秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

上田耕一郎

1894/不破哲三「現代トロツキズム批判」(1959年)。

 こういう類を探し出せば、キリがないだろう。
 不破哲三は1959年、「ソ連」についてどう書いていたか、どういうイメージを持っていたか。
 不破哲三「現代トロツキズム批判」上田耕一郎=不破哲三・マルクス主義と現代イデオロギー/上(大月書店、1963年)のp.214。
 最初の掲載は1959年6月号の『前衛』。不破、29歳の年。
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 「トロツキーの『世界革命』理論の土台石を形づく」るのは、経済後進国ロシアで「完全な社会主義社会を建設することは不可能」だとする「理論」だ。
 「この一国社会主義批判は、もしそれが誤りだとなったなら、…トロツキズムの全体が一挙に崩壊してしまうほどの比重をしめていた。/
 だが、…十月革命以来四〇年の世界の発展は、トロツキズムのこの最大の支柱を、打ち破りがたい歴史的事実の力でうちくだいた。/
 すなわち、世界革命の不均衡な発展が主要な先進資本主義国をまだ資本主義体制にとどめているあいだに、ソ連は社会主義社会の建設を完了し、社会主義は資本主義的包囲を打ち破って世界体制となり、…共産主義社会への移行をめざして巨大な前進を開始しているのである」。
 フルシチョフが述べたように、「一国における社会主義の建設と、その完全かつ最終的な勝利にかんする問題は、社会発展の世界史的行程によって解決された」。
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 スターリン死亡が1953年、スターリン批判秘密報告は1956年で、このときソ連はフルシチョフの時代だった。日本共産党は1961年党大会の前。
 上で不破哲三は、「ソ連は社会主義社会の建設を完了し」、「共産主義社会への移行をめざして巨大な前進を開始している」と書いた。
 この歴史的事実によって、「一国社会主義」論の正しさとトロツキーの「世界革命」論の誤りが実証された、と言っているわけだ。
 第一に、このような「一国」か「世界」という対立・対比はスターリンがトロツキーらに政治的に勝利するために意図的に捏造した論争点で、この論点を極大化するのは政治的だ。理論・政策について、スターリンはトロツキーのそれらを多分に「利用」・「継承」している。
 このようなスターリンとトロツキーの見事な「相対化」は、L・コワコフスキにもS・フィツパトリクにも見られて、興味深い。
 不破哲三は、スターリンと同じ立場に立って、ソヴィエト・マルクス主義の経緯を理解したつもりでいたわけだ。この人は戦後の若い頃に、<スターリン・ソ連共産党史/小教程>を一生懸命読んで「憶えた」にちがいない。
 第二に、ソ連は社会主義国ではなかった、レーニンによって正しく歩み始めたのをスターリンがなし崩しにした、と言うどころか、1959年にはソ連での「社会主義建設は完了」したと(スターリンと同じく)明言していた。
 何とでも言えるものだ。1994年党大会で綱領改正の報告をしたとき、不破哲三は、かつて自分が書いたことなど(他にも多数あって?)忘れていたに違いない。いや、かすかに記憶に残っていたとしても、過去は過去、今は今で、どうでもよいことなのだ。
 とりあえず今を前進し、とりあえず今を切り抜け、自分が日本共産党の頂点にい続けることが可能であるならば。
 ソ連の「社会主義国」性につき、1994年の時点で不破哲三が反省らしき言辞を吐いたのは、秋月瑛二の知るかぎりでは、我々にも<ソ連の見方につき不十分さがあった>、というひとことだけだ。
 <何とでも言う>ことができる。
 かつてレーニンを擁護しつつスターリニズムを批判していた「トロツキスト」を批判していた日本共産党だが、今や(1994年党大会以降)「スターリニスト」も罵倒するに至った。かと言って、トロツキー批判は間違っていたと自己批判するわけでは、勿論ない。
 基本的・根本的なところで、日本共産党は「自己欺瞞」を今後も、し続ける。

1303/日本共産党の安全保障(防衛)政策は?

