秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ロシア革命

2899/R.Pipes1990年著—第16章⑧。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第三節/食糧徴発政策と都市の飢餓④。
 (16) ボルシェヴィキの中には、このような方法を支持する者もいた。
 国家計画委員会の長のRykov は、強制的な穀物配送と、村落協同組合や私的企業との協力を結び付けることを主張した(注46)。
 別の者たちは、政府が市場価格に近い価格(最低で1pud 60ルーブル)で購入し、国民に割引して販売することを提案した。
 しかし、これら全ては、政治的理由で、却下された。
 メンシェヴィキの<Socialist Coulier>が説明することになるように(注48)、穀物の国家独占は、共産主義者独裁が生き残るには必要不可欠だった。ボルシェヴィキは大量の村落労働者を統制外に置いていたので、穀物生産を支配することに頼らざるを得なかった。
 実際に、この資料によると、1921年の初めまでにボルシェヴィキは、農民を国家の被用者にするというOsinsky の提案について、討議していた。この国家被用者は、あらかじめ当局が決めた土地に種を播き、余剰の全てを国家に引き渡す、という条件のもとでのみ土地の耕作が認められることになる。
 但し、この提案は、Kronstadt 暴乱の発生と新経済政策の採用によって、棚上げされざるを得なかった。
 かりに穀物の取引が自由になっていれば、農民はすぐに富を蓄積し、より大きい経済的自立性を獲得し、かつ深刻な「反革命」の脅威を示していただろう。
 このような危険性を含む措置は、体制が疑いなくロシアを征圧したあとでのみ採られることができた。
 レーニンの政府は、国家権力を保持するために必要であるならば。数百万分人の生命を犠牲にする飢饉に、国を委ねる心づもりでいた。
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 (17) 政治的現実はこうであったので、ボルシェヴィキが1918年の前半に食糧事情を改善しようと執った全ての経済的措置は、役に立たなかった。
 ボルシェヴィキは布令を発しつづけた。食料の収集と配送の過程を修正するか、食料「投機者」を威嚇するかのいずれかだった。
 ボルシェヴィキは執拗に、食料「投機者」を、食料不足の結果ではない、最も過酷な制裁を課すべき原因だと見なした。
 このような布令の中で最も見当違いだったのは、レーニンが1917年12月末に草案を作成した布令だった。レーニンは、こう書いた。
 「食料供給の危機的状況、投機を原因とする飢饉の危険、資本家や官僚層の妨害行為、広く覆う混沌が必要とするのは、悪魔と闘う革命的な非常措置だ。」
 しかし、この「措置」は食料不足とは何の関係もなかった。そうではなく、ロシアの銀行の国有化とロシア政府の国内および国外債務の不履行の宣言を内容としていた(脚注)
 Alexander Tsiurupa によれば、供給人民委員部の1300人の職員のストライキはボルシェヴィキ独裁に抗議するもので、仕事を知らない官僚たちと交替させされたために、状況をいっそう悪化させた(注49)。
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 (脚注) Dekrety, I, p.227-8. これの最後に発せられた版では、財政措置についてのレーニンの怪しい理由づけは、割愛された(p.230).その馬鹿々々さをレーニンですら知ったように見える。
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 (18) ボルシェヴィキは穀物の国家独占を放棄するつもりがなく、当時のプレスが予見していた飢饉を防止するための措置をいっさい何も執らなかった。
 国内の危機に直面した帝制時代のように、官僚機構の改造や手続の変更に頼った。
 これらは彼らが本当に関心をもつ問題に直面した際に採用したものではなかったので、飢餓は彼らの関心対象に含まれないとの結論から脱するのは困難だった。
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 (19) 2月13日、トロツキーが、供給非常委員会の長に任命された。
 彼の任務は、「供給独裁者」として、革命的な非常措置によって都市への食料の流路を整えることだった。この場合に「革命的」とは、婉曲に軍事力の行使を意味していた(注50)。
 しかし、彼が戦時大臣に任命されていたとき、ほとんど責任を負わなかった。供給非常委員会で彼が何かをしたとの記録は、残っていない。
 体制は、国じゅうに、飢えているペテログラードとモスクワを助けよとの訴えを発しつづけた(注51)。国内および外国の「ブルジョアジー」が食料不足の責任があるとする激しい非難で彩られた訴えだった。
 1918年2月、政府は、「運び屋」に対する死刑を命じた(注52)。
 3月25日には、交換の助けで村落地域から食料を引き出そうと試みた。
 政府は、200万トンの穀物と交換に消費用品を購入するために、11億6000万ルーブル—ソヴィエトの出版業の産額の二週間分—を計上した(注53)。
 しかし、この計画が想定する消費用品を見つけることができなかったので、この企ては失敗した。
 4月、現実主義に多少は似た考えから引き出して。政府は、余剰がある地域から穀物を運ぶ新しい鉄道線路を建設する計画を立てた(注54)。
 だが、1メートルの線路も敷かれなかった。かりに敷設されていても、何の違いにもならなかっただろう。
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 (20) 1918年5月の初めまでに、ボルシェヴィキは食料不足の解消のためにもう何もすることができなかった。都市部や工業地域での供給の状況は、警告を発する段階にまで達していたからだ。
 最も多い配給を受けていた労働者たちが飢えてきている、と報告する電報が、クレムリンにどっと届いた(注55)。
 ペテログラードで、1月には自由市場で5ルーブルだった一塊の1ポンド・パンは、今では6〜12ルーブルを要した(注56)。
 何かがなされる必要があった。
 専門家は主張し、工業労働者が要求したのは、穀物の取引を市場の力の自由な働きに委ねることだったが、これは政治的理由で、受け入れ難かった。したがって、別の解決方策を見出す必要があった。
 解決策は、軍事力を用いて村落を侵略し、征圧することだった。
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 第三節、終わり。第四節「村落への軍事作戦の開始・1918年5月」へ。

2898/R.Pipes1990年著—第16章⑦。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第三節/食糧徴発政策と都市の飢餓③。
 (13) 1918年前半の村落地域の写真を当時のプレスが掲載しているが、それは救いようのない恐怖だ。
 Riazanskaia zhizn’ の3月初めの記事は、Riazan の食料不足はとくに酷かったので、代表的だとは言えないかもしれない。しかし、ロシアの村落がボルシェヴィキによる支配のもとで急速に劣悪化し、原始的アナーキーへ突入したことを示している。
 この地方の農民たちは、政府の酒類店舗から強奪し、長らく泥酔の状態にあった。
 彼らは老人や少女たちに助けられて、酒を飲んで大騒ぎをしつつ、闘い合った。
 静かにさせておくため、子どもたちにはウォッカが無理に与えられた。
 没収あるいはインフレによって貯蓄を失うのを怖れて、通常はブラックジャックで夢中になって賭けをした。ふつうの1人のmuzhik が一晩で1000ルーブルを失うのは、珍しくなかった。
 「老人は、最後の審判の絵を買う。
 農民たちは、心の奥深くで、『世界の終わり』は近い、と信じた。…
 そして、地獄が来る前に、地上に存在し、努力して最近に築かれたもの全てが、破壊されつつある。
 彼らは全ての物を粉砕したので、騒音が地区じゅうに鳴り響く。」(注42)
 食料事情がとくに絶望的な地帯では、農民は「飢餓騒乱」を展開し、視野に入る全ての物を破壊した。
 Novgorod 地方の一地区でのそのような騒乱のあとで、地方の共産党当局は、1万2000人の住民に対して、450万ルーブルの「寄付」を命じた。農民たちはまるで、征服された植民地の原住民であるかのごとくに(注43)。
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 (14) 飢餓は危険をもたらした。しかし、ボルシェヴィキの立場から見ると、積極的な面もあった。
 第一に、食料取引に関する国家独占は。食料供給のためには有害だったとしても、体制が配給制度を保持し続けるのを可能にした。配給制度は、都市住民を統制し、体制支持者を有利に扱うのに役立った。
 第二に、飢餓は住民の意気を沈滞させ、抵抗する意思を奪った。
 飢餓の心理学というものは、よく知られていない。だが、ロシアの観察者たちは、飢餓は民衆を権威ある当局により従う気持ちにさせる、と記した。
 あるボルシェヴィキはこう観察した。
 「飢餓は、創造性の貧しい同伴者だ。
 盲目的破壊性、陰鬱な恐怖、屈服したい気分、連れて行き組織してくれる誰かに運命を委ねたい気持ち、これらを飢餓は掻き立てる。」(注44)
 飢えている者たちは、かりに闘うことができも、食料を求めてお互いに競い合うことに活力を費やした。
 このような政治的無関心は、政治的抑圧以上に、従属性を高めるのに役立つ。
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 (15) ボルシェヴィキは、飢餓がもたらす政治的利益に気づいていた。このことは、唯一の実現可能な方法で飢餓から救うことを彼らは拒んだことで、証明されている。その方法とは、のちにロシアを支配する自信を得た1921年に採用することになる方法、すなわち穀物の自由市場の再導入だ。
 この措置が実施されるとすぐに、生産は増大し、戦争前の高さを回復した。
 これが実施されるだろうというのは、後知恵でのみ分かるのではない。
 1918年5月、穀物専門家のS. D. Rozenkrants はジノヴィエフに対して、食料不足は「投機」によってではなく生産する動機の欠如によって起きている、と説明した。
 穀物の国家独占のもとでは、農民は、自分たち自身の直近の必要以上に穀物を栽培する動機をもたなかった。
 余剰の耕作地に根菜類(じゃがいも、にんじん、ビート)を植えて自由市場に出すことで、それは当局も認めたことだったが、農民はそれらの処理に関してかつて知っていた以上の金銭を稼いだ。
 このようにすれば自由市場で根菜類1pud当たり100ルーブルを得られた。1desiastina の耕作地で5万〜6万ルーブルを稼いだ。
 馬鹿げた固定価格で国家に没収させるだけのために、いったい誰が穀物に手を煩わせるだろうか?
 Rozenkrants は、もし政府がより事業経営的感覚をもつ政策を採用すれば、食料問題は二ヶ月で解決するだろう、と自信をもって表明した(注45)。
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 ④につづく。

2896/R.Pipes1990年著—第16章⑥。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第三節/食糧徴発政策と都市の飢餓②。
 (07) ブレスト=リトフスク条約の結果として、ロシアは、従前は穀物類の三分の一以上を国に供給していたウクライナを失った。また、1918年6月にはチェコスロヴァキア軍団の反乱がシベリアへの途を切断した。これらをさらに認めるならば、1918年半ばに中央および北部ロシアの住民を襲った悲劇的な状況が、明確になる。
 全ての都市と工業中心地、および生産が少ない、あるいは成長途上の家内工業のある多数の村落は、飢えに苦しみ、かりに天候が悪化すれば厄災的な飢饉の可能性がほとんど確実に見込まれる事態に直面した。
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 (08) ボルシェヴィキにとって、この状況は、危険であるとともに、好機だった。
 都市部と工業地域での飢餓は不満を掻き立て、ボルシェヴィキの政治基盤を奪った。
 1918年、ロシアの都市部では、食料不足を原因とする騒擾が恒常的に起きた。
 状況はペテログラードではとくに破壊的で、1918年1月後半には、毎日の配給は、麦藁の粉を混ぜた4オンスのパンだった(注33)。
 これだけの配給では生活を維持できなかったので、住民は自由市場に頼らなければならなかった。そこでの価格は、食料行商人に対するチェカの嫌がらせによって、人為的に高くされていた。
 自由市場では、パンの価格は1ポンド当たり2ルーブルと5ルーブル超の間で揺れ動いた。この価格では、かりに幸運に雇用されていても、一月に多くて300-400ルーブルを稼ぐにすぎない労働者の手には届かなかった(注34)。
 1918年の1年間、ペテログラードでのパン配給量は、数日ごとに上下した。武装した逃亡者や待ち伏せる農民の攻撃を受ける列車の供給量に依存していたからだ。攻撃者が警護者の力を上回れば、彼らはすぐに列車の内部を剥ぎ取った。そして、列車は空でペテログラードに到着した。
 3月にペテログラードでのパン配給は、僅かに上がって6オンスになり、4月末には2オンスまで落ちた。
 地方の諸都市でも、状況は変わらなかった。
 例えばKalugaでは、1918年初頭の毎日の配給割当量は、5オンスに設定されていた(注35)。
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 (09) 飢えを回避するために、住民は群れをなして都市部から逃亡した。逃亡者の中には、戦時中は防衛産業で働き、軍を除隊された者もいた。
 当時の統計資料は、ペテログラードの人口の劇的な減少を示している。すなわち、1917年1月にペテログラードで雇用されていた工業労働者の60パーセント(36.5万人のうち22.1万人)が、1918年4月までに村落地域へと逃亡した(注36)。
 ほとんど同じ割合の逃亡が、モスクワでも起きた。
 革命と内戦のあいだに、モスクワは人口の二分の一を失い、ペテログラードは三分の二を失った(注37)。これは、ロシアの都市化傾向を劇的に逆転させ、その田園的性格を強めた(脚注)。
 ロシアの統計学者は、こう推算している。1917年と1920年の間に、88万4000世帯の家庭、あるいは500万人が、地方に向かって都市部を捨てた(注38)。
 この数は、戦争中に都市部へと移住した農民の数(600万人)にほとんど匹敵している。
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 (10) 残った者たちは、食料不足について、不満を言い、示威活動をし、ときには騒動を起こした。
 下層の男女は、飢餓に狂乱し、食料倉庫や店舗から略奪した。
 新聞紙は、「パンをよこせ!」と叫びながら街頭を駆け抜ける主婦たちに関する報告を掲載した。
 並み外れた価額を要求する行商者たちは、リンチに遭う危険があった。
 多くの都市は、外部者を排除する条例を制定した。
 ペテログラードは、厳格に封印された。レーニンは、1918年2月に、非居住者が首都やロシア北部の一定の地域に入ることを禁止する布令に署名した。
 その他の諸都市も、同様の命令を採択した(注39)。
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 (11) 飢餓と無法の雰囲気の中で、都市部では犯罪が増加した。
 警察の記録は、ペテログラードの住民による報告数についてこう示している。ボルシェヴィキによる支配の三ヶ月め、住居侵入1万5600件、店舗略奪9370件、スリ20万3801件、殺人125件(注40)。
 どの程度の犯罪数が報告されなかったのかは、定かでない。だが、きわめて多数だったはずだ。当時は、通常の強盗犯罪が「収用」を実施するとの言い分のもとで行なわれるのは普通だったからだ。そうした犯罪の犠牲者は、恐怖に怯えて報告できなかった。
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 (12) 村落地域もまた、無法で覆われていた。
 若干の地方(Voronezh等)では、食料は豊富だった。その他の地方(Riazan等)では、絶望的に不足していた。ある地区には十分な余剰があるが、その近傍の諸地区は飢餓に瀕している、ということは珍しくなかった。
 通常は、余剰をもつ者は、自由市場で売却するか、穀物の国家独占は終わるだろうと期待して貯蔵するかのどちらかだった。
 慈善活動は、知られていなかった。十分な食料のある農民は、飢えた者に与えるのを拒んだ。乞い求める者がやってくれば、追い払った(注41)。
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 ③へとつづく。

2894/R.Pipes1990年著—第16章⑤。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第三節/食糧徴発政策と都市の飢餓①。
 (01) 革命の経済的社会的推移は、こうして、ボルシェヴィキが最初から直面していた諸問題を悪化させた。
 ボルシェヴィキはすでに圧倒的に「プチ・ブルジョア」である国で「プロレタリアートの独裁」を宣言したのみならず、彼らの政策をいっそうその方向に向けた。
 政府は1918年の初夏に村落を攻撃する決定を下した背景には、以上のことがあった。
 この決定がなされた正確な事情は知られていないが、利用可能な情報は十分で、その先例と内容について概述することは不可能でない。
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 (02) 十月のクーの場合もそうだったように、ボルシェヴィキは、村落地帯への攻撃を開始するに際して、偽りの目標を掲げて行動した。
 彼らの本当の目的は、農民層を支配することによって十月のクーを完了させることだった。
 しかし、これは知られるスローガンにはならなかっただろうから、ボルシェヴィキは農民層に対する実力行使を伴なう運動(campaign)を、飢えている都市部のために「クラク」〔富農〕から徴発する、という表向きの目的でもって、実行した。
 もちろん、食料不足はきわめて現実的な問題だった。しかし、後述するように、村落地帯から供給を引き出す、容易で効果的な方法があった。
 ボルシェヴィキ内部の議論では、権限ある機関は率直に、食料徴発は副次的な仕事だ、と認めていた。
 こうして、ボルシェヴィキの秘密報告書は、全ての村落に貧民委員会を設置することを命じる布令に言及して、採られるべき措置を、つぎのように説明した。
 「村落の貧民委員会の組織化に関する7月11日の布令は、組織化の性格を明確にし、それに供給するという役割を与えた。
 しかし、その本当の目的は、<純粋に政治的>だ。
 村落での階層化を実現すること、この層に積極的な政治生活を送らせること。この層はプロレタリア社会主義革命に適合しそれを実現するする能力をもつ。また、村落ソヴェトの支配権を握って、ソヴィエトの社会主義建設に反対する機関に変えている、そのようなクラクや豊かな農民の経済的社会的影響力から自由にすることで中間的勤労農民をこの途へと導くことすらできる。」(注30)
 言い換えると、都市部のための食料の摘出(「供給という役割」)は、社会的憎悪に火をつけてボルシェヴィキを村落に送り込む、という政治的活動を覆い隠す偽装(camouflage)だった。
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 (03) 革命前のロシアでは、市場に届く大量の食料は、大規模の私的な土地と富裕な農民の農場のいずれかから来ていた。いずれも、労働者を雇用していた。
 中間のおよび貧しい農民は、生産する食料のほとんど全てを自分たちで消費した。
 全ての貴族の土地や農民が私的所有物として保持した土地の多くが没収され、村落共同体に配分された。これは政府が雇用労働を禁止したことで(広範囲で無視されたとしても)いっそう進められた。そして、村落共同体への土地配分は、非農業国民への食料の主要な供給源を奪い去った。
 田園地帯のロシアが自己充足的な前資本主義時代に移行するに伴ない、非農業国民は飢餓に直面した。
 このことだけで、ボルシェヴィキのクーの後で起きた過酷な食料不足に寄与した(脚注1)
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 (脚注1) かつて私的に所有された農業用地の約三分の一—耕作されている土地面積の3.2パーセント—は主として「技術的」文化に用いられた大規模不動産だったが、国家が運営する集団農場のために奪い取られた。それらは、理論的には、都市部での食料不足を緩和するのを助けることができただろう。しかし、その在庫は地方の農民によって奪われていたので、できたとしても、ほとんど助けにならなかった。
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 (04) このような逆境にあっても、農民は都市住民に食糧を供給できていたかもしれない。主な理由がどのように見えようとも、ボルシェヴィキが、農民から余剰を手放すという気持ちを奪わなかったならば。
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 (05) 臨時政府が採択してボルシェヴィキが維持した数少ない措置の一つは、1917年3月25日の法律(law)だった。これは、穀物取引の国家独占を定めていた。
 この法律の条項によると、生産者が個人的な需要を充足し、種として備えたあとで残った全ての穀物は国家に帰属し、固定の価格で国家機関に売却されなければならなかった。
 引き渡されなかった余剰の穀物は、半額で徴発された。
 臨時政府はこうして収穫の14.5パーセントを獲得した。だが、そうであっても、臨時政府に権力があるあいだは、穀物取引は従前どおりに行なわれた。
 しかし、ボルシェヴィキは、この規則をいっそう無慈悲に実施し、穀物やその産物を消費者に販売する行為全てを、厳格な制裁に服すべき「投機」として扱った。
 ボルシェヴィキ支配の最初の数ヶ月、チェカはその活動のほとんどを、「運び屋」農民(meshochmiki)を追及し、彼らの商品を没収することに費やした。チェカはときには、行商する農民を投獄し、処刑すらした。
 妨害されなければ、農民たちは続行し、数百万人に食糧を与えた。
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 (06) ボルシェヴィキ政府は、農民が余剰の穀物を、インフレによっていっそう馬鹿げたものになっている価格で政府機関に売却するよう、強く要求した。
 1918年8月に公定価格は、ライ麦1pud(16.3キログラム)当たり(地域によって異なり)14〜18ルーブルと設定された。一方、自由市場では、1pud 当たりモスクワで290ルーブル、ペテログラードで420ルーブルで売れていた(脚注2)
 1919年1月に統制下に入った肉やジャガイモのようなその他の食品についても、公定価格と自由市場の価格には同様の乖離があった。
 農民たちは、このような価格政策に対して、穀物を隠蔵するか、耕作地の面積を少なくすることで抵抗した。
 穀物の収穫量が低下したのは、しごく当然のことだった(注32)。
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 (脚注2) Kabanov, Krest’ianskoe khoziaistvo, p.159. 生産物に対してこのような非現実的な価額を受け取った農民たちは、毎日少なくなっている工業製品(マッチ、釘、灯油等)を自由市場の価格で購入しなければならなかった。
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 ②へとつづく。

2893/R.Pipes1990年著—第16章④。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第二節/農民が1917-1918年に得たもの·失ったもの③。
 (13) レーニンの土地布令は、「ふつうの農民およびふつうのコサック」の所持物を収用から除外した。
 しかし、中央ロシアの多数の区域で、共同体の農民はこの条項を無視して、地主の持つ土地とともに仲間の農民に帰属する土地を奪うにまで進んだ。そして、それらを配分のための村落共同体の貯え地にした。
 <khutora>と<otruba>のいずれも、農民によるこの奪取の中に含まれた。また、Stolypin の立法を利用して村落共同体から離脱した耕作者の、かつての共同体の土地も含んでいた(脚注1)
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 (脚注1) <otruba>は、共同体用の細片土地と混ぜられた割当土地のことだった。<khutora>は、分離した農場をいう。いずれも、私的財産として所持された。
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 結果として、すぐさま、農民たちはStolypin の農業改革の成果の多くを消滅させた。村落共同体の原理が、それ以前の全てを一掃したのだ。
 共同体の農民は、その構成員が共同体の外部から購入した土地を同じように取り扱った。このような土地も、村落共同体の留保分に追加された。
 あちこちで、村落共同体は、その割当土地の大きさまで狭くするという条件で、その財産を農民たちに委ねた。集団化の直前の1927年1月、ロシア共和国(RSFSR)にある農地の2億3300万<desiatiny>のうち、2億2200万、あるいは95.3パーセントは、共同体が所持していた。そして、800万、あるいは3.4パーセントだけが、<otr uba>または<khutora>として、つまり、私的財産として所持されていた(注24)。
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 (14) このような事実を見ると、ロシアの農民層は、無償で、大量の農地を革命から獲得した、と言うのは、誤解を招くものだ。
 得たものは、寛容でも、無料でもなかった。
 ロシアの農民層を同質のものとして扱うことはできない。「ロシアの農民層」という言葉は、数百万の個人を覆い隠す抽象的なものだ。
 個々の農民の中には、勤勉、節約、事業感覚の力で資本を蓄積するのに成功した者もいた。この資本は現金で所持されるか、または土地に投資された。
 この全ての現金とほとんど全ての土地を、彼らは今や失った。
 こうした要因を考慮すると、共産党が支援するduvan のもとで獲得した財産のために、muzhik は過大な支払いをした、ということが明らかだ。
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 (15) 農業革命は、農民をより平等にした。
 1917-18年にロシアで行なわれた大分配で、村落共同体は、標準よりも大きかった保有物を減らした。割当土地を分配するため共同体の主要な規準は、家族ごとの edoki または「食べる者」の数だったので。
 このような方法を採ることによって、広い割当土地(4 desiatiny 以上)をもつ家族の数は、ほとんど三分の一にまで(30.9から21.2パーセントへと)減った。一方で、4 desiatiny 未満だけを保有する家族の数は顕著に増加した(57.6から72.2パーセントへ)(脚注2)
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 (脚注2) Gerasimiuk, ISSSR, No. 1(1965), p.100; O zemle: sbornik statei, I(1921), p.25 は、若干異なる数字を示す。大規模な所持の減少は、ある程度は、核家族が増えたことによる、共同家族の解体の加速によった。核家族は19世紀遅くにすでに始まっていたが、ボルシェヴィキの土地政策がそれを促進した。農民は没収された資産の配分に加わりたいと考えるが、家族の長であれば最善を尽くすことができるからだ。
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 この数字が示すのは、「中間農民」の数のかなりの上昇が起きた、ということだ。この層の数の上昇は、土地の豊かな農民の数の減少と、従前は土地を持たなかった農民に割当土地が与えられたことによって、生じた。土地を持たない農民の数は、ほとんど半分に減った(注25)。
 このような平準化の結果として、ロシアは、かつて以上に、小農民たち、自己充足的農民たちの国になった。
 当時のある者は、革命後のロシアを、「小さな商品生産者が…分割された土地を平等に管理し、規模がおおよそ同等の小区画の網を形成することを成し遂げた、ハチの巣」になぞらえた(注26)。
 マルクス主義の専門用語での「中間農民(中農)」—労働力を雇用せず、自らのそれを売りもしない者—が、農業革命の最大の受益者として出現した。これは、ボルシェヴィキが承認するには時間を要した事実だ。
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 (16) もちろん、誰もが黒の大分配から利益を得たのではなかった。それの主要な受益者は、1917年にすでに共同体の割当土地を持ち、村落共同体の集会を支配した者たちだった。
 1917年と1918年に割当土地を求めて都市部から村落へと流れるように戻っていた農民の多数は、再配分から排除されなかったし、標準以下の土地を受け入れるのを強いられることもなかった。同じことは、無収入を終わらせた土地を持たない農民(batraki)の半数についても言えた。
 暮らし向きのよい農民たちは、ボルシェヴィキ当局の意向を、無視した(注27)。当局は、土地社会化布令によって、村落ソヴェトに対して土地を持たないまたは土地の少ない農民への特別の配慮を示すよう指示したのだったが。
 ロシアには要するに、「社会化」という名のもとで要求する全員に標準的な規模の土地を与える、十分な農地がなかった。
 その結果として、土地を持たないまたは土地の乏しい村落共同体の農民は、せいぜい小さな割当土地しか得られなかった(注28)。
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 (17) ロシア革命は、村落共同体を歴史的な遠い地点まで運んだ。逆説的に言えば、ボルシェヴィキが農民を軽蔑していたとしても、村落共同体に黄金時代をもたらしたのは、ボルシェヴィキだった。
 「この数十年のあいだ削り取られてきた共同体は、国の事実上は全ての農業用地の上で花咲いた」(注29)。
 これは、ボルシェヴィキがただちには反対しなかった自然発生的な過程だった。反対しなかったのは、村落共同体はボルシェヴィキのために帝制時代と同じ機能を果たしたからだ。—すなわち、国家への義務を遂行するのを保障すること。
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 ③終わり。つぎの第三節へ。

2892/R.Pipes1990年著—第16章③。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき、
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 第二節/農民が1917-18年に得たもの·失ったもの②。
 (08) しかし、この少ない数字ですら、配分からの利益を過大評価していた。
農民が1917-18年に得た土地のかなりの部分(3分の2)は、彼らは以前から賃借りしていたからだ。
 したがって、土地の「社会化」は、地代の支払いを免除したほどには、利用できる耕作可能地を増加させなかった(注17)。
 一年で7億ルーブルと推算されている地代支払いの免除に加えて、共産党体制によって、農民土地銀行への債務も農民たちは取消された。それで得た利益は、140万ルーブルに昇った(注18)。
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 (09) 農民たちは土地への新しい権利を懐疑的に見ていた。新政府はいずれ集団制を導入するつもりだ、と聞いていたからだ。1918年4月に発せられた土地の社会化に関する布令は、村落共同体への土地の移行は「暫定的」または「一時的」(vremennoe)だと述べていた。
 農民たちはいつまで所持し続けることができるかと懸念し、まるで翌年の収穫が終わるまでのように行動することに決めた。
 そのゆえに、村落共同体が獲得した土地を一括するのではなく、別々に維持した。新しい土地の引き渡しが要求されても、彼ら自身の古くからの割当土地を保持できるようにするためだった(脚注1)
 その結果として、嘆かわれもした細片農業(strip farming, cherespolositsa)は増大した。
 多くの農民たちが、新しい割当土地に行くために、15、30、そして60キロメーターも、移動しなければならなった。その距離があまりに大きすぎれば、彼らは単直にその割当土地を放棄した。
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 (脚注1) 1918年10月から1920年11月までTambov 地方の村落に住んだある知識人によると、農民たちは、皇帝によって与えられたのではないがゆえに、獲得した土地が本当に彼らのものであるかを疑っていた。A. L. Okni nskii, Dva goda sredi krest’ian(Riga, 1936), p.27. 得た土地を分け与えることが強要された場合、貧しい農民に割当てられた土地がそれに使われた。
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 (10) ロシアの農民が革命に由来して得た経済的利益について、述べた。
 彼らは、決して自由ではなかった。
 歴史家たちは、農業革命が農民にもたらした代価を、通常は無視する。それは相当に大きかったと言えるにもかかわらず。
 この代価には、二つの性格があった。第一は、インフレによる貯えの喪失。第二は、農民に(村落共同体のではなく)私的所有権があるとして所持していた土地の喪失。
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 (11) ロシアの農民層は、革命以前に、相当の貯えを蓄積してきた。そのいくぶんかを家で所持し、残りを国立貯蓄銀行(sberegatel’nye kassy)に預けた。
 こうした貯蓄は、農民が高騰する食糧価格から利益を得た幸運な戦時と革命の第一年のあいだに、相当に大きくなった。
 十月のクーのときに農民の貯蓄がいかほどだったかを正確に計算することは不可能だ。
 だが、伝えられる推算を補完するものとしての公式の資料から、若干の考えが生じる。
 1914年の初めに、国立貯蓄銀行は、15億5000万ルーブルを預かっていた(注21)。
 1914年7月と1917年十月の間に、50億ルーブルを追加した、と推計され、かつ、これのうち60-75パーセントは村落の預金者に由来すると考えられている(注22)。
 十月のクーの時点で、農民は、貯蓄銀行におよそ50億ルーブルを預けていたと推計し得る。これに、家庭で所持していた金銭が加えられなければならない。
 ボルシェヴィキは、民間銀行を国有化する布令の対象から貯蓄銀行を除外した。そのために理論上は、農民その他の小預金者は、自分たちの金銭を出し入れすることができた。
 しかし、ほどなくして、インフレが預金を無価値にした。まるで完全な没収があったごとくに。
 前の章で述べたように、ボルシェヴィキは、貨幣の価値を下げることを意図的にかつ体系的に進めた。彼らが支配した最初の5年間で、ルーブルの購買力は、100万分の1に下落した。このことで、紙幣はただの色が付いた紙になった。
 この結果として、ロシアの農民たちは、地主の土地を無料で受け取った以上にはるかに、犠牲を払った。
 農民たちは、使用することが認められた2100万<desiatiny>の代わりに、銀行預金だけで推計で50億ルーブルを失った(脚注2)
 現金を家の中に隠したり、地中に埋めたりして加えて70-80億を持っていた、との当時の推計を受け入れるとしても、1エーカーの耕作可能地(0.4 desiatiny)という平均的な割当土地の代わりに、農民たちは、1918年以前の64.4ルーブルを支払っていた。
 革命前、この土地の平均的価格は、64.4ルーブルだっただろう(脚注3)
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 (脚注2) 戦前のルーブルは金0.87グラムの価値があったので、この貯蓄で3900トンの金塊を購入できただろう。
 (脚注3) 1906年〜1915年に土地銀行が地主から購入した資産には、平均して、1 desiatina 当たり161ルーブルを要した。P. I. Liashchenko, Istoriia narodnogo khoziaistva SSSR, II, 3rd ed.(Leningrad, 1952), p.270. 農民家庭内の貯蓄の推計は、つぎによる。NZh, No. 56/271(1918年3月31日), p.2.
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 (12) 農民たちが新しい割当土地を得るためには、もうひとつの態様の犠牲を払わなければならなかった。
 ロシアでの私的に所有された土地について語るとき、土地布令が没収と配分の対象として指定した地主(landlord,pomeshchiki)、帝室、商人の土地を思い浮かべがちだ。
 しかし、革命前のロシアでの私的な農業用地(耕作地、森林、牧草地)の多く(三分の一以上)は、農民層の財産だった。それらは個人によって、またはより通常は団体によって、所持されていた。
 実際に、革命の直前には、農民とコサックたちが「地主」とほとんど同じ広さの土地を保有していた。
 1915年1月のヨーロッパ・ロシアでの土地(耕作地、森林地、牧場)である9770万<desiatiny>のうち、3900万、あるいは39.5パーセントは地主(貴族、官僚、将校)が、3400万(34.8パーセント)は農民とコサックたちが所持していた(注23)。
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 ③へとつづく。

2891/R.Pipes1990年著—第16章②。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第16章・村落への戦争>の試訳のつづき。
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 第二節/農民が1917-18年に得たもの·失ったもの①。
 (01) ボルシェヴィキによる村落への攻撃の成功と失敗を理解するためには、ロシアの村落経済への革命の影響を考えることが必要だ。
 以前に記述したように、ボルシェヴィキは1917年十月に、自らの農業綱領は傍に置いて、土地の国有化に集中した。それは農民層にもっと人気があったエスエルの土地綱領を支持していたからでもあった。エスエルの土地綱領は、補償なしでの土地の収用、小農民の帰属資産を除く、私的に所持された全ての土地の村落共同体への配分、を訴えていた。
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 (02) 中央ロシアの農民たちが土地布令を歓迎したことに、争いはない。それは、彼らの古くからの夢だった「黒の分配」を実現するものだった。
 私的な所持物が取り去られそうだったがゆえに迷っていた農民たちですら、避け難いこととして従った。
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 (03) しかし、このような基本的に煽動的で戦術的な措置がロシア農民の経済的地位を有意義に改善したのか、あるいは国全体の利益になったのかは、全く別の問題だ。
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 (04) 動かない客体である土地は、もちろん、たまたま存在している場所でのみ分配され得る。
 革命前のロシアでは、土地布令によれば収用の対象となる大量の私的な(非村落共同体の)土地は中央の大ロシア地域にではなく、帝国の周縁部に位置していた。前者はボルシェヴィキが支配しており、人口過剰の影響を最も受けていた。後者はBaltic 地域、西部地方、ウクライナ、北コーカサスで、これら全てが1917年十月以降はボルシェヴィキの支配から外れていた。
 その結果として、ボルシェヴィキ支配地域で分配可能な土地がある部分は、農民の期待を充足するには相当に不足していた。
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 (05) しかし、この地域でも、農民は奪取した土地を外部者(inogorodnye)にも近隣の村落共同体出身の農民にも分け与えることを拒んだので、公正な土地の配分を行なうのは困難だった。
 以下は、土地の配分が実際にどのように行なわれたかを示す、当時の文章だ。
 「農業問題は、単純な方法で解決することができる。
 地主が持つ土地の全体は、村落共同体の財産になる。
 全ての村落共同体は、従前の地主から土地を受け取る。そして、かりにある共同体には多すぎ、近隣の共同体には不足しているとしても、いかなる外部者にも、一片なりとも譲り渡さない。…
 (余剰の)土地があれば、別の村落共同体出身の農民の手に移るのでないかぎり、元の地主に譲る方をむしろ選ぶ。
 農民たちは、地主はその土地を使用するかぎりはなおも何がしかを稼ぐことができ、必要となれば土地を手放すだろう、と言う。」(注09)
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 (06) ロシアの農民層が1917-18年に耕作可能な土地をどの程度獲得したのかを決定するのは、容易でない。見積りの幅は広く、小さくて2000万から大きくて1億5000万<desiatiny>〔土地面積の単位—試訳者〕に及ぶ(注10)。
 大きな障害は、「土地」(zemlia)という言葉の曖昧な使用方法にある。
 革命後に行なわれた種々の統計調査で採用されているように、「土地」はきわめて異なる物を指し示している。耕作可能な土地(pashnia)というのが最も有益な使用方法だが、しかし、牧草地、森林、経済的価値のない土地(荒野、沼地、ツンドラ)も指し示していることがある。
 1億5000万<desiatiny>という狂信的な数字に辿り着くことができる、というのは、「土地」という意味のない項目の中に以上のような雑多な対象を一まとめにすることにすぎない。
 この1億5000万という数字は1936年に初めてスターリンによって採用され、長らく、共産主義の文献上は拘束的だった。革命の結果としてロシアの農民が獲得した、と主張されている(注11)。
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 (07) 信頼できる統計資料は、はるかに穏便な結果を示している。
 1919-20年に農業人民委員部が編集した数字が示しているのは、農民たちは全部で2115万<desiatiny>(2327万ヘクタール)を受け取った、ということだ(注12)。
 この土地は、きわめて不公平に分配された。
 ロシアの村落共同体の53パーセントは、革命によっていかなる土地も獲得しなかった(注13)。
 これはほとんど、村落数(54%)に対応している。同じ資料元によると、これらの村落は土地の再配分の結果について、「不幸だ」と感じた、と言ったという(注14)。
 村落のうち残る47パーセントは、きわめて不平等な分け前で、耕作可能な土地を獲得した。
 数字が存在する34の地方のうち、6地方の村落共同体は、一人当たり10分の1<desiatiny>以下しか受け取らなかった。
 12地方の村落共同体は、10分の1から4分の1を得た。
 9地方では、4分の1から2分の1を得た。
 4地方の農民たちは、2分の1から1<desiatina>を得た。
 残る3地方でのみ、農民たちは一人当たり1から2を得た(注15)。
 全国的には、農民一人当たりの平均的な耕作可能土地の共同体への配分は、革命前は1.87であったところ、2.26<desiatiny>へと上がった(注16)。
 これは、成人(edok)一人当たりの耕作可能土地が0.4<desiatina>または23.7パーセント増加したことを示しているだろう。
 最初に1921年に引用されたこの数字は、最近の研究で確認されてきている。
 その中で最も権威のある研究は、いくぶんか曖昧に、平均的な農民が受け取ったのは0.4<desiatina>を「超えなかった」、おおよそ1エーカーだった、と述べている(脚注)。この数字は、黒の大分配から農民が期待したよりもはるかに少なかった。
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 (脚注) V. R. Gerasimiuk, ISSSR, No. 1(1965), p.100. V. P. Danilov, Pereraspredelenie zemel’nogo fonda Rossii(Moscow, 1979), p.283-7 〔引用元省略—試訳者〕は、革命の結果として農民の所持分は増加した、と言う。しかし、この数字からは、集団農場やその他のソヴィエト農場が取得した土地を控除しなければならない。19世紀後半の急進的知識人は、農民たちは黒の大分配によって5から15 desiatiny を得られると望んでいる、という農民の声を収集した。V. L. Debagorii-Mokrievich, Vospominaniia(St. Petersburg, 1906), p.137.および、G. I. Uspenskii, Sobranie Sochinenii, V(Moscow, 1956), p.130.
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 第二節・②へとつづく。

