秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ワーグナー

2499/R・パイプスの自伝(2003年)⑧。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部第三章の試訳のつづき。
 「ニーチェ」への言及がある。
 著者が16歳、1939年秋の「思春期」または「青春期」にニーチェの『権力への意思』を手にして読んでいたらしい(No.2486/自伝②参照)ことの背景も分かる。だが遅くとも1945年にはニーチェ哲学には「幻滅」していたようで、この著執筆時点では①ニーチェの一定の言葉は「無責任で煽動的な無駄話」(irresponsible & infllamatory prattle)だと明記し、②別の言葉(『道徳の系譜』内)は「ぞっとさせる」(appalls me)と明記している。また、それより前に③『ツァラストゥラ』のYiddish 語訳によりその作品の「尊大さ・仰々しさ」(pomposity
は消失した旨も書いている(今回の(*脚注)参照)。
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 第三章・知と美への萌芽 ②。
 (13) 私は、その言語〔音楽〕を学び直そうと決めた。
 ふつうは日曜の午前中に、音楽協会での演奏会に足繁く通うようになった。そこで、J ・ホフマン(Joseph Hoffman)やW・バックハウス(Wilhelm Backhaus)といったピアニストの秀れた単独演奏を聴いた。
 私は、ピアノの練習を始めた。
 1938年11月に、ある音楽家と親しくする個人教育に登録した。その人の名は、それにふさわしく、Joachim Mendelssohn だった。
 背の低い彼は私にとても親切に接して、私は作曲家になる運命にあると感じさせた。
 戦争が勃発したとき、私は副教本の準備をしていた。
 私はまた、ポーランドの指導的な伴奏者のピアノ・レッスンも受けていた。その人の名はRosenbaum だった、と思う。
 彼は嫉妬の言葉を出すくせがあり、私の演奏は全く柔らかくならなかった。
 父親は私の音楽への関心を励ましてくれ、オペラや私の最初の演奏会に連れて行った。私がワーグナーの管弦楽を称賛し始めたとき、その音楽は彼が理解できないままで衝撃を与えたにすぎなかったけれども。
 総じて父親には、私のかつての子ども時代の成長を理解するのが困難だった。そして、私が思春期に入るまでには、私を深く理解するのを諦めていた。//
 (14) 若い人たちは自分たち自身について全く現実主義的であり得る。かりに何かがあると、過剰な自己嫌悪の陥りがちでもある。
 私はすみやかに、音楽は好きだけれども、ピアノ弾きでも作曲でも、自分の才能は良くても平凡なものだと、気づいた。
 私は悔しい思いをもって、同じ世代の者たちが簡単にピアノ演奏を学び、しかもその演奏は上手であることを観察した。
 残念だが、音楽の神秘的な言語を理解できても、それを語ることは学べない、との結論に至った。
 戦争勃発まで個人指導を受けつづけたが、その頃までには、私は音楽家になる運命にはないと分かり、ワルシャワを去った後ではそれに関する努力を全くしなくなった。//
 (15) だが、私は美術に、代わりのものを見出した。デッサン、彫刻、絵画にではなく、美術史にだった。
 1937-38年の冬(このとき14歳だった)のいつかの午後に、私はワルシャワ公共図書館にいて、中世の美術に関する図付きのドイツの歴史書を捲っていた。そのとき、ビザンチン時代の繊細な伝統的絵画を過ぎて、Padua のArena 礼拝堂からの、Giotto の〈Descent from the Cross〉が目に留まった。
 この14世紀初頭のフレスコ画は、ヨーロッパ美術に新時代を築いた一連のイェスの生涯を描いた絵の一つで、Beethoven の交響曲第7番と同じく、私の心を動かした。
 空にいる小さな天使たちの泣き声でさらに強まる傍観者たちの悲しみは、私が実際にほとんど悲嘆の声を聴くことができるほどに、とても納得できるものだった。
 それは、圧倒的な美的経験だった。Kenneth Clark ならば、私の美術への熱情を掻き立てたものを、「Vision の瞬間」と称しただろう。 
 私はまじめに、視覚芸術の全ての分野—絵画、建築、彫刻—の歴史書を勉強し始め、ノートに写し取った。
 O・Keller の音楽史の半分をドイツ語から翻訳した。
 1938年の夏、西部ポーランドの私有地で過ごしていたとき、毎朝早く起床して、昔からの公園のテーブルに座り、ヨーロッパ美術史の手引書の数頁を読み通した。
 私にはその問題についての指導はなく、種々の流派の芸術家の名前、彼らの時代、主要作品に勉強は集中しており、歴史的および美学的な背景には及んでいなかった。
 この主題への関心は、音楽への志向が弱まったときにも続いた。そして、1940年の大学(college)に入ったとき、これに人生を捧げることを考えていた。
