秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

五箇条誓文

1766/江崎道朗・コミンテルンの…(2017)⑦。

 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)-①。
 この本は秋月瑛二にある種の大きな「諦念」と「決意」を裡に抱かせたものなので、全体を読むに値しない本だとは思いつつ、もう少しコメントを続けよう。
 江崎道朗は、昨年に上に続いてつぎの本もある。
 ②江崎・日本は誰と戦ったのか(KKベストセラーズ 、2017.11)
 前者には末尾に参考文献のリストはないが、後者は末尾にじつに多数の文献を列挙している。
 その中には、前者①で当然に参考文献として明示されていても不思議ではない、(もとは月刊正論(産経)に連載されていたはずの)福井義高・日本人が知らない最先端の「世界史」(祥伝社、2016)も挙げられている。
 この福井著は「第5章/『コミンテルンの陰謀』は存在したか」を含む。そして江崎の①よりもはるかにこの主題をよく知っていて興味深いのだが、江崎の①はこれを完全に無視している、と言ってよい。
 後者②で名前だけ(?)列挙しつつ、じつはきちんと読んでいないのではないかと推測されるのは、この福井著以外にも多数ある(なお、福井義高は上掲書の続編の「2」も昨年に出版している)。 
 また、後者の参考文献リストを見て不思議に思ったのは、http//: 等々のいわゆる電子情報の所在を記したものが、少なくなくあったことだ。ウェブ上の関係情報も自分(江崎)は見ているぞ、ということなのだろう。
 しかし、江崎道朗がウェプまたはネット上の関係電子情報を少なくともきちんと読んでいるのかは、全く疑わしい。
 なぜなら、昨年の夏の上の①では、コミンテルンの「謀略」をテーマの重要な一つにしながら、レーニン全集やスターリン全集等々のとっくに邦訳書がある中で、レーニンやスターリン等のコミンテルンに関する、またはコミンテルン大会や同執行委員会での報告・演説にすら全く目を通していないことが、ほとんど明瞭なのだ。
 したがってむろん、福井・上掲著p.93-96のレーニン全集からの引用部分など、「共産主義」と日本の間に密接に関係しているにもかかわらず、江崎は知らないことになる。
 江崎道朗の仕事のキー・パーソンは、山内智恵子という人物かもしれない。
 この人名は前者①の「はじめに」に世話・支援への感謝の対象として出てくる。
 一方、この山内智恵子という名は、後者②ではいわゆる「奥付け」の中に「構成・翻訳」として記載されている。
 推測されるのは、後者②で列挙されている多数の(少なくとも)英語文献はすべてこの山内が翻訳したものであって、その邦訳文書を江崎は見たかもしれないが自分自身は直接に原書を読んでいないこと、そして上に言及した)http//: 等々のいわゆる電子情報は全て山内が気づいたものであって、おそらくは翻訳メモ類を見る以外には、江崎道朗は何ら関与していない、ということだ。
 それに、「構成」とはいったい何のことだろう。江崎道朗は、章や節の組み立て自体も山内智恵子に任せているのではないか。
 そしてまた推測するに、後者②は、特定の一つまたは二つの(邦訳書がない)英米語文献を-櫻井よしこがしばしばするように-「下敷き」にして、自分の文章のごとく<巧く>まとめたものだろう。
 江崎道朗は、いったいどんな自分の本の出版の仕方をしているのだろう。
 出版不況とか言われている中で、<悪書は良書を駆逐する>(これはどこか違ったかもしれない)。
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 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(2017.08) 
 この本が決定的に間違っていて、全体としては<政治的プロパガンダ>=政治宣伝のアジ・ビラにすぎない点は、聖徳太子の十七条の憲法-五箇条の御誓文-大日本帝国憲法という単直な流れを「保守自由主義」なるもので捉え、かつ明治天皇と昭和天皇をこの流れの上に置いていることだ。
 上にすでに、少なくとも三つの論点が提示されている。
 ①聖徳太子の十七条の憲法-五箇条の御誓文-大日本帝国憲法、とつなぐのは適切か、いかなる意味で適切か。平安、鎌倉、江戸等々の時代には何もなかったのか。
 ②「保守自由主義」と理解するのは適切か。そして、そもそも「保守自由主義」とは何か。
 ③上の中心?線上に明治天皇・昭和天皇を位置づけるのは適切か。いかなる意味でそうなのか。これは、明治天皇と昭和天皇を本来は分けて検討する必要もある。
 江崎道朗のこの本が提起している論点は、こんなものだけではない。
 基本的な論点になるが、江崎は「保守自由主義」を「左翼」と「右翼」の「全体主義」とは別のものとして位置づける。
