一 偶然なのかどうか、福田恆存に論及する連載ものが二つの雑誌で数ヶ月続いている。月刊諸君!(文藝春秋)の竹内洋「革新幻想の戦後史」(4月号は17回「『解ってたまるか!』と福田恆存」)と月刊正論(産経新聞社)の遠藤浩一「福田恆存と三島由紀夫の『戦後』」(4月号で31回)だ。
前者の4月号も面白い。①金嬉老事件(1968)にかかわっての、中嶋嶺雄、鈴木道彦、日高六郎、中野好夫、金達寿、伊藤成彦ら(当時の)「進歩的文化人」の<右往左往>も、その一つ。
②朝日新聞の顕著な<傾向>を示す次の叙述も。-福田恆存が発表した論文が朝日新聞「論断時評」欄でどう扱われたか。「昭和四一年まで」は比較的多く言及されたが、昭和26年~昭和55年の間での「肯定的言及」数は福田恆存は28位で肯定的言及数でいうと中野好夫・小田実・清水幾太郎の「半分にも達していない」。一方、総言及数のうち「否定的言及」数は福田恆存の場合31%で、林健太郎(21%)、清水幾太郎(15%)を上回り、三一名中のトップ。「昭和四二年あたりから」は、福田恆存論文への言及そのものが「ほとんどなくなる」(p.234。竹内は辻村明の論考を参考にして書いている)。朝日新聞「論断時評」欄のこの偏り・政治性は、今も続いているだろう。
なお、月刊WiLL4月号(ワック)の深澤成壽「文藝春秋/福田恆存『剽窃疑惑』の怪」(p.236~)は「左傾」?メディアの一つ・文藝春秋批判という位置づけなのか、この竹内連載中の福田恆存・清水幾太郎「剽窃」問題のとり挙げ方を批判している。そうまで目くじらを立てるほどではあるまいと感じたが、当方の読みが浅いのかもしれない。
一方、後者(月刊正論の遠藤浩一)の4月号では、文学座の杉村春子の暴走、「女の一生」の中国迎合改作(改演)の叙述(p.269-273)が興味深い。演劇界にも戦後<進歩主義・対中贖罪意識>は蔓延したようで、「札付きの左翼劇団」だった民芸や俳優座だけでなく、政治と一線を画してきた文学座も「昭和三十代」に入ると「反安保」・「日中友好」を通じて「左翼観念主義」・「左翼便宜主義」に取り憑かれた(p.269)。
滝沢修も日本共産党員らしき者(少なくとも70年代に「支持者」以上)だったが、どの劇団だったか、すぐには思い出せない。仲代達矢もそうした傾向の劇団を経ていたのかもしれないが(「左翼」五味川原作の「人間の条件」の主役もした)、そうした<傾き>をほとんどか全く感じられないのは(実際にも<傾き>がないのかもしれないが)好印象をもつ。
杉村春子(1906-97)といえば、意外に知られていないかもしれないが、大江健三郎が受賞を拒否した翌年に文化勲章受章をやはり拒否した人物でもある。こじつけ理由の差異はともあれ、少なくとも拒否の点では、大江健三郎のエピゴーネン。
二 ところで、櫻田淳は福田恆存につき、戦前の「古き良き日本」を思慕した言説主だとの前提に立っているようだ(月刊諸君!4月号p.52-53)。そうした面はあっただろうが、はたしてそう単純に福田恆存を概括してよいのだろうか。杉村に対する福田恆存の「助言」を読んでも、<昔(戦前)は良かった>を骨子とする<保守・反動>ではないことは明らかだ。
櫻田には三島由紀夫や福田恆存の世代とは異なるんだという意識が透いて見える。それはよいとしても、-前回に記し忘れているが-「戦後の実績」を「明確に肯定する」ことを前提にしてこそ「保守・右翼」言説は「拡がりを持つ」だろうとの指摘(p.53)には唖然とした。これは、「保守・右翼」言説の<左傾化>を推奨しているようなものだ。<左傾化>すれば「拡がり」を持つだろうが、もはや「保守」言説でなくなっている可能性が大だ。
むろん、何が「戦後の実績」かという問題はある。<日本国憲法体制>あるいはGHQ史観・東京裁判史観の(基本的に)肯定的な評価までも含意させているとすれば、この人は「真正保守」どころか、「保守」だとも思われない(なお<日本国憲法体制>=1947年体制への私の疑問・批判は、同憲法無効論を前提としてはいない)。
三 さらに前回記し忘れたことだが、産経新聞2/26「正論」欄の櫻田淳「『現在進行形の努力』と保守」の中には、一部、大きな過ちがある。すなわち、櫻田は、「定額給付金」は減税の一種だと理解し、<定額か定率か>つまり<定額減税か定率減税か>が問題だったはず、等と述べている。
