秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ワルシャワ

2502/R・パイプスの自伝(2003年)⑩。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部第三章の試訳のつづき。原書、p,30-p.33。
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 第三章・知と美への萌芽 ④。
 (28) 人間として扱われるときは、私はとても良い仕事をした。
 1937年の春、歴史の教師のMarian Malowist から、当時はポーランド語訳書のなかったドイツ語のPrescott の著〈ペルーの征服〉を夏の間に翻訳するように頼まれた。
 私は訳文を秋に提出することになった。
 頼まれた翻訳報告書を書き終えたが、夏が終わって学校に戻ったとき、Malowist はいなかった。彼は、教師たちの中で唯一のユダヤ人だった。そして、学校を去ったのは、Radonski の反ユダヤ詐術にもう我慢できなかったからだった。
 私は報告書をファイルに綴じ込んだ。
 その文書は、他の私の文書類と一緒に、戦争の後になって私に届けられた。 
 Malowist は、ポリオで手足が不自由だったのだが、奇跡的にホロコーストを生き延び、ワルシャワ大学の経済史の教授に任用された。
 彼は1975年に、Harvard 大学を訪問した。そして私はついに、ほとんど40年遅れて、Prescott の書物の翻訳文書を彼に手渡す機会を得た。
 これは何らかの記録になるのではないか、と思う。
 彼は帰国後のポーランドからの手紙で、報告文書を見て、戦争前に14歳だった少年が戦後のほとんどの大学生の能力を超える歴史研究書を執筆していることを思って、涙が出た、と書いてきた。//
 (29) 1938年6月に、ギムナジウムを卒業した。そして同じ学校の二年間のリセ(Lyseum)に登録することになった。
 教育省から来た視学官によって、私の卒業は目視された。
 教師は各人を彼女の机の所に呼んで、私たちの成長を示すべく若干の質問をした。
 私の番になったとき、どこで生まれたのかと彼女は尋ねた。
 「シェシンです」と答えた。
 「シェシンの特別なことは何ですか?」
 「市が二つに分かれていて、一方はCzechoslovakia に、片方はポーランドに帰属しています」。
 「その二つともどちらに帰属すべきですか?」と彼女は迫った。
 ためらうことなく、私は答えた。「Czechoslovakia」。 
 彼女は驚いて尋ねた。「なぜ? 人口の多数派はポーランド人でありたいと思っていることを示す住民投票はなかったのか?」
 私は応えた。「たしかにあった。でも住民投票は不正に操作されていた。」
 「ありがとう。座ってよい。」
 実際のところは、住民投票について何も知らなかった。私はたんに反抗していた。期待されているように言うのが嫌で、ポーランド・ナショナリズムに同意していないことを示したかった。
 60年後に、シェシンで住民投票は一度も行われておらず、公平に言って、市の住民の多数派を占めているのでポーランドに配属されるべきだった、ということを知った。
 経緯を父親に話したら、彼は怖くなった。そして、父親と母親のどちらかが事態を取り繕うために、教師に会いに行った。
 思うに、彼らは私が外国のラジオ放送でそのような異宗派の考え方を聞いたという理由で、私を弁明したのだろう。//
 (30) 私の美や知への関心を共有してくれるクラス友達はほとんどいなかったので、私はたいてい孤独だった。
 しかし、二人の友人がいた。一人はAlexander (Olek) Dyzenhaus で、人生の残りずっと仲良しだった(ポーランドで戦争を生き延び、南アフリカで死んだ)。
 もう一人はPeter Blaufuks で、とても神経質だった。不運にも、殺された。//
 (31) 女友達もいた。
 我々はKrynica という保養地で、1938-39年の冬に逢った。
 Wanda Elelman は二歳年上で、すでにギムナジウムを卒業していた。
 日記から判断すると、私は情熱的に恋をしたようだ。だが振り返ると、そうではなかった、と思う。かつてポーランドを離れるとき、遺憾なことに、彼女のことはほとんど思い浮かばなかった。
 でも我々は、とくに1939年の春には、カフェで、あるいはLazienski 公園沿いに花盛りの栗の木々の下を歩いて、たくさんの幸せな時間を一緒に過ごした。//
 (32) 戦争が近づいていた。
 母親とEmmy Burger の二人は、不測の事態に備えて、手袋と帽子の作り方を習った。
 私は、Methodist の夕方学級での英語の授業に出席した。
 そこでアメリカ人たちと初めて接触したのだが、彼らには不思議な印象をもった。
 各授業の前に我々は大ホールに集まって最近のヒット曲を歌った。例えば、ピアノを弾く歯の目立つ女性や髪の毛を真ん中で分けてポマードで塗り固めた男性に指導されて、「I love you, yes I do, I lo-o-ove you」。
 我々はふつうは、流行しているラブソングを学習と結びつけはしなかった。
 しかし、会話ができる程度には英語を学習した。このことはのちに、私に大いに役立つことになった。//
 (33) 1939年6月、John Burger を失った。彼の家族とは、ともにアメリカ合衆国へ移住することになる。
 彼の母親のEmmy は半分ユダヤ人で、彼は四分の一はユダヤ人だった。ニュルンベルク諸法では、どちらも非アーリア人だった。