 一 日本共産党は同党の安全保障(防衛)政策として、2014年の党大会以降、「北東アジア規模」の「友好協力条約」締結などから成る「北東アジア平和協力構想」という提唱しているらしい。
 この条約はアセアンに現在あるものを真似ようというものらしいが、その具体的内容は明らかではない。北東アジアの国家・地域には日本、韓国、北朝鮮、中国、台湾それにモンゴルがあるが、現状を前提にすれば、これらの国々等が「友好協力条約」を締結することは夢想にすぎない。可能性があるすれば、北朝鮮と中国共産党支配の中国の崩壊があってからだろう。あるいは、親中国・親社会主義の方向で朝鮮半島が統一され、日本にも日本共産党を政権与党とする政府が誕生していれば、不可能ではないかもしれない。だが、そのような朝鮮統一や日本政府の変化を想定することはほとんどできず、したがってこれまたほとんど「夢想」になってしまう。
 要するに、<お互いよく話し合って、仲良くしましょう>という程度の、吉永小百合さまならば思い浮かべるかもしれないような、幼稚な「政策」しか日本共産党は持ち合わせていない、と考えられる。
 そもそもこの政党は、日本の国土と国民の安全を守る、という気概を持っているかどうかが疑わしい。日本共産党の綱領上、「敵」はアメリカと日本の<アメリカ追随>勢力なので、日本の国土と国民の安全を危険なものにしているのはアメリカと日本(内部の一部勢力)だと見なされることになる。したがって、これら以外の諸国からの危険の発生などは想定していないし、多少の知識はあったとしても<見て見ないフリ>をしている、といって過言ではないだろう。
 したがって、この政党が国会論戦等で何を質問し何を主張したところで、<客観的な安全保障環境>の認識、だれが「敵」であるのかの認識が全く異なるのだから、噛み合った、生産的な議論になるはずはない。
 日本共産党と社民党は民主党らが最終的には賛成した場合であっても、これまでのいわゆる有事法制法案等々について、つねに反対投票をしてきた。今次の安保法制の整備についても、いかに丁寧に議論し回答したところで、彼らはすでに結論を用意しているので、ほとんど無意味なことになるだろう。
 二 1970年代に日本共産党は「民主連合政府」なるものを構想していたが、その政権構想の一部として「真に日本の平和と安全の道」、「非同盟・中立」を語っていた。
 その際、日本に対する「侵略」があった場合の「自衛」の方策について、日本共産党もまた何らかのことを語らざるを得なかったようだ。1975年の12回党大会で不破哲三の実兄・上田耕一郎(この時点での政策委員長)は、つぎのように述べた。
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 「万一、中立日本の国際的保障をも無視して侵略があった場合はどうするかという問題が提出されえます。仮定の問題ですが、そうしたさい、すべての民族、国家がもっている自衛権にもとづいて、民主連合政府は、日本の中立をを保障している諸国民と政治的に連帯し、国民とともに侵略者に断固抵抗するでしょう。/このような事態は、現行憲法があまり予定しない事態ではありますが、自衛権が、国家が自国の主権または自国民にたいする急迫不正の侵略をとりのぞくためにやむをえず行動する正当防衛の権利であり、主権国家の基本権の一つとして自衛権が憲法第九条によっても否定されていないことは、すべての憲法学者や国際法学者もみとめているところです。