秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

中公新書ラクレ

0352/武田徹と斎藤貴男。

 11/01に武田徹の産経上の小文に論及したが、4/07のエントリーで浅羽通明・右翼と左翼(幻冬舎新書)に触れ、その中で、<「哲学的新左翼」論者として高橋哲哉斉藤貴男森達也武田徹といった「新しい左翼ジャーナリスト」の名が記されているのは、情報として十分に参考になる>と自ら書いていたのにのちに気づいた。むろん浅羽の認識・評価の適切さの問題はあるが、かりに一部からにせよ、武田徹とは<「哲学的新左翼」論者>と位置づけられている人物なのだ。
 斎藤貴男はやはり11/01に言及した石井政之編・文筆生活の現場(中公新書ラクレ、2004)に登場している。一読したが、その<教条的左翼>の言いぐさ・論調に辟易した。
 その斉藤貴男は、共著で、あなたは戦争で死ねますか(NHK出版)というのを出しているらしい。
 そして、月刊・正論12月号(産経新聞社)p.344(清洲橋三郎・執筆)はこの一頁をまるまる、上の本の中での斉藤貴男批判または斉藤への皮肉にあてている。逐一紹介しないが、それによると、斎藤貴男の主張・論理はやはり異常だ。
 清洲橋三郎はこう結ぶ-「〔日本国家への〕ルサンチマン〔怨み〕をバネにここまでやってきた斎藤氏は、このまま紋切り型の反権力、反体制ジャーナリストとして突っ走っていくのだろう。…」。
 日本(国家)に怨みを持つのは勝手だが、旧ソ連(今のロシアでも?)、中国、北朝鮮において、<反権力、反体制ジャーナリストが生活していけると斎藤は考えているのだろうか。
 日本においてだからこそ、<反権力、反体制ジャーナリスト
も食ってゆけているのではないのか。斎藤貴男に限らないが、日本(国家)を悪し様に罵ることを<商売>にしてこそ日本で自由に棲息していけている、というパラドックスをどう感じているのだろう。
 親を罵りつつ、その親の掌の上で、護られながら、狂い踊っているだけではないのか?
 斎藤の文章を丁寧に見ているわけではないので、いちおう上は疑問形にしておく。斎藤貴男のルポ改憲潮流(岩波新書)とやらは所持しているが当面は読まない。読まなくとも内容が透けてみえるような気がするから。
 追記-アクセス数は11/25(日曜)に17万を超えた。