 ドイツが1938年にオーストリアを併合したときに公民権を取り替えなければならなかったので、彼らは離れるのは賢明だと考えた。
 私には、彼らがとても羨ましかった。//
 (34) 戦争前の学校の最終学年に経験した悲哀の一つは、軍事教練だった。それは一般に「PW」として知られる「軍事予備訓練」で、一種のROTC だった。我々は皺くちゃの黄緑色の制服を着て毎月曜日に学校に行き、一定の訓練を受けた。
 リセの最終学年とその前年の間、卒業予定の一年前に、他の学校の学生たちと一緒に、三週間課程の軍事訓練に参加しなければならなかった。
 1939年6月の終わり頃、クラスの仲間とともにKozienice にある軍営地に向かった。そこはワルシャワから南西に約100キロメートル離れた森林地帯にあった。
 ひどく辛い経験だった。
 粗雑な営舎に住み、麦藁かけ布団の簡易ベッドで寝た。
 十分に食べはしたが、食べ物は粗末だった。—朝食は無地のライ麦パンで、コーヒーと紅茶のどちらかが付いた。 
 だが、最悪だったのは、ワルシャワの他の学校の学生から持ち込まれた反ユダヤ主義の蔓延だった。
 ユダヤ人学生は、馬鹿にされ、嫌がらせを受けた。しかし、ほとんどの場合は平然としていた。
 唯一の愉しみは、森の中に監視で立つことだった。夜に眠れないことを意味したが、静かで私的な時間が持てたからだ。//
 (35) まもなく、困惑することが起きた。
 ある日、隊列の中で喫煙しているのを見つけられた。
 その軍営地で予備将校として勤務していたRadoriski が私を叱責し、軽い制裁を命じた。
 ついで、私は野原に立って空を見上げ、外国の航空機の通過を報告するチームに、配属された。
 空中には外国の航空機はおらず、いても判別できなかっただろうから、馬鹿げた任務だった。
 私は近くの店に、煙草を買いに行った。
 同僚たちとそこにいた軍曹が、一緒にウォッカを飲もうと誘った。
 私はそれまでウォッカを飲んだことがなかったが、成人として扱われたことを喜んだ。そして、誘いを受けた。
 見つかって、紀律違反の行為についてもう一度Radoriski に報告しなければならなかった。
 釈明させてもらえるなら、我々について責任のある軍曹が非難されるべきだっただろう。
 だが、そのときまでに、全てに嫌気がさしていて、潜在的にはみんな放り出したい気分だった。
 数日後に、何らかの業務のために野原に集められた。
 髭を生やしたユダヤ人が、荷馬車を運転してやって来た。
 兵士たちは揶揄してやじった。もっと不快にさせたのは、ユダヤ人の彼もそれに加わって、自分自身を笑ったことだった。
 私はむかついた。
 その後のすぐ、軍営地が閉鎖される予定の三日前のことだったが、営舎で喫煙しているのを見つけられた。
 Radonski は、意地悪いほくそ笑みをたたえて、私に退学を言い渡した。
 それ以来、彼に会わなかった。一年以内に戦争捕虜となり、ソヴィエトの治安警察によって殺害されたのだろう。//
 (36) 家に帰った。
 両親は何が起きたかを知って、狼狽した。
 父親はその人的関係を通じて、私が第二次の軍営地訓練に参加するようにすぐに取り決めた。夏季の訓練を完了していないと、学校を修了することができなくなっただろうからだ。 
 第二次の軍営地は、最初よりもはるかに愉快だった。それに参加していた地方の学校は、ワルシャワに浸透していたユダヤ恐怖症(Judeophobia)に染まっていなかったからだ。
 私は問題なく訓練を終え、8月の初めにワルシャワに戻った。戦争が勃発する直前だった。//
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 以下、試訳者。原書p.33 の途中から<第四章・イタリア>が始まるが、p.32 とp.33の間に、10頁ぶんの複数の写真が掲載されている。それぞれに固有の頁番号は付されていない。後にもそのような箇所が二つあって、L. Kolakowski, I. Berlin, Ronald Reagan, George Bush (父), Alexander Kerensky (ロシア十月革命前の臨時政府首班。亡命後の1959年) らとそれぞれ一緒の写真が掲載されている。
 p.32 とp.33の間の10頁ぶんに掲載されている写真は、つぎのとおり。
 01/母方の祖父。
 02/母方の祖母。
 03/父方の祖母と抱かれる従兄。Cracow, 1922年。
 04/①母親一族、計11名。1916年頃。②父親。Wien, 1919年。
 05/両親の結婚写真。1922年9月。
 06/①著者、18ヶ月。②著者、4歳の誕生日。1927年。
 07/①Burger 一家とPipes 一家、計6名(3×2)。②将来の妻 Irene、10歳。Warsaw, 1934年。 
 08/①学校の友人たち、Blaufuks, Olek, 著者を含めて計11名。②Burger 家のHans(弟代わり)。Warsaw, 1939年。
 09/①著者。Warsaw, 1939年6月。②ドイツによる爆撃後のMarszalkowska 通り。Warsaw, 1939年10月1日頃。
 10/①ワルシャワ出立後の旅券用写真、著者と両親。Warsaw, 1939年10月。②ポルトガルに停泊中のアメリカ行きの船上での著者と両親(愛犬ココも写っている)。Lisbon, 1940年7月。
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 第一部第三章、終わり。

2497/R・パイプスの自伝(2003年)⑥。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部第二章の試訳のつづき。
