秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ロシア革命

2232/L.Engelstein・Russia in Flames(2018)第6部第2章第3節。

 L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)。
 以下、上の著の一部の試訳。
 第6部・勝利と後退。
 第2章・革命は自分に向かう。
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 第3節。
 (1)攻撃されると考えて、クロンシュタット臨時革命委員会は、島の奪取を計画した。
 海兵たちは、武器庫、電話交換所、行政部署の建物を占拠した。
 委員会は-公式のソヴィエト機関紙のごとく<Izvestiia>と称する-新聞を発行した。その新聞は、秩序の維持を訴え、流血に至ることを警告した。(35) 
 大衆の示威行動の3日後の3月3日、労働者騒擾がペトログラードで衰えていたときであっても、当局は市とその周辺地域に戒厳令を敷いた。
 レーニンとトロツキーがその翌日に署名した布令は、「反乱」を非難し、反抗は「法の外にある」と宣告した。
 首謀的指導者の家族の間には、人質となった者がいた。
 交渉は、拒否された。
 選択できるのは、降伏するか、戦うか、だけだった。
 3月5日、クロンシュタットの将校たち(コズロフスキのような「軍事専門家たち」)は、武装防衛を組織化して、反乱者たちを助けることに同意した。(36)
 (2)同じ日、モスクワは、攻撃する決定を下した。
 トロツキーは、「最終警告」を発した。-「社会主義祖国」に刃向かった者は全員が、「直ちに武器を捨て」なければならない。「無条件で降伏した者だけが、ソヴェト共和国の寛大な措置を期待することができる」。
 「反乱と反乱者を軍隊によって粉砕する」よう、諸指示が発せられた。
 「これによって民間住民に対して生じる損害に対する責任は、あげて白軍反乱兵たちにある」。(37)
 この警告は、ラジオでクロンシュタットに伝えられた。
 ビラ(leaflets)が飛行機から撒かれた。そのビラは、白軍とコズロフスキ将軍を非難していた。
 反乱者たちは、自分たちは「革命が獲得した自由」を防衛していると、強く主張した。
 クロンシュタット兵団のある会合は、こう決議した。
 「我々は、死んでも、屈服しはしない。
 労働者人民の自由なロシアよ、永遠なれ」。(39)
 (3)最後通牒は、24時間延長された。
 3月7日、臨時革命委員会は、「労働者大衆の革命」は「ソヴェト・ロシの顔を冒涜した卑劣な中傷者や屠殺者たちを排除する」心づもりだ、と発表した。
 「トロツキー氏よ、我々はきみたちの寛大さなど必要としない!」。(40)
 ミハイル・トゥハチェフスキが指揮をとる第七軍は、3月8日に攻撃を開始することになっていた。その日は第10回党大会がモスクワで開催される予定の日で、攻撃の成功をその大会で発表することができるようにだった。(41)
 チェカの工作員はこう警告した。「外科手術によって広がる病気を除去する」ときだ。「内科的治療では、もう遅すぎる」。(42)
 (4)クロンシュタット兵士たちは他の要求の中で、強制的徴発(forced requisitions)の中止を主張した。
 1年前の1920年2月、トロツキーは、穀物の徴発(grain levy)、すなわち<razverstka>〔穀物徴発〕に関する知見を再考するようになっていた。これは、厄災的<貧民委員会(kombedy)>に取って代わったものだった。
 ウラルでの経験が示したのは、<razverstka>は収穫物の増大をもたらさなかったこと、そして農民たちが消費高割り当て(comsumption norm)に合わせて種を撒くように自ら制限する原因になっただけだったこと、だった。
 トロツキーは、代わりに一種の現物税(<prodnalog>)、収穫される量の一定割合、を提案し、農民たちがより多く植え付ける誘因にしようとした。(43)
 しかしながら、1920年3月、レーニンは、「数百万を数える、…戦争の気構えをもつ小ブルジョア財産所有者、小規模の投機者」に対する党の方針を再確認した。
 ほとんどのボルシェヴィキは、強制の増加を呼びかけることに同意した。(44)
 1年後、1921年2月頃、レーニンと党の最上層部、およびチェカは、<razverstka>の再検討をようやく開始した。(45)
 <prodnalog>〔食糧税〕導入の問題は実際に第10回大会の議事事項だったが、クロンシュタットに対する攻撃がすでに進行するまでは発表されなかった。
 反乱者たちの要求は、あらかじめ回答が回避されていたのだ。
 問題は、力だった。
 レーニンは、こう言った。「まさに今が、我々がこの民衆たちに教訓を教え込むときだ。そうすると数十年の間は、彼らは抵抗のことなどをあえて考えつこうとすらしないだろう」。(46)
 (5)かりに2日早く、3月6日に第10回大会が始まっていれば、反乱者側は政策変更を知って、おそらくは正しさが認められたと感じて、撤退したかもしれなかった。しかしそれは、レーニンが望んだことではなかった。(47)
 農民の大量の暴動は、党が穀物徴発の方法を緩和することを強いていた。
 労働者たちの抗議は、党内の労働者反対派と呼ばれるグループが労働組合の経済問題に関する役割をより大きくすることを主張するようになる原因となった。 
 しかしながら、レーニンは、党内についてすら、政治的統制を強化する必要性に固執した。
 党の統一を擁護して「アナキストとサンディカリスト的逸脱」を非難する決議は、重大な異見を党内で、上層部内ですら、表現することのできた時代に終焉を告げるものだった。
 こうして、民衆による騒擾の影響が引き起こした経済的譲歩に伴ったのは、新たなイデオロギー上の厳格な締め付けだった。//
 (6)敵に対する党の決定への草の根的挑戦を非難するのは容易だ。敵-黒の百、白軍将校、メンシェヴィキあるいは社会革命党。
 しかし、バルト艦隊の革命的海兵たちが自分たちの信条にもとづいて行動していることは、何ら秘密ではなかった。
 しかしながら、「この民衆たちに教訓を教え込む」のはさほど容易ではなかった。
 3月8日、反乱は、外科的な整然さをもってしても鎮圧されなかった。
 その時点で、およそ1万3000人の海兵と兵士、さらに2000人の武装民間人が、攻撃を退ける準備をしていた。
 彼らはいくぶんかは、大陸と隔てる11マイルの氷の覆いで守られていた。攻撃者たちは、銃火を浴びながらそこを横断しなければならなかっただろう。
 しかしながら、彼らは長期間の包囲に耐えることができなかった。弾薬、燃料、そして食糧が限られていたからだ。(48)
 じつに、飢えこそが、彼らに対して用いられた武器だった。
 「空腹のために、クロンシュタットはボルシェヴィキの力に屈服するのを余儀なくされるだろう」と、公式の報告書は予測していた。(49)
 (7)攻撃の第一局面は、3月7日の夜から8日にかけて始まった。
 銃砲が響く音を、ペトログラードで聞くことができた。だが、雪と霧のために、すぐに戦闘行動が中止された。
 翌朝、冬仕様で身を包んだ赤軍の兵団が、明け方の雪嵐の中を突き進んだ。
 機関銃が、氷を砕いた。
 何人かの兵士が海に落ち、何人かは歩み続けるのを拒んだ。
 陽光が9時頃に輝いたとき、雪の上に死体が横たわっているのが見えた。(50)
 この夜、3月8日の未明、赤軍兵士のグループが、白旗を掲げて島に接近した。
 非武装の〔クロンシュタット側の〕指導者二人が馬から降り、彼らと会おうとした。
 その一人のS・ヴァシニン(Sergei Vershinin)は26歳の<Sevastopol>の電気技師で、明確に使者たちに対して、共産党に対する闘争に加わるよう訴えた。
 のちのあるソヴィエト文献は、ヴァシニンは「一緒になって、Yids(ユダヤ人)をやっつけよう」と言って彼らを誘った、と主張している。
 彼が本当にこの俗語を使ったのだとすれば、驚くべきことだっただろう。
 しかし、この説明が叙述しようとしているのは、彼は「遅れて」、「堕落して」いるが幻滅していない忠実な革命の息子だ、ということもあり得る。
 いずれにせよ、ヴァシニンはたたちに逮捕された。もう一人の仲間は、何とか逃げのびた。(51)//
 (8)3月10日、トロツキーは、湾の氷が解けて反乱者たちがフィンランドへ行けるようになる前に、早く攻撃せよと、主張した。
 彼は苛立っていた。「緊急的手段が必要だ。怖れることだが、党も中央委員会も、クロンシュタット問題がきわめて深刻であることに十分に気づいていない」。(52)
 問題の一つは、彼らを鎮圧するに必要な軍隊の状況に関係していた。
 どちらの側にも、士気(morale)という問題があった。-そう、じつに誰もが、二つの側ではない、と分かっていた。
 同じ者たちだった。革命の同じ戦闘部隊が、相互に対して戦闘隊列を敷いていたのだ。//
 (9)同じ日、トゥハチェフスキはレーニンに書き送った。面倒なのは、反抗がバリケードの向こう側で起きていることだ、と。
 司令官は愚痴をこう述べた。「ペトログラードの労働者は信頼できない。クロンシュタットの労働者は、海兵たちを支持している。…多数のメンシェヴィキが、スモレンスク市ソヴェトに選出された」。
 経済条件が長く困難なままなので、労働者たちはいつでも、「ソヴェト権力に反抗する」かもしれない。
 体制側には本当の、十分に訓練した軍隊が必要だ。そうした軍隊ならば、戦争の挑発、内部に対する戦争に対処することができるだろうから。
 トゥハチェフスキは、こう警告した。「平時にあるようなものではないだろう」。(53)
 (10)トゥハチェフスキのこの時点での任務は、内部からの反抗を軍事的に弾圧することだった。
 空軍と砲兵隊による爆撃が3月10日に始まり、濃霧の妨げがないときに間欠的に続いた。さらに4日間が過ぎたとき、トゥハチェフスキは再編成すべく中断させた。
 彼が気づいていたように、状況は安定していなかった。
 鉄道労働者の中には、兵団を輸送するのを拒む者たちもいた。
 ある兵団は、配置に就くことを拒否した。
 男たちは、躊躇を示していた。
 「前線に行くつもりはない」、「戦争には飽きた、パンをくれ」、そしてよく見られた、「ユダヤ人をやっつけろ」。
 彼らは、仲間たちと戦闘しようとはしなかった。(55)
 (11)兵士たちは溺死させられるために氷の上に連れて行かれる、という風聞が流れた。
 二つの連隊が兵舎から武器を手にして出てきて、「氷の上には行かない」、「村落へと展開されてくれ」、「別の一団を呼び集めよう」と叫んだ。(56)
 司令部はこのとき、外科的手段を自分たちの部隊にも適用した。
 200人の兵士が逮捕され、74人の指導者たちが射殺された。そして連隊は、秩序ある状態に戻った。
 まさにこのような場合に、「臆病さや退却の試みが生じた場合」のために、特殊部隊が至るところに配置された。(57)
 実際に、苛酷な紀律が導入された。-野戦審判所、不服従や脱走に対する死刑、公開の処刑。
 反抗的な分団は拘束され、その場で処刑された。
 兵士の男たちは、一度に30人または40人が、射殺された。(58)
 紀律が回復した。ペトログラードの労働者たちは、静かになった。(59)//
 (12)3月15-16日の夜、クロンシュタット爆撃が再び始まった。
 攻撃側が予想したように、クロンシュタットの防衛者たちには燃料、武器、衣料品が、そして食糧が乏しくなってきていた。
 圧倒的に数は多かったが、特別の食料配給を受け、電線切断機を装備し、その側では反革命者だったと責められている帝制時代と同じ将校によって指揮されている兵団と、彼らは直面していたのだ。
 3月16日夕方、<Sevastopol>が一発の砲弾を受けた。(60)
 その1日後、ペトリチェンコを含む革命委員会全体が、氷上を横切ってフィンランドへと逃亡した。
 総計で8000人のクロンシュタット兵士たちが、これを安全に行わせた。(61)//
 (13)3月18日の朝までに、赤軍が統制権を握った。
 その日は、1871年3月18日のパリ・コミューン開始の第50周年記念日と一致していた。
 ペトログラードの新聞は、喜んだ。
 二隻の裏切り戦艦は、<Marat(マラー)>および<パリ・コミューン>と改名された。
 残っている海兵たちと参加していた赤軍兵団は、再配置され、そして解散させられた。
 死者数の見積もりは、様々だ。
 死体は、街頭や氷上に放っておかれていた。
 この月の末に、ロシアとフィンランドの代表団が、解氷しつつある表面にある死体の処理について、討議した。(62)
 (14)<Petropavlovsk>と<Sevastpol>の乗員兵士たちは、とくに苛酷に扱われた。
 逮捕された者たちのうちほとんどは、この事件に何らの役割を果たしていなかった。しかし、全員が公的な審判で、反乱および武装蜂起の罪があるとして訴追された。
 1921年夏頃までに、チェカと多数の野戦審判所は、2000名以上の者に対して死刑、6000人以上の者に対して収監(懲役)を言い渡した。
 1年後、数千人の家族が要塞都市から追放され、従前の住民たちから離れた。(63)
 処刑された兵士たちの多くは、20歳代には農民だった。(64)
 ヴァシニンはクロンシュタットの使者で攻撃の第一日めに白旗を掲げた計略で拘束されていたのだが、尋問を受ける一人となり、射殺された。(65)
 (15)トロツキーには、形式的な訴訟手続の目的に関する骨格的構想などなかった。
 審判は「重要な煽動的意義」を持ち得るだろう。
 「いずれにせよ、処刑に関する報告、演説等々は、小冊子やビラよりもはるかに力強い影響力をもつだろう」。(66)
 目標は、トロツキーがクロンシュタットの事態と一体視していた社会革命党の影響を排除することだった。そして、元々はマフノ(Makhno)と連携していたが、海兵たちの反乱にも関係したアナキストたちの残滓のそれをも。
 革命家仲間の内部から共産党の権威に反対すること-あるいはそれを疑問視すること-は、率直かつ明快に論証されなければならない。これが、この事態の帰結だった。//
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 第3節、終わり。

2224/R・パイプス・ロシア革命第13章第1・第2節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 試訳をつづける。第13章に入る。第1節に当たる部分に目次上の表題がないので、たんに「序」とする。
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 第13章・ブレスト=リトフスク。
 「党の煽動活動家は、わが党はドイツとの分離講和を支持している、という資本主義者が投げつける汚い中傷に対して、何度も、何度も、抗議しなければならない」。
 レーニン、1917年4月21日。(1)
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 第1節・序。
 (1)十月以降のボルシェヴィキの主要な関心は、その権力を確固たるものにし、全国土へと拡張することだった。
 彼らはこの困難な任務を、現実的な外交政策の枠組みの中で行わなければならず、その中心に位置したのは、対ドイツ関係だった。
 レーニンの判断では、ロシアがすみやかにドイツとの停戦に署名しなければ、自分が権力を維持することのできる機会は皆無に近い。
 逆に言えば、停戦とそれに続く講和は、ボルシェヴィキが世界制圧を始めるドアを開けるだろう。
 1917年12月、ほとんどの支持者がドイツが提示した条件を拒否していたとき、レーニンは、ドイツの言うがままにする以外の選択の余地は党にはない、と論じた。
 問題は、きわめて単純だ。ボルシェヴィキが講和をしなければ、「戦争に耐えられないほど消耗している農民軍は、…社会主義労働者政権を打倒するだろう」。(2)
 ボルシェヴィキには、権力を堅固にし、行政運営を管理し、自分たち独自の軍隊を建設するために、<peredyshka>あるいは休息時間(breathing spell)が必要だ。
 (2)このような想定から進めて、レーニンには、自分に権力基盤が残されるかぎりはどんな条件でも中央諸国と講和を締結する心づもりがあった。
 党員たちの抵抗は、ボルシェヴィキ政府は西ヨーロッパで革命が勃発する場合にだけ生存し続けることができるという考え(レーニンも同じ)や、 それは今にも発生するに違いないとの確信(レーニンは完全には同じでない)によっていた。
 「帝国主義」中央諸国との講和、とくに屈辱的な条件でのそれは、レーニンの反対者たちからすると国際社会主義に対する裏切りだった。
 講和は、長期的には革命ロシアの死を意味するだろう。
 彼らの見方では、国際プロレタリアートの利益よりも、ソヴェト・ロシアの短期的でナショナルな利益を優先させてはならない。
 レーニンは、これに同意しなかった。
 「我々の戦術は、どうすれば、自らを強固にし、あるいは他諸国が加わるまで<一国で>あっても生き抜く可能性を、社会主義革命に関して、より信頼できより希望がある方途で確実なものにすることができるか、という基本的な考えにもとづいている。」(3)
 ボルシェヴィキ党は、1917-1918年の冬、この問題で、真っ二つに分かれた。
 (3)ボルシェヴィキ・ロシアの中央諸国との関係の歴史、とりわけ十月のクー以降の12ヶ月間のドイツとの関係の歴史は、そのときに共産主義者がその外交政策の戦術と戦略を理論上定式化し、実務で作り上げていくものだったため、きわめて興味深いものだ。
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 (1) Lenin, PSS, XXXI, p.310.
 (2) 同上, XXXV, p.250.
 (3) 同上, p.247. <>は挿入した。
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 第2節・ボルシェヴィキと伝統的外交。
 (1)西側諸国の外交の起源は、15世紀のイタリア都市国家に遡る。
 そこから外交実務が残りのヨーロッパに拡がり、17世紀には国際法の編纂が見られた。
 外交は主権国家間の関係を調整し、紛争を平和的に解決することを意図するものとされた。
 外交が失敗して武力行使に訴えられれた場合には、国際法の任務は暴力の程度を可能な限り小さいものにし続け、敵対関係をすみやかに終わらせることだった。
 国際法が成功するか否かは、全ての当事者が一定の原理を受け容れているかによる。
 1.主権国家は、生存の権利を疑いの余地なく有することが承認される。どんな見解の差異が諸国家にあろうとも、それぞれの存在自体は決して問題になり得ない。
 この原理が1648年のウェストファリア条約を支えた。
 この原理は18世紀の終わりにポーランドの第三次分割によって侵犯され、国の消滅をもたらしたが、例外的な場合とされた。
 2.国際関係は、政府間の接触に限定される。ある政府が別の政府の頭越しにその国民に対して直接に訴えるのは、外交上の規範を侵犯する。
 19世紀の実務では、国家は通常は外務省を通じて意思や情報を連絡し合う。
 3.外務当局間の関係は、正式合意の尊重も含めた、一定レベルの誠実さと善意を前提とする。これらなくして相互信頼はなく、信頼がなければ、外交は無意味な活動となるからだ。
 (2)15世紀から19世紀の間に発展したこうした原理と実務は、キリスト教諸国の超国家的共同社会の存在はむろんのこと、自然法の存在を想定している。
 自然法に関するストア派の観念は永遠で普遍的な正義の規準を想定しているが、H・グロティウス(Hugo Grotius)以降のその国際法の理論家たちが、国家間関係にその観念を適用した。
 キリスト教徒の共同社会という観念は、どんな差異があってもヨーロッパ諸国とその海外地は一つの家族の一員だ、ということを意味した。
 20世紀以前に、国際法の観念は、ヨーロッパ共同社会の外にいる人々に適用されるとは考えられていなかった。-この姿勢が植民地征服を正当化した。
 (3)明らかに、こうした「ブルジョア」概念の全複合体が、ボルシェヴィキには不快だった。
 革命家は既存の秩序を転覆しようと決意しているので、国際的国家システムの神聖さを承認するとはほとんど期待されていなかっただろう。
 政府の頭越しにその国民に訴えることは、革命戦略のまさに根本だった。
 かつまた、国際関係での誠実さと善意について言えば、ボルシェヴィキは、その他のロシア急進派と共通して、道徳という規準は運動内部でのみ、同志間の関係についてのみ義務的なものになると見なしていた。すなわち、階級敵との関係には、道徳ではなく戦争の規則が当てはまる。
 戦争の場合と同じく革命では、重要な原理はただ一つ、<kto kogo>、誰が誰を喰うか、だった。//
 (4)十月のクー以後の数週間、ほとんどのボルシェヴィキは、ロシアの例がヨーロッパ全域に革命を始動させると期待していた。
 産業ストライキや暴動に関する外国からの全ての報告が、「始まり」だと歓迎された。
 1917-1918年の冬、ボルシェヴィキの<Krasnaia gazeta>やこれと類似の党機関紙は、毎日のごとく、横大見出しで、西ヨーロッパでの革命的爆発を報告した。
 ある日はドイツ、つぎはフィンランド、そして再びフランス。
 このような期待が生き続けているかぎりは、ボルシェヴィキには、外交政策を作り上げる必要がなかった。
 しなければならないのは、いつもやってきたことの繰り返しだった。つまり、革命の炎を燃え立たせること。//
 (5)しかし、この希望は、1918年春に、いくぶんか衰えた。
 ロシア革命にはまだ、競争する仲間相手がいなかった。
 西ヨーロッパでの反乱やストライキはどこでも弾圧され、「大衆」は「支配階級」を攻撃しないで、お互いに殺戮し合った。
 このような事態を認識しはじめたとき、革命的な外交政策を作り出すことが喫緊となった。
 この点で、ボルシェヴィキには指針がなかった。マルクスの書物も、パリ・コミューンの経験も、大した助けにならなかったからだ。
 この困難さは、主権国家の支配者としての利益と世界革命の自認の指導者としての利益と、これら二つの矛盾する条件があることからも生じていた。
この後者の点での理解では、ボルシェヴィキは他の(「非・社会主義的」)政府の存在する権利を否定し、外交関係を国家の長や閣僚たちに限定する伝統を拒否した。
 ボルシェヴィキは、ナショナルな「ブルジョア」国家の構造全体を完膚なきまで破壊するのを欲した。そうすることで彼らは、外国の「大衆」が反抗するように激励しなければならなかった。
 だが、しかし、彼ら自身が主権国家を今では率いているために、他の政府との関係を避けることはできなかった。-少なくともその政府が世界革命によって打倒されるまでは。
 そして、他政府と関係をもつには、「ブルジョア」国際法の伝統的基準に合致して行動しなければならなかった。
 彼らはまた、自分たちの内部問題に外国が干渉することを排除するため、こうした基準による保護を必要とした。//
 (6)共産主義国家の二重性(dual nature)、つまり党と国家の形式的分離、が有用だと分かるのは、まさにこの点だ。
 ボルシェヴィキは、二つのレベルの外交政策を構築することで、問題を解決した。一つは、伝統的。二つは、革命的。
 「ブルジョア」諸政府と交渉する目的で、外務人民委員部を設立した。部員は全員が信頼できるボルシェヴィキで、党中央委員会からの指令に服従した。
 この機関は、少なくとも表面的には、外交に関する受容された規範に合致して、機能した。
 相手国で許されるかぎりで、ソヴィエトの外交使節団の長は「大使」や「公使」ではなく「政治代表者」(polpredy)と呼ばれ、旧ロシアの大使館の建物を受け継ぎ、cutawayを着用し、シルク・ハットを被り、「ブルジョア」大使館の仲間たちとよく似た振る舞いをした。(*)
 革命的外交-厳密に言えば、用語法上の矛盾がある-は、コミュニスト・インターナショナル(コミンテルン)のような、党が自らまたは特殊機関の工作員を通じて行う場所になった。
 工作員たちは革命を刺激し、外務人民委員部が適切な関係を維持している、まさにその外国政府に反対する地下活動を支援した。//
 (7)このような機能の分離はソヴェト・ロシア内部での党と国家の類似の二重性(duality)を反映しており、スヴェルドロフ(Sverdlov)はボルシェヴィキ第七回党大会で、ブレスト=リトフスク条約の方向に関して述べた。
 署名国が敵対的な煽動活動やプロパガンダを行うことを禁じる条項に言及して、こう言う。
 「我々が署名した、そしてすみやかにソヴェト大会で批准させなければならない条約から、つぎのことが完全に明確になる。すなわち、政府、ソヴェト権力の権能者として、我々は今まで行ってきた広範な国際的煽動活動をすることができなくなるだろう。
 しかし、これは、我々が煽動活動を微小なりとも削減しなければならないことを意味していない。
 今からはたんに、ほとんどつねに、人民委員会議の名前によってではなく、党中央委員会の名前によって行わなければならない。…」(4)
 党を私的組織と見なすというこの戦術によって、悪辣な行動については「ソヴィエト」政府には責任がなく、ボルシェヴィキは、むしろ興味深い決定を着実に押しすすめた。
 例えば、1918年9月にベルリンがロシアの新聞(その頃まで完全にボルシェヴィキが統制していた)による反ドイツ・プロパガンダについて抗議したとき、外務人民委員部は、いたずら気に、こう回答した。
 「ロシア政府は、ドイツの検閲部とドイツの警察が、ロシアの政治的組織-つまりソヴェト制度-について悪意ある煽動活動をしているとして…ドイツの新聞を訴追していないことを、遺憾には思っていない。…
 ソヴィエト諸制度についての政治的社会的な反対意見を自由に表現しているドイツのプレスに対して、ドイツ政府の側がいかなる抑圧的な措置もとっていないことを、十分に許容し得るものだと考えるならば、ドイツの制度に関するロシアの私人や非公式新聞の同様の行動も、同等に許容し得るものだ。…
 最も断固として抗議する必要があるのは、ドイツ総領事館が、つぎのように提示していることだ。すなわち、ロシア政府は警察的手段によってロシアの革命的プレスをあれこれの方向へと指揮することができ、官僚機構の影響でもってその中にあれこれの見方を注入することができる、と頻繁に述べている。」(5) //
 (8)ボルシェヴィキ政府は、外国がロシアの内部問題に干渉したとき、きわめて多様に反応した。
 早くも1917年11月、外務人民委員のトロツキーは、同盟国の大使たちがロシアの正統な政府の所在に確信がなくて軍最高司令官のN・N・ドゥホーニン(Dukhonin)に外交書簡を送ったあとで、ロシアの問題に関する同盟国の「干渉」に抗議した。(6)
 ソヴナルコムは、機会があるごとに、内政不干渉の原則を侵犯していると諸外国に対して抗議した。まさにその原則を自らがくり返して侵犯しているときにあってすら。//
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 (*) 最も早いロシアの<polpredy>は、中立国に配置された。ストックホルムにV. V. Vorovskii、ベルンにIa. A. Berzin。
 ブレスト条約が批准された後、A. A. Loffe がベルリンでの任務を受け継いだ。
 ボルシェヴィキは、先ずリトヴィノフを、次いでカーメネフをイギリス(The Court of St. James)に任命しようとしたが、いずれも拒否された。
 フランスもまた、内戦の後まで、ソヴィエトの代表を受け入れようとしなかった。
 (4) Sed'moi Ekstrennyi S"ezd RKP(b)(Moscow, 1962), p.171.
 (5) Sovetsko-Germanskie Otnoshennia ot peregovorov v Brest-Litvske do podpisaniia Rapall'skogo dokovora, I(Moscow, 1968), p.647-9.
 (6) C. K Cumming & W. W. Pettit, eds., Russian-American Relations 1917年3月-1920年3月(New York, 1920), p.53-p.54.
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 第1節・第2節、終了。

2223/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第2節。

 L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)
 以下、上の著の一部の試訳。
  序説
  第1部/旧体制の最後の年々, 1904-1914  **p.1-p.28.
  第2部/大戦: 帝制の自己崩壊。      **p.31-p.99.
  第3部/1917年: 支配権を目ざす戦い。  **p.104-p.233.
  第4部/主権が要求する。       **p.238-p.359.
  第5部/内部での戦争。        **p.363-p.581.
  第6部/勝利と後退。         **p.585-p.624,
  結語
  「注記(Note)・「Bibliographic Essay」・「索引(Index)
                      **p. 633ーp.823.
 第6部・勝利と後退(Victory and Retreat)
 第2章・革命は自分に向かう。**p.606~
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 第2節。
 (1)さて、クロンシュタットでは、装甲戦艦の<Sevastopol>と<Petropavlovsk>(主要戦艦、系譜上の戦艦)が、不安な状態にあった。
 乗組兵たちは1918年にすでに、ボルシェヴィキの政策を支持しないことを主張していた。その際、ブレスト=リトフスク条約に対する社会革命党の批判の仕方を採用し、政治委員が自分たちが選んだ委員会に取って代わったことに怒っていた。
 彼らは、自由なソヴェト選挙を呼びかけた。
 1920年12月、怒りの雰囲気が満ち、脱走兵が増えた。
 海兵たちは、劣悪な条件について不満を言うためにモスクワに代表者団を派遣した。
 代表者たちは、逮捕された。(19) 
 1921年1月、不満がさらに増した。
 <Sevastopol>と<Petropavlovsk>の乗員たちは、最近に行われたペトログラードからクロンシュタットへの移転に憤慨していた。また、それに続いた、上陸許可の延期を含むより厳格な紀律の導入に対しても。
 もっと根本的に彼らが憤慨していたのは、不平等な配給制を含む、特権に関する新しい階層制だった。
 農村地帯からの報せも、不満を増した。
 馬も、牛も、最後の一頭まで、家族や隣人から略奪されていた。(20)
 (2)ペトログラードでの操業停止を聞いて、<Sevastopol>と<Petropavlovsk>の乗員たちは、調査のための代表団を送った。
 3月1日、海兵たちは、政治方針を定式化した。
 それは、一連の政治的要求から始まる。
 まず、秘密投票による、かつ予備選挙運動を行う権利を伴う、ソヴェトの再選挙を呼びかけた。現在のソヴェトは「労働者と農民の意思を表現していない」からだ。
 政治方針はまた、言論、プレス、および集会の自由を要求した。-だが、「労働者と農民、アナキスト、および左翼社会主義政党」によるものだけの。
 単一の政党がプロパガンダを独占すべきではない、とも強く主張した。
 「社会主義諸党の全ての政治犯たち、および全ての労働者と農民、そして労働者と農民の運動に関係して逮捕された赤衛軍兵士と海兵たち」の釈放を要求した。また、収監や強制収容所に送る事例の見直しも。
 共産党による政治的統制と武装護衛兵団の除去も、要求した。
 労働者を雇用していないかぎりは、農民たちは土地と家畜に対する権利をもつ、とも主張した。(21)
 (3)クロンシュタット・ソヴェトに召喚されて、1万6000人の海兵たち、赤軍兵士、市の住民が二月革命記念日を祝うべく、島の中央広場に集合した。
 二月革命は、時代の変わり目だった。 
全ロシア〔ソヴェト〕中央執行委員会のM・カリーニン(Mikhail Kalinin)は特別の登場の仕方をした。音楽と旗と、軍事上の名誉儀礼で迎えられた。
 手続を始めたのは、クロンシュタット・ソヴェトの議長のP・ヴァシレフ(Pavel Vasil'ev)だった。
 カリーニンとバルト艦隊委員のN・クズミン(Nikolai Kuz'min)は演壇に昇って、海兵たちに対して、政治的要求を取り下げるよう強く迫った。
 彼らの言葉は、叫び倒された。
 S・ペトリチェンコ(Stephen Petrichenko)という名の戦艦<Petropavlovsk>の書記が、海兵たちの政治方針にもとづく投票を呼びかけた。
 広場にいる海兵たちは、「満場一致で」これを承認した。(22)
 (4)革命側に立った他の有名な指導者たちの多くと同様に、ペトリチェンコは、ボルシェヴィキが培養した草の根活動家の横顔にふさわしかった。
Kaluga 州の農民家庭に生まれ、ウクライナの都市、ザポリージャ(Zaporozhe )に移った彼は、2年間の学修課程と金属労働者としての経験を得た。
 1914年、22歳の年に、海軍へと編入された。
 1919年、共産党に加入した。(23)
 彼は熟練労働者の典型的な者の一人で、とくに技術的分野でそうだった。
 海軍の反乱では指導力を発揮した。このことはすでに、1905年に知られていた。(24)
 (5)指導性のみならず動員の過程もまた、標準的な革命のお手本に従うものだった。
 草の根的ソヴェトの伝統で、海兵たちは代表を選出し、選挙を組織し、元来の参加モデルに回帰することを要求した。
 3月2日、ペトリチェンコは、海兵代議員たちの会合を呼び集め、代議員たちは幹事会を選出し、全ての社会主義政党が参加するよう招聘するクロンシュタット・ソヴェトの新しい選挙を計画した。
 30人の代議員グループがペトログラードに派遣されて、工場での彼らの要求について説明した。
 彼らは、逮捕された。そして、行方不明になった。(25)
 (6)クズミンは海兵たちの不満に対応しようとせず、警告を発した。
 彼はこう発表した。ペトログラードは、静穏だ。あの広場から出現しつつあるものについて、支持はない。しかし、革命それ自体の運命が重大な危機にある。
 ピウズドスキ(Pilsudski)は境界地帯で待ち伏せしており、西側は、襲撃をしかけようしている。
 代議員たちは、「その気があれば彼を射殺できただろう」。
 彼はこう言ったと報告されている。「武装闘争をしたいのなら、一度は勝つだろう。-しかし、共産主義者は進んで権力を放棄しようとはしないし、最後の一息まで闘うだろう」。(26)
 海兵たちの側は、当局との妥協を追求すると言い張った。
 クロンシュタットのボルシェヴィキは、事態の進行から除外されていなかった。
 しかしながら、神経を張りつめていた。
 武装分団が島へと向かっている、との風聞が流れた。
 武力衝突を予期して、会合は、ペトリチェンコの指揮のもとに、臨時革命委員会(<Vremennyi revoliutsionnyi komitet>)を設立した。(27)
 (7) 海兵たちは、ペトログラードの不安は収まっているとのクズミンの主張を、信用しなかった。
 彼らは、自分たちで「第三革命」と称しているものへの労働者支持が拡大するのを期待した。
 大工場群のいくつかは、これに反応した。しかし、ペトログラードの労働者のほとんどは、控えた。
 ペトログラードの労働者たちは、戦争と対立にうんざりしていた。そして、テロルが新しく増大してくるのを恐れた。
 彼らは、海兵たちがすでに特権的地位にあると考えているものを自分たちのそれと比較して、不愉快に感じた。
 彼らは、断固たる公式プロパガンダを十分に受け入れて、クロンシュタット「反乱」は「白軍」のA・コズロフスキ(Aleksandr Kozlovskii)将軍の影響下にあると非難していたかもしれなかった。
 工場地区全域に貼られたポスターは、コズロフスキといわゆる反革命陰謀を非難していた。(28)
 労働者たちは、逮捕されるのを怖れて、公式見解に挑戦するのを躊躇した。(29)
 島には実際に、将軍コズロフスキがいた。
 コズロフスキは帝制軍の将軍の一人で、1918年に、「軍事専門家」として赤軍に加入した。
 クロンシュタット砲兵隊の指揮官として、蜂起の側を支援した。しかし、彼にはほとんど蜂起の心情はなかった。-そして、「白軍」運動への共感を決して示していなかった。 彼はこう述べた。「共産党は私の名前をクロンシュタット蜂起が白軍の陰謀だとするために利用した。たんに、私が要塞での唯一の『将軍』だったことが理由だ」。
 ペトログラードに帰ると、彼の家族は身柄を拘束され、人質となった。(31)//
 (8)反乱者たちは、要求を拒否した。
 彼らは、「我々の同志たる労働者、農民」にあてて、こう警告した。
 「我々の敵は、きみを欺いている。クロンシュタット蜂起はメンシェヴィキ、社会革命党、協商国のスパイたち、および帝制軍の将軍たちによって組織されている、と我々の敵は言う。…厚かましいウソだ。…
 我々は過去に戻ることを欲しはしない。
 我々は、ブルジョアジーの使用人ではなく、協商国の雇い人でもない。
 我々は、労働大衆の権力の擁護者であって、単一政党の抑制なき専制的権力の擁護者ではない。」
 ボルシェヴィキは、「ニコライよりも悪い」。
 ボルシェヴィキは、「権力にしがみつき、その専制的支配を維持するだけのために、全ロシアを血の海に溺れさせようとしている」。(32)
 クロンシュタットの不満の背後に、白軍の陰謀はなかった。しかし、反乱者には社会革命党が用いる言葉遣いがあった。
 しかしながら、ペトリチェンコは社会革命党員ではなく、反乱者のほとんどは特定政党帰属性を否定しただろう。
 それにもかかわらず、彼らは、社会主義と民衆の解放に関する言葉遣いを共有して受け容れていた。//
 (9)「同志たち」による「共産党独裁」に対する戦闘だった。
 革命の現実の敵は、この戦闘を歓迎したかもしれなかった。だが、指導者たちは、「反対の動機」からだと兵員たちに説明した。
 「きみたち同志諸君は、…真のソヴェト権力を再建するという熱意でもって奮起している」。労働者と農民に必要なものを、彼らに与えたいという願いによってだ。
 対照的に、革命の敵は、「帝制時代の笞と将軍たちの特権を回復しようとの願い」でもって喚起されている。…。
 きみたちは自由を求め、彼らはきみたちをもう一度隷従制の罠に落とし込むことを欲している」。(33)//
 (10)報道兵は、闘いの目的をこう説明した。
 「十月革命を達成して、労働者階級は自分たちの解放を達成することを望んだ。
 結果は、個々人の、いっそうひどい奴隷化だった。
 憲兵(police-gendarme)支配の君主制の権力は、その攻撃者の手に落ちた。-共産党(共産主義者)だ。共産党は労働大衆に自由をもたらさず、帝制時代の警察体制よりもはるかに恐ろしい、チェカの拷問室に入ることへの恒常的な恐怖をもたらした」。
 海兵たち自身の「第三革命」は、「なお残存する鎖を労働大衆から取り去り、社会主義の創建に向かう、広くて新しい途を開くだろう」。(34)
 社会主義は、なおも目標ではあった。//
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 第2節、終わり。

2220/R・パイプス・ロシア革命第12章第10節②。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第10節・労働者幹部会の運動②。
 (18)もちろんこれは、メンシェヴィキが待ち望んでいたことだった。ボルシェヴィキに幻滅した労働者たちが、民主主義を求めてストライキしようとしている。
 メンシェヴィキは元々は、労働者幹部会の運動を支持していなかった。その指導者たちは政治家たちに懐疑的で、諸政党からの自立を欲していたからだ。
 しかし、4月頃までにメンシェヴィキは十分に感心して、運動の背後から支援した。
 5月16日、メンシェヴィキ中央委員会は、労働者代表者たちの全国的な会議の開催を呼びかけた。(*)
 社会革命党が、これに続いた。//
 (19)かりに状況が反対だったならば、つまり社会主義者が権力を握っていてボルシェヴィキは反対派だったとすれば、疑いなくボルシェヴィキは労働者の不満を煽り、政府を転覆させるためにあらゆることを行ったことだろう。
 しかし、メンシェヴィキと社会主義派の者たちは、そのような行動を断固として行わない、という気風だった。
 彼らはボルシェヴィキ独裁を拒否したが、しかしなお、それに恩義を感じていた。
 メンシェヴィキの<Novaia zhizn>は、厳しく批判する一方で、ボルシェヴィズムの生き残りには重大な関心があることを読者に理解させようとした。
 このテーゼを、彼らはボルシェヴィキが権力を奪取した直後に表明していた。
 「とりわけ重要なのは、ボルシェヴィキのクーを暴力的に廃絶することは同時に、ロシア革命の全ての成果を廃絶することに不可避的に帰着するだろう、ということだ。」(152) 
 また、ボルシェヴィキが立憲会議を解散させたあと、ボルシェヴィキ機関紙は、こう嘆いた。
 「我々は、ボルシェヴィキ体制の賛美者ではなかったし、現在も賛美者ではない。そして、ボルシェヴィキの国内および外交政策の破綻を、つねに予見してきた。
 しかし、我々の革命の運命がボルシェヴィキ運動のそれと緊密に結びついていることを、我々は忘れなかったし、一瞬たりとも忘れはしない。
 ボルシェヴィキ運動は、広範な人民大衆の、歪んで退廃した一つの革命的戦いを表現している。…」。(153) //
 (20)このような姿勢はメンシェヴィキの行動する意欲を麻痺させたばかりではなく、ボルシェヴィキとの同盟へと、すなわち、民衆の憤慨を煽り立てるのではなく、消し止めるのを助ける方向へと、向かわせた。(**)
 (21)労働者幹部会の会合が6月3日に再開催されたとき、メンシェヴィキと社会革命党の知識人たちは政治的ストライキという考えに反対した。それは、お決まりの、階級敵の手中に嵌まってしまう、という理由でだった。
 彼らは労働者の代表者たちにその決定を再考して、ストライキではなく、類似の組織をモスクワで創立する可能性を探るために、そこに代表団を派遣するように説得した。//
 (22)6月7日、派遣委員の一人がモスクワの工場代表者たちの集まりで挨拶して発言した。
 彼は、反労働者、反革命的政策を追求しているとしてボルシェヴィキ政府を非難した。
 このような語りかけは、十月以降のロシアでは聞かれないものだった。
 チェカは、事態をきわめて深刻に受け止めた。モスクワは今や国の首都であり、モスクワでの騒擾は「赤いペトログラード」でのそれよりも危険だったからだ。
 治安維持機関員が、演説を終えたペトログラードの派遣委員の身柄を拘束した。但し、仲間の労働者たちの圧力によって、解放せざるを得なかった。
 モスクワの労働者たちは、同情的ではあるものの、自分たちの労働者幹部会を設立する用意がまだない、ということが判明した。(154)
 モスクワとその周辺の労働者たちは、ペトログラードよりも、戦術に長けておらず、労働組合の伝統が少なかった、ということで、これは説明することがてきるかもしれない。//
 (23)労働者がソヴェトから離脱していく過程は、ペトログラードで始まり、国の残りの都市へと拡がった。
 多くの都市で(モスクワはすぐにその一つとなった)、地方ソヴェトは選挙を実施するのが阻止されるか、または選挙の適格性が否定された。それに対して、労働者たちは、政府の統制が及ばない、かついかなる政党とも関係がない「労働者評議会」、「労働者会議」、「労働者幹部会議会」等を設立した。//
 (24)不満の高まりに直面して、ボルシェヴィキは反撃した。
 モスクワで6月13日、、ボルシェヴィキは、労働者幹部会運動に加担している56名を拘禁した。そのうち6ないし7名以外は、労働者だった。(155)
 6月16日、ボルシェヴィキは、2週間以内に第五回ソヴェト大会を招集すると発表し、これに関連して、全ソヴェトに対して、ソヴェトの選挙を再度実施するように指令した。
 この再選挙でもやはり確実にメンシェヴィキと社会革命党が多数派を形成し、政府はソヴェト大会では少数派に追い詰められる立場になるだろう。そこで、モスクワは、社会革命党とメンシェヴィキを全てのソヴェトから、そしてむろんその執行委員会(CEC)から排除することを命じることで、対抗派には被選出資格がないとすることを提案した。(156) CEC 内のボルシェヴィキ議員団総会で、L. S. ソスノフスキ(Sosnovskii)は、つぎの論拠で、その趣旨の布令を正当化した。すなわち、メンシェヴィキと社会革命党は、ボルシェヴィキが臨時政府を転覆させたのと全く同じように、ボルシェヴィキを転覆させるつもりだ。(***) 
 したがって、投票者に提示された唯一の選択肢は、正規のボルシェヴィキの候補者、左翼エスエル、そして「ボルシェヴィキ同調者」として知られる帰属政党のない幅広い範疇の候補者たちの間にだけあった。
 (25)このような歩みは、ロシアでの自立した政党の終焉を画すものだった。
 君主制主義政党-オクトブリスト、ロシア人民同盟、国権主義者-は1917年の推移の中で解散しており、もはや組織ある実体としては存在していなかった。
 非合法とされたカデット〔立憲民主党〕は、その活動を境界地域に移しており、そこにはチェカの網は届かなかったが、ロシアの民衆の気分からも離れていた。あるいはまた、地下活動に潜って、国民センター(the National Center)と呼ばれる反ボルシェヴィキ連合を形成していた。(157)
 6月16日の布令は、明示的にはメンシェヴィキと社会革命党を非合法化していなかったが、政治的には無力にするものだった。
 白軍に対する戦いへの彼らの支援のご褒美として、この両党はのちに元の地位を回復し、限られた数だけソヴェトにもう一度加わることが許された。しかし、これは一時的で、政略的なものだった。
 本質的には、ロシアはこの時点で一党国家になった。ボルシェヴィキ以外の全ての組織に対して政治的活動を行うことが禁止される、そのような国家だ。//
 (26)6月16日、すなわちボルシェヴィキがメンシェヴィキと社会革命党のいずれも出席することができない第五回ソヴェト大会を発表した日、労働者幹部会会議は、労働者の全ロシア会議の開催を呼びかけた。(158)
 この組織は、国家が直面している最も緊要な問題を討議し、解決しようとするものとされていた。緊要な諸問題とは、①食糧事情、②失業、③法の機能停止、および④労働者の組織。
 (27)6月20日、ペトログラード・チェカの長官、V・ヴォロダルスキ(Volodarskii)が殺害された。
 殺人者を捜査する中で、チェカは工場での抗議集会を始めていた何人かの労働者を拘引した。
 ボルシェヴィキはネヴァ(Neva)労働者地区を兵団で占拠し、戒厳令を敷いた。
 最も厄介な工場であるオブホフの労働者たちは、閉め出された。(159)
 (28)ペトログラードでソヴェトの選挙が行われたのは、このきわめて緊張した雰囲気の中でだった。
 選挙運動の間、ジノヴィエフは、プティロフやオブロフでブーイングを受け、演説することができなかった。
 どの工場でも、労働者たちはソヴェトに二政党が参加することが禁止している布令を無視して、メンシェヴィキと社会革命党に多数派を与えた。
 オブロフでは、社会革命党5名、無党派3名、ボルシェヴィキ1名だった。
 セミアニコフ(Semiannikov)〔ネヴァ工場群〕で、社会革命党は投票総数の64パーセントを獲得し、メンシェヴィキは10パーセント、そしてボルシェヴィキ・左翼エスエル連合は26パーセントだった。
 その他の重要地区でも、同様の結果だった。(160)//
 (29)ボルシェヴィキは、こうした結果に縛られるのを拒否した。
 彼らは、多数派を獲得するのを欲し、獲得した。それは、通常は選挙権(franchise)を不正に操作することで行われた。ある範囲のボルシェヴィキたちには、1票について5票が与えられた。(****)
 7月2日、「選挙」結果が、発表された。
 新しく選出されたペトログラード・ソヴェトの代議員総数650のうち、ボルシェヴィキと左翼エスエルに610が与えられ、40だけが社会革命党とメンシェヴィキにあてがわれた。この両党を、ボルシェヴィキの公式機関紙は「ユダ(Judases)」だと非難していた。(+)
 このペトログラード・ソヴェトは、労働者幹部会会議の解散を票決した。
 その集まりで演説しようとした会議の代表者は、話すのを阻止され、肉体的な攻撃を受けた。
 (30)労働者幹部会会議は、ほとんど毎日、会合をもった。
 6月26日、会議は、7月2日に一日だけの政治ストライキを呼びかけることを満場一致で決定した。そのスローガンは、「死刑の廃止!」、「処刑と内戦をするな!」、「ストライキの自由、万歳!」だった。(161)
 社会革命党とメンシェヴィキの知識人たちは、再び、ストライキに反対した。
 (31)ボルシェヴィキ当局は市内全体にポスターを貼り、ストライキ組織者を白軍の雇い人だとし、全参加者を革命審判所に送り込むと威嚇した。(163)
 その上にさらに、市〔ペトログラード〕の重要地点に、機関銃部隊を配置した。
 (32)同情的な報告者は、労働者は動揺していると記述した。
 すなわち、カデットの<Nash>は6月22日に、彼らは反ボルシェヴィキだが識別できない、と書いた。
 国内および世界情勢の困難さ、食糧不足、明確な解決策の不在によって、彼らには、「極端に不安定な心理、ある種の抑うつ状態、そして全くの当惑」が発生した。
 (33)7月2日の事件は、こうした見通しを確認するものだった。
 帝制が崩壊して以降ロシアで最初の政治ストライキは、巻き起こり、そして消失した。
 労働者たちは、社会主義知識人たちに失望し、ボルシェヴィキによる実力行使の顕示に威嚇され、自分たちの強さと目的に自信がなく、そして心が折れた。
 ストライキ組織者は、1万8000人と2万人の間ほどの労働者がストライキの呼びかけに従うだろうと予想していた。この数は、ペトログラードに実際にいる労働者数の7分の1にすぎなかった。
 オブホフ、マクスウェル(Maxwell)、およびパール(Pahl)は、ストライキをした。
 他の工場群は、プティロフを含めて、しなかった。//
 (34)この結果が、ロシアの自立した労働者組織の運命を封じた。
 すみやかに、チェカは地方の支部とともにペトログラードの労働者幹部会会議を閉鎖させ、目立った指導者のほとんどを、牢獄に送った。//
 (35)こうして、ソヴェトの自主性、労働者が代表者をもつ権利、そしてなおも多元政党制らしきものとして残っていたものは、終わりを告げた。
 1918年の6月と7月に執られた措置でもって、ロシアでの一党独裁制の形成が完了した。
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 (*) 労働者議会(Congress)という発想は、1906年にAkselrod が最初に提起した。そのときは、メンシェヴィキとボルシェヴィキのいずれも、これを却下した。
 Leonard Schapiro, The Communist Party of the Soviet Union(London, 1963), p.75-p.76.
 (151) Aronson, "Na perelome, ", p.7-p.8.
 (152) NZh, No. 164/158(1917年10月27日), p.1.
 (153) NZh, No. 20/234(1918年1月27日), p.1.
 (**) 公平さのために、つぎのことを記しておかなければならない。古きメンシェヴィキの小グループ、ロシア社会民主党の創設者たち-プレハノフ(Plekhanov)、アクセルロード(Akselrod)、ポトレソフ(Potresov)、およびV・ザスーリチ(Vera Sasulich)-を含むそれは、異なる考えだった。
 そして、アクセルロードは、1918年8月に、ボルシェヴィキ体制は「陰惨な(gruesome)」反革命へと堕落した、と書いた。
 そのような彼ですら、ジュネーヴのかつての彼の同志とともに、レーニンに対する積極的な抵抗にも反対した。その理由は、権力を取り戻そうとする反動分子たちを助けることになる、というものだった。
 A. Asher, Pavel Axelrod and the Development of Menshevism(Cambridge, Mass., 1972), p.344-6.
 プレハノフの姿勢につき、Samuel H. Baron, Plekhanov(Stanford, Calif., 1963), p.352-p.361.
 ポトレソフは、そのときおよびのちに、メンシェヴィキの仲間たちを批判した(V plenu u illiuzii(Paris, 1937))。しかし、彼もまたやはり、積極的な反対活動に参加しようとはしなかった。
 (154) NZh, No. 111/326(1918年6月8日), p.3.
 (155) Aronson, "Na perelome, ", p.21.
 (156) Dekrety, II, p.30-p.31.; Lenin, PSS, XXXVII, p.599.
 (***) NZh, No. 115/330(1918年6月16日), p.3.
 NV, No. 96/120(1918年6月19日), p.3.によれば、CEC のボルシェヴィキ会派は、ソヴェトからメンシェヴィキと左翼エスエルを排除するのを拒否した。しかし、CEC からこれらを追放(除斥)することに同意した。
 (157) W. G. Rosenberg, Liberals in the Russian Revolution(Princeton, N.J., 1974), p.263-p.300.
 (158) NZh, No. 115/330(1918年6月16日), p.3.
 (159) W. G. Rosenberg in SR, XLIV, No. 3(1985年7月), p.235.
 (160) NZh, No. 122/337(1918年6月26日), p.3.
 (****) Stroev in NZh, No. 119/334(1918年6月21日), p.1.
 ある新聞(Novyi luch。NZh, No. 121/336(1918年6月23日), p.1-p.2.が引用)によると、ペトログラード・ソヴェトへと「選挙され」た130名の代議員のうち、77名はボルシェヴィキ党から、26名は赤軍部隊から、8名は供給派遣部隊から、43名はボルシェヴィキ職員の中から、選び抜かれていた。
 (+) NZh, No. 127/342(1918年7月2日), p.1.
 少し異なる数字が、つぎの中にある。Lenin, Sochineniia, XXIII, p.547.
 これによると、代議員総数は582で、そのうちボルシェヴィキが405、左翼エスエルが75、メンシェヴィキと社会革命党が59、無党派が43だ。
 (161) 例えば、Stroev in NZh, No. 127/342(1918年7月2日), p.1.を見よ。
 (162) NV, No. 106/130(1918年7月2日), p.3.
 (163) NV, No. 107/131(1918年7月3日), p.3. およびNo. 108/132(1918年7月4日). p.4.; NZh, No. 128/343(1918年7月3日), p.1.
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 第10節、終わり。第12章も終わり。つづく章の表題は、つぎのとおり。
 第13章・ブレスト=リトフスク、第14章・国際化する革命〔革命の輸出〕、第15章・「戦時共産主義」、第16章・農村に対する戦争、第17章・皇帝家族の殺害、第18章・赤色テロル、そして「結語」。

2218/R・パイプス・ロシア革命第12章第10節①。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第10節・労働者幹部会の運動①。
 (1)そして、ボルシェヴィキはなお一層、残忍さに訴えなければならなかった。権力掌握後わずか数カ月だけ経つと、彼らへの支持が浸食されはじめたからだ。
 ボルシェヴィキが民衆の支持に依拠していたのだとすると、臨時政府と同じ途をたどっただろう。
 秋には連隊兵士たちとともに最も強い支持基盤だった工業労働者たちは、たちまちに幻想から醒めるようになった。
 このような雰囲気の変化にはいくつかの理由があったが、主要なものは、食料事情の悪化だった。
 穀物やパンの私的取引を全て禁止した政府は、呆れるほどに安い価額を農民に支払ったので、農民たちは収穫物を貯蔵するか、闇市(black market)で売った。
 政府は都市住民たちに、ぎりぎりの最小限度だけの食糧しか供給できなかった。
 1917-18年の冬、ペトログラードでのパンの配給量は、一日につき4から6オンスの間を行き来した。
 闇市場で1ポンドのパンを買うには3ないし5ルーブルを要したが、それはふつうの民衆の手の届く額ではなかった。
 大量の失業者も生まれたが、それは主としては燃料不足のためだった。
 1918年5月には、ペトログラードの労働人口の12-13パーセントだけが、職に就いていた。(138)
 (2)飢えと寒さから逃れるために、数千人の市民が、縁戚者がいて食料および燃料事情がまだましな地方へと、疎開した。
 ペトログラードの労働人口は、この集団移住が原因で、1918年4月頃には二月革命の直前の57パーセントに低下した。(139)
 地方移住にしないで残った、腹が空いて、寒い、しばしば失業中の人々には、不満が沸き立った。
 このような事態を生んだボルシェヴィキの経済政策に、彼らは怒った。しかしまた、立憲会議の解散、中央諸国との屈辱的な講和条約(1918年3月に署名)、ボルシェヴィキの人民委員たちの生意気な態度、および政府の最上層部以外の全ての官僚たちの醜悪な汚職にも腹を立てた。
 (3)このような展開はボルシェヴィキにとっては危険な兆しで、さらに悪化するならば、これまでは信頼していた軍部も春が近づくにつれてほとんど離れて行きそうだった。
 故郷に帰らなかった兵士たちは、民衆にテロルを加え、ときにはソヴェトの役人たちを襲撃する略奪団を結成した。//
 (4)幻滅気分や堅くボルシェヴィキの手中にある現存諸機構からは救済を得られないという感情の増大によって、ボルシェヴィキとそれが支配している諸機構(ソヴェト、労働組合、工場委員会)から自立した、新しい組織をペトログラードの労働者たちが設立しようとする動きが促進された。
 1918年1月5日/18日-立憲会議が開会した日-、ペトログラードの諸工場の代表者たち、または「幹部会」委員たち(plenipotentiaries)は、目下の情勢を議論するために会合をもった。
 ある者は、労働者の態度の「分裂」を語った。(140)
 「幹部会」委員たちは、定期的に会合を開催し始めた。
 不完全な証拠資料だが、それによると、会合は3月に1回、4月に4回、5月に3回、6月に3回、開かれている。
 記録が存在する(141)、56の工場を代表する委員たちの3月の会合には、強い反ボルシェヴィキの言葉が見られる。
 その会合は、労働者と農民のために統治をすると主張している政府は独裁的権力を行使し、ソヴェトの新しい選挙の実施を拒んでいる、と抗議していた。
 また、ブレスト=リトフスク条約の拒否、ソヴナルコムの解散、および立憲会議の即時召集を呼びかけていた。//
 (5)3月31日、ボルシェヴィキは、チェカに労働者幹部会会議の本部を捜査させ、そこにあった諸文献を押収させた。
 別の状況であれば、おそらく労働者の動揺を刺激するのを怖れて、そのような介入はまだしなかっただろう。//
 (6)都市労働者は自分たちに反対していることを知って、ボルシェヴィキは、ソヴェト選挙の実施を遅らせた。
 いくつかの独立派ソヴェトが無視して選挙を行い、非ボルシェヴィキが多数派を形成したとき、ボルシェヴィキは実力でもってそれを解体させた。
 ソヴェトを用いることができないことは、労働者の欲求不満を醸成した。
 5月初め、多くの者が、自分たちで問題に対処しなければならない、と結論づたけた。
 (7)5月8日、二つの火急の問題を議論すめるために、プティロフ(Putilov)とオブホフ(Obukhov)工場群で、労働者の集会が開かれた。二つとは、食糧と政治だ。
 プティコフでは、1万人以上の労働者たちが、政府を非難した。
 ボルシェヴィキの発言者は反発を受け、諸決議に敗北した。
 その集会は、「社会主義かつ民主主義の勢力の即時の再合同」、パンの自由取引の制限の撤廃、立憲会議の再選出、および秘密投票によるペトログラード・ソヴェトの再選挙を要求した。(142)
 オブホフの労働者たちは、事実上の満場一致で、同様の決議を採択した。(143)//
 (8)翌日、ペトログラード南方の工業都市であるコルピノ(Kolpino)で、労働者の不満に油を注ぐ事件が発生した。
 コルピノへの政府機関による供給の状況は、とくに悪かった。この都市の1万の労働人口のうち300人だけが雇用され、闇市場で食料を買う金をほとんど持っていなかった。
 さらに、食糧配達の遅延によって、女性たちの市域全体の抗議運動が発生した。
 ボルシェヴィキの人民委員はうろたえて、兵団に対して示威行進者に対して発砲するように命じた。
 それによって生じた恐慌状態の中で、のちに判明したのは1人が致命傷で6人が負傷したのだったけれども、多数の者が死んだ、という印象が広がった。(144)
 この時期の標準からすると、とくに異常なことではなかった。
 しかし、ペトログラードの労働者たちが鬱積した怒りの捌け口を見出すのに、大した理由は必要ではなかった。//
 (9)コルピノで起こったことについて使者から知らされたペトログラードの大工場は、稼働を停止した。
 オブホフの労働者たちは、政府を非難し、「人民委員による支配」(komissaroderzhavie)の廃止を要求する決議を採択した。
 ペトログラード(3月に政府はモスクワに移っていた)の長〔ソヴェト議長〕のジノヴィエフが、プティロフに現れた。
 労働者に対して、彼は語った。
 「誤った政策を追求しているとして政府を非難する決議がここで採択された、と聞いた。
 しかし、いつ何時でも、ソヴェト政府を変更することはできない!」
 この言葉を聞いた聴衆に、大きな騒ぎ声が起こった。
 「ウソだ!」
 Izmailov という名のプティロフの労働者が、文明世界全体の目からすればロシアの労働者を馬鹿にしながら、ボルシェヴィキは労働者のために語るふりだけをしていると、非難した。(145)
 軍需工場での集会は、1500対保留2で、立憲会議の再招集を求める動議を可決した。(146)//
 (10)ボルシェヴィキは、背後にいて、なおも慎重さを維持した。
 しかし、このような煽情的な決議が伝搬されるのを阻止すべく、無期限にまたは一時的に、多数の新聞を廃刊させた。そのうちの4つは、モスクワの新聞だった。
 この諸事態を広く報道していたカデットの<Nash vek>は、5月10日から6月16日まで、停刊となった。//
 (11)ボルシェヴィキは7月初めに第五回ソヴェト大会を開催しようと計画していたので(第四回大会はドイツとの講和条約を批准するために3月に開かれていた)、ソヴェト選挙を実施しなければならなかった。
 この選挙は、5月と6月に行われた。
 その結果は、彼らの最悪の予想以上のものだった。
 労働者階級の意思に対する敬意をボルシェヴィキが持っていたならば、彼らは権力を放棄していただろう。
 どの町でも続いて、ボルシェヴィキは、メンシェヴィキと社会革命党に敗れた。
 「選挙があって数字資料のある、欧州ロシアの全ての州都で、メンシェヴィキと社会革命党は、1918年春の都市ソヴェトで多数派を獲得した」。(147)
 モスクワ・ソヴェトの投票では、ボルシェヴィキは、選挙権に関する明白な操作やその他の不正選挙によって、見せかけの過半数を達成した。
 観察者たちは、迫っているペトログラード・ソヴェト選挙でもボルシェヴィキは少数派になり(148)、ジノヴィエフは議長職を失うだろうと、予想した。
 ボルシェヴィキも、悲観的な見通しを持っていたに違いなかった。彼らは、ペトログラード・ソヴェト選挙を可能なかぎり遅くに、6月末に延期したからだ。//
 (12)この驚くばかりの展開は、ボルシェヴィキを拒絶するメンシェヴィキと社会革命党への称賛を大して意味してはいなかった。
 支配党から権力を奪おうとした選挙民たちには、社会主義諸党に投票する以外に選択肢はなかった。社会主義諸党だけが、反対派候補者の擁立が許されていたのだ。
 諸政党全ての中から完全に選択することができていればどういう投票行動になったかは、もちろん確定的に言うことはできない。//
 (13)レーニンが最近に「民主主義の本質的条件」だと叙述していた「リコール」の原理を実行に移す機会が、ボルシェヴィキにやって来ていた。その場合には、ボルシェヴィキ代議員をソヴェトから引き上げて、メンシェヴィキと社会革命党で埋め合わさせることになる。
 しかし、彼らは、結果を操作するのを選択した。つまり、指名委員会を利用して、選挙は違法だと宣言させた。
 (14)労働者の関心を逸らせるために、当局は階級敵を持ち出した。今度は、「田舎のブルジョアジー」に反対するように誘導した。
 5月20日、ソヴナルコムは、「食糧供給派遣隊」(prodovol'stvennye otriady)の設立を命じる布令を発した。その派遣隊は武装労働者で構成され、村落を行進して「クラク〔富農〕」から食料を徴発することとされていた。
 この手段によって(もっと詳細は第16章で述べるだろう)、当局は、食糧不足に対する労働者の怒りを自分たちから農民に転化させるのを望んだ。そして同時に、まだ社会革命党の強い支配のもとにあった田園地帯に地盤を築くことも。//
 (15)ペトログラードの労働者たちは、関心を逸らされることがなかった。
 5月24日、彼らの労働者幹部会は、労働者と農民の間に「深い亀裂」を生じさせる原因になるという理由で、食糧供給派遣隊という考えを拒否した。
 ある発言者たちは、その派遣隊に加わるような労働者はプロレタリアートの隊列から「追放(expell)される」と主張した。(149)//
 (16)5月28日、ペトログラードの労働者たちの昂奮は、さらに最高度にまで大きくなった。プティロフの労働者たちが、国家による収穫物の独占の廃棄、自由な言論の保障、自立した労働組合を結成する権利、そしてソヴェトの再選挙、を要求したときのことだ。
 同様の決議を採択する抗議集会がモスクワや多数の地方都市でつづいた。その中には、トゥラ、ニージニ(Nizhnii)、ノヴゴロード、オレルおよびトヴェリ(Tver)も含まれていた。//
 (17)ジノヴィエフは、経済的な譲歩をすることでこの嵐を沈静化させようとした。
 彼はおそらくはモスクワに対して、ペトログラードへの食糧輸送の追加を要請した。5月30日に、労働者へのパンの配給は8オンスへと引き上げられると発表することができたからだ。
 このような素振りでも、目的を達成することができなかった。
 6月1日、労働者幹部会の会合は、市域全体の政治的ストライキを呼びかける決議を下した。//
 「ペトログラードの工場や工場群の代表者たちから労働大衆の気持ちと要求に関する報告を聞いて、幹部会会議は、労働者の政府だと僭称する政府からの労働者の大量離反が急速に進行していることに、喜びをもって留意する。
 幹部会会議は、政治的ストライキの訴えに従おうとする労働者の意欲を歓迎する。
 幹部会会議は、現在の体制に反対する政治的ストライキを、ペトログラードの労働者が力強く準備することを、呼びかける。現体制は、労働者階級の名のもとで労働者を処刑し、牢獄に投げ込み、言論、プレス、労働組合、およびストライキの自由を圧殺している。また、民衆の代表者機関を絞め殺してきた。
 このストライキは、権力の立憲会議への移行、地方自治諸機関の復活、ロシア共和国の統合と独立のための闘いを、スローガンとするだろう。」(150)
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 (138) Dewar, Labour Policy, p.37.
 (139) A. S. Izgoev in NV, No. 94/118(1918年6月16日), p.1.
 (140) G. Aronson, "Na perelome, " Manuscript, Hoover Instituion, Nikolaevskii Archive, DK 265.89/L2A76 が、これらの事件に関する最良の史料だ。
 (141) Kontinent, No. 2(1975年), p.385-p.419.
 (142) NV, NO. 91/115(1918年5月9日), p.3.
 (143) NV, NO. 92/116(1918年5月10日), p.3.
 (144) NS, NO. 23(1918年5月15日), p.3.
 (145) NV, NO. 92/116(1918年5月10日), p.3.
 (146) 同上。
 (147) Vladimir Brovkin, in PR 1983年, p.47.
 Aronson, "Na perelome, " p.23-p.24. はこの見通しを確認している。
 (148) B. Avilov in NZh, No. 96/311(1918年5月22日), p.1.
 (149) 同上, No. 96/311(1918年5月22日), p.4.
 (150) Otro, 1918年6月3日。"Na perelome, ", p.15-p.16.が引用する。
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 第10節②へとつづく。

2216/R・パイプス・ロシア革命第12章第9節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
 第9節・影響と意味(effects and implications)。
 (1)立憲会議の解散は、驚くべき無関心さで迎えられた。
 1789年には、バスティーユ襲撃を予期してルイ16世が国民議会を解散しようとしているとの風聞は、大きな憤激を生じさせた。しかし、そのようなものは、どこにもなかった。
 一年の無秩序状態(anarchy)のあと、ロシアは消耗していた。人々は、どのような方法で獲得されようとも、平和と秩序を乞い願っていた。
 ボルシェヴィキはそのような雰囲気に賭け、そして勝った。
 1月5日以降、権力を放棄するようレーニンを説得することができるとは、もはや誰にも考えられなかった。
 またそれ以降、ロシアの中央部には、影響力ある反ボルシェヴィキの武装対抗派が存在しなかった。そして、社会主義知識人は言いたくないことだが、常識的には、ここにボルシェヴィキ独裁が定着した、と叙述することができる。
 (2)直接の結果は、各省庁や民間企業の事務系就労者たちのストライキが終わったことだった。彼らは1月5日以降は、仕事へと押し戻された。ある者たちは個人的な必要に迫られて、ある者たちは、内部から事態に影響を与えることができる方がよいと考えて。
 反対派たちの心理はこのとき、致命的に砕かれていた。
 まるで、残虐性と国民の意思の無視が、ボルシェヴィキ独裁を正当化しているかのごとくだった。
 国全体が、混沌の一年のあとでやっと「本当(real)」の政府ができた、と感じた。
 このことは確実に農民や労働者大衆については言えたが、しかし、逆説的にも、<プラウダ>の言う「資本のハイエナ」や「人民の敵」である富裕層や「保守」的な人々についても当てはまった。この人たちは、ボルシェヴィキを軽蔑する以上に、社会主義知識人や街頭の群衆を侮蔑していたからだ。(*)
 ある意味では、ボルシェヴィキは1917年10月にではなく1918年1月にロシアの政府となった、と言ってよいかもしれない。
 当時のある者の言葉によると、「真正の、純粋なボルシェヴィズム、広範な大衆のボルシェヴィズムは、1月5日の後で初めて生まれた」。(130)
 (3)実際に、立憲会議の解散は、多くの点で、「全ての権力をソヴェトへ」という煙幕に隠れて実行された十月のクーよりも重要な意味をもった。
 ボルシェヴィキ党員を含むほとんど誰に対しても十月の目的は隠されたままだったとすると、その一方で1月5日以後に関するボルシェヴィキの意図は、疑いようがなかった。そのとき、人民の意思には気を配らないと考えていることを、ボルシェヴィキは間違いなく明確にしていたのだった。
 彼らは、字義通りの意味で、人民は「人民(people)」であるがゆえにその声を聴く必要がなかった。(**)
 レーニンの言葉によると、こうだ。「ソヴェト権力による立憲会議の解散は、革命的独裁の名による形式的民主主義の、完全なかつ公然たる廃絶だった」。(131)
 (4)民衆一般および知識人のこの歴史的事件に対する反応が予兆したのは、国の将来の悪さだった。
 もう一度事件を確認するならば、ロシアに欠落していたのは国民的結束の感覚だった。この意識があれば、善なる共通利益のために当面のかつ個人的な利益を断念しようと、国民は奮い立つだろう。
 「人民大衆」が示していた気持ちは、私的で地域的な利益、<duvan>の昂奮する愉しみだけを理解することができる、それらは当分の間はソヴェトと工場委員会によって充足されている、というものだった。
 「棒切れをひっ掴む者は伍長だ」というロシアの箴言と合致するように、彼ら人民大衆は、最も大胆で最も残虐な要求者に、権力を譲り渡した。//
 (5)証拠資料から明らかになるのは、ペトログラードの工業労働者たちは、ボルシェヴィキに投票した者たちであってすら、立憲会議が開かれて国の新しい政治的経済的諸制度を策定していくだろうと期待していた、ということだ。
 <プラウダ>が労働者の支持について不満を書いてはいたが、立憲会議防衛同盟の多様な請願書への彼らの署名によっても、このことは確認される。(132)また、立憲会議が招集される直前にボルシェヴィキが労働者に向けて発した、脅威と結びつける逆上しているがごとき訴えによっても。
 だがしかし、火を噴くことを躊躇しない銃砲に支えられて立憲会議を殺そうとする、ボルシェヴィキの断固たる決意に直面したとき、労働者たちの気持ちは挫けた。
 これは、抵抗するなと熱心に説いた知識人たちに裏切られたのが理由だったのだろうか?
 かりにそうであれば、帝制に反対した革命での知識人たちの役割は、思い上がった慰めだった、ということが際立ってしまうことになる。つまり、自分たちの刺激によらなければロシアの労働者は政府に立ち向かおうとしない、という思い上がりがあったように見える。//
 (6)農民たちについて言えば、彼らは大都市で進行している事態について全く関心がないというわけではなかった。
 社会革命党の煽動活動家たちが投票するように言い、そして彼らは投票をした。
 だが、「白い手」の別のグループが奪取したのであったとして、どんな違いがあっただろうか?
 彼らの関心は、その<volosti>の境界内の外には広がっていなかった。
 (7)こうして、社会主義知識人たちは選挙で確実な勝利を獲得してきたので国は従ってきていると自信をもって行動することができたのだが、その知識人たちが取り残された。
 トロツキーはのちに、社会主義知識人たちを嘲弄した。彼らはタウリダ宮に、ボルシェヴィキが権力を投げ棄てた場合に備えてキャンドルを、食料を奪われた場合に備えてサンドウィッチを持って来ていた。(133)
 だが、彼らは銃砲を携帯しようとはしなかった。
 立憲会議の招集の直前に、社会革命党のP・ソロキン(Pitirim Solokin)(のちにハーヴァード大学の社会学教授)は、立憲会議が実力でもって解散される可能性について論じて、こう予言した。
 「開会した会議が『機関銃』に遭遇すれば、我々はそのことを知らせる訴えを発し、我々を人民の保護の下に置くだろう」。(134)
 しかし、彼らには、そのような素振りについてすら、勇気が欠けていた。
 立憲会議の解散のあと、兵士たちが社会主義派代議員に近づいて来て、武装した実力行使でもって回復しようと提示したとき、恐れ慄いていた知識人たちは、その種のことは何もしないで欲しいと懇願した。
 ツェレテリ(Tsereteli)は、内戦を引き起こすよりは、立憲会議が静かに死んだ方がよかっただろう、と言った。(135)
 危険を冒そうとしない者たちは、つぎのようだ。すなわち、革命と民主主義について際限なく語る、しかし言葉と素振り以外によっては自分たちの理想を防衛しようとはいない。
 このような矛盾する行動、歴史の勢いに服従するふりを装う無気力さ、戦って勝利しようとする気がないこと、これらを説明するのは簡単ではない。
 その合理的な答えはおそらく、心理学(psychology)の領域に求めなければならない。-すなわち、チェーホフが巧みに描いた古いロシア知識人の伝統的態度であり、成功することを怖れ、非能率は「主要な美徳であって、光輪(halo)だけには勝つ」という信条をもっていることだ。(136)
 (8)1月5日の社会主義知識人の屈服は、その知識人たち自身の崩壊の始まりだった。
 武装抵抗の組織化を試みてできなかったある人物は、こう観察した。
 「立憲会議を守ることができなかったことは、ロシアの民主主義の最も深刻な危機だった。
 これが、分岐点だった。
 1月5日より後では、理想主義に執心するロシア人知識人がそのために存在する場所は、歴史上、ロシア史上に存在しなかった。 
 過去の存在として葬られたのだ。」(137)
 (9)対抗派の者たちとは違って、ボルシェヴィキはこの事件から多くのことを学んだ。
 武力で統制下に置いた地域では、組織されていない武装抵抗を怖れる必要がある、と分かった。
 彼らの対抗者たちは、民衆の少なくとも4分の3から支持されてはいたが、団結をせず、指導者がおらず、そして何よりも、戦う気概がなかった。
 この経験は、ボルシェヴィキが暴力に訴えるのに慣れさせることとなった。その暴力行使はもちろん、抵抗に遭遇すればいつでも、その抵抗を惹起した者を肉体的(physical)に殲滅することによって問題を「解決」する、ということを意味した。
 機関銃は、ボルシェヴィキが用いる主要な政治的説得の道具となった。
 彼らがそれ以来ロシアを支配した抑制なき残忍性は、相当の程度で、1月5日に彼らが得た、安心してこれを用いることができる、という知識から生じた。//
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 (*) 1918年5月1日、最も反動的な革命前からの政治家のV・プリシュケヴィチ(Vladimir Purishkevich)は公開書簡を発表して、こう書いた。ソヴェトの牢獄で半年過ごした後で、自分は君主制主義者のままであり、ロシアをドイツの植民地に変えたソヴェト政権に対して何ら釈明することはない。
 彼は続ける。「ソヴェト権力は堅固な権力だ。-ああ、しかし、私がロシアに作ろうとした堅固な権力の方向から生まれたものではない。ロシアの惨めで臆病な知識人層が、我々が蒙っている屈辱の主犯者だ。また、ロシア社会に統治の識見をもつ健全で堅固な権力を生み出すことができない、その主犯者だ。
 1918年5月1日付手紙、VO, No. 36(1918年5月3日), p.4. 所収。
 (130) Solokov in ARR, XIII, p.54.
 (**) このような姿勢をマルトフは1918年春に指摘した。そのときスターリンは誹謗中傷罪だと彼を非難して、革命審判所の前に立たせた。
 革命審判所はもっぱら「人民に対する罪」を裁くために設置されたと通告されて、マルトフは、「スターリンへの侮辱は人民に対する罪だと考えられるのか?」と尋ねた。
 そして自分でこう回答した。「スターリンは人民だと考える場合にだけだ」。
 "Narod eto ia", Vpered, 1918年4月1日/14日, p.1.
 Leonard Schapiro, The Communist Party of the Soviet Union(London, 1963), p.75-p.76.
 (131) Trotsky in Pravda, No. 91(1924年4月20日), p.3.
 (132) E. Iganov in PR, No. 5/76(1928年), p.28-p.29.
 (133) Trotsky in Pravda, No. 91(1924年4月20日), p.3.
 (134) Znamenskii, Uchreditel'noe Sobranie, p.323.
 (135) V. I. Ignatev, Nekotorye fakty i itogi chetyrekh let grazhdanskoi voiny(Moscow, 1922), p.8.
 (136) D. S. Mirsky, Modern Russian Literature(London, 1925), p.89.
 (137) Sokolov in ARR, XIII, P.6.
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 第9節、終わり。次節・最終節の目次上の表題は、<労働者幹部会の運動>。

