秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ロベスピエール

1536/「左翼」の君へ⑥ -L・コワコフスキの手紙(1974年)。

 L・コワコフスキ=野村美紀子訳・悪魔との対話(筑摩書房、1986)の「訳者あとがき」に、以下はよる。
 ポーランド語原著は1965年刊行で、上の邦訳書は、1968年のドイツ語版の邦訳書。
 Leszek Kolakowski, Gespraech mit dem Teufel (1968).
 また、この欄で言及したL・コワコフスキ『責任と歴史』(勁草書房、1967)の原著は分からなかったが、同じく野村によると、内容は以下と一致するらしい。
 Leszek Kolakowski, Der Mensch ohne Alternative (1960).
 さらに野村美紀子によると(p.199)、1986年頃時点で、つぎの二つのL・コワコフスキの文章が日本語になっている。
 ①「『現代の共同社会』を築きあげるために」朝日ジャーナル1984年1月13日号。
 ②「全体主義の嘘の効用」『世紀末の診断』(みすず書房、1985)に所収。
 この②は、現在試訳しているものを含む、Leszek Kolakowski, Is God Happy ? -Selected Essays (2012)にも、(英語版で)収載されている。Totalitarianism and the Virtue of the Lie (1983).
 試訳・前回のつづき。My Correct View on Everything (1974).
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 君の、君(と私)を『マルクス主義の伝統』(制度に対立する、方法や遺産)の忠誠者の一人に範囲づけようという提案は、捉えどころがなくて曖昧のように思える。
 ただ『マルクス主義者』と呼ばれることが重要だと思っていないとすると-君は思っていないと言うだろう-、君がこれにこだわる意味が私にはよく分からない。
 私は『マルクス主義者』であることに少しも関心はないし、そのように呼ばれることにも少しも関心がない。
 確かに、人文科学で仕事をしている者の中には彼らのマルクスに対する負い目(debt)を認めようとしない者はほんの僅かしかいない。
 私は、その一人ではない。
 私は、マルクスがいなければ歴史に関する我々の思考は違っていただろうし、多くの点で今よりも悪くなっていただろうと、簡単に認める。
 こう言うのは、どうだってよいことだ。
 私はさらに、マルクス理論の多くの重要な教義は偽りである(false)か無意味(meaningless)だと考える。そうでなければ、極めて限定された意味でのみ本当(true)だ。
 労働価値説は、何らかの説明する力を全くもたない規範的な道具だ、と考える。
 マルクスの著作にある史的唯物論の有名な一般的定式のいずれも受け入れられず、この理論は、強く限定された意味でのみ有効だ、と考える。
 マルクスの階級意識の理論は偽りで、その予言の多くは誤り(erroneous)(これは私が感じる一般的叙述であることはその通りだが、この結論についてここできちんと議論しているのではない)だったことが証された。
 にもかかわらず私が(哲学的でなく)歴史的問題について、マルクス主義の伝説を部分的に承継している概念を使って思考していることを承認すれば、マルクス主義者の伝統への忠誠者であることを受け入れることになるのか ?
 『マルクス主義者』の代わりに『キリスト教信者』、『懐疑主義者』、『経験主義者』を使っても同じことが言えるだろうという、ただきわめて緩やかな意味でだ。
 いかなる政党やセクトにも、いかなる教会派やいかなる哲学学派にも属さないで、マルクス主義、キリスト教、懐疑主義哲学、経験主義思想に対する負い目があることを私は、否定しはしない。
 また、その他のいくつかの伝統にも負い目がある(もっと明瞭に言えば東ヨーロッパだ。君には関係がない)。
 折衷主義の反対物が(折衷主義とのレッテルを貼って我々を脅かす人の心のうちには通常あるような)哲学的または政治的偏狭さだとすると、『折衷主義』の恐怖も共有できない。
 こうした乏しい意味で、その他たくさんの中でマルクス主義者の伝統に属することを認める。
 しかし君は、もっと多くのことを意味させていそうだ。
 君は、マルクスの精神的後継者だと定義する『マルクス主義者一族(family)』の存在を示唆しているように見える。
 君は、あちこちでマルクス主義者だと自称している全ての者たちが、世界の残りとは区別されるような一族(この半世紀の間お互いに殺し合ってきているし今もそうであることは気にするな)を形成していると思っているのか ?
 また、この一族は君には(そして私にもそうあるべきらしいが)自己同一性の確認の場所だと思っているのか ?
 君が言いたいのがこういうことならば、その一族に加入するのを拒否すると言うことすらできない。そんなものは、この世界に存在しない。
 世界とは、偉大なヨハネ黙示録の天啓が二つの帝国の間の戦争を引き起こされる可能性がきっとあるような、もう一つの帝国とはともに完璧な具現物だと主張しているマルクス主義であるような、そんな世界だ。//
 <(原文、一行空白)>
 君の手紙には、私が持ち出すべきいくつかの問題がまだある。持ち出したいのは、その重要性ではなくて、君の議論の仕方が不愉快にもデマゴギー的だからだ。
 そのうち二つを取り上げよう。
 君は私の論文を引用して、私の考えは陳腐だと書いている。
 被搾取階級は精神的文化の発展に参加するのを許されなかった、とする部分だ。
 君は排除された労働者階級の報道官のごとく現れて、義憤に満ちたふうに私に、労働者階級は連帯感、忠誠心などを形成したと説く。
 言い換えると、私は、被搾取者が教育を受ける機会が与えられなかったことを称揚するのではなく嘆き悲しむべきだ、と言った、とする。そして君は、労働者階級には道徳心がないとの私の主張らしきものに嫌悪感を示す。
 これは誤読ではなく、私が議論するのを不可能にする、一種の、愚かな、こじつけた読み方(Hineinlesen)だ。
 そうして、新しい社会主義の論理または(もう一度言うが、私は自明のこと(trueism)だと思う)科学の観念は蒙昧主義者(obscurantist)だと烙印を捺したとき、君は、重要なのは論理を変えることではなく、マルクスは所有関係を変革したかったのだと説明する。
 マルクスは本当にそうしたかったのか ?
 よし、君は私の目を開いてくれた、という以外に、私は何を言えるか ?
 <新しい論理>や<新しい科学>の問題は<ブルジョアの論理>や<ブルジョアの科学>に対抗する論争点だったのではないと思っているとすれば、君は完全に間違っている(wrong)。
 そういう考え方は行き過ぎなのではなく、マルクス主義者-レーニン主義者-スターリン主義者〔マルキスト-レーニニスト-スターリニスト〕の間での標準的な思考と議論のやり方だ。
 そういう仕方は、多数のレーニンたち、トロツキーたちそしてロベスピエールたちによって、無傷に相続された。君はそれをアメリカやドイツの大学構内で見たはずだ。//
 第二点は、君が引用している、インタビューを受けた際に私が発した一文に対する君の論評だ。
 『宗教的表象(symbols)を通じる以上の十分な自己同一性の確認(self-identification)の方法はない』、『宗教意識は…人間の文化の不可欠の一部だ』と、私は言った。
 これに君は、激怒した。『何の権利があって(と君は言う)、どんな研究をその伝統と感性に関して行って、宗教的表象の魔術に頑迷に抵抗してきた…古いプロテスタントの島の中心部で、こんなことが普遍的だと決めかかってよいのか』。
 たくさん理由をつけて、釈明する。
 第一。私は古いプロテスタントの島の中心部で、ドイツの土地の上でではなく、ドイツの記者からのインタビューを受けた。
 第二。周知のことと過って思っていたためだが、君が明らかに考えたのとは逆に、『宗教的表象』は必ずしも絵画、塑像、ロザリオ等々であるとは限らない、と説明しなかった。
 人々が信じるものは何でも、超自然的なものと理解し合う方法を与えるし、またはそのエネルギーを運んでくるのだ。
 (イェズス・キリスト自身が表象で、十字架だけがそうなのではない。)
 私はこのような言葉遣いを発明したのではないが、インタビューの際に説明しなかったので、君の偶像破壊主義的なイギリスの伝統を不快にさせたわけだ。
 こうした言葉上の説明は、迷信的な超精霊主義者(Uitramontanist、超モンタノス主義者)によって傷ついた君のプロテスタント的良心をいくぶんかは宥めるか ?
 君はまた、このインタビューで宗教的現象の永続性への私の信条を証明しきれていないと非難する-それは全てに響く。
 私がこの主題でかつて書いた、私の考え方を支える本や論文の全てをこのインタビューの際に引用しなかったのは、まさに私の考えの至らなさだった。
 君には、これらのどの本でも読む義務はない(そのうち一つは800頁以上の厚さで、しかも17世紀の諸教派運動に関するものだから、退屈すぎて、君に読み通すのを求めるのは非人間的だろう)。
 少なくとも君には、この主題での私の考え方を批判しようと試みないかぎりでは、十分な根拠がない。
 したがって、君が憤激して『何の権利があって…』というのは、君に返礼するにはより適切な言葉であるようだ。//
 不運にも、君が書いたものには、私の責任に帰したい何らかの考えにもとづいて、主題を転移させ、私が言うべきだったと君が思う何かを私が言ったと君が信じようとする例が、満ち溢れている。
 きっと君は、教条的な共産主義者の思考方法につねに特徴的な独特の思考の論理に従って、無意識にそうしている。その思考方法には、真実として作動する推論とそうではない推論との違いが完全に消失している。
 だがね、AはBを包含するというのが真実(true)でも、誰かがAを信じているからといって、その人はBを信じているという結論にはならないだろう。
 むしろ正真正銘の本能からするようにこのことを意識的に否認するのは、共産主義者の出版物にはいつも許されている。そして、その読者につぎのように大雑把に作られる情報を与えるのだ。
 『米国の大統領は、平和を愛する全人類の抗議に逆らって、ベトナムで大量殺戮の戦争を継続する、と言った』。
 あるいは、『中国の指導者は、彼ら盲目的強行外交論者、反レーニン主義者の政策は、帝国主義を助けするるために社会主義者の陣地を破壊することを企図している、と明言する』。
 こうした不思議の国の論理には、首尾一貫性がある。そして、君の推論の中にそうした論理がこだまとなって鳴り響いているのが、少しは嫌だね。
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 段落の途中だが、ここで区切る。⑦につづく。

1444/レーニンの個性②-R・パイプス著9章3節。

 前回のつづき。
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 党が示す革命の教条とレーニンとの全同一化のもう一つの魅力的な側面は、独特な形態の個人的謙虚さだ。
 彼の後継者は彼個人の周囲に準宗教的なカルトを作ったが、彼らは自分たちの私的な目的のためにそうした。レーニンがいなければ、運動をともに維持するものは何もなかった。
 レーニンはこのようなカルト化を決して助長しなかった。なぜなら、自分の存在は『プロレタリアート』の存在とは別のものだという見方は受容できないと考えていたからだ。ロベスピエールのように、まさに文言上の意味で、自分は『人民』だと考えていた。(*)
 運動から区別して自分という一個人を取り出されるのを強く嫌う気持ちは、ふつうの虚栄心をはるかに超える自尊心に根ざした、謙虚さのためだった。   
 そのゆえに、回想録に対するレーニンの嫌悪感があった。ロシア革命のいかなる指導者も、自叙伝的資料をもう少しは残したのだったが。(+)// 
 道徳上の呵責を知らない人物。レーニンは、ランケが『完全な自己信頼意識をもつため、自分自身の行動の結果に関する疑いや恐れは体験したことがない痛みである』と述べたローマ法皇に、似ていた。
 このような性格のためにレーニンは、ある種のタイプの、ロシアの似而非インテリたちにはきわめて魅力的だった。そのような者たちはのちに、困惑の世界に確実性を与えてくれるという理由で、群れてボルシェヴィキ党に入っていくだろう。
 とくに若い読み書きの不十分な農民たちには、魅力的だった。彼らは、村落を離れて工場での仕事を求め、かつて慣れていた人間関係が非人間的な経済的かつ社会的束縛に代わった、見知らぬ、冷たい世界で漂っていたのだ。 
 レーニンの党は、彼らに帰属意識を提供した。彼らは団結と単純なスローガンを好んだ。//
 レーニンには強い傾向の冷酷さがあった。彼が主義としてテロルを擁護したこと、何も悪事をしていない無実の多数の人々に死を宣告する布令を発したこと、そして自分に責任がある生命の喪失に対していかほどの悔恨も示さなかったこと、これらは明白な事実だ。
 同時にまた、この冷酷さは他人が苦しむのを見て喜びを引き出すサディズムではなかったことも強調しておく必要がある。
 むしろ、そのような苦しみに対する完全な無関心こそに由来していた。 
 マクシム・ゴーリキはレーニンとの会話から、彼にとっては個々の人間は『ほとんど何の関心もなく、党、大衆、国家…のことのみを考えている』という印象をもった。
 別の場合にゴーリキが言うには、レーニンにとっては労働者階級は金属工にとっての原鉱石のようなもの (27) -換言すれば、社会実験のための原材料ようなものだった。
 レーニンが住んだヴォルガ地域が突然に飢饉に陥った1891-92年にすでに、このような特徴は明らかになっていた。 
 飢餓の農民たちに食糧を供給する委員会が設立された。
 ユリアノフ家の友人によれば、レーニンだけが(いつものようにその家族は共鳴したが)、このような援助に反対した。その理由は、農民を土地から離し、『プロレタリア』予備軍となる都市に移ることを強いることになるので、飢饉は『進歩的な』現象だ、ということだった。
 レーニンは人間を新しい社会建設のための『原鉱石』と見なして、将軍が兵士に敵の砲火の中への前進を命令するときと同じように感情を欠如したまま、人々を処刑部隊の前へと、死へと、送り込んだ。  
 ゴーリキはフランス人から引用して、レーニンは『考えるギロチン』だと言った。
 責任を拒みつつ、彼は人間ぎらいだったと認める。『一般には、彼は人民を愛した。自己犠牲心でもって人民を愛した。彼の愛は憎悪という霧を通してずっと先を見ていた。』(29)
 1917年のあとでゴーリキが、死刑を宣せられたあれこれの人の生命を大切にするように強く求めたとき、レーニンはなぜそんな瑣末なことに邪魔されるのかと本当に当惑しているように見えた。//
 よくあることだが(ロベスピエールにもそのとおりだが)、レーニンの冷酷さの反対面は、臆病さだった。 
 レーニンの人間性のこの側面は、大量の証拠資料があるけれども、諸文献ではほとんど言及されていない。
 まだ10歳代のときには大学を自主退学して学生騒擾への関与に対する制裁を避けようと試みたことがあったものの、レーニンの特徴は勇気の欠如だった。
 のちに記すように、ある原稿が自分の著作物であることををレーニンは認めようとしなかった。それで、共犯者は二年間の流刑を追加された。  
 身の危険に対するレーニンの変わらない反応の仕方は、飛び去ることだった。自分の兵団を見捨てることを意味するとしてですら、拘束や射撃の怖れががあるときはいつでも姿を消す、不思議な能力が彼にはあった。
 第二ドゥーマのボルシェヴィキ議員団長の妻、タチアナ・アレクシンスキーは、レーニンが危険から逃げ去るのを見た。//
 『1906年の夏に初めてレーニンと逢った。
 その出会いを、私は思い出したくない。
 左翼の社会民主主義者たちから崇拝されていたレーニンは、伝説的英雄のように私には思えていた…。
 1905年の革命まで彼は国外にいたので近くで彼を見たことがなく、レーニンは恐怖も汚辱もない革命家だろうとわれわれは想像していた。
 だから、ペテルスブルクの郊外での会合で1906年にレーニンを見たときの私の失望は、何と激烈であったことか。
 私に好ましくない印象を与えたのは、彼の外貌だけではない。禿げていて、赤っぽい鬚を生やし、モンゴルの頬骨をもち、不愉快な話し方をした。
 好ましくない印象は、そのあとの集団示威行進(デモ)の間の彼の振るまいだった。
 群衆を命令している騎馬兵団を見ていただれかが『コサックだ!』と叫んだとき、レーニンは逃げ出した最初の人物だった。
 彼は、柵を跳び越えた。黒布の帽子は脱げ落ち、裸の頭が露わになり、日光のもとで汗をかいて光っていた。
 彼はころげ落ち、立ち上がり、そして走りつづけた…。
 自分の身を守る以外のことは何もなかった。そしてまだ…。』(30) //
 このような魅力的でない個人的特性は、同僚たちにはよく知られていた。しかし、彼らは知っていてそれを無視した。レーニンには、独特の長所があったからだ。すなわち、規律正しい仕事をする異常なほどの能力および革命的教条に対する全的な傾倒。
 ベルトラム・ヴォルフェの言葉によれば、レーニンは『ロシアのマルクス主義運動を生み出した高度の理論的能力をもち、また細かい組織上の仕事に携わる能力と意思を同時にもつ、唯一の人間だった』。(31)
 1885年にレーニンと逢って彼を第二級のインテリと見なしたプレハーノフは、にもかかわらず、レーニンを評価し、かつその欠点を見逃した。プレハーノフの言葉によればその理由は、『彼〔プレハーノフ〕はこの新しい人物〔レーニン〕の重要性を、その思想にでは全くなく、その党組織者としての独創力と才能のうちに認めた』からだった。
 レーニンの『冷たさ』、侮蔑心および残虐さによって追放されたストルーヴェは、自分が『一つに自分の道徳的義務だ、二つにわれわれの教条には[レーニンが]政治的に不可欠だという両者』の関係を配慮して、このような否定的感情を『放逐』した、ということを認めている。(33) //
  (*) 1792年、郊外居住者の輸送に際して、ロベスピエールはこう主張した。『私は人民の廷臣でも、仲裁者でも、審判官でも、擁護者でもない。-私は人民そのものだ!』(Alfred Cobban, Aspects of the French Revolution, London, 1968, p.188.)
  (+) 彼はやがては個人的カルトを許すようになった。その理由を、アンジェリカ・バラバノッフにつぎのように説明した。『有用で、必要ですらある』、『われわれの農民は懐疑的で、読まないし、信じるために逢う必要もない。彼らが私の写真を見れば、レーニンは存在すると納得する。』 Balabanoff, Impressions of Lenin (1964, p.5-6).
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 ③につづく。