2890/R.Pipes1990年著—第16章①。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳。
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 第16章・
 1918年春まで、村落共同体は、二月革命以降に手にした資産をその構成員に分配した。
 その後の分配は、ほとんどなかった。動員解除された兵士や遅れて到着した工業労働者たちは、土地割当てを稀にしか受けることがなかった。
 しかし、奪取した土地を平穏裡に享有することができると期待した農民たちは、やがて間違っていたと知った。
 ボルシェヴィキにとっては、1917-18年の「大分配」(Grand Partition)は、集団化への迂回路にすぎなかった。
 ボルシェヴィキは、農民たちが自分たちの消費と播種用に必要とする量以上の穀物は国家のものだとするかつての勅令を依り所として、収穫物についての権利を主張した。
 穀物についての自由市場は、廃止された。
 農民たちは、予期していなかった状況の変化に当惑し、その資産を守るために激しく戦った。暴乱となって立ち上がったのだが、それは、数と領域の点で、帝制ロシアで見られたものを超えていた。
 だが、ほとんど役に立たなかった。
 農民たちは、「強奪する」と「強奪される」はたんに同じ動詞の異なる様態にすぎないことを知るようになった。
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 第16章・第一節/農民を階級敵とするボルシェヴィキの見方。
 (01) 十月のクー・デタの最大のパラドクスは、おそらく、一国での「プロレタリアートの独裁」を確立するためにそれが追求されながら、労働者(自己使用の職人を含む)は有給の被用者のせいぜい10パーセントを構成するだけで、十分に80パーセントは農民だったことだ。
 そして、社会民主党の見方では、農民層—土地のない農業労働者という少数者を除く—は、「ブルジョアジー」の一部であり、そのような者として、「プロレタリアート」の階級敵だった。
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 (02) 自己雇用の(または「中間の」)農民の階級的性格の認識は、社会民主党と社会革命党の間で一致していない中核的問題だった。後者の社会革命党は、「勤労者」(toilers)として工業労働者に随行する農民と位置づけた。
 しかしながら、マルクスは、農民を労働者の階級敵、「古い社会の防波堤」と定義した(注01)。
 カール・カウツキーは、農民層の目標は社会主義のそれとは反対だ、と主張した(注02)。
 1896年に社会主義インター大会で提起された農業問題に関する声明で、ロシア社会民主党代表団は、農民は社会主義思想に閉ざされた遅れた階層で、放っておくのがよい、と述べた(注03)。
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 (03) レーニンも、このような評価に賛成だった。
 1902年に、こう書いていた。
 「小生産者で小耕作者の階級は、<反動的>階級だ」(注04)。
 しかし、彼は、何らかの理由で現状に不満をもっている全ての集団と階級を革命の過程へ引き込むという彼の一般的な政策方針に沿って、「プロレタリア」の教条を助ける「プチ・ブルジョア」の農民層を許容した。
 この点で—戦術の問題にすぎないのだが—、レーニンは他の社会民主党員と違っていた。
 レーニンは、ロシアの村落は大部分はまだ「封建的」関係に支配されている、と想定した。
 農民層がこのような秩序と闘うかぎりでは、「進歩的」役割を果たした。
 「我々は、完璧で無条件の、改革的ではない革命的な、農奴制の残存の廃止と破壊を要求する。
 我々は、地主政府が奪い取って彼らを今日まで事実上の農奴制のもとに置き続けている土地は農民のものだ、と承認する。
 このようにして、我々は、—例外を設け、特殊な歴史的状勢を理由として—小資産者の擁護者になる。
 しかし、我々は、『旧体制』を残存させるものに対する闘争のかぎりでのみ、農民層を防衛する。…」(注05)
 レーニンが1917年にエスエルの土地綱領を採用し、ロシアの農民に私的に所持している土地を奪い取るよう勇気づけたのは、このような純粋に戦術的な考慮からだった。
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 (04) しかし、この戦術の目的—「旧体制」と「ブルジョア」継承者の崩壊—が達成されると、レーニンから見れば、農民層は、「プチ・ブルジョア」反革命という伝統的役割へと立ち戻った。
 反動的な農民の海で溺れている、ロシアでの「プロレタリア」革命の危険性が、ロシアの社会民主主義者に強迫観念を植え付けた。彼らは、フランスの農民層がとくに1871年に都市の急進主義を抑圧したような役割を、ロシアの農民層が果たしている、と意識していた。
 可能なかぎり早く西側の産業諸国に革命を拡散しようとするボルシェヴィキの強い主張は、相当な程度で、このような運命に陥るのを避けたいという思いでもって掻き立てられていた。
 農民を土地の永続的な所持者の地位に置いたままにすることは、都市部への食糧供給者、革命の要塞として管理するのと同じことを意味した。
 レーニンは、ヨーロッパの諸革命は「村落ブルジョアジー」を排除しなかったがゆえに失敗した、と記した(注06)。
 より狂信的なレーニン支持者の何人かにとっては、レーニンがエンゲルスに従って同盟者と見なそうとした土地を所持しない村落プロレタリアですら、信頼することができなかった。彼らもまた、結局は農民だった。—つまり、潜在的には、クラク〔富農〕だった(注07)。
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 (05) レーニンは、歴史を繰り返させない、という気でいた。
 彼が西側での革命の勃発を強く当てにしても、彼が支配することのできない外国での情勢発展にロシアの革命を依存させようとはしなかった。
 彼は、ソヴィエト・ロシアでの農民問題を熟慮して、二段階の解決方法を考えた。
 長期的には、唯一の満足し得る結果は、集団化だった。—すなわち、全ての土地と生産物の国家による収奪および農民の賃労働者への移行。
 この措置だけが、共産主義という目標と最初に権力に到達したという社会的現実のあいだの矛盾を解消するだろう。
 レーニンは、1917年の土地布令とボルシェヴィキが十月後に導入したその他の農業上の措置を一時的で便宜的なものと見なした。
 情勢が許すかぎりで速やかに、村落共同体は土地を剥奪され、国家が運営する集合体に変わるだろう(脚注)。
 この長期の目標には、何ら秘密がなかった。
 1918年と1919年の多くの場合に、ソヴィエト当局は、集団化は不可避だと確認した。1918年11月の<prauda>の一記事は、体制がそうできるようになると、「中間農民」は「叫んで蹴飛ばす」(volcha i ogryzaias)集団農業へと引き摺り込まれるだろう、と予見した(注08)。
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 (06) そのときまで、レーニンの考えでは、1. 厳格に実施される穀物取引の独占による、食糧供給への国家統制を主張すること、2. 村落地域に共産主義者の権力基盤を導入すること、が必要だった。
 これらの目標を達成するために要求されたのは、村落への戦争に他ならなかった。
 ボルシェヴィキはこの戦争を、1918年夏に開始した。
 農民層に対する活動は—西側の歴史文献では事実上無視されているが—、ボルシェヴィキによるロシアの征圧の、最も重要な段階だ。
 レーニン自身が、農民との闘争が村落反革命を防止し、西側の先行者と違って、ロシア革命が中途で終わって「反動」へと後退することを阻止するだろう、と信じていた。
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 第二節へとつづく。 

2889/R.Pipes1990年著—第15章㉑。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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 第15章・第10節/戦時共産主義の結果。
 (01) のちに戦時共産主義と名づけられた政策は、かつてない頂上にまで経済力を高めるために企図された。それは、市場の力を排除して、生産と分配を完全に合理化しようとする、そのときまで存在しなかったきわめて野心的な試みだった。
 はたしてそれは、想定した結果を生み出したのか?
 明らかに、そうでなかった。
 この政策の最も狂信的な擁護者ですら、実験の3年後には ソヴィエト経済は滅茶苦茶になったと、認めざるを得なかった。
 体制が感知し得る全てを急速に国有化するにつれて、違法な自由市場は膨張し、ロシアの富として残っていたものを吸収してしまいそうだった。
 そしてまた、吸収できるものは大して多く残っていなかった。
 1920年のロシアの国民総収入は、1913年のそれの33〜40パーセントだった。
 その頃までに労働者の生活水準は、戦前のそれの三分の一へと劣悪化した(注152)。
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 (02) 事実は、争う余地のないものだ。しかし、その解釈は異なる。
 左翼共産主義者や他の即時の社会主義化を支持する者たちは、自分たちが生んだ破綻のど真ん中で、切迫している飢餓の見通しに直面しながら、失敗を認めるのを拒んだ。
 1920年に公表した論文で、ブハーリンは、ソヴィエト経済の崩壊を、勝ち誇って語った。
 彼の見方では、破壊されているのは「資本主義」の遺産だ。彼は誇ってこう語る。「このような大災害はかつては起きなかった」。それは全て、「歴史的に不可避で、歴史的に必要だった」。
 マルクス主義の術語で満ちた彼の書物には、ソヴィエト・ロシアの経済の実際の状態に関する、いかなる事実も、いかなる統計その他の資料も含まれていなかった。
 事実は、元凶は「資本主義」ではなく「ボルシェヴィズム」だということを、示していただろう(脚注)
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 (脚注) N. Bukharin, Ekonomika Perekhodnogo perioda, Pt. 1(Moscow, 1920), p.5-6, p.48. 経験的データを提示するとされた第二部は、出版されなかった。
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 (03) その他の共産主義者たちは、経済の厄災的状態の原因を、私的部門の残存に見た。
 彼らは決まって、部分的な国有化の条件では社会主義は達成させられない、と主張してきた。そして今でも正当だと感じていた。問題は、政府があまりに急速に社会主義を押し進めたことにあるのではなく、押し進め方が不十分だったことにある。
 このような考え方で戦時共産主義を擁護する典型的な主張は、まさにそれが放棄されようとしている1921年初頭に<prauda>に現れた。
 著者のV. Frumkin は、ソヴィエト経済の欠陥を、「その機構全体が、我々の階級敵であるブルジョアとプチ・ブルジョアの手にある」ことに求めた。
 この欠陥は「経済の前線にいる赤色司令官たちの、十分に大きな隊列」の形成によってのみ克服することができる。
 彼はこの任務は「多少とも遠い将来にある」ものと見ていた(注153)。
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 (04) もっと真っ当な頭脳のもち主は、1918-20年の社会主義の実験の失敗についての責任は全く別として、「資本主義」がこのような実験をもともと可能にしたのだ、と認識していた。
 本質的には、戦時共産主義のもとでのボルシェヴィキは、ブルジョア・ロシアが蓄積していた人的および物質的な資産で何とか生きてきた。
 しかし、これらには限界があった。
 1920年の夏に主導的なロシアの経済新聞紙に発表された分析は、こう結論づけた。
 「我々は、資本主義ロシアから遺贈された重要な資源や原料を完全に消費し尽くした。
 したがって今後は、我々自身の現在の生産から、全ての経済的利益を獲得なければならない。」(注154)
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 (05) この課題は、1921年の春に、新経済政策のもとで採用されることになる。すなわち、レーニンの元来の「国家資本主義」という観念に範をとった、継続期間は不確定の移行期。
 この期間に、政府は政治権力を維持しつつも、国の経済力を回復させる中で私的企業に限定的な役割を認めることになる。
 この期間に、「経済の前線にいる赤色司令官たち」の隊列が用意されることになった。
 生産力が十分に回復し、人員も利用可能な状態になると、新しい攻撃が着手されることになった。階級敵である「ブルジョア」と「プチ・ブルジョア」を廃絶し、真剣に社会主義の建設へと進むための新しい攻撃だ。
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 第15章、終わり。第16章は、<村落への戦争>。

2887/R.Pipes1990年著—第15章⑳。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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 第15章・第九節/労働組合政策②。
 (06) 大会が労働組合に注意を向けたとき、メンシェヴィキはボルシェヴィキと袂を分かった。
 メンシェヴィキは最大の全国的労働組合のいくつかから強い支持を受けていたので、自立した労働組合という考え方に賛成だった。
 ボルシェヴィキは、労働組合は「生産を組織」し、「疲弊している国の経済力を再生 」させるために国家の機関、その代理者として奉仕すべきだ、と主張した。
 労働組合の任務の中には、労働をするという普遍的な義務を履行させることがある。
 ボルシェヴィキの決議案にはこうあった。
 「大会は、労働組合は必ずや社会主義国家の機関へと改変されるだろう、と確信する」。
 「労働組合の国家当局機関との完全な融合の全過程(いわゆる<ogosudarstvleniia>の過程)は、これら両者の合同の緊密した調和ある活動と、国家装置および経済に責任をもつ全ての機関を指揮するという任務のための広範な労働者大衆の労働組合による鍛錬の完璧に不可避の結果として、起きなければならない」(注145)。
 これは、ロシアの歴史的伝統ときわめてよく合致していた。国家は早晩に、ときにはそれら自身が主導して独立した自治的団体として形成された全ての諸機構を、自らのうちに吸収し、従属させる、という伝統とだ。
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 (07) 個々の工場委員会は全ロシア労働者支配会議に従う、次いでこの会議は諸労働組合とそれらの大会に説明責任を負う、労働組合の本来の役割は「社会主義国家の機関」として奉仕することだ、と布令されると、工場委員会の運命は、覆い隠された。
 第1回労働組合大会のあとの労働者支配機構の歴史は、容赦のない下降だった。すなわち、一つずつ、縮小し、衰退し、死んだ。
 労働者の全権幹部会の全国的な網を作ろうとする1918年春の運動は失敗したが、これは、運動の最後の喘ぎだった。
 1919年までに、工場委員会とそれによる労働者支配は、記憶の中の存在になった。
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 (08) 労働組合について述べると、その権威が内戦時に頂点近くに達したり政府が労働紀律の施行のために頼るに至ったりしたことがなくとも、その影響力を増大させた。
 党は、労働組合官僚を任命する権利をますますもつようになり、党官僚が是認しない、選挙された役員を追放した(注146)。
 1919年と1920年には、国家と党の諸決議は、労働組合は国民経済を作動させるのを助けているという基本的原則を、口先だけで依然として述べていた。
 しかし、実際にはその頃、労働組合の主要な任務は、政府の諸指令の伝達者として寄与することだった。
 これは、トロツキーが1920年4月に、労働組合の役割をつぎのように明確に語ったことだった。
 「建設途上の社会主義国家では、労働組合は、労働条件の改善にむけて闘うために必要とされるのではない。労働条件の改善は、社会的政治的諸組織全体の任務だ。
 そうではなく、生産目的のために労働者階級を組織するために必要とされる。つまり、教育し、訓練し、割当て、寄せ集め、一定の期間ごとの彼らの仕事を個々の範疇の労働者群や個々の労働者に与えるためにだ。
 ひとことで言うと、政府と連携して、権威をもって、労働者たちを単一の経済計画の枠組みの中へと送り込むためにだ。」(注147)
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 (09) 労働組合は、短命の工場委員会よりも、噛み砕くには固い胡桃だった。すなわち、内戦後の1919-20年に、選挙で選出された役員を党が指名した官僚で置き換えるという実務に関する爆発的論争が、党員内部で巻き起こることになる。
 この係争は大きな摩擦を生み、レーニンに、党内での分派を非合法化する口実を与えることになる。
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 (10) 労働組合の役割は構成員の利益を守ることではなく国家に奉仕することだ、といったん確定すると、組合への加入が義務的なものになることはその論理的帰結だった。
 強制的加入は布令によったのではなく、労働組合ごとに徐々に導入された。そして1918年の末には、労働者の四分の三が義務的な労働組合に加入していた(注148)。
 構成員数が大きくなればなるほど、労働組合はそれだけ重要になった。
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 (11) 同盟罷業(ストライキ)をする権利は労働者の利益にとって基本的なものと考えられ、1917年6月の第3回全ロシア労働組合大会でも再確認された(注149)。
 共産党政権はずっと、ストライキを非合法とする布令を発することがなかった。
 それにもかかわらず、ボルシェヴィキが国家企業に反抗する労働の停止を許容しようとしなかったことは、明白だ。
 工業企業の圧倒的多数が私人の手にあった場合には、立法的命令によってストライキを非合法化することができなかった。
 しかし、ボルシェヴィキは、この権利を認めるつもりはなかった。
 1918年1月の労働組合大会で、労働組合主義者のG. Tsyperovich は、
「生産の労働者支配という新しい条件」のもとではストライキを「より健全に実行することができる」と理解して、「以前と同じく、職業的労働者運動は、ストライキを労働者の利益を防衛する手段だと考えつづける」、 という動議を提出した。
 ボルシェヴィキが支配しているこの大会は、この決議案を黙殺した(注150)。
 実際には、存在しているかぎりにおいてだが、私人が所有する企業に対してはストライキが許容され、国有企業に対しては認められなかった。
 進展した企業国有化は、ストライキを違法とする効果をもった。
 ソヴィエト・ロシアでのストライキをする権利の事実上の廃止は、かくして、ある研究者によって、つぎのように明言されている。
 「(ソヴィエト政府が)最初に採用した考え方は、集団交渉と労働組合の強さは、労働休止を呼びかける権利にではなく、国家や党との政治的関係に依存している、ということだった。
 いかなる場合でも、ストライキを回避し、終結させる責任があるという負担は、今では労働組合へと、ストライキの権利が最も重要だったはずの組織へと、移された。
 労働組合は、自分たちに強さを与え、構成員を防衛することを可能にするまさにその力を、拒否しなければならないという信じ難い地位に、とどめ置かれた。」(注151)
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 (12) これは、ソヴィエト・ロシアでの労働組合主義の終焉を叙述していた。
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 第九節、終わり。

2886/R.Pipes1990年著—第15章⑲。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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 第15章・第九節/労働組合政策①。
 (01) 強制労働にもとづく体制には、もちろん、自由な労働組合が存在する余地はない。
 「労働者」国家では、その定義上、労働者は彼らの雇用者と分離した利益を受け取ることができないのだから、労働組合が認められないことには論理的な理由があった。
 トロツキーが述べたように、ロシアの労働者は、「ソヴィエト国家に対して、全ての問題について服従するよう義務づけられていた。なぜなら、ソヴィエト国家は<労働者の>国家なのだから」。そのゆえに、服従するということは自分自身に服従していることになる。かりに異なる考え方をもったとしても。
 自立した労働組合が許容されない実際的な理由もあった。それは、中央の計画と両立し難いのだから。
 したがって、ボルシェヴィキはすみやかに、二つの主要な労働者組織—工場委員会と労働組合—から独立性を剥奪した。
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 (02) 二月革命が勃発したあと、ボルシェヴィキによる激励もあって、工場委員会が、労働者による統制機関として影響力を広く獲得した、ということが想起されるだろう。
 無政府状況が広がっている中で、工場委員会は、全国的に技術ごとに組織された労働組合を犠牲にして、拡大していった。労働者たちは、別の場所で働く同じ技術を持つ労働者仲間よりも、同じ工場施設群で働く仲間たちに共感をもったからだ。
 サンディカリズムの刺激を受けて、工場委員会は左翼方向に重心を移し、1917年の秋には、ボルシェヴィキの強さを支える主要な勢力の一つになった。
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 (03) しかし、ボルシェヴィキが権力を握ると、利用する価値がほとんど認められなかった。
 ボルシェヴィキは自分たちの私的利益を追求し、産業関係の既存のものを資産だと見なすようになって、生産に干渉し、経済計画を妨害した。
 権力はまだ不安定だった十月のクーのあとの数週間のあいだは、ボルシェヴィキは工場委員会の機嫌を気にしていた。
 1917年11月27日の布令は、5人以上を雇用する全ての企業に労働者委員会を設置することを定めた。
 この委員会は生産を監督し、最小限の生産高を決定し、生産費を設定し、会計帳簿を自由に見ることができるものとされた(注141)。
 これは、純粋で単純なサンディカリズムだった。
 しかし、レーニンには、農民がロシアの農地を所有し、兵士がその連隊を動かす、あるいは少数民族を排除することはともかく、労働者にロシアの工業を運営させるつもりがなかった。
 これらは目的のための手段であり。目的は権力を奪い取ることだった。
 そのゆえに、レーニンは工場委員会に関する布令の中に、当時はほとんど気づかれなかった二つの条項、工場委員会を廃止する権限を政府に与える乗根、を挿入した。
 一つの条項はこう定めた。労働者またはその代表者の決定が企業の所有者を拘束しているとき、その決定は「労働組合やその大会」で取消すことができる。
 もう一つの条項は、こう要求した。国家的重要性があるとして指定された—すなわち防衛産業と「生存に必要な」物品製造業のいずれかの—企業では、労働者委員会は、「厳格な秩序と紀律の維持について」、国家に対して説明責任を負う。
 ある歴史家が観察したように、これらの曖昧な諸規定はすみやかに労働者支配に関する布令を、「それが書かれた紙の価値がない」ものにした(注142)。
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 (04) やがて工場委員会は、政府と党の官僚制による監督の対象になることによって、弱体化した。
 労働者支配に関する布令は、各委員会に対して地域労働者支配会議に財政報告をすることを要求していた。この地域会議は、つぎに、全ロシア労働者支配会議に従属した。
 これらの監督機関を作動させている官僚たちは共産党によって任命されており、共産党の指令を実施する義務があった(注143)。
 これらの機構によって、工場委員会は、国家から独立した自分たち自身の全国組織を設立することが妨げられた。
 最高経済会議を設立する布令(1917年12月)は、全ロシア労働者支配会議を含めて、存在する全ての経済関係機関に対して及ぶ権能を、この経済会議に認めた。
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 (05) アナクロ・シンディカリスト的で労働組合のかたちをとった、ロシアの労働者運動の運命は、1918年1月にペテログラードで開催された第1回労働組合大会で、大部分は決定されていた(注144)。
 この大会で、社会主義知識人、ボルシェヴィキ、メンシェヴィキなどは、工業労働者のサンディカリスト的傾向を批判し、労働者支配のための要求を、生産と社会主義にとって有害だとして拒否した。
 労働者支配を支持する熱気ある議論があったにもかかわらず、大会は、生産に対する労働者支配を行使する手段を工場委員会から労働組合へと移す決議を採択した。この大会は、この決議についてメンシェヴィキとエスエルの支援を得たボルシェヴィキが多数派だった。
 工場委員会は、11月に得た権限の多くを、財政問題に干渉する権限も含めて、今や失った。
 決議はこう述べた。「生産の支配は、企業を労働者の手に移すことを意味<しない>」。
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 ②へとつづく。

2885/R.Pipes1990年著—第15章⑱。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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 第15章・第八節/反労働者立法③。
 (13) どのように経済的に正当化しようとも、強制労働の実際はモスクワ公国時代の<tiaglo>への回帰を意味した。それによってかつて、農民層その他庶民である全ての成人男女を、国家のための辛い仕事をするよう召喚することができた。
 そして今では、主要な仕事は、物品運搬、材木切断、建築作業になった。
 燃料提供という1920年代に農民に課された義務がつぎのように叙述されたことは、モスクワ公国のロシア人には完全に理解できることだっただろう。
 「政府が期待した一種の労働役務として…、農民たちは、指定された森林で木材から多数の丸太を切断することを…命じられた。
 家屋を所有する農民は全て、一定の量の木材を輸送しなければならなかった。
 この木材は農民によって、河川の突堤、諸都市、そして最終地点へと配送されなければならなかった。」(注135)
 モスクワ公国時代の強制労働である<tiaglo>と共産主義のロシアでのそれとの違いは、主につぎにあった。すなわち、中世では特定の需要を充足させるために課された散発的(sporadic)な義務だったが、今では永続的な義務になった。
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 (14) 1919-20年の冬、トロツキーは、「労働を軍事化する」という野心的な構想を抱いた。それによって、制服着用の兵士は生産的な経済作業を行ない、民間人労働者は軍事紀律に服するだろう。
 一世紀前にAlexander 1世とArakcheev によって開始された悪名高い「軍事植民地」へのこの後戻りは、懐疑心と敵愾心でもって迎えられた。
 しかし、トロツキーは固執し、思いとどまるよう説得されはしなかった。
 内戦での勝利から帰還し、自分の重要性の感覚に満ちて、また新しい栄誉を得たいと熱望して、彼は、赤軍が外部の敵に打ち勝ったのと同じ大まかな手段によってのみロシアの経済問題を解決することができる、と強く主張した。
 1919年12月16日、トロツキーは、中央委員会のために一組の「テーゼ」を起草した(注136)。
 彼は、経済の諸問題は、十分な紀律のない労働者の軍隊によって処断されなければならない、と主張した。
 ロシアの労働者は、軍隊の様式でもって編成されなければならない。義務の忌避(割当てられた仕事の拒否、長期欠勤、仕事中の飲酒、等)は、罪悪として、軍事法廷へと送られるべき犯罪として扱われなければならない。
 トロツキーはさらに、赤軍の分団はもう戦闘する義務を負わず、動員が解除されて故郷に戻るのではなく、「労働軍」(<trudarmii>)へと改変されるべきだ、と提案した。
 こうした「テーゼ」は、公表されることが意図されてはいなかった。だが、<pravda>の編集長のブハーリンは、不注意で(彼の主張では)またはトロツキーを貶めるために(他者が信じたところでは)、機関紙に印刷した。
 1920年1月22日付の<pravda>で公表されたトロツキーの「テーゼ」へへは、激しい抗議の声が上がった。その中にはたいてい、「Arakcheebsh 陶器」という添え句が付いていた。
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 (15) レーニンは、説得された。国の経済のいっそうの悪化を阻止するという切迫した必要があったからだ。
 1919年12月27日、彼は労働義務委員会の設置に同意した。これの委員長は、戦時人民委員部の長官の地位を維持していたトロツキーだった。
 トロツキーの構想には、2組の手法が含まれていた。
 1. 前線にはもはや不要な軍団は、動員解除されない。そして、平時の労働軍へと改変され、線路床の改修、燃料の輸送、農業機具の修理のような任務が割当てられる。
 ウラルで戦闘をしていた第三軍団は、この改変が行なわれる最初の軍団だ。のちに、その他の軍団が、改編される。
 1921年3月には、赤軍の四分の一が、建設と輸送に雇用された。
 2. 同時に、全ての労働者と農民が軍事紀律に服する、とされた。
 この政策が激しい異論を生じさせた1920年の第9回党大会で、トロツキーは、政府は、必要な場合はいつでも、民間の労働者を自由に使えなければならない、と強く主張した。軍隊でと全く同じく、労働者の個人的な選好は考慮してはならない。
 「動員された」労働者は、労働人民委員部を通じて、要請している企業へと配置される。
 1922年にこの実験を振り返って、労働人民委員部のある官僚は、こう述べた。
 「我々は、計画に応じて、従って労働者の個別的な特性やあれこれの種類の仕事をしたいという希望を考慮することなく、労働力を供給した」(注137)。
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 (16) 労働軍も軍事化された労働者たちも、この政策の主唱者たちの期待を満足させなかった。
 元兵士の労働者たちは、訓練された民間人と比べてごく僅かの生産しかしなかった。彼らは、群れをなして脱走した。
 政府は、軍事化された労働者を管理し、食料を与え、輸送するということを企画するのに、克服し難い技術的な困難に直面した。
 したがって、スターリンやヒトラーによる奴隷労働の組織化の原型だったこの政策は、放棄されざるを得なかった。工業への動員は1921年10月21日に廃止され、労働軍も数ヶ月のちに解体された(注138)。
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 (17) この実験はトロツキーの信用を傷つけ、レーニンの後継者争いでの彼の地位を弱めた。失敗したという理由によるだけではなく、「ボナパルティズム」という追及に彼が傷つきやすくなったことにもよった。
 実際に、ロシアの経済がかりに軍事化されていれば、トロツキーに従った官僚たちは、民間部門で支配的な地位を獲得していただろう。
 悪態の言葉としての「トロツキズム」は、このような企図と関連して1920年代に頻繁に用いられた。
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 第八節、終わり。

2877/R.パイプス1990年著—第15章⑮。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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 第15章・第七節/市場と影の経済を廃棄する努力②。
 (08) そうしているうちに、私的部門は急成長した。
 考え得る全ての物品を、とりわけ食料品を、売買した。
 戦時共産主義のもとで非農業国民が消費した大量の食糧は、国家の販路ではなく、自由市場から来ていた。
 1918年9月、ボルシェヴィキ体制は、1.5 pud(25キログラム)までの穀物を市場に持ち込み、市場価格で販売することを農民に認めるのを余儀なくされた(注112)。
 この<polutorapudniki>あるいは「1.5 puder」は、都市部で消費されるパンと農産物の大部分の取引を占めた。
 1919-20年の冬に実施されたソヴィエトの統計調査によると、都市住民は彼らのパンの36パーセントだけを国家の販路から入手していた。
 その調査が責任逃れ的に述べるように、残りは「別の出所から」取得していた(注113)。
 1919-20年の冬にロシアの都市部で消費された全ての食料品(穀物、野菜、果物)のうち、カロリー価で測って、自由市場は66〜80パーセントを提供した、ということが確認されている。
 田園地域では、「消費者共同体」によって提供された食品の割合は、たった11パーセントにすぎなかった(注114)。
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 (09) 1920年の春にロシアを訪れた外国人は、ほとんど全ての店舗が閉店している、あるいは板囲いで閉鎖されていることに気づいた。
 あちらこちらで小さな店が、衣類、石鹸その他の消費用品を売るために開いたままだった。
 Narkomprod(供給人民委員部)の店舗はほとんどなく、あっても遠く離れていた。
 一方で、違法な路上取引がにわかに流行していた。
 「モスクワは生きている。
 だが、一部は配給品で、一部は稼いだ金で生きている。
 大部分は、モスクワは、闇市場で生計を立てている。行動的に、そして受動的に。
 闇市場で売り、闇市場で買っている。むさぼり儲ける、むさぼり儲ける、…。
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 モスクワでは、貨幣はあらゆる物でできている。あらゆる物が闇市場で取引される。ピンから乳牛まで。
 家具、ダイアモンド、白いケーキ、パン、肉、あらゆる物が闇市場で売られている。
 モスクワのSukharevka 地域は闇市場の商店街で、闇市場の大店舗だ。
 ときどき警察が急襲を実行する。しかし、警察は闇市場を抑圧しない。
 闇市場は増殖するヒドラで、1000本の手を持って再出現する。
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 モスクワには自由市場がある。多くは役所から黙認された市場で、補完のための市場で、高級品用の市場だ。
 例えば、劇場広場の近くには補充用市場があり、きゅうり、魚、ビスケット、卵、あらゆる種類の野菜を扱っている。
 これは長い歩道上の大騒ぎだ。
 歩道の角には小部屋がある。商売人がうずくまり、商売人の囁きが買い手の耳に入る。
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 一本のきゅうりは200-250ルーブル、一個の卵は125-150ルーブルする。
 他の品物はそれぞれに対応する値段だ。
 西ヨーロッパの通貨、とくにドルに変えられることは多くない。
 モスクワに滞在していたあいだ、通貨相場師は1ドルに対して1000ボルシェヴィキ・ルーブルを支払った。
 あるアメリカ人は3000ドルを900万ボルシェヴィキ・ルーブルと交換した、と聞いた。
 思惑買いは禁止されている。…
 だが、流通貨幣での投機がある。
 利潤はあらゆる物にあり、当然に貨幣についてもある。…
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 利潤稼ぎ、闇商売。退蔵は作業の邪魔になる。
 利潤稼ぎは働き手の精神だ。
 働いている間に儲け、働くべき間に儲ける。」(注115)
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 売り手の多くは、軍服を処分している兵士だった。このことが、この時期に多くのモスクワ市民が軍服を着て現れていた理由だった(注116)。
 高貴な淑女たちを、見ることができた。彼女たちは、かつての幸福な時代の個人的な品物を、歩道に自意識が強そうに立って、販売していた。
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 (10) 「小生産者の不屈の頑固さによる商品経済の方法についての強い主張」は、あるソヴィエトの経済学者が自由市場の活力について叙述したように(注117)、分配を独占しようとする政府の全ての努力を打ちのめした。
 私的取引の禁止を厳格に実施すれば全都市住民を餓死させることになる、そういう馬鹿げた状況の中にいることを政府は知った。
 1920年初めのソヴィエトの経済関係出版物は、私的(「投機的」)市場が国家の供給システムを犠牲にして、かつその助けを借りて繁茂していることを、痛ましくも認めた。
 その書物はこう書いた。
 「我々が直面する現在の経済の現実のうち最も衝撃的な矛盾の一つは、「モスクワ・ソヴェトの雑貨店」、「書店」等々の看板を掲げたソヴィエトの店舗のガラ空きさと、Sukharevka、Smolensk 市場、Okhotonyi Riad、その他の投機的市場の中心地の間の著しい差異だ。
 [後者にある物品の]出所はもっぱらソヴィエト共和国の倉庫で、犯罪的経路を通ってSukharevka まで届いている」(注118)。
 私的部門がこうも力強くなったので、政府が1921年についに現実に直面して、(一時的に)新経済政策(NEP)のもとで取引の独占を諦めたとき、それは既成の現状(status quo)を追認しただけだった。
 E. H. Carr は、こう書く。
 「一定の事項については、NEP は、戦時共産主義のもとで、政府の抑圧を前にして、政府の諸布令に抵抗して自発的に成長した取引に対して行なった、制裁の手段に他ならなかった」(注119)。
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 第八節(「反労働者立法」)へとつづく。

2876/R.パイプス1990年著—第15章⑭。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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 第15章・第七節/市場と影の経済を廃棄する努力①
 (01) トロツキーの言葉では、「経済の社会主義的組織化は、市場の廃絶でもって始まる」。
 マルクス主義者にとってはじつに、市場、商品の交換のための広場は、資本主義経済の心臓部だった。貨幣が生命体の血液であるように。
 市場なくしては、資本主義は作動することができない。
 したがって、産物と役務の自由な交換を塞いでしまうことは、ボルシェヴィキの経済政策の中心目標だった。
 市場の国有化と分配の中央集権化は、しばしば誤って論じられているようにではなく、すなわち革命と内戦が惹起した食糧不足に対する反応ではなく、不足を生み出す資本主義という敵に対して向けられた積極的で先導的な行為だった。
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 (02) ボルシェヴィキは、商品の自由な交換を排除するという極端な途を歩んだ。
 彼らは、1919年の党綱領でその意図を明確に説明した。
 「分配の分野では、現在のソヴィエト政権の任務は、産物の計画的で国家により組織された分配でもって取引を置き換えることを着実に追求することにある。
 目標は、全国民を単一の消費者共同体へと組織することだ。この共同体は、極めて急速に、計画的やり方で、経済的にかつ労働を最小限にだけ使って、全ての必要な産物を分配し、分配の全ての機構を厳格に中央集権化することができる。」(注103)
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 (03) ボルシェヴィキは、この目標をさまざまな方法で追求した。食糧以外の物品の生産手段の廃絶、食品その他の日常用品の強制的な徴発、取引の国家独占、交換を媒介する貨幣の廃止、等。
 物品は、配給カードという手段で国民に分配される。最初(1918-19年)は名目上の価額で、のち(1920年)には無料で。
 住居、実用役務、輸送、教育、娯楽もまた市場から撤退し、やがて無料で利用できるようになる。
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 (04) 工業用品の生産は最高経済会議の手に委ねられ、商品の分配についての責任は、供給人民委員部(- po Prodovolstviiu)、自分自身の<glavki>や分配機関網という隊列をもつ別の官僚機構、が受け持った。
 供給人民委員部の長のAlexander Tsiurupa はわずかな事業経験しかもたず、1917年以前は土地不動産の管理者として雇用されていた。
 彼の人民委員部は、経費がきわめて少ないままで活動していた。
 Komprod として広く知られたこの人民委員部は、何よりもまずは、政府が購入、物々交換や強制的徴発によって何とか集めた食料品を収受し、分配された。
 また、国有化された工業団体や家族的工業体から物々交換用に消費用品を収受することが想定されていた。
 分配については、国家管理の店舗という自分自身の網にある程度は依拠していたが、主としては、消費協同組合に依っていた。これは革命以前から発達し、エスエルとメンシェヴィキを監督職員から排除したあとで、ボルシェヴィキがさして気乗りもせず維持したものだった(注104)。
 1919年の春。この消費協同組合は国有化された。
 1919年3月16日の布令(注105)は、全ての都市と地方中心地に、「消費者共同体」(potrebitel’skie kommuny)の設立を命じた。所定の地域の住民たちは、例外なく、これに加入しなければならなかった。
 この共同体は、配給カードの提示にもとづいて食糧その他の基本的な必需品を供与することが想定されていた。
 このカードにはいくつかの種類があり、最も有利なものは、重工業の労働者に発行された。一方で、「ブルジョアジー」は、せいぜい労働者への配給の四分の一を受け取った。そして、しばしば何も受け取れなかった。(注106)(脚注)
 この制度は、恐るべき濫用を許すものだった。
 例えば、1918年のペテログラードで、通常の住民よりも三分の一増しの配給カードが発行された。供給人民委員部は1920年に、2190万人の都市居住者に配給カードを発行したが、住民の実際の数は1230万にすぎなかった(注107)。
 ——
 (脚注) 最も少ない配給(paek)を示すカードの所有は、チェカにとっては「ブルジョアジー」の一員を識別する手段として役立った。このカードの所持者たちは、テロルや強奪の自然な犠牲者だった。
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 (05) Milton Friedman の言葉では、経済理論が意味深長になればなるほど、「前提条件はますます非現実的になる」。
 取引の国有化というソヴィエトの実験は、この言明を十分に裏付けている。
 戦時共産主義の措置は、市場を排除したのではなく、市場を二つに分裂させた。
 1918-20年、ソヴィエトの国家部門は、配給カードによって固定価格で、または無料で、物品を分配した。一方、これに並んで、需要と供給の法則に従う不法な私的部門があった。
 ボルシェヴィキの理論家が驚いたことに、国有化された部門が膨張すればするほど、ある者が「動かせられない影」と呼んだ自由部門がますます大きく出現してきた。
 実際に、私的部門は国家部門を侵食した。その単純な理由は、消費用品の大部分が闇市場に流れたからだ。労働者たちは、消費用品をきわめて安価で購入するか、国家部門または「消費者共同体」から無料で受け取っていた(注108)。
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 (06) 政府は、1920年10月に電信、電話、郵便の支払いをソヴィエト諸機関に免除する法律(law)を制定して、無料の公共サービスを開始した。
 これらは翌年には、全ての市民に適用された。
 この期間のあいだに、政府職員にも、全ての公共サービスが無料になった。
 1921年1月、国有または公有になった住宅の住民は、賃料の支払いを免除された(注109)。
 1920-21年の冬、供給人民委員部には、3800万人の国民に対して事実上は無料で基本的必需品を提供する責任があった、と見られている(注110)。
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 (07) 明らかに、このような気前よさは、ボルシェヴィキ体制が旧帝制から継承した資本を使うことができたあいだ、一時的にのみ可能だった。
 政府が賃料を徴収しないで済ますことができたのは、家屋を建設することもそれを維持するために出費することもしなかったからだ。
 ロシアの都市部の住居用建物は約50万棟あったが、ほとんど全てが1917年以前に建築されていた。
 戦時共産主義の期間中、政府は、全国で2601件だけの建物を建築し、修繕した(注111)。
 無料での分配を可能にしたもう一つの要因は、農民からの食糧徴発だった。これは補償金の支払いなしで、または無価値の貨幣による偽の補償金付きで行なわれた。
 明瞭なことだが、建物は古くなり、農民は余計な食糧の生産を拒むので、このような状態は永続することができなかった。
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 ②へとつづく。