 この熱情が、我々がポーランドを脱出するときに、なぜ私がミュンヘンのピナコテークを訪れると強く主張したのかの理由だった。//
 (16) Beethoven、Giotto のつぎに、ニーチェがやって来た。
 私はこのドイツの哲学者を、全く偶然に1938年の秋に発見した。そのとき、私が図書館で借りようと思っていた本は貸し出されていて、その代わりに、名前だけは馴染みがあったが何も知らないこの人物についての、Henri Lichterberger の伝記本を借りた。
 家に帰り、本を開いて、私は釘付けになった。強いがぼんやりした自分の感情が、その文章の中に表現されているのを読んだからだ。
 私は、「ニーチェの哲学は厳格に個人主義的だ」と読んだ。
 彼は「きみの良心はきみに何と語るか?」と問う。「きみは、自分でそうありたいと思うものにならなければならない」。
 ニーチェは、こう続ける。
 「そして人はとりわけ、自分自身を、自分の本能を、能力を、完全に知らなければならない。
 そして人は、自分の生活規範を自分の個性にふさわしいように整序しなければならない。…。
 自分自身を見出す一般的で普遍的な規範など存在しない。…。
 誰もが、自分自身で、自分の真実と自分の道徳を創造すべきだ。
 ある人にとって何が善か悪か、何が有用か有害かは、他者にとってと同じである必要は全くない。」
 (17) こうした言葉は、自己の独自性を模索する思春期には、麻薬のごとく作用した。つまり、他の誰もが私に順応するよう告げるのに対して、ニーチェは、私に反抗せよと促す。
 今では、彼の助言は無責任で煽動的な無駄話だと思う。
 「自由な精神」のためのニーチェの道徳—「何も真実ではなく、全てが許される」—は、私をぞっとさせるものだ。(後注3)
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 (後注3) 「Nichts ist wahr, Alles ist erlaubt.」ニーチェ・道徳の系譜,Ⅲ-No.24.
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 これはヴィクトリア時代には賢い名文句(bon mot)のように聞こえるかもしれないが、20世紀には、大量虐殺のための根拠(rationale)を与えた。
 このような思想への幻滅は、第二次大戦とホロコーストの経験の結果だった。
 1945年8月の日記に、私はつぎのように書いた。
 「私にはつねに、自分が最もふつうではないと考える対象や思想に魅惑される傾向があった。
 もっと若くてもっと無邪気だったとき、この傾向によって、ニーチェの哲学の熱心な支持者になった。「善」、「共感」、「幸福」といったふつうの観念に対するニーチェの攻撃は、私に訴えた。なぜなら、私は(後者の諸観念は)支配的でかつ俗悪だと考えたからだ。
 私はそれ以降に、それらはこの世界できわめて稀にしか遭遇し得ないものだということを、学んできた。
 私はそれらを称賛して広く受容されている思考へと導く書物によって誤導された。—それらは、さらに加えて、とても論理的で、自明のことなのだ!
 今では、それらを見つけるのはきわめてむつかしいことだと、知っている。」(*脚注)
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 (*脚注) だが、ニーチェに対する疑念は、もっと早くに経験した。それは、友人のOlek が〈ツァラトゥストラはこう言った〉をYiddish〔ユダヤ人の言語の一つ〕 に翻訳したときで、たちまちにニーチェのこの作品は骨抜きにされていた。Yiddish は、全ての尊大さ・仰々しさ(pomposity)を消失させてしまう。
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 追記すれば、ニーチェは最初の知的影響を私に与えた。そして、私は私自身である資格をもつという考えは、ずっと私にとどまり続けている。
 (18) 私はHoly Cross 通りの古本屋を探し回った。そして、数ペニーで、Shopenhauer、Kant その他の哲学者のドイツ原語かポーランド語訳かの書物を買うことになる。
 私には哲学の素養がなかったので、読んだものをぼんやりとだけ理解した。
 だが、何かが残り、知りたいという情熱は消えることなく燃えつづけた。
 父親は、私の哲学への関心を必ずしも喜んでいなかった。
 あるとき、Kant の〈Prolegomena〉を私が読んでいるのを見て、父親は、心を「重たくする」、もっと実際的な物事を勉強すべきだ、と言った。//
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 第三章③へとつづく。

2484/Turner によるニーチェ ⑧。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 第15章の試訳のつづき。