2215/Laura Engelstein のロシア革命通史 (2018年)。

 Laura Engelstein, Russia in Flames: War, Revolution, Civil War, 1914-1921 (2018年).という書物がある。
 著者(ローラ・エンゲルシュタイン)はアメリカの大学のロシア史専門の教授(名誉教授?)。
 書名を訳すのはむつかしいが、燃えるロシア、燃えさかるロシア、炎の中のロシア、炎上するロシア、といつた意味だろう。
 書名よりも、2018年出版のこの書は<ロシア革命>の通史を叙述している、ということが重要だろう。
 巻末に参考文献または参照文献に言及する<Biographic Essay>というのがあって、たんなる文献列挙に終わってはいない。
 ロシア語に習熟しているようで、先にロシア語文献に言及がある。
 そのあと英米語文献に移っている。ドイツ語・フランス語文献は出てこない。
 英米語文献として、個別事件・特定時期・特定主題のものが多数挙げられている。
 <ロシア革命>通史と言えそうなもので、かつ1990年以降の刊行の、ある程度長い単著としては、つぎの4つだけが挙げられている。
 ①Richard Pipes, Russian Revolution(New York, 1990)。
 ②Orlando Figes, A People's Tragedy: Russian Revolution: 1891-1924 (London, 1996)。
 ③Sheila Fitzpatrick, The Russian Revolution, 3rd ed.(Oxford, 2008)。
 ④S. A. Smith, The Russian Revolution: An Empire in Crisis, 1890-1928(Oxford, 2017).
 このうち①のパイプス著の一部はこの欄に試訳中で、③のフィツパトリク著は第4版のものを、この欄でいちおう全て、試訳した。
 ②は長く所持だけはして、ときに眺めている。この②の著者はこの欄で言う<レフとスヴェトラーナ>の執筆者でもある。
 ④には、一度か二度この欄で言及したが、まとまった試訳を始めてはいない。
 2017年(ロシア革命100年)という近著のためもあってか、上の書の④への評価は高いようで、「…諸問題と…その解釈に関するおそらく最良の入門書」と記している。
 これら以外の通史ものとして列挙されている単著は、つきの3つで、いずれも戦前のものだ(1997年の編著=複数の者の共著が1つ挙げられているが、単著でないので省略)。
 ①John Reed, Ten Days that Shook the World(1919)。
 ②Leon Trotzky, History of the Russian Revolution(1932)。
 ③William H. Chamberlin, The Russian Revolution, 1917-1921(1935, 再1965)。
 これらの中に、E. H. Carr のものがないのが興味深い。
 今日では、かつてのようには、E. H. Carr の<ロシア革命>本は基本書では全くなくなっている、ということなのだろう。
 **
 ロシア革命といっても-日本の「明治維新」も同様だろうが-、その始期と終期の捉え方は論者、執筆者によって一様ではない。
 ③S・Fitzpatrickはその著で「二月革命」が始期であることには一致があるとたしか書いていたが、<ロシア革命>概念に含まれるか否かを問わず、それ以前から書き起こすことは少なくないだろう。
 L・Engelstein の著は書名に「1914-1921」と付けているので、第一次大戦辺りから始めている。
 ①Richard Pipes の著はのちの別の大著(1994年)の刊行後に「1899-1919」と書名に追記したようで、この記載のとおり、もっと早くから始めている(元々は十月「革命」以前のStruve あたりが彼の最初の研究主題だった)。
 ②Orlando Figesの著も書名の副題に「1891-1924」とあるように、やはり旧帝制時代から始める。
 上に挙げられていないが、岩波書店刊行の邦訳書(2005年)がある、Robert Service, The Russian Revolution 1900-1927(3rd ed., 1999) は(初版は1986)は、書名のとおりで大戦前の1900年辺りからのようだ。
 なお、このRobert Service 著はレーニン・ボルシェヴィキらにまだ寛容だ。岩波が邦訳書を発行するような内容のためか、他のものよりも分量が少ないためか、L. Engelstein がこの著に言及していない理由ははっきりしない。
 終期も上のとおりで、S・Fitzpatrickは1936-37年辺りの「大テロル」までを叙述するが、Richard Pipes の著は別著にかなり譲って、1919年までとしている。したがって、ネップ(新経済政策)は前者・Fitzpatrickの対象に含まれ、後者・ Pipes には含まれない。
 ②・④のOrlando Figes、S. A. Smith の著もN.E.Pも含めて、前者と同じだ。
 1921年の「新経済政策」導入決定からスターリンへの権力移行までを<レーニン時代>とすると、1921-24年あたりまで、従って内戦・戦時共産主義の時代(+対独講和・コミンテルン結成・飢饉)を含めるのが、当欄の執筆者のような者には分かりやすい気もする。
 但し、一般の歴史書ではないが、L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第二巻・第三巻(1976、英訳1978)では、ネップ(新経済政策)は<スターリン時代>の最初の方に出てくる。
 以上、この機会に追記しておいた。 
 

2214/R・パイプス・ロシア革命第12章第8節②。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第8節・立憲会議(憲法制定会議)の解散②。
 (9)ボルシェヴィキは、単純な戦術をとった。
 実質的には立憲会議の正統性を否定する決議によって、会議に対決しようとする。
 ほとんど確実にそれがうまく行かなければ、退出する。そして、正式には解体することなく、立憲会議がそれ以上議事を進めるのを不可能にする。
 クロンシュタット選出のボルシェヴィキ軍人、F・F・ラスコルニコフ(Raskolnikov)は、この戦術に従って、動議を提出した。
 「勤労被搾取大衆の権利の宣言」と呼ばれたが、1789年の先例とは違って、権利よりも義務について多くを語るものだった。
 ボルシェヴィキが普遍的な労働の義務(obligation)を提示したのは、これだった。
 ロシアは「ソヴェトの共和国」だと宣言される。また、ボルシェヴィキがそれまでに通過させた多数の措置があらためて確認される。とりわけ、土地に関する布令、生産に対する労働者による統制、銀行の国有化。
 立憲会議に求められた重大な条項は、その立法(legislate)する権限を放棄することだった。-この権能のためにこそ、立憲会議は選出されていたのだが。
 こういう文章だ。「立憲会議は、社会主義にもとづく社会の再組織化のための基礎的な原理(fundamental base)を一般的に策定することに、その任務が限定されることを、承認する」。
 立憲会議は、ソヴナルコムが以前に発した全ての布令類を採択し、それらの効力を延長させるものとされた。(125)
 (10)ラスコルニコフの動議は、136対237で却下された。
 この票決が示すのは、ボルシェヴィキ代議員の全員が、そして彼らだけが賛成し、左翼エスエルは保留したと見られることだ。
 この時点でボルシェヴィキ議員団は、会議は「反革命者たち」に支配されていると宣告し、退出した。
 左翼エスエル代議員たちは、当分の間は座席にとどまっていた。//
 (11)レーニンは、午後10時までは彼の「政府席」にいたが、そのときに彼も退出した。
 彼は、いかなる正統性の外装も与えないように、会議に対して発言をしなかった。
 ボルシェヴィキ中央委員会がタウリダ宮の別の部屋で開かれ、立憲会議を解散する決議が採択された。
 しかしながら、左翼エスエルに敬意を表して、レーニンは、タウリダ宮護衛兵に対して、暴力を行使しないよう指令した。
 タウリダ宮から離れようとする代議員たちは全員が立ち去らされ、戻ってくるのを許されなかった。(126)
 午前2時、状況が統制されていることに満足して、レーニンはスモルニュイに帰った。//
 (12)ボルシェヴィキが立ち去ったあと、タウリダ宮には際限のない発言が飛び交った。それらを中断させたのはしばしば護衛兵たちで、彼らは、バルコニーから降りてきて、ボルシェヴィキが空にした座席を占めていた。
 彼ら護衛兵の多くは、酔っ払っていた。
 何人かの兵士たちは、発言者に銃砲の照準を定めて愉しんでいた。
 午前2時30分、左翼エスエルが退出した。そのときに、安全を保つ責任がある人民委員のP・E・ドゥィベンコは、護衛兵の指揮官である海兵でアナキストのA・G・ジェレズニャコフ(Zhelezniakov)に、会議を閉鎖(close)するよう命令した。
 午前4時少し過ぎ、議長のV・チェルノフが土地の私的所有権の廃棄を宣言しているとき、ジェレズニャコフは舞台の上に昇って、彼の背中を軽く叩いた。(*)
 つづく光景は、議事録につぎのように記録されている。
 「海兵、『護衛兵が疲れているので、今ここにいる者はみな会議ホールを去らなければならない、と指令されました』。
 議長、『どんな指令? 誰からの?』
 海兵、『私はタウリダ宮護衛兵の指揮官です。人民委員から指令を受けました』。
 議長、『立憲会議代議員たちも疲れている。だが、疲労があるからといって、ロシアの全てが待っている法を我々が宣言するのを、中断することはできない』。
 (騒がしい声。『もういい、もういい!』)
 議長、『立憲会議は、実力行使の脅迫のもとでのみ解散することができる』。
 (騒音。)
 議長、『貴方たちは宣言する』。
 (騒がしい声。『チェルノフ、降りろ!』)
 海兵、『会議ホールからただちに立ち退く(vocate)よう、要請します』。」(**)
 (13)このようなやり取りが行われている間に、多数のボルシェヴィキ兵団が群をなして、きわめて威嚇的に、会議ホールに入ってきた。
 チェルノフは何とか、もう20分間、会議を続行しつづけた。そして、その日(1月6日)の午後5時までの延会(adjourn)を宣言した。
 しかし、会議は二度と開かれなかった。午前中にスヴェルドロフが、ボルシェヴィキが提案した立憲会議を解散させる決議を、CEC〔ソヴェト中央執行委員会〕に採択させたからだった。(127)
 その日の<プラウダ>は、つぎの大きな見出しつきで発行された。
 「銀行家、資本家、そして地主、カレーディンとドゥトフ一派、アメリカ・ドルの奴隷たち、裏切り者たち-右翼社会革命党-が、立憲会議で自分たちとその主人-人民の敵-のために全ての権力を要求する。
 土地、平和、(労働者による)統制という人民の要求に口先だけで好意を示しつつ、しかし、彼らは実際には、社会主義権力と革命の首の周りを、縄で縛ろうとしている。
 しかし、労働者、農民、兵士たちは、社会主義の最も邪悪な敵がつくウソの罠に落ち入りはしない。
 社会主義革命と社会主義ソヴェト共和国の名のもとに、彼らは公然たるまたは隠然たる殺し屋どもを全て一掃するだろう。」(128)//
 (14)ボルシェヴィキは従前から、ロシアの民主主義勢力を「資本家」、「地主」および「反革命者」と結びつけてきた。だが、この見出しで、彼らは初めて、外国資本とも連結させた。
 (15)ボルシェヴィキは2日後に彼らの対抗集会を開き、「第三回ソヴェト大会」との名称を付けた。
 ボルシェヴィキと左翼エスエルで94パーセントの議席を占めたのだから、この名称に反対することのできる者はいなかっただろう。(129) この割合は、立憲会議選挙の結果で判断すれば、しかるべき資格者数よりも3倍の人数にあたる。
 残り僅かは、左翼反対派に割り当てた。-悪態をついて馬鹿にするにはちょうどよい数だった。
 その会議は予定通りに、政府代理人が提出した全ての議案を採択した。その中には、「権利の宣言」もあった。
 ロシアは、「ロシア・ソヴェト社会主義共和国」として知られる、「ソヴェト共和国連邦」になった。この名称は1924年まで維持されたが、その年に「ソヴェト社会主義共和国同盟」と改称された。
 会議はソヴナルコムを国の正統な政府として承認し、その名前から「臨時の」という形容詞を削除した。
 また、普遍的な労働の義務という基本的考え方(principle)も是認した。//
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 (125) Dekrety, I, p.321-3.
 (126) Lenin, Khronika, V, p.180-1.; Malcevskii, Uchreditel'noe Sobranie, p.217.
 (*) ジェレズニャコフは前年にPeter Dunomovo 邸を占拠し、この人物の逮捕が1917年6月のクロンシュタット海兵たちの反乱を引き起こしていた。
 Revoliutiia, III, p.108.
 (**) I. S. Malchevskii, Vserossiiskoe Uchreditel'noe Sobranie(Moscow-Leningrad, 1930).
 ジェレズニャコフは翌年に、赤軍と戦闘をして、殺された。
 (127) Bunyan & Fisher, Bolshevik Revolution, p.384-6.
 (128) Pravda, No. 4/232(1918年1月6日/19日), p.1.
 (129) NV, No. 7(1918年1月12日/25日), p.3. in Bunyan & Fisher, Bolshevik Revolution, p.389.
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 第8節、終わり。次節の目次上の表題は、<影響と意義>。

2213/R・パイプス・ロシア革命第12章第8節①。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第8節・立憲会議(憲法制定会議)の解散①。
 (1)1918年1月5日、金曜日。ペトログラード、そしてタウリダ宮周辺は、野戦場のようだった。
 社会革命党のM・ヴィスニャク(Mark Vishniak)は、代議員たちで行列してタウリダ宮に向かって歩いているとき、つぎのような光景を目にした。//
 「我々は、正午に、進み始めた。およそ数百人が広がった列をなして、通りの真ん中を歩いた。
 代議員たちに同行していたのは、報道者、友人、妻たちで、タウリダ宮への入館券をあらかじめ得ていた。
 タウリダ宮までの距離は、1キロメートルを超えていなかった。
 近づくほどに、見ることのできる歩行者の数は減り、兵士、つまり赤軍および海兵たちが増えた。
 彼らは、完全武装をしていた。肩に銃砲を結びつけ、爆弾、手榴弾、弾丸を持っていた。タウリダ宮の正面と両側の至る所に配置されるか、入り込んでいた。
 舗道を歩いていた一人の通りすがりの者は、見慣れない行列に遭遇した。そしてほとんど叫び声が上げられることなく、むしろしばしば同情的な目で迎えられ、急いで進んだ。
 誰が何処に行っているのかと尋ねたかったので武装兵士たちが接近したが、元の停留地に戻った…。」//
 「タウリダ宮の前の広場全体が、大砲、機銃および戦場用炊事車両でいっぱいになっていた。
 機銃用弾丸装着ベルトが、乱雑に積み上げられていた。
 タウリダ宮の全ての入口は閉鎖されていたが、最も左端にくぐり門があり、人々はそこを通って入館させられた。
 武装監視兵たちは、入場を許す前に注意深く顔を調べた。背後を探索し、背中に触った。…。
 左扉から入った後で、もっと厳しい検査があった。…。
 監視兵は代議員たちに、前室とカテリーヌ大広間を通って会議場に行くように指示した。
 至るところに武装した兵士たちがいて、そのほとんどは海兵かラトヴィア人だった。
 彼らは街頭の兵士たちと同様に武装していた。銃砲、手榴弾、軍隊袋、回転式連発銃。
 武装兵士や武器の数多さやガチャガチャという金属音のために、防衛するか攻撃するかをしようと準備している野戦地帯のごとき印象があった。」(116)//
 (2)レーニンが率いるボルシェヴィキ代議員団は、午後1時にタウリダ宮に着いた。
 レーニンは、状況が展開するのに応じてすみやかに決定を下せるよう、近くに居るのを望んだ。
 会議の間は「政府席」と呼ばれた場所に座って、つづく9時間のボルシェヴィキの行動を指揮した。
 ボンチ=ブリュエヴィチは、つぎのように彼を思い出す。
 「彼は緊張して、死体のように蒼白だった。…。
 顔と首は極端に青白かったが、大きくすら見え、目は拡がって、揺らがない火のごとく燃えていた。」(117)
 じつにそのときが、ボルシェヴィキの独裁が運命の岐路に立つ、決定的な瞬間だった。
 (3)会議は昼頃に始まった。しかし、レーニンは、ウリツキを通して、外で起きていることが分かるまでは手続を開始するのを許さなかった。外のペトログラードの街頭では、ボルシェヴィキの命令に果敢に抵抗して、午前中ずっと、大規模の示威行動が行われていたのだ。
 示威行進の組織者は、「平和的」行動であって対立は避けるべきだと訴えの中で強調していた。(118)
 しかし、レーニンは、大衆が抵抗する最初の兆候を示した場合に彼の実力部隊を発動させないとは、何ら保証しなかった。
 示威行動者たちが彼の実力部隊を圧倒する場合に備えての非常時対応策を、レーニンは用意していたに違いなかった。
 社会革命党のソコロフは、かりにそういう事態になれば、レーニンは立憲会議と妥協するつもりだろうと、考えている。(119)
 (4)立憲会議防衛同盟は参加者たちに、ペトログラードのいくつかの場所に9時までに集合するよう指令していた。そこから、中央集会場であるChamp de Mars〔シャン・ド・マルス公園〕へと進む。
 正午に、一団となって動きはじめることになっていた。「全ての権力を立憲会議へ」と呼びかける旗のもとで、Panteleimon 通りに沿って。その後すぐに右に曲がってKirochnaia 通りに入り、つぎに左へPotemkin 通りをLiteinyui Prospectへと、さらに右に曲がってShpalernaia 通りを進む。そこはタウリダ宮正面に通じている。
 タウリダ宮を過ぎたあとで、右に曲がってタウリダ通りに入り、ネフスキー(Nevskii)へと向かう。ここで解散することになっていた。
 (5)午前中にペトログラード全域から集まった群衆は、相当のものだった(ある者は5万人ほどだと計算した)。しかし、その規模も、その熱狂感も、組織者が期待したほどではなかった。
 兵士たちは兵舎にとどまり、出てきた労働者たちは、予期したよりも少ない数だった。その結果として、参加者は主として、学生、公務員およびその他の知識人たちになった。彼らはみな、意気消沈していた。
 ボルシェヴィキの脅かしと実力部隊の顕示が、影響を与えていた。(120)//
 (6)示威行動組織者が広く喧伝していたため、ポドヴォイスキーは、隊列がとろうとしているルートを知っていた。そして、部下たちをその進行を妨げるよう配置した。
 弾丸を詰めた銃砲や機銃で武装したその兵団の先遣部隊は、各通りに、そしてPanteleimon 通りがLiteinyui に入る地点の屋根上に、配置についた。
 示威行進の隊列の先頭がこの交差点に近づいたとき、叫び声が上がった。
 「立憲会議、万歳!」
 このとき、兵団の火が噴いた。
 何人かが倒れ、何人かが遮蔽物を目指して走った。
 しかし、示威行進参加者は隊列を再び整えて、歩きつづけた。
 Kirochnaia 通りに接近するのをもっと数が多い兵団が妨害したため、示威行進はLiteinyui 通り沿いに進んだ。
 そのとき、Shpalernaia 通りへとまさに曲がろうとしていたときに、銃火による一斉射撃が始まった。そのの中に彼らは嵌まり込んだ。
 ここで混乱が発生した。
 ボルシェヴィキの兵士たちは示威行動者の後を追って、旗を奪い取り、それを細切れに引きちぎって、かがり火の中に放り込んだ。
 ペトログラードの別の箇所の隊列は、ほとんどが労働者たちだったが、やはり銃火を浴びた。
 もっと小さないくつかの示威行進も、同じ運命に遭った。(121)//
 (7)1917年の二月に、ロシアの兵士たちは公共的集会の禁止を無視する群衆を武力で解散させた。その運命的な日以降、ロシアの兵団は非武装の示威行進者に対して発砲することはなかった。
 暴力(violence)が暴動と反乱に火をつけ、それが革命の始まりになったのだった。
 それ以前には、血の日曜日と1905年に、暴力が用いられた。
 このような経験からして、〔1918年1月の〕示威行動の組織者が、そのような大量殺戮につながる暴力は再び全国民的な抗議を招来するだろうと想定したとしても、非合理ではなかった。
 犠牲となった死者たち-ある者たちによれば8名、別の者によれば21名(122)-は、血の日曜日の記念日の1月9日に、厳粛な葬儀を受け、プレオブラジェンスキ墓地の、その時代の犠牲者たちの傍らに埋葬された。
 労働者代議員たちが花輪を運んだ。そのうちの一つには、こう書かれていた。
 「スモルニュイ独裁者による専横の犠牲者たちのために」。(123)
 ゴールキは怒りの論説を書いて、血の日曜日の暴力になぞらえた。(*)
 (8)示威行進者は解散された、市の街路はボルシェヴィキの統制下にある-これらは午後4時頃に起きた-、という知らせが届くやいなや、レーニンは、会議の開会を命じた。
 選出された代議員のうち僅かに過半数の463名が在席していたが、そのうち社会革命党259名、ボルシェヴィキ136名、そして左翼エスエルが40名だった。(+)
 開会のベルが鳴ったときから、ボルシェヴィキ代議員と武装護衛兵たちは、非ボルシェヴィキの発言者たちに向かって野次り、ブーイングを浴びせた。
 通路とバルコニーを埋めていた武装兵の多くは、無理して騒ぎ立てる必要はなかった。食事棚に置かれていたウォッカを、勝手気侭に飲んでいたからだ。
 この立憲会議の議事録は、つぎのような光景から始まる。
 「社会革命党の立憲会議議員団の一人が、その座席から叫ぶ。
 『同志たち、もう午後4時だ。
 最長老の議員が立憲会議を開会するよう提案する。』
 (左側から大きな騒ぎ声、中央と右側から拍手、…。聴取不能。…。
 左側から口笛が続き、右側が拍手する。)
 立憲会議の最長老議員ミハイロフ(Mikhailov)、(壇上に)昇る。//
 ミハイロフ、鐘を鳴らす。
 (左側に騒ぎ声。『無権限者は、どけ!』
 騒ぎ声と口笛が継続し、右側からは拍手。)//
 ミハイロフ、『休憩(intermission)を宣告する』。」(124)
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 (116) M. V. Vishniak, Vserossiiskoe Uchredotel'noe Sobraine(Paris, 1932), p.99-p.100.
 (117) V. D. Bonch-Bruevich, Na boevykh postakh feural'skoi i oktiabr'skoi revoliutsii(Moscow, 1930), p.256.
 (118) DN, No. 2/247(1918年1月4日), p.2.
 (119) Sokolov in ARR, XIII, p.66.
 (120) A. S. Izgoev in ARR, X, p.24-p.25.; Znamenskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.340.
 (121) DN, No. 4(1918年1月7日), p.2.の叙述。Griaduiushchi den', No. 30(1918年1月6日), p.4.; Pravda, No. 5(1918年1月6日/19日), p.2.
 (122) NZh, No. 7/23(1918年1月11日/24日), p.2. および、Sheibert, Lenin , p.19.
 (123) NZh, No. 7/23(1918年1月11日/24日), p.2.
 (*) NZh, No. 6/220(1918年1月9日/22日), p.1.
 ボルシェヴィキは、反発を怖れて、射撃に関する調査を命令した。
 リトアニア人連隊の兵士たちが示威行進者に発砲した、それはそのことで立憲会議を「妨害者」から防衛すると信じたからだった、ということが明らかになった(NZh, No. 15/229, 1918年2月3日、p.11)。
 調査委員会は、報告書を公刊することなく、1月末には仕事を停止した。
 (+) Znamenskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.339.
 出席していた代議員の正確な人数は、知られていない。
 同上のp.340では410名とされているようだ。 
 (124) I. S. Marchevskii, ed., Vserossiskoe Uchreditel'noe Sobraine(Moscow, 1930), p.3.
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 第8節②へとつづく。

2212/R・パイプス・ロシア革命第12章第7節②。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第7節・立憲会議から抜け出す(rid of)決定②。
 (9)一部の社会主義者たちは、それでは十分でない、と考えた。
 その意見は社会革命党の下部から上がってきたもので、帝制に対抗するために用いた方法-テロルと街頭暴力-だけが民主主義を回復させるだろうと感じていた。
 そうした意見の代表者のF・M・オニプコ(Fedor Mikhailovich Onipko)は、スタヴロポル(Stavropol)選出の社会革命党代議員で、立憲会議防衛同盟執行委員会の一員だった。
 オニプコは、経験のある共謀者に助けられて、スモルニュイに入り込み、役人や運転手を偽装した4人の活動家をそこに撒いた。
 レーニンの動きを追跡し、妹を訪れるために頻繁にスモルニュイから抜け出していることに気づいて、その妹の家に用務員を装った工作員を置いた。
 オニプコは、レーニンを、そしてトロツキーを、殺したかった。
 行動は、クリスマスの日に予定された。
 しかし、オニプコが承認を求めた社会革命党中央委員会は、そのような行動を大目に見るのを断固として拒絶した。
 オニプコは、こう言われた。かりに社会革命党がレーニンとトロツキーを殺戮すれば、労働者たちのリンチに遭い、革命の敵だけが有利になるだろう、と。
 彼は、テロリスト集団を即座に解散させるよう命じられた。(108)
 オニプコは従った。しかし、社会革命党とは関係をもたない何人かの共謀者たちは(中には、ケレンスキーの親しい同僚だったネクラソフ(Nekrasov)もいた)、1月1日、レーニンの生命を狙って結果的には不ざまな試みを行った。
 その暗殺の試みは、レーニンと一緒に乗車していた、スイス急進派のF・プラッテン(Fritz Platten)に軽傷を負わせただけだった。(109)
 レーニンはこの事件のあと、スモルニュイからあえて外出する際にはいつでも、回転式連発銃を携帯した。
 (10)オニプコはつぎに、予期されるボルシェヴィキの立憲会議襲撃に対抗する、武装抵抗隊を組織しようとした。
 立憲会議防衛同盟とともに練り上げた計画は、親ボルシェヴィキ兵団を威嚇し、立憲会議が解散されないよう確実に守るために、1月5日にタウリダ宮の正面で、大衆的な武装示威行動を行うことを呼びかける、というものだった。
 彼は何とかして立派な後援を確保することができた。
 プレオブラジェンスキー(Preobrazhenskii)、ゼミョノフスキー(semenovskii)、およびイズマイロフスキー(Izmailovskii)の各護衛連隊で、およそ1万人の兵士たちが、武器を持って行進し、銃砲を放たれれば戦闘すると自発的に志願した。
 主としてはオブホフ(Obukhov)工場施設や国家印刷局からのおよそ2000人の労働者も、それに加わることに合意した。//
 (11)この計画を実施に移す前に、軍事委員会は社会革命党中央委員会に戻って、権威づけを求めた。
 同党中央委員会は、再び拒絶した。
 中央委員会はその消極的な姿勢を曖昧な説明でもって正当化した。しかし、結局は、最終的に分析するならば、理由は恐怖にあった。
 誰もかつて、議論はしたが、臨時政府を防衛しなかった。
 ボルシェヴィズムは大衆の病いなのであって、治癒するには時間がかかる。
 危険な「冒険」をしている余裕はない。(110)//
 (12)社会革命党中央委員会は、1月5日に平和的な示威行動を行うことを再確認した。諸兵団は歓迎されるが、非武装で参加しなければならない。
 同委員会は、新しい血の日曜日を惹起する怖れからボルシェヴィキが示威行動参加者に対してあえて銃火を放つことはないだろうと予測した。
 しかしながら、オニプコとその仲間たちが兵舎に戻って新しい知らせを伝え、武装しないで参加するよう兵士たちに求めたとき、オニプコたちは嘲弄された。//
 「兵士たちは信用できないで、こう反応した。
 『同志よ、我々を愚弄しているのか?
 貴方たちは示威行動に参加することを求め、かつ武器を持って来ないように言っている。
 では、ボルシェヴィキは?
 彼らは小さな子どもたちか?
 ボルシェヴィキはきっと、非武装の民衆に火を放つだろう。
 そして、我々は? 我々は口を開けて、頭が彼らの目標になるようにすると思っているのか?
 そうでなければ、ウサギのように早く走って逃げよと、命令するつもりか?』」(111)
 兵士たちは、素手でボルシェヴィキのライフル銃や機銃砲と対決するのを拒み、1月5日には兵舎の外で日向に座っている、と決定した。
 この活動に勢いを得たボルシェヴィキは、機会を逃さず、戦闘をする決定的な日の準備をした。
 レーニンが、個人的な指揮を執った。
 (13)最初の任務は、軍連隊に打ち勝つか、少なくとも中立化させることだった。
 兵舎に派遣されたボルシェヴィキの煽動者は、立憲会議には人気があるとを考慮して、あえて直接にそれを攻撃しようとはしなかった。
 その代わりにボルシェヴィキ煽動家たちは、「反革命の者たち」はソヴェトを廃絶するために立憲会議を利用しようとしている、と説いた。
 彼らは、このような論拠でもって、フィンランド歩兵連隊に対して「全ての権力を立憲会議へ」とのスローガンを拒否するよう、そして立憲会議がソヴェトと緊密に協力する場合にのみ立憲会議を支持することに同意するよう、説得した。
 ヴォルィーニ(Volhynian)連隊とリトアニア連隊は、類似の決議を採択した。(112)
 これが、ボルシェヴィキが達成した限度だった。
 どの規模のどの軍団も、立憲会議を「反革命」だと非難しなかっただろうと思われる。
 そのため、ボルシェヴィキは、急いで組織された赤衛軍と海兵たちの軍団に依存しなければならなかった。
 しかし、レーニンはロシア人を信頼せず、ラトヴィア人を取り込むよう、指令を発した。
 彼は、「<muzhik>〔農民〕は何かが起これば動揺する可能性がある」と語った。(113)
 このことは、ボルシェヴィキの側に立ったラトヴィア人ライフル銃部隊が革命に大きく関与したことを、さらに示した。//
 (14)1月4日、レーニンは、ペトログラードで十月のクーを実行したボルシェヴィキ軍事組織の前議長であるN・I・ポドヴォイスキー(Podvoiskii)を、非常軍事スタッフに任命した。(114)
 ポドヴォイスキーはペトログラードに再び戒厳令を施行し、公共的集会を禁止した。
 この趣旨の宣告文は、市内じゅうに貼りめぐらされた。
 ウリツキは1月5日の<プラウダ(Pravda)>で、タウリダ宮周辺での集会は必要とあれば実力でもって解散させる、と発表した。//
 (15)ボルシェヴィキはまた、工業の重要地点に煽動活動家を派遣した。
 そこで彼らは、敵意と無理解で迎えられた。
 最大の工場群-プティロフ、オブホフ、バルティック、ネフスキ造船所、およびレスナー-の労働者たちは、立憲会議防衛同盟の請願書に署名をしていた。そして、彼らの多数が共感をもつボルシェヴィキがなぜ、今や立憲会議に対する反対に回ったのかを理解できなかった。(*)//
 (16)決定的な日が接近するにつれて、ボルシェヴィキはプレスに、警告しかつ脅かす、定期的なドラム音を鳴らさせ続けた。
 1月3日、ボルシェヴィキは一般公衆に、1月5日に労働者は工場で、兵士は兵舎でじっとしている見込みだ、と知らせた。
 同じ日にウリツキは、ペトログラードにはケレンスキーとサヴィンコフが組織する反革命クーの危険がある、と発表した。この二人は、その目的でペトログラードに秘密裡に戻ってきている、とした。(*)(115)
 <プラウダ>の一面見出しは、こうだった。
 「本日、首都のハイエナと雇い人たちが、ソヴェトの手から権力を奪おうとする」。//
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 (108) B. F. Solokov in ARR, XIII(Berlin, 1924), p.48.; Fraiman, Forpost, p.201.
 (109) V. D. Bonch-Bruevich, Tri pokusheniia na V. I. Lenina(Moscow, 1930), p.3-p.77.
 (110) Solokov in ARR, XIII, p.50, p.60-p.61.
 (111) 同上, p.61.
 (112) Pravda, No.3/230(1918年1月5日/18日), p.4.
 (113) トロツキー, in 同上, No.91(1924年4月20日), p.3.
 (114) Znamenskii, Uchreditel'noe Sobranie, p.334-5; Fraiman, Forpost, p.204.
 (*) E. Ignatov, in PR, No.5/76(1928年), p.37. この著者は、これら労働者の署名は捏造されたもので、証明力をもたない、と主張する。
 (*) ケレンスキーは実際、このときにペトログラードにいた。しかし、彼が反ソヴェト実力部隊を組織しようとした証拠はない。
 (115) Pravda, No. 2/229(1918年1月4日/17日), p.1, p.3.
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 第7節、終わり。第8節の目次上の表題は、<立憲会議の解散>。

2210/R・パイプス・ロシア革命第12章第7節①。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第7節・立憲会議から抜け出す(rid of)決定①。
 (1)嫌がらせと威嚇では、立憲会議に関して何をすべきかという悩ましい問題を解消することはできなかった。
 ある者は、実力行使に訴えることを望んだ。中央委員会委員のV・ヴォロダルスキ(Volodarskii)は立憲会議選挙の一週間前に、こう言った。-「とりわけロシアの民衆は議会病(- cretinism)に罹っていない」。そして彼は、立憲会議は解散されるべきかもしれない、と示唆した。(101)
 ニコライ・ブハーリンは、自分には別の考えがあると思った。
 11月29日、ブハーリンは中央委員会に対して、カデットは立憲会議から除外されるべきだ、そして、ボルシェヴィキと左翼エスエルの代議員たちは革命議会(Revolitionary Convention)設立を宣言する、と提案した。その際に参考にしていたのは1792年のフランス議会で、これは立法会議(Legistrative Assemly)に代わるものだった。
 「かりに敵対派たちが開会するならば、逮捕する」、と彼は説明した。
 スターリンは、この提案を、実行不可能だという理由で、軽くあしらった。(102)//
 (2)レーニンには、別の解決策があった。
 立憲会議を招集させて、左翼エスエルを宥める。そして、より従順な機関を獲得すべく、その党員たちを操作する。
 これは「リコール(解職請求)」、「本当(genuine)の民主主義の基本的で最も重要な条件」に訴えることによって、行われることとなる。(103)
 こうすることで、望ましくない代議員を選出した選挙区では、リコールするよう、そしてボルシェヴィキと左翼エスエルに置き代えるよう、催促されることとなる。
 しかし、これは良くても遅い手続であり、これか実行されている間に、立憲会議は、敵対的革命家たちの全ての提案を通過させるだろう。//
 (3)レーニンはこの問題について、12月12日に最終的に決意を固めた。左翼エスエルと協定に達した直後のことだった。
 レーニンの決定は、「立憲会議に関するテーゼ」という表題で、翌日の<Pravda>に掲載された。(104)
 これは、立憲会議に対する死刑判決だった。
 レーニンの議論の要点は、政党構成に生じた変化、とくに社会革命党の分裂、階級構造の転位、および「反革命」の勃発、だった。これら全てが、人民の意志を表明するものとしては選挙を無効のものにしている、とした。//
 「事態の進行と革命における階級戦争の展開は、『全ての権力を立憲会議へ』というスローガンを、…実際にはカデットとカレーディン一派、およびその支援者たちのスローガンに変える、という状況をもたらした。
 このスローガンが実際にはソヴェト権力を除去するための闘争を意味し、また立憲会議がソヴェト権力から分離されたものになれば、立憲会議は不可避的に政治的な死を宣告されることになる、ということが、ますます明瞭になっている。
 立憲会議に関する問題を形式的かつ法的な観点から考察しようとする試みは全て、直接的にであれ間接的にであれ、…プロレタリアートの根本教条に対する裏切りであり、ブルジョアの観点へと移行することを意味する。」<+++>//
 この議論には、理にかなったものは何もなかった。
 立憲会議選挙は10月26日の前にではなく、11月の後半に実施された。-わずか17日前のことだ。12月1日にレーニンが人民の意思の「完璧な」反映だと評価したものを無きにするものは〔12月12日までの〕その間には何も発生していなかった。
 立憲会議の第一の勝利者はカデットではなく、また確実にコサック将軍アレクセイ・カレーディンの支持者たちではなかった。カレーディンは軍事力によってボルシェヴィキ体制を覆そうとしていたが、社会革命党はそうではなかった。
 レーニンがそれを支持して語ろうとする「全人民」は、多数の民衆が投票所に出かけることによって、立憲会議は反ソヴェトだとは考えておらず、希望と期待をもって立憲会議を見つめている、ということを示した。
 そして、立憲会議はソヴェトによる統治に反対するものだとの主張について言えば、権力を掌握するわずか7週間前に、同じボルシェヴィキがソヴェトだけが立憲会議の招集を保証すると強く主張していたことを忘れることができたのは、記憶力がきわめて乏しい者たちだけだっただろう。
 だがここでは、いつものように、レーニンの議論は論定であって説得しようとするものではなかった。この論考の最後の辺りに出てくる鍵となる語句は、立憲会議をこれ以上支持することは裏切りに等しい、というものだ。//
 (4)レーニンはさらにこう書いた。立憲会議は代議員たちが「リコール」に従う場合にのみ-つまり、その構成が政府によって恣意的に変更されることに同意する場合にのみ-、開催されることができる。そして、立憲会議がさらに、無条件で「ソヴェト権力」を-つまり、ボルシェヴィキの独裁を-承認する場合にのみ。
 「これらの条件を度外視するならば、立憲会議に関係している危機は、革命的方法によってしか解決することができない。その革命的方法とは、ソヴェト権力の側による、最も活力があり、急速でかつ堅固な、決定的な方法だ。…。
 ソヴェト権力の手を縛ろうとする全ての試みは、反革命の共謀者であることを意味するだろう。<+++>
 (5)ボルシェヴィキは、このような趣旨の条件のもとで、少なくとも400名の代議員が現れた場合に、立憲会議が1918年1月5日/18日に開催されることに同意した。
 同時にボルシェヴィキは、その3日後(1月8日/21日)に第三回ソヴェト大会を招集するよう、指令を発した。
 (6)ボルシェヴィキは、騒々しいプロパガンダの運動を開始した。その主題について、ジノヴィエフは12月22日のCEC に対する演説で、こう述べた。
 「『全ての権力を立憲会議へ』という有名なスローガンのもとで立憲会議を招集するという口実の裏に、『ソヴェトよ、くたばれ』という重要なスローガンが隠されている、ということを我々は十分に知っている。」(105)
 ボルシェヴィキは、1918年1月3日にCECにこの提議を採択させて、公式のものとした。(106)//
 (7)立憲会議支持者たちは、力を再結集していた。
 彼らは、あらかじめ通告されていた。
 しかし、ボルシェヴィキの脅かしに対抗しようとする際、嘆かわしい、実に致命的な不利な条件(handicap)に置かれていた。
 彼らの目からすると、ボルシェヴィキは民主主義を破壊し、統治する権利を喪失していた。
 しかし、実力の行使によってではなく世論の圧力によって、ボルシェヴィキは排除されなければならなかった。なぜなら、社会主義諸党間の仲間うちの対立で利益を得るのは、ただ「反革命」だろうからだ。
 12月までに、ペトログラードにいる者たちは、ドン地域では将軍たちが兵を集めていることを知った。その目的は革命を転覆させ、全ての社会主義者を逮捕して、おそらくはリンチを加えることに他ならなかっただろう。
 これは彼ら社会主義者にとっては、ボルシェヴィキを選ぶよりもはるかに悪いことだった。ボルシェヴィキは純粋で、見当違いでなければ、革命家だった。確かに、衝動的すぎで、権力を欲しがりすぎで、乱暴でありすぎた。しかし、同じ方向への努力をする点では依然として「同志」だった。
 また、ボルシェヴィキには大衆の支持があることを無視できなかった。
 民主主義的左翼は、当時およびその後10年間、ボルシェヴィキは遅かれ早かれ、独りではロシアを統治できないことに気づくだろう、と確信していた。
 このことに彼らがいったん気づいて社会主義者たちと権力を共有するよう誘うならば、ロシアは再び民主主義に向かう進歩を取り戻すだろう。
 このような政治的成熟には時間がかかるだろう。しかし、そうなるに違いない。
 ボルシェヴィキに対する抵抗は、このような理由で、平和的なプロパガンダや煽動行為に限定されなければならなかった。
 ボルシェヴィキがおそらくは本当の反革命家たちになる可能性を想定したのは、主として旧世代の、数人の左翼知識人たちだけだった。
 社会革命党とメンシェヴィキの指導者たちは、ボルシェヴィキは隊列を組む異端の同志だと見なすことをやめなかった。
 彼らは自信をもって、事態が変わるときを待った。
 そうしている間、ボルシェヴィキは自分たちが外部から攻撃されるときはいつでも、彼らの側に寄って頼みとすることができた。//
 (8)立憲会議防衛同盟は、自分たちのプロパガンダ運動を開始した。
 数十万の新聞と冊子を印刷し、配布して、なぜ立憲会議は反ソヴェトではないのか、なぜ立憲会議だけが国の基本法制を策定する権利を持つのか、を説明した。(107)
 また、首都や地方諸都市で示威行動を展開して、「全ての権力を立憲会議へ」と呼びかけた。
 ボルシェヴィキに票を投じた者たちを含む兵士や労働者たちから、立憲会議を擁護する署名を得ようと、兵舎や工場へも活動家を派遣した。
 労働組合やストライキ中の公務員とともにこの活動を組織していた社会革命党とメンシェヴィキは、実証されている大衆的支援はボルシェヴィキが立憲会議に対して実力を行使するのを阻むだろうと、明らかに希望していた。//
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 (101) Znamenskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.231.
 (102) Protokoly TsK, p.149-p.150.
 (103) Lenin, PSS, XXXV, p.106.
 (104) 同上, p.164-5, p.166.〔=日本語版レーニン全集26巻「憲法制定会議についてのテーゼ」388頁以下〕
 <+++試訳者注記> 日本語版レーニン全集第26巻同上、391-2頁.
 (105) Protokoly TsK, p.175.
 (106) Znamia truda, No.111(1918年1月5/18日), p.3.
 (107) N. Rubinstein, Bol'sheviki i Uchreditel'noe Sobraine(Moscow 1938), p.76.
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 第7節②へとつづく。

2207/R・パイプス・ロシア革命第12章第6節②。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第6節・立憲会議〔憲法制定会議〕選挙②。
 (11)選挙結果を厳密に正しく確定することはできない。多くの地方で、諸政党やその分派が、ときには複雑な仕方で、連立を組んでいたからだ。ペトログラードだけでも、19政党が競い合った。
 さらに問題を大きくしているのは、選挙を所管する共産党当局〔政府・ボルシェヴィキ〕が生のデータを持っていて、諸政党や別々の候補者名簿上のグループを「ブルジョア」や「プチ・ブル」という範疇で一括りにしたことだ。
 可能なかぎりで最も正確には、選挙の最終結果(1000票単位)は、つぎのように決定することができる(この頁の表を参照)。(83)
 (12)全く予期しなかったというわけではないが、結果は、レーニンを失望させた。
 社会革命党〔エスエル〕の土地政策を採用して味方につけることを期待した農民たちは、ボルシェヴィキに投票しなかった。のみならず、左翼エスエルにも投票しなかった。
 選挙の有効性を疑問視するためにボルシェヴィキが使った論拠の一つは、社会革命党の分裂が遅すぎたので左翼エスエルに分離した別の投票が行われなかった、ということだった。
 しかし、この論拠には実体が存在しないことは、つぎの数字が明らかに示している。
 いくつかの選挙区(ヴォロネス〔Voronetz〕、ヴィヤトカ〔Viatka〕、およびトボルスク〔Tobolsk〕)では、左翼エスエルと社会革命党主流派は、別々の候補者名簿を立てて争った。
 いずれの選挙区でも、左翼エスエルは顕著な支持を獲得できなかった。総計のうち183万9000票は社会革命党に、そして左翼エスエルにはわずか2万6000票が投じられた。(84)//
 ***〔各1000票単位〕
 ロシア・社会主義諸政党        68.9%
  社会革命党〔エスエル〕   17,943 (40.4%)
  ボルシェヴィキ       10,661 (24.0%)
  メンシェヴィキ        1,144 ( 2.6%)
  左翼エスエル          451 ( 1.0%)
  その他             401 ( 0.9%)
 ロシア・リベラルほか=非社会主義政党  7.5%
  カデツト〔立憲民主党〕    2,088 ( 4.7%)
  その他            1,261 ( 2.8%)
 少数民族諸政党            13.4%
  ウクライナ社会革命党     3,433 ( 7.7%)
  ジョージア・メンシェヴィキ   662 ( 1.5%)
  Mussvat(アゼルバイジャン) 616 ( 1.4%)
  Dashnaktsutium(アルメニア)560 ( 1.3%)
  Alash Orda(カザフスタン)  262 ( 0.6%)
  その他             407 ( 0.9%)
 不明              4,543 10.2%
 ***
 ボルシェヴィキは、立憲会議の総議席715のうち175を、獲得した。
 これは、左翼だと自認する社会革命党代議員と合わせると、30%だ。(*)
 (13)ボルシェヴィキには、最も恐れた反対派政党であるカデット〔立憲民主党〕の強さも不愉快だった。
 カデットは全国票の5パーセント未満しか獲得しなかったけれども、ボルシェヴィキは彼らを最も恐るべき対敵だと見なしていた。
 カデットには、最多数の積極的支援者と新聞紙があった。
 彼らは社会革命党よりもはるかによく組織され、財力をもっていた。
 そして、ボルシェヴィキに対する社会主義対抗派とは違って、仲間意識、共通する社会的理想への奉仕感、および「反革命」とされることの怖れといったものに制約されていなかった。
 カデットは、1917年遅くまで活動し続ける唯一の大きな非社会主義政党として、君主制主義者を含む右翼・中道の有権者を惹き付けそうだった。
 選挙結果を総合的に見るならば、カデットは堤防が決壊したほどの大完敗を喫したわけではない、と実際に結論づけることができるかもしれない。(85)
 だがこれは、表面的な結論だろう。
 全国的な数字は、つぎの重要な政治的事実を覆い隠した。カデツトは、都市部できわめて健闘したのだ。その都市部は、ボルシェヴィキが農村地域での弱さを補うために必要で、かつ来たる内戦では決定的な戦闘地となると彼らが想定していた地域だった。
 ペトログラードとモスクワでは、カデットはボルシェヴィキに次ぐ強さで、前者では26.2パーセント、後者では34.2パーセントの票を獲得した。
 ボルシェヴィキのモスクワでの総数から消滅過程にあった軍隊の票を差し引けば、ボルシェヴィキの45.3パーセントに対して、カデットは総投票数の36.4パーセントを獲得していた。(86)
 さらには、38の州都のうち11都市でカデットはボルシェヴィキを上回り、その他の多くの都市でかなり接近した第二位だった。
 こうしてカデットは、全国的な獲得票数から結論づけるよりもはるかに手強い勢力を代表していた。//
 結果はこのように失望をもたらしたにもかかわらず、ボルシェヴィキには、ある程度の慰めも生じさせた。
 レーニンは、闘争の状態を調査している指揮者とは別に、数字を分析した。-彼は、多数の選挙区を「諸軍隊」と言いすらした。(87)
 そして、国の中心部では自らの党は最善を尽くしたという事実に、安心することができた。国の中心部とはすなわち、大都市、工業地域、および軍隊だ。(88)
 勝利した社会革命党の強さは、黒土(black-earth)地帯およびシベリアによっていた。
 レーニンがのちに観察することになるように、投票数のこの地理的な配分は、赤軍と白軍との間の内戦での前線地域を予兆するものだった。(89)その内戦では、ボルシェヴィキは中心部を制覇し、敵対者たちは辺縁部を支配することになるのだったから。//
 (14)ボルシェヴィキが満足したもう一つの根拠は、兵士と海兵、とくに都市部に駐在している軍団の支持だった。
 この諸兵団には、一つの望みしかなかった。可能なかぎり早く故郷に帰って、土地再配分の分け前を受け取ること。
 全政党の中でボルシェヴィキだけが、即時停戦交渉を開始すると約束していた。それは兵士ちに強く支持されるものだった。
 ペトログラードとモスクワの連隊は、それぞれボルシェヴィキ獲得票のうち71.3パーセントと74.3パーセントを投じていた。
 ペトログラード近くの北西にいる前線兵団もまた、ボルシェヴィキに最多票を与えた。
 反戦争のプロパガンダがさほどは響かなかった遠く離れた前線地域では、そのようにうまくはいかなかった。しかし、それでもなお、記録を利用することのできる4つの野戦軍では、ボルシェヴィキが投票数の56パーセントを獲得していた。(90)
 レーニンは、軍隊のこの支持がいかほどに固いものかについて、幻想を抱いてはいなかった。兵団が故郷に向って出発するときには、その支持は霧散してしまうだろう。
 しかし、当面の間は、軍隊の支援は決定的に重要だった。ボルシェヴィキ兵団は、かりに少数しかいなくとも、民主主義反対派を威嚇する実力を有していた。
 選挙結果を分析したレーニンは、満足げにこう記した。
 ボルシェヴィキが軍隊の中に持つのは、「決定的な瞬間に、決定的な場所で、実力の圧倒的な優勢を確保することのできる、政治的に際立つ力」だ。(91)
 (15)ソヴナルコムは11月20日に、立憲会議に関して議論した。
 いくつかの重要な決定が下された。(92)
 立憲会議の開会は、期間の限定なしで、延長された。
 その表向きの理由は、11月28日までに定足数以上が集合するのは困難だ、ということだった。(93)
 本当の理由は、ボルシェヴィキに時間稼ぎをさせることだった。
 地方ソヴェトに対して、選挙の「不正」を全て報告するようにとの指令が発せられた。
 その資料は、「再選挙」の理由として役立つはずだった。(94)
 海軍人民委員のP. E. ドィベンコ(Dybenko)は、ペトログラードに1万人と2万人の間の武装海兵を集合させよとの命令を受け取った。(95)
 そしておそらくはもっと重要なことだが、1月8日に第三回ソヴェト大会を招集することが決定された。ボルシェヴィキの支持者とエスエルが埋め尽くすその大会は、立憲会議に代わるものとされた。
 このような手段をとろうとすることは、ボルシェヴィキがあれこれの方法を使って立憲会議を骨抜き(abort)にしようと意図していることを、示していた。//
 (16)立憲会議の開会を漠然と延長するとの政府の声明は、社会主義諸党や農民大会代議員からの強い抗議を引き起こした。
 11月22日-23日、立憲会議防衛同盟が設立された。これは、ペトログラード・ソヴェト、労働組合、およびボルシェヴィキと左翼エスエル以外の全ての社会主義諸党で構成されていた。(96)
 (17)ボルシェヴィキは、立憲会議の選挙委員会(<Vsevybor>)を苦しめることで、立憲会議に対する攻撃を開始した。
 ソヴナルコムの命令にもとづいて、スターリンとG・ペトロフスキ(Grigorii Petrovskii)は11月23日、選挙委員会に対して、関係資料を調べ直すことを命じた。
 それが拒否されると、チェカは、委員会の委員等を勾留した。
 のちにペトログラード・チェカの長になるM. S. ウリツキが選挙委員会の委員長に任命され、誰が委員会に出席するかについて広い裁量権が与えられた。(97)
 (18)これに反応して、立憲会議防衛同盟は、ボルシェヴィキの命令を無視して、予定通りに立憲会議を開会すると決定した。(98)
 11月28日、牢獄から釈放されたばかりの選挙委員会の委員たちは、タウリダ宮で協議を開始した。
 ウリツキが姿を見せて、自分が同席してのみ会合することができる、と伝えた。しかし、ウリツキの言葉は無視された。
 立憲会議の擁護者たちは、示威的にタウリダ宮正面に集まった。学生、労働者、兵士、およびストライキ中の公務員たちで、「全ての権力を立憲会議へ」と書かれた旗をもっていた。
 ある新聞によると、その群衆の数は20万人とされている。しかし、この数字は誇張すぎだと思われる。共産党(ボルシェヴィキ)の報道官は、1万人だとした。(99)
 ウリツキの命令によって、ペトログラードで最も頼もしいボルシェヴィキ兵団であるラトヴィア人銃撃隊がタウリダ宮を包囲したが、介入まではしなかった。
 ある隊員たちは、自分たちは立憲会議を守るためにやって来た、と語った。
 タウリダ宮の内部では、ほとんどがペトログラードまたはその近郊出身の45人の代議員たちが、幹部会(Presidium)を選出した。//
 (18)その翌日、武装兵団がタウリダ宮の周囲を、厚く取り囲んだ。ラトヴィア人銃撃隊は退き、リトアニア人予備連隊、海兵派遣隊、機銃部隊によって増強されていた。
 彼らは群衆からは安全な距離を保ち、代議員と信頼の措ける報道者たちだけが建物に入るのを許した。
 夕方にかけて、海兵たちは代議員たちに、立ち去るよう命じた。
 その翌日、海兵たち包囲兵団は、誰が立ち入るのも拒んだ。
 この事件は、1月5日(旧暦)/18日(新暦)に現実に行われることとなる実力行使の強さを試す、リハーサルとなった。//
 (19)カデットの攻撃的姿勢を押さえつけようと、ボルシェヴィキはその党(カデット・立憲民主党, Constitutional-Democratic Party)を非合法化した。
 すでにペトログラードでの立憲会議選挙の最初の日に、ボルシェヴィキは武装した暴漢を派遣して、カデット機関紙<Rech'>の編集部を粉々に破壊していた。
 同じことが2週間後に、<Nah vek>について繰り返された。
 11月28日、レーニンは、典型的にプロパガンダ的な「革命に反対する内戦指導者たちの逮捕に関する布令」という名称をもつ命令を書いた。(100)
 カデット指導者たちは「人民の敵」と宣告され、拘禁が命じられた。
 その夜と翌日、ボルシェヴィキの派遣部隊は、捕らえることのできる著名なカデット党員全員の身柄を拘束した。その中には、何人かの立憲会議代議員もいた(A・I・シンガレフ(Shingarev)、P・D・ドルゴルコフ(Dorgorukov)、F・F・ココシキン(Kokoshkin)、S・V・パニナ(Panina)、A・I・ロジチェフ(Rodichev)等)。
 これらの者たちは、のちに釈放された(パニナは滑稽な裁判のあとで)。但し、シンガレフとココシキンの二人は、ボルシェヴィキ海兵たちによって収監所病院で殺戮された。
 カデットは、「人民の敵」だとされて、立憲会議の選挙運動に参加できなかった。
 彼らは、ボルシェヴィキ政府が初めて非合法化した政党だった。
 このことに対して、メンシェヴィキも社会革命党も、何ら憤慨しなかったように見える。//
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 (83) 以下にもとづく。L. M. Klassy i partii v grazhdanskoi voine v Rossi (1917-20 gg.)(Moscow, 1968)p.416-p.425、L. M. Spirin, Krushenie pomeshchich'ikh i burzhuaznyk partii v Rossi(Moscow, 1977), p.300-p.341。
 (84) DN, No. 2/247(1918年1月8日), p.1.
 (*) O. N. Znameskii, Vserrosiiskoe Uchreditel'noe Sobraine(Leningrad, 1976), p.338.
 左翼エスエルへの支持の多くは、ペトログラードの労働者およびバルトや黒海海軍の急進的な海兵から来ていた。
 (85) Oliver Radkey, The Election to the Russian Constituent Assembly of 1917(Cambridge, Mass., 1950), p.15.
 (86) O. N. Znameskii, Vserrosiiskoe Uchreditel'noe Sobraine(Leningrad, 1976), 表1と表2。
 (87) Lenin, PSS, XL, p.7.
 (88) Radkey, Election, p.38.
 (89) Lenin, PSS, XL, p.16-p.18.
 (90) Znameskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.275, p.358.
 (91) Lenin, PSS, XL, p.10.
 (92) Fraiman, Forpost, p.163.
 (93) Dekrety, I, p.159.
 (94) Revoliutiia, VI, p.187.
 (95) Fraiman, Forpost, p.163.
 (96) Revoliutiia, VI, p.192.
 (97) 同上, p.199.
 (98) NV, No. 1(1917年11月30日), p.1-p.2, & No.2(1917年12月1日), p.2.; Pravda, No. 91(1924年4月20日), p.3.; Znameskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.309-p.310.
 (99) NV, No. 1(1917年11月30日), p.2,; Revoliutiia, VI, p.225.
 (100) Dekrety, I, p.162.
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 終わり。次節へとつづく。

2206/R・パイプス・ロシア革命第12章第6節①。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第6節・立憲会議〔憲法制定会議〕選挙①。
 (1)ボルシェヴィキが民主主義的統制から自由になるためには、もう一つ越えなければならないハードルがあった。すなわち、立憲会議(the Constituent Assembly)。当時のある論者によれば、立憲会議は、喉に「突き刺さった骨のような」ものだった。//
 (2)12月初めまでに、ボルシェヴィキは以下のことに成功した。
 (1) 正統な全ロシア・ソヴェト大会を無力にし、その執行委員会を奪い取る。
 (2) ソヴェトの執行諸機関から立法や上級官僚任命の権限を剥奪する。
 (3) 正統な農民大会を分裂させ、自ら選んだ兵士や海兵で置き代える。
 ボルシェヴィキは、このような破壊的行為を隠して逃げ去ることができなかった。国全体は容易には情報を得られず理解することもできない、そのようなペトログラードの遠く離れた諸組織を操作することに自分たちは打ち込んでいた、という理由では。
 立憲会議は、また一つ別の問題だったのだ。
 全国から選出されてくるこの会議は、ロシアの歴史上初めての真に代表者の集まりになるはずだった。
 開催を妨害したり解散したりすることは最も悪辣なクー・デタであり、全国民の意思に直接に挑戦して、数千万人の権利を剥脱することになるだろう。
 だがしかし、これがなされるまでは、またこれがなされないかぎり、ボルシェヴィキは自分たちは安全だと感じることができなかった。なぜなら、第二回ソヴェト大会の決議にもとづけば、ボルシェヴィキの正統性は立憲会議の是認という条件づきのものだったからだ。-この是認を、立憲会議は確実に拒否するだろう。
 (3)さらに悪いことに、ボルシェヴィキは何度も、立憲会議の招集に関与してきた。
 立憲会議は歴史的にみると社会革命党と一体化したもので、社会革命党はその政治綱領の中心に、これを掲げていた。そして、農民層の支持を獲得しつづけるならば、自分たちが立憲会議で圧倒的な多数派になるだろう、という自信をもっていた。
 社会革命党はこの立憲会議を、ロシアを「勤労者(toilers)」の共和国にするために用いるつもりだった。
 彼らがもっと政治的に明敏だったならば、可能なかぎり早く選挙を実施するよう、臨時政府に圧力を加えただろう。
 しかし、他の者たちと同様に、ぐずぐずと引き延ばした。このことが、立憲会議の擁護者だというふりをボルシェヴィキがする機会を与えることとなった。
 1917年の夏遅くから、ボルシェヴィキは、時が経てば民衆の革命的熱望は冷えるだろうと期待して選挙を故意に遅延させていると、臨時政府を非難した。
 「全ての権力をソヴェトへ!」というスローガンを打ち出すことで、ボルシェヴィキは、ソヴェトだけが立憲会議の開催を保障することができる、と主張した。
 1917年の9月と10月、ボルシェヴィキのプロパガンダは、ソヴェトへの権力移行だけが立憲会議を救出するだろうと、大々的にかつ明確に叫んだ。(75)
 権力を掌握しようと準備していたのだったが、このようなプロパガンダはしばしば、まるでボルシェヴィキの主要な目標は「ブルジョアジー」その他の「反革命」から立憲会議を守ることであるかのごとく聞こえた。
 10月27日、<プラウダ>は読者に対して、こう書いた。
 「新しい革命的権力は、ためらいを許しはしない。すなわち、広範な人民大衆の利益という社会的優越性がある条件のもとで、この権力だけが、この国を立憲会議へと導く力を有している。」(76)
 (4)したがって、レーニンとその党が選挙を実施し、招集し、そして立憲会議の意思に従うと明言していたことに、何ら疑問はあり得ない。
 しかし、この立憲会議はほとんど確実にボルシェヴィキを権力から排除するだろうがゆえに、ボルシェヴィキにはきわめて厄介な問題だった。
 結局は、彼らは勝負の賭けに出て、勝った。そして、立憲会議が廃墟となったこの勝利のあとでようやく、彼らは決して二度と民主主義勢力から挑戦されることはない、という自信を得ることができた。//
 (5)立憲会議を攻撃するにあたって、ボルシェヴィキは、社会民主党の理論に正当化を見出すことができた。
 1903年に採択された社会民主党綱領は、普遍的で平等な直接投票で選出された立法会議(Legislative Assembly)の開催を訴えていた。
 しかし、ボルシェヴィキもメンシェヴィキも、自由選挙を盲信してはいなかった。
 彼らは革命前には長らく、投票箱は人民の「真の」利益を示す最良の指針であるとは限らない、と主張する心構えだった。
 ロシア社会民主党の創立者であるプレハノフは1903年の第二回党大会で演説して、この問題について若干のことに論及した。のちにボルシェヴィキはこれに依拠して、反対派を嘲弄することになる。
 「全ての民主主義原理は、それ自体の長短について、抽象的にではなく、民主主義の根本原理を呼び起こす諸原理とそれとの関係において、評価されなければならない。<salus populi suprema lex>(人民の安寧が至高の法だ)。
 革命家の言葉に翻訳すると、これの意味は、革命の成功こそが、至高の法だ、ということになる。
 そして、革命のためにあれこれの民主主義原理による行動を制限する一時的な必要が生じたとすれば、制限しないのは犯罪的だ。
 個人的見解としては、普通選挙の原理ですら、民主主義に関する上述の基本的な観点から評価しなければならない、と言うべきだろう。 
 仮定としては、我々社会民主主義者が普通選挙に反対する状況を想定することはできる。<中略>
 革命的熱狂の嵐の中で人民がきわめて良い議会を選出するならば、…、我々はそれを永続的な議会にしようとすべきだ。
 そして、選挙が非革命的だということが分かれば、我々はそれを解散しようとすべきだ。二年以内にではなく、可能ならば、二週間以内に。」(*)
 レーニンはこのような感覚を共有しており、1918年には、明らかに気に入って、これを引用することになる。
 (6)臨時政府は、立憲会議選挙の予定を1917年11月12日と定めていた。その日はたまたま、臨時政府が権力から陥落した2週間後のことだった。
 ボルシェヴィキは最初はこの日程をそのまま維持するかどうかを躊躇したが、最終的にはそのように決定し、その趣旨の布令を発した。(78)
 しかし、つぎは何をするのか?
 ボルシェヴィキ内部でこの問題を議論する一方で、彼らは、対抗派たちの運動能力に干渉した。
 これはおそらく、プレス布令や軍事革命委員会が発したペトログラードを包囲された状態におく命令の背後にある、主要な意図だった。その条項の一つは、屋外での集会を禁止していた。(79)
 (7)ペトログラードでは、立憲会議選挙の投票は11月12日に始まり、3日間つづいた。
 モスクワでは11月19日~21日に、投票が実施された。
 残りの地方では、11月の後半だった。
 臨時政府が定めていた規準によれば、有権者は、20歳以上の男女市民だった。
 投票は、敵が占領している地域-すなわち、ポーランドと西側および北西の前線地帯-を除いて、かつてはロシア帝国だった全土で行われた。
 中央アジアでは、投票結果が算出されなかった。
 同様の間違いが、若干の遠方の地域で発生した。
 投票者数は、印象的な数字であることが分かった。
 ペトログラードとモスクワでは、有権者のおよそ70パーセントが投票所へ行き、いくつかの農村地域では、投票率が100パーセントに達した。農民たちはしばしば、単一の候補者名簿のために、通常は社会革命党に、一団となって投票した。
 最も信頼できる計算によると、総計4440万票が投じられた。
 観察者はあちこちで、少数の不正行為に気づいた。即時講和の公約のためにボルシェヴィキを支持する連隊兵士たちが、ときどきは他政党の候補者たちを脅かしたのだ。
 しかし、全体としては、国民がおかれている困難な条件を考慮するならば、選挙は期待を正当視するものだった。
 選挙を称賛することに関心がなかったレーニンは、12月1日にこう述べた。
 「内戦の縁にある階級闘争とは別個に立憲会議を評価するならば、今のところは、人民の意思を表現する手段としてもっと完全な仕組みを知らない。」(80)
 (8)投票はきわめて複雑だった。多数の細片政党が、ときには他政党と連合して、候補者を擁立していた。状況は地域ごとに異なっていて、とくにウクライナのような境界地帯では複雑になっていた。ウクライナには、ロシア諸政党と並んで、地方少数民族を代表する諸政党があったからだ。
 (9)社会主義政党のなかでボルシェヴィキだけは、公式の政策要綱をもたないままで選挙運動をした。
 ボルシェヴィキは、投票で勝利すると計算しているように見えた。彼らは、①「全ての権力をソヴェトへ」のスローガン、②即時停戦の約束、および③地主所有の土地の没収を中心に、労働者、兵士および農民に対して幅広く訴えた。
 ボルシェヴィキが選挙期間に追求したのは、自分たちを支持する有権者の階級的基盤を、社会革命党の非マルクス主義的言葉を借用すれば「勤労大衆」(the toiling mass)を、拡大することだった。
 したがって、選挙結果を評価するにあたっては、つぎのことにとくに留意しなければならない。すなわち、多数の国民は、あるいはおそらくボルシェヴィキに投票した者たちのほとんどですら、存在しないがゆえに何も知り得なかったボルシェヴィキの政策要綱を是認したのでは全くない、ということだ。ましてや、ボルシェヴィキの公表文書では決して言及されなかった一党独裁というボルシェヴィキの隠された目標(agenda)を是認したのではない。
 是認されたのは、ソヴェトによる統治、戦争の中止、および共同体への再配分のために行う私的土地所有の廃棄だった。これらのいずれの中にも、ボルシェヴィキの究極的な目標は含まれていない。//
 (10)レーニンは、しばらくの間は万が一の希望から、ボルシェヴィキが勝利するに至る程度にまで、左翼エスエルが社会革命党を分裂させるだろうと、勘違いをしていた。(81)
 左翼エスエルが11月にペトログラードで行ったことの強い印象が、この希望にある程度の内実を与えていた。(82)
 しかし、最終的には、根拠のないものだったことが分かった。ボルシェヴィキはとくに都市部や軍隊内で気を吐いたけれども、社会革命党の後を追いかける二番手となった。
 この選挙結果が、立憲会議〔憲法制定会議〕の運命を封じた。
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 (74) Steinberg, Als ich Volkskommissar war, p. 42.
 (75) 例えば、ペトログラード・ソヴェトでのトロツキーの演説を見よ。NZh, No.138/132(1917年9月27)日で報告されている。
 (76) Pravda, No. 170/101(1917年10月27日), p. 1.
 (*) Vtoroi S'ezd RSDSRP: Protokoly(Moscow, 1959), p.181-2.
 トロツキーは1903年に、これに似たことを言った。-「全ての民主主義諸原理は、もっぱら党の利益に従属しなければならない」(M. Vishniak, Bolshevism and Democracy, New York, 1914, p.67.)。
 (77) N. Krupskaia, Vospominaniia o Lenine(Moscow, 1957), p. 74.; Lenin, PSS, XXXV, p.185.
 (78) Dekrety, I, p. 25-p. 26.
 (79) Izvestiia, No. 213(1917年11月1日), p. 2.
 (80) Lenin, PSS, XXXV, p.135.
 (81) 同上, XXXIV, p.266.
 (82) Peter Scheibert, Lenin an der Macht(Weinheim, 1984), p.418.
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 試訳者注記。
 上の注(80)部分は、日本語版レーニン全集26巻(大月書店、1958)p.361によると、つぎのとおり。一段落をそのまま書き写す。-<全ロシア中央執行委員会の会議/1917年12月1日(14日)>の第一項「憲法制定会議の問題についての演説」の冒頭。一文ごとに改行。注(81)部分は、日付の特定がないこともあり今のところ探し出せない。
 「階級闘争が内乱に発展した情勢を度外視して、憲法制定会議をとってみるならば、われわれは、いまのところ人民の意志を表明するため、これ以上完全な機関を知らない。
 だが、幻想の世界に住むわけにはいかない。
 憲法制定会議は、内乱の情勢のもとで行動しなければならない。
 内乱を始めたのは、ブルジョア=カレージン派の分子である。」
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 第6節②へとつづく。


