リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。つぎの章に進む。
 第12章・一党国家の建設。
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 第2節・レーニンとトロツキーがソヴェト中央執行委員会に対する責任を免れる①。
 (1)ボルシェヴィキが決して疑わなかったのは、党はソヴィエト政府を駆動させるエンジンでなければならない、ということだった。
 レーニンが1921年の第10回党大会で「我が党は政権政党であり、党大会が採択した決定は共和国全体にとっての義務となる」と述べたとき(7)、その内容はたんに自明のことにすぎなかった。
 スターリンが数年後にこう述べたとき、党の国制上の優越性をさらに明確に示していた。「わが国では、党による指示なくしては、我々のソヴェトも大衆組織も、重要な政治上および組織上の問題を何一つ決定することができない」。(8)
 (2)だがなお、承認された公然たる権威を持ったにもかかわらず、ボルシェヴィキ党は1917年以降、かつてそうだったもの-すなわち私的団体-のままだった。
 1918年のソヴィエト憲法も1924年のそれも、党には何ら言及しなかった。
 党が国制上の文書で最初に言及されたのは、1936年のいわゆるスターリン憲法でだった。その126条は党をこう定義した。「社会主義秩序の強化および発展を目ざす労働者の闘争の前衛」、「統治上および社会上の、労働者の全組織の指導的中核」。
 法制定に際して最も重要なことに言及しないのは、多くはロシアの伝統だった。ツァーリ絶対主義はその最初でむしろ偶然的な定義をピョートル大帝の「軍事法令」のうちに見出したのだったが、それはこの国の中心的な政治的現実となったあと二世紀のちのことで、基本的な社会的現実である隷従制は、法的な承認を受けることがなかった。
 1936年まで、党は自らのことを、手本を示して鼓舞することで国を指導する超越的な力だと考えていた。
 かくして、1919年に採択された党綱領は、党の役割はプロレタリアートを「組織」し「指導」して、階級闘争の性格をプロレタリアートに「説明」することにあると定義した。その際に、党は他の全てと同じく「プロレタリアート」も支配するということは一度なりとも示唆しなかった。
 ソヴィエト・ロシアについてもっぱらその当時の公式文書で得る知識から理解する人々はみな、国の日常生活に対する党の関与について少しも知らないだろう。それこそが、ソヴィエト同盟を世界の他国の全てと分かつのだけれども。(*)
 (3)こうして、権力掌握後もボルシェヴィキ党は私的な性格を維持し、そのことによっても、やがて国家と社会の完全な支配者になった。
 結果として、党の規約、手続、決定および党員たちは、外部からの監督に服さなかった。
 カーメネフが1920年に行った言明によると、圧倒的に非ボルシェヴィキの人々から成る(9)ロシアを「統治」した60万ないし70万の党員たちは、政党ではなくむしろ軍団(cohort)に類似していた。(+)
 党による統制から他の全てが免れることはできなかった一方で、党もまた自分に対する統制を承認しなかった。党は自ら自己を抑制しかつ自己に責任を負ったのだ。
 このことは、共産主義理論家たちがかつて満足には説明することのできなかった異様な状況を生み出した。
 というのは、ルソーが、「全員の意思」といくぶんかは異なる、各人全ての意思を表現するために言った「一般意思」のごとき形而上学的観念を参照することでのみ、それは可能だろうからだ。
 (4)党の役割は、ボルシェヴィキがロシアを征圧しその代理人を国家諸装置の責任者として配置した3年の間に、急激に大きくなった。
 1917年2月、ボルシェヴィキ党には2万3600人の党員がおり、1919年には25万人、1921年3月には73万人(候補も含む)になった。(10)
 新加入者のほとんどは、ボルシェヴィキが内戦に勝利しそうに見えたときに、ロシアで国家業務に伝統的に結びついている利益を求める資格を得るために、入党した。
 急激に膨張したこの数年間の間、党員は最低限度の住宅、食糧および燃料が保障された。よほど悪辣な犯罪行為を行った場合のほとんどを除いて、政治警察による拘束から免れたことは言うまでもない。
 党員だけは、武器を携帯することが許された。