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 回を改めるが、じつにいいかげんなことに、江崎道朗は、「保守自由主義」、「左翼全体主義」、「右翼全体主義」そして「左翼」・「右翼」および「全体主義」のきちんとした定義、理解の仕方をほとんど示していない
 決定的な、致命的な大欠陥だ。文学部出身者らしく?、イメージ・ムード・雰囲気・情緒だけで書いているのだ。 ほとんど<むちゃくちゃ>な本だと言える。
 次回以降により丁寧には書くが、また、例えば、「共産主義」と「社会民主主義」には最初の方で意味の説明をいちおうはしつつ、のちに急に「社会主義」という言葉を登場させるが、「社会主義」という語の解説はない。
 なぜこんな不思議な、奇妙キテレツの本が、新書として販売されているのだろう。
 江崎道朗が参照する文献のきわめて少ないことおよび「左翼」文献があること、これらによってレーニンまたは共産主義・社会主義に関する記述がきわめて「甘い」、「融和的」なものになっていることは別に触れる。

1705/江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(2017年08月)①。

 この出版物を、慶賀とともに、悲痛な想いで一瞥した。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017年08月)。
 要点をできるだけ絞る。
 第一。「第一章/ロシア革命とコミンテルンの謀略」、p.29-96、について。
  1.日本への影響を叙述する、日本の書物の中では詳しいのだろう。
 しかし、決定的な弱点は日本語訳書に限っても、10冊も使っていないことだ。従って、説得力や実証性が十分ではない。
 参考にしている、または依拠している文献は、おそらく以下だけ。狭い意味でロシア革命とレーニン以外のものも含めて、欧米(+ロシア・ソ連)の文献そのものはないようだ。1950年代の古すぎる本は除外。出版社・翻訳者、刊行年は省略。
 ①クルトワ=ヴェルト・共産主義黒書/ソ連篇。
 ②アンヌ・モレリ・戦争プロパガンダ/10の法則。
 ③マグダーマット=アグニュー・コミンテルン史。
 ④ミルトン・レーニン対イギリス情報部。
(⑤春日井邦夫・情報と謀略。)
 江崎道朗のこの本の出版を喜ぶとともに、日本の現況を考えて、寒心に堪えない。身震いがする。怖ろしい。
 2017年の夏に、この程度の詳しさでも、日本人の執筆者が書いた、おそらくは先進的な叙述になるのだろう
 江崎が最も依拠しているのは上の③のようで、コミンテルン自体の文書やレーニンの文章は、この③の資料部から採用・引用しているようだ。
 2.江崎道朗に是非とも助言しておきたい。以下を読んで、参考にしてもらいたい。
 一部の試訳・邦訳をこの欄で試みている、①リチャード・パイプスのロシア革命本二冊、②レシェク・コワコフスキの本(マルクス主義の主要潮流)でも、ロシア革命とレーニンは詳しく扱われている(後者では、著者は「ハンドブックを意図する」と第一巻で書いているが、全3巻の中で、レーニンについてはマルクスに次いで詳しく叙述する)。 
 前者のリチャード・パイプスの二冊については一冊の簡潔版があって、これには邦訳書がすでにある。
 この邦訳書だけでもすでに、昔ふうの?レーニンの像とは異なるものが明確だ。
 リチャード・パイプスの本には「革命の輸出」という章もあって、当然ながらコミンテルンへの論及も、その背景・目的も含めてある(世界革命か一国革命かにも関わる)
 レシェク・コワコフスキの本は、今まで訳した中では(以下の重要な指摘を除いて)、レーニンの「戦争」観にも(当然ながら)論及がある。
 日本人の中では、学者もしていなことを先進的に?研究した,などと自信を持ってはいけない。
 3.一瞥して、私、秋月瑛二の方が<より詳しい。より多くロシア革命とレーニンについては知っている。>と感じた。
 例えば、江崎道朗は、つぎの重要なことに言及していない。しかし、秋月は気づいている。
 試訳では、L・コワコフスキの文章をこう訳した。この部分はかなり意味読解に苦労して、無理矢理訳したところもある(翻訳が生業ではないのだから、やむをえないと思っている)。8/5=№.1693。
 「1920年12月6日の演説で、レーニンは、アメリカ合衆国と日本の間でやがて戦争が勃発せざるをえない、ソヴィエト国家はいずれか一方に反対して他方を『支持する』ことはできないが、その他方に対する『決勝戦』を闘わせて、自国の利益のためにその戦争を利用すべきだ、と明言した。/ (全集31巻p.443〔=日本語版全集31巻「ロシア共産党(ボ)モスクワ組織の活動分子の会合での演説」449-450頁〕参照。)」//
 私は、レーニン全集の該当巻の該当するらしきところだけ探し出しているだけではない。自然に、前後も読んでしまうときがある。
 そして、レーニンがこのとき何を考えていたかの一部を理解した。レーニン全集日本語版31巻の上掲「演説」を参照。
 すなわち、第一に、日米間で戦争が(「帝国主義」国間の戦争が)起きるだろうと予測し、かつ期待した。