このような急迫不正の侵略にたいして、国民の自発的抵抗はもちろん、政府が国民を結集し、あるいは警察力を動員するなどして、その侵略をうちやぶることも、自衛権の発動として当然であり、それは憲法第九条が放棄した戦争や武力行使でもなく、同条で否認した交戦権の行使や戦力保持ともまったくことなるものです。/憲法第九条をふくむ現行憲法全体の大前提である国家の主権と独立、国民の生活と生存があやうくされたとき、可能なあらゆる手段を動員してたたかうことは、主権国家として当然のことであります。この立場は自民党の解釈改憲の立場とはまったく無縁のものです」。(/は改行)
 以上、吉岡吉典・有事立法とガイドライン(新日本出版社、1979)p.286-7による。
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 自衛隊設立時の政府解釈の言明ともよく似て、最後の一文を除いて、日本共産党もなかなか立派なことを述べているではないか。「憲法第九条をふくむ現行憲法全体の大前提である国家の主権と独立、国民の生活と生存があやうくされたとき、可能なあらゆる手段を動員してたたかうことは、主権国家として当然のこと」なのだ。「自衛権」は、「国家が自国の主権または自国民にたいする急迫不正の侵略をとりのぞくためにやむをえず行動する正当防衛の権利であり、主権国家の基本権の一つとして…憲法第九条によっても否定されていない」のだ。
 もっとも、国民のゲリラ的活動に任せるという無責任なことは言っていないのはよいが、「警察力を動員するなどして」とか「可能なあらゆる手段を動員して」とか述べるだけで、どのような組織・手段を国家があらかじめ用意しておくかについては具体的に述べているわけではない。九条2項にいう「戦力」ではない実力組織の保持の明確な容認まであと一歩まで近づいているが、そこまで立ち入っていない。
 これらのことよりも興味を惹くのは、上のような見解においても、合憲的な「自衛権」の行使か、憲法上許されない実力の行使かという問題が当然に生じうる、ということだ。
 日本共産党は近年、「海外で戦争できる国家」うんぬんと安倍政権が進める安保法制の整備に反対し、そして一般国民からすれば細かいあれこれを政府に糺して批判したりしている。しかし、かりに日本共産党が今日でも上の上田耕一郎(当時の政策委員長)の見解を維持しているとすれば、日本共産党の考え方においても、つねに<自衛権の行使>かそれを超える実力の行使(あるいは「戦闘」行為)かという問題は生じるのであり、この問題についての詳細な回答を、日本共産党自身は用意しているのだろうか。これは同党に対する基本的な疑問だ。
 安倍政権が進める安保法制整備に反対するのならば、「国家の主権と独立、国民の生活と生存」を守るための対案が必要なのではないか。自民党中心政権、安倍晋三内閣がしていることだから反対する、では合理的で正当な理由にならないのではないか。
 それとも、「戦争・武力行使・武力による威嚇と軍事力を根底から否認する」立場(日本共産党・森英樹)、あるいは「徹底した恒久平和主義」の堅持(日弁連会長・村越進)とは、「自衛権」の行使という<実力の行使>をもいっさい否認するものなのだろうか。そうだとすれば、上田耕一郎の上の叙述は今日の日本共産党には継承されていないことになる。日本共産党や日弁連会長には答えていただきたいものだ。