2205/R・パイプス・ロシア革命第12章第5節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第5節・左翼エスエルとの協定と農民大会の破壊。
 (1)レーニンとトロツキーは、政府加入に関する左翼エスエルとの交渉を継続すること、およびメンシェヴィキおよびエスエル〔社会革命党〕と調整する努力はもうしないことに同意した。これは中央委員会に生じていた危機を緩和するためだった、ということが想起されるだろう(既述)。
 彼らはメンシェヴィキ等にかかる後者を、真面目には追求しなかった。
 レーニンには、それら対抗する社会主義諸党と連携するのを受け容れる気持ちは全くなかった。
 しかし、左翼エスエルは、取り込みたかった。
 レーニンは、左翼エスエルの存在価値を知っていた。言葉に酔っていて、大衆の「自発性」という信条をもつがゆえに一致団結した行動をすることのできない、革命的な性急者たちが緩やかに組織した一団。
 左翼エスエルは脅威ではなく、利用すべきものだった。
 内閣に彼らが入っていれば、ボルシェヴィキが政府を独占しているという非難を回避できるだろう。また、「十月-ボルシェヴィキのクー-を受容する」全ての党は歓迎される、という主張が実証されるだろう。
 さらに価値があるのは、左翼エスエルの資質のおかげで、ボルシェヴィキ組織はこれまで接触をもってきていない農民層に入っていくことができる、ということだった。
 農民の代表者がいないままで「労働者と農民」の政府という地位を偽装するのは、馬鹿げていた。左翼エスエルが農民層と関係をもっていることは、彼らの相当大きい資産だったのだ。
 レーニンは、左翼エスエルが立憲会議選挙に際しての農民票を分裂させて、できうればボルシェヴィキとその同盟者たちに多数派を形成させることになる、という壮大な(のちの事態が示したように、非現実的な)希望を抱いていた。//
 (2)両政党は、秘密に交渉した。
 11月18日、<イズベスチア>が-早まっていたことがのちに判ったが-、ソヴナルコム加入について左翼エスエルとの間の合意が成立した、と発表した。
 しかし、会談はさらに3週間つづいた。その過程で両党は、緊密な作業をする関係を確立するに至った。
 今や左翼エスエルは、ボルシェヴィキ勢力に加わり、社会革命党が支配している自立した農民運動を破壊する助けをすることとなつた。//
 (3)ロシア民衆の5分の4を代表する農民代表者大会は、十月のクーを拒絶していた。
 第二回ソヴェト大会には代議員を派遣せず、その代わりに、祖国と革命救済委員会に加入した。
 この反対は、ボルシェヴィキにとつてはきわめて厄介なことだった。
 ボルシェヴィキは農民大会で勝利しなければならず、あるいはそれができないならば、ボルシェヴィキに友好的な別の団体で置き換える必要があった。
 この戦術は、続いてのちに立憲会議や他の民主主義的反ボルシェヴィキの代表団体に関しても繰り返された。そして、三段階を踏むものだった。
 第一には、出席者を決定するその団体の指名委員会(Mandate -)を支配しょうとした。
 これができれば、自由選挙で獲得するだろうよりは多数のボルシェヴィキや親ボルシェヴィキの代議員を送り込むことができる。
 〔第二に、〕ボルシェヴィキ支持者で充ちたこのような団体が、それでもボルシェヴィキが提案する決議を採択しなければ、騒ぎと暴力の脅かしでもって、その団体を混乱させる。
 〔第三に、〕これもまたできなければ、大会を非合法だと宣言し、退出し、自分たちの反対会合を設立する。//
 (4)11月後半に行われる立憲会議選挙が明確に示すことになるように、ボルシェヴィキには、農村地域での支持がなかった。
 このことは、11月末に予定されていた農民代表者大会の見込みを悪くするものだった。その大会では、社会革命党は確実に、ボルシェヴィキ独裁を非難する決議を通過させるだろう。
 これを阻止するためにボルシェヴィキは、左翼エスエルに助けられて、指名委員会を操作しようとした。すなわち、通常は地方と地区のソヴェトごとに選出される大会代議員たちが軍事部隊からの代議員よりも多くなるように、指名委員会に要求させようとした。
 軍隊はすでにソヴェトの兵士部門で代表されているのだから、これには正当性がなかった。
 しかし、指名委員会にいる社会革命党は、ボルシェヴィキを懐柔しようとして、これに同意した。結果として、社会革命党は農民大会を完全には支配することができず、辛うじて過半数を獲得した。
 農民大会に出席する代議員の最終的な人数は、総数789名のうち489名が、農村地帯で選出された善意の(bona fide)農民代表者たちで、294名がボルシェヴィキと左翼エスエルが選んだ制服を着た、ペトログラードとその周辺の連隊の男たちだった。
 党への帰属者数から言うと、社会革命党307名、ボルシェヴィキ91名だった。残りの391名については、明確にされていない。だが、その後の投票結果から判断すると、それらのうち最大の割合を、左翼エスエルが占めていた。(*)//
 (5)だがなお、もう一つ懐柔をする装いとして、社会革命党指導部は、左翼エスエルの指導者であるM・スピリドノーワ(Maria Spiridonova)を大会の議長とすることに、同意した。
 農民たちは実際に、革命前のテロリストたる偉業によって彼女を偶像視していたけれども、ボルシェヴィキが直情的なスピリドノーワを完全に操っていたために、これは全く考えの足りない譲歩だった。
 (6)11月26日、ペトログラード市議会のアレクサンダー大広間で、第二回農民代議員大会が開かれた。
 ボルシェヴィキ代議員たちは最初から、左翼エスエルの応援を受けて、破壊をする戦術を採った。野次り、鋭く叫び、反対党派の演説者を大声を上げて黙らせた。
 しばらくの間は、彼らが演壇を物理的に占拠した。
 こうした妨害によって、スピリドノーワは休会宣告をすることを余儀なくされた。//
 (7)重大な会議が、12月2日に行われた。
 その日、社会革命党の演説者は、立憲会議代議員たちの逮捕や嫌がらせに抗議した。立憲会議の代議員たちのある程度は、農民大会に選出された代議員でもあった。
 こうした演説の一つが行われている間に、レーニンが姿を現した。
 レーニンを指さして、ある社会革命党員がボルシェヴィキに対して叫んだ。
 「きみたちがロシアを連れて行こうとしているのは、レーニンがニコライに取って代わるという国家だ。
 我々は、僭政的な権力を必要としない。
 我々に必要なのは、『ソヴェトによる支配だ』!」
 レーニンは、国家の長としての資格で演説することを求めた。だが、誰もレーニンを選出していないのだから、ボルシェヴィキ党の長としてフロアにおれるにすぎない、と言われた。
 彼は挨拶して立憲会議を中傷し、その代議員に対するボルシェヴィキによる嫌がらせという抗議を斥けた。
 しかしながら、定足数の400名の代議員がペトログラードに集合すれば立憲会議が開催される、と約束した。//
 (8)レーニンが去ったとき、チェルノフが、立憲会議の権威を承認することはソヴェトを拒絶することと同じだ、というボルシェヴィキの主張を拒否する決議を下すよう、動議を提出した。
 「大会は、つぎのように考える。
 労働者、兵士および農民の代表ソヴェトは、大衆をイデオロギー的かつ政治的に指導するものとして、革命の強い戦闘力でなければならず、農民および労働者による征圧を監視して護衛しなければならない。
 立憲会議は、それがもつ立法的権能でもって、ソヴェトに表現されている大衆の要求を、現実のものに変えなければならない。
 よって、ソヴェトと立憲会議を相互に対抗させようとする、個別グループの試みに、断固として抗議する。」(+)
 (9)ボルシェヴィキと左翼エスエルは、反対動議を提出して、立憲会議は議員特権(parliamentary immunity)を享有していないという理由で、カデットやその他の立憲会議代議員に対するボルシェヴィキの措置を承認するよう大会に求めた。(69)
 (10)チェルノフが提案した決議は、360対321で通過した。
 ボルシェヴィキは議長のスピリドノーワに対して、この票決を無視するよう説得した。
 翌日に彼女は、この票決は拘束力がなく、たんに票決のための「基礎」にすぎない、と宣言した。
 この問題がこう処理される前に、トロツキーが姿を見せて、ブレスク=リトフスクでの講和交渉の進展について報告したいと、出席者たちに求めた。
 これに反対する動議が歓迎され、それに応じてトロツキーは立ち去り、ボルシェヴィキと左翼エスエルの代議員がつづいた。//
 (11)翌日の12月4日、ボルシェヴィキと左翼エスエルはアレクサンダー大広間に戻ってきて、再び破壊工作を始めた。
 騒ぎ声で、演説者の声は聞き取れなかった。この事態に反応して、社会革命党とその支持者たちは、「マルセイエーズ」を歌いながら、退出した。
 彼らは、農民大会の中央執行委員会が所在するFontanka の農業博物館で協議を行った。
 このときから、大会の「右翼」と「左翼」が分裂した。
 ボルシェヴィキが立憲会議の12月2日の票決の有効性を承認するのを拒んだために、再統一の試みは失敗した。
 12月6日、ボルシェヴィキ党と左翼エスエルは、市議会での会議が農民ソヴェトの唯一の合法的代表者だと宣言した。実際には、そこには農民ソヴェトの代議員たちはいなかったのだけれども。
 彼らは、農民大会中央執行委員会の全ての権能を否定し、中央執行委員会から技術的用具や人員を奪い取り、政府による農民大会代議員への日当の支払いを停止した。
 ついに12月8日、ボルシェヴィキと左翼エスエルの残留派会議は、ボルシェヴィキが支配する全ロシア〔農民大会〕中央執行委員会と同一視されるものになった。//
 (12)たしかに、ボルシェヴィキは農民大会を奪い取った。先ずは、自分たちが選んだ、農民でない代議員を送り込むことによって。次には、その代議員たちが農民層の正統な唯一の代表者だと宣言することによって。
 ボルシェヴィキは、左翼エスエルの協力なくしては、これを達成できなかっただろう。
 このような貢献、および予想される一層の貢献の褒賞として、ボルシェヴィキは、左翼エスエルを年下の同僚として政府に加入させるに際して、大きな譲歩を行った。//
 (13)両政党は、一緒に農民大会を破壊した直後の12月9-10日の夜に、合意に達した。(70)
 合意内容は一度も公表されなかった。そのため、のちに起こった事態から再構成されなければならない。
 左翼エスエルは、いくつかの条件を提示した。①プレス布令を解除(lift)すること、②政府に他の社会主義諸党を加えること、③チェカの廃止、④立憲会議のすみやかな招集。
 第一の要求について、ボルシェヴィキは、公式にプレス布令を廃止することなく、全ての敵対新聞紙の発行を許容することで、事実上はこれを認めた。
 第二の問題について、レーニンは宥和的だった。すなわち、左翼エスエルの例に他の社会主義諸党も倣つて十月の革命を承認することををたんに求めた。
 どの党もそうする気がなかったために、この譲歩はレーニンには、何の苦痛でもなかった。
 チェカについては、ボルシェヴィキは頑固だった。形式的に廃止しようとも、その権限を制限しようともしなかった-反革命が存在するために、そんな贅沢はできない-。
 しかし、左翼エスエルは、不必要なテロルが行われないという満足感を得るため、代表者をチェカに送り込むことができた。
 立憲会議については、しぶしぶながら、左翼エスエルの要求を受け入れた。
 ボルシェヴィキに立憲会議選挙を取消すという考えを放棄させ、立憲会議の開催を、短期間だけにしても、認めさせたのは左翼エスエルだ、というのは、事実上確実なことだ。
 トロツキーは、レーニンがこう言ったのを憶えている。
 「もちろん、立憲会議は解散させなければならない。だが、左翼エスエルについてはどうすべきだったのかね?」。(71)
 (14)このような妥協を基礎にして、左翼エスエルはソヴナルコムに加わった。5名の閣僚が与えられた。農業、司法、郵便通信、内務、および地方自治。
 また、チェカを含めて、他の国家組織のより下層の官署に入ることも認められた。左翼エスエルのA・ドミトリエフスキ(Aleksandrovich Dmitrievski)(アレクサンドロヴィチ)が、チェカの副長官となった。
 左翼エスエルは、このような配置に満足した。彼らは、ボルシェヴィキを少し短気だと思っていたとしても、ボルシェヴィキが好きで、その目標を是認した。
 左翼エスエルのV・ A・カレーリン(Karelin)は、「ボルシェヴィキの過剰な熱望を緩和させる調整者」だと自らの党を定義した。(72)//
 (15)ボルシェヴィキと左翼エスエルの共同行動による農民大会の分解は、ロシアの自立的農民組織の終焉を意味した。
 1918年1月半ば、ボルシェヴィキ=左翼エスエルの自称農民大会執行委員会は、完全な統制のもとで、農民代議員大会を招集した。
 それに合わせて、労働者兵士代議員ソヴェトの第三回大会を行うことが予定されていた。
 ここでこそ、これまでは別々だった二つの組織が「融合」して、労働者兵士ソヴェトの大会の構成の中に「農民」代議員が加えられた。
 ボルシェヴィキ歴史家によれば、この事態は、「ソヴェトという権威をもつ単一で至高の機関を創立する過程を完成させ」るもので、かつ「労働者兵士代議員の大会とは別に農民大会を活動させるという、右翼社会革命党の政策に終止符を打つ」ものだった。(73)
 しかしながら、つぎのように語る方が、より正確だろう。強引な〔二党の〕結合(shotgun marriage)が農民の自立的統治を終わらせ、農民層の権利剥奪(disenfranchisement)の過程を完成させたのだ。//
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 (*) DN, No.222(1917年12月2日), p.3.
 この大会の議事次第は、公刊されていない。社会革命党の日刊紙のDelo naroda, 1917年12月13日/第20号に、手続の完全な説明が掲載されており、以下の叙述がはこれをもとにしている。
 (+) DN, No.223(1917年12月3日/16日), p.3.
 共産主義者の革命編年史(Revoliutsiia, VI, p. 258)は、社会革命党はソヴェトから権力を奪い取って立憲会議に渡そうと主張したと書いて、この決議の意味を歪曲している。
 社会革命党は実際には、立憲会議とソヴェトが協力するのを望んでいた。
 (69) Izvestiia, No. 244(1917年12月6日), p. 6-p. 7.
 (70) 同上, No. 249(1917年12月12日), p. 6.
 (71) Pravda, No. 91(1924年4月28日), p. 3.
 (72) NZh, No. 206/200(1917年12月20日/1918年1月2日).Revoliutsiia, VI, p. 377が引用している。
 (73) Kh. A. Eritsian, Sovety krest'ianskikh deputatov v oktiabr'skoi revoliutsii(Moscow, 1960), p. 143.
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 第5節、終わり。次節の目次上の表題は、<立憲会議〔憲法制定会議〕選挙>。

2195/R・パイプス・ロシア革命第12章第3節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第12章・一党国家の建設。
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 第3節・事務就労者たちのストライキ。
 (1)知識人は、全国にわたる<duvan>に参加せず、掏摸たち等が使う「音のする鞄」に注意を逸らされはしない一つのグループだった。
 彼らは、かつてきわめて熱狂的に、二月革命を歓迎した。
 しかし、十月のクーは拒否した。
 何人かの共産主義歴史研究者ですら、学生、教授、作家、芸術家、および反帝制へと誘導したその他の者たちは、ボルシェヴィキによる権力奪取に圧倒的に反対した、と認めるに至っている。
 その研究者の一人は、「ほとんど」の知識人が「妨害行為(sabotage)」をした、と述べる。(47)
 ボルシェヴィキがこの抵抗に打ち勝つには、数カ月にわたる強要と甘言が必要だった。
 知識人たちは、体制が落ち着いて、それを拒否すれば却って事態を悪くするという結論に達した後でようやく、ボルシェヴィキと協力し始めた。
 (2)ロシアの教育を受けた層が十月のクーを拒否していることを最も劇的に表現したのは、事務系(white-collar)の人々による総罷業(ゼネ・スト, general strike, sluzhashchie)だった。
 当時とその後のボルシェヴィキは、この行動は「妨害行為(sabotage)」だとして否定した。しかし、それは実際には、国の公務員や民間企業の就労者が民主主義の破壊に反対する、巨大で非暴力的な抗議運動だった。(48)
 ボルシェヴィキに人気のなさを知らしめ、統治するのを不可能にさせるのを意図したストライキが、自発的に勃発した。
 そのストライキはすぐに、組織的な構造を形成し始めた。まず初めは、各省庁、国有銀行その他の公的組織のストライキ委員会の形態をとり、次いで祖国と革命の救済委員会(Komitet Spaseniia Rodiny i Revoliutsii)と呼ばれる組織となった。
 この委員会は最初は、都市や町の議会(Duma)の職員、ボルシェヴィキが解散させたソヴェト中央執行委員会の委員たち、全ロシア農民ソヴェトの代表者たち、政府職員組合総同盟、および郵便事業就労者を含むいくつかの労務職員組合で構成された。
 徐々に、左翼エスエルを除くロシアの社会主義諸政党の代表者たちも、これに加わっていった。
 委員会は全国民に対して、強奪者(usurpers)に協力しないこと、民主主義の復活のためにともに闘うことを訴えた。(49)
 〔1917年〕10月28日、委員会はボルシェヴィキに対して、権力を手放すことを要求した。(50)
 (3)10月29日、ペトログラードの政府職員組合総同盟は、この(ストを財政支援すると見られる)委員会と協同して、組合員に対して、業務を止めるよう求めた。
 「ペトログラード政府職員組合総同盟執行委員会は、立憲会議招集の一ヶ月前のボルシェヴィキ一派による権力強奪にかかる問題について全ロシア政府職員組合の代議員と討議したうえで、またこの犯罪的行為がロシアと革命の全成果を破壊せんとしていることを考慮し、かつ祖国と革命救済全ロシア委員会と一致して、つぎのとおり決議する。
 1.政府の全行政部署の業務は、ただちに停止されるべきこと。
 2.軍および国民への食糧供給の問題は、公安秩序維持関係組織の活動の問題とともに、組合総同盟執行委員会との協力のもとで、(祖国と革命)救済委員会によって決定されるものとする。
 3.すでにその業務を停止した行政部署のその行為は、是認される。」(51)
 (4)この訴えは、広範囲の注目を受けた。
 すぐに、ペトログラードの全省庁の業務が止まった。
 伝達員や若干の書記職員を除いて、各省庁の職員たちは、仕事に来なくなったか、やって来ても座って何もしなかった。
 新たに任命されていたボルシェヴィキの人民委員たちは、行き場所がなくて、スモルニュイのレーニンの周りにたたずんだ。そして、誰も注意を払わない命令を発した。
 彼らが担当省庁に入ることは阻止された。
 「10月〔のクー〕初めの後、以前の省庁にやって来た人民委員たちは、山のように積まれた書類やファイルのほか、伝達員、清掃人および門衛の姿だけを見た。
 課長や課員から始まりタイピストや複写担当者まで、全ての職員が、人民委員を認めるのを拒み、仕事から離れることが自分たちの義務だと考えていた。」(52)
 トロツキーは、11月9日-任命されたのち二週間後-に外務省を敢えて訪れたとき、バツの悪い体験をした。
 「昨日、新『大臣』のトロツキーが、外務省にやって来た。
 全職員が集合するよう呼びかけた後で、彼は『私が新しい外務大臣、トロツキーだ』と言った。
 彼は、皮肉な笑いで迎えられた。
 そのことにトロツキーは注意を向けず、仕事に戻るよう職員たちに言った。
 職員たちは去った。…、しかし、自分たちの家へだった。トロツキーが省のトップにとどまっているかぎり、役所には帰って来ないつもりだった。」(53)
 労働人民委員のシュリャプニコフは、自分の省の指揮を執ろうとしたとき、似たような受けとめ方をされた。(54)
 ボルシェヴィキ政府はかくして、権限を掌握した数週間あとで、国の公務員が仕事をするように説得することができない、そのような馬鹿げた状況にいることに気づいた。
 したがって、ボルシェヴィキ政府が機能していたとは、ほとんど言い難い。
 (5)ストライキは、非政府系の組織へも広がった。
 民間銀行は11月1日に早くも入口を閉めており、全ロシア郵便通信従業員同盟は、ボルシェヴィキ政府が連立内閣に道を譲らなければ、業務を停止するよう命令する、との声明を発表した。(55)
 すぐに、電信電話従業員たちが、ペトログラード、モスクワ、および若干の地方都市で、業務をやめた。
 11月2日、ペトログラードの薬剤師たちがストライキに加わった。
 11月7日、水輸送業者たちが、学校の教師たちに追随した。
 11月8日、ペトログラードの印刷業者たちが、かりにボルシェヴィキがプレス布令を実施すれば、やはりストライキをする、と発表した。//
 (6)ボルシェヴィキにとって最も痛かったのは、政府の財務部局、つまり国有銀行と国有財産局の業務が停止したことだった。
 ボルシェヴィキは当面の間は、外務省または労働省の職員がいないままでも何とかやって行けた。しかし、金銭は、持たなければならなかった。
 国有銀行と国有財産局は、ボルシェヴィキは正統な政府ではないという理由で、資金を求めるソヴナルコムの要請を拒否した。
 人民委員の署名付きの小切手をもってスモルニュイから伝達員が派遣されたが、彼らは手ぶらのままで戻って来た。
 銀行と財産局の幹部職員たちは前の臨時政府を承認しており、その代表者にだけ支払いをした。
 彼らはまた、正統な公的組織や軍隊からの要請には応じて支払いをした。
 11月4日、彼らの行動が一般国民の困難をもたらしているとするボルシェヴィキの責任追及に答えて、国有銀行は、その前の一週間に国民と軍隊の需要のために6億1000万ループルを支払った、と宣告した。
 その総額のうち4000万ルーブルは、前の臨時政府に渡っていた。(56)//
 (7)10月30日、ソヴナルコムは国有と民間の全ての銀行に対して、翌日には業務を再開するように命令した。
 政府からの小切手や為替手形の支払いを拒めば、専務理事を逮捕することになる、と警告した。(57)
 この脅かしによって、若干の民間銀行は再開したが、ソヴナルコムが発行した小切手を現金化する銀行はなかっただろう。//
 (8)金が絶対的に必要になって、ボルシェヴィキは苛酷な手段を用いた。
 11月7日、新しい財務人民委員のV. R. メンジンスキー(Menzhinskii)が、武装海兵と一軍団を引き連れて国有銀行に現れた。
 彼は、1000万ルーブルを要求した。
 銀行は、断わった。
 メンジンスキーは、さらに多い兵団と一緒に4日後に姿を見せて、最後通告を発した。現金を20分以内に貰えなければ、国有銀行幹部職員は仕事と地位を失うのみならず、兵役年齢にあるとして徴兵されるだろう。
 しかし、国有銀行は、動じなかった。
 ソヴナルコムは銀行幹部の何人かを馘首した。しかし、政府が責任を引き受けたのち2週間以上の間、現金を手にすることができなかった。//
 (9)11月14日、ペトログラードにある諸銀行の書記従業員たちは、つぎに何をするかの会合をもった。
 国有銀行の従業員は、ソヴナルコムの承認を圧倒的に拒否する票決を行い、ストライキを継続した。
 民間銀行の事務職員たちも、同じ結論を下した。
 国有財産局の職員たちは、142対14の票決を行って、政府の基金をボルシェヴィキが用いるのを拒んだ。彼らもまた、2500万ループルの「短期前渡」の要請を拒絶したのだ。(58)
 (10)このような抵抗に遭遇したボルシェヴィキは、実力行使(force)に訴えた。
 11月17日に、メンジンスキーが国有銀行に再び現れた。伝達人と門衛を除いて、銀行には人けがなかった。
 国有銀行の幹部たちは、武装衛兵によって拘引されていた。
 彼らが金を手渡すのを拒んだとき、武装衛兵たちは金庫を開けるように強いて、メンジンスキーは、そこから500万ルーブルを取り出した。
彼はビロード製鞄でそれを運び、勝ち誇ってレーニンの机の上に置いた。(59)
 こうした活動は全体が、銀行強盗に似ていた。//
 (11)ボルシェヴィキはようやく、国有財産局の現金を利用できるに至った。しかし、逮捕をしていったにもかかわらず、国有銀行職員のストライキは、続いた。
 ほとんど全ての銀行が、業務を止めたままだった。
 ボルシェヴィキ兵団が国有銀行を占拠したが、同銀行は活動しなかった、
 レーニンが1917年12月に、彼の秘密警察、すなわちチェカ(Cheka)を設置したのは、もともとはこの財政担当職員らの抵抗を排除するためだった。//
 (12)当時の調査によると、12月半ばには、外務、教育、法務および供給の各省(人民委員部と改称されている)では業務が静止しており、国有銀行は完全に混乱の中にあった。(60)
 地方諸都市でも、事務系就労者のストライキが起きた。
 11月半ばにモスクワ市庁の職員が、ストを始めた。12月3日には、ペトログラード市の彼らの仲間たちがそれに従った。
 彼らが仕事を中止したことには、共通の目的があった。それは、1905年10月のゼネ・ストを模範として、政府が専制的支配をするのを断念させることだった。
 カーメネフ、ジノヴィエフ、ルィコフ、および若干のその他のレーニンの同僚たちを動かしたのは、この力強い示威運動だった。その他の社会主義諸党と権力を分かち合わなければならない、そうでないと政府は機能することができない、と彼らは考えたのだ。//
 (13)しかしながら、レーニンは、自己の基礎を揺るがすことなく、11月半ばに、反対攻撃をすることを指令した。
 ボルシェヴィキは今や次から次へと、ペトログラードの公的組織の全てを物理的に占拠し、厳しい制裁でもって脅かして、被用者たちが自分たちのために仕事をするように強いた。
 当時の新聞が報告するつぎのような事件が、多くの場所で繰り返された。
 「10月28日(旧暦)、ボルシェヴィキは関税(costoms)関係部署を掌握した。
 占拠した関税部署の指揮官として、ファデネフ(Fadenev)という名の官僚が着任した。
 クリスマス祝日の前夜に、その部署の合同会議に従って、彼は、全員が12月28日に仕事に復帰するよう命令した。登庁しない者は仕事を失い、訴追される可能性がある、と脅かしもした。
 12月28日、その部署の建物は、監察官により占拠された。
 ボルシェヴィキは、「人民委員会議」に完全に服従するとの宣明書に署名する、という意向をもつ職員だけが建物に入るのを許した。」(61)
 関税部署の指揮官は、すぐそのあとで解任され、下級の書記的職員に代わった。
 ボルシェヴィキが中央政府機構を言葉の字義どおりに征圧(conquer)するたびに、同じことが繰り返された。その征圧にはしばしば、早く昇進させるという約束を獲得した若い職員が協力していた。
 ボルシェヴィキは、1918年1月になってようやく、事務系就労者たちのストライキを打ち破った。それは、立憲会議を解散させ、ボルシェヴィキが自発的に譲歩するという望み、あるいは権力を分かち合うという望みすら、全ての希望をボルシェヴィキが断ち切った後でのことだった。//
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 (47) S. A. Fesdiukin, Velikii Oktiabr' i intelligenzia(Moscow, 1972); E. Ignatov in PR, No. 4/75(Moscow, 1928),p.34.
 (48) この事件の物語は、きわめて不適切に隠されている。D. Antoshkin, Professonal'noe dvizhenie sluzhashchikh, 1917-1924 gg.(Moscow, 1927), およびZ. A. Miretskii in A. Anskii, ed., Professional'noe dvizhenie v Petrograde g.: Ocherkib i materialy(Leningrad, 1928), p.231-p.241.を見よ。
 (49) DN, Nos. 191 &192(1917年10月28日); NZh, No. 164/158(1917年10月27日), p.3.
 (50) Revoliutsiia, VI, p.14.
 (51) Volia naroda, No.156(1917年10月29日). Bunyan & Fisher, Bolshevik Revolution, p.225.が引用する。
 (52) VS, No.11(1919年), p.5.
 (53) DN, No. 191 (1917年11月10日), p.3. Bunyan & Fisher, Bolshevik Revolution, p.226.が引用する。
 (54) Protokoly II'go Vserossiskogo S"ezda Kommissarov Truda(1918), p.9 & p.17. M. Dewar, Labour Policy in the USSR(London, 1956), p.17-p.18.
 (55) Revoliutsiia, VI, p.50.
 (56) NZh, No. 178/172(1917年11月11/24), p.3; B. M. Morozov, Sozdanie i ukreplenie sovetskogo gosudarstvennogo apparata(Moscow, 1957),p.52.
 (57) Dekrety, I, p.27-p.28.
 (58) NZh, No. 182/176(1917年11月16/29).
 (59) N. Osinskii in EZh, No.1(1918年11月6日), p.2-p.3. A. M. Gindin, Kak bol'sheviki ovladeki Gosundarstvennym Bankom(Moscow, 1961).も見よ。
 (60) NV, No.6(1917年12月6/18), p.3.
 (61) 同上, No.25(1917年12月30日), p.3.
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 第3節、終わり。第4節の目次上の表題は、<人民委員会議>。第5節は<左翼エスエルとの合致と農民大会の破壊>。第6節は、<立憲会議〔憲法制定会議〕選挙>。

2193/R・パイプス・ロシア革命第12章第2節④。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第12章・一党国家の建設。
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 第2節・レーニン・トロツキー、ソヴェト中央執行委員会への責任から逃れる④。
 (44)このような、またはこれに類似の、とくに経済に関する批判が、ソヴェト大会またはCEC の強い反対派から生じるだろうと予期して、ボルシェヴィキはさらにもう一つの法令を発した。それは、政府とソヴェトの関係の問題に関連していた。
 「法令(laws)の裁可と公布の手続に関して」、その布令は、ソヴナルコムが立法する(legislative)機関として行動する権利を主張した。CEC の権限は、布令(decree)がすでに施行された後で裁可するか廃止するかに、限定される。 
 この布令は、ソヴェト大会がほんの数日前にボルシェヴィキが政府を形成することを権威づけた、その条件を完全に覆すものだった。この布令文書には、レーニンの署名があった。
 しかし、元はメンシェヴィキで9月にレーニン側に移って彼に最も影響を与える経済助言者となったI・ラリンの回想録では、草案を書いてレーニンに知らせることなく自分の権限で発布したのは彼自身だ、と主張されている。また、レーニンは、公式の<官報(Gazette)>で読んで初めて知った、とされている。(36) //
 (45)ラリン=レーニン布令は、立憲会議が招集されるまで効力をもつと主張していた。
 そのときまでは、諸法令は労働者と農民の臨時政府(ソヴナルコム)が立案し、公布される、と宣言されていた。
 ソヴェト中央執行委員会(CEC )は、そのような法令(laws)を遡及して「停止し、変更し、廃止する」権限を維持した。(*)
 ボルシェヴィキは、この布令を根拠として、ボルシェヴィキは、1906年の基本法第87条と同等のものにもとづいて立法(legislate)する権利がある、と主張した。//
 (46)議会という「妨害主義者」から政府を免れされる、この簡素化された手続によって、ゴレムィキン(Goremykin)あるいは旧体制のどの保守的官僚たちも、警戒する気持ちになっただろう。だが、社会主義者たちが「ソヴェト」政権に期待したものでもなかった。
 CEC は、増大する警戒心をもちつつ、このような展開に付いていった。
 ソヴナルコムが行っている、統制がきかない「主人化(bossing)」(<khoziaistvovanie>)による自分の権威への侵害と、その同意がないままでの布令の公布に対して、CEC は異を唱えた。(37)
 (47)この問題は、11月4日の会議の際に頂点に達した。これが、「ソヴェト民主主義」の運命を決めた。
 レーニンとトロツキーは、革命前の帝制時代の大臣たちがそれらの活動の正当性についてドゥーマ〔帝制議会〕からの説明要求に応じていたように、説明するようにCEC に招かれた。
 左翼エスエルは、なぜ政府は第二回ソヴェト大会の意思を何度も侵犯するのかを、知りたかった。その意思によれば、政府は中央執行委員会に対して責任をもつ。
 彼ら左翼エスエルは、布令による統治をやめるよう強く主張した。(38)
 (48)レーニンはこれを、「ブルジョア形式主義」だと見なした。
 彼は長い間、共産主義体制は立法権と執行権をともに結合させなければならない、と考えていた。(39)
 よって、質問がいくらあっても答えることができないし答えようともしなかっただろう。レーニンは、ただちに攻勢に回って、逆襲の空気を醸成した。
 ソヴィエト政府は、「形式的なこと」には拘束され得ない。
 ケレンスキーの怠惰が致命的だったと分かった。
 ケレンスキーの行動に疑問を呈する者は、「議会による妨害主義の弁明者」だった。
 ボルシェヴィキ権力は、「広範な大衆の信頼」に依拠している。(40)
 このいずれも、なぜわずか一週間前に自分が掌握した政府が服すべき条件をレーニンが侵犯しているのか、の説明にはなっていなかった。
 トロツキーは、もう少し実質的な答え方をした。
 ソヴェト議会(ソヴェト大会とその執行委員会の意味)には「ブルジョア」議会とは違って、敵対する階級がない、そのゆえに、「伝統的な議会機構」を必要としない。
 こういう議論が示すのは、階級の差異が存在しなければ見解の違いも存在しない、ということだ。そして、ここから推論することができるのは、見解の違いが意味するのは実際には(ipso facto)「反革命」だ、ということだ。
 トロツキーは続ける。「政府と大衆」は形式的な制度や手続によってではなく、「活力のある、かつ直接的な紐帯」で結びついている。
 ファシストの実務を正当化するために類似の論拠を用いることとなるムッソリーニの先鞭を付けて、彼はこう言った。「我々の布令が穏やかではないのは本当かもしれない。<中略> しかし、活力ある創造性を求める権利は、形式的な完全性よりも優先する」。(41)
 (49)レーニンやトロツキーの見当違いと首尾一貫性のなさにより、CEC の多数派は納得することができなかった。
 ある範囲のボルシェヴィキですら、動揺しているのを感じた。
 左翼エスエルは、鋭く反応した。V. A. カレーリンはこう述べた。
 「『ブルジョア』という語の濫用には異議がある。
 責任(accountability)と詳細にわたる厳格な秩序は、ブルジョア的政府だけの義務なのではない。
 言葉をもて遊び、過ちを粉飾し、ばらばらの不愉快な言葉に迷い込むのは、やめて貰いたい。
 本質的に人民的であるプロレタリア政権は、自己に対する全ての統制を許容するものでなければならない。
 要するに、ある企業を奪い取った労働者たちも、記帳と会計を廃止するまでには至らない。
 頻繁かつ多数の法的な遺漏があるだけではなくしばしば文法的誤りもある布令を急いでこしらえることは、状況をさらに大きく混乱させる。上から付与されるように法令を受容することに慣れている地方では、とくにそうだ。」(42)
 もう一人の左翼エスエルのP. P. プロシアン(Proshian)は、ボルシェヴィキのプレスに関する布令について、「政治的テロルのシステムを明確かつ決定的に表現するものであり、内戦を誘発するものだ」と、叙述した。(43)//
 (50)ボルシェヴィキは、プレス布令の票決で、簡単に勝利した。
 ラリンが提案したその布令を廃止する動議は、24対34、保留1で敗北した。(*)
 このような是認があったにもかかわらず、ボルシェヴィキは、1918年8月までは、諸新聞を沈黙させることができなかった。その8月に彼らは、全ての自立新聞紙と雑誌を排除したのだ。
 そのときまで、ソヴィエト・ロシアには、驚くべきほど多彩な新聞や雑誌があった。その中には、リベラル志向のものもあり、保守的な方向のものもあった。
 重い罰金が課され、その他の方法のために疲れ切っていたが、何とか生き長らえてきたのだった。
 (51)ソヴナルコムのCEC に対する責任については、まだ重要な問題が残っていた。
 ボルシェヴィキ政府はこの問題については、最初から最後まで、信任投票にかけられた。
 左翼エスエルのV. B. スピロ(Spiro)の動議は、こうだ。
 「人民委員会議長の説明を聞いたが、中央執行委員会は、不満足だと見なす」。
 ボルシェヴィキのM. S. ウリツキ(Uritzkii)は、レーニン政権を信任する反対動議で応えた。
 「説明要求に関して、中央執行委員会は、つぎのとおり決議する。
 1.労働者大衆のソヴェト議会は、その手続につき、ブルジョア議会と何ら共通性をもたない。ブルジョア議会には対立する利害をもつ多様な階級が代表されており、支配階級は規約や指示書を立法による妨害物という武器に変えている。
 2.ソヴェト議会は、人民委員会議が中央執行委員会による先行する議論なくして、全ロシア・ソヴェト大会の一般的な基本方針の枠の範囲内で、緊急の布令を発する権利を有することを、拒むことはできない。
 3.中央執行委員会は、人民委員会議の活動に対して一般的な統制を及ぼし、自由に政府とその構成人員を変更するものとする。<以下略>」(44)
 (52)スピロによる不信任動議は、20対25で敗れた。この少ない投票数は、9人のボルシェヴィキの離脱の結果だった。そのうち何人かは人民委員で、この会合で辞任を発表した(上述)。
 この消極的な勝利は、レーニンには十分でなかった。
 彼は、ウリツキの動議の票決で、自分の政府は立法権をもつことが、公式にかつ議論の余地なく、確認されることを望んだ。
 しかし、ボルシェヴィキ幹部たちが突然に躊躇し始めたために、その見込みは疑わしく見えた。
 事前の票読みでは、ウリツキの動議への賛否は、同数だった(23対23)。
 レーニンとトロツキーは、この事態を避けるべく、投票に自分たちも参加する、と発表した。-大臣が立法府の一員となって、承認を求めて提出した法令に賛成を投票するのと同等の行為だ。
 かりにロシアの「議会政治人」にもっと経験があったならば、この茶番劇に参加するのを拒んだだろう。
 しかし、全員がそのままとどまり、投票が行われた。
 ウリツキの動議は、25対23で採択された。決定的な2票は、レーニンとトロツキーによって投じられた。
 二人のボルシェヴィキ指導者は、この単純な手続でもって、立法権限を盗み取り、代表者であるはずのCEC とソヴェト大会を立法機関からたんなる諮問機関へと変えた。
 これは、ソヴィエトの国制(constitution)史上の、大きな分岐点だった。//
 (53)その日遅く、ソヴナルコムは、法令は公式の官報(<労働者と農民の臨時政府公報>)(<Gazeta Vremennogo Rabochego i Krest'ianskogo Pravitel'stva>)に登載されたときに、発効する、という声明文を発表した。//
 (54)ソヴナルコムは今や、事実上は最初からそうだったものに、つまり執行権と立法権を併せもつ機関に、理論上もなった。
 CEC にはしばらくの間は、政府の活動について議論する権利、現実の政策には何の影響も及ぼさなくとも、少なくとも批判する機会があるという権利が、認められた。
 しかし、全ての非ボルシェヴィキが排除された1918年6月-7月以降、CEC は、共鳴機構(echo chamber)に変えられた。ボルシェヴィキ代議員たちが機械的な作業としてボルシェヴィキ・ソヴナルコムの決定を「裁可」した。かつまた、そのソヴナルコムの決定は、ボルシェヴィキ党中央委員会の決定を実施するものだった。(*)
 (55)この日から、ロシアは、布令(decree)によって統治された。
 レーニンは、1905年以前にツァーリが享有した特権を握ることになった。
 レーニンの意思が、法(law)だった。
 トロツキーの言葉によると、「臨時政府は打倒されたと宣言したそのときから、レーニンは、問題が大であれ小であれ、政府として行動した」。(+)
 ソヴナルコムが発する「布令」は、フランス革命期から借用した名称であってロシアの国法上は従前は知られていないものだったけれども、十分に皇帝の<ukazy>に匹敵するものだった。皇帝のそれは、「布令」と同様に、きわめて瑣末な問題からきわめて重大な問題を扱い、専制君主が署名を付した瞬間に効力をもつに至った。
 (I・シュタインベルク(Isaac Steinberg)によると、「レーニンはふつうに、自分の署名は政府の全ての行為を十分なものにしなければならない、と考えていた。)(45)
 レーニンの幹部秘書のボンチ=ブリュエヴィチ(Bonch-Bruevich)は、レーニンが署名するだけで布令は法令たる効力をもった、人民委員の一人が提案して発せられたものであってすら、と書いている。(46)(++)
 このような実務は、ニコライ一世またはアレクサンドル三世にとっては、全く理解可能なものだっただろう。
 ボルシェヴィキが十月のクーから数週間以内に設定した統治のシステムは、1905年以前にロシアを支配した専制体制への逆戻り(reversion)を画するものだった。そしてそれは、間に介在した12年間の立憲主義体制(constitutionalism)を完全に一掃した。 //
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 (36) Iu. Larin, in NKH, No.11(1918年), p.16-p.17.
 (*) Dekrety, I, p.29-p.30. この布令が発布された日付を確定することはできない。ボルシェヴィキの新聞1917年10月1日と11月1日付には掲載されている。
 (37) M. P. Iroshnikov, Sozdanie sovetskoe tsentral'nogo gosudarstvennogo apparata, 2nd. ed.(Leningrad, 1967), p.115. L. H. Keep, ed., The Debate on Soviet Power(Oxford, 1979), p.78-p.79.
 (38) Protokoly zasedanii Vserossiiskogo Tsentral'nogo Ispolnitel'nogo Komitera Rabochikh, Soldatskikh, Krest'ianskikh i KazachHkh Deputatov II Sozyva(Moscow, 1917), p.28.
 (39) レーニン, PSS, XXXIX, p.304-5.
 (40) 同上, XXXV, p.58.
 (41) Protokoly zasedanii, p.31.
 (42) 同上, p.32.
 (43) Revoliutsiia, VI, P.73.
 (*) A. Fraiman, Forpost sotsialistischeskoi revoliutsii(Leningrad, 1969), p.169-p.170.
 ボルシェヴィキは、5名の信頼できる党員でCEC への反映が増加することに対する事前の対抗措置をとった。
 (44) Protokoly zasedanii, p.31-p.32.
 (*) 1919年12月に、CEC に名目上はまだ残っていた若干の権限は、その議長に移された。議長はそれによって、「国家の長」となった。
 元々は継続的なものと考えられていたCEC の会議は、それ以来ほとんど開催されなかった。1921年には、CEC は3回だけ催されている。
 E. H. Carr, The Bolshevik Revolution, I (New York, 1951), p.220-p.230.を見よ。 
 (+) "kak pravitel'stvo": L. トロツキー, O Lenin(Moscow, 1924),p.102. 英語翻訳者はこの文章を間違って、レーニンは「政府がすべきように行動した」と読んだ。: L. トロツキー, Lenin(New York, 1971), p.121.
 (45) I. Steinberg, Als ich Volkskommissar war(Munich, 1929), p.148.
 (46) S. Piontkovskii, in BK, No.1(1934年), p.112.
 (++) 以下で述べるように、これには例外があった。
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 第2節、終わり。第3節の目次上の表題は、<事務系(white collar)労働者のストライキ>。

2191/R・パイプス・ロシア革命第二部第12章第2節③。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第12章・一党国家の建設。
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 第2節・レーニン・トロツキー、ソヴェト中央執行委員会への責任から逃れる③。 
 (29)ボルシェヴィキが翌日につぎのことを知ったとき、この合意によって得たかもしれない安息の気分は、消え失せた。社会主義諸党の支持を受けた鉄道被用者同盟が、ボルシェヴィキはこぞって政府から退くようにという、強い主張を掲げたのだ。  
 まだレーニンとトロツキーを欠いていたボルシェヴィキ中央委員会は、その日のほとんどをこの要求について討議して過ごした。
 きわめて昂奮した雰囲気だった。アタマン・クラスノフが率いる親ケレンスキー軍が、いつ市内に突入しても不思議ではなかったのだから。
 何がしかの救いを求めて、カーメネフは、妥協を提案した。すなわち、レーニンはエスエル指導者のV・チェルノフ(Victor Chernov)にソヴナルコム議長職を譲って退任し、ボルシェヴィキは、エスエルとメンシェヴィキが支配する連立政権での次席的立場を受け容れる。(26)
 (30)その夜にかりに、クラスノフの軍が敗退したという知らせが入って来なかったとすれば、この譲歩はどうなっていたのか、を語るのは困難だ。
 (31)軍事的脅威を取り除いたレーニンとトロツキーは、今ようやく、党中央委員会の「降伏主義」方針が生んだ災難的政治状況に注意を向けた。
 11月1日夕方に中央委員会が再招集されたとき、レーニンは、統制できないほどの激しい怒りで激高していた。(27)
 レーニンは、こう要求した。「カーメネフの方針は、ただちに止められなければならない」。
 中央委員会は、同盟との交渉は「軍事行動をするための外交的粉飾」だとして、それを実施すべきだっただろう。-つまり、想うに誠実さによってではなく、ただケレンスキー兵団に対抗する助力を確保するためだけにでも。
 レーニンの要求に対して、中央委員会の多数派は動かされなかった。
 ルィコフは、勇気を出して、ボルシェヴィキは権力を維持することができない、という見解を語った。
 票決に付された。10名は連立政府に関する他社会主義諸党との会話を継続することを支持した。わずか3名だけが、レーニンの側についた(トロツキー、ソコルニコフ、そしておそらくジェルジンスキー)。
 スヴェルドロフですら、レーニンに反対した。
 (32)レーニンは、屈辱的な敗北に直面した。すなわち、彼の同志たちは十月の勝利の果実を投げ棄てるつもりであり、「プロレタリア独裁」を樹立するのではなく、小さな協力者として「プチ・ブルジョア」諸政党と権力を分有するだろう。
 そのときレーニンを救ったのは、トロツキーだった。トロツキーは、賢い妥協策でもって介入した。
 彼は、譲歩を激しく非難し始めた。こう言った。
 「我々には建設的な仕事をする能力がない、と言われている。
 しかし、かりにその通りだったとすれば、我々は単純に、正しく我々と闘っている者たちに権力を譲り渡すべきだ。
 しかし実際には、我々はすでに多くのことを達成した。
 銃剣に座るのは不可能だ、と我々は言われている。
 しかし、銃剣なくしては、どちらもすることができない。<中略>
 こちら側とあちら側と今はどちらにも立つことのできない全プチ・ブルジョアの屑どもは、ひとたび我々の権威は強いものだと知るならば、(同盟も含めて)我々の方にやって来るだろう。<中略>
 プチ・ブルジョア大衆は、従うべき力(force)を探し求めているのだ。」(28)
 アレクサンドラがニコニライに想起させたかったように、「ロシアは笞打ちを感じるのを愛する」。 
 (33)トロツキーは、時間稼ぎの方策を提案した。連立内閣に関する交渉は、十月のクーを受容する唯一の党である左翼エスエルとの間で継続すべきだ。一方、もう一度やってみて合意に達しなければ、他の社会主義諸党との交渉はやめるべきだ。
 この提案は、窮地から脱するには合理的でない方策だとは思われず、提案は支持された。
 (34)レーニンは、党幹部たちの敗北主義に終止符を打つと決意して、翌日の論争に加わり、中央委員会は「反対派」を非難せよと要求した。
 多数派の意思に反対していたのはレーニンなのだから、これは奇妙な要求だった。
 これに続いた議論で、レーニンは、その反対者たちを何とか分裂させることに成功した。
 反対派を非難する決議が、10対5で採択された。
 結果として、レーニンに最後まで立ちはだかった5人は、諦めた。その5人は、カーメネフ、ジノヴィエフ、ルィコフ、ミリューティン、およびノギンだ。
 11月4日、<イズヴェスチア>は、彼らがその行動を説明するつぎの書簡を掲載した。
 「11月1日、中央委員会は、社会主義ソヴェト政府の設立を目的とするソヴェト(他の)諸党との合意を拒絶した。<中略>
 我々は、さらなる流血を避けるためには、かかる政府の設立がきわめて重要だと考える。<中略>
 中央委員会の主流グループは、ソヴェト諸党から成る政府の設立を許さず、どんな帰結をもたらそうとも、そしてどれだけ多数の労働者や兵士が犠牲となる必要があろうとも、純粋にボルシェヴィキの政府に固執する、という固い決意を明瞭に示す多くの企てを行ってきた。
 我々は、かかる致命的な中央委員会の政策方針に対して、責任をとることができない。その方針は、プロレタリアートと兵団の大多数の意思に反することを追求するものだ。<中略>
 これらの理由で、我々は、労働者大衆および兵士たちに明らかになる前に、我々の見解を防衛する権利を行使すべく、また、我々のスローガン、『ソヴェト諸政党の政権よ、永遠なれ』に対する支持を彼らに訴えるために、中央委員会から離任する。」(29)
 (35)二日のち、カーメネフはCEC 〔ソヴェト中央執行委員会〕の議長を辞任した。
 つぎの4人民委員(11閣僚中)も、同様に辞任した。ノギン(通商産業)、ルィコフ(内務)、ミリューティン(農業)、およびテオドロヴィチ(供給)だ。
 労働人民委員のシュリャプニコフは、書簡に署名していたが、職にとどまった。
 何人かの下位の人民部員のボルシェヴィキ党員も、同様だった。
 辞任する人民委員たちの書簡は、こう書いている。
 「我々は、全ての社会主義諸党による社会主義政府の設立が必要だ、という立場をとる。
 我々は、かかる政府の設立のみによってのみ、10月-11月の日々における労働者階級と革命的軍隊の英雄的闘争の成果を確固たるものにすることが可能だ、と信じる。
 我々は、排他的ボルシェヴィキ政権を政治的テロルによって持続させることだけが唯一の選択肢になっている、と考える。
 これが、人民委員会議が採用した途だ。
 我々は、この途を進むことはできないし、進みたくもない。
 我々は、この途の行き着く先は、政治生活の運営からの大衆的プロレタリア諸組織の排除、無責任体制の構築、そして革命とこの国の破壊だ、と考える。
 我々は、この政策方針に対する責任を負うことができない。よって、CEC に対して、人民委員職の辞任を申し出る。」(30)//
 (36)レーニンは、このような抗議や辞任を受けて、眠られないということはなかった。迷える羊たちはすぐに囲いの中に戻ってくる、という確信があったからだ。そして、実際に、そうなった。
 彼らは、他のどこに行けただろうか?
 社会主義諸党は彼らを追放する。
 リベラル派は、かりに権力を握ったとすれば、彼らを監獄に送り込むだろう。
 右翼政治家たちは、彼らを絞首刑にする〔=吊す〕だろう。
 彼らが肉体的に生存しつづけること自体が、レーニンの成功にかかっていたのだ。//
 (37)ボルシェヴィキ党中央委員会が採択した決定は、年下の同僚およびボルシェヴィキの決定にめくら判を捺す者という役割に甘んじるつもりのある政党とだけ、権力を共有する、ということを意味した。
 ボルシェヴィキが数人の左翼エスエルが内閣に加わることを許容した4ヶ月間(1917年12月~1918年3月)を除いて、いわゆるソヴィエト政府は、ソヴェトの構成を決して反映しなかった。ソヴェトを外面上だけ偽装した、ボルシェヴィキ政権のままだったのだ。
 (38)レーニンは今や、対抗する社会主義諸党による権力共有の要求を斥けることができた。
 しかし、彼はなお、自分の閣僚たちが責任を負うべきソヴェト議会だ、というCEC の変わりない主張に、対処しなければならなかった。//
 (39)ボルシェヴィキが十月に摘み取ったCEC は、自分たちは社会主義ドゥーマであって、政府の活動を監視し、内閣を任命し、そして立法する権能をもつ、と考えていた。(*)
 CEC は、10月のクーのあとに、規約を作成する作業を進めた。その規約では、総会、議長、多様な種類の委員会等の綿密な構成を定めていた。
 レーニンは、このような議会たる装いを馬鹿げたものだと考えた。
 最初の日から、彼は、政府官僚の任命と布令の発布のいずれについても、CEC を無視した。
 このことは、レーニンがCEC の新しい議長を選定した無頓着なやり方で、よく分かる。
 彼は、スヴェルドロフがカーメネフに替わる最良の人物だと決めた。
 CEC が自分の選択を承認することを疑う理由は、彼にはなかった。
 しかし、簡単に通過するという絶対的な自信はなかったので、スヴェルドロフを呼び出した。
 レーニンは言った。「イャコブ・ミハイロヴィチ、きみにCEC の議長になってもらいたい、どう思う?」
 スヴェルドロフは、明らかに同意した。レーニンが、中央委員会がこの選択に同意した後で、CEC のボルシェヴィキ多数派によって「注意深く」票決されるだろう、と約束したからだ。
 彼はスヴェルドロフに、頭数を計算して、ボルシェヴィキ派全員が確実に投票に向かうようにすることを指示した。
 計画したとおりに、11月8日に、スヴェルドロフは19対14で「選出」された。(*)
 スヴェルドロフが1919年3月に死ぬまで就いたこの地位によって、ボルシェヴィキ党の決定の全てをおざなりの議論の後でCEC が裁可することが、確実になった。//
 (40)レーニンは、内閣から去った人民委員の補充者の選択についても、同様にCEC を無視した。
 彼は新しい人民委員を、同僚たちと適当に相談して、しかしCEC の承認を求めることなく、11月8-11日に選任した。//
 (41)彼がまだ対処しなければならなかったのは、CEC の立法権能とCEC がもつ政府の布令に同意したり拒否したりする権利という重大な問題だった。
 新体制の最初の数週間では、CEC 議長のカーメネフは、突然に招集し、事前に議題を示さないことで、ソヴナルコムをCEC から守った。
 この短い期間、ソヴナルコムはCEC の承認を得るという面倒なことをしないで、立法(legislate)した。
 実際のところ、この当時の政府の手続は杜撰なものだったので、内閣の一員ですらないボルシェヴィキ党員の何人かは、ソヴナルコムに対して知らせることもなく、自分たちが提案して布令を発していた。ソヴェトの執行部に対しては、言うまでもない。
 このような二つの布令が、国制上の危機を発生させた。
 第一のものは、新政府の最初の日である10月27日の、プレスに関する布令だった。
 この布令は、ほとんど確実にレーニンの激励と同意のとでルナチャルスキーが起草したもので、レーニンが署名していた。(+)
 この注目すべき布令文書は、「反革命プレス」は害悪をもたらす。そのゆえに、「一時的かつ緊急的な手段によって、卑猥さと誹謗中傷が撒き散らされないように措置がとられなければならない」と規定した。-ここでの「反革命プレス」という言葉は定義されていないが、明らかに、十月のクーの正統性を承認しない全ての新聞に適用されるものだった。
 新政権に反対して煽る新聞紙は、閉刊されることとされた。
 布令はこう続ける。「新しい秩序が堅く確立されるやただちに、プレスに影響を与える全ての行政上の措置は撤廃され、プレスには完全な自由が保障される」。//
 (42)この国は、1917年2月以降、新聞や印刷工場の暴力的破壊に慣れてきていた。
 第一に、「反動的」プレスが攻撃され、廃刊となった。
 のちの7月に、同じ運命がボルシェヴィキ機関紙に降りかかった。
 ボルシェヴィキは、ひとたび権力を握るや、このような実務を拡張し、かつ公式化した。
 10月26日、〔トロツキー議長のペトログラード〕軍事革命委員会は、反対党派のプレスに対して組織的大暴虐(pogrom)を実行した。
 軍事革命委員会は非妥協的反ボルシェヴィキの<Nashe obschee delo>の刊行を禁止し、その編集長のV・ブルツェフ(Vladimir Burtsev)を逮捕した。
 同じように、メンシェヴィキの<Den'>、カデットの<Rech'>、右翼の<Novoe vremia>、中道右派の<Birzhevye vedomosti>を弾圧した。
 <Den'>と<Rech'>の印刷工場は没収され、ボルシェヴィキの報道者たちに譲り渡された。(32)
 弾圧された日刊紙のほとんどは、すみやかに名前を変えて、再び現れた。
 (43)プレスに関する布令は、さらに進んだ規定をもっていた。
 施行されれば、ロシア全土から、その起源がカトリーヌ二世の時代に遡る独立したプレスが廃絶することになっただろう。
 激しい怒りが、一斉に巻き起こった。
 モスクワでは、ボルシェヴィキが支配する軍事革命委員会が、11月21日に、非常事態は過ぎ去った、プレスは再び表現の完全な自由を享受すると宣告して、抑圧をとりやめるにまで至った。(33)
 CEC では、ボルシェヴィキのI・ラリン(Iurii Larin)が布令を批判し、その撤回を呼びかけた。(34)
 1917年11月26日、文筆家同盟は一度だけの新聞<Gazeta-Protest>を発行し、その中で何人かの指導的な作家たちが、表現の自由を窒息させようとする前例のない企てに対して、怒りを表明した。 
 V・コロレンコ(Vladimir Korolenko)は、レーニンの<ukaz>を読んだとき、恥ずかしさと憤りで顔が血に染まった、と書いた。
 「(ポルタヴァ〔Poltava〕の)共同体の構成員であり読者である私から、いったい誰がいかなる権利でもって、最近の悲劇的時期の間に何が首都で起こっているかを知る機会を奪ったのか?
 またいったい誰が、作家である私が、検閲者の是認を受けないままで、こうした事態に関する私の見解を仲間の市民たちに自由に表現する、そのような機会を妨害しようと考えたのか?」(35)
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 (26) Protokoly TsK, p.271-2. L. Schapiro, The Origin of the Communist Autocracy〔共産主義専制体制の起源〕, 2ed ed., (Cambridge, Mass., 1977)によると、会合の詳細は中央委員会の発表された記録から削除された。それは、L. トロツキーのStalinskaia shkola fal'sifikatsii (Berlin, 1932), p.116-p.131で見ることができる。Oktiabr'skoe vooruzhennoe vosstanie, II(Leningrad, 1967), p.405-p.410も見よ。
 (27) Protokoly TsK, p.126-7.
 (28) トロツキー, Stalinskaia shkola fal'sifikatsii, p.124.
 (29) Izvestiia, 11月 4/17, 1917. Protokoly TsK, p.135から引用。
 (30) Revoliutsiia, VI, p.423-4.
 (31) V. D. Bonch-Bruevich, Vospominaniia o Lenine(Moscow, 1969), p.143.
 (*) このとき左翼エスエルは、彼に反対投票をした。Revoliutsiia, VI, p.99.
 (+) Dekrety, I, p.24-p.25. ルナチャルスキは、I・ラリンによって、執筆者だと信じられている。NKh, No. 11(1918年), p.16-p.17.
 (32) A. L. Fraiman, Forpost sotsialistischeskoi revoliutsii(Lenigrad, 1969), p.166-7.
 (33) Revoliutsiia, VI, p.91.
 (34) Fraiman, Forpost, p.169.
 (35) Korolenko, "Protest", in Gazeta-Protest Souiza Russkikh Pisateli, 1917年11月26日.この文書の写しは、フーヴァー研究所で利用できる。
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 第2節④へとつづく。

2185/R・パイプス・ロシア革命第12章第2節②。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第12章・一党国家の建設。
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 第2節・レーニン・トロツキー、ソヴェト中央執行委員会に対する責任を免れる②。 
 (12)1917-18年の冬、かつてのロシア帝国の住民大衆は、物的資財だけを分け合ったのではなかった。  
 彼らは、600年の歴史発展の所産であるロシア国家をも分裂させた。国家主権それ自体が、<duvan>の対象となった。
 1918年の春までに、世界最大の国家は、数え切れないほどの重なり合う団体に分離した。大小はあれ、それぞれが自らの領域を支配する権威をもつことを主張し、制度的な結びつきによっては、さらには共通する運命の意識ですらによっても、他者と連結することがなかった。
 数カ月のうちに、ロシアは政治的には、中世初期に戻った。当時のロシアは自己統治をする公国の集合体だったのだ。//
 (13)最初に分離したのは、国境諸国の非ロシア人たちだった。
 ボルシェヴィキ・クーの後、少数民族が次から次へと、ロシアからの独立を宣言した。一つに民族の熱望に気づいたことによって、二つにボルシェヴィズムと差し迫る内戦から逃れるために。
 彼らは、それを正当化するために、「ロシアの諸民族の権利の宣言」を指し示すことができた。この宣言は、ボルシェヴィキがレーニンとスターリンの署名にもとづいて、1917年11月2日に発したものだった。
 全てのソヴェト制度を前もって承認することなしに公にされたもので、ロシアの人民に対して、「独立国家を分離させ形成する権利を含む、自由な自己決定」を認めていた。
 フィンランドが、独立を宣言する最初の国家となった(1917年12月6日/新暦)。
 それに続いたのは、リトアニア(12月11日)、ラトヴィア(1918年1月12日)、ウクライナ(1月22日)、エストニア(2月24日)、トランス・コーカサス(4月22日)そしてポーランド(11月3日)(日付は全て新暦)だった。
 これらの分離によって、大ロシア人が居住する地域に対する共産主義の支配は減少した。-すなわち、17世紀半ばのロシアに戻った。
 (14)離脱の過程が進んだのは、国境諸国に限られなかった。遠心力的な力は、大ロシア内部でも発生した。
 州(province)は相次いで独自の道を進み、中央権力からの自立を要求した。
 こうした過程は、「全ての権力をソヴェトへ」という公式のスローガンによって促進された。これは、多様なレベルでの地域的なソヴェトが主権を要求するのを許容するものだった。-地域(oblast')、州(guberniia)、地区(uezd)、そしてvolost' や<selo> においてすら。
 その結果は、混沌だった。
 「市ソヴェト、村ソヴェト、selo ソヴェト、そして郊外区ソヴェトがあった。
 これらソヴェトを自分たち以外の誰も承認しなかった。そして、承認したとするならば、自分たちに有利なことがたまたま生じた『地点にまで』達したからだった。
 各ソヴェトは、直接的な周囲の条件が命じるとおりに、そしてそれが行うことができ望むとおりに、活動し、闘争した。
 それらには、全く、または事実上は全く…ソヴェト的官僚機構がなかった。」(16)
  (15)何がしかの秩序を生み出す試みとして、ボルシェヴィキ政府は、1918年春に、<oblasti>と呼ばれる領域的機構を設立した。
 これらは、いくつかの州で構成され、準主権的地位を享有するもので、つぎの6つがあった。(*)
 ①付属の9州をもつモスクワ、②エカテリンブルクを中心とするウラル、③首都ペトログラードを含む7州を包括する「北部労働者コミューン」、④スモレンスクを中心とする北西部、⑤中心にオムスクがある西シベリア、⑥イルクーツクを基地とする中央シベリア。
 各oblasti は自らの行政府をもち、ソヴェト大会を開催した。
 その中には、自分たちの人民委員会議をもつものもあった。
 1918年2月に開催された中央シベリア地域のソヴェト大会は、ソヴィエト政府がドイツとの間に締結しようとしていた講和条約を拒否し、独立性を主張して、自らの外務人民委員を任命した。(17)
 (16)あちこちの<gubernii>は「共和国」だと宣言した。
 そうしたのは、カザン、カルガ、リャザン、ウファ、およびオレンブルクだった。
 バシュキールやヴォルガ・タタールのような、ロシア人の中で生活している非ロシア人たちのいくつかも、民族共和国を設立した。
 ある集計では、消滅したロシア帝国の領域に、少なくとも33の「政府」が存在した。(18)
 中央の政府はしばしば、布令や規則を施行するために、これら短命の機構の助力を求めなければならなかった。
 (17)地域や州は、それに代わって次々と、下位組織へと分解した。その中では、volost' が最も重要だった。
 volost' の活力は、農民たちにはこれが利用地が配分される最大の区域だった、ということにもとづく。
 原則として、一つのvolost' の農民たちは、奪い取った資産を隣のvolosti 〔複数〕と共有するのを拒否しただろう。その結果として、この小さな数百の地域は、事実上は、自治的な領地となった。
 マルトフは、つぎのように観察した。
 「我々はつねにこう指摘してきた。『全ての権力をソヴェトへ』のスローガンが農民たちや労働者階級の後れた階層に人気があるのは、かなりの程度で、付与された領域についての地方労働者や地方農民の優先権という原始的な考えとこのスローガンを結びつけている、ということで説明することができる。
 彼らはほとんど、労働者支配というスローガンを、付与された工場の奪取という考えと同一視しているし、農業革命というスローガンを、付与された土地を既存の村落が排他的に利用するという考えと同一視している。」
 (18)ボルシェヴィキは分離した国境諸国を元に戻すべく軍事攻撃を行ったが、何度かは成功しなかった。
 しかし、全体としてさしあたりは、大ロシア内部での遠心力的趨勢に干渉しなかった。それは、そうすれば直接的な反抗を促進させ、旧来の政治的かつ経済的なシステムを完全に破壊することになったからだ。
 この趨勢はまた、共産党がその権力を確固たるものにする以前に、その共産党に立ち向かう強い国家装置が出現することをも、妨げた。
 (19)1918年3月、政府は、ロシア・ソヴェト社会主義連邦共和国(RSFSR)憲法を承認した。
 レーニンはこの文書の起草を、スヴルドロフを長とする、法的専門家たちの委員会に任せていた。最も熱心な委員たちは左翼エスエルで、彼らは、1871年のフランス・コミューンをモデルにして、中央集権的国家をソヴェトの連邦に変えようと望んでいた。
 レーニンは、彼らの考えは中央指向という自分の目標とは全く逆ではあったが、邪魔しないで放任した。
 彼は、行政に関する詳細なことについて、どの兵士たちがスモルニュイの自分の役所を護衛するかを決定することに至るまで、綿密な注意を払った。しかし、憲法委員会の議論には外部者であり続け、その作業の結果を概読したのみだった。
 ここには、成文憲法に対するレーニンの蔑視が示されていた。彼の目的にとってふさわしいのは、党による統制という秘密の心棒を隠すために、国家構造が緩やかで準アナーキーな外面をもつことだった。(20)
 (20)1918年憲法は、ナポレオンの規準に合致していた。ナポレオンはこう言った。良い憲法は、短くて、紛らわしい、と。
 ロシア憲法の最初の条項は、ロシアは「労働者、兵士および農民代表ソヴェトの共和国」だと宣言した。
 「中央および地方の全ての権力」はソヴェトに帰属する。(21)
 こうした条項の定めは、解答のない疑問を惹起させる。これらに続く条項は、中央と地方の間の、あるいは各ソヴェトの間の権力の分割を明確には規定していないからだ。
 第56条によると、「管轄区域の範囲内で、各ソヴェト(地方、州、地区およびvolost' )の大会は、最高の権威である」。
 しかしながら、各地方はいくつかの州を包含し、各州は多数の地区とvolosti をもつのだから、この原理は、無意味だった。
 さらに複雑にしていることだが、第61条はソヴェト大会が最高の権威だとする原理と矛盾していた。同条は、地方ソヴェトは地方問題にだけ権能を限定し、「ソヴィエト政府の最高機関」の命令を実施することを要求していたからだ。
 (21)1918年憲法の欠陥を異なる領域的段階でのソヴェト当局の権能の問題に特殊化してしまえば、それは、ボルシェヴィキは深刻な禁止の問題として把握していなかったことを強調するにすぎないだろう。
 そうであったとしてすら、ボルシェヴィキは、遠心力的趨勢を憲法上是認することによって、その趨勢を強めたのだ。(*)
 (22)完全な行動の自由を得るために、レーニンはすみやかに〔ソヴェト〕中央執行委員会(CEC)〔イスパルコム〕に対する責任(accountability)から逃れなければならなかった。
 (23)ボルシェヴィキが提案して、第二回ソヴェト大会は、古いイスパルコムを解任し、新しくそれを選出した。そのうちボルシェヴィキは、58パーセントの議席を占めた。
 この編制によって、一団として投票するボルシェヴィキ派がどんな提案に対しても採択したり却下したりすることができることとなった。しかし、ボルシェヴィキは依然として、左翼エスエルおよびメンシェヴィキという騒々しい少数派と競い合う必要があった。
 エスエルとメンシェヴィキは十月のクーの正統性を承認するのを拒否し、ボルシェヴィキが政府を形成する権利を持つことを否定した。
 左翼エスエルは、十月クーを受け容れた。しかし、彼らはあらゆる種類の民主主義的幻想に嵌まっていて、その一つは、ソヴェトに代表される全ての政党から成る連立政権だった。
 (24)ボルシェヴィキが口先でだけ呟いていた原理を、ボルシェヴィキ以外の少数派は真面目に考えていた。それは、CEC〔ソヴェト中央執行委員会〕は内閣の構成やその活動に関して最終的な拒否権をもつ社会主義的立法府だ、という原理的考えだった。
 この権能をCECが有するのは、ソヴェト第二回大会のつぎの決議によっている。それは、レーニン自身が草案を書いたものだった。
 「全ロシア労働者、兵士および農民代議員ソヴェト大会は、こう決議する。
 立憲会議以前の国の行政を行うために、労働者および農民の臨時政府を設立し、それを人民委員会議と称する。<中略>
 人民委員会議の活動を統制(controll)することおよび人民委員会議を交替(replace)させる権利は、全ロシア労働者、兵士および農民代議員大会およびその中央執行委員会に授与される。」(22)
 これほどに明確なものはない。
 それにもかかわらず、レーニンは、この原理をすっかり放擲して、CEC からまたはその他のいかなる外部機関からも独立した内閣を作ると、堅く決めていた。
 彼が国家の長になってから10日以内に、これは達成された。
 (25)ボルシェヴィキとCEC の間に歴史的な対立が起きたのは、後者が他の社会主義諸政党も含めるようにソヴナルコムを広げるべきだとボルシェヴィキに対して強く主張したことによってだった。
 全政党が、ボルシェヴィキが閣僚ポストを全て独占することに反対した。要するに、ソヴェトを代表すべくソヴェト大会で選出されたのであって、自分たちだけの代表ではない。
 この反対論はボルシェヴィキ・クーの3日後には表面化し、危険な様相を帯びた。その日、ロシア最大の労働組合である鉄道被用者同盟が、社会主義政党の連立を要求する最後通告書を提出したのだ。
 1905年10月に記憶を辿らせた者は誰もが、鉄道ストライキがツァーリ体制の崩壊について果たした決定的役割を思い出しただろう。
 (26)全国に数十万の組合員を有する鉄道同盟は、輸送を麻痺させる力を持っていた。
 同盟は、1917年8月にはケレンスキーを支持し、コルニロフに反対した。
 10月には、最初は「全ての権力をソヴェトへ」というスローガンに賛成した。しかし、幹部たちがボルシェヴィキが利用しているこの語の使い方に気づくや否や、反対に回り、ソヴナルコムは連立内閣に譲れと主張した。(23)
 10月29日、同盟は、政府がすみやかに社会主義諸党を含めるように拡張されなければ、ストライキを命じる、と宣言した。
 これは、ボルシェヴィキにとって重大な脅威だった。ケレンスキーの反攻に備えていたボルシェヴィキには、兵団を前線に送るためには鉄道列車が必要だったのだから。
 (27)ボルシェヴィキは、中央委員会を開いた。
 ケレンスキーに対する防衛を組織化するのに忙しかったレーニンとトロツキーは、出席できなかった。
 二人のいない中央委員会は、一種のパニック状態にあり、同盟の要求に屈服し、「他の社会主義諸党を含めることによって政府の基盤を拡張する」必要性を認めた。
 ボルシェヴィキ中央委員会はまた、ソヴナルコムはCEC が作り出すものであり、CEC に対して責任を負うことを、再確認した。
 その中央委員会は、新しい臨時政府の設立について同盟や他党との交渉をさせるべく、カーメネフとG. Ia. ソコルニコフを代表として派遣した。(24)
 この決定は、本質的には、十月のクーで獲得した権力を譲り渡すことを意味した。//
 (28)その日おそく(10月29日)、カーメネフとソコルニコフは、鉄道被用者同盟が招請していた、8政党と若干の党内組織との会合に出席した。
 ボルシェヴィキ中央委員会決定に従って、彼らは、第二回ソヴェト大会を受容することを条件として、エスエルとメンシェヴィキがソヴナルコムに入ることに同意した。
 その会合は、ソヴナルコムの再構成の時期等を検討する委員会を任命した。
 同盟による最後通告に合致したので、その夜に同盟は、ストライキの中止と警戒しつづけることを各支部に命令した。(25)
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 (16)V. Tikhomirnov in VS, No.27(1918年), p.12.
 (*)Eltsin in VS, No. 6/7(1917年5月), p.9-p.10.
 この著者は、中央委員会と政府の指令にもとづいて作成されたこの文書は「ロシア諸国を集合させる」過程を開始するものだ、と主張する。この言葉は伝統的には近代初期のモスクワに当てはまるものだ。
 (17)Pietsch, Revolution, p.77.
 (18)J. Bunyan & H. H. Fischer, The Bolshevik Revolution, 1917-18: Documents and Materials(Stanford, Calif., 1934), p.277.
 (19)L. Martov in Novyi luch, No. 10/34(1918年1月18日), p.1.
 (20)Pietsch, Revolution, p.80.
 (21)S. Studenikin, ed., Istoria sovetskoi konstitutsii v dekretakh i postanovleniiakh sovetskogo pravitel'stva 1917-1936(Moscow, 1936), p.66.
 (*)こうした趨勢は、政府が地方ソヴェトへの財政援助を拒否したことで弱くなった。
 ペトログラード〔中央政府〕は1918年2月、地方ソヴェトからの財源要請に答えて、富裕階級への「仮借なき」課税によって財源は獲得すべきだ、と伝えた。これにつき、PR, No. 3/38(1925年), p.161-2.
 この指令によって地方政府は、それぞれの地域の「ブルジョアジー」に対して恣意的に「寄付金」を課すこととなった。
 (22)Dekrety, I, p.20.
 (23)A. Taniaev, Ocherki po istorii dvizheniia zheleznodorozhnikov v revoliutsii 1917 goda (Fevral'-Oktiabr')(Moscow-Leningrad, 1925), p.137-9.
 (24)Protokoly Tsentral'nogo Komitera RSDRP(b): August 1917-Fevral'1918(Moscow, 1958), p.272. およびRevoliutsiia, VI, p.21.
 (25)Revoliutsiia, VI, p.22-23. P. Vompe's Dni oktiabrskoi revoliutsii izheleznodorozhniki(Moscow, 1924). これは、鉄道被用者と労働者の会合の詳細を内容としていると言われているが、私には利用できなかった。
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 ③へとつづく。