 第二に、日本がアメリカと闘わずにロシア・ソ連を攻める(いわばのちに言う「北進」だ)のを恐れた。
 明言はないが、<帝国主義国>相互を闘わせて、消耗させよう、と思っている。これは、ロシア・新ソ連の利益になる。また、日本がアメリカではなくて、ロシア・ソ連に向かうのをひどく恐れている。ロシア・新ソ連の<権力>を守るためだ。
 すでに、1920年のこと。日米戦争への明確な論及がある(江崎道朗はたぶん知らない)。
 スターリンは、このレーニンの「演説」も、じかに聞いたか、のちにじっくりと読んだに違いない。
 スターリン・ソ連が、日本が北と南のどちらに向かうかをきわめて気にしていたこと、それに関する情報を切実に知りたかったこと(ゾルゲ事件参照)は、その根っこは、遅くともすでに1920年のレーニンの文章・演説に見られる
 4.江崎は中西輝政を尊敬して、この分野(コミンテルンと日本)の第一人者だと思っているようだが、秋月瑛二のこの一年間の読書によると、中西輝政にも相当の限界がある。あくまで日本の学界内部では優れている、というだけではないだろうか。
 何しろ、中西がW・チャーチルを「保守」政治家として肯定的に評価しているようであるのは、スターリン時代にまで遡ると、きわめておかしい。
 戦後にようやく?<反共>政治家になったのかもしれないが、江崎道朗もしきりに言及しているようであるF・ルーズヴェルトとともに、<容共>の、かつ戦後世界に対する<責任>がある、と私には思われる。
 また、アメリカ等に対するコミュニズムの影響力を<ヴェノナ>文書でのみ理解するのでは、決定的に不十分だ。
 上の邦訳書づくりへの寄与をむろん肯定的に評価しはする。
 しかし、アメリカについては(おそらくイギリスについても)ロシア革命後の<アメリカ共産党>の創立とその運動についても、知らなければならないだろう。
 この欄でいずれ触れる。
 英語文献を知っている人ならば、英米の共産党(レーニン主義政党)の少なくともかつての存在に気づくはずだ。英米語が読めれば、何とか私でもある程度のことは分かる。2000年以降でも、アメリカ共産党や同党員だった者に関する書物は出版されている。
 リチャード・パイプスやレシェク・コワコフスキだけが特殊ではない。
 日本の「共産主義者」や日本共産党にとって<危険な>欧米文献は全くかほとんど邦訳されていない、ということを知らなければならない。
 5.中西輝政あたりが、最高の、あるいは最も先進的な、<共産主義・コミンテルンの情報活動と日本>というテーマの学者・研究者だし思われているようであること。
 これは、日本の現況の悲痛なことだ。
 月刊正論執筆者の中では<反共産主義>が明瞭だと思われる江崎道朗ですら、リチャード・パイプスやレシェク・コワコフスキの名すら知らず、ましてや原書を一部ですら読んでいないようであること。
 これまた、悲痛な日本の<反共産主義>陣営の実体だ。
 「日本会議」は日本共産党や共産主義と闘おうとしていない。この人たちにとってマルクス主義の過ちは、<余すところなく>すでに証明されているのだ。
 繰り返すが、リチャード・パイプスやレシェク・コワコフスキだけではない。
 欧米文献を多少とも目にして分かることは、欧米にある<しっかりとした反・共産主義>の伝統だ。
 自らを<社会民主主義者>と称しているようであるトニー・ジャッドですら、<反・共産主義>の態度は決定的に明確だ。
 アメリカ的「社会的民主主義者」ないしは<自由主義者>であるらしきトニー・ジャッドがフランスのフランソワ・フュレのフランス革命観と「反共産主義」姿勢に同感していることは、アメリカでは決して珍しいことではないと思われる。
 日本では「社会民主」主義者は<容共>かもしれないが、少なくともアメリカのトニー・ジャッドにおいてはそうではない。
 このような脈絡でも、井上達夫の主張・議論・「思想」には興味がある。
 第二。「おわりに」より。p.414。
 この回を、急ごう。
 江崎道朗もまた、「明治維新」を分かっていない。理解が単純すぎると思われる。
 江崎は、反共産主義者でありかつ「保守自由主義」者のようだ。私もおそらく全く同じ。
 しかし、つぎの文章の内容は、絶対にダメだ。p.414。
 「われわれはいまこそ、五箇条の御誓文につながる『保守自由主義』の系譜を再発見すべきなのである」。
 ここに日本の「保守」派に多く見られる、明治は素晴らしかった、という、「日本会議」史観の影響があるようだ。この点に限れば、司馬遼太郎史観もそうかもしれない。
 「聖徳太子の十七条の憲法」と「五箇条の御誓文」をふり返るべき日本の「(保守的?)精神」だと単純に考えているようでは、先は昏い。絶望を感じるほどに、暗然としている。
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 江崎道朗の新書出版は、ある程度は慶賀すべきことなのだろう。
 しかし、途方もなく涙が零れそうになるほどに、日本の本来の「保守」=反・共産主義派の弱さ・薄さ(ほぼ=共産主義がとっくに「体制内化」していること)を感じて、やるせない。