2875/R.パイプス1990年著—第15章⑬。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき
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 第15章・第六節/農業生産の低下
 (01) 農業生産の低下は、より劇的ではなかった。しかし、食糧の余剰にはほとんど余裕がなかったので、農業生産低下の国民生活に対する影響は、より破壊的だった。
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 (02) ボルシェヴィキ政府は農民層を階級敵と見なし、赤軍の一団や武装暴漢たちの一隊によって通常の方法で戦った。
 1918年綱領—農業生産物の私的取引の排除が目的—は、激烈な農民の抵抗があることに鑑み、緩和されなければならなかった。
 1919年と1920年、ボルシェヴィキ政府は、多様な手段でもって農民から食糧を奪い取った。強制的引渡し、製造物品と食料の交換、実際の価額よりもいくぶん高い購入。
 1919年、政府は、限定された量の食糧が自由市場で売却されることを認めた。
 日常用品、肉、果物、ほとんどの野菜、そして全ての野生の食料は、最初は国家の統制から免れており、のちに通常の食料と同じように規整された。
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 (03) 規整と誘導の連携を通じて、政府は何とか、都市部、工業地区、むろん赤軍に、食料を提供することができた。
 しかし、農民たちは自分たちが必要とする以上に多く生産する動機がなかったので、将来には破綻するだろうとの見込みから、農民たちは耕作面積を減少させ続けた。
 穀物を栽培する地方では、1913年と1920年のあいだに、耕作されている土地面積は、12.5パーセント減少した(注97)。
 しかしながら、種が撒かれた農地面積の減少は、穀物生産の低下を十分には明らかには示していない。
 第一に、農民たちは産物を自分たちで消費するか収穫の四分の三を種として残しておくので、作付け面積の12.5パーセントの減少は、非農業の国民のための余剰生産に使える農地が半分にまで落ちていることを意味した。
 第二に、作付け面積の減少と同時に生産は低下し続けたのだが、それは主としては、四分の一が軍隊のために没収された牽引馬の不足によるものだった。
 1920年のエーカー当たりの収穫高は、戦争前のそれの70パーセントにすぎなかった(注98)。
 収穫高の30パーセント減少を伴なう農地面積の12.5パーセント減少が意味したのは、穀物生産が戦前の数字の60パーセントにすぎなくなった、ということだった。
 ある共産党員経済学者が統計資料を示しているが、これは、現実に何が起きたかを示している。
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 「中央ロシアでの穀物生産(100万トン単位)(注99)
  1913年  78.2
  1917年  69.1
  1920年  48.2」
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 (04) 飢餓の次元にまで落下するのに必要だったのは、少しのあいだの、収穫にとっての悪天候だけだった。
 ボルシェヴィキによる経営のもとでは余剰はなく、そのゆえに、収穫減少の結果を吸収することができなかった。
 やがて近いうちに災難がやってくるだろうことは、1920年の秋には、ほとんど確実に感じられていた。
 その1920年秋、党の諸文書は、新しい「敵」—<zaskha>、すなわち干魃、が起きるという警告を報じ始めた(注100)。
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 (05) 本当の飢饉、ロシアも残りのヨーロッパも未だ経験したことがなく、数百万人が死亡することになるアジア的飢饉は、まだ先のことだった。
 しばらくの間は、飢えがあり、栄養不十分の永続的状態があった。これにより、活力、働く力、そして生きようとする意思がすっかり奪われた。
 ボルシェヴィキのある指導的経済学者は、1920年に工業生産の低下を分析して、主に食糧不足にその原因を求めた。
 彼の計算によると、1908年-1916年の平均的労働者は一日に3820カロリーを消費したが、1919年までに摂取量は2680カロリーまで落ちた。この量では、激しい手作業には十分でなかった(注101)。
 彼の見解では、カロリー摂取量の30パーセント低下は、大都市での労働者生産性の40パーセント減少の主要な原因だった。
 もちろんこれは、過度に単純化したものだが、まさに現実の問題を衝いていた。
 もう一人の共産党員専門家は、一年間で180-200キログラムのパン消費は飢餓だとする革命前の基準を用いて、1919-20年の北部地域のソヴィエトの労働者は134キログラムしか消費しておらず、これは飢餓だと評価した(注102)。
 ロシアの諸都市がこの時点で飢餓のために崩壊しなかったとすれば、それは、時期の幸運な合致によっていた。すなわち、まさに崩壊しようとするときに、ボルシェヴィキは内戦に勝利し、北部コーカサス、ウクライナおよびシベリアを再制圧した。これらの地方は、非ボルシェヴィキが支配していて、穀物を豊かに貯蔵していた。
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 第七節につづく。

2874/R.パイプス1990年著—第15章⑫。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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 第15章・第五節/工業生産の低下
 (01) 戦時共産主義のもでのソヴィエト工業の狭い意味での目標は、もちろん、生産性の向上だった。
 しかし、統計上の証拠が示しているのは、この政策の効果は反対だった、ということだ。
 ボルシェヴィキによる経営のもとで、工業生産性はたんに低下したのではなかった。すなわち、かりに同じ過程が進行していたならば、1920年代半ばまでにソヴィエト・ロシアにはどんな工業もなくなってしまうことを示唆する、そのような割合で落ち込んだ。
 このような現象を示す、いくつかの統計資料がある。
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 「I. 全国の大工業生産(脚注1)
  1913 100
  1917 77
  1919 26
  1920 18」
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 「II. 1920年の特定工業製品の生産量(1913=100)(注94)
  石炭 27.0
  鉄鋼  2.4
  綿糸  5.1
  石油 42.7」
 ----
 「III. ロシアの労働者の生産性(固定のルーブルで)(注95)
  1913 100
  1917 85
  1918 44
  1919 22
  1920 26」
 ----
 「IV. 被雇用工業労働者数(脚注2)
  1918 100
  1919 82
  1920 77
  1921 49」
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 (脚注1) Kritsman, Geroicheskii period, p. 162. Narodnoe Khoziaistvo SSSR v 1958 god u(Moscow, 1959), p. 52-53 の数字によると、1921年の全工業生産は1913年比で69パーセント減少し、重工業生産は79パーセント減少した。
 (脚注2) A. Alu f, cited in S. V Olin, DeiateVnosf menshevikov v profsoiuzakh pri sovetskoi vlasti, Inter-University Project on the History of the Menshevik Movement, Paper No.13(New York, 1962),p. 87. もちろん、ここで基礎年にしている1918年までに、被雇用労働者の数は、1913-14年と比べて、相当に減少していた。
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 (02) 要するに、戦時共産主義のもとで、ロシアの「プロレタリアート」数は二分の一に、工業生産高は四分の三に落ち、工業生産性は70パーセントが失われた。
 この破滅を見て、レーニンは1921年にこう叫んだ。
 「プロレタリアートとは何だ?
 大規模工業に就労する階級だ。
 そして、どこに大規模工業があるのか?
 どんな種類のプロレタリアートなのか?
 おまえの(原文ママ)工業はどこにあるのか?
 なぜ、怠惰なのか?」(注96)
 これらの修辞的質問に対する回答は、レーニンが承認していたユートピア的構想が、ロシアの工業を破壊し、ロシアの労働者階級を殺した、ということだった。
 しかし、この工業力低下の時期のあいだに、経済に責任を負う官僚機構の維持のための出費は、飛躍的に増大した。1921年までに、それは予算の75.1パーセントを占めた。
 ロシアの工業を管理した最高経済会議の人員について言えば、それはこの期間に100倍に増えた(脚注)
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 (脚注) Buryshkin, EV, No. 2(1923), p. 141. 最高経済会議の被雇用者の数字は、1918年3月に318人、1921年に3万人だ。
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 第六節につづく。

2870/R.パイプス1990年著—第15章⑪。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第15章・“戦時共産主義“>の試訳のつづき。
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 第15章・第四節/最高経済会議の設立③。
 (13) 外国には、この巨大な「社会主義建設」の企ては、大きな印象を与えた。
 西側でのソヴィエトの政治宣伝は、全てを見通す政府の慈悲ある目のもとでのロシア産業の「合理化」について、熱情的に語った。しかし、強調されたのは実績ではなく、内容だった。
 ロシアの産業がいかに規整されているかを示す図表は、戦後世界の混乱に対処している多くの西側の人々の称讃を掻き立てた。
 しかし、ロシアの内部では、新聞や雑誌、そして党大会での報告から、全く異なる像が浮かび上がった。
 経済計画という主張は、茶番劇だったと判った。すなわち、1921年に、トロツキーは、中央計画は存在しないこと、「中央化」はせいぜい5-10パーセントしか実現されていないこと、を確認した(注83)。
 1920年遅くの<プラウダ>上の一論考は、明け透けに、こう認めた。<khoziaistvennogo plana net>(「経済計画は存在していない」)(注84)。
 最高経済会議の<glavki>は、それが責任をもつべき産業の諸条件について、きわめて漠然とした考えしかもっていなかった。
 「一つの<glavka>または<tsentr>ですら、国の産業と生産を正しく規整することを可能にする適切で包括的なデータをきちんと処理していない。
 数十の組織が、似たような情報を収集するという平行で同じ作業を行なっている。その結果として、全体としては、似ていないデータを掻き集めている。…
 会計は不正確に行なわれ、ときどきは記帳された物品の80-90パーセントが、関係する組織の管理を免れている。
 会計処理がなされていない物品は、乱暴で無制限の投機の対象になり、最終的に消費者に届くまで、何十回も手から手へと渡される」(注85)。
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 (14) 最高経済会議の地域支部については、これらとモスクワの本部との間には恒常的な摩擦がある、と言われていた(注86)。
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 (15) 要するに、当時の説明文書によると、最高経済会議は、管理されずに干渉し合う、主要な役割は数千人の知識人への生活の糧の提供である、そのような奇怪な官僚制的混乱物だった。
 1920年の初頭に、会議の地域支部と地方ソヴェトの経済担当部署は、ほとんど2万5000人に雇用を提供していた(注87)。その圧倒的大部分は、知識人だった。
 官僚制的膨張のそのままの例は、ベンゼン・トラスト(Glavanil)だった。これの職員名簿には、150人の労働者を雇用する工場施設を監視するための、50人の官僚たちが載っていた(脚注)
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 (脚注) Litvinov, in Prau da, No. 262(1920年11月21日), p.1. Scheibert 教授(Lenin, p. 210)は間違って、「ヴァニラ・トラスト」を意味する頭文字だと解読している。
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 最高経済会議の官僚の一人は、彼が所属した部署の類型について、彩り豊かな叙述を残した。
 共産主義政府の他の機関については知られていない叙述なので、引用しておくに値する。
 「下級の職は、主として多数の若い女性、男性、以前の帳簿係、店員、書記、あるいは大学、高校や『外部の』学生に占められていた。
 この若者たちの集団は、比較的に高い給料でかつ要求される労働量の少ない業務に魅かれていた。
 彼らは一日じゅう、大きな建物の多数の廊下でぶらぶらしながら過ごした。
 彼らはいちゃつき、共同施設でキャンディやナッツを買うために走り出し、1人だけが何とか手にするだけの劇場券や肉の煮付けを仲間うちで配り、こうした商業的行為に付きもの一種として、ボルシェヴィキを呪った。」…
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「つぎの最も数の多い[被雇用者の]類型は、帝制時代の省庁の一時的な官僚で成っていた。
 ソヴィエトの業務に加わるに際しての彼らの動機は、物質的必要か、それ以上に、手慣れた仕事をしたいという願望か、のいずれかだった。そのような仕事に、彼らは人生の10年間以上を捧げてきたのだ。
 『発出』または『受取』の素材、『備忘録』、『報告書』、書記上の些細な知恵に、彼らはどのような情熱を持って取り組んだのかを、把握しなければならない。パンや靴がないままで生活することよりも、事務作業の雰囲気がない所で生きていくことの方が困難だと彼らは知ったということを、理解しなければならない。
 このような人々は、実直に業務を遂行しようとした。
 彼らは、最も早く来て、最も遅く去る人々だった。彼らは、鎖で縛られているように、その職に執着した。
 しかし、おそらく正確には、信じ難い愚かさ以外に彼らの仕事の実直さは存在しなかった、という理由でだろう。
 上級機関の無秩序と衝動性が、彼らが取り組んだ『受取』素材や『備忘録』等の全てに、愛情溢れた気配りを混ぜ込んだ、という理由でだろう。…」
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 「最後に、中間層の官僚たちのうちの非共産党多数派やより上級の官僚たちの一部は、さまざまなタイプの知識層で成っていた。
 そこには、いわばロマンティックな性質があり、そのために敵の要塞の中で行なう業務には、大きな冒険の風味があった。
 原理をもたず、自分たち自身の幸福以外には世界の全てに無関心な人々が、そこにはいた。
 暗黒と混乱の覆いのもとで、価値があるもの全てを略奪することができるように、ボルシェヴィキの混沌に身を寄せる、そのような普通のいかがわしい人々が、そこにはいた。
 別のタイプの人々もいた。貴重だと考える仕事を回収することを望む専門家たち。また、私自身のように、『体制を柔和にする(soften)』ことを目的として、加わった者たち。」(注88)
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 (16) レーニンの、「単一計画」にもとづき作動する「単一の巨大な機構に国家の経済機構全体を変える」という考えについては、多くのことを語り得る。
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 (17) ボルシェヴィキは、労働者支配の広がりのあとの経営者による混乱を、いくぶんかうまく克服するのに成功した。
 1917年十月直前および直後の、体制のサンディカリズム的政策は、労働者をメンシェヴィキから切り離す道具だった。これは、ボルシェヴィキが工場委員会で多数派になるのを助けた。
 ブレスト条約の調印のあとでは、「ブルジョア専門家」を雇用しての個人による工業経営という伝統的手法へ回帰することが、決定された。
 トロツキーは1918年3月に、レーニンは5月に、これについて語った(注89)。
 実際に、以前の所有者や経営者の多くは彼らの仕事を決して捨てなかったが、1918年6月28日の国有化布令の条件で、それは禁止された。
 最高経済会議は、これらの人々で充ちた。
 シベリアからのある訪問者は、つぎのことに気づいた。
 「多くのモスクワの<tsen try>や<glavki>の長には、以前の雇用者、経営者および権限ある官僚が就いている。…」。
 「個人的に従前の商業や工業の世界を知っていた、準備のない訪問者は、従前の皮革工場の所有者がGlavkozh[皮革シンジケート]にいること、大製造業者が中央織物組織にいること、等々を見て、驚いただろう」(注90)
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 (18) レーニンとトロツキーは、「社会主義」の信条で「ブルジョア専門家」の技巧を利用する必要性を主張しつづけた。しかし、これは、左翼共産主義者、労働組合官僚、工場委員会からの抵抗に遭遇した、
 かつての「資本主義」エリートたちが彼らの専門性のゆえにソヴィエトの産業界で享有している権力や特権を不愉快に感じて、彼らは、旧エリートたちに嫌がらせを行ない、彼らを威嚇した(注91)。
 --------
 (19) 内戦が終了するまで、政府には、個人による管理という原則を実施するのに多大の困難があった。
 1919年に、工業施設の10.8パーセントだけに、個人の管理者がいた。
 しかし、1920-21年に、政府は力強く運動を再開し、1921年末には、ロシアの工場の90.7パーセントは、個人管理者のもとで稼働していた(注92)。
 しかしながら、「合議制の」管理を擁護する主張は消え去ることがなかった。その主張者たちは、個人の管理は労働者を体制から遠ざける、「資本主義者」が、国家に奉仕しているという偽装のもとで、収用された工場施設の支配権を保持するのを許している、と議論した(注93)。
 やがて、こうした議論は、いわゆる労働者反対派によって全国レベルにまで高められることになる。
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 第四節、終わり。

2869/R.パイプス1990年著—第15章⑩。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
  <第15章・“戦時共産主義“>の試訳のつづき。
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 第15章・第四節/最高経済会議の設立②。
 (07) 最高経済会議は、巨大な私的部門がその統制の外に残ったままだったということだけでも、「国民経済と国家財政を組織する」という課題を、部分的にすら実現しなかった。
 供給人民委員部に譲歩しなければならなったので、食糧その他の消費用品を配分するという任務を全うすることもしなかった。
 実際のところ、最高経済会議は、ソヴィエト・ロシアの国有産業を管理する—いや正確には、管理することを試みる—主要な機関になった。換言すると、異なる名前をもつ産業人民委員部だった。
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 (08) ボルシェヴィキは、十月のあとすぐに、企業の国有化を開始した。
 ほとんどの場合、所有者または経営者が「破壊活動(sabotage)」に従事したという理由で、工場施設を剥奪した。
 剥奪したそれらを、ボルシェヴィキは工場委員会に委ねた。
 ときには—従前の臨時政府の地方政府閣僚だったA. I. Konovalov の織物工場について生じたことだが—、政治的復讐を動機として収用が行なわれた。
 国有化された企業の所有者は、補償を受けなかった。
 国有化のこうした任意で無計画の段階が最高に達したのは、1917年12月のPutiov 工場の収用だった。
 ほとんどの収用は、政府の指示によってではなく、地方機関自身の主導でもって行なわれた。—最初は地方ソヴェトによって、のちには最高経済会議の地域支部によって。
 1918年8月に行なわれた調査によれば、国有化された567企業のうち、そして没収された214企業のうち、五分の一だけが直接にモスクワによる指令にもとづいていた(注72)。
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 (09) ロシア産業の体系的な国有化は、1918年1月28日の布令でもって始まった(注73)。
 これを起動させたのは、Lari n だった。
 ベルリンでの通商交渉に出席したLarin は、ドイツの実業家たちはロシアの大企業の支配権を握るつもりだ、と結論づけた。
 ボルシェヴィキは、ブレスト=リトフスク条約で、ソヴィエトの経済諸法の規制から中央諸国の会社を除外することに同意し、それらがロシア領土内で資産をもち、事業活動を行なうことを認めた。
 国有化された資産の所有者には、適正に補償がなされるものとされていた。
 ロシア人がその企業をドイツ人に売却する場合、当該ドイツ人は支配権を握るか補償を受けるかの選択をするのを可能にする、そういう条項があった。
 Lari n はレーニンに、国有化措置を一挙に行なうことだけがドイツがロシアの産業の支配者になるのを阻止することができる、と説得した(注74)。
 レーニンがそうするのを躊躇したとすれば、ドイツの反応を懸念したからだった。多数のボルシェヴィキはそうした措置がドイツとの外交関係に亀裂を生み、反ボルシェヴィキ「十字軍」を形成する刺激になることを怖れていたのだ。
 この恐怖には、結局は根拠がなかった。「不誠実だ」と不満を述べながらも、「[ドイツは]全ての[ロシアの]産業の国有化を黙認し、ロシアに対して宣戦を布告することはなかった」(注75)。
 国有化される資産についてドイツの利害関係者には完全な補償が保証され、連合諸国のそれには否認された、というのがその理由だった。
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 (10) 1918年6月28日の布令は、100万ルーブルの資本をもつか、それ以上を会社か組合が所有している全ての企業と鉄道の国有化を、補償なくして、命じた。
 国有化された事業の施設その他の資産は、国家に移された。
 経営者たちは、厳しい制裁で威嚇されつつ、その地位にとどまるよう命じられた。
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 (11) それ以降、国有化の過程が進行した。
 1920年の秋までに、最高経済会議は、総計200万人の労働者のいる、3万7226企業を、名目上は管轄した。
 国有化された企業の13.9パーセントは1人しか雇用せず、ほとんど半分には機械装備がなかった。
 しかし、実際には、最高経済会議はこれら企業の一部しか管理せず(ある権威によると4547企業)、残りが国有というのは、名前だけにすぎなかった(注76)。
 1920年11月、政府は、ほとんどの中小企業を国有化する追加の布令を発した(注77)。
 1921年の初めに、書類上は、政府は、一人の作業場から巨大な工場まで、ほとんど全ての製造施設を所有し、経営した。
 現実には、一部しか支配せず、管理したのはさらに少なかった(脚注)
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 (脚注) 防衛産業の組織化については、明確でない。1918年8月、最高経済会議は、Krasin の指揮のもとに軍需用品の生産に関する委員会を設立した。この委員会は、拘束力のある軍部からの命令を受け取り、企業へと渡した。やがて、軍需用品の供給の責任は防衛会議(Sovet Obolony)がもつことになった
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 (12) 最高経済会議—かつて「トラストのトラスト」と呼ばれた—は、幹部会によって指揮される、巨大な官僚機構を発展させた。
 それは、垂直に(機能面で)また水平に(領域面で)組織される諸機関へと分割されていた。
 垂直の諸組織は、<glavki>または<tsentry>と呼ばれた。これらは1920年遅くで42を数え、それぞれが産業生産の一分肢に責任をもち、委員会によって指揮された。
 それらは、塗料、塩、紙について各々Glavlak、Glavsol、Glavbum のように、頭文字化された名称をもった(注79)。
 この会議の構造や活動を企画するのに大きな役割を果たしたLari n は、のちに、その発想を外国から得ていたことを承認した。
 「私はドイツの<戦争社会>に注目し、ロシア語に翻訳し、労働者精神を混ぜ、<glavki>の名前で通用させた」(注80)。
 <glavki>に加えて、最高経済会議には、1920年にほとんど1400の、地方支部の網があった(注81)。
 会議の組織図は、幹部会が太陽を、<glavki>、<tsentry>や地方諸機関は惑星とそれらの月を示す、天界図に似ていた(注82)。
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 ③へとつづく。

2867/R.パイプス1990年著—第15章⑨。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
  <第15章・“戦時共産主義“>の試訳のつづき。
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 第15章・第四節/最高経済会議の設立①
 (01) すでに記したように、ペテログラードでの権力奪取のあと、レーニンは、ロシアの産業上の資産を収用するつもりでなかった。
 彼には産業経済を運営することの複雑さを単純化し過ぎる強い傾向があったけれども、職業的革命家の党が自分たちだけで産業経済を稼働させるのは不可能だ、ということを理解できる現実主義者だった。
 政治的圧力によって「国家資本主義」という考えを放棄せざるを得なくなったが、彼は、国民経済には中央計画による紀律が必要だ、と考え続けた。
 1918年3月、レーニンは、政府の直面する任務を、つぎのように語った。
 「会計の組織化、大企業の統制、国家経済全体の、億万の人民が単一の計画によって指導されるのを可能にするよう機能する巨大な機構への移行」(注61)
 トロツキーは、同意した。
 「経済の社会主義的組織化は、市場の廃絶でもって始まる。これが意味するのは、調整者—すなわち供給と需要の法則の『自由な』展開—の廃絶だ。
 不可避の結末—すなわち社会の需要への生産の従属—は、原理的には生産の全分野を覆う<統合した経済計画>によって達成しなければならない。」(注62)
 --------
 (02) Larin は、レーニンの依頼に応じて、ロシアの経済を指揮する中央の行政および計画の機関を設立する案を作成した。
 若干の修正のあと、1917年12月2日に、国家経済最高会議(Vysshyi Soviet Narodnogo Khoziaistva, VSNKh)を設置する布令が発布された(注63)。
 1921年に国家計画委員会(Gosplan)と改称されるこの機関は、共産党が政治分野を支配するのと同じ独占的地位を国の経済について(少なくとも理論的には)与えようとするものだった。
 「理論的には」と言うのは、私的な農業部門と大きくかつ増大している物品のブラック市場の存在を考えれば、VSNKh は決してソヴィエト・ロシアの経済を統制することすらできなかったからだ。
 ソヴナルコムの指揮を直接に受けるこの機関の公式の任務は、「国民経済と国家財政を組織する」ことだった。
 基本計画を策定し実施するものとされたが、そのために、生産、配分、金融の全ての分野を国有化し、シンジケート化する権能が与えられた。
 トロツキーによれば、もともとは、供給、農業、輸送、財政、貿易の各人民委員部を、最高経済会議の一部門にすることが意図されていた(注64)。
 この会議はさらに、地方ソヴェトの経済部門について責任をもち、それが存在しない場合は会議の支部を設置するものとされた。
 最高経済会議は、概念上は、社会主義経済の条件であるHilferding の観念での「総合カルテル」に適合しようとするものだった。
 それは実際には、はるかに穏健なものに変わった。
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 (03) レーニンは、会議の指揮をAleksei Rykov に委ねた。この人物について、ある知人は、「温かい心をもつ知識人」、むしろ「古い時代の地方出身の親切な医師」と叙述した。
 別の者は、彼は地方<zemstvo>にいる農学者か統計学者を思い出させる、と書いた(注66)。
 たしかに彼は、ロシアの経済を上から下まで知っている人物でも専門家でもなかった(注67)。
 彼はBonn の農民家庭に生まれ、大まかな教育を受けたあと、レーニンのための職業革命家の仕事をした。
 身なりは貧しく、手入れは行き届かず、小声でゆっくりと話した。このような癖のおかげで、力強いとの評判を得た。
 しかし、のちに判ったように、彼は決定が要求されるときに全く無力だった。
 そのような行政的才能の欠如によって、始めるのが困難で全く不可能な仕事が、彼に任された。
 --------
 (04) 最高経済会議の背後にいる真の実力者—「ロシア経済のSaint-Just」—は、Iurii Larin だった。
 専門家にすらほとんど知られていないが、この半身が麻痺していてつねに痛みを感じていた人物は、独特の歴史的業績の評価を要求できる資格があった。たしかに、30年という信じ難く短い期間に大国の国家経済を破綻させた、と他の誰も主張できなかった。
 Larin は、レーニンに大きな影響を与えた。レーニンは、その独裁の最初の2年半のあいだ、他のどの経済助言者に対してよりも、彼の語ることに注意深く耳を傾けた。
 Larin は、困難な諸問題についての迅速で急進的な解決方策を、つねに用意していた。そのことで、経済の「魔術師」との評価を得た。
 Metropole ホテルの高級室にある彼の事務所は、きわめて狂信的な経済構想をもつロシア人たちにとって、巡礼の聖地だった。
 そうした構想はいずれも鼻にもかけずに却下されることはなく、多くは真摯に検討され、いくつかは採用された。
 レーニンが彼の助言に幻滅を感じるようになり、最高経済会議の幹部会から追放したのは、ようやく1920年の初めだった。
 そのときまでLarin は、その考え方と人柄によって最高経済会議を支配した(脚注)
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 (脚注) Lenin, Khronika, XIII, p. 243, p. 267. この時期の経済計画家のほとんどはスターリンと衝突し、射殺された。だが、小児麻痺の犠牲者のLari n は、幸運にも1932年まで生き、自然死を遂げた。
 --------
 (05) Larin は1882年にクリミアで、ユダヤの知識人家庭にMichael Aleksandrovich として生まれた。そして、自ら「反目的雰囲気」と称したものの中で少年期を過ごした(注68)。
 18歳の年に、ある急進的組織に加入した。そのときから、典型的なロシアの革命家の人生を歩み、地下活動、違法な労働組合の組織、監獄か流刑地での服役のあいだを繰り返した。
 政治的には、メンシェヴィキの側にいた。
 高等教育を受けなかった。経済に関する知識は、新聞、多量の雑誌、小冊子を読むことで獲得した。
 戦争中に報道記者になり、Stockholm からリベラルな新聞の<Russkie Vedomosti>のために、ドイツの国内発展に関する報告を提出した。
 革命後に書籍としてまとめられた、彼のよく読まれた論考類は、ドイツの「戦争社会主義」に魅惑されていたことを示していた(注69)。
 1917年の春にペテログラード・ソヴェトで働き、同年9月に、ボルシェヴィキへと移った。
 ボルシェヴィキ独裁の最初の数ヶ月、彼は、多数の重要な布令の草案を作成し、ときには布令を発した。
 ソヴィエト・ロシアが最高経済会議を設立し、経済計画の策定を始め、外国債務をデフォルトにし、産業を国有化し、実際的諸目的がありつつ、通貨を廃止したのは、大部分はLarin に依っていた。
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 (06) 最高経済会議は、知識人たち、主としてメンシェヴィキや独立派の専門家を魅きつけた。政治的帰属を問わない仕事を提供し、体制反対者にも自分たちは人民に役立っているという感覚をもつのを許したからだ。
 最高経済会議はすぐに、官僚制的ヒドラへと膨大化した。モスクワの、かつては二級のホテルが位置したMiasnitskaia 通りの大きなビルに本部があった。その専門家たちは、全国へと広がった。
 設立から10ヶ月後(1918年9月)、6000人の職員を雇用していた。彼らには、一日あたり20万ルーブルが俸給として支払われた(注71)。
 この職員数と給与総額は、過大ではなかっただろう。かりに、最高経済会議が、企図されたこと—すなわち国家の経済の指揮—を行なっていたならば。
 しかし、現実には主として、誰も注意を払わない布令を発することや、誰も必要としない官僚制的機関を形成することに専念した。
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 ②へとつづく。

2866/R.パイプス1990年著—第15章⑧。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
  <第15章・“戦時共産主義“>の試訳のつづき。
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 第15章・第三節/通貨廃止の試み③。
 (17) その頃までに、全ての実際的目的について、ソヴィエトの通貨は無価値になった。
 5万ルーブル銀行券は、戦前のアルミ硬貨ほどの購買力しかなかった(注46)。
 価値がまだある唯一の紙幣は、帝制時代のルーブルだった。しかし、この紙幣は隠匿され、ほとんど流通しなくなった(註47)。
 だが、人々は価値を測る何らかの単位なくしては生活することができなかったので、通貨代替物を求めた。その中で最も一般的だったのは、パンと塩だった(注48)。
 つぎの表が示すように、インフレは天文学的規模に達した。
 ----
 「流通しているロシア貨幣の現実の価値(注49)(10億ルーブルにつき)
   1917年11月 1日 1,919
   1918年 1月 1日 1,332
   1919年 1月 1日  379
   1920年 1月 1日   93
   1921年 1月 1日   70
   1921年 7月 1日   29」
 ----
 「ロシア、1913年〜1923年の物価(注50)(各年10月1日)
   1913年      1.0
   1917年      7.55
   1918年      102
   1919年      923
   1920年    9,620
   1921年    81,900
   1922年  7,340,000
   1923年 648,230,000」
 ----
 ある経済史学者の言葉では、「1917年1月1日から1923年1月1日までに、〔ロシアでの〕貨幣の量は20万倍増加し、物価は1000万倍に高騰した」(註51)。
 --------
 (18) 左翼共産主義者たちは、狂喜乱舞した。
 インフレが頂点に達する前の1921年3月に開催された第10回党大会で、Preobrazhenskii は、フランス革命で発行された通貨は最低で500分の1に価値を下落させたのに対して、ソヴィエトのルーブルはその価値をすでに2万分の1に落とした、と誇った。
 「このことが意味するのは、我々はフランス革命の40倍を獲得した、ということだ」(注52)。
 彼は、より真剣な覚書で、こう観察した。
 無制限の量の紙幣を印刷する政府の政策によって惹起された莫大なインフレは、農民層から食糧その他の生産物を掴み出すのを助けた。
 ボルシェヴィキ革命を3年間支えるのに重大な役割を果たしたのは、一種の間接税だった(注53)。
 第11回党大会で、G. Ia. Sokolnikov は、驚きを込めて、党大会でこの主題について初めて長い報告をする、と注意を向けた。
 彼は、それまでの政策は通貨と財政は廃止されたものと見なすことだった、と述べた。
 この目的のための手段は、意図的なインフレだった(註54)。
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 (19) 経済史の研究者たちは長く、通貨は、「資本主義」の形態にとどまらない全ての経済活動に不可欠の要素だ、と警告してきた。
 Max Weber はこう書いた。
 「貨幣なき社会の問題に勇気をもって取り組むならば、何らかの会計制度が何とかして『発見される』だろうとの前提的想定は、何ら役に立たない。
 これは、全ての『社会化』の根本問題だ。
 この最も決定的な点に合理的に策定される計画の手段をもたないかぎりは、合理的な『計画経済』について語ることはできない。」(脚注)
 ロシアでは、Peter Struve が、革命の前にも後にも、経済活動は最小の費用で最大の利得を得ようとすることを意味するので、名前や物理的形態がどうであれ、計算単位または「通貨」を必要とする、と主張した。
 貨幣を廃止することはできない。貨幣がその自然な機能を果たすことを政府が妨げようとするときはつねに、その結果は市場の分裂だ(規制市場と自由市場)(注55)。
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 (脚注) M. Weber, Wirtschaft und Gesellschaft, I (Tübingen, 1947), Pt. 1, Chap. 2, p. 12. この批判は、Otto Neurath に向けられていた。Neurath は、通貨とは無関係に帳簿を記入する制度を案出した、と考えていた。
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 (20) ボルシェヴィキはようやく、こうした観察が真実であることに気づいた。
 貨幣なき経済の擁護者が予見できず、最終的に彼らの運命を決めた困難さがあった。それは、国有化された企業と他の国家組織との間の会計を処理する方法を提示することに失敗したことだった。
 1918年8月30日の布令(注56)は、ソヴィエトの諸機関に対して、当面必要な出費分を除いて、それらの金銭資産を全て人民銀行に預けることを指示した。
 それら諸機関はまた、生産物を国家経済最高会議(後述)の適切な機関(glavki)に預託し、代わりに、備品や原料を受け取るものとされた。
 これらの業務は、貨幣に頼ることなく、帳簿への記入の方法で実施されるものとされた。
 しかし、この手続は機能しなかったようだ。というのは、翌年に追加の布令が発布されていて、その布令は、国有企業間の、および国有企業と国家諸機関の間の業務執行に関する貨幣なき帳簿記入について、それらを実行する仕方を複雑なほどに詳細に、定めているからだ(注57)。
 Osinskii は、ソヴィエト諸機関と諸企業の間の財務関係を規律する布令に政府官僚たちは最初から反対し、その制定から逃げてきた、と主張した。
 彼は、そうした制度がそもそも機能しないものであることを、認めようとしなかっただろう(注58)。
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 (21) Ossinskii とその急進派の仲間たちは、慌てなかった。
 1920年2月、Larin とその同僚たちは、次回の党大会のために、正式に通貨を廃止する決議の草案を作成した。
 レーニンは、原則的に同意しつつ、さらなる議論を求めた。
 1年後(1921年2月)、布令を発表する準備ができた。かりに実施されていれば、その布令は歴史上初めて、租税を廃止することになっただろう(注60)。
 しかし、施行されることはなかった。政府はその翌月、新経済政策(NEP)の導入に合わせて、さらに貨幣を消し去ろうとしつつも、財政上の責任へと戻る措置を講じた。
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 第三節、終わり。

2865/R.パイプス1990年著—第15章⑦。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
  <第15章・“戦時共産主義“>の試訳のつづき。
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 第15章・第三節/通貨廃止の試み②
 (11) レーニンは、財政問題についてはかなり保守的だった。その立場を主張し続けていれば、ソヴィエト・ロシアは最初から、徴税と予算策定制度について伝統的な手法を採用していただろう。
 彼は、予算上の混乱を心配した。
 1918年5月に、何であれ今ある実業界の重要性をいつものように強調して、次のように警告した。
 「財政政策をうまく実施しなければ、全ての我々の急進的な改革は失敗だと非難される。
 社会主義のモデルによる社会の再組織について我々が想定する莫大な努力が成功するか否かは、まさにこの〔財政上の〕任務にかかっている。」(注36)
 しかし、レーニンはこの問題に時間を割く余裕がなかったので、異なる考え方をもつ仲間たちにこれを委ねた。
 同僚たちは、貨幣と財政をすっかり廃止しようとした。国家支配の生産と配分にもとづく経済を創出するためだった。
 1918年の後半、ソヴィエトの出版物には、このような経済観を促進する多数の論文が掲載された。それらは、ブハーリン、Larin、Osinskii、Preobrazhenskii、A. V. Chaianov のようなボルシェヴィキの論客たちの支持を受けた(脚注)
 彼らの考え方は、紙幣を無制限に発行することで、通貨を無価値にすることだった。
 貨幣に代わるのは、1832年にRobert Owen の<労働交換銀行>で発行されたものに類似した、「労働単位」だとされた。これは相当する商品とサーヴィスの量について資格がある者が使用した労働量を示す代替券(token)だった。
 Owen の実験は、1848年の革命時にフランスで導入されたLouis Blanc の<ateliers sociaux>がそうだったように、無惨に失敗した(Owen の銀行は2週間後に閉鎖された)。
 ロシアの急進的知識人たちは、怯むことなく、この途を歩んだ。
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 (脚注) 企てられた貨幣なき経済の理論的基礎を概観したものは、次に見出され得る。Iurovskii, Denezhnaia poli tika, p. 88-125. この主題に関するボルシェヴィキの考え方に圧倒的な影響力をもったのは、ドイツの社会学者、Otto Neurath だった。
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 (12) ボルシェヴィキ党(共産党)は、1919年3月に採択した新綱領で、通貨の廃止を目標とすると宣言した。
 新綱領では、貨幣の廃止はまだ実現可能ではないが、党はこれを達成することを決意している、と述べられた。
 「計画に従って経済が組織される程度において、銀行は廃止され、共産主義社会の中央記帳局に変わるだろう」(注37)。
 これに応じて、ソヴィエトの財務人民委員部は、自分たちの任務は余計なものになる、と宣言した。
 「社会主義の共同社会では、財政は存在しない。ゆえに私は、この主題について語るのを詫びなければならない」(脚注)
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 (脚注) S. S. Katzenellenbaum, Russian Currency and Banking, 1914-1924(London, 1925), p. 98n. この証拠からすると、ロシアの通貨の全面的な価値下落へと至るボルシェヴィキの財政政策は、計画や政策の結果ではなく、絶望的な需要に対する反応の結果だった、とするCarr の主張(Revolution, II, p.246-7, p.261)に同意するのは不可能だ。
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 (13) その結果は、最後には「色の付いた紙」に変わるまで、ロシアの貨幣の価値下落を加速することだった。
 ソヴィエト・ロシアで1918-22年に起きたインフレは、ヴァイマール・ドイツがすぐのちに経験することになる、もっとよく知られてているインフレにほとんど匹敵するものだった。
 このインフレは、意図的に、印刷機が吐き出すことのできるだけの紙幣が国じゅうを埋めつくすことによって、発生した。
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 (14) ボルシェヴィキがペテルブルクで権力を奪取したとき、ロシアで流通している紙幣は、総額196億ルーブルだった(注38)。
 大量のそれは、「Nicholaevsky」として一般に知られた、帝政期のルーブル紙幣だった。
 臨時政府が発行した、「ケレンスキー」または「Dumki」と呼ばれたルーブル紙幣もあった。
 後者は、片面だけに印刷された簡素な札で、通し番号、署名、発行者名はなく、ルーブルの価額と偽造に対する制裁を示す警告だけが記載されていた。
 1917年と1918年初頭、「ケレンスキー」は帝制ルーブルよりも少し割り引かれて流通していた。
 ボルシェヴィキは、国立銀行と国庫を奪取した後でも、「ケレンスキー」をその外形を変更することなく発行しつづけた。
 一年半のあいだ(1919年2月まで)、ボルシェヴィキ政府は、それ自身の通貨を発行しなかった。これは主権が持つ通貨発行の伝統的権利を行使しないという驚くべきことだった。そして、一般国民が、とくに農民が、それを受け入れるのを拒むだろうという恐怖によってのみ、説明することができる。
 1917年十月以降は徴税制度は完全に破綻し、租税以外の収入では政府の需要を充たさなかったので、ボルシェヴィキは印刷機に頼った。
 1918年の前半、人民銀行は毎月20-30億ルーブルを、信用保証は何もなく、発行した(脚注1)
 1918年10月、ソヴナルコムは、従前に臨時政府が公認していた165億ルーブルから335億ルーブルにまで、信用保証なき銀行券の流通量を引き上げた。これは長く続いた。
 1919年1月、ソヴィエト・ロシアには、613億ルーブルが流通していた。そのうち三分の二は、ボルシェヴィキが発行した「ケレンスキー」だった。
 その翌月、政府は、「会計券(accounting token)」と呼ばれる、最初のソヴィエト紙幣を発行した(脚注2)
 この新しい通貨は、「Nicholaevki」や「ケレンスキー」と並んで流通した。但し、これらに比べて大きく割り引かれた。
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 (脚注1) この無責任な財政政策について金融市場がほとんど注目しなかったことは、そしてじつに、それがボルシェヴィズムに順応する用意が相当にあったことは、驚くべきほどだ。当時の新聞(NV, No.102/126, 1918年6月27日, 3頁)によると、1918年6月に、1ドルにつき12.80ルーブルで、ロシアでアメリカ通貨を購入することができた。これは、1917年11月と同じ交換比率だった。
 (脚注2) 革命期のロシア通貨を再現したものは、N. D. Mets, Nash rub V(Moscow, 1960)で見られる。Katzenellenbaum によれば、最も早いソヴィエトの通貨は、1918年半ばにPenza で現れた(Russian Currency, p. 81)。
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 (15) 1919年初め、インフレはますますひどくなっていたが、先にある醜悪な次元にはまだ達していなかった。
 1917年と比較して、物価の指標は15倍に昇った。1913年を100とすれば、1917年10月には755、1918年10月には10,200、1919年10月には92,300 と増大した(注40)。
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 (16) そして、ダムは決壊した。
 1919年5月15日、人民銀行には、その見解によれば国民経済が必要とするだけの貨幣を、発行する権限が与えられた(注41)。
 そのとき以降、「色の付いた紙」の印刷は、ソヴィエト・ロシアで最大の産業に、そしておそらくは唯一の成長産業になった。
 1919年の末、貨幣製作所は1万3616人を雇用していた(注42)。
 貨幣の発行を唯一制約するものは、用紙とインクの不足だった。政府はときには、印刷用品を外国から購入するための金塊を割当てなければならなかった(注43)。
 そうであってすら、印刷は需要に追いつくことができなかった。
 Osinskii によれば、1919年の後半、「国庫の活動」—換言すると「貨幣の印刷」—は、予算上の歳出の45から60パーセントまでの間を消費した。このことは、予算を均衡させる手段として!迅速に貨幣を排除しなければならないという彼の主張の論拠として役立った(注44)。
 1919年のあいだに、流通している紙幣の量はほとんど4倍になった(613億ルーブルから2250億ルーブルへ)。
 1920年には、そのほとんど5倍になった(1兆2000億ルーブルへ)。
 1921年の前半には、さらにその2倍になった(2兆3000億ルーブルへ)(注45)。
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 ③につづく。