2182/R・パイプス・ロシア革命第12章第2節①。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。つぎの章に進む。
 第12章・一党国家の建設。
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 第2節・レーニンとトロツキーがソヴェト中央執行委員会に対する責任を免れる①。
 (1)ボルシェヴィキが決して疑わなかったのは、党はソヴィエト政府を駆動させるエンジンでなければならない、ということだった。
 レーニンが1921年の第10回党大会で「我が党は政権政党であり、党大会が採択した決定は共和国全体にとっての義務となる」と述べたとき(7)、その内容はたんに自明のことにすぎなかった。
 スターリンが数年後にこう述べたとき、党の国制上の優越性をさらに明確に示していた。「わが国では、党による指示なくしては、我々のソヴェトも大衆組織も、重要な政治上および組織上の問題を何一つ決定することができない」。(8)
 (2)だがなお、承認された公然たる権威を持ったにもかかわらず、ボルシェヴィキ党は1917年以降、かつてそうだったもの-すなわち私的団体-のままだった。
 1918年のソヴィエト憲法も1924年のそれも、党には何ら言及しなかった。
 党が国制上の文書で最初に言及されたのは、1936年のいわゆるスターリン憲法でだった。その126条は党をこう定義した。「社会主義秩序の強化および発展を目ざす労働者の闘争の前衛」、「統治上および社会上の、労働者の全組織の指導的中核」。
 法制定に際して最も重要なことに言及しないのは、多くはロシアの伝統だった。ツァーリ絶対主義はその最初でむしろ偶然的な定義をピョートル大帝の「軍事法令」のうちに見出したのだったが、それはこの国の中心的な政治的現実となったあと二世紀のちのことで、基本的な社会的現実である隷従制は、法的な承認を受けることがなかった。
 1936年まで、党は自らのことを、手本を示して鼓舞することで国を指導する超越的な力だと考えていた。
 かくして、1919年に採択された党綱領は、党の役割はプロレタリアートを「組織」し「指導」して、階級闘争の性格をプロレタリアートに「説明」することにあると定義した。その際に、党は他の全てと同じく「プロレタリアート」も支配するということは一度なりとも示唆しなかった。
 ソヴィエト・ロシアについてもっぱらその当時の公式文書で得る知識から理解する人々はみな、国の日常生活に対する党の関与について少しも知らないだろう。それこそが、ソヴィエト同盟を世界の他国の全てと分かつのだけれども。(*)
 (3)こうして、権力掌握後もボルシェヴィキ党は私的な性格を維持し、そのことによっても、やがて国家と社会の完全な支配者になった。
 結果として、党の規約、手続、決定および党員たちは、外部からの監督に服さなかった。
 カーメネフが1920年に行った言明によると、圧倒的に非ボルシェヴィキの人々から成る(9)ロシアを「統治」した60万ないし70万の党員たちは、政党ではなくむしろ軍団(cohort)に類似していた。(+)
 党による統制から他の全てが免れることはできなかった一方で、党もまた自分に対する統制を承認しなかった。党は自ら自己を抑制しかつ自己に責任を負ったのだ。
 このことは、共産主義理論家たちがかつて満足には説明することのできなかった異様な状況を生み出した。
 というのは、ルソーが、「全員の意思」といくぶんかは異なる、各人全ての意思を表現するために言った「一般意思」のごとき形而上学的観念を参照することでのみ、それは可能だろうからだ。
 (4)党の役割は、ボルシェヴィキがロシアを征圧しその代理人を国家諸装置の責任者として配置した3年の間に、急激に大きくなった。
 1917年2月、ボルシェヴィキ党には2万3600人の党員がおり、1919年には25万人、1921年3月には73万人(候補も含む)になった。(10)
 新加入者のほとんどは、ボルシェヴィキが内戦に勝利しそうに見えたときに、ロシアで国家業務に伝統的に結びついている利益を求める資格を得るために、入党した。
 急激に膨張したこの数年間の間、党員は最低限度の住宅、食糧および燃料が保障された。よほど悪辣な犯罪行為を行った場合のほとんどを除いて、政治警察による拘束から免れたことは言うまでもない。
 党員だけは、武器を携帯することが許された。
 レーニンは、もちろん、新加入者のほとんどは出世主義者で、彼らの収賄、窃盗、および民衆に対する苛めは党の評価に有害となるものではない、と分かっていた。
 しかし、全ての権威を獲得しようとしていたので、適切な社会的資格があり、命令を疑問視も躊躇もしないで忠実に履行する気持ちがある者ならば、誰でも入党させる以外に選びようがなかった。
 レーニンは同時に、党と政府の重要な地位を、地下活動時代の老練党員である「古い軍団」のために空けておくことを確実にした。
 1930年には、諸共和国の中央委員会の書記局や地方の(oblast' やKrai の)委員会の69パーセントが、革命以前からの党員だった。(11)
 (5)1919年半ばまで、ボルシェヴィキ党は地下活動時代の非定型的構造を維持した。
 しかし、党員数が増加するにつれて、非民主主義的な実務が制度化された。
 中央委員会は党の権限の中核のままだったが、その委員たちは特別の任務を帯びて急いで全国を周っていたために、実際には、通常はたまたま存在した数人の委員たちによって決定がなされた。
 暗殺を怖れてほとんど旅行しなかったレーニンは、ずっと議長を務めた。
 レーニンは、国家の独裁者として実力による強制やテロルを重んじたけれども、軍団の内部では説得することを選んだ。
 意見か合わないことを理由に党外に排除するということは、決してしなかった。
 いくつかの重要な問題について多数の賛成を獲得することができないときには、彼は辞任すると言って脅かして、自分の意見を通した。
 一度か二度、屈辱的な敗北を喫しそうになったが、その際に彼を救ったのは、ただトロツキーの介入だった。
 数回は、賛成ではない政策を黙認しなければならなかった。
 しかしながら、1918年の末までには、誰もレーニンに反対しない状態にまで、彼の権威は増大した。
 過去にしばしばレーニンと論争したカーメネフは、1918年秋にスハノフ(Sukhanov)にこう語ったとき、多数のボルシェヴィキ党員に対して述べていた。
 「レーニンは決して誤りを冒さないと、ますます確信するに至った。
 最後には、彼はつねに正しい。
 見通しや政治方針について、彼は過ったと思ったときが何度あっただろうか。-しかし、つねに、最後には、彼の見通しや方針は正しかったことが判った。」(12)
 (6)レーニンは、その最も親密な仲間たちの間ですら、論議することにほとんど寛容さがなかった。
 典型的には内閣の会議で、彼は文書束を捲り、議論に再び加わって政策を決定したものだ。
 1917年10月から1919年春まで、彼は不可欠の助け手であるI・スヴェルドロフ(Iakov Sverdlov)と協力して、政府はもとより党に関する、多数の決定を下した。
 文書整理箱のような頭をもつスヴェルドロフは、名前、事実その他の必要な情報をレーニンに与えることができた。
 スヴェルドロフが病気になって1919年3月に死んだ後、中央委員会は再構成されなければならなかった。このときに、政策を指導するために政治局、組織運営(adminirtration)を担当する組織局、そして党員の世話をする(manage)書記局が、それぞれ設置された。
 (7)内閣またはソヴナルコムは、二重の権能を行使する党の高官たちで構成された。
 党中央委員会を指揮するレーニンはソヴナルコムの議長でもあり、これは首相(Prime Minister)と同じことだった。
 原則として、重要な決定はまず初めに中央委員会または政治局で行われ、その後で、討議と補足のために内閣の議案とされた。その閣議には、非ボルシェヴィキの専門家も、しばしば出席した。
 (8)もちろん1億人以上の住民がいる国では、もっぱら党員層だけに依拠して、国内の社会的、経済的、政治的秩序を「粉砕」するのは不可能だった。
 「大衆」を統御(harness)する必要があった。しかし、多数の労働者と農民は社会主義やプロレタリアート独裁に関して何も知らなかったために、彼ら多数の最も狭い意味での利害に訴えて、行動するよう彼らを刺激しなければならなかった。
 ペトロニウスの<サテュリコン>、古代ローマの日常生活を描いたあの独特の小説だが、その中には、ボルシェヴィキが権力掌握をした最初の頃に追求した、その政策にきわめて関係が深い文章がある。
 「詐欺師、あるいは掏摸は、群衆の中の犠牲者を引っ掛けるために、音が鳴る鞄を入れた小さな箱を路上に落とさずに、どうやって生き抜けるだろうか?
 物言わぬ動物は、食い物の罠で捕らえられる。人間は、何かにかじり付くということがなければ、捕らえることができない。」
 これは、レーニンが本能的に理解していた原理だった。
 権力を握ったレーニンは、「<Grabi nagrablennoe>」(「略奪し尽くせ」)というスローガンのもとで、ロシア全体の富を全住民に譲り渡した。
 人民が「かじり付く」のに忙しくしている間に、彼は、政治的対抗者を処分した。
 (9)ロシア語には、<duvan>という言葉がある。これはコサック方言を経由したトルコ語から借用したものだ。
 この言葉は、強奪品が分配された物を意味している。南ロシアのコサック団がトルコ人やペルシャ人の居留地を襲った後で用いた分配物のような物のことだ。
 1917-18年の秋から冬にかけて、ロシアの全てはこの<duvan>の対象になった。
 主な生活必需品は農業用土地に分配されるものとされ、10月26日の土地布令は、共同体の農民にそれを与えた。
 各共同体がそれぞれに設定した規準によると、各世帯へのこの配分によって、1918年の春に入るまで農民たちは充分に生活することができた。
 農民たちはこの期間に、かつてそうだったほどには、政治への関心を持たなくなった。//
 (10)同様の過程は、工業や軍隊でも生じた。
 ボルシェヴィキは最初は、工業施設の運営を工場委員会に委ねた。この委員会の労働者や下層事務員たちは、サンディカリガムの影響を受けていた。
 工場委員会は所有者や管理者を排除して、経営権を奪い取った。
 だが、委員会は、工業施設の資産を横領する機会を利用して、原料や装備はむろんのこと、利潤もまた自分たちで分け合った。
 当時の論者によると、「労働者管理」は実際には、「与えられた工業企業の収益を労働者に分配すること」に堕していた。(13)
 戦線の兵士たちは、故郷に向かう前に、兵器庫や倉庫を破って入って、運べるものは何でも奪い去った。残りは、地方の民間人に売りさばいた。
 あるボルシェヴィキの新聞は、このような軍隊<duvan>について報道した。
 その新聞の報告者によると、ペトログラード・ソヴェトの兵士部門の1918年2月1日(新暦)の議論は、多数の単位の兵団が連隊の兵站部の貯蔵物を要求したことを明らかにしていた。彼ら兵士たちが、このようにして獲得した軍服や武器を故郷に持ち帰るこは、一般的だったのだ。//
 (11)国有または国家の財産という観念は、私的財産という観念とともにかくして消え去った。そして、それは、新しい政府の激励でもって行われた。
 レーニンはまるで、エメリヤン・プガチョフ(Emelian Pugachev)のもとでの1770年代の農民反乱の歴史を勉強していたかのようだった。このときプガチョフは、農民層のアナキズム的および反所有者層的な本能に訴えかけて、東部ロシアの莫大な地域を占拠した。
 プガチョフは、地主たちを皆殺しにして、帝室の土地を含めて地主の土地を奪い取るよう、熱心に説いた。
 彼は農民たちに、税をもう課さず、徴兵もしないと約束し、所有者たちから奪った金銭や収穫物を農民に分配した。
 さらに彼は、政府を廃止してコサック「自由団」に置き換えることを誓約した。-これはつまりは、アナーキー〔無政府状態〕だ。
 プガチョフがカテリーヌの軍に殲滅されていなければ、彼はロシア国家を打倒していたかもしれない。
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 (8)I・スターリン, Voprosy Leninizm, nth ed. (Moscow, 1952), p.126.
 (*)この仕組みは、外国人には驚くほどに成功した。
 1920年代、共産主義ロシアは、外国にいる社会主義者やリベラルたちには、新しい「ソヴェト」タイプの民主主義政府だと受け止められた。
 初期の訪問者の説明文は、ほとんど共産党とその支配的役割に言及していなかった。それだけ効果的に、共産党は隠されていたのだ。
 (9)Deviatyui S"ezd RKP(b): Protokoly(Moscow, 1960), p.307.
 (+)国家社会主義党をボルシェヴィキやファシスト党のモデルに倣って作ったヒトラーは、ヘルマン・ラウシュニンク(Hermann Rauschning)に、「『党』という言葉は、自分の組織については本当に間違った名称だ」と語った。
 ヒトラーは、その党は「一つの秩序(order)」だと呼ばれるのが好きだった。
 Rauschning, Hitler Speaks(London, 1939), p.198., p.243. 
 (10)Leonard Schapiro, The Communist Party of the Soviet Union(London, 1960), p.231; BSE, XI, p.531.
 (11)Merle Fainsod, How Russia Is Ruled(Cambridge, Mass., 1963), p.177.
 (12)Sukhanov, Zapiski, II, p.244.
 (13)B. Avilov in NZh, No.18/232(1918年1月25日/2月7日), p.1.
 (14)Krasnaia gazeta, No.7(1918年2月2日), p.4.
 (15)以下を見よ。Dokumentry stavki E. I. Pugacheva, povstanchevskikh vlastei i uchrezhdenii, p.1773-4(Moscow, 1975), p.48. および、R. V. Ovchinnikov, Manifesty i ukazy E. I. Pugacheva(Moscow, 1980), p.122-p.132.
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 ②へとつづく。

2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。


 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。つぎの章に進む。
 第12章・一党国家の建設。
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 第1節・権力掌握後のレーニンの戦略。
 (1)1917年10月26日、ボルシェヴィキは、達成したとして主張するほどにはロシアに対する権力を掌握してはいなかった。
 その日に非合法に召集して支持者だけを詰め込んだソヴェトの残留派大会で勝利したのだが、限られた、一時的な権威しか持たなかった。
 政府はソヴェト中央執行委員会に責任を負い、立憲会議の招集を待って一カ月以内に退任するものとされていた。
 ボルシェヴィキがこれを実現するのには、三年間の内戦が必要だった。
 不安定な立場にあったにもかかわらず、ボルシェヴィキは、ほとんど直ちに、歴史に知られていない類型の体制、つまり一党独裁制の基礎を築いた。//
 (2)10月26日、ボルシェヴィキには三つの選択肢があった。
 まず、党が政府だと宣言することができただろう。
 ついで、党を政府へと解消することもできた。
 さらに、党と政府を別々の装置として維持し、外部から国家を指揮するか、または接合させる人員を通じて執行の段階で国家と融合するか(1)、のいずれかを行うことができた。
 以下に述べる理由で、レーニンは上の第一と第二の選択肢を採るのを拒絶した。
 彼は、第三の選択肢のうちの二つの間で、少しばかりは躊躇した。
 もともとは、前者に傾いていた。すなわち、国家の長であるよりも、党の長として統治するのを選んだ。それは全世界のプロレタリアートの、最初の政府だった。
 しかし、見てきたように、彼の同僚たちはレーニンが十月のクーの責任を避けようとしていると考え、多くの者が反対して、レーニンに諦めるように迫った。(2)
 その結果として、クー・デタの数時間以内に発生した政治システムでは、党と国家は別の独立した一体のままで存続し、組織としてではなく人員によって執行の段階で融合する、ということとなった。執行段階で融合したものは、とりわけ内閣だった(人民委員会議ないしソヴナルコム)。この内閣で、党の指導者たちが全ての閣僚ポストを占めた。
 こうした組織編制のもとで、党官僚としてのボルシェヴィキは、政策決定を行い、国家部署の長としてそれを執行した。その目的のために、一般官僚機構や保安警察も利用した。
 (3)このような仕組みは、ヨーロッパやその他の世界の左翼や右翼による一党独裁制形態の多様な後裔を育むこととなる、そのような統治類型の起源だった。そしてそれは、議会制民主主義に対する主要な敵または代替選択肢として出現することとなった。
 それの際立つ特徴は、執行権と立法権の集中だった。もちろん、権力は、立法、執行および司法の各権能の全てが、「支配党」という私的組織の手に委ねられる。
 かりにボルシェヴィキがすみやかに他の全ての政党を非合法にしたとすると、「党」という名称をそれらの組織に用いることはほとんどできない。
 「党(the Party)」-これはラテン語のpars または〔英語の〕一部(part)に由来する-は、部分は全体ではあり得ないがゆえに、その定義上は排他的なものであることができない。
 従って、「一党国家」は、用語上は矛盾している。(3)
 それよりも幾分かは良く適合するのは「二重国家」で、この語は、のちにヒトラーが確立したものと類似した体制を叙述するために、新しく作られた。(4)
 (4)この統治類型には、ただ一つだけ、先行例があった。不完全で部分的に実現されたのみだが、いく分かモデルになったものがある。すなわち、フランス革命期のジャコバン体制だ。
 フランス全体にいた数百人のジャコバン・クラブは、厳密な意味では政党ではなかったが、ジャコバン派が権力に到達する前にすでに、その特徴の多くを身につけていた。
 すなわち、クラブ構成員は厳格に統制され、投票の際はもちろんのこと綱領への忠誠さが要求され、パリのジャコバン・クラブはナショナル・センターとして行動した。
 1793年秋から、1年のちのテルミドール・クーまで、ジャコバン・クラブは、公式には行政部と混合することなしに、全ての執行部署を独占することによって統治の支配権を掌握し、政府の政策に対する拒否権までもつと呼号した。(5)
 ジャコバン派がもう少し長く権力の位置にいたならば、純粋な一党国家を生み出したかもしれない。
 実際に、ジャコバン派は、ロシアの専制的伝統に依りかかりながらボルシェヴィキが完成形を作るための、模範的原型を提供した。//
 (5)ボルシェヴィキは、革命を起こした後に発生すべき国家について、大して多くは思索してこなかった。自分たちの革命は即座に全世界を無視し、ナショナルな政府を一掃することを当然のことと考えていたからだ。
 ボルシェヴィキは、進む過程で一党国家を改良した。そして、それに理論的な基礎を与えてみようとは何ら試みなかったけれども、一党国家制は、彼らが実現した成果のうちで最も長続きのする、影響力が最も大きいものとなった。//
 (6)レーニンは自分が無制限の権力を行使するだろうことを何ら疑わなかったが、彼が「ソヴェト民主主義」の名前のもとで権力を奪取したことを考慮せざるを得なかった。
 ボルシェヴィキは、自分のためにではなくソヴェトのためにクーを実行した。-彼らの党の名は、〔ペトログラード〕軍事革命委員会のどの声明文にも出てこなかった。
 彼らのスローガンは、「全ての権力をソヴェトへ」だった。
 彼らの権威は、条件つきで一時的なものだった。
 虚構がしばらくの間は、維持されなければならなかった。この国はいかなる政党に対してであれ、権力を独占することを許さなかっただろうからだ。//
 (7)ボルシェヴィキが支持者と共感者を詰め込んだ第二回ソヴェト大会の代議員たちですら、ボルシェヴィキに独裁的な大権を与えるつもりはなかった。
 ボルシェヴィキが正統性の根源だと主張してきた大会の代議員たちは、彼らが代表するソヴェトはどのようにして政治的権威を再構築しようと意図しているかについて意見を求められたとき、つぎのように回答した。(6)
  ①全ての権力をソヴェトへ/        505(75%)
  ②全ての権力を民主主義派へ/        86(13%)
  ③全ての権力をカデット以外の民主主義派へ/ 21( 3%)
  ④連立政権/                58(8.6%)
  ⑤無回答/                 3(0.4%) 
 この反応は、多かれ少なかれ、同じことを語っていた。すなわち、親ボルシェヴィキ・ソヴェトがどのような政府を意図しているかを正確に知らないとすると、誰も単一の政党が独占的権力を持つとは予想していなかった、ということだ。
 実際に、レーニン直近の同僚たちの多数も、他の社会主義諸党をソヴェト政府から排除することに反対した。そして、レーニンとその一握りの最も献身的な支持者(トロツキー、スターリン、F・ジェルジンスキー)がそのような方向に固執したとすれば、それを理由として、抗議して辞任しただろう。
 これが、レーニンが直面していた政治的現実だった。
 やむを得ず彼は、一党独裁制を導入しているときですら、「ソヴェト権力」という外装の背後に隠れつづけた。
 民衆の中にある圧倒的に民主主義かつ社会主義の感情は、不確かに分散していたがなおも強く感じられたものだった。レーニンはそれによって、新しい名目上の「主権者」であるソヴェトの外皮を纏う国家構造には手をかけないように強いられた。一方では、権力の全ての網を、自らの手中に収めていっていたのだけれども。//
 (8)しかし、国の雰囲気によってレーニンがこの欺瞞を永続化させるのを強いられなかったとしてすら、彼が国家を通じて統治するのを選んで国家から党を切り離しただろうことには、十分な根拠がある。
 一つの要因は、ボルシェヴィキの人員不足だ。
 普通の状態でロシアを統治するには、公的なおよび私的な、数十万人の働き手が必要だった。
 あらゆる形態の地方自治が消滅して経済が国有化された国家を経営するには、その数の何倍もの人員数が必要だった。
 1917-18年のボルシェヴィキ党は、この仕事をやり抜くにはあまりに小さすぎた。
 いずれにしても、信奉者がきわめて少なく、かつそのほとんどは生涯にわたる職業的革命家だったので、行政についての専門知識がなかった。
 そのゆえに、ボルシェヴィキには、直接に行政をするのではなく、旧来の官僚機構とその他の「ブルジョア専門家」に依存し、行政官僚を統制すること以外には、選択肢がなかった。
 彼らはジャコバン派を模倣して、例外なく、全ての機関と組織にボルシェヴィキの人員を投入した。-その人員たちは国家にではなく党に対して、忠誠し服従する心構えがあった。
 信頼できる党員たちの必要性は切実だったので、党は、指導者たちが望んだ以上に急速に膨張し、出世主義の者たちを、純粋で使いやすいならば、入党させなければならなかった。//
 (9)党を国家とは別のものにした第三の考慮は、国家とは、国内または外国からの批判から党を守る手続のごときものだったことだ。
 ボルシェヴィキには、民衆が圧倒的に自分たちを拒否するときですら、権力を譲り渡す気持ちが全くなかったので、彼らは身代わり(scapegoat)を必要とした。
 これが国家官僚機構となるはずなのであり、党は無謬であるふりをしている間に、この官僚機構が失態について責められるだろう。
 ボルシェヴィキは、外国で破壊工作をしつつも、ロシア共産党という「私的組織」の仕業であってソヴィエト政府は責任を負うことができないと主張して、外国からの抗議をかわすことができることになる。//
 (10)一党国家のロシアでの確立は、建設的なまた破壊的な、多様な手段を必要とした。
 その過程は実質的には、1918年の秋までには完了した(そのときに、ボルシェヴィキが全ての中央ロシアを制圧した)。
 その後でボルシェヴィキは、この仕組みと実務を国境諸国に移植した。//
 (11)まず真っ先に、「ブルジョア」的なものはむろんのこと帝制時代的なものを含めて、全ての旧体制の残滓を根こそぎ廃絶しなければならなかった。地方自治の諸機関、政党とそれらの機関紙、軍隊、司法制度、および私的所有の制度。
 革命のこの純然たる破壊的段階は、奪い取るのではなく旧秩序を「粉砕する」のだとの1871年のマルクスの指示を実行するものだった。そして、諸布令がそれを定式化していた。だがそれは、主としては自然発生的アナキズムによってなし遂げられたもので、そのアナキズムは二月革命によって生まれ、ボルシェヴィキが強く燃え上がったものだった。
 当時の者たちは、こうした破壊的作業は愚かなニヒリズムによるものと見ていた。しかし、新しい支配者にとっては、新しい政治的および社会的秩序が建設されていく道を掃き清めることを意味した。//
 (12)一党国家体制の建設が困難だった一つの理由は、ボルシェヴィキが民衆のアナキズム的本能を抑制して、人々が革命によって永遠に解放されると考えたはずの紀律を再び課す必要があった、ということにあった。
 その必要があって、民衆的「ソヴェト」民主主義が出現する新しい権威(vlast')の構築が呼びかけられたが、実際に復活したのは、新しいイデオロギーと技術を備えたモスクワ絶対主義体制だった。
 ボルシェヴィキ支配者たちは、彼らの名目上の主人であるソヴェトに対する責任から免れることが、最も切迫している課題だと考えた。
 次いで、立憲会議から逃れる必要があった。彼らは自分たちでその招集を行っていたが、その立憲会議は確実に、ボルシェヴィキを権力から排除する可能性があったからだ。
 そして最後に、ソヴェトを党の従順な道具に変形させなければならなかった。//
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 (1)W. Pietsch, 国家と革命(ケルン, 1969), p.140.
 (2)N. Sukhanov, Zapinski o revoliusii, VII(Berlin-Petersburg-Moscow, 1923), p.266.
 (3)R. M. Maclver, The Web of Government(New York, 1947), p.123.
 (4)E. Frankel, The Dual State(London-New York, 1941).
 (5)C. C. Brinton, The Jacobins(New York, 1961).
 (6)K. G. Kotelnikov, ed., Vtoroi Vserossiiskii S"ezd Sovetev R. iS.D.(Moscow-Leningrad, 1928), p.107.
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 第2節につづく。第2節の目次上の表題は、<レーニンとトロツキーがソヴェト中央執行委員会に対する責任を逃れる>。
 R・パイプス著1990年の初版。これには、「1899-1919」は付いていない。


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2175/R・パイプス著第11章第14節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
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 第14節・起きたことにほとんど誰も気づかない。
 (1)当時のロシア住民の圧倒的大多数は、何が起こっているかを少しも知らなかった。
 二月革命以降は共立執行部として行動してきたソヴェトが、名目上は、完全な権力を掌握した。
 このことは、革命的な事件だとはほとんど思えなかった。すなわち、二月革命の最初に導入された「二重権力」の原理を、論理的に拡張したものだった。
 トロツキーがソヴェトへの権力移行だとボルシェヴィキによる権力奪取を誤認させたことは、素晴らしい成功だった。
 民主主義的社会主義者たちが二月と三月に導入した実務を、ボルシェヴィキの目的のために巧妙に利用したのだ。トロツキーは十月の事態をふり返って、こう自慢した。
 欺瞞がもたらした結末は、事実上何ら気づかれることなく、見かけ上は、新しい政府の危機をたんに「合法的」に解決したにすぎない、ということだった。
 (2)トロツキーは、つぎのように書く。(230)//
 「我々はこの蜂起を『合法的』だと称する。それは、二重権力という『正常な』状態から発展した、という意味でだ。
 宥和主義者たち〔エスエルとメンシェヴィキ〕がペトログラード・ソヴェトを支配していたとき、一度ならずソヴェトは、政府の決定を阻止し、あるいは訂正させた。
 こうした実務が、いわば歴史的には『ケレンスキー主義』として知られる体制の基本的構造の一部のごとくになった。
 ペトログラード・ソヴェトで権力を奪った我々ボルシェヴィキは、この二重権力の方法を拡張させ、深化させたにすぎない。
 我々は、(前線に対する)連隊の派遣に関する命令を抑止する権限をもった。
 我々はこのようにして、二重権力の伝統と実践の背後に、ペトログラー連隊の事実上の反乱を隠蔽した。
 それに加えて、権力の問題に関する我々の煽動を第二回ソヴェト大会のタイミングに合わせることによって、我々は二重権力の確立された伝統を発展させ、深化させたのだ。そして、ボルシェヴィキの蜂起のソヴェトによる『合法化』という枠組みを、全ロシア的規模で用意した。」
 (3)十月クーの社会主義という目標を隠したままにしたのも、欺瞞(deception)だった。
 まだ不確かだと感じられていた新体制が最初の週に発した公式文書は、「社会主義」という語を使わなかった。
 これが考え抜かれたもので見落としではないことは、つぎのことで分かるだろう。すなわち、レーニンは、臨時政府は廃止されたと宣言する10月25日の元々の草案では、「社会主義、万歳〔Long Live〕!」と書いていた。だが、宣言時には考え直して、その部分に線を引いて消した。(231)
 最も早い「社会主義」の語の公式な使用は、レーニンが書いた11月2日の日付のある文書に見られる。その文書は、「中央委員会は、社会主義革命の勝利を完全に確信する」と述べていた。(232)
 (4)こうしたこと全てによって、劇的な事件が起きたという意識が発生するのを抑え、公共の不安を和らげ、そして活発な抵抗を全て阻止する、という効果が生じた。
 十月のクーの意味に関する無知ががいかに広がっていたかは、ペトログラード株式取引所の反応が、よく例証しているだろう。
 当時のプレスによると、体制変化によって株取引は「まったく影響されなかった」。あるいはまた、ロシアに社会主義革命が起きたという、すぐそのあとの発表によってすら同じだった。
 クーの直後の日々には有価証券の取引はほとんどなかったけれども、価格は安定していた。
 神経質さを示したのはただ一つ、ルーブルの価値の急落だった。
 10月23日と11月4日の間に、ルーブルは外国での交換価値の二分の一を失い、アメリカ・ドルに対して、6.2から12~14へと安くなった。(233)
 (5)ほとんど誰も、臨時政府の崩壊を慨嘆しなかった。
 一般民衆はそのことに完全に無関心に反応した、と目撃者は報告している。
 ボルシェヴィキが頑固な抵抗を打ち破らなければならなかったモスクワについてすら、同じことが言えた。
 モスクワでは、政府が消失したことは気づかれなかった、と言われる。
 街頭を歩いている人々は、事態はたぶん少しも悪くはならないだろうと考えたために、誰が政権に就いても違いはない、と感じていたように見える。(234)//
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 (230)L.トロツキー, Sochineniia, III, Pt. 1(Moscow, n.d.), L.
 (231)Dekrety, I, p.2.
 (232)W. Pietsch, 国家と革命(ケルン, 1969), p.68; Lenin, PSS, XXXV, p.46.
 (233)NZh, No. 173/167(1917年11月5日), p.1.
 (234)NZh, No. 171/165(1917年11月3日), p.3. French CounsulのE. Grenard はペトログラードでの同様の反応を報告する。La Revolution Russea (Paris, 1933), p.285. 地方については、Keep in Pipes, Revolutionary Russia, p.211 を見よ。
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 第14節終わり。そして、第11章も終わり。

2174/R・パイプス著・ロシア革命第11章第13節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
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 第13節・モスクワでのボルシェヴィキ・クー。
 (1)モスクワでは、最初からボルシェヴィキの狙いから逸れていた。
 政府代表者たちが大胆な決定をしていたならば、彼らは大失敗に終わっていただろう。
 (2)モスクワのボルシェヴィキはレーニンやトロツキーではなくカーメネフやジノヴィエフの側に立っていたために、権力を奪取する心構えがなかった。
 ウリツキ(Ulitskii)は10月20日の中央委員会で、モスクワの代議員の多数派は蜂起に反対だ、と発言した。(223)
 (3)10月25日のペトログラードでの事態を知って、ボルシェヴィキはモスクワ・ソヴェトに、革命委員会を設立する決議を通過させた。
 しかし、首都では対応する組織がボルシェヴィキの支配下にあったが、一方のモスクワでは、純粋に諸党連立のソヴェト機関の設立が目指され、メンシェヴィキ、社会革命党〔エスエル〕およびその他の社会主義諸党も加わるよう招かれた。
 エスエルは辞退し、メンシェヴィキは、いくつかの条件を付けて招聘を受諾した。
 この諸条件は受け入れられなかった。その結果、メンシェヴィキは身を引いた。(224)
 ペトログラードのミルレヴコム〔Milrevkom, 軍事革命委員会〕に倣って、モスクワの革命委員会は午後10時に、つぎの訴えを発した。市内の連隊は行動する準備をし、革命委員会が発するかまたはその副署のある命令にのみ従うこと。(225)
 (4)モスクワ革命委員会は、10月26日の朝に初めて動いた。古代の要塞を奪取してその武器庫にある兵器を親ボルシェヴィキの赤衛隊に分配するように、クレムリンに二人の委員を派遣したのだ。
 クレムリンを護衛している第56連隊の兵団は、委員の一人が自分たちの将校であることで困惑しつつも、従った。
 そうであっても、<ユンカー>がクレムリンを包囲して降伏するよう最後通牒を突きつけたために、ボルシェヴィキは兵器を移動させることができなかった。
 最後通牒が拒否されると、<ユンカー>は攻撃した。数時間のちに(10月28日午前6時)、クレムリンは<ユンカー>の手に落ちた。
 (5)クレムリンを奪取することで、親政府勢力は都心を統制下に置いた。
 この時点で、軍民と公民について権限をもつ将校たちは、ボルシェヴィキの蜂起を粉砕することができていただろう。
 しかし、彼らは躊躇した。一つは過信によって、もう一つは、いま以上の流血を避けたいという希望を持っただめに。
 「反革命」という怖れも、彼らの心のうちに重くのしかかっていた。
 市長のV. V. ブドネフを長とする公共安全委員会とK. I. リャブツェフ大佐のもとの軍司令部は、革命委員会を拘束しないで、それとの交渉に入った。
 3日間つづいたこの交渉によって(10月28日-30日)、ボルシェヴィキには、回復し、工業地域である郊外や近隣の町からの増援を求める時間が与えられた。
 10月28-29日の夜には情勢を「危機的」と判断していた(226)革命委員会は、二日後には、攻撃に移れると自信を持った。
 民主主義を防衛しようとするモスクワの住民は、最終的には、軍事アカデミー、大学およびギムナジウムの十代の若者たちだけだった。彼らは、年配者の指導も支援も受けることなく、信条に生命を賭けた。//
 (6)対立の平和的解決に関する公共安全委員会と革命委員会の交渉は、10月30-31日の深夜に、決裂した。革命委員会が一方的に休戦を終わらせて、攻撃するように軍団に命令したのだ。(227)
 両勢力はそれぞれ1万5000人の兵を有して、おおよそは同等であると見えた。
 モスクワではその夜の間ずっと、激しい、建物ごとの戦闘が繰り広げられた。
 クレムリンを再び奪還すると決意したボルシェヴィキは、大砲によって攻撃し、古代からの城壁に損傷を加えた。
 <ユンカー>はよく健闘したが、郊外から集まるボルシェヴィキ軍によって次第に圧迫され、孤立した。
 11月2日の朝、公共安全委員会はその部隊に対して、抵抗をやめるよう命令した。
 同日夕方、同委員会は、同委員会を解散してその部隊は武器を捨てるという趣旨の降伏書に、革命委員会とともに署名した。(228)//
 (7)ロシアのその他の地域では、状況は当惑するほどに筋道の違いがあり、各都市での戦いの行方と結果は、競い合う諸党派の強さや決断力にかかっていた。
 共産主義イデオロギストたちは、ペトログラードでの十月クーにつづく「ソヴェト権力の勝利の凱旋」とこの時期を形容する。しかし、歴史研究者から見ると、事態は異なる。
 しばしばソヴェトの意向に反してすら広がっていたのは「ソヴェト」権力ではなく、ボルシェヴィキの権力だった。そして、軍事的実力による征圧というほどの「勝利の凱旋」ではなかった。//
 (8)見分けられるほどの明確な態様はなかったために、二つの重要都市以外でのボルシェヴィキによる征圧を叙述するのはほとんど不可能だ。(229)
 ある地域では、ボルシェヴィキはエスエルやメンシェヴィキと手を組んで「ソヴェトの支配」を宣言した。
 別の地域では、ある党派がその他の対敵を追放して、自分たちの権力を打ち立てた。
 親政府勢力は、あちこちで抵抗した。しかし、多くの地方で元来の政府系組織は「中立」を宣言した。
 たいていの地方諸都市では、その地方のボルシェヴィキは、ペトログラードからの指令なくして、自分たちで行動しなければならなかった。
 ボルシェヴィキは、11月の初め頃までには、ヨーロッパの中心部、つまり大ロシアの地域を、少なくとも、その地域の諸都市を、統制下に置いた。ボルシェヴィキはそれら諸都市を、ノルマン人が千年前にロシアに対して行ったように、敵対的または無関心の住民が多数いる真ん中で、出撃基地に変えた。
 ボルシェヴィキは田園地帯のほぼ全領域について掌握するには至らず、分離して独立の共和国が設立された国境地域も同様だった。
 以下で叙述するだろうように、ボルシェヴィキはこれら諸国を、軍事活動でもって再征圧しなければならなかった。//
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 (223)Protokoly TsK, p.106-7.
 (224)Revoliutsiia, V, p.193-4; Revoliutsiia, VI, p.4-5; D. A. Chugaev, ed., Triumfal'noe shestvie sovetskoi vlasti (Moscow, 1963), p.500.
 (225)V. A. Kondratev, ed., Moskovskii Voenno-Revoliutsionnui Komitet: Oktiabr'-Noiabr' 1917 goda(Moscow, 1968), p.22.
 (226)同上、p.78。
 (227)同上、p.103-4。
 (228)同上、p.161。
 (229)そうしたもので我々が参照できるのは以下。V. Leilina in PR, No.2/49(1926), p.185-p.233, No.11/58(1926), p.234-p.255、No. 12/59(1926), p.238-p.258、およびJohn H. Keep in Richard Pipes(Cambridge, Mass., 1968)p.180-p.216.
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 最終第14節へ。

2173/レフとスヴェトラーナー第1章②。

 レフとスヴェトラーナ。
 第1章②。
 (12) ボルシェヴィキは、1919年の秋に、ベリョゾボにやって来た。
 彼らは、白軍と協力していると見なされた「ブルジョア」の人質を逮捕し始めた。白軍は反革命軍で、内戦の間はこの地域を占拠していた。
 ある日、ボルシェヴィキは、レフの両親を連れて行った。
 4歳のレフは、祖母と一緒に行って、両親が地方の監獄にいるのを見た。
 父親のグレブは他の9人の収監者と一緒に、大きな獄房に入れられていた。
 レフはそこに入るのを許され、父親の側に座った。その間じゅう、看守がライフルを持って入口の傍らにいた。
 「あのおじさんは、狩猟家なの?」
 レフが尋ねると、父は、「あのおじさんは我々を守ってくれている」と答えた。
 レフの母親は、独房にいた。
 彼は母親に、二度会いに行った。
 その最後のとき、母親は一椀のサワー・クリームと砂糖をレフに与えた。それらは、彼の訪問が記憶に残るように、収監者への配給金で買ったものだった。
 (13) ほどないうちに、レフは病院に連れていかれた。母親は死にかけていた。
 彼女は、たぶん看守に、胸部を狙撃されていた。
 レフが病室の入り口にいたとき、看護婦が、不思議な赤い拍動する物体を手にして彼の側を通りすぎた。
 それを見て怯えて、祖母が別れを告げるように彼に言ったとき、レフは病室内に入るのを拒んだ。だが、入口辺りから、祖母がベッドの上に行って、母親の額に接吻するのを見ていた。
 (14) 葬儀は、町の大きな教会で行われた。
 レフは、祖母と一緒に行った。
 開いた棺の正面にある椅子に座ったが、彼は小さくて中をのぞき込んで母親の顔を見ることができなかった。
 だが、棺の後ろから、色彩に富むイコノスタスで描かれた表面を見ることができた。そして、蝋燭の光で、レフは、棺の頭部の真上に神の御母のイコンがあるのに気づいた。
 彼は、神の御母の顔は自分自身の母親とよく似ていると思った、と記憶している。
 レフの父親は、葬儀のために監獄から一時釈放され、護衛に付き添われて、彼の傍らに姿を見せた。
 「別れを言いに来た」とある婦人が語るのを、レフは聞いた。
 しばらくの間、棺の側に立ったのち、父親は去っていった。
 レフはのちに、教会の外の共同墓地にある、母親の墓を訪れた。
 新しく掘り上げられた土塚は雪とは反対に黒く、その頂上には誰かが木の十字架を置いていた。
 (15) 数日のちに、祖母は彼を、同じ教会での第二の葬礼に連れて行った。
 今度は、イコノスタスの正面に低く並べられた10の棺があった。全て、ボルシェヴィキによって殺害された犠牲者たちだった。
 そのうちの一つが、レフの父親だった。
 父親の獄房の収監者たちはみな、同時に射殺された。
 彼らがどこに埋葬されているのかは、知られていない。
 (16) 1921年の雨が少ない夏、飢饉がロシアの農村地帯を襲った。そのとき、レフは祖母と一緒にモスクワに戻った。
 ボルシェヴィキは、「ブルジョアジー」に対する階級戦争を一時的に中止した。その結果、モスクワの残存中間階層がもう一度生活することが可能になった。
 彼の祖母は、小取引者と商店主が住む地区であるレフォルトヴォで20年間、助産婦として働いていた。そして、彼女とレフはこのときにその地区に引っ越して、遠い親戚と一緒に生活した。
 彼らは1年間、祖母が奇妙な看護婦の仕事をしている間、一室の角を-カーテンの裏のふつうのベッドと簡易ベッドで-占有した。
 1922年、レフは、「カーチャおばさん」(ヴァレンティナの妹)に引き取られた。彼女は、クレムリンから石を投げれば届く距離のグラノフスキ通りの共同住宅で、二番目の夫と暮らしていた。
 レフはそこに1924年まで滞在し、そのあと母親の叔母のエリザヴェータのアパートに転居した。この人は以前は女子高校の学校長で、その住居はマライア・ニキツカヤ通りにあった。
 レフは思い出す。「ほとんど毎日、カーチャおばさんが我々を訪れてくれた。そうして、私は、女性たちの影響と世話がつねにある状況の中で成長しました」。
 (17) 三人の女性たちの愛情は-三人ともに自分の子どもがなかった-母親を失ったことの埋め合わせにはならなかっただろう。
 だが、それによってレフには、女性一般に対する尊敬が、あるいは畏敬の念すらが、生まれた。
 女性たちの愛情に付け加えられたのは、彼の両親の親しい友人たちのうちの三人による、精神的かつ物質的な支援だった。彼らはみな、一定の金額を定期的にレフの祖母に送ってきた。三人とは、アルメニアの首都のエレヴァンにいる名付け親の医師、モスクワ大学の音響学教授のセルゲイ・ルジェフキン(「ゼリョザ叔父さん」)、年配のメンシェヴィキで言語学者、技師および学校教師のニキータ・メルニコフ(「ニキータ叔父さん」)で、レフはニキータを「二番めのお父さん」と呼んだ。
 (18) レフは、ボルシャヤ・ニキツカヤ通りにある、以前は女子ギムナジウムだった男女共学の学校へ通った(男子または女子だけの学校は、ロシアでは1918年に廃止されていた)。
 両翼をもつ古典的19世紀の邸宅が使用されていて、レフが通い始めた頃の学校はまだ、その時代の知識人たちの雰囲気を保っていた。
 多数の教師たちは1917年以前も、その学校で教えていた。
 レフのドイツ語の教師は、以前の校長だった。
 幼年組の教師は有名なウクライナの作曲家の従兄弟で、彼のロシア語の教師は作家のミハイル・ブルガコフに縁戚があった。
 しかし、レフが10歳代の1930年代初頭には、学校教育は工業技術を中心とする教科課程に移行していて、工学の勉強はモスクワの工場と連結していた。
 工業技術者が、実際的な指示や実験をして学校で授業をし、子どもたちが工場での実習生になるよう準備させることになる。
 (19) ヴゾフスキ小路にあったスヴェータの学校は、レフの学校から大して遠くはなかった。
 二人がこの当時に出会っていたならば、二人はどうなっていただろうか?
 彼らの出自は、かなり異なっていた。-レフはモスクワの中流階級の出身で、彼の祖母の正教の価値観はレフの躾け方にも反映されていた。一方、スヴェータは、技術系知識人たちのもっと進歩的な世界で育ってきた。
 だが二人には、多くの共通する基本的な価値と関心があった。
 二人ともに、年齢にしては成熟しており、真面目で、賢く、考え方に自主性があった。そして、プロパガンダや社会的因習からというよりも自分たちの経験で形成した、開放的な探求心のある知性を持っていた。
 この自立性は、のちの彼らに大きく役立つことになる。
 (20) スヴェータは1949年の手紙で、自分は11歳のときどんな少女だったかを思い出している。反宗教の運動が、ソヴィエトの諸学校で頂点に達していた頃のことだ。
 「学校の他の子どもたちより、私は大人びていたように思える。<中略>
 その頃、私は神や宗教の問題について、とても悩んだ。
 隣人たちは信仰者で、ヤラは彼らの子どもたちをいつもからかっていた。
 でも、私は割って入って、信仰の自由を擁護した。
 そして、神に関する問題を、自分で解決した。
 -神なくして、我々は永遠のことも創造のことも、理解することができないだろう。私が神の肝心な所を見ることができないのは、神が必要とされていないということだ(神を信じる他の人々には神が必要かもしれないが、私は必要としていない)。こう、結論づけた。」
 (21) レフとスヴェータはともに、その年齢の頃までに、真面目に働いて責任感をもつという気風が生んだ人間という、巧妙な作品に育っていた。
 スヴェータの場合は、イワノフ家の教育の結果だった。家の多数の雑用をこなすとともに、妹のターニャの面倒を見る責任もあった。レフの場合は、必要をもたらしたのは、彼の経済的境遇だった。
 レフは学校に通っていた間ずっと、祖母の少ない年金を埋め合わせるために、働かなければならなかった。
 (22) まだ15歳にすぎなかった1932年、レフは夜間の仕事をしていた。それは、ゴールキ公園とソコルニキ間の、モスクワで最初の地下鉄路線の建築工事の作業だった。
 彼は街路を横切るルートを測定したのち、大部分は農民移住者で成る掘削チームに加わった。彼らは、ボルシェヴィキによって強制的に集団農場に入れられるのを避けて、モスクワに溢れるほどにやって来ていたのだ。
 レフは、集団化が引き起こした、次の夏の恐るべき結果を知った。
 急に増えた集団農場から離れ出た人物として、彼は、ウクライナの農村地帯出身の同僚作業員と知り合いになった。その農村地帯は、ひどい飢饉に見舞わられていた。
 その男は「放擲された郷土の村落、死んでいく人々、囲いの中に積み重なった死体」について、悲しい詩を書いた。
 詩がもつ、感情に訴える力にレフは強い印象を受けたが、驚くべき主題にたじろいでしまった。
 「なぜ、そんな恐ろしい情景を作るのですか?」と尋ねると、答えはこうだった。
 「作ってなどしていない」。
 飢饉が存在している。誰にも、死んだ者を埋める体力がない。
 レフは衝撃を受けた。
 それまで、ソヴェト権力とその政策を本当に疑ったことは一度もなかった。
 彼は共産主義青年同盟であるコムソモールの一員だったし、党を信じてきた。
 しかし、その作業員の言葉で、疑いの種子が撒かれた。
 その年ののち、レフは生物教師が組織した校内小旅行で、モスクワ近郊の集団農場へと行った。その教師は熱心なボルシェヴィキ支持者で、「害虫に対する闘争」を演じるふりをして、農場にある遺棄された家屋を使っていた。
 その家屋内には、聖職者が持っていた書物を燃やした残り滓があって、その中には、レフの祖父がかつて読んだがソヴェト体制のもとではもはや用無しの言語である、ギリシア語で書かれた聖書も含まれていた。
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 ③へとつづける。

2172/R・パイプス・ロシア革命第二部第11章第12節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes, 1923-2018)には、ロシア革命(さしあたり十月「革命」前後)に関する全般的かつ詳細な、つぎの二著がある。
 A/The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 B/Russia under the Bolshevik Regime (1994).
 この二つを併せたような簡潔版に以下のCがあり、これには邦訳書もある。但し、帝制期(旧体制)に関する叙述はほとんどなく、<三全体主義(①共産主義、②ドイツ・ナツィズム、③イタリア・ファシズム)の共通性と差異>に関する理論的?な叙述等も割愛されている。
 C/A Concise History of the Russian Revolution (1996).
 =西山克典訳・ロシア革命史(成文社、2000年)
 上のAは、つぎの二部に分けられている。
 第一部・旧体制の苦悶。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 この欄では、これまで、第一部(いわゆる二月革命を含む)の試訳は行ってきていない。
 かつまた、第二部は計18の章を含むが、全ての試訳を了えているのは第9章(<レーニンとボルシェヴィキの起源>)、第10章(<ボルシェヴィキによる権力追求>だけで、かなりの部分を了えているのは、第11章<十月のクー>だ。
 第11章・十月のクーは、全体の目次欄では、つぎの計14の節からなり、それぞれに見出しがついている。この見出し的言葉は本文中にはなく、14の各節の冒頭の文字が特大化されて、各節の切れ目が示されている。
 第11章・十月のクー。原著、p.439~p.505。
 各節の目次欄上の見出しはつぎのとおり。
 第01節・コルニロフが最高司令官に任命される。
 第02節・ケレンスキーが予期されるボルシェヴィキ・クーに対抗する助力をコルニロフに求める。
 第03節・ケレンスキーとコルニロフの決裂。
 第04節・ボルシェヴィキの将来の勃興。
 第05節・隠亡中のレーニン。
 第06節・ボルシェヴィキによる自己のためのソヴェト大会計画。
 第07節・ボルシェヴィキによるソヴェト軍事革命委員会の乗っ取り。
 第08節・党中央委員会10月10日の重大な決定。
 第10節・ケレンスキーの反応。
 第11節・ボルシェヴィキが臨時政府打倒を宣言。
 第12節・第2回ソヴェト大会が権力移行を裁可して講和と土地に関する布令を承認。
 第13節・モスクワでのボルシェヴィキ・クー。
 第14節・起きたことにほとんど誰も気づかない。
 以上のうち、この欄で試訳の掲載を済ませているのは、第01節~第11節だけだ。
 第12節以降へと、試訳掲載を再開する。
 「憲法制定会議」と通常は訳されるConstituent Assembly は、「立憲会議」という訳語を用いている。
 なお、ここで初めて記しておくと、R・パイプスが用いているレーニン全集は、日本で最も一般に流通している(していた)レーニン全集とは巻分けが明らかに異なる。これに対して、レシェク・コワコフスキが<マルクス主義の主要潮流>で参照している(していた)レーニン全集は、日本のそれと巻分けが同じで、彼の参照指示に従って対象演説文等を容易に発見できる(論考類の掲載順もほぼ同じ。頁数は異なる)。L・コワコフスキは日本語版のそれと同じソ連版(同マルクス=レーニン主義研究所編)のレーニン全集のポーランド語版を利用している(していた)と思われる。
 ***
 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
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 第11章・十月のクー。
 第12節・第二回ソヴェト大会が権力移行を裁可して講和と土地に関する布令を承認。
 (1)3時間半前、ボルシェヴィキは、これ以上待ちきれなくて、スモルニュイ(Smolnyi)の1917年以前は演劇の上演や舞踏会に使われた柱廊付き大集会室で、第二回大会を開会した。
 彼らは、テオドア・ダン(Theodore Dan)の虚栄心を賢くも利用して、メンシェヴィキのソヴィエト指導者たちも招待した。彼らとともに手続を執り行い、ソヴェトの正統性という香気を与える効果を得るためだった。
 新しい幹部会が、選出された。それは14名のボルシェヴィキ、7名の左翼エスエル、3名のメンシェヴィキで構成されていた。
 カーメネフが議長となった。
 正統なイスパルコム(Ispolkom, ソヴェト中央執行委員会)はこの大会に限られた議題しか設定しなかったけれども(現在の情勢、立憲会議、イスパルコムの再選出)、カーメネフは、全体的に異なるものに変更した。すなわち、政府の権限、戦争と和平、および立憲会議。
 (2)大会の構成は、国全体の政治的支持の状態とほとんど関係がなかった。
 農民諸組織は出席するのを拒否して、大会には権威がないと宣言し、全国のソヴェトにボイコットすることを強く迫った(203)。
 同じ理由で、軍事委員会は、代議員を派遣するのを拒んだ(204)。
 トロツキーは、第二回大会は「世界史上の全ての議会の中で最も民主主義的」と描写すること以上に正確なことを知っていたはずだった(205)。
 実際に、その目的のためにとくに設立された、ボルシェヴィキが支配する都市部の集会や軍事会議があった。
 10月25日に発表された声明文で、イスパルコムはこう宣言した。
 「中央執行委員会〔イスパルコム〕は、第二回大会は行われていないと考え、それをボルシェヴィキ代議員の私的な集会だと見なす。
 この大会の諸決議は、正統性を欠いており、地方ソヴェトや全ての軍事委員会に対する拘束力を有しないと、中央執行委員会によって宣告される。
 中央執行委員会は、ソヴェトと軍事諸組織に対して、革命を防衛するために結集することを呼びかける。
 中央執行委員会は、適切に行うことのできる情勢になればすみやかに、ソヴェトの新しい大会を招集するであろう。」(206)
 (3)この残留派(rump)議会への出席者の正確な数は、確定することができない。
 最も信頼できる評価が示すのは、約650人で、そのうちボルシェヴィキが338名、左翼エスエルが98名だ。
 この二つの連立党は、こうして、議席の3分の2を支配した。-3週間後の立憲会議選挙の結果から判断すると、それらに付与されたよりも2倍以上も多く代表していた。(207)
 ボルシェヴィキは左翼エスエルを完全には信頼してはいなかったので、偶発的事態の余地を残さないために、自分たちに議席の54パーセントを割り当てた。
 代表の仕方がいかに歪んでいたかを例証する事実は、70年後に利用できるに至った情報によれば、ボルシェヴィキの勢力の強いラトヴィア人(Latvian)は代議員総数の10パーセントで計算されていた、ということだ。(208)//
 (4)最初の数時間は、騒がしい論議で費やされた。
 閣僚たちが逮捕されたという報せを待っている間、ボルシェヴィキは、社会主義対抗派〔左翼エスエルとメンシェヴィキ〕に床を占めさせた。
 喚きや野次が響いている真っ只中で、メンシェヴィキと左翼革命党は、ボルシェヴィキのクーを非難し、臨時政府との交渉を要求する、類似の宣言案を提案した。
 メンシェヴィキの声明案は、こう宣言していた。
 「軍事的陰謀が組織された。ソヴェトを代表する全ての別の党派に明らかにされないまま、ソヴェトの名前でボルシェヴィキ党が実行した。<中略>
 ソヴェト大会の間際でのペトログラード・ソヴェトによる権力奪取は、全ソヴェト組織の解体と崩壊を意味する。」(209)
 トロツキーは、「歴史のごみ屑の堆積」の上にある「惨めな組織」、「破産者」とこの反対者たちを描写した。
 これに応じて、マルトフは、退場することを宣言した。(210)
 (5)これが起こったのは、10月26日の午前1時頃だった。
 午前3時10分、カーメネフは、冬宮が陥落し、閣僚たちは監視下にある、と発表した。
 午前6時、彼は、大会を夕方まで休会にした。
 (6)レーニンはこのとき、大会の裁可を受けるべき最重要の布令案を起草すべく、Bonch-Bruevich のアパートに向かっていた。
 クーに対する兵士と農民の支持を獲得するとレーニンが想定した二つの主要な布令は、平和と土地に関するものだった。そして、その日ののちにボルシェヴィキ代議員の討議に付され、議論なくして是認された。
 (7)大会は、午後10時40分に再開された。
 レーニンは、激しい拍手で迎えられ、和平と土地に関する布令を提示した。
 それら布令は、投票なしの発声票決によって採択された。
 (8)講和に関する布令(211)は、名前が間違っている。なぜなら、立法行為ではなく、全ての民族の「自己決定権」を保障しつつ、併合や賦課なしの「民主主義的」講和に向かう交渉を即時に開始することを、全ての交戦諸国に呼びかけるものだったからだ。
 秘密外交は廃止され、秘密の条約は公表されるものとされた。
 ロシアは、講和交渉が開始されるまで、3カ月の休戦を提案した。
 (9)土地に関する布令(212)は、内容的には社会革命党の政策方針から採用されたものだった。それは、2カ月前に<全ロシア農民代議員大会のイズヴェスチア>(213)に掲載された農民共同体の242の指令によって補充されていた。
 ボルシェヴィキの綱領が要求した全ての土地の国有化-つまり所有権の国家への移転-を命じるのではなく、「社会化」-つまり商取引の禁止と農民共同体による使用への転換-を呼びかけるものだ。
 大土地所有者、国家、教会その他の全ての土地資産は、農業用に供されていないかぎりは、損失補償金なしで没収されるものとされ、立憲議会が最終的な提案を決定するそのときまでは、Volost' 土地委員会に譲り渡された。
 しかし、農民の私的な保有土地は、除外された。
 これは、農民の要求に対する公然たる譲歩だった。ボルシェヴィキの土地政策と全く一致しておらず、立憲会議選挙での農民の支持を獲得するために考案されたものだ。
 (10)代議員たちに提示された第三の最後の布令は、人民委員会議(ソヴナルコム, Sovnarkom)と称される新しい政府を設立した。
 これは翌月に予定されている立憲会議の招集までのみ機能するとされたものだった。従って、その先行機関と同様に、「臨時政府」と名づけられた。(214)
 レーニンは最初はトロツキーに議長職を提示したが、トロツキーは拒んだ。
 レーニンは、内閣に加わろうという熱意を持っていなかった。舞台の背後で仕事をすることを好んだのだ。
 ルナチャルスキーは、こう思い出す。
 「レーニンは最初は政府に入ろうと望まなかった。
 『自分は党の中央委員会で仕事をする』と彼は言った。
 しかし、我々は拒否した。
 我々の誰も、その点には同意しようとしなかった。
 我々は、主要な責任を彼に負わせた。
 誰も、批判者にだけなりたがるものだ。」(215)
 そうして、同時並行的に、名前だけではなくて実際にも、ボルシェヴィキ中央委員会の議長としても仕事をしながら、レーニンはソヴナルコムの議長職を引き受けた。
 新しい内閣は従前のそれと同じ骨格をもち、新しい職を付け足していた。つまり、(人民委員ではない)民族問題の議長職。
 人民委員の全てがボルシェヴィキの党員であり、党の紀律に服従した。
 左翼エスエルは参加を招聘されたが、拒否した。メンシェヴィキと社会革命党を含む、「全ての革命的民主主義勢力」を代表する内閣であるべきだ、と主張したのだ。(216)
 ソヴナルコム〔人民委員会議〕の構成は、つぎのとおり。(*)
  議長/ウラジミール・ユリアノフ(レーニン)。
  内務/A・I・リュコフ。
  農業/V・P・ミリューチン。
  労働/A・G・シュリャプニコフ。
  軍事/V・A・オフセーンコ(アントノフ)、N・V・クリュイレンコ、P・E・デュイベンコ。
  通商産業/V・P・ノギン。
  啓蒙(教育)/ルナチャルスキ。
  財政/I・I・スクヴォルツォフ(ステファノフ)。
  外務/L・D・ブロンスタイン(トロツキー)。
  司法/G・I・オポコフ(ロモフ)。
  逓信/N・P・アヴィロフ(グレボフ)。 
  民族問題議長/I・V・ジュガシュヴィリ(スターリン)。//
 (11)現在のイスパルコム〔ソヴィエト中央執行委員会〕は、新しいそれによって廃され、置き換えられることが宣言された。新しいイスパルコムは101名で構成され、そのうちボルシェヴィキは62名、左翼エスエルは29名だった。
 カーメネフがその議長に就いた。
 レーニンが起草したソヴナルコムを設置する布令では、ソヴナルコムはイスパルコムに対して責任を負うものとされ、従ってイスパルコムは、立法に関する拒否権と内閣の指名の権限をもつ議会のようなものになった。//
 (12)ボルシェヴィキの最高司令部は、この不確実な状態では最高の権力であるとは思われないことをきわめて懸念して、大会で裁可された諸布令は立憲会議による是認、訂正または拒否を条件として暫定的に制定されたものだ、と主張した。
 共産主義に関する歴史研究者の言葉によると、つぎのとおりだ。
 「十月革命の日々に、立憲会議の高い権威は<中略>全ての決議によって否定されてはいない。(第二回ソヴィエト大会は)立憲会議を考慮しており、「その招集までの」基本的な決定を採択したのだ」。(217)
 講和に関する布令は立憲会議に言及していなかったが、レーニンはそれに関して第二回ソヴィエト大会での報告で、こう約束した。「我々は、全ての講和提案を立憲会議の決定に従わせるだろう」。(218)
 土地に関する布令の諸条項も、同様に条件つきだった。「全国立憲会議のみが全ての範囲について土地問題を決定することができる」。(219)
 新しい内閣のソヴナルコムに関しては、レーニンが起草して大会が裁可した決議は、こう述べた。
 「国の行政部を形成するために、立憲会議の招集があるまで、臨時の労働者農民政府は、人民委員会議と呼ばれることとする」。(220)
 このことからして、立憲会議選挙は予定通り11月12日に行われると、新しい政府がその職務に就いた最初の日に(10月27日)確認したのは、論理的なことだった。(221)
 また、ボルシェヴィキ自体が明確にしたことによってすら、立法する機会をもつ前に、その最初の日に会議を解散することでボルシェヴィキが自らの正統性を失うことも、論理的なことだった。//
 (13)ボルシェヴィキは、将来に何が起きるかを確実に判断することができないという理由だけで、その始めの時期に合法性に関する譲歩を行った。
 彼らは、ケレンスキーがいつ何時にでも兵団を引き連れてペトログラードに到着する、その可能性を認めざるを得なかった。その場合には、ボルシェヴィキは全ソヴェトの支持を必要とするだろう。
 ボルシェヴィキは、一週間かそこらののちに、敢えて法的規範を公然と侵害するに至った。そのときには、制裁を課す部隊がやって来るのが現実になるということはない、ということが明白になっていたのだった。//
 (14)親ボルシェヴィキと親臨時政府の両兵団が首都の統制権をめぐって武装衝突をしたのは、10月30日、郊外丘陵地のプルコヴォでの1回だった。
 クラスノフのコサック部隊は支援の少なさに士気を失い、ボルシェヴィキ煽動者たちによって混乱していたが、ツァールスコエ・セロでの貴重な3日間を無駄に費やしたあとで、ようやく進軍するよう説得された。
 彼らはスラヴィンカ河沿いに作戦行動を開始した。そこで600人のコサック兵が、赤衛軍、海兵および兵士たちから成る、少なくとも10倍以上の実力部隊に立ち向かった。(222)
 赤衛軍と兵士たちはすぐに逃げ去ったが、3000名の海兵たちは基地を守り、その日を耐えぬいた。
 コサック兵団は、現地司令官を失って、ガチナ(Gatchina)へと撤退した。
 こうして、臨時政府に味方した軍事介入が行われるという可能性がなくなった。
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 (203)10月24日の全ロシア・ソヴェト農民代議員大会の決定、in: A. V. Shestakov, ed, Sovety krest'ianskikh deputatov i drugie krest'ianskie organizatsii, I, Pt. 1(Moscow, 1929), p.288.
 (204)Revoliutsiia, V, p.182.
 (205)L・トロツキー, Istoriia russkoi revoliusii, II, Pt. 2(Berlin, 1933), p.327.
 (206)Revoliutsiia, V, p.284.
 (207)Oskar Anweiler, The Soviets(New York, 1974), p.260-1.
 (208)G. Rauzens in China(Riga), 1987年11月7日。この参照は、Andrew Ezergailis 教授のおかげだ。
 (209)Kotelnikov, S"ezd Sovetev, p.37-38, p.41-42.
 (210)Sukhanov, Zapinski, VII, p.203.
 (211)Derekty, I, p.12-p.16.
 (212)同上、p.17-20.
 (213)同上、p.17-18.
 (214)同上、p.20-21.
 (215)Sukhanov, Zapinski, VII, p.266. レーニンのトロツキーへの提示につき、Isaac Deutscher, The Prophet Armed: トロツキー・1870-1921(New York & London, 1954), p.325.
 (216)Revoliutsiia, VI, p.1.
 (*)Derekty, I, p.20-21. W. Pietsch, 国家と革命(ケルン, 1969), p.50. Lenin, PSS, XXXV, p.28-29. トロツキーは、ソヴナルコム内の唯一のユダヤ人だった。ボルシェヴィキは「ユダヤ」党だ、「国際ユダヤ人」の利益の仕える政府を設立している、という非難をボルシェヴィキは怖れているように見えた。
 (217)E. Ignatov in: PR, No.4/75(1928), p.31.
 (218)Lenin, PSS, XXXV, p.20.
 (219)Derekty, I, p.18.
 (220)同上、p.20.
 (221)同上、p.25-26.
 (222)Melgunov, Kak bol'shevili, p.209-210.
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 第12節終わり。第13節<モスクワでのボルシェヴィキ・クー>等へと続く。

2035/明治維新と日本共産党に関する小考。

 いろいろな「考え」・「思い」がふと生まれることがある。例えば、以下。
  西洋の力の背後に「キリスト教」を見て、明治政権は「天皇・神道」を対応する宗教として中軸に据えようとしたとの説明・論がある。
 しかし、キリスト教という「宗教」の世俗化またはそれと国家の分離のためにフランス革命があり、さらには「無神論」によるロシア革命までの動向があったとすると、西洋または欧米が世俗的にはすでに「キリスト教」という宗教から離れていた時代に、日本・明治政権は実質的に「神道」という宗教に依存しようとした。これは大いなる勘違い、ボタンのかけ間違いだったのではないか。
 しかし、神道または「神武創業・開闢」の原理の内容が実際には<空虚>であったため、実質的には自由に、欧米の近代「科学・技術」を何でも自由に「輸入して」、「文明開化」を推進することができた。
 しかしまた、天皇・神道原理からは具体的な近代的「政治」の原理は出てこなかったのだった。
  日本共産党が「天皇制打倒」を主綱領の一つにしたのは、ロシア革命での(正確には二月革命での)ロシア帝制「打倒」につづいて「社会主義」へと向かったという、ロシアの経験・成功体験にもとづくロシア共産党、そしてコミンテルンの方針にもとづく。
 (日本共産党の戦前の綱領類を誰が(どの日本人が)執筆したかを探ろうとする者がいるようだが、実質的にロシア語の翻訳の文章であるに決まっている。)
 上のことが実質的に、天皇制打倒=反封建(または反絶対主義)民主主義革命と社会主義革命という「連続」・「二段階」革命の基本方針となった。
 ロシアがソヴィエト連邦となった後のスターリンの時代だと、直接的な「一段階」の「社会主義」革命の方針が押しつけられた可能性がある。
 しかし、その時代、日本共産党はすでに実質的には存在せず(何人かのみが獄中にあり)、基本戦略を議論したり、受容する力が全くなかった。
 そのおかげで、戦後に復活した日本共産党は、若干の曲折はあったが、「民主主義」→「社会主義」という「二段階」革命路線を容易に採用することができた。
 かつそのおかげで、「社会主義」で一致しなくても「民主主義」という一点で引きつけて(党員の他に)少なくとも支持者をある程度は獲得することができ、国会内に議席を有する「公党」として生き続けることができている。
 前者一本だったとすると、とっくに消失しているだろう。あとは「社会主義」革命だけだったはずのイタリアの共産党はすでになく、フランスの共産党もなきに等しい。
  歴史というのは、「皮肉」なものだ。以上、思いつきまたは「妄論」の二つ。

1989/宮地健一による稲子恒夫。

 ロシア革命(とくにネップ)や日本共産党の詳細な主張・歴史認識に関心をもったのはとりわけ2016年になって以降だったように思う(むろんそれまで江崎道朗のレベルで全くの無知だったわけではない)。
 早々に入手したのは、古書でも安価ではなかったと思うが、以下だった。
 稲子恒夫編・ロシアの20世紀-年表・資料・分析(東洋書店、2007)。
 本文から事項索引まで、計1069頁。別に、はしがき・目次で計15頁。
 「編」となっているが、稲子以外の執筆者はいない。
 稲子恒夫、1927~2011。名古屋大学法学部教授、同大学名誉教授。
なお、レシェク・コワコフスキ、1927~2009。
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 <宮地健一のHP>の中に、稲子恒夫に関する以下の記述がある。宮地によるものだと思われる。**(1)と**の間は、「」を付けないが、引用。但し、一部に下線を付し、全角数字は半角に改め、一文ごとに改行した。**(1)と**(2) がある/この区分けは秋月による。
 **(1)
 稲子恒夫名古屋大学法学部教授は、著名なソ連法学研究者で学者党員だった。
 ソ連崩壊前、彼は、ソ連体制・レーニン賛美党員で有名だった。
 しかし、ソ連崩壊後、「レーニン秘密資料」などに直接接し、愕然とした。
 彼は、ある時、水田洋名古屋大学名誉教授に会って、『私のロシア革命・レーニン認識は根本的に間違っていた』と告白した。
 その会話内容を私(宮地)は、水田教授からじかに聞いた。
 その後、稲子名誉教授は、脳梗塞の後遺症にもかかわらず、1991年ソ連崩壊後に発掘・公表された大量の極秘資料を収集・分析し、下記『ロシアの20世紀』(東洋書房、2007年4月、1069頁)を、70歳・1998年から80歳・2007年にわたり、10年間掛けて完成させた。
 私(宮地)が別件の大須事件取材で、稲子宅を訪問した時点も、彼は1069頁のすべてを自分でパソコンに入力している最中だと語った。
 彼は、出版後の2011年8月に死去した。
**(2)
 ちなみに、稲子教授に関するエピソードを一つ書く。
 1969年、全国の大学封鎖運動と同時期に、新左翼・革マルが、名古屋大学の文学部・教養部を封鎖し、立てこもった。
 名大の共産党3支部-(1)教職員支部・(2)院生支部・(3)学生支部は、封鎖対策問題でグループ会議を初めて開いた。
 私(宮地)は、共産党愛知県委員会の代表で参加した。
 私は当時、(3)学生党委員会と(2)院生支部も担当していた。
 3支部からトップが2人ずつ参加した。
 (3)学生党委員会は、共産党員400人・民青1000人を抱え、全学部だけでなく、文化部ほとんどにも共産党グループを配置していた。
 (2) 院生支部も全学部にできていた。
 場所は、稲子宅だった。
 稲子教授は、(1)教職員支部のトップだった。
 テーマは、封鎖解除をどうするか、だった。
 稲子教授の提案で、圧倒的多数の共産党・民青組織は、封鎖を包囲し、ビラ・立看板などの宣伝行動をするだけで、武力解除方針を採らないという結論で合意した。
 その時点、広松渉は、名古屋大学文学部教授で、ドイツ語・哲学を教えていた。
 彼は、封鎖学生の理論的指導者として、毎日、自由に封鎖学部を出入りしていた。双方に暴力的出来事もなく、新左翼・革マルはまもなく自ら封鎖を解除した。
 **
 稲子恒夫が日本共産党系くらいの知識は私にもあって、この欄の<マルクス主義法学講座>(日本評論社-編集担当/林克行)の紹介の中でも、稲子が有力な「マルクス主義法学」の研究者だったことが分かる。
 上によると、それ以上に、稲子恒夫は、名古屋大学の同党「教職員支部」のトップだったというのだから、「院生」と「学生」を除き、実質的には日本共産党名古屋大学総支部長だったと見てよいと思われる。
 その稲子恒夫が1991年12月のソ連解体以降に、名古屋大学同僚(・文学部)の水田洋に、こう告白したのだという。
 「私のロシア革命・レーニン認識は根本的に間違っていた」。
 1927年生まれの稲子は、1992年に65歳。
 1961年にはすでに入党していたのだろうから、少なくとも(人生の最も活動的な)30年間を、「根本的に間違っていた」「認識」をもって、ソヴィエト法または社会主義法という科目の教師およびこの分野の研究者として過ごし、かつ日本共産党という政治団体の有力な構成員を務めてきた、ということになる。
 一度きりの人生。哀切感、気の毒という感覚、を覚える。
 彼の現役?活動中に敵対していた勢力の一員だった者からすると、そう単純なものではないかもしれないが。
<宮地健一のHP>には「学者党員」に関するその他の記述もあるが、今回は省略する。
 田口富久治、長谷川正安等々、なぜか名古屋大学の法政・人文関係には日本共産党員教授が多い(多かった)。法学部といっても、公法・政治学分野に限られるかもしれないが。また、水田洋も。
 ところで、上に出てくる名古屋大学文学部教授・広松渉(廣松渉)は、のちに東京大学教養学部教授になった。1933~1994。
 廣松渉・生態史観と唯物史観(講談社学術文庫、1991。原書1986)の「はじめに」の中に、こういう旨の記述がある。「」は引用。
 梅棹忠夫の<生態史観>論文の「論趣には体制側のイデオロ-グを随喜せしめるものがあり」、一方で、「マルクス学徒の神経を逆撫でする言辞に充ちている」。梅棹論文はたしかに「唯物史観を採る者にとって甚だ"癇に障る" 代物である」。
 上の宮地健一の記述によると、広松渉は「封鎖学生の理論的指導者として、毎日、自由に封鎖学部を出入りしていた」。
 広松渉(廣松渉)自身の記述によっても(上に言及の部分以外も含めて)、日本共産党員または同党系の研究者ではなくとも、この人は「マルクス学徒」、「唯物史観を採る者」ではあったわけだ。
 日本の「左翼」の、または<左翼的雰囲気>の層の厚さ・深さを知っておく必要があるだろう。かつまた、ここには日本に独特なものがあると見られることも。