0196/有田芳生と日本共産党、そして川端治。

 二回ほど有田芳生について元日本共産党員だと書きつつ、離党の事情についてはきちんと確かめないで、推測混じりで、「可能性がある」というような曖昧な書き方をしてきた。
 有田芳生の現在の政治的・社会的影響力はさほど大きくはないという判断もあったからだが、
前回に言及したこともあり、ご本人のサイトから彼の<離党事情>等を確かめてみた。
 以下、有田芳生公式HP・今夜もほろ酔いの中の「共産党」フォルダの第一頁以下の文および同フォルダ内の「哀しい日本人と日本共産党」「私の査問体験」による。
 有田芳生が所属していた日本共産党から「査問」を受けた一度目は1983年。当時同党の雑誌・文化評論の編集に携わっていたようだが、上田耕一郎副委員長(当時)と小田実のこの雑誌1981年1月号上での対談を担当したことがきっかけになり、この対談後に小田実が既成左翼批判をしたことから<党内に小田実的市民運動を浸透させようとする「陰謀」がある>という疑いがかかったらしい。そして、「本部勤務員にふさわしくない」とのことで「職場を追われた」。私の推測を挿入すると、この後、日本共産党系出版社の新日本出版社に移ったのだろう。
 二度目の、そして離党につながった「査問」は1990年。前回に言及した本がきっかけになったかもしれないと前回に書いたが、違っており、正確には同じ出版社からの松岡英夫=有田芳生編・日本共産党への手紙(教育史料出版会、1990)の刊行が契機だった。
 有田はこう書いている。-「この本は、日本共産党について率直な意見を、原稿枚数の制限をせず自由に述べていただくことを目的とし、その趣旨に賛同してくださった加藤周一さんや住井すゑさん(故人)、新村猛さん(故人)など各界15人の方々に登場していただいた」。
 そして、この本の実物を私は今手元に置いているのだが、HP上に記載のとおり、「あとがき」で有田は次のように書く。-「日本共産党が時代の変化に敏感に対応して、どのような『再出発』をしていくのか。それは、ひとり共産党員や共産党支持者だけの問題ではない。私の尊敬する政治家は『その民族がどのような共産党を育てるかは、その民族の運命に関わる』と常々語っていた。ソ連・東欧の歴史的な政治動向は、そのことを世界の人々に劇的に明らかにした」(p.221)。
 これに続く文章は現物によるとこうだ。-「こういう時期に、この日本という国の共産党は国民の目にどのように映っているのだろうか。そのことを常日頃、共産党に関心を注いでいる人たちに、なにものにもとらわれず発言してもらおう…-こういう問題意識で編集したのが本書である」。
 けっこう長い文章の末尾はこうだ。-日本共産党の動向は「日本そのものの行方と深くかかわっていると思っている」、この本が「一つのきっかけになり、自由で建設的な議論や対話が広がることを切に願ってやまない」。(p.228)
 上で太字にした部分などは日本共産党の一党員の資格で対外的に書けるものではないことは容易に想像がつく。さて、有田のHP内文書に戻る。
 「この単行本を出すことで、規約違反の容疑があると査問を受けた。発売前にゲラ刷り(本になる前に誤植などを点検するための印刷物)を常任幹部会に提出していたことなど、まったく意味のないことだった。こういう単行本を出すことが「党員としてふさわしくない」との判定を下され、共産党から除籍された」。
 18歳で入党してから20年後の「除籍」だったらしい。
 若干元に戻ると、上の本に「手紙」を執筆しているのは、上記の3名の他、飯塚繁太郎、稲葉三千男、加藤哲郎、黒田了一、清水慎三、寿岳章子、田口富久治、田畑忍、中馬清福、日高六郎、藤井一行、星野安三郎の各氏だ。
 全員が「左翼」的だが、日本共産党員でない人もいるし、党員(だった)だろうと推測できる人もいる。
 さて、この<事件>の感想は、日本共産党員は外部の人も含めて「なにものにもとらわれず」に「自由で建設的な議論や対話」をしてはいけないという、日本共産党の組織的体質、つまりは<民主集中制>なるものの腐臭に充ちた気持ち悪さ、に尽きる。