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 第二章・私の出自 ②。
 (13) 我々は、ワルシャワに移る途中で、ウィーン出身の女性が経営する小ホテルの一室に初めて落ち着いた。
 そこでウィーン人のOscar とEmmy Burger の夫婦と出逢った。彼らは、運命的に、我々の最も親しい終生の友人となることになる。
 Oscar Burger はオーストリアの自動車製造会社、Steyt-Daimler-Puch のポーランドの代表者で、この会社はVolkswagen に先んじて小型で安価な車を製造していた。
 彼らには一人の子息がいた。Hans といって、私より1歳、年下だった。
 我々はまもなく、町の別の所にある同じ家屋の別々の区画を賃借りした。だがそこを立ち退かなければならなかったとき、彼らと一緒に転居し、それから5年間、我々は同じ生活区画を共有した。
 両親たちは離れ難く、Hans は代わりの弟になった。//
 (14) トルストイは友人にこう書き送った。「子どもたちはいつも—若いほどそれだけもっと—、医師たちの言う催眠の状態にいる」。
 私は、自分の子ども時代はそうだったと思い出す。
 ときに「現実の」世界と接触して中断したが、私自身の世界の中で生きていた。
 青少年期に入るまで、自分自身の思いと感情以外で私が経験した全ては、私の外側にあって、完全には現実ではないように感じた。
 まるで夢うつつの催眠状態でいて、ときたま覚醒して、またすみやかに元に戻って行ったかのようだった。//
 (15) 8歳か9歳のとき、母親がドイツ語の短い祈り言葉を教えてくれた。
 のちに、作者はLuise Hensel という、ロマン派時代の詩人だと知った。
  Müde bin ich, geh' zur Ruh,/Schliesse beide Äugelein zu,/
  Vater, lass die Augen dein,/Über meinem Bette sein./(*脚注)
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 (*脚注) 大まかには、「疲れて休みに行き、目を瞑る。父よ、あなたの目が私のベットの上にとどまるように」。
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 そのときもそれ以降も、私は神の存在や慈悲深い導きに対するどんな疑いも経験しなかった。
 じつに、神の存在は私には絶対的に確かなものだ。神は全ゆるところに現存している。これとは別のことは全て、仮定のものか、疑わしいものだと思えたし、そう思われる。//
 (16) 上のことは、私が幸せな子ども時代を送ったことの理由だ。
 家族の写真を見ると、我々は戦争を生き延び、ともかくも思春期になるまでは、私はつねに微笑している。
 外部の世界をときに楽しむことはあったが、怖ろしくなったとき、私はいつも自分の内部世界へと引っ込むことができた。
 その感覚は子ども時代にずっと続き、ある程度は生涯を通じて私に同伴した。
 私の生命が危険だった第二次大戦という事件ですら、私の外部のもので、ゆえに現実には意味はないもののように感じた。
 私には、幸福な結末が来るという、全くの自信があった。//
 (17) それでもやはり、宗教に関しては問題を抱えていた。
 13歳か14歳の頃を思い出しているのだが、かりに存在する全てのものが神から生まれるのだとすれば、全てのものが—どんなに小さくとも全ての被創造物(生物)が、どんなに瑣末でも全ての出来事が—永遠に存在するはずだ。
 だが、存在した痕跡もなく事物は消滅している。
 顕微鏡で生物種を覗き込んで、神は本当にかつて生きた全てのアメーバについて説明することができるのだろうか、と思う。
 古い写真を見て、群衆の中のこの人を、あるいは荷車を引くあの馬を、みんな全て死んでいるが、神は憶えているのだろうか、と自問する。
 私はこの問題を、心の裡で決して解決しなかった。
 私が歴史を愛好したのは、何らかの意味で、この葛藤にもとづいていた。
 過去のものとなり死んだように見える諸事象を扱うことによって、私はある意味で、それらを生き還らせ、そうして時間から逃れた。//
 (18) 大戦間のポーランドについて、「ファシスト」とか「反ユダヤ国家」との評価がある。しかしこれは、ユダヤ人の若者はどうすれば絶望的な苦難のある国以外の国で生きることができたかと不思議がるようなものだ。
 「ファシズム」という用語は、1920年代からソヴィエトの共産主義者たちが行った言葉の操作に影響を受けて、本来の全ての意味を失った。
 イタリアのファシズム—言葉の元来の厳密な意味での「ファシズム」—は、1914年より前にB・ムッソリーニ(Benito Mussolini)が率いた極端に急進的な社会主義運動が大きく成長したものだ。 
 ムッソリーニは、第一次大戦勃発とともに、ヨーロッパを覆った愛国主義の狂熱と階級闘争を上回る民族への忠誠心に影響を受け、社会主義の上にナショナリズムを接ぎ木した。そして、現代世界での階級闘争は社会主義者が教えたように同一の国家内の市民対市民で闘われるのではなく、国や民族の間で、裕福で搾取するものと貧困で搾取されるものとの間で闘われる、と主張した。
 彼は徐々に対抗する諸政党を廃絶し、包括的な検閲制度を導入し、諸企業に対して、全面的な国家の監視の下にある労働組合と協力することを強いた。
 これは、のちにソヴィエト同盟で起こったことの、緩やかな範型だった。//
 (19) イタリアと似たようなことは、大戦前のポーランドでは起きなかった。