1987/マルクスとスターリニズム③-L・コワコフスキ1975年。

 Leszek Kolakowski, The Marxist Roots of Stalinism, in: Is God Happy ? -Selected Essays (2012)の試訳のつづき。
 第三節と第四節。
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 スターリニズムのマルクス主義という根源。
 第三節・スターリン主義全体主義の主要な段階。
 (1)全体主義のソヴィエト変種は、絶頂点に到達する前に多年を要して成熟していった。
 その成長の主要な諸段階はよく知られている。だが、簡単に言及しておく必要があるだろう。
 (2)第一段階では、代表制民主主義の基本的諸形態-議会、選挙、政党、自由なプレス-が廃絶された。
 (3)第二段階(第一段階と一部重なる)は、「戦時共産主義」という誤解を生む名前で知られる。
 この名前は、この時期の政策は、内戦と干渉が強いた甚大な困難さに対処するための一時的で例外的な手段として考案された、ということを示唆する。
 実際には、指導者たち-とくにレーニン、トロツキーおよびブハーリン-の関連する著作からして、彼ら全員がこの経済政策-自由取引の廃止、農民からの「余剰」(すなわち地方指導部が余剰だと見なしたものの全て)の強制的徴発、一般的な配給制度、強制労働-を新しい社会の永続的な成果だと想定していた、ということが明らかだ。
 また、それを存在する必要がないものにした戦争諸条件を理由としてではなく、それが惹起した経済的災厄の結果としてその経済政策がついには放棄された、と考えられていたことも。
 トロツキーとブハーリンはいずれも、強制労働は新しい社会の有機的部分だとの確信を強調していた。//
 (4)この時期に設定された全体主義秩序の重要な要素は持続し、ソヴィエト社会の永続的な構成要素になった。
 このように継続した成果の一つは、政治勢力としての労働者階級の破壊だった。すなわち、民衆の主導性の自立した表現としての、また自立した労働組合や諸政党の目的としての、ソヴェトの廃棄。
 もう一つは、-まだ決定的でなかった-党それ自体の内部での民主主義の抑圧だった。
 ネップの時期を通じてずっと、システムの全体主義的特性はきわめて強く表れていた。自由取引が受容され、社会の大部分-農民-は国家からの自立を享有していたにもかかわらず。
 ネップは、政治的にも文化的にも、まだ国家所有でないかまたは完全には国家所有でない、そのような主導性を発揮する中心拠点に対する、一党所有国家による圧力の増大を意味した。この点での完全な成功を達成したのは、進展の後続の段階だったけれども。
 (5)第三段階は、強制的集団化だ。これは、まだ国有化されていなかった最後の社会的階級の破壊へと到達させ、経済生活に対する完全な支配権を国家に付与した。
もちろんこのことは、国家が経済の計画化に携わることが可能になった、ということを意味しなかった。国家は、そうしなかった。
 (6)第四段階は、粛清を通じての、党それ自体の破壊だ。なぜなら、党は、もはや現実的でなかったとしても潜在的な力をもつ、国有化されていない勢力だったのだから。
 有効な反抗する勢力は党の内部には残存していなかったけれども、多数の党員たち、とくに年配の党員たちは、伝統的な党イデオロギーへの忠誠を保ちつづけた。
 かくして、彼らが完全に服従していたとしても、現実の指導者と在来の価値体系の間で忠誠心を分化させるのではないか、と疑われた。-換言すれば、指導者に対して潜在的には忠誠していないのではないか、と。
イデオロギーとは指導者がいついかなるときでも語ったものだ、ということを彼らに明確にする必要があった。
 大虐殺は、この任務を成功裡に達成した。それは、狂人が行ったことではなく、イデオロギーの<指導者(Führer、総統)>の作業だった。//
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 第四節・スターリニズムの成熟した様相。
 (1)こうした推移の各段階は、慎重に決定されたり、組織化されたりした。全てがあらかじめ計画されていたのではなかったけれども。
 結果として生じたのは完全に国家が所有する社会で、それは、完璧な統合体という理想にきわめて近く、党と警察によって塗り固められていた。
 完璧に統合されるとともに、完璧に断片化されてもいた。同じ理由により、集団生活の全ての形態が完全に従属するという意味で統合され、市民社会が全ての意図と目的のために破壊されるという意味で断片化された。そして各市民は、国家との全ての関係について、唯一の全能の装置に向かい合った。孤独で、無力な個人だ。
 社会は、マルクスが<ブリュメール十八日>でフランスの農民について語った、「トマト袋」のような物に変えられた。//
 (2)こうした状況-原子のごとき個人に向かい合う統合された国家有機体-は、スターリニズム体制の重要な特質の全てを明確にした。
 その特質はよく知られ、多くのことが叙述されてきた。しかし、我々の主題に最も関連性のある若干のことに簡単に言及しておこう。
 (3)第一は、法の廃棄だ。
 法は確かに、公共生活を規制する一セットの手続的規準として、継続した。
 しかし、国家が個人と交渉をするその全能性を制限することのできる一セットの規準としては、法は完全に廃棄された。
 言い換えれば、市民は国家の所有物だという原理を制限する可能性のある規準を、法は含まなかった。
 その決定的な点で、全体主義の法は、曖昧でなければならなかった。その適用が執行当局の恣意的で変化する決定の要になるように、また、執行当局が選択するときはいつでも各市民を犯罪者だと見なすことができるように。
 顕著な例はつねに、刑法典に定められている政治的犯罪だった。
 その諸規定は、市民がほとんど毎日冒さないことがほとんど不可能であるように、条文化されていた。
 そうした犯罪のうちいずれを訴追して、どの程度のテロルを行使するかは、支配者たちの政治的決定にかかっていた。
 この点は、ポスト・スターリニズムの時代でも何も変わらなかった。すなわち、法は際だって全体主義的なままで、大量テロルから選択的テロルへの移行も、手続的規準をより十分に遵守することも、-個人の諸生活に対する国家の実効的権力を制限しないかぎりは-それが持続することとは関係がなかった。
 民衆は、政治的冗談を話したという理由で投獄されることもあれば、そうされないこともあった。
 彼らの子どもたちは、共産主義の精神(これが何を意味していようと)を発揮するという法的義務を履行しなければ、強制的に連れ去られることもあれば、そうされないこともあった。
 全体主義的な無法性が意味したのは、極端な手段をいつどこでも現実に適用するということではなく、国家が所与のときに用いたいと欲する全ての抑圧に対するいかなる防護をも市民に与えない、ということだった。
 国家と民衆の媒介者としての法は消失し、国家の際限なく融通性のある道具に変質した。
 この点で、スターリニズムの原理は変わらないままで存続している。//
 (4)第二は、一人による専制だ。
 これは全体主義国家の発展のための駆動力である完全な統合という原理の、自然で「論理的な」所産だった、と思える。
 完全な姿を出現させるために、国家は、無制限の権力を授けられた一人の、かつ一人だけの指導者を必要とした。
 このことは、レーニン主義の党のまさに創立そのものに暗に示されていた(トロツキーのしばしば引用される1903年の予言と合致した。予言者の彼自身はすぐに忘れてしまったが)。
 1920年代のソヴィエト体制の進展の全体に見られたのは、闘い合う諸利害、諸思想および政治的諸傾向を表現することのできるフォーラムが一歩ずつ狭められていく、ということだった。
 短い時代の間に、それらは社会で公的に表明され続けたが、その表現は次第に限定され、狭くなる方向へと動いた。先ず党、ついで党装置、そして中央委員会、最後には政治局に限定された。
しかし、ここでも社会的紛議に関する表現を妨げることができた。その紛議の情報入手先は抹消されなかったけれども。
 この最も狭い範囲の党幹部会ですら、かりに続けることが許されたとしても、対立する見解の表明は、社会内部にまだ残存している利害対立の影響を受けるだろう、というのが、十分に練ったスターリンの主張だった。
 これは、党の最上級機関ですら異なる諸傾向または分派が自分たちの見解を表明している場合は、市民社会の破壊は十分には達成されなかった、ということの理由だ。
(5)スターリン以後にソヴィエト体制に生じた変化-個人的僭政から寡頭制への移行-が、ここでは大きく目立つように見える。
 それは、システムに内在する治癒不可能な矛盾から生じた。システムが必要とし、個人的な僭政に具現化された指導者層の完全な統合は、別の指導者たちの最小限度の安全確保の要求とは両立し難い。
 スターリンの支配のもとでは、彼らは他の民衆と同様の不安定な状態に格下げされた。
 彼らの膨大な特権の全ても、上層からの突然の崩落、投獄、そして死に対して彼らを防護してくれなかった。
 スターリンの死以降の寡頭制は、スターリニズムの病的形態だと適切に描写され得るかもしれない。
 (6)にもかかわらず、最悪の時代ですらソヴィエト社会は、警察によっては支配されなかった。
 スターリンは警察機構の助けを借りて国と党を統治したけれども、警察の長としてではなく、党指導者として統治した。
四半世紀の間スターリンと同一体だった党は、全てを包み込む支配権を決して失わなかった。//
 (7)第三は、統治の原理としてのスパイの普遍化だ。
民衆は相互にスパイし合うように奨励された-そして強いられた-。しかし、これは、国家が現実的な危険に対して自己防衛する方法ではなかった。そうではなく、全体主義の原理を究極にまで高めるための方策だった。
 民衆は市民として、目標、願望および思考-これらは全て指導者の口を通じて表現される-を完全に統合して生活することが想定されていた。
 しかしながら、個人としては、お互いに憎悪し合い、継続的に相互の敵対感をもって生活するように期待された。
 このようにしてこそ、個人の他者からの孤立は完全なものになり得た。
 実際に、達成不能のシステムの理想は、誰もが同時に強制収容所の収容者でありかつ秘密警察の工作員であることだったように思える。//
 (8)第四は、イデオロギーの明確な全能性だ。
これはスターリニズムに関する全ての議論の要点だ。そして、他の点よりも混乱や不同意が多い。
 Solzhenitsyn とSakharovの、この主題に関する見解のやり取りを見るならば、これが明瞭になる。
 前者はおおまかには、こう言う。ソヴィエト国家全体が、内政にせよ外交にせよ、経済問題であれ政治問題であれ、マルクス主義イデオロギーの圧倒的な支配に従属していた。また、国家と社会の両方に与えた全ての大災難について責任があるのは、この(偽りの)イデオロギーだ。
 後者は、こう返答する。公式の国家イデオロギーは死んでいる、誰もそれを真摯には受け取っていない。したがって、そのイデオロギーは実際の政策を導いて形成する現実の力であり得ると想像するのは、愚かだ。//
 (9)これら二つの観察はいずれも、一定の限定の範囲内で、有効だと思える。
 要点は、つぎのことだ。すなわち、ソヴィエト国家はそのまさに始まりから、その正統性のための唯一の原理として創設の基礎に組み込まれているイデオロギーをもつ。
 たしかに、ボルシェヴィキ党がロシアで権力を奪取したイデオロギー上の旗印(平和と農民のための土地)は、マルクス主義はむろんのこと社会主義に特有の内容をもつものではなかった。
 しかし、ボルシェヴィキ党は、レーニン主義のイデオロギー原理を基礎にしてのみ独占的支配を確立することができた。定義上労働者階級と「被搾取大衆」の、彼らの利益、目標および願望(かりに大衆自身は意識していないとしても)の、唯一の正統な語り口である党。そのことは「正しい」マルクス主義イデオロギーに即して大衆の意思を「表現」する能力があることによっている党。
 専制的権力を支配する党は、その権力を正当化する、自由選挙や伝来の王制のカリスマがない場合に、正統性の唯一の基礎であるそのイデオロギーを放棄することができない。
 このような支配システムでは、信じている者の数の多寡に関係なく、誰が信じ、誰が真摯に受容しているかに関係なく、イデオロギーはなくてはならないものだ(indispensable)。
 そして、イデオロギーは、支配者たちおよび被支配者たちのいずれにももはや信じている者は事実上いなくなったとしても-ヨーロッパの社会主義諸国にいま見られるように-、なくてはならないもののままだ。
 指導者たちが明らかにすることができないのは、権力システムの完全な崩壊という危機に直面させてまで、彼らの政策の本当のかつ悪名高い諸原理を暴露してしまう、ということだ。
 誰にも信じられていない国家イデオロギーは、国家の全構造が粉砕されてはならないとすれば、全ての者に対して拘束的でなければならない。//
 (10)これは、実際の諸政策の各段階を正当化するために訴えたイデオロギー的考察は、本当の、スターリンまたはその他の指導者たちがその前で拝跪した独立の力をもっている、ということを意味してはいない。
 ソヴィエト体制は、スターリンのもとでもその後でも、つねに、大帝国の<現実政策>を追求した。そして、そのイデオロギーは、各政策を是認するに十分なほどに、曖昧なものでなければならなかった。
 ネップと集団化。ナツィスとの友好関係とナツィスとの戦争、中国との友好関係と中国に対する非難。イスラエルの支持とイスラエルの敵たちへの支援。冷戦とデタント〔緊張緩和〕、国内体制の締め付けと緩和。総督(satrap)の東方カルトとそれに対する弾劾。
 そして、このイデオロギーはソヴィエト国家を維持し、全てを抱え込んでいる。//
 (11)ソヴィエトの全体主義システムはロシアの歴史的背景、強い徴表となっている全体主義的特性、を考慮しなければ理解できない、としばしば言われてきた。
 国家の自律性と市民社会に対するその圧倒的な権力は、19世紀のロシア歴史研究者によって強調された。そして、こうした見方は多数のロシア人マルクス主義者によってある程度の留保つきで、是認されてきた(プレハノフの<ロシア社会思想史>、トロツキーの<ロシア革命史>)。
 こうした背景は、革命の後で、ロシア共産主義の本当の根源だとして繰り返して論及された(Berdyaev)。
 多数の著作者たち(Kucharzewski は最初の一人)は、ソヴィエト・ロシアはツァーリ体制を直接に拡張したものだと捉えた。
 彼らは、とりわけ、ロシアの膨張主義政策、新しい領土への飽くなき欲求を見た。また、全市民の「国有化」(nationalization)、人の全ての形態での活動の国家目標への従属も。
 若干の歴史研究者たちはこの主題について、きわめて説得的な研究書を刊行してきた(直近では、R. Pipes 〔リチャード・パイプス〕、T. Szamuely)。
 私は、彼らの結論を疑問視しはしない。
 しかし、歴史的背景はソヴィエト秩序でのマルクス主義イデオロギーがもつ特有の機能を説明しはしない。
 ロシアでのマルクス主義の意味の全ては、結局は不安定なイデオロギー帝国に、最終的な崩壊の前にしばらくの間は生き残ることができる血と肉を注入することにあった、ということを(Amalrik とともに)認めるところにまで進むとしてすら、いかにしてマルクス主義はこの任務に適合的なものになったのか、という問題は、未回答のままだ。
 マルクス主義の歴史哲学は、その明瞭な希望、企図および価値でもって、いかにして、全体主義的、帝国主義的かつ排外主義的国家に、イデオロギー上の武器を与えることができたのか?//
 (12)マルクス主義歴史哲学はそうできたし、そうした。
 本質的部分で歪曲される必要はなかった。たんに適切な態様で解釈されたにすぎない。
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 つぎの(最終)節の表題は<マルクス主義としてのスターリニズム>。次節だけで、全体の過半を占める。
 

1975/L・コワコフスキ著第三巻第五章・トロツキー/第6節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 今回の試訳部分は、第三巻分冊版のp.212-p.219。合冊版では、p.957-p.962。
 なお、トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。この著の邦訳書はない。
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 第5章・トロツキー。
 第6節・小括(conclusions)。
 (1)今日から見ると、1930年代のトロツキーの文筆による活動や政治的活動は、極端に願望に充ちた思考だの印象を与える。
 実現しない予言、空想じみた幻想(fantasic illusions)、間違った診断、そして根拠のない希望、これらの不幸な混合物だ。
 もちろん、トロツキーが戦争の成り行きを予見できなかったというのは、第一に重要なことではない。この時代に多数の者が予言したが、たいていは事実によって裏切られた。
 しかしながら、重要で特徴的なのは、トロツキーが、深遠な弁証法と大きな歴史発展の理解にもとづく科学的に正確な判断だとして、その論述を弛むことなく提示した、ということだ。
 実際に、彼の予見が基礎にしていた一つは、歴史は彼の正しさを証明するだろうという望みであり、また一つは彼が遅かれ早かれ実現するに違いないと信じて想定した歴史の法則から導いた、教理上の(doctrinaire)結論だった。
 かりにスターリンが戦争の結末を予見し、殺戮しないでトロツキーに復讐していたとすれば、どうなっただろうと人は考えるだろうか。生かしたままにして、トロツキーの希望や予言の全てが崩壊して、ただの一つも実現していないことを見させる、という復讐だ。
 戦争は反ファシスト戦争だった。
 ソヴィエトによる東ヨーロッパの制圧を別として、ヨーロッパまたはアメリカに、プロレタリア革命は一つも発生しなかった。
 スターリンもそうだったように、スターリン主義の官僚機構は一掃されず、測りがたいほどに強くなった。
 民主主義政体は生き残り、西ドイツやイタリアで復活した。
 植民地領域の多くは、プロレタリア革命なくして、独立を達成した。
 そして、第四インターナショナルは、無能力なセクトのままだった。
 かりにトロツキーがこれら全てを見たならば、自分の悲観的な方の仮説が正しいものだったこと、そしてマルクス主義は幻想だったことが証明された、ということを認めただろうか?
 我々はもちろん、これを語ることができない。しかし、トロツキーの心性からするとおそらく、彼はこのような結論を導き出さないだろう。
 彼は疑いなく、歴史の法則の働きが再びいくぶんか遅れた、だが大きな動きは近い将来にあるという信条と歴史の法則は合致していると、たんに述べただろう。//
 (2)本当の教理主義者(doctrinaire)であるトロツキーは、自分の周りで生起している全てのことに無神経だった。
 彼はもちろん、諸事件を身近で追い、それらに論評を加えた。そして、ソヴィエト同盟や世界政治に関する正確な情報を得るために最善を尽くした。
 しかし、教理主義者の本質は、新聞を読まなかったとか、事実を収集しなかった、ということにあるのではない。経験上の情報に鈍感な、あるいはきわめて漠然としているためにどんな事態もそれに適合させるために用いることのできる、そのような解釈の体系に執着する、ということにある。
 トロツキーには、何らかの事態が自分の考えを変える原因になるかもしれないと怖れる必要がなかった。彼の議論はつねに、「一方の形態では、他方…」、あるいは「…が認められるとしても、しかし、にもかかわらず…」なのだった。
かりに共産主義者が世界のどこかで後退するとすれば、スターリン官僚制が(彼がつねに言ったように)運動を破滅に導いているという彼の診断の正しさを確認した。
 かりにスターリンが「右翼主義」へと振れたならば、それはトロツキーの分析の勝利だった。ソヴィエト官僚制は反動へと退廃していくだろうと、彼はいつも予言していたのだから。
 しかし、かりにスターリンが左翼へと振れたならば、これまたトロツキーにとっての勝利だった。つねに、ロシアの革命的前衛は力強いので官僚機構はそれに配慮するに違いない、と明瞭に彼は述べてきたのだ。
 かりにどこかの国のトロツキスト党派がその党員数を増したとすれば、それはもちろん良い兆候だ。最良の党員たちは、真のレーニン主義が正しい政策であることを理解し始めているのだ。
 一方でかりにその集団が規模を小さくしたまたは分裂を経験したとすれば、これもまたマルクス主義の分析の正しさを確認するものだ。すなわち、スターリン主義の官僚機構は大衆の意識を息苦しいものにしており、革命の時期に動揺する党員たちはつねに戦場から逃げ出すのだ。
 かりにソヴィエト・ロシアの統計が経済的な成功を記録するならば、それはトロツキーの主張の正しさを確認する。プロレタリアートの意識によって支えられた社会主義は、官僚機構の存在にもかかわらず、基盤を確立しているのだ。
 かりに経済的な後退または厄災があったとすれば、トロツキーは再び正しい。彼がつねに言ってきたように、官僚機構は無能力で、大衆の支持を受けていないのだ。
このような精神の構造は、入り込む隙がないもので、事実によって矯正されることがない。
 明らかなことだが、社会には多様な勢力と競い合う傾向の組織があって活動している。そして、異なるものが、異なった時期に有力になる。
この常識的な真実が哲学的思考の真ん中に存在しているならば、経験が拒否される危険はない。
 しかしながら、トロツキーは、多数のマルクス主義者と同様に、誤謬なき弁証法の方法に助けられて自分は科学的に観察していると空想していた。//
 (3)トロツキーのソヴィエト国家への態度は、心理的には理解可能だ。すなわち、ソヴィエト国家の大部分は彼が生み出したもので、自分の子どもがとてつもなく退廃したことを認めることができなかったのは、驚くべきことではない。
 ゆえに、彼はつぎの異常な矛盾した言辞を絶えず繰り返し、ついには忠実なトロツキストたちすら理解できないと感じるようになった。
 労働者階級は政治的に収奪(expropriate)され、全ての権利を剥奪され、隷属化して踏みにじられてきた。しかし、ソヴィエト同盟は今もなお労働者階級の独裁のもとにある。土地と工場が国家の所有物になっているのだから。
 時が経るにつれて、トロツキーの支持者たちは、このドグマが原因で、ますます彼から離れた。
 ある者は、ソヴィエト共産主義とナツィズムの間の明確な類似性を看取し、世界じゅうの全体主義体制の不可避性について、悲観的に予感した。
 ドイツのトロツキストのHugo Urbahns は、あれこれの形態での国家資本主義が普遍的になるだろう、と結論した。
 1939年にフランス語で「世界的な官僚主義化」に関する書物を発行したイタリアのトロツキストのBruno Rizzi は、世界は新しい形態での階級社会に向かって動いている、その社会ではファシスト国家やソヴィエト同盟で実際に例証されている官僚制の衣をまとった集産的所有制へと、個人所有制が置き換えられる。
 トロツキーは、このような考えに烈しく反対した。ブルジョアジーの一機関であるファシズムが、政治的官僚機構に有利に自分たちの階級を収奪することができる、と想定するのは馬鹿げている、と。
 同様に、トロツキーは、Burnham やShachtman と決裂した。彼らが、ソヴィエト同盟を「労働者の国家」と呼称するのはもはやいかなる認知可能な意味もない、と結論づけたときに。
 Shachtman は、資本主義のもとでは経済的権力と政治的権力を分離することができるが、この分離はソヴィエト同盟では不可能だ、そこでは財産関係とプロレタリアートの政治的権力への関与は相互に依存し合っている、と指摘した。プロレタリアートは、政治的権力を喪失しながら経済的独裁制を実施し続けることはできない。
 プロレタリアートの政治的な収奪とは、全ての意味でのそれによる支配の終焉を意味する。従って、ロシアはまだ労働者の国家だと主張するのは馬鹿げている。支配している官僚機構は、言葉の真の意味での「階級」なのだ。
 トロツキーは、最後まで断固として、このような結論に反対した。ソヴィエト同盟にある生産装置の全ては国家に帰属している、との彼の唯一の論拠を何度も繰り返すことによって。
 このこと自体は、誰も否定しなかった。
 対立は理論上のものというよりも、心理上のものだった。ロシアは新しい形態の階級社会と収奪を生んでいるということを承認することが意味したのは、トロツキーの生涯にわたる仕事は無意味だった、彼自身が、自分が意図したものとはまさに正反対のものを産出することを助けた、ということを受け入れる、ということだった。
 これは、ほとんど誰も導き出すつもりのない一種の推論だ。
 同じ理由で、トロツキーは必死になって、自分が権力をもっていたときのソヴィエト同盟とコミンテルンは全ての点で非難される余地がなかった、と主張した。真のプロレタリアートの独裁、真のプロレタリア民主主義であって、労働者大衆から純粋な支持を得ていたのだ。
 抑圧、残虐行為、武装侵攻等々の全ては、それらが労働者階級の利益になるのならば、正当化される。しかしこのことは、スターリンがとったのちの諸手段とは関係がない。
 (トロツキーは逃亡中に、ロシアには宗教弾圧はない-正教教会は独占的地位を剥奪されただけで、それは正しくかつ適切だった、と主張した。
 彼はこの点では、スターリン体制を擁護するのを強いられた。スターリンはレーニンの政策から何ら逸脱しなかったのだから。)
 トロツキーは、レーニン時代の新生ソヴィエト国家が実施した武装侵入は間違っていたなどとは決して考えていなかった。
 そうではなく逆に、革命は地理を変更することはできないと、何度も繰り返した。言い換えると、帝制時代の国境線は維持され、または復活されるべきなのであり、ソヴィエト体制はポーランド、リトアニア、アルメニアおよびジョージアやその他の境界諸国を「解放する」あらゆる権利をもつのだった。
 彼は、1939年に赤軍の官僚主義的頽廃がなかったとすれば、フィンランドの労働大衆に解放者として歓迎されていただろう、と主張した。
 しかし、彼は、自分が権力をもち、かつ頽廃していないときに、フィンランド、ポーランドあるいはジョージアの労働大衆は歴史の法則に合致して、なぜ熱狂的に彼らの解放者を歓迎しなかったのか、と自問することがなかった。//
 (4)トロツキーは、哲学上の諸問題には関心がなかった。
 (彼は晩年に、弁証法と形式論理にもとづいて自分の見解を深化させようとした。しかし、明らかなのは、彼が知る論理の全ては高校でおよびプレハノフに関する青年時代の学修から収集した断片で成り立っており、彼はそれらの馬鹿らしさを繰り返した、ということだ。
 Burnham はトロツキーに、彼は現代論理学について何も知らないことを指摘して、議論をやめるように助言した。)
 トロツキーはまた、マルクス主義の基礎に関するいかなる理論的な分析をすることも試みなかった。
 彼にとってすでに十分だったのは、マルクスが、現代世界の決定的な特徴はブルジョアジーとプロレタリアートの間の闘争であり、この闘争はプロレタリアート、世界的社会主義国家の勝利、および階級なき社会でもって終わるよう余儀なくされていると示した、ということだった。
 このような予見がいったい何を根拠にしているのかについては、トロツキーは関心がなかった。
 しかしながら、これらが真実だと確信し、また自分は政治家としてプロレタリアートの利益と歴史の深部を流れる趨勢を具現化していると確信して、彼は、最終的な結末に対する忠誠さを揺らぐことなく維持した。
 (5)ここで、我々は異論に対して答えるべきだろう。
 つぎのように語られるかもしれない。トロツキーの努力や彼のインターナショナルが完全に有効でなかったことは彼の分析内容を無効にしはしない、なぜなら、仲間たちの多くまたは全てが同意しなかったとしてすら、ある人間は正しいということがあり得る、そして、<不可抗力(force majeure)>は論拠にならない、と。
 しかしながら、我々はここで、力が論拠になるか否かは人が何を証明したいかに依存するという、(<社会主義のもとでの人間の魂>での)Oscar Wilde の論評を想起することができる。
 我々はさらに、同様の思考方法で、問題とされている論点がある者が強いかそうでないかであるならば、力は論拠になる、と付け加えることができる。
 科学史上一度ならず起きたように、ある理論が全員またはほとんど全員によって拒否されるということは、その理論が間違いであることを証明しはしない。
 しかし、それは、偉大な歴史的趨勢を(または神の意思を)「表現」したものだという趣旨で、生来の自己解釈力をもつ理論だというのとは異なる問題だ。 
 上でいう趣旨とは、やがて勝利する運命にある階級の真の意識を具現化している、あるいは真実を発現したもので成る、したがって理論上は(または「理論上の意識」によれば)不可避的に必ず全ての者に打ち勝つ、といったものだ。
 かりにこのような性格のある理論が承認されないとするならば、そうされないことは、それ自体の諸前提に反対する一つの論拠だ。
 (他方で、実践における成功は、必ずしもそれに有利となる論拠ではない。
 イスラムの初期の勝利が証明するのはコーランが真実だったことではなく、それが生み出した信仰が、本質的な社会的要求に対応していたがゆえに最も力強い集結地点(rallying-point)だったということだ。)
 同じように、スターリンの諸成功は、彼が理論家として「正しい」者だということを証明するものではなかった。
 このような理由で、トロツキズムの実践での失敗(failure)もまた、科学的な仮説の拒絶とは違って、理論上の失敗だった。すなわち、トロツキーが確信していた理論は、間違っていたことの証拠だ。//
 (6)教条的(dogmatic)特質をもつトロツキーは、マルクス主義の教理のいかなる点についても、理論上の解明への貢献をしなかった。
 彼はしかし、無限の勇気、意思力および忍耐力を備えた、際立つ個性の人物だった。
 スターリンと全ての国々のその子分たちから悪罵を投げつけられ、最強の警察と世界じゅうの宣伝機関によって追及されても、彼は決して怯むことがなかったし、闘いを放棄することもなかった。
 彼の子どもたちは殺された。彼は自国から追い出され、野獣のごとく追跡され、最後には殺戮された。
 あらゆる審判での彼の驚くべき抵抗はその忠誠心の結果であり、決して、-それとは反対に-彼の揺るぎなき教条主義や精神の非融通性と矛盾してはいない。
 不運なことだが、忠誠心の強さや迫害を耐え忍ぼうとする支持者たちの意気は、知的に、または道徳的に正しい(right)、ということを証明しはしない。//
 (7)ドイチャー(Deutscher)はその単著の中で、トロツキーの生涯は「先駆者の悲劇」だった、と語る。
 しかし、こう主張する十分な根拠はなく、トロツキーはいったい何の先駆者だと想定されていたのかも明瞭でない。
 トロツキーはもちろん、スターリン主義者による歴史編纂の捏造ぶりの仮面を剥ぐことや、新しい社会での条件に関するソヴィエトによる宣伝活動の欺瞞を明らかにして論難することに、貢献した。
 しかし、その社会や世界の将来に関する彼の予見は全て、間違っていたことが分かった。
 トロツキーはソヴィエトの僭政体制を批判した点で独自性をもつのではなく、そのような批判を行った最初の人物でもなかった。
 逆に、彼は民主主義的社会主義者たちに対してよりははるかに穏やかに、ソヴィエト体制を批判した。また、僭政体制<だとして(qua)>反対したのではなく、彼がそのイデオロギー上の原理的考え方にもとづいて診断した、究極的目標についてのみ反対した。
 スターリンの死後に共産主義諸国で表明された種々の彼に対する批判論は、事実についても批判者自身の気持ちにおいても、トロツキーの著作や思考と何の関係もなかった。
 これら共産主義諸国での「反対派(dissident)」運動には、彼の考え方はいかなる役割も果たさなかった。共産主義の見地からソヴィエト体制を批判した、次第に少なくなっている一群の者たちの間にすら。
 トロツキーは、共産主義に代わる別の選択肢を提示しなかったし、スターリンと異なる何らかの教理を提示したわけでもなかった。
 「一国での社会主義」に対する攻撃の主要な対象は、スターリンとは何の関係もない理由で非現実的になっていた一定の戦術上の方針を説き続ける試みにすぎなかった。
 トロツキーは「先駆者」ではなく、革命の落とし子(offspring)だった。その彼は、1917-21年に採用された行路との接線部分に投げ込まれたが、のちには内部的かつ外部的な理由で遺棄されなければならなかったのだ。
 彼の生涯は「先駆者」というよりも、「亜流の者」(epigone)の悲劇だったと呼称する方が正確だろう。
 これはしかし、適切な表現ではない。
 ロシア革命は、一定の諸点で行路を変更したが、全ての点で変えたのではなかった。
 トロツキーは絶えず革命的侵略を擁護し、かりに自分がソヴィエト国家とコミンテルンを運営することができれば、全世界は遅滞なく輝かしいものになるだろうと、自分自身や他者を説きつづけた。
 彼がそう信じた根拠は、それこそがマルクスの歴史哲学(historiosophy)が教える歴史の法則だ、ということにあった。
 しかしながら、ソヴィエト国家は、成り行きでその時点までの行路を変更することを余儀なくされた。そしてトロツキーは、そのことを理由としてその指導者たちを叱責するのをやめなかった。
 しかしながら、国内体制に関するかぎりは、スターリニズムは明らかに、レーニンとトロツキーが確立した統治のシステムを継承したものだった。
 トロツキーはこの事実を承認することを拒んだ。また、スターリンの僭政はレーニンとは関係がない、実力による強制、警察による抑圧および文化生活の荒廃化は「官僚機構による」<クー・デタ>だ、これらについて自分はほんの少しの責任もない、と自分に言い聞かせた。
 このような絶望的な自己欺瞞は、心理学的に説明可能なものだ。
 ここで我々に判明するのは、たんなる「亜流の者」(epigone)の悲劇ではなく、自分が作った罠に嵌まった、革命的僭政者の悲劇だ。
 トロツキストの理論というようなものは何もなかった。-絶望的に自分の地位を回復しようとする、退いた指導者だけがいた。
 彼は自分の努力が虚しいことを実感することができなかった。また、奇妙な頽廃だと自分は見なしたが現実にはレーニンやボルシェヴィキ党全員と一緒に社会主義の創設だとして確立した諸原理の直接の帰結に他ならない、そういう諸事態について自分に責任がある、ということを受け入れようとしなかった。//
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 第6節が終わり、第5章・トロツキーも終わり。

1970/L・コワコフスキ著第三巻第五章第4節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 今回は、第三巻分冊版のp.201-p.206。
 なお、トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。この著の邦訳書はない。
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 第5章・トロツキー。 
 第4節・ソヴィエトの経済と外交政策に対する批判。
  (1)少なくとも理論上は、工業化と将来の農業政策はソヴィエト同盟の左翼反対派にとってきわめて重要な問題だった。そのために、スターリンが反対派の政策方針の全てを採用し、強化した態様で実施することが分かったとき、トロツキーは、ぎこちない立場を示した。
 彼は、スターリンは実際に反対派の政策意図を実行したが、官僚機構でかつ十分な考慮のない方法でそれを行った、と宣告することで、困難な状態を切り抜けた。
「左翼反対派は、ソヴィエト同盟で工業化と農業の集団化のための闘争を始めた。
 この闘いは一定の意味では勝利した。すなわち、1928年に始まり、ソヴィエト政府の全政策が左翼反対派の基本的考え方を官僚主義的に歪曲して適用していることが示されている。」
 (G. Breitman & B. Scott 編<レオン・トロツキー著作集-1933-1934年(1972年)>p.274.)
 官僚機構はこの措置を、政府の論理で自分たちの利益のために実施することを「強いられ」た。そして、プロレタリアートの歴史的任務を歪曲した方法で履行したけれども、変革それ自体は「進歩的」だった。さらには、スターリンがその考えを変えるように強いたのは、左翼からの圧力だ。
 「革命を目指す創造的勢力と官僚機構の間には、深い対立が存在する。
 スターリン主義者の組織が一定の限界に来て立ち止まるならば、そして左翼へと鋭く舵を切るのを強いられているとすら感じるならば、無定型で散在してはいるが今もまだ力強い、革命党の要素による圧力こそが、それを起こしているのだ。」
 (<著作集, 1930-1931年>, p.224.)
集団化に関して言うと、トロツキーは、経済的準備の性急さと欠落を批判し、スターリン主義者たちはコルホーズ(kolkhozes)を社会主義の制度だと見なす過ちを冒している、と強調した。コルホーズは過渡的な形態にすぎない、と。
 もっと言えば、集団化は資本主義復活の方向への一歩だったと判明している、と。
 トロツキーは<裏切られた革命>で、スターリンは土地をコルホーズに与えることで国有化することを止めた、他方では農民に私的区画地の耕作を許すことで「個人主義」の要素を強化した、と書いた。
 かくして、ソヴィエト農業が朽ち果てて数百万の農民が飢えて死んでいたとき、あるいは最後になって彼らが受け取った私的区画地を維持する許可で何とか生きながらえていたとき、トロツキーの主要な関心は、この現象が示している「個人主義」の危険だった。
 彼は、富農(kulaks)との闘いは全く不十分だと主張すらした。スターリンは彼らにコルホーズで組織する機会を与えた、かつまた最初の廃絶運動のあとでは田園地帯での新しい階級分化をもたらすに違いない実質的な譲歩を行うまでした、のだと。
 (これは1935年のトロツキーの基本的主張だった。そのときに彼は、スターリンの外交政策に「右翼への揺れ」を感知し、ゆえにソヴィエトの内政問題にも類似の兆候を探し求めた。)//
 (2)トロツキーは<裏切られた革命>やその他のあちこちで、ソヴィエト工業への出来高払い労働(piece-work)の導入を非難した。
 しかしながら、彼の議論からすると、警察的強制または革命的熱情が生産性向上のための物質的誘導に代わるべきだと考えたかのかどうか、あるいは革命的熱情がどのようにして喚起されるべきなのかと考えていたのか、を語るのは困難だ。//
 (3)スターリンの外交政策に関して言うと、トロツキーは、「一国での社会主義」のために国際的革命は放棄されている、という主題を奏でた。だからこそ、革命は、ドイツ、中国およびスペインで連続して裏切られたのだ。
 (トロツキーによると、スペイン内戦は「本質的には」社会主義を目指すプロレタリアートの闘いだった。)
 彼は、赤軍は1923年にドイツの共産主義者を助けるために派遣されるべきだったかどうか(彼は1920年にそうすべく試みたが成功しなかった)、あるいは、1926年に中国共産党を助けるべくそうすべきだったかどうかを、語らなかった。
 一般的に言ってトロツキーは、発展途上の国々での「民族ブルジョアジー」を支援する政策には反対だった。
 この政策方針はしばしば、資本主義大国を弱体化させるには大いに役立った。
 トロツキーはしかし、「民族ブルジョアジー」の支援は致命的だ、と考えていた。その理由は、他のどこでもそうだが植民地領域では、革命を継続的に社会主義の段階へと高める共産主義者の指導にもとづいて行われてはじめて、「ブルジョア革命」の任務は履行される、というものだった。
 例えば、インドがプロレタリア革命による以外の方法で独立を達成することができると想定するのは馬鹿げている。このようなことは、歴史の法則から絶対的に外れている。
 ロシアの例が示すように、最初からプロレタリアート、すなわち共産党によって指導された「永続革命」こそが唯一可能にする方策だ。
 トロツキーは、ロシアの範型は世界の全ての国々を絶対的に拘束するものだと考えた。そのゆえに彼は、諸々の国々の歴史や特有の条件に関して何がしかのことを知っているかどうかに関係なく、全ての諸問題について決まり切った回答を行った。//
 (4)革命期の共産主義者は完全に情勢を統御することができるまでは過渡的な目標を活用しなければならない、ということに、トロツキーは反対しなかった。
 かくして、トロツキーは中国のトロツキストたちへの1931年の手紙で、国民議会という考えはその基本的政綱から排除されなければならない、と書いた。その理由は、貧農を支援することが説かれるときには、「農民層の不信を掻き起こすために、あるいはブルジョアジーが虚偽宣伝を開始することを可能にするために、プロレタリアートは国民議会をしを招集してはならない」、ということだった。
 (<著作集、1930-1931年>, p.128.)
 他方で我々は、別の箇所で、「プロレタリアートと農民の独裁」という1917年のレーニンのスローガンを繰り返すのは致命的な過ちだろう、という文章を読む。
 ロシア革命の最初から、政権はプロレタリアートと貧農を代表するものだとされてきた。
 この点についてトロツキーは、つぎのように書いた。
 「たしかに後になって我々は、ソヴィエト政権を労働者と農民のものだと呼称した。
 しかし、そのときまでにプロレタリアートの独裁はすでに事実であり、共産党は権力を握っており、その結果として労働者と農民の政府という名前は、何ら曖昧さを残すものでも警戒心を起こさせる理由になるものでもなかった」(同上、p.308.)。
 要するに、いったん共産党が権力を手中にすれば、虚偽的なまたは欺瞞的な名称には何ら害悪は存在し得ないのだった。//
 (5)ドイチャー(Deutscher)のようなトロツキーの支持者や崇拝者は、トロツキーが「社会ファシズム」とのスローガンに反対したことを、その評価を高める事実として強調した。
 たしかにトロツキーは社会民主主義政党内の労働者大衆を共産党から切り離すという理由で、このスローガンを批判した。しかし、社会民主主義者たちに関して何らかの現実的な政策方針を彼は持っていなかったように見える。
 トロツキーは、改良主義ときっぱりと決別しないで社会民主主義の再生を図っている諸組織との永続的な協力関係など語ることはできない、と書いた。
 同じ時期に、ヒトラーの権力継承の前に、彼は、「社会ファシズム」を語って同時に社会民主主義者に屈服していると、スターリン主義者たちを非難した。
 ナツィの勝利の直後の1933年6月には、ヒトラーの従僕であるドイツの社会民主党との統一戦線などを考えつくこともできない、と書いた。
 しかし、トロツキーの憤激は、1934-35年のソヴィエト政策の変更に対して、ひどく真剣に向けられた。
 スターリニズムは、その右翼の様相を最終的に提示した。スターリニストたちは、第二インターナショナルの裏切り者たちと同盟した。さらに悪いことには、彼らは平和と国際的仲裁を語り、さも重要な違いがあるかのごとく、世界を民主主義者とフシストに分けている。
 彼らは、世界戦争の脅威を与えるファシズムについて語っているが、しかし、マルクス主義者として、帝国主義戦争には「経済的基盤」があることを知らなければならない。
 彼らスターリニストたちはジュネーヴで、資本主義諸国の間での戦争も同じように含む概念用法で侵略者(aggressor)を定義することを受諾すらした。
 これは、ブルジョア平和主義に対する屈服だ。マルクス主義者は原理として、全ての戦争に反対してはならない。クエーカー教徒やトルストイ愛好者に向けた種類の偽善的言葉遣いを残すものだ。
 マルクス主義者は、階級の観点から戦争を判断しなければならない。そして、侵略者とその犠牲者の間のブルジョア的区別に関心を持ってはならない。
 マルクス主義者の原理は、侵略的であれ防衛的であれ、プロレタリアートの利益となる戦争は正しい(just)戦争であり、一方で帝国主義国間の戦争は犯罪だ、ということにある。//
 (6)社会民主主義者に対する態度の変化についてのトロツキーの初期の訴えは全て、実際には幻想的な(illusory)もので、かりに彼に権力があったとしても成果を何ら生まなかっただろう。社会民主党<と向かい合った>イデオロギー上の党を維持することは可能だと彼は空想し、一方で同時に、特定の情勢下での彼ら社会民主主義者の助けを懇願してもいたのだ。
 フランスがナツィ・ドイツと折り合うのを阻止するために、スターリンが「人民戦線」と社会主義者との間の反ファシスト同盟の政策を開始したとき、スターリンは、かりに自分の政策が成功するとすれば、いずれにせよ宣伝活動の観点から、大きな代償を払わなければならない、と意識していた。  
 トロツキーは他方で、事あるごとに偽善者、ブルジョアジーの代理人、労働者階級に対する裏切り者、帝国主義者の下僕だ-これらは「社会ファシスト」への軽蔑語にすぎなかった-と非難しつつ、彼ら社会主義者との反ナツィ戦線を形成することは可能だと考えた。
 トロツキーがかりに当時にコミンテルンの責任ある地位に就いていたとしても、彼の政策方針は、スターリンのそれよりも成功する見込みは少なかっただろう。//
 (7)トロツキーはじつに、(戦争と革命の間に何度も繰り返された)国際的な条約、調停、軍縮等々を信頼するのは怠惰な反動的性格をもつ、というレーニンの見解の、真の支持者だった。
どちらが侵略者であるかが問題なのではなく、重要なのは、どの階級が戦争を遂行しているか、なのだ。
 世界のプロレタリアートの利益を代表する社会主義国家は、いったい誰が戦争を開始したかとは関係なく、全ての戦争について「正しい」(right)。そして、帝国主義国の諸政府との条約類に拘束されるなどと、真面目に考えてはならない。
 スターリンの関心事は、世界革命ではなく、ソヴィエト国家の安全保障だつた。ゆえに、あらゆる場合に、平和の擁護者で国際的な法と民主主義の有力な主張者だと自分を見せかけなければならなかった。
 しかしながら、トロツキーは、情勢の主要な要素は1918年に自分が見ていたもの、つまり一方での帝国主義諸国、他方での社会主義国家や革命を行う正しいスローガンを待ち望んでいる世界のプロレタリアートだ、と信じていた。
 現実政治の唱道者であるスターリンは、「革命の上げ潮」を信じなかった。そして、ヨーロッパの共産主義諸党をソヴィエトの政策実現の道具として利用した。
 トロツキーは、「革命戦争」の絶えざる主張者だった。そして、彼の全教理は、事物の当然のこととしてかつ歴史の法則に従って、世界のプロレタリアートは革命を志向しており、スターリン主義官僚制の誤った政策だけがこの本来の趨勢が現実化するのを妨げている、という確信にもとづいていた。//
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 つぎの第5節の表題は、<ファシズム、民主主義および戦争>。

1969/L・コワコフスキ著第三巻第五章第3節②。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 今回の以下は、第三巻分冊版のp.198-p.201。合冊本ではp.946-948。
 なお、トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。この著の邦訳書はない。
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 第5章・トロツキー。 
 第3節・ボルシェヴィズムとスターリニズム、ソヴィエト式民主主義の思想②。
 (11)トロツキーは<彼らの道徳と我々の道徳>で、道徳性(morality)に関する彼の規準は単純に「自分にとって良いものが正しい」であり、そういう見方は目的が手段を正当化するというものだ、と異議を述べる支持者たちからの批判に論駁しようとした。
 彼はこの批判に対して、歴史が進展させる目的以外の何かによって手段が評価されるとすれば、その何かは神でのみあり得る、と答えた。
 言い換えれば、自分を疑問視する者たちは、Struve、Bulganov やBerdyayev のごときロシアの修正主義者がちょうどそうだったように、宗教的心情に陥っている。
 彼らはマルクス主義を階級よりも上位にある一種の道徳性と結びつけようとし、最後には教会の懐に抱かれた。
 トロツキーはこう明瞭に述べた。道徳は一般に、階級闘争の作用だ。
 道徳は現在ではプロレタリアートの利益のうちに存在し得るかファシズムのそれに存在し得るかのいずれかだ、そして明らなことだが、敵対している階級は類似の手段をときどきは用いるかもしれない。しかし、唯一の重要な問題は、いずれの側の利益になっているかだ。
 「手段は、その目的によってのみ評価することができる。
  プロレタリアートの歴史的利益を表現するマルクス主義の観点からは、目的は、自然に対する人間の力を増大させる方向へと、そして人間を支配する人間の力を廃棄する方向へと導くならば、正当化される。」
 (<彼らの道徳と我々の道徳>(1942年)p.34.)
 換言すれば、ある政策方針が技術的進歩(自然に対する人間の力)へと誘導するものならば、その政策方針を促進する全ての手段は自動的に正当化される。
 しかしながら、スターリンの政策は国家の技術水準を間違いなく高めたのだから、それにもかかわらず、なぜ非難されるべきなのか、は明瞭ではない。
 人間を支配する人間の力の廃棄に関して、トロツキーは、この支配力を廃棄することができる前にそれは最高度にまで達していなければならないという(スターリンが採用した)基本的考え方から解放されていた。
 彼は1933年6月の論文で、このような見方を何度も繰り返した。
 しかし、将来には、事情は異なるだろう。
 「歴史的目標」はプロレタリア政党に具現化され、ゆえにその党は、何が道徳的で何が非道徳的なのかを決定する。
 トロツキーの党は存在していないとのSouvarine の論評に関して、彼は自分だけは、道徳性の具現者だと自分を見なすに違いない。予言者は何度もレーニンの例を指摘することでもって答える。
 -レーニンは1914年には孤独だった、その後に何が起きたか?
 (12)ある意味では、批判者たちの異論は無効だ。トロツキーは、党が奉仕する利益は道徳的な善だ、党の利益を害するものは道徳的に悪だ、とは主張しなかった。
 彼はたんに、道徳の標識のようなものはなく、政治的な有効性という標識のみがある、と考えていた。
 「革命的道徳性の問題が、革命的な戦略と戦術の問題と融合されている」(同上, p.35.)。
 政治的な帰結とは無関係に事物それ自体の善悪を語ることは、神の存在を信じることと同じだ。
 例えば、政治的反対者の子どもを殺戮することがそれ自体で正しい(right)か否かを問うことは無意味だ。
 皇帝の子どもたちを殺すことは(トロツキーが別に述べるように)正当だった。政治的に正当化されたからだ。
 では、なぜスターリンがトロツキーの子どもたちを殺戮するのは間違っている(wrong)のか? それは、スターリンはプロレタリアートを代表していないからだ。
 善か悪かに関する全ての「抽象的」原理、民主主義、自由および文化的価値に関する全ての普遍的な規準は、それら自体では何ら意味をもたない。
 政治的な便宜(expediency)が指し示すところに従って、それらは受容されたり却下されたりする。
 そうすると、なぜ人はその反対者ではなくて「プロレタリアートの前衛」の側に立つべきなのか、あるいは、なぜ人は何であれ何かの目的と自分自身を重ね合わせるべきなのか、という疑問が生じる。
トロツキーはこの疑問に答えず、たんに、「目的は、歴史の運動から自然に流れ出てくる」と語る(同上, p.35.)。
 推察するに、このことは、彼は明瞭には述べていないけれども、つぎのことを意味する。
 我々は、歴史的に必然〔不可避〕であるものを見出さなければならない。そして、それが必然的であるという理由のみでもって、それを支持しなければならない。//
 (13)党内民主主義に関して言うと、トロツキーはこれについても全くカテゴリカル(categorical)だ。
 スターリンの党でトロツキー自身の集団は反対派だったが、彼は当然に自由な党内議論を要求し、「分派(fractions)」を形成する自由すら求めた。
 彼は他方で、彼自身とその他の者たちが1921年の第10回大会で定めた「分派」の禁止を擁護した。 
 これを、それが間違っているときには分派を禁止するのは正当だ、という以外の意味で解釈するのは困難だ。しかし、トロツキーの集団が禁止されてはならないのは、それがプロレタリアートの利益を表現しているからだ。
 追放されている間、トロツキーはまた、支持者から成る小集団に「真のレーニン主義諸原理」を課そうと努めた。彼は休みなく多様なかたちでの自分の言明からの逸脱を非難し、どの問題についてであれ彼の権威に抵抗する者全ての排除を命じた。そして、事あるごとに共産主義中央主義者の教理を宣言した。
 彼は、その名前自体がマルクス主義と決別していることを示しているとして(この点でトロツキーは正当だったかもしれない)、パリの「共産主義的民主主義者」というSouvarine の集団を非難した。
 Naville の集団が1935年に左翼反対派の範囲内での彼ら独自の綱領を宣言したきには、叱責した。
 彼はメキシコのトロツキスト指導者のLuciano Galcia を非難した。中央主義について忘却し、第四インターナショナル内部での完全な意見表明の自由を要求したからだった。
 彼は、全ての理論は懐疑心をもって扱われなければならないと語ったアメリカのトロツキストのDwight Macdonald を激しく罵倒した。
 「理論的懐疑主義を宣伝する者は、裏切り者だ」(<著作集1939-1940年>p.341.)。
 Burnham とSchachman が最終的にはソヴィエト同盟は労働者国家だということを疑い、ポーランド侵攻やフィンランドとの戦争についてソヴィエト帝国主義について語ったときには、最後通告たる判決を言い渡した。
 彼はこの場合に、アメリカのトロツキスト党内部で一般票決を行うのに同意しなかった(アメリカのこの党は約1000人の党員をもち、Deutscher によると第四インターナショナル内の最大の代表団のように思えた)。その理由は、党の政策方針は「単純に地方的決定の算術的な総計ではない」ということだった(<マルクス主義の防衛>(1942年), p.33.)。
 トロツキーは、この絶対主義が彼の運動を萎縮させ、ますます極小の宗教的セクトにようになり、その党員たちに、そして彼らだけに救世主になる宿命にあると確信づけたことに、少しも困惑しなかった。
 -もう一度。1914年のレーニンはどうだったか?
 トロツキーもレーニンの「弁証法的」見方を共有していたのは、つぎの点だった。すなわち、真のまたは「基礎になる」多数派は、たまたま多数者である者たちとは一致しておらず、正しく歴史的進歩の側に立つ者たちで成り立つのだ。
 彼は純粋に、世界の労働大衆は彼らの心の深奥で自分の側にいる、たとえ彼ら自身はそれにまだ気づいていなくとも、と信じていた。歴史の法則がこれが正しくそうであることを明らかにするのだから。//
 (14)民族的抑圧と自己決定権の諸問題に対するトロツキーの態度は、同様の方向にあった。
 彼の著作には、ウクライナ人やその他の民族の民族的要求に対するスターリンの抑圧への若干の言及が含まれている。
 彼は同時に、ウクライナ民族主義者にいかなる譲歩もしてはならないこと、ウクライナの真のボルシェヴィキは民族主義者と一緒に「人民戦線」を形成してはならないこと、を強調した。
 トロツキーはさらに進んで、4つの国に分かれているウクライナは、マルクスの見解では19世紀にポーランド問題となったのと同様の重要な国際的問題を生じさせる、とまで語った。
 しかし、彼は、武装侵攻によって他国に「プロレタリア革命」を持ち込む社会主義国家について、非難する言葉を何ら発しなかった。
 彼は1939-40年にSchachtman とBurnham に対して、ソヴィエトによるポーランド侵攻はあの国の革命運動と同時に発生した、スターリン官僚制はポーランドのプロレタリアートと農民に革命的衝動を与えた、そしてフィンランドでもソヴィエト同盟との戦争によって革命的感情が目覚めた、と憤然として説明した。
 たしかに、銃剣でもって導入されたが深い民衆的感情からわき起こらなかったので、これは「特殊な種類」の革命だった。しかし、それは全く同時に、純粋な革命だった。
 東部ポーランドやフィンランドで発生したことに関するトロツキーの知識は、もちろん何らかの経験的情報にではなく、「歴史の法則」にもとづいている。つまり、いかに頽廃しているとは言えども、ソヴィエト国家は人民大衆の利益を代表しており、ゆえに人民大衆は侵略する赤軍を支持しなければならない、というわけだ。
 この点で、トロツキーはたしかに、レーニン主義から逸脱していると責められることはあり得ない。「真」の民族的利益はプロレタリアートの前衛のそれと合致するのだから、その結果として、前衛に権力がある全ての国では(たとえ「官僚主義的頽廃」の状態にあっても)民族自決権は実現されており、大衆は事態のかかる状態を支持しなければならない。そのように理論が要求しているのだから。//
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 第3節、おわり。次節の表題は、<ソヴィエトの経済と外交政策に対する批判>

1968/L・コワコフスキ著第三巻第五章第3節①。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 今回の以下は、第三巻分冊版のp.194-p.198。合冊本ではp.942-946。
 なお、トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。この著の邦訳書はない。
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 第5章・トロツキー。 
 第3節・ボルシェヴィズムとスターリニズム、ソヴィエト式民主主義の思想。
 (1)トロツキーはかくして、全ての機会を利用して、一方でのボルシェヴィズムまたはレーニン主義、つまりトロツキー自身のイデオロギーや政治と、他方でのスターリニズムの間には、継続性は存在しないと強調した。
 スターリニズムはレーニン主義の真の継承者ではなく、際立ってそれと矛盾したものだ。
 トロツキーは1937年の論文で、メンシェヴィキやアナキストたちと論争した。彼らが「我々はきみに最初からそう言ってきた」と述べたのに対して、トロツキーは、「ちっともそうでない」と答えた。
 メンシェヴィキとアナキストたちは、僭政体制とロシアのプロレタリアートの苦難がボルシェヴィキ政権の結果として生じるだろうと予見していた。
 実際にそうなったのだが、それはボルシェヴィズムとは何の関係もないスターリンの官僚制として生じたのだ。
 Pannekoek その他のドイツ・スパルタクス団員たちは、ボルシェヴィキはプロレタリアート独裁ではなく党の独裁を立ち上げた、スターリンはそれを基礎にして官僚制的独裁を確立した、と語る。
 これらはいずれも当てはまらない。
 プロレタリアートは、労働大衆の自由に対する願望を具体化する自分たち自身の前衛による以外には、国家権力を奪取できなかったのだ。//
 (2)多数の他の論文でと同様にトロツキーはこの論文で、反対者から、またSerge、Souvarine、Burnham のような支持者たちからも頻繁に提示された異論に答えることを強いられた。
 彼らは間違いなく、ボルシェヴィキはトロツキーの能動的な関与があって最初から、社会主義諸政党を含むロシアの全ての政党を廃絶させた、と指摘した。
 ボルシェヴィキは党内でのグループの形成を禁止し、プレスの自由を破滅させ、クロンシュタットの反乱を血でもって弾圧した、等々。//
 (3)トロツキーはこのような異議に対して何度も回答したが、いつも同じ態様でだった。すなわち、異議を申し立てられている行動は正しく(right)かつ必要なものだった、そしてプロレタリア民主主義の健全な創設に決して反するものではなかった、と。
 彼は1932年8月に出版されたチューリヒの労働者たちへの手紙で、こう書いた。ボルシェヴィキはたしかにアナキストと左翼エスエルを破壊するために実力(force)を用いた(他政党はこの文脈では言及すらされなかった)。しかし、ボルシェヴィキは労働者国家を守るためにそうしたのであり、ゆえにその行動は正当(right)だった。
 階級闘争は暴力(violence)なくしては実行することができない。唯一の問題は、どの階級によってその暴力が行使されているか、だ。
 彼は1938年の小冊子<彼らの道徳と我々の道徳>で、こう説明した。共産主義をファシズムと比較するのは馬鹿げている、これらが用いる手段(methods)にある類似性は「表面的な」もので付随的現象に関係するにすぎないのだから。
 重要なのは、そのような手段を用いる名義となる階級だ。
 トロツキーは、つぎのように批判された。彼は政治的対立者の家族から子どもたちを含めて人質をとった、そして、スターリンがトロツキストに対して同一のことをしたと憤慨している、と。
 しかし、彼はこう答えた。正しい(true)類推方法がない。自分がしたのは階級敵と闘ってプロレタリアートに勝利をもたらすために必要なことだった。それに対してスターリンは、官僚機構の利益のために行動している。
 トロツキーはSchachman への1940年の手紙で、自分が権力をもっていたときにチェカが生まれて機能していたことに同意した。-もちろん、そのとおりだった。
 しかし、彼は言う。チェカはブルジョアジーに対抗するために必要な武器だった。それに対してスターリンは、チェカを「真のボルシェヴィキ」を破壊するために用いている、だから適切な比較にはならない、と。
クロンシュタットの反乱の鎮圧について言えば、重要な防塞を反動的な農民兵士たちに手放すことが、プロレタリア政権にいかほどに期待され得ただろうか? その兵士たちの中には、少なくないアナキストがいたかもしれないのだ。
 党内集団の禁止について言えば、これは絶対に必要だった。全ての非ボルシェヴィキ政党を廃絶したあとでは、社会にまだ現存するかもしれない利害の対立が一つの党の内部に異なる志向をもつ表現体を探し求めざるをえなったからだ。//
 (4)つぎのことが明瞭だ。トロツキーにとって、統治の形態としての民主主義、あるいは文化的価値としての公民的自由を語る必要はない。この観点からすると、トロツキーはレーニンに忠実であり、かつスターリンと何ら異なるところがない。
 かりに権力が「歴史的に進歩的な」階級によって(むろんその前衛を通じて)用いられるならば、定義上それは真正(authentic)な民主主義だ。たとえ、あらゆる様相の抑圧と実力強制がその他の点では日常生活の秩序だったとしても。それは全て、進歩という根本教条に則っている。
 しかし、その権力がプロレタリアートの利益を代表しない官僚機構によって奪取されたその瞬間から、統治の同じ形態は自動的に反動的なものに、ゆえに「反民主主義」的なものになる。
 トロツキーは1931年の<右翼・左翼ブロック>と題する論文で、こう書いた。
 「党内民主主義の復活ということによって我々が意味させているのは、党の真の革命的プロレタリアートの中核は、官僚機構を抑制して党を本当に粛清〔purge、浄化〕する権利をもつ、ということだ。
 上部からの指令どおりに投票する、非原理的で経歴主義の歩兵たちはむろんのこと原理的にテルミドリアンで成る党の粛清、阿諛追従者で成る多数の派閥はむろんのこと末端主義者で成る党の粛清、だ。なお、阿諛追従者たちの資格はギリシャ語またはラテン語に由来するものであるはずはなく、現代的で官僚主義化した、かつスターリン化した形での現実にある今日的なロシア語に由来している。
これこそが、我々が民主主義を要求する理由だ。」
 (G. Breitman & S. Lovell 編<レオン・トロツキー著作集-1930-1931年>(1973年)、p.57.)
 かくして、トロツキーが「民主主義」によって意味させているのは、プロレタリアートの歴史的要求を表現しているトロツキー主義者による政権だ、ということが明らかになる。//
 (5)トロツキーは1939年12月の論文で、彼自身がボルシェヴィキ以外の諸政党の廃絶に責任はないのか否かという疑問に、再びこう答える。
 そのとおりだが、そうしたのは全く正当(right)だった。
 彼はつづける。「しかし、内戦期の法制を平穏時のそれと同一視することはできない」。
 -そして、そのとき、そうであるならば廃絶させられた諸政党は内戦後に再び合法化されるべきだった、との考えが彼の頭に浮かんだに違いない。彼は、こう付け足した。
 「独裁制またはプロレタリアートの法制をブルジョア民主主義の法制と同一視することもできない」。
 ( N. Allen & G. Breitman 編<レオン・トロツキー著作集-1939-1940年>(1973年)、p.133.)//
 (6)1932年末以降の日付のある言述には、つぎのようなものがある。
 「全ての体制は、まず第一にはそれがもつ規準によって評価されなければならない。
 プロレタリアート独裁の体制は、民主主義政体の諸原理や形式的規準を侵犯するものであることを秘密にしようとは願わない。
 それは新しい社会への移行を確実にする能力という観点から、評価されなければならない。
 他方で民主主義体制は、民主主義政体の枠組み内で階級闘争を展開することを許容する程度と範囲いう観点から、評価されなければならない。」
 (G. Breitman & S. Lovell 編<レオン・トロツキー著作集-1932-1933年>(1972年)、p.336.)
 (7)要するに、民主主義諸原理と自由を侵害するときには、民主主義諸国に憤慨してその諸国を攻撃するのは正当(right)だ、しかし、そのように共産主義独裁制を取り扱ってはならない。共産主義独裁制は民主主義諸原理を承認していないのだから。
 共産主義独裁制で最大に優先されるものは、将来に「新しい社会」を創造するという約束にある。//
 (8)我々は<裏切られた革命>で、つぎのようにすら語られる。スターリン憲法は普通選挙制度を宣言することで、もはやプロレタリアート独裁は存在しないことを明らかにした、と。
 (トロツキーもまた、スターリンは秘密投票制度の導入でもって明らかに彼の腐敗した体制をある程度は浄化(purge)することを望んでいると、論評した。
 信じ難い思われるが、トロツキーは明らかにスターリンの選挙制度を額面どおりに理解していた。)
 (9)かくして、つぎのことが明らかだ。トロツキーは絶えずスターリンとその体制を攻撃し、「ソヴィエト民主主義」と「党内民主主義」の回復を要求していたけれども、彼の一般的な根本的考えに照らして見ると、「民主主義」とはその政策方針が「正しい」とする規準を意味するものであり、政策方針の「正しさ」が民衆の支持を求めて競い合う異なる集団の議論の結果として決定される、ということを意味していない。
 彼は<裏切られた革命>で、ボルシェヴィキ(つまりはトロツキーとその支持者たち)とともに始まった「ソヴィエト式政党」への自由を再獲得する必要について書いている。
 しかし、いずれの他の諸政党が「ソヴィエト式」という性質をもつのかは明瞭ではない。
 プロレタリアートの純粋な前衛のみが権力を行使することができるとされるので、その前衛党はいずれの政党が「ソヴィエト式」で、いずれが反革命であるのかを決定する権利もまた有しなければならない。
 トロツキーの目からすると、結論はつぎのようなものだろう。すなわち、社会主義的自由とはトロツキー主義者のための自由のみを意味しており、他の誰のためのものでもなかった。//
 (10)同様の論述を、文化的自由についても行うことができる。
 トロツキーはしばしば、スターリン体制による芸術や科学の抑圧に対する怒りを表明した。
 彼は<裏切られた革命>で、自分が1924年に芸術や文芸分野でのプロレタリアート独裁の規準を定式化したことを想起させた。唯一の標識はその作品が革命を支持するのか革命に反対なのかであり、それ以上については完全な自由が存在しなければならない、というものだ。
 トロツキーは1932年に、「プロレタリアートの革命的任務に反対する方向に向けられたもののみを容赦なく排除して、芸術と哲学の自由が存在しなければならない、と書いた(<著作集-1932-1933年>p.279.)。
 しかしこれは、スターリンのもとで覆ったのと同じ考え方だった。すなわち、党当局が何が「プロレタリアートの革命的任務に反対する方向に向けられ」ているかを決定して、そのゆえに「容赦なく排除し」なければならない。
 このように理解される自由は、ソヴィエト国家では一度も侵害されなかった。
 このような一般的定式によればもちろん、文化の抑圧と統制の程度と範囲は多かれ少なかれ、多様な政治的情勢に従って決せられることになる。そして、1920年代には、抑圧や統制は1930年代よりも確実に少なかった。
 しかしながら、支配者が全ての場合について文化が発信しているものが支配者の政治的必要に合致しているか否かを決定する、ということが根本的な考え方であるがゆえに、抑圧や隷従化の程度は、プロレタリアート独裁に対抗するものとして容易に判断することができない。
 全ての問題は、再びもう一度、同じ様相に帰一することになる。
 つまり、かりにトロツキーに権限があったとすれば、自分の権威にとって危険だと考える自由を、もちろん許容しなかっただろう。
 スターリンも同様に行動した。いずれの場合も、自己の利益の問題なのだった。
 全ての違いは、つぎのことに帰着する。トロツキーは自分が「プロレタリアートの歴史的利益を代表」していると信じた。一方でスターリンは、彼、スターリンがそうしていると信じた。//
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 ②へとつづく。

1967/L・コワコフスキ著第三巻第五章第二節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 今回の以下は、第三巻分冊版のp.190-p.194。合冊本ではp.939-942。
 なお、トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。この著の邦訳書はない。
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 第5章・トロツキー。
 第2節・スターリン体制、官僚制、「テルミドール」に関するトロツキーの分析。
 (1)トロツキーの全ての分析が基礎にしていた確信は、彼とレーニンの政策方針は間違いなく正しい(right)、永続革命理論は事実によって豊富に裏付けられている、「一国での社会主義」は致命的に誤っている、というものだった。
 彼は「ロシア革命に関する三つのコンセプト」と題する論文(1939年)で、つぎのように主張した。
 人民主義者(Populists)は、ロシアは資本主義段階を完全に迂回できると考えた。一方、メンシェヴィキは、ロシア革命はブルジョア的性格のものでのみありうる、そしてプロレタリアート独裁という段階を語ることはできない、と考えた。
 そしてレーニンは、プロレタリアートと農民の民主主義的プロレタリアート独裁というスローガンを提唱した。この旗のもとで実施される革命は西側での社会主義革命を促進し、急速なロシアでの社会主義ヘの移行を可能にするだろう、と。
 トロツキー自身の見方は、民主主義革命という基本方針はプロレタリアート独裁の形態でのみ達成可能だが、プロレタリアート独裁は革命が西側ヨーロッパに伝搬してのみ維持することができる、というものだった。
 レーニンは1917年に同じ方針に立ち、その結果としてロシアでのプロレタリア革命は成功した。
トロツキーがその<ロシア革命の歴史>で長々と示したのは、ボルシェヴィキの誰も、ロシアのプロレタリアートは西側のプロレタリアートに支持されて初めて勝利することができる、ということを疑っていなかったこと、そして、「一国での社会主義」というきわめて有害な考え方は1924年の末にスターリンが考案するまでは誰の頭の中にも入っていなかった、ということだった。//
 (2)1917年以降はレーニンのものでもあった、トロツキーの疑いなく正しい(correct)政策方針が「寄生的官僚制」による統治を帰結させ、また、トロツキー自身が権力から排除されて裏切り者との烙印を捺されたのは、一体いかにして生じたのか?
 これに対する答えは、ソヴィエト権力の頽廃と「テメミドール主義」に関する分析のうちに見出されることになる。//
 (3)追放されていた最初の数年間、トロツキーがとっていた見方は、スターリンとその仲間たちはロシアの政治的範疇の中の「中央」(centre)を占め、革命に対する主要な危険は-ブハーリンとその支持者たちに代表される-「右翼」および「テルミドール反動」、つまり資本主義の復活、の脅威のある反革命分子から生じる、というものだった。
 トロツキーは、これに従って、スターリンに反革命に対する支援を提示した。
 彼は、スターリンは右翼にあまりに譲歩しすぎていて、その結果、「工業党」やメンシェヴィキの連続裁判に見られるように、罷業者や人民の敵が国家の計画部局の高い地位を占めて工業化を意識的に遅らせている、と考えた。
 (トロツキーは、被告人たちの有罪を暗黙にながら信じていた。そして、この裁判がでっち上げだとの思いは、一瞬なりとも持たなかった。
 彼は数年のちに、自分や仲間たちの悪事が大きな見せ物裁判で強力な証拠でもって同じように立証されていってようやく、驚嘆し始めた。)
 トロツキーは1930年代初めに、スターリン体制は「ボナパルティズム」だとした。
 しかし1935年に、フランス革命では初めにテルミドールが来て、ナポレオンはその後だった、順序はロシアでも同じであるに違いない、そしてすでにボナパルトは登場しているので、テルミドールはやって来てかつ過ぎたに違いない、と観察した。
 彼は「労働者国家、テルミドールおよびボナパルティズム」と題する論文で、その理論をいくぶん修正した。
 テルミドール反動はロシアで1924年(すなわち彼自身が権力から最終的に排除された年)に発生した、と述べた。
 しかしそれは、資本主義者の反革命ではなく、プロレタリアートの前衛を破壊し始めていた官僚機構による権力奪取だった。
 生産手段を国家がまだ所有しているので、プロレタリアート独裁は維持されている。しかし、政治権力は官僚層の手中へと移った。
 しかしながら、ボナパルティズム体制はすみやかに崩壊するに違いない。歴史の法則に反しているのだから。
 ブルジョア反革命はあり得るが、本当のボルシェヴィキ党員たちが適切に組織されるならば、避けることができるだろう。
さらにトロツキーは、こう付け加えた。ソヴィエト国家の労働者階級性に関する自分の見方を決して変更しないが、より精細に歴史的類推による説明を施しただけだ、と。
 フランスでも、テルミドールは<アンシャン・レジーム>への元戻りではなかった。
 ソヴィエト官僚制は社会階級(class)ではない。しかし、プロレタリアートからその政治的権利を剥奪し、残虐な専制制度を導入している階層(caste)だ。
 しかしながら、現在のかたちでのその存在は十月革命の至高の成果である国有財産制に依存しており、その成果を官僚制は守るように強いられるし、それなりの方法で守ってきた。
 ゆえに、スターリン主義の頽廃と闘いつつ、世界革命の根拠地として無条件にソヴィエト同盟を防衛することは、世界のプロレタリアートの義務だ。
 (トロツキーは、この二つの意図が実践的にいかにして結合されるのかについて、詳細には説明しなかった。)
 1936年までには、彼はつぎの結論に到達した。スターリニズムを改革や内部的圧力で打倒することはできない。簒奪者を実力(force)によって排除する革命が起こらなければならない。
 この革命は所有制度を変更するものではなく、ゆえに社会的革命ではなく、政治的革命だ。
 これはプロレタリアートの先進的前衛によって実施され、スターリンが破壊した真の(true)ボルシェヴィズムの伝統を具現化することになるだろう。//
 (4)「一国での社会主義」理論は、ロシアおよび外国での官僚主義的過ちの全てについて、責任がある。
 それは世界革命の希望を、ゆえに世界のプロレタリアートでのロシアの主要な支援という希望を、放棄することを意味する。
 一国での社会主義は不可能だ。換言すれば、開始することはできても完了させることができない。それ自体の内部に閉じられた一国では、社会主義は腐敗せざるを得ない。
 1924年末までは世界革命を発生させるという適切な政策目標を追求したコミンテルンは、スターリンによって、ソヴィエトの政策と陰謀の道具へと変質させられた。そして、世界の共産主義運動は、頽廃と不能の状態に落ち込むことになった。//
 (5)トロツキーは、つぎのことを説明しようと多数の試みをした。プロレタリアートの政治権力が破壊され、官僚機構が支配権を獲得し、(のちに再三にわたり述べたように)統治の全体主義的システムを導入した、と。
 多数の書物や論文でのこの試みは、首尾一貫した議論を形づくるものではなかった。
 彼はしばしば、頽廃の主要な原因は世界革命の勃発が遅れていることにある、と主張した。西側のプロレタリアートはその歴史的な任務を適時に引き受けることをしなかった、と。
 彼は他方で同様にしばしば、ヨーロッパでの革命の敗北はソヴィエト官僚制の過ちだ、と主張した。
 かくして、いずれの現象が原因であり結果であるのかについて、疑問が残った。-のちには彼が指摘したごとく、相互に悪化させ合っていたのだけれども。
 我々は<裏切られた革命>で、官僚主義が成長した社会的基盤はネップ時代のクラク〔富農〕を厚遇した誤った政策だ、と語られる。
 かりにそうであるなら、富農の廃絶と第一次五カ年計画のもとでの工業化の強行によって、官僚機構はかりに破滅しなくとも少なくとも弱体化したことになるだろう。
 実際に正確には、それとは反対のことが起きた。そしてトロツキーは、なぜそうだったかをどこでも説明していない。
 彼はのちに同じ書物で、官僚機構は元々は労働者階級のための機関だったが、のちに物品の配分に関与するようになったときに、「大衆の上」のものになって特権を要求し始めた、と語る。
 しかしこれは、特権のシステムの発生は避けられ得たのか否か、どのようにすれば、を説明していないし、なぜ本当は権限のある労働者階級がそのような事態が起きるのを許したのか、も説明していない。
 トロツキーは同じ書物でさらに、官僚制的統治の主要な原因は、歴史的使命を履行すべき世界のプロレタリアートの緩慢さだ、と語る。
 初期の小冊子<ソヴィエト連邦発展の諸問題>(1931年)では、彼は別の理由を挙げる。すなわち、内戦後のロシアのプロレタリアートの疲弊、革命の時代に育まれた幻想の解体、ドイツ、ブルガリアおよびエストニアでの革命的蜂起の挫折、および中国とイギリスのプロレタリアートの官僚主義的裏切り。
 彼は翌年の論文で、戦争に疲弊した労働者たちが秩序と再建のために権力を官僚機構の手に委ねた、と述べた。
 しかし、なぜそのことが自分が指導する「真のボルシェヴィキ・レーニン主義者」によって実行され得なかったのか、を説明しなかった。 //
 (6)多くの種々の説明から、一つの明瞭な論拠が明らかになる。つまり、トロツキー自身は官僚制的システムの形成に些かなりとも関係しなかった、そして、官僚機構は革命後の初期6年の間の独裁とは何の関係もなかった、ということだ。
 しかし、現実は、これらの反対だった。
 初期6年の間に党組織が絶対的な権力を行使したという事実は、スターリンとその徒党の体制とは関係がない、と主張しているとトロツキーの議論は読める。なぜなら、この時代の党は「プロレタリアートの先進的前衛」であり、一方でスターリンの後続の体制は何物も何者も、いっさい代表しなかったからだ。
 そうであるならば、我々はつぎのように尋ねることができる。
 なぜプロレタリアートは、いかなる社会的背景も欠く簒奪者の徒党たちを一掃することができなかったのか?。
 トロツキーはこれに対する答えも用意している。すなわち、プロレタリアートは、現在の状況では自分たちの革命は資本主義の復活を招くだろうと怖れたので、スターリンの統治に反抗しなかった(しかし、継続的な反抗があった、と我々はいたるところで読める)。//
 (7)トロツキーの議論からは、このような惨憺たる結果が生まれるのを避ける方法は全くなかったのか否か、が明確ではない。
 全体として言えば、なかった、ように思われる。なぜなら、あったならば、トロツキーとその仲間たちは絶えず正しい政策方針と本当のプロレタリアートの利益を「表明」しようとしていたのであって、官僚層による権力奪取を確実に阻止できたはずだろう。
 トロツキーたちが阻止しなかったとすれば、その理由は、そうできなかったからだ。
 かりに官僚機構が可視的な社会的基盤なくして存続しつづけたとすれば、そのことはきっと、歴史の法則によるところに違いない。//
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 つぎの第3節の表題は、<ボルシェヴィズムとスターリニズム。ソヴィエト民主主義という観念>。