0342/武田徹を使う産経新聞の将来を憂う。

 低レベルの、質の悪い文章を読んでしまった。
 産経新聞10/31夕刊に掲載された、武田徹(1958~)の、随筆もどきの、(小)論文とはとてもいえない、<複眼鏡>欄、「「市民」という言葉―安易な使用・自らの不遇招く」だ。
 「「市民」という言葉」は彼の記した原題で、あとは編集部で加えたのだろうか。おかげで、表向きは<立派そうな>コラムらしく見えてはいるが…。
 一 そもそも論旨・結論(主張したいこと)はいったい何か。自然人(市民)と国民、あるいは理想主義と現実主義の使い分けを日本国憲法草案はどう考え、戦後日本はどう受け入れたののかを「改めて検討してみる価値があるのではないか」、ということのようだ。
 せっかくの狭くはない紙面を使って、…との問題を「改めて検討してみる価値があるのではないか」、で終わらせることで原稿料を貰える(稼げる)とは、ラクな商売だ(いくら稼いだのかは知らないが)。
 そんな課題設定、問題提起をするヒマがあるくらいなら、自分の考えを正面から試論でもいいから述べ、主張したらどうか。こんな問題もあると思うよ、とだけ書いて「ジャーナリスト」と名乗れるのだろうか
 二 上記の問題設定(「改めて検討してみる価値があるのではないか」)に至る論述も論理関係が曖昧なところがあり、そもそもの事実認識または評価にも奇妙なところがある。アト・ランダムに書いておこう。
 1 ベアーテ・シロタの講演への言及で始めて、再び言及して原稿を終えている。いちいち典拠を確認しないが、ベアーテ・シロタは法学部出身でもないタイピスト(?)だが日本語能力のおかげでGHQ草案作りに<愛用>された、かつ親コミュニズムでソ連憲法の条文の字面だけを見て、その「家族」または「男女対等」に関する条項に憧れ、日本国憲法草案(の原案)の一部を書いた人物だ(現二四条等につながった)。
 武田はいう。彼女は「日本女性の地位確立の道を切り開いた」、と。どう評価しようと自由だが、日本国憲法の制定過程に詳しく、かつその内容に批判的な人々にとっては、ベアーテ・シロタとはマルクス主義的・「左翼的」人物で戦後日本に悪影響を与えたとの評価を受けている人物なのだ。
 武田徹は、上のことを知っていて、敢えて書いているのだろうか。だとすれば、そのようなフェミニストと同様の評価を「産経」に書くとは勇気があるし、そのようなことを書かせる産経の編集部の無知加減か又は「勇気」に驚く。
 武田が上のことを知らないとすれば、あまりに無知で、勉強不足だ。
 2 日本国憲法に「国民」を権利享有主体とする条項と「何ぴと」にも権利(人権)を認める条項があるのは、ほとんど自明の、常識的なことだ。
 だからどうだと武田はいいたいのだろうか。<使い分け>を問題にしつつ、具体的に自らの見解・主張を述べている論点はない。外国人の雇用問題について何やら述べているが、結局は、<ある程度の痛み分けをしつつ相互に納得できる解決策を…>と書くにとどまる。こんな程度なら誰でも(私でも)書ける。
 そもそもが、外国人の問題を、憲法一四条・平等原則レベルの問題として論じようとする感覚自体がおかしいと言うべきだろう。
 確認しないし、詳細な知識はないが、いったいどこの国の憲法が、自国民と自国籍を有しない者(外国人)をすべての点について<平等に>取扱うなどと宣言して(規定して)いるだろうか。そんな馬鹿な<国家>はないはずだ。
 武田はいったんまるで平等保障の対象に外国人を含める方が<進歩的>であるかのごとき書き方をしているが、その「いったん」の出発点自体に奇妙さがある。この人は、朝日新聞的<地球市民>感覚に染まっているのだろうか。
 かりに万が一上のような憲法条項があったとしても<合理的な区別>まで平等原則は禁止するものではないから、やはり外国人の権利の有無の問題は残り(選挙権問題も当然に含む)、よくても法律レベル、「立法政策」の問題になるのだ(「よくても」と書いたのは、外国人の選挙権付与は違憲で、法律レベルでも付与できない、との主張もありうるし、現にあるからだ)。
 3 武田は「市民」という言葉の問題性に言及しているが、そんなことはあえて書くまでもない。読まされるまでもない。この人は、佐伯啓思・「市民」とは誰か-戦後民主主義を問いなおす(PHP新書、1997)という本を、-専門書ではなく容易に入手できるものだが-読んだことがあるのだろうか。
 「「市民」という言葉」を問題にしようとして、上の佐伯著を知らない、読んでいないとすれば、あまりに無知で、勉強不足だろう。武田が書いていることくらいのことは、すでに多数の人が指摘している。また、武田は言及していないが、<左翼>団体(運動)が「市民」団体(運動)と朝日新聞等によって称されてきている、という奇妙さもすでに周知のことなのではないか。
 4 それにしても、<市民・自然人-国民>の対置と<理想主義-現実主義>の対置をまるで対応しているかのごとく(つまり市民・自然人→理想主義、国民→現実主義)書いているのは、いつたいどういう感覚のゆえだろうか。こうした対応関係がなぜ成り立つのか。<思い込み>で物事を叙述してほしくないものだ。
 5 武田はまた書く。「…抽象的なシンボルを多用した安倍政権」後の「福田政権は、今度こそ生活の実質に根を下ろした政策を打ち出して欲しいと願う」、とも。
 こんな程度のことしか書けない人物が「ジャーナリスト」と名乗って、産経新聞に登場しているのだ。いよいよ世も末かと思いたくなる。
 まさかと思うが、「毎月最終水曜日」掲載の「複眼鏡」の執筆者は当面、武田徹ってことはないだろうなぁ。読売と産経のどちらの定期購読を「切ろう」かと考えているところだが、10/31のような文章の武田の文を毎月見るのはご遠慮したいものだ。産経新聞編集局(文化部?)は武田徹のごときを使うべきではない。 
 三 石井政之編・文筆生活の現場(中公新書ラクレ、2004)に武田は登場しているが、武田は2003年に東京大学某センターの「特任教授」となり「ジャーナリスト養成講座」を担当しているらしい(p.46)。この程度の内容の文章しか書けない人物が「ジャーナリスト」を「養成」しているのだから、昨今の「ジャーナリスト」のレベルの高さ?が分かるような気がする。
 ついでに。上の中公新書ラクレで編者の石井政之は、「武田さんは、哲学者ミシェル・フーコーの言説を引用しており、私は無学を恥じた」と書いている(p.45)。石井は相変わらずの舶来・洋物思想(というだけで「優れて」いると思う)崇拝者なのだろうか。
 「ミシェル・フーコーの言説を引用」できなくて、何故、「無学を恥じ」る必要があるのか。同じことを、吉田松陰、福沢諭吉、徳富蘇峰等々の日本人についても、石井は語るのだろうか。
 なお、中川八洋・保守主義の思想(PHP、2004)によると、フーコーはサルトルやマルクーゼ等とともに「日本を害する人間憎悪・伝統否定・自由破壊の思想家たち」の一人とされている(同書p.385)。

