秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ロシア革命

2470/ニーチェとロシア革命—Rosenthal ②。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002).
 =B. G. ローゼンタール・新しい神話、新しい世界—ニーチェからスターリニズムへ(2002)。総計約460頁。
 第二部の最初から試訳する。
 第一部「要約」は、→No.2454
 ——
 第二部・ボルシェヴィキ革命と内戦期におけるニーチェ、1917-1921。
 (前記)①
 (01) 戦争での損失が増大し、前線での被害者が増加し、政府の醜聞が次から次へとつづいた。これに伴い、革命が予期されるようになった。
 しかしながら、ツァーリ体制の終焉は、突然にやって来た。
 二月革命(東方暦1917年2月26-29日、西暦同年3月8-11日)は、「二重権力」を生み出して終わった。立憲議会が選出されて招集されるまで支配するとされた臨時政府と、ペテログラード・労働者農民代表者ソヴェトだ。
 秋までに兵士たちはぞろぞろと戦線離脱しており、農民たちは大土地所有者の土地を奪っており、労働者たちは諸工場を掌握していた。
 ボルシェヴィキ革命(東方暦1917年10月26-27日、西暦同年11月7-8日)はプロレタリアートの独裁を打ち立て、ボルシェヴィキの権力を強化し、戦争から離脱しようとしていた。
 1918年3月、ロシア政府はドイツの条件を受諾した。
 ブレスト=リトフスク条約によって、ロシアは、バルト諸国、ウクライナの大部分(穀物地帯)、ベラルーシ、ポーランド、およびトランス・コーカサスの一部を失い、金での賠償金を課せられた。
 ドイツ軍はつぎの11月に撤退し(西部戦線での停戦で要求されていた)、空白が生まれ、「赤」軍と「白」軍が内戦を繰り広げた。
 それが過ぎ去るまで、経済は止まったままで、1300万人が死んだ。その原因のほとんどは、飢餓と伝染病蔓延だった。
 数百万の孤児や遺棄された子どもたちが田園地帯を徘徊し、生き延びるために犯罪に手を染めた。//
 (02) 遡及して「戦時共産主義」と呼ばれた政策は、全面的な内戦の開始の前に部分的には始められており、内戦が終焉するまで続いた。
 いわゆる「戦時共産主義」は、私的な経済取引を禁止した。そして、テロル、強制労働、階級憎悪の煽り立て、階級に従った配給、強制的な穀物徴発を特徴とした。
 「赤」の勝利が間近になるや、反対派が党内に現れ、ロシアじゅうで農民反乱が勃発した。そして、ペテログラードの労働者たちは叛乱する瀬戸際のいるように見えた。
 1921年3月、クロンシュタット海軍基地の兵士たちは「第三革命」を呼号し、「共産主義者のいないソヴェト」や「人民委員制」廃止を要求した。
 クロンシュタット叛乱は鎮圧されたが、レーニンが新経済政策(NEP)を発表するのを早めた。
 穀物の強制徴発に代わる最も重要な手段になったのは、生産を促すための現物税だった。
 徴税後の余剰は全て、地方の市場で販売することができるようになった。
 この変更を理論的に正当化するために(レーニンは数週間にわたってこれを馬鹿にしていたのだが)、彼は失敗した政策を「戦時共産主義」と名づけた。
 NEPを採択した同じ(第10回)党大会は、全ての党内分派を解散するか、さもなくば追放されるべきことを命じた。//
 (03) Bogdanov はどうやら、1917年11月に早くも「戦時共産主義」という語を、侮蔑的な意味で作ったようだ。
 彼はボルシェヴィキ政権をプロレタリアートの独裁と呼ぶのを拒み、新しい〈Arakcheevshchina〉(アレクサンダー一世の統治の間にArakcheev により樹立された悪名高い軍事植民区の喩え)を警告した。
 彼は、党への再加入のいくつかの誘いと、Lunacharsky による、Namprokoms との頭文字語で知られる啓蒙(〈Prosveshchenie〉)人民委員部の職の提示を固辞し、人民委員になる義兄弟〔Lunacharsky〕を批判した。
 Prosveshchenie は「教育(education)」をも意味したが、「啓蒙(enlightenment)」がボルシェヴィキの使命的考えをより伝えていた。 
 Lunacharsky は1905年にレーニンと和解し、1917年8月に再入党していた。
 ボルシェヴィキ革命の1週間前、Lunacharsky はペテログラードに最初のProletkult(プロレタリア文化)会議を招集した。
 Bogdanov は翌年3月にモスクワで同様の会議を組織した。そして9月にそこで、第一回の全国プロレタリア文化会議が開催された。
 Proletkult は党と国家に対して自主的団体だったが(形式的には分離していた)、啓蒙人民委員部によって設立されていた。
 Lunacharsky は一度も党の中央委員会に選出されず、内部者が有する権力を持たなかった。しかし、所管の範囲内で、啓蒙人民委員部による資金の拠出に関して、相当の裁量権を持った。
 ヨーロッパが大戦という野蛮行為へと向かったことは、啓蒙思想への批判が正しかったことを証明していると思われた。
 すなわち、人間は「自然ながらに」理性的でも、善なるものでもない。
 ロシア、ドイツ、イタリアでは、古い秩序の崩壊によって、全ての確立された価値と制度に対するニーチェの挑戦が切実な重要性をもち、完全に新しい秩序の渇望へと至り、それは大胆で勇敢な「新しい人間」によって創出されると考えられた。//
 (04) ニーチェは、ボルシェヴィキたちのマルクスやエンゲルスの読書を彩り、権力を掌握するというボルシェヴィキの決意を補強し、維持させた。そして、一方では「戦時共産主義」、他方では精神的革命の筋書という、全体的な変革を目ざすユートピア的展望をはぐくんだ。
 芸術家や文筆家たちは、ニーチェやワーグナーから拾い集めた技巧を用いて、ボルシェヴィキの扇動や情報宣伝に利用した。
 A・ワリッキ(Andrzei Walicki)は、「戦時共産主義」はエンゲルスの考えから直接に喚起された「偉大な社会的実験」だったと、考察する。その考えとは、必然の王国から自由の王国への跳躍は市場の「無政府状態」を中央集権的計画の「奇跡的な力」に変え、そのことで「人間を自ら自身の主人に」する、というものだった。
 ニーチェは、ボルシェヴィキにこの「跳躍」をする意思を吹き込むのを助けた。
 「戦時共産主義」は、経済問題に限定されなかった。すなわち、新しい人間と新しい文化を生み出すことが想定されていた。
 ニーチェ的な言葉を用いると、「戦時共産主義」は「偉大な文化事業の計画」だった。ボルシェヴィキは数千年ではなく数年以内に完了させようとした、という点を除いては。//
 (05) 初期のソヴィエトの教育や文化の制度は、ニーチェの思想のための導管だった。 
 Lunacharsky は、政府でともに仕事をする芸術家や文筆家を招聘した。
 初めは、Blok、Mayakovsky、Meyerhold、彫刻家のNatan Altman(1889〜1981)、および詩人のRiurik Ivnev(Mikhail Kovalev、1891〜1981)だけが受け入れた。
 他の者たちは、納得して、または政府が唯一の雇い主であるために、あるいは両方の理由で、後からボルシェヴィキへやって来た。
 Meyerhold は、啓蒙人民委員部の劇場部門(TEO)の長になった。
 Ivanov、Bely とBlok は、そこと文学部門(LITO)で仕事をした。
 絵画部門(IZO)は未来主義者たちの仕事領域で、〈コミューンの芸術〉という自分たち用の新聞を持った。
 〈コミューンの芸術〉の編集人でIZO のペテルブルク支部長だったNikolai Punin(1888〜1953) の日記は、ニーチェとの「愛憎」(love-hate affair)を晒け出している。
 象徴主義者と未来主義者たちは、Proletkult の学校やスタジオで教育した。//
 (06) 1918年4月、レーニンは、帝政時代の記念碑を解体する「記念碑プロパガンダ」運動を布令し、革命の英雄、偉人や五月の大衆祭典の記念碑を立て、公共広場を装飾した。
 レーニンはLunacharsky に、Tommaso Campanella の〈太陽の街〉(1602年)から着想を得た、と語った。
 Gorky はその本をイタリアで読み、レーニンとLunacharsky にそれに関して伝えていた。
 最初の記念碑は粘土その他の安価な材料で作られた(レーニンの狙いはプロパガンダであり、永久化することではなかった)。しかし、雨がそれらを洗い流してしまった。
 「鉄の巨像計画」は長持ちする素材を求め、その規模自体で驚愕させることを意図した。
 Tatlin の塔は、その司令部を指示する機能をもつことはもとより、第三インターナショナル(1919年3月結成のコミンテルン)のための巨大な規模の記念碑になるものとされた。
 その大きさ(塔は建設されなかった)は窓から重々しさを放つモデルとなり、バベルの塔を想起させることを意識したものだった。
 その他の神を拒絶する塔も、計画された。
 Proletkult の劇の登場人物は、古い神が死んだことを知ろうと望む者ならば我々の塔に昇らなければならない、と語る。//
 (07) 劇場に関するIvanov の考えは、大衆祭典や政治演劇のかたちで「ブーメランのように返って」きた。
 大衆祭典のための着想には他に、祝典としての劇場というGaideburov のもの、未来主義者の路上演劇、遊戯としての演劇観というEvreinov のもの、Zarathustra(ツァラトストラ)の〈新しい祭典が必要だ〉との言明、ワーグナー好きのR・ローラン(Romain Rolland)やJulian Tiersot がドレフュス事件後にフランスを再統合する方法として再生させようとしたフランス革命時の大衆祭典、などがあった。
 Lunacharsky は〈人民の劇場〉(1903年)というローランの書物を翻訳し、Gorky の会社がそれを1910年に出版した。
 その本は、1919年に、Ivanov の序文付きで再発行された。 
 Tiersot の〈フランス革命の祝祭と歌〉という書物(1908年)も、翻訳された。
 レーニンは、元のフランス語でそれを読んだ。//
 ——
 第二部・前記②へとつづく。

2454/Rosenthal によるNietzsche ①。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Mith, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002).
 =B.G.ローゼンタール・新しい神話、新しい世界—ニーチェからスターリニズムへ(2002)。総計約460頁。
 No.2436に上掲書の目次を掲載している。全体がニーチェに関係しているが、表題から見て関心を惹くのは、とくに以下だ。原書での総頁数も示す。
 第一編/萌芽期・ニーチェのロシア化—1890-1917。
  第3章・ニーチェ的マルクス主義者。…計27頁。
  要約・1917年のニーチェ的課題…計4頁。
 第二編/ボルシェヴィキ革命と内戦におけるニーチェ—1917-1921。
  (前記)…計8頁。
  第5章・現在の黙示録—マルクス・エンゲルス・ニーチェのボルシェヴィキへの融合。…計25頁。
 第四編第二部/ウソとしての芸術—ニーチェと社会主義リアリズム。
  第11章・社会主義リアリズム理論に対するニーチェの寄与。…計24頁。
 第四編第三部/勝利したウソ、ニーチェとスターリン主義政治文化。
  第14章・力への意思(Will to Power)の文化的表現。…計28頁。
 第一編第3章(ニーチェアン・マルキスト)等々も興味深そうだが、長さからして試訳しやすそうな、かつ第一編全体の「要約」とされる第一編の最後の「要約」を、以下に試訳してみる。節名の番号数字はない。
 ——
 第一編/要約・1917年におけるニーチェ的課題(Nietzschean Agenda)。
 前記(見出しなし)
 1917年までに、Nietzsche はロシア化され、象徴主義、宗教哲学、「左翼」ボルシェヴィスム、および未来主義へと吸収されていた。
 これらの間で、またそれぞれの内部で重要な違いがあったにもかかわらず、これらの運動、これらによるNietzsche 的課題の「解決」、は多くの点で共通していた。取り上げてすでに論じた人物たちは全て、人間の心理におけるDionysian 要素に関心を持ち、彼ら自身の価値が浸透した新しい文化、新しい社会を創ることを望んだからだ。
 --------
 第1節・新しい神話(Myth)。
 彼らの神話の特徴は、終末論的な(eshatological)、必然から自由への跳躍、人間や世界の改造(transfiguration)だった。
 神話創造に際しての最も重要な試み、神話的アナキズムと神の建設(God-building)、は大衆を結集させることができなかったが、彼らの定式者たちは、経験からつぎのことを学んだ。
 すなわち、新しい神話は馴染みのある用語で語られなければならない。それは明瞭に理解されなければならない(「新しい宗教統合体」または「集団的人間性」はあまりにも漠然としている)。そしてそれは、Apollonian 心象、偶像または崇拝人物像を必要とする。
 Bogdanov は、世界を変革する主要な力は技術だと考えたが、神話がもつ心理政策的(psychopolitical)な有用性を肯定的に評価した。
 Berdiaev の創造性の宗教は、新しい崇拝人物像を含んでいた。
 Florensky の神話は、教会性(ecclesiality)と(抽象的観念よりも)具体的経験を強調する、再生された正教だった。
 未来主義者の神話である太陽に対する勝利(Victory over the Sun)は、人間の創造性のための無限の地平を持っていた。
 この者たちの聖像破壊主義は、崇拝人物像の発生を許さなかった。//
 --------
 第2節・新しい世界。
 Nietzsche の諸用語—「Apollonian」、「Dionysian」、「全ての価値の再評価」、「超人」、「権力への意思」—は、知識人界によってのみならず、大衆読者層に向けた出版物でも、引用符なしで、頻繁に用いられた。
 Nietzsche の影響を受けた知識人のほとんどは、正しい(right)言葉は意識を変革し、無意識の感情と衝動を活気づけることができる、と考えていた。
 象徴主義者たちは、潜在意識下(subliminal)の意思疎通(communication)を強調した。
 未来主義者たちは音を知性よりも重視したが、また、書いた言葉の視覚上の効果にも大きな関心を寄せた。
 Kruchenykh とKhlebnikov は、人々に衝撃を与えて古い思考様式から抜け出させようとした。
 未来主義者と象徴主義者のいずれも、言葉と神話を結びつけ、新しい言葉は新しい世界を発生させることができると信じた。
 Bogdanov は、言語は実際に現実を変化させると結論づけ、神秘的ではない態様で言葉と神話を結びつけた。//
 --------
 第3節・新しい芸術様式。 
 象徴主義者たちは、芸術は「より高い真実」へと、「現実的なものからより現実的なもの」へと導くと信じ、美学的創造性は世界を変革(改造)する儀礼的(theurgic)活動だと見なした。
 Ivanov は、ロシア社会を再統合し、演技者と観客の分離をなくして受動的な観衆を能動的な上演者にし、そして芸術と生活を一つにする方法として、Dionysian 演劇、神話創造の崇拝演劇を提唱し、「集団的創造性」を主張した。 
 Ivanov 理論を緩和した見方は劇場監督たちに採用され、それはBriusov、Meyerhold、Sologub によって擁護された「在来的劇場」のような純粋な劇場性〈劇それ自体のための劇場)に対する対抗理論を生んだ。
 「生の創造」という、ほとんどの象徴主義者が主張するに至った大きな拝礼計画は、部分的には、自由、美と愛の新しい世界を創造するための、政治的革命の失敗(1905年の革命)に対する反応だった。
 未来主義者たちは、直接的感知の詩論についての象徴主義者のPlatonic な側面を拒絶した。
 彼らは、劇場と美術館を街頭と公共広場に取り出して芸術を民主主義化し、文化的遺産を放擲することを望んだ。そして、新しい展望をもち、例えば、世界は退化していると見た。
 Bogdanov の観点主義は、階級に基礎があった。
 心理的に解放されるためには、プロレタリアートは自分たち自身の芸術様式を創造し、文化的遺産を(放擲するのではなく)自分たちの価値と必要性に照らして再評価しなければならないだろう。
 彼は、芸術、道徳および科学の〈階級〉的性格を強調した。
 Florensky は、ルネサンス以降のヨーロッパの芸術と思想を支配している個人主義的な観点主義を拒否した。//
 --------
 第4節・新しい男と女。
 新しい男は美しく、英雄的で、勇敢で、創造的で、努力をするということ、そして、高貴な理想のための戦士であること、は当然視されていた。
 新しい女については、合意がなかった。
 Kollontai、Bogdanov、Gorky は女性に、勇敢さ、自立性、理性のような「男性的」特質を認める一方で、女性の母性的な役割を承認し、強く主張すらした。
 象徴主義者たちは、ソフィアと「永遠の女性的なもの」を賛美し、家族や性別に関する伝統的意識を非難した。
 彼らの理想の人間、かつBerdiaev のそれは、親ではなく中性(androgyne)だった。
 Florensky は、男性と女性を存在論的かつ社会的に区別した。
 彼の〈教会儀礼(ecclesia)〉は、男性二人で構成されていた。
 未来主義者もまた、家族と性別に関する伝統的考えを批判したが、彼らの公的立場は攻撃的な男性主義だった。//
 --------
 第5節・新しい道徳。
 四つの運動全てが、感情の解放、自由な発意、熱烈な確信を擁護すべく、義務というキリスト教的・カント的・人民主義的な道徳性を、カントの命令も含めて、拒否した。
 美しさ、創造性、そして(一定の場合の)困難さは、美徳だと見なされた。
 憐れみ(pity)は弱さの兆しであり、「最も遠いものへの愛」が隣人愛や実際的改良よりも優先した。
 「Nietzsche 的」個人主義は、自己超越という精神を随伴し、犠牲と苦痛を理想とするキリスト・Dionysus の原型が表象する、「個人性」への賛美にとって代わられた。
 Berdiaev、Florensky およびほとんどの象徴主義者は、愛を法に置き換え得る、キリスト教的・ユートピア的な幻想を伴うNietzsche 的な不道徳主義と結びついた。
 政治的な最大原理主義者たちは、革命的人民主義の「英雄的」伝統(テロル)を復活させ、目的は手段を正当化するとの革命的不道徳主義を実践した。
 全ての新しい道徳から欠落したのは、日常生活の規範(ethic)だった。
 この欠落は、意図的なものだった。
 宗教的であれ世俗的であれ、終末論者たちは、ありふれた生活(〈byt〉)の諸側面は改造されるだろう、と想定していた。//
 --------
 第6節・新しい政治。
 これまでに論じた人物のほとんどは、政治を超越することを望んだ。
 彼らの理想は、自己利益や社会契約とは反対の、情熱的紐帯と共通の理想によって強固となる社会だった。
 彼らは、右側寄りのリベラリズムや議会主義的政府を侮蔑した。または、侮蔑するに至った(Frank の見解は微妙に異なる)。
 裕福さはペリシテ人(philistine)の価値だと見なされ、(貧困の廃絶とは別の)大衆の裕福さは、彼らの目標の一つではなかった。
 象徴主義者、未来主義者、および宗教哲学者は、経済を無視した。Berdiaev とFrank はマルクス主義者から出発し、Shestov の学位論文は工場法に関するもので、Frank は〈Landmarks〉で富を商品として扱ったのだったけれども。
 Gorky、Lunacharsky、Kollontai は貧困は社会主義のもとでは消滅すると想定していた。しかし、経済学そのものにはほとんど注意を払わなかった。
 Bogdanov、Bazarov、およびVolsky は、経済学に関して執筆した。しかし、彼らが公刊した大量の著作は、哲学に関するものだった。
 しかしながら、つぎのことは、記しておくに値する。
 第一に、Bogdanov は労働者向けの一般的な経済学の教科書を執筆し(1897年、初版)、その書物はソヴィエト時代に入っても用いられた。(I. I. Skvortsov とともに)〈資本論〉を再翻訳しもした。
 彼はまた、1917年までに経済学者としての声価を確立していた。
 第二に、Volsky は、Capri 学校で、農業問題を講義した。
 新しい文化的アイデンティテイを明確にしようとする試みは、新スラヴ主義または文化的ナショナリズムへと次第に変化してゆき、そして政治的ナショナリズムになった。
 Nietzsche に影響を受けたち知識人のほとんどは、第一次大戦の勃発を歓迎するか、それを終末論的用語法で見るようになるか、のいずれかだった。//
 --------
 第7節・新しい科学。
 Bogdanov だけが明示的に、新しい科学の誕生を呼びかけた。
 科学的「真実」を含む「真実」は特定の階級に奉仕するので、プロレタリアートは集団主義的方法と実践的な目標でもって、自分たちの科学を発展させなければならなかった。
 認識論をめぐるBogdanov とレーニンの間の争論には、科学にとっての示唆があった。論点は客観的真実は存在するか否か、誰がそれを明らかにするに至るのか、だったからだ(第5章を見よ)。
 Bely とFlorensky は、象徴主義が新しい非実証主義的科学を導くのを期待した。これは、Florensky が1920年代に発展させた主題だった。//
 --------
 後記(見出しなし)
 影響の「萌芽期」に文化に植え込まれたNietzsche の思想は、すでに論じた人物や新しく登場する人物によって、ボルシェヴィキ革命後に再循環し、再作動した。
 レーニン、ブハーリン、トロツキーによる革命のシナリオは、承認されていないNietzsche の思想を含んでいた。//
 ——
 以上。

2436/ニーチェとロシア革命・スターリン②。

  西尾幹二・歴史の真贋(新潮社、2020)p.354-5。
 「私はニーチェ研究者ということにされているが、それは正しくない。
 ニーチェの影響を受けた日本の一知識人に過ぎない。
 それでよいという考え方である、
 専門家でありたくない、あってはならないという私の原則が働いている。//
 それでも、ニーチェが私の中で特別な位置を占めていることは、否定できない」。
 なお、ニーチェの生没は、1844年〜1900年。第一次大戦もロシア「革命」も知らない。
 以下は、秋月瑛二。
 西尾幹二はニーチェ研究者でないことは、間違いない。
 かりにニーチェの文学的<評伝>の一部の著述者であったとしても、<ニーチェの哲学>の研究者だとは、到底言えない。
 但し、<評伝>を書いている過程でニーチェの哲学的?文章そのものを読むことはあっただろう。
 そして、そのことがあって、西尾幹二は85歳の年に、「ニーチェの影響を受けた」、「ニーチェが私の中で特別な位置を占めていることは、否定できない」と明記しているわけだ。
 若いときにレーニンの文献ばかり読んでいたらどうなるかの見本は白井聡だろう旨、この欄に書いたことがある。
 「哲学」科的ではない「ドイツ文学」科的な研究であれ、若いときに(とくに20歳代に)ニーチェばかりに集中していると、どういう日本人が生まれるか。西尾幹二のその後の著作・主張・経歴は、その意味で、興味深い素材を提供していると感じられる。
 素人として書くが、<ニーチェ哲学(思想)>は、①フランスの実存主義、さらに構造主義、②ドイツの〈フランクフルト学派〉に何がしかの影響を与えており、これらと関係がある。後者につき、機会があれば、ハーバマス(Habermas)の文章を紹介する。
 さらに、③ロシアの思想・ロシア革命・スターリン主義へも一つの潮流として影響を与えたらしいことを今年(2021年)に入ってから知った。
 幼稚に想像し、単純にこう連想する。ニーチェの<反西洋文明・反キリスト教>(「神は死んだ」)は変革または新しい「哲学」を目指す「左翼」と親和的であり、<権力への意思>・<超人(Supermann,Übermensch)>は、権力への「強い意思」をもつ「超人」による政治・文化の全面的な(全体主義的な?)支配という理想と現実に親和的だ(かつてはニーチェとナツィスの関係だけはしばしば言及された)。
 --------
  ニーチェがロシアの文化、ロシア革命後のロシア(・ソ連)社会に与えた影響について、一部によってであれ、関心をもって研究されているようだ。
 その例証になり得る三つの文献とそれらの内容の概略を「2424/ニーチェとロシア革命・スターリン」で紹介した。
 以下は、第三に挙げたつぎのBernice Glatzer Rosenthal の単著(副題/ニーチェからスターリニズムへ)の概要の、より詳細なものだ。
 前回では、以下でいう「編」と「部」しか記載していないが、以下ではさらに「章」題まで含める。
「編」=Section、「部」=Part で、これらの英語の前回の訳とは異なる。太字化部分と適当に引いた下線は、掲載者。
 なお、著者は現在、Fordham大学名誉教授(Prof. Emeritus/歴史学部)。
 ----
 Bernice Glatzer Rosenthal, New Mith, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002). 単著、総計約460頁。
 第一編/萌芽期・ニーチェのロシア化—1890-1917。
   第1章・象徴主義者。
   第2章・哲学者。
   第3章・ニーチェ的マルクス主義者。
   第4章・未来主義者。
   要約。
 第二編/ボルシェヴィキ革命と内戦におけるニーチェ—1917-1921。
   第5章・現在の黙示録—マルクス・エンゲルス・ニーチェのボルシェヴィキへの融合。
   第6章・ボルシェヴィズムを超えて—魂の革命の展望
 第三編/新経済政策(NEP) の時期でのニーチェ思想—1921-1927。
   第7章・神話の具体化—新しいカルト・新しい人間・新しい道徳。
   第8章・新しい様式・新しい言語・新しい政治。 
 第四編/ スターリン時代におけるニーチェの反響(Echoes)—1928-1953。
  第一部/縄を解かれたディオニュソス(Dionysos)、文化革命と第一次五カ年計画—1928-1932。
   第9章・「偉大な政治」のスターリン型。
   第10章・芸術と科学における文化革命。  
  第二部/ウソとしての芸術、ニーチェと社会主義リアリズム
   第11章・社会主義リアリズム理論へのニーチェの貢献。
   第12章・実施される理論。
  第三部/勝利したウソ、ニーチェとスターリン主義政治文化
   第13章・スターリン個人崇拝とその補完。
   第14章・力への意思(Will to Power)の文化的表現。
  エピローグ/脱スターリン化とニーチェの再出現。
 以上。

 ——

2430/左翼人士-民科法律部会役員名簿・第26期(2020年11月~2023年10月)等。。

 左翼人士-民科法律部会役員名簿・第26期(2020年11月~2023年10月)等。
  役員
 理事長/三成美保(奈良女子大学)
 副理事長/小沢隆一(東京慈恵医科大学)、豊島明子(南山大学)、本多滝夫(龍谷大学)
 全国事務局事務局長/清水雅彦(日本体育大学)
 理事(50名、50音順)/愛敬浩二(名古屋大学)、安達光治(立命館大学)、飯孝行(専修大学)、板倉美奈子(静岡大学)、大河内美紀(名古屋大学)、大沢光(青山学院大学)、岡田順子(神戸大学)、岡田正則(早稲田大学)、緒方桂子(南山大学)、小川祐之(常葉大学)、奥野恒久(龍谷大学)、小沢隆一(東京慈恵会医科大学)、金澤真理(大阪市立大学)、神戸秀彦(関西学院大学)、桐山孝信(大阪市立大学)、胡澤能生(早稲田大学)、近藤充代(日本福祉大学)、榊原秀訓(南山大学)、佐藤岩夫(東京大学)、篠田優(北星学園大学)、清水雅彦(日本体育大学)、白藤博行(専修大学)、新屋達之(福岡大学)、清水静(愛媛大学)、鈴木賢(明治大学)、高田清恵(琉球大学)、高橋満彦(富山大学)、只野雅人(一橋大学)、立石直子(岐阜大学)、塚田哲之(神戸学院大学)、徳田博人(琉球大学)、豊崎七絵(九州大学)、豊島明子(南山大学)、中坂恵美子(中央大学)、永山茂樹(東海大学)、長谷河亜希子(弘前大学)、張洋介(関西学院大学)、人見剛(早稲田大学)、本多滝夫(龍谷大学)、増田栄作(広島修道大学)、松岡久和(京都大学)、松宮孝明(立命館大学)、三島聡(大阪市立大学)、水谷規男(大阪大学)、三成美保(奈良女子大学)、村田尚紀(関西大学)、本秀紀(名古屋大学)、矢野昌浩(名古屋大学)、山下竜一(北海道大学)、山田希(立命館大学)、吉村良一(立命館大学)、和田真一(立命館大学)、亘理格(中央大学)。
 監事(4名) 今村与一(横浜国立大学)、川崎英明(元関西学院大学)、小森田秋夫(神奈川大学)、三成賢治(大阪大学)
  上記以外で会員であることが明らかな者〈学会・研究会報告者、機関誌執筆者・機関誌編集委員)。
 前田達男(金沢大学)、山形英郎(名古屋大学)、河上暁弘(広島市立大学)、太田直史(龍谷大学)、市橋克哉(名古屋経済大学)、岡田知弘(京都橘大学)、稲正樹(元国際基督教大学)、木下智史(関西大学)、秋田真志(弁護士)、大島和夫(神戸市外国語大学)、渡邊弘(鹿児島大学)、松井芳郎(元名古屋大学)、渡名喜庸安(琉球大学)、奥野恒久(龍谷大学)、中村浩璽(大阪経済法科大学)、根本到(大阪市立大学)。
 以上
 出所-同会機関誌『法の科学』の末尾(日本評論社刊)。
 ……
 参考
 一 理事と監事を合わせて、2名以上が選任されている大学。
 国立/名古屋大学4、大阪大学2、琉球大学2
 公立/大阪市立大学3
 私立/立命館4、早稲田3、関西学院2、専修2、中央2、南山2、龍谷2。
 --------
  稲子恒夫(1927〜2011)、長谷川正安(1923〜2009)、室井力(1930〜2006)
 いずれも故人で、かつて名古屋大学教授だった。専門科目はそれぞれ、社会主義法またはソヴィエト法、憲法、行政法。
 そしていずれも、少なくとも在職中はれっきととしたかつ著名な日本共産党員で、当然に民科法律部会の会員だった。
 稲子恒夫は、1969年の時点で日本共産党名古屋大学教職員支部の支部長で、自宅で会議を開催したりして、「全共闘」派に対する日本共産党名古屋大学「総支部」?の判断等を決定していた。事実上、当該大学の学生・大学院生支部をも拘束した、と見られる(400人の党員学生、1000人の民青同盟員が当時いた、という)。
 但し、ソ連が解体した1991年12月以降に、名古屋大学の同僚だった水田洋(文学部)に「私のロシア革命・レーニン認識は根本的に間違っていた」と告白した、という。名古屋大学退職は1990年。
 そしておそらくはすみやかに日本共産党を離れ、ソ連の新しい資料も豊富に用いて、総計1100頁に近い、実質的に単独編著の『ロシアの20世紀』(東洋書店、2007)を刊行した。死の4年前、80歳の年。レーニンに対しても、明確に批判的だ(客観的資史料によるとそうならざるをえないとも言える)。
 以上につき、参照→1989/宮地健一による稲子恒夫
 民科=民主主義科学者協会は「民主主義」で結集しているので、自由にロシア革命について考えてよいとも言える。しかし、日本共産党員でもある同会員は、日本共産党に固有のロシア革命観があるので、そうもいかない(はずだ)。少なくとも名古屋大学関係党員には、上の稲子著は必携、必読であるべきだろう。
 -------- 
 稲子恒夫もやや広義での「公法」部門に属していただろうが、稲子を別としても、憲法・長谷川正安、行政法・室井力を両トップおする<名古屋大学公法部門>には、他の大学には見られない特徴があった。すなわち、民科法律部会会員の数の多さだ。
 機関誌『法の科学』の最新号でも、松井芳郎(国際法、名古屋大学名誉教授)が森英樹(2020年死亡。憲法・元名古屋大学)への追悼文のなかで、「名大公法」という語を何度か使っている。
 1990年から30年以上、2000年から20年以上経つ。大学生時代から共産党員だった者も中にはいるかもしれないが、指導教授—大学院生という指導・被指導、就職の世話をする・受ける等々の人的関係・人間関係のつながりは、今日でもなお、健在のようだ。
 現在の所属大学だけでは分からないが、上に氏名を挙げた者のうち、少なくとも以下は、すべて<名古屋大学公法部門>出身者・関係者だと推定される。順不同。
 本多滝夫(龍谷大学)、愛敬浩二(名古屋大学)、大河内美紀(名古屋大学)、市橋克哉(名古屋経済大学)、榊原秀訓(南山大学)、渡名喜庸安(琉球大学)、本秀紀(名古屋大学)、緒方桂子(南山大学)、矢野昌浩(名古屋大学)、山形英郎(名古屋大学)、豊島明子(南山大学)、松井芳郎。
 以上だけで、12名。他に、少なくともかつて、鮎京正訓もいた。
 鮎京正訓はベトナム法研究者。市橋克哉もソ連解体前はソ連の行政(法)制度の研究をしていた。
 ——

2428/F・フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)⑧。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20 th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012)  第5章・革命の過去と未来①。
 本文はつぎの9の主題・表題からなる。順に、①思想と情動、②世界の終わり?、③ネイション—普遍的なものと個別的なもの、④社会主義運動・ネイション・戦争、⑤革命の過去と未来、⑥歴史家による追求、⑦ボルシェヴィズムの魅惑、⑧全体主義論、⑨過去から学ぶ。
 連続しているのではないが、便宜的に各「章」として、さしあたりまず、第5章を試訳する。2回で完了の予定。
 ——
 第5章・革命の過去と未来①。
 (序)ロシアの社会は、1917年と1921年の間に粉々に破壊された。
 テロルと強制収容所を考案したのは、スターリンではなかった。
 党内の分派が禁止されたのは、1921年の第10回党大会でだった。
 我々は、レーニンがほとんど絶望の中で死んだことを、知っている。
 このことは、彼の著作物、最後の論考、病気が緩和していた間の考えから知られる。
 つまり、レーニンは状況を多大なる悲しさをもって見ていた。そして、たしかに、レーニンとスターリンとの間には、違いがあった。
 しかし、レーニンが先にいなかったとするなら、いったい誰がスターリンのことを考え得るだろうか。
 (1)「うそ」という言葉の意味について、一致はない。
 ソヴィエトのうそについて語るとき、私は、レーニンまたはトロツキーにあるどんな積極的なうそについても語ってはいない。
 私は、客観的なうそについて語っている。
 ソヴィエトと労働者の権力に関するうそは、ソヴィエトはいやしくも労働者の権力だとか、あるいは民主主義的な権力ですらあるという、間違った考え(false idea)だ。
 このうそは、言葉と事実のあいだの、公式に裁可された矛盾を指し示す。//
 (2)ジャコバン主義(Jacobinism)は、ソヴィエトに先行した超革命的経験だった。しかし、ソヴィエトは、まるで自分たち自身の革命の初期の形態のごとく、それを取り込んだ。
 ボルシェヴィズムの魔術の一つは、ブルジョアジーを廃絶したがゆえに急進的で新しい革命は、革命的主意主義(voluntarism)の歴史に先行者を持つ、というものだった。
 そうして、ボルシェヴィキは両面の役割を果たした。まず、過激で新しいけれども、伝統に則っていると主張する。そして、ジャコバン主義は独裁、テロル、主意主義、新しい人間の称揚、等々をボルシェヴィキが見出したところだったので、その伝統はジャコバン主義にのみあり得た、と主張する。
 魅惑的なことは、フランス革命以降の革命は政治的な伝統になってもいた、ということだ。それは、1917年十月のために役立った。//
 (3)十月とレーニンは復活するだろうと、私は思う。
 スターリンは消滅し、捨てられるだろう。
 しかし、レーニンはなおも、輝かしい将来を当てにすることができる。とくに、トロツキストの途を通じて。トロツキーは、スターリンの犠牲者としての立場によって—最終的には—利益を得た。
 テロルの犠牲となったテロリストたちの処刑は、処刑者としての彼らの役割を拭い去ることだろう。
 フランス革命期のダントン(Danton)に、少し似ている。
 我々はいま、彼らが再生されるのを見ている。彼らは、最終的にスターリニストたることを免れ、神話を再び新しく作っているがゆえに、姿を大きくしている瞬間にある。
 十月はつねに、その最初にあった魔術の何がしかを維持し続けるだろう、と私は思う。そして、創建の契機、夢、歴史から引き裂かれた一瞬にとどまり続けるだろう。//
 (4)これら全ての背後には構築主義思想(constructivist idea)があることを、忘れてはいけない。
 永続的に作出される対象としての社会、という考え方。
 驚くべきことは、この思想はその起源をロシアにもったに違いない、ということだ。驚くべきというのは、ロシアは、その思想が具現化されるのに最も適していない国だからだ。
 これはロシアの異質性(foreignness)に関係がある、と私は思う。
 西側は数世紀にわたって、ロシアは何かが出現しそうな、神秘的な国だという考えを抱いて生きてきた。
 このような感覚は、近代の始まりの時期にあった。
 ソヴィエトの神話が誕生するに際して、この神秘さは少なからぬ役割を果たした。
 全ての出来事ははるか遠くで起きた、奇妙なものだった。
 西側には、ロシアについての、一種の終末論的見方があった。共産主義よりも古い見方だ。//
 (5)もっと注目すべきなのは、多数の人々が共産主義思想を理由として、ロシアはヨーロッパの一国であるばかりかヨーロッパ文明の前衛(avant-garde)だと想像している、ということだ。
 ロシアが共産主義の覆面を剥ぎ取られた今日ですら、ヨーロッパの人々にはロシアをどう理解すればよいかが分からない。 
 ヨーロッパ人は、習慣と対比の両方から、もう共産主義でないのだから「リベラル」だ、と見なす。
 これは明らかに、馬鹿げている。
 我々が痛々しく再発見しているのは、ロシアはヨーロッパにとっていかに異質(foreign)か、ということだ。//
 ——
 第5章①、終わり。英訳書本文、p.31〜p.34。
 

2424/ニーチェとロシア革命・スターリン。

  西尾幹二は、2020年にこう明記した。
 私はニーチェの「専門家でありたくない、あってはならない」。
 「それでも、ニーチェが私の中で特別な位置を占めていることは、否定できない」。
 以上、同・歴史の真贋(新潮社、2020)p.354-5。
 --------
  かつてのソ連および現在のロシアで、ニーチェ(Friedrich Nietzsche)がロシアの文化、ロシア革命後のロシア(・ソ連)社会に与えた影響について、一部によってであれ、関心をもって研究されているようだ。
 例えば、ロシア10月革命直後のレーニン政権の初代啓蒙(=文部科学)大臣=人民委員だったLunacharskyはニーチェを読んでおり、影響をうけていた、という実証的研究もある。
 以下は、現在の時点で入手し得た、ニーチェとロシア・ソ連の関係(主としては哲学、文化、人間観についてだろう)に関する、英語文献だ。
 資料として、中身の構成も紹介して(直訳)、掲載しておく。
 (1) Bernice Glatzer Rosenthal(ed.), Nietzsche in Russia(Princeton Univ. Press, 1986). 総計約430頁、計16論考。
  ・第一部/ロシアの宗教思想に対するニーチェの影響。
  ・第二部/ロシアの象徴主義者(Symbolists)と彼らのサークルに対するニーチェの影響。
  ・第三部/ロシアのマルクス主義に対するニーチェの影響。
  ・第四部/ロシアでのニーチェの影響のその他の諸相。
 (2) Bernice Glatzer Rosenthal(ed.), Nietzsche and Soviet Culture -Ally and Adversary(Cambridge Univ. Press, 1994/Paperback 2002). 総計約420頁、計15論考。
  ・第一部/ニーチェとソヴィエト文化の革命前の根源。
  ・第二部/ニーチェと芸術分野でのソヴィエトの主導性。
  ・第三部/ソヴィエト・イデオロギーへのニーチェの適合。
  ・第四部/不満著述者・思索者のあいだでのニーチェ。
  ・第五部/ニーチェと民族性(Nationalities)—事例研究。
 (3) Bernice Glatzer Rosenthal, New Mith, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002). 単著、総計約460頁。
  ・第一部/萌芽期、ニーチェのロシア化—1890-1917。
  ・第二部/ボルシェヴィキ革命と内戦におけるニーチェ—1917-1921。
  ・第三部/新経済政策(NEP) の時期でのニーチェ思想—1921-1927。
  ・第四部/ スターリン時代におけるニーチェの反響(Echoes)—1928-1953。
   //第一章・縄を解かれたディオニュソス(Dionysos)、文化革命と第一次五カ年計画—1928-1932。
   //第二章・ウソとしての芸術、ニーチェと社会主義的リアリズム。
   //第三章・勝利したウソ、ニーチェとスターリン主義政治文化。
  ・エピローグ/脱スターリン化とニーチェの再出現。
 以上
 ——