1954/R・パイプス著・ロシア革命第11章第11節②。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。原書のp.492-p.496.
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 第11節・ボルシェヴィキが臨時政府打倒を宣言②。
 (11)ボルシェヴィキの一連の布令類の中でも最上位の位置を占めるこの文章は、ロシアを支配する至高の権力を、ボルシェヴィキ中央委員会以外の誰もその資格を認めなかった組織が掌握した、と宣言した。
 ペトログラード・ソヴェトは、政府を転覆させるためではなく首都を防衛するために、軍事革命委員会を設立した。
 クーを正当化するものとされていた第二回全国ソヴェト大会は、ボルシェヴィキがすでにその名前で行動したとき、開会すらされていなかった。
 しかしながら、こうした手続的推移は、誰の名前でもって権力が奪取されるかには意味がない、とするレーニンの主張と合致していた。
 彼は前の晩に、こう書いていた。「そのことはただちには重要ではない。軍事革命委員会が奪っても、『別の何かの装置』がそうするのであっても。」
 クーが正当化されていないままで静かに実行されたために、ペトログラードの民衆はこの宣言的主張を真剣に受け取るべき理由がなかった。
 目撃証人たちによれば、10月25日にペトログラードには日常生活が戻って、事務所や店舗は再営業を始め、工場労働者たちは仕事へと向かった。そして、娯楽施設は再び群衆で溢れた。
 ひと握りの主だった人物たち以外は誰も、何が起きたかを知らなかった。首都は武装したボルシェヴィキの鉄の拳で握られており、もはや全く同じ事態ではないだろうことも。
 レーニンは、のちにこう語った。世界革命は「羽毛を拾い上げる」ように簡単だった、と。(194)
 (12)その間、ケレンスキーはプスコフ(Pskov)に向かって急いでいた。そこには北部戦線の司令部があった。
 歴史の精巧な捻りだろう、ボルシェヴィキに対してただ一つ動員可能な兵団は、二ヶ月前にはケレンスキーがコルニロフの「大逆」に参加した責任を追及した、同じ第三騎兵軍団のコサック部隊だった。
 彼らはコルニロフを抹殺して自分たちの司令官のクリモフを自殺に追い込んだ人物として、ケレンスキーを侮蔑していた。その結果として、彼らはケレンスキーの求めに応えるのを拒否した。
 ケレンスキーは最終的には、ルガ(Luga)を経由して首都に前進するように彼らのうちのある程度を説得した。
 アタマン(Ataman)の司令官のP. N. Krasnov の指揮のもとで、彼らはボルシェヴィキが送り込んでいた兵団を撒き散らし、ガチナ(Gatchina)を占拠した。
 その日の夕方、ツァールスコエ・セロ(Tsarskoe Selo)に着いた。そこは、首都まで二時間の進軍の位置にあった。
 しかし彼らは、他のどの軍団も加わらないことに失望し、それ以上進むのを拒否した。//
 (13)ペトログラードの状況は、実質的に、喜劇のごとく見えた。
 ボルシェヴィキが大臣たちは解任されたと宣言した後で、彼ら大臣は冬宮のネヴァ河側にあるMarachite〔孔雀石〕室にとどまっていた。ケレンスキーが救援軍を率いて到着するのを待っていたのだ。
 そのために、スモルニュイに集まっていた第二回ソヴェト大会は、一時間、一時間と延期しなければならなかった。
 午後2時、クロンシュタットから5000人の海兵たちが到着した。しかし、この「革命の誇りと美」である海兵たちは、武装していない民間人を手荒く処理するのには慣れていたが、戦闘する意欲はなかった。
 彼らは冬宮を攻撃して反撃の砲弾を受けたとき、襲撃をやめた。
 (14)レーニンは、内閣(推測するにその逃亡が気づかれていないケレンスキーを含む)がボルシェヴィキの手に入るまでは、公衆の前に姿を見せようとはしなかった。
 彼は包帯をし、鬘を被り、眼鏡を着けて、10月25日のほとんどを過ごした。
 ダンとスコベレフが近くを通ってレーニンの変装を見破ったあとで、隠れた行動に終止符を打ち、床で仮眠をとった。トロツキーが行き来して、最新の報せを伝えた。//
 (15)トロツキーは、冬宮がまだ耐えている間はソヴェト大会を開会するつもりはなかったが、しかし代議員たちが去ってしまうのを怖れて、午後2時35分、ペトログラード・ソヴェトの臨時会議を招集した。
 誰々がこの会議での検討に参加していたかを、確定することはできない。エスエルとメンシェヴィキはその日の前にすでにスモルニュイからいなくなっており、建物の中には数百名のボルシェヴィキと諸地方から来ていた親ボルシェヴィキの代議員たちしかいなかったので、事実上は完全にボルシェヴィキと左翼エスエルのものだった、と安全に言うことができる。//
 (16)会議(これにレーニンはまだ出席しなかった)を開いてトロツキーは、つぎのように表明した。「軍事革命委員会の名のもとに、臨時政府は存在しなくなったと宣言する」。
 トロツキーの表明文の一つに反応してある代議員が、「きみたちは全ロシア・ソヴェト大会の意思を宣告するのが早すぎる」とフロアから叫んだとき、トロツキーはつぎのように言い返した。//
 「全ロシア・ソヴェト大会の意思は、昨晩に起きたペトログラードの労働者および兵士たちの蜂起という偉大な功績によって予め決定されている(predetermined, pre-dreshena)。
 いま我々がしなければならないのは、この勝利を拡大することだけだ。」//
 労働者および兵士たちの「蜂起」とは、何のことか? そう十分に疑問視し得ただろう。
 しかし、この言葉の意図は、ボルシェヴィキ中央委員会がその名前で「予め決定していた」決定を受容すること以外の選択はあり得ない、と大会代議員たちに知らせることだった。//
 (17)レーニンが短いあいだ、姿を現した。そして、代議員たちを歓迎し、「世界的社会主義革命」を熱烈に呼びかけた。(197)
 そのあと彼は、再び舞台から消えた。
 トロツキーは、レーニンがこう語ったと想起している。「地下生活とPereverzev 体験(<pereverzevshchina>)からの権力への移行は突然すぎた」。
 そして、トロツキーはぐるぐると歩き回って、ドイツ語でこう付け加えた。「<目が眩む(Es schwindelt)>」(「It's dizzying」)。(198)//
 (18)午後6時30分、軍事革命委員会は臨時政府に対して、降伏するかそれとも巡洋艦<オーロラ>とペーター・パウル要塞からの砲撃に遭うか、という最後通告を発した。
 閣僚たちは今にも救援が来るのではないかと期待して、回答しなかった。この頃、ケレンスキーが忠実な兵団を率いて首都に接近しているとの風聞があったのだ。(199)
 彼らは、物憂げに雑談し、電話で友人と会話し、長椅子の上で休み、身体を伸ばした。//
 (19)午後9時、巡洋艦<オーロラ>が砲撃を始めた。弾薬を込めていなかったので、一度だけの一斉空砲射撃であり、再び静寂になった。-十月に関する伝説のうちに著名な位置を占めるには、これでも十分だった。
 2時間後、ペーター・パウル要塞が爆撃を始めた。これは実弾だったが、その照準が不正確で、30から35発の丸弾のうち二発しか冬宮に当たらず、微少な損害を与えたにとどまった。(200)
 数カ月にわたる工場や連隊での組織工作のあとで分かったのは、ボルシェヴィキは自分たちの信条のために死ぬのを厭わない実力部隊を持っていない、ということだった。
 僅かしか防衛されていなくとも臨時政府の者たちは対抗心を持ったままだった。そして、臨時政府は解体したと宣言した者たちを嘲弄した。
 実弾爆撃の隙間に、赤衛軍の部隊がいくつかある入り口の一つから冬宮に侵入した。しかしながら、武装した<ユンカー>に対抗されて、ただちに降伏した。//
 (20)夜の帳が深くなるにつれて、王宮の防衛者たちは約束された救援がないことに意気消沈し、撤兵し始めた。
 最初に去ったのは、コサック兵だった。それに、武器を装備した<ユンカー>が続いた。
 女性決死部隊は、とどまった。
 深夜まで防衛に加わっていたのは彼女らと、Marachite〔孔雀石〕室を防備していた一握りの十歳代のカデットたち〔立憲民主党員〕だった。
 冬宮から銃砲がもう発せられなくなったとき、赤衛隊と海兵たちが注意深く接近した。
 最初に突入したのは、エルミタージュ側の開いた窓へとよじ登った海兵たちとPavlovskii 連隊の兵士たちだった。(201)
 他の者たちは、閂がかけられていない門を通って入った。
 冬宮は、急襲によって奪取されたのではない。アイゼンスタインの映画<十月の日々>が描くような突入する労働者、兵士・海兵たちの隊列の映像は全くの作り物で、バスティーユ牢獄の陥落のイメージをロシアに与えようと狙っていた。
 実際には、防衛することをやめた王宮は、暴徒となった群衆に荒らされた。
 被害者は死亡者5名、重傷者数名が全てで、そのほとんどは流れ弾が当たったことによるものだった。
 (21)深夜が過ぎ去り、王宮は豪奢な内装品を強奪したり破壊したりする群衆で溢れた。
 女性防衛者のうち何人かは、レイプされたと言われている。
 司法大臣のP. N. Maliantovich は、臨時政府の最後の瞬間について、つぎのような生々しい描写を残した。
 「突然にどこかから、騒音が上がった。それはすぐに強くかつ大きくなって近づいて来た。
 その騒音の中で-別々だったが一つの波に融合していた-、何か特別な、従前の騒音とは違う何かが、何か最後だと感じさせる音が、鳴り響いた。<…>
 最後がすぐにあるのが、瞬時に分かった。<…>//
 横たわっていたか座っていた者たちは跳び上がって、外套に手を伸ばした。<中略>//
 物音が、ますます強く急速になって、大きな波になって、我々に向かって押し寄せてきた。<…>
 毒ガスによる殺戮に遭うがごとき、耐えられない恐怖が我々を貫き、掴んだ。<…>//
 これは全て、数分の間でのことだった。<…>//
 控え室に向かう扉のところで、一群の鋭く興奮した叫び声を、いくつかの別々の射撃音を、床を踏む足音を聞きつづけた。足音のいくつかは激しく踏み叩き、動き、それらが入り混じっていて、段々と大きくなり、混沌としたまとまりとなって響いた。そして、恐怖が極限に達した。//
 明瞭だった。襲撃されている。我々は襲撃で掴まれていた。<…>
 防衛は役立たなかった。被害者は無意味な生け贄になるだろう。<…>//
 扉がサッと開いた。<…> 一人の<ユンカー>が飛び込んできた。
 警戒心を露わにし、かつ敬礼しつつ、彼の顔は緊張していたが、決然たるものがあった。
 『臨時政府は、何を司令しているのか?
 臨時政府が命令するとおりに、我々は行動する。』//
 『そんなものは必要ない! 無用だ!
 もう明らかだ! 血を流すな! 降参だ!』
 我々は、事前の合意もなく、そうしたかった。お互いに見つめ合って、全員の眼の中にある同じ感情を読み取った。//
 Kishkin が、前に進み出た。『彼らがここにいるということは、王宮はすでに奪取されているという意味だ』。(*)//
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 (*) N. M. Kishkin はカデットの臨時政府一閣僚で、ケレンスキーが冬宮を去った後の責任者に就いていた。
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 『そうだ。入り口は全て奪い取られている。
 全員が降伏した。
 この区画だけが、まだ守られている。
 臨時政府は、何を司令しているのか?』//
 Kishkin が言った。『血を流したくない。力(force)に屈服する。降伏する。』//
 扉の傍らで、恐怖が弛まなく上昇してきた。また、血を流すことになる、そうせずに済むにはもう遅すぎる、という不安がよぎり始めた。<…>
 我々は不安になって叫んだ。『急げ! 行って彼らに告げろ! 血はいやだ!。降伏する!』//
 その<ユンカー>は去った。<…>
 全ての出来事は一瞬のうちに起きた、と私は思う。」(202)
 (22)午前2時10分にアントノフ=オフセエンコによって、閣僚たちは拘束された。
 護衛つきでペーター・パウル要塞へと連れていかれた。
 途中で彼らは、リンチで殺されるのを辛うじて免れた。//
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 (194) レーニン, <PSS>XXXVI, p.15-p.16.
 (195) トロツキー, <歴史>Ⅲ, p.305-6.
 (196) K. G. Kotelnikov, <<略>>(Moscow-Leningrad, 1928), p.164, p.165.
 (197) 同上, p.165-6.
 (198) トロツキー, <レーニン>, p.77.
 (199) <Rech'>No.252(1917年10月26日), <Revoliutsiia>Ⅴ収載, p.182.
 (200) <Revoliutsiia>Ⅴ, p.189.
 (201) Dzenis, <Living Age>No.4049(1922年2月11日)収載, p.331.
 (202) Maliantovich, <Byloe>No.12(1968年)所収, p.129-p.130.
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 つぎの第12節の目次上の見出しは、「第二回ソヴェト大会が権力移行を裁可し、講和と土地に関する布令を承認する」。

1953/R・パイプス著・ロシア革命第11章第11節①。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
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 第11節・ボルシェヴィキが臨時政府打倒を宣言①。
 (1)ボルシェヴィキ・クーの最終段階は、10月24日、火曜日の朝に進行していた。それは、軍事幕僚たちが政府によって前夜に命じられた熱の入らない手段を履行したあとだった。
 10月24日の早い時間に、<ユンカー(iunkers)>が戦略的重要地点を護衛する義務を受け持った。
 二または三の部隊が、冬宮の防衛のために派遣された。そこで彼らは、140人の志願者から成るいわゆる女性決死部隊(Women's Death Battalion)、いくつかのコサック、自転車部隊、将校に指揮された義肢の、および若干の銃砲の破片が体内にある、40人の戦争傷病者の兵団と合流した。
 驚くべきことに、一発の銃砲も用いられなかった。
 <ユンカー>は、<Rabochiipof>(<元プラウダ>)と<兵士>の印刷所を閉鎖した。 スモルニュイとの電話線は、切断された。
 親ボルシェヴィキの兵士や労働者が首都中心部に入るのを阻止するため、ネヴァ河(Neva)に架かる橋を上げよとの命令が、発せられた。
政府軍事幕僚は、連隊に対して軍事革命委員会の指示を受けることを禁じた。
 また、実際の効果はなかったが、軍事革命委員会のコミサールを逮捕せよとも命じた。(187)//
 (2)こうした準備によって、危機の雰囲気が生まれた。
 その日、ほとんどの事務所は午後2時半までに閉じられ、人々は家へと急いで帰って、街頭は空になった。
 これは、ボルシェヴィキが待ち望んでいた「反革命」の合図だった。
 ボルシェヴィキはまず、彼らの二つの新聞を復刊させた。午前11時までに、これを達成した。
つぎに、中央電信電話局とロシア電信庁を奪取すべく、軍事革命委員会は武装分団を派遣した。
 スモルニュイからの電話線は再びつながった。
 このように、クーの最も早い目標は、情報と通信線の中心地だった。//
 (3)その日午後に行われた唯一の実力行使(violence)は、軍事革命委員会の部隊がネヴァ河を横切る橋梁を下げさせたことだった。//
 (4)蜂起がこの最後で決定的な段階に至っているとき、軍事革命委員会は10月24日夕方、風聞にもかかわらず、反乱をしているのではなく、たんに「ペトログラード連隊と民主主義」を反革命から防衛する行動をしている、との声明文を発した。(188)//
 (5)考えられ得ることしてはこの虚偽情報の影響を受けて、全く連絡をとっていなかったに違いないレーニンは、同僚たちに実際に行っていることをさせるべく、絶望的な覚え書を書いた。//
 「私はこの文章を(10月)24日夕方に書いている。状況はきわめて深刻だ。
 今や本当に、ますます明らかになっている。蜂起を遅らせるのは、死に等しい。//
 ある限りの最大の力を使って、同志たちに訴えたい。全てがいま、危機一髪の状態だ。どの集会に(ソヴィエト大会であっても)諮っても回答されない問題に直面している。答えられるのは、人民、大衆、武装した大衆の闘いだけだ。//
 コルニロフ主義者のブルジョア的圧力、Verkhovskii の解任は、待つことはできない、ということを示す。
 ともかく何であれ、必要だ。この夕方、この夜に、政府人員を拘束すること、<ユンカー>を武装解除する(抵抗があれば打ち負かす)こと、…<略>。
 誰が、権力を奪うべきなのか?
 これは、今すぐには重要でない。軍事革命委員会に権力を、または「何らかの他の装置」を奪取させよ。…<略>//
 権力掌握こそが、蜂起の任務だ。その政治的目標は、権力を奪取した後で初めて明らかになるだろう。//
 10月25日の不確実な票決を待つのは、地獄か形式主義だ。
 人民には、投票によってではなく実力行使でもってその問題を解決する権利と義務がある。…<略>」(*)//
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 (*) レーニン, <PSS>XXXIV, p.435-6. Verkhovskii は、ロシアは中央諸国と即時講和をすべきだと閣僚会議で主張して、その前日(10月23日)にその職を解任されていた。<SV>No.10, 1921年6月19日, p.8.
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 (6)レーニンは、その夜おそく、スモルニュイにやって来た。
 彼は完全に変装していて、包帯を巻いた顔からして歯医者の患者のように見えた。
 途中で政府の巡視隊にほとんど逮捕されるところだったが、酔っ払っているふりをして免れた。
 スモルニュイでは、背後の部屋の一つにいて、最も親しい仲間たちだけが近づけるようにして、姿を消したままでいた。
 トロツキーは、こう想起する。レーニンは、軍事幕僚との間に進行中の交渉について聞いて懸念を覚えたが、この対話は見せかけ(a feint)だと理解すると、ただちに愉快に微笑んだ。//
 レーニンは「おう、それはよい(goo-oo-d)」と陽気に強い声で言って、緊張して手を擦りながら、部屋の中を行ったり来たりしていた。
 「それは、とても(verr-rr-ry)よい」。
 レーニンは軍事的な策謀を好んだ。敵を欺くこと、敵を馬鹿にすること-何と愉快な仕事だ!(189)//
 レーニンはその夜を床の上でゆっくりと過ごした。その間に、ポドヴォイスキー、アントノフ=オフセエンコ、およびトロツキーの全幅的指揮下にある彼の友人のG. I. Chudnovskii が、作戦行動を司令した。//
 (7)その夜(10月24日-25日)、ボルシェヴィキはピケを張るという単純な方法で、戦略上重要な目標地点の全てを系統的に奪い取った。
 Malaparte が論述したように、これは現代の模範的なクー・デタだった。
 <ユンカー>護衛団は、家に帰れと言われた。そして自発的に撤退するか、または武装解除された。
 こうして、闇夜に紛れて、一つずつ、鉄道駅、郵便局、中心電話局、銀行、そして橋梁が、ボルシェヴィキの支配のもとに置かれた。
 抵抗に遭遇することはなく、一発の銃火も撃たれなかった。
 ボルシェヴィキは、想像し得る最もさりげない方法でエンジニア宮を奪取した。
 「彼らは入ってきて、幕僚たちが立ち上がって去っていった座席を占めた。かくして、幕僚本部は奪取された。」(190)
 (8)ボルシェヴィキは、中央電信電話交換局で冬宮からの電話線を切断した。しかし、登録されていなかった二つの線を見逃した。
 この二つの線を使って、Malachite 室に集まっていた大臣たちは外部との接触を維持した。
 ケレンスキーは、公的な声明では自信を漂わせてはいたものの、ある目撃者によると、「苦悩と抑制した恐怖」を隠して半分閉じた眼で、虚ろを見つめて誰も視ておらず、老けて疲れているように見えた。(191)
 午後9時、T・ダン(Theodore Dan)とAbraham Gots が率いるソヴェト代表が現れて、「革命的」軍事参謀の影響によってボルシェヴィキの脅威を過大評価している、と大臣たちに告げた。
 ケレンスキーは、彼らを閉め出した。(192)
 その夜にケレンスキーはついに、前線の司令官たちに連絡をし、救援を求めた。
 しかし、無駄だった。誰も求めに応じなかった。
 10月25日午前9時、ケレンスキーは、セルビア将校に変装し、アメリカ合衆国大使館から借りた車で冬宮を抜け出した。その車はアメリカの旗を立て、助けを求めて前線へと走った。
 (9)その頃までに、冬宮は、政府の手に残された唯一の建造物だった。
 レーニンが執拗に主張したのは、第二回ソヴェト大会が正式に開会して臨時政府を排斥する前に、大臣たちは拘束されなければならない、ということだった。
 しかし、ボルシェヴィキの軍組織はその任務を果たすのに適切ではなかった。
 彼らボルシェヴィキ部隊は主張はしたけれども、敢えて銃砲を放とうとする者たちがいなかった。
 4万5000人いるとされた赤衛隊(Red Guards)とペトログラード守備連隊内部の数万の支持者たちは、どこにも現れなかった。
 冬宮に対する不本意な攻撃が、明け方に始まった。しかし、最初の射撃の音を聞いて、攻撃者たちは退却した。
 (10)苛立ちを燃え上がらせ、前線の兵団による介入を怖れて、レーニンは、もう待たない、と決断した。
 午前8時から9時までの間に、彼は、ボルシェヴィキの作戦指揮室に入った。
 最初は誰も、彼が何者なのか分からなかった。
 ボンチ=ブリュエヴィチ(Bonch-Bruevich)は、彼がレーニンだと認識して、嬉しさが爆発した。「ウラジミル・イリイチ、我が父だ。きみだとは気づかなかった」と叫びながら、レーニンを抱擁した。(193)
 レーニンは座って、軍事革命委員会の名前で臨時政府が打倒されたことを宣言する文書を起草した。
 プレスに(10月25日)午前10時に発表された文章は、つぎのとおりだった。
 「ロシアの市民諸君!
 臨時政府は打倒された。
 政府の権能は、ペトログラードのプロレタリアートと守備連隊の頂点に位置する、ペトログラード労働者・兵士代表ソヴェト、軍事革命委員会の手に移った。
 人民が目ざして闘うべき任務-民主主義的講和の即時提案、土地にかかる地主的所有制の廃絶、生産に対する労働者による統制、ソヴェト政権の確立-、これらの任務の遂行は保障された。
 労働者、兵士および農民の革命に栄光あれ!
 ペトログラード労働者・兵士代表ソヴェトの軍事革命委員会。」(*)
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 (*) <Dekrety>I, p.1-2. ケレンスキーの妻は拘束され、この宣言書を破ったとしてつぎの日の48時間留置された。A. L. Fraiman, <<略>>(Leningrad, 1969), p.157.
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 (187) <Revoliutsiia>V, p.164, p.263-4.
 (188) <SD>No.193(1917年10月26日), p.1.
 (189) トロツキー, <レーニン>p.74.
 (190) Maliantovich, <Boyle>No.12(1918年)所収, p.114.
 (191) 同上, p.115.
 (192) Melgunov,<Kak bol'sheviki>p.84-p.85.; A・ケレンスキー,<ロシアと歴史の転換点>(New York, 1965), p.435-6.
 (193) S. Uranov, <PR>No.10/33(1924年), p.277.
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 ②へとつづく。

1952/R・パイプス著・ロシア革命第11章第10節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
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 第10節・ケレンスキーの反応。
 (1)10月22日、軍事革命委員会が連隊を奪い取ろうとしていることを知って、軍事幕僚はソヴェトに対して最後通告を発した。撤回するか、それとも「決定的手段」に直面するか。(175)
 ボルシェヴィキは活動時間のことを慎重に考えて最後通告を「原理的に」受け入れ、かつクーを進行させている間ですら、交渉することを提案した。(176)
 その日の遅く、軍事幕僚と軍事革命委員会は、ソヴェトの代表団が幕僚とともに加わる「協議機関」の設立に合意した。
 10月23日、軍事革命委員会からの代理者が〔臨時政府〕軍事幕僚に対して、表面的には対話のために、実際には「偵察」を実施するために、派遣された。(177)
 これらの行動は、望んだ効果を生んだ。すなわち、政府が軍事革命委員会を拘束することを防いだ。 
 10月23-24日の夜のあいだに、内閣(コルニロフ事件以降は一種の影の存在になったと見える)は、二つの指導的なボルシェヴィキ日刊紙の閉刊を命じた。均衡をとるため、同じ数の、<Zhivoe lovo>を含む右翼新聞紙にも同じ措置をとった。この新聞は7月に、レーニンのドイツとの接触に関する情報を掲載していた。
 兵団が、冬宮を含む戦略的諸地点を防衛すべく派遣された。
 しかし、軍事革命委員会を拘束する権限の付与をケレンスキーが求められたとき、彼は、幕僚が軍事革命委員会との間の違いを交渉しているという理由で、思いとどまらせた。(178)
 (2)ケレンスキーは、ボルシェヴィキの脅威をはなはだしく過少評価していた。彼はボルシェヴィキ・クーを怖れなかったばかりか、実際には、それを望んだのだ。このクーによって自分は最終的に一気にボルシェヴィキを粉砕し、これを取り除くことができる、という自信をもって。
 10月の半ばに、軍事司令官たちはケレンスキーに対し、ボルシェヴィキが間違いなく武装蜂起の準備をしている、という報告をし続けた。
 同時に司令官たちは、クーに対するペトログラード守備連隊の「圧倒的」な地位を見れば、そのような蜂起はすみやかに失敗する、と保障していた。(179)
 ボルシェヴィキの策略とは反対に連隊は政府を支持することを意味すると誤解していたこのような評価を根拠にして、ケレンスキーは、同僚や外国の大使たちにあらためて保障した。
 ナボコフ(Nabokov)は、彼には粉砕する勢力が十分にあったのでこの蜂起が発生することに祈りを捧げた、と回想している。(180)
 George Buchanan に対して、ケレンスキーは一度ならずこう言った。「(ボルシェヴィキが)出てくるのを望むだけだ、そのときは彼らを鎮圧する」。(181)
 (3)しかし、明白かつ現存する危険に直面してのケレンスキーの確信は、自信過剰のゆえにのみ生じたものではなかった。1917年の残りの月日の間のように、「反革命」への恐怖こそが、彼の行動と非ボルシェヴィキの左翼全体の行動の要点(key)だった。
 ケレンスキーは以前にコルニロフとその他の将軍たちを反逆罪で訴追し、彼らに対抗する助けをソヴェトに求めた。職業的将校たちの目から見ると、ケレンスキーはもはやボルシェヴィキと見分けることができない人物だった。
 ゆえに、8月27日の後は、ケレンスキーは軍部を結集させることをあまりにも長く躊躇していた。
 戦時大臣の将軍A. I. Verkhovskiiは、事件のあとでイギリス大使に、「ケレンスキーはコサックが(十月)蜂起を彼ら自身で抑圧することを望まなかった。それは革命が終わることを意味しただろう、という理由でだった」、と語った。(182)
 恐怖の共有にもとづき、二つの運命的な敵、つまり「二月」と「十月」の間の致命的な連結(bond)がでっち上げられた。
 ケレンスキーとその補佐官たちが依然として抱いていた唯一の望みは、7月にそうだったように、最後の瞬間にはボルシェヴィキが中枢を失って退出する、ということだった。
 10月24-26日に冬宮の防衛を指揮したP. I. Palchinskii は、冬宮への包囲攻撃の間またはその陥落の後で、政府の態度についての彼の印象をメモ書きした。
 「Polkovnikon の無力さと計画の全くの欠如。非常識なことは行われないだろうとの願望。にもかかわらずそれが発生したときにすべきことの無知。」(183)
 (4)誰もが知っていた攻撃を阻止するための軍事上の真剣な用意は、何も行われていなかった。
 ケレンスキーはのちに、自分は10月24日に前線の指揮官による増援を要請した、と主張した。しかし、歴史的研究によると、彼は深夜になるまで(10月24-25日)そのような命令を発していない。クーはそのときまでにすでに完了していたので、遅すぎたのだった。(184)
 将軍アレクセイエフは、ペトログラードには1万5000人の将校がいた、そのうちの三分の一はボルシェヴィキと闘う用意があった、と概算した。だが結果は、首都が奪取されているときに彼らは座り込んでいるか、酒宴で浮かれているかのいずれかだった。(185)
 最も驚くべきことは、政府防衛の中枢、エンジニア宮(Mikhailovskii 宮)にあった軍事幕僚本部が、防衛されていないことだった。身分証明を求められることなく、通行人は自由にそこに入ることができた。(186)
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 (175) <NZh>No.161/155(1917年10月24日), p.3.
 (176) <Protokoly TsK>, p.119., p.269.; <Revoliutsiia>V, p.160.
 (177) A. Sadovskii, <PR>No.10(1922), p.76-p.77.; <Revoliutsiia>V, p.151.; Melgunov, <Kak bol'sheviki>, p.69.
 (178) <Revoliutsiia>V, p.163-4.; Melgunov, <Kak bol'sheviki>, p.69.
 (179) <Revoliutsiia>V, p.111-2.
 (180) <ナボコフと臨時政府>, p.78.
 (181) G. Buchanan, <My Mission to Russia>(Boston, 1923)II, p.201.; つぎを参照せよ。J. Noulens, <Mon Ambassade en Russie Sovietique, 1917-1919>I(Paris, 1933), p.116.
 (182) Buchanan, <Mission>II, p.214.
 (183) <KA>, 1/56(1933), p.137.
 (184) Melgunov, <Kak bol'sheviki>, p.93-p.94.
 (185) 同上, p.88-p.89.
 (186) P. N. Maliantovich, <Byloe>No.12(1918)所収, p.113.
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 以上が第10節。第11節の目次上の見出しは、<ボルシェヴィキが臨時政府打倒を宣言する>。

1951/R・パイプス著・ロシア革命第11章第9節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
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 第9節・軍事革命委員会がクー・デタを開始。
 (1)ミルレヴコム〔以下、軍事革命委員会〕の書記だったボルシェヴィキのアントノフ=オフセエンコはのちに、それは「党の軍事活動のための形式的なカバー(cover)」だったと叙述した。(164)
 軍事革命委員会は、二回だけ会合をもった。ボルシェヴィキ軍事組織が「ソヴェト」の標札(label)を自分に貼るには、その二回で十分だった。(165)
 アントノフ=オフセエンコは、同委員会が直接にボルシェヴィキ中央委員会の指揮のもとで活動したこと、「事実上の党機関」だったことを認める。
 そのようなものであったため、しばらくの間、軍事革命委員会のボルシェヴィキ組織の一部への変質に関する考究がなされた。(166)
 彼が叙述するように、スモルニュイ(Smolnyi)の10号室と17号室にあった委員会の司令部は行き来する若い男たちで一日じゅう混雑していて、かりにその気があったとしても、深刻な仕事をすることができない環境にあった。
 (2)共産党の資料によると、軍事革命委員会には、武装反乱のためにペトログラード守備連隊の全てまたはほとんど全てを動員する信任が与えられている。
 かくしてトロツキーは、十月には「連隊の圧倒的多数が公然と労働者の側に立っていた」と主張する。(167)
 しかしながら、現在の証拠資料が示すのは、守備連隊に対するボルシェヴィキの影響はもっとはるかに控えめだった、いうことだ。
 ペトログラード守備連隊の雰囲気は、革命的と言えるものではなかった。
 圧倒的にも、首都の兵舎にいる16万人と近郊に配置された8万5000人の兵士たちは、近づく衝突に対して「中立」を宣言した。
 十月の前夜にボルシェヴィキを支持する傾向にあった連隊部隊の数字は、ごく少数派だつたことを示している。
 スハノフは、多くて連隊の10分の1が十月のクーに参加した、「もっとはるかに少なかったようだ(likely many fewer)」、と見積もる。(169)
 著者自身の計算では、積極的に親ボルシェヴィキだった連隊兵士は(クロンシュタット海軍基地を除外して)おそらく1万人、または4パーセントくらいだ。
 中央委員会の悲観論者は、兵団を獲得するためにレーニンが想定した即時休戦がかりに支持されたとしても、ボルシェヴィキは連隊の支持を得られない、という理由で、武装反乱に反対した。//
 (3)しかし、楽観論者の方が正しかった(right)。なぜなら、臨時政府を拒否させるためには、さほど多くの連隊の支持を得る必要はなかったからだ。   
 ボルシェヴィキが連隊のわずか4パーセントでも味方につけていたとすると、政府に味方したのは、それよりも少なかっただろう。
 ボルシェヴィキの主要な関心は、、政府が7月にはそうできたように、ボルシェヴィキに反対させるべく連隊兵士たちを駆り出すことを阻止することだった。
 この目的のためには、政府の軍事幕僚からその正統性を奪う必要はなかった。
  ソヴェトとその兵士部門の名前で行動した10月21-22日にこれを達成して、ボルシェヴィキは軍事革命委員会に、守備連隊に対する排他的な権限をもつことを主張させた。//
 (4)軍事革命委員会はまず最初に、ペトログラード市内および近郊の部隊に対して200人の「コミサール」を派遣した。彼らコミサールの大半はボルシェヴィキ軍事組織の若い将校で、七月蜂起に参加し、最近に仮釈放で監獄から出てきていた。(170)
 つぎに委員会は、10月21日、スモルニュイで連隊委員会の会合を開いた。
 トロツキーは兵士たちに向かって、「反革命」の危険を強調し、連隊がソヴェトとその機関である軍事革命委員会に結集するよう訴えた。
 彼はまた、曖昧な言葉遣いであるために容易に受諾されやすい、つぎのような宣言文書を提案した。//
 「ペトログラード兵士労働者代表者ソヴェトの軍事革命委員会の設立を歓迎し、ペトログラード守備連隊は、同委員会に対して、革命の利益のために前線と後方の連絡をもっと親密することに最大限の尽力をし、全面的に支援することを誓約する」。//(171)
 いったい誰が、「革命の利益のために前線と後方の連絡をもっと親密する」ことに反対することができたのか?
 しかし、ボルシェヴィキは、この決定はペトログラード軍事地区の政府軍事幕僚の機能を軍事革命委員会が担うようにすると解釈させることを意図していた。
 ポドヴォイスキー(Posvoiskii)によれば、これは、武装暴乱の開始を記すものだった。(172)
 (5)つづく夜(10月21-22日)、軍事革命委員会からの一人の代理人が〔臨時政府〕軍事幕僚司令部に姿を見せた。
 その代理人、ボルシェヴィキの小佐のダシュケヴィチ(Dashkevich)は、〔臨時政府〕ペトログラード軍事地区司令官のG. P. Polkolnikov 大佐に、守備連隊委員会会合の権限でもって、いま以降、連隊に対する幕僚たちの命令は軍事革命委員会による副署があって初めて有効なものになる、と伝えた。
 もちろん兵士たちは、そのような決定を行っておらず、かりにそうしていたとしても、無効なものだった。その代理人は、実際にはボルシェヴィキ中央委員会に代わって行動していた。
 Polkolnikov は、その代理人を認知していない、と答えた。
彼が逮捕させるぞと脅かしたあとで、実質的にはボルシェヴィキからの派遣者は去って、スモルニュイへと向かった。(173)
 (6)その代理人からの報告を聞いて、軍事革命委員会は連隊の第二回会合を開いた。
 誰が来て出席したのか、誰を代表してだったのかは、確定することができない。
 しかし、それは問題ではない。その頃までには、偶然に集まったどの集団も、「革命」を代表していると主張することができた。
 軍事革命委員会が提案して、連隊委員会会合は詐欺的な声明〔宣言書〕を承認した。それは、10月21日に連隊は軍事革命委員会をその「機関」だと指定したけれども、連隊は承認することもそれ〔軍事革命委員会〕と協力することも拒否する、と主張するものだった。
 代理人が「承認」または「協力」を求めなかったということには何の言及もされなかった。しかし、幕僚命令を取消す権限には言及があった。
 その決定文書は、こう続いた。
 「このようにして、〔臨時政府〕軍事幕僚たちは革命的連隊とペトログラード兵士労働者代表ソヴェトと決裂した。
 首都の組織された連隊と決裂して、〔臨時政府軍事〕幕僚は反革命勢力の直接的武器に変質した。<中略>
 ペトログラードの兵士諸君! 1. 反革命の試みに対する革命的指令が、軍事革命委員会の指揮のもとで、きみたちに与えられる。。
 2. 連隊に関する、軍事革命委員会の副署を欠く〔政府幕僚の〕全ての命令は、無効だ。<略>」(174)//
 (7)この決議は、つぎの三点の目標を達成していた。
 1. ソヴェトの名をもつとされる臨時政府は「反革命的」だ。
 2. 臨時政府から守備連隊に対する権限を奪った。
 3. 軍事革命委員会に、権力を追求する意図を隠す革命の防衛という言い訳を与えた。//
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 (164) V. A. Antonov-Ovseenko, <<略>>(Moscow, 1933), p.276.
 (165) Robert V. Daniels, <赤い十月>(New York, 1967), p.118.
 (166) <Kritika>IV, No.3(1968年春号), p.21-p.32.; N. I. Podvoiskii, <神・1917年>(Moscow, 1958), p.104. を見よ。
 (167) トロツキー, <歴史>III, p.290-1.
 (168) G. L. Sobolev, <IZ>No.88(1971)所収, p.77.
 (169) スハノフ, <Zapiski>VII, p.161.
 (170) O. Dznis, <Living Age>No.4,019(1922年2月11日)所収, p.328.
 (171) <イズヴェスチア>No.204(1917年10月22日), p.3.; <Revoliutsiia>V, p.144-5.
 (172) Podvoiskii, <神・1917年>, p.106-p.108.
 (173) Melgunov, <Kak bol'sheviki>, p.68-p.69.; Antonov-Ovseenko, <<略>>, p.283.; <NZh>No.161/155(1917年10月24日), p.3.
 (174) D. A. Chuganov, ed.,<<略>>I(Moscow, 1966),p.63. この宣言書は、ボルシェヴィキの日刊紙<Rabochii put'> 10月24日に初めて掲載された。
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 以上、第9節。第10節の目次上の見出しは<ケレンスキーが反応する>。

1949/R・パイプス著・ロシア革命第11章第8節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。p.482-p.486.
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 第8節・党中央委員会10月10日の重大決定。
 (1)10月16日までに、ボルシェヴィキには自由になる二つの組織があったが、いずれも名目上はソヴェトに帰属していた。第一は軍事革命委員会で、クーを実施する、第二は来たる第二回ソヴェト大会で、クーの実施を正当化する。
 これらはこのときまでに、事実上は、第一に臨時政府の軍事幕僚に、第二にソヴェトのイスパルコムに取って代わった。
 ミルレヴコム〔軍事革命委員会〕とソヴェト大会は、10月10日にきわめて秘密裡に行われたボルシェヴィキの権力掌握の決定を実施すべきものとされた。//
 (2)10月3日と10日の間のいつかに、レーニンはペトログラードにこっそりと戻ってきた。レーニンはこれを隠れて行ったので、共産主義者の歴史研究者は今日まで彼の帰還のときを確定できていない。
 レーニンは10月24日までVyborg 地区に潜伏した。姿を現したのは、ボルシェヴィキ・クーがすでに開始されたあとのことだった。
 //
 (3)10月10日-イスパルコムとソヴェト総会が防衛委員会の設置を票決した後の一日で、この事態との関係が十分にありそうだが-、ボルシェヴィキ中央委員会のうちの12名の委員が集まって、武装蜂起の問題に関して決定した。
 この会合は深夜に、極端な予防措置に囲まれた中で、スハノフのアパートで行われた。
 レーニンは、きれいに髭を剃り、鬘と眼鏡を着けて変装してやって来た。
 このときに何が行われたかについて明らかになってことに関する我々の知識は完全ではない。二つの議事録が作成されたが、そのうち一つだけが出版され、その一つですら手を加えて修正されたものだからだ。(152)
 最も詳細な資料は、トロツキーの回想録に由来する。(153)//
 (4)レーニンは、10月25日の前に絶対にクーが実施されるのを確実にしようと決断するに至っていた。
 トロツキーが「我々が招集しているソヴェト大会では、我々が多数派を握ることがあらかじめ保障されている」として反対したとき、レーニンは、つぎのように答えた。
 「第二回ソヴェト大会の問題には、<中略>彼はいかなる関心もなかった。
 それがどれだけの重要性をもつのか? 開催されすらするのか? そして、権力を切り取る(tear out, vyrazi')ことは必要か?
 ソヴェト大会に束縛されてはならない。敵に対して蜂起の日程を教えてあらかじめ警告するのは愚かで馬鹿げている。
 10月25日はせいぜいのところ、粉飾(camouflage)として役立つかもしれない。しかし、蜂起は、ソヴェト大会よりも早く、それとは独立して、実行されなければならない。
 党は、武器を手にして、権力を掌握しなければならない。そのときには、我々はソヴェト大会について語るだろう。」(154)
 トロツキーは、こう考えた。レーニンは「敵」に大きすぎる意味を認めているのみならず、カバー(cover)としてのソヴェトの価値を過少評価してもいる。
 党は、レーニンが欲するようには、ソヴェトと無関係に権力を掌握することはできない。なぜならば、労働者と兵士たちはボルシェヴィキ党に関することも含めた全てのことをソヴェトのメディアを通じて学んでいるからだ。
 ソヴェト構造の枠外で権力を奪取することは、ただ混乱の種だけを撒くだろう。//
 (5)レーニンとトロツキーの違いは、クーの時機と正当化の問題に集中していた。
 しかし、中央委員会の何人かの委員は、権力奪取を実行するかどうか自体をすら、疑問視していた。
 ウリツキ(Uritskii)は、ボルシェヴィキは技術的に蜂起を準備していない、使用可能な4万丁の銃砲では不十分だ、と主張した。
 最も厳しい反対意見は、カーメネフおよびジノヴィエフから出て来た。彼らはその立場を、内密の手紙を通じて、ボルシェヴィキの諸組織に対して説明した。(155)
 クーの時機は、まだだ。
 「我々が深く確信するところでは、いま蜂起することは我々の党の運命を賭ける冒険であることのみならず、世界革命はもとよりロシア革命を賭けることをも意味する」。
 党は憲法制定会議の選挙で成功(do well)するのを期待することができる。最小でも議席の三分の一を獲得すれば、そのことでソヴェトの権威を補強し、ソヴェト内での影響力をさらに優ったものにすることができる。
 「憲法制定会議にソヴェトを加えたもの-これこそが、我々が追求すべき、連結した統治制度の類型だ」。
 この二人は、ロシアと世界の労働者の多数派はボルシェヴィキを支持している、とのレーニンの主張を拒絶した。
 彼らの悲観的な評価によれば、武装行動ではなくて防衛的な戦略をとることを〔いわば〕医師は患者に勧める、ということになる。//
 (6)レーニンはこの主張に対して、こう反応した。「憲法制定会議を待つのは非常識(senseless)だ。これは我々の側には立たないだろう。なぜなら、これは我々の任務を複雑なものにするだろうから」。
 この点で、レーニンは、多数派の支持を獲得した。//
 (7)討議が終わりに近づくにつけて、中央委員会は三つの派へと分かれた。
 1. レーニンだけの一人党派で、ソヴェト大会や憲法制定会議に関する考慮することなく、即時の権力掌握に賛成する。
 2. ジノヴィエフとカーメネフで、Nogin、Vladimir Miliutin およびアレクセイ・ルィコフによって支持され、当面はクー・デタに反対する。
 3. その他の数では6名の委員で、クーを支持するが、ソヴェト大会との連携がなされるべき、-この二週間は-ソヴェトの正規の支援のもとにあるべき、とのトロツキーにも賛同しない。
 過半数の10名は、「避けることができず、かつ十分に成熟した」ときに武装蜂起に賛成する票を投じた。(156)
 時機は未決定のままに、残された。
 あとに続いた事態から判断すると、一日または数日だけ第二回ソヴェト大会に先行する、というものだった。
 レーニンは、このような妥協をしなければならなかった。そして、ソヴェト大会はたんにクーを裁可することだけが求められる、という彼の主眼点を獲得した。//
 (8)軍事革命委員会の設立と、そのつぎの第二回ソヴェト大会の元となった北部ソヴェト大会の招集は、以前に記述したことだが、10月10日の中央委員会決定を実施するものだった。
 (9)カーメネフには、この決定は受容することができないものだつた。
 彼は、中央委員会の委員を離任し、その一週間後、<Novaia zhizn'>のインタビューで自分の立場を説明した。
 カーメネフは、こう語った。彼とジノヴィエフは党の諸組織に回覧の手紙を送った。それに二人は、「近い将来に武装蜂起を始めることを党が承認することに断固として反対する」と書いた。
 党がそのような決定をしていなかったとしても、とここで彼は虚偽を語ったのだが、彼とジノヴィエフおよび何人かのその他の者は、ソヴェト大会の前夜での、ソヴェトから独立した「武装の実力による権力掌握」は革命にとって致命的な結果をもたらすだろう、と考えた。そして、蜂起を避けることはできないが、時機がよくない、と。(157)
 (10)中央委員会は、クーの前にさらに三回の会合を開いた。10月の20日、21日、そして24日。(158)
 第一回めの議題は、武装蜂起に反対する見解を公にした点で冒したと主張された、カーメネフとジノヴィエフの党規約違反だった。(*)
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 (*) レーニンは間違って、ジノヴィエフはカーメネフとともに<Novaia zhizn'>のインタビュー>に加わっていたと考えていた。<Protokoly TsK>, p.108.
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 レーニンは中央委員会に対して怒りの手紙を書き送り、「スト破り」の除名を要求した。
 「我々は資本主義者たちに真実を語ることはできない。すなわち、我々はストライキへと進む(蜂起をする、と読むべし)こと、そして<時機の選択>を彼らに<隠す>こと、を<決定した>。(159)
 中央委員会は、この要求に従うことをしなかった。
 (11)これらの会合の議事録は、実質的に無意味なものにするために相当に省略されているように思われる。かりに表面どおりに理解するならば、そのときまでにすでに議論が進行中だったクーは議題ですらなかった、と推察してしまうだろう。
 (12)中央委員会の戦術は、臨時政府を挑発して、革命を防衛することを偽装したクーを開始するのを可能にさせる、報復的な手段をとるよう追い込むことだった。
 この戦術は、秘密ではなかった。
 事件の数週間前のエスエル機関誌<Delo naroda>が簡略化して書いているように、臨時政府はコルニロフと一緒に革命を抑圧し、〔ドイツ〕皇帝と一緒にペトログラードを敵に明け渡す陰謀を企てたとして責任が追及されるだろう。ソヴェト大会と憲法制定会議のいずれも解散させる用意をしていた、という責任追及はもちろん。(160)
 トロツキーとスターリンは、そのようなことが党の計画だったと、事件の後で確認した。
 トロツキーは、こう書いた。
 「本質的なことを言えば、戦略は攻撃的なものだった。
 我々は、政府を攻撃する準備をしていたが、我々の煽動活動は、敵がソヴェト大会を解散させようとしている、敵を容赦なく撃退することが必要だ、と主張することにあった。」(161)
  スターリンによると、こうだ。
 「革命(ボルシェヴィキ党と読むべし)は、不確かで躊躇させる要素を軌道の中に引き込むことを容易にするために、その攻撃行動を防衛という煙幕の背後で偽装することだった。」(162)
 (13)Curzio Malaparte は、たまたまファシストが権力奪取をしていたイタリアを訪れていたイギリスの小説家、Izrael Zangwill の困惑を、こう叙述している。
 「バリケード、路上の戦闘、舗道上の軍団」がないことに驚いて、Zangwill は、自分が革命を目撃していると信じるのを拒んだ。(163)
 しかし、Malaparte によれば、現代の革命の特徴的な性質は、まさに無血(bloodless)であることだ。訓練された突撃兵団の小部隊が、戦略的地点をほとんど静穏に掌握するのだ。
 このような厳密な正確さでもって襲撃は実行されるので、民衆一般は何が起きているかを少しも知ることがない。
 (14)この叙述は、ロシアの十月のクーにふさわしい(これをMalaparte は研究して、彼のモデルの一つとして用いた)。
 十月に、ボルシェヴィキは集団的な武装示威行動や路上での衝突をしなかった。これらは、レーニンの主張に従って4月や7月には行ったことだった。なぜ10月にはしなかったかというと、群衆は統制し難く、また反発を却って生むということが分かったからだった。
 ボルシェヴィキは、今度は、小規模の訓練された兵士と労働者の部隊に頼った。その部隊は、軍事革命委員会を装った軍事組織司令部のもとにあり、ペトログラードの主な通信と交通の中心地、利便施設や印刷工場-現代的大都市の中枢(nerve)箇所-を占拠することを任務としていた。
 政府とその軍事幕僚たちとの間の電話線を切断するだけで、ボルシェヴィキは反攻の組織化を不可能にすることができた。
 作戦行動全体が、順調かつ効果的に履行された。そのために、まさにそれが進行中だったときですら、オペラ劇場のほかにカフェやレストラン、あるいは劇場や映画館、は営業のために開いていて、娯楽を求める群衆で混雑していた。//
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 (152) <Protokoly TsK>, p.83-p.86.
 (153) L・トロツキー,<レーニン>(Moscow, 1924), p.70-p.73.
 (154) 同上, p.70-p.71.
 (155) <Protokoly TsK>, p.87-p.92.
 (156) 同上, p.86.; トロツキー,<レーニン>, p.72.
 (157) Iu・カーメネフ. <NZh>No.156/150(1917年10月18日)所収, p.3.
 (158) <Protokoly TsK>, p.106-p.121.の縮められた議事録。
 (159) 同上, p.113.
 (160) <DN>No.154(1917年9月11日), p.3., 同No.169(1917年10月1日), p.1.
 (161) トロツキー,<レーニン>, p.69.
 (162) Mints, <Dokumentry>I, P.3.
 (163) C・Malaparte, <クー・デタ: 革命の技術>(New York, 1932), p.180.
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 第8節は終わり。つぎの第9節の目次上の見出しは、<軍事革命委員会がクー・デタを開始>。

1948/R・パイプス著・ロシア革命第11章第7節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。p.477-p.482.
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 第7節・ボルシェヴィキによるソヴェト軍事革命委員会の乗っ取り(take over)。
 (1)第二回ソヴェト大会を偽装した、親ボルシェヴィキの集会は、ボルシェヴィキのクーを正当化することとなった。
 しかしながら、レーニンの執拗な主張では、クーは大会が開催される前に、軍事組織の指揮のもとにある突撃兵団によって達成されるべきものだった。
 この突撃兵団は首都の戦略上重要な地点を掌握し、政府は打倒されたことを宣言することとなっていた。これは大会に対して、不可逆的な既成事実を突きつけることになるだろう。
 この行動を、ボルシェヴィキ党の名前で行うことはできなかった。
 ボルシェヴィキがこの目的のために用いた装置は、10月早くの恐慌のときにペトログラード・ソヴェトが設立した軍事革命委員会だった。これの目的は、首都を予想されるドイツの攻撃から防衛することだとされていた。
 (2)ドイツ軍がリガ(Riga)湾で作戦行動をしたことで、事態は早まった。
 ロシア兵団がリガを撤退したあと、ドイツは偵察部隊をRevel(Tallinn)の方向へと派遣した。
 この行動は、300キロしか離れておらず、防衛に信頼を措けないペトログラードを脅かすことを装っていたので、ロシアの将軍幕僚たちは多大の関心を引いた。
 (3)首都へのドイツの脅威は、10月半ばにはますます不気味なものになった。
 9月6日/19日、ドイツの最高司令部はリガ湾にあるMoon、Ösel、およびDagoの各島の占拠を命令した。
 9月28日/10月11日に航行した小型艇隊はすみやかに機雷敷設地域を除去し、予期ししていなかった頑固な抵抗を抑えたあと、10月8日/21日にこれら三島の占領を完遂した。(135)
 敵は今や、ロシア軍の背後の地上に位置していた。
 (4)ロシアの将軍幕僚はこの海上作戦を、ペトログラード攻撃の予備行動だと見た。
 10月3日/16日、Revel からの退避が命じられた。ここは、ドイツ軍と首都の間に位置する、最後の大きい拠り所だった。
 その翌日、ケレンスキーは、危機に対処する方法に関する討議に加わった。
 ペトログラードはもまなく戦闘地帯に入ってしまう可能性があるので、政府と憲法制定会議はモスクワへと移転する、という提案がなされた。
 この考え方は一般に同意されたが、唯一の不一致は移動の時機の問題だった。ケレンスキーは、即座に行うことを望んだが、他の者たちは遅らせるのを支持した。
 政府は、広範な世論の支持を要請する会合として予備議会(Pre-Parliament)を10月7日に開催する予定でいた。この予備議会の同意を確保したあとで撤退することが、決定された。
 つぎの問題は、イスパルコムに関して何をするか、について生じた。
 合意があったのは、イスパルコムは私的な機構なので、その撤退は自分で行うべきだ、ということだった。(*)
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 (*) <Revoliutsiia>V, p.23. ケレンスキーによると、この議論は秘密のはずだったが、彼らはすぐにプレスに漏らした。同上, V, p.81.
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 10月5日、政府の専門家たちが、行政官署のモスクワへの撤退には二週間がかかる、と報告した。
 ペトログラードの諸産業を内陸部へと再配置する計画が、策定された。
 (5)このような予防措置は、軍事的かつ政治的な意味をもった。それは、フランスが1914年9月にドイツ軍がパリに接近したときにしたこと、ボルシェヴィキが1918年3月に同様の状況のもとですることになるだろうこと、だった。
 しかし、社会主義的知識人たちは、これらのうちに、「赤いペトログラード」、「革命的民主主義」の主要な基地を敵に明け渡す「ブルジョアジー」の策略を見た。
 プレスが政府の退避計画を公表する(10月6日)とすぐに、イスパルコム事務局は、自分たちの同意なくしていかなる撤退も行われてはならない、と声明した。
 トロツキーはソヴェトの兵士部門に向けて演説し、「革命の首都」を放棄しようとする政府を非難する決議を採択するよう、説得した。
 彼の決議は、こう言う。ペトログラードを防衛することができないのであれば、講和するか、別の政府に従うか、のいずれかだ。(137)
 臨時政府は、ただちに屈服した。
 同じ日に、臨時政府は、反対意見があることを考慮して撤退を一ヶ月遅らせる、と発表した。
 そのうちに、この退避の考えはすっかり放棄された。(138)
 (6)10月9日、政府は守備連隊の補充部隊に対して、予期されるドイツの攻撃を阻止するのを支援するために前線に向かうよう、命令した。
 過去の経験から予期され得たことだったが、守備連隊は、抵抗した。(139)
 この対立にかかる判断は、審判するためにイスパルコムに委ねられた。
 (7)その日遅くのイスパルコムの会合で、メンシェヴィキ派の労働者のMark Broido が、一つにペトログラード守備連隊に首都防衛に備えること、二つにソヴェトがこの目的の「計画遂行」をするための「革命的防衛の委員会」を設置(またはむしろ再構成)すること、を呼びかける決議を提案した。(140) 
 ボルシェヴィキと左翼エスエルは驚き、臨時政府の力を強くするという理由で、Broidoの決議案に反対した。
 これはしかし、際どい過半数(13対12)で採択された。
 票決のあとで、ボルシェヴィキは、過ちを冒したことに気づいた。
 ボルシェヴィキには、武装蜂起のために育ててきている軍事組織があった。それはボルシェヴィキ中央委員会に従属し、ソヴェトとは関係がなかった。
 このような地位の良さには、複雑な面があった。というのは、その軍事組織はボルシェヴィキ最高司令部の命令を忠誠心をもって遂行することができる一方で、一政党の一機関として、ソヴェトを代表して行動することはできなかった。ボルシェヴィキはその名前を用いて権力掌握を達成しようと意図していたのだったが。
 数年のちに、トロツキーはこう回想することになる。この不利な条件に気づいて、ボルシェヴィキは、1917年9月に、彼が「非党派『ソヴェト』機関」と称したものを蜂起を率いさせるために設立するよう、全ての機会を活用する、と決定していた。(141)
このことは、その軍事組織の一員だったK. A. Mekhonoshin によっても確認されている。この人物は、こう言う。ボルシェヴィキは、「守備連隊の部隊と連結する中枢部を、決定的行動のときにソヴェトの名前で前進することができるように、党の軍事組織からソヴェトへと移行させる必要がある、と感じていた」。(142)
 メンシェヴィキによって提案された組織は、この目的には理想的に相応していた。
 (8)メンシェヴィキの提案がソヴェトの総会での票決に付されたその夕方(10月9日)、ボルシェヴィキ代議員は保留の立場をとった。彼らはそのときには、ソヴェトがドイツからペトログラードを防衛するための組織を設立することに、それが「国内」の敵からも防衛するだろうかぎりで、同意していた。
 この「国内」の敵という後者によってボルシェヴィキが意味させたのは、つぎのことだ。すなわち、あるボルシェヴィキの言葉では、「臨時政府は皇帝に対する革命の主要な基地を陰険にも引き渡そうとしており、そして皇帝は、ボルシェヴィキの理解によれば、ペトログラードへの前進について、同盟する帝国主義者たちに支援されている」。(143)
こうした目的のために、ボルシェヴィキは、「軍事防衛委員会」はロシアの「反革命活動家」からはもちろんドイツ「帝国主義者」からの脅威に対して、首都の安全を確保する全ての責任を負わなければならない、と提案した。
 (9)ボルシェヴィキがBroido の提案を再定式化した内容に驚き、また何故彼らがそうしたのかを知って、メンシェヴィキはその修正に、断固として反対した。
 首都の防衛は、政府とその軍事幕僚たちの責任だった。
 しかし、総会はボルシェヴィキの案を選択し、「革命的防衛委員会」の形成に賛成する票決を行った。
 「労働者を武装させる全ての手段を講じることとともに、その手中にペトログラードとその近郊の防衛に関与する全ての力を結集すること。
 こうすることで、公然と準備されている軍および民間のコルニロフ一派の攻撃に対する、ペトログラードの革命的防衛と民衆の安全確保の二つをいずれも確実にすること」。(144)
 この異常な決議は巧妙に、ドイツ軍がもたらしている現実的な脅威に対応する新しく設立された委員会の責任と、コルニロフへの支持者による空想上の脅威とを、結びつけていた。コルニロフはどこにも、姿を見せていなかったのだが。
 メンシェヴィキとエスエルは、臨時政府は「ブルジョア」的性質をもつという悪宣伝的な強い主張と、反革命に対する強迫観念的な不安という彼らの収穫物を、このとき刈り取った。
 (10)票決の結果は、決定的に重要だった。
 トロツキーはのちに、これは臨時政府の運命を封じた、と述べた。
 彼の言葉では、これは10月25-26日に達成された勝利の10分の9でなくとも4分の3をボルシェヴィキに与えた、「静か」で「素っ気ない(dry)」革命だった。(145)
 (11)しかしながら、事態はまだ完全には終わっていなかった。総会での決定にはイスパルコムとソヴェト全体の同意が必要だったからだ。
 10月12日のイスパルコムの非公開会合で、2人のボルシェヴィキ議員がボルシェヴィキ革命を激しく攻撃した。しかし、彼らは再び敗れ、この二人以外の満場一致で、総会の決定はイスパルコムの支持を得た。
 イスパルコムは、新しい組織の名を「軍事革命委員会」と改めた(Voenno-Revoliutsionnyi Komitet。または略称してMilRevkom 〔ミルレヴコム〕)。また、これに首都の防衛の責務を付与した。(146)
 (12)問題は正式には、10月16日のソヴェトの会合で確定された。
 ボルシェヴィキは、注意を自分たちから逸らすために、ミルレヴコムを設立する決議の案文起草者に、無名の若い衛生兵である左翼エスエルのE. Lazimir を指名した。
 遅まきながらボルシェヴィキの策略(maneuver)の意味に気づいたエスエル(社会革命党)は、おそらくは欠席している同党の議員を集めるために、票決を遅らせようとしたが、失敗した。
 このエスエルの動議は却下され、彼らエスエルは棄権した。
 Broido はもう一度、ミルレヴコムは欺瞞だ、その真の使命はペトログラードを防衛することではなく、権力掌握を実行することだ、と警告した。
 トロツキーは、ロジアンコ(Rozianko)をインタビューした新聞記事を引用することで、ソヴェトの注意を逸らせた。ロジアンコは、かつての(今は政府の何の地位も占めていない)ドゥーマ議長はドイツによるペトログラード占領を歓迎する、と意味していると解釈することのできる語り口だった。(147)
 ボルシェヴィキは、Podvoiskii を副官に付けて、Lazimir をミルレヴコムの議長に指名した(十月のクーの前夜に、Podvoiskii はこの組織の長を正式に引き受けることになる)。(**)
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 (**) Lazmir はのちにボルシェヴィキに入党した。1920年にチフスによって死んだ。
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 ミルレヴコム〔軍事革命委員会〕のその他の委員を確定するのは困難だ。彼らはもっぱら、ボルシェヴィキか左翼エスエルだったと思われる。(+)
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 (+) N. Podvoiskii, <KL>No.18(1923年)所収, p.16-p.17.
 トロツキーは、1922年に、かりに生命が危うくなってもミルレヴコムのでき方を思い出すことはできない、と書いた。
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 しかし、誰がミルレヴコムにいたかは大きな問題ではなかった。それはクーの本当の組織者のための便宜的な旗にすぎなかったからだ。つまりは、ボルシェヴィキの軍事組織だった。//
 (13)トロツキーは今や、心理〔神経〕の戦いを始めた。
 ダン(Dan)がボルシェヴィキに、風聞があるように蜂起を準備しているのか否かをソヴェトで明確に表明するよう要請したとき、トロツキーは意地悪く、ケレンスキーとその対抗諜報機関の利益のためにその情報を欲しがっているのか、と尋ねた。
 「我々は権力掌握のための隊員を組織している、と言われている。
 我々はそのことを秘密にしていない。<略>」(148)
 しかしながら、二日後にトロツキーは、かりに蜂起が発生したとすれば、ペトログラード・ソヴェトは「我々はまだ蜂起を決定していなかった」との決定を下すだろう、と主張した。(149)
 (14)これらの言明には意識的な両義性があるにもかかわらず、ソヴェトは告知されていた。
 社会主義者たちは、トロツキーが何を語ったかを聞かなかったか、またはボルシェヴィキの「冒険」は不可避だと諦めていたかのいずれかだった。
 彼らは、レーニンの支持者たちと一緒に自分たちも一掃するだろう、あり得る右翼からの反応に対するほどには、ボルシェヴィキの行動を怖れなかった。
 ボルシェヴィキのクーの前夜(10月19日)、ペトログラード社会革命党の軍事組織は、予期される蜂起に対して「中立的」立場をとることを決定した。
 守備連隊内の同党員および共感者たちに送られてた回覧書は、示威活動からは離れたままでいること、黒の百人組、虐殺主義者および反革命の者たちからなされることがあり得る攻撃<中略>による容赦なき抑圧に十分に注意していること、を強く迫っていた。(150)
 これは疑う余地なく、エスエルの指導者たちはいったいどこに民主主義に対する主要な脅威を見ていたのか、を示している。//
 (15)トロツキーはペトログラードにずっといて、つねに緊張し、約束、警告、脅迫、甘言、激励をしている状態だった。
 スハノフ(Sukhanov)は、この時期の日々の典型的な情景を、つぎのように叙述する。
 「ホールに充満する3000人を超える聴衆の雰囲気は、明確に興奮のそれだった。
 彼らの一瞬の静けさは、つぎの期待を示していた。
 公衆は、もちろん主としては労働者と兵士だった。男女ともに、少しばかりの典型的なプチ・ブルジョア的様相も呈していなかったが。//
 トロツキーに対する熱烈な喝采は、好奇心と性急さで短く切られたように見えた。彼はつぎに何を語ろうとしているのか?
 トロツキーはただちにその巧みさと才幹でもって、会場の熱気を舞い上がらせ始めた。
 私は、彼が長い時間をかけてかつ異常なる力強さで、前線部隊が体験している…<中略>困難な状態を表現したのを憶えている。
 私の心にひらめいた思考は、その修辞的な言葉全体の諸部分にある、避けられない矛盾だった。
 しかし、トロツキーには、自分が何をしているかが分かっていた。
 根本的なのは、<ムード>〔雰囲気・空気〕だった。
 政治的な結論は、長い間にわたってお馴染みのものだった。<中略>//
 (トロツキーによると、)ソヴェトの権力は前線の戦場での損失で終末を迎えるべく運命つけられているだけではない。
 それは土地を提供し、国内の不安を止めるだろう。
 もう一度、飢餓に対処する昔からの秘訣が大きく持ち出される。どのようにして兵士、海兵および労働若年女性たちは裕福な者からパンを調達し、それを無料で前線に送るのだろう。<中略>。
 しかし、この決定的な「ペトログラード・ソヴェトの日」(10月22日)に、トロツキーはさらに進んだ。
 『ソヴェト政府は、国が貧者と前線の兵士のために有する全てのものを与えるだろう。
 きみ、ブルジョア、所有する二着の外套? 前線の塹壕で震えている兵士に一つをやれ。
 きみには、暖かい半長靴がある? きみの靴は労働者が必要としている。<中略>』//
 私の周りの雰囲気は、恍惚状態に近くなった。
 群衆はいつでも自発的に、求められることなく、突然に一種の宗教的な聖歌の中へと入り込んでいきそうに見えた。
 トロツキーは、『我々は最後の血の一滴まで、労働者と農民の根本教条を守るだろう』というのと似通った、短い一般的な決議を定式化し、あるいはいくつかの一般的な定式を宣告した。 
 誰に賛成か? 数千の群衆は、一人の男のようにその手を挙げた。
 私は、男性、女性、青年、労働者、兵士、農民そして典型的なプチ・ブルジョアの人物たちの挙げた手と燃える眼を見た。
 (彼らは)同意した。(彼らは)誓った。<中略>
 私はこの壮大な奇観を、異様に<重たい>心でもって眺めていた。」(151)//
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 (135) この作戦はM. Schwarte et al, <大戦 1914-1918: ドイツの戦争>(Leipzig, 1925), Pt. 3, p.323-7.で叙述されている。
 (136) <Revoliutsiia>V, p.30-p.31.
 (137) <Izvestiia>No.191(1917年10月7日), p.4; <Revoliutsiia>V, p.37.
 (138) <Revoliutsiia>V, p.38, p.67.
 (139) 同上, p.52.
 (140) 同上, p.52, p.237-8.
 (141) <PR>No.10(1922年), p.53-p.54.
 (142) 同上, p.86.
 (143) I. I. Mints, ed., <<略>>Ⅰ(Moscow, 1938), p.22.
 (144) <Rabochii put'>No.33(1917年). <Revoliutsiia>V, p.238. が引用。
 (145) トロツキー, <歴史>III, p.353.
 (146) <Rabochii put'>No.35(1917年). <Revoliutsiia>V, p.70-p.71. と<Izvestiia>No.197(1917年10月14日), p.5. が引用。
 (147) Utro Rossi. Melgunov, <Kak bol'sheviki>, p.34n.が引用。
 (148) <Izvestiia>No.199(1917年10月17日), p.8.; <Revoliutsiia>V, p.101.
 (149) <Izvestiia>No.201(1917年10月19日), p.5.
 (150) <Revoliutsiia>V, p.132.
 (151) N. Sukhanov, <Zapinski o revoliutsii>VII(nberlin-Petersburg-Moscow, 1923), p.90-p.92.
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 第7節は終わり。第8節の目次上の見出しは、<10月10日の重大な決定>。

1947/R・パイプス著・ロシア革命第11章第6節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。p.473-p.477.
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 第6節・ボルシェヴィキのためのソヴェト大会の企て。
 (1)レーニンの切迫した意識は、かなりの程度は、憲法制定会議によって先手を打たれるのではないか、という怖れで大きくなっていた。
 8月9日、臨時政府はようやく最終的に、憲法制定会議の日程を発表した。
 選挙は、11月12日。最初の会合は、11月28日。
 ボルシェヴィキは数日間はこの会議で議席の多数派を獲得できるだろうと幻想していたが、心の裡では、かりに農民たちが確実にエスエルに投票するならばその機会はない、と分かっていた。
 ボルシェヴィキは都市と軍隊で強く、単独でソヴェト組織を握っていた。そしてボルシェヴィキの望みはただ、ソヴェトを通じて全国的な信任を勝ち得ることだった。
 さもなければ、全ては終わってしまう。
 民主主義的な選挙を通じて国家がいったんその意思を明らかにすれば、ボルシェヴィキが「民衆(people)」を代表しており、新しい政府は「資本主義者」だ、とはもはや主張できないだろう。
 したがって、ボルシェヴィキが権力を奪取するとすれば、それは憲法制定会議の前に行わなければならなかった。
 ボルシェヴィキが制御している場合にのみ、選挙での反対の結果を帳消しにすることができる。ボルシェヴィキのある出版物が、憲法制定会議の構成は「誰がそれを招集するかに大きくかかっている」と述べたように。(113)
 レーニンも同意見だった。憲法制定会議の「成功」は、クーの<あと>でのみ最もよく確保されるだろう。(114)
 事態が示すことになるように、このことは、ボルシェヴィキが選挙結果に不正に手を加えるか、そうでなければ会議を解散させるだろう、ということを意味した。
 レーニンが辞任宣告で脅かしてまで同僚たちを急がせた主要な理由は、このことにあった。//
 (2)ボルシェヴィキには、憲法制定会議を操作して自分たちに権力を譲らせるという望みはなかった。しかし、考えられ得ることとしては、彼らはこの目的をもってソヴェトを、定期的にではなく選挙され、農民たちの代表者のいない、ゆるやかな構造をもつこの装置を、利用することができた。
 このことを意識しつつ、ボルシェヴィキは、第二回ソヴェト大会の迅速な招集のための煽動活動を行い始めた。
 彼らには、事情があった。
 6月の第一回会議以降、ロシアの情勢は変化し、都市ソヴェトの構成員も変化していた。
 エスエルとメンシェヴィキは次の大会には全く熱心ではなかった。その理由の一つは、ボルシェヴィキの割合が大きくなるのを怖れたことだ。別の理由は、憲法制定会議の邪魔をすることになるだろうことだった。
 地方ソヴェトと軍隊もまた、否定的だった。
 9月の末、イスパルコムは169のソヴェトと軍委員会に対してアンケートを実施し、第二回ソヴェト大会を開催することの賛否を問うた。
 そのうち63のソヴェトが回答したが、賛成したのは8ソヴェトだけだった。(115)
 兵士たちの間の感情は、さらに消極的なものだった。
 10月1日、ペトログラード・ソヴェトの兵士部門は、ソヴェトの全国大会に反対する票決を行い、10月半ばにイスパルコムに報告書を提出した。それは、軍委員会の代議員たちは満場一致でそのような大会は「時期尚早(premature)」で、憲法制定会議の基礎を破滅させるだろう、と述べていた。(116)//
 (3)しかし、ペトログラード・ソヴェトで優勢であるボルシェヴィキは、圧力をかけ続けた。そして9月26日、イスパルコム事務局は、10月20日に第二回ソヴェト大会を招集することに同意した。(117)
 この会議の議事対象は、憲法制定会議に提出する立法草案を起草することに限定されるものとされた。
 ソヴェトの都市協議部署に対して、地方ソヴェトに代議員を派遣して招聘するよう、指令が発せられた。//
 (4)ボルシェヴィキはかくして勝利したが、ほんの第一歩にすぎなかった。
 国全体のソヴェトでのボルシェヴィキの立場は、6月よりははるかに強くなっていた。しかし、第二回ソヴェト大会で彼らが絶対多数を獲得しそうにはなかった。(118)
 第二回ソヴェト大会を自分たちの手で招集し、たいていは中央や北部ロシアにあるソヴェトかまたは多数派を占めている軍委員会のソヴェトのみをその大会に招くことによってのみ、彼らは絶対多数の獲得を確保することができる。
 今やボルシェヴィキは、このように進むこととなった。//
 (5)9月10日、ヘルシンキで、第三回フィンランド労働者・兵士ソヴェトの地方大会が開かれた。
 ここではボルシェヴィキは、堅い多数派を形成していた。
 この大会は地方委員会を設立し、この委員会は、フィンランドの民間人および軍人に対して、同委員会が同意した臨時政府の法令にのみ従うよう指令した。(120)
 このような動きが意図したのは、ボルシェヴィキが動かす似而非政府的中心機関を媒介として臨時政府の正統性を奪う(delegitimate)ことだった。
 (6)フィンランドでの成功によって、ボルシェヴィキは、全ロシア・ソヴェト大会を従順なものにして開催する同じような装置を使うことができる、と納得した。
 9月29日にボルシェヴィキ中央委員会は議論し、10月5日、ペトログラードで北部地方ソヴェト大会を開催することを決定した。(121)
 招聘状は、フィンランド陸海軍および労働者の地方委員会と自称する、ボルシェヴィキのその日限りのフロント組織の名前で発送された。
 イスパルコム事務局は、この会合は正式ではない方法で招集されている、と抗議した。(122)
 地方委員会はこれを無視し、代議員を派遣する多数派をボルシェヴィキが握っているおよそ30のソヴェトを招聘する手続を進めた。
 それらの中にはとくに、モスクワ地方の各ソヴェトがあった。北部地方の中に入ってはいなかったのだけれども。(123)
 何人かのボルシェヴィキ指導者たち、とくにレーニンは、この地方ソヴェト大会に権力のソヴェトへの移行を宣言させることを考えた、と有力に示唆するものが存在する。(124) しかし、この計画は断念された。//
 (7)北部地方ソヴェト大会は、10月11日にペトログラードで開かれた。
 この大会は、ボルシェヴィキとその同盟者である、社会革命党を跳び出た集団の左翼エスエルが、完全に支配した。
 この奇抜な「大会」では、あらゆる種類の扇動的な演説が行われた。その中には、「言葉のための時間」は過ぎたと明瞭に語った、トロツキーのものもあった。(125)
 (8)もちろんボルシェヴィキには、他の党派と同じく、全国的であれ地方的であれ、ソヴェト大会を開催する権限はない。そしてイスパルコムは、この会合は公式の立場を有しない、個々のソヴェトの「私的な集会」だと宣言した。(126)
 ボルシェヴィキは、この宣言を無視した。
 彼らは、この大会を、10月20日に集まることが決定されている第二回ソヴェト大会を直接に先駆けするものだと見なしていた。-トロツキーによると、可能ならば合法的な手段で、それが可能でないならば「革命的」方法で。(127)
 この地方ソヴェト大会の最も重要な結果は、「北部地方委員会」の設立だった。これは、11名のボルシェヴィキと6名の左翼エスエルで構成され、その任務は第二回全ロシア・ソヴェト大会の開催を「確実なものにする」こととされた。(128)
 10月16日、北部地方委員会は、連隊、分団および軍団レベルの軍委員会へとともに、各ソヴェトに対して電報を発した。それは、第二回大会がペトログラードで10月20日に開催されることを告げ、代議員を派遣するよう要請するものだった。
 大会では、休戦と農民たちへの土地の配分が達成され、かつ憲法制定会議が予定どおりに開かれることが確実にされるべきだ。
 電報は、第二回大会の招集に反対している全ソヴェトと軍委員会-これらはイスパルコムの調査から知られるように大多数だったが-に対して、ただちに「再選挙」を行うよう指示していた。「再選挙」とは、ボルシェヴィキの暗号符では、「解散」のことだった。(129)//
 (9)このボルシェヴィキの動きは、紛れもなく、ソヴェトの全国組織に対するクー・デタだった。そして、権力掌握の開幕を告げるものだった。
 このような方法でもって、ボルシェヴィキ中央委員会は、第一回ソヴェト大会がイスパルコムに付与した権限を不法に自分たちのものにした。
 これはまた、臨時政府の権能を奪うものだった。なぜなら、ボルシェヴィキがいわゆる第二回大会に設定した議事予定は、憲法制定会議が開催されるまでの政府の活動の中枢に関係していたからだ。(130)
 (10)ボルシェヴィキがしようとしていることを十分に知って、メンシェヴィキとエスエルは、第二回大会の正統性を承認するのを拒否した。
 10月19日、<イズヴェスチア>は、イスパルコム事務局のみがソヴェトの全国大会を招集する権限をもつとのイスパルコムの声明文を掲載した。
 「このような大会を開催する主導権を奪う権限や権利は、別のどの委員会にも存在しない。北部地方委員会は地方ソヴェトに関して定められた全ての規約を侵犯する、恣意的にかつでたらめに(at random)選出されたソヴェトを代表する、ということを一緒にまとめて行っているのであるから、この権利がこの北部地方大会に帰属することは、なおさらあり得ない。」
 イスパルコム事務局はさらに進んで、ボルシェヴィキによる連隊、分団および軍団の各委員会に対する招集は、代議員は軍集会で、これを開催できない場合には2万5000人ごとに1名を基礎にした軍委員会で選出された者を代議員とすると定める軍代表制に関する所定の手続を侵犯する、と述べた。(131)
 ボルシェヴィキの組織者たちは明らかに、第二回大会に反対していることを知って、軍委員会を無視していた。(132)
 三日のちに<イズヴェスチア>は、つぎのように明確に指摘した。ボルシェヴィキは不法な大会を招集しているのみならず、受容された代表制に関する規約を明らかに侵犯している。2万5000人以下の者を代表するソヴェトは全ロシア大会に代議員を送ることができず、2万5000人から5万人までの場合は2名を派遣すると定める選挙規程があるにもかかわらず、ボルシェヴィキは、500人のいるソヴェトに2名の代議員を招聘し、別の1500人のいるソヴェトには5名の派遣を求めている。これは、キエフ(Kiev)に割り当てられている数よりも多い。(133)
 (11)これらの指摘は全て、正しいことだった。
 しかし、エスエルとメンシェヴィキは、来たる第二回大会は正規に代表されていないことはむろんのこと、不法だ、と宣言したにもかかわらずなお、手続が進行するのを許した。
 10月17日、イスパルコム事務局は、二つの条件を付けて第二回大会の開催を承認した。
 第一に、第二回大会は、地方の代議員にペトログラードに到着できる時間を与えるべく、5日間、10月25日まで、延期されるべきこと。
 第二に、その議題は、憲法制定会議を準備すべく国内状況と、イスパルコムの再選出に限定されるべきこと。(134) 
 これは、驚くべき、そしてじつに不可解な屈服だった。
 ボルシェヴィキが心の裡にもつことを知っていたにもかかわらず、イスパルコムは彼らが欲するものを与えた。
 支持者とその同盟者たちで充たされた、お手盛りの(handpicked)組織〔大会〕。これが確実に、ボルシェヴィキによる権力掌握を正当化することになるだろう。
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 (112) <Protokoly Tsentral'nogo Komiteta RSDRP(b)>(Moscow, 1958), p.74.
 (113) <SD>No.169(1917年9月28日), p.1.
 (114) レーニン, <PSS>XXXIV, p.403, p.405.
 (115) <Izvestiia>No.186(1917年10月1日), p.8.
 (116) <Revoliutsiia>V, p.53.; <Izvestiia>No.197(1917年10月14日), p.5.
 (117) <NZh>No.138(1917年9月27日), p.3.
 (118) Leonard Schapiro, <ソヴィエト同盟共産党>(London, 1960), p.164.
 (119) <Revoliutsiia>IV, p.197, P.214.
 (120) 同上, p.256.
 (121) <Protokoly TsK>, p.73, p.76.
 (122) <Revoliutsiia>V, p.65.
 (123) <Protokoly TsK>, p.264.; <Revoliutsiia>V, p.63.
 (124) Alexander Rabinowitch, <ボルシェヴィキの権力奪取>(New York, 1976), p.209-p.211.
 (125) <Revoliutsiia>V, p.71-p.72.
 (126) 同上, p.70-p.71.
 (127) <NZh>No.138/132(1917年9月27日), p.3.
 (128) <Revoliutsiia>V, p.78.
 (129) 同上, p.246, p.254.
 (130) 9月25-27日の政府声明を見よ。<Revoliutsiia>IV所収, p.403-6.
 (131) <Izvestiia>No.201(1917年10月19日), p.7.
 (132) 同上, No.200(1917年10月18日), p.1.
 (133) 同上, No.203(1917年10月21日), p.5.
 (134) <Revoliutsiia>V, p.109.; <NZh>No.156/150(1917年10月18日), p.3.
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 第6節は終わり。次節・第7節の目次上の表題は、<ボルシェヴィキによるソヴェト軍事革命委員会の奪取>。