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 第8節。
 (01) ニーチェは、ワーグナーと決別することで、ある意味ではロマン主義の継承物とも別れていた。彼の思想にはその要素の多くが維持されることになるけれども。
 彼は、より多く啓蒙思想と結びついた。
 しかし、ニーチェは、理性とその行使に対して批判する姿勢を明確に維持した。1870年代半ばまでにはワーグナー現象を批判したように。//
 (02) 1870年代半ばまでにニーチェは、後年の彼の著作の全てに影響を与えた結論に達していた。
 歴史上初めて、人間は最も過激な態様で、神なき世界に住むという事実に直面しなければならないだろう。
 これまでの文筆家は神の存在または非存在を否定し、疑問視し、あるいは公然と肯定を主張してきた。
 しかし、ニーチェは、哲学的思索の対象の一つとしてはこの疑問に接近しなかった。
 彼にとって、神なき世界という見通しは、人間の道徳史上の重大な転換点を意味した。
 人間は、高次のまたは超越した何物かとの関係をもたない価値を設定するのを余儀なくされるだろう、ということを意味した。//
 (03) 彼の見方と従来の科学的または理性的な自由思想家のそれとの違いは、年上のDavid Friedrich Strauss の書物に対するニーチェの批判に見ることができる。Strauss は、知識人たちの中にあるキリスト教信仰の解体に貢献していた。
 ニーチェは、こう書く。
 「彼は見事な率直さで、もうクリスチャンではないと公言する。だが、彼は、誰の心の平穏も乱そうとはしていない。
 一つの結社を壊すために一つの結社を設立するのは矛盾すると、彼は思っているのだろう。—これは実際にはさほどに矛盾してはいないのだが。
 確実に粗雑に満足して、彼は我々の猿の系統主義者の汚れた外套の中に身を隠し、ダーウィンを人類の最大の恩人だとして称賛する。
 しかし、彼の倫理が全体として、『何が世界についての我々の観念なのか』という疑問に依存することなく構成されていることが分かると、我々は混乱する。…/ 
 Strauss は、かつていかなる思想も人間をより善良で、より道徳的にし得ていない、ということすらまだ知らない。道徳を説くことはその根拠を見い出すのは困難であるのと同程度に易しい、ということも学んでいない。
 彼の課題の多くはむしろ、現実には存在する善良さ、思いやりの心、愛情、自己犠牲の精神を人間から取り去ることだった。そしてそれらをダーウィン主義者の仮説から導き、それで説明することだった。だが一方で、彼は命令(the imperative)に跳び込むことで〈説明〉という課題から逃げ出そうとしている。」(注15)//
 (04) Strauss の過ちは実際には、同時代のその他の著名な思想家全てのそれだった。
 どの思想家も安易に、キリスト教が存在しない中で、科学、人間性、リベラルな国家、あるいはナショナリズムのごとき他のものが、倫理の基盤を提供することができるだろう、と想定した。
 ニーチェは対照的に、安易な楽観主義のない自然主義(naturalism)を選んだ。
 ニーチェは、どの価値体系が支配すべきかを問題にしなかった。そうではなく、何が人間の社会的実在にある事実としての価値の根源なのか、を問うた。//
 (05) ニーチェの過激な道徳懐疑主義は、同様に過激な形而上学的懐疑主義に根ざしていた。
 言葉のかなり狭い定義をかりに用いるとすると、彼は適切にニヒリスト(nuhilist)だと見なされてよい。
 ニーチェの哲学的ニヒリズムは、世界には何らかの本源的な価値の何らかの形態がある、ということを否定するという形をとった。
 自然とその一部としての人間は、善や悪なくして、たんに存在している。
 世界(the universe)は、たんに、ある。
 それを超えては、またはその中には、いかなる高次の価値も存在しない。
 存在するという現象の中には、別の道徳を越える一組みの諸道徳を正当化するものはいっさい存在しない。
 彼がかつて、こう宣言したようにだ。
 「道徳的現象なるものは存在しない。現象の道徳的解釈だけがある。」(注16)//
 (06) ニーチェはこの哲学的立場によって、認識論の特定の様式へと至った。キリスト教に対する攻撃へと、当時のリベラルな政治の批判へと。
 そしてこれら全てが、彼の道徳に関する問題にかかわっていた。
 ニーチェが敢然と突きつけようとしたのは、世界の全体的に自然主義的な解釈の可能性と必要性だった。
 このことが含み得るものは、ある意味では、彼の三つの著作のタイトルに認めることができる。//
 1. 〈善悪の彼岸〉(1886)—世界と生への接近方法は、かつては道徳的または善または悪と考えられたものを超越したものでなければならない、と示唆する。
 2. 〈道徳の系譜〉(1887)—諸道徳は永遠に存在するのではなく、歴史と発展がある、と示唆する。
 3. 〈偶像の黄昏、あるいは金槌でいかに哲学するか〉(1888)—現存の偶像または哲学、道徳、宗教を、新しい出発のために破壊することの必要性を示唆する。//