 と書いて、ここで終わってもよいのだが、さらに続けよう。
 有によると、「共産党の主張は納得できるものではなかった。だが、党本部が行なう規約の解釈や決定に個人がかなうわけがない」。しかし、「査問官たちは「最終的な決定が下れば連絡する」と言った」ので待ったが、「何の連絡もないままに半年が過ぎた」ので「私は査問の担当者に電話をかけるにした。返事はあっけなかった。/「あっ、半年前に除籍されていますよ」/何をいまさらという、まるで役所の窓口で聞くような事務的口調だった」。
 こんなものなんですかねぇ。20年間も党員だった者に対する扱いというのは。
 また、有田は統一協会に関する6冊の本を著しているようなのだが、彼は、日本共産党の統一協会関係の本や赤旗記事には、彼の本を明確に参照しているところがあるにもかかわらず、参考文献として「有田芳生・…」という記載は一切ない、という。そしてこんなふうに書いている。
 「共産党にとって、私という人間は存在しないのである。いや、正確にいえば、共産党に批判的なことを書けば敬称も付けずに私のことを「転落者」「反共主義者」と罵倒するくせに、都合の悪いときには存在を無視するのである」。
 有田芳生が日本共産党から
「転落者」「反共主義者」と罵倒されているとは知らなかった。
 有田はまた、次のような日本共産党に対するもっと厳しい言葉も吐いている。 
 「麻原彰晃逮捕翌朝」の『赤旗』が私を「反共を売り物にする有田芳生」と敬称さえ付けずに報じたのを眼にしたときの驚き。そんな人格が中央委員会を構成しているのだとようやく目が覚めた出来事だった。誰が書いたのかもわからぬ匿名の罵倒。せせら笑うかのように背後から切りつけた者たちに私はもはや幻想は持たない」。
 日本共産党を離党したからといって、非日本共産党にはなっても反日本共産党になるとは限らない。なおも親共産主義で親日本共産党である人もいるだろう。
 有田芳生は私はまだ親日本共産党で、4月東京都知事選挙の際の浅野某民主党推薦候補への批判ぶりからして、結局は日本共産党の吉田某候補に投票したのだろうと勝手に推測していたが、-どうでもよいようなことだが-違っていたかもしれない。「私はもはや幻想は持たない」という言葉はなかなか激しいものだ。
 有田はさらに、旧知の日本共産党員が偶然にでも有田氏と出くわすと、悪い人物と出会ったふうに話そこそこに遠ざかっていく、というようなことも書いている。
 除籍された元党員・古在由重の追悼会の世話したことが契機になって自らも除籍されたのは、川上徹だった。日本共産党員たちにとって、除名又は除籍された者とふつうに会話を交わすこと自体が<処世>に響いてくるのだ。党中央から睨まれ、警戒され、除籍とかになると、まさに<生活>そのものが影響を受けるのだろう。
 別に有田芳生に親しみは湧かないし、同情もしないのだが、日本共産党の陰湿さを改めて感じた有田HP読みだった。
 一つ、私には大事なことを忘れていた。前回にも山川暁夫という氏名を出しているが、この山川暁夫という人は、「本名は山田昭、党内では川端治というペンネームで活躍」と書かれている。そして、1972年の<新日和見主義>事件で離党していたこの川端との関係を、有田氏は最初の査問の際にしつこく訊かれたのだという。
 この「川端治」という名前を、私は突然に思い出した。1970年前後、大学生の私は誘われていった集会で、むろん内容は忘れたが、この人の、正確には「川端治」と紹介された人の「講演」をたぶん一度だけ聴いたことがある。「講演」というよりは、「アジ演説」に近いもので、やや高い声での<煽動>の仕方には迫力があった。
 いつだったかの正確な記憶はむろんない。いずれにせよあの頃から、あの時代から、もう40年近く経った…。あの「川端治」という人は(当時に明確に共産党員との認識があったわけではないが)、あの日から数年後には日本共産党から追われていたのか…。そしてその後、この人は<新しい党作り>に関係していたとか…(有田HPによる)。
 いろいろな人生があるものだと思う。そして、多少は、「青春」時代への感傷につながらなくもない。