2406/O.ファイジズ・人民の悲劇(1996)第15章第2節⑤。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924。
 ——
 第四部・内戦とソヴィエト体制の形成(1918-1924)…第12章〜第16章。
 第15章/勝利の中の敗北。
 第2節・人間の精神の技師⑤。
 (18)革命の「夢想家たち」(dreamers)は、新しい芸術形式とともに、社会生活の新しい形態についても実験をしようとしていた。
 これもまた人類(mankind)の本性を変えるために利用できる、と想定されていた。いや、正確に書けば、女性人類(womankind)のそれも。//
 (19)女性解放は、新しい集団的生活の重要な側面だった。党の指導的なフェミニストたち—Kollontai、Armand、Balabanoff—が予想したように。
 地域共同の食事室、洗濯場、保育室は退屈な家事労働から女性たちを解放し、革命での積極的な役割を与えることができるだろう。
 あるソヴィエトのポスターには、「ロシアの女性たち、鍋を投げ棄てよ!」と書かれていた。
 婚姻、離婚、堕胎に関する法制のリベラルな改革によって「ブルジョア的」家族は次第に解体され、女性たちを夫たちの専制から解放する、と想定された。
 1919年に設置された党中央委員会書記局女性部(Zhenotdel)は、女性たちを地方の政治的業務に動員して教育的情報宣伝をすることで、「女性を再様式化 (refashion)」することを任務とした。
 1920年のArmand の死によって書記局女性部長になっていたKollontai もまた、女性を解放するために性の革命を主張した。
 彼女は、二人の対等な仲間としての男女間の「自由恋愛」や「エロティックな友情」を説き、女性たちを「婚姻という隷従」から、両性を一夫一婦制の重みから、解放しようとした。
 これは、長く継続した夫や愛人たちとともに彼女自身が実践してきた哲学だった。夫や愛人の中には、1917年に結婚した17歳年長のボルシェヴィキ軍人のDybenko がおり、とりわけ、1930年代に在Stockholmの(最初かつ女性唯一の)ソヴィエト大使として彼女を採用したスウェーデン国王がいた。//
 (20)Kollontai は、社会福祉人民委員として、この新しい性的関係の条件づくりをしようとした。
 売春を撲滅し、子ども手当を増大させる試みがなされたが、どちらの分野でも、内戦中はほとんど進展がなかった。
 不幸なことに、いくつかの地方人民委員部は、Kollontai の仕事を導入する意味を理解することができなかった。
 例えばSaratow では、地方福祉部署は「女性の国有化に関する布令」を発した。これは婚姻を廃止して、公認の売春宿で性的要求を充たす権利を男たちに与えるものだった。
 Kollontai の部下たちはVladimir に「自由恋愛事務局」を設置し、18歳から50歳までの全ての未婚の女性たちに彼女たちの性的交際相手を選択して登録することを義務づける布告を発した。
 この布告は、18歳以上の全ての女性は「国有財産」であり、男たちに「事態の利益」に応じた生殖行為のために、彼女たちの同意がなくても登録した女性を選択する権利を与えた。(25)//
 (21)Kollontai の仕事のほとんどは、現実には理解されなかった。
 性的革命という彼女の展望は多くの点できわめて理想主義的だったが、一方で現実には、1917年以降のロシアじゅうを風靡した乱れた性的関係と道徳的アナーキーを促進しているものと広く受けとめられた。
 レーニンはこのような問題に時間を割く余裕がなかった。そして、彼自身は上品ぶる人物で、Kollontai によるものとされた性的問題に関する「一杯の水」論—共産主義社会では、人の性的欲求の充足は一杯の水を飲むことのように率直で正直なものでなければならない—を「完全に非マルクス主義的」だと非難した。
 レーニンはこう書いた。「確かに、渇きは癒されなければならない。しかし、ふつうの人間が排水溝で横たわってその水溜まりで水を飲もうとするだろうか?」
 地方のボルシェヴィキたちは「女仕事」を軽侮していて、
Zhenotdel(党書記局女性部)のことを(農民の妻の意味の「baba」から)「babotdel」と呼んだ。
 女性たち自身も、とくに男性優位的考えが依然としてあった農村部では、性的解放という理想に懐疑的だった。
 多くの女性たちは、地域の共同保育室は自分たちの子どもを奪い去って国家の孤児にしてしまうのでないか、と怖れた。
 彼女たちは、1918年の離婚自由化法は男性が彼らの妻や子どもたちに対する責任から免れるのを容易にしただけだ、と不満を言った。
 統計も彼女たちを支持していた。
 1920年代初頭までに、ロシアの離婚率はヨーロッパで抜群の高さに達した。ーブルジョア的ヨーロッパの26倍になった。
 労働者階級の女性たちは、Kollontai が説いた自由な性的関係に強く反対し、男たちが自分たちを粗末に扱う公認書を与えるようなものだと見なした。
 彼女たちがより大きな価値を置いたのは農民家庭の家計に根ざした旧様式の結婚観念であり、その家計とは家庭を維持するための労働を両性で分け合う共同経営だった。(26)
 (22)レーニンが同意しなかったのは性的問題だけではなかった。
 彼は芸術問題について、19世紀のブルジョアと全く同様に保守的だった。
 レーニンには、アヴァンギャルドのための時間はなかった。
 彼はその前衛芸術の革命上の地位は社会主義の伝統を<嘲って歪曲するもの〉だと考えていた。
 四頭の象の上に立つマルクス像建立が企画されたとき、レーニンは激怒した。また、mayakovsky の有名な詩の「15億人」を「とても無意味で愚かな馬鹿さかげんと自惚れ」だとして却下した(多数の読者は同意するかもしれない)。
 レーニンは、内戦が終わると、Proletkult の活動を立ち入って検討した。ーそして、閉鎖することに決定した。
 1920年の秋に、それに対する財政援助が劇的に削減された。
 Bogdanov は指導部から解任され、レーニンはその原理的考え方に対する攻撃を始めた。
 ボルシェヴィキ党指導者は、Proletkult の因襲打破的偏見に苛立ち、過去の文化的成果を基礎にして形成していく必要を強調した。また、それがもつ自立性によって政治的脅威は大きくなると判断した。
 彼が見たのは、Proletkult はBogdanov 一派だ、ということだった。
 確かにProletkult は労働者反対派と多くの点で共通しており、「ブルジョア専門家」の雇用によりまだ示されているようなブルジョアジーの文化的主導性を打倒する必要を強調した。そしてじつに、NEP の直後でもそうしていた。
 この意味では、Proletkult の反ブルジョア感情とスターリン自身の「文化革命」との間には直接の連結関係があった。
 レーニンの目からすると、Proletkult の閉鎖はNEP への移行のための不可欠の要素だった。
 NEP は経済分野でのテルミドールだったが、「ブルジョア芸術」に対する闘争のこの中断は、文化分野でのそれだった。
 どちらの由来も、ロシアのような後進国では古い文化の成果は維持されなければならず、その基礎の上に社会主義社会は建設される、という認識にあった。
 共産主義への近道などは存在しないのだ。//
 (23〉レーニンはこの時期に、「文化革命」の必要性について何度も執筆した。
 彼は、労働者国家を生むだけでは十分でない、と論じた。社会主義への長い移行のための文化的条件もまた、生み出さなければならない。
 文化革命という概念で彼が強調したのは、プロレタリアの文学や芸術ではなく、プロレタリアの科学と技術だった。
 Proletkult は芸術を人間の解放の手段として位置づけたのに対して、レーニンは、科学こそを人間の変革の手段だと見た。人間の変革とは、人々を国家の「歯車」に変えることだ。(*)
 〈 (*)原書注記ースターリンはしばしば、人々は国家という巨大な機械の「歯車」(vintiki)だと述べた。〉
 レーニンは、「悪質で」「識字能力のない」労働者たちが「資本主義の文化で教育される」ことを—そして技能をもち紀律のある労働者となって子供を技術学校へ通わせることを—望んだ。そうすれば、社会主義への移行に際してこの国の後進性を克服できるだろう(27)。
 ボルシェヴィズムとは、近代化のための戦略でないとすれば、何物でもなかった。//
 (24)レーニンが入念な科学的訓練の必要を強調したことは、1920-21年の間の教育政策の変化を反映していた。
 ボルシェヴィキは、教育を人間の変革の主要な道筋だと見なした。学校や子供たちと青年のための共産主義同盟(Pioneer とKommsomol〉を通じて、次の世代へと新しい集団的生活様式が教え込まれるだろう。
 ソヴィエトの教育の率先者の一人だったLitina Zinoviev が、1918年の公教育大会で、こう宣言したとおりだ。/
 「我々は、若い世代を共産主義の世代へと作り込まなければならない。
 子どもたちは柔らかい蝋のごとくきわめて柔軟かつ従順であって、良い共産主義者へと鋳造されるに違いない。……
 我々は、家庭生活の有害な影響から子どもたちを救わなければならない。……
 我々は、彼らを国有化(natinalize)しなければならない。
 小さな生命の最も早い時期から、共産主義の学校の愛情溢れた影響のもとにいることを知らなければならない。
 彼らは、共産主義のABCを学習するだろう。……
 母親に子どもをソヴィエト国家に捧げることを義務づけること—これが我々の任務だ。」//
 (25)ソヴィエト式学校の基本的モデルは、1918年に設立された統合労働学校(Unified Labour School)だった。
 この学校は、子どもたち全員に対して14歳になるまで自由な普通教育を与えることを意図していた。
 しかしながら、内戦による実際的な困難があったため、その目的は現実にはごく僅かの学校で達成されたにすぎなかった。
 1920年に多数のボルシェヴィキ党員と労働組合指導者たちは、幼年期から職業訓練を行う限定された制度づくりを主張し始めた。
 彼らは、トロツキーの軍事化計画の影響を受けて、教育制度を経済的需要に従属させる必要を強調した。ロシアには熟達した技術者が必要であり、それを生み出すのは学校の仕事だ、と。
 Lunachartsky はこれに反対し、この主張は自分がVpered 主義者だった時代から追求してきた革命の人間中心主義的目標を放棄する誘因となる、と見なした。
 彼はこう主張した。
 労働者の名のもとで権力を奪取したボルシェヴィキは、「産業の支配人」になれる知識人のレベルにまで引き上げる子どもたちの教育を強いられている。だが、見習う前に読み書きの仕方を教えるだけでは十分ではない。
 そうすれば、資本主義の階級分化、知識をもつという力により分離される支配人と男たちの文化を再生産してしまうだろう。
 Lunachartsky の力により、1918年の科学技術の考え方は基本的には維持された。
 しかし、実際には、狭い職業訓練教育の考え方が増大した。それによって子どもたちは、とくに孤児たちは、9歳か10歳の早い時期から工場の実習生になることを強いられた。//
 ——-
 ⑥へとつづく。

2398/O·ファイジズ・人民の悲劇-ロシア革命(1996)第15章第2節④。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924。
 第一部・旧体制下のロシア…第1章〜第4章。
 第二部・権威の危機(1891-1917)…第5章〜第7章。
 第三部・革命のロシア(1917.2-1918.3)…第8章〜第11章。
 第四部・内戦とソヴィエト体制の形成(1918-1924)…第12章〜第16章。
 ——
 第15章/勝利の中の敗北。
 第2節・人間の精神の技師④。
 (14)通常の「ブルジョア的」設定を取り払って街頭、工場、兵舎に舞台を移すことで劇場を大衆にとってより身近なものにする、類似の試みが行われた。
 劇場はこうして、アジプロ(agitprop、煽動的宣伝)の一形態になった。
 その意図は、演者と観客の間の障壁を破壊し、劇場を現実と分ける舞台と客席の境界線(proscenium)を消し去ることだった。
 これら全ては、のちにBrecht が好んだMax Reinhardt によって開拓された、ドイツの実験劇場の技巧を採用していた。
 Meyerhold やその他のソヴィエトの監督たちは、観衆が演劇に対する反応を声に出すよう勇気づけることによって、観衆の感情を革命の教訓的寓話へと引き込もうとした。
 新しい演劇は、国家的次元と私的な人間生活の局面の両方での革命的闘争に光を当てて、強調した。
 登場人物は粗雑で非現実的な徴標だった。—山高帽をかぶる貪欲な資本家、Rasputin 的鬚を生やした極悪な聖職者、そして誠実で簡素な労働者。 
 こうした演劇の主要な目的は、革命の「敵」に対する大衆の憎悪を掻き立てて、人々を体制のもとへと結集させることだった。
 1924年にEisenstein が上演した、そのような演劇の一つの<モスクワのことを聞いているか?>は、ドイツの労働者がファシストの牙城へと突撃する場面が演じられる最終幕で、観衆たち自身がそれに参加しようとする感情を掻き立てる、というものだった。
 殺害されるファシストたち全員が、激しい喝采で迎えられた。
 観衆の一人は、ファシストの愛人役の女優に向かって、銃砲を弾こうとすらした。隣席の者たちが彼を正気に戻らせたけれども。//
 (15)街角劇場の最も壮麗な例は、十月蜂起三周年を記念して1920年に上演された、<冬宮への突撃>だった。
 この大衆的な見せ物は、—いずれにせよつねに混同されていた—演劇と革命の区別を消滅させた。
 1917年の革命劇が演じられたペテログラードの街路は、今や劇場に変わった。
 重要な光景が、宮廷広場の巨大な舞台で再演された。
 冬宮の多数の窓には、内部の異なる場面を順番に明らかにできるように、照明が灯された。そして、冬宮自体が、舞台の一部となった。
 <オーロラ>〔戦艦・巡洋艦〕は主役を演じた。ネヴァ(河)から大砲弾が放たれて、宮廷急襲を開始する合図となった。あの歴史的な夜に、実際そうだったように。
 実際の蜂起に参加した数よりもおそらく多い、1万人の役者たちがいた。彼らは、古代ギリシャの劇場の合唱団のように、革命という偉大な考えを人民の一つの行為として具現化すべく登場した。
 概算で10万人の観衆は、宮廷広場から、繰り広げられる行動を見つめた。
 彼らはケレンスキーのおどけた人物を嘲笑し、宮廷への攻撃中は大いに喝采を浴びせた。
 これが、偉大なる十月の神話の始まりだった。—Eisenstein が「記録ドラマ」映画の<十月>(1927年)で見せかけの事実(pseudo-fact)へと変えた神話。
 この映画の中の諸映像は、今なおロシアと西側の両方で、革命の本当の写真だとして、書物の中で再生産されている。//
 (16)芸術もまた、街頭に持ち出された。
 構成主義者たちは、芸術を美術館から取り出して日常生活に送ることについて語った。
 Rodchenko やMalevich を含む彼らの多くは、衣類、家具、事務所、工場を彼らの言う「産業スタイル」を強調してデザインすることに努力を傾注した。—単純な意匠、原色、幾何学的模様、直線。彼らは、これら全てが人々を解放しかつより理性的にするだろうと考えた。
 「対象だけではなく家庭の生活様式全体を再建設する」ことが自分たちの狙いだ、と彼らは言った。
 Chagall 、Tatlin のような何人かの指導的なアヴァン-ギャルド絵画家、彫刻家は、「煽動芸術」(agitation art)へと手を伸ばした。—建物や電車の装飾、五月一日や革命記念日のような多数の革命的祝祭のためのボスターのデザイン。このような祝祭日に、人々は、集団的な喜びと感情を示す公開の展示物によって団結するものと想定されていた。
 街じゅうが文字通り赤く塗られた(ときには樹木すら)。
 彼らは、彫像や記念碑を通じて、街路を革命の美術館に、新体制の力とその威厳の生ける聖像に、変えようとした。それらは文字能力のない者にも感銘を与えるだろう。
 国家による自己神聖化のためのこのような行為には、何も新しさはなかった。つまり、帝制体制も全く同じことをした。
 ロマノフ家により1913年に王朝300年を記念して建設されたクレムリンの外側のオベリスクは、レーニンの指令にもとづいて維持された。これは、じつに見事に皮肉なことだった。
 ツァーリ体制の碑文は、16世紀にまで遡る「社会主義的」祖先たちの名前で書き換えられた。
 その中に含まれていた名前には、Thomas More、Campanella、Winstanley があった。(*23)//
 (17)言い得るかぎりで、こうしたアヴァン-ギャルド芸術の実験のいずれも、心性や精神を変えるには少しも有効でなかった。
 左翼芸術家たちは、例えば大衆のための新しい美意識を創出していると考えたかもしれない。しかし、自分たちのための新時代的な美的感覚を作り出していたにすぎなかった。たとえ、「大衆」のうちにある何かを、彼ら自身の理想の象徴として表現していたのだとしても。
 労働者や農民たちの芸術的嗜好は、本質的に保守的だった。
 実際に、芸術問題についての農民の保守性を過大評価するのはむつかしい。1920年にボリショイ・バレェ団が地方を巡回旅行したとき、「<コルフェイ(coryphee)>が剥き出しの腕と脚を見せていることに深い衝撃を受け、呆れて上演から歩き去った」と言われている。
 現代主義芸術のこの世のものでない印象は、芸術を見知るのは聖像(icon)に限られていた人々にとっては、疎遠なものだった。(原書注記+)
 (+1930年代の社会主義リアリズムは、明らかにアイコンの性質をもち、宣伝としてははるかにより有効だった。)
 最初の十月蜂起記念日にVitebsk の街頭が飾られていたとき、Chagall は、共産党の職員からこう尋ねられた。「なぜ雌牛は緑色をしていて、なぜ馬は空を飛んでいるのか、どうして?
 マルクスとエンゲルスの結合とはいったい何のことだ?」
 1920年代の民衆の読書習慣に関する調査によると、労働者や農民たちは、アヴァン-ギャルド文学よりも、革命以前から読んできた、探偵小説や恋愛小説を好みつづけた。
 新しい音楽もまた同様に、成功しはしなかった。
 ある「工場コンサート」でのことだが、全てのサイレンと警笛が生み出す不協和音の騒音がひどかったために、労働者たちは、インターナショナルの旋律を識別することができなかった。
 コンサート会館や劇場は、最近に豊かになった、ボルシェヴィキ体制のプロレタリアたちで満たされた。—モスクワのボリショイ劇場には毎晩、彼らが噛んだヒマワリの種の殻が散らばっていた。だがなお彼らは、Ginka やTchaikovsky を聴きにやって来ていたのだ。(*24)
 芸術的趣味の問題となると、半ばの教養しかない労働者たちが望んだものは、ブルジョアジーにとって物まね芸がそうだった以上のものは何もなかった。//
 ——
 ⑤へとつづく。

2397/O·ファイジズ・人民の悲劇-ロシア革命(1996)第15章第2節③。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924。
 ほとんど行ってきていない試訳者自身のコメントを例外的に付す。試聴してみた Dmitri Shostakovich, Symphony #2 in B op.14("To October")のCDのクライマックス以降に労働者らしき人々の(途中から女声も入る)合唱があるが、下記の記述にある「口笛」は聴き取れなかったた。原作者による操作・変更なのか等は不明だ。「皮肉」と言うのも、適訳かは自信がないが、著者の判断・解釈だと思われる。
 ——
 第15章/勝利の中の敗北。
 第2節・人間の精神の技師③。
 (9)1917年の革命は、ロシアのいわゆる銀色の時代の半ばに起こった。銀色の時代とは今世紀の最初の30年間で、全ての芸術でアヴァン-ギャルド(avant-garde、前衛)が人気を博した。
 この国のすぐれた作家と芸術家たちはProletkult に参加し、その他の文化活動家たちは、内戦中にまたはその後で加わった。
 Belyi、Gumilev、Mayakovsky、Khodasevich は、教室で詩を教えた。Stanislavsky、Meyerhold、Eisenstein は、劇場で「十月革命」を実践した。Tatlin、Rodchenko、El Lissitsky、Malevich は、視覚的芸術の先駆者となった。
 一方で、Chagall はVitebsk の郷里の町で芸術人民委員にすらなり、のちにはモスクワ近郊の孤児の区画で絵画を教えた。
 こうした人民委員と芸術家の連結は、部分的には共通する原理的考え方から生まれた。すなわち、芸術には社会的課題があり、大衆と気持ちを合わせる使命がある、という考えだ。古いブルジョア的芸術に対する新時代的(modernist)な拒否感もあった。
 しかし、便宜的な恋愛関係でもあった。
 というのは、文化的活動家たちは、最初はあった条件にもかからわらずほとんど自立性を失っていたので、味気ない近年にはひどく必要となった追加的な配給や作業素材の供給は言うまでもなく、アヴァン-ギャルドに対するボルシェヴィキの経済的支援を、好都合なものだと見なしたからだ。 
 Gorky は、ここでの中心人物だった。—彼は芸術家たちにはソヴィエトの人間として、ソヴィエトに対しては指導的芸術家として振る舞った。
 1918年9月、Gorky は、Lunacharsky が率いる人民委員部による芸術や科学の分野の処理に協力することに同意した。
 Lunacharsky の側では、「ロシアの文化を救う」ためのGorky の種々の取り組みに最大限の支援をした。レーニンは、多くの困窮した知識人を雇っていた世界文学出版所から、歴史的建造物や記念碑の保存に関する委員会についてまで、そのような「些細な問題」に苛立っていたけれども。
 Lunacharsky は、Gorkyは革命の突風によって貴重なものが破壊されるという見込みを信用も恐れもしないで、不満を言いつつ完全に知識人層の陣営の中にいることが判ったと、愚痴をこぼした。//
 (10)アヴァン-ギャルドの虚無主義的な部分は、とくにボルシェヴィキに魅せられた。
 彼らは喜んで、古い世界の破壊にいそしんだ。
 例えば、Mayakovsky のような未来主義(Futurist)詩人たちは、ボルシェヴィキに身を投じて、ボルシェヴィキを「ブルジョア芸術」に対する彼らの闘いの同盟者だと見た(イタリアの未来主義者は、同じ理由でファシストを支持した)。
 未来主義者は、Proletkult 運動の内部で急進的な因習打破の方向を追求し、レーニンを激怒させ(文化問題についての彼の保守性)、Bogdanov やLunacharsky を当惑させた。
 Mayakovsky は、こう書いた。「胡椒博物館に弾丸を打ち込むときだ」。
 彼は「古い美的な屑」だとしてクラシックを拒否し、Rastrelli は壁にぶつけなければならない(ロシア語のrastrelli は処刑を意味する)と駄洒落を言った。
 Proletkult の詩人であるKirillow は、こう書いた。
 「我々の明日の名前で 我々はラファエル(Raphael)を燃やす。
 美術館を破壊し、芸術の花を押しつぶす。」
 これはおおよそは、知識人の空威張りであり、自分たちの才能がはるかに乏しいことに衝撃を受ける第二級の作家たちの、ヴァンダル人的(vandalistic、破壊者的)素振りだった。//
 (11)スターリンは、作家のことを「人間の精神の技師」(engineer of human souls)と叙述したことがあった。
 アヴァン-ギャルド芸術家たちは、ボルシェヴィキ体制の最初の数年の間に人間の本性の偉大な変革者になるものと想定されていた。
 彼らの多くは、人間の精神をより集団主義的にするという社会主義の理想を共有していた。
 19世紀の「ブルジョア」芸術の個人主義的前提を彼らは拒否した。そして、芸術表現の現代的様式を通じた異なるやり方で世界を見るように、人間の心性を鍛えることが自分たちはできると考えたのだ。
 例えば、モンタージュ(montage、合成)は断片的だが結合した映像でコラージュ(collage、寄せ集め)の効果をもち、見物者に対してサブリミナルな(subliminal、潜在意識上の)教育的効果をもつものと考えられた。
 Eisenstein は1920年代の三大宣伝映画で—<ストライキ>、<戦艦ポチョムキン>、<十月>—この技巧を用い、その技巧の上にその映画理論の全体を築いた。
 映画が生み出すと想定された「心理(psychic)革命」が、大いにもてはやされた。<特に優れた>現代芸術の様式は、現代人についての心理学のように、「直線と直角」および「機械の力強さ」を基礎にしていた。(*21)//
 (12)アヴァン-ギャルド芸術家たちは、「心理革命」の先駆者として、多様な実験的形態を追求した。
 このときにはまだ芸術に対する検閲はなく—ボルシェヴィキには他に多くの切実な関心事があった—、芸術には相対的に自由な領域があった。
 そのゆえに、警察国家で芸術上の爆発が起きるという逆説が生じた。
 こうした初期のソヴィエト芸術の多くには、現実的で永続的な価値があった。
 とくにRodchenko、Malevich、Tatlin といった芸術家たちのような構成主義者(Constructivist)は、現代主義様式に大きな影響を与えた。
 このことは、ナツィの芸術については、あるいはスターリン時代の芸術に流行した、社会主義リアリズムのぞっとするほどに途方もない悪趣味については、言うことができない。
 だがしかし、ほとんど不可避的に、アヴァン-ギャルド芸術家たちが抱いた実験的精神をもつ青年たちの熱い感情があったので、彼らの製作物の多くは、今日ではむしろ滑稽に(comical)思われるかもしれない。//
 (13)例えば、音楽の分野では、指揮者のいない交響楽団があった(リハーサルでも本演奏でも)。そうした交響楽団は、自由な集団的作業を通じて平等と人間性を実現するという考え方による社会主義様式の先駆者だと自認していた。
 工場でサイレン、蒸気原動機(turbine)や汽笛を道具として使ったり、電気的手法での新しい音響を創り出したりする演奏会を催す運動があった。これらは、労働者に近い新しい音楽的美意識を生み出すだろう、と考えた人々がいたようだ。
 Shostakovich は、疑いなくいつものように皮肉でもって、彼の交響曲第二番(「十月に捧げる」)の絶頂部に工場での口笛の音を加えることをして、楽しんだ。
 同様の奇矯さ(eccentric)は、社会主義的にするために著名なオペラの名前を変えたり、オペラの台詞を作り直したりすることにも見られた。
 <Tosca>は<コミューンのための闘い>となり、舞台は1871年のパリへと移された。<Le Huguenots>は<十二月主義者(Decembrists)>となり、ロシアが舞台とされた。一方、Glinka の<ツァーリのための生活>は、<槌と鎌>として書き換えられた。//
 ——
 ④へとつづく。

2394/O·ファイジズ・人民の悲劇-ロシア革命(1996)第15章第2節②。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924
 ——
 第15章/勝利の中の敗北。
 第2節・人間の精神の技師②。
 (6)Gorky、Bogdanov、Lunacharskyは1909年に、Capri 島の作家の別荘にロシアの労働者用の学校を設立した。
 13人の労働者(うち一人は警察のスパイ)が多大の費用を払ってロシアを密出国して、社会主義の歴史と西側文学に関する退屈な課程の講義を聴くべく座らされた。
 時間割以外の唯一の娯楽は、Naples(ナポリ)美術館へのLunacharskyの案内付旅行だった。
 1910年設立の二つめの労働者学校は、Bologna(ボローニャ)にあった。
 これらの教育の目的は、自覚のあるプロレタリア社会主義者のグループ—一種の「労働者階級知識人」—を作ることだった。このグループは、彼らの知識を労働者たちに普及し、革命運動が自分たちの文化革命を創出するのを確実にするだろう。
 学校の創始者たちはVpered(先進)グループを形成したが、ただちにレーニンと激しい対立をした。
 革命に関する先進グループ(Vperedists)の考え方は、労働者階級の文化の有機的発展に成功が依存する、という意味で本質的にメンシェヴィキだった。
 これに対して、レーニンは、独自の文化的勢力としての労働者の潜在的能力を無視していて、紀律を受けた党のための一員としての役割を強調した。
 先進グループは、知識は、とくに技術は、マルクスが予言した歴史の駆動力であり、社会階層の相違は資産ではなくむしろ所有する知識による、とも主張した。
 かくして、労働者階級は、生産、配分と交換の手段の統制によるのみならず、同時に生起する文化革命によって解放されるだろう。文化革命は、労働者階級に知識の力それ自体をも付与するのだ。
 だからこそ、自分たちは労働者階級の啓蒙を行う。
 先進グループは最後に、異端派の装いすらもって、マルクス主義は宗教の一形態だと見なさなければならない、とも論じた。—神聖な存在としての人間性と聖なる精神としての集団主義を伴う宗教だ。
 Gorky は、その小説の<告白>(1908年)で、この人間主義的(humanistic)主題を強調した。その小説では、主人公のMatvei は、仲間たちとの同志愛を通じて神を見出す。//
 (7)1917年の後、指導するボルシェヴィキは以前よりもプレス関係の権力を持っていたが、文化政策は、党内のこれらかつての先進グループに委ねられた。 
 Lunacharsky は、啓蒙〔Enlightenment,文部科学〕人民委員になった。—この名称は、目標として設定した文化革命の発想を反映していた。そして、教育と芸術の両方を所管した。
 Bogdanov は、プロレタリア文化を発展させるために1917年に設立されたProletkult 機構(プロレタリア文化機構)の長となった。
 1919年までには8万人の構成員をもった工場の同好会や工房を通じて、この機構は、素人の劇団、合唱団、楽団、美術教室、創造的文筆場、労働者のためのスポーツ大会を組織した。 
 モスクワのプロレタリア大学と<社会主義百科事典>とがあった。
 Bogdanov は後者の出版物を将来のプロレタリア文明を準備するものと見ていた。彼の見方では、Diderotの<百科事典>が18世紀のフランスの勃興するブルジョアジーが自分たちの文化革命を準備する試みだったのとちょうど同じように。(*19)//
 (8)Proletkult 知識人たちは、Capri やBologna の学校でと同様に、育てようとする労働者たちに対して経済的支援をする姿勢をときおり示した。
 Proletkult がもつ基本的前提は、労働者階級は自発的に自分たち自身の文化を発展させるべきだ、というものだった。この点に、彼らが労働者たちのためにする意味があった。
 加えて、彼らが促進する「プロレタリア文化」は、労働者たちはこうあるべきだと想定する彼らの理想と比べて、労働者の現実の嗜好とはあまり関係がなかった。—大部分は寄席演芸(vaudeville)やウォッカで、彼ら知識人は俗悪なものだとしてつねに軽蔑していた。 
 彼らの理想たる労働者は、ブルジョア個人主義に毒されていない。生活や思考の様式が集団主義だ。冷静かつ真剣で、自己啓発的だ。科学とスポーツに関心をもつ。要するに、知識人たちが自ら想像する社会主義的文化の先駆者でなければならない。//
 ——
 ③へとつづく。

2379/O·ファイジズ・人民の悲劇-ロシア革命(1996)第15章第1節②。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924
 この書に邦訳書はない。一文ずつ改行し、段落の区切りに//と原書にはない数字番号を付す。今回の最後の段落は二つに分ける。
 ——
 第15章・勝利の中の敗北。
 第一章・共産主義への近道②。
 (9)1920年のあいだに、強制労働の原理は他の分野にも適用された。
 数百万の農民たちが、材木を伐採して輸送する、道路や鉄道を建設する、収穫物を集める、といった目的の労働チームへと徴用された。
 トロツキーは、全国民が労働連隊へと動員されれば常備軍またはmilitia の二倍の働きをするだろうと見込んだ。
 これは、1820年代の軍事大臣だったArakcheyev の軍事封建主義に似ていた。この人物はかつて、農奴労働をロシア西部国境の軍隊の業務と結合させた集団居住区網を作った。
 トロツキーの計画は帝政時代に長くつづいた「管理ユートピア」の相続者で、それはピョートル大帝にさかのぼるものだった。この大帝は全てを、軍隊の方法で考えた。非合理的なロシア人を理性化し、無秩序の農民を連隊化し、彼らを整列させ、鍛えて絶対主義国家の必要に応えるよう強いるために。
 トロツキーのように、Os'kin は、つぎのような日が来るのを待ち望んだ。「いかなる外国も、ロシアを侵略しようとはしない。民衆全てが、ある者は前線で手に武器を持ち、ある者は工業や農業の分野で、祖国を防衛しようとする気構えがあるために。
 全国土が、一つの兵舎になるだろう。」
 これは全て、官僚的な夢想にすぎなかった。
 労働軍と同様に、農民の労働チームは絶望的に非効率だということが判った。
 一本の樹木を倒して枝を切り刻むのに、平均して、50人の徴用者と一日全部が必要だった。 
 労働チームが建設した道路は平らでなかったので、ある観察者の言葉によると、「氷結した大海の波のように見えた」。そこを通るのは「乗り物遊びよりもひどかった」。
 労働義務からの離脱はあまりにふつうの事だったので、多くの地区では義務の履行自体ではなく脱走者の追跡に従事する者たちの方が多かった。
 脱走者を匿ったと疑われると、村は占拠され、制裁金が課せられ、ソヴェトの指導者を含めて、人質は射殺された。
 数千の農民たちが、労働紀律を破ったとして有罪とされた労働者の「矯正施設」として全ての地方(province)に設置された労働収容所へと送られた。(*7)//
 (10)労働者や学生が土曜日に、社会主義者の崇高な義務として街路や広場のごみを「自発的に」掃除するよう強いられていた。だが、この「土曜労働の作戦運動」、<subbotniki>も、同じように非効率だった。
 1920年のメイ・デイ(May Day)週間のあいだ、モスクワの100万人を超える住民がこの「労働の祭日」にかかわった。
 そのとき以降、その祭りは、ソヴィエト的生活様式の永続的な特徴になった。その週のみならず、全ての週の土曜日が、人々が支払いなく働くよう求められる日として予定されるようになった。
 ボルシェヴィキは、<subbotniki>はソヴィエト集団主義の輝かしい達成物だとして称賛した。
 政治的にはおそらく、それは都市住民に、紀律、従順および服従の意識を植えつけるのを助けただろう。
 結局のところは、<subbotniki>へと「自発的に参加する」ことをしないことは、疑念を生じさせ、おそらくは「反革命者」として訴追されることを意味した。
 しかし、感情的には、ほとんど何も達成しなかった。
 教授のVodovozov は、5月1日にペテログラードで行われた大衆的<subbotniki>の印象を、こう記録している。/
 「冬宮と海軍本部の間の広場に、活動の中心があった。
 手作業が必要とする以上にはるかに、本当におそろしく大変な数の労働者がいた。彼らは、冬宮の垣根が壊れて以来ほぼ18ヶ月間残っていた鉄の柵と積み重なったレンガをすっかり除去した。
 Rosta〔ロシア電信電話庁〕は、最後には汚い塀がなくなつた、と明確に述べた。
 だが、全くそうでなかった。レンガは本当になくなったが、鉄の柵は広場の端に積み重ねられていた。
 そこに今日も残っている。
 広場全体には、まだ山のように積み重なったゴミがある。
 疑いなく、不完全にでも塀を解体してしまうには、同じ場所に建設するよりも10倍の費用がかかる。」(*8)//
 (11)内戦の影響の一つは、貨幣価値の下落だった。
 ボルシェヴィキは、1918-19年の間、二つのことに考え悩んでいた。
 ルーブルの価値を維持するか、それとも廃止するか?
 一方で、財物や業務の代金を支払う貨幣を印刷しつづける必要も、認識していた。
 彼らはまた、大衆住民は通貨の価値で体制を判断するだろうことも知っていた。
 他方で、自分たちの通貨を導入するためにインフレを促進すべきだと考える、極左のボルシェヴィキもある程度はいた。
 彼らは、通貨制度を、国家発行のクーポンにもとづく物品配布の一般的制度に置き換えようとした。
 (誤って)想定していたのは、通貨を排除すれば自動的に市場システムは、そして資本主義は破壊され、結果として社会主義となるだろう、ということだった。
 経済学者のPreobrazhensky は、著書の一つを捧げた。すなわち、『財務人民委員部の印刷所へ。—頓馬なブルジョア体制を撃つ機関銃、通貨システム』
 1920年までに、左翼派は方向を見出していた。通貨は、それを守るのがもはや無意味になるほどに猛烈な速さで印刷されている。
 造幣局は1万3000人の労働者を雇っており、全く馬鹿げたことに、紙幣を印刷するのに必要な紙と染料を輸入するために大量のロシア・ルーブルの準備金を使っている。
 ルーブルを印刷するには、ルーブルが実際にもつ価値以上が必要なのだ。
 郵便、通信、輸送、電気のような公共的業務は、ルーブル紙幣を印刷して費用として使うことで国家が金を失っているのだから、自由に行われなければならない。(*9)
 このような状況は、超現実的だった。—しかし、これがロシアなのだった。//
 (12)ボルシェヴィキ左翼派は、配給券を共産主義秩序を創り出す偉業だと見た。
 配給が示す階級が、新しい社会階層でのその人の位置を明確にした。
 人々は、国家にそれを使うことで分類された。
 かくして、赤軍の兵士、官僚、重大工場の労働者は、第二級の配給を受け取った(適切な程度より少なかった)。
 一方で、階層の最下辺にいる<burzboois>は、第三級の配給でやりくりしなければならなかった(ジノヴィエフの記憶に残る言葉では、それは「匂いを忘れない程度のパン」だった)。
 実際に1920年の末までに、国家の貯蔵倉庫にはほとんど食糧がなくなった。—多数の人々が配給制度で暮らしていた。そして、第一級の配給で生活している者たちすら、飢餓の割合を減らす程度のぎりぎりしか受け取れなかった。
 3000万の人々が、国家の制度により何とか食っていけた、あるいは、食っていけなかった。
 都市住民のほとんどは、小工場の食堂に大きく依存していた。そこでは薄粥や軟骨が毎日提供された。
 だが、開いている店を見つけ、粗末な食事のために行列をするという競い合いは大変なものだったので、おそらくは実際に食事によって得たそれよりも、食べるまでにすることで多くの労力を費やしただろう。
 これは、馬鹿げたことのただ一つではなかった。
 食料、タバコから衣服、燃料、書籍まで、配給が導入されていたほとんど全ての分野で、製品が実際にもった価値以上の時間と労力が、それらの配布のために費やされた。
 労働者たちが配給を受け取るために列をなして並んでいる間、工場や役所は、動きを止めた。
 人々は平均して、毎日数時間かけてソヴェトの複数の役所を渡り歩いた。そして、よく折られた配給券を約束された物品と交換しようとした。しかし、その物品はときにしか見つからなかった。
 疑いなく、彼らは、自分たちが願い出ている官僚機構の者たちが十分に食べて、よい衣服を着ている様子に気づいたに違いない。//
 (13)ペテログラードの教授で1900年代の指導的リベラル派、そしてレーニンの若い頃の友人だったVasilii Vodovozov は、その日記に、典型的なある一日を描写している。
 ソヴィエト同盟について知っていた読者は、彼と同様の観察をしたかもしれない。/
 「1920年12月3日
 この私の日々を、数人の幹部たちについてを除いて、叙述していく。—瑣末な詳細がそれ自体で興味深いからではなく、ほとんど全ての者の典型的な生活状態だからだ。/
 今日、午前9時に起床した。
 まだ暗くて家の光はまだ点いていなかったので、これより前に起きても無意味だ。
 燃料が足りない。
 使用人はおらず(何故かは別の話になる)、湯を沸かして病気の(スペイン風邪にかかった)妻の世話をし、独りでストーブ用の薪を取ってこなければならない。
 (オート麦の)コーヒーを、もちろんミルクや砂糖なしで飲んだ。そして、2週間前に1500ルーブルで買った一塊のパンから作った一片の食パンを食べた。
 小さなバターもあった。この点で私は、たいていの人よりもまだ状態が良かった。
 11時までに外出の準備をした。
 しかし、朝食の後でもまだ空腹で、野菜店へ行って食べることに決めた。
 恐ろしく高価だったが私がペテログラードで知っている唯一の場所で、そこは食べるのが比較的容易で、どこかの人民委員部の規制がなく、または許可を必要としなかった。
 この場所すら閉まっていて、あと数時間は開店しないことが判った。それで、ペテログラード第三大学まで行った。そこは大学としては実際には閉まっているのだが、私が食事を登録しているカフェテリアがあった。
 そこで、私と妻と、やはり登録している友人のVvedensky家が食べられるものを購入しようと望んだ。
 しかし、ここでも不運だった。食べたい人々の長い行列があり、うんざりとした気分と苛立ちが彼らの顔に浮かんでいた。 
 列は少しも動かなかった。 
 いったい何が問題だったのか?
 ボイラーが壊れていて、少なくとも1時間は遅れるだろう。/
 遠い将来にこれを読む者の中には、この人々は大宴会を待っていたと想う人がいるかもしれない。
 しかし、食事は全部で、一つの料理だけだった。—ふつうは、ジャガイモかキャベツの入った薄いスープ。
 肉などは、問題外だった。
 特権のあったほんの少しの人々だけが、肉を食べた。—つまり、台所の内側で仕事をした者。/
 私は、そこを去って仕事の後まで食べるのを延ばすことに決めた。
 午後1時まで路面電車がまだ来なかったので、野菜店に戻った。そこには食料はなく、少なくともあと30分はその見込みもなかった。
 空腹のままで仕事に行く以外の選択肢はなかった。/
 Nikolaev 橋で、ようやく電車4号線の車両をつかまえた。
 路線上に流れはなく、静止したままだった。
 私は何故かをまだ理解していない。
 路面電車は全て停まっていた。だが、運行し続けるだけの燃料がないと分かっていたなら、どうして進行しなかったのか?
 人々は座席にすわったままだった。—何人かがとうとう諦めて、目的地に向かって歩き始めた。残る者たちは、Sisyphus の辛抱強さで座っていた。
 2時間後に私は電車が動いているのを見たが、5時までに再び、路面電車は全て停まった。/
 午後2時頃、私は徒歩で文書館まで到着していた。30分そこにいて、その後に大学へと行った。大学では午後3時に、手渡されるキャベツの配給のあることが予定されていた。
 誰に対してか私はよく知らなかったが、たぶん、教授たちにだろうと思った。—だから機会を得る必要があった。
 しかし、私は再び、幸運から外れた。すなわち、キャベツは配布されず、翌日に与えられることが判った。
 しかも、教授たちにではなく、学生たちに対してだけだった。/
 私はまた、大学では先の1週間、パンの配給もないだろうということを知った。ある人々は、パンはすでに全部、全ての委員会を動かしている共産党員に提供された、と言っていた。/
 大学から家に帰り、妻を見守り、必要なことをし、食べられると希望して野菜店へと再び戻って行った。
 もう一度、運が悪かった。食料は全てなくなり、少なくとも先の1時間はもう何もなかった。
 待たないと決めて、Vvedensky の家へ行き、あとで順番を待つことができるかと頼んだ。
 5時に家に帰った。
 そして、その日の最初の幸運の一欠片にめぐり会った。我々の地区の電灯が点けられていた(ペテログラードは電気について二つの地区に分けられていた。電力不足のため、各地区は交代で夕方に灯りが点いた)。
 そのため、読書する貴重な時間ができた。—食事、パンやキャベツ、あるいは材木取りのための走り回りから自由になった最初だった。
 6時にVvedenskyの家へ食べに行った(やっと!)。そして帰ってきて、この文章を書いている。
 9時、もう暗かった。
 好運にも友人の一人がやって来て、その夜の数時間、妻の世話をしてくれた。私には再び貴重な時間だった。
 9時過ぎて、ろうそくを灯し、湯わかしの火をつけ、妻と一緒にお茶を飲んだ。そして、11時に就寝した。」(*10)//
 (14-01)共産主義ユートピアの鍵は、食糧供給の統制だった。それなくして、政府は経済と社会を支配する手段を持たない。
 ボルシェヴィキは痛々しく、彼らの体制が圧倒的多数の農民のおかげで存在していることを、知っていた。
 ——
 ③へとつづく。