 1926年まで、ポーランドは民主主義の途を歩んだ。しかし、共産主義者と社会主義者がナショナリストと闘ったとき、そして人口の三分の一を占める少数民族の権利が侵害されたとき、苦境を克服できないことが分かった。
 1926年5月1日、政治の舞台から退いていたPilsudski がクー・デタを敢行した。
 しかし、その範囲は限られていた。
 共産主義政党を含む諸政党は公然と活動し続けていたし、プレスの自由も尊重された。そして、司法部も、その独立性を維持した。
 政府内では軍部が重要な役割を担い、Pilsudski は立法部を支配することができていたが、彼の独裁は穏和で、非暴力的だった。
 1935年に彼が死ぬまで、ポーランドには伝統的な権威主義的統治があったけれども、類似性がイタリアとはほとんどなく、ナツィ・ドイツとは全くなかった。//
 (20) ポーランドの反ユダヤ主義という一般的な印象も、一定の修正が必要だ。
 ポーランド人にとって疑いなく、ポーランド性の規準を明らかにするなら、それはカトリック教会の遵守だった。だからこそ、正統派のウクライナ人やユダヤ人は、いかにポーランドを文化や忠誠の対象としていても、本当のポーランド人とは見なされなかった。
 これが、カトリック教会が国全体を統合した、120年間の外国占領の結果だった。
 民衆全体がカトリック教会によって、ユダヤ人に対する敵意を吹き込まれ、教え込まれた。
 人種的な反ユダヤ主義ではなかった。だが、信仰の放棄によってのみ改宗でき、かつそうしてすら、ポーランド人からみると決して完全にはユダヤ性を除去することができなかったので、ほんのわずかに苦痛が少ないにすぎなかった。
 しかし、(政府や軍部内以外では)公然たる差別はなかったし、大虐殺(pogrom)もなかった。
 正統派ユダヤ人の大多数は、自分たちの意思で、狭い共同区画に住んだ。そこでの生活様式が宗教の遵守を容易にしたからだ。
 我々のような同化したユダヤ人は、こうした共同区画の外の仲介者的世界で生活した。だが、私はこう言わなければならない。我々を背教者のごとくに扱う正統派ユダヤ人によりも、教育を受けたポーランド人の方に共通性を感じた、と。//
 (21) ともあれこうした理由で、1935年以前には、ポーランド・ユダヤの中産階層の子どもたちは、全く幸せでいることができた。
 確かに、ひどい事件はあった。
 1930年代の初め、我々は明らかなユダヤ人だけの共同住宅に住んでいた。 
 そして、ときには名前を呼ぶことがあった。
 一度、改宗した家庭のユダヤ人少年が、私を「ユダヤ」と呼んだ。
 私は叫び返した。「ユダヤは、きみ自身だ!」
 それに反応して彼は、ペン・ナイフで私の頭を打ち、血が流れた。
 彼の両親は、丁重に詫びを言った。
 しかし、私の子ども時代はこのような稀な事件でとても不快だった、と言うことはできない。
 我々は、ふつうの生活を送った。冬にはスキーやスケートをし、夏には車で街を出てピクニックをし、大きい「Legia」プールで泳いだ。映画を観に行きもした。//
 (22) 私は、どの点でも傑出した子どもではなかった。
 どの方面についても、早熟の才能を示しはしなかった。
 たくさん読書することもなかった。
 でも、私はとても魅力的な男の子だと見なされていた。オリーブ色の肌、母親が前部を切り揃え続けたつややかな黒髪は、たびたび称賛された。そして、私はしばしば、ペルシャ人かインド人だと思われた。
 思春期に心が傷ついたことの一つは、この称賛が突然になくなったことだった。//
 (23) 職業的な文筆家に将来になる者にしては驚くべきことかもしれないが、若いときの私には、自分の考えを文書にして書き記すのがとても困難だった。
 しかしながら、きわめて流暢に、私は話した。
 十代のとき、英雄が登場人物となる即席の作り話を語って、クラス仲間を楽しませた。この才能のおかげで、後年になって私の子どもと孫たちのいずれも、ベッドでの寝物語でわくわくさせることができた。
 しかし、決まりきった学校の課題を執筆するのは、本当に苦痛だった。
 のちに、主題が自分に浮かんで来て、自分の感情を表現できてようやく、きちんと書くことを学んだ。//
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 第一部第二章、終わり。

2496/R・パイプスの自伝(2003年)⑤。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部の試訳のつづき。
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 第二章・私の出自(My Origins)①。
 (01) ここで、時計の針をまき戻して、私の出自を語ろう。//
 (02) 私は、1923年7月11日に、ポーランドのシレジアのCieszyn (チェシン、Teschen,テシェン)という小さな市の、同化した(assimilated)ユダヤ人家庭に生まれた。そこはチェコとの境界にあり、のちにアウシュヴィッツ最終収容所となる所から50キロメートル離れていた。
 父親のMark は、1883年にLwow (Lemburg, Lviv)で生まれ、若いときはウィーンで過ごした。
 祖先はもともとは「Piepes」と綴り、19世紀初めから、生まれた市の改革志向の市民の主要人物だった。
 Bernard という名だった我々の先祖の一人は、ユダヤ人共同体の書記として勤めていたが、1840年代に、率先してLwow に改革派ラビ〔ユダヤ教聖職者〕を送り、ほとんどが職業人で成る「進歩的寺院」を率いた。
