Covid-19用ワクチン接種後の死亡例等の資料が発表されたり、その一部の事例をマス・メディアが取り上げたりしている。原田曜平も発信している。
 厚生労働省のホームページには、かなり詳細な資料(審議会・検討会等に関するもの)がネット上で公表されている。
 この資料をもとにしているとみられる、かつ信頼できるように思われる国以外の(ということは「私人」の)文章または記事によると、死亡例については、つぎのとおりだという(5月中のもので最新のデータによるのではない。個別には厚労省のHPを参照していただきたい)。日本についての数字だ。
 「5月16日までの接種後死亡報告は55件で100万人接種当たり12.6件、100万件接種当たり9.0件」。引用終わり。
 素人ながらおおまかに言って、10万人に対する接種で、死亡者1人強、10万件の接種で死亡件数は1件弱、というところか。
 この数字をどう評価するという問題はあるが、もちろん、ワクチン接種と「死亡」の間の因果関係は「分からない」のが、つぎのとおり、現状だ。
 厚労省自体の某検討部会ら(長いので省略)の報告文自身の文章によると、5月26日以降「死亡として報告された事例」が新たに54件あり、2月17日〜5月30日までに「報告された死亡事例は計139件となった」。
 そして、「専門家の評価」によると、139件全てが①「情報不足等によりワクチンと症状名との因果関係が評価できない」もので、②「ワクチンと症状名との因果関係が否定できないもの」と、③「ワクチンと症状名との因果関係が認められないもの」は、いずれも0。
 つまり、全ての事例で、因果関係は否定できないが、肯定もできない、ということになるだろう。
 かりに因果関係があるとしても、10万人・10万件につき、上記のとおり約1名・1件という数字をどう見るかという問題はある。
 因果関係が今のところ「認められない」以上、また上の数字のかぎりでは、ワクチン政策の基本的政策方針を変更する必要は認められない、という省・国の見解も理解できないわけではない。
 しかし、論理的にはおそらく、10万ではなく、100万人あたり1名、100万件あたり1件程度の「因果関係のある」「死亡例」はあるだろうと、合理的に?推定できそうに見える。
 100万分の1というのは、100分の1が1%なので、その1万分の1。計算?に間違いがないとすると、0.0001%だ。
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  ここで、こういう欄だからこそ敢えて明記しようと思うのだが、この程度の確率でワクチン接種によって「死亡する」人や件数が出るのは、関係研究者・専門家も、製造会社も、日本政府も、<予見>しているのではないか? 1名の死者も出さない、というのは綺麗事だ。
 そして、そのような「犠牲」が発生しても犠牲者とはならない大多数の人々の健康・生命についての「利益」(つまりは<公益>または<公共の利益>)の方が上回る、という比較衡量・価値判断を<心奥>では行っているのではないだろうか。
 それにまた、死亡者の中には高齢者・基礎疾患ありの者が多いか大多数だとすると、かりに因果関係があったとしても(そう証明されたとかりにしても)、ワクチン接種がなくともこの数年以内に何らかの原因で(老衰・多臓器不全を含む)死亡していた人がいた可能性もある(あくまで可能性の話なので実証ができるはずはない)。
 だが、どうせ死んでいたのだから、という理屈は、究極的にはヒト・人間はいつか死ぬのだから、たまたま早くなっただけ、という理屈?につながりかねない。そしてこの理屈は、とくにまだ健康だった人や若い人の「死亡」の場合に、その本人(意識・意思があったとして)や遺族が(ふつうの?遺族ならば)納得できるものではないだろう。100万人あるいは1000万人のうちの1人に、なぜ自分が、あるいは自分の家族がならなければならないのか? 「運が悪かった」で済むか?? 人生も世の中も、圧倒的に「運」に、あるいは「偶然」に支配されているとは言っても。
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  今回のワクチン接種のような<予防接種>による死亡・高度の後遺症の発生を理由とする、国を被告とする訴訟は一時期は相当に多く見られた。
 原因の一つは、予防接種法という法律が法律レベルで定めていた「補償金」の額が低額だつたことにあった。
 そして、重要な法的問題の一つまたは前提的法的問題は、国に(予防接種法という法律が定める以上の)「金銭支払い」義務が発生するとかりにして、それは憲法29条3項による<損失補償>か同17条・国家賠償法による、不法行為についての<損害賠償>かだった。
 立ち入ると、長くなる。
 この度は捲りもしないで書名だけを記すが、多数の論文や判例批評類以外の稀有な単著に、以下があった。
 西埜章・予防接種と法(一粒社、1995〕。
 最高裁判決も出て、上の基本問題については、いちおうの決着はついてる。
 しかし、かつての事例と今回の事例で大きく異なるのは、かつて訴訟にまでなった時代は接種が「強制」されていたのに対して、今回はタテマエとしては「任意」、つまり「同意」をしてワクチン接種を受けている、ということだ。
 <任意>・「同意」の存在にこだわっているように見える発言がときにあるのも、きっと、こういう時代的・制度的背景の違いがあるのだろう。
 だがしかし、「強制」と「任意」は、日本の行政、そして日本の社会一般、あるいは「私人」間の人間関係にもよくあることだが、つねに明瞭に区別できるだろうか??
 接種に「同意」していた、任意に接種されたのだから、「死んでも仕方がない」という理屈は成り立たないだろう。
 「死ぬ可能性をほんの僅かでも認識し、了解していたか否か」に結局はなるのだろうが、しかし、かりにそうであっても、「ほんの僅か」とは程度問題でもあるし、何と言っても、死者は何も語らない。
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  さらなる展開と詳論、最高裁判例の「理屈」の紹介を、機会があればするかもしれない。
 「死亡」事例を念頭に置いたが、むろんそこまでに至らないアナフィラキシー等の副反応のひどい場合もあり得る。