 ——
 第9節へとつづく。

2483/Turner によるニーチェ ⑦。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 第15章の試訳のつづき。下線は試訳者。
 ——
 第7節。
 (01)  言うまでもなく、ワーグナーは〈悲劇の誕生〉に喜んだ。
 ある意味ではそれは、ワーグナー自身の1850年代の理論的著作を遡ってたどったものだった。
 当時の標準からすると、ワーグナーとニーチェのいずれも、非正統派であり、アカデミズムの標準を軽侮していた。
 ニーチェは、脚注をいっさい付けなかった。
 ワーグナーが把握できなかったのは、かくも立派に執筆することのできる者が、家族用のクリスマスの買い物をする子分または追従者にとどまることに満足していなかっただろう、ということだった。
 実際に、ワーグナーとの破局の理由の一部は、青年がその知的成熟期に入ったということでもあった。
 〈悲劇の誕生〉の後でさらに、もう一冊の書物をワーグナーに捧げなかったという理由でワーグナーから批判を受けるようなことになるとは、ほとんど誰も予見できなかった。
 (02)  しかしながら、ワーグナーとの決裂には、もっと根本的な別の理由があった。
 第一は、ワーグナーは、新しいドイツの中産階層エリートたちにもてはやされるにつれて彼自身の芸術的かつ文化的目標を裏切った、ということだった。
 ニーチェはまた、バイロイトでの〈The Ring of Niebelung(ニーベルングの指輪)〉の初演に深く動揺した。なぜなら、彼が期待したのはドイツ・ナショナリズムの賞賛にほとんど似たもの以上に、ヨーロッパでの悲劇の再生の瞬間だったからだ。
 その上演の年の1876年、彼は〈Richard Wagner at Bayreuth〉を出版していた。
 これは、親ワーグナーの最後の著作になった。//
 (03) 第二はワーグナーとの決裂の主な理由で、ニーチェがワーグナーの音楽や芸術の理論の多くを拒否するようになった、ということだ。
 拒絶する理由の核心にあったのは、病的なキリスト教や公然たる人種主義を伴ってのパルツィバル(Parsifal,アーサー王伝説)の登場だった。
 このときまでに彼は、初期のショーペンハウアー支持者からヴォルテール(Voltaire)や啓蒙思想の価値の支持者へと変わった。
 彼はまた、音楽の好みを変え始めて、ビゼー(Bizet)の〈カルメン〉が好きになった。その掻き立てる旋律の音楽はワーグナーに代わる救済になる、と感じた。
 1888年に彼は、最も激しいワーグナー批判書を出版した。その年にワーグナー自身は死んだが、その寡婦はワーグナー崇拝者たち(cult)を作っていた。
 〈ワーグナーへの論告〉でニーチェは、こう論述した。//
 「ワーグナーの芸術は、病んでいる。
 彼が舞台へと持ち込む問題は—全くのヒステリー患者の問題だが—、彼の感情の発作的痙攣、強すぎる感受性、より刺激的な香味を求める嗜好、原理として装っているが、英雄やヒロインを彼が選んでいるという不安定さ、だ。彼は英雄やヒロインを生理学的類型として見ている(病理学の回廊だ!)。
 まとめるならば、これらは、疑う余地のない病気の状態だ。
 〈Wagner est une névrose. 〉(ワーグナーは神経症患者だ。)」(注14)//
 ——
 第8節へとつづく。

2481/Turner によるニーチェ ⑥。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 第15章の試訳のつづき。第5節→No.2459/2021.12.23.
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 第6節。
 (01)  ニーチェには、全てを破壊するソクラテスの知性主義を説明する悪役がある。
 それは、ソクラテスの声または悪霊だ。
 本能はほとんどの人々にとって、創造性の根源であり、自分たちを掻き立てる力だ。
 意識それ自体は合理的で、かつ後方にある。
 しかし、ソクラテスの場合は、全く逆だ。
 ソクラテスの内部的自己は前方にあり、つねに議論をして、本能的自己を妨害している。
 「全ての生産的人々の場合、本能はまさに創造的で肯定的な力であり、意識は批判的かつ警告的に振舞う。しかし、それとは対照的にソクラテスの場合は、本能は批判者になり、意識が創造者になる。—これこそが、〈欠陥による〉(per defectum)本当の畸形だ!」(注7)
 (02)  ソクラテスの本能が彼の知性を克服するならいつでも、彼の内的で知性的な声は働きを止める。
 この点では、ソクラテスは、行動に向かえば内部的な本能によって止められる、巨大で創造的な機械だ。
 そして、彼が死を選んだことは、ギリシャの青年たちには英雄主義の模範ではなく、哲学上の生の新しい模範となった。
 それと同時に、本来の合理性と知性への自信において、彼は、悲劇を不可能にする楽観主義の一種を人格化した。//