 1991年の<米ソの冷戦>終焉から、四半世紀。日本人は、いったい何をしてきたのか。

1664/明治維新⑤-吉田松陰と木戸孝允。

 一部の「保守」派あるいはかなり多くの国民にとって、吉田松陰は<偉人>なのだろう。
 そのことを全否定するつもりもないが、全肯定するつもりもない。<偉人>か否かは、どうやって決めるのか。
 水戸学-藤田東湖-吉田松陰(-一定の長州藩士)。とりあえず素人の頭の中に浮かんだラインを書いた。
 吉田松陰/留魂録-古川薫・全訳注(講談社学術文庫、2002/原著1990)。
 これに、松陰が「死罪」となった経緯を示す、松陰自身の文章が載っている。
 1859年。その後、10年も経つと、明治新政府ができて、「内戦」も終わっている(西南戦争等は別論)。
 以下は原文でも現代語訳でもない、読み下し文。最初と最後の1/3ほどだけ。
 「7月9日、初めて評定所呼び出しあり、三奉行出座…/
 …何の密議をなさんや。吾が性公明正大たることを好む。余、是に於て六年間幽閉中の苦心たる所を陳じ、終に大原公の西下を請ひ、鯖江侯を要する等の事を自首す。鯖江侯の事に因りて終に下獄とはなれり。」(p.82、第二章)
 古川の「解題」によると(おそらく基本的には諸研究者の一致はあると見られる)、「下獄」=死罪(斬首)の基礎は「自首」で、その内容は、①勤王派公卿・大原重徳を長州に招いて「反幕」の旗揚げを図ったこと、②老中・間部詮勝(鯖江侯)の「暗殺」を企てたこと。
 吉田松陰の死は安政の大獄による不当なもの(逆殺)という見方もあり、そういう印象もあるのかもしれない。
 だが、これを読むと、まず少なくとも、当時の政府側(江戸幕府)による<暗殺>ではないし、(上では分からないが)当時としてはとくに残虐な処刑方法だったのではなさそうだ。 
 逮捕-取調べ、という<手続>は履んでいる。そして「自白」を基礎にしている。
 「自白(自首)」内容が事実そのままだったかどうかは、判断し難い。
 だが、明治憲法・刑事法制下での「犯罪」に関する取り扱いを想定して比べてみても、政府要人の「暗殺」企図に対する処断としては、当時としてはありうるだろう、という感想は抱く。
 吉田松陰はすでに幕府(当時の国の政府)に知られていると勘違いしていたという話もあるし、<誠を尽くして説明すれば政府・公務員も理解してくれる>と考えた「甘さ」・「若さ」があった、ともされる(古川、p.43)。 
 おそらくは、吉田松陰の上の文章部分を基礎にして、長州藩士側の文献史料も含めて、吉田松陰の死と「その遺体の埋葬」に関する小説類は書かれている。
 当時としてはさほど無茶苦茶な処刑ではなかったとしても、<首と胴体の離れた>、髪が乱れて(出血があるから当然の推測だが)「軽く」なった松陰の遺体を抱えて、埋めた長州藩士たちが、井伊直弼や幕府に対して、<こいつらは絶対に許せない>と憤懣するところがあっても、これまた、自然なことかもしれない。
 引用は省くが、つぎの著(小説)は、松陰「殺害」=処刑によって<幕府は長州を敵に回してしまった>と、重要な画期だったとしている。
 村松剛・醒めた炎-木戸孝允(1987)。
 既にこの欄に書いたが、松陰の「死体」を見て、処理をした者数名の中に、木戸孝允(桂小五郎)と伊藤俊輔(・博文)がいた。
 吉田松陰の死の影響力の大きさは、この「留魂録」そのものにもあっただろう。
 これは、死の直前の遺書であり、かつ若き長州藩士たちへの「遺言」でもある。
 一番最後に記された個人名は、「利輔」、すなわちのちの伊藤博文だ。p.116。
 この書を、ある程度の範囲の者たちは<回し読み>をして、胸に刻んだ、という。
 松陰が彼らに教えたこと、「遺言」にも記したことが、一定の人々に<精神的>影響を与えなかったはずはない、と思われる。人によるし、程度の差はあるだろうが。
 木戸孝允(桂小五郎)は、五箇条誓文の文章を最終的に決定し、それの奏上の形式も最終的に決した、とされる(むろん当時の政権中枢の支持・決裁を受けたが)。
 よくも悪くも(?)、明治期初年までの木戸孝允は、重要な人物だ。
 何が、いかなる情念、怨念、あるいは人間関係、あるいは出身地(出身藩)が、木戸孝允等々を動かしたのか。
 誰についても言えるだろう。西郷隆盛についても。あるいは動く現在の<歴史>についても。
 <歴史を動かす・変える(現実化する)>のは、理念・建前論・知識等々の<綺麗ごと>だけではないのだ、後者もまた無視してはいけないが、という関心からも明治維新を考える。

1636/明治維新④-「歴史」なるものの論理。

 「ああ、それにしても。この空の青さはどうだ。この雲の白さはどうだ。
  ああ、それにしても。あの朝の光はどうだ。この樹々の緑はどうだ。」
  小椋佳「この空の青さはどうだ」1972年、より
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 「明治維新に始まるアジアで最初の近代国家の建設は、この国風の輝かしい精華であった。」
 <日本会議>設立宣言(1997年5月)。
