第15章の試訳のつづき。下線は試訳者。
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第7節。
(01) 言うまでもなく、ワーグナーは〈悲劇の誕生〉に喜んだ。
ある意味ではそれは、ワーグナー自身の1850年代の理論的著作を遡ってたどったものだった。
当時の標準からすると、ワーグナーとニーチェのいずれも、非正統派であり、アカデミズムの標準を軽侮していた。
ニーチェは、脚注をいっさい付けなかった。
ワーグナーが把握できなかったのは、かくも立派に執筆することのできる者が、家族用のクリスマスの買い物をする子分または追従者にとどまることに満足していなかっただろう、ということだった。
実際に、ワーグナーとの破局の理由の一部は、青年がその知的成熟期に入ったということでもあった。
〈悲劇の誕生〉の後でさらに、もう一冊の書物をワーグナーに捧げなかったという理由でワーグナーから批判を受けるようなことになるとは、ほとんど誰も予見できなかった。
(02) しかしながら、ワーグナーとの決裂には、もっと根本的な別の理由があった。
第一は、ワーグナーは、新しいドイツの中産階層エリートたちにもてはやされるにつれて彼自身の芸術的かつ文化的目標を裏切った、ということだった。
ニーチェはまた、バイロイトでの〈The Ring of Niebelung(ニーベルングの指輪)〉の初演に深く動揺した。なぜなら、彼が期待したのはドイツ・ナショナリズムの賞賛にほとんど似たもの以上に、ヨーロッパでの悲劇の再生の瞬間だったからだ。
その上演の年の1876年、彼は〈Richard Wagner at Bayreuth〉を出版していた。
これは、親ワーグナーの最後の著作になった。//
(03) 第二はワーグナーとの決裂の主な理由で、ニーチェがワーグナーの音楽や芸術の理論の多くを拒否するようになった、ということだ。
拒絶する理由の核心にあったのは、病的なキリスト教や公然たる人種主義を伴ってのパルツィバル(Parsifal,アーサー王伝説)の登場だった。
このときまでに彼は、初期のショーペンハウアー支持者からヴォルテール(Voltaire)や啓蒙思想の価値の支持者へと変わった。
彼はまた、音楽の好みを変え始めて、ビゼー(Bizet)の〈カルメン〉が好きになった。その掻き立てる旋律の音楽はワーグナーに代わる救済になる、と感じた。
1888年に彼は、最も激しいワーグナー批判書を出版した。その年にワーグナー自身は死んだが、その寡婦はワーグナー崇拝者たち(cult)を作っていた。
〈ワーグナーへの論告〉でニーチェは、こう論述した。//
「ワーグナーの芸術は、病んでいる。
彼が舞台へと持ち込む問題は—全くのヒステリー患者の問題だが—、彼の感情の発作的痙攣、強すぎる感受性、より刺激的な香味を求める嗜好、原理として装っているが、英雄やヒロインを彼が選んでいるという不安定さ、だ。彼は英雄やヒロインを生理学的類型として見ている(病理学の回廊だ!)。
まとめるならば、これらは、疑う余地のない病気の状態だ。
〈Wagner est une névrose. 〉(ワーグナーは神経症患者だ。)」(注14)//
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第8節へとつづく。