1442/レーニンの個性①-R・パイプス著9章3節。

 前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
  第3節・レーニンの個性
 ペテルスブルク-のちにレーニンの名を冠することになる都市-に到着したとき、23歳のレーニンには、十分に形成された個性があった。
 彼が新しい知人に与えた第一印象は、そのときものちも、好ましくないものだった。
 レーニンの背の低い頑丈な身体、早すぎる禿頭(30歳になる前にほとんど全ての毛髪を失っていた)、傾いた両眼と高い頬骨、しばしば嘲りの笑いが伴った無愛想な話し方は、ほとんどの人々を遠ざけた。
 この当時の人々は一致して、彼の魅力のない、『田舎ふうの』外観について語っている。
 A・N・ポトレソフはレーニンに逢って、『どこか北部の、イャロスラヴルのような地方からきた、典型的な中年の販売員』を見た。
 イギリスの外交官、ブルース・ロックハートは、彼は『田舎の食糧品店主』に似ていると思った。
 レーニンの信奉者、アンジェリカ・バラバノッフからすれば、レーニンは『地方の学校教師』に似ていた。(19)//
 この魅力のない男はしかし、内心の力によって輝き、人々に第一印象を忘れさせた。
 意思の強さ、挫けない自己規律、精力、確信、そして揺るぎない根本教条への忠誠は、『カリスマ』というよく使われる言葉でのみ表現できる影響力をもった。 
 ポトレソフによると、この『印象のよくない、粗雑な』、魅力の欠けた人物は、『催眠術のような力』をもっていた。// 
 『プレハノフは尊敬された、マルトフは愛された、しかし、彼らはただ、争う余地のない指導者であるレーニンにのみ、無条件に服従した。なぜなら、どこでも稀れなことだがとくにロシアでは、レーニンだけが、運動、教条への狂信的な忠誠を彼自身への同等の忠誠と結びつけることによって、鉄の意思をもつ人物、無尽蔵のエネルギーという外象を体現化していた。』(20) //
 レーニンの強さと個人的な磁力の基礎となる源泉は、ポトレソフにより示唆される-すなわち、彼の人格と教条との同一化、彼の中にこの二つが分かち難いものになっていること-、そのような性質だった。
 このような外象は、社会主義者のサークルで知られていなくはなかった。
 ロバート・ミッシェルは政党に関する研究書に『党は私だ』との章を設けたが、そこで彼は、ベーベル、マルクスおよびラッサールを含むドイツの社会民主主義者や労働組合指導者たちにある、類似の姿勢を叙述している。
 ミッシェルは、ベーベル崇拝者のつぎの言葉を引用する。すなわち、ベーベルはつねに、自分は党の利益の守護者だと、彼の反対者は党の敵だと、見なしていた。(21)
 ポトレソフも、将来のボルシェヴィキの指導者について、似たような観察を行なった。//
 『社会民主主義の枠内にあれそれともその外にあれ、専政体制に対する民衆運動の隊列には、レーニンにとっては、彼自身のものか、それとも自分のものではないか、という二つの種類の人間や事象しか存在しなかった。
 自分のものたち、つまり何らかの方法で彼の組織の影響力の範囲内に入ってきた者たち、およびそうしなかった、この事実だけで彼が敵だと見なす、他人たち。 
 レーニンにとっては、これらの両極端-同志・友と反対者・敵-の間に、社会的かつ個人的な人間関係の中間的なスペクトルは、存在しなかった…。』(22) //
 このような精神性(mentality)について、トロツキーは興味深い例を残した。
 レーニンとともにロンドンを訪れたときのことを説明してトロツキーが言うには、光景が目にはいったときレーニンは顔色を変えずにあれは『やつらのもの』だとしたが、その意味するところは-トロツキーによると-イギリスのもの、ということではなく、『敵のもの』だ、ということだった。『レーニンがいかなる種類であれ文化的価値があるものあるいは新しい達成物について語ったとき、こうした寸評はつねにあった。…<やつら>は理解した、<やつら>は持っている、<やつら>は完成した、あるいは成功した、-だが、敵としてだ!』(23) //
 通常の『私/われわれ-きみ/彼ら』という二分論は『友-敵』という際立つ二元論に転換され、それはレーニンの場合は、妥協の余地のない両極へと進み、二つの重要な歴史的帰結をもたらした。//
 このような仕方で思考することによって、レーニンは不可避的に、政治を戦争として扱うようになった。
 政治を軍事化し、すべての不同意を、一つの方法による、つまり反対者の肉体的抹殺という方法による解決を容易にするものだと見なすには、マルクスの社会学は必要がなかった。
 レーニンは晩年にクラウゼヴィッツを読んだ。しかし、彼はずっと前から、直感的に、心霊的な個性全体の力によって、クラウゼヴィッツ主義者だった。
 ドイツの戦略家のように、レーニンは、戦争は平和の反対物ではなく、その弁証法的な帰結(コロラリー、corollary)だと考えた。彼はクラウゼヴィッツのように、その目的ではなく、もっぱら勝利を獲得することに執着があった。
 レーニンの生命観は、クラウゼヴィッツと社会的ダーウィン主義を混合したものだった。
 彼が平和を『戦争のための息つぎ期間』と、素直な気分のまれな瞬間に定義したとき、思わずふと、心のきわめて内的な安らぎを見つめたのだ。(24)
 このような思考方法によって、レーニンは不可避的に、戦術上の目的がある場合を除いて、妥協ができなくなった。  
 ひとたびレーニンとその支持者がロシアの権力に到達するや、こうした姿勢は自動的に新しい体制にも浸透した。//
 レーニンの心理的素質のもう一つの帰結は、組織的抵抗のかたちをとってであれ、たんなる批評であれ、いかなる反対にも耐えられなかったことだ。 
 グループや個人に彼の党の構成員ではないもの、そして彼の個人的影響力のもとにはないものをレーニンが感知すれば、彼らは抑圧され、沈黙を強いられなければならない、ということになった。 
 トロツキーは1904年にすでに、このような行動はレーニンの精神性のうちに潜伏している、と記した。
 レーニンをロベスピエールと比較して、トロツキーはつぎのジャコバン派の言明はレーニンにあてはまると考えた。すなわち、『私は二つの党しか知らない-良き市民たちの党と悪い市民たちの党』。
 トロツキーはこう結論する。『この政治的格言は、マクシミリアン・レーニンの心に深く刻まれている。』(25) 〔マクシミリアンは、ジャコバン派・ロベスピエールの個人名ー試訳者〕
 ここに、テロルによる政府の萌芽、民衆の生活や意見を完全に統御しようとする全体主義的野望の萌芽が、横たわっていた。//
 このような性格の魅力的な側面は、信奉者にのみ限定された観念である、『良き市民たち』に向けられたレーニンの忠実さと寛容さだった。これは、あらゆる外部者に対する敵意の反対面だったが。
 後者との不一致を自分個人に対するものと考えたように、一方ではそれだけ多く、レーニンは自分自身の党の内部では、異見に対して驚くべき忍耐力を示した。 
 レーニンは反対者を追放せず、説得しようとした。その際に彼が用いようとした最後の武器は、〔自分の〕辞職という脅迫だった。
  (19) R.H.B.Lockhart, Memooirs of a British Agent (London, 1935), p.237; Angelica Balabanoff, Impressions of Lenin (1964), p.123.
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②につづく

1229/共産主義者は平然と殺戮する-日本共産党と朝鮮労働党は「兄弟」。

 北朝鮮で張成沢の「死刑」執行される。死刑とはいってもいかなる刑事裁判があったのかはまるで明らかではなく、要するに、<粛清>であり、共産主義・独裁者の意向に反したがゆえの<殺戮>だ。
 日本共産党は現在はいちおう紳士的に振るまっているが、歴史的には目的のためには殺人を厭わないことを実践したこともあった。宮本賢治は暴行致死という一般刑罰も含めて網走刑務所に十年以上収監されていた。1950年前後には分裂していた日本共産党の一方は、公然と<武力>闘争を行った。
 1961年綱領のもとで、不破哲三の命名によるいわゆる「人民的議会主義」という穏健路線をとり、また綱領では明確に<社会主義・共産主義>社会をめざすと謳いつつ、とりあえずは<自由と民主主義>を守るとも宣言した。
 だが、だいぶ前に書いたことがあるが、現在の日本共産党員でも、その「主義」に忠実であるかぎりは、自分たちの「敵」の死を願い喜ぶくらいの気持ちは持っており、誰にも認知されない状況にあれば、例えば何らかの事故で「死」に貧しているのが「敵」の人物である場合は、救急車を呼ぶことなく放置し、「死」に至らせてよい、という気分を持っている、と思われる。
 生命についてすらそうなのだから、彼らが「敵」あるいは「保守・反動」と見なす者の感情を害するくらいのことは、これに類似するが<精神的にいじめる>くらいのことは、日本共産党員は平気で行ってきたし、現に行っている、と思われる。
 そのような共産主義者のいやらしさ・怖さを知らないで、日本共産党員学者が提案した声明類に賛同する、結果としてはあるいは客観的には<容共>の大学教授たちも日本には多くいるのだろう。
 20世紀において大戦・戦争による死者数よりも共産主義者による殺人の方が多く、ほぼ1億人に昇ると推定されている(政策失敗による餓死等による殺戮、反対勢力の集団的虐殺、政治犯収容所に送っての病死・餓死、政敵の<粛清>等)。
 「権威主義」は<リベラル>に極化すれば<社会主義(共産主義)>、<保守>に極化すれば<ファシズム>になる。という説明をする者もいる。ハンナ・アレントは<全体主義・ファシズム>には「左翼」のそれである<社会主義(共産主義)>と「右翼のそれである<ナチズム>があるとした。社会主義(共産主義)とファシズム(または全体主義)は対立する、対極にある思想・主義ではなく、共通性・類似性があるのだ。
 また、日本共産党が今のところは「民主主義」の担い手のごとく振るはってはいても、それは「民主主義」の徹底・強化を手段として社会主義(共産主義)へ、という路を想定しているためであり、「真の民主主義」の擁護者・主張者だなどというのは真っ赤なウソだ。フランス革命は<自由と民主主義、民主主義>の近代を生み出したとはいうが、そこでの民主主義の中には、早すぎた<プロレタリア独裁>とも言われる、ロベスピエールの、政敵の殺戮を伴う「恐怖政治」(テルール)を含んでいた。そしてまた、マルクスらの文献を読むと明記されているが、マルクス主義者はフランス革命の担い手に敬意を払い、レーニンらはそれにも学んでロシア革命を成功させた。民主主義の弊害の除去・是正こそ重要な課題だと筆者は考えるが、「民主主義」の徹底・強化を主張する、「民主化」なるものが好きな日本共産党は、市民革命(ブルジョワ革命)から社会主義革命への途へ進むための重要な手段として「民主主義」を語っているにすぎない。北朝鮮の正式名称が「朝鮮民主主義人民共和国」であるように、彼らにとっては「民主主義」と「共産主義」は矛盾しないのだ(だからこそ、<直接民主主義>礼賛というファシズム的思考も出てくる)。
 日本共産党員学者に騙されている大学教授たちに心から言いたい。対立軸は「民主主義」対「ファシズム(または戦前のごとき日本軍国主義)」ではない。後者ではなく前者を選ぶために日本共産党(員)に協力するのは、決定的に判断を誤っている。
 日本での、および世界でもとくに東アジアでの対立軸は、<社会主義(共産主義)>か<自由主義>かだ。誤ったイメージまたはコンセプトを固定化してしまって、共産主義者・日本共産党を客観的には応援することとなる<容共>主義者になってはいけない。
 日本共産党はコミンテルンの指令のもとで国際共産党日本支部として1922年に設立された。日本共産党に32年テーゼを与えたソ連共産党の実権はとっくにスターリンに移っていた。北朝鮮が建国したときにはコミンテルンはなくなっていたが、その建国時に金日成を「傀儡政権」の指導者としてモスクワから送り込んだのは、スターリンだった。
 してみると、日本共産党と「傀儡政権」党だった朝鮮労働党は<兄弟政党>であり、後者ではその後「世襲」により指導者が交代して三代目を迎えていることになる。
 歴史的に見て、日本共産党は北朝鮮の悲惨さ・劣悪さ・非人道ぶりを自分たちと無関係だなどとほざいてはおれないはずだ。まずは、マルクス主義・共産主義自体が誤りだったとの総括と反省および謝罪から始めなければならない。
 だが、ソ連が消滅してもソ連は「(真の)社会主義」国家ではなかったと「後出しじゃんけん」をして言うくらいだから、中国共産党や朝鮮労働党が崩壊・解体しても、いずれも「(真の)社会主義・共産主義」政党ではなかった、と言いだしかねない。なおも<青い鳥>のごとき<真の社会主義・共産主義>社会への夢想を語り続けるのかもしれない。もともと外来思想であって、日本人の多数を捉えることができるはずのない思想なのだが、それだけ、<マルクス幻想>、ルソーの撒き散らした<平等>幻想は強い、ということなのだろう。

1019/西尾幹二による樋口陽一批判②。

 前回のつづき。西尾幹二は、「ルソー=ジャコバン型モデルの意義を、そのもたらす痛みとともに追体験することの方が重要」という部分を含む樋口陽一の文章を20行近く引用したあと次のように批判する。
 ・「まずフランスを上位に据えて、ドイツ、日本の順に上から序列づける図式的思考の典型例」が認められる。「後進国」ドイツ・日本の「劣等感」に根拠があるかのようだった「革命待望の時代にだけ有効な立論」だ。革命は社会の進歩に逆行するという実例は、ロシア・中国で繰り返されたのだ(p.73-74)。
 ・中間団体・共同体を破壊して「個人を…裸の無防備の状態」にしたのが革命の成果だと樋口陽一は考えているが、中間団体・共同体の中には教会も含まれる。そして、王制だけではなく「カトリック教会」をも敵視した「ルソー=ジャコバン型」国家は西欧での「一般的な歴史展開」ではなく、フランスに「独自の展開、一つの特殊で、例外的な現象」だ。イエ・家族を中間団体として敵視するフランス的近代立憲主義は「日本の伝統文化と…不一致」だ(p.74-75)。
 ・日本では「現に樋口陽一氏のようなフランス一辺倒の硬直した頭脳が、国の大元をなす憲法学の中心に座を占め、若い人を動かしつづけている」。「樋口氏の弟子たちが裁判官になり、法制局に入り、…などなどと考えると、…背筋が寒くなる思いがする」(p.75)。
 ・オウム真理教の出現した戦後50年めの椿事は、「『個人』だの『自由』だのに対し無警戒だった戦後文化の行き着いた到達点」で、「解放」を過激に求めつづけた「進歩的憲法学者に煽動の責任がまったくなかったとは言いきれまい」。「解放と自由」は異なる。何ものかへの「帰依」なくして「自我」は成立せず、「信従」なくして「個性」も芽生えない。「共同体」をいっさい壊せば、人間は「贋物の共同体に支配される」(p.75)。
 ・「樋口氏の著作」を読んでいると、「社会を徹底的に『個人』に分解し、アトム化し、その意志をどこまでも追求していく結果、従来の価値規範や秩序と矛盾対立の関係が生じた場合に、『個人』の意志に抑制を求めるのではなく、逆に従来の価値規範や秩序の側に変革を求めるという方向性」が明確だ。「分解され、アトムと化した『個人』の意志をどこまでも絶対視する」結果、「『個人』はさらに分解され、ばらばらのエゴの不毛な集積体と化する」(p.75-76)。
 ・「『個人』の無限の解放は一転して全体主義に変わりかねない。それが現代である。ロベスピエールは現代ではスターリンになる可能性の方が高い」。実際とは異なり「概念操作だけはフランス的で…『個人』を無理やり演出させられていく」ならば、東北アジア人としての「実際の生き方の後ろめたさが陰にこもり、実際が正しければ正しいほど矛盾が大きくなる」、というのが日本の現実のようだ(p.76)。
 以上。法学部出身者または法学者ではない<保守>論客が、特定の「進歩的」憲法学者の議論(の一部)を正面から批判した、珍しいと思われる例として、紹介した。  樋口陽一らの説く「個人主義」こそが、個々の日本人を「ばらばらのエゴの不毛な集積体」にしつつある(またはほんどそうなっている)のではないか。
 本来は、このような批判的分析・検討は、樋口陽一に対してのみならず、古くは宮沢俊義や、新しくは辻村みよ子・浦部法穂や長谷部恭男らの憲法学者の議論・主張に対して、八木秀次・西修・百地章らの憲法学者によってこそ詳細になされるべきものだ。  「国の大元をなす憲法学の中心」が<左翼>によって占められ続けているという現実を(そしてむろんその影響はたんに憲法アカデミズム内に限られはしないことを)、そして有効かつ適切な対抗が十分にはできていないことを、少数派に属する<保守>は深刻に受けとめなければならない。