1942/R・パイプス著・ロシア革命第11章第5節①。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。p.467-p.470.
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 第5節・隠亡中のレーニン①(Lenin in hiding)。
 (1)その間、レーニンは田舎に隠れていて、世界の再設計に没頭していた。//
 (2)ジノヴィエフとN. A. Emelianov という名前の労働者に付き添われて、レーニンは、別荘地域の鉄道接続駅Razliv に、7月9日に着いた。
 レーニンは髭を剃り落として、農業従事者のごとく変装していた。二人のボルシェヴィキは導かれて近くの、翌月の彼らの住まいとなる畑小屋に入った。//
 (3)備忘録を書くのが嫌いなレーニンは、その人生のうちのこの時期に関する回想録を残していない。しかし、ジノヴィエフの簡単な文書資料がある。(97)
 (4)彼らは潜伏したままで生活したが、伝達人を通じて首都との接触を維持していた。
 レーニンは彼と党への攻撃に立腹して、しばらくは新聞を読むのを拒んだ。
 7月4日の事態は、彼の心を苦しめていた。しばしば、ボルシェヴィキは権力を奪取できていたかどうかを思いめぐらしたが、いつも消極的な結論に達した。
 夏遅くに雨による洪水が彼らの小屋を浸したので、移動するときだった。
 ジノヴィエフはペトログラードに戻り、レーニンは、ヘルシンキへと進んだ。
 フィンランドを縦断するために、レーニンは労働者だとする偽造の書類を用いた。その旅券の、きれいに髭を剃って鬘をつけた写真で判断すると、颯爽とした外見を偽装していた。//
 (5)党を日常的に指揮することから離れ、おそらくは権力奪取の新しい機会はもうないだろうと諦念して、レーニンは、共産主義運動の長期目標に関心を向けた。
 彼は、マルクスと国家に関する論文を再び執筆し始めた。その論考を翌年に、<国家と革命>との表題で出版することになる。
 これは、将来世代への彼の遺産、資本主義秩序が打倒された後の革命戦略の青写真となるべきものだった。//
 (6)<国家と革命>は急進的虚無主義の著作であり、革命は全ての「ブルジョア」的制度を完膚なきまで破壊しなければならない、と論じる。
 レーニンは、国家は、どこでも、いつでも、搾取階級の利益を代表し、階級対立を反映する、という趣旨のエンゲルスの文章の引用で始める。
 彼はこれを証明済みのこととして受容し、もっぱらマルクスとエンゲルスのみを参照して、政治制度や政治実務の歴史にはいずれもいっさい参照することなく、さらに詳論する。//
 (7)この論考の中心的メッセージは、マルクスがパリ・コミューンから抽出し、<ルイ・ナポレオンのブリュメール十八日>で定式化した教訓から来ている。
 「議会制的共和国は、革命に対する闘いで、抑圧の手段や国家権力の集中化の手段を全て併せて、自らを強くすることを強いられた。
 全ての革命は、国家機構を粉砕するのではなくて完全なものにしてきた。」(*)//
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 (*) レーニン,<PSS>XXXIII, p.28.から引用。レーニンは最後の文章に下線を引いて強調した。
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 マルクスは、この議論をある友人への手紙で表現し直した。
 「私の<ブリュメール十八日>の最終章を見入れば、私がフランス革命のつぎの試みを宣言しているのが分かるでしょう。すなわち、今まで行われてきたように、手にあるひと組の全体を別の官僚制的軍事機構に移行させるのではなく、粉砕(smash)すること。」(98)
 マルクスが革命の戦略や戦術について書いたことのうちこれ以上に、レーニンの心に深く刻み込まれたものはなかった。
 レーニンはしばしば、この文章部分を引用した。彼の、権力奪取後の行動指針だった。
 彼がロシアの国家と社会およびこれらの全装置に向けた破壊的な怒りは、このマルクスの言明によって理論的に正当化された。
 マルクスはレーニンに、現在の革命家たちが直面している最も困難な問題の解決策を与えた。成功している革命を、いかにして、反革命の反動が生じないようにして守るか。
 解決策は、旧体制の「官僚制的軍事機構」を廃絶させることだった。反革命からそれを育んだ土壌を剥奪するために。//
 何が、古い秩序に置き代わるのか?
 パリ・コミューンに関してマルクスが書いたことを再び参照して、レーニンは、反動的な公務員や将校の安息所にならないコミューンや人民軍のような大衆参加組織を指し示した。
 これとの関係で、彼は職業的官僚機構が最終的には消滅することを予言した。
 「社会主義のもとでは、我々の<全て>が順番に統治して、すぐに誰も統治していない状態に慣れるだろう。」(99)
 のちに共産党の官僚機構が前例のない割合で大きくまっていたとき、この文章部分は レーニンの顔に投げ込まれることになるだろう。
 彼は、ソヴィエト・ロシアに巨大な官僚機構が出現したことに驚いて不愉快になり、かつ大いに困惑することになる。おそらくは彼の主要な関心は、人生の最終の日々にあった。
 しかし彼は、官僚機構は「資本主義」の崩壊とともに消失するだろうとの幻想は決して抱かなかった。
 レーニンは、革命の後の長期間にわたって、「プロレタリア独裁」が国家の形をとる必要がある、と認識していた。しかも、このように示唆した。
 「資本主義から共産主義への移行に際して、抑圧は<まだ>必要だ。
 しかし、その抑圧はすでに、多数者たる被搾取者による少数者たる搾取者に対するものだ。
 特別の装置、特別の抑圧機構、「国家」は<まだ>必要だ。」(100)
(8)レーニンは<国家と革命>を執筆している間に、将来の共産主義体制の経済政策にも取り組んだ。
 コルニロフ事件のあとの9月に、これを二つの論考でまとめた。そのときは、ボルシェヴィキの見通しは予期しなかったほどに良くなっていた。(101)
これらの論考のテーゼは、レーニンの政治的著述物とは大きく異なっていた。
 古い国家とその軍隊を「粉砕」すると決意する一方で、「資本主義」経済を維持し、革命国家に奉仕するように利用することに賛同した。
 この主題は、「戦時共産主義」の章で扱われるはずだ。
 ここではこう叙述しておくので十分だ。すなわち、レーニンの経済に関する考え方は、当時の一定のドイツの著作を読んだことから来ている。ドイツの著作者とはとくにルドルフ・ヒルファーディング(Rudolf Hilferding)で、この学者は、先進的または「金融」資本主義は、銀行や企業連合の国有化という単純な方法で相対的には社会主義へと続きやすい集中のレベルを達成している、と考えていた。
 (9)かくして、古い「資本主義」体制の政治的および軍事的装置を根絶することを意図する一方で、レーニンはその経済的装置を維持すねることを望んだ。
 最終的には、彼は三つの全てを破壊することになるだろう。
 (10)しかし、これは先のことだ。
 直近の問題は革命の戦術で、この点でレーニンは彼の仲間たちと一致していなかった。
 (11)ソヴェトの社会主義派は七月蜂起を許しかつ忘れようとしていたにもかかわらず、また政府による嫌がらせからボルシェヴィキを防衛しようと彼らはしていたにもかかわらず、レーニンは、ソヴェトのもとでの権力追求という仮面を剥ぎ取るときがやって来ている、と決意した。
 すなわち、ボルシェヴィキはこれからは、武装暴動という手段によって、権力を直接にかつ公然と獲得すべく奮闘しなければならない。
7月10日、田舎へと隠れるようになった一日後に書いた<政治情勢>で、レーニンはこう論じた。
 「ロシア革命の平和的な進展への望みは全て、跡形もなく消え失せた。
 客観的な状況は、軍事独裁の究極的な勝利か、それとも<労働者の決定的な闘争><中略>のいずれかだ。
 全ての権力のソヴェトへの移行というスローガンは、ロシア革命の平和的進展のスローガンだった。それは、4月、5月、6月、そして7月5-9日まではあり得た。-すなわち、現実の権力が軍事独裁制の手へと渡るまでは。
 このスローガンは今では、正しくない。(権力の)完全な移行を考慮に入れておらず、じつにエスエルとメンシェヴィキによる革命に対する完全な裏切りを考慮していないからだ。」(102)
 レーニンは原稿の最初の版では「武装蜂起」という語を使って書いていたが、のちに「労働者の決定的な闘い」に変更した。(103)
 こうした論述の新しさは、権力は実力でもって奪取されなければならない、ということにあるのではない。-ボルシェヴィキ化していた労働者、兵士および海兵たちは4月や7月に街頭でほとんど歌や踊りの祭り騒ぎをしなかった。そうではなく、ボルシェヴィキは今や、ソヴェトのために行動するふりをしないで、自分たちのために闘わなければならない、ということにある。
 (12)7月末に開催されたボルシェヴィキ第6回党大会は、この基本方針を承認した。
 その決議はこう述べた。ロシアは今や「反革命帝国主義ブルジョアジー」によって支配されている。そこでは「全ての権力をソヴェトへ」というスローガンは有効性を失ってしまった。
 新しいスローガンは、ケレンスキーの「独裁制」の「廃絶」を呼びかけた。これはボルシェヴィキの任務であって、その背後には、プロレタリアートに率いられ、貧しい農民たちに支持された全ての反革命グループが集結している。(104)
 冷静に分析すると、この決議の前提は馬鹿げており、その結論は欺瞞的だ。しかし、実際上の意味は、間違えようがない。すなわち、ボルシェヴィキはこれから、臨時政府とはもちろん、ソヴェトとも闘うだろう、ということだ。//
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 (97) <PR>No.8-9/67-68(1927), p.67-p.72.
 (98) レーニン,<PSS>XXXIII, P.37. から引用。
 (99) 同上, p.116
 (100) 同上, p.90.
 (101) レーニン「迫る危機。それといかに闘うか」同上, XXXIV, p.151-p.199, 「ボルシェヴィキは国家権力を掴みつづけるか?」同上, p.287-p.339.
 (102) 同上、p.2-p.5. 強調を施した。
 (103) レーニン,<Sochineniia>XXI, p.512, n18.
 (104) <Revoliutsiia>Ⅲ, p.383-4.
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 ②へとつづく。

1941/R・パイプス著・ロシア革命第11章第4節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
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 第4節・ボルシェヴィキの好運(運命の上昇)(rise in Bolshevik fortunes)。
 (1)ケレンスキーが挑発してコルニロフと決裂し、自分の権威を高めようとした、というのがかりに正しいとすると、彼はこれに失敗したのみならず、全く反対のことを成し遂げてしまった。
 コルニロフとの衝突によって、保守派およびリベラル派世界との関係は、彼の社会主義派の基盤が強固になることなく、致命的に危うくなった。
 コルニロフ事件の第一の受益者は、ボルシェヴィキだった。
 8月27日の後、それらの支持にケレンスキーが依拠していたエスエルとメンシェヴィキは、徐々に消失していった。
 臨時政府は今や、そのときまでは有していたとされたかもしれない限定的な意味ですら、その機能を失った。
 9月と10月、ロシアは操縦者がいないままに漂流した。
 舞台は、左翼からの反革命のために用意された。
 かくして、ケレンスキーはのちにこう書いた。「(ボルシェヴィキのクーの)10月27日を可能にしたのは、8月27日だけだった」。
 こう書いたのは正しかったが、しかし、彼が言おうとした意味でではなかった。(84)
 (2)叙述したように、ケレンスキーは、ボルシェヴィキに対して七月蜂起についての厳しい制裁措置を何ら執らなかった。
 ケレンスキーの対抗諜報機関の主任であるニキーチン大佐によれば、ケレンスキーは、7月10-11日に、軍事スタッフからボルシェヴィキを逮捕する権限を剥奪し、ボルシェヴィキの所有物のうちから見つかった武器を没収することを禁じた。(85)
 7月末にはケレンスキーは、ボルシェヴィキがペトログラードで第6回党大会を開いたとき、見て見ぬふりをしていた。
 (3)この消極性は、ボルシェヴィキも参加しているイスパルコムと宥和しておきたいとのケレンスキーの願望に多くは由来していた。
 すでに述べたように、イスパルコムは8月4日、ツェレテリ(Tsereteli)の動議によって、微妙にも「7月3-5日の事件」と呼ばれたものに参加した者のさらなる迫害を止めるよう要求する決議を採択した。
 ソヴェトは8月18日の会合で、「社会主義諸党派の中での極端な潮流」の代表者たちに対してなされた「不法な逮捕と濫用に断固として抗議する」と票決した。(86)
 政府はこれに反応して、次々と著名なボルシェヴィキを釈放し始めた。ときには保釈金を課して、ときには友人の保証にもとづいて。
 最初に自由にになった(そして全ての責任追及を免れた)のは、カーメネフだった。彼は、8月4日に釈放された。
 ルナチャルスキー(Lunacharskii)、アントニオ-オフセーンコ(Antonio-Ovseenko)およびA・コロンタイ(Alexandra Kollontai)はすぐあとで、自由になった。そして、その他の者が続いた。
 (4)その間に、ボルシェヴィキは、政治的勢力として再登場していた。
 ボルシェヴィキは、政治的両極化によって利益をうけた。この政治的両極化は、リベラル派と保守派がコルニロフへと引かれ、急進派は極左へと振れた夏の間に生じていた。
 労働者、兵士、海兵たちは、メンシェヴィキとエスエルの優柔不断さを嫌悪し、これらを諦めて、大挙して唯一の選択肢もボルシェヴィキを支持するに至った。
 しかし、政治的な疲れもあった。
 春には揃って投票所へと行っていたロシア人は、彼らの状態の改善に何らつながらない選挙に徐々に飽きてきた。
 このことはとくに、過激派に対抗する機会がないと感じた保守的な人々について本当のことだった。しかし、リベラル派や穏健な社会主義立憲派についても当てはまった。
 この趨勢は、ペトログラードとモスクワの市議会選挙の結果でもって例証され得る。
 コルニロフ事件の一週間前、8月20日のペトログラード市会(Municipal Council)の投票で、ボルシェヴィキは得票率を1917年5月の20.4パーセントから33.3パーセントへと、さらには過半数へと伸ばした。
 しかしながら、絶対得票数では、投票数の低下によって17パーセントしか伸ばさなかった。 
 春の選挙では有権者の70パーセントが投票所へ行ったのだったが、8月にはそれは50パーセントに落ちた。首都のいくつかの地区では、前には投票した者の半分が棄権していた。(*)(87)
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 (*) Crane Brinton はその<革命の解剖学>(New York, 1938, p.185-6)で、革命的状況下では庶民的市民は政治参加するのに退屈し、極端主義者に広場を譲る、というのはふつうだと観察する。
 後者の影響力は、民衆の幻滅と政治に対する利害の喪失に比例して増大する。
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 モスクワでは、9月の市会選挙での投票参加者の減少は、さらに劇的だった。
 こちらでは、以前の6月の64万票に対して、38万票しか投じられなかった。
 投票票の半分以上はボルシェヴィキで、12万票を掘り起こしていた。一方、社会主義派(エスエル、メンシェヴィキおよびこれらの友好派)は37万5000票を失った。後者のほとんどはおそらくは、自宅にいるのを選んだ。
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 モスクワ市会選挙(議席数の割合)(88)
 党       1917年3月 1917年9月 変化
 エスエル    58.9     14.7    -44.2
 メンシェヴィキ 12.2      4.2    - 8.0
 ボルシェヴィキ 11.7     49.5    +37.8
 カデット    17.2     31.5    +14.3   
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両極化の一つの効果は、ケレンスキーが変わらない権力を求めて計算していた政治基盤の風化だった。
 8月半ばのペトログラードの市会選挙で社会主義諸党が示した貧弱さは、同じその月の遅くでのケレンスキーの行動の、重要な要因だったかもしれない。
 というのは、彼の政治基盤が消失していたとき、「反革命」の勝利者としてよりも左翼の側への自分の人気と影響力を高めるよい方法は、何だったたのか? かりに想像上のものだったとしても。
 (5)コルニロフ事件は、ボルシェヴィキの運命を、予期されなかった高さにまで押し上げた。
 コルニロフの幻想上の蜂起を抑止し、クリモフの兵団がペトログラードを占拠するのを阻止するために、ケレンスキーはイスパルコムの助けを求めた。
 8月27-28日の深夜会議で、あるメンシェヴィキの動議にもとづき、イスパルコムは、「反革命と闘う委員会」の設立を承認した。
 しかし、ボルシェヴィキの軍事組織だけがイスパルコムが用いることのできる実力部隊だったので、この行動は、ボルシェヴィキにソヴェトの部隊という責任を負わせるという効果をもった。(89) こうして、昨日の犯罪者は、今日は戦闘員になった。
 ケレンスキーはまた、ボルシェヴィキに対して直接に、コルニロフに対抗する自分を、その当時に明らかに大きくなっていたボルシェヴィキの兵士たちに対する影響力を使って助けるよう訴えた。(90)
 ケレンスキーの代理人は、アナキストとボルシェヴィキ共感者としてよく知られた巡洋艦<オーロラ>の海兵たちに、ケレンスキーの住居であり臨時政府の所在地である冬宮の防衛の責任を引き受けるように要請した。(91)
 M・S・ウリツキ(Ulitskii)はのちに、ケレンスキーのこの行動がボルシェヴィキを「名誉回復させた」と述べることになる。
 ケレンスキーはまた、ボルシェヴィキが労働者たちに4000丁の鉄砲を配って武装することを可能にした。相当の数の武器がボルシェヴィキの手に入ることになつた。
 ボルシェヴィキはこれらの武器を、危機が過ぎ去ったあとも保持し続けた。(92)
 ボルシェヴィキの再生とともにどの程度に事態が進行していたかは、8月30日の政府の決定、すなわち訴訟手続が始まっているごく数名を除いて拘禁されているボルシェヴィキ全員を釈放するとの決定、でもって判断できるかもしれない。(93)
 トロツキーは、この恩赦の受益者の一人だった。トロツキーは3000ルーブルの保釈金でKresty 監獄から9月3日に釈放され、ソヴェト内のボルシェヴィキ党派の責任者となった。
 10月10日までに、27人のボルシェヴィキ以外は全員が釈放され(94)、つぎのクーを準備した。一方で、コルニロフと他の将軍たちは、Bykhov 要塞に惨めに捨てられていた。
 9月12日、イスパルコムは政府に対して、レーニンとジノヴィエフについて、身体の安全の保証と公正な裁判を要請した。(95)
 (6)コルニロフ事件の劣らず重要な帰結は、ケレンスキーと軍部の間の分断だった。
 というのは、将校団は事件に混乱して政府を公然とは拒否するつもりはなく、コルニロフの反乱に参加するのを拒絶したけれども、彼らの司令官に対する措置や多数の優れた将軍たちの逮捕、そして左翼への追従についてケレンスキーを軽蔑したからだ。
 のちの10月遅くにケレンスキーがボルシェヴィキから自分の政府を救うのを助けるよう軍部に呼びかけたとき、ケレンスキーの嘆願は全く聞き入れられないことになる。
 (7)9月1日、ケレンスキーは、ロシアは「共和国」だと宣言した。
 一週間後(9月8日)、彼は政治的対抗諜報機関を廃止した。これは、彼自身からボルシェヴィキの企図に関する主要な情報源を奪うことを意味した。(96)
 (8)堅固な指導力をもつことができる誰かによってケレンスキーが打倒されることになるのは、ただ時間の問題だった。
 そのような人物は、左翼から出現するに違いなかった。
 種々の違いが彼らを分けていたとはいえ、左翼の諸政党は、「反革命」という妖怪と闘うときには隊列を固めた。「反革命」とはその定義上、ロシアに実効的な政府としっかりした軍隊を回復しようとする全ての先導的行為を含む用語だった。
 しかし、国家は〔政府と軍隊の〕いずれをも有しなければならないので、秩序を回復しようとする先導力は、彼らの内部から出現しなければならなかった。
  「反革命」は、「真の」革命を偽装して、やって来ることになる。//
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 (84) ケレンスキー,<Delo>, p.65.
 (85) ミリュコフ,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.15n. <Echo de Paris>, 1920, <Oiechestvo>No.1, と<Poslednie Izvestiia>(Ravel), 1921年4月、を引用している。
 (86) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.299-p.300, p.70.
 (87) <NZh>No.108(1917年8月23日), p.1-2とNo.109(1917年8月24日), p.4.; W. G. Rosenberg, <SS>No.2(1969年)所収, p.160-1.
 (88) <Revoliutsiia>Ⅲ, p.122.; Rosenberg, 同上.
 (89) Golvin,<反革命>Ⅰ, Pt. 2, p.53-p.54.
 (90) Sokolnikov,<Revoliutsiia>Ⅳ所収, p.104.
 (91) 同上Ⅴ, p.269.
 (92) S. P. Melgunov,<<略>>(Paris, 1953), p.13.
 (93) <NZh>No.116(1917年8月31日), p.2.
 (94) <NZh>No.149/143(1917年10月10日), p.3.
 (95) <NZh>No.125/119(1917年9月12日), p.3.
 (96) <NZh>No.123/117(1917年9月9日), p.4.
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次節の目次上の表題は、「隠れている間のレーニン」。

1937/R・パイプス著・ロシア革命第11章第3節③。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー/第3節。試訳のつづき。 
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 第3節・ケレンスキーとコルニロフの決裂③。
 (25)ケレンスキーがコルニロフを訴追したことは、彼に制御できない激しい怒りをもたらした。彼の最も敏感な神経、つまり彼の愛国心に直接に触るものだったからだ。
 声明文を読んで、彼はもはやケレンスキーをたんなるボルシェヴィキの捕囚だとは考えず、自分とその軍隊を陥れるために仕組んだ、卑しむべき挑発の原作者だと見なした。
 コルニロフの反応は、Zavoiko が起草した抗議声明を全ての前線司令官に送ることだった。(+)//
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 (+) 政治的野心をもつ事業家だったZavoiko はネクラソフの対応相手者で、コルニロフを右翼側へと押した。彼について、Martynov,<コルニロフ>, p.20-p.22.
 --------
 「首相による声明は、<中略>その最初の部分で、完璧なウソだ。
 私は、ドゥーマ代議員Vladimir・ルヴォフを臨時政府へと遣わさなかった。
 -彼は、首相からのメッセージの伝達者としてやって来た。<中略>
 かくして、この祖国の運命を賭けるごとき大きな挑発行為が行われた。
 ロシア人民よ。我々の偉大な母国が死にそうだ。
 死の瞬間は、もうすぐだ。
 公然と明確に語らざるを得ない。私、将軍コルニロフは、ソヴェト多数派ボルシェヴィキの圧力によって、臨時政府は、ドイツの将軍幕僚たちの企図と完全に一致して行動し、切迫しているリガの海岸への敵軍の上陸と同時に軍隊を破壊して、この国を内部から震撼させる<中略>、と宣告する。
 私、将軍コルニロフは、コサック農民の息子は、全ての者に対して、私は偉大なロシアを救うこと以外の何ものをも個人的に望んでいない、と宣告する。
 私は誓う、敵国に対する勝利によって人民を立憲会議(憲法制定会議)まで導く、と。その会議は、我々の運命を決定し、我々の新しい政治体制を選択するだろう。」(70)//
 (26)これは、結局は、反逆だった。コルニロフはのちに、公然たる反乱-すなわち大逆罪-だとして訴追されたがゆえに政府と明確に決裂することに決した、ということを認めた。
 Golvin は、ケレンスキーはその行為によってコルニロフを挑発して反乱を起こさせた、と考える。(71)
 この評価は、コルニロフは反乱したとして訴追されたあとで初めて反乱し始めたという意味で、正しい。//
 (27)ケレンスキーが亀裂を修復するのではなくて傷口を広げることを欲していることは、彼が8月28日に行ったいくつかの記者発表から明瞭になった。
 その一つで彼は、「祖国を裏切った」として訴追したコルニロフによる指令を無視するよう、全軍の司令官に命令した。(72)
 もう一つの中で彼は、コルニロフの軍団がペトログラードへと進んでいる理由に関して、公衆にウソをついた。以下のとおり。//
 「前最高司令官、将軍コルニロフは、臨時政府の権威に反抗して反乱を起こした。その電信通話では愛国心と人民への忠誠を表明しているものの、その行為はその欺瞞性(treachery)を明確に例証した。
 彼は前線から連隊を撤退させ、容赦なき敵であるドイツ軍に対する抵抗を弱め、それら全ての連隊をペトログラードに対して向けさせた。
 彼は祖国を救うと語り、意識的に兄弟殺しの(fratricidal)戦争を煽動した。
 彼は、自由の側に立つと言い、ペトログラード出身分団に対抗して軍団を送った。」(73)//
 ケレンスキーがのちに主張したのだが、彼は、ほんの一週間前には彼自身が第三騎兵軍団が自分の指揮下にあるペトログラードに来るように命令したことを、忘れていたのか?
 このような説明を説得力があると考えるのは、極度にひどい強引な軽はずみの信じ込み(credulity)だろう。//
 (28)その後三日間、コルニロフは、「ペトログラードを支配している欲得ずくのボルシェヴィキの手から祖国を救い出す」ために国民を結集させようとしたが、成功しなかった。(75)
 彼はコサックにとともに常備軍に訴えかけ、クリムロフに対してペトログラードを占拠するよう命じた。
 多数の将軍たちがコルニロフに精神的な支持を与え、最高司令官に対する措置に抗議する電信をケレンスキーに送った。(76)
 しかし、彼らも保守派政治家たちも、コルニロフに加わらなかった。ケレンスキーが広めた虚偽情報で混乱していたのだ。ケレンスキーによって、臆面もなく事態の背景を歪曲し、コルニロフは反逆者で反革命者とする情報が流れていた。
 高位の将軍たちの全員がコルニロフに従うことを拒否したことはむしろ、彼らがコルニロフとの陰謀に加わっていなかったことを示す証拠を追加する。
 (29)8月29日、ケレンスキーはクリモフに対して、つぎのように電信で伝えた。//
 「ペトログラードは完全に平穏だ。
 騒乱(vystupleniia)はありそうにない。
 貴下の軍は必要がない。
 臨時政府は貴下に対して、貴下自身の責任でもって、解任された最高司令官が命じた、ペトログラードへの進軍を停止し、軍をペトログラードではなくNarva の作戦目標値へと向かわせるよう、命令する。」(77)//
 このメッセージは、ケレンスキーはクリモフがボルシェヴィキの騒乱を鎮静化すべくペトログラードに進んでいると考えていたとしてのみ、意味をもつことになる。
 混乱していたけれども、クリモフは従った。
 Ussuri コサック分団は、ペトログラードに近いKrasnoe Selo で止まった。そして、8月30日に、臨時政府に対する忠誠を誓約した。
 明らかにクリモフの命令により、ペトログラード出身分団もまた、前進を停止した。
 ドン・コサック分団の行動は決まっていなかった。
 いずれにせよ、ペトログラードへと進軍しないように説得する、通常はソヴェトにより派遣された活動家が行う役割が格段に誇張された、ということを、利用可能な歴史資料は示している。
 クリモフの軍団がペトログラードを占拠しなかった主要な理由は、言われていたようにはペトログラードはボルシェヴィキの手に落ちておらず、自分たちの仕事は不必要だという、司令将校たちの認識だった。(*)//
 --------
 (*) Zinaida Gippius は、かくして、コルニロフの騎兵軍団とそれを遮断するべくペトログラードから派遣された軍団の遭遇について、こう叙述する。
 「『流血』は、なかった。
 Lugaや別の場所で、コルニロフが派遣した分団と『ペトログラード人』はお互いに偶然にぶつかった。
 彼らは、理解できないままに、互いに向かい合った。
 『コルニロフ者たち』はとくに驚いた。
 彼らは、『臨時政府を守る』ために進み、やはり『臨時政府を守る』ために進んだ『敵』と遭遇した。<中略>
 彼らは立ったままで、思案した。
 事態を理解することができなかった。
 しかし、『敵と親しくすべきだ』との前線の煽動活動家の教示を思い出して、彼らは、熱烈に仲良くなった。」
 <Siniaia kniga>(Belgrade, 1929), p.181.; 1917年8月31日の日記への書き込み。
 --------
 (30)クリモフはケレンスキーに招かれて、かつ身の安全を約束されて、8月31日にペトログラードに着いた。
 彼はその日の遅く、首相と会った。
クリモフは、ケレンスキーとその政府を助けるために軍団をペトログラードへと動かした、と説明した。
 政府と軍司令部との間にあった誤解について知るとすぐに、彼は、部下たちに停止を命じていた。
 クリモフには、反乱の意図はなかった。
 説明の詳細に進む前に、ケレンスキーは握手することすら拒んで、クリモフを解任し、軍事裁判所本部に報告するよう彼に指示した。
 クリモフはそうしないで友人のアパートへ行き、自分の心臓を銃弾で打ち抜いた。(**)
 --------
 (**) ケレンスキー,<Delo Kornilova>, p.75-p.76.; <Revoliutsiia>Ⅳ, p.143.; Martynov,<コルニロフ>, p.149-p.151.
 クリモフは、コルニロフに遺書を残した。それはコルニロフに衝撃と苦しみを与えた。
 Martynov,<コルニロフ>, p.151.
 クリモフは反動的君主制論者ではなく、1916年の反ニコライ二世陰謀に関与していた。
 --------
 (31)コルニロフの職責を引き受けるよう頼んだ二人の将軍-ルコムスキーのあとはV. N. Klembovskii-が拒んだために、ケレンスキーは、公然と大逆罪で訴追した人物の手にあった軍事司令権限を自分に残さなければならないという厄介な状態にあるのに気づいた。
 コルニロフの命令を無視せよと軍司令部に従前に指示していたのだったが、今では逆に、当分の間はコルニロフの命令に従うことを許容した。
 コルニロフは、状況きわめて異常だと考えた。彼はこう書いた-「世界の歴史上に珍しい事件が起きた。大逆罪で訴追された最高司令官が、…他に誰も任命される者がいないために、司令し続けるように命じられている」。(78)//
 (32)ケレンスキーとの亀裂のあと、コルニロフは落胆し切っていた。首相とサヴィンコフが意識的に自分を罠に嵌めた、と確信していた。
 自殺するのを怖れて、彼の妻は、夫に回転式拳銃を引き渡すよう求めた。(79)
 アレクセイエフ(Alekseev)が司令権を引き継ぐため、9月1日にモギレフに到着した。ケレンスキーが彼をこの任務に就かせるまで、3日を要した。
 コルニロフは、この決定に抵抗することなく従った。ただ、政府は堅固な権威を確立し、彼を悪用しないようにだけ求めた。(80)
 コルニロフは、最初はモギレフのホテルに軟禁され、のちにBykhov 大要塞へと移された。そこには、「共謀」に関与したと疑われた30人の将校たちが、ケレンスキーによって幽閉されていた。
 どちらの場所でもコルニロフは、忠実なTekke Turkomans に護衛された。
 彼はBykhov から、ボルシェヴィキ・クーの直後に脱出し、ドンへと向かった。そこで彼は、アレクセイエフとともに、自主〔義勇〕軍を設立することになる。//
 (33)「コルニロフの陰謀」はあったのか?
 ほとんど確実に、なかった。
 利用可能な証拠資料はむしろ、「ケレンスキーの陰謀」を指し示している。それは、空想上のだが広く予期されていた反革命の首謀者だとしてコルニロフを貶めるために仕組まれたものだった。反革命を抑止することは首相を対抗者のいない人気と権力がある地位へと引き上げ、彼が増大しているボルシェヴィキの脅威に対処することを可能にするだろう、として。
 本当のクー・デタの要素は何も露見しなかった、というのは偶然ではあり得ない。共謀者の名簿、組織上の図表、暗号信号、計画といった要素だ。
 ペトログラードの将校たちとの通信や軍事単位への命令のような疑わしい事実は、予期されるボルシェヴィキ蜂起との関係では、全ての場合について完全に解明することができる。
 将校の陰謀が企てられていれば、確実に何人かの将軍は、その反乱に加われとのコルニロフの訴えに従っただろう。
 誰も、そうしなかった。
 ケレンスキーとボルシェヴィキのいずれも、コルニロフと結託していたことを認める、またはそれについて例証することのできる一人の人間も、特定することができなかった。一人による陰謀というのは、明らかに馬鹿げているのだ。
 1917年10月に指名された委員会は、1918年6月に(すなわち、すでにボルシェヴィキによる支配にあったときに)コルニロフ事件に関する調査を完了した。
 それは、コルニロフに向けられた訴追は根拠がない、と結論づけた。すなわち、コルニロフの軍事的動きは臨時政府を打倒するためではなくて、ボルシェヴィキから臨時政府を防衛することを意図していた、と。
 その委員会は、コルニロフの嫌疑を完全に晴らした。そして、「コルニロフ問題にかかる真実を意識的に歪曲したとして、また自分が冒した壮大な誤りについて罪があることを認める勇気が欠如しているとして」、ケレンスキーの責任を追及した。(***)(81)//
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 (***) コルニロフ事件の全体が挑発だったのではないかとの疑念が、ネクラソフが不用意にプレスに対して行った言明で強くなった。
 ネクラソフは、事件後2週間のときに新聞に答えて、ルヴォフをコルニロフの陰謀を暴露したとして褒め讃えた。
 ルヴォフによる通告書をまるで確認したかのごとく感じさせるようにケレンスキーに対するコルニロフの回答を歪曲して、彼はこう付け加えた。
 「V. N. ルヴォフは革命を助けた。彼は二日前に用意された爆発するはずの地雷を破裂させた。
 疑いなく、陰謀はあった。ルヴォフは、ただ早めに発見しただけだ。」<NZh>No.55(1917
年9月13日), p.3.
 このような言葉は、あり得ることとしてはケレンスキーの黙認のもとで、ネクラソフがコルニロフを破滅させるためにルヴォフを利用した、ということを示唆する。
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 (34)コルニロフは特別に複雑な人間ではなく、1917年7月-8月の彼の行動は、陰謀理論に頼ることなくして説明することができる。
 彼の第一で最大の関心は、ロシアと戦争にあった。
 彼は、臨時政府の優柔不断な政策とそのソヴェトへの依存に、警戒心を抱いた。ソヴェトは軍事問題に干渉して、軍事作戦を展開することがほとんど不可能になっていたのだ。
 臨時政府には敵国の工作員が浸透している、と彼が考えた理由はあった。
 しかし、ケレンスキーはその職にふさわしくないと感じていてもなお、コルニロフには彼に対する個人的な敵意はなく、政府にとって不可欠の人物だと彼を見なしていた。
 8月のケレンスキーの行動によってコルニロフは、首相は自分の側の人間なのかという疑問をもつに至った。
 ケレンスキーが望んでいたはずだとコルニロフは知っている軍隊改革を実現することができなかったことは、コルニロフに、ケレンスキーはソヴェトの捕囚であり、ソヴェトの中にいるドイツ工作員の捕囚だという確信を抱かせた。
 サヴィンコフがボルシェヴィキの蜂起が切迫していると彼に伝え、それを鎮圧するための軍事的助力を求めたとき、コルニロフは、政府をソヴェト自体から解放するのを助ける機会がやって来たと考えた。
 ボルシェヴィキ蜂起を鎮静化しあとで「二重権力」状態は解消されるだろう、そして、ロシアは新しくて効率的な体制をもつだろう、と期待するあらゆる理由が、彼にはあった。
 その過程で、彼は役割を果たす一部になりたかった。
 こうした危機的な日々を通してずっと傍らにいた将軍ルコムスキーは、サヴィンコフのモギレフ訪問とケレンスキーとの決裂の間の短い期間の間のコルニロフの思考について、合理的な説明だと思えるものを提示している。つぎのとおりだ。//
 「私は、ペトログラードでボルシェヴィキの行動があり、それを最も仮借なく鎮圧する必要があると確信した将軍コルニロフは、このことが当然に政府の危機、新しい政府、新しい権威の設立へと導くだろうと考えた、と思う。
 彼は、現在の臨時政府の若干の構成員や全面的な支持を信頼できると考える理由のある公的に知られた政治家たちと一緒に、その権威を形成することに関与しようと決意した。
 彼の言葉から私が知るのは、将軍コルニロフは新しい政府の形成に関して議論したが、、A. F. ケレンスキー、サヴィンコフおよびフィロネンコとともに、最高司令官の資格でそれに加わろうとしていた、ということだ。」(82)
 (35)最高司令官が軍隊を再活性化して有効な政府を再興するのを助けようと努力したことを「反逆」だ理解するのは、ほとんど正当化できるものではない。
 述べてきたように、コルニロフは正当な根拠なく裏切り者として訴追された後で初めて反乱を起こした。
 彼はケレンスキーの際限のない野望の犠牲者であり、首相が行った政治的基盤が侵食されていくのを阻止しようとする虚しい追求のために、生け贄として供された。
 事態をすぐそばで観察していた、あるイギリスのジャーナリストは、コルニロフが欲し、そして達成できなかったことを、つぎのように公正に要約している。//
 「彼は、政府を弱めるのではなくて強化したかった。
 彼は、その権威を侵犯したかったのではなく、他者がそうするのを阻止したかった。
 彼は、つねに表明されるが決して現実にならなかったものを実現させたかった-統治権力の唯一で不可変の受託者(depository)。
 彼は、ソヴェトの不当で停滞させる影響からそれを解放したかった。
 結局のところ、その影響がロシアを破壊した。そして、コルニロフの政府に対する果敢な抵抗は、その破壊過程を押し止めようとする最後の絶望的な努力だった。」(83)
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 (70) Chugaev,<<略>>, p.445-6.
 (71) Golovin,<反革命>Ⅰ, Pt. 2, p.37.
 (72) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.109.
 (73) 同上、p.115.
 (74) Miliukov,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.162n; ケレンスキー,<Delo>, p.80.
 (75) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.109.
 (76) ルコムスキー,<Vospominaniia>Ⅰ, p.245.
 (77) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.125.
 (78) Golovin,<反革命>Ⅰ, Pt. 2, p.71, p.101.
 (79) Khan Khadzhiev,<Velikii boiar>(Belgrade, 1929), p.123-p.130.
 (80) Golovin,<反革命>Ⅰ, Pt. 2, p.71. 1917年8月30日-9月1日のアレクセイエフ、コルニロフ、ケレンスキーの間の会話のテープは、Denikin Archive, Box24, Bakhmeteff Archive(コロンビア大学)所収。
 (81) <NZh>No.107/322(1918年6月4日), p.3.; <NV>No.96/120(1918年6月19日), p.3.
 (82) Chugaev,<<略>>, p.431.
 (83) E. H. Wilcox,<ロシアの破滅(Ruin)>(New York, 1919), p.276.
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 第3節、終わり。次節は《ボルシェヴィキの好運》。

1936/R・パイプス著・ロシア革命第11章第3節②。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946。
 第11章・十月のクー/第3節。試訳のつづき。 
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 第3節・ケレンスキーとコルニロフの決裂②。
 (15)この簡単な対話は、勘違いのゆえの喜劇だった。しかし、最も悲劇的な結末をもたらした。
 ケレンスキーは、のちにこう主張した-そして人生の最後までこの見方に固執した-。すなわち、コルニロフは、コルニロフの名前で語るルヴォフの権限を肯定したのみならず、ルヴォフが彼の言ったとして伝えた言葉の正確さをも確認した。つまりは、コルニロフは独裁的権力を要求した、というのだ。(52)
 しかし、我々は、ヒューズ(Hughs)装置の一方の端での目撃証人から、コルニロフは会話が終わったときに、安堵のため息をついたことを知る。すなわち、彼にとっては、モギレフに来るというケレンスキーの同意は、首相は新しくて「強い」政府を形成するための作業に一緒に加わる気持ちがある、ということを意味した。
 その夜の遅く、コルニロフはルコムスキー(Lukomskii)と、そのような内閣の構成について議論した。その内閣では、ケレンスキーとサヴィンコフの両人は大臣の職を保持することになるだろう。
 コルニロフはまた、モギレフにいる自分と首相に加わるように指導的政治家たちを招く電報も発した。(53)
 (16)テープの有用性のおかげで、二人の人物は食い違って(cross-purposes)会話していたことを、確定することができる。
 コルニロフについては、彼がルヴォフのふりをしたケレンスキーに確認したことの全ては、実際のところ、ケレンスキーとサヴィンコフをモギレフに招いた、ということだけだ。
 ケレンスキーは、コルニロフが確認したことをもって、-熱にうかされた自分の妄想で生じたということ以外には何の根拠もなく-コルニロフは自分を捕囚にし、彼が独裁者だと宣言する意図をもつ、ということを意味するものと解釈した。
 ケレンスキーの側には、直接にまたは間接的にですら、コルニロフが実際にルヴォフに三点の通告を自分に伝達するように言ったのかに関して調査しなかったという、途方もなく大きい手抜かりがあった。
 コルニロフは、ケレンスキーとの会話で、内閣が職権を放棄し、軍事と民政の全権力がコルニロフの手へと置き換わることに関して、いっさい何も言わなかった。
 コルニロフの言葉-「そのとおり。私は、私が貴方(ここではルヴォフ)にAleksandr Fedorovich が<モギレフに来る>ことを求める私の切迫した要請を伝えることを頼んだ、ということを確認する」-から、ケレンスキーは、ルヴォフにより彼に提示された三項の政治的条件は真正なものだ、と推論する方を選択した。
 フィロネンコ(Filonenko)がテープからの文章を見たとき、ケレンスキーは尋ねていることを述べておらず、コルニロフは何に対して回答しているかを分かっていない、と彼は気づいた。(*)
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 (*) Miliukov, <Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.213.
 ケレンスキーとは違ってコルニロフはのちに、自分は無分別にも、ルヴォフが自分に代わってケレンスキーにルヴォフが伝えた内容をケレンスキーに質問したなかったことを、認めた。A. S. ルコムスキー, <Vospominaniia>Ⅰ(Berlin, 1922), p.240.
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 ケレンスキーはルヴォフに成りすますことによって、理解可能な暗号でもってコルニロフと意思疎通していると考えたのだったが、じつは謎々話を語っていたのだ。
 首相の行動を弁護するために言うことができる最良のことは、彼は過度に緊張していた、ということだ。
 しかし、ケレンスキーは聞きたいと思っていたことをそのままに聞いたつもりだったのではないか、という疑念はくすぶり続ける。
 (17)かかる薄弱な根拠にもとづいて、ケレンスキーは、コルニロフと公然と決裂することに決意した。
 ルヴォフが遅まきに姿を現したとき、ケレンスキーは彼を拘束した。(+)
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 (+) 彼〔ルヴォフ〕はその夜を、首相が使っていたアレクサンダー三世スイートの隣の部屋で過ごした。首相は、大声のオペラ・アリアを鳴り響かせて、覚醒し続けさせた。彼はのちに自宅で軟禁され、精神病の医者によって治療された。<Izvestiia>No.201(1917年10月19日), p.5.
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 重要なことをする前にもう一度コルニロフと通信してサヴィンコフの心の裡にあった曖昧な誤解を明確にすべきだとの彼の請願を無視して、ケレンスキーは、深夜に内閣の会議を招集した。
 ケレンスキーは閣僚たちに、何が明らかになったかを告げ、軍部のクー・デタに対処できるよう「全権限」を-つまり独裁的権力を-自分に与えるよう要請した。
 大臣たちは、「陰謀者・将軍」に立ち向かう必要がある、ケレンスキーは非常事態に対処すべく全権限を持つべきだ、として合意した。
 それに応じて彼らは、辞表を提出した。ネクラソフはこれを、臨時政府は事実上は存在することをやめた、と解釈した。(54)
 ケレンスキーは、この会議によって、名目上の独裁者となった。
 8月27日午前4時、閣議が休会となった以降、正規の閣議は開催されず、10月26日まで、ケレンスキーが単独で、またはネクラソフやテレシェンコ(Tereshchenko)と相談して行動する、との決定が下された。
 午前中早くに、大臣たちの同意があったのかなかったのかいずれにせよ-ほとんどがケレンスキーの個人的権威にもとづいていそうだが-、ケレンスキーは、コルニロフに対して、解任する、ただちにペトログラードへと報告することを命じる、との電報を打った。
 コルニロフの後継者が任命されるまでは、将軍ルコムスキーが最高司令官として仕えることとされた。(**)
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 (**) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.99. サヴィンコフによると、午後9時と10時の間に-すなわち、閣議が開かれる前に-、ケレンスキーは彼に、コルニロフを解任する電報はすでに発せられたのだから、コルニロフの理解を得るには遅すぎる、と言った。<Mercure de France>No.503(1919年6月1日), p.439.
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 コルニロフと決裂したことにより、ケレンスキーは、革命の代表者を気取ることができた。ネクラソフによると、内閣の深夜会議の間にケレンスキーは、「私は彼らに革命を譲り渡すつもりはない」と発言した。-まるで、与えるか守るかの勝負であるごとくに。
 (18)このように事態が推移している間、簡単なやり取りに関するケレンスキーの解釈を知らないままのコルニロフは、想定されるボルシェヴィキ蜂起を政府が鎮圧するのを助ける準備を進めていた。
 午前2時40分、コルニロフはサヴィンコフと電信を繋いだ。//
 「一団が、8月28日夕方にかけて、ペトログラード郊外に集結する。
 ペトログラードが8月29日に戒厳令下に置かれることを要請する。」(56)//
 コルニロフが軍事蜂起にかかわらなかったということの証拠がもっと必要だとかりにしても、この電信記録こそ、その証拠を与えるに違いない。
 なぜなら、コルニロフがかりに第三軍団に対して政府を倒すためにペトログラードへと進むよう命令していたとすれば、彼が電信でもってあらかじめそのことを政府に警告することはしないだろう。
 言われるところのクーを彼は副次的なものと見なしていただろうとは、ますます信じがたい。
 Zinaida Goppius は、発生して数日後にコルニロフ事件の不思議さを想い、明白な疑問を抱いた。すなわち、「どのようにして、コルニロフが静かに最高司令部に座っている間に、彼は自分の兵団を「派遣した」のか?」(57)
 じつに、コルニロフが本当に政府を転覆させて独裁者たる地位を奪取することを計画していたとすれば、彼のような気質と軍人的態度をもつ人物は、本人自身がきっと、軍事行動を指揮しただろう。//
 (19)ケレンスキーがコルニロフを解任する電信通告は、8月27日午前7時、最高司令部に届いた。将軍たちに完璧な混乱が襲った。
 彼ら最初の反応は、電信文が10時間前にあったケレンスキー=コルニロフ会談から見てその内容が無意味であるばかりか、慣例の連続番号に欠け、表題なしで「ケレンスキー」との署名しかないので様式が適切ではないがゆえに、偽造されたものに違いない、というものだった。
 また、法制上は内閣のみが最高司令官を解任する権限をもつので、いかなる法的効力もなかった。
 (司令部はもちろん、前夜に閣僚たちは辞任してケレンスキーが独裁的権力を握ったことを知らなかった。)
 将軍たちはさらに考えて、この連絡はおそらく本当のものだが、ケレンスキーは強迫を受けて、あり得ることとしてはボルシェヴィキに捕らわれている間に送信した、と結論づけた。
 このように考えて、コルニロフは辞職を拒み、ルコムスキーが「状況が十分に明確になるまで」彼の職務を執行することとなった。(58)
 ボルシェヴィキはすでにペトログラードを掌握している、とコルニロフは確信し、ケレンスキーの指示に反してそれを無視し、クリモフ(Krymov)に彼の兵団が前進する速度を早めるよう命令した。(59)//
 (20)モギレフの誰も、ルヴォフを詐欺師だと疑っていなかった。そのルヴォフの質問に対するコルニロフの回答に関係してペトログラードで発生したかもしれない混乱について明確にするため、ルコムスキーは、自分の名前で政府に対して、軍隊の崩壊を阻止するためには強い権威が必要であることを再確認すべく電報を送った。(60) //
 (21)その日の午後、ルヴォフの策謀をまだ知らなかったが何か大きな過ちがあると疑っていたサヴィンコフは、コルニロフに接触した。
 V・マクラコフ(Vasilii Maklaov)は傍らに立っていて、終わりの方で会話に加わった。(61)
 サヴィンコフは、ルコムスキーの最新の電報を話題にして、モギレフを訪れることで自分は政治問題を全く起こさなかったと抗議した。
 コルニロフはこれに反応して、初めてV・ルヴォフに言及し、ルヴォフが自分の前に提示した三つの選択肢に言及した。
 さらに彼は、第三騎兵軍団は、サヴィンコフが伝えた政府の指示に従ってペトログラードに向けて進んでいる、とまで言った。
 コルニロフは完全に忠誠心をもって行動していて、政府の命令を履行していた。
 「(解任)決定は私には全く予期され得なかったもので、労働者兵士代表ソヴェトの圧力によってなされた、と確信していた。<中略>
 私は宣告する、<中略>自分の職から離れるつもりはない。」 
 コルニロフは、「個人的な説明を通じて、誤解はさっぱりとなくなるに違いない」と確信して、首相とサヴィンコフにこの最高司令部で会うのを幸せに思っている、と付け加えた。//
 (22)この時点では、亀裂の修復はまだ可能だった。
 ケレンスキーが一月前にレーニンの事案でとったのと同じ慎重な行動をコルニロフへの責任追及に関する対処で示し、コルニロフの「最終的形態での反逆」を証明する「文書上の証拠」を提示していたならば、これから発生したことの全ては、避けることができていただろう。
 しかし、ケレンスキーはレーニンを抑圧するのを怖れた一方で、将軍と宥和することには何の関心もなかった。
 Miliukovが事態の推移を知らされて調停者としての役割をすると提案したとき、ケレンスキーは、コルニロフとの和解はあり得ない、と回答した。(62)
 ケレンスキーは、連合諸国の大使たちからあった同様の提案も拒絶した。(63)
 この当時にケレンスキーを見た人々は、彼は完全に異常発作(hysteria)の状態にあると考えた。(64)
 (23)臨時政府と将軍たちとの間の完全な分裂を阻止するために必要だったのは、ケレンスキーまたはその代理者が、独裁的権力を要求する資格をルヴォフに対して与えたのかと、<コルニロフに>直接に尋ねることだけだった。
 ケレンスキーがこの明確な一歩を執らなかったことは、つぎのうちの一つでのみ説明することができる。
 第一に、あらゆる判断をすることのできない精神状態にあった。さもなくば第二に、革命の救済者との名誉を握りつづけ、そうして左翼からの挑戦を弱体化させる、ということを目的として、意識的にコルニロフと決裂することを選んだ。
 (24)サヴィンコフは、コルニロフからルヴォフの行動について知って、急いで首相の事務室の方へと走り戻った。
 途中でたまたまネクラソフと遭遇した。ネクラソフはサヴィンコフに、コルニロフとの友好関係を追求するのはもう遅い、反逆罪で最高司令官を訴追するとの首相の声明文をすでに自分が夕刊の新聞に送った、と語った。(66)
 ケレンスキーはサヴィンコフに、コルニロフと通信する機会をもつまではそのような文書を発表しない、と約束していた。しかし、にもかかわらず、それが行われた。(67)
 数時間のち、新聞は号外でもって、ネクラソフが草稿を書いたと言われている、ケレンスキーの署名の付いた衝撃的な声明文を発表した。(68)
 Golvin はこう考えている。サヴィンコフがコルニロフとの会話についての報告をする機会をもつ前に、ネクラソフが意識的に発表した、と。(69)
 その声明文は、つぎのとおり。
 「8月26日、将軍コルニロフは私へと、ドゥーマ代議員のVladimir Nikolaivich ルヴォフを遣わせて、臨時政府は将軍コルニロフに、民政および軍事の全権限を移行させるように、彼自身がその裁量でもってこの国を統治する新しい政府を任命するとの条件付きで、要求した。
 このような要求を行うドゥーマ代議員のルヴォフの権能は、直接の電信会話で将軍コルニロフによって、のちに私に対して確認された。」(69)
 声明文はつづく。「革命の成果に対して有害な政治体制<中略>を構築する」目的でもって困難時を利用しようとする「ロシア社会の特定の分野」による企てからこの国を防衛するために、内閣は、コルニロフを解任しペトログラードに戒厳令を布く権限を首相に与えた。//
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 (52) ケレンスキー,<Delo>, p.91.
 (53) Miliukov,<Istoriia>Ⅰ,Pt.2, p.200.; ルコムスキー,<Vospominaniia>Ⅰ, p.241.
 (54) この会合の資料は以下。N. V. Nekrasov, <RS>No.199(1917年8月31日), p.2. およびMartynov,<コルニロフ>, p.101.
 (55) <NZh>No.120/126(1917年9月13日), p.3.
 (56) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.98.
 (57) Gippius, Siniaia kniga, p.180-1.
 (58) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.99.; ルコムスキー,<Vospominaniia>Ⅰ, p.242.; ケレンスキー,<Delo>, p.113-4.; Golovin,<反革命>Ⅰ, Pt.2, p.33-p.34.
 (60) ルコムスキー,<Vospominaniia>Ⅰ, p.242-3.
 (61) 全文は、Shugaev,<<略>>, p.448-p.452.
 (62) <NZh>No.114(1917年8月29日), p.3.
 (63) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.111.
 (64) Gippius, Siniaia kniga, p.187.
 (65) ケレンスキー,<Delo>, p.104-5.
 (66) サヴィンコフ, <K Delu>, p.26.; Golovin,<反革命>Ⅰ, Pt.2, p.35.
 (67) B・サヴィンコフ, <Mercure de France>所収、No.503/133(1919年6月1日), p.438.
 (68) Richard Abraham, <アレクサンダー・ケレンスキー: 革命への初恋>(New York, 1987), p.277.
 (69) Shugaev,<<略>>, p.445-6. ; <Revoliutsiia>Ⅳ, p.101-2.
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 ③へとつづく。

1934/S・マクミーキン・ロシア革命(2017)第8章②/四月テーゼ後。

 Sean McMeekin, The Russian Revolution: A New History (2017). 計445頁。
 ショーン・マクミーキン・ロシア革命-一つの新しい歴史(Basic Books, 2017年)。
 第8章の試訳のつづき②、「四月テーゼ後」。p.131-p.136.
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 (16)これらの主張が真実なのかどうかはともかく、ドイツの対ロシア政策の重心がどこにあるのかは、間違えようがなかった。
 あらゆる党派(連合諸国の助けを望んだ親戦争のエスエル「防衛主義者」を除く)の追放社会主義者たちが、ドイツの費用で、ロシアへと送られた。ソヴェトと臨時政府の間の緊張関係を激化させるためだった。
 ウクライナ、フィンランド、ポーランド、エストニア各人の血を引くロシア帝制側の戦争捕虜たちは、独立を煽動させるために故郷に送られた。
 革命的ロシアに流れ込んだ不満分子たち大勢の中で、レーニンはたんなる一人にすぎなかった。
 しかし、その戦争に関する過激な考えとウクライナ分離主義の日和見主義的受容心によって、レーニンは混沌をさらに促進する危険人物であり、ロシアの戦争遂行を挫折させるために送られた一人だけの破壊員だった。
 パルヴゥス自身が3月遅くにコペンハーゲンにいたドイツの大臣に説明したように、臨時政府のもとでロシアの戦闘意欲が復活するのを阻止するためには、「無政府状態を増大させるべく過激な革命運動を支持しなければならないだろう」。
 あるいは、そのときコペンハーゲンを訪れていたドイツ社会民主党の指導者のP・シャイデマン(Philip Scheidemann)にパルヴゥスが説明したように、レーニンは、ロシア社会主義者で中で最も「無謀な狂乱者(raving mad)」だった。//
 (17)ドイツによるレーニンへの投資は、すぐにその配当を生み出した。
 ストックホルムで、レーニンの友人のカール・ラデク(Karl Radek)はペトログラードのレーニンと通信するためのボルシェヴィキ外国特命組織を設立した。そこにレーニンは途中下車したのち、ロシア人一団は列車による旅を続け、1917年4月3日のちょうど午後11時すぎにペトログラードのフィンランド駅に到着した。その列車はのちに、レーニンの英雄的時間を記念すべくガラスで覆われた(今もそこにある)。
 急いでボルシェヴィキ党の本部へ行き、レーニンは、「海賊たちの帝国主義戦争」を非難する2時間にわたる烈しい演説を行い始めた。そこには、戦争を継続している臨時政府を支持する堕落者たちもいた。
 レーニンが提起した基本方針は過激すぎたので、党機関誌<プラウダ>は最初はそれを印刷するのを拒否した。
 その「四月テーゼ」は、「全ての権力をソヴェトへ」とのスローガンで今日でもよく記憶されている。これはしかし、戦争に対するいかなる支持も否認し、ロシア軍の廃絶を主張する点で、外交政策としても同等に過激だった。
 数時間のうちに、レーニンの「極端に過激で平和主義の」方針はペトログラードの話題になった。Frank Golder は、その日記に、ドイツが「彼と彼の党が平和を宣伝して、戦意喪失をもたらす」ために、レーニンをペトログラードに送り込んだ、との風聞があることも記した。 
 ストックホルムのドイツ軍諜報機関は小さな驚きとともに、ドイツ軍最高司令部に、こう報告した。「レーニンのロシア入国はうまくいった。彼は、我々がまさに望んでいるように仕事をしている」と。(16)//
 (18)17年の間ほとんどロシアに足を踏み入れなかった追放者だったので、レーニンは、ロシアの社会主義仲間に対する礼儀その他の実際的な配慮を全く気に懸けることなく、自由に政治方針を考えた。
 彼の戦争に関する展望はかくして、ともに二月革命後にシベリア流刑を恩赦されて解放されていた、L・カーメネフ(Lev Kamenev)やJ・スターリン(Josef Stalin)のような、ロシアにいたボルシェヴィキとは異なるものになった。
 カーメネフは、<プラウダ>の編集長で戦争勃発時にはドゥーマのボルシェヴィキ議員団長だったが、1915年1月に逮捕された。
 スターリンは1913年に4年間の流刑(国内追放)を宣告され、北東シベリアのTurhansk近くにいて戦争を迎えた。-彼にはそのときまで最も離れた土地への追放で、逃亡するのは不可能な場所だった。
 戦争中の苦難によって指導者たる地位を得たと考えているカーメネフは、爆弾のごときレーニンの演説の後で、ボルシェヴィキ中央委員会は党の現在の基本方針を維持して、臨時政府と戦争をしかるべく支持し、「『革命的敗北主義』の士気を喪失させる悪影響や同志レーニンの批判に反対」すべきだと主張した。
 スターリンは<プラウダ>でより大胆に、レーニンの「戦争よくたばれ」のスローガンは「無用」だと非難した。
 ボルシェヴィキ中央委員会は、4月8日、レーニンの四月テーゼを13対2で、正しく徹底的に却下した。(17)//
 (19)しかし、レーニンは、切り札(エース・カード)を持っていた。すなわち、ドイツの金。 〔太字化は、試訳者による。〕
 二月革命後の最初の月の記念号である<プラウダ>3月12日号は、Moika 運河ぞいの政府が保有する印刷工場からは、限られた数しか発行されなかった。
 レーニンが帰還した後、ボルシェヴィキは25万ルーブル(当時の12万5000ドル、現在のおよそ1250万ドルと同額)で、Suvorovsky 大通りに私有の印刷機を購入した。それは所有者から熟練工を(現在の150万ドルまたは一年で1800万ドルと同額、一カ月あたり3万ルーブル以上の)全額負担して雇う、という約束をしてのちのことだった。
 この最後の約定は、所有者の気乗り薄さを克服するために決定的なものだった。その所有者は、「労働者印刷集団」ふうの様子の影あるグループが手持ちの現金を用意しているのかどうか疑っていたからだ。(18)//
 (20)ボルシェヴィキは今や、事実上は無制限の量の、宣伝物を発行することができた。
 <プラウダ>の発行部数は急速に増えて、8万5000部に達した。
 4月15日、党はペトログラード守備連隊の兵士たちに向けて、新しい大判紙の<兵士のプラウダ>の発行を開始した。
 この新聞はもともと5万部の発行を予定していたが、そのとき7万5000部になった。
 つづいて、前線の兵士たちに宛てたもの(<Okopnaiaプラウダ>)、バルティック艦隊の海兵たち向けのもの(<Golos Pravdy>)も発行された。
 ほどないうちに、前線の兵団に届くボルシェヴィキの日刊紙部数は6桁〔10万以上〕に達した。
 特別の小冊子も、10万の単位で発行された。
 このような目覚ましい出版上の大成功は、ドイツの財政支援によって可能となった。このことを考慮するならば、カーメネフやスターリンによる声高の反対があったにもかかわらず、レーニンが最終的には、反戦争というまだ知られていない基本方針を<プラウダ>で伝搬させることができたのは、何ら驚くべきことではない。(19)//
 (21)ソヴィエト政府がのちに多数の文書の束を廃棄したために、歴史研究者がドイツ政府とペトログラードのボルシェヴィキの間の金の動きの軌跡をたどるのはきわめて困難だ。
 レーニンは、ストックホルムにいるラデクへの若干の暗示的な電報があるのを除いては、自分の手を汚さないままでいた。
 そのうちの一つで、レーニンは、4月21日、2000ルーブルを受領したことを確認していた。
 もう一つの電報では、レーニンは、「もっと資材(materials)を」と要請していた。(20)
 臨時政府で反対諜報活動に従事したB・V・ニキーチン大佐は、いくつかの刑事罰の対象になりうる電報をその回想録で再現した。それによると彼は、E・スメンソン(Evgenia Sumenson)というボルシェヴィキの工作員が尋問を受けて(彼女がドイツ製品輸入業で洗浄して合法化した)金銭をボルシェヴィキ党中央委員会の一員であるM・コズロフスキ(Miecyslaw Kozlovsky)という名のポーランドの弁護士に渡した、ということを自白した。
 ケレンスキーは、1917年にロシアを離れた後で、連合諸国の諜報機関から文書資料に関する報告を受けた。彼が見たと主張したその文書資料の中には、シベリア銀行のスメンソンの口座から75万ルーブルを引き出すための有名なものもあった。
 今日まで、ほとんどの歴史研究者たちは、ロシア側の文書庫から対応する証拠が出ていないために、このような論争の種となる資料は曖昧なままにしておかなければならない、と考えてきた。(21)//
 (22)しかしながら、臨時政府がボルシェヴィキ・ドイツ間の紐帯を明らかにする文書の全てが破壊されてしまったわけではない。
 共産党の文書庫の中にあった新しい証拠からは、つぎのことが明らかだ。すなわち、スメンソンは実際に、ナデジンスカヤ通り36番地にある大きくて家具が全て調えられたペトログラードのマンションから、かりに異様ではあっても本当に、輸入業を営んでいた
 (彼女の活動は、隣人たちの相当の好奇心の対象になった。未婚の、子どものいない女性が4つの寝室をもつ住戸に住み、多数の男性訪問者を迎えているのはどうしてだろう、と。)
 スメンソンは、ドイツ製の温度計、医薬品、長靴下、鉛筆、およびネスレ(Nestlé)の食料品を現金払いで販売していた。
 彼女はシベリア銀行と、さらにはロシア・アジア(Russo-Asiatic)銀行やAzov-Don 銀行に活動口座を有しており、そのいずれにも、裕福なロシア人にドイツの贅沢品を販売して蓄積した、数10万ルーブルの金を預けていた。
 複数の目撃者が、スメンソンが定期的に数千ルーブルを現金で、コズロフスキに個人的に渡していたのを見た。(22)//
 スメンソンはまた、ストックホルムとコペンハーゲンの各銀行から直接に電信を受け取っていた。それはふつうは彼女の従兄弟のヤコブ・フュルステンベルク-ハネッキ(Jakob. Fürstenberg-Hanecki)(革命運動上の別称は「クバ(Kuba)」)からのもので、彼は、レーニンが最も信頼する党同志の一人で、のちにソヴィエトの財務大臣となる人物だった。
 明白な証拠がある電信で、コズロフスキは、クバがストックホルムのNya銀行からペトログラードのスメンソンへ10万ルーブルを送るよう要請した。そして、数日後に、この正確な金額が、滞りなくロシア=アジア銀行の彼女の口座に振り込まれた。
 このような直接の電信による移動やスメンソンの輸入業から生じるルーブル立ての収益の洗浄によって、ドイツ政府は、莫大な金額をペトログラードのレーニンの党へと移すことができた。その額は最終的には5000万ゴールド・マルクに昇った。これは、現在の10億ドル余と同額になる。(23)//
 (23)ロシアの地下世界でその日暮らしの活動をした年月のあと、ボルシェヴィキは今や大勝利を収め、それにふさわしく行動した。
 フィンランド駅へと帰還したあと、レーニンはクシェシンスカヤ邸(Kshesinskaya Mansion)へと移った。これは市内の最大の邸宅の一つで、マチルダ(Mathilde)・クシェシンスカヤのために、1904-1906年にアール・ヌーヴォー様式で建築されていた。-クシェシンスカヤは最も有名なバレリーナで、皇帝ニコライ二世のあとは、二人のロシア大侯爵の愛人だった。
 その邸宅は戦略的に見るとペーター・ポール大要塞とちょうど正反対の場所に位置しており、レーニンの帰還後は、優美なバレリーナの住まいから、補強された軍事的複合施設、ボルシェヴィキの神経中枢へと変えられた。
 (ソヴィエト時代に革命博物館と改称され、今は政治史博物館になっている。)//
 (24)クシェシンスカヤ邸は、諸活動が集中する場所になった。党中央委員会の諸会合、<プラウダ>や<兵士のプラウダ>の編集部、そしてボルシェヴィキ「軍事組織」の最高司令部。ここからは、ロシア軍団を反戦争信条へと転換させるべくコミサールが派遣された。
 階下には会計部署があり、「高価な印刷装備」と並んでいた。のちにニキーチン(Nikitin)の人員が発見したところよると、この印刷施設は、信頼できる活動家や兵士たちのために個人識別カードや自動車運転免許証を大量に作成していた。
 小冊子や宣伝ビラが、通路に散乱していた。
 伝達人(クーリエ)が指令書をもって、あちらこちらへと急いで出て行った。(24)//
 (25)街路の視点から見ると、光景はもっと印象的なものだった。
 クシェシンスカヤ邸はすみやかにペトログラード市内の至る所から来る示威活動家の集会場となった。彼らは、興奮-と抗議の意思表示-を求めていた。
 情報宣伝に関するボルシェヴィキの熟達さは本当のことで、軍隊はレーニンのあからさまな政治方針によって、さらなる一撃を受けていた。
 ソヴェト内のメンシェヴィキとエスエルはしぶしぶ、軍隊の紀律を回復すること(指令第二号によるような)への協力に同意したが、ボルシェヴィキは、単純に、「政府よくたばれ!」と宣言した。
 何人かの目撃者によれば、レーニンが帰還した後、ボルシェヴィキのポスターには、こう書くものが出現した。すなわち、「ドイツ人は我々の兄弟だ」。(25)//
 (26)ドイツ軍はロシア領域内にいたので、このようなスローガンの力は、かりに叛逆的でなくとも、強烈だった。
 レーニンはドイツの工作員だとの噂が、すでにかけ巡っていた。
 このような状況にあったことを考慮すると、上のようなポスターを掲示しようとする者がいたことは注目に値する。
 この点についてもまた、新しい証拠によって手がかりが得られる。
 E. Shelyakhovskaya という名のロシア赤十字の看護婦は前線からペトログラードに戻ったばかりだったが、この女性によると、クシェシンスカヤ邸の玄関にいた身なりのよい何人かの男たちが(彼女は詳細に彼らの特徴を表現した)1917年4月遅くに反戦争と親ドイツのポスターを配布していた、その際に、そのポスターを貼るつもりのある誰に対しても10ルーブル紙幣を手渡していた。
 これは、今日の500ドルに近い現金だった。
 これらのボルシェヴィキの運び屋たちは、Shelyakhovskaya によると、カバンが空になるまで現金紙幣を渡し終えると、クシェシンスカヤ邸の中に再び入り、カバンに新しい10ルーブル紙幣を詰め込んですぐにまた現れた。
 二人めの目撃者は、このようなShelyakhovskayaによる観察の基本的な部分を、宣誓のもとで確認した。(26)//
 (27)看護婦の話に色どりを加えると、ニキーチン大佐によれば、これらの10ルーブル紙幣はドイツ政府によって作られた偽造のものだったらしくある。ドイツ政府は、戦争前に10ルーブル紙幣の型版を獲得していた。
 これら偽造紙幣には顕著な目印があり、それは、ニキーチンによれば、「通し番号の最後の二桁の下にうっすらと線が引かれていた」ことだった。
 こうした「ドイツ製」紙幣の多くは、のちに、逮捕されたボルシェヴィキ煽動活動家の所有物の中から発見された。(27)//
 (28)レーニンと彼へのドイツの財政支援者は、本気でゲームを続けた。
 臨時政府は、ロシアがかつて革命前に行うと約束していた春季攻勢を行うよう連合諸国から厳しい圧力を受けていた。また、軍隊の制御をめぐって、ソヴェトとの苦い闘いに没頭すらしていた。その臨時政府には今や、想定することのできるもう一つの敵が、出現した。
 ボルシェヴィキが臨時政府に血を浴びせるのに、長くはかからなかっただろう。//
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 以上で、第8章は終わり。