 (03)  芸術家は対象または問題を覆い隠して愉快になるものだが、ニーチェがソクラテスに原因を求める「理論的人間」は、覆いを剥ぎ取って対象を説明することで愉快になる。
 ニーチェがつぎのように称するものを生み出したのは、この理論的な外貌だ。
 「ソクラテスという人物のうちに初めて出現した深遠な〈妄想〉(delusion)。すなわち、思考とは、因果律がつながる糸として、存在の最も深い淵へと辿りつき、実在をたんに認識するのみならず、それを是正することすらできるという、揺るぎなき確信。」(注8)//
 (04)  この点で、ソクラテスは、将来の全ての科学の父だった。
 死ぬことを世俗世界で受容できるものにしたのは、まさに彼だ。
 これに関して、ニーチェは、「我々は、ソクラテスのうちに世界史の一つの転換点を見ざるをえない」(注9)、と書いた。
 ソクラテスにとっては全ての邪悪は過ちであり、人間の仕事で最も高貴なのは、過ちから本当の知識を切り離すことだ。//
 (05)  精神(mind)を探究し是正することは、理解して是正する新しい言葉をつねに探すことになるだろう。しかしそれは究極的には、通過することのできない境界に出くわだろう。
 その境界が、悲劇が再び出現し、回答不能のことや非論理的なものが再び自己主張をする場所だ。
 この境界線に、偉大な神、Dionysus が再び現れるだろう。//
 (06)  私はこう言いたいのではない。ニーチェがソクラテスについて言ったことの多くは、George Grote の全く単調な分析に実際に直接的に由来している、と。
 本当にニーチェがしているのは、合理性と科学の声というGrote の見解のほとんどを受容しつつ、さらに、裁きの法廷に合理性と科学を持ち込む人物像を作るために用いる、ということだ。
 Grote は、改革に導くものとして、合理性を称賛した。
 ニーチェは、生がもつ本能を抑制するものとして、合理性を嫌悪した。
 また、イギリスの功利主義も嫌悪し、Grote のソクラテスを攻撃することで、近代功利主義、近代科学、およびJ. S. Mill が支持した近代の批判的個人主義を攻撃した。
 (07)  ニーチェは誰を、合理的ソクラテス、古代の悲劇を破壊した古代の理論家に、対峙させたのか?
 ソクラテス、科学、批判的合理主義を融解させる力についての解答は、R・ワーグナーとその音楽だった。
 ニーチェはショーペンハウワーの美学を論じて、音楽は悲劇についての古代のDionysus 的世界の基礎的な鍵だったこと、音楽は新しい象徴主義が出現するのを認めたことを、強調した。
 最も重要なことは、音楽が悲劇的神話を誕生させることができた、ということだ。「この(音楽の)精神のみが、悲劇を誕生させることができる」(注10)//
 (08)  音楽は、個人主義を消滅させる愉しみを生み出すことができた。
 しかしながら、ニーチェによると、ほとんどの現代音楽ではこの目標が達成されていない。
 とくに、大歌劇は、この点で失敗した。
 ニーチェはさらに進んで、こう宣言した。
 「我々は、このソクラテス文化の内奥にある近代的内容を〈オペラ文化〉と称するならば、最もよく表現することができる」。(注11)
 これはもちろん、オペラと音楽に関するワーグナーの理論を直接に参照したものだった。
 ニーチェは、しかし、Dionysus 的経験の深さをドイツとヨーロッパで再び取り戻すことができるという希望を見た。そして、こう宣言した。
 「ドイツ精神のDionysus 的根底から、一つの力が蘇った。この力はソクラテス的文化の根本的制約とは何の共通性もない。
 むしろそのソクラテス的文化はその力を、恐ろしくて説明不可能で、威圧的で敵対的なものだ、と感じさせる。その力とは、すなわち〈ドイツ音楽〉だ。
 この音楽の、Bach からBeethoven 、Beethoven からワーグナーへと経てきた力強くて輝かしい過程を知る。」(注12)
 (09) ワーグナーの音楽によって、Dionysus 的明察の深さが再びApollon 的様式と結びつき、新しい美と道徳の時代が始まろうとしていた。
 「そのとおり。友人たちよ、私のようにDionysus 的な生と悲劇の再生を信じよ。
 ソクラテス的人間の時代は終わった。
 ツタの冠を頭に乗せ、テュルソス〔酒神バッカスの杖〕を手に取れ。
 虎やヒョウがきみたちの膝の周りでじゃれてまとわりつきながら、下に横たわっていても、驚くな。
 今こそ勇気を持って悲劇的人間にならなければならない。
 なぜなら、きみたちは解放されて救済されるだろうからだ。」(注13)
 ——
 第6節、終わり。

2466/西尾幹二批判042—ニーチェ「研究」。

 一 西尾幹二全集第4巻・ニーチェ(国書刊行会、2012)を一瞥して驚くのは、これがニーチェの「思想」を直接に対象にしたものではなく、いわば詳細な「評伝」にすぎない、ということではない。
 そうではなく、その「評伝」も、『悲劇の誕生』の成立の頃までで、「未完の作品」(p.763)だ、ということだ。R・ワーグナーとの決別とワーグナー批判も出てこない。