1018/西尾幹二による樋口陽一批判①。

 一 フランス革命やフランス1793年憲法(・ロベスピエール)、さらにはルソーについてはすでに何度か触れた。また、フランスの「ルソー=ジャコバン主義」を称揚して「一九八九年の日本社会にとっては、二世紀前に、中間団体をしつこいまでに敵視しながらいわば力ずくで『個人』をつかみ出したルソー=ジャコバン型個人主義の意義を、そのもたらす痛みとともに追体験することの方が、重要なのではないだろうか」(自由と国家p.170)とまで主張する樋口陽一(前東京大学・憲法学)の著書を複数読んで、2008年に、この欄で批判的にとり上げたこともある。以下は、その一部だ。
 ・「憲法学者・樋口陽一はデマゴーグ・たぶんその1」
 ・「樋口陽一のデマ2+……」

 ・「憲法デマゴーグ・樋口陽一-その3・個人主義と『家族解体』論」
 ・「樋口陽一のデマ4-『社会主義』は『必要不可欠の貢献』をした」
 ・「憲法学者・樋口陽一の究極のデマ-その6・思想としての『個人』・『個人主義』・『個人の自由』」
 二 西尾幹二全集が今秋から刊行されるらしい。たぶん全巻購入するだろう。
 西尾『皇太子さまへのご忠言』以外はできるだけ西尾の本を購入していたが、西尾幹二『自由の恐怖―宗教から全体主義へ』(文藝春秋、1995)は今年になってから入手した。
 上の本のⅠの二つ目の論考(初出、諸君!1995年10月号)の中に、ほぼ7頁にわたって、樋口陽一批判があることに気づいた(既読だったとすれば、思い出した)。西尾は樋口陽一の『自由と国家』・『憲法』・『近代国民国家の憲法構造』を明記したうえで、以下のように批判している。ほとんど全く異論のないものだ。以下、要約的引用。
 ・「善かれ悪しかれ日本は西欧化されていて、国の基本をきめる憲法は…西欧産、というより西欧のなにかの模造品」だ。法学部学生は「西欧の法学を理想として学んだ教授に学んで、…日本人の生き方の西欧に照らしての不足や欠陥を今でもしきりに教えこまれている。……西欧人に比べて日本人の『個』はまだ不十分で…たち遅れている、といった三十年前に死滅したはずの進歩派の童話を繰り返し、繰り返しリフレインのように耳に注ぎこまれている」(p.70)。
 ・「例えば憲法学者樋口陽一氏にみられる…偏光レンズが『信教の自由』の憲法解釈…などに影響を及ぼすことなしとしないと予想し、私は憂慮する」(同上)。
 ・「樋口氏の文章は難解で読みにくく…符丁や隠語を散りばめた閉鎖的世界で、いくつかの未証明の独断のうえに成り立っている。それでも私は……など〔上記3著-秋月〕、氏の著作を理解しよう」とし、「いくつかの独断の存在に気がついた」(p.71)。
 ・「『日本はまだ市民革命が済んでいない』がその一つ」だ。樋口によると、「日本では『個人』がまだ十分に析出されていない」。「近代立憲主義を確立していくうえで、日本は『個人』の成立を阻むイエとか小家族とか会社とか…があって、今日でもまだ立ち遅れの著しい第一段階にある」。一方、「フランス革命が切り拓いたジャコバン主義的観念は『個人』の成立を妨げるあらゆる中間団体・共同体を否定して、個人と国家の二極のみから成る『ルソー=ジャコバン型』国家を生み出す基礎となった」。近代立憲主義の前提にはかかる「徹底した個人主義」があり、それを革命が示した点に「近代史における『フランスの典型性』」がある。―というようなことを大筋で述べているが、「もとよりこれも未証明の独断である。というより、マルクス主義の退潮以後すっかり信憑性を失った革命観の一つだと思う」(同上)。
 ・フランス本国で「ルソー=ジャコバン型」国家なる概念をどの程度フランス人が理想としているか、「私にははなはだ疑わしい」。「ジャコバン党は敬愛されていない。ロベスピエールの子孫の一族が一族の名を隠して生きたという国だ」。ロベスピエールはスターリンの「先駆」だとする歴史学説も「あると聞く」。それに「市民革命」経ずして「個人」析出不能だとすれば、「革命」を経た数カ国以外に永遠に「個人」が析出される国は出ないだろう。「樋口氏の期待するような革命は二度と起こらないからである」。「市民革命を夢みる時代は終わったのだ」(p.71-72)。
 ・樋口陽一の専門的議論に付き合うつもりはない。だが、「どんな専門的文章にも素人が読んで直覚的に分ることがある。氏の立論は…今述べた二、三の独断のうえに成り立っていて」、その前提を信頼しないで取り払ってしまえば、「立論全体が総崩れになるような性格のもの」だ(p.72)。
 ・樋口陽一「氏を支えているのは学問ではなく、フランス革命に対する単なる信仰である」(同上)。
 まだあるが、長くなったので、別の回に続ける。  

0960/レーニンとフランス・ジャコバン独裁(1793年憲法)-その2。

 レーニンが1915年11月に雑誌か新聞に寄せた論文「革命の二つの方向について」(レーニン10巻選集第6巻(大月書店、1971)p.172-3)は、フランス一七八九年革命に次のように言及している。

 ①プレハーノフは、マルクスの「フランスの一七八九年の革命は、上向線をたどったが一八四八年の革命は下向線をたどった」との文を引用する。前者では権力が「より穏健な政党からより左翼的な政党へと」、すなわち「立憲派―ジロンド派―ジャコバン派」へと移行した。後者では逆だ(「プロレタリアート―小ブルジョア民主主義派―ブルジョア共和派―ナポレオン三世」)。これらの事例からするプレハーノフの現在のロシアに関する推論は誤っている。

 ②「マルクスは、一七八九年にはフランスでは農民と結合し、一八四八年には小ブルジョア民主主義派がプロレタリアートを裏切ったと書いている」。

 ③「一七八九年の上向線は、人民が絶対主義に勝った革命の形態であった。一八四八年の下向線は、小ブルジョアジーの大衆がプロレタリアートを裏切って革命を敗北させた革命の形態であった」。

 プレハーノフによるロシア(1915年時点)への推論を批判してはいるが、マルクスが示したという「革命の二つの方向」、一七八九年の「上向線」と、一八四八年の「下向線」という理解そのものには、レーニンも反対していないことは明らかだ。成功(上向)と失敗(下向)の各事例の階級・階層関係の分析がプレハーノフとは異なるようだ。

 さて、上の②をプレハーノフは知っていたのに無視しているとレーニンは批判しているが(p.172)。上の②とこの批判を含まない、これらに続く文章が、平野義太郎編・レーニン/国家・法律と革命(大月書店、1967)に引用されている(平野編p.115)。

 「一七八九年のフランスでは、絶対主義と貴族を打倒することが問題であった。ブルジョアジーは、……農民との同盟に応じた。この同盟が革命の完全な勝利を保証したのである。一八四八年には、プロレタリアートがブルジョアジーを打倒することが問題であった。フロレタリアートは、小ブルジョアジーを自分のほうに引きつけることに成功しなかった。そして小ブルジョアジーの裏切りが革命を敗北させたのである」。

 このあとに、上記の(レーニン選集第6巻の)③がつづく。

 但し、平野編著は、上の①・②を割愛しているからだろう、そのまま引用するだけではなく、〔〕内に平野による「注」または「補足」を挿入している。したがって、上の③は次のようになっている。
 ③「一七八九年の上向線立憲派―ジロンド党―ジャコバン党〕は、人民が絶対主義に勝った革命の形態であった。一八四八年の下向線〔プロレタリアート―小ブルジョア民主主義派―ブルジョア共和派―ナポレオン三世〕は、小ブルジョアジーの大衆がプロレタリアートを裏切って革命を敗北させた革命の形態であった」。

 レーニン自身による上の①を参照すると、ここでの〔〕内への挿入内容が平野による独自の解釈などではなく、レーニンの理解と矛盾していないことは明瞭だろう。

 つまり、こういうことだ。レーニンは、<絶対主義→ブルジョア民主主義>というフランス革命の「勝利」の最後の頂点に「ジャコバン派(党)」を位置づけている。

 レーニンにおいて、ジャコバン独裁・1793年の時期が肯定的に評価されていることは明らかだ。あらためて記しておくが、そのようなジャコバン独裁期に制定された(だが施行されなかった)、「人民(プープル)主権」原理に立つ1793年憲法を熱心に研究して1989年に著書を刊行したのが、辻村みよ子(現東北大学教授)だ。

 なお、レーニンが執筆したもののすべてに目を通すことは不可能で、平野編著も決して網羅的ではないようだ。河野健二・フランス革命小史(岩波新書、1959)によるとレーニンは1915年に「偉大なブルジョア革命家」として「ロベスピエール」(ジャコバン派)に言及したらしいのだが、該当部分をレーニンの著書や上の平野編著の中に見出すことはできなかった。

 レーニン(またはマルクス)がフランス・ジャコバン独裁をどう評価していたかの探索(?)は、とりあえずはこれで終えておく。

0953/辻村みよ子・フランス革命の憲法原理(1989)は「社会主義」の失敗・死滅を予想していたか。

 一 ブレジンスキーはアメリカ中心の歴史観・時代観に立っているだろうし、共産主義に対する「民主主義」の勝利という書き方をしているのも、欧米的「民主主義」に万全の信頼を置かないかぎり、全面的には賛同できないところがある。

 だが、1989年の前半の時点で<共産主義の死滅>を明瞭に予測した書物(伊藤憲一訳・大いなる失敗、計366頁)を執筆しえたことは、やはり記憶にとどめられてよいものと思われる。

 二 ところで、既に言及している辻村みよ子・フランス革命の憲法原理―近代憲法とジャコバン主義(日本評論社)は、1989年7月に刊行されている。

 この書は序章によると、「人民主権」原理による男子普通選挙制・人民投票制等の「民主的な内容」をもったためにフランスで「最も民主的な憲法」等と評価されてもいる1793年憲法、パリ・コミューンや第二次大戦後の「左翼共同政府綱領」等々においていわば「反体制のシンボル」たる役割を果たしてきた1793年憲法、について、「その特質とブルジョワ憲法としての限界を明らかにしよう」とするもので、同時に、①「ブルジョワ革命期憲法」=「近代市民憲法」の「本質と限界」等にもアプローチし、②「近代市民憲法の嫡流である日本国憲法の諸原理との比較研究」も行う(p.3-6)。

 フランス革命の簡単な通史である河野健二・フランス革命小史(岩波新書、1959)は、むろん辻村著のごとく1793年憲法に詳細に立ち入っていないが、「ルソーの問題意識と理論の継承者」だったとするモンターニュ派=ジャコバン派の支配したフランス革命の一時期と1793年憲法について、次のように書いていた。

 ・1793年憲法は「ルソー的民主主義を基調」とし、「『人民』主権」を採り、議員は選挙民に「拘束」された。この最後の点は「『一般意思』は議員によって代表されないというルソーの理論の適用」だった(p.148)。のちの「民主主義者たち」や「二月革命期の共和派左翼」は「福音書」扱いし、「革命の最大の成果をこの憲法のなかにみた」(p.148-9)。

 ・ロベスピエールとともに公安委員会委員だったサン=ジュストは「反革命容疑者の財産を没収」し「貧しい愛国者たちに無償で分配」することを定める法令を提案し制定した。「ルソーが望んだように『圧制も搾取もない』平等社会を実現」することを企図したものだが、「資本主義が本格的にはじまろう」という時期に「すべての人間を財産所有者にかえようとする」ことは「しょせん『巨大な錯覚』(マルクス)でしかなかった」(p.157)。
 ・経済的には「ブルジョア革命」は1793年5月に終わっていたので、その後に「ロベスピエールが小ブルジョア的な精神主義」に陥ったときに「危機が急速度にやってきた」。しかし、「ロベスピエール派」の「政治的実践」は「すべて無効」ではない。国王処刑と独裁は「一切の古い機構、しきたり、思想を一挙に粉砕し、…政治を完全に人民のものにすることができた」。「この『
フランス
革命の巨大な箒』(マルクス)があったからこそ、人々は自由で民主的な人間関係をはじめて自分のものとすることができた」(p.166-7)。
 ・この時期に「私有財産にたいする攻撃、財産の共有制への要求があらわれた」。とくにロベスピエールは、「すべての人間を小ブルジョア的勤労者たらしめる『平等の共和国』」を樹立しようとしたが、この意図は「輪郭がえがかれたままで挫折した」(p.190)。
 ・「資本主義がまさに出発」しようとしているとき、「すべての人間を小ブルジョアとして育成し、固定させようとすることは、歴史の法則への挑戦であった」。「悲壮な挫折は不可避」だった(p.190)。

 この河野健二著は、ジャコバン独裁期と1793年憲法の「特質と限界」を、すでに簡潔に述べていた、と言えるだろう。

 河野によれば、大まかにいって、ジャコバン独裁期と1793年憲法は、「民衆」とともに(「民衆」のための)急進的平等主義を目指したがゆえに「歴史の法則」に反し、そのゆえに不可避的に「悲壮な挫折」をした。

 辻村みよ子もまた、より複雑に叙述しているとはいえ、河野健二と似たようなことを書いている。例えば、総括的な章の中に、1793年憲法が「民主的・急進的な憲法原理」を持っていたことを認めたうえでの、次のような文章がある。

 ・1793年憲法の「不完全な」「人民主権」原理でさえ、ロベスピエールらは「あくまで(議会)ブルジョアジー」で「民衆」とは一線を画し、「民衆の利益を共有することは本来的に不可能」だったために、「危機」がなくとも実施されなかっただろう。

 ・「一方、主権者としての民衆も、この民主的な憲法を実施するには、あまりにも未熟」だった(p.376)。

 河野はロベスピエールは「民衆の力を基礎として資本の支配に断乎たるたたかいを挑み、一時的にせよ、それを成功させた最初の人間」だと評するのに対して、辻村はロベスピエールらは「民衆」とは社会基盤を異にする「議会ブルジョアジー」だったとする。このような、あるレベルでは重要かもしれない違いはあるが、<「民衆」を基礎にしたさらなる(徹底的な)変革を現実に行うには、時代的・時期的な限界があった>という点では共通の理解があるものと思われる。

 興味があるのは、1989年に書物を刊行したとき、辻村みよ子は、いかなる時代状況、あるいはいかなる「歴史の発展」方向にかかる意識・認識をもっていたのか、だ。

 ほぼ同時期に、「共産主義(・社会主義)」の死滅を予見するブレジンスキーの本が出ていたし、すでにソ連や東欧等の<激変>の兆しは表れていた。

 にもかかわらず、やはりこの人は、絶対王政→近代市民(ブルジョア)革命→社会主義革命という<見通し>をなおも有していたのではないか。

 辻村自身が、1793年憲法はパリ・コミューンやバブーフ等々によって参照されかつ支持されてきたことを述べている。バブーフについて、こう書く。

 「私有財産を廃止による徹底的な平等と人民主権の実現をめざしていたバブーフも、一九七三年憲法を高く評価していた」(p.377)。「バブーフの平等主義」は1793憲法の諸原理を「超える」ものだったが、1795年憲法に対抗して「民衆や反政府的共和主義者」の力を結集するためには、彼らが尊重すべき「民衆的・民主的伝統の源泉」だった1793年憲法は「必要かつ最も適切な道具」でもあった(p.378)。

 しかし、辻村は、注意深く(?)、1793年憲法あるいはジャコバン独裁(ロベスピエールら)とマルクスやレーニン(・ロシア革命)との関係に言及することを避けている。おそらくは意図的にだ。

 これについては河野健二の著が、すでに紹介した中にマルクスの言葉が使われていたように、率直に語っている。
 ・レーニンは1915年に、「マルクス主義者」は「偉大なブルジョア革命家に、最も深い尊敬の念をよせ」る、と書いたが、その際、「彼はロベスピエールの名前をあげることを忘れなかった」。

 ・「ロシア革命の一歩一歩は、フランス革命におけるジャコバンのたたかいと、公安委員会とパリ・コミューンの経験を貴重な先例として学びつつ進められた」(p.193)。
 そもそもが、辻村が「ブルジョアジー」と区別して用いている「民衆」とは、いったい何を指しているのだろうか。何を意味させているのだろうか。この人が頻繁に使う「民主的」とかの概念とともに、じつは明瞭には説明・定義されていない。

 だが、おそらくは、のちには(のちのロシア革命では)革命の「主体」となった「民衆」、すなわちマルクス主義用語にいう「プロレタリアート」(労働者大衆)を意味させているのだろう。「ブルジョアジー」と区別して対比させられる範疇としては、これしか考えられない。

 辻村みよ子はおそらく、早すぎたがゆえに挫折した「社会主義革命」の試みまたはその萌芽をジャコバン独裁と1793憲法のうちに見て、今日でも、「近代市民憲法の嫡流である日本国憲法」の解釈論等に1793年憲法の諸原理を生かそうとしているとしているのだろう(具体例として、外国人参政権肯定がある)。