「定額給付金」は減税ではなく、所得税・住民税の非課税者(減税があっても利益にはならない人たち)にも給付される。このことは常識だと思っていたが、櫻田は理解できていない。まさに「右か左かはどうでもいい」(月刊諸君!4月号、櫻田p.55)基礎的知識レベルの問題なのだが。この人は信頼してはいけないように思える。
中野好夫
西尾幹二・わたしの昭和史2(新潮社、1998)によれば、実証的根拠・資料は定かでないものの、1949-50年頃「北朝鮮や中国の共産体制を自国のモデルと看做し、讃美してやまない人が知識人の8、9割を占め、国民の過半数に近かった」(p.139)。
かかる雰囲気の中で、1948年12月に全面講和・中立・軍事基地反対等を主張・提唱する「知識人」たちの「平和問題談話会」も結成された(結成年月は、林健太郎・昭和史と私(文春文庫、2002)p.208による)。
歴史的に見て当時のこれらの論が誤っており、実際に採られた「単独講和・米国との同盟」論等が適切だったことは明らかだ。全面講和論等の流れは60年安保改定をめぐる国論の分裂の一方を形成することにもなった。全員が本当に親共産主義だったかは別として、「平和問題談話会」の主張の錯誤は明白で、これに参加した「知識人」の責任は「60年安保闘争」への影響も含めてきわめて大きい。
但し、メンバーの正式な氏名がはっきりしない。西尾・上掲書によれば、35人のうちまずは、安倍能成、有沢広巳、大内兵衛、川島武宜、久野収、武田清子、田中耕太郎、都留重人、鶴見和子、中野好夫、羽仁五郎、丸山眞男、宮原誠一、蝋山政道、和辻哲郎の15人が判る(p.184-5)。
さらに同書には、鵜飼信成、桑原武夫、南博、宮城音弥、杉捷夫、清水幾太郎、辻清明、奈良本辰也、野田又夫、松田道雄、矢内原忠雄、の11人が記されている(p.253)。
大学の仕事が忙しくてこの会には参加しなかったようだが、立花隆が尊敬する、だが吉田茂は当時「曲学阿世」と批判した南原繁も、全面講和・中立・反基地論者だった。
こうした「知識人」は、しかし、なぜ当時全面講和論などを主張したのか。これは十分に研究の対象・課題になりうる。
西尾幹二少年は新制中学3年だった1950年8月1日の日記にこう書いた―「わが国としては一日も早く講和を結び、独立国になったうえで、はっきりした態度をとるべきだ。それなのになお、全面講和説を唱えているものがある。これは講和はいつまでもしなくてよいと言っている様なものだ」(p.233-4)。
上記談話会発足後の1950年07月に朝鮮戦争が勃発したのだが、直後に発行の文藝春秋8月号で加瀬俊一はこう書いていたという。
共産勢力を阻止できるのは実力のみで自由主義諸国の結束以外に平和維持の方法はなく英国労働党も中立政策を危険視している、この期に及んで全面講和を論議するのは「時間の浪費に過ぎない。…南朝鮮が共産軍の侵入によって動乱の巷と化している…この危機に当って、なお空論に拘泥する余裕はない」、全面講和論は「放火によって大火災が起こりつつある時、全市の消防車が集まるまでは消火してはならぬというようなもの」だ(p.225)。
この朝鮮戦争開始までに1946.03にチャーチルの「鉄のカーテン」演説、1948.06にスターリンによる「ベルリン封鎖」、1949.04にNATO調印、1949.05と同年10月に西独・東独の成立、1949.10に中華人民共和国成立、50.02に中ソ友好同盟条約調等、すでに東西「冷戦」は始まっていた。
国連軍(米軍)が参戦しても50.08.18には韓国政府は釜山まで後退したが、日本国民は、とりわけ上記の如き「知識人」たちは、日本も共産主義勢力(北朝鮮軍)によって占拠・占領される危険を全く感じなかったのだろうか。上の加瀬の指摘は完璧に適切だ。
海を隔てた隣国で東西の「代理」戦争=殺戮し合い・国土の破壊し合いが継続していたときに「全面講和・中立」等と主張するのは、15歳の西尾幹二少年が感じていたように、永遠に講和条約を締結しない、つまりは独立=主権回復をしないという主張に等しく、また客観的には東側(ソ連・中国・北朝鮮等)を利するものだったことは明瞭のように見える。