0074/日本共産党・2007県議選等分析、民青同盟員数72年比で1/10、等。

 直接に宮地健一氏のHPに入っていただければ済むことだが、同HPに「2007年県議選・政令市議選の結果と評価」が掲載された。日本共産党に関心はもつが前衛も赤旗も読まない者にとっては貴重な情報源で、分析も成る程と思わせる。
 政令市議選を先に片付ければ、2007年は新潟市・浜松市・堺市の3つ増えたため単純比較できないが、この3市を除いて比較すると、「124-19=105議席」で2003年は104だったので「1議席増えた」。「議席占有率は、2003年12.5%→2007年12.6%と、0.1%増えた」。宮地氏によれば、「共産党は、県議選における立候補削減への方針転換にたいして、政令市議選で、全選挙区に立候補させるという従来からの方針を採った」。この議席結果は、県議選と比較すると、「微増と言える」。
 私には不本意だが、政令市議選については、日本共産党はしぶとく頑張ったわけだ。
 だが、44府県議選の結果と分析は、楽しい。
 「1999年と2003年との比較で、議席・得票数・得票率の選挙結果3指標とも減った」。
 1999年・2003年・2007年の変化はこうだ。議席数、152→107→100。得票数、4,263,692→3,207,067→2,857,027、得票率、10.50%→8.63%→7.49%
 2003年から「県議選で全選挙区に立候補させるという従来からの方針を取り止め、重点選挙区だけの立候補作戦に転換した」ようだが、それでも、低落・退潮の傾向は明瞭だろう。
 宮地氏は書く。-「44道府県県議選データは、全国規模選挙として、参院選との関連性が強い。その結果は、参院選の行方を直接占うデータともなる」。ところが、共産党は2003年と比べて「議席-7・得票数-350040票・得票率-1.18%と、3指標とも全面敗北・連続後退した。となると、参院選においても、3指標とも全面敗北になる確率が高まったと推定できる」。
 なかなか好ましい推定ではないか。国会(両院)レベルでの劇的な議席数減少(各院・2~0へ)があれば、解体・崩壊、そして解党への途を「夢想」するくらいはできるようになるだろう。
 このような結果にもかかわらず、宮地氏によれば、「4月9日共産党常任幹部会声明は、3指標の増減に関する全体評価を一言も言わず、避けている」、「基本評価は敗北である。敗北を認めず、それを取り繕うような声明は見苦しいだけでなく、参院選に向けた選挙活動にもマイナス影響をもたらす」。
 以上のほか、興味深い日本共産党関係情報も知ることができる。以下、宮地氏の同じファイルによる。
 1.「共産党」という名の政党があるのは、「ヨーロッパでは、ポルトガル共産党、フランス共産党のみ」。このうち「ポルトガル共産党はプロレタリア独裁理論の放棄を宣言している。フランス共産党も、党大会で正式に、(1)プロレタリア独裁理論と、(2)民主主義的中央集権制という2原則を放棄した。よって、2党とも、その内実は、もはやレーニン型共産党ではなくなっている」。
 イギリス、ドイツ、イタリア、スペイン等にはとっくに「共産党」自体が存在しない。しかるに、極東の日本には、言葉こそ変えても上の(1)(2)を維持した「レーニン型共産党」があるのだ。私には、不思議で、奇妙で、仕様がないのだが。
 2.民青同盟は1972年には「20万人の巨大組織に達していた」。だが、「2007年現在、民青同盟員は、約2万人」だ(同盟費納入率は約40%なので、実働は約8000人程度)。「青年学生の党組織・民青班の崩壊」を示している。
 私の記憶する1970年代前半と比べて、隔世の感がある。今の20歳代の若い世代の共産党支持率が低いようであるのも、民青同盟員数と無関係ではあるまい。
 かかる減少の原因は、「新日和見主義分派」事件、「宮本顕治の対民青クーデター=党中央忠誠派に民青中央を総入れ替えしようとした日本共産党史上最大規模の冤罪・粛清事件」に遡る。この「600人査問・100人処分という党内犯罪の共同正犯は3人」で、「クーデターの主犯宮本顕治、600人査問統括検事役下司順吉、思想検事役上田耕一郎」。
 過日言及した、川上徹氏もこの「クーデター」の犠牲者だったと思われる。
 3.私も見たことがあるが「さざ波通信」という珍しいHPがあって、日本共産党の党員らしき者が種々の意見・主張を述べていた。今訪問したらまだ存在していて、アクセス数は1620974だった。「党員用討論欄」もあるが、最終投稿の日付は2006.12.15だ。このHPを日本共産党中央は問題にしたらしい。
 「第22回大会〔2000.09-秋月〕前後、HPさざ波通信掲示板への批判キャンペーンを大々的に展開した。そこへの投稿者にたいして、摘発・査問・除籍活動を全党的に展開した。インターネット社会において、HP内容によって、批判者を摘発・排除している政党は、世界の政党の中で、中国共産党と日本共産党の2党だけ」。「日本共産党は、査問(=調査)内容が具体的に判明している者3人、査問事実判明10数人を、インターネット掲示板を捜査して、摘発した。未判明摘発者は数十人いると思われる。批判者にたいする粛清体質をそのまま堅持している」。
 