2864/R.パイプス1990年著—第15章⑥。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
  <第15章・“戦時共産主義“>の試訳のつづき。
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 第15章・第三節/通貨廃止の試み①。
 (01) このような性質は、通貨のない経済の導入を意図した初期のボルシェヴィキの財政実験に、最もよく表れていた。
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 (02) マルクスは、貨幣の性格と機能に関して、大量の、込み入った馬鹿げたことを書いた。彼はその際、Feuerbach の「投影」と「物神」(fetisches)という概念を採用した。
 マルクスは通貨を「人類の疎外された能力」、「人間の自然の本性」の全てを「混乱させる」もの、「労働の結晶」、人間から離れて支配するようになる「怪物」と、さまざまに定義した。
 こうした考えは、貨幣を持たず、それを稼ぐ方法を知らないが、貨幣がもたらす影響と充足を切望する知識人たちにはきわめて魅力的だった。
 知識人たちが経済史にもっと通暁していたならば、「貨幣」と称するかは別として、労働の分配や商品およびサービスの交換を実際に行なっている全ての社会に、一定の測定単位が存在したことに気づいただろう。
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 (03) このような考えの魔法のもとで、ボルシェヴィキは、貨幣の役割を高く評価しすぎ、一方で低く評価しすぎた。
 「資本主義」経済の観点では高く評価しすぎた。それを彼らは、財政装置によって全体的に支配されているものと考えた。
 「社会主義」経済の観点では低く評価しすぎた。それを彼らは、貨幣なしで済ませることができるものと信じた。
 ブハーリンやPreobrazhenskii が述べたように、「共産主義社会は、金銭について何も知らないだろう」(注29)。
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 (04) ロシアの諸銀行を掌握すれば一瞬にして国の産業と取引の支配権を握ることが可能になる、というのは、Hilferding の理論に由来した(脚注1)
 これによって、ロシアはすみやかに社会主義になる—銀行の国有化は「社会主義の十分の九」を達成するだろう—とのレーニンの楽観主義が説明される。
 Olenskii も同様に、銀行は最も重要な唯一の手段だと宣告した(脚注2)
 このような方法によるロシアの資本主義経済の迅速で簡単な克服という見込みは完全に幻想だった、と判明した。しかし、ボルシェヴィキ党は頑なに、Hilferding の理論に執着した。
 1919年に採択した新しい綱領は、ロシアの国立および商業銀行の国有化によって、ソヴィエト政府は「銀行を金融資本主義の支配センターから労働者の活力の武器、経済革命の梃子に変える」(注30)、と主張した。
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 (脚注1) Hilferding によると、1910年にベルリンの大銀行のうち6銀行が、ドイツの産業のほとんどを支配していた。
 (脚注2) ドイツの銀行のように、ロシアの銀行は、工業、商業上の起業に直接に関与し、これら企業が発行する有価証券や社債で相当の金融資産を有していた。こうしたことは、彼の見解に、信頼できそうだとの印象を与えた。
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 (05) ボルシェヴィキの理論家たちは、「色付き紙」に価値を下げ、配給券による商品の配分の総合的制度に置き換えることで、貨幣を完全に一掃してしまうことを望んだ。
 1918-20年のソヴィエトの公刊物では、多数の論文が、貨幣の消失は不可避だと論じた。
 以下は、恰好の例だ。
 「社会化された経済の強化と配分に関する包括的計画の導入と並んで、金銭券(つまり通貨)の必要は消滅するに違いない。
 社会化された経済での流通が徐々に消失して、通貨は、私的生産者に対する政府の直接の影響力の外にある資産に変わる。
 通貨の量が継続的に増加してその発行の必要が継続するにもかかわらず、通貨は、国民経済の全体的動向の中では、つねに消滅していく役割しか果たさなくなる。
 このいわば、客観的な通貨の価値下落は、さらに勢いづいて、社会化された経済が強化され、発展して、小さな私的生産者たちの拡大する分野がその軌道内に抑え込まれるまでになる。そして、ついには、私的生産性に対する国家の生産性の決定的な勝利のあとで、通貨の着実な、流通からの撤退が、移行期を経て通貨なき配分へと至る可能性が現出するだろう(注31)」。
 マルクス主義者が好んだ専門術語で、著者は、通貨はまだ失くならない、「小さな私的生産者」(農民と読む)が国家統制の外になおも残っており、彼らにまだ支払わなければならないから、と言っていた。
 通貨は、「私的生産」に対する「国家生産」の決定的な勝利によってのみ余分なものになる。—言い換えると、農業の完全な集団化のあとでのみ。
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 (06) ボルシェヴィキが通貨を排除するのに失敗した理由として挙げていた標準的なものは、ほとんど全ての食糧生産を含む経済の多くは、国有化のための種々の布令を発したあとですら、私人の手に残ったままだ、というものだった。
 Osinskii によると、「二重経済」の存在—国有と私有—は、「不確定な時期」のための貨幣制度の維持を余儀なくさせていた(注32)。
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 (07) しかしながら、実際には、農民は彼らの生産物を滑稽なほどに低価格で売却していたので、このような考察には、公式の説明と言えるほどの真摯さが欠けていた。
 レーニンは、1920年の夏に、財務部によって印刷される大量の紙幣は、食糧を購入するためではなく、労働者や公務員の給料を支払うために使われていることを認めた。
 彼の推定では、ソヴィエト・ロシアには1000万人の賃金労働者がおり、毎月に平均4万ルーブルを受け取っていた。総計では4000億ルーブルになる。
 この数字と比べると、食糧の代償として農民たちに支払われる金銭は微細なものだった。
 Larin は、固定価格(1918-20年)で得られる食料全部のために、政府は200億ルーブルも使っていない、と見積もった(注33)。
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 (08) ボルシェヴィキがペテログラードで権力を掌握したあとすぐに銀行を国有化できなかったのは、ボルシェヴィキを正当な政府だと承認するのを、銀行界がほとんど満場一致で拒んだからだった。
 既述のように、この反対の立場は、やがて崩れた。
 1917-18年の冬の終わりに、全ての銀行が国有化された。
 国立銀行(the State Bank)は人民銀行(the People’s Bank)と改称され、他の信用機関の責任も負わされた。
 1920年までに、人民銀行と決済機関として機能したその支店を除き、全ての銀行が閉鎖された。
 金庫は開放が命じられ、そこから発見された金は、大量の現金や有価証券とともに、没収された。
 こうした措置は、ボルシェヴィキの期待をほとんど満足させなかった。結果としての収穫は、信用から排除するためにロシアの事業界を政府が統制できるほどに大きくはなかったからだ。
 これは、新しい体制にとって、苦い失望だった(注34)。
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 (09) ボルシェヴィキ政府は、財政上は、長いあいだ混乱の状態にあった。
 1917年の十月後に租税制度はほとんど破綻し、歳入はごく僅かになった。
 政府は、できるかぎりのことをして切り抜けた。
 流通貨幣として政府が頼ったのは、ケレンスキーの「自由ローン」に由来するクーポン券だった。
 通常の予算に僅かにでも似たものは、何もなかった。
 1918年5月の財務人民委員部の推測(原文ママ)では、政府はそれまでの半年間に200-250億ルーブルを費やし、50億ルーブルを入手した(脚注)
 政府は、地方の行政機構からの要求を充たすことができなかった。
 それで、地方の「ブルジョアジー」に金銭を強要することを、<guberniia>〔帝制下の地方行政区〕や地区ソヴェトに対して、許したのみならず、命令した。
 レーニンはこれは、全ての地方のソヴェトが自らを「自立した共和国」と見なすのを励ますことになる悪い先例だと考えた。
 そして、1918年5月に、財政上の中央集権化を要求した(注35)。
 しかし、中央に金銭がないならば、財政を中央に集中させることはできなかっただろう。
 政府は結局は、地方ソヴェトに対して、助成金を懇願するのをやめて、自分たちで何とか処理するよう伝えた。
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 (脚注) E. H. Carr, The Bolshevik Revolution, 1917-1923, II(New York, 1952), p.145. 彼は、「これらの数字のいずれかを推測にすぎないと見なすことは困難だ」と述べる。たしかに、1918年7月にソヴナルコムが承認した国家予算は、遡及して以前の6ヶ月間、歳出を176億ルーブルに、歳入を28.5億ルーブルに固定していた。NV, No. 117/141(1918年7月14日), p.1. 当時の別の推計では、1918年前半の歳出は205億ルーブル、歳入は33億ルーブルだった。Lenin, Sochineniia, XXIII, p. 537-8.
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 (10) 臨時の出費の資金を増やし、同時に「階級敵」の経済力を削ぐために、ボルシェヴィキはときどき、「寄付金」というかたちでの差別的な徴税を行なった。
 そうして、1918年10月に、特別の一時限りの、100億ルーブルの「寄付金」が、国の有産階層者に課された。
 この臨時の徴税は、モンゴルが中世のロシアに導入した中国の例に従ったもので、都市部と地方の割合を定め、その範囲内で、支払いの配分をそれらに委ねた。
 モスクワとペテログラードは、それぞれ30億ルーブルと20億ルーブルが要求された。
 その他の地方ソヴェトには、支払いに責任を負う個人のリストを用意することが求められた(脚注)
 類似の「寄付金」が、地方ソヴェト自身の主導によって、課された。ときには、当面の出費のための金銭を徴集するために、ときには、制裁として。
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 (脚注) Piatyi Sozyv VTsIK: Stenographcheskii Otchet(Moscow, 1919), p.289-p.292. しかし、望んだ金額の一部だけが実際に徴集されたように思われる。
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 ②へとつづく。

2854/R.パイプス1990年著—第15章⑤。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
  <第15章・“戦時共産主義“>の試訳のつづき。
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 第15章・第二節/”左翼共産主義”構想の実行。
 (01) ブハーリンは左翼共産主義派の指導者だった。ブレスト条約をめぐって敗北した後では、レーニンの国家資本主義に対する反対の立場を採った。
 左翼共産主義の主要な理論家はValerian Obolenskii で、その筆名から、N. Osinskii の方がよく知られていた(脚注)
 1987年に急進的信条をもつ獣医の子として生まれ、20歳の年にボルシェヴィキに加入した。
 ドイツで1年間、政治経済学を研究した。このことで、彼の胸のうちでは、経済問題、とくにロシアの農業に関して執筆する資格を得たつもりになった。
 十月のクーの後ですぐに、ボルシェヴィキによって、国立銀行の理事長に任命された。この役職を彼は1918年3月まで務め、ブレスト条約の締結に抗議して辞任した。
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 (脚注) N. Osinskii につき、Granat, XLI, Pt. 2, p. 89-98.
 1938年に(ブハーリンとともに)疑似裁判を受け、レーニン暗殺を図ったとしてその後直ぐに射殺された。Robert Conquest, The Great Terror (New York, 1968), p.398-400.
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 (02) Osinskii は、1918年の夏に<社会主義の建設>を執筆し、秋に出版した。この書物こそが、戦時共産主義の青写真を提供した(注25)。
 彼が明確にしたように、ボルシェヴィキ体制の経済に関する課題には、つぎの三つがある。すなわち、資本主義経済の「戦略的地点」の統制権の掌握、その内部にある非生産的要素の排除、国家全体の総合経済計画の策定。
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 (03)  彼はHilferding に従って、「資本主義の脳」である諸銀行の掌握を優先すべき課題の第一と考えた。
 銀行は、社会主義経済の交換代理機関へと転換されなければならない。
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 (04) 第二は、大小を問わず、工業および農業生産の手段である私有財産の国有化だった。
 これは、財産の権原の法的な移行だけではなく、労働者がその地位を受け継ぐべき、従前の所有者や経営者という人間の排除をも意味した。
 この措置は資本主義の心臓部を攻撃するものであり、同時に、適切な資源の配分を通じて生産を合理化するのを可能にする。
 --------
 (05) 第三の段階である商業の国有化は、最も困難だった。
 政府は、全ての商業シンジケートと大規模の会社を掌握するだろう。
 卸売り取引を独占することによって、商品の価格を設定するだろう。やがては、全ての商品が、できれば無料で、国家機関によって分配される。
 自由な市場の廃絶は、不可欠の措置だ。
 「市場は、資本主義から継続的に滲み出る、細菌感染症の病巣だ。
 社会的交換の機構を支配することで、投機、新しい資本の蓄積、新しい所有者の出現が排除されるだろう。…
 全ての農業生産物を適切に独占すれば、一ポンドの穀物でも、一バッグの馬鈴薯でもこっそりと<販売する>ことが禁止される。そして、別々の村落農業を継続するのを完全に無意味にするだろう。」(注26)
 --------
 (06) 第四は、小売り取引の廃絶だ。
 義務的な消費者共同組織は、まず第一に必要な物品についての独占を行なう。
 この仕組みは投機と「怠業」をなくし、資本主義者から利益の淵源を奪うことになる。
 --------
 (07) 最後に、強制労働の導入が必要だ。
 これの指導原理は、単純だ。すなわち、「労働官署によって割り当てられた労働を拒む権利を、いかなる者も有しない」。
 強制労働は、当面は、 手に余剰がある田園地域では必要ない。だが、都市部では、不可欠だ。
 この制度のもとでは、「労働義務は人々を労働を強いる手段になる。そしてこれは、易しく言えば、飢餓による死の恐怖を意味した、かつての「経済的」刺激にとって代わる。
 --------
 (08) 政治的および経済的理由で、経済は、一部は資本主義を基盤とし、一部は社会主義のそれ、ということはあり得ない、というのは、Osinski の構想の根本的な前提だった。明確な選択がなされなければならない。
 そうであっても、彼はレーニンに従って、自分のこの経済綱領を、「社会主義」や「戦時共産主義」ではなく、「国家資本主義」と呼んだ。
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 (09) 左翼共産主義者の経済綱領は、党員、労働者、やがて新しい利益集団を形成する労働者支配の受益者から、強い支持を得た。彼らは、いったん掴んだ土地を手離した農民とは違って、1917年に奪取した工場をもう放棄したくはなかった。
 左翼エスエルも、この考え方に共感した。
 レーニンは懐疑的に見ていたが、屈服せざるを得なかった。ブレストで失った人気を回復させるための代償だった。
 1918年6月、のちに詳述する条件で、レーニンは、ロシアの工業の国有化を布令した。
 この措置は、レーニンが理解した意味での「国家資本主義」の可能性を終わらせるものだった。
 これは、見知らぬ世界への跳躍だった。
 --------
 (10) 戦時共産主義の設計者、理論家、実行者たち—Osinskii、ブハーリン、Larin、Rykov、等々—は、経済学という分野についてきわめて表面的な知識しかもっておらず、企業経営の経験もなかった。
 彼らの経済に関する知識は、多くは社会主義者の文献から来ていた。
 誰も企業を運営したことがなく、製造業や取引でルーブルを稼いだことがなかった。
 この実験に関与しなかったKrasin を除いて、ボルシェヴィキの指導者たちは職業的革命家で、ロシアまたは外国の大学での短い期間(ほとんどは政治活動に使われたのだが)以外は、成人以降の全生涯を、監獄の内外または外国逃亡者として過ごした。
 彼らを導いたのは、Marx、Engelsおよびドイツの弟子たちの書物から、およびヨーロッパ革命に関する急進的な歴史書から拾い集めた、抽象的な公式だった。
 Sukhanov がレーニンについて語ったことは、彼ら全員に当てはまる。
 「空想の跳躍への障害を知らない可哀想な騎兵、残酷な実験者、国家行政の全部門についての専門家、その専門の全てに関する素人的好事家」(注27)。
 このような類の素人たちが、世界で第五番めに大きい経済を転覆させ、小規模ですらかつて試みられたことのない変革を行なうことを企てることになる。いくぶんかは、1917年10月にロシアの権力を奪取した者たちの判断ではあるが。
 このような人々の動きを観察すると、フランスのジャコバンに関するTaine の叙述を想起することができる。
 「その原理は、政治幾何学の公理だ。つねに、自らを証明するものを伴っている。というのは、共通幾何学の公理に似て、少数の単純な観念を結合したもので成っており、それをただちに証明するものを自ら自身のうちに含むからだ。…
 現実にある人間は、それには関係しない。
 それは人間を観察しない。人間を観察する必要がない。
 それは閉じた眼で、操作して作った人間の実体に、自分自身の像を押しつける。
 この複雑で、多種多様な、揺れ動く実体に関する従前の把握の仕方についての観念は、その頭の中には入ってこない。—この実体は、現在の農民であり、技術職人であり、都市民であり、聖職者や貴族であるが、鋤鍬の背後に、家屋に、店舗に、牧師館に、大邸宅に、凝り固まった信念をもって、執拗な性向をもって、力強い意思をもって、存在している。
 こうしたものは一切その心の中に入らず、とどまることもしない。
 その思考通路は、抽象的な原理によって遮断される。抽象的原理がそこでは繁茂しており、そこを完全に充たしている。
 かりに現実的経験が眼や耳を通じてその心の中に歓迎されざる真実を力ずくで植え込むとすれば、それは生存していくことができない。
 どんなに騒々しくしてもまたどれほど強く主張したとしても、抽象的原理によって、追い払われてしまう。…」
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 第二節、終わり。

2852/R.パイプス1990年著—第15章④。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
  <第15章・“戦時共産主義“>の試訳のつづき。
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 第15章・第一節/起源と目標④
 (20) この時期、レーニンは、資本主義の経営と技術を新しい国家で利用する、国家資本主義を擁護して、確信をもちつつ、但し十分には支持されなかったのだが、論述した。
 資本主義が提供する最良のものを採用してのみ、ロシアは社会主義を建設することができる、と。
 「国家資本主義の最も具体的な例を挙げよう。
 誰もがこの例を知っている。ドイツだ。
 ここに我々は『決定句』を見る。<ユンカー・ブルジョア的帝国主義に従属した>、近代的な大規模の資本主義運営と計画的組織化のうちに。
 強調部分を削除し、軍国主義、ユンカー、ブルジョア、帝国主義国家の箇所に<国家>を挿入する。この国家は、異なる社会類型の国家であり、異なる階級内容をもつ国家だ。—<ソヴィエト国家>、すなわち、プロレタリア国家だ。そうすれば、社会主義に必要な条件の<総計>を我々は得るだろう。
 近代科学の最新の研究成果にもとづく大規模の資本主義の技術がなければ、社会主義を構想することはできない。
 生産と産物の配分の統一的標準を数百万の人民に正確に観察させる、そのような計画的な国家の組織化がなければ、社会主義を構想することはできない(注22)。」
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 「ソヴィエト権力のもとでの国家資本主義とは何か?
 現時点において国家資本主義を達成することは、資本主義諸階級によって実行されている計算と統制を実践に移すことを意味する。
 国家資本主義の例を、我々はドイツに見る。
 ドイツは我々よりも優れていることを、我々は知っている。
 しかし、ほんの僅かでもつぎのことを考えれば、何が意味されるだろうか。かりにその国家資本主義の基礎がロシア、すなわちソヴィエト・ロシアで確立されるならば、正当な感覚を失わず、書物の知識の断片で頭を充たしていない者は誰でも、国家資本主義は我々を救済するものだ、と言わなければならないだろう。
 <私は、国家資本主義は我々を救済するものだ、と言った。
 ロシアがそれを達成すれば、完全な社会主義への移行は容易になるだろう。我々の理解では、国家資本主義とは、中央集権化され、計算され統御され、社会主義化された何ものかであって、それはまさに、今の我々に欠けているものだ。>…」(注23)
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 (21) レーニンが好んだ経済の問題はかくして、ボルシェヴィキが実際には採用することになるものよりも、はるかに穏健なものだった。
 レーニンがそのまま進んでいたら、「資本主義」セクターは基本的には無傷のままで残され、国家の監視のもとに置かれただろう。
 外国資本(主にドイツとアメリカ)の流入を想定した協力関係が結果として生じ、そのことは、政治的な副作用なくして先進「資本主義」の利益の全てをボルシェヴィキ経済にもたらすことを意味しただろう。
 こうした提案には、3年後の<新経済政策>と共通する多くの特徴があった。
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 (22) しかし、これは、現実にはならなかった。
 レーニンとトロツキーは、多くのグループから狂信的な反対を受けた。グループの中の<左翼共産主義派>の反対は、最も激烈だった。
 左翼共産主義者たちは、ブハーリンによって指揮され、党内エリートの重要部分と妥協していたが、ブレスト=リトフスク条約に関しては屈辱的な敗北を喫していた。
 しかし彼らはボルシェヴィキ党内の分派として活動をし続け、彼らの機関紙<共産主義者>の紙面で、自分たちの主張を議論し続けた。
 このグループの中には、Alexandra Kollintai、V. V. Kuibyshev、L. Kritsman、Valerian Obolenskii(N. Osinskii)、E. A. Preobrazhenskii、G. Piatakov、Karl Radek)がいた。そして自分たちは「革命の良心」だと考えていた。
 このグループが十月以来信じていたのは、レーニンとトロツキーは「資本主義」や「帝国主義」との機会主義的な順応へと滑り込んでいる、ということだった。
 レーニンは<左翼共産主義者>を、夢想家かつ狂信者で、「社会主義の幼年期の病気」の犠牲者たちだと見なした。
 しかし、この党派は、労働者や知識人から力強い支援を受けた。とくに、レーニンとトロツキーの提案によって「資本主義」の方法が導入される危険があると感じる、モスクワの党組織内の彼らによって。
 提案されたのは、責任をもつ個人による経営に戻すために工場委員会の解体、「労働者支配の放棄」を求めるものだった。この変化は不可避的に、党官僚たちの力と特権を減少させる。
 レーニンは、ボルシェヴィキがブレストのために論争しており、全てのソヴェトで多数派でなくなっていたときには、これら知識人と労働者内のその支持者たちを無視することができなかった。
 また、ある金属労働者がMeshcherskii との交渉に関してこう言うのを聞いたとき、常識が彼に勧める方向を強く主張することができなかった。「レーニン同志、この分野でも息つぎ時間を考慮しているなら、あなたは偉大なご都合主義者だ」(脚注)
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 (脚注) Vechernaia zvezda, April 19, 1918, in: Peter Scheibert, Lenin an der Macht(Weinheim, 1984), p. 219. この参照は、もちろん、ボルシェヴィキがブレスト=リトフスク条約で確保したと主張した、一般には知られない「息つぎ時間」に関してだ。
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 (23) 実際に現実化した戦時共産主義の諸要素は、1918年4月にLarin が発表した小論の中で考察されていた。
 Larin は、1917年11月に彼の論文で発表した諸原理を綿密にしたものにすぎないと装っていたけれども、新しくて異なる経済綱領を提示していた。
 ロシアの全ての銀行は国有化されなければならない。
 工業についても、全ての分野でそうしなければならない。国家と私的トラストの間に協力の余地はない。
 「ブルジョア」専門家は、技術的要員としてのみ経済のために働くことができる。
 私的取引は廃止され、国家の監督のもとでの協同的作業に変えられなければならない。
 経済は、単一の国家計画に従うべきだろう。
 ソヴィエトの諸制度は、通貨とは関係させないで、会計処理を維持する。
 やがて、国家の統制は、旧地主の未使用土地を皮切りに、農業へと拡張されるだろう。
 私的資本に対する唯一の譲歩は、外国の利権だ。これは、技術的人員を提供し、備品の輸入のための借款を認めることで、ソヴィエト・ロシアの経済発展に参画することが許される(注24)。
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 (24) このような綱領的計画でもって、左翼共産主義派は1918年4月に、レーニンを抑えて圧倒した。そして、即席の社会主義というユートピアへと、向こう見ずにも突進していくことになった。
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 第一節、終わり。

2849/R.パイプス1990年著—第15章②。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
  <第15章・“戦時共産主義“>の試訳のつづき。
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 第15章・第一節/起源と目標②。
 (07) 戦時共産主義には、いくつかの源泉となる着想があった。
 商品と労働の生産・配分の国家統制(国家所有でなかったが)は、第一次大戦中のの帝政ドイツで導入されていた。
 「戦時社会主義」(Kriegessozialismus)として知られるこの緊急措置は、レーニンとその経済助言者のIurii Larin に深い印象を与えた。
 商品の自由市場を国家経営の分配センターで置き換えるというのは、Louis Blanc の思想と彼の影響のもとで1948年にフランスに導入された<ateliers>に倣っていた。
 しかしながら、精神では、戦時共産主義が最も似ていたのは、中世ロシアの父権的体制(tiagloe gosudarstvo)だった。父権的体制のもとでは、君主制は、住民や資源も含めて、国全体を君主の私的領域のごとく扱った(注08)。
 西欧の文化に本当に全く接したことがなかったロシアの大衆にとって、経済の統制は、抽象的な財産権や「資本主義」と称される複合現象全体よりも、はるかに自然だった。
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 (08) かりに1918年と1921年の間のソヴィエトの経済布令を額面どおりに理解すれば、この時期の終わりには国家の経済は完全に国家が管理するものになると、おそらく間違いなく結論づけるだろう。
 実際には、ソヴィエトの布令群は、しばしば意図を示したものにすぎなかった。法と現実との不一致はより大きくはならなかった。
 恒常的に膨大化する国家セクターと並んで、その廃止の企てに抵抗する私的セクターが盛んに活動していた証拠は、豊富に存在する。
 通貨は、言うところの「貨幣なき」経済においてすら流通しつづけた。
 そして、パンは、体制は穀物独占を主張しているにもかかわらず、公開の市場で販売された。
 中央経済計画は、実施されなかった。
 言い換えると、戦時共産主義が放棄されなければならなかった1921年に、それはきわめて不完全ながらようやく実現していた。
 戦時共産主義が失敗した理由は、ごく一部は、法令を政府が実施できなかった、能力のなさにある。
 これ以上に、可能であったときですら、厳格に強制的に施行すれば経済的大厄災をもたらしただろう、と気づいていたことによる。
 共産主義者の文献は、パンの総量の三分の二の多さを都市住民に提供していた非合法の食物取引がなければ、都市は飢餓に陥っていただろう、ということを認めていた。
 新しい名前とスローガンにあった戦時共産主義は、ようやく10年後に現実になった。スターリンが、レーニンが中止させていたときに経済的編成を再開したからだ。
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 (09) 戦時共産主義の目標は、社会主義だった。あるいは、共産主義ですらあった。
 唱導者たちはいつも、社会主義国家は私有財産と自由市場を廃止し、中央集権化した、国家が経営する、計画経済システムがそれらに代わる、と信じていた。
 ボルシェヴィキがこの構想を実現しようとして直面した主要な困難さは、マルクス主義は資本主義の発展の長期の経緯の結果として私有財産と市場を廃棄することを想定していた、ということに由来していた。資本主義の発展こそが、法令によって国有化することができるまでに生産と配分を集中させることができたのだ。
 しかし、ロシアでは、革命の時点で、資本主義はまだその幼年期にあった。
 ロシアの圧倒的な「プチ・ブルジョア」経済は数千万の自己雇用の自治組織の農民と職人に支配されていたのだが、それは、農民に配分し、労働者に工業企業の統制権を付与するために大規模の資産を破壊するというボルシェヴィキの政策によってさらに強化された。
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 (10) レーニンが十分に証明しているのは、異常に明敏な政治家だったということだ。しかし、こと経済問題については、きわめて未熟だった。
 彼の経済に関する知識は、全体として、ドイツの社会主義者のRudolf Hilferding の諸著作のような文献に依拠していた。
 影響力ある<金融資本論>(1910)でHilferding は、資本主義はその最も発展した段階、「金融資本主義」の段階に入った、それは全ての経済力を銀行の手に集中させる、と主張した。
 その段階に到達した資本主義の論理的帰結はこうだ。
 「この趨勢は一銀行または銀行群が貨幣資本全体を支配する状況を生むだろう。
 このような『中央銀行』はそれによって社会的生産の全体に対する支配を確立する。」(注09)
 「金融資本主義」という観念と結びついていたのは、シンジケートやトラストの役割に関する誇張した見方だった。
 レーニンとその仲間たちは、ロシアではシンジケートやトラストが事実上は産業と取引を支配すると信じ、市場の力には小さいかつ消失していく役割しか認めなかった。
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 (11) このような前提からは、銀行やシンジケートを国有化することは国の経済の国有化と同じことである、という帰結が生じ、そのことは次いで、社会主義の基礎を築くことを意味する。
 レーニンは、ロシアでの銀行制度とカルテルの手への経済諸力の集中によって、金融と商業の布令による国有化を可能にする次元を獲得した、と論じた(注10)。
 彼は、十月のクーの直前に、単一の国有銀行を創設すればそのこと自体だけで「<社会主義>制度の十分の九」が達成されるだろう(注11)、という驚くべき言明を述べた。
 トロツキーは、レーニンのこのような楽観主義を確認している。
 「1918年早くに書いた『平和に関するテーゼ』で、レーニンは、『ロシアでの社会主義の勝利には、一定の期間が、<数ヶ月程度(no less than)> が必要だ』と述べる。
 現在〔1924年〕では、この言葉は完全に理解し難いように思える。
 これはペンのすべりだったのか、彼は数年または数十年を意味させたかったのではなかったか?
 だが、否だ。これは、ペンのすべりではなかった。…
 私はとても明瞭に憶えている。最初の時期の、Smolnyi での人民委員会議の会合で、レーニンはいつも変わらずに、我々は半年で社会主義を達成し、最強の国家になるはずだ、と繰り返した。」(注12)
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 (12) 権力を掌握していた最初の6ヶ月のあいだに、レーニンは、彼が「国家社会主義」と呼んだシステムをロシアに導入することを考えた。
 これはドイツの「戦時社会主義」を範としたものだったが、直接に戦争遂行に関連性があるセクターや「資本主義者やユンカーたちの利益となる作業のみならず、「プロレタリアート」のための利益となる作業も包括する、という違いがあった。
 1917年9月、十月のクーの直前に、かくしてレーニンはこう考えていた。
 「常備軍、警察、官僚制の圧倒的に『抑圧的な』諸装置に加えて、現在の国家には、とくに緊密に銀行やシンジケートと結びついて、言ってみれば、大量の会計や記帳の作業を実行している諸装置が存在している。
 これらの装置を粉砕できないし、粉砕してはならない。
 これらは、資本家たちに対する服従から解放されなければならない。影響力をもつ資本家たちから切り離されなければならない。
 プロレタリア・ソヴィエトに対して服従させなければならない。
 そうなれば、諸装置はより総合的に、より多くを包括するものに、より国民的なものになる。
 そしてこのことは、大規模の資本主義によってすでに成し遂げられている達成物に依拠して、行なうことが<できる>。…
 銀行、シンジケート、商業社会等々の大量の被雇用者は、(資本主義と金融資本主義のおかげで)技術的にも、<ソヴィエト>による統制と監視のもとで政治的にも、十分に「国有化」を行なうことができる。」(注13)
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 (13) 1917年11月、レーニンは、経済綱領の概略を、こうメモした。
 「経済政策の諸問題。
  1. 銀行の国有化。
  2. 義務的なシンジケート化。
  3. 外国取引の国家独占。
  4. 略奪と闘う革命的手段。
  5. 金融や銀行の略奪の公表。
  6. 金融産業。
  7. 失業。
  8. 動員—軍の?、工業の?
  9. 供給。」(注14)
 この案は、国内取引の国家独占や工業または輸送の国有化、そして貨幣なき経済については、何ら言及していない。これらは、戦時共産主義の特徴になるはずなのだけれども。
 この時期のレーニンは、金融制度の国有化と工業、商業企業のシンジケート化で、社会主義経済をその途上に乗せるには十分だ、と信じていた。
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 ③につづく。 

2848/R.パイプス1990年著—第15章①。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
  <第15章・“戦時共産主義“>の試訳。
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 第15章・第一節/起源と目標①。
 (01) ”戦時共産主義“という言葉は、共産主義者および非共産主義者の文献で、長年にわたって、正確な意味を与えられてきた。
 <ソヴィエト歴史百科事典>の文章によると、こうだ。
 「戦時共産主義:ソヴェト社会主義共和国連邦の1918-20年の内戦と外国の干渉の時代の経済政策に与えられる名称。
 戦時共産主義の政策は、内戦と経済破綻によって生じた特別の困難さに支配された。」(注01)
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 (02) 戦時共産主義は情勢によって「支配された」という考えは、しかしながら、言葉の由来が示すように、歴史上の記録を破壊するものだ。
 「戦時共産主義」という言葉が最も早く公式に使われたのは、1921年の春だ。—すなわち、そのように称された政策が、よりリベラルな新経済政策によって放棄されているときだ。
 共産党政府が突然の方向転換を正当化するために、統制できなかった情勢下での直近の過去の大災害を非難しようと試みたのは、そのときだった。
 かくして、レーニンは、1921年4月にこう書いた。
 「『戦時共産主義』は、戦争と破綻によって強いられたものだった。
 それは、プロレタリアートの経済的責務に対応した政策ではなかったし、そうあり得ることもなかった。
 それは、一時的な措置だった。」(注02)
 しかし、これは後知恵だった。
 戦時共産主義の措置のいくつかは、実際に、緊急事態に対応するために採用された。だが、戦時共産主義は全体として、「一時的な措置」ではなく、本格的な共産主義を生み出すための、野心的な、そしてのちに判明したように、時期尚早の、企てだった(注03)。
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 (03) 体制の最初の数年のボルシェヴィキの経済政策は、即興でも反発でもなかったことは、トロツキーによっても確認されている。
 トロツキーは、戦時共産主義は「包囲された要塞での消費の体系的な編成」を必要とすることを認めたうえで、つぎのように叙述を進める。
 「その元来の観念では、戦時共産主義はより広い目的を持つものだった。
 ソヴェト政権は、こうした編成の手法を直接に、生産並びに配分における計画経済のシステムへと発展させることを望み、その方向で尽力した。
 言い換えると、ソヴェト政権は戦時共産主義から徐々に、だがシステムを破壊することなく、純粋な共産主義へと到達することを望んだ。」(注04)
 こうした見解は、別の共産主義者の権威によって裏付けられている。
 「戦時共産主義は、戦争という状況やその他の自発的に動く諸力の所産であるにとどまらない。
 それはまた、全く新しい原理のもとで国の経済生活を建設するための明確なイデオロギーの所産であり、社会政治的な構想を実現するものだ。」(脚注)
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 (脚注) L. N. Iurovskii, Denezhnaia politika sovetskoi vlasti 1917-1927 (Moscow, 1928), p.51. 見解が一致する当時の専門家は、左翼共産主義者のL. Kritsman だ(Geroicheskii period Velikoi Russkoi Revoliutsii, 2nd ed., Moscow-Leningrad, 1926)。彼は「いわゆる戦時共産主義」を、「プロレタリア自然経済での最初の偉大な企て、社会主義への移行の第一歩を進む企て」と称する(p.77)。
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 (04) 私有財産という制度に対する体系的な攻撃、ということ以上に、内戦期にボルシェヴィキが追求した政策がもつ長期間に及ぶ共産主義者の目標を説得的に確言するものはない。
 この目的をもってボルシェヴィキ体制が生存のために闘っていたときに採択された、そしてその生き残りには何ら寄与しなかった諸法令は、つぎのイデオロギー的な信念によって惹起されていた。すなわち、彼らの政治的自立の源であるがゆえに、市民たちから処分可能な資産の所有権を剥奪する必要がある、という信念。
 財産収用の過程は、不動産から始まった。
 1917年10月26日のいわゆる土地布令は、農民以外の所有者から土地所有権を剥奪した。
 これに続いたのは、都市の不動産に関する布令だった。都市不動産はまず商取引から排除され(1917年12月14日)、のちに国家へと没収された(1918年8月24日)(注05)。
 1918年1月に、全ての国家債務が否認された。
 1918年4月20日の布令は、商業および工業企業の購入、売却、貸借を禁止した。
 その日の別の布令は、私有の証券や債券が登録されることを要求した(注06)。
 私有財産の廃止への大きな一歩は、1918年5月1日の、相続を非合法化する法令によってとられた。
 これらはいずれも、「緊急措置」の範疇には含まれない。
 いずれも、私人や私的団体から生産財その他の資産に対する権利を剥奪することを意図していた。
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 (05) 1920-21年の冬にようやく得られた完成形において、戦時共産主義は、つぎの企図をもつ多数の凄まじい措置を含むものだった。すなわち、ロシアの経済全体—労働力、生産力、分配機構—を、国家の、より正確には、共産党の、排他的管理のもとに置く、という企図。
 これはまた、共産主義体制に対する反対派の経済的基盤を切り削ぐ、その体制が完全に「合理的な」態様で国民経済を再組織するのを可能にする、という二つを意図していた。
 こうした措置は、つぎのとおり。
 1. 生産手段の国有化。農業、輸送、極小の企業という重要な例外がある(一時的にだが)。
 2. 小売、卸売の国有化による私的取引の廃絶と政府が統制する分配システムへの置換え。
 3. 国家が規整する交換システムのための、交換や会計の単位としての通貨の廃止。
 4. 単一の計画を国民経済全体に課すこと。
 5. 健康な成人男性についての強制労働の導入。場合によっては、女性、子ども、高齢者についても。
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 (06) 内戦を理由としてではなく、あるいは内戦にもかかわらず、追求されたこれらの先行例なき措置は、最も効率的な生産性と配分の公正性に寄与する首尾一貫しかつ合理的な経済システムをソヴィエト・ロシアにもたらすために企図された。
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 ②へとつづく。