「知識人の8、9割」の中には本気で韓国・米軍の敗北=北朝鮮・中国軍の勝利と日本の社会主義国化を望んだ者もいたかもしれない(当時の共産党員やそのシンパならこの可能性は高い)。また、どの程度「本気」だったかは別として、多くの「知識人」が漠然とした「社会主義幻想」に支配されていたようにも思える。そしてまた、朝鮮戦争の現実や日本が攻撃・侵略される現実的危険を直視せず、又は直視できず、かつ北朝鮮・中国等を「平和主義」の国と錯覚しつつ、すでに施行されていた新憲法の「平和主義」の理念・理想に依って口先だけで唱えた者もいたかもしれない。いずれにせよ、当時の多くの「知識人」たちの感受性・思考方法は理解が困難だ。
毛沢東や金日成の政権奪取の経緯もスターリンの「粛清」も知らず、フルシチョフによるスターリン批判や「ハンガリー動乱」は後年のことだったとすれば、ある程度はやむをえなかったのかもしれない。
しかし、それにしても「一級の知識人」のはずの者たちが、少なくとも今から見れば空想的・観念的と断言しうる主張をしていたのは不思議だ。
一口でいうと「社会主義幻想」ということになるかもしれないが、その根源・背景を更に突き詰めると、一つは、戦前からの日本共産党等のマルクス主義理論の影響だろう。
いま一つは、皮肉にも日本占領期の<当初に>GHQがとった、読売用語にいう「昭和戦争」中の日本(政治家・軍)は全面的に悪かった・誤っていたという日本人の「洗脳」教育政策と社会主義・共産主義的傾向を危険視しなかった政策だろう、と思われる。
1949-51年頃、客観的には日本は危険な状況にあった。「大袈裟にいえば歴史の命運がかかっていた」(西尾・前掲書p.252)。単独(正確には「多数」)講和の選択は適切であり、新憲法により「戦力」保持が禁止されていたとあっては米軍の駐留(安保条約)もやむを得なかった。逆の主張をした「知識人」たちは、南原繁も含めて、本当は「知性」が全く欠けていた、と思われる。
林健太郎・昭和史と私(文春文庫、2002)によって、「平和問題談話会」のメンバーとしてさらに、高木八尺、田中美知太郎、の2名が判る(p.208)。
また、この「談話会」の全員が単独(多数)講和に反対したわけではなく、最初の参加者のうち和辻哲郎、蝋山政道、田中美知太郎は賛成した、という(p.220)。
それにしてもこの会への参加者を中心とする「知識人」たちの影響力は大きく、社会党や総評の活動を理論的にも支えたようだが、林によればこの会の発足と「全面講和」等の政治運動への傾斜には清水幾太郎が中心的に働き、かつ安倍能成と都留重人という専門・個性の異なる2人が協力したことが大きかった、という(p.215、p.218-9)。
上で「知識人」の多くが全面講和・中立・反基地論を支持した背景らしきものを2点記したが、林の上の本を読むと、第三に、社会主義国、とりわけソ連による日本人に対する積極的な「反米」・「親ソ連(親社会主義)」工作があったことも挙げてよいようだ。
かりに日本に「革命」が起こらなくとも、「反米」・「親ソ連」勢力が有力に存在することはソ連の安全・安泰にもつながることだった。1950.01のコミンフォルムによる野坂参三批判等によってスターリンのソ連共産党と日本共産党の関係は良好でなく、むしろ社会党員や同党関係知識人の中にはソ連による何らかの「工作」(と客観的にはいえるもの)を受けた者もいるのではないか。別の本で、後に委員長となった某社会党有力国会議員は「エージェント」だった旨を読んだ(信憑性不確実なのでここではその名は書かないが)。
全面講和・中立・反基地論の背景の第四としてあえて挙げることはしないでおくが、林健太郎の上の本p.222は「アメリカが日本弱体化のために課した憲法が独特の観念的平和主義を生」んだことにも言及している。そして、安倍能成は「共産党嫌い」だったが「日本がいったん非武装を宣した以上それを破るのは罪悪だという観念論の頑固な信奉者でもあった」とも書く(p.218-9)。