 今日の基準からすると当時は全く保守的だったユダヤ教では「進歩的」だったとはいえ、正統派のユダヤ人は激しい怒りを感じたため、彼らの一人は新しいラビを殺害し、自分の娘を彼の台所にこっそり入らせて、食物に毒を入れた。//
 (03) 1914年、父親はポーランド軍団(Legions)に入隊した。それは、ポーランドの独立のために戦うために、ドイツ・オーストリアの援助を受けて、Joseph Pilsudski が組織していたものだった。
 彼は1918年まで現役兵のままでいて、「Marian Olszewski」という偽名で、Galicia のロシアと戦った。
 父親がどんな体験をしたのか、私は知らない。戦争をすぐ近くで見たほとんどの人々と同じく、彼は語るのを好まなかったからだ。
 彼はその間に、何人かの将校たちと親しくなった。彼らはのちにポーランド共和国を動かすことになり、友人関係は大戦間の時期や我々のポーランド脱出に役立った。//
 (04) 母親のSarah Sophia Haskelberg は、家族や友人には「Zosia」として知られ、Hasidic 〔ユダヤ教の一部—試訳者〕の裕福なワルシャワの事業家の11人の子どもたちの9番目の子どもだった。
 母親はその父親を、陽気な人で、食べて、飲む美食家で、大きなひどい声で歌ったと思い出していた。
 彼は事業を発展させてロシア政府とも取引をし、制服やロシア軍用の武器を売った。そして、ワルシャワとその郊外にかなりの不動産を獲得した。
 母親の兄弟の数人は、技術学校か船乗り学校に入るために、戦争前に、ベルギーへと送られた。
 家族は夏をワルシャワ近くのリゾート地で過ごした。そこには、祖父の別荘があった。
 家族はそこへ学校が終わる前のPassover 〔出エジプト記念のユダヤ人の祝日の日々—試訳者〕の頃に移り、9月に学校が始まる後まで、滞在した。
 ワルシャワでは、家族は祖父が所有するアパートに住んだ。1939年になっても、トイレはあったが浴室はなく、台所のシンクで洗う必要がああった。//
 (05) 1915年にロシア軍がワルシャワから撤退したとき、母親の父親は彼らについてくるよう強いられた。彼が裏切ってドイツ軍にロシア軍に関して知っていることを教えるのを阻止しょうとした、というのが最もありそうだ。
 彼はその後三年間、ロシアにいた。そのうち一年は、共産主義者の支配下だった。
 ドイツとの人的関係を通じて、1918年に、彼はポーランドに戻り、息子の二人、Henry とHerman が地位を引き継ぐとの取り決めがなされた。
 彼らは二人ともロシア人女性と結婚し、残る人生をソヴィエト同盟で過ごした。
 Herman は、スターリンの粛清(purges)で殺された。1937年11月に逮捕され、すみやかに処刑された。//
 (06) 我々は1902年のクリスマスの前夜が母親の誕生日だと受け取っていた。しかし、ロシア支配下のユダヤ人家庭は男の子が兵役に就くのを回避すべく息子たちの誕生日を「取引き」するのがふつうだったので、母親の誕生日も確実ではなかった(実際、1920年代にパレスチナへ移住した彼女の兄のLeon の誕生日は1902年12月28日とされていた)。
 私の母方の祖父は、私が生まれた年に癌で死んだ。
 母親の母親は、よく憶えているが、ポーランド語をほとんど話さず、私と最小限の会話しかしなかった。
 彼女は、73歳のときにホロコーストで殺された。強制的に送られて、Treblinka にあるナツィの死の収容所で毒ガスを吸わされた。
 学校の後でときおり、私は彼女のアパートに立ち寄ったものだ。そのときいつも優しくされ、食べ物をもらった。一方で、彼女がかつて我々を訪れたことは憶えていない。//
 (07) 私の両親は1920年に、父親がワルシャワに住んでいるときに逢った。
 母親はこう私に言った。彼のことを友人から聞いたのだが、その友人は仕事で彼の父親のところを訪れてもMarek Pipes は自分を気にかけてくれない、と愚痴をこぼした。
 母親には、彼をつかまえてデートに誘う自信があった。
 彼女は彼の事務所を訪れて、彼が頻繁に行っていると聞いたレストランで見たことがある、というふりをした。
 興味をそそられ、彼は餌に食いつき、彼女を誘った、かくして、ロマンスが始まり、二人は二年後に結婚した。
 結婚式は1922年9月に行われ、その後にCieszyn (チェシン)へと移った。そこで父親は、三人の仲間と一緒に—うち一人はのちに義兄弟になる—「Dea」というチョコレート工場を経営していた。
 それは今日でも、「Olza」という名前で存在しており、「Prince Polo」という名のウェハス棒を製造している。
 その市は川で二分されていた(今もそうだ)。東部はポーランドで、西半分はチェコスロヴァキアに属していた。
 ユダヤ人たちはその市に、遅くとも16世紀の初めから住み始めていた。//
 (08) 私はチェシンで4年間だけ過ごした。そして、この郷里について、ほとんど思い出がない。
 今でもある二階建ての家で、私は生まれた。
 70年後に、チェシン市長が私に名誉市民号を授与してくれたとき、式典で私は、憶えている幼年期のことを三点述べた。
 母親が、厚い層のバターとダイコンの付いたサンドウィッチかライ麦パンをくれたのを覚えている。
 家の前で食べていたとき、ダイコンがすべり落ちた。
 こうして私は、喪失を学んだ。
 そのような食べ物を、私はひどく欲しがった。
 こうして私は、羨望を知った。
 最後に、両親は私に、私は数人の友達を日用食料品店に誘って各人に一個ずつオレンジをあげたことがある、と話した。
 店主に誰が支払うのかと尋ねられて、私は「親たち」と答えた。