2845/R.パイプス1990年著—第14章㉜。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第19節/ロシアがドイツ敗戦と決定。
 (01) ボルシェヴィキは1918年の9月末まで、友人であるドイツの勝利を信じていた。
 その9月末、その考えを変更せざるを得ないことが起きた。
 9月30日に宰相Hertling が辞任し、数日後にHinze が解任された。これらにより、ベルリンにいるロシアに最も忠実な支持者たちが排除された。
 新宰相のMaximilian 公はアメリカ大統領Wilson に対して、アメリカ政府が停戦に向けて調整するよう要請した。
 これは、崩壊が切迫していることの紛れなき兆候だった。
 暗殺の企て(後述参照)による負傷から回復するために当時はモスクワ近郊の別荘〔dacha〕にいたレーニンは、ただちに行動に移った。
 彼はトロツキーとSverdlov に、中央委員会を開催するよう指示した。外交政策上の緊急問題を議論するためだった。
 10月3日、レーニンは〔ソヴェト〕中央執行委員会に、ドイツの情勢の分析文を送った。そこで、ドイツで革命が切迫していると熱烈に語った(注216)。
 彼の勧告にもとづき、10月4日に中央執行委員会は、決議を採択した。それは、全世界に対して、ドイツの革命政府を助けるためにソヴィエト・ロシアは全力を捧げる、と宣言する、というものだった(注217)。
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 (02) ドイツの新宰相には、転覆を求めるこのような鉄面皮の訴えは我慢できなかった。
 今や外務省ですら、ボルシェヴィキにうんざりしていた。
 10月の省庁間会合で、外務省は初めて、ボルシェヴィキと決裂することに同意した。
 その月の末までに外務省の官僚たちが作成した覚書は、政策変更をつぎのように正当化した。
 「ボルシェヴィズムを発明したことやそれをロシアに対して自由にさせたことについて評判が悪い我々は、今は最後の土壇場で、将来のロシアに対する共感を完全に失わないためにも、少なくとも、ボルシェヴィキを保護するのをやめるべきだ」(注218)。
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 (03) ドイツには、ロシアと断絶するのを正当化する十分な根拠があった。1918年の春と夏にすら領土内で破壊工作活動行っていたIoffe が、今や公然と革命の火を煽り立てているのだから。
 のちにIoffe が誇って書いたように、この時期に彼の大使館が行なっていた煽動的な政治的虚偽宣伝活動は、「武装蜂起のための決定的な革命的準備活動の性格をいっそう帯びてきている」。
 「スパルタクス団という陰謀集団は別論として、ドイツ、とくにベルリンには、[1917年]1月のストライキ以降、—むろん非合法に—労働者代議員ソヴェトが存在している。…
 大使館はこれらソヴェトとの連絡関係を継続的に維持した。…
 [ベルリンの]ソヴェトは、ベルリンの全プロレタリアートが十分に武装していてこそ蜂起は時宜にかなったものになる、と想定していた。
 我々は、これと闘わなければならない。
 そのようなときを待っていれば蜂起は永遠に生起せず、プロレタリアートの前衛だけが武装するので十分だ、と主張しなければならない。…
 それにもかかわらず、ドイツのプロレタリアートの武装しようとの努力は全体として合法的で、分別があり、大使館はそれらをあらゆる面で援助した。」(注219)
 この援助は、金銭と武器の供与のかたちで行なわれた。
 ロシア大使館がドイツから離れたとき、不注意で一つの記録文書を忘れて残していた。その文書は、大使館が9月21日と10月31日の間に10万5000ドイツマルクを払って210の短銃と2万7000の銃弾を購入したことを、示していた(注220)。
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 (04) ドイツでの革命政府の勝利を援助することを目ざすとのソヴィエトの最高立法機関〔ソヴェト中央執行委員会〕の宣言やこの意図を実現しようとするIoffe の努力は、ロシアとの外交関係を断絶するには十分であるはずだった。
 しかし、ドイツの外交当局は、もっと議論の余地のない根拠を求め、そのためにある事件を引き起こした。
 ソヴィエトのクーリエは数ヶ月間、ドイツで散布する扇動文書を大使館に持ってきていた。このことをドイツ外務当局は知っていて、ロシアからの外交箱がベルリン市内の鉄道駅で下ろされるあいだに偶然にのごとく落ちて壊れるように、手筈を整えた。
 11月4日の夕方、これが行なわれた。
 壊れた箱枠から、ドイツの労働者と兵士が決起してドイツ政府を打倒するよう激励する多数の煽動文書が出てきた(注221)。
 Ioffe は告げられた。ただちにドイツを去らなければならない、と。
 彼は適度の憤慨を示したけれども、モスクワに向かって出立する前に、〔ドイツ〕独立社会主義党のOskar Cohn 博士、実質的にソヴィエトの使命をもつ在住者に、50万ドイツマルクと15万ルーブルを残すことを忘れなかった。これらの金銭は、「ドイツ革命の必要のために」従前から配分されていた総計1000万ルーブルを補充するものだった(脚注)
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 (脚注)  Ioffe, VZh, No. 5 (1919), p.45. トロツキーとの親密な関係を理由として、Ioffe はのちに屈辱を受けた。彼は1927年に自殺した。Lev Trotskii, Portrety revoliutsionerov (Benson, Vt, 1988). p.377-p.401.
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 (05) 11月13日、西部戦線の停戦から二日後、ロシア政府は一方的に、ブレスト=リトフスク条約と補完条約を廃棄した(注222)。
 連合諸国もまた、Versailles 合意の一部として、ドイツにブレスト条約を廃棄させた(注223)。
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 第20節(最終節)へとつづく。
 

2843/R.パイプス1990年著—第14章㉛。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第18節/ドイツとの補足条約②。
 (07) 三つの秘密条項の一つは、補完条約5条を綿密にしたものだった。5条では、ロシア軍がMurmansk から連合諸国軍を排除することを約束していた。
 秘密条項では、かりにロシアがこれを行なうことができなければ、フィンランド・ドイツの合同軍によって達成されることが明記されていた(脚注)
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 (脚注) この条項を最初に公にしたのは、Europaesche Gespraeche, IV, No. 3 (1926), p.149-p.153. Wheeler-Bennett, Fogotten Peace, p.436 に再掲されている。
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 (08) この作戦計画を実施するため、ペテログラード軍事地区司令官のVladimir Antonov-Ovseenko は、8月末にベルリンの戦争人民委員部代表団の団長のもとへ行った(注206)。
 彼は、予定されるMurmansk 攻撃がドイツ兵団によって実行されるだろうことに同意した。
 従前に提案されていたように、ロシア軍の任務は、イギリス軍がArchangel からペテログラードへに向かって進軍した場合に、これを遮断することだった。
 両軍はペテログラードで衝突する。
 Ludendorff は、ドイツ軍はMurmansk に対する作戦行動の基地としてペテログラードを占拠しなければならない、と強く主張した。だが、ロシア政府はこれを受け入れようとしなかった。
 ロシアの領土を横切るドイツ兵団の動きが生むだろう悪い印象を最小限にすべく、ロシア政府は種々の欺瞞的措置を講じた。そのうちの一つは、ドイツ兵団をロシア人将校の「名目的な」指揮のもとに置くことだった(注207)。
 ロシア軍が同意する実際の司令官は、ドイツの将軍が務める。この点に付いてソヴィエトの側が示唆したのは、1915年にGalicia でロシア軍を粉砕した、皇帝の副将軍のAugust von Mackensen 陸軍元帥だった(注208)。
 この作戦は、ドイツが降伏したとき、進行中だった(注209)。
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 (09) 第二の秘密条項は、外国ではなくロシア人に対するドイツ軍の行動に関係するために、より機密的ですらあった。これは、ロシア国内の義勇軍に対する作戦行動を始めるようにとのボルシェヴィキの要請をドイツが受容れたことを確認するものだった。
 ドイツ軍は、つぎのように述べて、このような行動を約束した。
 「ドイツはロシアに対して、Alekseev 将軍とチェコスロヴァキア人の蜂起をただちに鎮圧するための、全ての使用可能な手段を行使するよう期待する。他方で、ドイツもAlekseev 将軍に対する利用可能な全ての戦力の行使をし続けることを承認する。」(脚注)
 ドイツ軍も、この約束を真摯に受け取っていた。
 8月13日、Ioffe はロシア政府へと、補完条約が批准された後でドイツ軍は義勇軍を粉砕するための強力な手段を取るだろう、と伝えた(注210)。
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 (脚注) Europaesche Gespraeche, IV, No. 3 (1926), p.150. Ioffe の受容は、同, p.152. H. W. Gatzke in VZ, III, No. 1 (1955年1月), p.96-7 参照。
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 (10) ドイツは、ソヴィエトの要請に応えて、イギリスとDemikin軍に介入することを約束した。
 第三の秘密条項は、ドイツの強い主張によるもので、不本意のロシアの側に押し付けられたものだった。
 この条項はソヴィエト政府に、8月4日以来駐留しているイギリス軍をBaku から排除することを義務づけた。
 他の二条項と同様に、かりにソヴィエトが任務に耐えられないことが判れば、ドイツ軍が責任を引き受ける、と定めていた(脚注)
 この条項も、実行されなかった。ドイツ軍が行動準備をする前の9月16日に、トルコ軍がBaku を占拠したからだ。
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 (脚注) Baumgart, Ostpolitik, p.203. この第三条項は、第二次大戦の後になってようやく一般的に知られるに至った。最初に公にしたのはBaumgart だった。Historisches Jahrbuch, LXXXIX (1969), p.146-8.
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  (11) 三つの秘密条項は、かりにドイツが崩壊していなければ、ドイツがロシアに対する経済的のみならず軍事的な支配権をも有することを確実にするものだった。
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 (12) 補完条約に関する帝国議会への報告書の中で(むろん秘密条項への言及はない)、Hinze は、補完条約はロシア・ドイツの「共存」(Nebeneinanderleben)の基礎を築いた、と主張した(注211)。
 Chicherin も同様の言葉を、9月2日の中央執行委員会あて文書で用いた。この委員会は、補完条約を満場一致で批准した。
 Chicherin は、こう書いた。「ロシアとドイツのシステムの間、両政府の基本的志向の間には大きな差異があるにもかかわらず、つねに我々の労働者と農民の政府の闘いの目標である二つの国家の平和的共存は、目下において、ドイツの支配階層にとっても望ましい」(注212)。
 この文章は、公式の文書の中で「平和的共存」という言葉が使われた最も早い記録の一つだ。スターリンの死後に、ソヴィエト政府がもう一度用いることになるのだが。
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 (13) ロシアとドイツの両政府は、着実に緊密になっていた。ドイツが崩壊する一週間前、両政府は事実上の政治的、経済的、軍事的な同盟関係にあった。
 Hinze は熱狂的に、ボルシェヴィキへの支援を約束した。
 数千人の人質を虐殺する赤色テロルをロシアが開始した9月初め、彼は、ドイツのプレスがロシアにいる通信員から送られてくる残虐行為についての全文を発表するのを妨げた。両政府のいっそうの協力関係を傷つける、嫌悪の世論が巻き起こることを怖れてだった(注213)。
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 (14) ドイツは9月に、ロシア政府の要請に応えて、ロシアに燃料と武器を提供し始めた。
 石炭を求める切迫した訴えに反応して、ドイツ外務省は10月後半に、ドイツの25隻の船舶が7万トンの石炭とコークスを載せてペテログラードに向かうよう調整した。
 両国の関係断絶のために船舶輸送が中断する前に、およそ半分だけが何とか目的地に届けられた。
 ペテログラードで降ろされる燃料は、赤軍のための兵器を製造する工場群へと向かった(注214)。
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 (15) Ioffe は9月に、20万本のライフル、5億個の弾丸、2万丁の機関銃をドイツに要請した。
 外務省から圧力を受けて、Ludendorff は、機関銃を候補から外した上で、気乗りしない同意を与えた。
 この取引は、Hinze と宰相(首相)のHertling が離れたために、実現しなかった。新しい帝国宰相のMaximilian von Baden公は、親ボルシェヴィキ政策について、はるかに熱心でなかったからだ(注215)。
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 (16) 中央諸国は大敗北をしたにもかかわらず、ロシア政府は、時期を順守して、補完条約による財務上の義務を履行した。
 9月10日、ロシアは、一回めの償還として、2億5000万ドイツマルクの価値のある金をドイツに送った。9月30日には、二回めの償還として、一部は金で、一部はルーブルで、3億1250万ドイツマルクを支払った。
 10月31日の予定だった三回めの償還分を、ロシアは支払わなかった。ドイツが降伏する間際だったからだ。
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 第19節へとつづく。

2842/R.パイプス1990年著—第14章㉚。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。1918年の数ヶ月間に関する叙述が続く。
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 第14章・第18節/ドイツとの補足条約①。
 (01) ブレスト条約は、ロシア・ドイツの経済関係を調整する補完的協定を必要とした。
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 (02) ドイツは、1914年以前は大きな貿易相手だったロシアとの通商関係を再開しようと熱心だった。かつてロシアは、その輸入のほとんど半分をドイツに依っていた。
 ドイツは原料はもちろんだが、まずは食糧を求めた。そして、ロシアの外国通商をほとんど独占したかった。
 1918年6月、ロシア政府は、輸出できると主張する物品の一覧表をドイツに提示した。その中には、穀物があった。但し、実際には穀物の余剰はなかった。
 Krasin は、ソヴィエト・ロシアがドイツの製品業のために用意することのできる巨大な市場についての、目も眩むような絵画を描いた。また、それを証明すべく、電気製品の輸入について、かつての雇用者であるSiemens と交渉した。
 現実には、ロシア側の提案にはいかなる根拠もなかった。諸提案は、政治目的を達成するための餌だった。
 ドイツはやがて、ロシアが約束した物品の供与ができないことに我慢できなくなった。
 Bleichroeder 銀行のためにモスクワに来ていたAlfred List 博士は、6月にChicherin に対して、ロシアからの物品納入の遅れは「大ロシアがその政治的欲求に対する共感を最も期待できそうな」仲間たちを含むドイツ人社会を失望させている、と言った(注201)。
 レーニンは、その「仲間たち」—銀行家と実業家たち—を他のドイツ人、主として自分を排除したい軍部を、弱体化させるために利用できることを、十分に知っていた。
 そのゆえにレーニンは、補完条約の交渉の経緯を詳細に報告させた。彼はその補完協定には最大の政治的重要性があると考えていた。
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 (03) 交渉のための会談は、7月初めにベルリンで始まった。
 ソヴィエトの代表団を率いたのは、Ioffe だった。彼は、Krasin とモスクワから派遣された種々の分野の専門家に支えられた。
 ドイツは、外交官、政治家、実業家から成る大きな代表団を編成した。
 ドイツ側の重要人物はJohaness Kriege という名の外務省の官僚だったように見える。歴史家のWinfried Baumigart はこの人物を、ボルシェヴィキ・ロシアに対するドイツの政策の「灰色の高官」と呼んでいる(注202)。
 Ioffe は指示を受けてドイツの諸要求によく順応していたが、ドイツの要求が合理的でなくなれば、ロシアの従順さにも限界があることを理解させることになっていた。
 Ioffe がベルリンからレーニンに確認したように、「我々の全政策の中心は、かりにドイツが過度に我々を追いつめると、両国は戦闘をしなければならなくなりドイツの得るものは何もなくなる、とドイツに示すことである必要がある」(注203)。
 関係する問題点の複雑さを考慮して、同意はすみやかに達成された。
 ドイツは、厳しい要求を出した。
 Ioffe は何とか譲歩を引き出しかったが、しかし、そう努力しても、補足条約として知られる協定が、8月27日に調印された。これは、ほとんどドイツの側に利益をもたらした。
 議論されたのは、領土問題と財務問題だった(脚注)
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 (脚注) 条約の条文は、三つの秘密条項の一つを除いて、J. Wheeler-Benett, Brest-Litovsk: The Fogotten Peace (New York. 1956), p.427-p.446 で再現されている。
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 (04) 領土問題についてドイツは、ロシアとその境界領域の間の関係に干渉しないと約束した。
 この条項はとくに、「南部同盟」の名のもとでコーカサスおよび接続するコサック地域を保護領にしようとするドイツ軍部の姿勢を否認するものだった(注204)。
 ロシアはウクライナとジョージアの独立を承認し、更にEstonia およびLivonia に降伏することに同意した。ブレスト条約ではこの二つのいずれも認められていなかった。
 代わりに、ロシアは、Baltic 海の港湾への通行権を獲得した。ブレスト条約で失っていたものだ。
 ドイツは当初はBaku、すなわちロシアの石油産業の中心地、を要求したが、やがてBaku での毎年の生産の四分の一を受け取る約束と交換に、ロシアの手に委ねることに同意した。
 Baku は、8月初めにPersia から派遣されたイギリス軍が占拠していた。
 ドイツがボルシェヴィキにBaku を委ねるための条件は、ボルシェヴィキがイギリス軍をそこから駆逐することだった(注205)。
 ロシアはまた、Murmansk から連合諸国軍を排除することを約束した。一方、ドイツは、クリミアから撤退することに同意し、ロシアの西部国境についてのその他若干の小さな領土の調整を行なった。
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 (05) 財務に関しては、ロシアはドイツとドイツ人に帝制政府とソヴィエト政府が行なった措置の結果として生じた損失を完全に補償することに同意した。ロシア人の戦争捕虜たちの保護のために被ったとドイツが主張した費用についても同じ。
 ドイツはこれらの総額を700億〜800億ドイツマルクと査定した。
 ロシアからの反論が考慮されて、この額は600億に減じられた。100億ドイツマルクはフィンランドとウクライナによって支払われるものとされた。
 ロシアは500ドイツマルクの借款の半分を18ヶ月以上かけて返済することを約束した。これは、同意されたルーブルの量である24.5トンの金、販売価値のある100億ルーブルの金をドイツへと移すことによって行われる、とされた。
 残りの半分は、ドイツで発行される45年間債券で支払うものとされた。
 これらの支払いは、公的にせよ私的にせよ、ドイツのロシアに対する全ての要求を満足させるものだった。
 ロシア政府は、つぎの旨のブレスト条約の諸条項の履行を再確認した。すなわち、ドイツの所有者へと全ての国有化または公有化された財産を、没収した現金や有価証券を含めて、返却する。また、彼らがこれらの資産をドイツへと送還するのを認める。
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 (06) ボルシェヴィキは権力を奪取したとき、秘密外交をきわめて強い言葉遣いで非難した。また、「帝国主義諸大国」の多数の秘密条約を公にした。それにもかかわらず、自分たち自身の利益に関係がある場合には、そうした実際上の取扱いを何ら嫌悪しなかった。
 補完条約には、三つの秘密条項が付いていた。それらは、Ioffe がロシアのために、Hinze がドイツのために署名したものだった。
 これらの条項は一年のちには知られるに至ったが、今日までソヴィエト同盟では公刊されていない。
 三条項は、8月1日のドイツによる軍事干渉をロシア政府が要請したのをドイツが受諾したことを公認し、正当化するものだった。
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 ②へとつづく。

2840/R.パイプス1990年著—第14章㉙。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第17節/ボルシェヴィキがドイツに干渉を求める。
 (01) しかし、全ては将来のことだった。
 8月1日にクレムリンがArchangel に連合国が上陸したとの報せを受けたとき、状況は見込みがないように見えた。
 東部では、チェコスロヴァキア軍団が次から次に都市を占拠し、中央 Volga 地域を完全に支配していた。
 南部では、Denikin の義勇軍が、Krasnov将軍が指揮するDon コサックに率いられて、Tsaritsyn へと前進していた。そこが掌握されれば、チェコスロヴァキア軍団との連絡線ができることになり、妨害のない反ボルシェヴィキ戦線が中部Volga からDon 地域まで生まれるだろう。
 そして今、相当規模のアングロ・アメリカ軍が北部に集結しており、明らかにロシアの内部へと攻撃を開始しそうだった。
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 (02) ボルシェヴィキには、苦境を脱する一つだけの方法があった。それは、ドイツによる軍事干渉。
 これを要請することを決定したのは8月1日で、Helfferich がChicherin に、継続してロシアを支援することを告げた後だった。
 この決定を下した会合は、共産主義者の文献によると、ソヴナルコムの一会議だった、と叙述されている。
 しかし、その日に内閣の会議があったとする記録は存在しないので、レーニンがおそらくChicherin と協議して、個人的に決定した、というのが事実上は確実だ。
 ロシアは、連合諸国軍と親連合国軍に対抗するドイツとの共同軍事作戦を提案した。当時は基本的にはラトビア人兵団で構成されていた赤軍は、モスクワの北西部に位置を占めることになる。予期される連合諸国軍の急襲からモスクワを守るためだ。一方で、ドイツ軍は、アングロ・アメリカの遠征隊に対抗してフィンランドから、また義勇軍に対抗してウクライナから前進することになる。
 我々はこの決定を、主としてHelfferich の回想録によって知っている。Helfferich は、8月1日の遅くにもう一回、Chicherin の予期せぬ訪問を受けていた。
 外務人民委員のChicherin はHelfferich に対して、内閣の会議の後で直接に、内閣を代表して、ドイツによる軍事干渉を要請するためにやって来た、と言った(脚注)
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 (脚注) この出来事に関する短い回想で、Chicherin はこう述べる—ソヴィエトの文献の中で唯一の言及のようだ。Helfferich の説明を確認しつつ、案件はレーニンによって個人的に解決された、と。「Lenin i vneshniaia politika」, Mirovaia politika v 1924 godu (Moscow, 1925), p.5. 彼の論考も見よ。Izvestiia, No.24/2059 (1924 年1月30日), p.2-3.
 ——
 Helfferich によると、Chicherin は、こう言った。
 「世論の状態に鑑みると、ドイツとの公然たる軍事同盟は可能ではない。
 可能であるのは、現実的な平行的作戦行動だ。
 ロシア政府は、モスクワを守るためにその戦力をVologda に集中しようとした。
 ペテログラードを占拠しないことが、平行的な行動の条件だった。同様に我々はPetropavlovsk も避けるのが望ましかった。
 実際上、この方策が意味するのは、モスクワを守ることができるように、ロシア政府は、我々に対して、ペテログラードを防衛するよう要請しなければならなかった。」
 ボルシェヴィキの提案が意味したのは、バルト海地域と(から)フィンランドにいるドイツ軍はソヴィエト・ロシアの領域に入り、ペテログラードの周囲を防衛する戦線を構築する、そして、連合諸国を排除すべくMurmansk とArchangel へと前進する、ということだった。
 しかし、これで全てではなかった。
Chicherin は「南東部についてひどく心配していた。
 私の質問に答えて、彼はついに、我々に求められた干渉の性格を述べた。
 『Alekseev に対する積極的な猛攻撃。Krasnov のドイツによる支援は問題外。』
 この点だ。北部の場合のように、そして同じ理由で、可能であるのは公然たる同盟ではなく、事実上の協力にとどまる。だが、これこそが必要だった。
 このように判断して、ボルシェヴィキ体制は大ロシアの領土でのドイツによる武装干渉を要請した。」(注197)
 -------- 
 (03) Helfferich は、この要請をベルリンへと送った。彼はこの要請を、「我々の干渉への(ボルシェヴィキによる)静かな受容と現実的な平行的作戦行動」と要約した。
 彼はこれと一緒に、ロシアの情勢の悲観的な見通しを書き送った。
 彼はこう書いた。ボルシェヴィキの権威の主要な源は、ドイツの支援を受けている、という信頼の広がりだ。
 しかし、このような感覚は、政策を遂行するための適切な基盤にならなかった。
 彼が推奨したのは、親協商国ではない反ボルシェヴィキのグループとの会話を追求することだった。とりわけ、右派センター、ラトビア人、およびシベリア政府との(注199)。
 彼の意見は、かりにドイツがボルシェヴィキへの支援を抑制するならば、反ボルシェヴィキの者たちは立ち上がり、転覆させるだろう、というものだった。
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 (04) ドイツのモスクワ大使館の助言は、再び却下された。今度は、Hinze によって。
 Hinze はボルシェヴィキは友人ではないことを認めたけれども、彼らはロシアを軍事的に無力にすることによって、ドイツへ利益を「豊富に」もたらしている、と考えた(注200)。
 彼は、Helfferich の推奨文書に不満だったので、8月6日に彼をベルリンへと召喚した。
 大使のHelfferich は二度とその職に就かなかった。在任期間は二週間に満たなかった。
 Hinze はこうして厄介なドイツ大使館を弱体化し、ドイツ・ロシア関係に二度と介入しないよう、モスクワから帰ることを命じた。
 Helfferich が出立後数日を経て、大使館は荷造りを終え、最初はPskov へ、次いでRevel へと向かった。いずれも、ドイツの占領下にあった。
 在ロシアのドイツ代表部がなくなって、ロシア・ドイツ関係の中心はベルリンへと移った。ベルリンにはIoffe がおり、ドイツ政府の広報官、および8月末に両国が締結した通商かつ軍事協定の主要な交渉人として務めていた(脚注)
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 (脚注)この時点で舞台から消えていたKurt Riezler は、戦争後にFrankfurt で教授職に戻った。ヒトラーが権力を奪取したとき、アメリカ合衆国に移住し、1955年に死ぬまで、New York 市の社会研究の新しい学校で教育職に就いた。
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 (05) ボルシェヴィキを打倒しようと虚しい努力をしたドイツ人について、一つの後日談がある。
 9月初め、在モスクワのドイツ領事の将軍、Herbert Hauschild は、Vatsetis の訪問を受けた。
 ロシア軍の最高指令長官に任命されたばかりのラトビア人将校はHauschild に対して、自分はボルシェヴィキではなくラトビア民族主義者だ、彼の兵士たちの恩赦と本国送還が約束されるならば、自分たちはドイツが自由にするままに任せる、と言った。
 Hauschild はベルリンに知らせた。ベルリンは彼に、問題にしないよう命じた(脚注)
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 (脚注) Baumgart, Ostpolitik, p.315-6. Vatsetis は、1919年夏までソヴィエトCIC として務めた。そのあと、「反革命的陰謀」に関与したとの罪で逮捕された。釈放されたのち、ソ連軍事アカデミーで教えた。1938年、教室の休み時間のあいだに再び逮捕され、のちに処刑された。Pamiat’, No.2 (1979), p.9-10.
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 第17節、終わり。

2836/R.パイプス1990年著—第14章㉗。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第15節/Riezler によるドイツの政策転換の失敗②。
 (08) 恩赦と本国帰還の約束でもってラトビア人の中立を確保するという提案をしても、Riezler にも好い事がなかった。
 この計画は、多数の者の中でとくに、Ludendorff によって否定された。彼は、ボルシェヴィキのプロパガンダがラトビア人を「汚染」するのを怖れていた。
 外務省の新しい大臣のPaul von Hinze は、Kuelmann を継承し、レーニンとの協力にさらに深く関与していて、もう聴取する必要がなかった。
 彼はモスクワの大使館に対して、ラトビア人との会話を止めるよう指示した(注181)。
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 (09) ボルシェヴィキの崩壊という事態に備えておくために、外務当局は、それ自身の非常時対応計画を策定した。
 親連合国の左翼エスエルがロシアで権力を掌握すれば、ドイツ軍はフィンランドから立ち上がり、Murmansk とArchangel を奪取する。そして、ペテログラードおよび Vologda を占拠する。
 言い換えると、悲観主義者の予測が正しかったことが判ると、ボルシェヴィキにとどめの一撃を加えたり、別のロシア人グループに置き換えるのではなく、ドイツは進軍して、おそらくはボルシェヴィキに権力を回復させる(注182)。
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 (10) Helfferich は、自らの政府の親ボルシェヴィキ政策を実行すると決意して、モスクワに着いた。
 しかし、すぐに、大使館員はほとんど全員が、その考えに反対していることに気づいた。
 到着した夕方に大使館員から受けた状況説明と限られた個人的観察によって、彼はその考えを変えるようになった。
 7月31日の午後、短い滞在中で初めて厳格に警護された大使館地区の外に出て、Chicherin を訪問した。そして、ウクライナでの左翼エスエルによる陸軍元帥Eichhorn 殺害と、大使館員に対して左翼エスエルからの脅迫が継続していることに、抗議した。
 同時に彼はChicherin に、ドイツ政府は支援を継続するつもりだと保証した。
 彼がのちに知ったことだが、Chicherin との会談の数時間後に、クレムリンで会合が行なわれ、レーニンは同僚たちに、信頼は「一時的に」失われた、モスクワを退避するのが必要になった、と言った。
 この会合が進行しているあいだにChicherin が到着し、Helfferich がついさっきドイツの後援を保証した、と伝えた(脚注)
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 (脚注) Baumgart, Ostpolitik, p.237-8. レーニンは政府の所在地をNizhnii Novgorod へ移すことを計画していた、と見られる。同上, p.237,注38。
 レーニンは1920年にBertrand Russell に対して、2年前には自分も同僚たちも自分たちの体制が生き残る可能性があるとは思っていなかった、と語った。Bertrand Russelll, Bolshevism: Practice and Theory (New York, 1920), p.40.
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 第16節/連合諸国によるロシアでのいっそうの諸活動①。
 (01) 8月1日にクレムリンがイギリス海軍がArchangel への射撃を開始したとの報せを受けたとき、クレムリンの雰囲気はすでに十分に絶望的だった。
 この砲撃は、連合諸国による大規模なロシアへの干渉の始まりだった。
 ドイツの意図に関する情報以上に連合諸国のそれに関する情報をもっていなかったロシア政府は、連合国は確実にモスクワへと前進するつもりだと考えた。
 ロシア政府は完全に動転し、ドイツの腕の中に飛び込んだ。
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 (02) 思い出されるべきことだが、連合諸国は1918年3月にボルシェヴィキ政府と、北部(Murmansk とArchangel)と極東(Vladivostok)でロシア領土に上陸することを議論していた。これらの港湾をドイツから守ること、ロシアで予定された連合諸国の基地を確保すること、が目的だった。
 その見返りに、連合諸国はロシアが赤軍を組織し、訓練するのを助けるものとされた。
 しかしながら、連合諸国は行動するのが遅かった。
 彼らは三都市に僅かばかりの派遣部隊を上陸させ、トロツキーが長である戦争人民委員部に僅かばかりの将校を配属した。だが、ドイツの攻撃の全力が彼らに向けられているときに、大規模の兵士をそこに割くことはできなかった。
 アメリカ合衆国だけに、必要な兵士がいた。しかし、Woodrow Wilson 大統領はロシアへの介入に反対しており、そうである限り、何もすることができなかった。
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 (03) 実質的にはWilson 大統領がチェコ人の蜂起を知って考えを変化させた6月の初めに、極東の状況が再び活性化する展望が開けた。
 アメリカ合衆国にはチェコとスロヴァキアの送還者を助ける道徳的義務があると感じて、彼は、イギリスからの要望に従い、Murmansk-Archangel およびVlaivostok への遠征のための兵団を派遣することに同意した。
 この作戦実行のためのアメリカ兵団には、ロシアの国内状況に干渉するな、との厳格な命令が発せられた(注183)。
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 (04) ヴェルサイユの連合国最高司令会議は、アメリカ政府の決定を知って、イギリスの将軍であるF. C. Poole の指揮する連合国遠征軍を派遣することを命じた。
 Poole は、港湾都市の防衛、チェコ軍団との接触、そのチェコ軍団の助けを借りてのArchangel 南方の鉄道の支配、親連合国軍隊の組織、を指示した。
 ボルシェヴィキと戦闘することについては、何も語られなかった。Poole の兵団に言われたのは、「我々は内政には干渉しない」、だった(注184)。
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 (05) この連合諸国の決定は、その後、ロシア北部の港湾にはドイツの本当の脅威は存在しなかった、脅威となる行動のできるフィンランドのドイツ軍はいずれにせよ8月初旬に撤退して西部前線へと投入されていた、といった理由で、批判されてきた。
 こうした批判が含意しているのは、ロシア北部への遠征の本当の理由は、ボルシェヴィキ体制を転覆させることにあった、というものだ(注185)。
 この責任追及は、擁護することができない。
 ドイツの文書資料から、つぎのことが知られている。ドイツの最高司令部は実際に、ドイツ兵団だけによるにせよフィンランドとボルシェヴィキの兵団と合同してにせよ、北部の港湾への攻撃を考えていた。
 この攻撃作戦は、Murmansk とArchangel を支配することでドイツは連合諸国がロシア領土に入ることを拒むことができ、そうして極東の状況を再活性化する計画を挫折させたであろうから、きわめて合理的なものだった。
 ドイツ政府はこうした目的をもって、1918年5月遅くにIoffe との交渉をし始めた。
 この会談はやがて決裂した。その理由は、一つはボルシェヴィキとフィンランドが協力する条件に同意できなかったことにあり、もう一つは、ドイツが作戦行動の基地として、ロシアが同意しないだろうペテログラードの占領を強く主張したことにあった(注186)。
 しかし、こうしたことを、連合諸国は予見できなかった。2ヶ月のちにドイツはフィンランドから兵団を撤退することを連合諸国は6月に知った、ということ以上に、予見できなかった。
 連合諸国が1918年にロシアに兵団を派遣するに際して、彼らはロシア・ボルシェヴィキ政府の打倒を意図した、ということを示す証拠はない。
 この作戦で重要な役割を果たしたイギリスは、公的にも私的にも、ロシアを統治している政府の性格に関する関心を、完全に欠如させていた。
 イギリス首相のDavid Lloyd George は、1918年7月22日の戦時内閣の閣議で、ロシア人がいかなる種類の政府を樹立したかはイギリスの関心事ではない、と素っ気なく宣言した。共和国、ボルシェヴィキ国家、あるいは君主制のいずれであれ(注187)。
 Wilson 大統領も同じような見解だったことが、示されている。
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 (06) 連合諸国の遠征隊は、最初は8500人の兵団で、うち4800人はアメリカ人だったが、8月1-2日にArchangel に上陸した。
 Poole 将軍は8月10日に、つぎの指令を受け取った。「ドイツによる影響と浸透に抵抗する目的をもってロシアを復活させることに協力せよ」、そして、彼らの国を回復するために「ロシア人が連合諸国と一緒になって闘いに参加するのを助けよ」(注188)。
 彼はさらに、チェコ軍団との連絡手段を確立せよとの指令も受けた。東部に向かう鉄道路線を彼らとともに確保し、ドイツと戦う軍隊を組織するためにだ(注189)。
 これらの指令の言葉遣いは広く解釈され得るもので、6月3日の指令よりも曖昧な目的を示していた。そしてまた、「北部ロシア遠征隊の将来は、ドイツではなくボルシェヴィキと戦うことにある」と述べる根拠を何ら提示していなかった(注190)。
 当時、ボルシェヴィキは、相当の程度において、ドイツの協力相手だと見られていた。ボルシェヴィキはドイツから資金を受け取り、一度ならずドイツに対して、ロシアの世論だけがドイツと正式に同盟するのを妨げている、と述べた。
 イギリスとフランスは、それらのモスクワの工作員を通じて、ドイツ大使館の役割はボルシェヴィキを生かし続けることにあるとの情報を得ていた。
 1918年の連合諸国のボルシェヴィキに対する行動をドイツに対するそれと別のものとして理解するのは—対比させるはむろんのこと—、当時の認識状況と雰囲気をいずれも誤解することになる。
 かりにPoole の任務がボルシェヴィキと戦うことだったとすれば、彼にはきっとその趣旨の、紛らわしくない指令が発せられていただろう。そして、彼は、モスクワの反ボルシェヴィキ集団との意思疎通手段を確立していただろう。これを示す証拠はない。
 存在する証拠が示しているのは、逆に、連合諸国のロシア北部への遠征部隊の任務は、チェコスロヴァキア人や日本、および参加する意欲のあるロシア人と協力して、ドイツと戦う新しい前線を構築することにあった、ということだ。
 この任務は、世界大戦の最終段階と密接に関連した軍事活動だった。
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 第16節②へつづく。