 レーニンは、もちろん、新加入者のほとんどは出世主義者で、彼らの収賄、窃盗、および民衆に対する苛めは党の評価に有害となるものではない、と分かっていた。
 しかし、全ての権威を獲得しようとしていたので、適切な社会的資格があり、命令を疑問視も躊躇もしないで忠実に履行する気持ちがある者ならば、誰でも入党させる以外に選びようがなかった。
 レーニンは同時に、党と政府の重要な地位を、地下活動時代の老練党員である「古い軍団」のために空けておくことを確実にした。
 1930年には、諸共和国の中央委員会の書記局や地方の(oblast' やKrai の)委員会の69パーセントが、革命以前からの党員だった。(11)
 (5)1919年半ばまで、ボルシェヴィキ党は地下活動時代の非定型的構造を維持した。
 しかし、党員数が増加するにつれて、非民主主義的な実務が制度化された。
 中央委員会は党の権限の中核のままだったが、その委員たちは特別の任務を帯びて急いで全国を周っていたために、実際には、通常はたまたま存在した数人の委員たちによって決定がなされた。
 暗殺を怖れてほとんど旅行しなかったレーニンは、ずっと議長を務めた。
 レーニンは、国家の独裁者として実力による強制やテロルを重んじたけれども、軍団の内部では説得することを選んだ。
 意見か合わないことを理由に党外に排除するということは、決してしなかった。
 いくつかの重要な問題について多数の賛成を獲得することができないときには、彼は辞任すると言って脅かして、自分の意見を通した。
 一度か二度、屈辱的な敗北を喫しそうになったが、その際に彼を救ったのは、ただトロツキーの介入だった。
 数回は、賛成ではない政策を黙認しなければならなかった。
 しかしながら、1918年の末までには、誰もレーニンに反対しない状態にまで、彼の権威は増大した。
 過去にしばしばレーニンと論争したカーメネフは、1918年秋にスハノフ(Sukhanov)にこう語ったとき、多数のボルシェヴィキ党員に対して述べていた。
 「レーニンは決して誤りを冒さないと、ますます確信するに至った。
 最後には、彼はつねに正しい。
 見通しや政治方針について、彼は過ったと思ったときが何度あっただろうか。-しかし、つねに、最後には、彼の見通しや方針は正しかったことが判った。」(12)
 (6)レーニンは、その最も親密な仲間たちの間ですら、論議することにほとんど寛容さがなかった。
 典型的には内閣の会議で、彼は文書束を捲り、議論に再び加わって政策を決定したものだ。
 1917年10月から1919年春まで、彼は不可欠の助け手であるI・スヴェルドロフ(Iakov Sverdlov)と協力して、政府はもとより党に関する、多数の決定を下した。
 文書整理箱のような頭をもつスヴェルドロフは、名前、事実その他の必要な情報をレーニンに与えることができた。
 スヴェルドロフが病気になって1919年3月に死んだ後、中央委員会は再構成されなければならなかった。このときに、政策を指導するために政治局、組織運営(adminirtration)を担当する組織局、そして党員の世話をする(manage)書記局が、それぞれ設置された。
 (7)内閣またはソヴナルコムは、二重の権能を行使する党の高官たちで構成された。
 党中央委員会を指揮するレーニンはソヴナルコムの議長でもあり、これは首相(Prime Minister)と同じことだった。
 原則として、重要な決定はまず初めに中央委員会または政治局で行われ、その後で、討議と補足のために内閣の議案とされた。その閣議には、非ボルシェヴィキの専門家も、しばしば出席した。
 (8)もちろん1億人以上の住民がいる国では、もっぱら党員層だけに依拠して、国内の社会的、経済的、政治的秩序を「粉砕」するのは不可能だった。
 「大衆」を統御(harness)する必要があった。しかし、多数の労働者と農民は社会主義やプロレタリアート独裁に関して何も知らなかったために、彼ら多数の最も狭い意味での利害に訴えて、行動するよう彼らを刺激しなければならなかった。
 ペトロニウスの<サテュリコン>、古代ローマの日常生活を描いたあの独特の小説だが、その中には、ボルシェヴィキが権力掌握をした最初の頃に追求した、その政策にきわめて関係が深い文章がある。
 「詐欺師、あるいは掏摸は、群衆の中の犠牲者を引っ掛けるために、音が鳴る鞄を入れた小さな箱を路上に落とさずに、どうやって生き抜けるだろうか?