 このような辻村にとって、1989年の時点で、ロシア革命により成立したソビエト連邦等が崩壊することなど、微塵も想定できないことだったに違いない。

 現在では、社会主義への「発展」については多少は自信(?)を無くしているかもしれない。だが、日本国憲法を「近代市民憲法の嫡流」とあっさりと書いた辻村は、今日でもなお、佐伯啓思のいう「マルクス主義だの戦後進歩主義だの」という思潮の影響を受けた者の「思い込み」、すなわち「西欧近代は、中世・封建制を打倒して、人間の普遍的な自由を打ち出したという歴史観…。そして、日本は、…明治に西欧的近代を導入し、…戦後に改めて自由と民主主義を確立した」という「思い込み」(12/13エントリー参照)だけには少なくとも強く浸ったままだろう。

0855/山内昌之・歴史学の名著30におけるレーニン・トロツキーとジャコバン・ルソー・ヘーゲル。

 一 山内昌之・歴史学の名著30(ちくま新書、2007)は、「作品の歴史性そのもの」、「存在感や意義」を考えて、ロシア革命についてはトロツキーを選び、E・H・カーを捨てた、という。
 トロツキー・ロシア革命史(1931)を私は(もちろん)読んでいない。トロツキストの嫌いな日本共産党とその党員にとってはトロツキーの本というだけで<禁書>なのだろうが、そういう理由によるのではない。
 山内の内容紹介にいちいち言及しない。目に止まったのは、次の部分だ。
 山内はトロツキーによる評価・総括を(少なくとも全面的には)支持しておらず、トロツキーが「革命が国の文化の衰退を招いた」との言説に反発するのは賛成できない、とする。いささか理解しにくい文章だが、結局山内は「革命が国の文化の衰退を招いた」という見方を支持していることになろう。推測を混ぜれば、トロツキーはかつての(革命前の)ロシアの文化など大したものではなかった、と考えていたのだろう。
 そのあとに、山内の次の一文が続く。
 革命によって打倒された「文化が、西欧の高度の模範を皮相に模倣した『貴族文化』にすぎないとすれば、ヘーゲルやルソーなど、トロツキーやレーニンらロシアのジャコバンたちが多くを負う思想を含めた西欧文化は行き場所がなくなってしまう」(p.206)。
 これも分かり易い文章ではないが(文章が下手だと批判しているのではない)、一つは、革命前のロシアも「西欧文化」を引き継いでいたこと、二つは、その「西欧文化」の中には「ヘーゲルやルソーなど、トロツキーやレーニンらロシアのジャコバンたちが多くを負う思想」が含まれていること、を少なくとも述べているだろう。
 興味深いのは上の第二点で、山内は、「トロツキーやレーニンらロシアのジャコバンたち」は「ヘーゲルやルソーなど」に負っている(を依拠している、継承している)として、まずは、「トロツキーやレーニンら」を「ジャコバンたち」、つまりフランス革命のジャコバン独裁期のロベスピエールらと同一視または類似視している。
 そして、つぎに、そのような「トロツキーやレーニンら」の源泉・淵源あるいは先輩には「ヘーゲルやルソーなど」がいる、ということを前提として記している。ルソーがいてこそマルクス(そしてレーニン)もあるのだ。
 短い文章の中のものだが、上の二点ともに、私の理解してきたことと同じで、山内昌之という人は、イスラム関係が専門で、ロシア革命やフランス革命、あるいはこれらを含む欧州史・西欧思想の専門家ではないにもかかわらず、よく勉強している、博学の、かつ鋭い人物に違いない、と感じている。
 山内は1947年生まれ。「団塊」世代だ。岩波書店からも書物を刊行しているが、コミュニスト、親コミュニズムの「左翼」学者ではない、と思われる。そして他大学から東京大学に招聘されたようで、東京大学も全体として<左翼>に染まっているわけではないらしい。
 但し、東京大学の文学部(文学研究科)でも法学部(法学研究科)でもなく、大学院「総合文化研究科」の教授。さすがに東京大学は、「歴史学」の<牙城>であるはずの文学研究科の「史学(歴史学)」の講座または科目はこの人に用意しなかったようだ。

0774/ルソーとフランス革命と「全体主義」。

 1.ルソーは将来の「フランス革命」の具体的戦略・戦術を論じてはいない。マルクスも、将来の「ロシア革命」の具体的戦略・戦術を論じてはいない(それをしたのはレーニンだ)。
 だが、ルソーが「フランス革命」の理論的・理念的ないし<思想的>根拠を、マルクスが「ロシア革命」の理論的・理念的ないし<思想的>根拠を提供したからこそ、ルソーとマルクスは後世にまで名を知られ、影響を与えたのだろう。言うまでもなく、「フランス革命」と「ロシア革命」は現実に(とりあえずは)<成功した>革命だったからだ。「フランス革命」と「ロシア革命」が現実に生起していなければ、ルソーもマルクスも、現実に持ったような「思想」的影響力を持たなかったように思われる。
 2.ルソーのいう「社会契約」等が内容的・思想的にフランス革命に影響を与えただろうことは推測がつく。また、『人間不平等起原論』が人間の「本来的平等」論につながるだろうことも判る。だが、ルソーとフランス革命の関係、前者の後者への具体的影響関係は必ずしも(私には)よく分からないところがある。
 前回言及の小林善彦ら訳の本(中公クラシックス)のルソーの年譜に、1778年に死去してパリの「エルムノンヴィル邸」(城館)に面する池の中の「ポプラの島」の埋葬されたが、1794年10月11日に遺骸が「ポプラの島」から「パンテオン」に移されて葬られた、とある。中心部の南又は東南にある「パンテオン」はフランス又はパリの<偉人>たちの墓でもあるらしいので、ロベスピエールの失脚(斬首)のあとの、1794年10月段階の穏健「革命」政府によって積極的に評価された一人だったことは確かだ。
 詳細な人物伝ではないが、中里良二・ルソー(人と思想)(清水書院、1969)という本があり、次のような文章を載せる。
 ・「ルソーの『社会契約論』は、その存命中にはあまり広くは読まれなかったが、かれの死後、革命家たちの福音書になり、デモクラシーの精神を発達させるのに役立った。そして、一七九三年には、ロベスピエールとサン=ジュストは、『社会契約論』を典拠として国民公会憲法をつくったという」(p.24)。この「国民公会憲法」は1793年制定だとすると、これは<プープル(人民)主権>を謳った、しかし施行されなかった、辻村みよ子お気に入りのフランス1793年憲法のことだ。
 ・「ルソーがフランス革命において、ただ一人の先駆者」ではないが、「その一人であるということはできよう」。「一七九一年一二月二九日、デュマールは国民議会でルソーの像を建てることを提案する演説の中で、『諸君はジャン=ジャック=ルソーの中に、この大革命の先駆者をみるだろう』といっている」。
 ・「マラは一七八八年に公共の広場で『社会契約論』を読んでそれを注解し、それを熱心に読んだ聴衆が拍手喝采したという」。
 ・「一七九一年には、モンモランシーに建てられたルソー像には『われわれの憲法の基礎をつくった』と刻まれている」(以上、p.25)。
 このあと、中里良二はこうまとめる。
 「このような例だけによってみても、ルソーのフランス革命への影響がいかに大きかったかがうかがい知られる…」。
 ロベスピエールを<ルソーの子>又はこれと類似に表現する文献を読んだような気がする(中川八洋の本だったかもしれないが、確認の手間を省く)。
 ともあれ、ルソーのとくに『社会契約論』は(他に所謂<啓蒙思想>等もあるが)「フランス革命」の現実の生起に<思想的>影響を与えたことは間違いないようだ。
 なお、松浦義弘「ロベスピエール現象とは何か」世界歴史17・環大西洋革命(岩波講座、1997)p.200によると、ロベスピエールは「ルソーの霊への献辞」と題する文章の中で、「同胞たちの幸福」を求めたという自らの意識が「有徳の士にあたえられる報酬」だ、と書いたらしい。
 3.もっとも、以上は、松浦義弘(1952~)のものを除いて、フランス革命を<進歩的>な<良い>現象と捉えたうえで、ルソーにも当然に肯定的な評価を与えるものなので、その点は割り引いて読む必要がある。
 中里良二(1933~)の本の「はしがき」は次の文章から始まる。
 「ルソーは、今日にもっとも影響を及ぼした一八世紀の思想家の一人である」。
 その「影響」が人類にとって「よい」ものだったか否かはまだ結論を出してはいけないのではなかろうか。
 しかし、小林善彦(1927~)はこうも書いている。
 『社会契約論』は理解困難だった歴史をもつ。「二〇世紀の後半になると、ルソーこそは全体主義の源流だと見なす研究者さえ出てきている。時代背景も著者の生涯も無視して、たんにテクストだけを切り離して読むならば、そう読めないこともないとはいえるが、それならばルソーが二百年以上もの間、日本を含めて世界中におよぼした影響をどう説明するのだろうか。やはり素直に読めば、主権者たる市民による民主主義の主張の書として読むのが正しいのではないかと思う」(中公クラシックス・ルソーp.18)。
 ここでは、①「たんにテクストだけを切り離して読むならば」、「ルソーこそは全体主義の源流だ」と「読めないこともないとはいえる」、と認めていることが興味深い。そして、フランス革命時の革命家たちは「テクストだけを切り離して」読んでいたのではないか、と想像できなくもないので、彼らは実質的には<全体主義>者になったと言うことも不可能ではない、ということになりそうなことも興味深い。
 ②疑いなく、「主権者たる市民による民主主義」を、肯定的に理解している。全世界に、少なくとも日本とっても<普遍的に正しい>思想だと理解している。かかる、小林善彦が当然視しているドグマこそ疑ってかかる必要があるのではないか、と特段の理由づけを示すことなく、言えるだろう。佐伯啓思・自由と民主主義をもうやめる(幻冬舎新書、2008)という本もあった。
 もっとも、日本の中学や高校の社会系教科書では、圧倒的に、ルソーは小林善彦らの(従来の)通説に従って評価され、叙述されてはいるのだが。
 ③「ルソーが二百年以上もの間、日本を含めて世界中におよぼした影響をどう説明するのだろうか」との指摘は<全体主義の源流>論に対する、何の反論にもならない。<二百年以上もの間、日本を含めて世界中におよぼした「悪い」影響>の可能性を否定できない。ルソー(・フランス革命)はマルクスに影響を与え、従って「ロシア革命」にも影響を与えた。共産主義(コミュニズム)による一億人以上の殺戮に、ルソーは全く無関係なのかどうか。

0766/ハンナ・アレント・革命について(ちくま学芸文庫、志水速雄訳)におけるフランス革命1。

 ハンナ・アレント・革命について(ちくま学芸文庫、志水速雄、1995、初出1975)から、フランス革命について言及するところを引用して紹介。阪本昌成の本が前回紹介した部分で参照要求している箇所とは異なる。p.242-243。
 別に扱いたいルソーの<社会契約論>・「一般意思」に言及する部分(②)もあるが、一連の叙述なので、この回で引用しておく。
 ①「歴史的にいえば、アメリカ革命とフランス革命のもっとも明白で、もっとも決定的な相違は、アメリカ革命の受け継いだ歴史的遺産が『制限君主制』であったのに対して、フランス革命のそれは、明らかに、われわれの時代の最初の数世紀とローマ帝国の最後の数世紀にまで遠くさかのぼる絶対主義だったということ」だ。
 「新しい絶対者たる絶対革命を、それに先行する絶対君主制によって説明し、旧支配者が絶対的であればあるほど、それにとって代わる革命も絶対的となるという結論をくだすことくらい真実らしく思われることはない」。
 「十八世紀のフランス革命と、それをモデルにした二十世紀のロシア革命は、この真実らしさの一連の表現であると考えることは容易であろう」。
 ②「ルソーの一般意思の観念は、…、国民が複数の人間から成るのではなく、あたかも実際に一人の人間から成るように扱っている。…この一般意思の観念がフランス革命のすべての党派にとって公理となったのは、それがこのように、実際、絶対君主の主権意思の理論的置きかえであったため」だ。「問題の核心は、憲法によって制限された国王と異なり、絶対君主は、国民の潜在的に永遠の生命を代表していたということ」だ。
 上の②は、阪本昌成が1793年憲法(ジャコバン独裁=ロベスピエール)がいう「プープル(人民)主権論」は「全体主義の母胎」になったと指摘していた(前回紹介参照)のと実質的には同趣旨だと解される。
 なお、かかるアレントのフランス革命理解は日本の学校教育におけるフランス革命の叙述にほとんど生かされてはいないようだ。また、岩波書店はハンナ・アレントの著作の文庫化を全くしていないことも興味深い。これは、岩波書店が、<古今東西の>「社会」・「人文」系の重要な文献を<広く>出版しているのでは全くなく、岩波の<思想>に合わせて取捨選択して出版している証左の一つだ。

0762/阪本昌成におけるフランス革命-2。

 阪本昌成・新・立憲主義を読み直す(成文堂、2008)。
 第Ⅱ部・第6章
 〔2〕「近代の鬼子? フランス革命」(p.186~)
 A 近代立憲主義の流れもいくつかあり、「人間の合理性を前面に出した」のがフランス革命だった。
 フランス革命の狙いは以下。①王権神授説の破壊・理性自然法の議会による実定化、②「民主主義」実現、そのための中間団体の克服、③君主の意思が主権の源泉との見方の克服、④個人が「自律的存在」として生存できる条件の保障。これらのために、1789.08に「封建制廃止」による国民的統一。「人権宣言」による「国民主権」原理樹立。
 しかるに、「その後の国制は、数10年にわたって変動を繰り返すばかり」。これでは「近代の典型」でも「近代立憲主義の典型」でもない。「法学者が…歴史と伝統を無視して、サイズの合わない国制を縫製しては寸直しする作業を繰り返しただけ」。
 なぜフランス革命が「特定の政治機構があらわれると、ただちに自由がそれに異を唱える」(トクヴィル)「不安定な事態」を生んだのか。
 私(阪本)のフランス革命の見方はこうだ。
 フランス革命はあくまで「政治現象」、正確には「国制改造計画」と捉えられるべき。「下部経済構造変化」に還元して解剖すべきでない。「宗教的対立または心因」との軸によって解明すべきでもない。
 <フランス革命は、法と政治を通じて、優れた道徳的人間となるための人間改造運動だった>(すでにトクヴィルも)。そのために「脱カトリシズム運動」たる反宗教的様相を帯びたが、「宗教的革命」ではなく、「18世紀版文化大革命」だった。
 その証拠は以下。革命直後の「友愛」という道徳的要素の重要視、1790年・聖職者への国家忠誠義務の強制、1792年・「理性の礼拝」運動、1794年・ロベスピエールによる「最高存在の祭典」挙行。
 (Aがまだつづく)