 こうして私は、結論的に言うのだが、共産主義とはどういうものか、つまり、誰か他人が支払うのものだ、ということを学んだ。//
 (09) 転居したあと何度かチェシンを訪れた。一度は1937-38年の冬休みの間で、つぎは1939年2月、ポーランド政府が、ミュンヘンで連合国から放棄されたチェコに、チェシン市の半分の割譲を強いたあとだった。
 荒廃した街路を歩きながら、母国の恥ずかしさで気分が悪くなった。//
 (10) 住民は、ポーランド語、ドイツ語、チェコ語を切り替えて使った。
 両親は、家では、ポーランド語とドイツ語のいずれかを選んで話した。
 私とは、もっぱらドイツ語で話した。ドイツ語を話すお手伝いも雇っていた。
 しかし、私と遊ぶ友達はみなポーランド語を話した。それで、私はその言語を向上させていった。
 その結果として、私は3歳か4歳のときに、バイリンガルだった。//
 (11) ヨーロッパの地理的中心 (*脚注) で出会う文化的な交錯の流れを、アメリカ人が思い浮かべるのはむつかしいに違いない。
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 (*脚注)  二つの線を北岬〔ノルウェー〕からシチリアまでと、モスクワからスペインの東部海岸まで引くと、それらはチェシン付近で交差する。
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 アメリカ合衆国には多数の民族集団があるけれども、イギリスの言語と文化がつねに主要なものだ。
 私が生まれた所では、諸文化が同等の基盤を持っていた。
 この環境によって、人々は、外国人の思考様式についての鋭い感覚を身に付けていた。//
 (12) 父親は1928年に、Dea を売って、家族とともに短期間、Cracow(クラカウ、クラクフ)へと移った。そこには父親の妹が夫と二人の男の子と住んでおり、また、彼の両親も一緒にいた。
 父親の父親のClemens(またはKaleb)は威厳のある背の高い紳士で、髭の生えた顔に私を接吻させたが、私に一言も発しなかった。
 彼は、1935年に死んだ。 
 Cracow で父親は、義兄弟ともう一人の仲間で新しいチョコレート工場、ウィーンのPischinger 商会の支店を設立した。チョコレート・ウェハスの製造に特化したものだった。
 (今でも、Wawel の名で稼働している。)
 Cracow には一年もいなかった。
 工場の経営を義兄弟と仲間に委ねて、父親は、小売販売業をする意図を持って、家族とともにワルシャワに移った。
 しかし、まもなく、不況がやって来た。
 父親はPischinger との関係を切って輸入事業を始め、主にスペインやポルトガルから果物を買い付けた。必要な資金は、政府内にいる友人から現金で割当てられた。
 母親の出身家庭がもつ不動産からの収入を加えた収入は、控えめな生活をするには十分だった。
  父親は本当は事業をするのに適していなかった、と追記してよいかもしれないと思う。
 彼には良い考えが浮かんだが、やり通す持続力が弱くて、毎日の管理業務にすぐに飽きた。
 私の両親は楽な暮らしを送ってきていた。
 のちに、事態がもっと悪くなったとき、父親は感傷をもって思い出していた。母親が毎日朝に直面していた主要な問題は、どのカフェで一日を過ごせばよいか、だったと。
 彼は、ワルシャワの男性の中のベスト・ドレッサーの一人という声価を得ていた。
 つねに、料理をし、掃除をし、朝早くにタイル貼りの暖炉に薪をくべるお手伝いを雇っていた。
 そのお手伝いは、台所で寝て、雇い賃は、部屋と食事込みで毎月5ドルか6ドルだった。//
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 ②へとつづく。

2485/R・パイプスの自伝(2003年) ①。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 この書物はRichard Pipes (1923〜2018)の自叙伝だ。
 VIXI は「私は生きた」という意味のラテン語らしい(正確には知らない)。
 大きくつぎの四つの部で構成されている。 
 第一部/ポーランド・イタリア・アメリカ。
 第二部/ハーヴァード。
 第三部/ワシントン。
 第四部/再びハーヴァード。
 読了してはいないが、第二部と第四部は主にHarvard 大学での研究(・教育)の時代、第三部はレーガン政権のソ連・東欧問題の補佐官としてソ連の崩壊を準備した時代、第一部がポーランドで出生して(その前の出自を含む)、第二次大戦勃発後にイタリアを経てアメリカに定住し、20歳でアメリカ国籍を取得する、等の時代だ(少しは間違っているかもしれない)。
 以前から、第一部だけはぜひ試訳して掲載しておきたいものだと、考えてきた。
 ユダヤ系ポーランド人の彼が、どのようにしてアメリカに来たのか、そして(むろん英米語を用いる)ロシア・東欧史専攻の研究者となり国際政治の実務にも関与したのか、にすこぶる関心を持ったからだ。
 この本の存在を知ったのはロシア革命に関する彼の二つの大著*を知って(それぞれ一部、この欄に試訳掲載済み)、その一部を読んだ後だったので、これら大著の著者の「背景」を知りたい、ということも、もちろんあった。
 *①Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
   <「1899 -1919」が付くのは1997年版以降。>
  ②Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime 1919-1924 (1993).