0188/安倍晋三現首相は朝日新聞と何度も闘ってきた。

 安倍晋三首相と朝日新聞社の闘いは今後も続くだろうが、北朝鮮の拉致被害者問題に関して、安倍首相による朝日新聞批判が活字になっているのを二つ見つけた。古書で入手した諸君!2003年02月号(文藝春秋)と山際澄夫・安倍晋三と「宰相の資格」(小学館文庫、2006)の中でだ。
 記憶をたどれば、2002.09.17の首脳会談で金正日が拉致を認め生存者5名・死亡者8名(・あとは不知)と伝え、同年10.15に5人が羽田空港に帰国した。10.24に政府は5人を日本に永住させる(北朝鮮に戻さない)、家族の早期帰国を求める等を決定した。
 もともと朝日新聞は親北朝鮮の姿勢で拉致問題解決よりも国交回復を急げとの主張が基本だったが(今回はその詳細は省略)、朝日は政府決定のあと「5人の言動からはいったん北朝鮮に戻るという気持ちがうかがえた。…北朝鮮にやはり戻りたいということもあるかもしれない」との部分を含む10/26社説で混ぜ返した(5人はそんな気持ちでなかったとの証言がのちにあるが省略)。
 家族が離れた状態になったのだが(4人=2夫妻の子供たちの帰国は04.05.22、1人の夫・子供たちの帰国は同07.18)、北朝鮮は5人を戻さなければ交渉しないと(約束違反だとか言って)態度を「硬化」させたのだった。
 そんな北朝鮮の態度を知って(それを配慮したのか?)、朝日新聞は、拉致被害者の「居住の自由は?」、「家族離散の強制では」等の投書を多数載せつつ12/26社説体制変換望めばこそ/北朝鮮との国交交渉」で、5人の家族の帰国問題につき「大事なのは、打開に向け、日本側も一切の妥協を排すという態度をとるべきではない。感情論に乗るだけでは真の国益を踏まえた外交にはならない」と述べた。
 この朝日新聞社説を厳しく批判したのは、当時官房副長官で政府内で重要な役割を果たしていた安倍現首相だった。次のように述べた。
 「これを読んで、私は非常に落胆しました。記事は…暴発の可能性を示唆しつつ、拉致問題については、双方の原則やメンツにこだわるのはよくない、「大事なのは、打開に向け、日本側も一切の妥協を排すという態度をとるべきではないということだ」と、主張しています。国家的犯罪を犯した立場の国と、被害者のわが国を同列におくという、論理の基本がそもそも間違っているのです。/いったい、「朝日」は、どういう妥協をしろといっているのでしょうか」。
 「…「死亡」とされた8人の方々の安否について、あれは北朝鮮側の通りでした、といって納得すればいいのでしょうか。5人の帰国者たちの家族についてはもう諦めました、とでもいえばいいのか。あるいはもう戻りたくないといっている5人を、無理やり平壌へ送還すればいいのか」。
 「はこれほど無責任な提言は見たことがありません。「真の国益を踏まえた外交」を展開せよ、と記事はいうが、9月の台風のさなかに海水浴をしていて溺死しました、というような報告を鵜呑みにしたうえで実現しなければならない「国益」とは一体、何なのでしょうか」。(諸君!2003年02月号p.68-9)
 朝日新聞はその後2003年元旦の社説でも基本的態度を変えなかったようだ。安倍は2003年1月下旬の某講演会で次のように述べて朝日を「敢然と批判した」(山際澄夫・安倍晋三と「宰相の資格」(小学館文庫、2006)p.169-170による)。
 「いま大切なことは国民の声をひとつにしていくことです。…今年の元旦の(朝日新聞の)社説の場合、拉致問題では「強硬論を言うだけでなく、落としどころを考えろ」という趣旨の論調があったわけです。拉致問題そのものに妥協なんてありません。「5人の子供たちは帰ってこなくていい」「5人を向こうに戻す」なんてしません。また、5人の子供たちが帰ってきたら後の人たちは忘れてもいいのでしょうか。…そういうわけにはいかない。私たちは私たちの手で安否を確認しなければならない。…朝日新聞は「8人を忘れてしまえ」というのと同じことをいっているといっても差し支えないでしょう。こういう論調が交渉をうまく進めさせない、われわれの主張を通すことができない障害になっていると強く懸念しています」。
 山崎行太郎という無名と思われる文芸評論家によると、こうした安倍氏の発言は全て朝日への<言論弾圧>であり<恫喝と恐喝>ということになるのだろう。文芸評論家と名乗るからには、言葉は正確に使って欲しいものだ。
 政治家にも言論の自由があり、それを行使し、広義には「権力」団体に他ならない朝日の謬見を正当に指摘し、批判しているにすぎない。
 なお、読売論説委編・読売VS朝日-北朝鮮問題(中公新書ラクレ、2002.12)の最後には、「同時に大局を失ってもならない。ためらわず、正常化交渉を再開させることである」との朝日02.09.22社説と「国交正常化を急ぐことはない」と題する読売02.10.10社説が対比して掲載されている(p.198-)。