 西尾はせめて『ツァラトゥストラ』の直前までは進めたく、準備をしていたが、果たせなかった、と書く。そうだとすると、『善悪の彼岸』、『道徳の系譜』、『偶像の黄昏』、『反キリスト』は視野に入っておらず、読解不可欠の作品ともされる『力(権力)への意志』に関する「評伝」的研究も、全くされていないことになる。
 なお、この巻の書以前の最初の紀要論文(静岡大学)は第2巻に収載されており、第5巻・光と断崖—最晩年のニーチェ(2011)では表題に即した文章も収められて「権力への意志」を表題の一部とするものもある。しかし、後者でも、「権力への意志」とは何を意味するか等々の内容には全く触れていない。
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  西尾幹二がニーチェの専門家ではなく、ニーチェ全体の研究者でもないことは、以上のことからも明らかだ。
 また、一部の著作を対象にしてすら、ニーチェの「思想」または「哲学」そのものを研究した者でもなかった。
 西尾は自分を肯定的に評価する文章を全集内に残しておくことが好みのようで、上の第4巻の「後記」には同巻所収の書(1977年、42歳の年)を対象とする論文博士の学位授与(東京大学)にかかる審査報告の要旨(1978年)を、他人の文章ながらそのまま掲載している(p.770-。末尾のp.778にも、1977年著のオビの斎藤忍随による推薦の言葉をそのまま掲載している)。
 興味深いのは記載されている審査員だった5名の教員の構成で、独文学科3名(うち一人は、東京大学に残った、西尾と同学年だった柴田翔)、仏文学科1名、哲学科から1名だ。
 これからも明瞭であるように、西尾のニーチェの一部に関する(未完の)書物は、「文学」であり、少しは関連していても、「哲学」研究書ではない。
 また、西尾には『悲劇の誕生』以外にもニーチェの作品の翻訳書がかなりあるが(第5巻参照)、「翻訳」することとニーチェの「思想」を「研究」することとは大きく異なる。
 むしろ、ニーチェの「文学」的研究や「翻訳」に相当に没頭していた人物が(例えば、『悲劇の誕生』翻訳は1966年(31歳)、『この人を見よ』翻訳は1990年(55歳))が何故、いかにして日本史、天皇・皇室、日本の政治、そして国際情勢にまで「口を出す」評論家または<物書き>になっていったのか、に関心が持たれる。アカデミズムからの離反(退走?)でもあるのだが、この点は、別にも触れる。
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  西尾幹二はニーチェ『悲劇の誕生』はのちにまで自分の考え方に影響を与えた旨書いている(全集のいずれかの巻の後記のどこか。よくあることだがその箇所を失念した)。
 下記の対談書で長谷川三千子は、西尾・国民の歴史(1999)の最後は「ニヒリズムで終わっている」という批判があったとして、それを「的はずれ」だとする。
 的確でないのはそのとおりだろうが、そもそもニヒリズムなる高尚な?考えを西尾が示すはずがない。
 「人間の悲劇の前で立ち尽くしている」との自覚をもって本書を閉じるのは遺憾だ。
 この最後の文は、要するに、「悲劇」という語句を西尾が使いたかった、というだけのことだろう。
 ニーチェ『悲劇の誕生』成立までの評伝を最初の書物として42歳の年に刊行した西尾にとって、「悲劇」は20歳代、30歳代を通じて最も目にし、原稿用紙に書いた言葉だったかもしれない。
 そしてまた、<悲劇の前で立ち尽くす>ということの意味を理解してもらおうという意思など全くなく、「文学」的に?、何やら余韻を残して終わっているだけのことなのだ。
 なお、『悲劇の誕生』は、ギリシャ悲劇の消失を嘆き、ワーグナーがその楽曲と歌劇でもってそれを再生(再誕生)させたとしてワーグナーを賛美した著作だ。
 この書の影響は国民の歴史(1999)刊行の翌年にもまだあるようで、同著にはニーチェの名は出ていないはずだが、つぎの本の一部で、ギリシャに関しては、ニーチェにいわせれば」として、長々と1頁余を使って紹介する発言をしている。
 西尾=長谷川・あなたも今日から日本人—『国民の歴史』をめぐって(致知出版社、2000年7月)、90-91頁。
 この部分は、明言はないが、『悲劇の誕生』の一部を要約したものだろう。
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  西尾幹二がどれほどニーチェを読み、理解しているかを疑わせる、ニーチェ関連のこの人の文章は数多いと推察される。但し、この人は、唐突に「ニーチェは神は死んだと言いましたが」と、日本に関する文章の中で挿入する大胆さと勇気だけは、持っているようだ。この点はこの欄ですでに触れた。
 ニーチェは初期にはワーグナーを称賛していて、「年下の友人」のつもりでいたが、のちには決裂し、批判すらするようになる。
 まだこの欄に掲載していないが、F. M. Turner の書物ではワーグナーとのbreak やsplit という単語が使われている。