 ようやくこの欄への試訳掲載を始める。
 なお、この書物の目次や緒言よりも前に、欧米の書物にはよく(ほとんど)ある「献辞」がある。一頁全体の中に、つぎの文章だけがある。
 「この本を私の両親、Mark Pipes とSofia Pipes に捧げる。
 私を生んでくれ、そしてナツィスの手による確実な死から私を救ってくれたことに感謝して。
 ——
 第一部/ポーランド・イタリア・アメリカ。
 第一章・戦争 ①。
 (01) 1939年8月24日木曜日、我々が定期購読していた日刊紙の〈Nasz Przeglad〉(我々の論評)は最初の頁に、二つの宿敵国のナツィ・ドイツとソヴィエト同盟が不可侵条約に署名した、という驚くべき報せを掲載していた。
 私は前の月に16歳の誕生日を迎え、最終学年の前の年度にギムナジウムの生徒に要求されていた予備軍営(ポーランド語でROTC)での三週間の課程を終えて最近に帰ったところだった。
 通常の予定どおりだと、私は最終学年の学習のために数日以内に学校に戻っていただろう。
 しかし、そうはならなかった。//
 (02) 父親は、報せは戦争を告げていると結論づけ、我々のアパートから移ろうと決めた。我々が住んでいる家はワルシャワの中央鉄道駅の傍にあって、空からの爆撃の対象になりそうだったからだ。
 我々は、ワルシャワの南にある保養地のKonstancin へと移った。そこである邸宅の大部屋を借りて、つぎの進展を待った。
 当局は住民に対して、消灯の継続を命令した。
 私は、夕方にろうそくの灯りのそばで、父親と叔父の一人が戦争になるかどうかについて議論していたのを思い出す。
 叔父は、全てはムッソリーニにかかっているという意見だった。これは全く間違っていた。実際にはヒトラーの軍隊がスターリンの承認を得て、すでにポーランドの北、西、および南西に配置され、攻撃の準備をしていた。//
 (03) 市政府は郊外に住んでいる住民に、爆撃から守るために塹壕を掘るように命じた。
 私は、邸宅を所有する女性が彼女の花壇を損傷するから止めよと命じるまで、懸命になってその仕事に取り組んだ。//
 (04) 9月1日、金曜日の朝6時30分、私は遠くから聞こえる一続きのドーンという音で目が覚めた。
 私がまず思ったのは、自分は雷鳴を聞いている、ということだった。
 着替えて、外に出た。だが、晴天だった。
 上の空高くに、ワルシャワに向かっている銀色の航空機の一編成を見た。
 単独の複葉機—まるで木製のごとくだった—がそれらを迎えるべく、急傾斜で昇っていった。
 私が聞いた音は雷鳴ではなく、ワルシャワ空港に落とされている爆弾だった。それは、ポーランドが作った小さな空軍施設をすみやかに粉砕した。//
 (05) 軍事力には大きな不均衡があったにもかかわらず、ポーランドの立場は完全に見込みがないというものではなかった。
 第一に、ポーランドは、イギリスとフランスの両国から、ドイツが万が一攻撃してくればドイツに宣戦を布告するとの保証を得ていた。
 さらにフランスは、ドイツ軍をピン留めすべく、ドイツの西側の戦線で反抗攻撃を行うと約束していた。
 第二に、ポーランドはソヴィエトの中立を計算に入れていた。そのことで、ポーランド軍は再結集し、ドイツ軍が後方から攻めることのできない国土の東半分で踏みとどまることが可能になるだろう。
 フランスは約束を守らないこと、ソヴィエトは、ドイツがソヴィエトに東半分を譲与するとの不可侵条約の秘密条項をもっていたことを、ポーランドは知らなかった。//
 (06) 午前中が大して進んでいない頃、我々はラジオで、ポーランドとドイツが交戦状態にあること、敵の兵団が複数の場所から国境を越えたこと、を知った。//
 (07) 戦争についての私の考えは、希望と運命論の入り混じったものだった。
 ポーランド人かつユダヤ人として、私はナツィスを軽蔑し、連合軍の助けで我々が勝つことを期待した。
 運命論は、若者や完全には成熟していない大人にありがちだが、起きることは起きざるを得ないという考え方に由来していた。
 それは実際には、毎日を生きて最善を尽くす、ということを意味した。
 運命論は、セネカ(Seneca)の私の好きな言葉に要約された。すなわち、〈Ducunt volentem fata, volentem trahunt〉—「運命は意思する者を誘導し、意思しない者を遠ざける」。//
 (08) 第二次大戦となった最初の日の夕方に、父親は私を邸宅を囲む公園のベンチに座らせ、こう私に言った。父親と母親に何かが起きたなら、ストックホルムへ行き、そこで父親の口座があるSkanska 銀行のOllson 氏に連絡を取りなさい。
 多年ののちに私は知ったのだが、小切手の形の金銭はこっそりと持ち出され、1937年に親しい友人によってタイプライターの中に隠されていた。それはもともとはロンドンで預けられ、のちにストックホルムへと移されたものだった。
 あれは父親が初めて、私に一人前の大人として、向かい合ってくれたときだった。
 その金—3348ドルそこそこ—は、我々の生命を救うことになっていた。//
 (09) もちろん、戦争は何らの驚きもなくやって来たのではない。我々は長く戦争を予期し、ポーランドを離れることを考えていた。
 1938年10月に連合軍がミュンヘンで屈服したあと、私はヨーロッパ全体での戦争が避けられない、と思った。
 両親は、ニューヨークでの世界博覧会用の観光ビザを申請した。それをアメリカの領事館は私をポーランドに残すという条件つきで発行することに同意した。
 そのゆえに、パレスティナに住んでいて権限あるイギリス当局と良い関係がある私の叔父の一人を通じて、私は彼に合流することが取り決められた。いずれにせよ、それが私が選んだ道だった。
 私はのちに、6日後にヒトラーがポーランドを攻撃したことを知った。我々は〔本来ならば〕去ってしまっていただろう。両親は8月28日にアメリカ合衆国への観光ビザを受け取っており、その間に私はパレスティナへの必要な書類を得ていたのだから。(脚注1*)//