東欧や中国の行方が明確でないままソ連も含めて「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」するとの1947年施行の日本国憲法前文の「理想」は、すでに日本人の精神の中にかなり浸透していたのだ。
また、林は、日本共産党とは異なる労農派マルクス主義(・日本社会党左派)も存在したため、反政府運動は容易に反米=親ソ運動となり、日本の与野党対立を「容易にイデオロギー闘争に転化させる独特の政治風土」を作り出した、という。
この指摘は、その後長年にわたる自・社対決が(後年の社会党がどの程度本気で社会主義国化を目指したかは疑わしく、個人的には「労働貴族」・国会議員になることを最終の「出世」と考える如き姿勢に近かったとも思えるが、タテマエとしては)不毛なイデオロギー対立となって与野党の現実的・建設的な議論・対立にならなかった原因に関するものとして首肯できる。
日本政治の不幸は、英国やドイツと違い(社・共のいずれであれ)マルクス主義・共産主義の影響を受けた勢力が強力に残存したことだった。だからこそ、与党=自民党が西欧なら社会民主主義政党が主張するような政策をも実施したのだ、と考えられる。
清水幾太郎の名が出てきたとあっては、同・わが人生の断片・下(文春文庫、1985、初出1975)の講和条約あたりに目に通さざるをえない。
同書によれば、「平和問題談話会」の母体となったのは1948.07のユネスコ本部による8名の社会科学者の声明の影響をうけてできた「ユネスコの会」で、この会のメンバーのおそらく全員の名が記載されている(p.87-88)。が、その数は50人で、「談話会」の35人より多い。
既述の他に渡辺慧が明確に後者のメンバーだったことが判るが(p.101。これで計29人)、尾高朝男、阿部知二のほか(p.108参照)、1950年の09.16夜に「丸山眞男、鵜飼信成の両君と…京都へ出発」し翌09.17に「恒藤恭、末川博の両長老に会って…依頼し」とあることからすると(p.113)、恒藤恭、末川博も加えてよいだろう。とすると、これで計33名になる(もっとも、既述のとおり、メンバーの中には「単独講和」に賛成した者もいた)。
要を得ない文章だが、こうした今でも結構著名な人々がかつて全面講和・中立論を説いた(そして多くが60年安保改定に反対したと見られる)。この人たちの「教え」を受けた弟子・孫弟子たちが現在も多数、諸「学界」にいることを忘れてはなるまい。
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かかる雰囲気の中で、1948年12月に全面講和・中立・軍事基地反対等を主張・提唱する「知識人」たちの「平和問題談話会」も結成された(結成年月は、林健太郎・昭和史と私(文春文庫、2002)p.208による)。
歴史的に見て当時のこれらの論が誤っており、実際に採られた「単独講和・米国との同盟」論等が適切だったことは明らかだ。全面講和論等の流れは60年安保改定をめぐる国論の分裂の一方を形成することにもなった。全員が本当に親共産主義だったかは別として、「平和問題談話会」の主張の錯誤は明白で、これに参加した「知識人」の責任は「60年安保闘争」への影響も含めてきわめて大きい。
但し、メンバーの正式な氏名がはっきりしない。西尾・上掲書によれば、35人のうちまずは、安倍能成、有沢広巳、大内兵衛、川島武宜、久野収、武田清子、田中耕太郎、都留重人、鶴見和子、中野好夫、羽仁五郎、丸山眞男、宮原誠一、蝋山政道、和辻哲郎の15人が判る(p.184-5)。
さらに同書には、鵜飼信成、桑原武夫、南博、宮城音弥、杉捷夫、清水幾太郎、辻清明、奈良本辰也、野田又夫、松田道雄、矢内原忠雄、の11人が記されている(p.253)。
大学の仕事が忙しくてこの会には参加しなかったようだが、立花隆が尊敬する、だが吉田茂は当時「曲学阿世」と批判した南原繁も、全面講和・中立・反基地論者だった。
こうした「知識人」は、しかし、なぜ当時全面講和論などを主張したのか。これは十分に研究の対象・課題になりうる。
西尾幹二少年は新制中学3年だった1950年8月1日の日記にこう書いた―「わが国としては一日も早く講和を結び、独立国になったうえで、はっきりした態度をとるべきだ。それなのになお、全面講和説を唱えているものがある。これは講和はいつまでもしなくてよいと言っている様なものだ」(p.233-4)。