2834/R.パイプス1990年著—第14章㉖。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第15節/Riezler によるドイツの政策転換の失敗①。
 (01) ドイツ大使館の責任者になっていたRiezler は、同僚の何人かから、混乱していて上の空だと見なされていた(注167)。
 彼は日常的な外交事務にはほとんど時間を使わず、ロシアの対抗グループとの交渉に多くの時間を費やした。その仕事を、ドイツ政府は、7月1日でやめるよう指示した。
 彼は指示に従ったが、ボルシェヴィキは長く続かず、ドイツはボルシェヴィキの潜在的な後継者とのあいだの接触を必要とする、という変わらない信念があった。
 Mirbach 殺害への彼の最初の反応は、ロシア政府との関係を切断することを促すことだった(注168)。
 この助言は、却下された。そして、ボルシェヴィキを助けるのを継続するよう指示された。
 彼は1918年9月に、十分に考察することなく、こう述べることになる。ドイツは、ボルシェヴィキを救うべく、三つの場合に「政治的」手段を用いた、と(注169)。
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 (02) Riezler は、ドイツ政府からの命令を履行しながら、外務当局を、ボルシェヴィキは消耗し果てた軍隊だ、と電信で伝えて責め立てた。
 7月19日の電信では、こう送った。
 「ボルシェヴィキは死んでいる。
 埋葬すべき者に墓掘り人が同意できないがゆえに、ボルシェヴィキの遺体は生きている。
 協商国とともに現在わが国がロシア領土で展開している闘争は、もはやこの遺体のためになってはいない。
 この闘争は、後継に関する闘争へ、将来のロシアの方向に関する闘争へと変わっている。」(注170)
 ボルシェヴィキはロシアを無害にしてドイツに譲り渡した、ということに彼は同意したが、同様に、ボルシェヴィキは、無益なものにしてそうした(注171)。
 彼が推奨したのは、ドイツが「反革命」を担当し、ロシアのブルジョア勢力を援助することだった。
 このためには、ボルシェヴィキを排除する最小限度の努力が必要だ、と彼は考えた。
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 (03) 自分一人で考えて、Riezler は、反ボルシェヴィキのクーのための基礎作業を設計した。
 第一段階は、モスクワに制服を着たドイツ人の大隊を駐屯させることだった。
 この大隊の表向きの任務は、大使館を将来のテロリズム行為から防御すること、新しい反乱が起きたときにボルシェヴィキを助けること、になるだろう。
 本当の目的は、ボルシェヴィキの権力が崩壊する、またはドイツ政府がボルシェヴィキを権力から排除すると決定するときが来る場合に、モスクワの戦略的地点を占拠することだろう(注172)。
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 (04) ドイツ政府は、大隊をモスクワに派遣することに同意したが、それはソヴィエト政府がそれを承認する場合に限られた。
 ドイツ政府はまた、Riezler に、ラトビア人ライフル兵団の意図を探るために彼らとの控えめな会話を開始する権限を与えた。
 ラトビア人と良好な関係を築いていたRiezler は、寝返る用意はあるか、と尋ねた。
 ある、というのが答えだった。
 ラトビア人の司令官のVatsetis は、1918年の夏の彼の考えを次のように叙述している。
 「奇妙に感じられるかもしれないが、当時、つぎのことが語られていた。中央ロシアは内戦の舞台になるだろう。ボルシェヴィキの権力保持はほとんど不可能だろう。飢餓に陥る犠牲者が発生し、国の内部に一般的な不満がある。
 ドイツ軍、Don コサック、チェコ人の白軍がモスクワで行動する可能性を排除することはできなかった。
 この最後の見方は、当時にとくに広がった。
 ボルシェヴィキはその権力のもとに、戦闘可能な軍事力を有しない。 
 最高軍事会議の軍指導者のM. D. Bonch-Bruevich が知的かつ賢明にその編成を作り上げた部隊は、ヨーロッパ・ロシアの西部地域の飢餓のために、食糧を求めて散在し、ソヴィエトの権威にとって危険な強盗団に変わっている。
 このような軍隊は—かりにこの立派な言葉を使うとすれば—、ドイツ兵のヘルメットを見るや否や逃亡した。
 西部国境では、反抗的な赤色部隊を鎮圧するためにドイツ軍が求められるという事例が起きた。…
 このような考察や風聞の全てとの関係で、私は、ドイツの介入がさらにあれば、またコサックと白軍がロシア中央部に出現すれば、ラトビア人兵団にはいったい何が起きるのかという問題にひどく苦悩していた。
 このような可能性は、当時は真剣に考慮されていた。
 ラトビア人ライフル兵団は完全に壊滅するに至るかもしれなかった。…」(注173)
 Riezler は彼が語ったことから、以下を知った。すなわち、ラトビア人はドイツが占領する彼らの故郷に帰還することを不安に感じている、そして、恩赦と本国帰還が保証されれば、ドイツがボルシェヴィキに反対して介入した場合に、彼らは少なくとも中立を維持する(注174)。
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 (05) Riezler は右派センターとの会話も再開した。
 新しい代表者のGrigorii Trubetskoi 公—帝制ロシアの戦時中のSerbia 大使—は、ロシアからレーニンを排除するためのドイツの迅速な援助を要請した。
 彼はそのグループの協力について、いくつかの条件を付けた。
 第一。ドイツは、ロシアがウクライナに軍事力を集結させることを許容すべきだ。そうしてこそ、モスクワはドイツ人によってでなくロシア人によって解放される。
 第二、ブレスト条約の改訂。第三、ボルシェヴィキに替わる政府に圧力を加えないこと。第四、世界戦争でのロシアの中立(注175)。
 Trubetskoi は、そのグループには、武器だけを必要とする、戦闘意欲のある4000人の将校がいる、と主張した。
 時間の問題が、最重要だった。ボルシェヴィキは、定期的な将校の「人狩り」を行なっており、毎日数十人を処刑していた(注176)。
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 (06) Mirbach の後継者のKarl Helfferich がモスクワに着く(7月28日)までに、Riezler は、本格的なクー・デタの計画を立てていた。
 いったんドイツの大隊がモスクワを掌握すれば(市を警護するラトビア人ライフル兵団は恩赦と本国帰還の誓約があるので中立化している)、ボルシェヴィキ政府の崩壊をもたらすには大した時間を要しない。
 これに続くのは、ウクライナのHetman Skoropadski 体制に範をとった、完全にドイツに依存したロシア政府の樹立だ(注177)。
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 (07) Riezler の計画は、無に帰した。
 計画の重要な事前想定であるモスクワへのドイツの大隊の配置は、レーニンに拒否され、ドイツ政府によって中止された。
 Hindenburg の圧力に屈して、ドイツ政府はソヴィエト政府に対して、一通の覚書を送った。それは7月14日夕方に、Riezler からChicherin に手渡された。
 覚書は、制服を着た大隊をモスクワに派遣することを提案するにあたって、ドイツにはソヴィエトの主権を侵害する意図はない、ということを保証した。派遣の唯一の目的は、ドイツの外交人員の安全を確保することだ。
 覚書は、さらにつづく。新たな反ボルシェヴィキ蜂起が生起すれば、ドイツの大隊はロシア政府がそれを鎮圧するのを助ける(注178)。
 Chicherin は、街の外で休んでいるレーニンにドイツの覚書を伝えた。
 レーニンはすぐに、ドイツの策略を見抜いた。
 その夜にモスクワに戻り、Chicherin と協議した。
 これはレーニンが譲歩することのできない問題だった。彼は、ドイツが自分の権力を脅かすことをしないかぎりでこそ、望むものはほとんど何でもドイツに与えただろう。
 レーニンは翌日、中央執行委員会で覚書を発表した(注179)。
 そして、ロシアはその領土内に外国の兵団を認めるよりもそれと戦うことを欲するのだから、ドイツはその提案に固執しないことを望む、と言った。
 彼は、ドイツ大使館の安全を確保するために必要な全ての人員を提供することを約束した。
 そして、広範囲の通商関係という餌を提示した。それは、ドイツの事業界の利益が影響を受けるように彼に代わって誘導するするための手段だった。それを実体化したのは、翌月に締結された補足条約だった。
 ドイツが本当に決意していた場合に、レーニンが抵抗できたかどうかは疑わしい。今では、ドイツの全ての要求に応えていた2月よりも、さらにレーニンは弱かった。
 しかし、レーニンは試されなかった。ドイツの外務当局は、彼の反応を知らされて、すぐにRiezler の提案を却下したからだ。
 ドイツ政府はRiezler に、「ボルシェヴィキを支援することを継続し、それ以外の者たちとはたんなる『接触』を維持する」よう命令した。
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2833/R.パイプス1990年著—第14章㉕。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第14節/Iaroslavl の蜂起。
 (01) Perkhurov には、Iarosval 反乱を綿密に準備する時間がほとんどなかった。にもかかわらず、突然に、ボルシェヴィキの諸機関を奪取した(注159)。
 行動開始は7月6日の午前2時で、将校たちの分遣隊が、市内の重要地点を掌握した。兵器庫、軍事司令部、銀行、郵便局。
 別の分遣隊は、ボルシェヴィキの指導者とソヴィエト官僚の逮捕へと進んだ。彼らの中には、射殺された者もいた、と言われている。
 地方の赤軍学校の教師として雇われていた将校たちは、すみやかに反乱者の味方になり、若干の機関銃と装甲車を提供した。
 Perkhurov は、北部義勇軍のIaroslavl 支部の司令官だと称した。
 この最初の作戦行動には、ほとんど抵抗がなかった。そして、日没までには、市の中心部は反乱軍の手に落ちた。
 まもなく、他の者たちも、反乱軍に降伏した。この者たちの中には、軍隊員、学生、労働者、農民がいた。
 ある共産主義歴史家の見積りでは、Iaroslavl 蜂起への6000人の参加者のうち、1000人程度だけが将校だった(注160)。
 これはボルシェヴィキ体制に対する純粋な民衆蜂起であり、近傍の村落からの農民たちはとくに友好的だった。
 反乱軍は、迂回して母国に戻る途中でちょうどIaroslavl を通っていた、ドイツの戦争捕虜団の協力を得ようとした。だが、断られたので、彼らを市立劇場に収容した。
 7月8日、Perkhurov は彼らに対して、自分の軍は中央諸国と戦争状態にある、と知らせた(注161)。
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 (02) ともに300〜400人が関与していたMurom とRybinsk での蜂起は、数時間で壊滅した。これに対して、Iaroslavl のPerkhurov は、16日間、持ちこたえた。
 郊外に集結した親ボルシェヴィキ軍は、次の夜に反攻を企てたが、市の再掌握をすることに失敗した。
 親ボルシェヴィキ軍は市街に激しい爆撃を行ない、水の供給施設を破壊した。赤軍がVolga 河への道路を支配しており、それが唯一の水源だったので、反乱軍に対しては厄災的な効果があった。
 一週間程度の断続的な戦闘のあと、トロツキーは、Iaroslavl での作戦行動の任務を、A. I. Gekker に委ねた。この人物は、十月のクーの前夜にボルシェヴィキに屈した旧帝制軍の大尉だった。
 Gekker は、歩兵、砲兵および航空機で市街を攻撃した。
 激烈な砲撃によって、市街のほとんどが、名高い中世の教会や修道院を含めて、完全に破壊された。
 反乱軍は、水不足でどぶ溝から掬って飲んでいたのだが、最終的には降伏しなければならなかった。
 7月20日、彼らの代表はドイツ帰還委員会に近づいて、降伏したいと宣言した。ドイツとの戦争状態にあったために、戦争捕虜として扱われるのを望んだわけだ。
 ドイツ帰還委員会は条件を受け入れて、反乱軍を赤軍へと引き渡さないと約束した。
 7月21日、反乱軍は武器を置いた。そして、数時間で、Iaroslavl は、ドイツ戦争捕虜団が占拠するところとなった。
 しかしながら、その夜、ボルシェヴィキからの最後通告に直面したドイツ人は、約束を破り、収監者としてボルシェヴィキに引き渡した。
 赤衛軍は、およそ350人を元将校、裕福な市民、学生に振り分けて、市の外に行進させ、そこで彼らを射殺した(注163)。
 これは、ボルシェヴィキが行なった、最初の大量殺戮だった。
 Iaroslavl 蜂起の一つの帰結は、ロシア政府が旧帝制軍の将校たちの無差別の逮捕を命じたことだった。彼ら将校の多くは、審問なしで射殺された。他の者たちであれば赤軍へ入隊させられていたのであっても。
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 (03) Savinkov は、Rybinsk から何とか逃げた。
 のちに、提督Alexander Kolchak の軍に加わり、ボルシェヴィキの後方からする襲撃を組織した。
 Kolchak が敗北したあと、彼は西ヨーロッパに逃亡した。そして、反ボルシェヴィキ運動を熱心に組織し、ソヴィエト同盟へと工作員を送り込んだ。
 1924年8月、レーニン主義の後のソヴィエト・ロシアで重要な役割を果たすという幻想を抱いていたが、GPU(チェカの後身)によって誘い込まれ、非合法に国境地帯を横断した。
 すみやかに、逮捕された。
 その年ののちの公開の審問で、彼は冒した犯罪の全てを告白し、自分の破壊活動には連合諸国の関与があると強調し、容赦を求めて弁明した。
 死刑判決は、10年間の収監に変更された。
 彼は翌年に、監獄で死んだ。きわめて疑わしい状況のもとで。
 公式には、自殺した、とされた。しかし、GPUによって殺害された蓋然性が高い。—若干の報告によると、窓から突き落とされた(注164)。
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 (04) Perkhurov も、Kolchak 軍に加入した。そこで、将軍の地位にまで昇り、Perkhurov-Iaroslavskii という通称を得た。
 ボルシェヴィキに捕えられたとき、彼は何とか人物を偽装し、赤軍の中で仕事を得た。
 本当の素性は、1922年に暴露された。
 最高審問所の軍事部で審理され、死刑の判決を受けた。
 彼は監獄で告白書を書かされ、それはのちに公刊された(注165)。
 GPUは、地下牢で彼を殺すことをしないで、Iaroslavl へと送った。
 Iaroslavl は蜂起の四周年記念日で、Perkhurov は、群衆に罵倒されながら、岩を投げつけられながら、街路を行進した。そのあとで、処刑された。
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 第14節、終わり。

2830/R.パイプス1990年著—第14章㉔。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第13節/Savinkov の秘密組織②。
 (09) Savinkov には、一つの計画が、いやむしろ複数のいくつかの計画があった。だが、そうした計画に彼はほとんど重要性を認めなかった。政治的議論をすれば、目の前の活動を考えている支持者を分裂させたり、彼らの気を逸らせることになったからだ。
 彼が強調したのは、愛国主義だった。
 同盟の一つの綱領は、当面する目標と長期の目標に分かれていた(脚注)
 当面する目標は、ボルシェヴィキを信頼できる国民的権力でもって置き換え、中央諸国と戦う、紀律ある軍隊を創ることだった。
 長期的目標は曖昧だった。
 Savinkov は、ロシアを民主主義政体にするために、憲法会議の新しい選挙をおそらくは戦争後に実施することを想定した。
 1923年にWarsaw で出版された回想録で、彼は、自分の組織には君主主義者から社会主義革命党員までの全ての党派の者を加入させた、と強調した(注148)。
 Savinkov は全員にとっての全てであり得たのであり、将来に関する独自で正式の計画を彼に期待するのは無益だっただろう。
 コルニロフがそうだったように、堅固な国民的権威の必要性と戦争の継続を主張した、という点だけは確かだった。
 Savinkov の同盟に加入するためには、ただ一つ、ドイツとボルシェヴィキの双方との闘争に参加しなければならなかった。
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 (脚注) Krasnaia Kaiga VChK, I (Moscow, 1920), p.1-p.42.
1924年のSavinkov の審問の際に(Boris Savinkov pered Voennoi Kollegiei Verkhovnogo Suda SSSR, Moscow,1924,p.46-47.)、彼は、正式の綱領があったことを否定した。
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 (10)  Savinkov は、チェカから隠した自分のテロリスト経験を生かして、その組織の構造のモデルを軍隊に求めた。
 彼の司令部のもとに、モスクワと地方諸都市に、職業的将校が配置される、骨格となる数十の「連隊」があった。
 これらの分団は相互に分離していて、直接の上部機関だけに知られていた。逮捕されたり裏切りがあったときに、チェカが組織全体を捕捉することができないようにするためだった(注149)。
 同盟員の一人に振られた女性が警察に訴え出た5月半ばに、このような編成でよかったことが証明された。
 チェカは、彼女に導かれて、医院を偽装していた、モスクワの同盟司令部を発見した。
 チェカは100人以上の同盟員を逮捕した(彼らは7月に処刑された)。しかし、この発見があっても、同盟は活動を二週間休止しただけで、チェカは、Savinkov を逮捕できなかったし、同盟を廃絶させることもできなかった(注150)。
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 (11) Perkhurov は自分のもとに、精巧な指揮命令の構造体のある、150〜200人の将校をもった。
 募集、諜報、対抗諜報、連合諸国との関係、軍隊の主要な分野(歩兵、騎兵、砲兵、兵術)のそれぞれ責任をもつ部門があった(注151)。
 チェカはのちに、「時計のような正確さ」で組織を動かしていたことについて、Savinkov とPerkhurov を褒めた(注152)。
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 (12) Savinkov は組織を築き上げたが、具体的な戦略構想がなかった。
 6月までに、行動すべきとの心理的圧力が増してきた。
 チェコ人とフランス人が援助金支給を止めたために、資金が枯渇していっており、彼の支持者たちの神経も、常にある裏切りの可能性を感じて擦り減っていた。
 宣誓証言によると、Savinkov は最初はモスクワでストライキをすることを考えていたが、ドイツ軍のそれに対する反応は首都モスクワの占領だろうと怖れて、この考えを放棄した(注153)。
 彼は、絶えざる噂を聞き、また、連合諸国は7月初めにArchangel とMurmansk への上陸を追加するとフランス代表部からの確認を受けて、蜂起の場所を中部または上部Volga の地域にすると決した。その地域から、チェコスロヴァキア軍とMurmansk にいる連合国軍の双方と連絡することができた。
 彼の計画が意図したのは、ボルシェヴィキを北部の港およびKazan や極東に接する地域から遮断することだった。
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 (13) ソヴィエトの法廷での審理に立った1924年、Savinkov は、こう主張した。何とか4日間持ちこたえることができれば、Archangel の連合国軍によって救出される、その後にフランス・イギリス・ロシア連合軍はモスクワへと前進する、とフランス人から固い約束を貰っていた、と。
 彼は、その約束がなければ、自分の蜂起は無意味だ、と言った(注154)。
 さらに、こう主張した。領事のGrenard は、連合国の上陸は7月3日と8日に行なわれる、またその期日のあいだに行動するのが絶対必要だ、というNoulens からの電信を、彼に見せた、と(注155)。
 この審理で彼が行なった証言によると、彼の活動の全てはフランス代表団と調整されていた。
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 (14) 残念ながら、Savinkov の言明は、額面通りに受け取ることはできない。彼は経験ある陰謀家として真実を全て語ることはない、という理由によるだけではなく、彼には完璧なウソを語る能力がある、という理由にもよる。
 そういうわけで、ある時に彼は、Fannie Kaplan によるレーニン殺害の企て(後述)について自分の功績の承認を要求した。だが、彼はそれと何の関係もなかった、ということが知られている。
 彼はまた、1918年7月にモスクワ国民センターの指示によって行動した、と述べたが、これも本当ではなかった(注156)。
 ボルシェヴィキは、母国の外国人恐怖を煽るために、自分たちに対する抵抗を全てを外国の陰謀と結びつけた。
 1924年にソヴィエト・ロシアでSavinkov が逮捕された後、彼は訴追官と取引をして1918年のフランス代表部でのクー未遂の責任を転嫁しようとした、ということはほとんど確実だ。なぜなら、研究者が利用できる連合諸國のこの期間の文書記録からは、この主張を支持できるに至る証拠は出てこないからだ。
 かりにフランス代表部が実際に反ボルシェヴィキ反乱を展開することを正当化していたのみならず、彼が主張するように、彼がモスクワを掌握するのを助けるという約束がさらに行なわれていたとすれば、そのような企ては確実に文書上の証拠を残しただろう。
 そのような証拠は存在しないので、Savinkov は、おそらくは自分の生命を救いたくてウソをついた、と結論しなければならない。
 指摘してきたように、Savinkov の、フランス人のGrenard との主要な連絡関係は、彼は「自分一人で」行動したことを証明した(脚注)。
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 (脚注) Michael Carley の最近の研究、Revolution and Intervention: The French Government and the Russian Civil War, 1917-1919 (Kingston-Montreal, 1983), p.57-60, p.67-70 は、むしろ、より直接的な責任をフランスに負わせる。しかし、Savinkov がその蜂起に関与した場合の一般的な援助の意味を混乱させるだろう。
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 (15) Savinkov はIaroslavl を、彼の蜂起の主要な場所に選んだ。これには、二つの理由があった。
 一つは、この都市の戦略的な位置で、鉄道によってArchangel をモスクワとつないでいた。このことは、攻撃的、防御的のいずれの作戦も容易にした。
 もう一つは、Savinkov が偵察のために派遣したPerkhurov は、Iaroslavl から、一般民衆の支持があるという勇気づける報告をもたらしていた(注157)。
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 (16) 最終的な作戦計画は、チェコ軍団の蜂起が最高に達していた6月末に作成された。
 Iaroslavl を指揮したPerkhurov には、組織するのに辛うじて10日間があった。
 Savinkov は、近傍のRybinsk での第二の蜂起を個人的に指揮した。
 第三の行動は、モスクワ・Kazan 鉄道路線上にあるMurom で行なうことが予定された。
 Savinkov は、Perkhurovによると、将校たちに、Archangel から連合諸国が援助するという固い約束がある、4日間を持ちこたえることができれば救出されるだろう、と語った、とされる(注158)。
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 (17) Savinkov は、Iaroslavl での蜂起を7月5-6日の夜に行なうと予定した。これは、左翼エスエルが彼らの反乱を実施する時刻に、数時間だけ先行していた。
 このような合致にもかかわらず、二つの反乱は調整されていた、ということを示すものは何もない。
 左翼エスエルとSavinkov は、全く異なる目的を追求した。左翼エスエルは、ボルシェヴィキが権力を保つことを意図していた。一方、Savinkov は、ボルシェヴィキの打倒を狙っていた。
 さらに、左翼エスエルが「反革命」将軍たちの代表と何らかの交渉をしただろう、というのは想定し難い。
 Savinkov は、もしも左翼エスエルの計画を知っていれば、きっと彼の最初の意向に従って、Iaroslavl ではなく、モスクワでクーを行なっただろう。
 レーニンがMirbach に語った、このような調整の欠如は、反ボルシェヴィキの対抗運動に典型的にあったことで、その運動が最終的には失敗した大きな原因だった。
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 (18) 敵を混乱させ、勢力の分散を強いるために、Savinkov とPerkhurov は、自分たちの複数の反乱がずらされた時間帯に起きるよう計画した。すなわち、Rybinsk での作戦行動は7月7-8日の夜に始め、Murom でのそれは翌日の夜に始める。
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 第13節、終わり。

2828/R.パイプス1990年著—第14章㉓。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第13節/Savinkov の秘密組織①。
 (01) 全く偶然の一致だったのだが、まさに同じ日に、もう一つの反ボルシェヴィキ反乱が勃発した。1918年7月6日の朝、北東部の三つの都市、Isroslavl、Murom、Rybinsk でだ。
 Boris Savinkov によるもので、この人物は反ボルシェヴィキの陰謀者として、最も組織立った、最も企画に富んだ者だった。
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 (02) Savinkov は1879年にKharkov で生まれ、ワルシャワで二次教育を受けた。そのあと、ペテルブルク大学に入学した。
 彼は1989年のストライキを含む大学騒擾に関与し、すみやかに戦闘組織で指導者たる地位まで昇った。その組織の能力を利用して、彼は、Plehve やSergei Aleksandrovich の暗殺といった大きなテロリストの任務を実行した。
 1906年に、警察工作員だったEvno Azef に裏切られてOkhrana〔チェカの後継の秘密警察〕に売られたとき、彼のテロリスト活動は止まった。
 Savinkov は死刑判決を受けたが、外国に逃亡し、地下の革命家に関する小説を書いて、二月革命が勃発するまでそこにいた。
 戦争は、彼の愛国心を刺激して覚醒させた。
 1917年二月までフランス軍に務め、そのあとロシアに戻った。
 彼は、臨時政府によって前線の政治部員に任命され、ますます民族主義的で保守的になった。そして、既述のように、ケレンスキーの下で戦争省の部長だった1917年の夏に、コルニロフとともに軍隊の紀律の回復のために働いた。
 ロマンティックな冒険体験に包まれて、彼は、明確で説得的だとの強い印象を与えた。Winston Churchill に対しても。
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 (03) 1917年12月、Savinkov は、Don 地方へ向かった。そこで、義勇軍の設立に参加した。
 Alekseev の頼みに応えて、有力な公的人物と接触すべく、ボルシェヴィキ・ロシアへと戻った(注139)。
 その任務は、政党帰属いかんを問わず、ドイツおよびその傀儡と戦い続けたいと考えている将校や政治家たちの協力を得ることだった。
 彼は、過激な過去と最近の愛国主義の履歴のおかげで、この任務に理想的なほど適していた。
 Plekhanov、N.V. Chaikovskii、「防衛主義者」を支持するその他の社会主義著名人と、彼は話した。だが、ほとんど協力を得られなかった。少しの例外はあるが、彼らは、民族主義的将校たちに協力するよりも、ボルシェヴィキが自ら崩壊していくのを待っていたからだ。
 Plekhanov は、「私は人生の40年間をプロレタリアートに捧げた。プロレタリアートが間違った途を歩んでいるとしてすら、労働者を射とうとしはしない」と言って、Savinkov を受け入れることすら拒んだ(注140)。
 除隊した将校、とくにエリート護衛兵や近衛連隊に勤務した者たちを選んだ方がよかった。
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 (04) 主要な問題は、金がなかったことだった。貧しくて、路面電車の切符すら購入できなかった。
 軍隊を設立するために、彼は、将校たちに手当を支給しなければならなかった。彼らを雇用しようとする者はいなかったので、ほとんどの将校たちは極貧だった。
 Savinkov は、資金を得るために、連合諸国の代表部へと向かった。
 彼の私的な計画では、ボルシェヴィキ体制に反対するクーの手始めとして、レーニンとトロツキーの暗殺が謳われていた。
 しかし、彼は知ったことだが、ロシアが中央諸国と戦闘しているかぎり、誰がロシアを統治するかに、連合諸国は大した関心を持っていなかった。
 実際に、まさにこの頃(1918年3-4月)、フランスはトロツキーが赤軍を組織するのを援助していた。
 Savinkov はそのゆえに、連合諸国代表部に自分の本当の政治的目的を隠し、唯一の目標はロシアの軍事能力を回復して対ドイツ戦争を再開することにあると考えるロシア愛国者だと自称した。
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 (05) 最初に助けたのは、Thomas Masaryk だった。
 このチェコの指導者がSavinkov を援助した動機は明確ではない。Masaryk は1918年早くに、チェコ人をロシアから退避させるためにボルシェヴィキと交渉していたからだ。また、反ボルシェヴィキ活動に関与することの利益は想定し難かっただろう。
 彼の回想録では、こう書いている。Savinkov と逢うことに、好奇心から同意した。だが、「革命」と「テロリスト行為」の区別を理解できないように見える人物で、その道徳的基準は「血の復讐という原始的レベル」を超えていないことに、きわめて失望した(注141)。
 しかし、これは後知恵だっただろう。
 Masaryk が1918年4月にSavinkov に最初の金、20万ルーブルを与えたのは、確かなことだ(注142)。
 このような交渉についての考えられ得る説明は、偽装に長けたSavinkov がMasaryk を、ロシア中部で反ドイツ部隊をAlekseev の義勇軍が設立するのを助けるために使用される、と説得した、というものだ。
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 (06) Savinkov は、Lockhart やNoulens とも接触した。
 Lockhart は、ボルシェヴィキの鼻先で反ドイツ部隊を設立するというSavinkov の提案に、懐疑的に反応した。だが、Savinkov の魔法にかかりすぎていたので、外務長官のArthur Balfour から「Savinkov の計画といかなる関係も持つな、その計画をさらに検討することを避けよ」、という絶対的な指示がなかったならば、Savinkov を助けていたかもしれなかった(注143)。
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 (07)  Noulens はロシア領土内に多民族の反ドイツ部隊を設立すべきという考えの主唱者で、より協力的だった。
 彼は、Savinkov はとても印象的な人物だと見た。
 「無感情を不思議に表現していた。僅かに開いたモンゴル的まぶたの下から光る動かない目つきをしていて、唇はじっと閉じたまま。まるで彼の秘密の思いを隠したいがごとくに。
 対照的に、彼の経歴と外貌は西洋的だった。
 彼の中には、一つの人種の全てのエネルギーともう一つの人種の巧妙さや神秘さとが結びついていた。」(注144)
 Noulens は5月初めに、50万ルーブルをSavinkov に与えた。それに追加の援助金もあって、総額では250万ルーブルに昇った(注145)。
 確定できるのはこうだ。この資金は軍事目的のために、主としては義勇軍の経費のために使われたが、いくらかは連合諸国の軍事諜報のためにドイツ戦線の背後での仕事のためにも用いられた(注146)。
 Noulens はボルシェヴィキ体制打倒のためにSavinkov と共謀した、彼はSavinkov の革命的謀略を知ってすらいた、ということを示す信頼し得る証拠はない。
 Noulens はSavinkov から、ロシアのその他の諸政党、たぶん親連合国の民族派の中央、と彼とのあいだを調整する、という約束を引き出していた。
 しかし、Savinkov はこの約束を守らなかった。自分の計画を秘密にしておくために、親連合国派を信頼できなかったからだ。
 Grenard は、その回想録でこう書いた。Savinkov が1918年7月に反乱の狼煙を上げたとき、「ロシアのその他の諸政党と協力して行動する以外には何も企てないという約束を破って、自分自身のために行動した」(注147)。
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 (08) Savinkov は、チェコ人とフランス人からの資金に助けられて、募集活動を拡大し、1918年4月までに、5000人以上を、自分の組織、祖国と自由防衛同盟、へと入隊させた。うち2000人はモスクワにおり、残りの者たちは34の地方都市にいた(脚注)
 彼らのほとんどは将校だった。Savinkov は武装行動を計画しており、知識人、そして知識人のお喋り(boltovniia)はほとんど役立たなかったからだ。
 Savinkov は副官として、24歳の職業的砲兵将校で帝国総合幹部学校の卒業生のA. P. Perkhurov 中尉を選んだ。優秀な戦歴と伝説的勇気をもつ人物だった。
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 (脚注) Boris Savinkov, Bor’ba s Bol’sheviksmi (Warsaw, 1923), p.26.
 A. I. Denikin, Ocherki Russkoi Smuty, III (Berlin, 1924), p.79. は、実際の数字は2000〜3000だった、とする。
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2822/R.パイプス1990年著—第14章㉒。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第12節/左翼エスエルの反乱の抑圧③。
 (18) 実際には、ボルシェヴィキは、尋常ではない寛容さでもって左翼エスエルを処理した。
 数日後にボルシェヴィキがすることになるIaroslavl での場合のように、ボルシェヴィキに対して一致して戦った者を大量に殺戮しはしなかった。そうではなく、収監者を簡単に尋問しただけで、ほとんどの者を釈放した。
 ボルシェヴィキは、Popov の派遣団からの12人の海兵を処刑した。
 むろん、逃亡しようとしていた鉄道駅で捕えたAleksandrovich はそうした。
 Spiridonova と一人の同僚はクレムリンに連行され、ラトビア人警護兵が監視する暫定の監獄に収容した。
 彼女は2日後にクレムリン内の二部屋の区画に移され、1918年11月に行われた審問の日まで、比較的快適に過ごした。
 ボルシェヴィキは左翼エスエルを非合法化せず、機関紙の発行を許した。
 <プラウダ>は、左翼エスエルを「放蕩息子」と称し、やがて復帰するという希望を表明した(注128)。
 ジノヴィエフはSpiridonova を「黄金の心」をもつ「素晴らしい女性」と褒めちぎり、彼女が収監されたときは一晩中起きていた(注129)。
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 (19) このような寛大さをボルシェヴィキが敵に対して示したことは、前にも後にも、一度もなかった。
 こうした異様な行動によって、じつに、歴史家の中にはつぎのように疑う者も出現した。Mirbach 殺害と左翼エスエル反乱は、ボルシェヴィキによって演出された、と。しかし、このような手の込んだ欺瞞を行なう動機を見出したり、関係者からこれを隠し通した方法を説明するのは困難だ(注130)。
 しかしながら、何らかの陰謀理論に頼らなくとも、説明は不可能ではない。
 ボルシェヴィキは7月に、展望の見えない状況にあった。チェコ軍団に攻撃され、Iaroslavl とMurom では武装蜂起に直面し、ロシア人労働者と兵士は離反し、ラトビア人兵士の忠誠さすら確かでなかった。
 ボルシェヴィキは左翼エスエルの支持者を敵に回しそうだったのではなかった。
 しかし、とりわけ、彼らが畏れたのは、自分たちの生命だった。
 Radek は、ドイツの友人に打ち明けたときに、ボルシェヴィキは復讐を恐れて左翼エスエルを寛大に扱った、と語りはしなかった(注131)。
 左翼エスエルの党員たちは、教条のために自分たちを犠牲にすることを全く厭わない狂信者でいっぱいだった。Spiridonova 自身も狂信主義的だった。彼女は、監獄から出したボルシェヴィキ指導部への書簡で、自分の死によってボルシェヴィキが「正気に戻る」ことを怖れたがゆえに処刑されなかった、それは残念だった、という旨を表明するまでした。
 Mirbach の後継者のKarl Helfferich も、ボルシェヴィキは左翼エスエルを根絶させることを恐れていた、という見解だった(注133)。
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 (20) 1918年11月に、革命審判所は左翼エスエル中央委員会の審理を行なった。もっとも、ほとんどのメンバーは逃亡するか地下活動に入っていたのだが。
 審理を受けたSpiridonova とIu. Sablin は、一年の有期刑を受けた。
 Spiridonova は最後まで服することなく、1919年4月に左翼エスエルの助けでクレムリンの監獄から脱出した(脚注)。
 彼女は残りの人生を監獄に入ったり出たりして過ごした。
 1937年、「反革命行為」の罪で25年の刑を受けた。
 1941年、収監されていたOrel にドイツ軍が接近した。ドイツ軍は彼女を連れ出し、射殺した(注134)。
 Mirbach 暗殺者たちのいずれも、老齢になるまで長くは生きなかった。
 Andreev は、翌年に、ウクライナでチフスのために死んだ。
 Bliumkin は地下にいたが、1919年5月に自首した。
 悔い改めて、許されたばかりか、共産党への入党を認められ、トロツキーの補佐に任命された。
 1930年後半、ロシアにいるトロツキー支持者に連絡文書を伝えるという誤った判断をし、逮捕され、処刑された(注135)。
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 (脚注) Spiridonova は脱出する前に、ボルシェヴィキ中央委員会あてに長い手紙を送った。それは翌年に支持者によって、Otkrytoe pis’mo M. Spiridonovi Tsentral’monu Komitetu partii bol’shevikov (Moscow, 1920)との表題で公表された。フーヴァー研究所図書館にa copy がある。
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 (21) 七月蜂起のさ中、左翼エスエルは、二つの派に分裂した。一方はこれを是認し、他方は離脱した。
 両派はやがて共産党に合流した。但し、地下活動を続けた、ごく少数の集団を除く。
 ジェルジンスキは、職務を停止された。
 のちのMirbach 暗殺犯の審問で証人となるために、公式にはチェカの議長とその一員であることを辞した(注137)。だが、ボルシェヴィキが通常のように法的厳密さに拘泥せず、またそのような審問も行われなかったので、辞職は体面を保つ儀礼にすぎなかった。
 ジェルジンスキの職務停止は、ほとんど確実に、彼は左翼エスエルの陰謀に関与していたのではないかとのレーニンの疑いによっていた。
 Latsis が秘密警察を指揮したが、8月22日にジェルジンスキが復職した。
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 (22) 左翼エスエルがぶざまに失敗したのは、明確な目標をもたず、政治的帰結への責任を負う意欲がなかった、という理由だけによるのではない。彼らは、ボルシェヴィキとドイツの反応を、完全に見誤っていた。
 のちに分かったように、ボルシェヴィキとドイツは、あまりにも多くの問題を抱えていたため、左翼エスエルによるドイツ大使の殺害によって挑発さるというほどではなかった(このことは、ウクライナでの左翼エスエルによる陸軍元帥Hermann Eichhorn 殺害でも続いた)。
 ドイツ政府はMirbach の殺害を事実上無視し、その指示を受けたドイツのプレスも重視しなかった。
 実際には、1918年の秋、ロシアとドイツはかつて以上に緊密になった。
 ボルシェヴィキは、対抗相手の選択について、きわめて幸運だった。
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 第12節、終わり。

2820/R.パイプス1990年著—第14章㉑。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第12節/左翼エスエルの反乱の抑圧②。
 (11) 午後11時30分頃、レーニンは、Vatsetis の司令部付きのラトビア人政治委員を自分の役所に呼びつけ、政治委員たちは司令官の忠誠性を保証できるか否かと尋ねた(注121)。
 肯定する回答があったので、レーニンは、Vatsetis を左翼エスエルに対する戦闘作戦の任務に就かせることに同意した。
 だが、警戒を加えるために、通常は2名のところ、4名の政治委員をVatsetis 付きにした。
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 (12) Vatsetis は深夜に、レーニンと逢うようにとの電話を受けた。
 この出会いがどのようなものだったかを、彼は以下のように叙述している。
 「クレムリンは真っ暗で、空っぽだった。
 我々は、人民委員会議〔=内閣〕の会議室へと導かれた。そして、待つよう言われた。…
 私が今初めて入った本当に広大な部屋は、一つの電灯で明るく照らされていた。その電球は天井のどこかの隅から吊るされていた。
 窓のカーテンは下りていた。
 その雰囲気で、自分が軍事作戦という舞台の正面にいることを思い起こした。…
 数分後に、部屋の反対側の端の扉が開き、同志レーニンが入ってきた。
 彼は早足で歩いて私に近づき、低い声で私に訊いた。『同志、我々は朝まで耐えられるだろうか?』
 そう尋ねているあいだ、レーニンは私を見つめ続けた。
 私はその日に、予期しない出来事に慣れてきていた。しかし、レーニンの問いは、その鋭い言葉遣いでもって私を困惑させた。…
 朝まで持ちこたえることが、なぜ重要だったのだろう?
 我々は最後まで耐えられないのか?
 我々の状況はたぶんきわめて不安定だったので、私の政治委員たちは、私に本当の事態を隠蔽していたのだったか?」(注122)
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 (13) レーニンの問いに返答する前に、Vatsetis は、情勢を概観する時間が欲しいと言った(注123)。
 クレムリンを除いて、モスクワは反乱者の手の内にあった。クレムリンは、包囲されている要塞のごとくだった。
 Vatsetis がラトビア人分団の司令部に着いたとき、補佐官の長は彼に対して、「モスクワの連隊の全部」がボルシェヴィキに反対する側に回った、と言った。
 いわゆる人民の軍隊(People’s Army, Narodnaia Armiia)、すなわちモスクワの連隊のうち最大で、フランスおよびイギリスの軍団とともにドイツ軍と戦うべく訓練を受けてきた分団は、中立を維持すると決定していた。
 別の部隊は、左翼エスエルを支持すると宣言していた。
 ラトビア人兵団は、何とか残っていた。すなわち、第一連隊の一つの大隊、第二連隊の一つの大隊、そして第九連隊。
 第三連隊もあった。但し、忠誠心には疑問もあった。
 Vatsetis はまた、ラトビア人砲兵隊や若干のより小さい部隊を計算に入れることもできた。後者の中には、Bela Kun が率いた、親共産主義のハンガリー戦争捕虜の一団もあった。
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 (14)  Vatsetis は、このような情報を得て、翌朝早くまで反攻を遅らせることに決めた。その頃には、ラトビア人分団がKhodynka から戻ってくることになっていた。
 彼は、中央逓信局を奪い返すべく、第九ラトビア人連隊の二つの中隊を派遣した。しかし、能力がなかったか、欠陥があった。左翼エスエルは、何とか彼らを武装解除した。
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 (15)  午前2時、Vatsetis はクレムリンに帰った。
 「同志レーニンは同じ扉から入ってきて、同じ早足で私に近づいた。
 私は数歩だけ彼に向かい、報告した。『我々は、7月7日の正午までに、全線にわたって勝利するはずです』。
 レーニンは私の右手を彼の両手で掴み、強く握りながら、こう言った。
 『ありがとう。君は私を喜ばせた』。」(注124)。
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 (16) 午前5時に、湿った霧の気候の中で反攻を始めたとき、Vatsetis の輩下には3300人の兵士がおり、そのうち、ロシア人は500人もいなかった。
 左翼エスエルは激しく闘い抜いた。それで、ラトビア人兵団が反乱の中央を降伏させ、無傷でジェルジンスキ、Latsis、その他の人質を解放するには、ほとんど7時間を必要とした。
 Vatsetis は、首尾よく済ませた仕事への特別手当として、1万ルーブルを受けた(注125)。
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 (17) 7月7日と8日、ボルシェヴィキは反乱者たちを逮捕し、尋問した。反乱者の中には、Spiridonova、その他の全国ソヴェト大会の左翼エスエル代議員もいた。
 Riezler は、左翼エスエル中央委員会メンバーも含めて、ドイツ大使の殺害に責任のある者全員を処刑するよう、政府に要求した。
 政府は二人の委員を任命した。一人は左翼エスエル蜂起を捜査し、もう一人は、連隊の非忠実な行動について調査する。
 650人の左翼エスエル党員が、モスクワ、ペテログラード、地方諸都市で勾留された。
 数日後、それらのうち200人が射殺された、と発表された(注126)。
 Ioffe は、ベルリンにいるドイツ人に、被処刑者の中にはSpiridnova もいた、と語った。
 このことはドイツ人を大いに喜ばせ、ドイツのプレスは処刑のことを大きく取り上げた。
 この情報は間違いだった。しかし、Chicherin が否定したとき、ドイツの外務当局は、その影響力を使って、その否定の報道を彼らの新聞紙から閉め出した(注127)。
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 ③へつづく。