 このワーグナーとの分裂を、西尾はまさか知らないことはないだろう。
 しかし、小林よしのりによると、彼の『戦争論』〔1〕に関する「つくる会」のシンポジウムはこうだった、という(2002年の小林の離会=脱退より前)。
 新宿・厚生年金会館での「つくる会」シンポジウムは2000人超が詰めかける「熱気」となった。「しかも調子に乗りすぎた西尾幹二が、オープニングのBGMに…ワーグナーの『ワルキューレの騎行』をかけたものだから、異様な雰囲気である」。
 西尾幹二は最近にも、ニーチェは自分にとって特別の意味を持つと明記している。ニーチェとワーグナーの関係くらいは知っているはずの人物が、上のようなことをしたというのは、不思議なことだ。
 小林よしのり・ゴーマニズム戦歴(ベスト新書、2016)、p.220。「西尾幹二」の名はないが、同、p.270 でも触れている。
 ——

2453/Turner によるNietzsche ①。

 日本語でのニーチェに関する文献は邦訳書も含めて少なくないが、いろいろなニーチェ論、ニーチェ解説を知っておこう、という趣旨で、以下の英語著の最後の章(第15章)のニーチェに関する部分を試訳してみる。
 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 区切りの見出しも数字もないが、一行空白の箇所がいくつかあるので、それによって便宜的に「節」の区切りとみなし、連番数字をつけた。
 一文ごとに改行し、段落の冒頭に(01)等の番号を付した。
 ——
 第15章・ニーチェ。
 第1節
 (01) ブルジョアジーは、19世紀半ばから後半のヨーロッパの知的、文芸的、芸術的文化を支配した。
 ドイツの統一の頃までに、永続すると考えられた世界を構築していた。
 鉄道は大陸に網を張り、人々は電信ケーブルを使って大陸間で通信した。新たに設計された都市が田園風景の中に点在し、大きな蒸気船が、ヨーロッパで製造された商品を世界中に運んだ。
 (02) 国民国家が、政治生活を支配した。
 科学は自然の大きな秘密を解明し、自然を人類の財産の協力者にしたように見えた。
 実際に、ヨーロッパ人は、T・H・ハクスリーが「事実の上にある科学が生んだ新しい自然」と呼んだものの中で生活していた。
 (03)  だが、このような生活様式の表面的快適さは、幻想だった。
 ヨーロッパじゅうのブルジョアジーは不安をもち、怖れすらしていた。
 Peter Gay がかつて指摘したように、「神経質病」が人々の挙措の一般的な病気と兆候として現れ始めた。
 中間階層は、社会主義者を恐れた。
 彼らはまた、貴族政体の健全な側面を維持した。 
 自分たちの国民国家の内外に、人種的な敵を探し求めた。
 中間階層の快適さを生んでいた同じ産業革命が、軍隊のための新しい破壊力をも生んでいた。
 中間階層の重要な与件だったキリスト教は、科学と歴史研究の包囲攻撃を受けていた。
 リベラルな政治家たちは、想定されたようには全く働いていなかった。
 有権者数の膨張は、社会主義者を助けたのみならず、政治的国民の保守的勢力の利益となったように見えた。
 教会、貴族層、のちには反ユダヤ主義者は、民主政体の諸制度を彼らの目的のために用いることができた。
 (04)  しかし、少なくとも後から振り返れば、おそらく最も当惑させるもので、最も印象的だったのは、世紀の後半に顕著になった、ブルジョア世界に対する知識人の批判だった。
 とくに重要なのは、半世紀前にJ・シュンペーターが指摘したように、この批判の多くがブルジョア文化それ自体から発生した、ということだ。
 西側文明は、自己批判を好む傾向をつねに示した。そして、その文化の内部では、中間階層ほどにその傾向を示した集団は存在しなかった。
 (05)  例えば、科学の方法を文学に適用せよとしばしば要求されたリアリズム小説の作家たちは、中間階層の文化を批評するために、科学に対するブルジョアの信仰を用いた。
 さらに加えて、この批判の媒介手段—文学分野では小説—は、全ての人文形態の中で、おそらく最もブルジョア的だった。
 伝統的な制度を拒むリベラルなブルジョアジーの志向は、サロンの伝統的権威を拒む芸術家たちとよく似ていたことだろう。また、そうした志向は、彼ら自身が選ぶ芸術展示会や画廊を始めることになった。—これはしばしば、裕福な中間階層を称賛し財政支援をすることとなった。
 (06)  自分たち自身に向けたブルジョアジーの文化の最も顕著な例は、世紀の後半での理性(reason)の利用であり、これは、合理的なもの(the rational)を疑うか、非合理的なものを探すかのいずれかだった。
 これらは、二つの全く異なる傾向だった。
 前者は非合理的のものの賞賛へと至るもので、おそらくは人種的思考に見ることができる。
 後者は、もっとはるかに複雑だった。
 合理的方法を用いて非合理的なものを探すことは、非合理的なものの賞賛に至るかもしれないが、至らないかもしれない。