上記談話会発足後の1950年07月に朝鮮戦争が勃発したのだが、直後に発行の文藝春秋8月号で加瀬俊一はこう書いていたという。
共産勢力を阻止できるのは実力のみで自由主義諸国の結束以外に平和維持の方法はなく英国労働党も中立政策を危険視している、この期に及んで全面講和を論議するのは「時間の浪費に過ぎない。…南朝鮮が共産軍の侵入によって動乱の巷と化している…この危機に当って、なお空論に拘泥する余裕はない」、全面講和論は「放火によって大火災が起こりつつある時、全市の消防車が集まるまでは消火してはならぬというようなもの」だ(p.225)。
この朝鮮戦争開始までに1946.03にチャーチルの「鉄のカーテン」演説、1948.06にスターリンによる「ベルリン封鎖」、1949.04にNATO調印、1949.05と同年10月に西独・東独の成立、1949.10に中華人民共和国成立、50.02に中ソ友好同盟条約調等、すでに東西「冷戦」は始まっていた。
国連軍(米軍)が参戦しても50.08.18には韓国政府は釜山まで後退したが、日本国民は、とりわけ上記の如き「知識人」たちは、日本も共産主義勢力(北朝鮮軍)によって占拠・占領される危険を全く感じなかったのだろうか。上の加瀬の指摘は完璧に適切だ。
海を隔てた隣国で東西の「代理」戦争=殺戮し合い・国土の破壊し合いが継続していたときに「全面講和・中立」等と主張するのは、15歳の西尾幹二少年が感じていたように、永遠に講和条約を締結しない、つまりは独立=主権回復をしないという主張に等しく、また客観的には東側(ソ連・中国・北朝鮮等)を利するものだったことは明瞭のように見える。
「知識人の8、9割」の中には本気で韓国・米軍の敗北=北朝鮮・中国軍の勝利と日本の社会主義国化を望んだ者もいたかもしれない(当時の共産党員やそのシンパならこの可能性は高い)。また、どの程度「本気」だったかは別として、多くの「知識人」が漠然とした「社会主義幻想」に支配されていたようにも思える。そしてまた、朝鮮戦争の現実や日本が攻撃・侵略される現実的危険を直視せず、又は直視できず、かつ北朝鮮・中国等を「平和主義」の国と錯覚しつつ、すでに施行されていた新憲法の「平和主義」の理念・理想に依って口先だけで唱えた者もいたかもしれない。いずれにせよ、当時の多くの「知識人」たちの感受性・思考方法は理解が困難だ。
毛沢東や金日成の政権奪取の経緯もスターリンの「粛清」も知らず、フルシチョフによるスターリン批判や「ハンガリー動乱」は後年のことだったとすれば、ある程度はやむをえなかったのかもしれない。
しかし、それにしても「一級の知識人」のはずの者たちが、少なくとも今から見れば空想的・観念的と断言しうる主張をしていたのは不思議だ。
一口でいうと「社会主義幻想」ということになるかもしれないが、その根源・背景を更に突き詰めると、一つは、戦前からの日本共産党等のマルクス主義理論の影響だろう。
いま一つは、皮肉にも日本占領期の<当初に>GHQがとった、読売用語にいう「昭和戦争」中の日本(政治家・軍)は全面的に悪かった・誤っていたという日本人の「洗脳」教育政策と社会主義・共産主義的傾向を危険視しなかった政策だろう、と思われる。
1949-51年頃、客観的には日本は危険な状況にあった。「大袈裟にいえば歴史の命運がかかっていた」(西尾・前掲書p.252)。単独(正確には「多数」)講和の選択は適切であり、新憲法により「戦力」保持が禁止されていたとあっては米軍の駐留(安保条約)もやむを得なかった。逆の主張をした「知識人」たちは、南原繁も含めて、本当は「知性」が全く欠けていた、と思われる。
林健太郎・昭和史と私(文春文庫、2002)によって、「平和問題談話会」のメンバーとしてさらに、高木八尺、田中美知太郎、の2名が判る(p.208)。
また、この「談話会」の全員が単独(多数)講和に反対したわけではなく、最初の参加者のうち和辻哲郎、蝋山政道、田中美知太郎は賛成した、という(p.220)。