2377/O·ファイジズ・人民の悲劇-ロシア革命(1996)第15章第1節①。

 仕事(生業)で英語を使ったことはなく、大学生時代の英語の授業は高校のときよりも簡単でつまらなかったので、実質的には日本の公立高校卒業時の英語の力を基礎にして、<試訳>をつづけている。
 **
 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924
 最終章の第16章の試訳を終え、その前の第15章へと移る。同じ章の中では、第一節→第二節→…と進む。
 この書に邦訳書はない。一文ずつ改行し、段落の区切りに//と原書にはない数字番号を付す。
 ——
 第15章・勝利の中の敗北。
 第一章・共産主義への近道。
 (1)Dmitry Os'kin は、内戦での危険な経験のあと、1920年の第二労働軍の指揮官を引き受けた。
 この軍はDenikin の打倒のあとで第二赤軍の余剰兵団から形成され、南西部戦線の荒廃した鉄道を復旧させることを任務としていた。
 兵士たちは、ライフル銃の代わりに鋤をかついだ。
 Os'kin は、のちにこう書いた。
 「もうこれ以上戦闘にかかわりたくないという、気落ちした感情が一般にあった。
 鉄道の側での、気怠い生活だった。」
 指揮官の唯一の代償は、革命と内戦という惨事の後の経済の復興には知識がきわめて重要だったが、その知識を得られることだった。
 南部の諸鉄道は、北部の工業都市への穀物と油の供給という重要な役割を担っていた。
 内戦で、およそ3000マイルの線路が破壊されていた。
 破壊された機関車の残骸があちこちにあった。
 Os'kin は、Balashov からVoronezh へと移動しながら、一般的な惨状を記した。
 「駅には誰一人おらず、列車が稀に通過した。夜には照明がなく、電報局にはろうそくだけがあった。
 建築物は半分破壊され、窓は壊れ、汚物とゴミが高く積み重ねられていた。」
 これは、ロシアの荒廃の象徴だった。 
 Os'kin の兵士たちは、汚い散物を掃除し、線路と橋脚を作り直した。
 軍技術者たちは、列車を修理した。
 夏までに、鉄道は再び機能し始め、作戦は大成功したと宣言された。
 この兵団を経済の別部門を稼働させるために使うことが、語られた。//
 (2)トロツキーは、軍事化の最高の闘士だった。
 彼の命令によって1920年1月に、第三赤軍の残余兵を集めた第一労働軍が組織された。
 Kolchak 打倒のあと、兵士たちはそのまま戦闘部隊にとどめられ、「経済前線」へと再配置された。—鉄道の修繕の他に、食糧の手配、樹木の伐採、単純な物品の製造。
 計画は、ある部分は実践的だった。
 ボルシェヴィキは、経済危機の真っ最中に軍の動員解除をするのを恐れた。
 かりに数百万の失業した兵士たちが都市部に集まることが、あるいは覚醒した農民たちの隊列に加わることが許されたとすれば、(1921年に起きたように)全国土的な反乱が発生し得ただろう。
 さらに加えて、鉄道を復旧させるには断固たる措置を必要とすることは明瞭だった。トロツキーは鉄道を、内戦による荒廃後の国の回復の鍵だと見ていた。
 彼は1920年1月、輸送人民委員になった。それは彼が積極的に望んで得た最初の地位だった。
 鉄道は、慢性的な破損以外に、腐敗した役人たちによって悩まされていた。彼らは殺到する仲介者へと堰を切ったように向かい、システムに大混乱を生じさせていた。
 些細な地方主義も、鉄道を麻痺させていた。
 全ての離れた支線にはそれら用の委員会があり、稀少な車両を求めて相互に競争する数十の地区鉄道局があった。
 それらは、「自分たちの」機関車を隣接する局に譲って失うよりも、列車をまだ管理している間に車両を切り離そうとした。そうすると、列車は数時間、ときには数日間止められ、新しい機関車は次の車庫から出られなくなるのだった。
 鉄道職員は懸命に努力したにもかかわらず、トロツキー配下の上級官僚たちがOdessa からKromenchug まで300マイルを旅するのに、一週間全部を要した。(*2)//
 (3)しかし、トロツキーの胸中の計画には、軍事のごとく動く社会全体についての広大な展望があった。
 1920年の多数のボルシェヴィキのように、トロツキーは、参謀部が軍を指揮するのと全く同じく、国家が社会の指揮官だと見ていた。—計画に従って社会の諸資源を動員するのだ。
 彼は、軍事様式の紀律と厳密さでもって稼働する経済が欲しかった。
 全民衆は、労働する連隊や旅団へと徴用されなければならず、兵士たちと同様に、生産命令を達成するために(「戦い」、「作戦行動」(campaign)といった語が使われる)経済の前線へと派遣されなければならなかった。
 ここには、スターリン主義の命令経済の原初的形態がある。
 両者をいずれも駆り立てたのは、ロシアのような後進国では、国家による強制(coercion)を共産主義への近道として用いることができるという考えだった。したがって、市場を通じての資本蓄積のためにNEP類型の段階が長く継続する必要性は排除される。
 両者がともに基礎にしていたのは、布令によって共産主義を押しつけることができるという官僚主義的な幻想だった(どちらの場合も、結果はマルクスが見出したものとは異なる封建主義にむしろよく似たものとなったけれども)。
 メンシェヴィキがかつて警告したように、ピラミッドの建造に使われた方法を用いて社会主義経済への移行を完成させるのは不可能だった。//
 (4)内戦勝利後のボルシェヴィキにとっては、赤軍を社会の残余部分を組織するモデルだと見なすことは、疑いなく魅力的なことだった。
 <Po voennomy>—「軍隊のように」—は、ボルシェヴィキの語彙では効率性(efficiency)と同義となった。
 軍事手段が白軍を打倒したのだとすれば、それを社会主義建設のために用いることが、何故できないのだろうか?
 なすべきことはただ、経済前線へと行進するために軍の周りに結集することであり、そうすれば、全労働者が計画経済のための歩兵となる。
 トロツキーはつねに、工場は軍隊のごとく動かされなければならないと主張した。(原注+)
 〔(+)同じことは同時期に、Gastev やその他のロシアでのTaylor 運動の先駆者たちによっても表明された。〕
 彼は、このとき、1920年の春、この勇敢な新しい共産主義的労働を、こう概述した。計画経済の「司令官が労働前線に対して命令を発出し、毎夕に司令部の数千の電話が鳴り響き、労働前線での征圧が報告される」。
 トロツキーは、強制労働へと徴用する社会主義の能力は、資本主義に対する主要な優位点だ、と論じた。
 経済発展についてロシアに欠けているものを、国家の強制力でもって補充することができる。
 市場を通じて労働者を刺激するよりも、労働者を強制する方がより効率的だ。
 自由な労働はストライキと混乱をもたらすが、労働市場の国家的統制は規律と秩序を生み出すだろう。
 こうした議論は、トロツキーがレーニンと共有した見方にもとづくものだった。その見方とは、ロシア人は悪辣で怠惰な労働者だから、鞭でもって駆り立てなければ働こうとしない、というものだ。
 ソヴィエト体制と多くの点で共通性があった農奴制のもとでの大地主層も、同じ見方をしていた。
 トロツキーは、農奴労働の成果を称賛し、それを自分の経済計画を正当化するために使った。
 彼は、強制労働の利用は非生産的だという批判者からの警告を聞いても困らなかっただろう。
 1920年4月の労働組合大会で、こう言った。「かりにそうならば、きみたちは、社会主義を十字架に掛けることができる」。(*3)//
 (5)「兵営共産主義」の奥底にあったのは、独立した、いっそう反抗的になっている勢力としての、労働者階級に対するボルシェヴィキの恐怖だった。
 ボルシェヴィキはこの頃から顕著に、「労働者階級」(rabochii class)ではなく、「労働勢力」(rabochaia sila または短くrabsila)と語り始めた。
 この変化は、革命の積極的主体から党・国家の受動的な客体への労働者の変化をよく示唆していた。
 <rabsila>は階級ではなく、諸個人の集合体ですらなく、たんなる大衆(mass)でしかなかった。
 労働者の意味のこの言葉(<rabsila>)は、語源への回帰だった。すなわち、奴隷(slave)の意味の言葉(<rab>)への。
 ここに、収容所(Gulag)制度の根源があった。—建築現場や工場で強制的に働かせる(dragoon)、半ば飢えてぼろ布を着た農民たちの長い列、という意識(mentality)。
 労働軍は「農民という原料」(<muzhitskoe syr'te>)で作られると語ったとき、トロツキーは、この意識を典型的に示していた。
 人間の労働は、マルクスが賛えた創造的な力から全くかけ離れて、現実には、国家が「社会主義を建設する」ために使う材料にすぎなかった。
 このような倒錯は、出発時点から、システムに内在していた。
 Gorky は、彼が1917年に「労働者階級は、レーニンにとっては金属加工業者のための鉱石のようなものだ」と書いたとき、このことをすでに予見していた。(*4)//
 (6)内戦での経験によって、ボルシェヴィキ指導者たちの労働者階級との関係についての自信が増大する、ということは全くなかった。
 食糧不足のために、労働者たちは小取引者となり、一時的な農民になって、工場と農場の間を動き回った。
 労働者階級は、漂泊民になっていた。
 工業は、工場労働者が地方からの食糧を買いに旅行するために半分はいなくなって、混乱に陥った。
 工場にいる労働者たちは、農民たちと交換取引をするための単純製品を作って時間のほとんどを費やした。
 需要が大きい熟練の技術者たちは、より良い条件を求めて工場から工場へと渡り歩いた。
 生産高が、革命前の水準のごく一部にまで落ち込んだ。
 最重要の軍需品工場群ですら、事実上は休止状態になった。
 労働者の生活水準が悪化するにつれて、ストライキや意図的遅延が常態化してきた。
 1919年の春のあいだ、ストライキが全国的に勃発した。
 都市のほとんどもまた、無関係ではなかった。
 食糧を十分に供給できるところは全て、ストライキ実行者が要求する表の最上位を占めた。
 ボルシェヴィキは、弾圧でもって答えた。多くはメンシェヴィキ支持者だと嫌疑をかけた数千の実行者を逮捕し、射殺した。(*5)//
 (7)イデオロギー上の理由で市場を拒絶していたので(原注+)、ボルシェヴィキは、その刺激なくしては、実力による脅迫以外には労働者に影響力を行使する手段をもたなかった。
 〔原注+/トロツキーは1920年に、NEPに似た市場改革の暫定案を提示した。しかし、中央委員会はそれを却下した。彼はただちに軍事化政策へと立ち戻った。自由取引によるのであれ強制によるのであれ、経済の復興が必要だった。〕
 ボルシェヴィキは、高い賃金という報償を与えることで生産を高めようとした。その報償はしばしば出来高と連結していて、異なる賃金支払いを排除するという革命の平等主義的約束へと戻ることになった。
 しかし、労働者は紙幣で多くの物を購入することはできなかったので、これは大した誘因とはならなかった。
 労働者を工場にとどめておくために、ボルシェヴィキは、現物で支払うことを強いられた。—食糧そのものか、または農民との交換に使うことのできる工場の製品のいずれかで。
 地方ソヴェト、労働組合および工場委員会は、 このような方法で労働者に支払う許可を求めて、モスクワを攻めたてた。そして、自分の権限でそのように行った。
 1920年までに、工場労働者の大多数は、自分たちの生産物の分け前で、部分的には支払われていた。
 労働者たちは、紙幣ではなく、釘が入ったバッグ、一ヤードの布を家に持って帰り、食料と交換した。
 意図されないかたちで、計画経済の中心で、初期的な市場がゆつくりと再び出現していた。
 この自発的な動きが阻止されないままであったなら、中央行政は国の資源の統制権を失い、そして生産を支配する権力も失っていただろう。
 1918-19年にこの動きを止めようとしたが失敗して、1920年以降は、止めるのではなく、労働者が不可欠で重要な工業に従事することが確実であるかぎりで、この自然な支払いを組織化しようとした。
 これが、重工業の軍事化の土台となった。戦略上重要な工場は、戒厳令が布かれることになる。労働者は赤軍の配給を保障されることになるが、その代わりに、作業現場には軍事的紀律が導入され、「工業前線」での脱走により射殺された者がいたために常時欠勤者があった。
 その年の末までには、主として軍需と鉱山の3000の企業が、このようにして軍事化された。
 兵士は労働者へと変わっていき、労働者は兵士へと変わっていった。//
 (8)これと結びついていたのは、一部は労働者により選出された合議制の経営委員会から、党階層により任命されるのが増えていた独任制管理者による単独経営へという、権力の一般的な移行だった。
 トロツキーは、選挙される軍事司令官から任命されるそれへの変化を引き合いに出して、これを正当化した。この変化が、内戦での赤軍の勝利の根源だったのだ、と。
 新しい経営者たちは、自分たちは工業軍の司令官なのだと考えた。
 彼らは、労働組合の諸権利は、軍での兵士委員会がかつてそうだったのと同じく、工業の規律と効率性に対する煩わしくて不要な邪魔物だと見た。
 トロツキーは、労働組合の党・国家装置への完全な従属を主張するまでにすら至った。このとき以降、「労働者の国家」には、労働者が自分たちの自立した組織をもついかなる必要も、もはやなくなった。(*6)//
 ——
 ②へとつづく。

2373/O·ファイジズ・人民の悲劇(1996)第16章第3節⑤。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924
 この書に、邦訳書はない。試訳のつづき。p.804-7。一文ずつ改行。
 ——
 第三節・レーニンの最後の闘い⑤。
 (27)レーニンが死にかけていることを、一般国民は知らされなかった。
 プレスは最後まで、レーニンは深刻な病気から回復しつつあると報告しつづけた。—深刻な病気ならば、死を免れない人間は死んでしまうだろう。
 体制は、この「奇跡の回復」を考え出すことで、レーニン崇拝(cult)を生き続けさせようとした。体制自体の正統性意識が、ますますこれに依存してきていたのだ。
 「レーニン主義」という語が、1923年に初めて使われた。
 三頭体制は、「反レーニン主義者」であるトロツキーに対抗する真の防衛者だと自己宣伝しようとした。
 その同じ年に、正統派の聖典であるレーニン全集の初版の刊行が始まり(<Leninskii sbornik>)、レーニン研究所が設立され、レーニンに関する資料館、図書館および博物館が完成した。
 洪水のごとく聖人伝が刊行されたが、その主な目的は神話と伝説を作り出すことだった。—貧しい農民または労働者だったレーニン、動物や子どもが好きなレーニン、人民の幸福を目指した勤勉な労働者としてのレーニン。それらは、体制をより民衆的なものにするのに役立ったかもしれない。
 莫大な数のレーニンの肖像写真が公共建築物の正面に現われ始めたのも、このときからだった。
 モスクワのある公園には、花壇用草花で作られたレーニンの「生きている肖像」すらがあった。一方で、多くの工場や役所の内部には、彼の偉業を解説する公認の写真や資料が置かれた。(*48)
 人間のレーニンは死んだ。そして、神のレーニンが生まれた。
 彼の個人的生涯は国有化された。
 それは、スターリン主義体制を神聖なものにするための、聖なる装置だつた。//
 (28)1924年1月21日、レーニンは死んだ。
 午後4時に大きな脳発作があり、昏睡に入って、午後7時すぐ前に死亡した。
 家族と付添医師を除けば、レーニンの死を看取った唯一の者は、ブハーリンだった。
 彼は1937年に、自分の生命を守ろうとして、レーニンは「自分の腕の中で死んだ」と主張した。(*49)
 (29)クレムリンは翌日、開会中の第11回ソヴェト大会の代議員たちに向けて、発表した。
 会場からは叫びと嗚咽の声が聞こえた。
 おそらくは予期していなかったのが理由だが、公衆は純粋な悲しみの表情を見せた。
 劇場や店舗は、一週間閉鎖した。
 赤と黒のリボンで飾られたレーニンの肖像写真が、多数の窓に掲示された。
 農民たちが、最後の敬意を示すべくGorki の家にやって来た。
 数千の弔問者たちが、北極地方の寒さを物ともせず、レーニンの遺体が運び込まれたthe Hall of Columns まで、Paveletsky 駅からモスクワの通りを並んだ。
 つぎの三日間、50万の人々が数時間かかって、棺台の側を通りすぎた。
 数千の花輪と哀悼の飾り物が、学校や工場、連隊や軍艦、ロシアじゅうの町や村から送られてきた。
 のちに葬礼のあとの数ヶ月、レーニンの記念碑や像を建立する狂ったような動きがあった(Volgograd のそれはレーニンを巨大なネジの上に立たせた)。街路や施設が、彼にちなんで改称されたのも同様だった。
 ペテログラードは、レニングラードと改称された。
 工場全体が、入党を誓約した。—ある煽動家は、それが「逝去した指導者に対する最大の花輪だ」と言った。そして、レーニン死後の数週間で、10万人のプロレタリアートが、いわゆる「レーニン登録」に署名した。
 西側の多数の報道記者たちは、この「全国民的な服喪」は体制に対する「信頼へのpost-modern な票決」だと見た。
 別の者は、多年の苦しみの後で集団的に悲しみを吐き出して解放するものだとした。
 説明し難いことだが、人々はヒステリックに嗚咽し、数百人が気絶した。
 おそらくは、レーニン崇拝がすでに始まっていたことを示している。どれほどレーニン体制を嫌悪していても、かつて支配階級(boyars)を侮蔑しつつも「父なるツァーリ」を愛したのとちょうど同じように、「神なるレーニン」をなおも愛したのだ。//
 (30)レーニンの葬儀は、つぎの日曜日に、摂氏零下35度の寒さの中で行われた。
 スターリンが、the Hall of Column から赤の広場まで、開いた棺を運ぶ儀礼兵たちを引き連れた。赤の広場にある木製の基台の上に、それは置かれることになつていた。
 ボリショイ劇場楽団がショパンの葬送行進曲を演奏し、古い革命歌の「You Fell Victim」とインターナショナルが続いた。
 そして、6時間のあいだ次から次への隊列が、約50万人とされる人々の中を、陰鬱な静けさの中で、幕を下げながら、棺とともに分列行進をした。
 午後4時ちょうど、棺が保管室へとゆっくりと下されたとき、サイレン、工場の時笛、機関砲、銃砲がロシアじゅうに鳴り響いた。それはまるで、巨大な国家的悲嘆を放出させるがごとくだった。
 ラジオではただ一つのメッセージだけが読み上げられた。「同志たちよ、起立せよ。Ilich が墓所へと下されている」。
 そして、静寂があり、全てが止まった。—列車、船、工場。ラジオが、「レーニンは死んだ。しかし、レーニン主義は生きている」ともう一度伝えるまで。//
 (31)レーニンはその遺書で、ペテログラードの母親の側に埋葬してほしいと表明していた。
 それは彼の家族の望みでもあった。
 しかし、スターリンは、レーニンの遺体を保存したかった。
 彼がレーニン崇拝を存続させつづけるべきだとすれば、「レーニン主義は生きている」ことを証明しなければならないとすれば、レーニンの遺体は展示されなければならなかった。聖人たちの遺物のように、腐敗することのないよう処理された遺体が。
 スターリンは、トロツキー、ブハーリン、カーメネフの反対を押し切って、その案を政治局が承認するよう強いた。
 保存という考えが浮かんだ契機の一つは、1922年のツタンカーメンの墓の発見だった。
 <Izvestiia>で、レーニンの葬礼は、「古代の偉大な国家の創設者」のそれに喩えられた。
 しかし、おそらくは、ロシア正教の典礼についての、スターリンによるByzantine 式の解釈によるところが大きいだろう。
 スターリンの計画に恐れ慄いたトロツキーは、それを中世の宗教的狂信に喩えた。
 「中世には、Sergius of Radonezh やSeraphim of Sarov の聖跡があった。今は、これらをVladimir Ilicch の遺体に代えようとしている。」
 最初は、凍結の方法でレーニンの遺体を保存しようとした。
 だが、遺体はすぐに腐食し始めることが判った。
 2月26日、レーニンの死から5週間のちに、科学者の特別チーム(「不朽化委員会」として知られる)が任命された。その任務は、防腐用液体を見出すことだった。
 数週間を働きつづけて、科学者はついに、グリセリン、アルコールおよび他の化学物質を含むとされる解決方式にたどり着いた(正確な構造はいまもなお秘密のままにされている)。
 レーニンの塩漬けの遺体は、赤の広場のクレムリンの壁近くのクレムリン木造地下室に置かれた。—のちに、今日も現存する御影石の廟に移された。
 それが一般に公開されたのは、1924年8月だった。//
 (32)レーニンの脳は遺体から取り除かれ、レーニン研究所へと移された。
 その脳は、「天才の実体」を発見する責務を負った研究者たちの研究に供された。
 彼らは、レーニンの脳は「人間の進化の高い段階」を表現していることを示すことになっていた。
 3万の切片へと薄切りされて、慎重に検査できる状態でガラス板の間に保管された。そして、将来の世代の科学者たちは、それらを研究して本質的秘密を発見することになるだろう。
 その他の「明白な天才たち」—Kirov、Kalinin、Gorky、Mayakovsky、Einstein およびスターリン自身—の脳は、のちにこの大脳収集物の中に加えられた。
 これらが、今日もなおモスクワにある脳研究所を形成した。
 1994年に、レーニンについての最終的な検査結果が発表された。それは、レーニンの脳は完全に平均的な脳だ、というものだった。(*51)
 この結果は、ふつうの脳でもときには尋常でない行動を掻き立てることがある、ということを示していることになる。//
 (33)レーニンが死んでいなかったら、どうなっただろうか?
 NEP やレーニンの最後の文書は、異なる発展方向を提示しただろうか?
 歴史家は、まともには仮定の問題を扱うべきではない。ましてや、起こっただろうと(またはこの場合は、起こらなかっただろうと)予想してはならない。
 しかし、レーニンの後継者問題の帰結については、おそらく若干の考察を試みることが十分に許容されるだろう。
 結局のところ、革命の歴史のかなりの部分はスターリンのロシアで起きたことから遡って書かれてきたので、現実にはどのような選択肢があったのかとを問題にしてよい。//
 (34)第一に、スターリン主義体制の基本的な要素—一党国家、テロルのシステム、個人崇拝—は、すでに1924年までに全て存在した。
 党の諸機構は、その大部分が、スターリンの手中にある従順な道具だった。
 地方の幹部たちの大部分は、内戦中に組織局の長であるスターリンが任命していた。
 彼らは専門家や知識人に対する卑俗な嫌悪感を共有し、プロレタリアの連帯とロシア・ナショナリズムを説くスターリンのレトリックの影響を受けた。そして、イデオロギー上のほとんどの問題について、自分たちの偉大な指導者に従うつもりだった。
 結局、彼らはかつてのツァーリの臣民だったのであり、党の「民主主義的」改革を目指すレーニンの最後の闘いは、この基礎的な文化を変えることができそうになかった。
 彼が提起した改革は全く官僚制的なもので、独裁制の内部構造の改革にだけ関係があった。そして、そのようなものだったので、NEPの本当の問題に向かうことができなかった。つまり、体制と社会、とくに征圧されていない農村地帯、の間の緊張した関係。
 真の民主主義化がなく、ボルシェヴィキの支配する姿勢の根本的な変化がなく、NEP は必ずや失敗する運命にあった。
 経済的自由と独裁制は、長期的に見れば併立し難いものだ。//
 (35)第二に、他方で、レーニンの体制とスターリンのそれとの間には基礎的な違いがあった。
 初期の頃は、党員が殺戮されることはほとんどなかった。
 そして、分派が禁止されたにもかかわらず、党にはまだ同志的な論議をする余地があった。
 トロツキーとブハーリンは、NEP の戦略を情熱的に議論し合った。—前者のトロツキーは、市場システムの破綻が工業化の減速をもたらす畏れがある場合の農民からの食糧の搾取につねに賛成したが、後者のブハーリンは、市場を基礎にした農民との関係を維持するために工業化が減速するのを認める方を好んだ。
 しかし、これはまだ知識人的な論議であり、二人ともに、NEP の支持者だった。そして、このような違いがあっても、二人ともに、こうした議論を互いに殺戮し合い、論敵をシベリアへと追放するための口実に用いるなどとは、夢にも考えなかっただろう。
 スターリンだけが、これをすることができた。
 彼だけは、トロツキーとブハーリンが政治的な論議と対立に夢中になっているので、自分は片方を使ってもう片方を破壊することができる、と見た。//
 (36)この意味で、スターリンの役割は、それ自体がきわめて重大(crucial)だった。—彼がいなければ、レーニンの役割がそうだったように。
 もしも、レーニンが最後の脳発作で1923年の党大会で発言することができなくなる、ということがなかったなら、今日ではスターリンの名前は、ロシアの歴史書の、脚注にだけ現われていただろう。
 しかし、「もしも(if)」は、かりにお望みならば、神の摂理(providence)のうちにある。この書は歴史であって、神学ではない。//
 —— 
 第三節⑤、終わり。第16章(最終章)も、終わり。

2369/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)-第16章第3節④。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924
 試訳のつづき。p.801-p.804。一文ずつ改行。
 ——
 第三節・レーニンの最後の闘い④。
 (21)レーニンを除外することは、まさにスターリンが必要としたことだった。
 スターリンは、スパイを通じて、第12回党大会に対するレーニンの秘密の手紙を知っていた。
 自分が生き残って仕事を続けるためには、党大会でそれが読み上げられるのを阻止しなければならなかった。
 3月9日、スターリンは書記長としての自分の権限を使って、党大会を3月半ばから4月半ばへと延期させた。
 トロツキーは、党大会でスターリンが転落すれば最も利益を得る立場にあったけれども、遅らせることに進んで同意した。
 彼は、自分は「実質的にレーニンと合意している」が(つまり、ジョージア問題と党改革について)、「現状を維持するのに賛成」で、政治の「急激な変化」がなされるならぱ「スターリンの排除に反対」だと言って、カーメネフを安心させすらした。 
 トロツキーは、「策略ではない誠実な協力関係があるべきだ」という望みをもって、そう決断していた。
 この「腐った妥協」—まさにレーニンがトロツキーにそうしないよう警告していたもの—の結果は、スターリンが党大会で敗北ではなく勝利を獲得した、ということだつた。
 民族問題や党改革に関するレーニンの覚書は、代議員たちに配布された。そして討議されたが、指導部によって却下された。
 いずれにせよ、代議員たちのほとんどは、他の全問題の中でもとくに党の統一が必要なときに、民主主義について論議して時間を費やす必要はない、というスターリンの見解を支持していた。
 トロツキーを沈黙させ、政治局に対する批判を抑え込む切迫した必要が、それ自体、スターリンが権力へと昇りつめる決定的な要因となった。(*43)
 後継者問題に関するレーニンの覚書は、スターリンは解職されるべきだとの要求も含めて、党大会では読み上げられず、1956年まで隠されたままだった。(+)
 (+原書注記)—遺書の内容は、1924年の第13回党大会の代議員に知らされた。スターリンは退任すると申し出たが、ジノヴィエフの「過ぎ去ったことは過ぎ去ったこと」という提案によって却下された。レーニンとの対立はレーニンは病気で精神状態が完全に健全ではないという含みとともに、個人的衝突として黙過された。最後の覚書のどれ一つとして、スターリンが生きている間はロシアで完全には公表されなかった。1920年代の党のプレスで、断片的には伝えられたけれども。しかし、トロツキーとその支持者たちは、彼らの論評を西側に十分に知らせた(Volkogonov, Stalin, ch. 11)。//
 (22)トロツキーの行動を説明するのは困難だ。
 大勝利を獲得し得た、その権力闘争の決定的瞬間に、彼はどういうわけか自分の敗北を画策した。
 党大会で選出された新しい中央委員会の40名の中で、トロツキーはわずか3名の支持者だけを計算することができた。
 おそらくは、とくにレーニンの脳発作のあとでは、孤立が深まっているのを感じて、トロツキーは、三人組との宥和を試みることに希望を見出すことに決意した。
 彼の回想録は、自分は三人の指導者の陰謀に敗れたという確信で充ちている。
 トロツキーが彼らを拒むのを選べば、本当に現実的な危険が、たしかにあった。
 トロツキーは「分派主義」だと追及されていただろう。—1921年以降では、これは政治的な死刑判決だった。
 しかし、トロツキーには闘う勇気がなかったという意見にも、ある程度の真実はある。
 彼の性格には内面的な弱さが、自分の誇りに由来する弱さがあった。
 敗北するという見込みに直面して、トロツキーは闘わないことを選んだ。
 彼の最も古い友人の一人は、ニューヨークでのチェス遊びの話を語る。
 トロツキーは「明らかに自分の方がチェスが上手いと考えて」、彼を試合に誘った。
 だが、自分が弱くて、負けてしまったと判ると、機嫌が悪くなり、もう一度ゲームをするのを拒んだ。(*44)
 この小さな逸話は、トロツキーの特徴をよく示していた。自分を出し抜くことのできる優位の対抗者に遭遇したとき、彼は、不利な条件を克服しようとして面目を失うよりは、退却して名誉ある孤立をする方を選んだ。
 (23)これはある意味では、トロツキーがつぎに行ったことだった。
 党の最上級機関でスターリンと闘うよりは、指導部の「警察体制」と闘う党内民主主義の旗手のふりをして、ボルシェヴィキの一般党員たる地位を選んだ。
 これは絶望的な賭けだった。—彼の民主主義的な習性はほとんど知られておらず、恐ろしい「分派主義」に陥る危険があった。しかし、絶望的な苦境に立ってもいた。
 トロツキーは10月8日、党中央委員会に宛てて公開書簡を送り、党内の全ての民主主義を抑圧していると非難した。/
 「党組織の実際の編成に一般党員が関与することが、いっそう軽視されてきている。
 独特の書記局員心理がこの数年間に形成されてきており、その主要な特質は、基礎的な事実を知りすらしないで、党書記は全てのどんな問題でも決定する能力があるという信念だ。…
 政府と党機構のいずれにも、広範な階層の活動家党員がいる。その者たちは、党に関する自分たちの見解を、少なくとも公然と表明するかたちでは完全に抑制している。まるで、自分たちは党の見解と政策を形成する書記階層の装置にすぎないと見なしているかのごとくだ。
 意見を表明するのを抑制している広範な活動家階層の下には、多数の一般党員がいる。彼らにとっては、全ての決定は呼び出しか命令のかたちで、上から降りてくるのだ。」/
 いわゆる「46年グループ」は、トロツキーを支持した。—最もよく知られているのは、Antonov-Ovseenko、Piatakov、Preobrazhensky だ。
 彼らが主張するところでは、党にある恐怖の雰囲気は、昔からの同志ですら「お互いに気楽に会話するのを怖れる」ようになった、いうものだった。(*43)//
 (24)予想されたように、党指導部は、党内に非合法の「分派」を作り出すことになる危険な「基盤」形成に着手したと、トロツキーを非難した。
 10月19日、政治局は、トロツキーの批判に応答することなく、トロツキーに対する憎悪に満ちた個人攻撃文書を発表した。
 いわく、トロツキーは傲慢で、党の日々の仕事よりも自分自身を優先し、「全てか無か」(つまり「全てを与えよ、さもなくば何も与えない」)の原理でもって行動している。
 トロツキーは4日後に、党中央委員会幹部会に対して、「分派主義」批判への挑戦的な反論書を送った。
 10月26日、彼は、幹部会それ自体に現れた。//
 (25)最近まで、トロツキーはこの重要な会合に出席しなかった、と考えられていた。
 彼の伝記の二人の主要著作者、Deutscher とBroué はともに、風邪で欠席したとしていた。
 しかし、彼は出席しており、かつ実際に、スターリンの秘書でトロツキーの発言を書き写す責任があつたBazhanov は自分の書類簿にその発言書を封じ込めたと、力強く述べた。
 その書類簿は、1990年に発見された。
 トロツキーの発言は、かつて自分が反対した「ボナパルティズム」(Bonapartism)だという言い分を、情熱的に否定していた。
 彼がユダヤ出自の問題を持ち出したのは、この点でだった。
 野心を持たないことを証するために、彼は、反ユダヤ主義の問題があるためにユダヤ人が高い地位に就くのは賢明ではないという理由で、レーニンによる上級職の提示を固辞した二つの事例に論及した。—一つは、1917年10月(内務人民委員)、もう一つは1922年9月(ソヴナルコム副議長)。
 前者の場合は、レーニンが「些細だ」との理由で却下した。
 だが、後者の場合はレーニンは「私と一致した」。(*46)
 トロツキーの示唆の意味は明らかだった。
 党内での彼に対する反対は、—レーニンもこれを認めていたのだが—部分的には、彼がユダヤ人だということに由来している。
 生涯のこの分岐点で、非難されて党の前に立ちつつ、自分のユダヤ出自の問題に戻らなければならかったというのは、彼には悲劇的な時間だった。
 それは、自分をユダヤ人だと感じてこなかった人間にとって、今はいかにも孤独であることを示していた。//
 (26)トロツキーの感情的な発言は、委員たちにほとんど影響を与えなかった。—委員たちの多くは、スターリンが採用していた。
 102票対2票で、幹部会は、「分派主義」を行ったという理由でトロツキー譴責動議を採択した。
 カーメネフとジノヴィエフは、トロツキーは党から除名されるべきだと強く主張した。
 だが、つねに中庸者として立ち現れたいスターリンは、それは賢明ではないと考え、その提案を却下した。(*47)
 スターリンは、いずれにせよ、急ぐ必要はなかった。
 トロツキーは、有力な一つの勢力として終わった。そして、党からの彼の追放には、まだ月日があった。—最終的には、1927年にその日がやって来た。
 スターリンを阻止する力のある一人の男が、いまや排除された。//
 ——
 ⑤へとつづく。