0704/フランス・ジャコバン派(ロベスピエール)とレーニン・マルクス。

 〇 1.あらためて書くが、河野健二・フランス革命小史岩波新書、1959)は、ロベスピエールをこう称揚した。
 「彼(ロベスピエール)こそは民衆の力を基礎にして資本の支配に断乎たるたたかいを挑み、一時的にせよ、それを成功させた最初の人間だからである」(p.191)。
 この河野の本はまた、レーニンは1915年に次のように述べ、「とくにロベスピエールの名前をあげることを忘れなかった」という。
 「偉大なブルジョア革命家に、最も深い尊敬の念をよせないようでは、マルクス主義者ではありえない」(p.193)。
 ジャコバン(モンターニュ派)独裁については、上の河野の本は次のように叙述する。
 「モンターニュ派、とくにロベスピエールは、こういう運動〔「私有財産に対する攻撃、財産の共有制への要求」-秋月補足〕の背後にある要求をくみとりながら、すべての人間を小ブルジョア的勤労者たらしめる『平等の共和国』をうちたてようとした」(p.189)。
 モンターニュ派の夢見た「第三の革命」は「輪郭がえがかれたままで挫折した。資本主義がまさに出発しようとしているとき、…とすることは歴史の法則そのものへの挑戦であった。悲壮な挫折は不可避であった」。
 これらの文章をもう少しわかりやすく言えば、ジコバン派=ロベスピエールは「ブルジョア(市民)革命」を超えて、さらに「第三の」、すなわち「社会主義革命」まで進もうとしたのだが、それはまだ<早すぎて>「歴史の法則」に反し、「悲壮な挫折は不可避」だった、ということだ。
 2.ところで、のちのマルクスやレーニンが「ジャコバン独裁」に注目しかつそれに学ぼうとしたことは疑いを入れない。
 平野義太郎・レーニン/国家・法律と革命(大月書店、1967)は、日本共産党党員(故人)の平野義太郎がレーニンの「国家・法律と革命」に関する文章・命題を抜粋してそのまま掲載している(体系・順序の編集のうえで)ものだが、事項索引に「ロベスピエール」はないが「ジャコバン」はあり、4箇所の頁数が示されている。それを手がかりに読むと、レーニンおよびマルクスが「ジャコバン独裁」を肯定的にかつ高く評価していたことが明瞭だ。以下、そのまま一部引用する。①~④は、レーニン自身の文章だ。
 ①「ジロンド派は…一貫しない、不決断な、日和見主義的な擁護者であった。だから、…十八世紀の先進的階級の利益を首尾一貫してまもり抜いたジャコバン派は、彼らとたたかったのである」(p.44、1905.03=レーニン執筆の年月、以下同)。
 ②「真のジャコバン派の歴史的偉大さは、彼らが『人民とともにあるジャコバン派』、人民の革命的多数者、当時の革命的な先進的諸階級とともにあるジャコバン派だったことにあった」。「…プレハーノフらの諸君。…一七九三年の偉大なジャコバン派が、ほかならぬ当時の国民の反動的・搾取者的少数者の代表を、ほかならぬ当時の反動的諸階級の代表を、人民の敵と宣言するのを、恐れなかったことを、諸君は否定できるか?」(p.44-45、1917.06)。
 ③「マルクスは、…とくに全プロレタリアートの武装が必要であること、プロレタリア衛兵を組織すること、…を主張している。…マルクスは、一七九三年のジャコバン党のフランスを、ドイツ民主主義派の模範としている」(p.82、1906.03)。
 ④「一七八九年の上向線〔立憲派―ジロンド党―ジャコバン党〕は、人民大衆が絶対主義に勝った革命の形態であった。一八四八年の下向線〔プロレタリアート―小ブルジョア民主主義派―ブルジョア共和派―ナポレオン三世〕は、小ブルジョアジーの大衆がブロレタリアートを裏切って革命を敗北させた革命の形態であった」(p.115、〔〕は前後の文脈からする平野による補足と見られる。1915.11)。
 ⑤〔平野義太郎の「解題」の中〕レーニンは「…革命人民の歴史を述べる必要があり、とくにマルクスと同じように、フランス大革命のジャコバン党の歴史、それから一八四八年のドイツ・フランスの革命、一八七〇年のパリ・コミューンからまなんで革命の歴史を述べるときがきた。…」(p.401)。
 3.以上のとおり、(ルソー→)ロベスピエール(ジャコバン派)→マルクス→レーニンという<系譜>があることは明瞭だ。(ロベスピエールはルソーの思想的弟子。)
 だが、日本のとくに最近の学者たちは、マルクスやレーニンの名を出すことなく(換言すればマルクス(・レーニン)主義の擁護・支持を<隠したままで>)、ルソー、フランス革命、ロベスピエール(ジャコバン派)賛美・称揚を行っている。
 「ルソー・ジャコバン型」民主主義・個人主義を近代原理の典型的な一つとする樋口陽一や、施行もされなかった1793年(ジャコバン)憲法に憲法(思想)史上の重要な位置を与える辻村みよ子も、憲法学者の中でのそうした者の例だ。
 あらためて述べておくが、フランスのジャコバン派や1793年憲法に肯定的・親近的な文章を書いている者は、冒頭の河野健二はもちろんのこと、マルクス主義者又は少なくとも親マルクス主義者であることは疑いないと思われる。「マルクス主義」専門用語をできるだけ使わないようにしつつ、その実は、マルクス主義の骨格部分をなお支持して学者・研究者生活をおくっている者は少なくないと思われる。そのような者たちが少なくないからこそ、日本の「左翼」は他の<先進・自由主義>諸国の「左翼」とは異質で、かつ異様なのだ。
 〇田母神俊雄=潮匡人・自衛隊はどこまで強いのか(講談社+α新書、2009)を4/18に全読了。

0703/朝日新聞にエラそうに語る資格があるのか(週刊新潮問題)+辻村みよ子・ロベスピエール追記。

 〇 某新聞の4/17付社説の一部。週刊新潮「事件」に関するもの。
 「一般に大手出版社は、社内の週刊誌編集部の独立性を尊重しつつも、法務など別のセクションと日常的に意見交換して、問題記事が出るのを防ぐ工夫をしている。
 だが、新潮社では編集部に取材や記事づくりほぼすべてを任せていると同社は説明している。それほどの権限があるのであれば、編集部にはなおのこと厳しい自己点検が必要だ。
 報道機関も間違いを報じることはある。だが、そうした事態には取材の過程や報道内容を検証し、訂正やおわびをためらわないのがあるべき姿だ。事実に対して常に謙虚で誠実であろうと努力をすること以外に、読者に信頼してもらう道はないからだ。
 今回の週刊新潮と新潮社の態度からは、そうした誠実さが伝わってこない。この対応に他の出版社や書き手たちから強い批判の声があがっているのは、雑誌ジャーナリズム全体への信頼が傷ついたことへの危機感からである」。
 某新聞とは朝日新聞。呆れている。 
 1.この引用の冒頭に「大手出版社」とあるが<大手全国(新聞)紙>では、各部(政治部・社会部等)や「編集部の独立性を尊重しつつも、法務など別のセクションと日常的に意見交換して、問題記事が出るのを防ぐ工夫をしている」のか、自社のことも述べてほしいものだ。記事を書いた記者・その属する部(政治部・社会部等)と最終的に掲載するかどうかを判断する(権限があるとすれば)<編集>部との関係も知りたい。ついでに、2005年1月の際の本田雅和らの記事はどのように社内を「通過」したのかも具体的に。
 2.「報道機関も間違いを報じることはある。だが、そうした事態には取材の過程や報道内容を検証し、訂正やおわびをためらわないのがあるべき姿だ。事実に対して常に謙虚で誠実であろうと努力をすること以外に、読者に信頼してもらう道はないからだ」-よくぞこう言えたものだ。
 朝日新聞はこれまで、何度「間違い」を犯し、そのうち何度、「ためらわない」態度で「訂正やおわび」をしてきたのか??
 北朝鮮祖国帰還運動をどれほど煽ったのか。警察・公安当局は北朝鮮によるとの「疑問」を明確に表明していたにもかかわらず、そして「疑い」を当局は示したといくらでも<客観報道>できたにもかかわらず、全くといいほど言及・報道しなかったのは何故か。教科書検定による「侵略」→「進出」への書き換えという誤報について「訂正やおわび」をしたのか。特定政治家によるNHKに対する政治的「圧力」という「間違い」の捏造記事について「訂正やおわび」をしたのか。
 <天に唾する>あるいは<厚顔無恥>あるいは<どの面下げて>とは、上のような文章を言うのではないか。
 〇 前回紹介の辻村みよ子の記述についてコメントを補足。
 ロベスピエールに言及する日本国憲法の教科書・概説書も珍しいとは思うが、「財産権」のところで、それを「社会的制度」として把握した者として(のみ)登場させるのは一種の<偏向>だろう。
 すでに平民の階級になっていた旧国王夫妻がコンコルド広場で処刑(ギロチンによる斬首)された後に、<ジャコバン独裁>とか<恐怖政治>とか称される時代を築き、思想信条の差異を理由として同胞国民(・「市民」)を数万人(数十万人?)も殺戮し、のちのスターリン、毛沢東、金日成、ポル・ポトらの<さきがけ>となった人物こそロベスピエールではないか。
 ロベスピエールは<生命>(<「個人」)の尊さの箇所で、あるいは「思想・信条の自由」の箇所で(その侵害者として)登場させる方が適切だろう。
 あるいは、やや専門的かもしれないが、<宗教・信教の自由>の箇所はどうだろう。キリスト教式ではない「理性の祭典」=「最高存在の祭典」の挙行は、キリスト教に対抗した「理性」を一種の神とする新<宗教>の樹立をしようとしたものとして、<宗教活動(の自由)>を考察する場合でも興味深い素材ではないか。
 いずれにせよ、辻村みよ子はロベスピエールに<肯定的>文脈において言及する(ルソーについても全く同様)。それはいったい何故か。ルソー(・フランス革命)を呼び覚ませば、マルクスは何度でもよみがえる、との旨の中川八洋の言葉は聞くべきところがある。
 ルソー→ロベスピエール→バブーフ/サン・シモンやフーリエ→マルクス、という思想系譜が一つの流れとしてはある。その後、マルクス→レーニン→スターリン・毛沢東・金日成(・宮本顕治)らと続く。この怖ろしい、<共産主義>そして<全体主義>の系譜にロベスピエールも位置するということを(少なくともこのような理解もあるということを)知った上で、教科書・概説書は慎重に書かれるべきだ(特定のイデオロギーを宣伝したいならば別だが)。

0702/辻村みよ子・憲法/第三版(日本評論社、2008)を読む・その4。

 〇 しばらくぶりに、辻村みよ子・憲法/第三版(日本評論社、2008)。
 事項索引に依ってフランス1793年憲法に言及する部分を(この欄で数回に分けて)読んでみた。実質的にこれに関係する「国民主権」の部分は別の機会に委ねて、事項索引中に「ロベスピエール」が一箇所示されているので、紹介してみよう。自由権/経済的自由権/「財産権」の最初の「一・意義」のところで、次のようにロベスピエールに言及している(p.264-5)。
 ・1789年フランス人権宣言、アメリカ憲法第5修正は「所有」を「自然権」又は「神聖かつ不可侵の権利」として掲げた。かかる所有権絶対視の「近代的人権」思想は「ブルジョアジー」の経済活動の正当化・自由確保をして、「資本主義経済を推進するために重要な歴史的意義」を担った。
 ・その後「資本主義の弊害による社会・経済的不平等」の発生により所有権の公的制限の必要が生じ、ドイツ・ワイマール憲法は153条で「絶対不可侵性」を否定して、「所有権は義務を伴う」と謳った。かかる考え方は、フランス革命時の、所有権を「社会的制度」と捉えたロベスピエールや、「財産の共有から私的所有の禁止」へと到達したバブーフにも思想的淵源をもつ。
 ・上記のことの先駆的な意義は第二次大戦後に明らかになり、イタリア等も含めて「社会国家」思想のもとでの「現代型の財産権論」が定着した。日本国憲法29条1項もこの系譜に連なる。
 ・この29条1項につき、「通説・判例」は、個人の財産権を保障するとともに「私有財産制」をも保障するものと解釈する。この説によると、この条項による「制度保障」の核心は「生産手段の私有制」であり、「社会主義へ移行するためには憲法改正が必要」である。
 ・一方、「議会を通じて一定の社会化を達成する」ことは憲法改正を必要としないとする学説もあった(今村成和)。
 ・「資本主義と社会主義の要件」が「変容」し、「区別の基準が不明確になっている」今日では、従来の「多数説を維持することは困難」だ。そこで「個人の自律的な生活を保障することを目的とする制度的保障の理解」が求められている。
 以上。
 上に出てくる「社会国家」とは「社会主義国家」の意味ではなく、英米的には「福祉国家」にほぼあたるものと思われる。また、今村成和説らしい「一定の社会化」可能論は、辻村の叙述だと誤解を与えうるが、<社会主義化>可能論とは異なるものだろう。これらの点はともかく、興味深いのは次の三点だ。
 第一に、戦後又は「現代」の財産権(所有権)制限思想の淵源として、ロベスピエールとアナーキスト(=無政府主義者)のバブーフの二人をあえて挙げていることだ。アナーキズム(無政府主義)もマルクス主義につながる「思想」の一つだった。私的所有廃止・国家不要(死滅)論はマルクス主義と異ならない。
 第二に、「社会主義」の存在意義自体が問われる今日においてなお、「社会主義へ移行するためには憲法改正が必要」=現憲法のままでは日本は「社会主義」国家になれない、と解釈するのが「通説・判例」だと、わざわざ述べていることだ。推測にすぎないが、きっとこの人はかつて、日本国憲法のもとでの日本の「社会主義国家」化の可能性を関心をもって思い巡らしただろう。
 第三に、辻村は、今日では「資本主義と社会主義の要件」が「変容」し、「区別の基準が不明確になっている」と断定的に明記している。
 はたしてそうなのだろうか。中国・北朝鮮・キューバ等を日本等とは基本的<体制>の異なる「社会主義」国家(又はそれを志向している国家)と理解するのは「今日」では誤り又は不適切なのだろうか。概念用法の問題は多少はあるかもしれないが、かかる基本的<体制>の区別は、なおも基本的レベルで重要な意味がある、と考えられる。辻村の書いていることは、ソ連「社会主義」国家解体後の、<資本主義と社会主義の相対化論>と軌を一にしているように思われる。
 以上の三点はいずれも、「ブルジョアジー」という語を平然と使っていることも含めて、辻村みよ子の<思想>の「左翼」(おそらく、ほぼマルクス主義)性をほぼ明瞭に示しているだろう。
 ついでに、「個人の自律的な生活を保障することを目的とする制度的保障の理解」なるものはほとんど意味不明だ。二つほどこの考え方らしき文献が参照要求されているが、観念的・空想的作文の類の議論ではあるまいか。
 〇 NHKについて関心を少し増やしたことの結果として、池田信夫・電波利権(新潮新書、2006)を昨日か一昨日、一気に読了。この分野でもアメリカの政策が日本の政府・産業界に多大の影響を与えていること等をあらためて知る。

0691/フランス1793年憲法・ロベスビエール独裁と辻村みよ子。

 一 「フランス・ジャコバン独裁と1793年憲法再論-河野健二と樋口陽一・杉原泰雄」とのタイトルで簡単にまとめたことがあった(2008/11/02)。
 河野健二・フランス革命小史(岩波新書、1959。1975年に19刷)は、これまでの「体制派」=「進歩派」=「左翼」のフランス革命史・フランス革命観を叙述していると見られる。重複部分があるが、フランス1793年憲法・ジャコバン(=ロベースピエール)独裁については、以下のごとし。
 「ロベスピエール派」の「政治的実践」は失敗したが、「すべて無効」ではなかった。「モンターニュ派」による国王処刑・独裁強化は「一切の古い機構、しきたり、思想を一挙に粉砕し、…政治を完全に人民のものにすることができた」。「この『フランス革命の巨大な箒』(マルクス)があったからこそ、人々は自由で民主的な人間関係をはじめて自分のものとすることができた」(p.166-7)。/「モンターニュ派」独裁の中で、「私有財産にたいする攻撃、財産の共有制への要求があらわれた」。とくにロベスピエールは、「すべての人間を小ブルジョア的勤労者たらしめる『平等の共和国』」を樹立しようとした。しかし、戦争勝利とともに「ロベスピエール派」は没落し、上の意図は「輪郭がえがかれたままで挫折した」(p.190)。/「資本主義がまさに出発」しようとしているとき、「すべての人間を小ブルジョアとして育成し、固定させようとすることは、歴史の法則への挑戦であった」。「悲壮な挫折は不可避であった」(p.190)。/ロベスピエールが「独裁者」・「吸血鬼」と怖れられているのは彼にとって「むしろ名誉」ではないか。彼こそ、「民衆の力を基礎として資本の支配に断乎たるたたかいを挑み、一時的にせよ、それを成功させた最初の人間だから」だ(p.191)。
 ロベスビエールは失敗したが、しかし、それは時代を先取りしすぎていたからで、彼らが指し示した歴史的展望は不滅のものだ、とでもいいたげだ。マルクス主義者又は親マルクス主義者にとって、ロベスピエール独裁とは、<ブルジョア(市民)革命>に続く、<社会主義革命>(プロレタリア独裁?)の萌芽に他ならなかった。
 かかる「ジャコバン(モンターニュ)独裁」観に、樋口陽一も立っていたといってよい。樋口は同・自由と国家(岩波新書、1989=ソ連解体前)p.170で、日本人はフランスの1793年の時期を、「ルソー=ジャコバン型個人主義」を「そのもたらす痛みとともに追体験」せよ、と主張していた。
 二 日本国憲法の教科書・概説書の中に、索引によると、フランス1973年憲法に6カ所で言及しているものがある。
 辻村みよ子・憲法/第3版(日本評論社、2008)だ。なお、日本評論社から憲法(日本)の教科書・概説書を出版しているのは、この辻村みよ子と、浦部法穂の二人かと思われる。日本評論社の<法学>系出版物の「左翼」傾向はこの点でも例証されていると考えられる。
 以下、辻村みよ子の上の著がフランス1973年憲法をどう記述しているかをメモしておく。
 ①「ブルジョアジー」が狭義の「国民主権」を定めた1791年憲法に対して、「王権停止後に初の共和制憲法として成立した1793年憲法は、平等権や社会権の保障のほか、市民の総体としての人民を主体とする『人民(プープル)主権』原理に基づく直接民主主義的な統治原理を採用した。しかし、この急進的な憲法は施行されず、1795年憲法が制定されて、…<以下、略>」(p.22)。
 この部分は諸外国における「近代憲法の成立」の説明の中にある。諸外国とはイギリス、アメリカ、フランスで、ドイツに関する記述はない。
 ②日本の「私擬憲法草案」の中では、植木枝盛起草の『東洋大日本国国憲按』(1881)には、「フランス1789年人権宣言のほか、急進的な1793年憲法の人権宣言の抵抗権や蜂起権の影響が認められる」(p.34)。
 この部分は、明治憲法の制定過程に関する叙述の中にある。
 くり返しておくが、フランス1793年憲法とは、現実には<施行されなかった>憲法だ。つづく。