それにしてもこの会への参加者を中心とする「知識人」たちの影響力は大きく、社会党や総評の活動を理論的にも支えたようだが、林によればこの会の発足と「全面講和」等の政治運動への傾斜には清水幾太郎が中心的に働き、かつ安倍能成と都留重人という専門・個性の異なる2人が協力したことが大きかった、という(p.215、p.218-9)。
上で「知識人」の多くが全面講和・中立・反基地論を支持した背景らしきものを2点記したが、林の上の本を読むと、第三に、社会主義国、とりわけソ連による日本人に対する積極的な「反米」・「親ソ連(親社会主義)」工作があったことも挙げてよいようだ。
かりに日本に「革命」が起こらなくとも、「反米」・「親ソ連」勢力が有力に存在することはソ連の安全・安泰にもつながることだった。1950.01のコミンフォルムによる野坂参三批判等によってスターリンのソ連共産党と日本共産党の関係は良好でなく、むしろ社会党員や同党関係知識人の中にはソ連による何らかの「工作」(と客観的にはいえるもの)を受けた者もいるのではないか。別の本で、後に委員長となった某社会党有力国会議員は「エージェント」だった旨を読んだ(信憑性不確実なのでここではその名は書かないが)。
全面講和・中立・反基地論の背景の第四としてあえて挙げることはしないでおくが、林健太郎の上の本p.222は「アメリカが日本弱体化のために課した憲法が独特の観念的平和主義を生」んだことにも言及している。そして、安倍能成は「共産党嫌い」だったが「日本がいったん非武装を宣した以上それを破るのは罪悪だという観念論の頑固な信奉者でもあった」とも書く(p.218-9)。
東欧や中国の行方が明確でないままソ連も含めて「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」するとの1947年施行の日本国憲法前文の「理想」は、すでに日本人の精神の中にかなり浸透していたのだ。
また、林は、日本共産党とは異なる労農派マルクス主義(・日本社会党左派)も存在したため、反政府運動は容易に反米=親ソ運動となり、日本の与野党対立を「容易にイデオロギー闘争に転化させる独特の政治風土」を作り出した、という。
この指摘は、その後長年にわたる自・社対決が(後年の社会党がどの程度本気で社会主義国化を目指したかは疑わしく、個人的には「労働貴族」・国会議員になることを最終の「出世」と考える如き姿勢に近かったとも思えるが、タテマエとしては)不毛なイデオロギー対立となって与野党の現実的・建設的な議論・対立にならなかった原因に関するものとして首肯できる。
日本政治の不幸は、英国やドイツと違い(社・共のいずれであれ)マルクス主義・共産主義の影響を受けた勢力が強力に残存したことだった。だからこそ、与党=自民党が西欧なら社会民主主義政党が主張するような政策をも実施したのだ、と考えられる。
清水幾太郎の名が出てきたとあっては、同・わが人生の断片・下(文春文庫、1985、初出1975)の講和条約あたりに目に通さざるをえない。
同書によれば、「平和問題談話会」の母体となったのは1948.07のユネスコ本部による8名の社会科学者の声明の影響をうけてできた「ユネスコの会」で、この会のメンバーのおそらく全員の名が記載されている(p.87-88)。が、その数は50人で、「談話会」の35人より多い。
既述の他に渡辺慧が明確に後者のメンバーだったことが判るが(p.101。これで計29人)、尾高朝男、阿部知二のほか(p.108参照)、1950年の09.16夜に「丸山眞男、鵜飼信成の両君と…京都へ出発」し翌09.17に「恒藤恭、末川博の両長老に会って…依頼し」とあることからすると(p.113)、恒藤恭、末川博も加えてよいだろう。とすると、これで計33名になる(もっとも、既述のとおり、メンバーの中には「単独講和」に賛成した者もいた)。
要を得ない文章だが、こうした今でも結構著名な人々がかつて全面講和・中立論を説いた(そして多くが60年安保改定に反対したと見られる)。この人たちの「教え」を受けた弟子・孫弟子たちが現在も多数、諸「学界」にいることを忘れてはなるまい。
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