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 (脚注1*)後年に母親は、私にこう言った。親しい知り合いのスウェーデンの在ワルシャワ領事がスウェーデンへのビザを提示したが、その彼が母親の法律上の個人名は「Sarah」だと知ったとき、残念だがビザを提供することはできないと言った、と。
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 (10) 戦争勃発の翌日、私は自発的に、Konstancin の交通を監督するのを助けた。
 私の指示は、空襲警報用サイレンの音で自動車を道路から離れさせることだった。
 私は使命感をもって数日間そうしていたが、やがて無益さを知った。自動車は、その中には制服姿の軍人やその家族を乗せているものもあったが、国を脱出すべく南や東へと急いでいて、私の合図を無視したからだ。//
 (11) 1930年代末のヨーロッパの民間人は、空中からの化学兵器の危険性について、繰り返し警告されていた。
 私はたまたまガス・マスクを所有していたが、それはROTC軍営で購入したものだった。しかし、それにはフィルターが付いておらず、役に立たなかった。
 Konstancin で会った一人のユダヤ人少女が私に、そのフィルターを持っていて、家まで来るなら差し上げると言った。
 私は夕方に引き返して、暗い色の枠の家のドアを叩いた。
 ドアが開いて私が見たのは、部屋いっぱいに溢れた若者たちが蓄音機の音楽に合わせて情熱的に踊っている光景だった。
 その少女は私が欲しいものについて忘れており、私を追い払って、踊りの相手のところへ戻っていった。//
 (12) ドイツ軍が近くまで来ているという衝撃的な噂を聞いたとき、戦争は辛うじてまだ6日めだった。私はつけ始めた日記にそのことを記録した。
 実際に(当時は我々に知られていなかったけれども)、ポーランド政府はすでに9月4-5日に、その人員の一部のワルシャワからの避難を開始していた。
 その次の夜(9月6-7日)、ポーランド軍の筆頭司令官のRydzSmigly 元帥は、密かに首都を去った。
 父親が自動車を確保し、我々はワルシャワへと戻った。
 行路は検問で止められたが、父親がポーランド軍の退役兵であることを証明するものその他の文書を提示した後で、進むことが許された。
 市内は状況が緊迫していた。
 ドイツ軍は空から、降伏を迫るビラを落としていた。
 私は一枚を拾い上げようとしたが、通りすがりの人が、「毒が付いている」と警告した。
 ラジオは我々の意気が下がらないようにしていた。市長のStefan Starzynski (のちに拘束され、4年後にDachau で処刑された)からの訴えがあり、昼夜じゅうショパンの「軍隊」ポロネーゼが流された。
 負けたポーランド軍の敗残兵たち—何人かは負傷し、全員がぼろ服を着て消沈していた—が、市内へと、歩いて、馬で、あるいは荷車で、ばらばらに入ってきた。//
 (13) 9月8日、ドイツ軍はワルシャワ攻撃を開始した。しかし、激しい抵抗に遭遇した。
 私は民間人の長い列を見た。推測するに、政府の訴えに呼応した予備兵たちで、小さいバッグを運び、市内から東方へと出て行った。そこで軍役に就くことになっていたのだろう。
 私の両親は、ワルシャワを離れることを議論していた。我々には使用できる一台の車があった。父親はワルシャワから南東およそ100マイルのLublin へと我々を逃がせたかった。政府がその市へと避難していたからだ。
 その考えは、父親が知っている外務大臣のJoseph Beck に由来した。彼は父親に政府についていくよう言ったのだった。
 母親は断固として拒否した。その提案は父親が金を持っているという想定からのものだと、確信していた。
 出ていくとすぐに、我々は捨て去られるだろう。
 私はベッドの上で、この問題についての二人の叫び合うような議論を聞いていた。
 幸運にも、母親が勝った。//
 (14) 9月半ばまでに、ワルシャワは包囲され、我々は罠の中に入った。
 我々は住まいを二度目に出て、市の中心部から離れた固いアパート建物に住んでいる友人たちとともに、転居した。
 両親は彼らと一緒に落ち着いた。私はその間、ユダヤ人学者の住宅の最上階にある小さな部屋に泊まらされていた。
 彼はかなり大きな書斎を持っていて、私はビザンティウムに関する歴史書、William Oncken の世界史シリーズの一部を借りた。彼は、私が見つけたのと同じ形で返すよう求めた。
 私は自分の本も、何冊か持ってきていた。
 爆弾が雨のように街に落ちていたとき、母親が何回も来て、地下の避難壕に移るよう頼んだ。しかし、爆撃があまりにひどくなるまで、拒んだ。
 ワルシャワが降伏した後、私は、巨大な砲撃弾が私の部屋の天井を破り取って、ベッドの少し上の壁を砕き、爆発することなく地上に着弾しているのを見た。(脚注*2)
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 (脚注*2)後年に私は、若Pliny(Pliny the Younger)[=Gaius Plinius Caecilius Secundus〕が、ポンペイを破壊した大地震の間に似たような行動をしたことを、知った。彼はタキトゥスへの手紙で、美術館のそばにいて、激しい揺れを感じた、と書き送った。彼の母親は離れるよう強く言ったが、彼は—勇者だったのか愚者だったのか—Livy の本が送られてきた、「他にすることが何にもないがごとく読み続けたい」と頼んだ。彼は、自分の家が崩壊する危険が生じたあとでようやく離れた。彼はそのとき、17歳だった。
 〈Pliny the Younger の手紙〉(1969),p.170-1.
 ——
 ②へとつづく。
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