2364/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)-第16章第3節「レーニンの最後の闘い」③。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.798-p.801. 一文ずつ改行。
 ——
 第三節・レーニンの最後の闘い③。
 (13)レーニンの最後の覚書は、三つの主要問題にかかわっていた。—いずれの点についてもスターリンが元凶だった。
 第一はジョージア案件で、ロシアは国境民族国との間のどのような統一条約に署名すべきかという問題だった。
 スターリンは、ジョージア出自であるにかかわらず、レーニンが内戦中に大ロシア民族排外主義だと批判したボルシェヴィキたちの先頭にいた。
 党内のスターリン支持者のほとんどは、同等に帝国主義的見方をもっていた。
 彼らは、国境地帯やとくにウクライナのロシア労働者による植民地化、原地の農民集団(小ブルジョア民族主義者)の抑圧を、共産主義権力の促進と同一視した。
 民族問題担当人民委員として、スターリンは9月遅くに、それまでに存在した三つの非ロシア共和国(ウクライナ、ベラルーシ、トランスコーカサス)は自治地域をもたず、中核的権限をモスクワの連邦政府に譲って、ロシアに加わらなければならないと提案していた。
 スターリンの提案は「自律化計画」と称されるようになったが、 ツァーリ帝国の「統一した唯一のロシア」を復元させるものだっただろう。
 それは、レーニンが連邦的統合計画の策定をスターリンの仕事として割り当てたとき、彼が想定していたものでは少しもなかった。
 レーニンは、ロシアに対する非ロシア人の歴史的な不満を正当なものと見ていた。そして、広範な文化的自由と同盟から離脱する正規の権利を(どのような意味であれ)もつ、(大きな民族集団には)「主権」共和国の地位を、(小さな民族集団には)「自治」共和国の地位を認めることで、これを宥和する必要があると強調した。//
 (14)スターリンの案は、ジョージアのボルシェヴィキたちによって激しく反対された。民族的権利を譲歩して、自分たちは脆弱な政治的基盤を樹立しようとしていることになる。
 スターリンとその仲間のジョージア人、モスクワのコーカサス局長のOrdzhonikidze はすでに1922年3月に、ジョージアの指導者たちの意見とは大きく異なり、ジョージアをアルメニアとアゼルバイジャンとともにトランスコーカサス連邦へと統合させていた。
 ジョージアの指導者たちは、スターリンとその子分はジョージアを彼らの領地のごとく扱い、自分たちの気持ちを踏みにじっていると感じた。
 彼らは自律化計画を拒否し、モスクワが押し通すならば脱退すると脅かした。(+)
 (+原書注記)—その他の共和国の反対は、より慎重なものだった。ウクライナはスターリンの提案に関する意見を提出するのを拒み、べラルーシはウクライナの決定に従うつもりだと言った。//
 (15)レーニンが介入したのは、この点だった。
 彼はまず初めに、スターリンの側に立った。
 スターリンの提案は望ましいものではなかったけれども—のちに1924年に批准されてソヴィエト同盟条約となる連邦的同盟のために諦めるよう、レーニンは強く主張した—、ジョージアが最後通告を発したのは間違いだった。彼はそのように、10月21日の電話で怒って告げた。
 その翌日、ジョージア共産党の中央委員会全員は、抗議して辞職した。
 このようなことは、党の歴史上かつてなかった。
 しかしながら、11月遅くから、レーニンが概してはスターリンに反対し始めていたとき、彼の見地が変わった。
 ジョージアからの新しい証拠資料によって、レーニンは再考した。
 レーニンは、Dzerzhinsky とRykov が率いる事実解明委員会を、Tiflis に派遣した。彼はその委員会から、論議の過程でOrdzhonikidze が、傑れたジョージアのボルシェヴィキたちをひどい目に遭わせたことをことを知った(彼らはOrdzhonikidzeを「スターリン主義者のくそったれ」と呼んだ)。
 レーニンは、激怒した。
 それはスターリンが粗暴さを増しているとの彼の印象を確認するもので、ジョージア問題を異なる観点から考えるようになった。
 レーニンは、12月30-31日の党大会に対する文書で、スターリンを旧式のロシア民族排外主義者、「ごろつきの暴君」に喩えた。そのような者は、ジョージアのような小さい民族を苛めて従属させることができるだけで、ロシアの支配者に必要なのは「奥深い慎重さ、感受性」であり、かつ正当な民族的要求に対して「譲歩をする心づもり」だ。
 レーニンはさらに、社会主義連邦では、「現実にはある不平等を埋め合わせる」ためには、ジョージアのような「被抑圧民族」の諸権利は「抑圧者たる民族」(すなわちロシア)のそれよりも大きくなければならない、とすら主張した。
 1月8日の、彼の生涯の最後になる手紙で、レーニンはジョージアの反対派たちに、「私の全ての心を込めて」彼らの主張を支持するだろう、と約束した。(*38)//
 (16)その遺書でのレーニンの第二の主要な関心は、今ではスターリンの統制下にある党の指導機関の権力増大を阻止することにあった。
 彼自身の命令が至高のものだった2年前、レーニンは、党内での一層の民主主義と<glasnost>〔情報公開〕を求める民主主義的中央派の提案を非難していた。
 しかし、スターリンが大きな独裁者となった今では、レーニンが類似の案を提出した。
 彼は、党の下部機関にいる一般の労働者や農民から募った50名ないし100名を加えて、中央委員会を民主化することを提案した。
 レーニンはまた、政治局に説明責任を負わせるため、中央委員会はすべての政治局会合に出席し、それらの文書を調査する権利をもつ必要がある、と提案した。
 さらには、中央統制委員会は、Rabkrin と統合し、300名ないし400名の意識ある労働者の組織へと簡素化して、政治局の権力を調査する権利をもたなければならない、とも。
 このような提案は、時機に遅れた努力だった(多くの点でGorbachev の<perestroika>と似ていた)。党幹部と一般党員の間の広がる溝を架橋しようとし、社会に対する党の全面的な支配力を失うことなく、指導部をより民主主義的に、より公開的でより効率的にしようするものだったが。//
 (17)レーニンの最後の文書の最後の論点は—そしてはるかにかつ最も爆弾を投じたような効果があったのは—、後継者の問題だった。
 レーニンは、12月24日の覚書で、トロツキーとスターリンの対立への懸念を漏らしていた。中央委員会の規模を拡大しようと提案していた理由の一つは、ここにあった。—そして、まるで集団的指導制の擁護を覆すかのごとく、多数の党指導者たちの欠陥を指摘し始めた。
 カーメネフとジノヴィエフは、十月にレーニンに反対の立場をとったことで、批判された。
 ブハーリンは、「全党のお気に入りだ。しかし、その理論的見地は、留保付きでのみマルクス主義者だと分類することができる」。
 トロツキーについては、彼は「現在の中央委員会の中では、個人的には最も有能な人間だ。しかし、過剰な自信を示してきており、仕事の純粋に管理的な側面に過剰に没頭してきている」。
 だが、レーニンの最も破壊的な批判が用意されていたのは、スターリンについてだった。
 書記長になって、彼は「無制限の権力を手中に積み重ねてきた。だが、私には、彼が十分に慎重にこの権力を用いる仕方をいつも分かっているのかどうか、確信がない」。
 1月4日にレーニンは、つぎの覚書を付け足した。/
 「スターリンは粗暴すぎる。そしてこの欠点は、我々の間では我慢することができ、共産主義者の中では何とかあしらうことができるけれども、書記長としては耐え難いものになる。
 この理由で、私は、同志諸君がスターリンをその地位から排除して、つぎのような別の者と交替させることを考えるよう、提案する。その者は、同志スターリンよりもただ一つでも優れた点を、すなわち、寛容さ、忠誠さ、丁重さ、同志諸君への配慮をもつ、そして気紛れではないこと、等。」(*39)/
 レーニンは、スターリンは去らなければなないことを明瞭にしていた。//
 (18)レーニンの決意は、3月の最初にさらに強くなった。彼には秘密のままにされていたが、その頃、数週間前にスターリンとKrupskaya の間で起きたことを知ったからだ。
 12月21日にレーニンはKrupskaya に、外国通商独占に関するスターリンとの闘いでの戦術が勝利したことを祝うトロツキーへの手紙を、口述した。
 スターリンの情報提供者が、この手紙について知らせた。スターリンは、この手紙は自分に対抗するレーニンとトロツキーの「連合」の証拠だ、と捉えた。
 その翌日、スターリンはKrupskaya に電話をした、そして、彼女自身が述べるところでは、彼女に向かってレーニンの健康に関する党規則を破ったと主張し、中央統制委員会で彼女の取調べを始めると脅かして、「嵐のような粗野な雑言」を浴びせた(医師たちは彼女が口述聴取をするのを認めていたけれども)。
 受話器を置いたとき、Krupskaya の顔は蒼白になっていた。異様に興奮して泣きじゃくりながら、部屋を歩き回った。
 スターリンによるテロルの支配が始まっていた。
 3月5日にレーニンがこの事件についてやっと知らされたとき、彼はスターリンに対して、「粗暴さ」を詫びよ、さもないと「我々の関係は壊れる」危険がある、と要求する手紙を書き送った。
 権力をもって完全に傲慢になっていたスターリンは、無礼な返書で、死にゆくレーニンに対する軽蔑の気持ちをほとんど隠そうとしなかった。(+)
 〔(+原書注記)—1989年まで公表されなかった。〕
 スターリンはレーニンに思い起こさせた。Krupskaya は「あなたの妻であるだけではなく、私の古くからの同志だ」。
 二人の「会話」の間、自分は「粗暴」ではなかった、事件の全体が「愚かな誤解にすぎない。…」
 「しかしながら、あなたが『関係』の留保について考えると言うなら、私は上の言葉を『撤回』する。
 この全体がどのように想定されているのか、あるいはどこに私の『落ち度』があるのか、いったい何が正確には私に求められているのか、を理解することができないけれども、私は撤回することができる。」(*40)//
 (19)レーニンは、この事件で打ちのめされた。
 彼は一夜で病気になった。
 医師の一人は3月6日に、状態をこう記した。
 「Vladimir Ilich は、狼狽し、怯えた表情を顔に浮かべて横たわっている。目は悲しげで尋ねる眼差しがあり、涙が顔をつたって落ちている。 
 Vladimir Ilich は、取り乱し、話そうとするが、言葉が出てこない。
 そして、『しまった、畜生。昔の病気がぶり返した』とだけ言う。」
 3日後、レーニンは3回めの大きな脳発作を起こした。
 話す力を奪われ、そして政治のために働く力も奪われた。
 10ヶ月後に死ぬまで、一音節を発することができるだけだった。—<vot-vot>(「ここ、ここ」)、<s'ezd-s'ezd>(「大会、大会」)。(*41)//
 (20)レーニンは5月に、Gorki に移された。そこには医師団が、彼の世話をするために配置された。
 晴れた日には、レーニンは外に座っていたものだ。
 ある日、甥の一人が彼を見た。
 レーニンは「開襟の白い夏シャツを着て車椅子に座っていた。
 かなり古い帽子を頭にかぶり、右腕はいくぶん不自然に膝の上に置かれていた。
 私は空地の真ん中にはっきりと立っていたけれども、そうしてすら彼はほとんど気づかなかった。」 
 Krupskaya は彼に読んで聞かせた。—Gorky とTolstoy が最も慰めとなった。そして虚しくも、彼に話し方を教えようと頑張った。
 9月までには、杖と整形外科用の靴の助けを借りて、彼は再び歩くことができた。
 彼はときどき、車椅子を自分で押して地上を回った。
 モスクワから送られる新聞を読み始め、Krupskaya の助けで、左手を使って少しだけ書くことを学んだ。
 ブハーリンは秋に、レーニンを訪問した。のちに彼がBoris Nikolaevsky に語ったところによると、レーニンは、自分の後継者は誰かと、執筆できなかった論文を深く気にかけていた。
 しかし、彼が政治の世界に戻ってくるかは、問題ではなかった。
 政治家としてのレーニンは、すでに死んでいた。(*42)//
 ——
 ④へとつづく

2363/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)-第16章第3節「レーニンの最後の闘い」②。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.795-8。一行ずつ改行。
 ——
 第三節・レーニンの最後の闘い②。
 (8)レーニンは9月までに回復して、仕事に戻った。
 このときにはスターリンの野心を疑うようになっていて、その権力の増大に対する対抗策として、トロツキーを人民委員会議(ソヴナルコム、Sovnarkom)の議長代理(deputy)に任命することを提案した。
 トロツキーの支持者はつねに、このことによって自分たちの英雄がレーニンの後継者になるだろうと論じていた。
 だが、この地位は多くの者には小さいものと見られていた。—権力は政府機構にではなく、党機関に集中していた。そして疑いなく、スターリンはこの理由で、政治局でのレーニンの決定に全く不満でなかった。
 実際、最も抵抗したのはトロツキーで、自分の投票札に「断固として拒否する」と書いた。
 トロツキーは反対する理由として、先だっての5月に導入されたときにその職位を原理的に批判した、と主張した。
 のちに彼は、自分はユダヤ人だからその職位に就かない、そうなれば体制の敵による情報宣伝に油を注ぐだろう、とも主張した(803-4頁を見よ)。
 しかし、彼が拒んだのはおそらく、たんなる「議長代理」でいるのは自分にふさわしくないと考えたからだった。//
 (9)これは、レーニンがソヴナルコムの職務について曖昧な見方をしていた、ということを意味しない。
 また、トロツキーにその職位を提示したのは、レーニンの妹の言葉を借りると「Ilich〔レーニン〕がスターリンの側に立つ」見返りとしての「外交的な素振り」だったと、たんに意味しているのでもない。
 レーニンはつねに、党の仕事以上にソヴナルコムのそれにより高い価値を見ていた。
 ソヴナルコムはレーニンが生んだものであり、それへと彼の全活力を集中させてきた。驚くべきことに、党の活動を知らなくなるまでにすら至っていた。
 彼は1921年10月に、スターリンにこう告白した。
 「知ってのとおり、私は組織局の多大な『割当て』仕事に習熟していない」。
 これは、レーニンの悲劇だった。
 政治家として活動した最後の数ヶ月の間、指導的党組織の権力拡大の問題に取り組んでいたとき、レーニンはいっそう、党と国家の間の権力分離の手段としてソヴナルコムを見ていた。
 だが、レーニンの個人的な権力が所在するソヴナルコムは、彼が病気になり政治から撤退するにつれて、その力を衰退させた。
 彼の代わりにトロツキーが据わるとしても、スターリンの手中にある党組織への権力移行を止めるには、もう遅すぎた。そしてトロツキーは、このことを知っていたに違いない。(*34)//
 (10)レーニンのスターリンに対する疑念は、10月にスターリンがトロツキーを政治局から排除することを提案したときに深まった。それは、トロツキーがソヴナルコムでの地位を傲慢にも拒否したことに対する制裁だ、とされた。
 レーニンは三頭制の活動をよく知るにつれて、それが支配党派のごとく振る舞い、自分を権力から排除するのを意図している、ということが明瞭になった。
 このことが確認されたのは、レーニンは疲労のためにしばしば早めに退席せざるを得なかったのだが、ある政治局の会合から彼が引き上げるとすぐに、三人組が、レーニンは翌日に初めて知ることとなる重要な決定を行なったときだった。
 レーニンは、そのあと(12月8日に)政治局会合は3時間を超えて進行してはならないこと、決定されなかった案件は次回の会合に持ち越されるべきであることを、命令した。
 同時に、またはトロツキーがのちに主張したところでは、レーニンは、「官僚主義に反対する陣営」への参加を提示するためにトロツキーに接近した。これは、スターリンと組織局内の彼の権力基盤に対抗する〔レーニンとトロツキーの〕連合を意味した。
 トロツキーの主張は、信頼できる。
 これがなされたのはしかし、レーニンの遺言の直前だった。そしてこの遺言は主としては、スターリンとその官僚機構の掌握の問題にかかわっていた。
 トロツキーは、すでに党官僚機構、とくにRabkrin と組織局を批判していた。
 そして我々は、外国通商およびジョージア問題の両者について、レーニンはスターリンに反対するトロツキーと立場を共通にしていたことを、知っている。
 要するに、12月半ばにかけて、レーニンとトロツキーは、ともにスターリンに反対していた。
 そのとき突然に、12月15日の夜、レーニンは二回目の大きな脳発作を起こした。(*35)//
 (11)スターリンはすぐにレーニンの医師たちの管理を担当し、 回復を早めるという口実で、中央委員会から自分への命令を与えさせた。その命令は、訪問者や文書のやり取りを制限することで、レーニンを「政治から隔離」し続ける権限をスターリンに付与するものだった。
 12月24日の政治局のつぎの指令には、「友人も周囲の者も、Vladimir Ilich に政治ニュースを語ることはいっさい許されない。彼を反応させ、昂奮させる原因になり得るからだ」とある。
 レーニンは車椅子に閉じ込められ、「一日に5分ないし10分」だけの口述が認められ、スターリンの囚われ人となった。
 レーニンの二人の主な秘書、Nadezhda Alliiuyeva(スターリンの妻)とLydia Fotieva は、レーニンの言ったことを全てスターリンに報告した。
 のちの事態が示すことになるように、レーニンは明らかにこのことを知らなかった。
 スターリンは一方で、薬物に関する専門家を自認して、発送するよう教科書を注文した。
 スターリンは、レーニンはまもなく死ぬだろう、そして自分に対する公然たる侮蔑心をいっそう示すだろう、と確信した。
 スターリンは同僚に12月中に、「レーニンはだめだ(kaput)」と言った。
 スターリンの言葉は、Maria Ul'ianova を通じて、レーニンの耳に届いた。
 兄は妹に伝えた。「私はまだ死んでいない。だが彼らが、スターリンの指導で、私をもう埋めてしまった」。
 スターリンは、その評価の基盤をレーニンとの特別の関係に置いていたけれども、レーニンに対する本当の感情は、1924年に暴露された。レーニンが衰亡し、死ぬまでまる1年を待たなければならなかったとき、つぎのようにつぶやくのが聞かれたのだ。
 「<本当の>指導者らしく死ぬこともできないのか!」。
 実際に、レーニンはもっと早く死んでいたかもしれなかった。
 12月末にかけて彼は、自殺できるように毒を懇願した。
 Fotieva によると、スターリンは毒を与えるのを拒否した。
 しかし、彼は疑いなくそれを後悔することとなった。
 作業をするのが認められた短い間に、レーニンは、来たる党大会のための一連の文書を口述していたからだ。その中でレーニンは、スターリンの権力増大をを非難し、その解任を要求した。(*36)//
 (12)のちにレーニンの遺書として知られるようになったこれらの断片的な覚書は、12月23日と1月4日の間に短い文章で口述筆記された。—そのうちいくつかは、イアフォンを両耳にはめて隣室に座っている速記者に電話で伝られた。
 レーニンは、厳格に秘密にするように命じ、自分かKrupskaya だけが開封できるように、封筒を密閉した。
 しかし、彼の年配の秘書たちはスターリンのためのスパイでもあり、彼らはその覚書をスターリンに見せた。(*37)
 この最後に書いた文書全体に、革命が明らかにした現実に対する圧倒的な絶望意識が溢れている。
 レーニンの乱れた文体、誇張した執拗な反復は、麻痺によって悪化してはいないがやはり苦悩している彼の心裡(mind)を露わにしていた。—おそらくは、過去40年間ずっと設定してきた単一の目標が、今や奇怪なほどに大きな(monstrous)間違いだったと判明したことに気づいたがゆえの、苦悩だった。
 この最後の文書全体を通じて、レーニンは、ロシアの文化的後進性に苦しめられている。
 まるで彼は、そしてたぶん自分に対してだけ、メンシェヴィキは正しかったこと、ブルジョアジーに取って代われるだけの教育がロシア民衆にはないためにロシアはまだ社会主義へと進む段階ではないこと、そして、国家による介入によってこの過程の進展を速める試みは結局は必然的に専制体制を生んでしまうこと、を認めているがごとくだった。
 これは、ボルシェヴィキはまだ「統治の仕方を学ぶ」必要があると自身が警告したとき、レーニンが意図したことだったのか?//
 ——
 ③へとつづく。

2362/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)-第16章第3節「レーニンの最後の闘い」①。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.793-5。一文ずつ改行。
 ——
 第16章・死と離別。
 第三節・レーニンの最後の闘い①。
 (1)レーニンの体調が悪い兆候が明らかになったのは1921年で、その頃彼は、頭痛と疲労を訴え始めた。
 医師たちは診断することができなかった。—身体上の衰弱の結果であるとともに、精神的な支障のそれでもあった。
 過去4年間、レーニンは、事実上は休みなく、毎日16時間働いていた。
 本当に休んだ期間だったのは、ケレンスキー政府から逃げていた1917年の夏と、1918年8月のカプランの暗殺未遂からの回復に必要とした数週間だけだった。
 1920-21年の危機は、レーニンの健康に対して多大の負担を課した。
 「レーニンの憤激」による肉体的兆候は、つまりKrupskaya がかつて叙述したような不眠と苛立ち、頭痛と極度の疲労は、労働者反対派や国土全体での反乱との激烈な闘いの間に、レーニンを悩ませつづけた。
 クロンシュタットの反乱者、労働者と農民、メンシェヴィキ、エスエル、聖職者たちは逮捕され、多数の者が射殺され、レーニンの憤激の犠牲となった。
 1921年夏までに、レーニンはもう一度勝利者として立ち現れた。
 だが、彼の精神的な消耗は、誰が見ても明瞭だった。
 記憶の喪失、会話の困難、奇妙な行動が見られた。
 何人かの医師は、レーニンの腕と首にまだあるカプランの二発の銃弾に毒性があったことに原因があると判断した(首の中の一つは1922年春に外科手術により除去された)。
 しかし、 別の医師たちは、脳性麻痺ではないかと疑った。
 この推測の正しさは、1922年5月25日にレーニンが最初の大きな脳発作に見舞われたことで、確認された。それによってレーニンは、右半身が事実上不随になり、しばらくの間は言葉を発せられなかった。
 その死まで世話をすることとなった妹のMaria Ul'ianova によると、兄のレーニンは、今や「自分の全てが終わった」と認識した。
 彼はスターリンに、自殺するために毒をくれ、と頼んだ。
 Krupskaya はスターリンにこう言った。「彼は生きたくない。これ以上生きることはできない」。
 彼女はレーニンにシアン化合物(cyanide)を与えようとしたのだったが、おじけづいた。それで二人で、「情緒の乏しい、しっかりして断固たる人物」であるスターリンに頼むことに決めた。
 スターリンはのちに死の床に同席することになるけれども、レーニンの死を助けるのを拒んだ。そして、政治局会議で、反対の一票を投じた。
 当分の間は、スターリンにとって、レーニンは生きている方が役に立った。//
 (2)レーニンが1922年夏に、Gorki にある国の家で回復している間、彼は自分の後継者問題に関心を寄せた。
 この問題の処理は、苦痛となる仕事に違いなかった。全ての独裁者がそうだろうように、自分自身がもつ権力に激しく執着し、明らかに他の誰も十分には継承できないと考えただろうからだ。
 レーニンが最後に記した文章は全て、自分を継承するのは集団的指導制がよいと考えた、ということを明らかにしている。
 彼はとくに、トロツキーとスターリンの間の個人的な対立を憂慮した。自分がいなくなればこの対立が党を分裂させかねない、ということが分かっていた。そして、両者の均衡をとることで、分裂を予防しようとした。//
 (3)レーニンの目から見ると、両者に長所があった。
 トロツキーは、輝かしい演説者であり、行政官だった。内戦に勝利する上で、彼ほどに力を発揮した者はいなかった。
 しかし、トロツキーの自負と傲慢さによって—過去にメンシェヴィキだった経歴やユダヤ人的な知的な風貌はもちろんのこと—、党内では人気がなかった(軍隊と労働者反対派の両方ともに、大部分は彼に個人的に反対だった)。
 トロツキーは、生来の「同志」ではなかった。
 彼はつねに、集団的指揮の場合の大佐であるよりも、自分の軍の将軍でありたかっただろう。
 党員各層内で彼を「外部者」たる地位の置いたのは、まさにこの点だった。
 トロツキーは、政治局の一員だったけれども、党の職位にあったことがなかった。
 彼は、稀にしか党の会合に出席しなかった。
 レーニンのトロツキーに対する気持ちを、Maria Ul'ianova はこう要約した。
 「彼はトロツキーに共感していなかった。—あまりに個性的すぎて、彼と集団的に仕事するのをきわめて困難にしている。
 しかし、彼は勤勉な働き手であり、才幹のある人物だ。V.I.〔レーニン〕にはそれが主要なことだったので、彼を候補に残そうとしつづけた。
 それが意味あることだったか否かは、別問題だ。」(*31)//
 (4)スターリンは、対照的に、最初は集団的指導制という必要性にははるかに適任であるように見えた。
 彼は内戦中は他の誰も望まない莫大な数の指令的業務をこなしていたので—彼は民族問題の人民委員、Rabkrin〔行政管理検査院〕の人民委員、革命軍事評議会の一員だった—、その結果として、すみやかに穏健で勤勉な中庸層の評価をかち得た。
 Sukhanov は1917年に、彼を「灰色でぼやりした」と描写した。
 全ての党指導層の者が、スターリンの潜在的な力とその力を行使したいという野心を、過少に評価するという間違いを冒した。そうした後援の結果として、彼は徐々に多くの地位を獲得するに至った。
 レーニンは、他の者たちとともに、スターリンの選抜について責任があった。
 なぜなら、レーニンは彼ほど不寛容な人物にしては、スターリンの多くの悪業については、党の統一を守るためにはスターリンが必要だと信じて、じつに顕著な寛容さを示したからだ。その悪業の中には、レーニン自身に対する粗暴さの増加もあった。
 このような理由で、スターリン自身が要求し、かつ明らかにカーメネフの支持を受けて、レーニンは1922年4月に、スターリンを初代の党総書記〔書記長〕に任命することに同意した。
 これはきわめて重大な指名だったと、のちに判ることになる。—まさにこれが、スターリンが権力を握るのを可能にした。
 だが、レーニンはこのことに気づくに至り、スターリンをその職から排除しようとした。しかし、そのときはもう遅すぎた。(*32)//
 (5)スターリンの権力の増大の鍵は、地方の党機構を彼が統御したことにあった。
 書記局の長および組織局での唯一の政治局員として、友人たちを昇進させ、対抗者たちを解任することができた。
 1922年だけの期間に、組織局と書記局によって1万人の地方官僚が任用された。これらのほとんどは、スターリンの推薦にもとづくものだった。
 この彼らは、1922-23年のトロツキーとの間の権力闘争の際に、スターリンの主要な支持者となる。
 スターリン自身と同様に、彼らの多くはきわめて貧しい出身基盤をもち、正規の教育をほとんど受けていなかった。
 彼らは、トロツキーのような知識人に不信を抱き、スターリンの知恵を信頼する方を選んだ。スターリンは、イデオロギーが問題であったときに、プロレタリアの団結とボルシェヴィキの紀律を単純に訴えかけたのだつた。//
 (6)レーニンは、モスクワによる「任用主義」によるスターリンの権力増大を、地方での反対派(例えば労働者反対派は1923年までウクライナとSamara に残っていた)の形成を抑止するものとして、受け入れた。
 スターリンは、書記長として、潜在的な悶着者を地方の党機構から根こそぎ排除することに多くの時間を使った。
 チェカ(1922年にGPUと改称)から毎月、地方の指導者たちの活動に関する報告書を受け取った。
 スターリンの個人的秘書のBoris Bazhanov は、パイプを吹かせながらクレムリンの広い仕事場を行ったり来たりする彼の癖を思い出す。スターリンはそして、あれこれの党書記を除外し、その者をあれこれの別の者に交替させよと、ぶっきらぼうに指示したものだった。
 政治局員を含めて、1922年の末までにスターリンの監視の下に置かれなかった党指導者はほとんど存在しなかった。
 レーニン主義正統を遵守するという外装をとりつつ、スターリンはこうして、自分の対抗者全員に関する情報を収集することができた。その中には、彼らが秘密のままにしておきたいだろう多くの事があり、スターリンはそれを自分に対する忠誠さを確保するために利用することができた。(*33)//
 (7)レーニンが脳発作から回復している間、ロシアは三頭制(triumvirate)で統治されていた—スターリン、カーメネフおよびジノヴィエフ。これは、1922年の夏の間に、反トロツキー連合として出現した。
 この三人は党の会合の前に集まって自分たちの戦略に合意し、票決の仕方を支持者たちに指令した。
 カーメネフは長い間、スターリンを好んでいた。二人は一緒にシベリアへの流刑に遭っていた。また、レーニンが十月のクー反対を理由としてカーメネフを党から追い出そうとしたとき、スターリンは彼の防御へと回った。
 カーメネフは党を指導したいとの野心があり、そのことで、より重大な脅威だと彼は見なしたトロツキーに対抗するスターリンの側に立つようになつた。
 トロツキーはカーメネフの義兄だったので、これは、親族よりも党派を優先することを意味した。
 ジノヴィエフについて言うと、彼はスターリンをほとんど好んではいなかった。
 しかし、トロツキーに対する嫌悪が大変なものだったので、敵を打倒するのに役立つかぎりで、悪魔と手を組んだのだろう。
 二人は、党の主導権の獲得に近づくために、凡庸な人間だと見なしたスターリンを利用していると思っていた。
 しかし、スターリンが彼らを利用していた。そして、いったんトロツキーを打倒すると、彼はこの二人の破滅に乗り出すことになる。//
 ——
 ②へつづく。

2356/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)-第16章第2節③。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.791-3。一行ずつ改行。
 ——
 第二節・征圧されない国③。
 (14)共産青年同盟とともに、赤軍は、退屈している村落の青年たちを組織する手段だつた。
 軍から戻った青年たちはししばしば、地方ソヴェトや古い農村地帯の秩序に対する共産青年同盟という十字軍で、指導的な役割を担った。
 兵役経験者の一グループは、「暗黒、宗教、戯言その他の悪に対する闘争」を組織する方法について議論すべく、村落で「大会」を開いた。
 軍隊生活に慣れて成長したので、この青年退役者たちは、村落での生活にすぐに退屈するようになった。彼らの一人が述べたように、村落には「どんな種類の文化もなかった」。
 彼らは村落の田舎じみた古い生活様式を軽侮し、完全に村落を去れないとすれば、都市的で軍隊的な表むきの装いを採用することで、何とかして離れようとした。
 ある資料が語るところによると、全ての「元兵士、地方活動家、共産青年同盟員は—すなわち自分を進歩的な人間だと考えている者たちは—、軍服またはそれに準じた制服を着て、動き回った」。
 こうした青年たちの多数は、のちに、スターリンの集団化運動に積極的な役割を果たした。
 彼らの多くは穀物徴発隊に加わった。この部隊は、1927年以降は村落との内戦を再開することになる。
 また、集団的農場を組織する「主導的グループ」を設置した。
 教会に対する新たな攻撃に参加した。
 農民の抵抗を鎮圧するのを助けた。
 そしてのちには、役人または新しい集団的農場での機械操作者になった。(*27)//
 (15)だがなおも、村落にはボルシェヴィキの力が完全には及ばなかった。
 これが、NEP の失敗の根本原因だった。
 ボルシェヴィキは、平和的な手段では農村地帯を統治することができず、農村に対する暴力的支配(terrorizing)に訴えた。これは最終的には、集団化となる。
 1918-21年に起きたことは、農民と国家の関係に深い傷痕を残した。
 農民と国家の間の内戦は終わったけれども、両者は1920年代の不安な軌跡の過程で、深い疑念と不信でもってお互いに向かい合った。
 農民は、消極的で日常的なかたちをとる抵抗—故意の遅延、習慣的に指示内容を理解しないこと、無気力と怠惰—を通じて、ボルシェヴィキを寄せつけないようにした。
 Volost の街区部分で党がソヴェトの支配権を握ったとき、農民たちは、こぞって諸ソヴェトから撤退し、村落共同体で政治的に再結集した。
 絶対主義的国家が再生したことで、国家または大地主(gentry)権力層—ある農民が述べた「税を徴収することにだけ関心をもつ」ーが占めるものとしてのvolost と、農民が支配する領域としての村落の間の古い分離が再び作り出された。 
 Volost の街区の周囲では、ボルシェヴィキの権威がなかった。
 ボルシェヴィキ党員のほとんど全てが、volost の街区に集中した。そこでは、できたばかりの国家機関を運営するために彼らが必要だった。
 ボルシェヴィキの地方党員はほとんど村落に居住せず、農民層との何らかの現実的な紐帯をほとんど結ばなかった。
 地方党員の15パーセントだけが、農作に従事した。10パーセント以下は、割り当てられた地域の出身者だった。
 地方の党会合について言うと、それは主として国家政策、国際的事件に、そして性道徳にすらかかわっていた。—だが、農業問題を扱うのはきわめて稀れだった。//
 (16)地方ソヴェトは、きわめて無力だった。
 制度上はvolost 管理権限に従属したけれども、その主要部分を占める農民の議員は、村落共同体の利益に反することを行なう気がなかった。地方ソヴェトの財源は、その共同体からの税収に依存していた。
 村民たちは実際にしばしば、うすのろかアルコール中毒者を、あるいは村落の年配者に借金がある貧しい農民を、ソヴェトへと選出した。
 これは農民たちの計略であり、1917年以前のvolost 行政について用いられたものでもあった。
 ボルシェヴィキは、いつもの不器用なやり方で、権力の集中、地方ソヴェトの数の削減でもって対応した。しかし、これは事態をいっそう悪くした。ソヴェトを一つも有しない大多数の村落を生んだからだ。
 1929年までに、平均的な一つの地方ソヴェトは、1500人の住民数を併せることとなる9つの村落を支配するのを試みた。
 電話を持たず、ときには交通手段もないソヴェトの職員たちは、力を発揮することができなかった。
 税を適切に徴集することができず、ソヴィエト諸法律を実施することもできなかった。
 地方の警察はきわめて弱小で、一人の警察官が平均して、18ないし20の村落にいる2万の人々について職責を負った。(*28)
 1917年以降の10年間、田園地帯の圧倒的大部分には、ソヴェト権力がまだ存在しなかった。//
 (17)NEPに関して書くボルシェヴィキには—ブハーリン(Bukharin)がその古典的な例だが—、農村地帯では豊かさが増大し、文化が発展して、この政治的問題を解決するだろう、という共通する想定があった。
 これは、間違いだった。
 NEP の小規模自作農制のもとでは、村落の政治文化は、顕著に「農民的」にすらなった。これは、国家と基本的に対立するもので、大量の情報宣伝も教育も、国家と農民の間の溝を埋めることのできる見込みがなかった。
 つまるところ、教育を受けた農民たちは一体なぜ、共産主義による統制または共産主義思想の浸透について、ますます懐疑的になったのか?
 農民層と国家の間の媒介者たる役割を唯一果たすことができただろう地方の知識人は、農民という大海の中のちっぽけな島にすぎなかった。彼ら自身は本能的に都市的文化に馴染んでおり、どう見ても農民から信用されなかった。(*29)
 NEPが長くつづくにつれて、農村地帯でのソヴィエト体制の野望とその無能さの間の分裂は大きくなった。
 ボルシェヴィキ活動家は、村落を都市部に従属させるための新しい内戦を開始しなければ、革命が変質して退化するだろうと、「富農(kulak)の泥沼に入り込むだろう」と、ますます恐れた。
 ここに、スターリンによる村落に対する内戦、集団化という内戦の根源があった。
 村落を統治する手段を持たず、ましてや村落を社会主義の方向へと変化させる手段を持たず、ボルシェヴィキは、村落自体の廃絶を追求することになった。//
 ——
 第2節、終わり。つづく第3節の表題は、<レーニンの最後の闘い>。

2353/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)-第16章第2節②。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.789-p.791。一行ずつ改行。
 ——
 第二節・征圧されない国②。
 (10)農村地帯の生活が全て暗黒だったのではない、というのは本当だ。
 NEP〔「新経済政策」〕のもとで、近代的世界の飾りつけが、ある程度は村落にも届き始めた。
 電気がやって来た。 
 Andreevskoe にすら1927年に初めて電線がつながり、Semelov の夢はついに実現した。
 レーニンは、ロシアの後進性に対する特効薬として、この新しい技術を激賞した。その有名な標語は、こうだった。
 「共産主義とは、ソヴェト権力プラス全国土の電化だ」。
 レーニンは電力を魔法の力と同一視したようだ。そして一度は、電灯は—またはその名を知られるようになった「小さなIlich灯」は—、農民小屋の聖像に取って代わるだろう、と予言した。
 ソヴィエトの情報宣伝活動では、電灯は近代化(enlightenment)のたいまつの象徴となった。暗黒が貧困と悪の暗喩であるように、電気の光は全ての良きものを喩えるものとなった。
 写真は、農民にとっては、光をもつ新しい電気の球体の、ほとんど宗教的不思議さをもつ驚愕物だった。
 レーニンが見たように、全国的な電気網は、離れた村落を都市の近代的文化へと統合するものだっただろう。
 後進国の農民ロシアは、工業の光によって暗黒から抜け出し、急速な経済成長、大衆的教育、手労働の退屈仕事からの解放、という輝かしい新しい未来を享有するだろう。
 これらの多くは、御伽噺(fantasy)だった。数世紀にわたる後進性は、たんに切り替えるだけでは克服できなかった。
 レーニンは、長い間夢想主義(utopianism)に批判的だったが、H. G. Wells が述べたように、「電気技師の夢想」の誘惑に屈して、ロシアに深く根ざして存在する社会問題を克服するために、技術を信頼した。(*23)//
 (11)1920年代には、農村地帯の文明化の別の兆候も見られた。
 病院、劇場、映画館、図書館が、田舎の地方に出現し始めた。
 NEP の時期には、広範囲で農業改良が見られ、農業革命と言えるまでに進んだ。
 地域共同体の農作を不効率にしていた狭い交雑した耕作〔帯状〕区画は、再整理されるか、または配分土地のほとんど1億ヘクタールにまで拡張された。
 西ヨーロッパで見られるような複数交替収穫が、全共同体土地のほぼ4分の1で導入された。
 化学肥料、選種、最新の道具類がますます農民に使われるようになった。
 日常の農作も近代化された。そして多くの農民が、野菜、亜麻、てん菜のような、市場向け栽培へと転換した。これらは、革命前には、もっぱら大土地所有者(gentry)の商業用農地でのみ栽培されていた。
 かつてこのような改革の先駆者だったSemenov は、地域の協同組合—都市部との商品交換用の組合と道具や家畜の購入時の信用供与目的の組合の双方—に喜んだことだろう。これらは、1920年代に、顕著に増加した。
 1927年までに、全ての農民保有土地の50パーセントが農業共同組合に帰属するものになった。
 このような改良の結果として、生産も着実に上昇した。
 1926年までに、農業生産は1913年の時点に再び達した。そしてつぎの2年間にそれを上回った。
 1920年代半ばの収穫高は、1900年代のそれよりも17パーセント多かった。ロシア農業のいわゆる「黄金時代」だ。(*24)//
 (12)教育の点でも、現実に前進があった。1900年代の傾向を再び取り戻して、1920年代にはいっそう多くの村落の学校が建設された。
 1926年までに、ソヴィエトの全人口の51パーセントは読み書きの能力があったと考えられている(1917年の43パーセント、1907年の35パーセントと比較せよ)。
 村落の中で最も向上したのは、若者たちだった。農民の息子たちはその20歳代初期に、彼らの父親の世代よりも2倍以上の人数が、読み書きできたと見られる。
 また一方で、同じ年代の若い農村女性たちは、彼女たちの母親の世代よりも5倍以上、読み書き能力があったようだ。
 こうした世代間格差の拡大は、人口動態上のものでもあり、文化的なものでもあった。
 1926年までに、農村人口の半数以上が20歳代以下になり、3分の2以上が30歳代以下になった。
 この者たちはたいてい、読み書きができた。
 彼らの多くは、兵役を通じて村落の外の世界を知った。
 長老農民たちの権威に抵抗し、稀にしか教会へ行かず、強い個人主義的感情を示した。この感情が追い求めたのは保有土地の分割で、1920年代の間に急速に進んだ。農民の息子たちが父親から離れて独立し、自分たちの土地保有を開始したのだ。
 農民の息子たちはまた、一族の長としての父親の地位を弱めて、農場の経営についての発言権をいっそう強めるようになった。(*25)
 ロシアの村落は、ボルシェヴィキが間違って考えたように、富者と貧者にさほどに分裂していたのではなかった。むしろ、父親たちとその息子たちの間に分裂があった。//
 (13)世代間の対立があったがゆえに、ボルシェヴィキは、落ち着かない若者たちの組織化を通じて、田園地帯への影響力を築くことができた。
 共産青年同盟(Komsomol)は、田園地域で、党以上に急速に拡大した。—1922年の8万人から、1925年までに優に50万人以上、地方のボルシェヴィキ党員数の3倍までに。
 共産青年同盟は、退屈した十代の村落の若者たちの社交クラブだった。
 この同盟は、教会と古い長老支配秩序に反抗する十字軍へと若者を組織した。
 その中から党に加入させることを通じて、野心的な青年たちに、自らを上昇させ、遅れた村落から離れることのできる可能性をも提供した。彼らの多くは遅れた村落を侮蔑して、都市の世界の輝く光に憧れていた。
 1920年代半ばでのVoronezh の最も農業的な地区の一つの共産青年同盟に関する調査によると、その構成員の85パーセントは農民家庭の出身だった。
 そして、わずか3パーセントだけが農業に従事したいと言った。
 1923年に、民族文化学のある学生は、Semelov がいたAndreevskoe から遠くないVolokolamsk にある村の同世代の者の考え方を、つぎのように概括した。/
 これは、若者たちが年配者に関して語ったことだ。
 「古い人々は馬鹿だ。
 彼らは働いて疲れるだけで、何も得るものがない。
 鋤で耕すこと以外に何も知らない。—これは全てを知らないということだ。…
 農場を放棄する。農作は利益を生まず、それに費やす労働に値しない。…」
 (若者たちは、)逃げ出したい。できる限り早く逃げ出したい。
 逃亡できるだけで、どこへでもよい。—工場、軍隊、大学、あるいは役人になる。—どこであっても、問題ではない。(*26)/
 Semenov とKanatchikov は、30年前に同じ考え方を記していた。
 村落がそこにいる若者たちによって拒絶されていること、これはボルシェヴィキが党員を獲得する、恒常的な源泉的基盤となったように見える。//
 ——
 第2節②、終わり。