 「光格天皇の強烈な君主意識と皇統意識が皇室の権威を蘇らせ、高めた。その〔皇室の〕権威の下で初めて日本は団結し、明治維新の危機を乗り越え、列強の植民地にならずに済んだ。」
 櫻井よしこ・週刊新潮2017年2月9日号。
 この二つを合成すると、「明治維新」による「近代」国家の形成で「列強の植民地にならずに済んだ」という、大まかには誰でも承認しそうな立派な?歴史観の叙述がなされているようだ。
 余計だが、ここで興味深く感じるのは、<保守>代表のような印象を与えるかもしれない(少なくともそう意図していると見える)「日本会議」も、堂々と「近代国家」という、ごくありきたりの概念を採用していることだ。
 この「日本会議」は、ある意味では、あるいはある側面では、特殊な考え方を別に採用しているのではなく、ごくふつうの、平凡な、ある意味では目新しくない、そして-いろいろな形容句はありうる-陳腐な概念と論理を使って思考し、活動していると思われる。
 そしてむしろ、概念や論理をどれだけ掘り下げて緻密に考察しているかが、この団体の人々には問われているとも思われる。
 戻って、上の立派な?歴史観について、立ち入る。
 「明治維新」を通過したからこそ植民地にならずに済んだ(独立の近代国家になった)。
 この叙述自体に、論理的にはじつは問題が介在している、と考える。
 第一に、「明治維新」かそうでないか、という二項対立的思考に陥ってはいないか、ということ。この場合、「そうでない」とは、徳川幕府体制の維持を無意識に念頭に置いている可能性がある。
 つまり、「明治維新」だけが<植民地にならずに、独立の近代国家になった>という現実をもたらしたのか否かだ。
 少なくとも論理的には、そんなことはない。
 「明治維新」なるものを経ないで、かつ<徳川幕府体制のそのままの維持>もしないで、<植民地にならずに、独立の近代国家になる>可能性はあった、というべきだ。
 論理的に、そうだ。実際もそうだったと考えているが、その方向へとは立ち入らない。
 第二に、「明治維新」が<植民地にならずに、独立の近代国家になる>必要な条件だったとかりにして、「明治維新」という概念で何を理解するか、だ。
 現実にあった「明治維新」なるものを、西南雄藩等出身者が一部公卿と天皇・朝廷とともに遂行した変革または改革だったと理解するとするのが大まかには通念かもしれない。
 しかし、「明治維新」なるものが、現実にあった(<歴史になった>)それ以外のものでもよかった可能性が、論理的にはある。
 つまり、いろいろな要素があるので多岐の論点に言及すると複雑になり過ぎるので簡潔にいうが、かりに「西南雄藩等出身者」ということを前提にしても、現実にあったのとは違って、長州・薩摩両藩出身者たち以外のものが優位を占める下級武士(・藩主)が遂行した「明治維新」になる可能性もあった、と見るべきだろう。
 その場合に、最終的には現実には木戸孝允が確定し、その奏上方式の原案も作ったとされる<五箇条誓文>なるものが発表された、とは限らない。
 論理的に、そうだ。実際にも、なお種々の選択の余地が、主体・理念・組織等の面であり得たと思われる。そうであっても、<植民地にならずに、独立の近代国家になった>ということは生じ得た、と考えられる。
 ややこしいことを、書いたかもしれない。
 結局のところ言いたいのは、<現実化した>・<歴史になった>ものが「正しかった」・「やむを得なかった」・「それなりの根拠・理由があった」という、よくありがちな<歴史観>・<歴史の見方>から解放されなければならない、ということだ。
 いかに「明治維新」を肯定的に評価したくとも、それは、現実にあった「明治維新」を主導した中心人物たち、櫻井よしこがよく言う<明治の先人たち>を高く評価するという理解の仕方に必然的につながらなければならないのでは、全くない。。
 「明治維新」なるものの理解も問題にしなければならないし、それ以外の選択肢が(徳川幕府継続のほかに)あったかどうかもまた、考慮すべきだ。
 あまりに単純な(と私には思われる)歴史理解が評論家・運動団体に散見されるので、あえて記した。
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 <歴史的決定論>あるいは<運命論>を過去に投影させるのは、将来に向けて日本共産党ら共産主義者が前提にしているかのごとき<不可避の歴史法則>と変わらないのではないか(不破哲三と櫻井よしこの発想の共通性・類似性をこの欄で指摘したことがある)。
 このような考え方を書いたのは、レーニン・「ロシア革命」のことを思い浮かべたにもよる。
 また、関連して、リチャード・パイプスの、<現実に生じてきたことを(無意識にであれ)必然・不可避のものと是認するのは、「勝者」のために釈明・弁明している>という趣旨の文章に接したことも大きい。
 幕末・明治維新そして明治期について、何となくこういうイメージを持つ者は、櫻井よしこや「日本会議」派以外にも多いのではないか。