0690/中川八洋・悠仁天皇と皇室典範(清流出版、2007)による日本の憲法学界批判。

 中川八洋・悠仁天皇と皇室典範(清流出版、2007.01)は、中川の皇室問題三部作の三冊め。ほぼ読了した。
 皇室問題・皇室典範の改正の方向に関する議論もさることながら、現憲法の天皇条項に関する園部逸夫・宮沢俊義の解釈批判に関連して多く語られている、現在の憲法学界に対する「怨嗟」とでもいうべき批判の仕方はすさまじい。
 例えば、p.110-「共産党であることを隠し続けた(憲法ではなく行政法だが)園部逸夫タイプも多いが、杉原泰雄長谷川正安奥平康弘横田耕一辻村みよ子…などのように、自分が共産党であることを隠そうとしないものもいる」。「後者の一群の中でも、いっさいのアカデミズムをかなぐり捨てて、フランス革命期の革命家気取りは、何といっても、横田と辻村の右に出るものはいない。自分を『ルソーの高弟』とか『ヴォルテールの愛弟子』と妄想しているのが横田耕一。自分を”大量殺人鬼”ロベスピエールの革命を助けている『ロベスピエールの愛人』だと毎夜夢想し恍惚に耽るのが辻村みよ子」。
 組織(日本共産党)所属問題は俄には信頼できないが(長谷川正安のように間違いないと見られる者もいるが)、舌鋒の激しさ、鋭さはスゴい。
 批判のための表現・言葉の問題は別としても、中川八洋は重要な問題提起をしていることは疑いえない。とりあえず挙げれば、例えば-。
 ①<国民主権>原理は(イスラム圏については知らないが)普遍的にどの国でも現在では憲法上採用されているように思ってしまっているが、そうではない、米国憲法は<国民主権>を意識的に排斥した、とする。宮沢俊義がアメリカ独立宣言やその当時の諸州の憲法が「国民主権主義」を明文で定めたと書いている(1955)のは「嘘宣伝(プロパガンダ)」だという(p.208)。また、英国もこの原理を採用していないとされる。
 「国民が主人公」とやらの日本の民主党のかつての?スローガンは<国民主権>の言い換えのつもりなのだろうが、日本国憲法における「国民主権」の厳密な意味は「民主主義」(・「民意」)とともにあらためて問われる必要がある(「国民主権」か「人民主権」かという辻村みよ子の好きな論点以前の問題として)。むろんこれは、<天皇制度>にもかかわる。
 ②「法の支配」の意味の正確な理解。中川によると「正しく知る」ものが「日本に一人でも存在するか」疑問だ(p.248)。中川は前東京大学教授(憲法)・高橋和之の<法の支配>に関する叙述の一部を引用して、「中学生レベルの抱腹絶倒の珍説で、論評する気が失せる」とまで述べる(p.253)。
 中川によれば、(ボッブズやロックではなく)英国のコウク卿(英国法提要・判例集)、ブラックストーン(イギリス法釈義)の流れの「法の支配」を採用しているのがアメリカ憲法で、「デモクラシーの暴走を、未然に防」ぐことにその基本的要素の一つがある。
 ③「立憲主義」の意味(「国民主権」との関係)。中川によると、「立憲主義」と「国民主権」とは両立しない。<憲法>が全ての機関・人間を拘束するのが<立憲主義>なので、「最高の権力」の意味での「主権」概念は(「国民主権」も含めて)当然に否定される(p.288)。
 「日本の憲法学は、本心では、確信犯的に、”立憲主義”を否定・排除するイデオロギーに立脚している。…フランス革命から生まれた革命スローガン『国民主権』と『憲法制定権力』を全否定しない説は、”立憲主義を殺す”反憲法の教理である。日本の憲法学は、恐ろしいことに、この反憲法の教理に基づいている。/『国民主権』や『憲法制定権力』を神格化して、”立憲主義を殺す”反憲法学の極みとなった、逆立ちする日本の憲法学は、『憲法=立法者の絶対命令』とする、異様な命令法学に畸形化している」(p.289)。
 「命令法学」の意味に立ち入らない。何とも挑発的で刺激的な本だ。もっとも、憲法学アカデミズム以外の者による批判として、日本の憲法学者たちは、かりに中川のこの本とその内容を知っても、おそらく完全に無視し続けるのだろう

0614/佐伯啓思・国家についての考察(2001)p.25-全体主義に対立するのは民主主義よりも保守主義。

 一 佐伯啓思・国家についての考察(飛鳥新社、2001)も佐伯の本の中でじくりと味わうべきものの一つだろう。
 全体の詳細な紹介、要約的言及の余裕はない。
 p.23からの数頁は「保守的であること」との見出しが付いている。そして、「保守的である」という気持ちのもち様、態度についての興味深い叙述があり、こうした「態度の背景」には、「人間の理性的能力への過信に対する防御」、「理性万能主義(設計主義)への深い疑問」等がある、とする。
 今回紹介したいのはその次の辺りの文章だ。佐伯啓思は言う(p.25)。
 ・「保守主義が明瞭に対立するのは社会主義にせよ、ファシズムにせよ、社会全体を管理できるとする全体主義に他ならない」。
 ・「理念としていえば民主主義などよりも保守主義の方が全体主義に対立する」。
 ・上のことは、「保守主義の生みの親とも目されるエドモンド・バーク」がその「保守的思考」を、「ジャコバン独裁をもたらすことになるフランス革命批判から生み出した」ことからも「すぐにわかるだろう」。
 二 宮沢俊義をはじめとする戦後・進歩的知識人のみならず日本国民の多くにも、先の大戦は<民主主義対ファシズム>の闘いであり、理論的・価値的にも優れた?前者が勝利した、という認識又は理解が、空気の如く蔓延した(蔓延しつづけている?)ようでもある。
 だが、既述の如くソ連を「民主主義」陣営の一者と位置づけることは、<人民民主主義>という概念などによってかつては誤魔化すことができたかもしれないが、いまや殆ど笑い話に近いほどに、正しくはない。
 また、ヒトラー独裁・ドイツファシズムが<ワイマール民主主義>の中から<合法的に>出現したことをどう説明するか、という問題もある。なお、<日本軍国主義>体制も(そのようなものがあるとして)法的には合憲的・合法的に成立したといわざるをえないだろう。

 つまり、<民主主義対ファシズム>の闘いだったと先の大戦を把握することは歴史の基本を捏造するものだ。従ってまた、今日までずっと<軍国主義・ファシズムの復活を阻止するために、民主主義を守り・徹底する>という目的を掲げてきている又は何となくそういう図式・イメージをもっている者たちもまた、歴史の基本的なところの理解を誤って国家・社会の動向を観察していることになる。
 「左翼」にとっては、とくに日本共産党員をはじめとするコミュニストにとっては、上の佐伯の叙述のように「社会主義」と「ファシズム」を「全体主義」という概念で包括するのは我慢できないことだろうが、社会「全体」の管理可能性を信じる点で、両者にはやはり共通性がある。
 また、この「全体主義」に対立するのはむしろ「個人主義」又は「自由主義」と言うべきであり、「民主主義」は別の次元の主義・理念だろう。
 そしてまた、フランス革命期における<急進的な(又は直接的)民主主義>(ルソー的「人民主権」論の現実化=「ジャコバン独裁」)を警戒したのは、叙上のように、イギリスの「保守主義」者・バークだった。
 佐伯啓思があえて言及しているように、今日において民主主義、さらにはコミュニズム(社会主義・共産主義)を論じる場合において、フランス革命期の「ジャコバン独裁」(ロベスピエールらによる)をどう評価し、どう理解しておくべきかは、不可欠の論点なのだ、と思う。「人民主権」(プープル主権)論の評価についても同じことがいえる。
 フランス革命や「ジャコバン独裁」・「人民(プープル)主権」論に言及してきたし、これからも言及するだろう理由は、まさに上のことにある。

0610/実教出版『世界史B・新訂版』(2007.01)は仏革命期の「恐怖政治」がロシア革命でも、と。

 一 樋口陽一は「ルソー=ジャコバン型個人主義の意義を、そのもたらす痛みとともに追体験することの方が、重要なのではないだろうか」と記した。同・自由と国家(岩波新書、1989)p.170。
 あらためてきちんと引用すると、河野健二は同・フランス革命小史(岩波新書、1959)p.167でこう書いていた。
 「モンターニュ派は、王を処刑し、公安委員会をつくり、独裁を強化することで、旧制度からひきついだ一切の古い機構、しきたり、思想を一挙に粉砕し、超越的であった政治を完全に人民のものとすることができた」。
 モンターニュ派(=ジャコバン派)は国王処刑・公安委員会設置・独裁強化によって、「政治を完全に人民のものとすることができた」、と書いている。
 これは史実か? ここでの「政治」とは、「人民」とは、「人民のものにする」とは、いったいいかなる意味なのか。
 ロベスピエールらモンターニュ派(ジャコバン派)のしたことは「恐怖政治」(テルール)との言葉でも形容されるがごとく、反対派の暗殺等の<大量殺戮>でもあった。
 それを上のように讃えることのできた京都大学教授・河野健二は、そこに、日本でも将来に行われるかもしれない、<プロレタリア独裁>による反対派・「反動」派の<正当な>殺害を見たのではないか、という気がする。「革命」遂行のための<正当な>暴力行使(殺戮>虐殺を含む)、これを(ひそかに?)肯定していたのではないか、と想像する。

 そのような河野において、「献身的な革命家」が「革命の殉教者」として葬られたのが、「テルミドールの反動」だった(上掲書p.167)。
 かつて学習した教科書にも、「テルミドールの反動」という言葉が載っていた。なるほど、<進歩>・<前進>に対する逆流と理解されたゆえにこそ、「反動」という言葉が選ばれていたのだと思われる。
 だが、それは当時の主流派的(マルクス主義的)フランス革命解釈によるもので、客観的にはそれは、<テルミドールの「正常化」>(<狂気の終焉>)に他ならなかっただろう。なおも混乱は続いたが、「正常化」又は「再秩序化」への第一歩ではあったと考えられる。

 二 中学校・高校用のすべての歴史・世界史の教科書を見たわけではないが、実教出版『世界史B・新訂版』(2007.01発行、2006.03検定済)のフランス革命関連の叙述はなかなか面白い(具体的な特定の執筆者名は不明)。少なくとも従来の主流派的(マルクス主義的)フランス革命解釈に依っていないことは明らかだ。
 ①ロベスピエールの「恐怖政治」について書いたあと、こう続ける。「経済統制をきらうブルジョアジーは、革命の徹底化に強い不安を感じはじめ…、戦況の好転によって独裁権力そのものが不必要になったとき、1794年夏、テルミドールのクーデタによってロベスピエールは即決裁判にかけられ処刑された」。
 この教科書には「テルミドールの反動」という言葉は出てこない。
 ②「フランス革命」となお称しつつ、これの「意義」を次のように書いている(p.238-9。以下は全文ではない)。
 フランス革命は「民主主義をめざす革命であったといってよい」。「しかし同時に深刻な問題もあった。不平等の是正については社会各層の利害が鋭く対立したため、反対派を暴力で排除しようとする恐怖政治がうまれたからである。同じような状況は、20世紀のロシア革命でくりかえされることになる」。
 ここではフランス革命が随伴した「問題」の指摘(=「恐怖政治」への言及)があり、同様のことが「20世紀のロシア革命でくりかえされ」た、とまで書かれている。
 かつてフランス革命の未完の部分を完成させたロシア革命という積極的評価が主流派・マルクス主義派のそれだったが、ロシア革命によって生まれたソ連「社会主義」が崩壊してみると、ロシア革命に伴った「悪」はフランス革命に由来する(少なくとも似ている)、とでも言っているような叙述が登場しているのだ。
 こうしてみると、多少は勇気づけられる。明らかに、(部分的かもしれないが)マルクス主義的な「フランス革命」理解は後退し、別の歴史の見方に変わっている。
 あと50年先、100年先、「戦後民主主義」なるものと「昭和戦後進歩的知識人・文化人」(丸山真男、大江健三郎、樋口陽一ら)については消極的・弊害的部分がきちんと総括され、「昭和戦後進歩的知識人・文化人」の活躍(跳梁?)の舞台を提供し、彼らを育成した岩波書店や朝日新聞は一時期の<流行>に影響されただけだという、基本的には消極的・否定的評価が下されているだろう、と確信したいものだ。

0609/フランス・ジャコバン独裁と1793年憲法再論-河野健二と樋口陽一・杉原泰雄。

 フランス「革命」時のジャコバン派(モンターニュ派、ロベスピエールら)独裁、又はその初期を画した1793年憲法(但し、未施行)について、何回か書いてみる。

 一 すでにいく度か言及している。例えば、
 A 憲法学者の杉原泰雄・国民主権の研究(岩波書店、1971)にも触れた。
 より短縮して再紹介するが、杉原は、ルソーの「人民主権論」はとくに「『プロレタリア主権』論として、私有財産制の否定と結合させられながら存続していることは注目されるべき」で、「国民主権と対置して、それを批判・克服するためにの無産階級解放の原理として機能している」と述べたのち、次のようにつなげる。「『ルソー→一七九三年憲法→パリ・コミューン→社会主義の政治体制』という一つの歴史の潮流、…二〇世紀…普通選挙制度・諸々の形態の直接民主主義の採用などに示される人民主権への傾斜現象さらには人民主権憲法への転化現象は、このことを明示するものである」。以上、p.181-2にあり、「」内は直接引用で、私・秋月の要約ではない。
 杉原において、「ルソーは民衆の解放を意図していたために、ブルジョアジーのための主権原理(「国民主権」)を本来構想しえなかった」とされる(p.92)。すでに書いたように、杉原において<ルソーは、早すぎたマルクスだった>のだ。
 また、これも既述だが、1971年には「ルソー→一七九三年憲法→パリ・コミューン→社会主義の政治体制」という歴史的必然?を杉原は語り得たが、今となってみれば、<夢想>であり<幻想>であり、あるいは<妄想>にすぎなかった。
 杉原泰雄の上の著は、むろんジャコバン憲法=1793年憲法にも論及している。例えば、次のように。  ・p.82-「一七九三年憲法」による「『人民主権』の樹立に一応賛成する態度をとりつつ…封建地代の無償廃止に踏み切ったことも、民衆革命の高揚と…反革命に対処するためにブルジョアジーがそれに頼らざるをえない状況」にあったことを前提としてはじめて「合理的に理解」できる。。
 ・p.83-「民衆」は「人民主権」を、「ブルジョアジー」は「国民主権」を要求する。「民衆の革命的エネルギー」に頼らざるを得ない状況下では、「ブルジョアジー」は「『国民主権』の主張を自制」し、留保を付しつつ「『人民主権』に賛成するポーズ」をとった。「その事例」は、「一七八九年人権宣言、一七九三年憲法」である。
 1793年憲法(とくにその「主権論」)それ自体(但し、繰り返すが、施行されなかった!)の<急進的>・<民衆的>・<直接民主主義的>内容には、とりあえず、ここでは立ち入らない(杉原p.273~など)。

 B 憲法学者の樋口陽一・自由と国家(岩波新書、1989)にも触れた。
 樋口陽一は、「一七八九年を完成させた一七九三年」と捉える立場に依って「ルソー=ジャコバン主義」を理解する旨を述べ(p.122)、次のように明言していた。再紹介する。p.170だ。

 日本(の一部)では「西洋近代立憲主義社会の基本的な約束ごと(ホッブズからロックを経てルソーまで)」が見事に否定されている。「そうだとしたら、一九八九年の日本社会にとっては、二世紀前に、中間団体をしつこいまでに敵視しながらいわば力ずくで『個人』をつかみ出したルソー=ジャコバン型個人主義の意義を、そのもたらす痛みとともに追体験することの方が、重要なのではないだろうか」。

 樋口において、「ルソー=ジャコバン主義」、そして1793年憲法が肯定的・積極的に評価されていることは明らかだろう。そして、日本(人)はフランスの1793年の時期を、「ルソー=ジャコバン型個人主義」を「そのもたらす痛みとともに追体験」せよ、と(1989年、ソ連「社会主義」体制の崩壊の直前に)主張していたのだ。

 二 杉原泰雄は「『ルソー→一七九三年憲法→パリ・コミューン→社会主義の政治体制』という一つの歴史の潮流」を明言していたが、樋口陽一も含めて、口には出さなくとも、戦後の所謂<進歩的>知識人・文化人は、ルソー→マルクス→レーニン、あるいはフランス革命(のような「ブルジョア革命」)→ロシア革命(のような「社会主義」革命)という、普遍的で必然的な?<歴史の流れ(発展法則)>を意識し、そのような観念・尺度でもって日本の国家・社会を観察していた(場合によっては何らかの実践活動もした)と思われる。

 そのような歴史観の形成に少なからず寄与したと思われるのは桑原武夫らのグループのフランス「革命」史研究であり、河野健二・フランス革命小史(岩波新書、1959。1975年に19刷)もその一つだろう。

 概読してみると、ジャコバン独裁(・1793年憲法)の位置づけ・性格づけなどについて、杉原泰雄や樋口陽一が前提とし、イメージしているような、マルクス主義的「通念」が<見事に>叙述されている。以下は、その概要又は断片のメモだ。「」は直接引用。