-0029/「国内の左翼の策動」。あてはまるのは朝日新聞と誰々?

 米国は1日に模擬弾道ミサイル迎撃実験をして成功し、2日に北朝鮮は自国攻撃目的等と非難した。北朝鮮が核実験に成功し日本に向けて4、5発を誤りなく発射すれば、迎撃しないかぎり、日本と日本人はなくなる。かかる情勢への関心を全く示さず、「平和ボケ」の、ありきたり議論を展開していたのが、立花隆だった。
 読売1-2面の岡崎久彦寄稿は立花や大江とは違う「リアル」な認識が背景にある。靖国「問題」は「国内の左翼反体制運動から端を発し」た、消えた問題が再燃した「発端は例外なくすべて国内の左翼の策動である」とズバリ指摘している。朝日新聞社等の、と具体例を挙げないと意味不明の読者がいるのではと心配するが、朝日新聞等の「策動」者、高橋哲哉氏等の「策動」加担者はどう読んだだろう。
 かつては新聞社は報道機関と考えていたが、安倍晋三総裁・総理阻止の明瞭な姿勢とそのための布石等々を見ても(教科書、従軍慰安婦、NHKへの政治家圧力「問題」もそうだが)、少なくとも朝日新聞だけは「策動」団体(「謀略」団体と言う人もいる)と言ってよいと思う。正面から「安倍総裁の実現に反対する」、「福田総裁の実現を希望する」とかの見出しの社説を堂々と書けばまだましだが、皮肉・あて擦り・暗示が多いのが「卑劣」でもある。言い古されたことかもしれないが。
 荷宮和子・若者はなぜ怒らなくなったのか(中公新書ラクレ、2003)は「団塊と団塊ジュニアの溝」との副題が気を引いたが、「あとがき」を先ず読んで、この人自身の表現を借りると、この人は「アホである」(p.245)

 多少中身を見ても概念定義・論理構成不十分。
 同・なぜフェミニズムは没落したのか(同前、2004)を既所持で第一章まで読んでいたが、この人自身の表現を借りると、この人は「アホである」(p.277)。活字文化のレベルはここまで落ちている。何の学問的基礎・専門知識もなく、喫茶店のダベリを少し体系化しただけのような本が出ている。
 そんな傾向を全否定はしないが、中公ラクレ編集部の黒田剛司氏は自社の名誉・伝統のためにも執筆者の再検討を。2冊ともたぶん100~300円で買った古書なので大した打撃ではないが、読んだ多少の時間が惜しい。小浜逸郎・やっぱりバカが増えている(洋泉社、2003)の証左かも。が、「バカがこれ以上増えませんように」(前者最末尾)だとさ。
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