「批判者にたいする粛清体質をそのまま堅持」という部分には、やはり日本共産党は共産党だ、という奇妙な表現を使いたくなる。
 それにしても、宮地氏の経験・蓄積をふまえたデータ収集・提供と分析を、このように宮地氏の目的とは異なる目的で使用し、紹介するのは、多少は気が引けるところがある。だが、インターネット上に公開された情報であるかぎりは、どのような目的で利用・伝達されようとも、それを(技術的には勿論、法的・行政的にも)遮る・阻止することはできない、と理解しているのだが。

-0041/社会主義・マルクス主義(共産党等)からの離脱は正しい。

 昨日安倍晋三が自民党新総裁に決定。社民党の福島瑞穂が今までで「戦争に一番近い人」とかコメントしていた。それ自体厳密な議論が必要な日本人の無条件の「戦争」嫌い=絶対的「平和」選好の傾向を利用して、9条の会と同様に「戦争」という言葉を使って国民を脅迫しているわけだ。
 安倍を100%支持はしないが、相対的にマシな人だろう。人物も政党もいずれが・誰が「相対的にマシ」かで判断する他はなく、「小沢一郎の」民主党よりは安倍の自民党がまだマシに思える。小沢氏には「党派性」にからむ選挙戦略だけでなく、広く国益・公益を思慮していただきたい。
 何げなく有田芳生のサイトをまた見ていたら、0919付に日本共産党の上田耕一郎の対談本を買おうとして結局やめた、という超「個人的」話があった。
 有田は共産党系雑誌・経済の編集者として上田・小田実の対談を企画して「政治的に厳しく追及された」と書いている。彼は当時は党員だったかと思える。それにしても、小柴昌俊は別として対談相手3人のうち2人が小田と鶴見俊輔ではとても(買うのは勿論)見る気になれない。
 昨日言及した本の中で林道義は「私が犯した最大の間違いは、旧ソ連・中国などの社会主義国を本当に理想を追求している国だと思い込んだことである。…20歳前後…に気づくことができた。社会主義と言われる国々は、人間性を否定する最悪の独裁国だと気づいた」と率直に書いている。
 戦後70年代くらいまでにかかる幻想をもった(思い込んだ)人々は悪びれることなく正々堂々と誤っていたことを認めるべきだし、そのことこそ讃えられるべきだ。日本には「変節」という言葉もあって、いったん社会主義・マルクス主義にシンパシ-を持った(又は共産党・社会党に接近した)人がそれらから離れることについて本人が自らを精神的に苛むことがありうる。疑問をもちつつ社会主義・マルクス主義(共産党・社民党)から離れられない人こそ、勇気・正義感がないのだと悟るべきだ。社会主義・マルクス主義は「宗教的」だから、離脱に何らかの苦痛・葛藤が伴うことはありうるが多少はやむをえない。
 勝谷誠彦の小説よりも小池真理子の「望みは何かと訊かれたら」に魅かれてサンデー毎日でなく週刊新潮を4週連続で買った。もともと最も読みがいのある週刊誌だが、この小説は70年代前半の非代々木系(反共産党系)「学生運動」を、やや遅い1952年生れの作家にしては本当らしく描写している。

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  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
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  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
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  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
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  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
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  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
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  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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