2352/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)-第16章第2節①。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。次の章へ。p.786-9。一行ずつ改行。番号付き注記は箇所だけ記して、訳さない。
 —— 
 第16章/死と離別。
 第二節・征圧されない国①。
 (1)革命の4年間は、Andreevskoe の村民たちを再統合しなかった。
 村民は、二つの古い対立陣営に分かれたままだった。
 一方は、進歩的農民で改革者のSergei Semenov の側に立った。この人物は、近代世界の装飾物を貧しくて惨めな農民たちにもたらすことを夢見ていた。
 他方は、体格が良くて大酒飲みの老農民のGrigorii Maliutin の側に立った。この人物は、古い信仰者であり、全ての変化に反対し、この30年間の最良部分のためにSemenov の改革に抵抗した。//
 (2)彼らの間の確執は、1890年代に始まった。Maliutin の娘のVera が私生児を死亡させ、近くの林に埋葬したときだった。
 警察が取調べのためにやって来た。金持ちのMaliutin は、彼らを買収せざるを得なかった。
 彼は、Semenov が警察に知らせたのだと非難し、村から排除すべく脅迫する運動を開始した。—Semenov の小屋を焼け放ち、家畜を殺戮し、黒魔術師だと非難した。
 Maliutin はついに1905年に、その狙いを達成した。その年にSemenov はAndreevskoe に農民同盟の支部を設立したのだが、その地方の司法部の目からすると、彼は危険な革命家となった。そして、Semenov は国外へ追放された。
 しかし、3年後に彼は、Stolypin の土地改革の先駆者としてAndreevskoe に戻って来た。 
 Semenov は、西欧で学んだ先進的な農業方法を、村落から分かれた私的区画に導入しようとした。
 何人かの若者や進歩的農民たちが、彼の囲い込み運動に加わった。
 だが、Maliutin は再び腹を立てて—彼は村落共同体の実力者だった—、村落の長老たちと一緒になって、首尾よく改革を阻止することができた。 
 Semenov は1916年に、友人の一人にこう書き送った。「より良い生活を求める私の夢は、頑固で嫉妬深い男によって壊された」。//
 (3)革命は、Semenov に決定的に有利に天秤を傾けた。
 Maliutin が依存していたかつての権力構造、つまりvolostの長老、地方警察、大地主たちの権力構造は、一夜にして崩れ落ちた。
 若者や進歩的農民たちの意見が、村落内でより強くなった。一方で、革命を良いものとは全く思わなかったMaliutin のような伝統的指導者の力は、ますます無視された。 
 Semenov は改革の旗手として、村落集会の支配的人物の一人となった。
 彼はつねに、かつての伝統的秩序や教会の影響力に反対して発言した。
 1917年に彼は、Andreevskoe での土地分割に協力し、Maliutin の農地の規模を半分に削減した。 
 Semenov は、地区ソヴェトの土地関係部署と地方協同組合の両方で活動した。最新の道具の購入、市場用野菜栽培のための諸組合を設立し、日常的な農業や亜麻栽培の方法を改良した。農学に関する小冊子を書き、研修を行った。また、アルコール中毒と闘う運動を展開し、村に学校と図書館を建てた。さらに、近くのBukholowo 街区に学校教師の友人と設置した「人民劇場」用の戯曲をも自ら執筆した。
 彼は、Volokolamsk の村々をモスクワ・ソヴェトに繋がる電信および電話線で覆いつくす計画を練り上げすらした。
 Semenov はTolstoy主義の信条を持っていたので村落やvolost ソヴェトでの役職を引き受けるのを固辞したけれども、ある地方人が述べたように、
「Andreevskoe のみならずその地方の農民たちは、彼を自分たちの指導者でかつ代表者だと見なした」。//
 (4)Maliutin とその仲間たちは、その間、Semenovの全ての動きに反対しつづけた。
 彼らは、Semenovは共産主義者だと断言した。—そして、村落での彼の改革は村落に新体制の全ての邪悪さを持ち込むたけだ、と主張した。
 地方の聖職者は、彼は黒魔術師だと非難し、彼の「無神論」は悪魔につながると警告した。
 Volokolamsk の正教執事(Archdeacon)Tsvetkov も非難に加わり、Semenov は反キリスト者だと主張した。
 Semenov が1919年に設立した村落の新しい学校は、とくに彼らを怒らせた。木材で建築されていたが、それらは国有化されるまではMaliutin と教会の所有物だった森林から伐採されたものだったからだ。
 さらに、その学校には宗教教育が全くなかった。
 教室の壁の上の十字の場所には、義務的に、レーニンの肖像画があった。
 ある夜に、Semenov の小屋が燃やされた。別の夜には、彼の農具は奪われ、湖に沈められた。
 名前を明かさないままの非難文書が地方チェカに送られたが、それらは、Semenov は「反革命」で「ドイツのスパイ」と主張するものだった。
 Semenov はしばしば、行動に関して答えるようにチェカに拘引された。彼が少しだけ知っているモスクワ・ソヴェトの議長のカーメネフにちょっと電話するだけで、彼を釈放するには十分だったけれども。
 ロシアに多種の畜牛伝染病が広がった1921年の間、Maliutin とその仲間たちは、村落の家畜の死の原因はSemenov の「悪魔の改革」にあると追及した。
 彼は「黒魔術で畜牛を病気に罹らせた」とすらも、主張された。
 ロシアじゅうで同じ病気で畜牛が死んでいるのを知っていたけれども、非難者たちは自分たちの損失に関する説明を欲しがった。そして、Semenov に対してますます疑念を抱いた者がいた。//
 (5)Maliutin は最終的には、古くからの対抗相手の殺害を組織した。
 1922年12月15日の夜、Semenov がBukholovo へと歩いていたとき、彼はMaliutin の2人の息子を含む数人の男たちに襲撃された。男たちは、村落の端にある姉のVeraの家から突然に現れた。
 彼らの一人が、Semenov の背中を銃撃した。
 Semenov が振り向いて攻撃者を見たとき、男たちはさらに数発を発射した。彼が死んで地上に横たわったとき、男たちは、彼の顔に息を吹きかけた。
 彼らは、Semenov の胸に、赤い血で十字の印を切った。//
 (6)これは、卑劣な殺人だった。
 Semenov は対抗相手につねに公正に向かい合ってきて、その立場について公平だった。
 しかし、対抗相手たちは彼に対して悪意をもち、背中を射撃した。
 殺害者たちがのちに逮捕されたとき、彼らは、Semenov は「悪魔のために働いていた」、畜牛伝染病を呪文で呼び出した、と主張した。
 彼らはまた、Grigorii Maliutin とArchdeaconのTsvetkov にSemelov を殺すように命じられた、とも告白した。—後者が言ったように、「神の名において」殺した、と。
 彼らは全員が共謀殺人で有罪となり、各々が極北での重労働10年の判決を受けた。//
 (7)Semenov は、Andreevskoe にある愛した自分の土地区画に埋葬された。彼が生き、この数年間をそのために闘った土の一部になった。
 周囲の諸村落から数千の人々が、葬礼に参加した。その中には、彼が個人的にも教えた、数百人の生徒たちもいた。
 友人のBelousov は、弔辞でこう語った。「その働きと教えを人々が甚だしく必要とするようになった、まさにそのときに、こんなに貴重な生命を失うのは悲劇だ」。
 Semelov の功績を追悼して、村の学校には彼の名が付けられた。また、彼の農場は国家によって維持され、彼の子息が経営した。それはモデル農場として、農民たちに最新の農業革新による利益を示すものとなった。
 Semelov は大いに感動したことだろう。彼が生涯をかけて夢見たものだったのだから。(*21)//
 (8)党のプロパガンダに利用する機会が見逃されるはずはなく、<プラウダ>は、この小さな地方的物語に焦点を当てた。 
 Maliutin は悪の「kulak(富農)」として、Semelovは貧しいが政治的意識のある農民として描かれた。
 これはもちろん全て馬鹿げていた。—Semelov は「kulak」のMaliutinより決して貧しくなく、いずれにせよ、二人を分かつのは階級ではなかった。
 殺人事件が本当に示したのは、モスクワから100マイルも離れていない所に、Andreevskoe のような近代文明がまだ到達していない村落が存在した、ということだ。
 人々は魔術を信じ、まるで中世に閉じ込められているような生活をしていた。
 ボルシェヴィキはまだ、この見知らぬ国を征圧していなかった。
 外国にいる軍隊のように、誤解してその国に見入った。
 アマゾンの森林の探検者のごとくモスクワの周辺へと向かった初期の民族文化学者たち(ethnography)は、つぎのことに気づいた。ロシア人たちの多くは、地球は平らだと、天使たちは雲の中で生活していると、太陽は地球を回っていると、まだ信じている。
 彼らは、時代遅れの長老支配様式に浸された不思議な村落を発見した。それは、月とは異なる宗教祭日や季節をまだ規準として時間が区切られる世界であり、異宗派的儀礼と迷信、妻叩き、リンチ、拳骨での決闘と数日間続く飲酒、といったもので充ちた世界だった。//
 (9)ボルシェヴィキは、このような世界を理解することができなかった。—マルクスは、黒魔術について何も語らなかった。ましてや、統治することなど。
 ボルシェヴィキによる社会基盤作り(infrastructure)が及んだのは、volost の町部分にまでだった。
 村落のほとんどは、依然として自分たちの共同体によって統治された。共同体の小土地所有(smallholding)の「農民」体質は、革命と内戦によってむしろ大きく強化された。
 実際には、この数年間にロシアは全体として、はるかに「農民」的になった。
 革命によって、大都市の住民は大きく解体し、工業は事実上破壊され、地方的文明の表層は剥ぎ取られた。
 小土地所有農民層が、残されたものの全てだった。
 多くのボルシェヴィキが、農民大衆によって威嚇されていると感じたのは、何ら不思議ではない。
 「野蛮な農民たち」に反抗心をもっていたGorky は、ボルシェヴィキの恐怖心を表現した。ベルリンへと発つ直前に、外国からの訪問者にこう言った。
 「農民は、全くもってその数の力によって、ロシアの主人になるだろう。
 そしてそれは、我々の将来にとっての大厄災だろう。」(*22)
 農民に対するこの恐怖は、1920年代の、解消されない緊張の原因だった。—これが、否応なく、集団化という悲劇へとつながった。//
 ——
 第二節①、終わり。

2345/V·シャラモフ・コルィマ·ストーリー(2018)—序文③。

 Varlam Shalamov, Kolyma Stories, translated by Donald Rayfield(The New York Review of Books, 2018)の、(ロシア語から英語への)翻訳者・Donald Rayfieldよる序文の試訳のつづき。
 ①・②で掲載した部分を「第1節」とし、以下を「第2節」とする。大きな区切りがあるためで、数字や表題は原書にはない。
 ——
 第2節。
 (1)1988-89年にペレストロイカがしっかりと確立されると、Sirotinskaya はシャラモフの原稿を準備して—彼は能筆で、解読に問題はなかった—、それの出版に取りかかった。
 しかしながら、編集は加えらなかった。そして読者は、後半に主題、出来事、登場人物が何度も出てきていて、別々の章の中の名前に矛盾点や類似点すらあることに、気づくことになっただろう。
 それにもかかわらず、この作品のもつ容赦なき力強さは、ナツィとソヴィエトのいずれであれ、20世紀の恐怖の記録としてこの作品を独特なものにしている。著者は、自分の誤った判断を含めていかなる緩和または穏和化も拒否しており、見た光景であれ聞いた言葉であれ、類稀な記憶力を示していた。
 収容所で彼はたまには親切にされたにもかかわらず、そこには、慰安となるものはなく、神または人間性に対する信頼もない。
 ただ動物たちだけが、礼節をもって振る舞う。—仲間が逃げられるように狩人の銃弾を受ける雄熊やアトリ鳥、受刑者を信頼して監視兵に対して怒って唸るハスキー犬、あるいは、受刑者が魚を掴むのを助ける猫。//
 (2)作品がもつ芸術的な力はさて措き、シャラモフの物語は、衝撃的な証言書だ。
 多数の例のうちの一つは、1942年から1945年にかけて、アメリカの不動産業者がコルィマに、大量の墓所を掘り返すためにブルドーザーを、金鉱石を運ぶためにトラックを、奴隷たちが使う用に鋤とつるはしを、監視兵たち用に食糧と衣服を送った、というものだ。
 シャラモフの仲間の一人が述べるように、コルィマは、「オーヴンのないアウシュヴィッツ」だった。//
 (3)シャラモフは、何らかの形態で、共謀罪で訴追されることがあり得た。彼自身が、スターリン主義の継承者として、容赦なく残虐なことを犯した、内戦中の赤軍の英雄たちに対する敬愛の念を示していた。
 彼の長編の一つである<金メダル>は、社会革命党〔エスエル〕のテロリストのNadia Klimova を、ほとんど神格化している。
 シャラモフが被った苦しみにもかかわらず、彼は、理想に燃えて、自分の死をもって償う心構えで行なったものである場合は、革命の殺人者たちを決して非難しなかった。
 また、強制労働のシステムに協力する職を決して引き受けない、と公言したけれども、救急医療員にいったんなるや、<永久凍土>で彼が詳述しているように、彼が病院の床磨きに行くのを許さず、鉱山での重労働へと送り出した青年の自殺について責任を感じた。//
 ——
 第2節がつづく。

2339/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節⑧。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.784-5。番号付き注記は箇所だけ記す。
 —— 
 第16章/死と離別。
 第一節・革命の孤児⑧。
 (21)ロシアの偉大な二人の詩人、Alexander Blok とNikolai Gumilev が死んだことは、Gorky にとって最後のとどめになった。
 Blok は、1920年にリューマチ熱に襲われた。それは、暖房のない居所と飢えの中で内戦を経験した結果だった。
 しかし、彼の本当の苦悩は、革命の結果についての絶望と幻滅だった。
 彼は最初は、腐敗した旧ヨーロッパ世界を浄化するものとして、革命のもつ破壊的暴力を歓迎した。腐った旧世界から、新しく純粋なアジア的世界—the Scythians—が出現するだろう、と。
 彼の1918年の叙事詩<十二>は、旧世界を壊して新世界を創ろうと、前の見えない吹雪をくぐり抜けて「革命と足並みをそろえて」行進する12人の赤衛隊員を描写していた。
 先頭には、白薔薇で縁取られた赤旗を掲げ、雪上を軽やかに歩む、イエス・キリストがいた。
 Blok はのちにこう記した。この劇的な詩を作っている間、「私は大きな物音を周りに聞きつづけた。—文字通り、私の耳で聞いたことを意味する。多数の音からなる物音をだ(たぶん旧世界が粉々に崩れていく物音だった)」。
 Blok はしばらくの間は、ボルシェヴィキのメシア的性格を信じつづけた。
 しかし、1921年までには、幻滅するに至った。
 三年間、詩作をしなかった。
 親友であるGorky は、彼を「迷子」に喩えた。
 Blok は、Gorky に死に関する質問をして閉口させ、「人間の叡智への信頼」を全て捨て去った、と言った。
 Kornei Chukovsky は、1921年5月の詩作朗読会でのBlok の様子を、こう思い出す。
 「私は彼と一緒に、舞台裏に座っていた。
 舞台上で『弁士』か誰かが…聴衆に向かって、陽気に叫んだ、詩人としてのBlok はもう死んでいる、と。…
 彼は私に寄りかかって、言った。『本当だ。彼は真実を語っている。私は死んでいる』」。 
 Chukovsky が、なぜあれから詩を書かなかったのかと訊ねたとき、彼はこう答えた。「全ての音が止まった。きみは、もはやどんな音もないことを知らないのか?」
 その月に、Blok は死の床に就いた。
 彼の医師は、外国に運んで特別の療養所に入れる必要があると強く主張した。
 5月29日にGorky は、彼に代わってLunacharsky に手紙を書いた。
 「Blok は、ロシアの現存する最も優れた詩人だ。
 彼が外国に行くのをきみが禁止するならば、彼は死ぬ。そして、きみとその仲間たちには、彼の死についての責任があるだろう。」
 数週の間、Gorky は、旅券の発行を懇願しつづけた。
 Lunacharsky は同意して、7月11日に、党中央委員会に書き送った。
 しかし、何もなされなかった。
 そしてようやく8月10日に、旅券が下りた。
 一日遅かった。一夜前に、詩人は死んでいた。(*18)//
 (22)Blok が絶望と遺棄によって死んだとすれば、わずか2週間後のGumilev の死の原因は、はるかに分かりやすいものだった。 
 Gumilev はペトログラード・チェカに逮捕され、数日間拘禁され、そして、審判なくして射殺された。
 彼は、君主主義者の陰謀に加担したとして訴追されていた。—彼は情緒的には君主主義だったけれども、ほとんど確実に虚偽の嫌疑。
 Blok の葬儀の際に形成された知識人の一委員会は、彼の釈放を訴えた。
 科学アカデミーは、審判法廷に彼が出頭するのを保証すると申し出た。
 Gorky は間に入って、レーニンと会いにモスクワへと急いで行くよう求められた。
 しかし、釈放せよとの命令書を持ってGorky がペテログラードに帰る前に、Gumilev はすでに射殺されていた。
 Gorky は動転して、せきをして吐血した。
 Zamyatin は、「Gumilev が射殺された夜ほどに怒って」いた彼を見たことがなかった、と語った。(*19)//
 (23)Gumilev は、ボルシェヴィキによって処刑された最初の著名なロシアの詩人となった。
 彼とBlok の二人の死は、Gorky にとって、そして知識人層全体にとって、革命の死を象徴していた。
 数百の人々が—Zamyatin の言葉では「ペテログラードの著作界に残っていた全員」が—、Blok の葬儀に参列した。
 そのとき少女にすぎなかったNina Berberowa は、思い出す。Blok の死が伝えられたとき、「一度も経験したことがなかった、自分が突如として明瞭に孤児になった、…最後がやって来た、喪失した」という感情に襲われた、と。
 Gumilev の最初の妻だったAnna Akhmatova は、Blok の葬儀の際に、詩人のためばかりではなく、一つの時代の理想のために、同じように死を悼んだ。
 「銀色の棺に入れて、彼を運ぶ。
  Alexander、われわれの純真な白鳥よ。
  私たちの太陽が、苦悩のうちに消え失せた。」(*20)/
 二ヶ月のち、自分の病気に苦しみながら、Gorky はロシアを去った。見たところでは、永遠に。//
 ——
 第一節⑧、そして第一節全体が終わり。

2338/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節⑦。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.782-4。番号付き注記は箇所だけ記す。
 —— 
 第16章/死と離別。
 第一節・革命の孤児⑦。
 (18)Nina Berberova によると、Gorky がヨーロッパに来たのは、ロシアで起きたことに怒ったのが原因ではなく、彼がロシアで見て体験したことで深く動揺したからだった。
 彼女は、夫である詩人のKhodasevichとGorky が交わした会話を、こう思い出す。
 「二人は1920年(の異なるとき)に、子どもたちの家へ、たぶん十代前半者用の矯正施設へ行った。
 ほとんんどが12歳から15歳の少女で、梅毒に感染しており、自分の家がなかった。
 10人のうち9人は窃盗者で、半分は妊娠していた。 
 Khodasevich は、…憐憫と嫌悪をもって思い出していた。ぼろ布とシラミの少女たちが自分にまとわりつき、階段で自分の服を脱がそうとし、彼女たちの破れたスカートを頭の上にまでまくり上げて、自分に向かって卑猥な言葉を叫んだ、と。
 彼はやっとのことで、彼女たちから引き離れた。
 Gorky も類似の体験をしていた。彼がそれを語り始めたとき、恐怖が彼の顔に現れ、彼は顎をしっかりと握って、突然に黙り込んだ。
 その施設の訪問が彼に衝撃を与えたことは明瞭だった。—おそらく、その前に受けていた浮浪児の印象以上のもので、彼の初期の作品が主題を得ていた奥深い所での恐怖だった。
 おそらくいまヨーロッパで、彼はそれを受け入れるのを怖れている心の傷を、ある程度は癒している。…彼は自分に訊ねている、自分自身だけに。すなわち、意味があったのか?」/
 Gorky は、自分自身が革命の孤児だった。
 革命への彼の希望の全ては—自分が立場を明確にしていた希望は—、この4年間に捨て去られた。
 建設的な文化の力が生まれるのではなく、革命は、ロシアの文明全体を事実上破壊した。
 人間を自由にしたのではなく、革命は人間の隷従化をもたらしたにすぎなかった。
 人間を精神的に改革したのではなく、革命は精神的な退廃を生み出した。
 Gorky は、深く幻滅するようになった。
 彼は1921年に、自分について「厭世的だ」と叙述した。
 彼は、レーニンのロシアの現実と、自分の人間中心主義的で民主主義的な社会主義とを調和させることができなかった。
 善をなし、改良していくという望みをもって、体制のしくじりに「聴こえない耳を向ける」ということは、もはやできなかった。
 彼の努力は全て、無に帰した。
 自分の理想がロシアで捨て去られたとすれば、彼に残されたのは、ロシアを捨て去ること以外になかった。(*15)//
 (19)ロシアを出て国外に移住しようとGorky が決心する前には、山のようなボルシェヴィキとの対立があった。
 過去4年間の愚かなテロル、知識人の破壊、メンシェヴィキとエスエルに対する迫害、クロンシュタット反乱の粉砕、飢饉に対するボルシェヴィキの冷酷な態度。—これら全てが、Gorky を新体制に対する痛烈な敵に変えた。
 Gorky の憤怒の多くは、自分が住むペテログラードの党指導者であるジノヴィエフに向けられた。
 ジノヴィエフはGorky を好まず、彼の住まいを「反革命の巣」と見ていた。そして、彼を継続的な監視のもとに置いた。Gorky の手紙類は開封され、彼の家は絶えず捜索された。また、彼の親しい友人たちは逮捕すると脅かされた。
 赤色テロルの時期のGorky の最も激しい怒りの手紙は、ジノヴィエフに宛てられていた。
 彼はその一つで、ジノヴィエフが絶えず逮捕していることで、「人々はソヴィエト権力のみならず、—とくに—個人としてのきみを憎悪するようになってきた」、と主張した。
 だが、ジノヴィエフの背後にはレーニン自身が立っていることが、すみやかに明瞭になった。
 ボルシェヴィキ指導者は、Gorky の非難に関して手厳しかった。
 1919年7月の脅迫的手紙で、彼〔レーニン〕は、こう書いた。「作家の『精神状態』の全体が、ペトログラードで彼を『取り囲んでいる』『敵愾心をもつブルジョア知識人たち』によって『完全な病気』になっている」。
 レーニンはこう威嚇した。「私の助言をきみに押しつけたくはない。だが、きみの環境を、きみの周り、きみの住まい、きみの職業を、すみやかに変えよ、さもないと人生はきみを永遠に失望させるだろう、と言わざるをえない」。(*16)//
 (20)Gorky のレーニンに対する幻滅は、1920年の間に深さを増した。
 ボルシェヴィキ指導者はGorky の出版所の<世界文学>編集の独立性に反対し、財政的支援を打ち切ると脅かした。
 Gorky は、Lunacharsky に激しく抗議した。
 彼は正しく、レーニンは全ての出版を国家の統制のもとに置こうとしているのではないかと疑っていた。—彼がひどく嫌悪したこと。そして、進行中の企画を続ける唯一の方法は外国で編集を行うことだと主張(または威嚇)した。
 しかし、容赦ないレーニンの監視が続いて、人民委員〔Lunacharsky〕はほとんど何もすることができなかった。
 Gorky の戯曲<Don Quixote>で、Lunacharskyは、彼自身(Don Baltazar)、Gorky(Don Quixote)とレーニン(Don Rodrigo)の間の三人の確執関係を演じた。
 これには、Don Baltazar のDon Quixote に対する別れの言葉がある。
 Gorky とレーニンの間の衝突を要約してもいる。—革命の理想と残酷な「必然性」との間の衝突。/
 「背後にある陰謀を打ち破っていなければ、我々は軍を破滅させていただろう。
 おお、ドン・キホーテよ!! おまえの罪を重くするのを望んでいない。だがここで、おまえは致命的な役割を果たした。
 つぎのことを隠そうとは思わない。容赦なきRodrigo の脳裡に、でしゃばって出てきて、厳格かつ複雑で責任で充ち溢れた生活の中に人類愛を持ち込む全てのお人好しに対する教訓として、おまえの上に威嚇の法の手を振りおろす、という考えが浮かんだのだ。」(*17)//
 ——
 ⑧へとつづく。

2336/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節⑤。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.779-p.781。番号付き注記は箇所だけ記す。
 —— 
 第16章/死と離別。
 第一節・革命の孤児⑤。
 (13)活動が最もさかんだった1922年夏頃まで、ARAは毎日1000万人の人々に食事を供給した。 
 ARAはまた、医薬品、衣料、道具、種子を大量に送った。この活動によって、1922年と1923年の連続した大豊作が可能になり、ロシアはやっと飢饉から脱することができた。
 ARAが使った全費用は、6100万ドルだった。
 この援助を受けたボルシェヴィキには、感謝の気持ちが驚くべきほどになかった。そのような寛大な贈り物に対して、恥ずかしくも難癖がつけられてはならなかったにもかかわらず。
 ボルシェヴィキはARAを、スパイ行為をした、ソヴィエト体制の評判を落とし、打倒しようとしたと非難した。(+)
 (+原書注記—Hoover の動機は完全には明瞭でない。彼は実際には、ソヴィエト体制に対する敵愾心を強くして、外交的効果とロシアでの政治的影響を狙って飢饉救済を利用しようとしたのかもしれない。しかし、Hoover の側にある純粋に人道的な関心を否定することはできない。また、ボルシェヴィキによる非難に値するものでもない。Weissmam,<Herbert>第2章を見よ。)
 ボルシェヴィキはまた、運搬車を捜索し、列車を利用させず、供給物を奪い、さらには救援労働者たちを逮捕すらして、ARAの活動を妨害した。
 Hoover が提示していた二条件—干渉されない自由とアメリカ人全員の牢獄からの解放—は、こうしていずれも、厚かましくもボルシェヴィキによって破られた。
 さらにアメリカで憤激が起きたのは、西側からの食糧援助を受け取っていたのと同時に、ソヴィエト政府は、数百万トンの自分たちが持つ穀物を、外国に売るために輸出していることが明らかになったときだった。
 ソヴィエト政府は、質問されて、外国から工業用および農業用備品を購入するためには輸出が必要だと主張した。
 しかし、この醜聞によって、ARAはロシアで追加のアメリカ合衆国基金を募るのは不可能になり、1923年6月に、その活動を停止した。(*11)//
 (14)Gorky にとって、ソヴィエト政府が飢饉を処理したやり方は、恥ずかしい、かつ同時に当惑させるものだった。
 これが大きな要因となって、彼はロシアを去ろうと決心した。
 飢饉の最悪の事態が過ぎたとき、ボルシェヴィキは、アメリカ人に対して形式的な謝意を示す短い文書を送った。
 しかし、Gorky は、自分の謝意をもっと大っぴらに表現した。/
 「人間の苦悩の歴史の中で、ロシア人が体験している事態ほどに人間の魂にとって辛いものを、私は知らない。また、実際の人道主義の歴史の中で、大きさと寛容さの点であなた方が現実に成し遂げた援助と比較できるものを、私は思いつかない。
 あなた方の助けは、比類なく巨大な功績であり、最高の栄誉に値するものとして、歴史に残るだろう。それはあなた方が死から救った数百万のロシア人民の記憶に長くとどまり続けるだろう。
 アメリカの人々は、慈愛と憐れみを人類が大きく必要としているときに、人々の間に友愛の夢を蘇生させてくれた。」(*12)
 革命の最も悲しい遺産の一つは、全ての都市の路上に放浪していた、膨大な数の孤児たちだった。
 1922年頃、700万の子どもたちが、駅舎、放棄された家屋、建築現場、ごみ捨て場、地下室、下水溝その他の汚い穴蔵に、雑多に住んでいた。
 ぼろ布を着た裸足のこうした子どもたちの両親は、ともに死んでいたか、彼らを遺棄していた。この子どもたちは、ロシアの社会的な破壊の象徴だった。
 家庭すらが、破滅していた。//
 ——
 ⑥へとつづく。

2331/Orlando Figes·人民の悲劇-ロシア革命(1996)・第16章第1節②。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).=オーランド·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命(London, 1996/2017)。
 試訳のつづき。p.774-6。注記の箇所だけ記して、その内容(ほとんど参照文献の指示)は省略する。
 **
 第16章・死と離別。
 第一節・革命の孤児。 
 (4) 死はありふれたことだったので、人々はそれに慣れてきた。
 路上の死体を見ても、もう注意を惹かなかった。
 殺人はほんの僅かの動機から起きた。—数ルーブルの窃盗、行列飛ばしを原因として。さらには、たんに殺人者の娯楽のために。
 7年間の戦争によって、人々は残虐になり、他人の苦痛に対して無感覚になった。
 1921年、Gorky は、赤軍出身の兵士たちに尋ねた。「人を殺すときには落ち着かないのでないか?」
 「いや、そんなことはない。『相手は武器をもち、自分も持っている。そして、喧嘩になったとする。お互いに殺し合って、土地が広くなるなら、いったいそれがどうだというのだ。』」
 第一次大戦中にヨーロッパでやはり戦ったある兵士は、Gorky に、外国人を殺すよりはロシア人を殺す方が簡単だ、とすら言った。
 「我々は民衆の数が多く、経済は貧しい。村が一つ焼かれるとして、なんの損失か?
 放っておいても、村は自然に崩れ落ちるだろう。」
 生命の価値は安くなり、人々は互いに殺し合うことについて、ほとんど何とも思わなかった。あるいは、その者たちの名で数百万人を殺している他人についてすら。
 ある農民が、1921年にウラルで仕事をしていた科学的調査団に対して尋ねた。
 「きみたちは教養がある。おれに何が起こるのか、教えてくれ。
 Bashkir 人がおれの雌牛を殺した。それで、<もちろん>、そのBashkir 人を殺し、彼の家族から雌牛を奪ってやった。
 教えてくれ。雌牛を盗んだとして、おれは罰せられるのか?」
 調査団が、その男を殺したことで罰せられるとは思わなかったのか、と尋ねた。農民はこう答えた。
 「全く。今では人間は安い。」//
 (5)別の物語が伝えられている。—何の明白な理由もなく自分の妻を殺した夫についての話だ。
 その殺人者の説明は、「彼女に飽きた。それで終わりだ」というものだった。
 まるでこの数年間の暴力が、人間関係を覆っていた薄い膜を引き剥がして、人間の原始的な動物的本能を曝け出したごとくだった。
 人々は血の匂いを好み始めた。
 サディスティックな殺戮方法の嗜好が発展した。—これは、Gorky が専門とする主題だった。/
 「シベリアの農民は穴を掘って、赤軍受刑者を逆さまに入れて、膝から上を地上に出した。そして、その穴を土で埋めて、犠牲者の足が痙攣してなおも抵抗しているのを観察した。生きていた者は最後には死んだだろう。/
 タンボフ地方では、共産党員たちが、地上1メートルの木に鉄道用の大釘で左手と左足を釘づけにされた。人々は、わざと奇妙な形で磔にした者が苦しむのを眺めた。/
 人々はある受刑者の腹を割いて小腸を取り出し、それを木か電柱に釘で打ちつけ、その男を殴打して木の周りを回らせ、腸がその負傷した男の身体から解かれていくのを、観察した。/
 人々はまた、捕えた将校を衣類を剥ぎ取って裸にし、肩の皮膚の一片を肩紋の形に引き裂いて、〔肩章の〕星の場所に押し込んだ。そして、剣帯とズボンの線に沿って皮膚を剥ぎ取ることになる。—この作業は「制服を着せる」と称された。
 疑いなく、長い時間と相当の技巧を必要とするものだった。(*4)
  (6)この時期の単一の最大の殺人者は—約500万人の生命を奪ったと算定されている—、1921-22年の飢饉だった。
 どの飢饉でも同じだが、ヴォルガ大飢饉は人と神によって惹き起こされた。
 ヴォルガ地帯はその自然条件によって収穫が十分でないことが多かった。—そして近年では1891-92年に凶作が多く、1906年と1911年に数回の凶作があった。
 夏の旱魃と極端な冷気は、平原地帯の気候では定期的に起きることだった。
 春の突風は砂の表土を吹き飛ばし、収穫を減少させた。
 1921年のヴォルガ飢饉には基礎的条件があった。1920年の凶作は、一年にわたる厳しい冷気と灼熱の夏の旱魃によって、平原地帯に巨大な黄塵が発生したことで起きた。
 春頃には、農民たちが前年に続いて二回めの凶作の被害を受けることが明確になった。
 種の多くは霜が降る寒気で駄目になった。また、現れていた新しい収穫の兆しは、見たところでも草のようにひ弱くて、バッタと野ねずみに食われてしまった。
 悪くはあったが、こうした自然環境の中での異常は、まだ飢饉の原因となるものとは言えなかった。
 農民たちは凶作に慣れていて、つねに穀物を大量に貯蔵していた。しばしば、非常時に備えて、共同集落の貯蔵小屋に。
 内戦時の穀物徴発(requisitioning)によって、自然が災害をもたらす以前に、農民経済が破綻の縁に達していたことが、1921年の危機を大災難に変えた。
 農民たちは徴発を回避するために、生活を維持するだけの生産へと逃げ込んだ。—自分たちや家畜が生きていき、種を保存するのに十分なだけの栽培しかしなくなっていた。
 言い換えると、ボルシェヴィキが奪ってしまうことを怖れたがゆえに、彼らは、安全のための余裕を、つまり過去の悪天候の際には守ってくれたような保留分を残さなかった。
 1920年に、ヴォルガ地帯の種撒き面積は1917年以降の4分の1に減少していた。
 だが、ボルシェヴィキは、さらに—余剰のみならず、生命にまでかかわる食糧貯蔵分や種子まで—奪い(徴発し)つづけた。その結果として、凶作の場合には農民の破滅という結果になることが必然的である程度にまで。(*5)
 **
 ③につづく。
 

2329/Orlando Figes·人民の悲劇-ロシア革命(1996)・目次。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =オーランド·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命(London, 1996/2017)。
 この書物は(Richard Pipes の二つの大著より新しく)1996年に原書(英語)が出版された。
 しかし、これにも、邦訳書がない。2017年にロシア革命100年記念の新装版が出版されたが、日本の出版業界・関係学者たちは無視した。
 目次を見ると、つぎのような構成になっている。試訳してみる。章・節等の言葉は元々はない。第一部(PART ONE)については「節」を省略。
 **
 第一部/旧体制のロシア。
  第一章・専制王朝。
  第二章・不安定な支柱。
  第三章・聖像とゴキブリ。
  第四章・赤いインク。
 第二部/権威の危機(1891〜1917)。
  第五章・最初の流血。
   第一節—愛国者と自由派。
   第二節—「ツァーリはいない」。
   第三節—路線の分岐。
  第六章・最後の希望。
   第一節—議会と農民。
   第二節—政治家。
   第三節—強者への賭け。
   第四節—神よ、王よ、祖国よ。
  第七章・三つの前線での戦争。
   第一節—人に対する鉄。
   第二節—狂ったお抱え運転手。
   第三節—塹壕からバリケードへ。
 第三部/革命のロシア(1917年二月〜1918年三月)。
  第八章・栄光の二月。
   第一節—路上の権力。
   第二節—気乗りしない革命家たち。
   第三節—ニコライ・最後の皇帝。
  第九章・世界で最も自由な国。
   第一節—遠くの自由主義国家。
   第二節—期待。
   第三節—レーニンの激怒。
   第四節—ゴールキの絶望。
  第一〇章・臨時政府の苦悩。
   第一節—一つの国という幻想。
   第二節—赤の暗い側面。
   第三節—白馬に乗る男。
   第四節—民主主義的社会主義のハムレット。
  第一一章・レーニンの革命。
   第一節—蜂起の態様。
   第二節—スモルニュイの独裁者たち。
   第三節—強奪者から強奪する。
   第四節—一国社会主義。
 第四部/内戦とソヴェト・システムの形成(1918〜1924)。
  第一二章・旧世界の最後の夢。
   第一節—草原の上のサンクト・ペテルブルク。
   第二節—憲制会議という亡霊。
  第一三章・戦争に向かう革命。
   第一節—革命の軍事化。
   第二節—「富農」: 販売人と煙草ライター。
   第三節—血の色。
  第一四章・勝利する新体制。
   第一節—三つの決定的戦い。
   第二節—同志たちと人民委員たち。
   第三節—社会主義の祖国。
  第一五章・勝利の中の敗北。
   第一節—共産主義への近道。
   第二節—人間の精神の操縦者。
   第三節—退却するボルシェヴィキ。
  第一六章・死と離別。
   第一節—革命の孤児。
   第二節—征服されていない国。
   第三節—レーニンの最後の闘い。
 **
 以上

2328/Orlando Figes, 人民の悲劇-ロシア革命(1996) 第16章第1節①。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution(Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =オーランド·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命(London, 1996/2017)。
 一番最後の章(第16章)から試訳。一行ごとに改行。段落の冒頭に原書にはない番号を付す。
 **
 第16章・死と離別。
 第一節・革命の孤児。
 (1)Gorky はベルリンに着いて、Roman Rolland に手紙を出した。
 「元気でない。結核がぶり返してきた。でも、私の年齢では危険ではない。
 もっと耐えられないのは、魂の悲しい病気だ。—ロシアでの過去7年間でとても疲れたと感じている。その間、たくさんの悲しい劇的事件を見、体験してきた。
 より悲しさが募るのは、そうした事件が、熱情の論理や自由な意思によってではなく、狂熱と卑劣さによる盲目的なかつ冷酷な計算によって、起こされてきたことだ。…
 人類の未来の幸福を、私はまだ熱烈に信じる。しかし、輝かしい未来のために人々が払わなければならなかった大量の悲痛に、私は失望し、心が掻き乱されている。」(*1)
 1921年秋にロシアから離れたGorky の背後には、死と幻滅があった。
 これまでの4年間であまりに多数の人々が殺されたため、彼ですらもはや、革命の希望と理想にしがみつくことができなかった。
 あれだけの人間の苦しみに値するものは、何もなかった。//
 (2)革命による人間の犠牲者全体数については、誰にも分からない。
 内戦、テロル、飢饉、病気による死だけを計算しても、数千万人台のいずれかだった。
 しかし、国外脱出者(約数百万人)、—この恐ろしい時代に誰も子どもを欲しくなかったので—大きく減少した出生率の人口統計上の影響—統計学者はさらに数千万人を加えることになると言う(++)—は、上の数字から除外されている。
 最も高い死亡率になるのは成人男性だった。—1920年だけでペテログラードには6万5000人の寡婦がいた。しかし、死はありふれたことで、全ての者が関係した。
 友人や親戚を一人も失わないで革命期を生き延びた者はいなかった。
 Sergei Semenov は、1921年1月に旧友にこう書き送った。
 「神よ、何と多数の死か !! 老人の男のほとんどが死んだ。—Boborykin、Leniv、Vengerov、Vorontsov、等々。
 Grigory Petrov ですらいなくなった。—どのように死んだのか知られておらず、たぶん社会主義の進展に喜びながらではない、とだけは言うことができる。
 とくに心が痛めつけられるのは、友人がどこに埋葬されているかすら分からないことだ。」
 一つの家庭に対して死がいかほどに影響を与えるかは、Tereshchenkov 家の例がよく示している。
 赤軍の医師のNikitin Tereshchenkov は、1919年のチフス伝染病で娘と妹の二人を失った。上の息子と兄は、南部前線で赤軍のために戦闘をして同年に殺された。義理の弟は、不思議な殺され方をした。Nikitin の妻は、彼がチフスに罹っている間に、結核で死んだ。
 (地方の多数の知識人たちのように)彼らは地方チェカから非難され、Smolensk の自分たちの家を失い、1920年に、二人の残っている息子たちが働く小さな農場へと移った。—15歳のVolodya と、13歳のMisha。(*2)//
 (3)この時期にロシアで死ぬのは容易だったが、埋葬されるのはきわめて困難だった。
 葬儀業務は国有化され、その結果として埋葬には際限のない書類仕事が必要だった。
 当時、棺用の木材が不足していた。
 愛する人の遺体をマットで包み、または棺—「要返却」という刻印つき—を借りて、墓地にまで運ぶだけの人々もいた。
 ある老教授は借りた棺に入れるには背丈が大きすぎて、何本かの骨を折って詰め込まれなければならなかった。
 説明することのできない理由で、墓地すらが足りなかった。—これがロシアでなければ、信じられるだろうか? 人々は墓地が見つかるのを数ヶ月待った。
 モスクワの遺体安置所には、地下室で埋葬を待つ、腐りかけの死体が数百あった。
 ボルシェヴィキは自由な葬儀を促進することで、この問題を緩和しようとした。
 彼らは1919年に、世界で最大の葬礼場を建設すると約束した。
 しかし、ロシア人は正教での埋葬儀礼に愛着をもちつづけたので、このような提議は無視された。(*3)//
 ——
 〔注(*1) -(*3)の内容(参照文献の提示)は省略する。〕
 (++) 除外されているのは他に、生き延びたが栄養失調や病気で減少したと見込まれる人々の数だ。この時期に生まれて育てられた子どもたちは、年上の者たちよりも顕著に小さく、新生児の5パーセントには梅毒があった。Sorokin, Souvemennoe, p.16, p.67.)
 **