 ロシアで1917年以降に起きた「現実」が<正しい>・<やむを得ない>・<それなりの理由がある>ものだったとすれば、その過程で、またレーニン時代にもスターリン時代にも、そして第二次大戦後においてすら、「体制」に反抗して(ときにはその旨を一言ふたこと洩らしただけで)殺された、しばしば残虐に殺された個々の人々の人生はいったい何だったのか。ロシア・ソヴィエト国家に限らない。
 <現実になった歴史>について、「正しい」とか「間違っている」とかの、価値判断を少なくとも簡単に下すのは、絶対に避ける必要がある。<歴史は勝者が作る>のであり、正しい・間違いというレベルの論争点ではない、ということをまずは確認すべきだろう。価値判断は関係がない。先にある問題は、<事実(歴史)になった>ことは何か、だ。
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 日本の被占領期における「日本国憲法」制定(形式上は明治憲法改正手続による)についても、似たようなことは言える。 
 現憲法を全体として「否定」したい気分がある程度の範囲にあるのは分かるとしても、現憲法は<無効>だとか、明治憲法復元とかの主張になるのを見ると、社会通念や論理上の問題とは別に、ある程度において<精神病理学>上の問題がある、と思っている。
 この点は、いずれまた(再び、何度も)触れる。
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 レシェク・コワコフスキは、「神は幸せか?」と題する論考の中で、明らかにつぎの二つを区別していた(凡人の私でも理解できた)。<*出典を、7/12に訂正した。>
 すなわち、経験(experience)の世界と想念(imagination)の世界。
 現実の世界と観念の世界。当たり前の区別のはずなのだが、これを十分に明確には区別していない文章を月刊雑誌や週刊誌に書いている人がいる。

1633/明治維新③-櫻井よしこと五箇条誓文・「日本会議」。

 「十七条の憲法、五か条の御誓文、明治憲法。そこに現されてきた価値観が国家なのです。」2007年5月。
 「十七条の憲法」は、「明治新政府樹立に際して先人たちが真っ先に発布した五箇条の御誓文の内容と重なっています。」2017年3月。
 以上、いずれも、櫻井よしこ
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 以下、①明治維新にも、②<日本会議>研究にも、③日本の「保守」の「2007年」(明記しないが西尾幹二・中西輝政らを含む)にも、全てかかわる。関心の基盤に、共通するところがあるからだ。
 櫻井よしこ・憲法とはなにか(小学館、2000.05)の「第7章」は「今こそ『十七条憲法』『明治憲法』の精神に学ぶ」と題しながらも、「五箇条誓文」への言及を、「明治憲法」の基礎的理念をすでに記していたとか書いてもよさそうなのに、一切していない、ということは先に記した。
 しかし、2007年前半、この年の末にこの人は国家基本問題研究所なる団体の理事長になるが、こう書いていた。
 櫻井よしこ「日本人の価値観/取り戻せ」/東京新聞2007年5月13日付。
 「私は、国家というのは日本人の価値観の塊だと思います。日本人の価値観が国の形となって現れたものがいくつかあります。十七条の憲法、五か条の御誓文、明治憲法。そこに現されてきた価値観が国家なのです」。 
 ここでは、日本国家という「価値観」を示す三つのうち一つとして、「五か条の御誓文」を理解している。
 そして、2017年に月刊正論3月号(産経)で、日本の「保守に求められること」を主題とする文章の中で、上の趣旨と異ならないで、櫻井よしこはこう書いた。
 「日本が自らの価値観を鮮やかに打ち出した十七条の憲法は、…明治新政府樹立に際して先人たちが真っ先に発布した五箇条の御誓文の内容と重なっています。」
 その直後にまた、こう続ける。
 「五箇条の御誓文は一人一人の国民への信頼を基本にして成り立っている点で、民主主義そのものです。」
 この後の文の「民主主義」理解は、<ああ恥ずかしい、こんなに簡単に書いてしまって後世に残るのにとても気の毒だ>という感想をもつ、日本の中学生レベルの文章だろう。
 井沢元彦が「十七条の憲法」第一条の「和を以て貴しとなす」にしばしば言及して、日本と日本人の特質に言及するが、ここでいう<和>と<民主主義>は同じ意味ではないと思われる。
 井沢が指摘するのは<話し合い尊重主義>、今日的にいうと<合議主義>あるいはさらに<議会主義>に連なるもので、<民主主義>そのものではない、と私は理解している。
 民主主義とは国家意思の形成の大元を意味するので(デモクラシー、民衆政体)、国家意思の形成の細かな過程までを問題にするのではないと思われる。国民にあるいは<民衆>や<人民>に結論・基本方向が支持されていれば、民主主義と矛盾しない(とされる。北朝鮮の国名、旧東独の国名など参照)。民主主義と議会主義は同義ではない。五箇条誓文は何を言いたかったのか ? 「公論に決すべし」とはいかなる趣旨か?
