とソヴェト・システムの形成(1918〜1924)。
  第一二章・旧世界の最後の夢。
   第一節—草原の上のサンクト・ペテルブルク。
   第二節—憲制会議という亡霊。
  第一三章・戦争に向かう革命。
   第一節—革命の軍事化。
   第二節—「富農」: 販売人と煙草ライター。
   第三節—血の色。
  第一四章・勝利する新体制。
   第一節—三つの決定的戦い。
   第二節—同志たちと人民委員たち。
   第三節—社会主義の祖国。
  第一五章・勝利の中の敗北。
   第一節—共産主義への近道。
   第二節—人間の精神の操縦者。
   第三節—退却するボルシェヴィキ。
  第一六章・死と離別。
   第一節—革命の孤児。
   第二節—征服されていない国。
   第三節—レーニンの最後の闘い。
 **
 以上

2328/Orlando Figes, 人民の悲劇-ロシア革命(1996) 第16章第1節①。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution(Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =オーランド·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命(London, 1996/2017)。
 一番最後の章(第16章)から試訳。一行ごとに改行。段落の冒頭に原書にはない番号を付す。
 **
 第16章・死と離別。
 第一節・革命の孤児。
 (1)Gorky はベルリンに着いて、Roman Rolland に手紙を出した。
 「元気でない。結核がぶり返してきた。でも、私の年齢では危険ではない。
 もっと耐えられないのは、魂の悲しい病気だ。—ロシアでの過去7年間でとても疲れたと感じている。その間、たくさんの悲しい劇的事件を見、体験してきた。
 より悲しさが募るのは、そうした事件が、熱情の論理や自由な意思によってではなく、狂熱と卑劣さによる盲目的なかつ冷酷な計算によって、起こされてきたことだ。…
 人類の未来の幸福を、私はまだ熱烈に信じる。しかし、輝かしい未来のために人々が払わなければならなかった大量の悲痛に、私は失望し、心が掻き乱されている。」(*1)
 1921年秋にロシアから離れたGorky の背後には、死と幻滅があった。
 これまでの4年間であまりに多数の人々が殺されたため、彼ですらもはや、革命の希望と理想にしがみつくことができなかった。
 あれだけの人間の苦しみに値するものは、何もなかった。//
 (2)革命による人間の犠牲者全体数については、誰にも分からない。
 内戦、テロル、飢饉、病気による死だけを計算しても、数千万人台のいずれかだった。
 しかし、国外脱出者(約数百万人)、—この恐ろしい時代に誰も子どもを欲しくなかったので—大きく減少した出生率の人口統計上の影響—統計学者はさらに数千万人を加えることになると言う(++)—は、上の数字から除外されている。
 最も高い死亡率になるのは成人男性だった。—1920年だけでペテログラードには6万5000人の寡婦がいた。しかし、死はありふれたことで、全ての者が関係した。
 友人や親戚を一人も失わないで革命期を生き延びた者はいなかった。
 Sergei Semenov は、1921年1月に旧友にこう書き送った。
 「神よ、何と多数の死か !! 老人の男のほとんどが死んだ。—Boborykin、Leniv、Vengerov、Vorontsov、等々。
 Grigory Petrov ですらいなくなった。—どのように死んだのか知られておらず、たぶん社会主義の進展に喜びながらではない、とだけは言うことができる。
 とくに心が痛めつけられるのは、友人がどこに埋葬されているかすら分からないことだ。」
 一つの家庭に対して死がいかほどに影響を与えるかは、Tereshchenkov 家の例がよく示している。
 赤軍の医師のNikitin Tereshchenkov は、1919年のチフス伝染病で娘と妹の二人を失った。上の息子と兄は、南部前線で赤軍のために戦闘をして同年に殺された。義理の弟は、不思議な殺され方をした。Nikitin の妻は、彼がチフスに罹っている間に、結核で死んだ。
 (地方の多数の知識人たちのように)彼らは地方チェカから非難され、Smolensk の自分たちの家を失い、1920年に、二人の残っている息子たちが働く小さな農場へと移った。—15歳のVolodya と、13歳のMisha。(*2)//
 (3)この時期にロシアで死ぬのは容易だったが、埋葬されるのはきわめて困難だった。
 葬儀業務は国有化され、その結果として埋葬には際限のない書類仕事が必要だった。
 当時、棺用の木材が不足していた。
 愛する人の遺体をマットで包み、または棺—「要返却」という刻印つき—を借りて、墓地にまで運ぶだけの人々もいた。
 ある老教授は借りた棺に入れるには背丈が大きすぎて、何本かの骨を折って詰め込まれなければならなかった。
 説明することのできない理由で、墓地すらが足りなかった。—これがロシアでなければ、信じられるだろうか? 人々は墓地が見つかるのを数ヶ月待った。
 モスクワの遺体安置所には、地下室で埋葬を待つ、腐りかけの死体が数百あった。
 ボルシェヴィキは自由な葬儀を促進することで、この問題を緩和しようとした。
 彼らは1919年に、世界で最大の葬礼場を建設すると約束した。
 しかし、ロシア人は正教での埋葬儀礼に愛着をもちつづけたので、このような提議は無視された。(*3)//
 ——
 〔注(*1) -(*3)の内容(参照文献の提示)は省略する。〕
 (++) 除外されているのは他に、生き延びたが栄養失調や病気で減少したと見込まれる人々の数だ。この時期に生まれて育てられた子どもたちは、年上の者たちよりも顕著に小さく、新生児の5パーセントには梅毒があった。Sorokin, Souvemennoe, p.16, p.67.)
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