2324/H.J·バーマン/宮島直機訳・法と革命I(2011)②。

 ハロルド·J·バーマン/宮島直機訳・法と革命I-欧米の法制度とキリスト教の教義(中央大学出版部、2011/原書1983)。
 つづき
 **
  L·コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(ポーランド語版、1976)の英訳書は1978年に三巻揃って刊行された(なお、第一巻のドイツ語訳書は1977年に出ている)。
 そして第三巻はなぜか?フランスでは出版されなかったというが、それを除くフランス語訳書も含めて、英語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語等々の翻訳書が世界中で広く刊行された。
 しかし、この欄でしきりと書いたことだが、L·コワコフスキの大著の日本語訳書(邦訳書)は出版されなかった。
 英語が読める関係学界の学者、とくに1970年代後半以降にヨーロッパに留学経験のある者はポーランドを出てOxford にいたコワコフスキとその大著を全く知らなかったとは考え難い。しかし、それでも、邦訳書は出なかった。今後も永遠に出版されないかもしれない。
 今後のことはともかく、1978年以降の日本で、なぜ邦訳書が出なかったのか。
 要するに、その<反マルクス主義>性・<反共産主義>性によって、日本の出版社・出版業界、関係学者(とくにアカデミズム内にいる者)は、国家による<検閲>ではなく、<自主検閲>をしたのだと考えられる。その内容を、日本の学界や読者に知らせたくなかったのだ。
 なお、<反マルクス主義>等と書いたが、一片の「反マルクス」の呼号をしているのではなく、第一巻のほとんどはマルクスに充てられているなど、コワコフスキはマルクスを読んで、マルクス主義研究をしている。彼は、若いときはワルシャワ大学の「思想史」講座の正教授だったのであり、当然にマルクスやレーニン等を読んで、それらを用いて<正統な>?講義もしたことがあったと思われる。それだけの蓄積が早くからあったのだ。
  かなり似た感想をもつのは、上掲のハロルド·J·バーマンの著だ。
 1983年には母語・英語で刊行されたようだが、すみやかに邦訳書が出たわけではない。上の邦訳書は2011年刊行で、30年近く経過している。
 コワコフスキの著もバーマンの著も1991年のソ連解体前に出版されている。
 その時代に、明確な<反共産主義>の書物を日本で日本語訳として出版するのがいかに困難で、危険?だったかが、分かろうというものだ。
 むろん、<反ファシズム>・<反ナツィス>・<ヒトラー批判>の書物ならば、岩波書店のものを中心に多数刊行されていただろう(日本共産党系出版社ではもちろん)。
 上の邦訳書の訳者である宮島直機(1942〜)は、マルクス主義・共産主義というよりも、むしろ「キリスト教」との関係に着目して(この方がこの書の読み方としてはおそらく適切だろう)、「訳者あとがき」で、こう書いている。キリスト教との関係という意味では、秋月瑛二もまたきわめて納得でき、了解することのできる感想だ。一文ごとに改行。p.709。
 「再度、強調しておきたいのは、30年近くまえに出版された本書が、ヨーロッパ各国語のみならず中国語にまで訳されながら、日本語に訳されなかったことである。
 我々はキリスト教の教義に無関心なのだろうか。
 それとも、欧米の法制度がキリスト教の教義を前提にしていることを認めたくないのだろうか迷信としか思えないものが自分たちの継受した法制度を作ったなんて !!)。」
  じつに重たい主題だ。
 池田信夫が最近、「個人主義」発生の基礎には「キリスト教」や欧州領域内での長い「戦争」があった、日本では欧米的「個人主義」は根づかなかった旨を数回書いていることにもかかわる。
 上の著や池田の指摘は、日本の(とくに戦後の)法学界・法学者に重要なかつ厳しい批判を含むことになると考えられる。
 しかし、何と言っても、日本国憲法自体が、直接にはアメリカかもしれないが、その背景にある<ヨーロッパ>の法思想を基礎にしていることの影響は甚大だ。
 「西欧近代立憲主義の基本的約束ごと」をキリスト教には触れることなく無条件に擁護したいらしい樋口陽一(元東京大学教授、元日本公法学会理事長)は、1989年の岩波新書で、日本人は「…力づくで『個人』をつかみ出したルソー=ジャコバン型個人主義の意義を、その痛みとともに追体験する」必要がある、と明言した(No.0524/2008.05.30)。→No.0524
 つぎの現行憲法の条項は、秋月が(理論的には)最も改正・削除すべきものとして、この欄で何回か書いたことがある。こんなに単純には語りえない、と考えるからだ。むろん、憲法の一条項でありながら、「法的」意味の希薄性も問題だ(この条項が現在の人権条項の「改正」をいっさい認めない趣旨だとは一般には解釈されていないと思われる)。
 日本国憲法97条「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」。
  現在も残る<自主検閲>とその主謀?学者、一方で、共産主義・「宗教」についてまるできちんとした知識・素養がなく(「左翼」も似たようなものかもしれないが)、まともな議論をする能力のない、とくに(西尾幹二を含む)「いわゆる保守」の悲惨さ、といった論点もある。
 **

2323/H.J.バーマン/宮島直機訳・法と革命I(2011)①。

  Harold J. Berman, Law and Revolution -The Foundation of the Western Legal Tradition(1983).
 =ハロルド·J·バーマン/宮島直機訳・法と革命I-欧米の法制度とキリスト教の教義(中央大学出版部、2011)。
 No.2291/2021.02.13はむしろ西尾幹二・ニーチェとの関係でこの書で触れた。→No.2291
 そこでは著者について「宗教史ないし法制史の学者・研究者」と書いた。しかし、より正確には主専門は「ソヴィエト法」だったようだ。
  この書物の熟読までには至っていないが、すでに重要な感想はある。
 この著で「革命」=Revolutionと称されるのは、つぎの6つだと見られる(邦訳書p.6, p.22-)。「」を付けない。ここでは年代・時期にも触れない。
 ①教皇革命、②イギリス革命、③アメリカ革命、④フランス革命、⑤ドイツ革命、⑥ロシア革命。
 秋月の文章になるが、これらは全て、第一に<ヨーロッパ>世界のものと捉えられていること(アメリカもロシアもヨーロッパの延長ないし辺境だとは言える—秋月)、かつ第二に(ロシア革命を含めて)<キリスト教>とその展開の中で位置づけられていること、が注目される。
 後者につき—「ヨーロッパの革命に共通しているのは、千年王国の実現を目指していたことである」(p.29)等々。
 この<ヨーロッパ>(ないし「欧米」)や<キリスト教>の文明・文化の中に日本はもともとはいなかったこと、明治以降にその「一部」を、あるいはその「表面」を吸収・継受してきたのだということに、深い感慨を感じないでもない。
  従って、以上の部分もすでにきわめて関心を惹く。しかし、それ以上に、さしあたりは強く印象に残ったことがある。
 それは著者=ハロルド·J·バーマンが「ロシア革命」を冷静にかつきわめて批判的に見ていることだ。
 ロシア革命がキリスト教の影響下での「ヨーロッパの革命」の一つであることについて、例えば以下。p.30-31。
 「アメリカ革命、フランス革命、ロシア革命では、千年王国は『地上の国』に実現するはずであった」。
 「6つの革命はキリスト教の終末論が前提になっていたが、キリスト教の終末論は、もともとは…ユダヤ教に特有の歴史観に基づいている」。
 また、「ロシア革命」に対する冷静かつ批判的な見方は、とりあえずはつぎに顕著なようだ。p.38-9。やや長く引用しておく。一文ずつ改行。
 「最初に登場してきた宗教的なイデオロギー、つまりキリスト教とは無縁な装いを凝らしながら、同時に宗教的な聖性・価値を主張した最初のイデオロギーは自由民主主義であった。
 そして、これに対抗して登場してきたのが、もう一つの宗教的イデオロギーである共産主義であった。
 1917年にロシアで共産主義体制が登場してくると、共産主義は宗教的な教義と変わらないものになった。
 また共産党は、まるで修道院のようになった組織になった。
 第二次大戦後のソ連で粛清の嵐が吹き荒れたとき、ある共産党員が口にした言葉は象徴的である。
 『救いは共産党のなかにしかない』。」
 「共産主義が主張する『法的な原則』と自由民主主義が主張する『法的な原則』は違っていたが、いずれも出自はキリスト教の教義である。
 たとえば『共産主義者の道徳指針』には、つぎのようなことが謳われていた。<略>」
 「さらにソ連の法制度では、法律に教育的な役割を期待しており、職場や近隣組織による『同志裁判』や『人民パトロール隊』などを使って、民衆を裁判に参加させたりもしていた。
 それも共産主義の理想が実現した暁には、すべての法制度と強制は消滅し、だれもがお互いに『同志となり、友人となり、兄弟となる』(これも『道徳指針』からの引用である)というような『黙示録』的な予言によって正当化されていた。
 ユートピア的な未来と強圧的な体制は、決して矛盾するとは考えられていなかったのである。」
 **
 引用、終わり。さらにへとつづける。

2282/L. Engelstein, Russia in Flamesー第6部第1章第一節②。

 L. Engelstein, Russia in Flames—War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)。
 第6部第1章の試訳のつづき。
 第1章・プロレタリア独裁におけるプロレタリアート。
 ——
 第一節②。
 (9)もちろん、移行を瞬時に行うことはできない。
 1918年にはずっと、私的所有制がなおも一般的で、様々な当事者—起業者、労働組合、国家—の間で交渉が継続した。
 工場委員会は、私的所有の事業体の中でまだ活動しており、政治的な番犬のごとく振る舞っていた。
 1920年4月の第9回党大会になってようやく、委員会は労働組合に従属した。労働組合はいまや国家の腕になっていた。(11)
 トロツキーが技術的専門家の利用、職場紀律の賦課、そして実力による強制—赤軍の勝利の背後にあったモデル—を強調したのは、このときだった。
 この党大会で、そしてその後の労働組合大会で採択された決定は、労働者委員会を権限ある管理者に服従させた。(12)
 レーニンが観察したように、労働者には工場を稼働させる能力がなかった。
 国家は、その本来の利益からして、「階級敵」との協働を必要とした。
 あるいは、マルクス主義の用語法で言うと、(理論上は)政治権力をもつ階級(プロレタリアート)は、経済的権力を行使することができない。
 プロレタリアートの地位は、1789年のフランスのブルジョアジーとは対照的だ。彼らは、政治的権力を獲得する前に経済を先ず支配した。
 (10)上意下達の支配と草の根の(プロレタリア)民主主義の間に元々ある緊張関係は、真にプロレタリアートの現実の利益を代表する国家の働きによって解消される、と想定されていた。
 ソヴィエトの場合は、この緊張関係は、民衆の主導性の抑圧とプロレタリアートによる支配というフィクションによって究極的には解消された。
 しかしながら、その間に、「国家」自体が緊張で引き裂かれた。
 中央による支配の達成は、中央においてすら、容易なことではなかった。
 市民の主導性をやはり抑圧した、そして戦争をするという挑戦にも直面した君主制のように、ボルシェヴィキの初期(proto)国家は、中央と地方、上部と下部の間のみならず、経済全体の管理と軍隊に特有な需要との間の緊張関係も経験した。
 1917年以前と同様に、制度上の観点からする対立が明らかになった。
 今では、中央の経済権力(VSNKh)は、生産の動員と物的資源を求める赤軍と競っていた。
 実際、軍はそれ自身の経済司令部を設け、VSNKhとともに生産の監督を行なっていた。
 中央や諸地方にある多様な機関が、希少な原料と燃料を求めて競争していた。
 金属の供給が再び始まったのは、ようやく1919年のウラルの再奪取があってからだった。(14)
 (11)経済の崩壊という圧力のもとで出現したもう一つの不安は、労働力不足だった。
 人々が食糧を求めて田園地域へと逃亡するにつれて、都市は縮小した。
 配給は十月の直後から導入されていたが、配達は不確実で、量は乏しかった。
 1917年と1920年の間に、ペテログラードは人口の3分の2を喪失した。モスクワは2分の1を。(15)
 全体としては、産業労働力は60パーセント減少して、360万人から150万人になった。
 最も気前のよい配給を好む労働者たちの苦痛は、食糧不足と都市部での生活水準の低下を示す指標となった。
 工場を去った労働者たちのおよそ4分の1は、赤軍に入隊した。(16)
 志願兵は最も未熟な労働者の出身である傾向があった。彼らは、赤軍が提供する多様な物質的な刺激物によって最大の利益を得た。—とくに、食事と金銭手当。
 概して言って、多数の労働者は単純に、どんな戦争でも戦闘をしたくなかった。(17)
 とどまった熟練労働者たちは、教育を受けたイデオローグたちの政治的見解を共有している傾向にあった。
 彼らはしたがって、草の根権力からの逸脱が含んでいる政治的裏切りをより十分に理解することができた。また、ボルシェヴィキ支配により抵抗しがちだった。
 (12)労働者を規律に服させることは、最優先の課題になった。
 最も熟練した者であっても、プロレタリアートは、経済はむろんのこと工場を運営する能力がなかったということでは済まない。彼らは今や、労働を強いられなければならなかった。
 労働人民委員部は、建設、輸送その他の緊急の業務のために人的資源を用いた。
 1919年6月に、モスクワとペテログラードで労働カードが導入された。
 雇用されていることの証明が、配給券を獲得するには必要とされた。
 一般的な労働徴用は、1920年4月に始まった。(18)
 だが、長期不在(逃亡)や低い生産性が持続した。
 食物は、武器になった。
 配給は、労働の種類、熟練の程度、生産率によって割り当てられた。
 いわゆる専門家には報償が与えられ、欠勤や遅刻には制裁が伴った。
 労働組合は、社会主義原理の侵犯だとして、賃金による動機付けや特別の手当の制度に異議を申し立てた。
 1920年頃には、インフレがあって、労働者たちは現物による支払いを要求した。
 彼らは、国家に対する犯罪だと見做されていたことだが、工場の財産を盗んで、物品を自分たちのものにした。(19)
 労働徴用に加えて、当局はまた別の強制の形態に変えもした。
 1920年初めに始まったのだが、多くは非熟練の農民労働者だった動員解除されていた兵士が労働部隊に投入され、鉱山や輸送、工業および鉄道の、燃料のための木材を集めるために使われた、
 トロツキーは、第9回党大会で、工場労働力の軍事化も呼びかけた。
 労働人民委員部への登録は義務となり、不出頭は脱走だとして罰せられた。(20)
 (13)どこでもあることだが、しかし彼らの支持層との関係では驚くことに、ボルシェヴィキは、実力(force)の行使について取りすましてもおらず、かつ釈明的でもなかった。
 ブハーリン(Nikolai Bukharin)は1920年に、「プロレタリア独裁のもとでは、強制は初めて本当に、多数派の利益のための多数派の道具となる」と誇った。
 レーニンは述べた。「プロレタリアート独裁は強制(compulson)に、そして国家による最も苛酷で決定的な、容赦なき強制(coercion)に訴えることを、いささかも恐れない。先進的階級、資本主義により最も抑圧された階級は、強制を用いる資格がある」。(21)
 思うのだが、この場合は、(本当にプロレタリアートであるならば)プロレタリアートは、そのゆえに、自分たち自身に対して強制力を行使していた。
 (14)強制はかくして、戦時共産主義として知られるようになったものの基礎的で逆説的な要素だった。—産業の国有化、労働徴用、労働の軍事化、穀物挑発。
 これは、彼らが与えようとはしたくない、またはそれを躊躇するものを労働する民衆から絞り出させるというシステムだった。—適正な補償なくして、労働やその果実を奪う、という。
 また、民衆の一階層(飢えた労働者)を他者(屈強だか、やはり飢えた農民)に反対するように動員するシステムだった。
 労働者たちはある範囲では、赤衛軍や食糧旅団で、国家権力の装置となった。国家権力は彼らを代表するとされたものだったが、ますます彼らを制約した。
 農民たちは、兵士であるかぎりでは自ら国家装置に加入したことになる。
 農民と労働者のいずれも、抵抗という暴力的形態でもって、この装置に対応することもした。
 (15)労働者組織(委員会、組合、ソヴェト、党内からの指導者)—これらは、生まれようとする資本主義秩序に対する反対派を構成し、反対はあらゆる党派の革命的な活動家によって形成された—は、ボルシェヴィキが闘争を策略でもって勝利する基盤となった。
 しかし、労働者組織はまた、ボルシェヴィキ支配に対する社会主義者の抵抗の基盤ともなった。
 左翼側にあるこの批判は、経済的社会的危機に直面した労働者自身の絶望と怒りに、構造を付与した。
 従前のように、土台にある労働者たちはしばしば、自分たちの指導者に反対した。
 要するに、帝政を打倒するのを助け、ボルシェヴィキによって培養されて権力奪取に利用されたのと同じ怒りと熱情が、ひとたび彼らが自分たちで権力を振る舞おうとするや、難題を突きつけたのだ。
 (16)本質を突き詰めていえば、社会主義の基礎的な諸命題は、労働者や農民が共鳴するものだった。—搾取者と被搾取者の二分論、「民主主義」対「ブルジョアジー」、防衛側にいる者と攻撃する側にいる者の対立、賃金労働者対上司たち。
 イデオロギーの素晴らしい点は、抽象的にはほとんど違いをもたらさない。
 メンシェヴィキ、エスエル(これらはいずれも内部で分裂した)およびボルシェヴィキの様々な訴えは、特有な状況を反映していた。
 工場労働者は、実際には、自分たち自身の制度を創設し、自分たちの指導者を生み出す能力を持っていた。
 社会主義知識人たちは、たんに騙されていたのではなかった。しかし、労働者大衆は、激しくて規律のない暴力(violence)を行使することも、自分たちの利益を代表するとする代弁者に反対することもできた。
 (17)1917年十月の後で、集団的行動は継続した。—今度は、体制に対して向かった。その体制は、経済生活の最高の主人だと自分たちを位置づけていた。
 この最高の主人は、しかしながら、自分の国家装置に対する差配をできなかった。
 政策の適用と影響は場所によって、地方的支配の態様によって異なった。
 最も先進的な企業や優れた労働組合の所在地であるペテログラードでは、
地方ボルシェヴィキは、労働者組織に対して厳しい統制を敷いた。
 モスクワでは、レーニンのプラグマティックな考えによって、妥協はより容易だった。
 ウラル地方では、左翼ボルシェヴィキ、左翼エスエル、メンシェヴィキが、影響力を目指して闘った。—その雰囲気は、激烈だった。
 そしてじつに、ソヴィエト当局に対する最も激しい労働者反乱が発生したのは、このウラルでだった。(22)
 (18)ウラルでの十月の影響は、厄災的だった。
 市議会(City Duma)やzemstvo のような市民組織は、瓦解した。
 ボルシェヴィキは、非常措置を用いた。—残虐な徴発、身柄拘束、食糧を求めての村落の略奪、私的取引の禁止(没収)。これらは全て、歴史家のIgor Narskii が述べるように、農民たちの抗議の波を誘発しつつも、「枯渇に至るまでの人口の減少」をもたらした。
 どの都市も、どの大工業施設も、自ら閉鎖した。そして、窮乏(deprivation)という別の世界に変わった。(23)
 ——
 第一節、終わり。

2281/L. Engelstein, Russia in Flamesー第6部第1章第1節①。

 L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)。
 上の書の以下だけを、すでに試訳した。
 ・第6部・勝利と後退/第2章・革命は自分に向かう。・結語。原書、p.606-p.632.
 上の直前の第1章に戻って、試訳を再開する。p.585以下。
 **
 第1章・プロレタリア独裁におけるプロレタリアート。
 第一節。
 (1)驚くかもしれないが、内戦の混乱と暴虐があったことを考えると、不安定なボルシェヴィキ体制は非資本主義経済の基礎を何とか築こうとしていた。
 ボルシェヴィキは、先行体制からいくつかの問題、戦略、諸制度を継承した。第一には穀物の徴発と戦争関連産業の結集だったが、引き継いだ国家装置は崩壊の途上にあり、ボルシェヴィキの政策はその解体をさらに押し進めた。
 それにもかかわらず、ボルシェヴィキの目標は、堅固な基盤の上に国家装置を再建することだった。
 (2)戦争は、いかなる政治体制のもとでも、国家による統制と計画化の強化を必要とする。
 だがしかし、社会主義のモデルは互いに矛盾し合う要素を含んでおり、社会主義者たちには多様な色合いがあった。
 ボルシェヴィキ党の内部ですら、違いがあった。
 ボルシェヴィキ指導者たちの指針は、明らかに、マルクス主義の基礎的な諸命題だった。すなわち、社会主義は私有財産を廃して国家所有の国有財産に換え、自律的な市場を中央計画に換え、富の不公平を経済的平等に換えなければならない。
 しかしながら、党内で、これらの命題をいかにして実際に適用するかに関する激しい論議が生じた。
 内戦の過程で採用された特別の措置は、十分に練られた予定にもとづいておらず、戦争の圧力と経済の崩壊が生んだ諸問題に対応するものにすぎなかった。
 それらは全てが一度に導入されたものではなく、1917年と1920年の間の三年間に切れ切れにとられた措置だった。(1)
 国家統制は中央の権力を想定していたが、−まだ十分な国家でなかった−ボルシェヴィキ国家は、この時点では、競合して無秩序な諸機関で構成されていた。
 どの分野についても、中央権力と地方の党幹部、イデオロギーと必要性、大きな展望と当面の危機管理との間に、緊張関係があった。
 (3)歴史家の Silvana Malleは、イデオロギーは「受容し得る選択可能な措置を選ぶためのフィルターとして働いた」が、特定の措置を指示するものではなかった、と観察する。(2)
 戦時共産主義(War Communism)という術語は、最初に、1920年4月にレーニンによって遡及的に用いられた。レーニンは、「この特有の戦争は共産主義だ。…極端な欠乏と破滅が我々に戦争を強いている。戦争はプロレタリアートの経済的任務にふさわしい政策ではないし、そうであってはならない」と強く主張した。(3)
 だが、その基礎的な構成要素は、まさしく精確に、想像された未来の共産主義のそれだった。(4)
 その諸要素は、階級戦争(階級闘争)の武器でもあった。
 教育人民委員のAnatolii Lunacharskii はこう言った。「我々はブルジョアジーを殺戮し、彼らの手にある全ての財産を破壊しなければならない。なぜなら彼らは、それを我々に対する武器として利用しているからだ」。
 「搾取者どもを搾取せよ」、「略奪されたものを略奪せよ」−これらは、加えて、十月のクー直後から続いた、大衆による強奪の波に承認印を与えるスローガンだった。(5)
 ボルシェヴィキを強奪者だと告発することは、非難ではなかった。大衆はボルシェヴィキがしていることを知っていた。
 (4)内戦中のソヴィエト政府を駆動させたのは、かくして、国家の計画と統制を通じて(産業、都市化、教育、生産性の)近代化の達成を目指す経済関係の構築を最優先する、という党の政策だった。だが、その目指す経済関係とは実際には、急場凌ぎのものでもあった。
 いつものようにレーニンは、イデオローグとプラグマティストのいずれでもあった。
 赤軍を結成して維持した経験をもつトロツキーは、社会主義的情緒主義(sentimentalism)とは無関係だった。
 この両人はやがて敵に変わって、各自のゲームでいかにして相手に対する勝利を達成するかに関するモデルを提示することになる。
 トロツキーにとっては、隊員と中央司令部をもつ軍隊だった。レーニンにとっては、巨大な企業と技術的専門知識をもつ資本主義だった。資本主義では国家の役割は戦時中という緊急事態の際に拡大する。
 ドイツの「国家資本主義」は、レーニンの手本(prototype)であり、彼は、いかなる手段によってしても、「いかに独裁的であっても」、「野蛮な中世的ロシアに」課されるべきものだ、と言った。−「野蛮主義と戦うにあたって野蛮な手段」を用いるのを躊躇してはならない。(6)
 これは異端説ではなかった。
 マルクス主義者は、独占資本主義と共産主義の間の構造的類似性を知って(recognize)いた。−産業発展の高度の次元での生産手段と労働の大衆化(massifuication)。先ずは私人の手に、次いで国家による統制のもとに。
 (5)権力政治上の目標(ソヴィエト体制が生き延びて、支配しようとする国を再建すること)を追求しつつ、人民委員たちは一方では、社会主義理論が正しく強調するように社会の生産力を構成する一般民衆の追従に頼らなければならなかった。
 大衆なくして経済はない。経済がなくして、意欲する大衆もいない。
 田園地方から穀物を挑発する切実な必要が農民の抵抗に対してどれほどに行われてきたか、交渉がどれほどに加減されなければななかったか、どれほどに多様な戦略が試みられ、失敗し、修正されてきたか、を我々は知っている。
 とどのつまりは、実力による強制と飢饉が生産者たちを整列させた。
 「飢えという骨ばった手」。
 (6)製品生産部門との関係では、政治的統制の行使とともに生産性の維持を必要とした。
 二つの重要な論点が関係していた。所有制と規制。
 1917年11月14日の労働者の支配に関する布令は、自分たち自身が管理権を奪取しようとの草の根の工場委員会の要求を称賛していた。
 しかしながら、その布令に表現された考え方は、労働者に生産に対する権力を付与するものではなかった。 「支配」(control)とは、資格のある技術者と行政官が諸活動を監視(monitor)する権利を意味した。言ってみれば、それらはすでに存在したのだ。
 さらに加えて、経済を統治する政策決定は、個々の工場施設や地方当局の次元によってなされるのではなく、権力の中央に、したがって、国家経済最高会議(VSNKh)という12月初めの設立物(establishment)にあった。
 (7)最初はまるで、国家所有制と労働者は協力して歩むがごとく見えた。
 店頭への権力行使の民主化を補完するものは、私有資産の奪取だった。
 工場委員会は、もっと大きな役割をすら望んで、迅速な変革に向かって圧力をかけた。
 しばしば個々の工場、鉱山または地方ソヴィエトは、主導権を握って、従前の所有者たちを排除した。
 対照的に、ソヴナルコム(Sovnarkom、人民委員会議)とVSNKhは、生産を維持することを懸念して、そのような進展を中止させるか遅延させようとしたが、それにもかかわらず、略奪の多くを称賛し、彼らが阻止することのできないものに公式の是認を与えた。
 さらに、VSNKhは1918年早くに、最大の冶金工業施設群の所有者と、没収および継続する諸機能について交渉を続けていた。(8)
 (8)ブレスト-リトフスクは、このような方向へと向かう強い誘因を与えた。
 この条約は、1918年7月1日以前に国家が掌握した企業を除いて、ドイツ所有の財産の返還を求めていた。除外財産については、正確な補償だけが要求された。
 かくして、1918年6月28日、多くはドイツ所有の共同出資会社が、突然に奪い取られた。
 全般的な国有化は、1920年11月までは行われなかった。その11月の時点で、全ての大企業とたいていの中規模企業を含んでおり、併せて工場労働者のほとんど90パーセントを占めていた。(9)
 労働者国家による生産手段の所有は、しかしながら、労働者たちが主人になることを意味しなかった。
 労働組合と委員会は、既存の経営者にしばしば抵抗し、賃上げと生産目標設定への関与の拡大を要求した。しかし、レーニンの関心は、全体としての経済の行く末にあった。
 レーニンは、こう宣告した。社会主義は、先ずは、政治権力の中央からの規整を受ける「国家資本主義」の段階を通ってのみ達成することができる。(10)
 **
 第一節①、終わり。 

2258/R・パイプス・ロシア革命第二部第14章第1節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第二部(第9章が最初)第9章〜第13章(<ブレスト=リトフスク>)の試訳が終わり、第14章へ。原書p.606〜。
 節の区切りは空行挿入と冒頭文字の太字化で示されているにすぎないし、本文には表題はなく、表題らしきものは全体目次(CONTENTS)の中に示されているにとどまる。したがって、「節」と称して「見出し」を掲げるのも原書そのままではない。
 一文ずつで改行し、本来の改行箇所には「//」を記入し、かつその間の段落ごとに本文・原書にはない番号を付す。
 ――――
 第14章 国際化する革命。
 休戦の達成は今や全世界を征覇することを意味する。
 ―レーニン、1917年9月。(1)//
 第一節・ロシア革命への西側の関心の小ささ。
 (1)やがてロシア革命はフランス革命以上にすら世界史に対して大きな影響を与えることになるけれども、それが最初に惹いた注目はフランス革命よりもはるかに小さいものだった。
 このことは、二つの要因によって説明することができる。一つはフランスが持っていた重要性、二つは二つの事件の時機の違いだ。//
 (2)一八世紀後半のフランスは、政治的かつ文化的にヨーロッパの指導的大国だった。ブルボン朝は大陸の最も古い王朝で、王政絶対主義の具現物であり、フランス語は洗練された文化的社会の言語だった。
 最初は、その強い権力はフランスを揺るがせた革命の態様を歓迎した。しかしすぐに、革命は自分たち自身の地位に対する脅威でもあることを悟った。
 国王の逮捕、1792年9月の虐殺、そして専政王制打倒という諸外国に対するジロンド派の訴えは、革命はたんなる統治形態の変更以上のことを意味することに疑問の余地を残さなかった。
 戦闘が繰り返され、ほとんど四半世紀つづき、ブルボン朝の復活で終わった。
 拘禁されたフランス国王の運命に対するヨーロッパの君主たちの関心は、彼らの権威が正統性原理に依拠しており、この原理が民衆(popular)の主権の名でいったん放棄されれば彼らの誰も安全ではおれないとすれば、よく理解することができる。
 確かにアメリカ植民地は早くに民主主義を宣言していたが、アメリカ合衆国は海外の領域にあり、大陸にある指導的大国ではなかった。//
 (3)ロシアはヨーロッパの周縁部に位置し、半分はアジアで、圧倒的に農業国だったので、ロシア国内の展開が自分たちの関心にとって重要だとはヨーロッパは決して考えなかつた。
 1917年の騒動は確立した秩序に対する脅威ではなく、むしろロシアが遅れて近代に入ることを画するものだと一般には解釈された。//
 (4)史上最大で最も破壊的な戦争の真只中で起きたロシア革命は自分たちに関係する事件ではなく戦争中の逸話にすぎないという印象をその時代のヨーロッパ人が持ったことによつて、このような無関心はさらに増大した。
 ロシア革命が西側に惹起させた興奮はこの程度のものにすぎなかったので、関心はほとんど軍事作戦に対するあり得る影響についてのみ生じた。
 連合諸国と中央諸国はともに、異なる理由によつてだったが、二月革命を歓迎した。前者は人気のない帝政が除去されたのはロシアの戦争意欲を活成化させるだろうと期待し、後者はロシアが戦争から退去することを望んだ。
 十月革命は、もちろんドイツには大喝采で迎えられた。
 連合諸国には入り混じった受け取り方があったが、間違いなく警戒していなかった。
 レーニンと彼の党は見知らぬもので、そのユートピア的構想と宣言は真面目には受け取られていなかった。
 趨勢、とくにブレスト=リトフスク以降のそれは、ボルシェヴィキはドイツが産み出したものであって対立が終わるとともに舞台から消えるだろうと見なすことだった。
 ヨーロッパ諸国の全ての政府は例外なく、ボルシェヴィキ体制の生存能力とそれがヨーロッパの秩序にもたらす脅威のいずれについても過小評価していた。//
 (5)こうした理由で、第一次大戦が終わる年にもそれに続く講和条約の後でも、ロシアからボルシェヴィキを除去する試みはなされなかった。
 1918年11月まで、諸大国は互いに戦い合っていて、離れたロシアでの展開に気を煩わせることができなかつた。
 ボルシェヴィズムは西側文明に対する致命的脅威だとの声は、あちこちで挙がっていた。とくにドイツ軍の中で強かったのは、ボルシェヴィキによる宣伝と煽動活動に最も直接に接する経験をしていたからだった。
 しかし、ドイツですら最終的には考えられ得る長期的脅威に対する関心を抑えて、直接的な利益を考慮するのを選んだ。
 レーニンは、講和後に交戦諸国は勢力を結集して自分の体制に対する国際的十字軍となって攻めてくるだろうと確信していた。
 彼の恐怖は根拠がなかったと判った。
 イギリスだけが反ボルシェヴィキ側に立って積極的に干渉したが、それは本気ではなく、一人の政治家、ウィンストン・チャーチルが主導したものだった。
 干渉の努力は真剣には追求されなかった。西側での和解に向かう力が、干渉を呼びかけるそれよりも強かったからだ。そうして、1920年代初めまでに、ヨーロッパ諸国は共産主義ロシアと講和を締結した。//
 (6)しかし、かりに西側がボルシェヴィズムに大きな関心を抱かなかったとしても、ボルシェヴィキは西側に熱い関心を持った。
 ロシア革命は、それが発生した元の国に限られつづけはしないことになる。ボルシェヴィキが権力を奪取した瞬間から、それは国際的な次元を獲得した。
 ロシアの地理的な位置によってこそ、ロシアは世界大戦から孤立していることができなくなった。
 ロシアの多くはドイツの占領下に置かれた。
 やがてイギリス、フランス、日本そしてアメリカが偶発的にロシアに上陸したが、極東地方で戦闘を起こそうという試みは虚しく終わった。
 より重要だったのは、革命はロシアに限定されてはならず、限定されることもできない、という、そして革命が西側の産業諸国に拡大しない限り破滅するという、ボルシェヴィキの確信だった。
 ペトログラードを支配したまさにその日に、ボルシェヴィキは平和布令を発した。それは、外国の労働者たちに、ソヴェト政権が「その決意を、―労働者、被搾取大衆をあらゆる隷従性とあらゆる搾取から解放するという任務を、首尾よく達成できるよう」、立ち上がって助けることを強く呼びかけるものだった。(2)//
 (7)これは、階級闘争という新しい言葉は用いられなかったが、全ての現存する政府に対する闘争の宣言であり、のちに頻繁に繰り返されることとなる主権国家の内政問題に対する介入だった。
 レーニンは、そのような趣旨が彼の意図であることを否定しなかつた。「我々は、全ての国の帝国主義的略奪への挑戦を却下してきた」(3)。
 全てのボルシェヴィキは外国での内乱を促進し―訴え、助言、破壊、および軍事的援助によって―、そしてロシア革命を国際化するよう努める。//
 (8)外国の政府によって市民を反乱や内戦へと誘発することは「帝国主義的略奪」に対して現物でもって報復する全ての権利を与えるものだった。
 ボルシェヴィキ政府は国際法を無視して国境の外から革命を促進することはできなかったし、同時に、同じ国際法に対して外国権力が自国の内政問題に介入しないよう訴えることもできなかった。
 しかしながら、実際には上述の理由で、諸大国はこの後者の権利を活用することをしなかった。どの西側の政府も、第一次大戦中もその後も、ロシアの民衆に対してその共産主義体制を打倒するよう訴えかけなかった。
 ボルシェヴィズムの最初の数年の間にこのように限られた干渉しか行われなかったのは、もっぱら彼らの個別の軍事的な利益のためにロシアを役立たせようとする願望を動機とするものだった。//
 --------
 (1) Lenin, PSS, XXXIV, p.245.
 (2) Dekrety, I, p.16.
 (3) Lenin, PSS, XXXVII, p.79.
 ―――
 第一節、終わり。第二節の目次上の表題は、<赤軍の設立>。