 物言わぬ動物は、食い物の罠で捕らえられる。人間は、何かにかじり付くということがなければ、捕らえることができない。」
 これは、レーニンが本能的に理解していた原理だった。
 権力を握ったレーニンは、「<Grabi nagrablennoe>」(「略奪し尽くせ」)というスローガンのもとで、ロシア全体の富を全住民に譲り渡した。
 人民が「かじり付く」のに忙しくしている間に、彼は、政治的対抗者を処分した。
 (9)ロシア語には、<duvan>という言葉がある。これはコサック方言を経由したトルコ語から借用したものだ。
 この言葉は、強奪品が分配された物を意味している。南ロシアのコサック団がトルコ人やペルシャ人の居留地を襲った後で用いた分配物のような物のことだ。
 1917-18年の秋から冬にかけて、ロシアの全てはこの<duvan>の対象になった。
 主な生活必需品は農業用土地に分配されるものとされ、10月26日の土地布令は、共同体の農民にそれを与えた。
 各共同体がそれぞれに設定した規準によると、各世帯へのこの配分によって、1918年の春に入るまで農民たちは充分に生活することができた。
 農民たちはこの期間に、かつてそうだったほどには、政治への関心を持たなくなった。//
 (10)同様の過程は、工業や軍隊でも生じた。
 ボルシェヴィキは最初は、工業施設の運営を工場委員会に委ねた。この委員会の労働者や下層事務員たちは、サンディカリガムの影響を受けていた。
 工場委員会は所有者や管理者を排除して、経営権を奪い取った。
 だが、委員会は、工業施設の資産を横領する機会を利用して、原料や装備はむろんのこと、利潤もまた自分たちで分け合った。
 当時の論者によると、「労働者管理」は実際には、「与えられた工業企業の収益を労働者に分配すること」に堕していた。(13)
 戦線の兵士たちは、故郷に向かう前に、兵器庫や倉庫を破って入って、運べるものは何でも奪い去った。残りは、地方の民間人に売りさばいた。
 あるボルシェヴィキの新聞は、このような軍隊<duvan>について報道した。
 その新聞の報告者によると、ペトログラード・ソヴェトの兵士部門の1918年2月1日(新暦)の議論は、多数の単位の兵団が連隊の兵站部の貯蔵物を要求したことを明らかにしていた。彼ら兵士たちが、このようにして獲得した軍服や武器を故郷に持ち帰るこは、一般的だったのだ。//
 (11)国有または国家の財産という観念は、私的財産という観念とともにかくして消え去った。そして、それは、新しい政府の激励でもって行われた。
 レーニンはまるで、エメリヤン・プガチョフ(Emelian Pugachev)のもとでの1770年代の農民反乱の歴史を勉強していたかのようだった。このときプガチョフは、農民層のアナキズム的および反所有者層的な本能に訴えかけて、東部ロシアの莫大な地域を占拠した。
 プガチョフは、地主たちを皆殺しにして、帝室の土地を含めて地主の土地を奪い取るよう、熱心に説いた。
 彼は農民たちに、税をもう課さず、徴兵もしないと約束し、所有者たちから奪った金銭や収穫物を農民に分配した。
 さらに彼は、政府を廃止してコサック「自由団」に置き換えることを誓約した。-これはつまりは、アナーキー〔無政府状態〕だ。
 プガチョフがカテリーヌの軍に殲滅されていなければ、彼はロシア国家を打倒していたかもしれない。
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 (8)I・スターリン, Voprosy Leninizm, nth ed. (Moscow, 1952), p.126.
 (*)この仕組みは、外国人には驚くほどに成功した。
 1920年代、共産主義ロシアは、外国にいる社会主義者やリベラルたちには、新しい「ソヴェト」タイプの民主主義政府だと受け止められた。
 初期の訪問者の説明文は、ほとんど共産党とその支配的役割に言及していなかった。それだけ効果的に、共産党は隠されていたのだ。
 (9)Deviatyui S"ezd RKP(b): Protokoly(Moscow, 1960), p.307.
 (+)国家社会主義党をボルシェヴィキやファシスト党のモデルに倣って作ったヒトラーは、ヘルマン・ラウシュニンク(Hermann Rauschning)に、「『党』という言葉は、自分の組織については本当に間違った名称だ」と語った。
 ヒトラーは、その党は「一つの秩序(order)」だと呼ばれるのが好きだった。
 Rauschning, Hitler Speaks(London, 1939), p.198., p.243. 
 (10)Leonard Schapiro, The Communist Party of the Soviet Union(London, 1960), p.231; BSE, XI, p.531.
 (11)Merle Fainsod, How Russia Is Ruled(Cambridge, Mass., 1963), p.177.
 (12)Sukhanov, Zapiski, II, p.244.
 (13)B. Avilov in NZh, No.18/232(1918年1月25日/2月7日), p.1.
 (14)Krasnaia gazeta, No.7(1918年2月2日), p.4.
 (15)以下を見よ。Dokumentry stavki E. I. Pugacheva, povstanchevskikh vlastei i uchrezhdenii, p.1773-4(Moscow, 1975), p.48. および、R. V. Ovchinnikov, Manifesty i ukazy E. I. Pugacheva(Moscow, 1980), p.122-p.132.
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 ②へとつづく。