1933/S・マクミーキン・ロシア革命(2017)第8章/ドイツ縦断のレーニン。

 Sean McMeekin, The Russian Revolution: A New History (2017). 計445頁。
 ショーン・マクミーキン・ロシア革命-一つの新しい歴史(Basic Books, 2017年)
 この著は序文とあとがきを除いて大きくは、つぎの三部で成る。
 第一部・ロマノフ家の黄昏、第二部・1917年の崩壊、第三部・権力にあるボルシェヴィキ。これが通し番号での「章」に分けられている。第一部/1-4章、第二部/5-17章、第三部/18-23章、計23章まで。
 この書物の章名では叙述対象の時期や事件がほとんど明らかにはならないのだが、レーニン・ボルシェヴィキとドイツに関係がありそうな箇所(章)を選んで、試訳してみよう。
 まず、第8章・ドイツの先札(Gambit)。p.125-p.136.
 Gambit はよく分からないが、最初の手札、切り出しとかの意味のようで、自信はないが試訳として「先札」としておいた。
 叙述対象の時期は、1917年の二月革命後、レーニンの(「封印列車」による)ロシア帰還の頃だ。
 各章はさらに「節」へと分けられてはおらず、段落の区切りしかない。日付間の/は、原文どおりで、旧暦/新暦。
 この著については、注番号だけ付して、その内容(後注)の紹介は、省略する。
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 第8章・ドイツの先札(Gambit)①。p.125-p.130.
 (1)ロシアでの二月革命の報せは、ニコライ二世の退位のあとですぐに世界中をかけ巡った。多くの詳細は、翻訳されなかったけれども。
 ロンドンとパリでは、反応は高揚感に溢れた。これらの都市には、帝政に反対する意見を生じさせるための政治報告があって、ロシアのリベラル派が要点を記述すべく作成していた。
 <ウェストミンスター新聞(Westminster Gazette)>は「重たい荷物の排除」、「劇的な一撃」だとして帝制の崩壊を祝賀し、専制的ロシアを「仲間的忠誠と経験」へと並ばせるものだとした。
 <ル・マタン(Le Matin)>は、二月革命は「連合国にとっての勝利」だとして祝賀し、「ロシアの解放は我々の敵国の外交計画を破滅させるだろう」と予言した。(1)
 (2)ワシントンほどにこの報せが熱狂的に歓迎された都市はなかった。そこではW・ウィルソン(Woodrow Wilson)大統領が、ドイツとの戦争に備えて議会-とアメリカ国民-を説得する突然に切迫した闘いに直面していた。
 1916年11月、ウィルソンは大部分は「戦争の圏外にとどまり続ける」と豪語したおかげで再選されており、ドイツの一連の非道行為にただ衝撃を受けていた。
 1917年2月1日の無制限の潜水艦製造の再開のあとでアメリカ合衆国の介入があり得ることを考慮して、ヴィルヘルム通り〔ベルリン・ドイツ帝国〕は、すぐに悪名高くなった「ツィンマーマン電報(Zimmermann Telegram)」を-アメリカの外交用電線を経て-メキシコ・シティのドイツ大使館に送り、いっそうの悪辣さを示した。
 この驚くべき文書で、ベルリンは、メキシコがアメリカに宣戦布告をすればメキシコがアメリカの南西部(テキサス、ニュー・メキシコ、およびアリゾナ)の<再征服(reconquista)>を支持すると約束していた。
 アメリカとこの突発情報を注意深く分有していたイギリスの暗号解読者たちが、ツィンマーマン電報を最初に読み解いた。その内容は、1917年2月15日/28日、まさにペトログラードでロシア革命が勃発するときに、プレスに発表された。(2)//
 (3)アメリカ世論に対する二月革命の影響は、電気に打たれたごとくだった。
 ウィルソン政権は2月初めに無制限潜水艦製造再開のあとですでにベルリンと厳しい外交関係に入っていたけれども、そのことはまだ宣戦布告にまでには至らせなかった。
 リベラルで学者風の理想主義者であるウィルソンは、「アメリカ例外主義」の信条を掲げており、国家の在来的な理由ではアメリカ合衆国を戦争へと突入させることを決して快くは考えていなかった。
 ツィンマーマン電報ですら、ウィルソンの「武装中立」の方針を変えさせることはなかった。
 ロシアが「リベラルで民主主義な」陣営に加わった後ではじめて、ウィルソンは刺激を受けて、1917年3月20日/4月2日の議会の合同会議の前で宣戦布告を行った。それは、「世界を民主主義を求めて安全なものにしなければならない」、「平和は政治的自由という吟味済みの基礎の上に築かれなければならない」、と述べた。(3)//
 (4)ウィルソンは、見たかったものを二月革命のうちに見た。
 彼が表明した高貴な理想は、アメリカや(より少ない程度で)イギリスのような、権力に余裕がある国の贅沢だった。これらの国は、ドイツのUボートによる公海上での攻撃を超えて、安全に対する生存にかかわる脅威に直面してはいなかった。
 パリから65マイルだけ離れたノヨン(Noyon)要塞をドイツが有しているフランスでは、生まれつつあるロシア民主主義に関する気分のよさは、ロシアの春季攻勢に対する革命の影響に関する実践的な関心に、大きな影響を受けていた。その攻勢はドイツの軍事力をフランスから逸らせることが期待されていたのだ。
 <ル・マタン>は、ペトログラード・ソヴェトの「過激主義者」について警告を発した。
 曖昧にだが指令第一号-連合諸国の通信員たちにはまだ知らされていなかった驚くべき布令-を示唆して、<ル・マタン>は、「その決定はタウリダ宮の1600人の代議員に行き渡っている。混乱状態にあると言われていることだけが分かる」と不満を漏らした。(4)
 (5)ベルリンでは愛国主義の記者たちは、肯定的な報せを軽視して、ペトログラードの革命が生み出す秩序混乱を強調しがちだった。
 <ベルリンLokal Anzeiger>は、「社会主義が溢れる。そして無政府状態になる」と一面の大見出しを掲げた。
 <ベルリンTagesblatt>は、ロシアにいるドイツの戦争捕虜たちはストックホルム経由で送られている、と肯定的に記した。
 <Tagesblatt>のコペンハーゲン通信員は、「フィンランドへの血なまぐさい革命の広がり」という不快な説明記事を掲載した。
 ドイツの立場からすると、革命がより混乱を増せば増すほど、それだけ良かった。(5)//
 (6)連合国側の観察者がロシアの戦闘能力に対する革命の影響に関して望ましい考え方をしてしまった一方、より暗いドイツの記事は、偏った見方に彩られていてはいたが、努めて真実により近いものを叙述していた。
 反乱がロシアの陸海軍をつうじて広がって<いた>(前線全てに対するのと同等の影響ではなかったけれども)。そして、無政府状態が国土じゅうに伝搬している。
 さらに加えて、ペトログラードの現地に工作員をもち、外国にいるロシアの革命家たちの世界と良好な接触をしてしてきたドイツは、理想的にロシアの混乱を利用できる-そしてそれを拡大することのできる-位置にいた。
 レーニン・カードを切る、そのときがやって来た。〔太字化は試訳者〕//
 (7)ボルシェヴィキ党の指導者は、努力に欠けていたわけではないが、ずっと静かな闘いをしてきた。
 1914年8月の大戦勃発のとき、レーニンは、ロシアの国境に近いオーストリア・ガルシアのクラカウのそばのポロニモ(Poronimo)にいて、地方のウクライナ人の間で煽動活動を行っていた。
 クラカウの警察は敵国外国人として彼を逮捕した。オーストリアの社会主義者の指導者がレーニンはツァーリ体制のスパイではなくロシアの憎い敵だと保証してくれた。
 レーニンの場合は、その住居を探索して本当の(bona fide)マルクス主義活動家に取り憑くかもしれない退屈な経済研究書の類だけしか発見されなかったことが、役立った。
 オーストリアの役人による尋問で、レーニンは公然とウクライナ分離主義を支持する革命的狂信者だと確認された。ウクライナの分離は、中央諸国の中心的な戦争目的だった。
 レーニンは9月初めに、ハプスブルク軍事省の特別の命令によって釈放され、軍事郵便列車で-妻のNadezhda Krupskaya と彼に忠実なボルシェヴィキの副官(aide-de-camp)のG・ジノヴィエフ(Grigory Zinovoev)と一緒に-スイスへと送られた。そこで彼は、ツァーリに対抗する戦争陰謀を練って過ごした。(6)//
 (8)すでにオーストリアの監視のもとにあったレーニンは、二つの別々の経路でドイツ外務当局の注意を引くことになった。
 第一は、我々がすでに言及した、アレクサンダー・「パルヴゥス(Parvus)」・ヘルファンドだった。この人物は1905年に、ペトログラードで面倒なことを起こしていた。
 シベリア追放から脱出したあと、パルヴゥスは、外国のドイツとそのあとトルコで、豊かで興味深い人生を送った。
 大戦が勃発したとき、彼は、ウクライナ分離主義者、アルメニアとジョージアの社会主義者その他の帝制に追放された者たちのためにボスポラスの政治サロンを運営していた。その仕事の中で彼は、1915年1月にオットーマン帝国駐在のドイツ大使であるヴァンゲンハイム(Hans von Wangenheim)男爵に出席を求めた。
 パルヴゥスはヴァンゲンハイムに対して、「ドイツ帝国政府の利益は、ロシアの革命家たちと同一だ」と語った。(7)//
 (9)第二の媒介者のA・ケスキュラ(Alexander Kesküla)も、同様に多彩だった。
 ケスキュラは、パルヴゥスのように1905年革命の被抑圧者だったエストニア人ボルシェヴィキだった。そして、より最近に全面的なエストニア民族主義の考えを抱いた(フィンランド人の友人にエストニアがペトログラードを支配した後でのペトログラードに関する計画を尋ねたところ、その諸宮殿は素晴らしい「採石場」になるだろう、と答えた)。
 のちに彼が想起したように、1914年9月にドイツの諜報機関の仕事に加わったケスキュラの動機は、単純だった。すなわち、「ロシアに対する憎悪」。
 1915年9月、ケスキュラはベルンにいるドイツ領事のGisbert von Romberg に、レーニンの考えやイデオロギー状況を知らせた。
 そのあとロンベルクはケスキュラに1カ月あたり2万マルクを、レーニンその他のボルシェヴィキに配るべく支払った。(8)//
 (10)レーニンの戦争に関する立場から見ると、それは追放社会主義者たちのツィンマーヴァルト(1915年)やキーンタール(1916年)での会議で彼が概述していたものだが、なぜドイツの外務当局がレーニンを養ったかを理解するのは困難ではない。
 これらの集会での多数派は(まだメンシェヴィキの)トロツキーが起草した決議を支持してはいたが、これに対する反対派は、戦争に反対し、労働するのを拒むか古い「ゼネ・スト」原理によって闘うよう訴えていた。
 レーニンは、「革命的敗北主義」という少数派の教理を定式化した。
 彼は、社会主義者は彼らの自国が敗北するように活動しなければならず-彼はこれを文字通りに意味させた-、そして、「帝国主義戦争を内戦に転化しなければならない」、と主張した。
 協議案による抵抗よりもむしろ、社会主義者は労働者に対して、軍隊に加入し、その中で反乱を行って軍隊を「赤」に変えるよう激励しなければならない。
 こうした考え方はツィンマーヴァルトでのマルクス主義多数派によって分裂の起因になると見られていたけれども、レーニンは、ウジェーヌ・ポティエ(Eugène Pottier)の社会主義の歌の精神により近いところまで切り進んでいた。
 その歌、<インターナショナル>は、軍隊での反乱を推奨していた。
 「王公たちが、俺たちに煙を食わせる。
 俺たちは仲良くなって、専制者たちと闘おう。
 軍隊に対して、ストライキをしよう。
 銃砲を空中に放って、隊列をかき乱そう。
 彼ら人喰いたちがなおも抵抗するなら、
俺たちを英雄に仕立てたいのなら、
 すぐに知るだろう、俺たちの銃口は、
 俺たち自身の将軍さまに向けられていることを。」
 〔歌全体の一部。/大島博光訳を参照した。〕
 (11)このようにレーニンの「ツィンマーヴァルト左派」の教理は過激であるので、ロンベルク領事がその旨をベルリンに説明したとき、ドイツ外務当局は、レーニンの基本的な考え方の出版を抑えるべく介入した。オフラナ(Okhrana)〔ロシア帝制秘密警察〕がそれをロシアにいる社会主義者の大量拘束を正当化するために利用しないように。
 (12)二月革命の前の数カ月、レーニンはドイツの監視網からある程度は離れていた。
 パルヴゥスはロシアでの産業労働者を怠業させる自分の努力に集中しており、ケスキュラは、レーニンがエストニア問題に無関心であるためにレーニンに冷たくなっていた(ドイツの返礼は、1916年10月にケスキュラとの関係を絶つことだった)。
 レーニン自身は、ロシアの事情に疎遠になり始めていた。それについては彼は意気消沈していた。
 1917年1月9日/22日にチューリヒのVolkshaus で、集まっている若き社会主義者たちにこう語りかけた。「我々古い世代の者は、来たる革命の決定的な闘いを生きて見ることはないかもしれない」。(11)//
 (13)レーニンは革命について、1917年3月1日/14日にオーストリアの同志から聞いて初めて知った。
 レーニンは元気になり、ただちにペトログラードへと帰還したかった。西側と東側の前線を避けるためには、スイスからロシアへと最も近くて安全な経路をとることだったが、それにはドイツを縦断することが必要で、ロシア人には本国に戻ることができるのか、疑わしく思えた。
 ベルンのドイツ領事、ロンベルクは、何とか助けたいと思ったが、彼もレーニンも、慎重にことを進める必要があった。
 スイスの社会主義者、F・プラッテン(Fritz Platten)が仲介者として行動し、レーニンとスイスおよびドイツ両政府の間の全ての交渉を処理した。彼は全ての切符を購入し、列車がドイツを縦断する間は公的な「ホスト」と報道官として振る舞い、その結果としてロシア人は誰も、ドイツの役人たちと話す必要がなかった。
 偽装を追加するため、プラッテンはまた、レーニンと19人のボルシェヴィキ仲間-ジノヴィエフ、レーニンの妻のNadazhada、彼の愛人のInessa Armond、および煙草好きのポランド=ユダヤ人のK・ラデク(Karl Radek)ーには、その列車で年配メンシェヴィキ指導者のJ・マルトフ(Jurius Martov)と6人のユダヤ人同盟の非ボルシェヴィキたちが同行している、と明記した。
 プラッテンはさらに、結局は失敗したが、社会革命党(エスエル)の追放者も名簿に入れようとした。これらの愛国的ロシア人の誰も、レーニンと連携するのを望まなかった。
 最も重要な条件は「治外法権」にかかわっていた。プレスの電信で語られた、レーニンの列車は「封印」され、ドイツを縦断中はドアを開けようとしなかった、との物語があった。
 1917年3月23日/4月5日、ドイツ政府は500万ゴールド・マルクをロシアの革命化のために充当した。そしてその4日後に、レーニンは出立した。(12)//
 (14)誰もが封印列車のことを知らせようとしたのかもしれないが、物語はほとんどすぐに漏れ広がった。
 ロシア人はスイスの国境を越えたあとで、列車を交換しなければならなかった。このことは、彼らはドイツの土を、Gottmadingen で「踏んだ」ことを意味する。
 越えたあと、新しいドイツの列車がやって来た。二人のドイツ人将校、団長のvon Planetz と副官のvon Buhring が同行していた。二人とも、ドイツ軍最高司令部で直接に将軍E・ルーデンドルフ(Eeich Ludendorff)に属していた(Buhring は、ロシア語に流暢だったために選ばれた)。
 ドイツ側の記録によれば、我々はつぎのことも知る。第一に、ロシア人の一団は「フランクフルトでの接続を逃し」、そこで長い間、列車の間を、途中下車をしなければならなかった。第二に、ベルリンを通過する間に、四人めのドイツ人の「民間人の服を着た将校」がレーニンが乗る列車を訪れた。第三に、列車はベルリンに20時間停車し、食物と新鮮な牛乳が補給された。第四に、この二回目の遅延によって、ロシア人たちはのちにサスニッツ(Sassnitz)のドイツ・ホテルで、デンマーク行きの次のフェリーを持つ間、完全に一晩を過ごすことを余儀なくされた。
 (15)革命後にドイツから送還されたロシア人捕虜たちの宣誓証言書によると、レーニンの列車がドイツに止まったことが怒りの原因に何らならない、ということはなかった。
 彼らの一人、上級予備士官のF. P. Zinenko は、レーニンがドイツの助けを得たことは、レーニンがウクライナ分離主義を支持したこととともに、捕虜収容所で公然と議論された、と証言した。
 別の証言者、部隊長のE. A. Tishkin は、バルト海岸のStralsund にある収容所では1917年4月に「全員が突然にレーニンについて話し始めた」、サスニッツ近くに向かう途中でレーニンがStralsund を通過することに驚いてではなかった、と報告した。レーニンはサスニッツで、1917年3月29日/4月11日の夜を過ごしていた。
 Tishkin は宣誓して証言した。Stralsund 収容所では、ドイツを縦断している間にレーニンが政治的演説をするために列車を降りていたことは、一般的な知識だった、と。(14)//
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 ②へとつづく。

1932/R・パイプス著ロシア革命・第11章第3節①。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
 今まで気づいたことがなかったが、1990年版とPaperback版(1996年)とで記載(注のごく一部)が異なっている部分がある。タイトルの一部の「1899-1919」の追記は、1990年版にはない。
 なお、これまでどおり、<>は原文が斜体字(イタリック体)のもの。ほとんどが文献名だが、今回の部分には筆者による<強調>らしき部分があるようだ。 
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 第3節・ケレンスキーとコルニロフの決裂①。
 (1)このとき、首相と最高司令官との間の不一致を明確な分裂へと変える出来事が発生した。
 その触媒になったのは、自称国家「救済者」、V・N・ルヴォフ(Vladimir Nikolaevich Lvov)という名の、怒れる聖ペテロだった。
 ルヴォフは45歳の、裕福な土地所有家庭に生まれた、燃え立つ野心を持つがそれに相応した才幹はない人物で、落ち着かない人生を送ってきた。
 ペトルブルク大学で哲学を学んだのち、モスクワの神学校に入った。そして、とりとめのない研究をつづけ、しばらくの間は、修道僧になることを考えていた。
 彼は最終的には、政治を選んだ。
 オクトブリスト〔十月主義者〕となり、第三と第四のドゥーマでは議員を務めた。
 戦争中は、進歩ブロックに属した。
 幅広い社会関係のおかげで、第一次の臨時政府で、Holy Synod の検察官に任命された。その職に1917年7月まで就き、その月に解任された。
 彼は解任を悪く受け取り、ケレンスキーに怨みを抱いた。
 相当に個人的な魅力があったと言われているが、繊細で「信じがたいほど軽薄だ」と見なされた。George Katkov は、彼の精神状態(sanity)を疑問視している。(40)
 (2)ルヴォフは、8月、迫りつつある崩壊からロシアを救いたいと考えているモスクワの保守派知識人のグループに入った。
 7月初め以降、国には本当の内閣がなかった。ケレンスキーが独裁的権力を握った。
 ルヴォフと彼の友人たちは、コルニロフのように、臨時政府は事業や軍隊の代表者たちによって強化される必要があると感じていた。
 その考えをケレンスキーに伝えたらどうかと、ルヴォフは提案された。
 このような動きの主導者はA. F. Aladin だったように見える。彼は、陰から姿を一切見せることなく大きな影響力を発揮した、(N.V. Nekrasov やV. S. Zavoiko のような)ロシア革命での不思議な人物の一人だった。
 Aladin は、若いときは社会民主党の革命家で、第一ドゥーマでのTrudovik 会派を率いた。
 第一ドゥーマが解散したあと、彼はイギリスに移って1917年2月までとどまった。
 彼は、コルニロフに近かった。
 親しくてグループを形成したのは、赤十字の役人でルヴォフの兄のI. A. Dobrynskii や、著名なドゥーマ議員で、進歩的ブロックの指導的人物のニコラス(Nicholas)だった。//
 (3)ルヴォフの回想録(全体として信頼できないという特徴をもつが)によれば、国家会議のあとの8月17-22日の間に、コルニロフを独裁者にしてルヴォフを内務大臣にしようという陰謀が最高司令部にある、いう風聞を知った。(*)
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  (*) 1917年9日14日に作成されている、ルヴォフが最初に記したものは、Cguganov 編<<略>>, p.425-8.に収載。
 1920年11月と12月に<PN>に掲載されたルヴォフの回想は、A・ケレンスキー=R. Browder編<ロシア臨時政府1917>Ⅲ( Stanford, Califf., 1961), p.1558-68.
 Vladimir Nabokov <père>が彼との会話に関するルヴォフの説明を「ナンセンス」だとして否定する手紙を<Poslednie novosti >に書き送ったあとで、その掲載は終了した。
 ルヴォフは、パリの路上浮浪者として人生を終えたと言われている。
 (〔上の一行の初版の記述〕=ルヴォフは1921年または1922年にロシアに戻り、変節した「生(Living)教会」に加わった。) 
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 ルヴォフは、ケレンスキーに知らせる義務があると感じた、と主張した。
 二人は、8月22日午前中に、会った。
 ケレンスキーがのちに語るには、国の救い手になろうとする多数の訪問客がおり、その客たちにはほとんど気をかけなかった、しかし、ルヴォフの「伝言」は自分の注意を惹く脅威を伴っていた、と。(+)
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  (+) ケレンスキーは1917年10月8日に、コルニロフ事件調査委員会でルヴォフの交替に関する説明をした。のちに、注記をつけて、<Delo Kornilov>, p.83-p.86.を出版した。
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ケレンスキーによれば、ルヴォフは彼に、政府への世論の支持は基礎を浸食されるまでに至っており、軍部と良好な関係を築く公的人物たちを政府に入れることで政府を下支えすることが必要だ、と語った。
 ルヴォフはそれらの人物に代わって語っていると言ったが、それが誰々なのかを明らかにすることは拒んだ。
 ケレンスキーはのちに、自分の名前で交渉する権限をルヴォフに与えたことを否定した。ルヴォフの言葉に対して「意見を明確に述べる」ことができる前に彼の仲間たちの名前を知る必要はなかった、と言って。
 ケレンスキーはとくに、ルヴォフがコルニロフに助言するためにモギレフへと行く可能性について議論した、ということを否定した。(41)
 彼によれば、ルヴォフが役所を去ったあと、彼はルヴォフとの会話に特別の考えを抱かなかった。
 ケレンスキーを疑う理由はない。しかし、意識的か否かは別として、もっと多くのことを知りたいという印象を与えたというのは、本当らしくないでもない。その場合には、正規の代理人でなかったとしても、モギレフでの反政府陰謀という継続している風聞に実体があるのかどうかを知るための情報探索員(intelligence agent)としてルヴォフを使って、ということになる。(++)
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 (++) これはGolovin の<反革命>Ⅰ, Pt. 2, p.25.の見解だ。
 ルヴォフはのちに彼は要請してケレンスキーから、ルヴォフが大きな裁量をもちかつ完全に秘密に行動するという条件で、自分の仲間たちと交渉する権限を受け取ったと主張した。<PN>190号(1920年12月4日)p.2.
 ケレンスキーののちの活動からすれば、このような振る舞いは彼らしくなかったということにはならないだろう。
 ケレンスキーの側近であるNekrasov の黙認があったというのが、もっとあり得そうだ。彼は、二人〔ケレンスキーとコルニロフ〕の対立を誇張する大きな役割を果たした。
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 (4)ルヴォフは、首相との会話について友人たちに報告するためにモスクワへ戻った。会見は成功だった、と彼は友人たちに語った。そして、ケレンスキーは内閣の再組織を議論する用意がある、と。
 ルヴォフの説明を基礎にして、Aladin が、覚え書きを起草した。
 「1. ケレンスキーは最高司令部と交渉する意思がある。
  2. 交渉はルヴォフを通じて行われるものとする。
  3. ケレンスキーは国と軍部全体に信頼される内閣を形成することに同意する。
  4. これらのことを考慮して、特別の諸要求がまとめられなければならない。
  5. 特別の計画が作り出されなければならない。
  6. 交渉は、秘密に行われなければならない。」(*)
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 (*) Martynov, <コルニロフ>, p.84-p.85. この証言では、ルヴォフは、Aladin の覚え書きは「私の立場ではなくAladin の私の言葉から推論した結論」を示している、と言った。Chugaev,<<略>>, p.426.
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 この文書は、ケレンスキーとの会話を報告する際に、ルヴォフは自分の提案に対する首相の関心を誇張した、ということを示唆している。//
 (5)Dobrynskii に付き添われて、ルヴォフはモギレフへと向かった。
 彼は8月24日、ちょうどサヴィンコフが離れたときに到着した。
 コルニロフはケレンスキーの指令を実施するのに忙しすぎたので、ルヴォフはホテルに入った。ルヴォフはそのホテルでコルニロフがケレンスキーを殺害するとの風聞を聞いた、と主張した。
 恐怖にかられて、ルヴォフはケレンスキーに代わって行動するふりをしてケレンスキーを守り、内閣の再構成について交渉しようと決心した。
 彼は詳しく、こう語った。「ケレンスキーは私にコルニロフと交渉をする特別の権限を与えなかったけれども、私は、一般論として、政府の再組織に同意できるかぎりは、ケレンスキーの名前で交渉することができると感じていた。」
 彼はその夜と再び次の日(8月25日)の朝に、コルニロフと会った。
 コルニロフの証言と同席していたLukomoskii の回想録によれば、ルヴォフは自分自身は「重要な使命」に関する首相の代理人だと考えていた。(43)
 無謀にも警戒心を抱かず、コルニロフはルヴォフに信任状の提示を要請しなかったし、ペトログラードに対して首相に代わって語る権限が彼にあることの確認もしなかった。しかるにそうして、コルニロフはルヴォフとともに、ただちに最も微妙で潜在的には犯罪になり得る議論を始めてしまった。
 ルヴォフの任務はロシアの政府をいかにして堅固なものにするかに関するコルニロフの見解を知ることだ、と彼は語った。
 彼自身の意見では、このことは三つの方法のいずれかによって達成することができる。
 (1) ケレンスキーがかりに独裁的権力を掌握する。(2) 名簿がコルニロフを構成員として形成される。(3) コルニロフが独裁者になり、ケレンスキーとサヴィンコフは閣僚職を担当する。(44)
コルニロフはこの情報を額面通りにそのまま受け取った。彼は以前のいつかに、政府は戦争遂行の運営を改善するためのイギリスの小さな戦争内閣を範とする内閣制を検討していると公式に聞いていたからだ。(45)//
 (6)ケレンスキーは独裁的権力を彼に提示しているということを意味させていたルヴォフの言葉を解釈して、コルニロフは第三の選択肢が最もよいと反応した。
 彼は、自分は権力を欲しがりはしないし、国家のあらゆる長の職の者にに従うだろう、と言った。しかし、ルヴォフが提案したように主要な責任を引き受けることを求められたならば、拒否しないかもしれないし、拒否できないだろう、とも語った。(46)
 コルニロフはさらに進んで、ペトログラードで切迫しているボルシェヴィキ・クーの危険を見るならば、首相とサヴィンコフはモギレフに安全を求め、そこで新しい内閣の構成に関する議論にコルニロフとともに参加するのが賢明かもしれない、と言った。//
 (7)会見は終わった。ルヴォフはただちに、ペトログラードに向けて出立した。
 (8)政治的にはもっと明敏なLukomoskii は、ルヴォフの任務に関して疑念を表明した。
 コルニロフはルヴォフに信任状の提示を求めたのか?
 コルニロフは否と答え、ルヴォフは誠実な人物だと知っているから、と理由づけた。
 サヴィンコフはなぜ、内閣変更に関するコルニロフの意見を尋ねなかったのか?
 コルニロフは、この質問を、とるに足らぬものとして無視した。(47)
 (9)8月25日の夕方、コルニロフは電信で、ロジアンコ(Rodzianko)を別の公的指導者たちと一緒に、三日以内にモギレフに来るように、招聘した。
 ルヴォフは同様の伝言を兄に送った。
 会合は、新しい内閣の構成に対応するためだった。(48)
(10)次の日(8月26日)の午前6時、ルヴォフは冬宮でケレンスキーと会った。(*)
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 (*) この会見に関する資料は、ケレンスキー,<Delo Kornilova>, p.132-6. およびMiliukov, <Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.204-5. ミリュコフは、首相との会見の前と後にすぐにルヴォフに話しかけた。
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 コルニロフとの会見の際には首相の代わりだとの姿勢をとっていたのと同じように、今はルヴォフは、最高司令官の代理人(agent)の役割を引き受けていた。
政府の再構築に関する三つの案に関するコルニロフの意見をルヴォフが尋ねた、ということは、ケレンスキーに言わないままだった。その件を彼は友人たちとまとめていたのだったが、首相から求められて提示した。彼は、コルニロフは独裁的権限を要求しているとケレンスキーに言った。
 ケレンスキーは、これを聞いて笑いはじけたことをのちに記憶している。しかし、愉楽はすみやかに警戒へと変わった。
 ケレンスキーはルヴォフに、コルニロフの要求を書き止めておくよう頼んだ。
 ルヴォフは、つぎのようにメモ書きをした。
 「コルニロフ将軍は提案する。
 1: 戒厳令がペトログラードに布かれること。
 2: 全ての軍事および内政当局は最高司令官の手のもとに置かれること。
 3: 首相を排除しない全ての大臣は退任し、最高司令官による内閣の形成までは、臨時の執行権限が副大臣へと移行すること。
     V・ルヴォフ」
 (11)これらの言葉を読んでただちに全てが明白になった、とケレンスキーは語る。(50)
 軍事クーが、行われつつある。
 彼は、コルニロフがなぜすぐに、サヴィンコフではなくHoly Synod の元検察官を選んだのかと自問し得ただろう。また、もう少しはましに、コルニロフかフィロネンコに、最高司令官は本当に自身の代理としてルヴォフに委託したのかと、急いで直近の電信で問い合わせることもなし得ただろう。
 ケレンスキーは、いずれもしなかった。
 コルニロフがまさに権力を奪取しようとしているとの彼の確信は、ケレンスキーとサヴィンコフがその日にモギレフに向けて出立するのを望んでいるとのルヴォフの主張によって、強められた。
 ケレンスキーは、コルニロフは二人を捕囚にしようとしいる、と結論づけた。//
 (12)ルヴォフがコルニロフによって提示されたとした三条件が、発令を強いるためにルヴォフとその友人たちによって捏造されたものであることを、ほとんど疑うことはできない。
 三条件は、コルニロフの回答を反映させていなかった。その回答は、首相がコルニロフに対してした質問だと言われたものに対してのものだった。
 しかし、それらの条件は、まさにケレンスキーがコルニロフと決裂するには必要なものだつた。
 コルニロフの陰謀の明白な証拠を獲得するために、ケレンスキーは、さしあたりは協力することに決めた。
 ケレンスキーは、電信機でコルニロフ将軍と通信するために、ルヴォフを午後8時に軍事大臣室に招いた。//
 (13)Miliukov と合間の時間を過ごしたルヴォフは、遅刻した。
 午後8時半、コルニロフを30分間待たせたままだった後で、ケレンスキーは、電信による会話を始めた。彼は、この会話中に、不在のルヴォフになりすまし続けた。
 ケレンスキーがのちに語るには、彼は、この偽装によって、ルヴォフの最終報告を確認するか、さもなくば「当惑したうえで」否定をするかを知ることを望んでいた。//
 (14)以下は、電信テープに記録されている、この祝福すべきやり取りの全文だ。
 「ケレンスキー: 首相がライン上。将軍コルニロフを待っている。
  コルニロフ: 将軍コルニロフがライン上。
  ケレンスキー: ごきげんよう、将軍。ケレンスキーとV. N. ルヴォフがライン上。
 我々は、Vladimir Nikolaivich 〔=ルヴォフ〕が伝えた情報に従ってケレンスキーは行動することができることを確認するよう、貴方にお願いする。
  コルニロフ: ごきげんよう、Aleksandr Fedorovich 〔=ケレンスキー〕。ごきげんよう、Vladimir Nikolaivich。
 この国と軍隊が置かれていると私が思う情勢の概略をもう一度確認する。その概略は、彼〔ルヴォフ〕が貴方に報告しなければならないという要請によりVladimir Nikolaivich に述べたものだ。さらにもう一度、明確に言わせてほしい、最近数日の事態、すでに差し迫っている事態は、可能なかぎり短時間のうちに完全に明確な決定を行うことを絶対に必要にさせている、と。
  ケレンスキー〔ルヴォフの声色で〕: 私、Vladimir Nikolaivichは、厳格に内密にして<貴方が私にAleksandr Fedorovich に知らせてほしいと頼んだ、行われなければならないこの明確な決定に関して>照会している。
 貴方からの個人的な確認がなくしては、Aleksandr Fedorovich は私を完全に信頼することを躊躇している。
  コルニロフ: そのとおり。私は、私が貴方にAleksandr Fedorovich が<モギレフに来る>ことを求める私の切迫した要請を伝えることを頼んだ、ということを確認する。
  ケレンスキー: 私、Aleksandr Fedorovich は、Vladimir Nikolaivich が私に報告した言葉を貴方が確認する、という回答を得た。
 私がそのことをするのは、今日ここを出発するのは、不可能だ。しかし、明日に出発することを望んでいる。
 サヴィンコフは必要だろうか?
  コルニロフ: 私は切実に、Boris Viktorovich が貴方と一緒に来ることを要請する。
 私がVladimir Nikolaivich に対して語ったことは、Boris Viktorovich に同等に当てはまる。
 私は、貴方がたの出立が明日以降にまで延期されないよう、真剣に乞い願うだろう。<以下略>
  ケレンスキー: 我々は、それに関する風聞が飛び回っている、示威活動(demonrtration)がある場合にかぎって、行くべきなのか、それとも、いかなる場合でもか?
  コルニロフ: いかなる場合でも。
  ケレンスキー: さようなら。我々はすみやかに会うべきだろう。
  コルニロフ: さようなら。」(51)
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 (40) I. G. Tsereteri, <<略>>Ⅰ(Paris, 1963), p.108-9.; <V. D. Navokov, <略>(1976)>; Katkov,<コルニロフ>, p.85.
 (41) ケレンスキー, <Delo>, p.85.
 (42) Chugaev,<<略>>, p.427.
 (43) Katkov,<コルニロフ>, p.179.; Lukomskii,<<略>>Ⅰ, p.238-9.
 (44) Lukomskii,<<略>>Ⅰ, p.238-9.
 (45) サヴィンコフ, <RS>No.207(1917年9月10日)収載, p.3.
 (46) Katkov,<コルニロフ>, p.179-p.180.
 (47) Lukomskii,<<略>>Ⅰ, p.239.
 (48) 同上, p.241.; Chugaev,<<略>>, p.432.
 (49) Chugaev,<<略>>, p.442.
 (50) ケレンスキー, <Delo>, p.88.
 (51) Katkov,<コルニロフ>, p.90-p.91. 強調〔試訳者注<>部分〕は補充した。原文のロシア語全文は、Chugaev,<<略>>, p.443.に収載。
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 ②へとつづく。

1929/ロシア革命史に関する英米語文献②。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 上の新書本のいわゆる「オビ」にこうある。
 「日英米を戦わせて、世界共産革命を起こせ-。
 なぜ、日本が第二次大戦に追い込まれたかを、
 これほど明確に描いた本はない

 中西輝政氏推薦」
 そもそも上の江崎の本は「なぜ日本が第二次大戦に追い込まれたか」を第一主題にしているものではない。しかし、かりにそうだったとしても、「これほど明確に描いた本はない」と評価できるような代物では全くない。悲惨で無惨な、体系性・完結性もない奇書だ。
 「オビ」の文章を書くと、あるいは考案すると、又は推薦者として名前を出すだけで、一件あたりいかほどの「収益」になるのだろう。
 中西輝政は、いくら本の中で「インテリジェンス」研究等について感謝されているとはいえ、中身をまるで読まないで、上のような「推薦」をしているに違いない。
 本の表紙等に自分の名前が出るのは、それほどに心地よいものなのか。
 ときには、きわめて恥ずかしいことになる(またはそう評価される)こともあるはずだ。ああ、恥ずかしい。
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 欧米の書物には日本的な「オビ」は付かないようだが、書物のカバー類に(通常は)肯定的な論評文、つまりは「推薦」になるような著者以外が執筆した文章を印刷していることがある。
 Sean McMeekin, The Russian Revolution: A New History (2017). 計445頁。
 前回の①で言及した、2017年刊の「ロシア革命史」本の一つ。
 McMeekinは1974年生まれというから、1923年生まれのR・パイプスより50年以上後の人物で、1941年生まれのS・フィツパトリクよりも一世代ぶんは若い。
 この人の上の著の裏表紙カバーに4つの「論評」文が掲載されている。
 そのうち何と三つが、短い文章の中でロシア革命と「ドイツ」の関係にとくに言及しているのが気を惹いた。
 なお、①ではR・パイプスとO・ファイジズの各著に言及があることも、前回に述べたことを補強するものだ。
 ①フーヴァー研究所主任研究員のNiall Ferguson によるもの(全文/試訳)。
 「Richard Pipes がロシア帝国でのボルシェヴィキによる権力奪取に関する歴史書を刊行してから四半世紀、ソヴィエトの崩壊に続いてのOrland Figes の<人民の悲劇>から20年、これらは決定的(definitive)だと思われた
 しかしここに、Sean McMeekin が、新しい証拠資料を用い、独自の地政学的な見方を提示しつつ、生き生きとした新しい説明を加えて、登場する。
 レーニンがドイツの活動員(operative)だった、その完全で衝撃的な範囲が、ここに明瞭になる。『革命的敗北主義』が蔓延する前にボルシェヴィキを破滅させておかなかつたケレンスキーの過ちの重大さも明瞭になるとともに。
 McMeekin は、力強く歴史を叙述する。
 彼の<The Russian Revolution>は読者の心を<掴む(grip)>。」
 ②『ロマノフ一族』の著者のSimon Sebag Montefiore によるもの(一部/試訳)。
 「ロシア革命に関するSean McMeekin の新しい歴史書は、よく知られた物語を…叙述でもって、しかしそれだけではなく、とりわけドイツによるボルシェヴィキへの財政支援(funding)について、刺激的な〔魅惑的な〕新しい資料を明からにすることを付加して〔飾って〕、叙述している。」
 ③<A Mad Ctastrophe>の著者のGeoffrey Wawro によるもの(一部/試訳)。
 「…。McMeekin のレーニンは、英雄的ではなくて、いかがわしい(seedy)。
 彼によるボルシェヴィキの勝利は、ブルジョア亡命者がペトログラードでレーニンの最初の妨害物になる前にレーニンのポケットに10億ドルを詰め込んだドイツ軍によって設計された、裏切り行為だ。」
 レーニンまたはボルシェヴィキとドイツ(ドイツ帝国)との関係については、Richard Pipes の1990年著も(ソ連解体前の資料によりつつも)相当程度に立ち入って明確な第一次資料を使って記述しており(送金先のペトログラードの個人または商会など)、1917年4月にレーニンがロシア(・ペトログラード)に帰還する途上の某地で某と送金額・送金方法等の「協議」をしただろうとの「推測」まで記している(試訳済み。確認を省略する)。
 先行の研究がないわけではないだろうが、上のような紹介を含む論評からすると、ドイツとレーニン・ボルシェヴィキの関係に関する「新しい」情報を知りたくなる。
 もっとも、冒頭で記した日本での江崎道朗/中西輝政のような「推薦」の例もあるので、英米語圏でのこうした論評・紹介類によって多大な「期待」を抱かない方がよいのかもしれない、とは言える。
 なお、ドイツとの関係は、十月「革命」までのみならず、ブレスト=リトフスク条約、ラパッロ条約から独ソ不可侵協定(・対独「祖国大戦争」)まで、ロシア・ソ連史の重要な対象であるはずだろう。

1928/R・パイプス著ロシア革命・第11章第2節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
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 第2節・ケレンスキーが予期されるボルシェヴィキ蜂起鎮圧への助けをコルニロフに求める。
 (1)8月半ば、ドイツ軍は予期されていたリガに対する攻撃を開始した。
 紀律不十分で政治化していたロシア兵団は後退し、8月20-21日にこの都市を放棄した。
 コルニロフにとって、このことはロシアの戦争行動が切実に再組織されなければならないこと、そうでなければペトログラード自体がやがてリガと同じ運命を味わうだろうことの決定的な証拠だった。
 コルニロフ事件があった雰囲気を理解するには、この軍事的後退を視野の外に置いてはならない。
 現代人は歴史家も、コルニロフとケレンスキーの対立をもっぱら権力闘争として扱ってきたけれども、コルニロフにとってそれはまず第一に、戦争に敗北しないようにロシアを救う、重要であるいは最後かもしれない努力だったからだ。//
 (2)8月半ば、サヴィンコフは信頼できるフランス諜報機関の情報源から、ボルシェヴィキが9月最初に新しい蜂起を計画しているとの情報を受け取った。その情報は8月19日に、日刊紙<Russkoe slovo>に掲載された。(*)
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 (*) 新聞によると(189号、p.3)、これはボルシェヴィキの総力挙げてのものだと政府は考えた。
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 その時期は、最高司令部がドイツの作戦の次の段階が始まり、リガからペトログラードへと前進してくるとと考えた時期と合致していた。(27)
 この情報の源は、知られていない。ボルシェヴィキの資料にはその時期にク-を準備していると示すものは何も存在しないので、誤りだったように見える。
 サヴィンコフは、この情報をケレンスキーに伝えた。
 ケレンスキーは動じなかったように見えた。彼はそのとき、のちと同様に、ボルシェヴィキのクーを自分の対抗者による空想の産物だと考えた。(28)
 しかし、言われるボルシェヴィキ蜂起に関する情報を、コルニロフを弱体化させるための言い分として利用することをすぐに思いついた。
 彼はサヴィンコフに、ただちにモギレフに行ってつぎの任務を果たすように頼んだ。
 1: フィロネンコが報告している、最高司令部での将校による陰謀を消滅させること。
 2: 軍最高司令部の政治部署を廃止すること。
 3: ペトログラードとその近郊をコルニロフの指揮から政府の指揮へと移して、そこに戒厳令を敷くことについて、コルニロフの同意を得ること。および-。
 「4: ペトログラードを戒厳令のもとに置いて臨時政府を全ての攻撃から、とりわけボルシェヴィキによる攻撃から防衛するために、コルニロフ将軍が騎兵軍団を派遣するよう頼むこと。ボルシェヴィキはすでに7月3-5日に反乱を起こし、外国の諜報機関の情報によれば、ドイツ軍の上陸とフィンランドでの蜂起と連結して、もう一度蜂起を準備している。」(29)//
 この第四の任務は、ケレンスキーがのちにはコルニロフが政府を打倒するためにペトログラードに対して騎兵軍団を派遣したと主張し、それは将軍を国家反逆罪によって追及する理由にされることになるので、とくに記憶されつづけるに値する。//
 (3)サヴィンコフのモギレフでの任務の目的は、そこで企てられているとされる反革命陰謀を終わらせ、かつそのようにして、ボルシェヴィキの蜂起に対抗する準備をしているふりをすることだった。
 ケレンスキーはのちに、「最高司令部に対する軍事上の自立性」が欲しかったので、自分の指揮下におく軍事力-すなわち、第三騎兵軍団-を求めた、ということを婉曲的ながら認めた。(30)
 ペトログラード軍事地区をコルニロフの指揮から除外することは、同じ目的に役立つものだった。//
 (4)サヴィンコフは8月22日にモギレフに到着し、24日までそこに滞在した。(31)
 彼はまずコルニロフとの会見から始め、全ての違いを乗り越えて将軍と首相が協力することがきわめて重要だと語った。
 コルニロフは、同意した。ケレンスキーについてその職責からすると弱くて適してもいないと考えてはいたが、彼が必要だった。
 コルニロフは、アレクセイエフ(Alekseev)将軍、プレハノフ(Plekhanov)やA A. アルグノフ(Argunov)のような愛国主義社会主義者を用いて政府の政治的基盤を拡大するようケレンスキーは十分に助言されるされるだろうと付け加えた。
 サヴィンコフはコルニロフの改革提案に話題を転じて、政府はそれに関して行動する用意があると保証し、最終的な改革草案を提示した。
 コルニロフは、軍事委員会やコミサールを残したままだったので、全体としては満足できないものだと考えた。
 これらの改革はすぐに行われるのか?
 サヴィンコフは、ソヴェトからの激しい反応を刺激する怖れがあるので、政府は今のところはまだこれを公にするつもりがない、と反応した。
 彼はコルニロフに、ボルシェヴィキが8月末か9月初めにペトログラードで新しい騒擾を起こすことを計画しているという情報があることを知らせた。軍隊改革の基本方針を早まって発表すると、ボルシェヴィキの即時の蜂起を惹起するだろう、軍隊改革に反対しているソヴェトもまたボルシェヴィキに同調する可能性がある、と言いつつ。//
 (5)サヴィンコフはついで、予期されるボルシェヴィキのクーへの対処方法に関する話題へと移した。
 首相は、ペトログラードとその近郊をペトログラード軍事地区から除外し、直接に自分の指揮のもとに置きたいと考えていた。
 コルニロフはこの要請に不満だった。しかし、従った。
 軍隊改革が提示された場合のソヴェトの反応を誰も予想することはできないので、また、ボルシェヴィキの蜂起が予期されることを考慮してサヴィンコフは、ペトログラードの守備連隊に追加して、信頼できる戦闘軍団を投入するのが望ましい、と続けた。
 彼はコルニロフに、二日以内に第三騎兵軍団をVelikie Luki から、政府の指揮が及ぶことになるペトログラード近接地へと動かすよう要請した。
 このことが行われればすぐに、自分は電報でペトログラードに知らせることになる。
 彼はまた、必要となれば、政府はボルシェヴィキに対する「容赦なき」行為を実行する用意がある、かりにボルシェヴィキに加勢するならばペトログラード・ソヴェトに対しても同様だ、と語った。
 この要請に対して、コルニロフはすぐに同意した。//
 (6)コルニロフはまた、最高司令部の将校たちの同盟に対して、モスクワへと移動するよう要請することに同意した。しかし、政治的部署を廃止することは拒否した。
 彼はさらに、注意を引く最高司令部での全ての反政府陰謀を消滅させることも約束した。
 (7)8月24日朝、ペトログラードへと出発しようとしていたときに、サヴィンコフは、二つの要請を追加した。
 コルニロフがこれらを実行しなかったことをのちにケレンスキーは重視しようとしなかったけれども、サヴィンコフの記録では、ケレンスキー自身がこれらの要請を主導的に行ったことが知られている。(33)
 一つは、第三軍団がペトログラードへと出立する前に、この軍団の司令官を将軍クリモフ(Krymov)が取って代わること。サヴィンコフの意見では、クリモフの評判は「望ましくない事態」を生じさせ得るというものだったが。
 もう一つは、コーカサス出身者にロシアの首都を「解放」させかねないので、土着分団を第三軍団から分離すること。//
 (8)コルニロフはケレンスキーの欺瞞を見抜かなかったのか?
 コルニロフの言葉や行動からは、彼はケレンスキーの指示を額面通りにそのまま理解した、という結論に達するに違いないだろう。ケレンスキーの危惧の本当の対象はボルシェヴィキではなくコルニロフ自身だった、ということに彼は気づかなかった。
 二人が別れを告げていたとき、コルニロフはサヴィンコフに、国家がケレンスキーを必要としているのだからケレンスキーを支えるつもりだ、と保障した。(34)
 欠陥が多々あったとしても、ケレンスキーは真の愛国者であり、そしてコルニロフにとって、愛国的社会主義者は貴重な財産だった。//
 (9)サヴィンコフと別れたのち、コルニロフは、その職責を与える将軍クリモフに対してつぎのような命令を発した。
 「1: 私からまたは現地で直接にボルシェヴィキの蜂起が始まったと連絡を受ければ、遅滞なく軍団をペトログラードへと動かし、ボルシェヴィキの運動に参加するペトログラード守備連隊を武装解除させ、ペトログラードの民衆を武装解除して、ソヴェトを解散させること。
 2: この任務を達成したならば、将軍クリモフは砲弾を装備する一旅団をOranienbaum へと分離すること。そこに到着したあとで、クロンシュタット連隊に対して要塞を武装解除し、中心場所へと移るように命令すること。」(35)
 これら二つの命令は、ケレンスキーの指示を補完するものだった。
 第一のもの-騎兵軍団のペトログラードへの派遣-は、サヴィンコフが口頭でした要請に従っていた。
 第二のもの-クロンシュタットの武装解除-は、8月8日にケレンスキーが発したが履行されなかった命令と、その基本趣旨が一致していた。(36)
 これら二つの任務は、臨時政府をボルシェヴィキから防衛するためのものだとされた。
 コルニロフは、第三騎兵軍団の司令官の地位をクリモフに与えるのを拒否する姿勢を示した、と言われているかもしれない。これを正当化するために、コルニロフはLukomskii に、クリモフでは反乱に対処するのは苛酷すぎるだろうと政府は怖れた、と説明した。しかし、全てが終わってしまったときには、その方が彼には喜ばしいことだっただろう。(37)
 Lukomskii は、サヴィンコフがもたらした指令は一種の罠ではなかったかと、気をめぐらした。コルニロフは「Lukomskii は邪推をしすぎる」と言って、この疑念を却下した。(38)//
 (10)このとき、コルニロフに将校たちが近づいてきて、ペトログラードにはボルシェヴィキ鎮圧を助けるつもりの2000人の軍員がいる、と言った。
 彼らは、その軍員たちを指揮する100人の将校の派遣をコルニロフに要請した。コルニロフは、その人数を派遣すると約束した。
 コルニロフは、8月26日までには全員が準備できる状態になるはずだ、と語った。その日は、予期されるボルシェヴィキ蜂起の時期の最も早い日で、ボルシェヴィキが立ち上がったときにはクリモフが率いる騎兵軍団が接近していて、義勇兵たちがソヴェトの議場のあるスモルニュイ(Smolnyi)を掌握できるはずだった。(39)//
 (11)サヴィンコフは、8月25日にケレンスキーに報告した。ケレンスキーの指令は全て履行されるだろう、と。//
 --------
 (27) N. N. Golovin,<<略>>(Tallin, 1937), p.15.
 (28) ケレンスキー,<Delo>, p.62.
 (29) サヴィンコフの供述書から。<Revoliutsiia>Ⅳ, p.85. 所収。
 (30) Miliukov,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.158.
 (31) サヴィンコフが書き取った会見要領は、つぎに再録されている。Chugaev,<<略>>, p.421-3. コルニロフと二人の将軍が署名している別の要録書は、つぎにある。Katkov,<コルニロフ>, p.176-8. サヴィンコフの回想録である<K. delu Kornilova>, p.20-p.23.
 (32) Miliukov,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.175.; Chugaev,<<略>>, p.422.
 (33) サヴィンコフ, <RS>No.207(1917年9月10日), p.3.
 (34) Miliukov,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.178.
 (35) Miliukov,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.202.によるコルニロフの供述書から引用。<Revoliutsiia>Ⅳ, p.91. 参照。
 (36) Martynov,<コルニロフ>, p.94.; Miliukov,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.202.
 (37) Lukomskii, <<略>>Ⅰ, p.238.
 (38) 同上、p.237-8.
 (39) 同上、p.232.
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 第3節へとつづく。

1927/ロシア革命史に関する英米語文献①。

 Anne Applebaum, Gulag- A History (2003).
 =アン・アプルボーム=川上洸訳・グラーグ―ソ連集中収容所の歴史(白水社、2006年)
 2004年度ピューリツァー賞を受けたらしい、この強制収容所(Gulag)に関する書物は、第一部<グラクの起源-1917-1939>の第一章<ボルシェヴィキの始まり>の冒頭で1917年10月のボルシェヴィキの権力掌握あたりまでを。2頁で素描している。
 その際に参照文献として注記しているのは、つぎの二著だけだった。本文p28.、注p.524.
 右端の頁数は、参照要求される当該文献の頁の範囲。
 ①Richard Pipes, The Russian Revolution 1889-1919 (1990). pp.439-505.
 ②Orland Figes, A People's Tragedy: A History of the Russian Revolution (1996). pp.474-551.
 いずれも、邦訳書はない。後者の<人民の悲劇>は、M・メイリア<ソヴィエトの悲劇>(邦訳書あり。草思社・白須英子訳、1997年)と少し紛らわしい。
 以上については、すでにこの欄に、より簡単には書いたことがある。
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 2017年のロシア・十月革命「100周年」の年に、英米語文献としては少なくともつぎの三つの著がロシア革命に関する「通史」的なものとして新しく刊行された。
 右端の頁数は、索引等を含めての総頁数。
 A/S. A. Smith, Russia in Revolution: An Empire in Crisis, 1890 to 1928 (2017). 計455頁。
 B/Sean McMeekin, The Russian Revolution: A New History (2017). 計445頁。
 C/China Miéville, October: The Story of the Russian Revolution (2017). 計369頁。
 いずれもまだ、邦訳書はないと見られる。
 上の二つは専門の研究者によるものだ。
 最後のものはそうではなさそうだが、しかし、多数の文献を読んで参照していることは分かる。なお、このChina Miéville の本は本文(序などを除き)計10章で、第1章は1917年前史、第10章は「赤い十月」、そして残りの2 章以降はそれぞれ2月、3月、…を扱っていて、表向きはきわめて読みやすそうだ(内容はほとんど見ていない)。
 China Miéville は「さらなる読書」のために、以下の「通史」文献以外に50ほどにのぼる文献(論文・記事類ではない)を挙げる。
 「通史(General Histoties)」として挙げられる9の文献を刊行年の古い順に変えて紹介すると、つぎのとおり。同一の著者の書物が二件以上挙げられている場合もある。
 ①Leon Trotsky, History of the Russian Revolution (1930).
 ②Victor Serge, Year One of the Russian Revolution (1930).
 ③Willam Henry Chamberlin, The Russian Revolution 1917-1921 (1935).
 ④E. H. Carr, The Russian Revolution, 1917-1923, 1-3.vols (1950-53).
 ⑤Tsuyoshi Hasegawa, The February Revolution, Petrograd: 1917 (1981).
 ⑥Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 ⑦Alexander Rabinovich, Prelude to Revolution: The Petrograd Bolsheviks and the July 1917 Uprising (1991),+ The Bolsheviks Come to Power (2004).
 ⑧Orland Figes, A People's Tragedy (1996).
 ⑨Sheila Fitzpatrick, The Russian Revolution (2ed edition), (2008).
 以上
 ⑨の第4版(2017)が、この欄で最近まで「試訳」していたもの。2017年だったからこそ、新版にしたのだろう。
 上で興味深いのは、冒頭でも言及した、二つの著、つまりRichard Pipes とOrland Figes の著が⑥と⑧でやはり挙げられていることだ。
 その対象や範囲を考慮すると、邦訳書が早くからある初期のトロツキーやE. H. カーよりは新しいこれらの邦訳書が存在しないことは、いかにも日本らしい気もする。⑨も、邦訳書がない。
 山内昌之がたぶん歴史(世界史?)関係の重要な何冊かを挙げて紹介する新書版の本で、ロシア革命についてはE. H. カーのものを挙げてきたが、トロツキーのものに変更したとか、書いていた(山内昌之・歴史学の名著30(ちくま新書、2007))。
 日本共産党の不破哲三・志位和夫がロシア革命に関連して肯定的に名を挙げるE. H. カーの本は、山内によるとどうも不満があるらしい。今日の英米語圏でもベストとはされていないようで、明確に批判する論者もある。執筆当時に存在した表向きの(これも程度があるが)資料・史料だけ使って「実証的に」叙述しただけでは、結局は「現実を変えた」または「現実になった」者たちや事象を<追認>し、<正当化>するだけに終わる可能性のあることは-日本の「明治維新」についてもそうだが-留意されてよいだろう。
 元に戻ると、上のCは背表紙の下に「VERSO」と横書きで打たれていて「VERSO」なる叢書の一つのようでもあるが、「VERSO」は出版元の「New Left Books(新左翼出版社)」のImprint だとされている(原書の冒頭近く)。
 よくは知らないが、その「新左翼」に引っかかって上の各著に対するChina Miéville のコメントを読むと、明らかに、⑥R・パイプスと⑨S・フィツパトリクのものには批判的な部分がある。例えば-。
 ⑥について-「左翼に対する敵意」、「ボルシェヴィキ恐怖症(-フォビア)」、…。
 ⑨について-<レーニン→スターリン>「不可避主義者」、…。
 これら自体興味深く、この二人の著が少なくとも一部に与える印象も理解できるところがある。
 しかし、それよりもさらに興味深いのは、この二人の著をChina Miéville も、きちんと列挙している、ということだろう。
 R・パイプス、O・ファイジズ、S・フィツパトリクの<ロシア革命本>は、今日の英米語圏では、どのような政治的立場を現在にとるのであれ、ロシア革命に関する、ほとんど<must read>のあるいは「鉄板」の書物になっているのではないか。
 ひるがえって、やはり日本のことを考える。日本の学界や「知的」活動分野について、考える。
 日本でいう「左翼」とは何か、「リベラル」とは何か。<ロシア革命>はとっくに過去の事象で、これらと何の関係もない、今日では関心の対象にならないものなのか?
 日本の国会議員を堂々と有する政党の中に、ほとんど直接に「ロシア革命」と関係がありそうな党はなかっただろうか。はて。

1924/R・パイプス・ロシア革命(1990)第11章第1節②。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990)
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
 なお、著者(R・パイプス)はアメリカで存命だったA・ケレンスキー(1881-1970)に直接に会って、インタビューしている。
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 第1節・コルニロフが最高司令官に任命される②。
 (10)Boris Savinkov (B・サヴィンコフ)は、軍事省の部長代行で、ケレンスキーとコルニロフの二人の信頼を得ていたため、仲介者としての役割を果たすには理想的にふさわしい人物だった。彼は、8月初めにつぎを求める四項目の案を起草した。すなわち、後方兵団への死刑の拡大、鉄道輸送の軍事化、軍需産業への戒厳令の適用、〔ソヴェトの〕軍事委員会の権限の縮小に対応する将校の紀律権限の回復。(8)
 彼によると、ケレンスキーは文書に署名すると約束したが、それを引き延ばし続け、8月8日に、「いかなる状況にあっても、後方部隊への死刑については署名しない」と彼に言った。(9)
 コルニロフは欺されたと感じて、ケレンスキーに「最後通牒」を突きつけた。これがケレンスキーを憤激させ、コルニロフをほとんど解任しそうになった。(10)
 ケレンスキーが軍隊の再活性化に強い関心を持っているのを知って以降、コルニロフはケレンスキーの不作為によって、首相は自由な人間ではなく社会主義者たちの道具にすぎないという疑念を持たざるをえなかった。社会主義者たちのうちの何人かは、七月蜂起以降、敵と通じていると言われていた。
 (11)コルニロフの執拗な要求は、ケレンスキーを困難な状態に追い込んだ。
 ケレンスキーは5月以降、何とか政府とイスパルコムの間に股がってきた。立法に関するイスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕の拒否権に譲歩してそれが離反しないようにし、他方では同時に、力強く戦争を遂行して、リベラル派や穏健な保守派すらの支持を得ることによって。
 コルニロフは、ケレンスキーが是非とも避けたいと願っていること-つまり左翼と右翼のいずれかを、国際的社会主義の利益とロシア国家の利益のいずれかを、選択すること-をするように首相に迫った。
 ケレンスキーは幻想のもとにいることはできなかった。すなわち、多くは合理的だと考えていたコルニロフの要求に応じるのは、ソヴェトとの決裂を意味するだろう。
 ソヴェトの会議は8月18日、ボルシェヴィキの動議にもとづき、軍隊へ死刑を復活させる案について議論した。
 この案は事実上の満場一致で、すなわち4人(ツェレテリ、ダン、M. I. Liber、チェハイゼ)の反対に対するおよそ850人の賛成で、前線部隊への死刑の適用を拒否する決議を採択した。それの適用は、「司令幕僚たちに対する奴隷にする目的でもって兵士大衆に恐怖を与えようとする手段だ」として。(11)
 明白なことだが、戦闘地域にいない後方の兵団に対して死刑を拡大することにソヴェトが同意することはあり得なかった。防衛産業や輸送の労働者たちに軍事紀律を課すことについては、言うまでもない。//
 (12)理論的には、ケレンスキーはソヴェトに対抗して、リベラル派と保守派に運命を委ねることも考えられ得ただろう。
 しかし、とくに六月攻勢の失敗と七月蜂起に対する優柔不断な対応の後でこれらの社会勢力が彼に抱いている低い評価を考えると、ケレンスキーがこれを選択する可能性はあらかじめすでに排除されていた。
 8月14日のモスクワの国家会議にケレンスキーが姿を現したとき、彼は左翼側によってのみ強く称賛された。右翼側は石のごとき沈黙でもって迎えた。彼らが拍手喝采を浴びせたのは、コルニロフに対してだった。(12) 
 リベラル派と保守派のプレスは、包み隠さすことのない侮蔑をもってケレンスキーに触れていた。
 したがって彼には、左翼側を選択する以外の余地はなかった。イスパルコムの社会主義知識人たちに従順でありつつ、一方では確信と成功の見込みは減っていても、ロシアの国家利益を推進しようとしながら。//
 (13)ケレンスキーが左翼側と宥和したかったのは、約束した軍隊改革をしなかったことのみならず、ボルシェヴィキに対して断固たる措置をとらなかったことでも明らかだった。
 彼は大量の証拠を手にしてはいたけれども、イスパルコムとソヴェトに遠慮して七月蜂起の指導者たちを訴追しなかった。彼らは、ボルシェヴィキの責任を追及するのは「反革命的」だと考えていた。
 ケレンスキーは、右翼と左翼の両方の戦争遂行「妨害者」に保護されるべきとの軍事省からの提案に反応して、これと類似した先入観をもっていることを示した。
 彼は、右翼側の逮捕されるべき者の名簿を承認した。しかし、別の名簿が届けられたときには躊躇を示した。そして、結局は半分以上の名前を除外したのだった。
 それらの文書が、連署が必要な内務大臣でエスエルのN. D. Avksentiv に届いたとき、彼は最初の名簿を再確認したが、第二の名簿からは2名(トロツキーとコロンタイ)以外の全ての者の名前を削除した。(13) //
 (14)ケレンスキーは、民主主義的ロシアを指導すると運命づけられていると自認する、きわめて野心的な人物だった。
 この野心を実現する唯一の方法は、民主主義的左翼-すなわちメンシェヴィキとエスエル-の主張を管掌することだった。そして、そうするためには、その左翼がもつ「反革命」という強迫観念を分かち持たなければならなかった。
 彼は、コルニロフのうちに全ての反民主主義勢力が集中したものを見たのみならず、そう見る必要があった。
 ボルシェヴィキが4月、6月そして7月の武装「示威行動」で何を意図していたのかをよく知っており、またレーニンやトロツキーが将来に企てていることを容易に理解したけれども、ケレンスキーは、ロシアの民主主義は左翼からの危険ではなく右翼からの危険に直面していると、自らを納得させた。
 知識がなかったわけでも知的精神をもっていなかったわけでもなかったので、彼のこのような馬鹿げた評価は、それが彼には政治的にふさわしかったという前提でのみ、意味があることになる。
 コルニロフにロシアのボナパルトの役を割り当てて、ケレンスキーは無批判に-じつは進んで-、コルニロフの友人や支持者たちが巨大な反革命の陰謀を企てているという風聞に反応した。(14)
 (15)軍隊改革が実行されないままで、貴重な日々が過ぎ去った。
 コルニロフは、ドイツがまもなく軍事攻勢を再開しようとしていると知り、また事態を動かすことを意図して、内閣と会うことの許可を求めた。
 彼は8月3日に、首都に着いた。
 大臣たちに挨拶をして、彼は軍隊の状態の概略を述べ始めた。
 コルニロフは、軍隊の改革に関して議論したかった。しかし、サヴィンコフが軍事省がその問題に取り組んでいると言って、遮った。
 コルニロフはそのあと、前線の状況に話題を変えて、ドイツとオーストリアに対して準備している軍事行動について報告した。
 この時点で、ケレンスキーはコルニロフに寄りかかって囁いて、注意するように求めた。(15) 一瞬のちに、同様の警告がサヴィンコフからもあった。
 この出来事によって、コルニロフと彼の臨時政府に対する態度が、動揺した。
 彼はこのことに何度も言及して、その後の彼の行動を正当化するものだとした。
 彼はケレンスキーとサヴィンコフの警告を正しく解釈していたので、一人のまたは別の大臣は軍事機密を漏洩する疑いがあった。
 モギレフに戻ったときコルニロフは、衝撃を受けた状態のままで、Lukomskii に起きたことを語り、いかなる性格の政府がロシアを動かしていると考えるかと尋ねた。(16)
 彼は、自分が警告された大臣はチェルノフだと結論づけた。チェルノフは、ボルシェヴィキを含むソヴェトの仲間たちに秘密情報を伝えていると信じられていた。(17)
この日以降、コルニロフは臨時政府を国家と国民を率いるに値しない、と見なした。(*)
 --------
 (*) 政府は忠誠心のない者やおそらくは敵の工作員に惑わされているとの彼の確信は、彼がこの時期に政府に提出した秘密のメモ文書がプレスに漏れたことで強められた。
 左翼のプレスは抜粋版を発行し、コルニロフに反対する運動を開始した。悪口のキャンペーンだった。Martynov <コルニロフ>, p.48.
 ---------
(16)この出来事からほどなくして(8月6日又は7日に)、コルニロフは、第三騎兵軍団の司令官である将軍クリモフ(A. M. Krymov)に、その兵団をルーマニア地域から北方へ動かすよう命令した。そして、別の軍団を投入し、西部ロシアの大雑把にはモスクワとペトログラードと等距離にある都市のVelikie Luki で位置を整えるよう命じた。
 第三軍団は、二つのコサック分団とコーカサスからのいわゆる土着(または粗雑)分団で構成されていた。いずれも人員不足だったが(土着分団には1350人しかいなかった)、頼りになると見なされた。
 こうした命令に当惑して、Lukomskii は、これらの勢力をドイツ戦に用いるのだとするとVelikie Luki は前線から遠すぎる、と指摘した。
 コルニロフは答えて、モスクワかペトログラードのいずれかで発生する可能性が潜在的にあるボルシェヴィキの蜂起を鎮圧するための場所に軍団はいて欲しいと語った。
 彼はLukomskii に対し、臨時政府に対抗するつもりはない、だが必要だと分かれば、クリモフの兵団がソヴェトを解散し、その指導者たちを吊し、ボルシェヴィキを-政府の同意があってもなくても-簡単に片付ける、と付け加えた。(18)
 彼はまたLukomskii に、ロシアは国家とその軍隊を救うことのできる「確固たる権威」を絶望的にだが必要としている、と語った。
 つぎは、コルニロフの文章だ。
 「私は反革命家ではない。<中略>私は旧来の統治体制の形態が嫌いだ。それは私の家族を手酷く扱った。過去に戻ることはない。決して、あり得ない。
 しかし、我々は、本当にロシアを救うことのできる権威を必要としている。その権威は、戦争を栄誉をもって終わらせることを可能にし、立憲会議〔憲法制定会議〕へとロシアを指導するだろう。<中略>
 我々の現在の政府には、しっかりした個人はいるが、事態を、ロシアを、破滅させる者もいる。
 重要なことは、ロシアには権威がなく、そのような政府が設立されなければならないということだ。
 おそらくは私は、そのような圧力を政府に対してかけることになるはずだ。
 かりにペトログラードで騒擾が勃発すれば、それが鎮圧された後で私は政府に入り、新しい、強い権威の形成に参加しなければならないだろう。」(19)//
 (17)ケレンスキーがコルニロフに対して一度ならず自分も「強い権威」に賛成だと言っていたのを聞いていたので、Lukomskii は、コルニロフと首相は困難なく協力するはずだ、と結論した。(20)
 コルニロフはサヴィンコフの要請に応じて8月10日にペトログラードに戻った。しかしこれは、首相の望みには反していた。
 ケレンスキーの生命を狙う試みに関する風聞を聞いて、彼はTekke の護衛団とともに到着し、護衛団はケレンスキーの事務所の外側に機関銃を積み上げた。
 ケレンスキーは内閣全員と会いたいとのコルニロフの要請を拒否した。そしてその代わりに、顧問団であるNekresov とTereshenko が同席して、彼を迎えた。
 将軍の非常時意識は、ドイツが軍事攻勢をリガの近くで開始し、首都の脅威になりそうだ、という知識にもとづいていた。
 彼は改革の問題に話題を転じた。外国勢力のために働くロシア人に対する死刑も含めての、前線および後方での紀律の回復、および防衛産業や輸送の軍事化だった。
 ケレンスキーは、コルニロフが望んだことの多く、とくに防衛産業と輸送に関しては「馬鹿げている」と考えた。しかし、軍隊の紀律を強化することを拒否することはなかった。
 コルニロフは首相に、自分はまさに解任されそうで、軍での騒擾を刺激しそうな行動をしないように「助言されている」ということを分かっている、と言った。(22)
 (18)4日後、コルニロフは国家会議にあっと言わせる登場の仕方をした。その会議はケレンスキーがモスクワに国民の支持を集めるべく招集したものだった。
 まず最初に、ケレンスキーは会議で挨拶するのを許可せよとのコルニロフの要請を拒否した。しかし、軍事問題に限定するという条件つきで、容赦した。
 コルニロフがボリショイ劇場に着いたとき、彼は喝采を受け、群衆によって持ち上げられた。
 右翼の議員たちは、騒がしい歓迎の仕方で迎えた。
 むしろ素っ気ない演説でコルニロフは、政府の政治的な打撃になると解釈され得るものは何も語らなかった。ケレンスキーにとっては、この事態が、分岐点だった。すなわち彼は、将軍に対する共感を示すことはケレンスキーへの個人的な侮蔑だと解釈したのだ。
 ケレンスキーののちの証言によると、「モスクワ会議の後で、つぎの攻撃の試みは右翼から来るだろう、左翼からではない、ということは自分には明瞭だった」。(23)
 このような確信が彼の心の裡にいったん定着してしまうと、それは<固定観念(idée fixe)>になった。
 のちに起こることは全て、それを強化するのに役立つだけになる。
 右翼のクーが進行中だとの彼の確信は、将校たちや一般市民からの電信で強まった。それらは、コルニロフをその職のままにとどめておくことを求めるもので、また幕僚将校たちによる陰謀の軍事的中心部からの内密の警告だった。(24)
 保守派のプレスは、ケレンスキーとその内閣に対する連続的な批判を開始した。
 典型的だったのは右翼<Novoe vremia>の編集部で、ロシアを救う鍵は最高司令官の権威を疑いなく受容することだ、と主張した。(25)
 コルニロフがこの政治的キャンペーンを使嗾したという、いかなる証拠も存在しなかった。しかし、それを受け取る側には、彼は疑念の対象になった。//
 (19)冷静に観察すれば、司令官たる将軍への共感が高まるのは、ケレンスキーへの不満の表現であって、「反革命」の兆候ではなかった。
 国家は、しっかりとした権威の存在を切に必要としていた。
 しかし、社会主義者たちは、この雰囲気を敏感に気づくことはなかった。
 実際の政治ではなく歴史を詩文的に見て、社会主義者たちは保守派(「ボナパルティスト」)の反動は不可避だと堅く信じていた。(*)
 --------
 (*) 著者〔R・パイプス〕との私的な会話でケレンスキーは、彼の1917年の行動はフランス革命の教訓に強く影響されていたことを認めた。
 --------
 8月24-25日、何かがたまたまにでもそれを正当化する前に、社会主義派のプレスが反革命の存在を告げた。8月25日、メンシェヴィキの<Novaia zhizn>は、「陰謀」との見出しのもとに、真っ最中だ、政府が少なくともボルシェヴィキに対して示したのと同じだけの情熱をもってこれと闘うよう希望を表明する、と発表した。(26)
 かくして、筋書き(plot)は書かれた。
 残るのは、主人公を見つけることだった。//
 --------
 (8) Boris Savinkov <K delu Kornilova>(Paris, 1919), p.13-14.
 (9) 同上、p.15. P. N. Miliukov <Istoriia <以下略>>(Sofoia, 1921), p.105.
 (10)ケレンスキー<Delo>p.23. Savinkov <K delu>p.15-16. Miliukov <Istoriia>Ⅰ, Pt.2, p.99.
 (11) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.69-70.
 (12) 同上、p.54.
 (13) Savinkov <K delu>p.15.
 (14) ケレンスキー<Delo>p.56-57. 同<Catastrophe>p.318.
 (15) Savinkov <K delu>p.12-13. Geprge Katkov <コルニロフ事件>(London-New York, 1980), p.54.
 (16) A. S. Lukomskii, <<略>>(Berlin, 1922), p.227.
 (17) Katkov <コルニロフ事件>, p.170.
 (18) Lukomskii, <<略>>, p.228, p.232.
 (19) Chuganov, <<略>>, p.429.
 (20) 同上、p.429-430.
 (21) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.37-38. Lukomskii, <<略>>Ⅰ, p.224-5.
 (22) Miliukov <Istoriia>Ⅰ, Pt.2, p.107-8. Trubetakoi<<略>>No.8(1917年10月4日)所収。Martynov <コルニロフ>p.53が引用。
 (23) ケレンスキー<Delo>p.81. Gippius, <Siniaia kniga>p.164-5.
 (24) ケレンスキー<Delo>p.56-57.
 (25) <DN>No.135(1917年8月24日), p.1 に引用。
 (26) <NZh>No.110(1917年8月25日), p.1.
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 第2節へとつづく。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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