2254/R・パイプス・ロシア革命第二部第13章第16節・第17節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
 ----
 第16節・ボルシェヴィキに対するアメリカの反応。
 (1)批准という形式的手続が、まだ残っていた。
 トロツキーが連合諸国代表者たちに打ち明けた間違った懸念にもかかわらず、事態は疑問の余地が決してないものだった。
 ソヴェト大会は、民主主義的に選出された機関ではなく、信仰者たちの集会だった。すなわち、3月14日に集まった1100名ないし1200名の代議員のうち、3分の2はボルシェヴィキ党員だった。
 レーニンは、長々と続く散漫な演説を行って、ブレスト=リトフスク条約を模範的に擁護し、現実主義に立つことを求めた。-完全に疲れ切った人物の演説だった。//
 (2)レーニンは、アメリカやイギリスへの経済的および軍事的援助の要請に対する反応を待っていた。彼にはじれったくも待ち遠しいものだったが、条約が批准された瞬間にそれを得る機会は皆無になることを、十分によく知っていた。//
 (3)ボルシェヴィキ権力の初期の時期には、ロシアに関する知識やロシア事情への関心の大きさは、ロシアに対するその国の地政学的近接性に直接に比例していた。
 最も近いところにいたドイツは、ボルシェヴィキと交渉しているときですら、彼らを軽蔑しかつ怖れた。
 フランスとイギリスは、戦争を継続しているかぎりで、ボルシェヴィキの行動やその意図に大した関心がなかった。
 大洋を離れたアメリカ合衆国は、ボルシェヴィキ体制を積極的に歓迎しているように見えた。そして、十月のクーの後の数カ月は、大規模なビジネスの機会という幻想に誘引されて、ボルシェヴィキの指導者たちに気に入られようと努めた。//
 (4)ウッドロウ・ウィルソン(Woodrow Wilson)は、ボルシェヴィキは本当に人民のために語っていると信じていたように見える。(93)そして、普遍的な民主主義と永遠の平和に向かって前進していると想定した大国際軍の分遣部隊を設立した。
 彼は、ボルシェヴィキの「人民」に対する訴えに対しては回答が必要だ、と感じた。
 ウィルソンはこの回答を、1918年1月8日の演説で行った。そこで彼は、有名な14項目を提示したのだ。
 彼は、ブレストでのボルシェヴィキの行動を称賛するまでに至っていた。
 「私にはこう思えるのだが、世界中の困惑した空気の中に充ちているどの感動的な声よりも身震いさせて心を掴む、そのような原理的考え方と目的を明確に示す声が、そこにはある。
 ボルシェヴィキの訴えは、これまでに何の同情も憐憫もないと知られるようになったドイツの容赦なき権力の前では、よるべなく、ほとんど無力だと見えるだろう。
 ボルシェヴィキの権力は、明らかに痛めつけられている。
 しかしなお、彼らの精神は屈服していない。
 彼らは、原理においても行動においても、屈従しないだろう。
 正義、人間性、そして彼らが受容する高潔性に関する彼らの考え方は、率直に語られてきた。それらには、見方の広さ、精神の寛容性、そして人間的共感があり、人類のこれまでの全ての友情に対する賞賛に挑戦するものであるに違いない。
 彼らはその考え方を混ぜ合わせて、彼ら自身には安全かもしれないものを放棄するのを、拒んできた。
 彼らは、我々が望むものは何か、かりにあるならば、彼らのものとは異なる我々の目的や精神はいつたい何にあるのか、を語ることを我々に迫っている。
 そして私は、合衆国の人民は完全な簡潔さと率直さをもって私が回答することを望むだろう、と信じる。
 現在の彼らの指導者たちが信じようと、信じまいと、ロシアの人民が自由(liberty)と秩序ある平和という最大の希望を獲得できるよう援助する特権を我々がもつかもしれない、そのような方途が我々には開かれている、ということは、我々の心からの願望であり、希望だ。」(94)//
 (5)ボルシェヴィキと連合諸国の関係には潜在的には重大な一つの障害があった。それは、ロシアの負債の問題だった。
 すでに記したように、1月にボルシェヴィキ政府は、ロシア国家の国内および国外の貸主に対する債務に関して債務不履行を宣言(default)した。(95)
 ボルシェヴィキは、かなりの懸念をもってこの措置を執った。このような数十億ドルに上る国際法侵犯は「資本主義者十字軍」を誘発するのではないか、と怖れたのだ。
 しかし、西側で革命が切迫しているという予想の拡がりによって警戒が逸らされ、この措置が執られた。//
 (6)西側に革命は起こらず、反ボルシェヴィキ十字軍もなかった。
 西側諸国は、この新しい国際法違反を驚くべき沈着さで迎えた。
 アメリカはボルシェヴィキに対して、何も怖れる必要はないと保証するまでした。
 レーニンの親密な経済助言者のI・ラリン(Iurii Larin)は、アメリカ領事の訪問をペトログラードで受けたが、その領事は、合衆国は国際的借款の無効宣告を「原理的に」受け入れることはできないが、としつつ、こう語った。
 「合衆国は、支払いを要求しないこと、ロシアが世界に登場したばかりの国家であるかのごとく関係を開くことを、事実上受諾するだろう。
 合衆国はとくに、ロシアがアメリカから全ゆる種類の機械や原料をムルマンスク、アルハンゲルまたはウラジオストークへの配送を通じて輸入するために、我々(ソヴェト・ロシア)に大規模の商業上の貸付(credit)を提供することができるだろう。」
 返済を確保すべく、合衆国領事は、ソヴェト・ロシアが中立国スウェーデンに若干の金貨を預託し、アメリカ合衆国にカムチャツカの割譲をすることを考慮するよう、提案した。(96)//
 (7)自分たちの国民を革命へと煽動しているときですら「帝国主義的強奪者たち」とのビジネスをすることができる、ということについて、これ以上の証拠が必要だろうか?
 そして、ある一国との取引関係を別の国とのそれが競争し合うようけしかけるだろう。あるいは、資本主義的産業家や銀行家を軍事と対抗させるだろう。
 このような<対立させて政治をせよ(divide et impera)>の政策を用いる可能性は、無限にあった。
 そして実際に、ボルシェヴィキは、自分たちの呆れるほどの弱さを埋め合わせるための機会としてこれを最大限に利用することとなる。つまり、自国の民衆が飢えて凍えているときですら、諸外国が持たない食料や原料と交換して工業製品を輸入するという餌で諸外国を釣ることによって。//
 (8)アメリカ合衆国政府がボルシェヴィキ当局に1918年初期に伝えた全ての意向は、ワシントンが表向きはボルシェヴィキの民主主義的および平和的意図の宣告をそのまま受け取り、世界革命の呼びかけを無視する、ということを示した。  
そのことによってレーニンとトロツキーは、ワシントンへの救援の訴えに対する積極的な反応を十分に期待することができたのだった。//
 (9)待ちに待った、3月5日の問い合わせに対するアメリカの回答は、ソヴェト第四回大会の開会日(3月14日)に届いた。
 ロビンスはそれをレーニンに手渡した。レーニンはたたちに、その回答書を<プラウダ>で公表した。
 それは当たり障りのない内容で、ソヴィエト政府ではなくソヴェト大会が宛先となっていた。おそらくは、このソヴェト大会がアメリカの議会と同等のものだと考えたからだろう。
 その回答は、当面はソヴィエト・ロシアを援助するのを拒否しつつ、非公式の承認にほとんど近いものをソヴィエト体制に認めるものだった。
 アメリカ合衆国大統領は、こう書いていた。//
 「今ここに、ソヴェト大会が開催される機会を利用して、ドイツ軍が自由を求める闘い全体を妨害しそれに逆行し、ドイツの願望のためにロシア国民の目的を犠牲にしているこの瞬間に、アメリカ合衆国国民がロシア国民に対して感じている真摯な共感を表明させて下さい。//
 合衆国政府は現在は不幸にも、本来は望んでいる直接的で有効な援助を行う立場にはありませんけれども、私は貴大会を通じてロシア国民に対して、ロシアがもう一度完全な主権と自己に関係する問題に関する自立性を確保するための、かつまたロシアがヨーロッパと現代世界の生活上のその偉大な役割を完全に回復するための、全ての機会を利用するつもりである、と保証させて下さい。//
 合衆国国民の全ての心は、専制的政治から永遠に自由になろうと、そして自分たちの生活の主人になろうとしているロシア国民とともにあります。
 ウッドロウ・ウィルソン
 ワシントン、1918年3月11日。」(97)
 イギリス政府も、同様の趣旨の反応をした。(98)//
 (10)この回答は、ボルシェヴィキが期待したものではなかった。ボルシェヴィキは、「帝国主義」陣営が互いに競い合う能力を過大評価していたのだ。
 ウィルソンの電信回答はたぶん最初の提示にすぎないと期待して、レーニンはロビンスに、追加の伝言を乞い続けた。
 その追加回答はもうないということが明らかになったとき、レーニンは、(大統領ではなく)アメリカ「人民」を侮蔑する回答書を執筆した。そこで彼は、アメリカ合衆国での革命は遠からずやって来る、とつぎのように確約した。//
 「大会は、アメリカ国民に、とりわけ合衆国の全ての労働、被搾取階級に対して、厳しい試練の中にいるソヴェト大会を通じてウィルソン大統領がロシア国民に表明した共感に対して謝意を表する。//
 ソヴェト・ロシア社会主義連邦共和国は、ウィルソン大統領が意向表明した機会を利用して、帝国主義戦争の恐怖によって死滅し苦痛を被っている全ての人民に対して、心からの共感と、全ての諸国の労働大衆が資本主義の軛を断ち切って、社会主義国家を建設する幸福なときが来るのは遠くないという堅い信念を、表明する。社会主義社会のみが、全ての労働人民の文化と福利はもとより、公正で永続する平和を達成することができる。」(99)//
 ソヴェト大会は、嘲弄の轟きの中で、この決議を満場一致で可決した(二箇所の小さな修正はあった)。ジノヴィエフはこの決議を、アメリカ資本主義を面前にしての「痛烈な非難」だったと叙述した。(100)//
 (11)大会は予定通り、ブレスト=リトフスク条約を批准した。
 この趣旨での提案は、724票の賛成を得た。この数は出席したボルシェヴィキ党員よりも10パーセント少なかったが、それでも3分の2の多数を超えていた。
 276名の代議員、あるいは4分の1は、ほとんど全員が左翼エスエルでおそらくは左翼共産主義者のうちの若干が加わっていたが、反対票を投じた。
 118名の代議員は、保留した。
 結果が発表された後、左翼エスエルはソヴナルコムから離脱することを宣言した。
 これによって、「連立政権」という虚構は終わった。左翼エスエルはなおも当分は、チェカを含む下級のソヴェト機関で職務を継続したけれども。//
 (12)ソヴェト大会は、秘密投票によって、政府にブレスト条約を破棄し、その裁量でもって宣戦を布告する権限を付与するボルシェヴィキ中央委員会の決議を承認した。//
 -----------
 (93) George Kennan, Russia Leaves the War(Princeton, N.J., 1956), p.255.
 (94) Cumming and Pettit, Russian-American Relations, p.70.
 (95) Dekrety, I, p.386-7.; これにつき、以下の第15章を参照。
 (96) NKh, No.11(1918年), p.19-p.20.
 (97) Cumming and Pettit, Russian-American Relations, p.87-p.88.
 (98) 同上, p.91-p.92.
 (99) 同上, p.89.; ロシア語原文は、Lenin, PSS, XXXVI, p.91.
 (100) Noulens, Mon Ambassade, II, p.34-p.35.
 ----
 第17節・ボルシェヴィキの外交政策の原理。
 (1)レーニンは、屈辱的な条約を受諾するという先見ある見方でもって、必要とする時間を稼ぎ、事態を自然に崩壊させたとして、ボルシェヴィキ党員から広く、高い評価と信頼を得た。
 ドイツが西側連合諸国に降伏したあとの1918年11月13日にボルシェヴィキがブレスト条約をを破棄したとき、ボルシェヴィキ運動でのレーニンの資産は、これまでになかった高さにまで達した。
 無謬だという彼の評価を、これ以上に高めたものはなかった。レーニンは、その生涯で二度と、辞任するという脅かしをする必要がなかった。//
 (2)だがしかし、レーニンが同僚たちにドイツの要求に従うよう説得している際に、彼は中央諸国の降伏が差し迫っていると予見していた、ということを示すものは何もない。
 反対派を説得しようと考えられ得る全ての論拠を使っていた1917年12月から1918年3月までの彼の演説や文章の中で、公的であれ私的であれ、レーニンは、時勢はドイツから離れており、ソヴェト・ロシアは放棄しなければならなかったもの全てを再びすぐに取り戻すだろう、とは何ら主張しなかった。
 全くの反対だった。
 1918年の春と夏、連合諸国に破壊的な敗北を与えそうだというドイツ最高司令部の楽観的見方を、レーニンは共有しているように見えた。
 L・クラージン(Leonid Krasin)は、1918年9月早くにドイツから帰ったときに<イズヴェスチア>の読者に対して、優秀な組織と紀律の力でドイツは困難なく戦争をさらにもう5年間継続するだろう、と保障した。(101)これは確実に、自分のためだけに語ったのではなかった。
 ドイツは勝利するとのボルシェヴィキの信頼は、つぎの綿密な協定によって証されている。それはモスクワがベルリンと1918年8月に締結したもので、両国が公式の同盟関係国に至る初めにあるという見方を前提にして同意している。(102)
 ドイツの敗北がモスクワにとってはいかに想定し難く考えられていたかは、ドイツ帝国が死の発作に陥っていた1918年9月30日になっても、レーニンは3億1250万ドイツ・マルクの価値のある資産をベルリンに移し替えることを許可しいる、という事実によって証明されている。そのような移し替えについては、8月27日のブレスト条約の付属協定によって定められいたのだが、レーニンは、安全にその支払いを遅延させて、放棄することもできたのだった。
 ドイツが休戦を求める一週間前、ソヴィエト政府は、ドイツ市民はソヴィエトの銀行から預金を引き出して、それを自国にもち出すことができる、ということを再確認した。(103)
 こうした証拠から見て引き出される疑い得ない結論は、レーニンはドイツの<命令(Diktat)>〔ブレスト=リトフスク条約〕に屈従していた、ということだ。その理由はドイツが相当に長くはその条約を履行することができないと考えたからではなく、反対に、ドイツが勝利するだろうと予期し、勝者の側に立ちたかったからだ。//
 (3)ブレスト=リトフスク条約をめぐる状況は、ソヴィエトの外交政策になることとなるものの古典的なモデルを提供している。
 ソヴィエト外交政策の原理的考え方は、つぎにように要約することができるだろう。//
 1) いつ何時でも最高の優先順位をもつのは、政治権力の維持だ。-つまり、一つの国家領域のある部分に対する主権的権能と国家機構の統制。
 これはこれ以上小さくすることのできない、最少限度だ。
 これを確保するための対価で高すぎる事物は存在し得ない。
 このためには、何でもかつ全てを犠牲にすることができる。人命でも、土地や資源でも、民族的名誉でも。
 2) ロシアが十月革命を経て世界の社会主義の中心(「オアシス」)となって以降、ロシアの安全確保と利益は他の全ての諸国、闘争、あるいは党、のそれらに優先する。後者には、「国際プロレタリアート」のそれらも含まれる。
 ソヴェト・ロシアは、国際社会主義運動を具現化したものであり、社会主義運動を推進するための基地だ。
 3) 一時的な利益を得るためめに、「帝国主義」諸国と講和することは許され得る。しかし、その講和は軍事休戦と見なされなければならず、利益となる情勢の変化があれば破棄されるべきものだ。
 レーニンは1918年5月に、資本主義が存在するかぎりで、国際的取り決めは「紙の屑だ」と語った。(104)
 表向きは平和の時期ですら、協定に調印した政府を打倒するという見地から、敵対行動が、因習にとらわれない手法によって、追求されなければならない。//
 4) 福利を求める政策、国内政策と同様に外交政策は、つねに非感情的に実施されなければならない。その際には、「力の相関関係」への考慮に対してくきわめて綿密な注意が払われなければならない。以下のとおり。
 「我々は偉大な革命的経験をした。そしてその経験から、我々は客観的条件が許すならばいつでも絶えざる前進をする戦術をとる必要があることを学んだ。<中略>
 しかし、我々は、客観的条件が一般的に絶えざる前進を呼びかけることのできる可能性を示していないならば、力をゆっくりと結集して、遅らせる戦術を採用しなければならない。」(105)。
 (4)だが、ボルシェヴィキの外交政策にはもう一つの基本的な原理があることが、ブレスト条約の施行後に明らかになった。すなわち、外国の共産主義者の利益は<分割統治(divide et impera)>原則の適用によって促進されなければならないという原理的考え方だ。あるいは、レーニンの言葉によると、こうだ。
 「敵の間にある最も小さな『裂け目(crack)』であってもそれら全てを、多様な諸国のブルジョアジーの間や、産業国家内部のブルジョアジーの多様な集団や分野の間にある全ての利害対立を、慎重に、用心深く、警戒して、かつ巧妙に利用することによって」、促進されなければならない。(106)
 ------------
 (101) Izvestiia, No.190/454(1918月9月4日), p.3.
 (102) 後述、第14章を見よ。
 (103) Izvestiia, No.242/506(1918月11月5日), p.4.
 (104) Lenin, PSS, XXXVI, p.331.
 (105) 同上, p.340.
 (106) 同上, XLI, p.55.
 ----
 第16節・第17節、終わり。第13章も終わり。次章・第14章の表題は、<国際化する革命>。

2253/R・パイプス・ロシア革命第二部第13章第15節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。原書、597頁~600頁。
 毎回行っているのではないコメント。1918年のムルマンスクへの連合国軍(とくにイギリス)の上陸はしばしば<ロシア革命に対する資本主義国の干渉>の例とされている。しかし、以下のR・パイプスの叙述によると、何のことはない、当時の種々の可能性をふまえてのトロツキーらボルシェヴィキの要請によるもので、間違いなくレーニンも是認している。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
 ---- 
 第15節・連合国軍がロシアに初上陸。
 (1)レーニンはドイツの諸条件に従ったが、ドイツをまだ信頼してはいなかった。
 彼はドイツ政府内部の対立に関する情報を十分に得ており、将軍たちが自分の排除を強く主張していることを知っていた。
 そのため、レーニンは、連合諸国との接触を維持し、ソヴィエトの外交政策を彼らのよいように急激に転換する用意があると約束するのが賢明だと考えた。//
 (2)ブレスト条約が調印されたが批准はまだのとき、トロツキーは、アメリカ合衆国政府への伝言を記したつぎの文書を、ロビンスに手渡した。
 「つぎのいくつかの場合が考えられる。a)全ロシア・ソヴェト大会がドイツとの講和条約を批准するのを拒む。b)ドイツ政府が講和条約を破って強盗的収奪を継続すべく攻撃を再開する。あるいは、c)ソヴィエト政府が講和条約を破棄するように-批准の前または後で-、そして敵対行動を再開するように、ドイツの行動によって余儀なくされる。
 これらのいずれの場合でも、ソヴィエト権力の軍事的および政治的方針にとってきわめて重要なのは、つぎの諸質問に対して回答が与えられることだ。
 1) ソヴィエト政府がドイツと戦闘する場合、アメリカ合衆国、大ブリテン(イギリス)、およびフランスの支援をあてにすることができるか?
 2) 最も近い将来に、いかなる種類の支援が、いかなる条件のもとで用意され得るだろうか?-軍事装備、輸送供給、生活必需品は?
 3) 個別にはとくにアメリカ合衆国によって、いかなる種類の支援がなされるだろうか?
 4) 公然たるまたは暗黙のドイツの了解のもとで、またはそのような了解なくして、日本がウラジオストークと東部シベリア鉄道を奪うとすれば、それはロシアを太平洋から切り離し、ソヴィエト兵団がウラル山脈あたりから東方へと戦力を集中させるのを大いに妨害することとなるだろう。この場合、連合諸国は、個別にはとくにアメリカ合衆国は、日本軍がわが極東の領土に上陸するのを阻止し、シベリア・ルートを通じてロシアとの安全な通信連絡を確保するために、どのような措置をとるつもりだろうか?//
 アメリカ合衆国政府の見解によれば、-上述のごとき情勢のもとで-イギリス政府はどの程度の範囲の援助を、ムルマンスクやアルハンゲルを通じて確実に与えてくれるだろうか?
 イギリス政府は、この援助を行い、それでもって近いうちにイギリス側はロシアに対して敵対的行動方針をとるという風聞の根拠を喪失させるために、いかなる措置をとることができるだろうか?//
 これらの質問の全ては、ソヴィエト政府の内政および外交の政策は国際社会主義の諸原理と合致すべく嚮導される、またソヴィエト政府は非社会主義諸政府の完全な自立性を護持する、ということを自明の前提条件としている。」(82)//
 この文書の最後の段落が意味したのは、ボルシェヴィキは、助けを乞い求めているまさにその諸政府を打倒する闘いをする権利を留保する、ということだった。//
 (3)トロツキーがこの文書をロビンスに渡した日、彼はB・ロックハートと会話した。(83)
 トロツキーはこのイギリス外交官に対して、近づいているソヴェト大会はおそらくブレスト条約の批准を拒否し、ドイツに対する戦争を宣言するだろう、と言った。
 しかし、この事態が起きるためには、連合諸国はソヴィエト・ロシアを支援しなければならなかった。
 日本の大量の遠征軍がドイツと交戦すべくシベリアに上陸する可能性を連合諸国政府に伝えるべきだと暗に示唆しつつ、トロツキーは、そのようなロシアの主権の侵害は連合諸国との全ての信頼関係を破壊するだろう、と語った。
 ロックハートはトロツキーの発言をロンドンに知らせつつ、こうした提案は東部前線での戦闘を活性化させるよい機会を与える、と述べた。
 アメリカ大使のフランシスは、同じ意見だった。彼はワシントンに電信を打って、連合諸国が日本に対してシベリア上陸計画をやめるよう説き伏せることができれば、ソヴェト大会はおそらくブレスト条約を拒否するだろう、と伝えた。(84)
 (4)もちろん、ソヴェト大会が条約の批准を拒否する可能性は、きわめて乏しかった。ボルシェヴィキが多数派を占めることが定着しているにもかかわらず、レーニンが苦労して獲得した勝利をあえて奪い去ることになるからだ。
 ボルシェヴィキは、本当に怖れていたことを阻止するために餌を用いた。-怖れたこととはすなわち、日本軍によるシベリア占領と、反ボルシェヴィキ勢力の側に立っての日本のロシア問題への干渉だ。
 フランス外交官のヌーランによると、ボルシェヴィキはロックハートを信頼していたので、ロックハートが暗号を使ってロンドンと連絡通信するのを許した。そうしたことは、公式の外国使節団ですら禁止されたことだった。(85)
 (5)連合諸国との友好関係によって生じた最初の具体的結果は、3月9日に連合諸国の少数の分遣隊がムルマンスクに上陸したことだった。
 1916年以降、約60万トンに上る軍需物資がロシア軍に対して送られ、その多くについては支払いがなかったのだが、その軍需物資は輸送手段が不足しているために内陸には送られず、そこに蓄積されていた。
 連合諸国は、この物資がブレスト=リトフスク条約の結果としてドイツ軍の手に入るか、ドイツ=フィンランド軍勢力によって分捕られることを、怖れた。
 連合諸国はまた、ペチェンガ(Pechenga, Petsamo)付近をドイツ軍が奪取して、そこに潜水艦基地を建設するのを懸念していた。//
 (6)連合諸国による保護を求める最初の要請はムルマンスクのソヴェトによるもので、3月5日に、ドイツ軍に援助されていると見られる「フィンランド白軍」がムルマンスクを攻撃しようとしている、とペトログラードに電報を打った。
 当地のソヴェトはイギリス海軍と接触し、同時に、ペトログラードに対して、連合諸国に介入を求めることの正当化を要請した。
 トロツキーはムルマンスク・ソヴェトに、連合諸国の軍事援助を受けるのは自由だ、と知らせた。(86)
 こうして、ロシア国土に対する西側の最初の干渉は、ムルマンスク・ソヴェトの要請とソヴィエト政府の是認によって行われた。
 レーニンは1918年5月14日の演説で、イギリスとフランスは「ムルマンスクの海岸を防衛するために」上陸した、と説明した。(87)
 (7)ムルマンスクに上陸した連合諸国の部隊は、数百名のチェコ兵のほか、150名のイギリス海兵たち、若干のフランス兵で構成されていた。(88)
 その後の数週間、イギリスはムルマンスクの件について、モスクワとの恒常的な連絡通信関係を維持した。不幸にも、その意思疎通の内容は、明らかにされてきていない。
 両当事者は、ドイツとフィンランドの両軍がこの重要な港湾を奪取するのを阻止すべく協力した。
 のちに、ドイツの圧力によって、モスクワはロシア国土に連合諸国軍が存在することに抗議した。しかし、トロツキーとの緊密な関係を保っていたフランス外交官のサドゥールは、自国政府に対して、心配する必要はない、とこう助言した。//
 「レーニン、トロツキーおよびチチェリンは、現在の情勢のもとで、連合諸国との同盟する希望をもって、イギリス・フランスのムルマンスク上陸を受容している。これはドイツに講和条約違反だと抗議する言い分を与えるのを阻止するために行われたと理解されていて、彼ら自身は連合諸国に対して純粋に形式的な抗議を表明するだろう。
 彼らは素晴らしいことに、北部の港湾とそこにつながる鉄道を、ドイツ・フィンランドの危険な企てから守ることが必要だと理解している。」(89)
 (8)第四回ソヴェト大会の前夜、ボルシェヴィキは第7回(臨時)党大会を開いた。
 緊急に招集された、46名の代議員が出席したこの大会の議題は、ブレスト=リトフスク条約に集中していた。
 口火を切った、とくにレーニンの不人気な立場を防衛する親密なグループの議論からは、国際法および他国との関係に関する共産主義者の態度について、きわめて稀な洞察を行うことができる。
 (9)レーニンは、左翼共産主義者に対して、力強く自分を擁護した。(90)
 彼が最近の事態を概述して聴衆に想起させようとしたのは、ロシアで権力を奪取するのがいかに容易だったか、そしてその権力を組織化して維持するのがいかに困難であるか、だった。
 権力を掌握する際に有効だと分かった方法を、それを管理するという骨の折れる任務に単純に移し替えることはできない。
 レーニンは、「資本主義」諸国との間の永続的な平和などあり得ないこと、革命を世界に拡大することが必須であること、を承認した。
 しかし、現実的でなければならない。西側の産業ストライキの全てが革命を意味するわけではない。
 全くの非マルクス主義者ではむろんないが、レーニンは、後進国であるロシアに比べて、民主主義的な資本主義諸国で革命を起こすのははるかに困難だ、と認めた。//
 (10)これらは全て、聞き慣れたことだった。
 目新しいのは、平和と戦争という主題に関する、レーニンのあけすけな考察だ。
 レーニンは、指導的な「帝国主義」権力との永遠の講和をしたのではないかと怖れる聴衆に対して、あらためて保証した。
 まず、ソヴィエト政府は、ブレスト条約の諸条項を破る意図をつねに持っている。実際に、すでに30回か40回かそうした(たった3日間で!)。
 中央諸国との講和は、階級闘争の廃止を意味していない。
 平和はその性質上つねに一時的なもので、「力を結集する機会」だ。「歴史が教えるのは、平和は戦争のための息抜きだ、ということだ」。
 別の言葉で言うと、戦争が正常な状態であり、平和は小休止だ。すなわち、非共産主義諸国との間の永続的な平和などあり得ず、敵対関係の一時的な停止、つまり停戦があるにすぎない。
 レーニンは、続けた。講和条約が発効している間ですら、ソヴィエト政府は-条約の諸条項を無視して-新しいかつ力強い軍隊を組織するだろう。
 彼はこのように述べて、是認することが求められている講和条約は世界的革命の途上にある迂回路にすぎないと、支持者たちを安心させた。//
 (11)左翼共産主義者たちは、反対論をあらためて述べた。しかし、十分な票数を掻き集めることはできなかった。
 条約を是認するとの提案は、賛成28、反対9、保留1で、通過した。
 レーニンはさらに、党大会に対して、秘密決議を採択するよう求めた。この秘密期間未定のままで公表されない決議は、中央委員会に、「帝国主義者やブルジョア政府との間の平和条約をいつでも無効に(annul)する権限、および同様に、それらに宣戦布告する権限」を、与えるものだった。(92)
 ただちに採択され、のちにも公式には撤回されなかったこの決議は、ボルシェヴィキ党中央委員会の一握りの者たちに、彼らの随意の判断でもって、ソヴィエト政府が加入した全ての国際的協定を破棄する権能、およびいずれかのまたは全ての外国に対して宣戦布告をする権能を与えた。
 -------------
 (82) J. Degras, Documents of Russian Foreign Policy, I(London, 1951), p.56-p.57. 文書の日付は、1918年3月5日。
 (83) Cumming and Pettit, Russian-American Relations, p.82-4.
 (84) 同上, p.85-6.
 (85) J. Noulens, Mon Ambassade en Russie Sovietique, II(Paris, 1933), p.116.
 Cumming and Pettit, Russian-American Relations, p.161-2.を参照。
 (86) NZh, No.54/269(1918年3月16日/29日), p.4.; D Francis, Russia from the American Embassy(New York, 1922), p.264-5.
 Brian Pearce, How Haig Saved Lenin(London, 1988), p.15-p.16.
 (87) NS, No.23(1918年5月15日), p.2.
 (88) NZh, No.54/269(1918年3月16日/29日), p.4.
 (89) 1918年4月12日付手紙、in: Sadoul, Notes, p.305.
 ドイツによる圧力につき、Lenin, in: NS, No.23(1918年5月15日), p.2.
 (90) Lenin, PSS, XXXVI, p.3-p.26.
 (91) Lenin, Sochineniia, XXII, p.559-p.561, p.613.
 (92) KPSS v rezoliutsiiakh i resheniiakh s"ezdov, konferentsii iplenumov TsK, 1898-1953, 第7版, I(Moscow, 1953), p.405.; Lenin, PSS, XXXVI, p.37-8, p.40.を参照。
 ----
 第15節、終わり。この章には、あと第16節・第17節がある。

2247/R・パイプス・ロシア革命第13章第12節~第14節(1990年)。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。最適な訳出だと主張してはいない。一語・一文に1時間もかけるわけにはいかない。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
 ----
 第12節・ロシアがドイツの提示条件で降伏。
 (1)ドイツがボルシェヴィキとの交渉で風を得たのはフランスによってだったのか、それともたんなる偶然だったのか、ドイツがもどかしく待っていた回答が届いたのは、ボルシェヴィキの中央委員会とソヴナルコムが連合諸国の助けを求めると票決した、まさにその朝だった。(66)
 それはレーニンの最悪の怖れを確認するものだった。
 ベルリンは今では、戦争の推移の中でドイツ軍が掌握した領域だけではなく、ブレスト交渉が決裂した後の週に占拠した領域をも要求した。
 ロシアは動員解除するとともに、ウクライナとフィンランドを明け渡さなければならないものとされた。また、負担金を支払い、多様な経済的譲歩をするものとされた。
 通告書には、48時間以内での回答を要求する最後通牒の語句があり、その後で条約の調印には最長で72時間が許容されるとされていた。//
 (2)つぎの二日間、ボルシェヴィキ指導部は事実上は連続した会合をもった。
 レーニンは、何度も少数派であることを感じた。
 彼はついには、党と国家の全ての役職を辞任すると脅かすことで、何とか説き伏せた。//
 (3)ドイツの通告書を読むや否や、レーニンは中央委員会を招集した。
 15人の委員が現れた。(67)
 レーニンは言った。ドイツの最後通告書は無条件に受諾されなければならない。「革命的な言葉遊び(phrasemongering)は、もう終わりだ」。
 主要な事柄は、ドイツは屈辱的なことを要求しているが、「ソヴィエトの権威に影響を与えない」-すなわち、ボルシェヴィキが権力にとどまることをドイツは許容している、ということだ。
 かりに同僚たちが非現実的な行動方針に固執するならば、彼らは自分たちでそうしなければならないだろう、なぜなら、レーニンは政府からも中央委員会からも去ってしまっているだろうから。//
 (4)レーニンはそして、賢明に選択した言葉遣いで、三つの決定案を提示した。
 ①最新のドイツの最後通牒が受諾される、②ロシアは革命戦争を中止すべく即時の準備を行う、③モスクワ、ペトログラードおよび他都市の各ソヴェトは、それぞれの自らの事態に関する見方でもって票決を確認する。
 (5)辞任するとのレーニンの脅かしは、効いた。レーニンがいなければボルシェヴィキ党もソヴナルコムも存在しないだろうと、誰もが認識した。
 最初のかつ重大な決定では、レーニンは多数派を獲得しなかった。だがそれは4委員が棄権したからで、動議が7対4で採択された。
 二度めと三度めの決定では、問題がなかった。
 投票が終わると、ブハーリンと他の3人の左翼共産主義者は、党の内部や外部にある条約反対派を自由に煽動するために党と政府の全ての「責任ある役職」を辞任するという動議をもう一度経験した。//
 (6)ドイツの最後通告を受諾する決定にはまだ〔全国ソヴェトの〕中央執行委員会(=CEC)の同意が必要だったけれども、レーニンはその結果に十分に自信があり、ツァールスコエ・セロにいる無線連絡の操作者に対して、ドイツに対する連絡のために一チャンネルを空けておくよう指令した。//
 (7)その夜レーニンは、CEC で状況報告を行った。(68)
 その後の票決で、ドイツの最後通牒を受諾する決議案について技巧的な勝利を得た。それはしかし、反対するボルシェヴィキの議員たちは退出し、その他の多数の反対議員は棄権したからだった。
 最終票数は、レーニン案に賛成116、反対85、棄権26だった。
 この満足にはほど遠い、しかし形式的には拘束力をもつ結果にもとづいて、レーニンは、午前中の早い時間に、〔全国ソヴェト〕中央執行委員会の名前で、ドイツの最後通告を無条件で受諾する文章を執筆した。
 それはただちに、ドイツへと無線で伝えられた。//
 (8)2月24日朝、中央委員会は、ブレストへ行く代表団を選出した。(69)
 今や、国家と党の役職から辞任する多数の者の氏名が、手渡された。
 すでに外務人民委員を離任していたトロツキーは、他の役職も同様に辞した。
 彼はフランスとイギリスはソヴェト・ロシアとの協力に気を配ってくれ、ロシアの領土への意図をもっていなかった、という理由で、これら両国と緊密な関係をもつことを支持した。
 何人かの左翼共産主義者たちは、ブハーリンに倣って、辞職願いを提出した。
 彼らは、公開書簡で、動機を明確に述べた。
 彼らは、こう書く。ドイツへの降伏は、外国の革命的勢力に対する重大な打撃であり、ロシア革命を孤立させる。
 さらに、ロシアがドイツ資本主義と行うよう要求されている譲歩は、ロシアの社会主義にとって災難的な影響を与えるだろう。すなわち、「プロレタリアートの立場の外部的な屈服は不可避的に、内部的な屈服の道を切り拓く」。
 ボルシェヴィキは、中央諸国に降伏してはならず、また、連合諸国と協力してもならない。そうではなく、「国際的な規模での内戦を開始」しなければならない。(70)//
 (9)欲しいものを得たレーニンは、トロツキーと左翼共産主義者たちに、ソヴィエト代表団がブレストから戻るまでは辞任という行動をとらないように懇願した。
 最近の苦しい日々のあいだ、レーニンは顕著な指導性を発揮し、支持者たちに甘言を言ったり説得したりしながら、忍耐力も、決定力も、失わなかった。
 彼の生涯の中で、おそらく最も苛酷な政治闘争だった。//
 (10)恥辱的な<命令文書(Diktat)>に署名するために、誰がプレストへ行こうとするだろうか?
 誰も、その名前を、ロシアの歴史上最も屈辱的な条約に関係して残したくなかった。
 ヨッフェは、にべもなく拒んだ。一方、辞職していたトロツキーは、舞台から身を引いた。
 古いボルシェヴィキで一時は<プラウダ>編集長だったG・Ia・ソコルニコフは、ジノヴィエフを指名した。それに応えてジノヴィエフは、ココルニコフを逆指名して返礼した。(71)
 ソコルニコフは、指名されれば中央委員会を去ると、反応した。
 しかしながら、結局は、ソコルニコフが、ロシアの講和代表団の長を受諾するように説得された。この代表団の中には、L・M・ペトロフスキ(Petrovskii)、G・V・チチェリン(Chicherin)、L・M・カラハン(Karakhan)がいた。
 代表団は、2月24日にブレストに向けて出発した。//
 (11)ドイツに降伏するという決定に対していかに反対が強かったかは、レーニン自身の党内ですら、ボルシェヴィキ党のモスクワ地域事務局が2月24日にブレスト条約を拒み、全員一致で中央委員会を不信任する票決を通過させた、という事実で示されている。(72)
 (12)ロシアが降伏したにもかかわらず、ドイツ軍は前進をし続けて、司令官が引いていた限界線まで進み、その線を両国の永続的な国境にしようと意図した。
 2月24日、ドイツ軍はDorpat(Iurev)〔エストニア〕とプスコフを占拠し、ロシアの首都から約250キロメートル離れた場所に陣取った。
 翌日に彼らは、Revel〔ラトヴィア〕 とボリソフ(Borisov〔ベラルーシ〕)を掌握した。
 彼らは、ロシア代表団がブレストに到着した後でも前進し続けた。すなわち、2月28日、オーストリア軍はベルディチェフ(Berdichev〔ウクライナ〕)を奪取し、ドイツ軍は3月1日にホメリ(Gomel〔ベラルーシ〕)を占拠した後、チェルニヒウ(Chernigov〔ウクライナ〕)とモギレフ(Mogilev)を奪いに向かった。
 3月2日、ドイツの戦闘機は、ペトログラードに爆弾を落とした。//
 -------------
 (66) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.341-3.
 (67) Protokoly Tsentral'nogo Komiteta RSDPR(b)(Moscow, 1958), p.211-8.
 (68) Lenin, PSS, XXXV, p.376-380.
 (69) Protokoly TsK, p.219-p.228.
 (70) Lenin, Sochineniia, XXII, p.558.
 (71) Lenin, PSS, XXXV, p.385-6.
 (72) 同上, p.399.
 ----
 第13節・ソヴィエト政権のモスクワ移転。
 (1)レーニンは、ドイツに対する冒険はしなかった。-彼は3月7日にこう言った。ドイツ軍がペトログラードを占拠する意図をもつことに「微塵の疑いもない」。(73)
 そして彼は、首都をモスクワに避難させることを命令した。
 ニゼール将軍によると、物資のペトログラードからの移転は、フランスの軍事使節が手配した専門家の助けで行われた。(74)
 移転の趣旨で発せられた公式の布令がないままに、3月初めに人民委員部はかつての首都への移転を開始した。
 <Novaia zhizn'>で「逃亡(Flight)」と題された記事は、パニックにとらわれたペトログラード、市民たちが鉄道駅に殺到していること、そして彼らがもしも鉄道に乗り込めなければ車または徒歩で逃亡しようとしていることを描写した。
 ペトログラード市は、やがて静寂に変わった。電力も、燃料も、医療サービスもなかった。学校や交通は機能するのを止めた。
 射殺やリンチ攻撃が、日常の出来事になった。(75)//
 (2)ペトログラードの露出した状態やドイツの意図の不確定性を考えると、共産主義国家の首都をモスクワに移転させる決定は、理にかなっていた。
 しかし、臨時政府が半年前に同じ理由でペトログラードから避難することを考えたとき、同じボルシェヴィキこそがその考えは裏切りだと最も激烈に非難した、ということを、完全に忘れることはできない。//
 (3)移転は、多大の安全確保に関する準備のもとで実行された。
 党と国家の官僚たちが先ずは移るものとされた。中央委員会の委員たち、ボルシェヴィキの労働組合官僚、および共産党系新聞の編集者たちを含む。
 彼らは、モスクワでは、没収した私的所有物(建築物)の中に入った。
 (4)レーニンは、3月10-11日の夜に、こっそりとペトログラードを出た。同行したのは、妻と秘書のボンチ=ブリュエヴィチだった。(76)
 この旅は、最高の秘密として計画された。
 一同は特別列車で、ラトヴィア人に警護されながら旅行をした。
 翌朝の早い時間に、逃亡者たちの意図不明の荷物を積んだ列車に衝突して、停車した。停止中にボンチ=ブリュエヴィチは、彼らの武装を解除させて、準備した。
 列車は進み続け、夕方遅くにモスクワに到着した。
 この旅については、誰も語られなかった。自称世界のプロレタリアートの指導者は、妹だけに迎えられて、どのツァーリもかつてしなかったやり方で、首都にこっそりと入ったのだ。//
 (5)レーニンはその住居を、仕事場とともにクレムリンに構えた。
 そこが、15世紀にイタリアの建築家によって建設された要塞の、石壁と重たい門の内部が、ボルシェヴィキ政府の新しい所在地となった。
 人民委員たちも家族とともに、やはりクレムリン内部に安全を求めた。
 この要塞の警護はラトヴィア人に委ねられた。彼らは、修道僧のグループも含めて、多数の居住者をクレムリンから追い出した。//
 (6)安全という観点から考え出されたものだったけれども、ロシアの首都をモスクワに移して、自分をクレムリンに落ち着かせるというレーニンの決定は、深い意味をもった。
 それはいわば、かつてのモスクワ公国の伝統を好んだピョートル一世が始めた親西側路線を拒否することの象徴だった。
 「一時的」だと宣言されたにもかかわらず、モスクワの首都化は永続的なものになった。
 首都移転はまた、個人的・人身的な安全を求める、新しい指導者たちの病的な恐怖心も反映していた。
 レーニンらのこの行為を評価するには、イギリスの首相がダウニング通りから転居して、その住居と仕事場を閣僚たちと同様にロンドン塔に移し、そこでシーア派の者たちの警護のもとで政治を行うことを想像してみなければならない。//
 ------------
 (73) Lenin, PSS, XXXVI, p.24.
 (74) Niessel, Triomphe, p.229.
 (75) La Piletskii in: NZh, No.38/253(1918年3月9日), p.2.
 V.Stroev, NZh, No.40/255(1918年3月12日), p.1.も見よ。
 (76) Bonch-Bruevich, Pereezd V. I. Lenina v Moskvu(Moscow, 1926).
 ----
 第14節・ブレスト=リトフスク条約の諸条件。
 (1)ロシア人たちは3月1日にブレストに着き、その2日後、議論をいっさいすることなく、ドイツとの条約に署名した。
 (2)条件は、きわめて負担の大きいものだった。
 これを知ると、かりに連合諸国が負けていれば待ち受けていた講和条約がどういうものだったか、が分かるだろう。また、ドイツがヴェルサイユの<命令(Diktat)>に不満をもったのが根拠のないことも示している。ヴェルサイユ講和条約は、多くの点で、ドイツが無力のロシアに押しつけた条約よりは優しいものだったのだから。
 (3)ロシアは、領土に関する大きな譲歩を要求された。ロシアが17世紀半ば以降に征服した土地のほとんどの割譲だった。
 西方、北西そして南西と、ロシアの国境は、モスクワ公国時代のそれまでに縮まった。
 ロシアは、トランス・コーカサスの他に、ポーランド、フィンランド、エストニア、ラトヴィア、およびリトアニアを放棄しなければならなかった。これらの全てがドイツの保護する主権国家となるか、またはドイツに併合された。
 モスクワはまた、ウクライナを独立の共和国として承認しなければならなかった。(*)
 これらの条項は75万平方キロメートルの国土の譲渡を要求するもので、その広さはドイツ帝国のそれのほとんど2倍だった。ブレスト講和のおかげで、ドイツの規模は3倍になったのだ。(77)
 (4)ロシアがかつてスウェーデンやポーランドから獲得していた、今次の割譲領土は、ロシアの最も豊かで最も人口密度の高い土地だった。
 この地域に、ロシアの住民の26パーセントが生活していた。その住民たちは、都市人口の3分の1以上を含んでいた。
 当時の概算では、この領域で、ロシアの農業収穫物の37パーセントが産出されていた。(78)
 また、この地域に工業企業の28パーセントが立地し、鉄道線路の26パーセント、石炭と鉄の堆積層の4分の3があった。//
 (5)しかし、たいていのロシア人がもっと苛立たしく感じたのは、付属文書に明記された、ドイツにソヴィエト・ロシアでの例外的な地位を認める経済的条項だった。(79)
 ドイツは、経済的利潤を獲得するだけではなくロシア社会主義を窒息死させるためにこれらの権利を利用するつもりだ、と多数のロシア人は考えた。
 理論上はこれらの権利は相互主義的なものだったが、ロシアは自分の取り分を要求できる立場になかった。//
 (6)中央諸国の市民と企業は、ボルシェヴィキが権力掌握後に発布した国有化布令の適用免除を事実上は受けた。ソヴィエト・ロシアで商業、工業および職業的活動を行うことはもとより、動産および不動産を所有することが認められたのだ。
 彼らは、厳しい税金を支払う必要なく、ソヴィエト・ロシアから本国に資産を送ることができた。
 この決まり事は遡及効をもった。すなわち、戦争中に署名国の市民から徴発した不動産、土地や鉱山の使用権は、元の所有者に返還されるものとされた。
 かりに国有化されていれば、元権利者に適正な補償金が支払われることになっていた。
 同じ決まりが、国有化された企業の有価証券保有者にも適用された。
 一つの国から他国への商品の自由な運送のための条項が、設けられた。各国はまた、お互いに最恵国待遇の地位を承認した。
 ロシアの公的および私的債務を否認した1918年1月布令にもかかわらず、ソヴィエト政府は、中央諸国との関係での債務を尊重する義務のあること、それらに付す利息の支払いを再開すること、を承認した。そのための詳細は別の協定で決定されるものとされた。//
 (7)こうした諸条項は、中央諸国に-実質的にはドイツに-、ソヴィエト・ロシアでの前例なき治外法権の特権を付与した。経済的規制を免除し、社会化された経済へと一層進展していたところで私的企業を経営することを認めた。
 ドイツ人は事実上、ロシアの共同経営者になった。
 彼らは私的部門を掌握する立場が与えられ、一方でロシア政府には、国有化された部門の管理が委ねられた。
 ブレスト=リトフスク条約の条件のもとでは、ロシアの工業企業、銀行、証券会社の所有者がその所有物をドイツに売却することが可能だった。この方法で、それらは共産党による統制から免れることができた。
 のちに述べるように、この可能性を封じるために、ボルシェヴィキは1918年6月にソヴィエトの全ての大企業を国営化した。//
 (8)条約の他の箇所では、ロシアは陸海軍の動員解除を明記した。-言い換えれば、国防力をないままにした。また、他の調印諸国の政府、公的機関および軍隊に対する煽動やプロパガンダ活動をやめることを約束した。アフガニスタンとペルシアの主権を尊重することも。//
 (9)ソヴィエト政府がブレスト=リトフスク条約の諸条件を国民に公にしたとき-それは民衆の反応を怖れて数日遅れて行われたのだが-、全ての政治諸階層から、極左から極右までに、憤激が巻き起こった。
 J・ウィーラー=ベネット(John Wheeler-Bennett)によれば、レーニンはヨーロッパで最も貶された(vilified)人物になった。(80)
 初代ソヴィエト・ロシア駐在ドイツ大使のミルバッハ公は、5月に自国外務省に、ロシア人は一人残らず条約を拒否しており、条約をボルシェヴィキ独裁に対してよりすらも憤懣の的だと感じている、とこう通信した。
 「ボルシェヴィキによる支配は飢餓、犯罪、名前のない恐怖のうちでの隠れた処刑でロシアを苦しめているけれども、ブレスト条約を受諾したボルシェヴィキに対しては、どのロシア人も喜んでドイツの助けを求めるふりすらするだろう。」(81)
 かつてどのロシア政府も、これほど広い領土を割譲しなかったし、これほど多くの特権を外国に認めることもなかった。
 ロシアは、「世界のプロレタリアートを売り払った」だけではなかった。ロシアは、ドイツの植民地となる長い道程を歩んでいた。
 ドイツは条約によって与えられた権利をロシアでの自由な起業のために用いるだろうと、-保守派の界隈では喜んで、急進派の界隈では怒りとともに-広く想定されていた。
 こうしてペトログラードでは、3月半ばに、ドイツは三つの国有化された銀行の所有者への復帰とそのあとの迅速な全銀行の非国有化を要求している、との風聞が流布された。
 (10)新国家の国制法(憲法)は、条約は2週間以内にソヴェト大会で批准されることを求めていた。
 それを行うソヴェト大会は、3月14日にモスクワで開催されることが予定として決定された。//
 -----------
 (*) この講和条件の履行のために、モスクワは4月半ばにウクライナ政府に対して、相互承認のための交渉を開始することを提案した。種々のウクライナ国内の政治事情のために、交渉はようやく5月23日に始まった。
 1918年6月14日、ソヴェト・ロシア政府とウクライナ政府は暫定的講和条約に署名した。そのあとで最終的な講和交渉を行うことになっていたが、結局それは行われなかった。
 The New York Times, 1918年6月16日付, p.3. 
 (77) Hahlweg, Diktatfrieden, p.51.
 (78) Piletskii in: NZh, No.41/256(1918年3月14日), p.1.
 (79) これらは、Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.370-p.430. に資料として収載されていおり、Wheeler-Bennett, Forgotten Peace, p.269-p.275. で分析されている。
 (80) Wheeler-Bennett, Forgotten Peace, p.275.
 (81) W. Baumgart in: VZ, XVI, No.2(1968年1月), p.84.
 ----
 第12節・第13節・第14節、終わり。