 こんな議論をしても、櫻井よしことの間に議論が成立するはずはない。
 櫻井よしこは、中学生レベルの感覚で「民主主義」という語を使っているからだ。
 再び、櫻井の月刊正論3月号の文章に戻る。そして、<五箇条誓文>がどういう脈絡で言及されているかを、確認する。
 上に引用部分のつづき。
 五箇条の御誓文は、①「広く世界に心を開くという点で国際主義です。守るべき価値観の基本は日本の国柄の中にあると強調している点で、この上なく立派な日本の国是です。…グローバル化した現代世界に住む私たちにとっての教訓でもある」。p.85。
 同四条〔旧来の陋習を破り天地の公道に基づけ〕は、②「機能しなくなった制度や価値観は捨て去り、『天地の公道』、つまり、国際社会にあまねく通用する普遍的価値観を取り入れ、その価値観に基づいて日本らしい力を発揮せよという教えです」。
 こう写していて、ああ恥ずかしいと感じてしまう。言葉・観念が、宗教言辞のごとく固まりつつ、どのようなものにも取り憑くことができるように泳いでいる。
 また、明治維新理解も、怪しい。
 上に引用のように五箇条誓文を「明治新政府樹立に際して先人たちが真っ先に発布」したものとするが、厳密にはいつの時点を「明治新政府樹立」と理解しているのかどうか。
 また、ここでは「機能しなくなった制度や価値観は捨て去り…」というが、「機能しなくなった制度や価値観」とはいったい何のことか。
 もちろん、櫻井よしこ大先生は、旧江戸(徳川)幕府の「旧来の陋習」を維持した「制度や価値観」のことを想定しているのだろう。
 しかし、こう単純には言えないことは、日本の少し真面目にこの時期を学習した日本の高校生でも知っているだろう。「機能しなくなった」単純攘夷主義に凝り固まっていたのが(ある時期・通商条約時からある時期・下関戦争頃までの)吉田松陰系の長州藩士たちだった。
 あるいは、こうも言える。「機能しなくなった」制度をやめて<大政奉還>し、新しい制度・国づくりを図ったのは徳川慶喜だった。
 ③「国民を信頼し、国民を尊重してきたのが日本の国柄であることは、五箇条の御誓文の…〔一条・二条〕にも明らかです」。p.87-88。
 これは、憲法改正に向けて国民との議論を展開すべしとの主張の中で語られている。
 それにしても、恥ずかしい。「国民を信頼し、国民を尊重してきたのが日本の国柄」だ、とそう思いたい、思い込みたい、というのはよろしい。しかし、「国民」とか「国家」とかをどういう意味で用い、また日本の歴史にいかほどに習熟したうえで語っているのだろうか。
 ④第五条の言うとおり、「日本だけに閉じこもってはなりません。世界には優れた考えや制度、価値観があります。大いに学びなさい。大いに受け入れなさい。常に柔軟に賢く対処しなさい。そして自身の鍛錬としなさいということでしょう。」p.88。
 まだ続くが、これとほぼ同じ文字数でもって、この第五条を「解釈」し、あるいはこれに基づいて、読者を(?)説教?している。
 このように④まで続けたが、最初の頁(p.84)に、十七条憲法と<五箇条誓文>の二つの「価値観」で支えられていることを認識するのが「保守の基本」だとの根本的テーゼ(?)があることもあらためて追記しておく。
 このような<五箇条誓文>観を、「日本会議」派だとされる伊藤哲夫も抱いていることはすでに記した。
 櫻井よしこも、伊藤哲夫も、明治憲法、そして明治維新(・五箇条誓文)を基本的には(櫻井にとっては全面的に?)素晴らしかった(素晴らしい)ものとして、肯定的に評価している。
 「日本会議」は、その設立文(1997年)で、次のように明確に語る。
 「明治維新に始まるアジアで最初の近代国家の建設は、この国風の輝かしい精華であった。
 明治維新以降の日本の「近代国家の建設」は「輝かしい精華」だった、と考えられている。このような基本的歴史観に立つのが、「日本会議」だ。
 (新撰組、土方歳三・沖田総司が、あるいは「偽官軍」=赤報隊等々は気の毒だなあ。中村半次郎や岡田以蔵らの「人斬り」は、いやきっと井伊直弼白昼殺戮等々も、きっと立派なことだったのだなあ。-とカゲ口も。こういう歴史観によると、孝明天皇の位置づけが困難になる、というカゲ口も。薩長史観=西南雄藩中心史観は<天皇制絶対主義>開始というマルクス主義・講座派史観や基本的に<ブルジョア革命>だったとするマルクス主義・労農派史観の裏返しのような気がするなあ、というカゲ口も。)
 上は、こう続けられる。
 「また、有史以来未曾有の敗戦に際会するも、天皇を国民統合の中心と仰ぐ国柄はいささかも揺らぐことなく、焦土と虚脱感の中から立ち上がった国民の営々たる努力によって、経済大国といわれるまでに発展した。」
 明治維新からは離れるが、「天皇を国民統合の中心と仰ぐ国柄はいささかも揺らぐことなく」、とされていること、そして、その「国柄」のもとで「経済大国といわれるまでに発展した」ことは基本的に肯定的に理解されていること、も確認しておきたい。
 これによると、<戦後レジーム>が全体として消極的・否定的に理解されていることにはならないだろう、ということを確認しておくことが重要かと思われる。
 ---
 この「日本会議」の設立の1997年、いったい何があったか(設立総会は1997年5月)。
 その一年前以内に、「新しい歴史教科書をつくる会」が発足した(総会は1997年1月)