 ・フランス革命は「ブルジョア革命の模範」であるのみならず「歴史上の一切の革命の模範」とされる(「はしがき」)。
 ・1792年8-9月頃、ロベスピエールはこう書いた。「自分たち自身のため」の共和国を作ろうとする「金持ちと役人の利益」だけ考える者たちと、「人民のために」、「平等と一般利益の原則」の上に共和国を樹立しようとする者たちの二つに、これまでの「愛国者」は分裂する、後者こそ「真の愛国者」だ、と。「ロベスピエールが目ざしたのは、後者」だった(p.131)。
 ・1792年の時点で、「ジロンド派」と「モンターニュ派」の議会内対立は封建制・資本主義、資本家・労働者、反革命・革命の対立ではなく、両派ともに「ブルジョア・インテリたち」だったが、「ジロンド派」はチュルゴら百科全書派の弟子で「経済的自由主義」者だったのに対して、「モンターニュ派はルソーの問題意識と理論の継承者だった」。ロベスピエールもマラーもサン=ジュストも後者だった(p.133)。
 ・「モンターニュ派」は「…農民や手工業者を中核として、平等で自由な共和国をつく」ることを理想とし、その実現のための解決を、「政治の上では独裁と恐怖政治、道徳の上では美徳の強調と国家宗教(最高存在の崇拝)の樹立」のなかに求めた(p.134)。
 ・対外国戦争敗北等により1793年春以降、「政治情勢は急速に進んだ」。主流派の「ジロンド派」は抵抗し、「私有財産擁護」や「地方自治体の連合主義」を主張したが、5/31に「モンターニュ派」支持者による「蜂起委員会」の成立等により、6/02にパリでは「モンターニュ派」が勝利した(p.144-6)。
 ・1793年の6/24に議会が1793年憲法を採択、「人民投票」により成立した(但し、緊急事態を理由に施行延期)。この憲法は「ルソー的民主主義を基調」とし、「『人民』主権」を採り、議員は選挙民に「拘束」された。この最後の点は「『一般意思』は議員によって代表されないというルソーの理論の適用」だ(p.148)。
 ・実施されなかったこの憲法を、のちの「民主主義者たち」や「二月革命期の共和派左翼」は「福音書」扱いし、「革命の最大の成果をこの憲法のなかにみた」(p.148-9)。

 ・だが、「あまりにも美しく、あまりにも完全な」この憲法は、「一七九三年の条件のもとでは、まったく実現不可能なものだった」。「モンターニュ派」の「理想」ではあっても「現実政策」の表明ではなかった(p.149)。
 ・「都市の民衆暴動」に「モンターニュ派」は苦しみ、妥協して急進的法律をいくつか作りつつ、「過激派」の逮捕・裁判も強行した。そして、「公安委員会の独裁と恐怖政治がはじまった」(p.149-150)。

 ・公安委員会は「王党派、フイヤン派、ジロンド派」を追及し「処刑」した。だが、「ブルジョア的党派と、プロレタリア党派が排除されると」、「モンターニュ派」自体が左右に分裂し始めた。ロベスピエールら公安委員会は「反対派の生命をうばう」「個人的暴力」を用いた。これが「残された唯一の道」だった。1994年4月以降、公安委員会の独裁というより、「ロベスピエール個人、あるいは…を加えた三頭政治家の独裁」だった(p.155-7)。

 ・三人の一人、サン=ジュストは「反革命容疑者の財産を没収」し「貧しい愛国者たちに無償で分配」することを定める法令を提案し制定した。「ルソーが望んだように『圧制も搾取もない』平等社会を実現」することを企図したものだが、「資本主義が本格的にはじまろう」という時期に「すべての人間を財産所有者にかえようとする」ことは「しょせん『巨大な錯覚』(マルクス)でしかなかった」(p.157)。
 (河野健二による総括的な叙述の紹介を急ごう。)
 ・経済的には「ブルジョア革命」は1793年5月に終わっていた。その後に「ロベスピエールが小ブルジョア的な精神主義」に陥ったとき、「危機が急速度にやってきた」。
 ・だが、「ロベスピエール派」の「政治的実践」は「すべて無効」ではない。「モンターニュ派」による国王処刑・独裁強化は「一切の古い機構、しきたり、思想を一挙に粉砕し、…政治を完全に人民のものにすることができた」。「この『フランス革命の巨大な箒』(マルクス)があったからこそ、人々は自由で民主的な人間関係をはじめて自分のものとすることができた」(p.166-7)。
 ・「モンターニュ派」独裁の中で、「私有財産にたいする攻撃、財産の共有制への要求があらわれた」。とくにロベスピエールは、「すべての人間を小ブルジョア的勤労者たらしめる『平等の共和国』」を樹立しようとした。しかし、戦争勝利とともに「ロベスピエール派」は没落し、上の意図は「輪郭がえがかれたままで挫折した」(p.190)。
 ・「資本主義がまさに出発」しようとしているとき、「すべての人間を小ブルジョアとして育成し、固定させようとすることは、歴史の法則への挑戦であった」。「悲壮な挫折は不可避であった」(p.190)。
 ・ロベスピエールが「独裁者」・「吸血鬼」と怖れられているのは彼にとって「むしろ名誉」ではないか。彼こそ、「民衆の力を基礎として資本の支配に断乎たるたたかいを挑み、一時的にせよ、それを成功させた最初の人間だから」だ(p.191)。

 ・今世紀、ロシア・中国で、「ブルジョア革命のもう一歩さきには、社会主義社会をめざすプロレタリア革命が存在することが…実証された」(p.193)。
 ・レーニンは1915年に書いた。「マルクス主義者」は「偉大なブルジョア革命家に、最も深い尊敬の念をよせ」る、と。その際、「彼はロベスピエールの名前をあげることを忘れなかった」。レーニンは「ブルジョア革命と社会主義革命」との間の「深いつながり」を見ていた。
 ・「事実、ロシア革命の一歩一歩は、フランス革命におけるジャコバンのたたかいと、公安委員会とパリ・コミューンの経験を貴重な先例として学びつつ進められた」(p.193)。
 ・すべての「民族・民衆が『自由、平等、友愛』をめざすたたかいをやめないかぎり」「フランス革命は、…永久に生きつづけるにちがいない」(p.193)。
 三 以上の河野健二著の紹介は、むろん<(肯定的に)学ぶ>ためにメモしたのではない。現在はフランス、アメリカ等で<修正主義>が有力に主張されるなど、フランス革命の「革命」性自体が問題になっている。そして、細かな部分は別として、河野の叙述もじつに教条的なテーゼらしきものを前提としていることが分かる。最後の方の「まとめ」的部分などは、むしろ冷笑と憐れみをもって読んだ。
 <進歩的>知識人・文化人が共有したと見られる<フランス革命観>からもはや離れなければならない。
 <ジャコバン独裁>の中に、ロベスピエールの思考の中に、ロシア革命<「社会主義革命」の「先取り」>を見て、あるいは<早すぎたがための失敗・挫折>を見て、(いかほどに正直に書くかは別として)肯定的側面を見出すような思考をもはや止めなければならない。
 河野健二もまた、(明言はたぶんないが)日本にも徹底した「民主主義」化と「社会主義革命」がいずれ不可避的に生じるだろうと「夢想」していたのだろう(フランス革命の経験が<日本革命>にとってどのように「貴重な先例」として「学び」の対象になると考えているのかは全く不明だが)。
 四 1950年代末に書かれ、長く出版され続けた河野のような本を、杉原泰雄も樋口陽一も読んで、脳内に蓄え込んだものと思われる。そこでのフランス革命観と基本的な歴史発展の認識が誤っているとすれば、彼らのいかなる憲法関連の議論も、どこかが狂っているものになっているだろう。

0524/樋口陽一は<ジャコバン独裁>の意義を「痛みとともに追体験」せよ、と主張した。

 一 樋口陽一・自由と国家(岩波新書、1989)は、「ジャコバン主義」には次の二つの異なる含意がある、とする。①「一七九三年」を「一七八九年を否定する」、「『市民=ブルジョア革命』からの逸脱」と捉える、②「一七八九年を完成させた一七九三年」と捉える。そして、樋口は後者②の意味で「ルソー=ジャコバン主義」を理解する旨を明記している(p.122)。これは、前回言及したフランスの一七八九年と一七九三年の関係の「理解」に関する第二の説に他ならない。そして、「ルソー=ジャコバン主義」とは彼において、「フランスの近代国家のあり方の象徴」たる表現なのだ(p.122)。
 ところで、樋口は上の二つの含意に触れる直前に、「『ギロチンと恐怖政治』というひとつのステロタイプ化された『ジャコバン主義』像はここで問題にしなくてよい」と書いている(p.122)。本当に「問題にしなくてよい」のだろうか。そして「問題にしなくてよい」のはいったい何故なのだろうか。「ステロタイプ化され」ているか否かが争点ではないだろう。だとすると、おそらく樋口は、「ギロチンと恐怖政治」は革命過程のやむを得ない必要な一環だったと理解しているか、「ギロチンと恐怖政治」の実態を知らない(又は知ろうとしていない)かのいずれかなのだろう。そのどちらにせよ、それでよいのか?
 二 前回に紹介してもよかったことだが、柴田三千雄・フランス史10講(岩波新書、2006)は、フランス革命は「ブルジョワ革命の典型」だったとする従来一般的だったかに見える理解は「今日」では「成り立ちにくい」と明言する。その理由として挙げられているのは、①封建制→資本主義→社会主義という「発展段階理論」自体がソ連の解体によって崩壊した、②「一九六〇年代から、貴族とブルジョアジーは必然的に対立するものではなく、またフランス革命はブルジョアジーが資本主義の支配を目的にしたものではない、とする『修正主義』が有力となった」、ということ。
 さて、この柴田の本は、学問分野や関心の違いからして当然かもしれないが、「ジャコバン主義」を、又はそれにかかわる歴史的経緯を、樋口陽一とは異なってつぎのように説明している(理解しやすい、定義的な文章はない)。
 1792年9月発足の国民公会で「ジャコバン派(=山岳(モンテーニュ)派)」に同調する議員が増え、1793年6月に対立する「ジロンド派首脳」を国民公会から「排除」した。その後同公会は1793年憲法を採択したが、10月に「憲法の施行を停止して公会に全権力を集中する『革命政府』体制をとることを宣言」し、とくに「公会内の公安委員会の権限」を大きくした。これが「恐怖政治」(テルール)体制と呼ばれるもので、その理念は「ジャコバン主義」とも言われた。代表するのはロベスピエール。
 ロベスピエールにおいて、民衆への所有権の配分と「習俗の全面的刷新」による(民衆たちの?)「新しい人間」創出が重要だった。「テルール」とは「『徳と恐怖』を原理にもつ戦時非常体制」のことで、「徳」=「公共の善への献身」、「恐怖」=「それに反する者への懲罰」だ。
 「革命政府」は「反革命勢力にたいする仮借のない戦い」とともに「独走する民衆運動のコントロール」も重視した。「ジャコバン派(=山岳派)」は鉄の団結をもつ派ではなく、1794年春にロベスピエールは、ジャコバン派内の右派「ダントン派首脳」と民衆運動へり影響力をもつ左派「エベール派」を「粛清」した(以上、p.127-9)。
 その後ロベスピエールは「独善的な精神主義」に傾斜していくとされる(p.129。元来からそうだったのだろう)。以上に簡単に触れられているロベスピエールの思想又は「理念」は、なるほど、この欄でも何度か言及した(「狂人」とすら呼ぶ人すらいる)ルソーのそれと同じか、近い。
 三 柴田三千雄・フランス革命(岩波現代文庫、2007。初出1989、2004)は、「ジャコバン主義」につき、ジロンド派の殆どを排除した議会(国民公会)の「革命路線」は、「九三年から九四年にかけてのジャコバン・クラブが、この路線をとる革命家たちの中核的機関だった」ために、一般に「ジャコバン主義」と言われる、と説明している(p.169)。そして、「もっとも指導的な立場」にあったのはロベスピエールだったとしつつ、上の岩波新書よりも、歴史的・時間的経緯等を詳細に叙述している。
 反復と詳細な紹介を避けて、三点だけメモしておく。
 ①1792年に「九月の虐殺事件」が起きた。パリの牢獄内で反革命陰謀ありとの噂が立ち、「群衆」が複数の牢獄に侵入して「即決裁判」にかけ、2800人の囚人のうち1100~1400人が「殺され」た。囚人のうち政治(思想)犯だった者は約1/4(以上、p.157-8)。これは「革命政府」成立前のことだが、柴田によると「のちのジャコバン独裁は、この九月の虐殺の経験と関連がある」。すなわち、「反革命に対する民衆の危惧を盲目的に暴発させてはならず、…コントロールする必要がある」ために、「内部に妥協分子を含む二重権力ではなく、民衆の正当な要求を先取りしてゆく強力な革命的集中権力の樹立が前提条件になる」、これが「のちの恐怖政治の論理」だ(p.159)。
 ②「恐怖政治」(テルール)には「反革命の容疑者を捕えてどんどんギロチンにかける」という狭義の「司法的」一面の他に、「自由経済に対する統制」という「経済統制の面」もある(前者の「一面」を否定していないことが、確認的にではあれ関心を惹いた)。
 ③「革命政府」とは当時使われた言葉で、「憲法に基づかない」政府という意味だ。1993年憲法は国民公会の10月10日の宣言により施行が停止され、12月4日の法令により「全権力」が国民公会に集中された。とくに国民公会内の公安委員会と治安委員会に権力が集中し、行政府(大臣等)は「公安委員会に従属」した(p.176-7)。
 四 <ジャコバン独裁>期の殺戮等の実態については、さらに関係文献を渉猟し参照して紹介する。また、フランス的又はルソー=ジャコバン的<個人>観についても触れたいことはある。
 上の二テーマについては、ある程度の用意はある。だが、後回しにして、今回は、最後に、樋口陽一・自由と国家(1989)の中の次の文章を紹介しておきたい。
 日本(の一部)では「西洋近代立憲主義社会の基本的な約束ごと(ホッブズからロックを経てルソーまで)」が見事に否定されている。「そうだとしたら、一九八九年の日本社会にとっては、二世紀前に、中間団体をしつこいまでに敵視しながらいわば力ずくで『個人』をつかみ出したルソー=ジャコバン型個人主義の意義を、そのもたらす痛みとともに追体験することの方が、重要なのではないだろうか」(p.170)。
 これは、樋口陽一のきわめて<歴史的>な発言で、<歴史>に永く記憶されるべきだ、と考える。
 「中間団体」の問題には立ち入らない(まだ言及していないから)。また、「西洋近代立憲主義社会の基本的な約束ごと(ホッブズからロックを経てルソーまで)」を日本と日本人が何故守り、実現しなければならないのか?という基本的に重要な論点・問題もある。  だが、それよりも重要なのは、樋口が、日本人に対して、「ルソー=ジャコバン型個人主義の意義」を「追体験」せよ、と主張していること、しかも、「そのもたらす痛みとともに」追体験せよ、と主張していることだ。
 端的にいえば、これは、<ジャコバン独裁>期の(思想の違いを理由とする)<殺戮・虐殺>を伴うような<革命>を経験せよ、<殺戮・虐殺>も「追体験」して、(それに耐えられるような?)「中間団体」に守られない<強い>「個人」になれ、という主張だ、と考えられる。少なくとも、かかる解釈を許すことを否定できないものだ。この人は、1989年に、何と怖ろしい主張をしていたものだ。こういう主張・考え方は<左翼・全体主義>と形容することもできる。<共産主義>の萌芽をそのまま承認している、と言ってもよい。
 大雑把に書くが、国家の「一般意思」に全面的に服従する(献身する=犠牲になる)ことによって人民は「自由」になる、というルソー的考え方、個人(人民)の「自由」意思=人民の(直接民主主義的)代理人(の集合体たる議会)の意思=「一般意思」というルソー的観念結合は、実際には容易に一部の者の「独裁」、あるいは「全体主義」を導くものであり、上に引用にしたロベスピエールの考え方の一端にも垣間見えるように、思想の違いを理由とする(「一般意思」に違反するとの合理化による)<粛清>を正当化するものだ。
 樋口陽一は、この著名らしい元東京大学の憲法学者は、まさに上のような考え方を持っていたのだ、と判断できる。そういう人が(むろん「左翼」で「親マルクス主義」者で、そして憲法九条護持論者だが)多数の本を出しており、社会的影響力もおそらく持っている。日本は怖ろしい社会になってしまった、と思わざるをえない。まだ、紙の上、言葉だけにとどまっているのが幸いではあるが、むろん人々の種々の政治行動(投票活動等)に影響を与え、現実化していく可能性はある(すでにある程度は現実化している?)。
 あらためていう。樋口陽一の上の文章は<怖ろしい>内容をもつ。
 付記-大原康男・天皇-その論の変遷と皇室制度(展転社、1988)は、数日前に全読了した。