2819/R.パイプス1990年著—第14章⑳。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第12節/左翼エスエルの反乱の抑圧①。
 (01) 暗殺犯たちは、逃げたときに文書を忘れていた。その中には、大使館への入館許可書があった。
 Riezler から提供されたこの資料と情報から、ジェルジンスキは、銃撃者はチェカの代表者だと名乗ったことを知った。
 彼は完全に驚愕し、Pokrovskii 営舎へと急いだ。そこに、Bol’shoi Trekhsviatitel’skii Pereulok 1番地のチェカ闘争分団があった。
 営舎は、Popov の指揮下にあった。
 ジェルジンスキは、Bliumkin とAndreev を自分の前に突き出すよう命じた。その際、左翼エスエル党の中央委員会全員を射殺させると威嚇した。
 Popov の海兵たちは、服従しないで、ジェルジンスキを拘束した。
 彼は人質となって、Spiridnova の安全を保障するために役立つことになっていた。彼女は、ロシアはMirbach から解放されたと発表すべく、ソヴェト全国大会へと行っていた(注109)。
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 (02) この事件は、雷鳴が伴なう激しい雨の中で起きた。モスクワはやがて、濃い霧に包まれた。
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 (03) レーニンは、クレムリンに戻る途中で、ジェルジンスキがチェカで捕えられたことを知った。Bonch-Bruevich によると、彼がこの報せを聞いたとき、「レーニンは青白くならなかった。白くなった」(注110)。
 レーニンは、チェカが自分を裏切った、と疑い、トロツキーを通じて、チェカの解体を命じた。
 M. La. Latsis が新しい治安警察を組織することになった(注111)。
 Latsis はBolshaia Lubyanka のチェカ本部へと急いで行き、建物もまたPopov の統制下にあることを知った。
 Latsis をPopov のいる本部まで護送した左翼エスエル党員は、その場で彼を射殺しようとした。だが、左翼エスエルのAleksandrovich が間に入って、救われた(注112)。
 役割が逆になってAleksandrovich がチェカの手に落ちた数日後にLatsisが返礼しようとしなかったのは、仲間としての素ぶりだった。
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 (04) その夕方、左翼エスエル党員の海兵と兵士たちは、人質を取ろうと街路に出た。自動車が止められ、それらから27人のボルシェヴィキ活動家が排除された。
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 (05) 左翼エスエルが利用できたのは、2000人の武装海兵と騎兵、8台の大砲、64本の機関銃、4ないし6の装甲車だった(注113)。
 モスクワのラトビア兵分団が郊外で休憩しており、ロシア人連隊の兵士は反乱者側にいるか中立であるかだったことを考えると、このような武力は、恐るべきものだった。
 レーニンは、かつての十月のケレンスキーと同じ屈辱的な苦境に陥っていると感じた。国家の長でありながら、自分の政府を防衛する武力をもっていなかったのだ。
 この時点で、左翼エスエルが望んでいたならば、彼らがクレムリンを掌握し、ボルシェヴィキの指導部全員を逮捕するのを妨げるものは何もなかっただろう。
 左翼エスエルは、武力を行使する必要すらなかった。彼らの中央委員会構成員は、クレムリンへの通行証を携行していたからだ。かつまた、それによって、レーニンの役所と私的住宅へも入ることができた(注114)。
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 (06) しかし、左翼エスエルにはそのような意図がなかった。ボルシェヴィキを救ったのは、左翼エスエルの権力に対する嫌悪だった。
 彼らが狙ったのは、ドイツを挑発し、ロシア人「大衆」の意気を掻き立てることだった。
 左翼エスエル指導者の一人は、捕えられているジェルジンスキに、こう言った。
 「君の前には既成事実がある。
 ブレスト条約は無効だ。ドイツとの戦争は回避できない。
 我々は、権力を欲しない。ウクライナのようになるとよい。
 我々は、地下に入る。
 君たちは権力を維持し続けることができる。だが、Mirbach の下僕であるのはやめなければならない。
 ドイツにロシアを、 Volga まで占領させろ。」(注115)
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 (07) こうして、P. P. Proshian が率いた左翼エスエルの軍団は、クレムリンへと行進してソヴィエト政府を打倒しないで、中央逓信局へと進んだ。そこを彼らは無抵抗なままで占拠し、そこから、ロシアの労働者、農民、兵士ならびに「全世界」に対して、訴えを発した(脚注)
 この訴えは混乱し、矛盾していた。
 左翼エスエルはMirbach 殺害について責任があるとし、ボルシェヴィキを「ドイツ帝国主義の代理人」だと非難した。
 彼らは、「ソヴェト制度」を擁護すると宣言したが、他の全ての社会主義政党は「反革命的」だとして拒絶した。
 一つの電報では、「権力にある」と宣言した。
 Vatsetis の言葉では、左翼エスエルは「優柔不断に」行動した(注116)。
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 (脚注) V. Vladimirova in PR, No. 4/63(1927), p.122-3; Lenin, Sochi neniia, XXIII, p.554-6; Krasnaia Kniga VChK, II (Moscow, 1920), p.148-p.155. Proshian は、その年の前半、逓信人民委員だった。
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 (08) Spiridonova は、午後7時にボリショイ劇場に到着し、大会に対して、長い、散漫な演説を行なった。
 別の左翼エスエルの演説者が、それに続いた。
 彼らは、完全に混乱していた。
 午後8時、代議員たちは、武装したラトビア人兵団が建物を包囲し、入り口を封鎖していることを知った。その入り口から出て、ボルシェヴィキは去っていた。
 Spiridonova は、支持者たちに対して、休憩して二階に集まるよう求めた。
 そこで彼女は、テーブルに跳び上がって、叫んだ。「ヘイ、君たち、国よ、聞け!、君たち、国よ、聞け!」(注117)。
 劇場の一翼に集まったボルシェヴィキ代議員たちは、自分たちが攻撃しているのか、それとも攻撃されているのかを、判断できなかった。
 ブハーリンはのちに、Isaac Steinberg にこう言った。
 「我々は君たちが我々のいる部屋に来て、我々を逮捕するのを待っていた。…
 君たちはそうしなかったので、我々は代わりに、君たちを逮捕することに決めた。」(注118)
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 (09) ボルシェヴィキが行動する好機だった。しかし、数時間が過ぎ去り、何も起きなかった。
 政府は恐慌状態にあった。信頼できる真面目な実力部隊がいなかったからだ。
 政府自身の推測によると、モスクワに駐在していた2万4000人の武装兵士のうち、三分の一は親ボルシェヴィキで、五分の一は信頼できず(つまり反ボルシェヴィキで)、残りは不確定だった(注119)。
 しかし、親ボルシェヴィキ兵士たちですら、動員することができなかった。
 ボルシェヴィキ指導部は絶望的な苦境にあり、クレムリンから避難することを考えた。
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 (10) ラトビア人ライフル兵団の司令官、I. I. Vatsetis は、モスクワ軍事地区司令官のN. I. Muralov から、司令本部へと召喚された。
 Podvoiskii もそこで、彼を待っていた。
 二人は状況を要約して伝え、作戦計画を立案するよう求めた。
 同時に、衝撃を受けているラトビア兵団長に対して、別の将校に作戦実行の任務を課すつもりだ、と言った。
 このように信頼が措かれていなかった理由は、確実に、クレムリンの側のVatsetis に関する知識にあった。彼はドイツ大使館と接触していると考えられていたのだ。
 別のラトビア人に指揮権を委ねるという試みに失敗した後で、Vatsetis は、彼の兵団に、「自分の長」とともに勝利することを保障した。
 このことは、クレムリンに報告された(脚注)
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 (脚注) ドイツ大使館は左翼エスエルに反対して行動するようラトビア人兵団に賄賂を送らなければならなかった、ということが、Riezler の回想録から知られている(Erdmann, Riezler, p.474.)。
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 ②へとつづく。

2817/R.パイプス1990年著—第14節⑲。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第11節/左翼エスエルによるMirbach の殺害。
 (01) 全国ソヴェト大会がボリショイ劇場で始まったとき、左翼エスエルとボルシェヴィキはすぐに互いに激しく非難した。
 左翼エスエルの発言者は革命を裏切ったとしてボルシェヴィキを責め、都市と農村の間の戦争を扇動した。一方でボルシェヴィキは、ロシアとドイツの戦争を挑発しているとして、左翼エスエルを非難した。
 左翼エスエルは、ボルシェヴィキ政府の不信任、ブレスト=リトフスク条約の廃棄、対ドイツの戦争宣言を呼びかけて動議を提出した。
 ボルシェヴィキは多数でこれを却下した。このあと、左翼エスエルは会場から退出した。
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 (02) Bliumkin によると、7月4日の夕方にSpiridonova が彼に会いたいと言ってきた(注104)。
 彼女は、党は彼がMirbach を暗殺するのを望んでいる、と言った。
 Bliumkin は、必要な準備のために24時間の猶予を求めた。
 彼とAndreev に必要だったものの中には、二人がドイツ大使に聴取することを依頼する、ジェルジンスキの偽造署名のある文書、二本の回転式拳銃、二発の爆弾、Popov が運転手を雇う、チェカの自動車、があった。
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 (03) 7月6日の午後2時15分から30分頃、チェカの二人の代表者がDenezhnui Pereulok にあるドイツ大使館に姿を現した。
 一人は、Iakov Bliumkin、チェカ反対諜報局の職員だと自己紹介した。
 もう一人は、Nicholas Andreev、革命審判所の職員だと。
 二人は、信用証明書を提示した。それらにはジェルジンスキとチェカの書記の署名があり、「大使に直接の関係のある問題」を議論する権限を二人に与えていた(注105)。
 その問題とは、チェカがスパイ行為の嫌疑で勾留した、大使の親戚だと信じられた、Robert Mirbach 中尉の事案のことだと分かった。
 訪問者二人は、Riezler と通訳のL. G. Miller 中尉に迎えられた。
 Riezler は、自分はMirbach 公に代わって語る権限をもつ、と言った。だが、ロシア人たちは、ジェルジンスキから大使と個人的に話すよう指示されていると強く主張して、Riezler を相手にするのを拒んだ。
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 (04) 在モスクワ・ドイツ大使館は、しばらくの間、暴力が加えられる可能性があるという警告を受けてきていた。
 差出人不明の手紙がきた。また、完璧に機能している照明設備を点検するという電気技師の訪問とか大使館の建物の写真を撮っている者などの怪しい出来事があった。
 Mirbach は、訪問者と逢うことに気乗り薄だった。しかし、チェカの長からの信用証明書が提示されたので、彼らと逢うために降りて来た。
 ロシア人二人は大使に対して、Mirbach 中尉の事案に興味を持たれるだろう、と言った。
 大使は、情報は文書でもらう方がよい、と答えた。
 このとき、Bliumkin とAndreev は、それぞれの鞄に手を伸ばし、回転式拳銃を取り出した。銃は、Mirbach とRiezler を目指して火を噴いた。
 どの銃弾も、命中はしなかった。
 Riezler とMirbach は、床に倒れ込んだ。
 Mirbach は立ち上がり、居間を通って階上へと逃げようとした。
 Andreev は追いかけて、後頭部に向かって発射した。
 Bliumkin は、部屋の中央へと爆弾を投げた。
 二人の暗殺企図者は、開いた窓から跳んで外へ出た。
 Bliumkin は負傷したが、何とかAndreev に追いつき、大使館を取り囲む二メートル半の高さの鉄屏を昇り、エンジンを噴かせて外で待つ自動車に乗った。
 大使のMirbach は、意識を回復することなく、午後3時15分に死亡した(注106)。
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 (05) 大使館の館員たちは、大使への急襲はより一般的な攻撃の前兆ではないかと怖れた。
 軍事要員が、安全を保つ責任を引き受けた。
 ソヴィエト当局に連絡しようと試みたが、無益だった。電話線が切断されていたからだ。
 軍事担当官のBothmer は、外務人民委員部が所在しているMetropole ホテルへと走った。
 そこで、Chicherin の副官であるKarakhan に、起きたことを告げた。
 Karakhan は、クレムリンに連絡した。
 レーニンは3時30分頃に報せを受け、ただちにジェルジンスキとSverdlov に知らせた(注107)。
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 (06) その日の午後遅く、ボルシェヴィキの要職者の一行が、ドイツ大使館を訪れた。
 最初に到着したのは、Radek だった。彼は武器を携行しており、それをBothmer は、小さな攻撃用拳銃と叙述した。
 続いたのは、Chicherin、Karakhan、そしてジェルジンスキだった。
 一団のラトビア人ライフル兵たちが、ボルシェヴィキ要職者の後に来た。
 レーニンは、クレムリンにとどまった。だが、大使館に責任をもつRiezler は、説明と謝罪をするためにレーニン自身が現れるよう強く主張した。
 外国の外交官が国家の長に対して要求するのは、きわめて特異なことだった。だが、これは、レーニンが従わなければならなかった当時のドイツの影響力を示していた。
 レーニンは、Sverdlov を伴なって、午後5時頃にやって来た。
 ドイツ側の目撃者によると、レーニンは事件について純粋に技術的な関心を示し、殺害の場所、家具の正確な配置、爆弾による被害を示すよう求めた。
 彼は、死者の遺体を見るのは固辞した。
 レーニンは、あるドイツ人の言葉では、「犬の鼻のように冷たく」詫びの言葉を発し、犯罪者は罰せられると約束した(注108)。
 Bothmer は、ロシア人たちはきわめて怯えているように見える、と思った。
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 第11節、終わり。

2815/R.パイプス1990年著—第14節⑱。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第10節/左翼エスエルの暴動企図②。
 (06) 決定の直後に、左翼エスエルは動き始めた。
 モスクワとその郊外の連隊に煽動者を派遣した。いくつかでは党の側に引き込み、残りは中立化することに成功した。
 チェカ内部で活動する左翼エスエル党員は、ボルシェヴィキが反攻した場合に闘う軍事部隊を集結させた。
 ドイツ大使に対するテロリズム行為を実行する準備が行なわれた。ドイツ大使の暗殺は、全国民的な決起の合図として役立つものとされた。
 十月前夜のボルシェヴィキの戦術を模倣して、左翼エスエルは、その計画を隠さなかった。
 6月29日、機関紙の<Znamia truda>は第一面で、活動可能な党員全員に対して、7月末までに党の地域事務局へ報告するよう訴えた。党地域委員会は、軍事訓練を行なうよう指示された(注101)。
 その翌日、Spiridonova は、武装蜂起のみが革命を救うことができる、と宣言した(注102)。
 ジェルジンスキ〔Dzerzhinskii〕とそのラトビア人仲間がなぜ、この警告を無視して、7月6日に突然に身柄を拘束されたのかは、不可解な謎のままだ。
 --------
 (07) この問題に対する部分的な、かつ部分的だけの回答は、陰謀者たちの何人かはチェカの指導機関で働いていた、ということだ。
 ゼルジンスキーは彼の代理人として、左翼エスエル党員であるPetr Aleksandrovich Dmitrievskii —一般にAleksandrovich として知られた—を選んでおり、この人物を完全に信頼して広い権限を与えていた。
 チェカに雇用され、陰謀に関与した他の左翼エスエル党員には、逆スパイとドイツ大使館への浸透を責務としていたIakov Bliumkin、写真家のNicholas Andreev、チェカの騎兵軍団の長官のD. I. Popov がいた。
 これらの人物が、秘密警察の本部の内部で、陰謀を企てた。
 Popov は、ほとんどが親左翼エスエルの海兵である、数百人の武装人員を集めた。
 Bliumkin とAndreev は、ドイツ大使のMirbachを暗殺する責任を請け負った。
 この二人はドイツ大使館の建物をよく知っており、大使殺害の後で辿る逃走経路の写真を撮っていた。
 --------
 (08) こうした準備を監督していた<三人組(troika)>は、7月4日夕方に予定されていた第五回全国ソヴェト大会の第二日か第三日のいずれかに、蜂起を実行しようと計画した。
 Spiridonova は、ブレスト=リトフスク条約の廃棄と対ドイツの宣戦布告を呼びかける動議を提出することとされた。
 大会での発言を決定する幹事委員会は、左翼エスエルに、寛大に議席の40パーセントを割り当てていた。また、多くのボルシェヴィキ党員がブレスト条約に反対していることが知られていた。これらの理由で、左翼エスエル指導部は、自分たちが多数派となる十分な可能性がある、と考えた。
 しかしながら、かりにそれに失敗するならば、ドイツ大使に対するテロリズム行為でもって反逆の旗を掲げることになるだろう。
 7月6日は偶然に聖ジョン日(<Ivanov den’>)だったので、行動には好都合だった。この日はラトビアの祝日で、ラトビア人ライフル兵団はモスクワ郊外のKhodynka 広場へと遠足して祝うことになっていた。そして、クレムリンには最小限の同僚のみを残すのだった(脚注)
 --
 (脚注)  彼らの指揮者のI. I. Vatsetis によると、その頃、ラトビア兵団のほとんどは、Volga-Ural の戦線へと派遣されていた。Pamiat’, No. 2(1979)
, p.16.
 --------
 (09) 引き続く事態が進行したとき、モスクワの状況は弱々しいものだったので、左翼エスエルが権力奪取を望んだならば、ボルシェヴィキが十月にそうだった以上にはるかに簡単に、それができただろう。
 しかし、左翼エスエルは、断固として、統治する責任を負いたいと考えなかった。
 彼らの反逆は、クー・デタではなく、クー・劇場(coup de theatre)、すなわち、「大衆」に衝撃を与え、彼らの沈滞している革命精神を活性化するための、大規模の政治的示威行為、だった。
 左翼エスエルは、過ちを冒した。その過ちをレーニンは、彼の支持者に対して永遠に、革命で「演劇する」ことの過ちとして警告し続けた。
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 第10節、終わり。

2814/R.パイプス1990年著—第14章⑰。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第10節/左翼エスエルの暴動企図①。
 (01) 1918年の夏が近づくにつれて、左翼エスエル(社会主義革命党)の不安は増した。
 情熱的な革命家たちだったので、絶え間なく興奮してきた。十月の高揚、1918年2月の陶酔。
 国民がドイツの侵略に対抗して立ち上がったとき、忘れ難い日々は、左翼エスエルの詩人、Alexander Blok によって祝われた。二つの最も有名な革命詩、「十二」と「スキタイ人」によって。
 しかし、これらは全て過去のものになり、左翼エスエルは自分たちが今や計算高い政治家たちが作る体制の協力者であることに気づいた。その政治家たちは、ドイツと連合諸国の両方と取引して、工場を稼働させるために、また軍隊を指導するために、「ブルジョアジー」を再び招いた。
 革命にいったい何が起きたのか?
 1918年2月の後、ボルシェヴィキは彼らを満足させることを何一つ行なわなかった。
 左翼エスエルはブレスト条約を侮蔑した。彼らから見るとこの条約は、ドイツをロシアの主人にし、レーニンをMilbach の従僕にした。
 ドイツと仲間になるのではなく、彼らが望んだのは、必要とあらば素手でもってすら、大衆をこの帝国主義者に対して立ち上がらせ、革命をヨーロッパの中心へと送り込むことだった。
 ボルシェヴィキが左翼エスエルの抗議を無視してブレスト条約に調印し批准したとき、左翼エスエルはソヴナルコム(内閣、Sovnarkom)から離脱した。 
 彼らは、穀物を収奪するために武装部隊を派遣するという、1918年5月にボルシェヴィキが採用した政策に反対した。農民と労働者間に反目を生じさせると考えたからだった。
 死刑判決の再導入に反対し、チェカが政治的収監者に言い渡した全ての死刑判決に対して党員に拒否権を行使させて、多数の生命を救った。
 彼らは断固として、ボルシェヴィキは革命の裏切り者だと見なすようになった。
 指導者のMaria Spiridonova は、こう述べた。「私は今まで一緒に活動してきた。同じ防柵の上で闘ってきた。ともに目標に向かって栄光ある闘いを行なってきた。そのようなボルシェヴィキが、ケレンスキー政権の政策を採用していると認識することは、今ではつらい。」(注96)
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 (02) 1918年の春、左翼エスエルは、1917年にボルシェヴィキが臨時政府と民主主義的社会主義者たちに対してとったのと同じ態度を、ボルシェヴィキに対してとった。
 彼らは、革命の良心として、日和見主義と妥協主義の体制に対して、高潔な代替案を提示した。
 工業労働者に対するボルシェヴィキの影響力は低下していたので、左翼エスエルは危険な対抗者になった。左翼エスエルは、ボルシェヴィキが権力奪取の過程で利用したがいったん権力を握ると全力で抑圧したのと同じ、ロシア人大衆の無政府主義的で破壊的な本能に訴えたのだから。
 彼らは、ある程度の騒々しい市民たちから支持された。その中には、急進的なペテログラードの労働者や、バルト海および黒海の艦隊の海兵たちもいた。
 彼らが訴えたグループは基本的には、十月にボルシェヴィキが権力を掌握するのを助け、今では裏切られたと感じている者たちだった。
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 (03) 4月17日〜25日、左翼エスエルはモスクワで大会を開催した。
 大会は、6万党員を代表していると宣言した。
 ほとんどの代議員は、ボルシェヴィキとその<komissaroderzhavie>(「人民委員の統治」)との明確な決裂を望んだ(注97)。
 2ヶ月後(6月24日)の秘密会議で、左翼エスエルの中央委員会は、謀反の旗を掲げると決定した(注98)。
 ブレスト条約が追求した「息つぎ」は、終わらなければならない。
 彼らは、7月4日に予定されている来たる第四回全国ソヴェト大会で、ブレスト=リトフスク条約の廃棄と対ドイツの宣戦を呼びかける動議を提出することになる。
 その動議が通過しなければ、ロシアとドイツの断絶をもたらすテロリズムによる挑発を開始するだろう。
 秘密会議で採択された決議には、つぎのように書かれていた。
 「左翼エスエル中央委員会は、共和国の現在の政治情勢を検討したうえ、ロシアの利益ならびに世界革命の利益のために、ブレスト=リトフスク条約が生んだいわゆる息つぎに対して、即時に終止符が打たれなければならない、と決議する。//
 中央委員会は、ドイツ帝国主義の指導的代表者たちに対して、一続きのテロリズム行為を組織することが実践的でありかつ可能であると信じる。
 これを実現するために、党の全力が組織され、全ての策が講じられなければならない。そうすれば、農民層と労働者階級はこの運動に参加し、積極的に党を助けるだろう。
 そのゆえに、テロリズム行為を行なうときには、ウクライナでの諸事件、農民のあいだでの煽動、兵器庫の爆発への我々の関与者に、全ての文書が知らされなければならない。
 これは、モスクワが合図する後でなされなければならない。
 この合図はテロリズムの一行為であり得るが、あるいは別の形態をとることもできる。
 党の全力の投入に寄与すべく、三人委員会(Spiridonova、Maiorov、Golubovskii)が任命された。//
 党の望みとは逆に、これがボルシェヴィキと衝突し得るという事実にかんがみ、中央委員会はつぎのとおり宣言する。
 我々は、人民委員会議の現下の政策に対する攻撃だと我々の政策を見なす。しかし、決してボルシェヴィキそれ自体に対する闘いではない。
 我々の政策に対してボルシェヴィキが攻撃的な反対攻撃を行なうということがあり得るので、我々は、必要とあらば、武力でもって我々の立場を防衛しようと決意している。
 党が反革命分子によって利用されるのを阻止するために、我々の政策は明白にかつ公然と言明されることが決議された。そうしてこそ、世界的な社会主義革命的政策は、やがてソヴィエト・ロシアによって用いられることができる。」(注99)
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 (04) この決議が示すように、左翼エスエルは、1917年十月のボルシェヴィキの行動を多くの点で模倣しようとしているにすぎない。一つのきわめて重大な違いは、左翼エスエルは権力の奪取を望まなかったことだ。
 権力はボルシェヴィキの手に残されるものとされた。
 左翼エスエルは、反ドイツのテロリズムへの反応としてドイツがロシアを攻撃するよう挑発することによって、ボルシェヴィキがその「日和見主義」政策」を放棄するよう仕向けることだけを欲した。
 この計画は全く非現実的だった。それが依拠していたのは、つぎのような賭けのごとき期待だった。
 ドイツはブレスト条約で獲得した莫大な利益を衝動的に放棄するだろう、そして、ドイツとロシアを結びつける共通の利益をすっかり無視するだろう。
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 (05) 左翼エスエルの三人委員会のうち最も有力な人物であるSpiridonova は、前世紀に特徴的な宗教的殉教者がもつ勇気を持っていた。だが、常識に似たものは何一つ持っていなかった。
 この時期の彼女を観察していた外国人は、全く褒め言葉のない報告を残した。
 Riezler にとって、彼女は「干上がったスカート」だった。
 ドイツの報道記者のAlfons Paquet は、こう彼女を見た。
 パンセネ〔鼻固定眼鏡〕を付けた、飽くなき発作者。語っているあいだいつも見えないハープに手を伸ばしているように見える、また、会場が称讃と憤激で充満しているときに焦ったそうに足を踏み鳴らして、落ちている服の肩紐を上げている、そのようなアテナを戯画化した人物。」(注100)
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 ②へとつづく。

2813/R.パイプス1990年著—第14章⑯。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第九節/ドイツ皇帝が親ボルシェヴィキ政策を決定②。
 (09) このような考えを抱いて、Kühlmann は、ロシアでの厳格な不干渉政策を主張した。
 おそらくボルシェヴィキの探索だったものに応えて、彼はロシア政府に対して、ドイツもフィンランドもペテログラードには何の腹案も持っていないと、保証した。このような保証があったため、ラトビア人兵団を西部から、チェコ軍団と戦うことがひどく熱望されていた東部へと移動させることが可能になる(注91)。
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 (10) いつか最も「歴史的」な日々があると信じていた者たちにとって、1918年6月28日は、近代の最も「歴史的」な日の一つとして光るはずだ。
 なぜと言うに、ドイツ皇帝が衝動的な決定をして、ボルシェヴィキ体制を死刑判決から救ったのは、この日だったからだ。
 ロシア問題に関する報告書が、提示用に彼に送られてきた。
 彼の前には二つの文書があった。一つは、首相のGeorg von Hertling が著名した外務省からの文書だった。もう一つは、Hindenburg から。
 報告担当官の男爵Kurt Von Grünau は、皇帝補佐官に対して外務省を代表した。
 このような事態の経験を積んでいた者は全て、このような場合に報告担当官がもつ力を知っていた。
 報告担当官は、主要な政策案、被報告者が事態の不完全な知識にもとづいて選ぶために必要な政策の選択肢、を提示する。そのときに彼は、微妙な操作を行なって、自分が好む方向へと決定を誘導することができる。
 Grünau は、外務省の利益を促進するために、この機会を最大限に利用した。
 皇帝は、大部分について、Grünau が彼に提示した政策案の様式の結果として、重大な決定を下した。
 「瞬間的な気分と突然の閃きに従う皇帝の衝動的性格にとっては、助言者が彼に提示した最初の論拠を結論だ(<schlussig>)と思うほどに支持するのは、本質的特徴だ。
この場合も、それが起きた。
 助言者のGrünau は、Hindenburg が選考した案を皇帝に提示する直前に、Hertling からの電信(Kühlmann 推奨書も)を皇帝に知らせることに成功した。
 皇帝はすぐに首相〔Hertling〕に同意すると宣言し、とくに、まず、ドイツはロシアで軍事行動を行なってはならない、と述べた。また、ソヴィエト政府には、第一にペテログラードから安全に撤兵できること、第二に、「将来の機会を排除することなく」チェコ軍団に対抗して戦線を展開できること、最後に第三には、ブレスト条約を受諾した唯一の党派としてのソヴィエト政府には支援が拡大されること、を知らせなければならない、と述べた。(注92)」
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 (11) 皇帝による決定の直接的効果として、トロツキーは、ラトビア人連隊を西部国境からVolga-Ural 前線へと移動させることができた。
 ラトビア人兵団は戦闘可能な唯一の親ボルシェヴィキ軍団だったので、この行動によって、東部のボルシェヴィキ体制は完全な崩壊から救われた。
 7月末に、ラトビア人連隊と第四分団はKazan 近くでチェコスロヴァキア兵団と交戦し、第六分団はEkaterinburg で彼らを攻撃した。また、第七分団はIzhevsk-Botkin で、武装労働者の反ボルシェヴィキ蜂起を鎮圧した。
 これらの作戦行動は、戦況をボルシェヴィキに有利に変えた。
 ドイツの諜報機関が傍受したIoffe あての電報で、Chicherin は、ロシアがその兵団をドイツの戦線から撤退させ、その兵団をチェコスロヴァキア兵団に対抗して投入することができたことがきわめて役立った、ということを強調した(注93)。
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 (12) 皇帝の判断の長期的な効果は、ボルシェヴィキがその歴史の最も危機的な時期を乗り切ることを可能にしたことだった。
 ドイツがペテログラードを掌握するのに少しの努力も要らず、モスクワを占拠するにはほんの少し多くの努力しか必要としなかっただろう。二都市ともに事実上防衛されていなかったのだから。
 そしてドイツは、そのウクライナ作戦を繰り返すことができ、ロシア全土に傀儡政府を樹立しただろう。
 誰も、ドイツのそうした能力を疑っていなかった。
 ボルシェヴィキがより強固な地位にあった4月に、トロツキーはSadoul に、ドイツに後援された政党によってボルシェヴィキが排除されることはあり得る、と語った(注94)。
 6月末の皇帝の決定は、この可能性を永遠に消滅させた。
 西部での攻勢が終わりを告げた6週刊後、ドイツはもはや、ロシアの国内情勢に決定的に干渉する立場にいることはなくなった。
 ドイツがボルシェヴィキを支持し続けていることが知られるようになって、ロシアの反対派は落胆した。
 Kühlmann は皇帝の意向を伝達するとき、在モスクワ大使館に対して6月末に、レーニンと協力することを指示した。
 7月1日、Riezler は、右派中央派との会話を断絶した(注95)。
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 第10節へとつづく。

2811/R.パイプス1990年著—第14章⑮。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第九節/ドイツ皇帝が親ボルシェヴィキ政策を決定①。
 (01) 1918年の6月まで、将軍たちは、ボルシェヴィキとの決裂を要求する〔ドイツ国内の〕唯一の党派だった。
 彼らは、外務省当局と一緒になって動く産業家や銀行家によって抑えられていた。
 しかし今や、期待していなかった同盟相手を見つけた。
 チェコスロヴァキア兵反乱のあと、Milbach とRietzler はレーニン体制の存続可能性について確信を失い、ロシアで支持される別の基盤を探すようにさらに強く主張した。
 Rietzler の勧告は、印象にだけもとづいてはいなかった。
 彼には、チェコ軍団を阻止するためにボルシェヴィキが当てにできる勢力はボルシェヴィキを見捨てつつある、という直接の知識があった。
 彼は6月25日、ドイツ政府に対して、在モスクワ大使館はチェコ軍団と国内の対抗者に対するボルシェヴィキの行動を助ける全てのことをしているけれども、この努力は無駄なように見える、と助言した(注87)。
 こう思っていたことは、数年のちに初めて知られるようになった。
 内戦の東部戦線での赤軍の司令官だったM. A. Muraviev 中佐がチェコ軍団と戦うよう説得するために、Rietzler は彼に、資金援助(賄賂)をしなければならなかった(脚注)
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 (脚注)  Baumgart, Ostpolitik, p.227; Erdmann, Rietzler, p.474; Alfons Paquet in Winfried Baumgart, ed., Von Brest-Litovsk zur deutscheh Novemberrevolution (Goettingen, 1971), p.76. Muraviev は、ともかくも7月初めに脱落し、かれの兵団のもとで死んだ。
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 さらに厄介なことに、ラトビア人兵団はボルシェヴィキのために闘う意気を低下させていた。
 彼らは、後援者たるボルシェヴィキの運命が衰退傾向にあるのを感じ、孤立するのを怖れて、別の立場に替わることを考えた。
 ラトビア人兵団を説得して7月のIaroslavl でのSavinkov 反乱の鎮圧を助けさせるために、Rietzler にはより多くの援助資金が必要だった(注88)。
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 (02) チェコ軍団はそのあいだ、次々と都市を奪取していた。
 6月29日、Vladivostok を掌握し、Ufa の7月6日がつづいた。
 Irkutsk ではボルシェヴィキの抵抗に遭ったが、それを打倒し、7月11日にその街を掌握した。
 この時点までに、Penza から太平洋まで、東部シベリアの支線部を含めて、シベリア横断鉄道の全線は、チェコ軍団の手に落ちた。
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 (03) チェコ軍団が妨げられずに前進し、ボルシェヴィキ党員が離脱していく恐れも高まって、Mirbach とRietzler には不吉な予感が生まれた。
 彼らは、連合諸国がこの危機を利用して、エスエルによるクーを企むのではないか、そしてロシアは連合諸国の側に再び戻るのではないか、と懸念した。
 この大厄災の発生を阻止するために、Rietzler はドイツ政府に対して、ロシアのリベラル派および保守派と接触するよう強く主張した。これらの派は、右派中心派、カデット党〔立憲民主党〕、Omsk 政府、Don コサックに代表されていた(脚注)
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 (脚注) Erdmann, Rietzler, p.711-2. Rietzler は、ドイツの潜在的な同盟者の中にカデットを含めていた。その指導者のMiliukov は、当時ウクライナにいたが、親ドイツの志向を表明していたからだ。その他のカデット党員は連合諸国に忠実なままだった。
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 (04) 在モスクワ大使館からの警告的報告書によって、軍部の不満はさらに大きくなった。そして、ドイツ政府がもう一度「ロシア問題」を検討するよう動かした。
 ドイツ政府が直面していた問題は、つぎのように整理することができる。まず、終始一貫してボルシェヴィキに執着すべきか。その理由は、1)ボルシェヴィキは長期間の脅威としてのロシアを排除するするためにロシアを完全に壊滅させた、2)ボルシェヴィキはブレスト=リトフスク条約に黙従することによってロシアの最も富裕な地域をドイツの自由に委ねた。
 あるいは、それとも、ドイツの軌道の範囲内のロシアを維持する、もっと陳腐だがもっと生存可能性のある体制を選ぶために、ボルシェヴィキを振りほどくべきか。これがブレスト=リトフスク条約で獲得した領域の一部を放棄することを意味する、としても。
 これらそれぞれの立場の主張者たちは、手段について一致しなかった。
 だが、それらの目的は、同一だった。—すなわち、ロシアがフランスとイギリスがドイツを「包囲」するのを二度と助けないように、ロシアを弱体化すること。そして、ロシアを経済的浸透に対して広く開くこと。
 反ボルシェヴィキの党派は、こうした目標をロシアを従属した政治体に作り上げることによって達成したかった。しかし、一方で、外務省当局は、ロシアを内部から消耗させるためにボルシェヴィキを利用することによって、そうすることを選んだ。
 この問題をいずれかに決着させることは、ボルシェヴィキは衰亡しようとしているという在モスクワ大使館の見方からすると、かなりの緊急性を帯びた課題だった。
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 (05) ドイツ政府の誰も、ボルシェヴィキが長く権力を保持するのを望まなかった。論議は、戦争継続中の、短期間についてのものだった。
 論議に決着をつける困難さには、皇帝の気紛れさも加わっていた。皇帝はある日、「ユダヤ」ボルシェヴィキに対して激しく怒り、そのボルシェヴィキに対する国際十字軍を結成するのを望んだ。だが、次の日には、同じボルシェヴィキについて、ドイツの最良の友人だと語った。
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 (06) Ludendorff は、ボルシェヴィキを消滅させることを主張した。
 ボルシェヴィキは裏切り者だ。「我々のおかげで生きているとしても、ソヴィエト政府からは何も期待することができない」。
 彼がとくに困惑していたのは、ドイツの兵士たちのボルシェヴィキの政治宣伝への「感染」だった。そのプロパガンダは、東部の数十万の兵士たちの移動にともなって、西部前線へと広がっていた。
 彼は、ロシアを弱体化し、「力でもってロシアを[ドイツのために]奪う」のを欲した(注89)。
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 (07) 在モスクワ大使館は軍部の側にいたけれども、ロシアの政治集団から相当の支援を受けた見返りとして、ブレスト条約の改訂を推奨した。
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 (08) 反対する点がKuhlmann と外務省(在モスクワ大使館を除く)から申し立てられた。これには、多数の政治家とほとんどのドイツの事業家団体からの支持があった。
 5月に提出された外務省の覚書は、ボルシェヴィキとの協力を継続する論拠を定式化した。
 「ロシアの多様な所—主として反動的分野—から発せられているドイツの援助を求める理由は、資産階級の、ボルシェヴィキが彼らの所有物や資産を脅かしているという恐怖によって、最もよく説明することができる。
 ドイツは、つぎのような執行補佐人の役割を果たすべきだ。すなわち、ボルシェヴィキをロシアの家から引きずり出し、ドイツに対してツァーリ体制が過去数十年間追求してきたのと同じ政策を追求する反動家たちを復活させる、そのような執行補佐人。
 大ロシアに関して、我々は一つの最重要の利益をもつ。つまり、分解する力を促進し、その国を長いあいだ、弱いままにしておくこと。1871年の後にフランスに関して、Bismarck公が行なったのとまさに全く同じように。…
 その国の経済を掌握するためにロシアとの関係を正常なものにすることは、喫緊の我々の利益だ。
 その国の国内情勢に巻き込まれるほど、すでに我々とロシアを分けている亀裂は拡大するだろう。…
 ブレスト=リトフスク条約はボルシェヴィキによってのみ批准され、かつボルシェヴィキの全員ですらなかったことを、看過してはならない。…
 ゆえに、当面はボルシェヴィキを国家の指導的地位にとどまらせることが、我々の利益だ。
 ボルシェヴィキは当分の間、権力を維持するために、我々に対して忠誠の外貌を維持し、講和を保つために、行なうことのできる全てをするだろう。
 一方で、その指導者たちは、ユダヤ実業家なのだから、やがては、商業上および輸送実務の利益のために、彼らの理論を捨て去るだろう。
 よって我々は、ゆっくりと、しかし目的意識をもって、進まなければならない。
 ロシアの輸送、産業、そしてその国民経済全体は、我々の手中に握られなければならない。」
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 第九節②へとつづく。

2810/R.パイプス1990年著—第14章⑭。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第八節・チェコ軍団の前進。
 (01) チェコスロヴァキア兵の反乱は、ボルシェヴィキに対して、軍事的に挑戦したのみならず政治的脅威も与えた。
 Volga-Ural 地方やシベリアの諸都市は、リベラルなおよび社会主義的な知識人で溢れた。彼らは、ボルシェヴィキに対して立ち上がる勇気はなかったけれども、他者が与えてくれた機会を利用する心づもりはあった。
 彼ら知識人は、Samara とシベリアの街のOmsk に集中した。
 立憲会議の解散の後で、およそ70人のエスエル代議員はSamara へと旅行して、自分たちがロシアの正当な政府だと宣言した。
 Omsk は、カデットが率いた、より中央主義の知識人たちの司令地だった。ここにいた政治家たちは、シベリアをボルシェヴィズムと内戦から分離することに賛成だった。
 チェコ軍団が中央ヴォルガとシベリアの主要都市からボルシェヴィキを一掃するとすぐに、これら知識人たちは活動し始めた。
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 (02) チェコ軍団が(6月8日に)Samara を奪取したのち、ボルシェヴィキのもとで陰謀的存在になっていた立憲会議代議員たちは、公然化し、5人の幹事会によって率いられる、立憲会議委員会(Komitet Uchreditel’nogo Sobrania またはKomuch)を結成した。
 その綱領は、「全ての権力を立憲会議へ」とブレスト=リトフスク条約の廃棄を訴えた。
 その数週間後、Komuch はロシアの民主主義的社会主義の基本方針に適合した布告を発した。それには、個人的自由への制限の廃止、革命審判所の解体、が含まれていた。
 Komuch は、一般的自治政府の機関として、かつての<zemstva>と村議会を復権させた。だが、ソヴェトも維持して、その再選挙を命じた。
 銀行を非国有化し、ロシアの国債を尊重するつもりだと表明した。
 エスエルの農業綱領を模倣したものだったボルシェヴィキの土地に関する布令は有効なままだとされた(注81)。
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 (03) Komuch は自らをボルシェヴィキ体制に代わるものと見ていたが、Omsk にいるシベリアの政治家たちは、より穏健な地域的目標をもっていた。
 彼らは、チェコ軍団がボルシェヴィキを一掃した諸地域で合同し、1918年6月1日に、自らを西シベリア政府だと宣告した。
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 (04) チェコスロヴァキア兵たちは最初は、ロシアのボルシェヴィキへの対抗者に共感していなかった(注82)。
 エスエルが支援を求めて彼らに接近したとき、拒否した。理由は、彼らの唯一の使命はVladivostok への安全で迅速な移動を確実にすることにあったからだ。
 しかしながら、望むか否かを問わず、彼らはロシアの政治に巻き込まれざるをえなかった。目標を実現するためには、地方当局と交渉しなければならず、それはKomuch やシベリア政府との関係を増大させることを意味したからだ(注83)。
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 (05) チェコスロヴァキア兵団が反乱を起こしたとき、ボルシェヴィキ政府は、彼らは連合国の諸政府の指示のもとで行動している、と考えた。
 共産主義歴史家たちは、この見方に執着してきた。支持する証拠はなかったにもかかわらず。
 フランスの側から見た、ある歴史家の言葉が知られている。彼は関連する文書資料の全てに目を通し、「フランスが[チェコスロヴァキア兵の]蜂起を扇動していたことを示すものは何もない」と書いた(注84)。
 このことは、当時のSadoul の見方の適切さを確認する。Sadoul は、首尾はよくなかったが、友人のトロツキーに対して、フランス政府はチェコスロヴァキア軍に対して何の責任も負わないことを納得させようとした(注85)。
 実際に、少なくとも最初は、チェコスロヴァキア兵の反乱は、フランスにとっては不愉快な驚きだった。チェコ軍団を西部前線に移動させるというフランスの計画を転覆させるものだったからだ(注86)。
 イギリスが介入していた証拠もない。
 共産主義歴史家はのちに、Masaryk に責任を負わせようとした。しかし、彼は実際には、最も不幸を味わった人物だった。チェコスロヴァキア兵団がロシア情勢に巻き込まれることになって、チェコ国民軍をフランスに集めようとする彼の計画は妨害されたのだ(脚注)
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 (脚注) 「結論として一つのことが帰結される。すなわち、連合諸国からであれ地下の白軍の中央司令部からであれ、外部からの刺激または奨励は、ソヴィエト権力に対抗して武器を取るとのチェコ軍団の決定に対して、いかなる役割も果たさなかった。こうした敵対関係の発生は、偶発的なものだった。関係当事者の誰も望んでいなかった」。G. F. Kennan, The Decision to Intervene (Princeton, N.J., 1958), p.164.
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 (06) しかし、歴史の真実はどうだったのであれ、事態の激しい推移の中で、ロシア政府が〔チェコ軍団の〕Gajda 将軍の背後に連合諸国の意図を見るのは自然なことだった。チェコ軍団が、自分たちを武装解除させようとする命令の中に、ドイツの圧力を見るのは自然だったように。
 チェコスロヴァキア兵反乱事件は、ボルシェヴィキにあった連合諸国との経済的および軍事的協力の可能性を奪い、—完全に不本意というのではなく—ロシアをドイツの腕の中へと押しつけた。
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 第八節、終わり。 