 なお、この欄のつい前回で言及した、西尾幹二=藤岡信勝の共著は1996年に、「つくる会」発足前に、刊行された。
 要するに、「つくる会」を追いかける?ように「日本会議」が設立された。
 2005年末から「内紛」?が始まった「つくる会」は、2007年のうちに「分裂」が決定的になった。そのことは、近接した、7月刊行の西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007)の中に書かれてある。
 この西尾著の刊行の直前に、椛島有三著が発行された。同じ年の、2007年4月
 そして、2007年12月、<国家基本問題研究所>が発足して、櫻井よしこが理事長になった(確認できないが、椛島有三が事務局長だったかと思われる)。
 この「研究」所とは、西尾幹二も藤岡信勝も関係がない。役員等をしていない。
 ついでに、椛島有三著研究③も少しだけ、以下にしておこう。
 既述のように、この本には末尾に多数の参考文献が、本の長さに比べれば不釣り合いなほどに、掲載されている。その中には、中西輝政・国民の文明史(産経、2003)等も記載されている。
 しかし、西尾幹二・国民の歴史(産経、1999)等を含む西尾幹二、および藤岡信勝の書物は、主題の<大東亜戦争>あるいは広く日本人の<歴史認識>・<歴史観>と関係があるものも多いにもかかわらず、この二人の書物は、いっさい排除されている
 1997年のこと、2007年のこと、そしてこの2007年刊行の椛島有三著の参考文献記載内容。
 これらは、偶然だとは決して思えない。どこかに、何らかの<意図>があった。
 ---より下は、今後に書きたいことの要旨または予告だ。今年は、2017年。

1626/明治維新②-櫻井よしこと伊藤哲夫。

 「五箇条の御誓文と十七条の憲法」は「普遍的な価値観で支えられています。それが日本の日本たる基本であることを認識していることが、保守の基本」ではないか。
 櫻井よしこ「これからの保守に求められること」月刊正論2017年3月号(産経)p.84。 
 ---
 表記にいう「明治維新」にはいわゆる幕末ないし江戸幕府崩壊過程を含む。または概念上は含まないとしても、これに関連する主題として、後者についてもここで触れる。「考」を省いたが、メモ書きという趣旨は同じ。
 櫻井よしこは上の論考(?)でしきりと日本と日本人にとっての「五箇条の御誓文」(五箇条誓文)の意義を強調する。これを「認識」するのが「保守の基本」なのだそうだ。
 櫻井よしこ・憲法とはなにか(小学館、2000.05)の計8章(終章を含む)のうち「第7章」は「今こそ『十七条憲法』『明治憲法』の精神に学ぶ」と題される。
 しかし、「五箇条誓文」への言及はない。言葉としても出てこない。「明治憲法」の基礎的理念をすでに記していた、とか書いてもよさそうなのに、一切ない。
 伊藤哲夫の以下の三著。ついでだが、②と③は「著」というには小学生低学年用ほどに活字が大きすぎ、椛島有三の2007年著にも似て、かなりの厚化粧感がある。 
 ①伊藤哲夫・憲法かく論ずべし(高木書房、2000)
 ②伊藤哲夫・教育勅語の真実(致知出版社、2011)
 ③伊藤哲夫・明治憲法の真実(致知出版社、2013)
 このうち①は計5章で成っていて、2章の題は「国のかたちを求めて」。
 これの節にあたるものが二つあって、「五箇条の御誓文を考える」と「五箇条の御誓文はいかにして成立したか」。つまり一つの章全体で<五箇条誓文>を扱う。これに否定的、消極的ではむろんない。計38頁をかける。
 教育勅語に関する②は、第1章の冒頭で<五箇条誓文>から始める。明治維新観は別に扱いたいが、興味深いので、ここでも少し引用。
 「重要なのは明治維新は…開国、すなわち国を根本的に開く改革であったという事実でしょう。その改革の出発点になったのが、五箇条の御誓文でした」。/「中でも四、五項目は」、「旧来の陋習を捨て」、…という「先取の意気込みにあふれています」。p.19-20。
 ③は、計5章で、そのうちの一つの章の題が「五箇条の御誓文から始まった明治憲法」。たまたまだろうが、計38頁をかける(内容重複は吟味していない)。
 伊藤哲夫がいかに<五箇条誓文>を重視しているかが分かる。
 本人に問い詰めたわけではないが、櫻井よしこは、これら伊藤哲夫の書物を、上の2000年以降はしっかりと読んだと思われる。
 櫻井よしこは、<日本会議>刊行文献(椛島有三はもちろん)や伊藤哲夫著を座右に置いて、仕事をしているのだと思われる。
 日本共産党の党員研究者・学者が、綱領は簡単だからたいていは役立たないとしても、自分の専門分野に関する同党文献・政策集あるいは不破哲三ら幹部の関係文献を見て確認しつつ(用心しつつ?)論文等を書き、かつ参照文献にはいっさい挙げない、のだろうというのと、全く同じだと思われる。
 最初の方にもどって、櫻井の上記月刊正論論考(?)計6頁は、印象だが、1/10以上は明らかに「五箇条の御誓文」への言及とその紹介で費やしている。平均で1頁に1回は、<五箇条誓文>に触れている。多すぎるだろう。
 いつから、櫻井よしこはかくのごとく変わったのだろうか。
 先の戦争にかかる「歴史認識」とともに、日本の<特定保守>派の明治維新に関するイメージ、論及の仕方・内容も興味深いものがある。

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