0467/共産主義との闘い-人間が人間らしく生きるために。

 「なぜ1917年に出現した現代共産主義は、ほとんど瞬時に血なまぐさい独裁制をうちたて、ついで犯罪的な体制に変貌することになったのだろうか。…この犯罪が共産主義勢力によって、平凡で当たり前の施策と認識され実践されてきたことをどう説明できるのだろうか」。
 これはクルトワ等共産主義黒書コミンテルン・アジア篇(恵雅堂出版、2006)p.334の文章だ。「犯罪」はむろん粛清=大量殺戮を含む。
 この本はフランス人によるだけにフランス革命後のロベスピエール等によるギロチン等による死刑とテロルの大量さとの関連性にも言及しているのが興味深いが、この文章の「現代共産主義」は殆どソ連のみを意味する。だが、「現代共産主義」は欧州では無力になったとしても、東アジアではまだ「生きている」。アジア的・儒教的とか形容が追加されることもある、中国・北朝鮮(・ベトナム)だ。中国との「闘い」に勝てるかどうかが、これらの国を「共産主義」から解放できるかどうかが、大袈裟かつ大雑把な言い方だが、日本の将来を分ける。下手をすると(チベットのように<侵略>されて)中華人民共和国日本州になっている、あるいは日中軍事同盟の下で事実上の中国傀儡政権が東京に成立しているかもしれない。そうした事態へと推移していく可能性が全くないとはいえないことを意識して、そうならないように国と全国民が「闘う」意思を持続させる必要がある、と強く感じている。むろん「闘い」は武力に限らず、言論・外交等々によるものを含む。
 といって、現在の北朝鮮・中国情勢に関して日本「国家」が採るべき方策の具体的かつ詳細な案が自分にあるわけではない。だが、中国・北朝鮮対応は共産主義との闘いという大きな歴史的流れの中で捉えられるべきだし、将来振り返ってそのように位置づけられるはずのものだ、と考えている。
 近現代日本史も「共産主義」との関係を軸にして整理し直すことができるし、そうなされるべきだろう。共産主義がロシアにおいて実体化されなかったら、日本共産党(国際共産党日本支部)は設立されず、治安維持法も制定されなかった。コミンテルンはなく、その指導にもとづく中国共産党の対日本政策もなく、支那は毛沢東に支配されることもなかった。米ルーズベルト政権への共産主義の影響もなく、アメリカが支那諸政府よりも日本を警戒するという「倒錯」は生じなかった。悪魔の思想=コミュニズムがなかったら、一億の人間が無慈悲に殺戮される又は非人間的に死亡することはなかったとともに、今のような東アジアの状態もなかった。

0431/佐伯啓思・<現代文明論・上>のメモ。

 佐伯啓思・<現代文明論・上>(PHP新書、2003)からの要約的引用のつづき。
 ・フランスにはアメリカと違い「きわめて貧しい」「市民階級」があり、「貧民市民層」の支配層(王・宮廷貴族・官僚・僧侶)への「恨み」・「怒り」=「ルサンチマンに彩られた自己意識、…被害者意識」がフランス革命を導いた「人々の心理」だった。革命は「権力の創出」(アメリカ)ではなく、「権力の破壊」に向けられた。(p.156-7)
 ・フランスでの「人民主権、…民主主義は、まずは反権力闘争として提示された」。フランス革命が生んだ「近代民主主義」は古典古代の如き「有徳の市民による政治参加」ではなく、「恨みと怒りに突き動かされた無産階級の、財産階級への闘争だった」。この意味で、「近代民主主義は、本質的に反権力的で、つねに権力を破壊しようとの衝動を伴っている」。(p.157)
 ・ロベスピエールはルソーを通して古代「共和主義」に共鳴して「徳の共和国」を作ろうとしたが、その「徳」は「貧者への同情に変形され」、その結果、フランス革命の「徳の共和国」は「徳のテロル」に変わった。(p.160)
 ・「ルソーの民主主義論」の二側面のうち「古典古代的な共和主義」・「市民的美徳」の再構成は「アメリカに受け継がれた」。また、アメリカ独立革命の指導者たちは「ルソー的な直接民主主義を完全に放棄」し、「連邦制という新たなシステム」を創出した。(p.161)
 ・もう一つの側面=「社会契約論を徹底した根源的な人民主権」は、「フランス革命に受け継がれた」。「古典的な共和主義や古典的市民の観念を失った近代民主主義は、フランス革命において凄惨な帰結をもたら」した。(p.162)
 以上。

0423/佐伯啓思・人間は進歩してきたのか(PHP新書)を半分以上読んだ。

 先週のいつ頃からだったか、二夜ほどで、佐伯啓思・人間は進歩してきたのか-「西欧近代」再考<現代文明論・上>(PHP新書、2003)の最初からp.168までを一気に読んだ。
 広いスパンだけに、むつかしくはない。だが、これは大学の全学共通科目(私の時代では「教養」科目)の講義を元にしてできた本のようで、当該科目を受講できた学生たちが羨ましい。自分も20歳前後にこんな内容の講義を(まじめに)聴いていれば、人生が変わったかも、と思ったりする。
 とりあえず、二点が印象に残る。
 第一に、何をもって、またいつ頃からを「近代」というかは問題だが、佐伯によると、中世=封建時代からただちに近代=自由・民主主義の時代に<発展>したわけではなく(ルネッサンス・「絶対王政」の時期が挟まる)、些か安易に一文だけ抜き出せば、「宗教改革という名のキリスト教の原理主義的回帰から、宗教から自立した近代的国家が成立し、世俗の領域が確立した」(p.81)。あえてさらに短縮すれば、宗教(神)から自立した世俗的国家・社会の成立こそが「近代」なのだ。
 これはむろん<ヨーロッパ(西欧)近代>のことで、かつ西欧でもフランス、イギリス、ドイツで異なる歴史的展開があったのだとすれば、<(ヨーロッパ)近代>の萌芽・成立・その後の「変化」を日本に当てはめるのは、キリスト教という宗教と<世俗>世界の対立・抗争に類似のものを日本は持たないことだけでも、もともと(よほどひどく単純化・抽象化しないかぎりは)不可能なことだろう。<進んでいる・遅れている>を論じても、-欧州「進歩」思想に全面的に同調しないかぎりは-無意味なのではないか。
 第二は、前回書いたことにかかわり、前回にすでに意識はしていたことなのだが、ルソーについてだ。
 ルソーについては前回も触れたが、中川八洋や阪本昌成の著書を参照しつつ、何度かその思想の中身に言及してきた。
 かつて自分がこの欄に書き記したことをほぼ失念しているが、佐伯啓思もほぼ同旨のことを(も)述べているように思う。以下、適当に要約的に引用する。
 ①万人が争う「自然状態」をなくして「自己の保存」(個人の生命・財産の安全確保)のために<契約>して「国家」ができるとするホッブズの矛盾・弱点-個人・市民と主権者・国家が乖離し後者が前者を抑圧するという可能性-を「論理的に解決」する考え方を示したのがルソーだ(p.115-6、p.119)。
 ②「近代」社会の合理性・理性主義を肯定し、「自由や平等に向けた社会改革」を支持するのが「啓蒙思想」だとすると、ルソーは(啓蒙主義者・啓蒙思想家としばしば称されるが)「啓蒙主義に対する敵対者」だった(p.119)。
 ③ルソーを啓蒙主義者の代表者にしたのは彼の著書『社会契約論』だが、この本の理解は容易でない。
 1.ホッブズと同様、「生命・財産の安全を確保するための契約」を結ぶ。但し、ホッブズの「契約」だと市民は国家・主権者に「結局、…服従」してしまうので、人間が「本来自然状態でもっていた基本的な自由」を失わず、「自分が何者かに決して従属しない」契約にする必要がある(とルソーは説く)。
 2.どうすればよいのか。「唯一の答えは、すべての人が主権者になるような契約」を行うことだ。これは、換言すると、「すべての者が従属者」でもある、ということ。この部分のルソーの叙述はわかりにくい。
 3.このわかりにくさの解消のために持ち出した「非常に重要な概念」が「一般意思」(p.121-3)。
 ④1.「一般意思」とは「すべての人が共通にもっているような意思(あるいは利害・関心)」。かかる「意思」を軸にして全ての人が結合でき、一つの「共同社会」ができる。この共同体は「すべての人が共通にもっている利害や関心を実現し、またそれを焦点にすることで形成される」。
 2.とすると、「共同体の意思」と「一人ひとりの人間」の「意思」は「同じはず」。「一般意思」による「共同体」形成により「個人の意思、利益、関心と社会の意思、利益、関心とは完全に一致する」。
 3.人はたしかに「共同体にすべて委ねてしまう」が、共同体に「従属」しはせず、むしろ「委ねる」ことにより自分の意思・利益を「いっそう有効に実現」できる。
 くり返せば、人がその生命・身体・全ての力を「共同体に委ね」、身体・全ての力を「共同のものとして、一般意思の最高の指導のもとに置く」。「自分自身を共同体に委ねてしまうことによって、逆に共同体の全体の力を、自分自身のものとして受け取ることができる」(p.123-4)。
 以上が、人は「自らが主権者であり、また服従者だ」ということの意味。 
 ⑤1.「一般意思」とは、個人の個々の関心の調整で生じるのではない、「もっと崇高」で「もっと根源的なもの」。
 もっとも基本的なものは「共同防衛」、「共同で自分たちの生命・財産を防衛すること」。
 2.共同防衛が「一般意思」ならば、人は「一度、全面的に一般意思に服」する必要がある。ルソーいわく、「共同体の構成員は…自己を共同体に与える。…彼自身と…彼のすべての力を、現にあるがままの状態で与える」。
 3.(佐伯は言う)「これはたいへんな話です」。「一般意思の実現のためには共同体に命を預けなければならない」。
 ルソーいわく、<統治者が国家のために死ねと言えば、市民は死ななければならない>。
 4.(佐伯は言う)上の2.3.のような面は「従来の政治思想史のなかでは…故意に触れられずにき」た。だが、かかる重要な点を欠いては、ルソーの社会契約論、つまり、「人々が契約によって社会状態に入り、なおかつ主権を維持するという論理は生まれえない」(p.125-8)。
 (以下にこそ本当は引用したかった部分が続くのだが、長くなりそうなので(すでに長いので)、結論的な叙述のみ引用しておく。)
 ⑥1.「一般意思」は事実上「人民(又は国民)の意思」に置換される。「『人民の意思』を名乗った者はすべてが許されます。彼に反対する者は『人民の敵』となるわけで、『人民の敵』という名のもとに反対者はすべて抹殺されてしまう」。「代表者に敵対する者は一般意思に対する裏切り者」で「共同社会に対する裏切り者」となる。「これは、独裁政治であり全体主義です」。
 2.「つまり、ルソーの論理を具体的なかたちで突き詰め現実化すると、まず間違いなく独裁政治、全体主義へと行き着かざるをえない。根源的民主主義は、それを現実化しようとすると、全体主義へと帰着してしまう」。
 3.「現にそれをやったのがフランス革命でした。フランス革命は。…ルソーの考え方をモデルにして行われた…。ルソーの最大の賛美者であり、徹底したロベスピエールは、まさに、自らが『人民の意思』を代表すると考え、人民の敵…といわれる者をすべて抹殺していく。いわゆるジャコバン独裁、恐怖政治に陥る」(p.134-5)。
 とりあえず以上。ルソーはフランス革命そして「近代」や「民主主義」の父などというよりも、ファシズムや社会主義(・共産主義)を用意した理論・思想を自らのうちに胚胎させていたのではなかろうか。
 ルソーがいなければマルクスも(そしてマルクスがいなければレーニンも)いなかった。中川八洋も同旨のことを繰り返し述べていたように記憶する。
 このように見ると、フランス革命を「学んだ」ポル・ポトらが「社会主義」の名のもとで自国民の大量虐殺を行ったのも何ら不思議ではない。と述べて、前回からのつなぎの意味も込めておく。

0192/「フランス革命」なくして社会主義思想と「ロシア革命」もなし。

 パリにいたとき、旧市街地内の小学校らしき建物の入口辺りに「Liberte」「Egalite」「Fraternite」(自由・平等・博愛)の三つの石製銘板が貼られているのを見て、フランス人はこれらを標語とするフランス革命を誇りにしているのだろうと感じた。もっとも、「Fraternite」は博愛というより「同胞愛」又はより狭く「同志(仲間)愛」・「友愛」だという話もある。
 松浦義弘・フランス革命の社会史(山川出版社、1997)という90頁の冊子で同革命の経緯の概略は判るが、三つの標語がいつ頃から使われたのはハッキリしない。いずれにせよ1789年の1年で革命が完結したわけではなく自由・平等・博愛の社会がすみやかに実現したわけでもない。
 また、松浦は上の本で・フランス革命の「暗い闇の側面」、「独裁と恐怖政治」を指摘し、「陰謀」や「反革命」容疑者に対する容赦なしの処刑=暴力行使に関して述べている。「革命期の民衆的事件のほぼすべてが、ややサディスティックな情念を感じさせる暴力にいろどられている」(p.73)。1792年9月初旬の「九月の虐殺」の際はパリの在監者の約半数を「人民法廷」による即決裁判を経て処刑=虐殺したが、有罪者は「槍、棍棒、サーベルなどでめった切りにされ、裸にされ、死体の山の上に放りだされるか、首や四肢を切断された。…人びとはそれを槍の先に突き刺して、市中を行進した」(p.74-5)。
 長谷川三千子・民主主義とは何なのか(文春新書、2001)は松浦の本と同様に1793年の「ヴァンデの民衆反乱」の弾圧等に触れつつ、フランス革命による「「流血の惨」は、それ自体が革命思想の産物そのものだった」とする。さらに彼女は、フランス革命以降60年を通じて「ほとんどその必然的な展開の帰結として」「社会主義理論」が出現した、トクヴィルは「民主主義が、この社会主義の生みの親に他ならない」ことを認めている、とすら述べる(p.27)。
 いつか既に触れたように、また中川八洋の本も明記していたが、クルトワ等・共産主義黒書もまた共産主義・ロシア革命とフランス革命の関連に着目していた。それによると、より詳しく引用すれば、フランス革命の「恐怖政治はボルシェビキの歩みを先取りしていた。疑いもなくロベスピエールは、のちにレーニンをテロルへと導いた路線に最初の礎石を置いた」(p.335)。
 「反革命」思想者をかりに実力抵抗していなくても殺戮する、革命の「敵」は殺しても構わないという考え方は、すでにフランス革命期に欧州で胚胎し現実化もしていた。とすれば、ますますフランス革命の如き「明確な」革命をわが国が経ていないという「遅れ」に劣等感をもつ必要は全くないだろう。

0003/フランス革命-1951年のソブール本と1987年のセディヨ本。

 中川八洋・正統の哲学/異端の思想(徳間書店、1996)は刺激的な本で、第一部第一章第一節は「ロシア革命とは「第二フランス革命」」という見出しになっており、フランス革命の残虐性・狂気性およびマルクス主義・ロシア革命の重要な淵源性を指摘し、ルソー・ロベスピエールらを厳しく批判するとともに、より穏健なイギリス名誉革命を讃え、フランス革命時のイギリスの「保守」思想家バークらを肯定的に評価する。この本はフランス革命を肯定的・好意的に描く本は日本で多く翻訳され、消極的・批判的な本は翻訳されない傾向がある、という。また、肯定的・礼賛的なものの主要な四つのうち中央公論社の世界の名著中のミシュレのものの他はいずれも岩波書店から出版されている。そのうち、ソブール・フランス革命(上・下)(岩波新書、1989年各々42刷、39刷。初版、各1953年)を古書で入手した。
 1952年の時点での著者からの「日本の読者へ」の初め2行まで読んで(見て、に殆ど等しい)、たちまちぶったまげた。曰く-「20世紀、いいかえればプロレタリア革命―われわれはそれに終局的な人間解放の希望をかけているのだが―の世紀のちょうど中葉にあたって、日本の読者に…」。いかにスターリン批判がまだの時期とはいえ、のっけから、20世紀はプロレタリア革命の世紀で、それに終局的な人間解放の希望をかけている、とは…。岩波書店がこのパリ(ソルボンヌ)大学フランス革命史講座教授の1951年の本をさっそく新書化したのも分かる。岩波書店の<思想>にぴったりの内容だからだ。
 ソブールは上の言葉で始め、イギリスやアメリカの「革命」の妥協性や特異な限界を指摘してフランス革命は「人類の歴史の中で第一級の地位」を占めると自慢し、フランス革命は自由の革命、平等の革命、統一の革命、友愛の革命だった、とする。さらにこう続けているのが興味深い。-だが、経済的自由の宣言・農奴制廃止・土地解放によって「資本主義に道をひらき、人間による人間の新しい搾取制度の創設を助けた」。だがしかし、と彼は続ける。-フランス革命は「未来の芽生え」も見せていた、即ち「バブーフは経済問題を解決し、…平等と社会主義を完全に実現する唯一の可能な方法として、生産手段の私有廃止と不可分の社会主義的デモクラシーの樹立を提案した」。
 中川八洋の著を読んで抱いた印象以上に、フランス革命賛美者はマルクス主義者であること、フランス革命→社会主義革命という連続的な歴史的発展論に立っていることが解る。岩波書店はこの新書をもう絶版にしているようだが、1991年のソ連・東欧「社会主義」諸国の崩壊の後では、さすがに恥ずかしくなったのだろうか。
 一方、1987年のルネ・セディヨの本を訳した同・フランス革命の代償(山崎耕一訳。草思社、1991)は、フランスでは「修正派」と言うらしいが、筆者まえがきで、大革命は伝説を一掃すれば実態が明らかになる、全否定はできなくとも全てを無謬ともできない、偉大な部分・崇高な面もあるが、うしろめたい部分・有害な面もあると結論を示唆し、訳者あとがきは、この書によるとフランス革命は資本主義の発展に有利に作用せず、封建制を廃棄せず、土地問題を解決していない、等々と要約している。どちらか一方のみが適切でないにせよ、後者の方がより歴史の真実に近そうだ。
 いずれにせよ、フランス、アメリカ、イギリスの諸「革命」を同質の「市民革命」(ブルジョワ民主主義革命)と理解することは誤りだ。また、日本が(かつて又は現在でもよく説かれているように)フランス革命のような典型的な「革命」を経ないで「近代」化したことについて、劣等感をもつ必要は全くない。

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