2809/R.パイプス1990年著—第14章⑬。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第七節/ボルシェヴィキによる徴兵制度の採用。
 (01) 直接に向けられたのではなかったが、チェコスロヴァキア兵の反乱はボルシェヴィキ政府にとって、ブレスト=リトフスク条約以降の最初の深刻な軍事的挑戦だった。
 数ヶ月の検討をしたにもかかわらず、まだ赤軍はほとんど紙の上の存在だった。
 シベリアでのボルシェヴィキの実働人員は、数千人の「赤衛隊」およびそれと同様の数の親共産主義のドイツ人、オーストリア人、ハンガリー人の戦争捕虜で成っていた。
 中央の司令部のないこの混成部隊は、チェコスロヴァキア兵よりも劣っていた。絶望的になったソヴィエト政府は、ドイツに対して6月末に、チェコスロヴァキア兵に対して用いるべく、ロシアにいるドイツ人戦争捕虜を武装させる許可を求めた(注71)。
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 (02) ボルシェヴィキを真剣に軍隊の設立に取り組むよう最終的に強いたのは、チェコスロヴァキア兵の反乱だった。
 最高軍事会議で帝制時代の元将軍たちは、もっぱら「プロレタリア」分子で構成される全てが自由意思の軍隊という想念を放棄して、一般的な徴兵制度の採用へと移ることを強く主張してきていた。
 ロシアの人口構造からすると、徴兵軍では、農民が圧倒的多数を構成することになる。
 現実的な選択的判断をすることができていなかったが、レーニンとトロツキーはやっと、職業的な将校団と多量の農民徴用兵をもつ常備軍に対する嫌悪を克服した。
 政府は4月22日に、18歳から40歳までの全男子が8週間の軍事訓練を受けるべきことを命令した。
 この指令は、労働者、学生、「開発」に従事していない、つまり賃労働者を雇用していない農民に適用された(注72)。
 これは、最初の一歩だった。
 政府は5月29日に、段階的に総動員が実施されるべきことを命令した。
 最初に、モスクワ、Don、Kuban の、1896年および1897年生まれの労働者が召集されることになる。
 その次はペテログラードの労働者。そのあと、鉄道労働者と事務従事被雇用者へと広がった。
 これらの被召集者には、6ヶ月間の服務が課せられた。
 農民たちはまだ、召集されなかった。
 6月に、兵士の給料が1ヶ月150ルーブルから250ルーブルに上げられた。また、標準の制服を用意する最初の試みが行なわれた(注73)。
 同時期に、政府は、帝制軍の旧将校たちの自発的登録を開始し、総合幕僚アカデミーを開設した(注74)。
 最後に7月29日、政府は、二つの布令を発した。これらは、これ以来赤軍として知られるようになる軍隊の基礎になった。
 第一の布令は、18歳から40歳までの男子全員の軍事労役の義務を導入した(注75)。
 この布令の定めにより、50万人以上の男子が徴兵された。
 第二の布令は、革命審判所による制裁で威嚇されたのだが、指定された地域で、旧軍隊の全ての将校(1892年から1897年までに生まれた者を含む)の登録を命じた(注77)。
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 (03) こうしたことが、赤軍の起源だった。
 構造と紀律について、職業的将校たちの助けでもって組織され、すみやかにほとんどもっぱら彼らによって司令されるものとなって、赤軍は不自然にではなく、帝制軍をモデルにしていた(注78)。
 赤軍の唯一の新規さは、「政治委員」(political commissars)、すなわち全てのレベルの指令者への忠誠性に責任を負う、信頼に足るボルシェヴィキの<政治局員〔apparatchiki〕>に託された地位、を導入したことだった。
 トロツキーは、〔1918年〕7月29日の中央執行委員会で、彼を不人気にした威張り方でもって、今では「軍事専門家」とも称されるかつての帝制将校たちの信頼性を懸念する者たちに対して、ソヴィエト・ロシアを裏切ることを企図する者は全て、ただちに射殺される、と保証した。
 彼はこう言った。「全ての専門家の隣には、政治委員が、一人は右に、もう一人は左に、拳銃を手にして、立っている」(注79)。
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 (04) 赤軍はすぐに、新しい体制の甘やかされた子どもになった。
 1918年春には早くも、兵士たちは工業労働者よりも多い給料と配給を手にした。これに工業労働者は声高に抗議した(注80)。
 トロツキーは、伝統的な軍事紀律に即した苦役を再導入した。
 5月1日にモスクワのKhodynka 広場で行なわれた赤軍の最初のパレードは元気がないもので、主としてラトビア人兵士によっていた。
 しかし、1919年とそれ以降の数年、トロツキーは赤の広場で、綿密に組織された、かつてなく手の込んだパレードを演出した。それはかつての老将軍たちの目に涙を滲ませた。
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 第七節、終わり。

2808/R.パイプス1990年著—第14章⑫。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第六節/チェコスロヴァキア兵の反乱②。
 (09) 予期せぬ事件が、全ての計画をひっくり返した。
 5月14日、西部シベリアの町のCheliabinsk で、チェコの兵士と本国へ送還中のハンガリーの戦争捕虜のあいだで、争論が起きた。
 叙述できるかぎりでは、一人のハンガリー人が鉄の棒または何かの金属物体を鉄道のプラットホームに立っていたチェコ人に投げ、うち一人が重傷を負った。
 喧嘩が勃発した。
 Cheliabinsk のソヴェトが騒擾に参加した数人のチェコスロヴァキア人を勾引したとき、別のチェコ人が地方の武器庫を掌握し、仲間の即時釈放を要求した。
 上回る力に負けて、ソヴェトは屈服した(注64)。
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 (10) この時点まで、チェコスロヴァキア兵にはボルシェヴィキ政府に対抗して武力を取り上げる意図はなかった。
 実際に、チェコスロヴァキアの政策の大きな趨勢は友好的な中立の立場だった。
 Masaryk も親近的だったので、連合諸国に対してソヴィエト政府に事実上の承認を与えるよう主張していた。
 チェコ軍団について、共産主義者のSadoul は、彼らの「ロシア革命への忠誠心は争う余地がない」と書いた(注65)。
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 (11) こうした状態は全て、トロツキーの愚かな行為によって変わることになる。
 トロツキーは、新たに任命された戦争人民委員として、その地位を示威したかった。自らの指揮のもとにある兵団を実質的には何一つもっていなかったのだが。
 この野望によってすみやかに、適切な規律をもったチェコスロヴァキア人の一団は「反革命的」軍隊に変えられた。これはボルシェヴィキにとって、権力掌握以降で最も深刻な軍事的脅威になっている、というのだ。
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 (12) トロツキーは、Cheliabinsk で明らかになったこと、そしてチェコ人が「チェコスロヴァキア革命軍大会」を開催したことを知った。そしてただちに、モスクワ在住のチェコスロヴァキア国民会議の代表の逮捕を命じた。
 驚愕したチェコの政治家たちは、チェコ軍団の解体を含む、トロツキーの全ての要求に同意した。
 トロツキーは5月21日、チェコ軍団が東へとさらに進むことを中止させた。軍団の兵士たちは、赤軍に加わるか、または「労働大隊」へと徴用されなければならない。—後者は、ボルシェヴィキの強制労働部隊の一部になる。
 服従しない者は強制労働収容所(concentration camps)へと拘禁されるものとされた(脚注)
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 (脚注)これは、ソヴィエトの諸発表の中で最も早い強制労働収容所への言及だと見られる。
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 5月25日、トロツキーはつぎの命令を発した。
 「鉄道沿いの全てのソヴェトは、重い責任のもとで、チェコ人を武装解除することを指示される。
 鉄道路線沿いの武器を持って発見される全てのチェコ人は、その場で処刑されるものとする。
 <ただ一つ>であっても武器を持つチェコ人を運んでいる全ての列車(echelon)は、積荷を降ろされ、(列車内の人員は)戦争捕虜収容所へと収監されるものとする。」
 これは、際立って不適切な命令だった。不必要な挑発だったというだけではなく、トロツキーはこれを強制的に執行する手段を有していなかったからだ。チェコ軍団は、シベリア地方で最も強力な軍事部隊だったのだ。
 同時に、トロツキーはドイツからの圧力を受けて行動した、と広く信じられた。だが、これらの5月の諸命令についてドイツには責任がない、ということが確定されてきている(注67)。
 トロツキーによるまさに非ボルシェヴィキ的な「力の相互関連」の無視だったのであり、これはチェコスロヴァキア人の反乱を誘発した。
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 (13) チェコスロヴァキア兵は、5月22日、武装解除せよとのトロツキーの命令を拒否した。
 「チェコスロヴァキア革命軍大会は、Cheliabinsk に集まって、…革命の強化のための困難な闘争を行なうロシアの革命的人民に対する共鳴の感情を宣言する。しかしながら、大会は、我々の兵団のVladivostok に向かう自由で安全な通行を保障するにはソヴィエト政府は無力であると確信して、満場一致で、兵団が出発することを許され、反革命的な列車からの保護を保障されるまでは、武器を捨てて降伏することをしない、と決議した。」(注68)
 この決議をモスクワに伝達するに際して、チェコスロヴァキア兵大会は、こう言った。大会は「満場一致で、安全な旅行の保障が考慮されて、Vladivostok に到着するまでは、武器を捨てて降伏することをしない、と決議した」。
 これが表明しているのは、チェコスロヴァキア兵団が出発するのを妨害するいかなる企てもなされないだろう、という希望だった。「あらゆる紛争は、シベリアの地方ソヴェト機関の地位を損傷するだけ」なのだから(注69)。
 チェコ軍団はMurmansk やArchangel へと再迂回せよとの連合諸国の指令は、単直に無視された。
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 (14) トロツキーの指示が知られるようになったとき、1万4000人のチェコスロヴァキア兵はすでにVladivostok に着いていた。だが、2万500人は、シベリア横断鉄道と中央ロシアの鉄道の長さで連なっていた(脚注)
 ボルシェヴィキは自分たちをドイツに渡そうとしていると確信し、また地方ソヴェトに脅かされて、彼らは、シベリア横断鉄道の支配権を握った。
 しかし、そうしているときであっても、自分たちはソヴィエト政府と闘ういかなる組織とも交渉しない、ということを彼らは再確認していた(注70)。
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 (脚注) M.Klante, Von der Wolga zum Amur (Berlin, 1931), p.157.トロツキーから情報を得たかもしれなかったSadour は5月末に、軍団を異なって配分した。Vladivostok は5000、VladivostokとOmskの間に20000、Omsk の西のヨーロッパ・ロシアに20000。J. Sadoul, Notes sur la Revolution Bolchevique (Paris, 1920), p.366.
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 (15) チェコスロヴァキア兵団が鉄道を奪取してしまうと、鉄道沿いの都市のソヴェトは崩壊した。
 そして、その崩壊が起きるとすぐに、ボルシェヴィキに敵対するロシア国内の対抗者たちが、真空を埋めるべく入ってきた。
 チェコスロヴァキア兵は5月25日に、Mariinsk、Novonikolaevsk にある鉄道線路の交差点を占拠した。これは、シベリアの広い地域との線路や電信でのモスクワとの連絡を切断する効果をもった。
 2日後、彼らはCheliabinsk を掌握した。
 5月28日、彼らはPenza を奪取した。6月4日にはTomsk、6月7日にはOmsk、6月8日にはSamara。Samara は、ラトビア兵団によって防衛されていた。
 彼らの軍事作戦が拡張するにつれて、チェコスロヴァキア兵団は司令部を中央化し、最高司令官として、自己流の「将軍」、Rudolf Gajda を選出した。この人物は野心的な術策家で、もっている相当の軍事的才能は、政治感覚と釣り合ってはいなかった。
 彼の仲間たちは、際限なくこの人物を信頼した(脚注)
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 (脚注) オーストリア・ハンガリー軍の医療助手で、チェコスロヴァキア兵団で大尉のランクまで昇格した。1919年に、彼はKolchak 提督の軍にいて戦闘した。チェコスロヴァキアが独立を達成した後、軍事機密の漏洩の咎で逮捕されるまで、幕僚長として働いた。逮捕後の判決では無罪が言い渡された。さらにのち、彼はナツィスに協力した。
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 第七節へとつづく。

2807/R.パイプス1990年著—第14章⑪。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第六節/チェコスロヴァキア兵の反乱①。
 (01) ロシアの状況はまだ十分に複雑でないかのごとく、春に、彼らはウラルとシベリアの広大な地域でボルシェヴィキの支配を脱していた、チェコスロヴァキアの従前の戦争捕虜たちの反乱が起きて、状況はさらに複雑になった。
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 (02) ロシア軍はオーストリア=ハンガリー帝国に対して1914年に勝利したが、そのあいだに、数十万人を戦争捕虜にしていた。その中には、5ないし6万人のチェコ兵とスロヴァキア兵がいた。
 ロシア帝国政府は1914年12月に、多くは熱心に反ドイツ的で反ハンガリー的なこれら捕虜たちに、自分たちの軍団を形成し、ロシアの兵団とともに戦闘すべく前線に戻る機会を与えた。
 この機会を活用したチェコ人は、ほとんどいなかった。
 たいていの者は、この軍団(Druzhina と呼ばれた)を中央諸国は裏切り者として扱い、捕えた後で処刑するだろう、と怖れた。
 にもかかわらず、1916年には、二つのチェコスロヴァキア連隊が出現していた。これらは、将来の独立チェコスロヴァキア軍の中核になるべきものだった。
 パリにあったチェコスロヴァキア国民評議会の長のThomas Masaryk は、ロシアその他に在住する民間人や戦争捕虜たちを西部前線で戦う正規の国民軍に編成する、という考えを抱いた。
 彼は、ロシア帝国政府と、チェコの戦争捕虜たちをフランスに避難させるよう交渉を開始した。しかし、ロシア政府は協力しなかった。
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 (03) Masaryk は、〔1917年2月以降に〕臨時政府にその案を再提示した。臨時政府は、好意的に反応した。
 チェコ軍団の編成は迅速に進み、1917年春には、2万4000人のチェコ人とスロヴァキア人は一つの兵団を組織し、東部戦線で戦った。彼らは1917年6月に攻勢に出た。
 この兵団とロシアの収容所にいる残りの捕虜たちを西部前線へと移送する計画が立てられた。だが、これを妨害したのは、ボルシェヴィキのクー〔1917年10月〕だった。
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 (04) 連合諸国は1917年12月に、ロシアにいるチェコスロヴァキア軍団を、最高連合国司令部の傘下にある分離した軍隊だと承認した。
 Masaryk はその翌月にロシアに戻り、もう一度交渉した。このときはボルシェヴィキ政府との交渉で、軍団のフランスへの避難が主題だった。
 中央諸国とウクライナ間の条約締結によって、チェコスロヴァキア兵が最も多く抑留されていたウクライナをドイツが占領しそうになったために、今やこの問題は相当の緊急性をもつことになった。
 ボルシェヴィキは、ブレスト条約に調印するまで、結論を遅らせた。そしてようやく3月半ば、連合諸国との関係が最も友好的だったときに、ボルシェヴィキは同意を与えた(注57)。
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 (05) Masaryk と連合国司令部は最初は、チェコスロヴァキア兵の避難をArchangel とMurmansk を経由して行なうつもりだった。
 しかし、北部の港湾への鉄道路線がフィンランドのパルチザンによって脅かされ、加えてドイツの潜水艦による危険もあったので、彼らをVladivostok で乗船させることが決定された。
 Masaryk は、チェコ軍団(Czech Legion)として知られることになる兵団の司令官たちに対して、「軍事的中立」の政策(注58)を採用すること、絶対にロシアの国内問題に干渉しないことを指示した。
 チェコスロヴァキア人が迂回してVladivostok へと到達しなければならない地域はアナーキーの状態にあったので、Masaryk とボルシェヴィキ当局とのあいだで、彼らは自衛のために十分な武器を携行することが取り決められた。
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 (06) チェコスロヴァキア人は十分に組織されており、早く出立したかった。
 彼らはボルシェヴィキ政府から許可を得るとすぐに、大隊(battalion)規模の、1000人編成の分団を形成し、ロシアで<echelon>として知られた特別の列車に乗った。
 最初のechelon がPenza に着いたとき、スターリンから1918年3月26日付の電報が届いた。それには、〔チェコスロヴァキア人の〕避難が行なわれるべき条件が列挙されていた。
 「戦闘部隊」ではなく「自由市民」として旅行すべきこと。武器は「反革命者たち」から身を守るために必要なものとして携行されるべきこと。
 チェコスロヴァキア人には、Penza ソヴェトが用意した政治委員が同行するものとされた(注59)。
 彼らは、ドイツの圧力の存在が疑われたこの命令に不満だった。訓練が行き届いていない急進的な親ボルシェヴィキ勢力、とりわけ、ハンガリーとチェコの戦争捕虜たちの中から募集された狂信的共産主義者に、信頼を措けなかったからだ。
 Penza を出る前に、彼らはやむなく武器の一部を放棄した。いくつかは公然と持ち続け、残りは隠した。
 そして、避難が再開した。
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 (07) 彼らは愛国心を強くもち、そのゆえにボルシェヴィキが中央諸国と分離講和条約を締結したのに不満だったけれども、政治的見解としては、断固として中央の左側に立っていた。ある歴史家の推測によると、彼らのうち四分の三は社会主義者だった(注60)。
 Masaryk の指令に従って、彼らは義勇軍〔白軍〕とボルシェヴィキのいずれの側からの接近も無視した。ボルシェヴィキはチェコの共産主義者を媒介者として使っていたのだけれども(注61)。
 彼らの心の中にあった目的は、一つだった。ロシアから抜け出ること。
 そうであっても、内戦の最中の地域を横切っていたので、ロシアの政治に巻き込まれるのを完全に避けることはできなかった。
 シベリア横断鉄道沿いの街を通過していたときに、地方の協力者たちとの接触を確立した。協力者たちは、食糧や必需品を彼らに与えてくれた。これは大半は、シベリアの第一党派であるエスエルによって行なわれていた。
 同時にまた、ときには都市ソヴェトやその「国際的」軍団と争論することもあった。後者のほとんどは、チェコスロヴァキアを革命に参加させたいハンガリーの戦争捕虜たちで構成されていた。
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 (08) 1918年5月末時点でのチェコ軍団のロシア情勢への関与は、中立政策の重要な転換ではなかった。
 ドイツがロシア政府に対して、チェコスロヴァキア人の避難を止めるよう求めたとき、その転換が始まった。ドイツは、数万人の新規のかつ士気高いチェコスロヴァキア人が西部前線で連合諸国の兵団に加わるとの見込みを不快に思ったのだ。
 ロシア政府は、ドイツからの要望の趣旨で命令を発した。しかしこれを履行させる手段はなく、チェコ軍団は前進し続けた(注62)。
 続いて、連合諸国が介入した。
 ロシア領土にいる連合国軍の編成に関して4月初めに届いた理解に従って、連合諸国は、ロシアにとどまって日本軍が大量の兵員を備えようとするこの軍隊に加わることもできるときに、チェコ軍団を地球を半周してフランスに送る意味はない、と結論づけた。
 連合諸国は、5月2日に大部分はイギリスの主張にもとづいて、Omsk 西方に位置するチェコ軍団はVladivostok へと進むのではなく、北へ、Murmansk とArchangel に向かう、そこで次の命令を待つ、と決定した(注63)。
 ロシア政府は、反対しなかった。だが、この決定はチェコスロヴァキア人に多大の苦難をもたらした。
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 ②へとつづく。

2805/R.パイプス1990年著—第14章⓾。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第五節/在独ロシア大使館とその破壊活動②。
 (08) Ioffe のドイツでの活動によって、モスクワで反対派と連絡を取ろうとするMilbach やRietzler の臆病な試みは、無害の戯れのごときものになった。
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 (09) ロシアの直接的利益の観点からは、ドイツでの革命を促進することよりも重要だったのは、ロシアの反ボルシェヴィキ勢力を一緒に妨害できるよう、ドイツの産業界からの支援を獲得することだった。
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 (10) ドイツにとっての事業上の大きな利益をロシアで得るのはほとんど期待できなかった。そして、ボルシェヴィキが認めてはじめてそうできるとドイツの事業界は知っていたので、彼らはボルシェヴィキ体制の最も熱狂的な擁護者になった。
 1918年春、講和条約調印のあと、多数のドイツの商工会議所の諸団体が政府に、ソヴィエト・ロシアとの通商関係を再開するよう請願した。
 5月16日、Krupp はこの問題を討議するため、デュッセルドルフで主要なドイツの実業家たちの、とくにAugust Thyssen とHugo Stinnes を含めての、会議を催した。
 この会議は、ロシアへの「イギリスやアメリカの資本」の浸透を阻止して、ロシアで支配的な影響力を確立するというドイツの利益を可能にする策を講じることが肝要だ、と結論づけた。
 外務省の後援で同じ月に開催された別の事業家会合は、ロシアの輸送をドイツが統御するのが望ましいこと、鉄道を再建することへのドイツの援助を求めるロシアの要望に応えるのが目標であること(52)、を強調した。
 7月、ドイツの事業家たちはモスクワへ代表団を送った。
 銀行家たちは、Ioffe がベルリンに到着するのを歓迎した。
 Ioffe はモスクワに対してこう自慢した。
 「ドイツ銀行の頭取は我々をしばしば訪問した。
 Mendelssohn は、私との会見を長らく求めてきた。彼はいろいろな口実で、すでに三回やってきた。」(53)
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 (11) このような通商上の熱心な要望があったので、ロシアは、ドイツの産業界や経済界の影響力ある層を、友好的な圧力団体にすることができた。
 この点で、ボルシェヴィキは、情報をより豊富にもつという優越的立場を得た。
 ボルシェヴィキは、ドイツの国内状況やエリートたちの知的脳力を熟知するようになった。
 独立社会主義党からは、ドイツの諸組織間の対立を利用することのできる、微妙な情報が入ってきた。
 ボルシェヴィキと接触するドイツ人はボルシェヴィキについてほとんど何も知らず、そのイデオロギーを真面目には考慮しなかった。
 彼らは巧みにこの状況に適合し、脅威ではないという印象を与えて自分たちを守った。政治的擬態の、まさに優れた一例だった。
 Ioffe とその仲間たちが用いた戦術は、革命的スローガンをまくし立てるが実際にはドイツとの通商しか望んでいない「現実主義者」(realists)だ、と装うことだった。
 この戦術は、頭の硬いドイツ人事業家には抗し難く魅力的だった。ボルシェヴィキの革命的修辞を誰も正気で真剣に受け取ることはできないという、彼らの確信をさらに強くしたのだから。
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 (12) この欺瞞がうまく機能したことは、1918年夏にIoffe がGustav Stresemann ともった会合によっても明らかだ。Stresemann は右翼のドイツ政治家で、リベラルかつ保守的志向をもつという別の公的人物像ももっていた。
 Stresemann を助けたのは、Leonid Krasin だった。Krasin は、戦前と戦中にSiemens、Schuckert と大きな経営的関係をもち、ドイツとの間にきわめて良好な関係があった。
 7月5日の非公式の会合で、二人のロシア人は、レーニンだけではなく親連合国のトロツキーもドイツの「後援」を望んでいる、と確認した。
 ロシアに反ドイツの雰囲気があれば、二つの国が同盟する正式の条約はまだ性急すぎただろうが、ドイツが正しい政策を追求するならば雰囲気は変わるだろう。
 この方向への一歩は、ドイツがウクライナから輸送している穀物のうちのある程度をロシアに配分することだろう。
 ドイツには東部前線での軍事作戦を再開する意図はない、とモスクワに対して保証すれば、また役立つだろう。そうなれば、ロシアは、その戦力を、Murmansk からイギリス軍を駆逐し、チェコ軍団の反乱を粉砕することに集中することができる。チェコ軍団は最近はシベリアに出現していた。
 ドイツはロシアとの良好な関係から大きな利益を獲得し続けた。ロシアはドイツが必要とする、綿、鉱油、マンガン等々の全ての原料を供給することができたからだ。
 ドイツ人は、モスクワが放つ革命的政治宣伝広告について心配する必要がなかった。「現下の情勢のもとでは、マルクス主義[ボルシェヴィキ]政府はその夢想家的目標を放棄し、実際的な社会主義政策を追求する用意があった」(54)。
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 (13) Ioffe とKrasin は、素晴らしいショーを演じた。
ドイツ人がもっと情報をもち、もっと傲慢ではなく、地政学的妄想にもっと捉われていなければ、彼らは見通せていただろう。
 なぜなら、ロシア人はドイツ人に、その支配が及んでいない領域—中央アジア、Baku、ジョージア—でのみ利用可能な産物を提示し、「その夢想家的目標」の放棄とはかけ離れてまさにそのときに最も急進的な局面に入っていた彼らの政府の急進主義政策を小さく見せていたのだから。
 しかし、欺瞞は機能した。
 だから、Stresemann は、印象をつぎのように概括した。//
 「現在の(ロシア)政府と、広範囲の経済的および政治的理解の確立へと至る大きな誘因を我々は得た…ように思われる。ロシア政府は、ともかくも、帝国主義的ではない。また、債務の不履行によるだけでもロシアと連合諸国の間に克服し難い障壁を築くのだとすれば、連合諸國を受け入れることも決してあり得ない。
 かりにこの機会を逃し、今のロシア政府が崩壊するならば、きっとどの継承政府も、現在の統治者よりも連合諸國に親近的なものになり、東部前線の危険性は明確に切迫するだろう。…
 我々とロシアがともに行動しているのを我々の敵対者が見るならば、彼らは我々に経済的に勝利するとの希望も捨て去るだろう—彼らは軍事的勝利をとっくに諦めている—。そして我々は、どんな攻撃にも抵抗できる状態になるだろう。
 こうした要素を賢明に判断するならば、我々はまた、国家の精神を過去の勝利の高みへと持ち上げることができる。
 ゆえに、私は、今行なっている努力が最高軍事司令官の支持を得ることができるならば、大いに歓迎するだろう。」(55)
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 (14) ドイツ外務省は、この見解に賛同した。
 外務当局の一人が5月に用意した内部的覚書には、ソヴィエトの指導者たちはドイツが容認することができるはずの「ユダヤ人事業家」だ、と記されていた(56)。
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 (15) ドイツとロシアは7月初めに、この友好的雰囲気の中で、通商協定に関して会談をし始めた。 
 いわゆる補足条約が調印されたのは、8月27日だった。これは、両国の間にわずかな期間だけの公式の同盟関係をもたらした。この8月27日は、Ludendorff ですら敗戦を覚悟した、ドイツ軍が西部戦線で敗北した「暗黒の日」の直後のことだった。
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 第五節、終わり。つづく。

2803/R.パイプス1990年著—第14章⑨。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第五節/在独ロシア大使館とその破壊活動①。
 (01) Ioffe は、〔1918年〕4月19日に、任務を携えてベルリンに到着した。
 ドイツの将軍たちは、ロシアの外交官は主として諜報と破壊に従事するだろうと正確に予測して、ブレスト=リトフスクかドイツから離れた別の都市にソヴィエト大使館が置かれるよう望んだ。しかし、外務当局はこれを却下した。
 Ioffe は、Unter den Linden 7番地の帝制時代の古い大使館を引き継いだ。ドイツはそこを、戦争のあいだずっと、無傷のまま維持していた。
 その建物の上に彼は、鎌と槌が描かれた赤旗を掲げた。
 のちにソヴィエト政府は、ベルリンとハンブルクに領事館を開設した。
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 (02) Ioffe の館員は最初は30人だったが、その数は増加し続けた。ドイツとソヴィエトが関係を消滅させた11月には、180人になっていた。
 加えて、Ioffe は、ソヴィエトの政治的宣伝工作文書を翻訳させ、破壊活動を実行させるためにドイツの急進派を雇用した。
 彼はモスクワとの電信による通信手段を継続的に維持した。ドイツはこれを盗聴し、連絡のいくつかを暗号解読した。だが、大量であるため、公刊されていないままだ(脚注)
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 (脚注) Ioffe のレーニンあて文書を選抜したものは、I. K. Kobiliakov 編集によるISSR, No. 4(1958), p.3-p.26 で公表された。
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 (03) 在ベルリンのソヴィエト外交代表団は、ふつうの大使館ではなかった。それはむしろ、敵国の奥深くにある革命の前哨基地だった。すなわち、その機能は、革命を促進することだった。
 アメリカの一記者がのちに述べたように、Ioffe はベルリンで、「完璧な背信」(perfect bad faith)でもって行動した(45)。
 Ioffe の諸活動から判断すると、彼には三つの使命があった。
 第一は、ボルシェヴィキ政府を排除したいドイツの将軍たちの力を弱くすること。
 彼はこれを、事業や銀行の団体の利益に訴えたり、ドイツに対してロシアでの独特の経済的特権を与える通商条約の交渉をしたりすることで達成した。
 第二の使命は、ドイツの革命勢力を援助することだった。
 第三は、ドイツの国内情勢に関する情報を収集することだった。
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 (04) Ioffe は、革命的諸活動を鉄面皮の心持ちでもって実行した。
 彼はドイツの政治家や事業家たちに、つぎのことを期待した。彼らの経済的搾取に従属するロシアでの優越的な利益を増大させて、彼が冒す外交上の規範に逸脱した行為を看過するようドイツ政府を説得すること。
 1918年の春と夏、彼が主として行なったのは、独立社会主義党の極左派であるSpartacist 団と緊密に結びついた、政治的宣伝工作だった。
 のちにドイツの統合が崩れ始めたとき、彼は、社会革命の火を煽るべく金銭と武器を提供した。
 ロシア共産党の支部に変わっていた独立社会主義党は、ソヴィエト大使館と調整してその諸活動を行なった。あるときには、モスクワは、この党の大会で挨拶する公式の代表団をドイツに派遣した(46)。
 Loffe はこの任務のために、モスクワから1400万マルクを与えられた。彼はこの金をドイツのMendelssohn銀行に預けて、必要に応じて引き出した(脚注)
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 (脚注) Baumgart, Ostpolitik, p.352n.
 Ioffe は、極左から極右までドイツの全政党との接触を維持したけれども、「社会的裏切り者」の党である社会民主党との関係は意識的に避けた、と語る。VZh, No. 5(1919), p.37-38.
 レーニンの指示にもとづくこの政策は、15年後のスターリンの政策を予期させるものだった。スターリンは、ドイツ共産党にナツィスと対抗する社会民主党との協力を禁止することによって、ヒトラーの権力掌握を可能にしたとして、広く非難された。
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 (05) Ioffe は、ドイツの多くの地方諸都市に、ソヴィエトのドイツ情報センターを設けた。ソヴィエトの情報宣伝が連合諸国のメディアに伝えられるオランダでも同様だった。
 1919年、Loffe は明らかに誇りをもって、ベルリンでのソヴィエト代表部として自分が達成したことを詳しく述べた。
 「ソヴィエト大使館は、十の左派社会主義新聞よりも多くのことを指揮監督し、援助した。…
 全く当然のことだが、その情報作業ですら、全権代表の活動は「合法的目的」のものに限定されなかった。
 情報資料は印刷されたものに限られたわけでは全くなかった。
 検閲者が削除したもの全てが、最初から通過しないだろうと判断されて提示されなかった全てが、そうであるにもかかわらず、非合法に印刷され、非合法に散布されていた。
 議会で利用するためにそれらが必要になることは、きわめて頻繁にあった。そうした資料は(社会民主党の)独立会派からドイツ帝国議会の議員たちに渡された。受け取った者は議会での演説のために使った。
 ともあれ、こうして文書になっていった。
 この作業では、ロシア語の資料に限定することはできなかった。
 ドイツ人社会の全ての階層と堂々たる関係を持つソヴィエト大使館、ドイツの各省庁にいるその工作員たちは、ドイツの諸事情についてすらドイツの同志たちよりも多くの情報をもっていた。
 前者が受け取った情報は、やがては後者に伝えられた。こうして、軍部の多くの策謀は、適切な時期に公衆一般の知るところになった。//
 もちろん、ロシア大使館の革命的活動が情報の分野に限られていたのではなかった。
 ドイツには、戦争のあいだずっと地下で革命的活動を行なっていた革命的グループが存在した。
 機会が多かったのみならずその種の陰謀的活動に習熟もしていたロシアの革命家たちは、これらのグループと協力しなければならなかったし、実際に協力した。
 ドイツの全土が、非合法の革命的諸組織によって覆われていた。数十万の革命的冊子と宣伝文書が、前線と後方で毎週に、印刷され、散布された。
 ドイツ政府は一度、煽動的文書をドイツに密輸出しているとしてロシアを追及し、用いられる価値があるだけのエネルギーでもって、運搬者のカバンに、密輸入されたものを捜索した。だが、ロシア大使館がロシアから持ち込んだものはドイツ国内でロシア大使館の助けでもって印刷されたものに比べれば大海中の一滴にすぎない、ということに気づかなかった。」//
 Ioffe によれば、要するに、在ベルリンのロシア大使館は、ドイツ革命を準備すべく、ドイツの社会主義者たちとの緊密な接触のもとで継続的に仕事をした(48)。
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 (06) 在独ソヴィエト大使館は、さらにまた、他のヨーロッパ諸国に、革命的文献と破壊的資金を分配する経路として機能した。同大使館を、オーストリア、スイス、Scandinavia、オランダへ向けて外交嚢を配達するクーリエたちの、諸国の安定した流路(ドイツの予想では100ないし200)が通過していた。「クーリエたち」の中には、ベルリンに着いた後で姿を消す者もいた(49)。
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 (07) ドイツ外務省は、このような破壊的活動に関係する軍事および内政当局から、抗議を頻繁に受け取った(50)。しかし、ドイツのロシアでの高次の利益だと認めているもののために、それらを大目に見た。
 一度短いあいだ、ソヴィエト大使館側のとくに不埒ないくつかの行動についてあえて抗議したとき、Ioffe は回答を用意していた。こう説明した。
 「ブレスト条約自体が、計略を行なう機会を認めている。
 締結した当事者は諸政府であるがゆえに、革命的行動の禁止は、政府とその機関に適用されると解釈することができる。
 ロシア側からはこう解釈される。そして、ドイツが抗議している全ての革命的行動は、全てロシア共産党の行動であって同政府のそれではない、とただちに説明される。」(51)
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 つづく。

2801/R.パイプス1990年著—第14章⑧。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第四節/ドイツ大使館員がモスクワに到達②。
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 (10) モスクワでの一ヶ月後、Milbach は、ボルシェヴィキ体制の存続可能性、およびロシア政策全般の基礎になっている自国ドイツのロシアに関する知識、について、不安を感じ始めた。
 ボルシェヴィキは存続しそうだと、信じ続けはした。すなわち、5月24日に、ソヴィエト体制の崩壊は切迫していると予言するBothmer その他の軍人たちに反対する見解を書いて、外務省に警告した(36)。
 しかし、ロシアでの連合諸国の外交官や軍人たちの活動や彼らの反対少数派集団との接触を知って、レーニンは権力を失うのではないか、そしてドイツはロシアでの援助の根拠を全て失って孤立するのではないか、と懸念した。
 したがって、彼は、ボルシェヴィキへの信頼に加えて反ボルシェヴィキ少数派との会話を開始するという政治的保険をかける、という柔軟な政策を主張した。
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 (11) 5月20日、Milbach は、ソヴィエト・ロシアの状況とドイツのロシア政策にある危険性について、最初の悲観的な報告書を、本国に送った。
 彼はこう書いた。体制に対する民衆の支持はこの数週間で大きく減少した。トロツキーはボルシェヴィキ党は「生きている死体」だと語ったと言われている。
 連合諸国は泥水の中で魚釣りをしており、エスエルやメンシェヴィキの国際主義者、セルビアの戦争捕虜やバルトの海兵たちに対して寛大に資金を配っている。
 「いま以上に腐敗した賄賂のロシアは絶対にない」。
 トロツキーが共感しているため、連合諸国はボルシェヴィキに対する影響力を増している。
 トロツキーは、事態が悪化するのを阻止するために、ドイツ政府が一月に終わらせたボルシェヴィキに対する助成金を更新する金を必要とした(37)。
 ボルシェヴィキを連合国の方へ向ける、親連合国のエスエルが権力を奪取する、この二つをいずれも阻止するために、資金が必要だ(38)。
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 (12) この報告書には、より明確に悲観的な調子の報告が続いた。そしてこれらは、ベルリンで顧みられなかったのではなかった。
 6月初め、Kuhlmann は見方を変えて、ロシアの反対派との会話を開始する権限をMilbach に与えた(39)。
 彼はまた、Milbach に、裁量性のある資金を割り振った。
 6月3日、Milbach はベルリンに電報を打って、ボルシェヴィキに権力を持たせつづけるに毎月300万マルクが必要だと、伝えた。外務省は、総計で4000万マルクの意味だとこれを解釈した(40)。
 Kuhlmann は、ボルシェヴィキが連合国側へと転換するのを阻止するには「金が、おそらくは大量の金が」かかることに同意見だった。そして、ロシアでの秘密工作のために在モスクワ大使館に上記の金額を送ることを承認した(41)。
 この金がどう使われたのかを、正確に叙述することはできない。
 約900万マルクだけは、特定目的のために使われた。総額の半分はボルシェヴィキ政府に、残りは反対派に支払われたように思われる。後者の相手は主に、Omsk を中心地としたシベリアの反ボルシェヴィキ臨時政府、親皇帝派の反ボルシェヴィキ集団、Don コサックの首長、P. N. Krasnov だった(脚注)
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 (脚注) ボルシェヴィキ政府は、6月、7月、8月の毎月、ドイツから300万マルクの援助金を受け取った。Z. A. B. Zeman, ed., Germany and the Revolution in Russia, 1915-1918 (London-New York, 1958), p.130.
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 (13) ドイツが反ボルシェヴィキ少数派と接触するのを妨げたのは、ブレスト条約だった。
 ボルシェヴィキ以外の全ての政治的党派は、この条約を受容しようとしなかった。ボルシェヴィキにすら、分裂があった。
 Milbach が観察していたように、ソヴィエト・ロシアの状況は厄災的であり、かりに代償がブレスト条約を受容することだったとすれば、非ボルシェヴィキのどのロシア人も、ボルシェヴィキに対抗するドイツによる援助を受け入れようとしなかっただろう。
 言い換えると、反ボルシェヴィキ集団からの支持を得ようとすれば、ドイツは条約の実質的な改正に同意しなければならなかった。
 Milbach の意見では、反対派集団はポーランド、リトアニア、Courland の喪失を黙認する可能性があった。しかし、ウクライナ、エストニア、そしてたぶんLyvonia の割譲を容認することはなかった(42)。
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 (14) Milbach は、Rietzler に、チェカと連合諸国工作員の鼻先でロシアの反対派集団と交渉するという微妙な任務を与えた。
 Rietzler は主として、いわゆる右翼中心派(Right Center)と接触した。これは、ボルシェヴィズムはドイツ以上に悪辣なロシアの国益に対する脅威だと結論づける、そしてボルシェヴィキを排除するためにドイツと合意する心づもりのある、信望ある政治家や将軍によって、6月半ばに結成された小さな保守的グループだった。
 この集団は、財政、産業、軍事上のしっかりした交渉を要求はした。しかし、現実には顕著と言えるほどの支持者がなかった。なぜなら、ロシアの積極的な活動家の圧倒的多数は、ボルシェヴィキはドイツが生んだものだと考えていたからだ。
 右翼中心派の中心人物は、Alexander Krivoshein だった。この人物はかつてStolypin 改革の指導者で、上品な愛国者であって、かりにドイツがロシア政府を打ち立てるならば受け入れやすい首班候補だったかもしれなかった。しかし、彼は旧体制の典型的な官僚だったので、命令を下すというよりも命令に服従してきた人物だった。
 他に、1916年攻勢の英雄だったAleksei Brusilov もいた。
 Krivoshein は、媒介者を通じて、Rietzler につぎのことを知らせた。すなわち、彼のグループはボルシェヴィキを打倒する用意がある、そのための軍事的手段もある、しかし、実行するにはドイツの積極的な協力が必要だ(43)。
 このような協力を実現するには、ドイツはブレスト条約の改訂に同意しなければならなかった。
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 (15) 接触はしたけれども、ドイツは、ロシアの反対派への敬意をほとんど示さなかった。
 Milbach は君主主義者を「怠け者」と見なし、Rietzler は、ドイツの援助と命令を求める[ロシアの]ブルジョアジーについて、侮蔑的に「嘆いて愚痴を言う者たち」と語った(44)。
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 第四節、終わり。つづく。
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