 たんに合理的でないものの重要性を認識し、合理的なものの範囲内でそれを維持する試みに、つながり得るだろう。
 あるいは、非合理的なものの発見と合理的なものとのその併存の許容へと至り得るだろう。
 あるいは、ある場合には、合理性それ自体がほとんど無用だという考えに至り得るだろう。
 これらのいずれも、ブルジョア文化に、より特定して言えば啓蒙思想(the Enlightenment)に、挑戦するものだ。
 (07)  実証主義に対するこの反抗を主張した最も重要な人物であり、ブルジョア文化に対する過激な批判者だと考えられるに至ったのは、F・ニーチェ(Friedrich Nietzsche)だ。
 今日では、この点でニーチェほどの広汎な声価(reputation)を得ている哲学者はほとんどいない。
 このような意味で、モダニズムの主唱者や中間階層文化を批判した他の者たちと同様に、ニーチェもまた、この文化に捉われており、取り込まれている。
 (08)  ニーチェの今日での声価が得られるまでには、かなりの困難さがあった。
 彼が生きていた間、その書物は著名ではなく、広く受容されたのでもなかった。
 ニーチェが出版社を見つけるのは、しばしば困難だった。
 出版社があっても今度は、彼の本を売るという困難さがあった。
 彼の声価が高まったのは、ようやく1880年代遅くに、デンマークの評論家のGeorge Brandes がニーチェの著作を論じ始めてからだった。
 そうして、ニーチェは、多様な諸国の当時の他の文筆家に評価され始めた。
 しかし、初期のこの声価と敬意は、欠陥のある、間違って編集された、半ば捏造された(quasi-forged)彼の著作にもとづいていた。その出版物は、ニーチェの実際の思想とはまさに正反対の鋳型へとその思想の多くを入れ込んだものだった。
 (09)  Brandes は1888年にコペンハーゲンで、ニーチェについて講演した。
 その翌年早くに、ニーチェは精神障害(insanity)の時期に入った。それは1900年の彼の死まで続くことになる。
 1880年代の彼の著作に関する代理人かつ執行者は、妹の Elizabeth Förster-Nietzsche だった。
 彼女はBernard Förster の妻で、この夫は、ドイツの最も過激な人種主義者かつ反ユダヤ主義者の一人だった。
 1880年代にその夫は死亡し、兄は狂人(mad)となった。そして彼女は、夫の考え方と政策を支持して促進すべく、兄の諸著作の編集をし始めた。 
 Förster-Nietzsche 夫人は、彼女の兄の著作物に対して排他的権利を持った。そして、出版したいと思うものだけを出版した。
 (彼女は、1930年代まで生きた。)
 彼女は、完全では決してないニーチェの選集のいくつかの版を出版した。
 (10)  彼女はとくに、1908年まで、〈この人を見よ(Ecce Homo)〉の出版を遅らせた。
 これはニーチェの最後の著作の一つで、反ユダヤ主義、ナショナリズム、人種主義、菜食主義、軍国主義、および権勢政治に対する批判を述べていた。
 そして彼女は、この書物をきわめて高価にして出版した。
 それより前に出版した諸著作は、兄にとってきわめて悪意のある声価を確立する鍵になっていた。
 ニーチェの文章の中には、数百頁になる断章やアフォリズムがあった。
 彼女は、これらの一部を1901年に、その他の多くをのちに〈権力への意思(The Will to Power)〉という挑発的な表題を付けて、出版した。
 これらは、初期の諸著作のための覚え書だった。
 彼女はこれらをでたらめにつなぎ合わせ、兄の最後の体系的な作品で構成されていると示唆した。
 このような編集の操作によって、ニーチェは絶望的に理解し難く、曖昧で、非体系的で、反ユダヤ主義で、猛烈に民族主義的で、かつ親ナツィだ、という考えが広がるに至った。
 ドイツの学界にいくぶんか歪曲の少ないニーチェの見解が現れたのは、ようやく第一次大戦の後だった。また、アメリカの学者たちが系統的にニーチェを検証して教育し始めたのは、まさにようやく、第二次大戦の後だった。
 (11)  ニーチェの思想は、少なくとも二つの発展段階を通っていた。
 第一の時期には、逆のことへの多数の異論があったにもかかわらず、ニーチェは、ロマンチシズムの伝統と緊密に歩調を合わせ、非合理的なものをしばしば称賛しているように見えた。
 彼はこの時期に、ワーグナー(Wagner)と親しく交際した。
 (12)  ニーチェの思想の第二期には、批判主義、コスモポリタン主義、良きヨーロッパ人を擁護し、民族主義を批判して、啓蒙思想(the Enligtenment)に接近した。
 二つの時期を通じて、ニーチェは一般に、リベラリズムや、自分が中間階層の文化の俗物性だと見なしたものに対して、批判的だった。
 ドイツの多くの哲学者たちのように、彼は、理性を用いて、理性の領域に挑戦し、あるいはそれを限界づけた。
 ——
 第1節、終わり。
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