2246/R・パイプス・ロシア革命第二部第13章第10節・第11節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
 ----
 第10節・ボルシェヴィキに勝とうと連合国は努力する。
 (1)レーニンは同僚たちに、ドイツが軍事行動を再開すれば、ボルシェヴィキはフランスとイギリスの助けを求めなければならないだろうと警告していた。それこそが、今行うべきことだった。
 (2)ドイツは何を最優先するかを決定していなかったけれども、少なくとも、戦争と結びついているロシアでの短期的利益と、ドイツにとってのロシアの長期的な地政学的意味とを、区別していた。
 連合諸国には、ロシアにはただ一つの関心しかなかった。それは、ロシアを戦争にとどまらせることだった。
 ロシアの崩壊と分離講和の見込みは連合諸国にとっては最大級の惨事であり、ドイツに勝利をもたらしそうだった。ドイツ軍は、十数の分団が西部前線へと移動して、アメリカ軍が相当の規模の兵団でもって到着する前に、消耗しているフランスとイギリス各軍を粉砕するだろう。
 したがって、連合諸国にとってロシアに関して最大に優先されるべきことは、可能ならばボルシェヴィキの協力によって、それが可能でなければ利用し得る何らかの別の勢力によって、東部戦線を再び活性化させることだった。別の勢力とは、ロシアの強制収容所にいる反ボルシェヴィキのロシア人、日本人、チェコ人、あるいは最終的には、これら自体の軍団のことだ。
 ボルシェヴィキとはどういう者たちで、何を目ざしているかは、連合諸国には関心がなかった。この諸国は、ボルシェヴィキ体制の国内政策にも国際的な目標にも、関心を示さなかった。そうしたことは、ドイツの注意をますます惹いていたものだった。 
 ボルシェヴィキの「友好」政策や、労働者にストライキを、兵士たちに反乱を呼びかけていることは、連合諸国にはまだ何の反応を生じさせておらず、ゆえに警戒心を呼び起こすこともなかった。
 連合諸国の態度は、明確で単純だった。すなわち、ボルシェヴィキ体制は中央諸国と講和をするならば敵であり、戦闘し続けるならば味方であり同盟者だ。
 イギリスの外務大臣(Foreign Secretary)の A・バルフォア(Arthur Balfour)の言葉では、ロシアがドイツと戦っているかぎりはロシアの信条は「我々の信条(cause)」だった。(58)
 アメリカの在ロシア大使のD・フランシス(David Francis)は1918年1月2日の教書でこれと同じ感情を表現しており、レーニン政府に伝わることが意図されたが、送信されなかった。
 「ロシア軍が人民委員部の指揮のもとで戦闘を開始して真摯にドイツ軍とその同盟軍に対する敵意を行動に移すならば、私は私の政府に対して、人民委員部の事実上の政権を正式に承認するよう働きかけるつもりだ」。(59)
 (3)対象に関心がなかったために、ボルシェヴィキ・ロシアの国内状況に関して連合諸国にはきわめて不適切な情報しかなかった。
 各国の外交使節は、ロシアでとくに好遇されたわけでもなかった。
 イギリス大使のG・ブキャナン(George Buchanan)は、有能だが在来的な外交官だった。一方、セントルイスの銀行家のフランシス〔アメリカ大使〕は、イギリスのある外交官の言葉によると「魅力的な老紳士」だった。だけれども、推測するにそれだけのことだった。
 この二人ともに、彼らがその渦中にあった事態の歴史的な重要性に気づいていなかったように見える。
 元戦時大臣でかつ社会主義者のフランス公使のJ・ヌーラン(Joseph Noulens)は、仕事の準備をより十分にしていたが、ロシアを嫌悪していたのとその無愛想で権威的な流儀のために、影響力を発揮できなかった。
 さらに悪いことに、連合諸国の外交団は1918年3月に、ボルシェヴィキ指導者たちと直接に接触しなかった。彼らはボルシェヴィキ指導者に従ってモスクワに行こうとしなかったからだ。ペトログラードからまずヴォログダ(Vologda)へと、そしてそこから7月にアルハンゲル(Archangel)へと移った。(*)
 このことによって、彼らは、モスクワにいる代理人がくれる間接的な報告に頼らざるを得なくなった。
 (4)その代理人たちは、心身ともにロシアのドラマに入り込んでいた若い男たちだった。
 B・ロックハート(Bruce Lockhart)はモスクワのかつてのイギリス領事で、ロンドンとソヴナルコム間の連絡役として仕事した。R・ロビンス(Raymond Robins)はアメリカ赤十字使節団の代表で、ワシントンのために上と同じ仕事をした。そして、J・サドゥール(Jacques Sadoul)はパリのために。
 ボルシェヴィキはこれら媒介者たちをとくに真摯に待遇したというわけではないが、有用性をよく理解していた。親交を築き、お世辞を言い、信頼の措ける者として扱った。
 そのようにして、ロックハード、ロビンス、サドゥールを、彼ら諸国がロシア軍に軍事的および経済的な援助を提供すれば、ロシアはドイツと決裂しておそらくは再び戦争するとまで、まんまと説得した。
 利用されていることに気づかないで、三人は、この見方を自分のものに変え、元気よく自国政府に主張した。
 (5)サドゥールは母親がパリ・コミューンに参加した社会主義者で、ボルシェヴィキに対して強いイデオロギー的魅力を感じていた。彼は1918年8月に、ボルシェヴィキへと寝返り、そのことで逃亡者かつ反逆者として欠席のまま死刑判決を受けることになる。(+)
 ロビンスは風変わりな人物で、レーニンやトロツキーとの会話でボルシェヴィキへの情熱を表明したが、アメリカ合衆国に帰国するとボルシェヴィキに反対しているふりをした。
 社会主義に傾斜した裕福な社会的労働者かつ労働組合組織者であり、また自分の様式をもつ大佐は、ロシアを出立する前夜に、レーニンに、別れの言葉を送った。その中で、彼はこう書いた。
 「あなたの予言的見解と指導の天才性は、ソヴィエト権力をロシア全域で確固たるものにしました。そして私は、人類の民主主義の新しい創造的な体制が世界中の自由(liberty)のための事業を活発にし、前進させるだろうと、確信をもっています。」(**)
 彼は帰還する際にさらに、「新しい民主主義」をアメリカ人民に対して解釈し説明する「継続的な努力」を行うと約束した。
 しかしながら、のちにすぐにソヴィエト・ロシアの状況に関する上院の委員会で証言したとき、ロビンスは、「ボルシェヴィキ権力を混乱させる」方法だといううその理由で、モスクワへの経済的援助を強く主張した。
 (6)ロックハードは三人の中では最もイデオロギー的関心がなかったが、彼もまた、ボルシェヴィキの政策追求の道具に自分がなることに甘んじていた。(+++)
 ------------
 (58) R. Ullman, Intervention and the War(Princeton, NJ., 1961),p.74.
 (59) Cumming and Pettit, Russian-American Relations, p.65.
 (*) 三国の各大使は回想録を残した。George Buchanan, My Mission to Russia, 2 vols.(London, 1923).; David Francis, Russia from the American Embassy(New York, 1921).; およびJoseph Noulens, Mon Ambassaade en Russie Sovietique, 2 vols.(Paris, 1933).  
 (+) サドゥールが帰国後、この判決は執行されなかった。そして彼は、フランス共産党に加入した。
 彼の革命的経験は面白い書物に記録され、Albert Thoma への手紙という形式で、最初にモスクワで出版された。Sadoul, Note sur la Révolution Bolchevique(Paris, 1920)。これは、Quarante Letters de Jacques Sadoul(Paris, 1922)により補充されている。
 (**) 1918年4月25日付手紙。つぎに所収。The Raymond Robins Collection, State Historical Society of Wisconsin, Madison, Wisconsin.
 レーニンは返答して、「プロレタリア民主主義は、…、新旧両世界の帝国主義的資本主義体制を粉砕するだろう」と自信を表明した。
 (++)George F. Kennan, The Decision to Intervene(Proinceton, NJ., 1958), p.238-9.
 上記の証拠に照らすと、ロビンスの「ソヴィエト政府への敬意にみちた感情は教義としての社会主義に対する特別の愛着があったのではなかった」とか、ロビンスは「共産主義への先入的愛好心をもっていなかった」とかのKennan には同意するのは困難だ。同上, p.240-1.
 ロビンスはのちにスターリンを賛美し、1933年にスターリンに受け入れられた。
 Anne Vincent Meiburger, Efforts of Raymond Robins Toward the Recognition of Soviet Russia and the Outlawry of War, 1917-1933(Washington, D.C., 1958), p.193-9. を見よ。
 (+++) 彼の回想録である、Memoirs of a British Agent(London, 1935)とThe Two Revolutions: An Eyewittness Account(London, 1967)を見よ。
 ----
 第11節・モスクワが連合国の助けを乞う。
 (1)サドゥールとロビンスはボルシェヴィキ・クーの後で、ときおりレーニン、トロツキー、その他の共産党指導者たちと逢った。
 1918年2月の後半には、逢う回数が増えた。それは、ボルシェヴィキによるドイツの最後通牒の受諾(2月17日)とブレスト=リトフスク条約の批准(3月4日)の間の時期だった。
 この二週間、ボルシェヴィキはドイツが自分たちを権力から排除するのを怖れて、連合諸国に対して、助力を求める切実な要請を訴えていた。
 連合諸国は、肯定的に反応した。
 フランスはとくに、その意欲があった。
 フランスは今では、ドン地方に形成されていた反ボルシェヴィキの義勇軍を放棄した。これは、ヌーランがその反ドイツの立場を理由として財政的に支援していた軍だった。
 彼の推奨意見にもとづいて、フランス政府はこれまでに将軍アレクセイエフに対して5000万ループルを、新しいロシア軍を組織するのを助けるべく拠出していた。
 1918年1月の初め、ロシアでのフランスの軍事使節の新しい代表であるH・ニゼール(Henri Niessel)は、アレクセイエフは「反革命」軍を率いているとの理由で、彼との関係を断つよう進言した。
 この助言は、採用された。アレクセイエフへの支援は終わり、ニゼールにはボルシェヴィキとの交渉を始める権限が与えられた。(*)
 ロックハルトも同様に、義勇軍への支援に反対した。彼もまた外務省への連絡文書で、義勇軍は反革命だと叙述した。
 彼の判断では、ボルシェヴィキこそがロシアの最も信頼できる反ドイツ勢力だった。(60)
 (2)ドイツの攻撃作戦が再開したあとの忙しい期間に、ボルシェヴィキの最高司令部は、連合諸国に助けを求めると決定した。
 2月21日、トロツキーは、サドゥールを通じて、ニゼールとともに、フランスはドイツの攻撃をソヴィエト・ロシアが抑えるのを助けるつもりがあるかどうかを問い合わせる通信を発した。
 ニゼールはフランス大使と接触し、肯定的な反応を得た。
 ヌーランはその日、ヴォログダからトロツキーに電報を打った。「あなたたちがドイツに抵抗する場合、フランスの軍事的および財政的協力を頼りにしてよい」。(61)
 ニゼールは、トロツキーにソヴィエト・ロシアがドイツ軍を妨害する方法を助言し、軍事顧問になることを約束した。
 (3)2月22日の夕方遅くの中央委員会で、フランスの反応の件が議論された。
 トロツキーはこのときまでに、フランスがロシアを助けようとする手段を概略するニゼールの覚え書を持っていた。(62)
 喪失したと言われているこの文書は、フランスによる金銭的および軍事的助力の具体的な諸提案を含むものだった。
 トロツキーはこれを受諾するよう強く主張し、その趣旨での方針を提案した。
 出席することができなかったレーニンは、簡潔な注記をつけて不在投票をした。「アングロ・サクソン帝国主義者の強盗どもから喇叭や兵器を奪うことに賛成する私の一票を加えてほしい」。(63)
 ブハーリンやその他の「革命戦争」の主張者が反対の立場をとったために、この動議は辛うじて、賛成6票、反対5票で採択された。
 ブハーリンは票決に敗北したあとで中央委員会と<プラウダ>編集局からの辞任を申し出たが、結局はそうならなかった。//
 (4)中央委員会が検討を終えるや否や-2月22-23日の夜間のことだった-、問題はソヴナルコム〔人民委員会議=ほぼ内閣〕に移された。
 トロツキーの動議はここでも、左翼エスエルの反対を押し切って、通過した。//
 (5)翌日、トロツキーはサドゥールに、ロシア政府がフランスの助けを受け入れる気のあることを伝えた。
 彼はニゼールをスモルニュイに招いて、ポドゥヴォイスキ、ボンチ=ブリュエヴィチ将軍やボルシェヴィキのその他の軍事専門家たちと反ドイツ作戦に関して協議させた。
 ニゼールは、ソヴィエト・ロシアは、愛国主義に訴えることのできる帝制時代の従前の将校の助けを借りて、新しい軍隊を建設しなければならない、という意見だった。(64)
 (6)ボルシェヴィキは今や、ドイツが自分たちを転覆しようとしている事態の中で態度を変更した。
 連合諸国はボルシェヴィキの国内および対外政策にほとんど関心がなく、東部前線での戦闘の再活性化の見返りとして寛大に助けてくれるのだと分かっていた。
 かりにドイツがルーデンドルフとヒンデンブルクの意見を最後まで貫いたとすれば、ボルシェヴィキは権力にとどまり続けるために、連合諸国と共闘し、中央諸国に対抗する軍事行動のために連合諸国がロシア領土を使うことを許しただろう、ということをほとんど疑うことはできない。
 (7)ロシア・連合国関係がいかほどにまで進展していたかは、2月遅くにレーニンがカーメネフをソヴィエトの「外交代表」としてパリに派遣したことで、分かる。
 カーメネフはロンドン経由で到着したが、それは彼の政府がブレスト=リトフスク条約をすでに裁可してしまっていた後でだった。
 彼は、冷淡な対応を受けた。
 フランスは、カーメネフが入国するのを拒否した。それに従って、彼は母国へと向かった。
 彼はロシアへの途上で、ドイツに取り押さえられた。ドイツはカーメネフを、4カ月間拘留した。(65)//
 -----------
 (*) A. Hogenhius-Seliverstoff, Les Relations Franco-Sovietiques, 1917-1924(Paris, 1981), p.53.
 ニゼールは、その回想録でこうした事実に言及していない。Les Triomphe des Bolsheviks.
 (60) Ullman, Intervention, p.137-8.
 (61) Lenin, Sochineniia, XXII, p.607.; Gen.[Henri A.] Niessel, Les Triomphe des Bolsheviks et la Paix de Brest-Litovsk: Souvenirs(Paris, 1940), p.277-8.
 (62) J. Sadoul, Notes sur la Révolution Bolchevique(Paris, 1920), p.244-5.
 (63) Lenin, PSS, XXXV, p.489.
 (64) Niessel, Triomphe, p.279-280.
 (65) Wheeler-Bennett, Forgotten Peace, p.284-5.; Sadoul, Notes, p.262-3.; Ullman, Intervention, p.81.
 ----
 第10節・第11節、終わり。

2242/L.Engelstein・Russia in Flames(2018)第6部第2章第5節②。

 L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)。
 上の著の一部の試訳のつづき。
 第6部・勝利と後退。
 第2章・革命は自分に向かう。
 ----
 第5節②。
 (7)〔1921年〕7月までに、労働農民同盟の組織は破壊され、その指導者たちは殺されるか、または逮捕された。
 チェカはその地帯に残っている社会革命党の中心地を一掃し、周辺の地域もまた駆除した。
 捕えられた数人の反乱者は、故郷に帰って残余グループの中に〔スパイとして〕浸透するよう説得された。
 10月までに、占拠-駆除の運動は徐々に収まった。
 しかしながら、アントーノフと彼の弟のドミトリ(Dmitrii)が最終的に捕獲されて殺戮されたのは、6月になる前のことだった。
 この二人はある村落に隠れ、女性二人の世話を受けていた。ところが、そのうちの一人が薬を求めて薬局に行ったとき、何気なく場所を漏らしてしまった。
 チェカの狙撃兵の一グループに包囲され、彼らは手榴弾をもって家屋から飛び出して来た。そのとき、銃弾に撃たれて倒れた。
 二人はタンボフの以前の修道院に埋葬された。そのときそこは、地方チェカの建物になっていた。
 二人の死体の写真は、彼らが解体していることの証拠として、新聞に公表された。(85)//
 (8)タンボフ反乱を絶滅させる際、共産党支配者は、自分たちのために本来は協力する必要がある住民たちを破壊する意欲を示した。
 殺戮の方法は、ある次元ではうまくいくものだった。
 軍隊とテロルによって、組織的な抵抗は終焉した。
 別の次元では、その方法は彼ら自身の教条に反するものだった。
 穀物生産地域と民衆の力を強制的徴発や軍事的征圧によって破壊することは、経済全体に対して、大厄災となる影響をもたらした。
 ソヴナルコムは、悪循環に陥っていた。
 ソヴナルコムはまず、国家の存在自体を守る軍隊を建設するために必要な、農業地域の人々や馬を穀物を使ってそれらを消耗させた。 
 この取り立てによって、その忠誠さと協力が体制の存続にとって軍隊が重要であるのと同じく重要な民衆の間には、激しい反応が巻き起こった。
 取り立てられた資源にもとづいて建設された軍隊は、次いで、騒擾を鎮圧するために用いられた。しかし、継続的に略奪行為にいそしむ多数の兵士を有する兵団がたんに存在すること自体が、その地域に対して甚大な物理的かつ経済的な損害を与えた。そして、その結果生じたのは、継続する社会不安といっそうの超過支出だつた。(86)//
 (9)1921年、ロシアの農村地帯は、軍事力と政策変化の連携によって静かになった。政策変更とは、強制食料徴発からの離脱のみならず、取引と商業に対する統制の緩和のことだった。後者は、かつては脆弱で危険の多い生活必需品供給手段だったもの、つまり闇市場(black market)を承認することとなつた。
 しかし、損害はすでに発生しており、1921年春の危機は深かった。
 飢饉が、決定的な要因だった。
 ソヴィエト・ロシアでの1918年と1919年の収穫高は、1913年の帝制時代で戦争前の最後の収穫高の4分の3だった。
 1920年の収穫高は、半分をわずかに上回る程度で、1921年のそれは半分もなかった。
 1920年の最初の干魃の兆候を見て、農民たちは、配送する仕事からの解放を求めた。
 アメリカ救済委員会(Ammerican Relief Administration, ARA)のハロルド・H・フイッシャーは、「春は暑くて、ほとんど雨が降らなかった。そして、その春の時期の土地は固くて乾いていた」と書いた。
 夏と秋もまた、渇いていた。しかし、1920年に用いられた圧力は、従来よりも寛容ではなかった。(88)
 以前の富裕なドイツ人定住者の入植地にはカテリーヌ大帝の御代以来のタンボフ地方の住民がいて、50万人を数えるになっていた。この者たちへも、攻撃の矛先が向かった。
 武装労働者たちが、テュラ(Tula)から急襲した。彼らの無慈悲さは、「鉄のほうき」という通称を生じさせた。
 ドイツ人牧師は、こう思い出す。「唸りを上げるライオンのように、彼らは居留地にやって来た。家屋、家畜小屋、地下貯蔵室、屋根裏は全て探索されて、彼らが包み込める物はみな、乾いたりんごや卵まで一つも残さず、文字通りに一掃して行った。」
 抵抗する者はみな、叩きのめされるか、笞打たれた。
 組織的抵抗をしようとの無駄な試みに対しては、数百人がまとめて射殺された。
 最後には、定住者の10パーセントは死に、多くの者が逃亡した。そして、その共同体は以前の規模の4分の1にまで解体した。(89)
 (10)1921年夏に最悪に達した干魃はヴォルガ低地、南ウクライナ、クリミアを覆い、ウラルまで進行し、そして災難が終わった。
 フィッシャーは、こう報告した。「夏の初め、膨大な数の農民たちにはもう食糧がなかった。そして農民たちは、ヴォルガの至る所で、東のウラルまで、穀物に麦藁、雑草、樹皮を混ぜ始めた。
 食糧がなく自分たちの食べ物について見極めをつけた農民たちは、パニックを起こして、焦げ付いた土地から逃亡する、膨れ上がっている多数者の中に入り込んだ。」(90)
 飢饉は、総人口5710万の36地方の190地区を襲った。(91)
 クリミアとカザンを先に支配していたトルコ語を話すムスリムは、とくに厳しい被害に遭い、ある地域では人口の半分を失った。
 カザン自体は、絶望的になっている避難民で溢れた。
 水道供給と下水道の施設は壊れており、人間のぼろ屑と死体とが、街路に積み重ねられていた。
 遺棄された子どもたちが市内をさまよい歩き、病気が蔓延した。犯罪も、売春も行われた。(92)
 (11)アメリカや他の外国の救済組織の助けがあったために、飢饉による総被害者数は、それがなかったよりもまだ少なかった。
 飢餓や病気による飢饉関連死者数は、ソヴィエトと訪問中の外国の救済執務者によって種々に計算されている。
 見積もりは、150万人から1000万人にまで及ぶ。
 ソヴィエトの1922年の公式の数字は、500万人だった。(93)
 飢饉の規模はまた、死者率という観点からも叙述することができる。
 1913年の通常年と比較して、ペトログラード、モスクワおよびヴォルガのサラトフ市の1919年の死亡率は、2倍から3倍、高かった。
 1919年についての欧州ロシア全体の死亡率は1000分の39、ペトログラードとサハロフで約1000分の70だった。
 飢饉の地域全体での死亡率は、1920年が1000分の50-60、1921年が1000分の80、だった。(94)//
 (12)飢饉はソヴィエト体制の政策決定によってのみ悪化したのではなく、反応がきわめて政治的だったことにもよる。
 アメリカ救済委員会(ARA)はのちの大統領のH・フーヴァー(Herbert Hoover)の指揮のもとで1919年に設立され、戦後ヨーロッパの空腹の子どもたちに食料を提供した。
 ソヴィエトの場合、ARA は、食料は必要に応じて、社会主義的な階級範疇とは無関係に配分されるべきだ、と主張した。
 1921年に妥協が成立して、ヨーロッパに基盤を置く組織を含む外国の救済作業者は現地へと旅行することが許され、一方でソヴィエト当局が地理的な配分の権限をもつ、ということとなった。
 この協定が締結される直前に、ソヴィエトは自らの飢餓救済委員会(Committee for Aid to the Starving, Komitet pomoshchi golodaiushchim)を設立した。これはM・ゴールキを含む43人の著名人で構成されていたが、書類に署名がなされるやただちに、ゴールキを除く全員が逮捕された。(95)
 (13)外国による救済が、全体の姿を変えることはなかった。
 農民たちは結局のところ、軍隊の力によってのみならず、飢饉の絶望によって征圧された。(96)
 1917年8月に引き合いに出された、工業主義者のP・リャブシンスキ(Pavel Riabushinskii)の言葉である「飢えた骨ばった手」は、騒擾を抑圧するための究極的な武器だった。
 1921年飢饉は、ソヴィエト体制が自分たちの民衆との間にもつ人肉喰い主義的(cannibalistic)関係の初期の例だった。これは、スターリン時代に増大するという代償を払うこととなる。
 人口統計上および人的被害という観点から見てソヴィエト社会がどの程度大きい損失を被ったかは、顕著なものがある。その多くは自己による被害だが、一方ではイデオロギー的傾倒という強い気風も生み出した。
 内戦期に実践された包括的な対破壊行動は、スターリン時代の欺瞞的な反破壊活動へと成長した。そのときじつに、「民衆は、階級敵となった」。//
 (14)たがしかし、専門的で創造的な知識人階層の多くは、彼らをとり囲む恐怖があったにもかかわらず、新しい体制に賭けた。
 ある者たちは、とどまることを許されなかった。
 ソヴィエトの意図に批判的な200人以上の知識人たちは、あらかじめ1922年に国から排除された。その多数がペトログラードから乗るドイツ船舶は、「哲学者船」として知られるようになった。(97)
 未来主義者がこぞって乗り込む近代の船ではなく、失われた価値の航行船だった。
 多数の職業人と知識人が-一般庶民はもちろんのこと-、自分の意思で国外に脱出した。
 他の者たちは、離れたくなかったか、または何とかそうすることができなかった。
 とどまった者たちの中には、敵対的なまたは愛憎相半ばする感情の者もいた。
 E・ザミアチン(Evgenii Zamiatin)は、自分の原理的考え方と皮肉精神を維持した。スターリンは1931年に、国外に去るのを許した。
 マヤコフスキ(Mayakovsky)は、未来への偉大な跳躍のために金切り声をあげたが、絶望して、自殺した。
 にもかかわらず、無数の芸術家や文筆家たちが自分たちの才能を用いる機会を見つけ、ある者はソヴィエトの実験は創造的刺激を与えると感じた。
 自分たち自身の信条から芸術家や文筆家たちが追求した文化に関する原理をめぐって、イデオロギー上の戦いが行われた。
 他の者たちにとっては、ソヴィエトの実験とは、美学上および精神上の死刑判決だつた。
 多くの者が死に、あるいは殺戮された。それは、内戦が終焉して15年後に始まった狂乱の中で起きた。
 1930年代の犠牲者たちのある程度は、初期の抑圧に模範的な情熱を示しつつ協力していた者たちだった。//
 (15)期待に充ちた大きな昂揚感の中で1917年に始まったものの結末にもかかわらず、何か新しい展望、市民が-権利と権力をもつ責任とをもつ-市民であるような政治システムへの展望は、古い帝国の以前の臣民の多数の想像力を掴んだままだった。
 この夢は、1980代に復活したように見えた。そして、1991年にレーニンの国家主義的(statist)野望がその疲れ切ったイデオロギーの旅を終えた後では、新しい状況のもとで、少なからぬユーラシアと中東の諸社会が同様の希望を抱いた。
 しかし、より近年の世界は、我々にこう思い起こさせながら進展しているように見える。すなわち、民主主義の希望と民主主義の諸制度は、つねに何と脆弱(fragile)であることか。//
 ----
 第5節②、終わり。第6部第2章(p.606-p.624)も終わり。あとに続くのは、<結語>(Conclusion)のみ(原書、p.625-p.632)。

2240/L.Engelstein・Russia in Flames(2018)第6部第2章第4節・第5節①。

 L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)。
 上の著の一部の試訳のつづき。
 第6部・勝利と後退。
 第2章・革命は自分に向かう。
 ----
 第4節。
 (1)クロンシュタットの海兵たちは、全ての意味での聖像(icon)だった。
 ボルシェヴィキは、バルト艦隊の海兵たちを、革命の初期に果たした役割のゆえに褒めそやした。
 1921年反乱のパルチザンたちは、抑圧の新しい形態に反対する暴徒たちを称揚し、彼らを自由を愛する「アナキスト」、民衆の解放のための闘士だと叙述した。
 ヴィルナ(Vilna)〔リトアニアの都市〕出身のアメリカのアナキスト、A・バークマン(Alexander Berkman)は、その当時、ロシアに住んでいた。彼は事件の一年後に、こう書いた。
 「クロンシュタットは陥落した。
 だが、その理想主義と道徳的純粋さでは、勝った。その寛容さとと高い人間性において。
 クロンシュタットは、立派だった。…。
 素朴な、洗練されていない海兵たちは、振る舞いと言説は粗野だったが、あまりに高貴すぎて、ボルシェヴィキによる復讐の見せしめとして屈従することはできなかった。彼らは、嫌われた人民委員ですら射殺しようとはしなかった。」
 バークマンは、つづける。
 「ボルシェヴィキの勝利は、それ自体の中に敗北を抱えていた。
 その勝利は、共産主義者独裁の真の性格を暴露した。…。
 クロンシュタットはボルシェヴィキとその党の独裁に、狂った中央集権主義に、チェカのテロリズムと官僚主義階層制に、弔鐘を響かせた。
 クロンシュタットは、共産主義者〔共産党〕独裁のまさに心臓部分を突いた。」(67)//
 (2)バークマンの書いたのとは反対に、ボルシェヴィキは敗北しなかった。
 革命に対する脅威を、党を強化するために利用することができた。そして、本当の反対派は、そのときまでに衰退していた。
 社会革命党とメンシェヴィキは、革命を敗北させる「白軍将軍」コズロフスキと協力したと非難された。
 反乱は外国勢力によって使嗾され、財政援助された、と言われた。
 実際には、左翼に対する党の批判者の中の多数は、反乱に対抗して立ち上がるのは気が進まなかった。
 メンシェヴィキ指導者たちは、すでに記したように、労働者たちがその抵抗運動を増大するのを思いとどまらせた。
 アナキストのV・セルジ(Vivtor Serge )は、クロンシュタットは「人民民主主義のための新しい、解放する革命の始まり」だと考えた。しかし、それにもかかわらず、最後の瞬間には、「混乱と、その混乱を通じての農民蜂起と共産主義者の虐殺に、エミグレたちの帰還に」、「とどのつまりは純然たる実力行使による、別の独裁制、今度は反プロレタリアの独裁制が生まれる」ことに反対して、ボルシェヴィキ独裁を擁護した。(68)//
 (3)多くのエミグレたちは、旧体制に復帰する望みをなお捨てていなかった。
 何人かは、立憲主義を基礎にした権力の再構築をなお夢見ていた。
 1918年、カデットの一グループはモスクワで自分たちで国民センター(National Center)と称した団体を設立しており、今では多様なヨーロッパの都市にも根拠を置いていた。そして、1919年には、ユーデニチ(Iudenich)将軍への支援を提供した。
 この団体はクロンシュタットでの騒擾を歓迎し、食糧や武器のかたちでの支援を結集させようとした。
 この活動は、赤十字とフランスのそれに巻き込まれることとなった。
 ある程度の資金が集められたが、反乱者たちにはほとんど何も届かなかった。
 イギリスは当時はロシアとの商取引の交渉に追われていて、これには無反応だった。(69)//
 (4)要するに、反革命陰謀という咎を負わせるのは、あらゆる意味で間違っていた。
 コズロフスキ将軍は、片方の将校たちとは何の関係もなかった。
 反ボルシェヴィキのリベラル反対派は、かつてはユーデニチ(Iudenich)と同盟したが、今では外国に離散して、介入する力がなかった。
 メンシェヴィキは、国内でも外国でも、ソヴィエト体制に根本的な挑戦をすることに、一貫して反対し続けた。彼らはソヴィエト体制のうちに、社会主義の未来の最良の希望を依然として探し求めたのだった。//
 ----
 第5節①。
 (1)1921年初頭、ソヴナルコムはこうして、かつて革命の中枢的基盤-産業プロレタリアートと急進的クロンシュタット海兵-と称したものによる戦闘的な反対に直面した。
 対照的に、農民たちはつねに、懐疑的に「ブルジョア」だと考えられてきた。
 クロンシュタット反乱者が弾圧され、示威的に報復的な制裁を受けると、今度はついに、農村地帯を統制下に置くときがやって来た。
 農民たちはぎこちなくマルクス主義の教条に適合していたけれども、彼らもまた、より良き生活に憧れ、新しい種類の自由としての革命を夢見た。19世紀の人民主義者(Populists)やそれを継承した社会革命党が理解したような革命を。
 飢えは彼らの憤激の唯一の根源ではなかった。
 農民たちは、新しい権力が課す要求と、彼らに向けられる暴力に憤慨した。
 タンボフ(Tambov)地方で長引いている暴動に関係して、ボルシェヴィキの最後の戦闘の残虐さは、誰が目標を定める者で、誰が主人であるかを、明確に示そうとする気概によっていた。
 ボルシェヴィキのタンボフ作戦は反暴動の運動であり、究極的には征服(conquest)と言ってよい行為だった。//
 (2)1921年春、クロンシュタット兵が鎮圧されて第10回党大会が新経済政策を開始した後でも、農村地帯はまだ沈静化していなかった。
 V・アントノフ-オフセエンコ(Vladimir Antonov-Ovseenko)はA・アントーノフの反乱の残滓を絶滅させる権能をモスクワに付与された特別全権委員会の長をしていたが、軍事増援を求めた。
 彼は訴えた。「強盗分子たちが戻ってきて、我々に忠実な農民たちの制裁を始めた」。
 赤軍が撤退すればいつでも、「強盗たちがもう一度やって来て、状況を支配する主人面をしている」。(70)
 党はタンボフを、スター司令官のミハイル・トゥハチェフスキに委ねた。トゥハチェフスキは、最も信頼できる赤軍の大分隊、自動車部隊、偵察用航空機、および軍団を指揮するための1000人の政治委員とともに、5月6日にタンボフに到着した。(71)
 この戦闘でトゥハチェフスキが強く主張したのは、固有の軍隊を制御する制約は-表面的にすにら-存在していない、ということだった。(72)
 反乱者アントーノフはせいぜいのところ、パルチザン-非正規兵-として扱われることとされた。
 最悪の言い方をすると、「強盗」、無法者、犯罪者だった。
 活動中のある点で、森の中に潜んでいる反乱者たちに対して毒ガスを用いる権限すら、トゥハチェフスキに与えられた。
 毒ガスが実際に用いられたかどうかは、明瞭ではない。しかし、毒ガスの脅威は、威嚇の手段として公表された。(73)//
 (3)しかしながら、戦場でアントーノフを敗北させるだけでは十分でなかった。
 トゥハチェフスキは、こう警告した。「盗賊団という病気蔓延から地方住民を守って治癒するには、熟達した手段を用いなければならない」。(74) 
 5月の一連の布告が、この手段がどのようなものであるかを明らかにした。(75)
 一ヶ月のち、指令171号は、農民世帯に深く入り込む戦争に着手した。それは、人質取りや集団責任という悪辣な実務を拡張し、社会的連帯を-家族的紐帯すらも-根こそぎ破壊し、いかなる形式的手続もなしで済ませるものだった。
 「1) 自分の名前を述べるのを拒否する市民は、裁判なくしてその場で射殺する。
 2) 武器が隠匿されている村落では、政治委員は人質を取り、武器が譲り渡されないときは人質を射殺する。
 3) 隠匿された武器が発見されたとき、家族中の最年配の労働者は、裁判なくしてその場で射殺される。
 4) 盗賊を匿う家庭では、全家族が拘束され、その地方から放逐され、資産は没収され、最年配労働者は裁判なくして射殺される。
 5) 盗賊の家族を匿う、または盗賊の資産を隠す農民世帯は、盗賊として扱われ、家族中の最年配労働者は、裁判なくしてその場で射殺される。
 6) 盗賊の家族が逃亡した場合、その資産はソヴェト権力に忠実な農民たちで分けられ、その家屋は焼却するか、解体する。
 7) この指令は、厳格かつ容赦なく適用される。」(76)
 実際に、そのとおりだった。(77)
 ある司令官は6月遅くに、「農民大衆を盗賊と非盗賊に分離する」技術に関して報告した。
 彼は村落に対して、犯罪者の存在を明らかにするために30分を猶予した。その後で、人質-男はむろんのこと女も-を、第三者の面前で射殺した。
 「この方法は、積極的な結果を生んだ」、と彼は報告した。(78)//
 (4)系統的な運動は、抵抗を鎮圧することのみならず、ソヴィエト諸制度を強化することも意図していた。
 地方チェカは数の上では、反乱の過程で少なくなっていた。しかし、アントノフ-オフセエンコは一掃と拘束を呼びかけた。
 A・アントーノフは、信頼することのできる農民世帯のリストを作っていた。
 チェカの工作員も今では、人質を取る誘導指針として、忠実な村民と疑わしい村民のリストをまとめた。
 パルチザン軍は、地方ソヴェトを破壊し始めていた。
 アントノフ-オフセエンコは、既存のソヴェトに代わって地方の党員たちで構成される「革命委員会」を設置した。彼らは、殺害されることを怖れて、都市部の比較的な安全さを捨てるのは気が進まなかったけれども。(79)
 (5)もちろん、農民にとって、作戦行動はつねに簡単に選択できるものではなかった。
 労働農民同盟は、共産党員の家族たちや赤軍に屈従している者たちに対して、復讐をした。
  一方で、チェカは仕事をしていて、同盟の表面部分の委員の跡をつけ、その指導者たちを捕獲し、同盟の村落での支持者の記録を残した。
 地方の司令官たちは人質を射殺することの有効性を正当化したけれども、7月までにモスクワの指導者は、村落でのテロル運動の心理的な影響に疑問を投げかけた。(80)
 ある者たちは、指令171号を廃棄することを望んだが、結局はアントノフ-オフセエンコとトゥハチェフスキは、アントーノフの軍隊の残りを多数殺戮したとして、褒め称えられた。(81)
 トゥハチェフスキ自身は、「強盗たち」への支援の淵源を根絶するのみならず、村落の「ソヴィエト化」(sovietization, sovetizatsiia)を達成するという困難な任務をもやり遂げたことを、誇った。(82)
 (6)しばらくの間は、沈静した状態が実際に続いた。
 7月に指令171号は公式には撤回されたけれども、その有効性は称賛され、「全ての厳格さをもって」一定の地域に適用され続けた。(83)
 人質を住まわせるために用いる強制収容所(この語はすでに述べたように戦争中にすでに流布していた)の数は、女性や子どもを含む収容者の数と同じく、増加し続けた。
 8月頃に、タンボフ地方での10の強制収容所は、1万3000人の収容者を住まわせていた。それらの中には、チェカまたは革命審判所によって「強盗」または「投機者」として有罪とされた者もいた。またもちろん、ポーランドの戦争捕虜、以前の義勇軍兵士たち、実際の犯罪者たち、クラク〔富農〕と想定された農民もいた。
 生活条件は、別に驚くほどのことではないが、きわめてひどかった(dreadful)。(84)
 ----
 第5節②へとつづく。

2236/R・パイプス・ロシア革命第13章第6節・第7節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
 ----
 第6節・ブレストでのトロツキー。
 (1)ブレストでの交渉は、12月27日/1月9日に再開した。
 ロシア代表団を率いたのは、今度はトロツキーだった。
 彼は、時間稼ぎを継続してプロパガンダを拡散しようと考えて、やって来ていた。
 レーニンは、この戦術にしぶしぶ同意していた。
 トロツキーは、かりにドイツがそれを見越して最後通牒を発すれば、ロシア代表団は屈従する、と約束しなければならなかった。(28)
 (2)トロツキーは到着し、交渉の休止の間にドイツがウクライナの民族主義者たちと別の連絡手段を確立していることを知って、不愉快な驚きをもった。
 12月19日/1月1日、若い知識人たちから成るウクライナ代表団は、公開の分離交渉を行おうとのドイツの招きで、ブレストに着いていた。(29)
 ドイツの目標は、ウクライナを切り離して、ドイツの保護国にすることだった。
 1917年12月に、ウクライナ評議会(Council)、あるいはRada は、ウクライナの独立を宣言した。
 ボルシェヴィキはこの承認を拒み、自分たちが公式に宣言した「民族の自己決定権」の権利を侵害して、その地域を再征服するために軍隊を派遣した。(30)
 ドイツの見積もりでは、ロシアは、食糧の3分の1、石炭と鉄の70パーセントをウクライナから受け取っていた。ウクライナが分離することは明らかに、ボルシェヴィキを弱体化し、ドイツへの依存をさらに高めることを意味した。同時に、ドイツ自身の逼迫する経済的必要を、徐々に充足させるものだった。
 トロツキーは、伝統的外交官の役割を演じて、ドイツの行動はロシアに対する内政干渉だ、と宣告した。しかし、彼に可能だったのは、それだけだった。
 12月30日/1月12日、中央諸国は、ウクライナのRada を国の正統な政府だと承認した。
 これによって、ウクライナとの分離講和条約の締結への歩みが始まった。//
 (3)そのとき、ドイツによる領土要求の提示があった。
 キュールマンはトロツキーに対して、我々はロシアの「併合と賠償金なし」の講和要求は受け入れ難いと考えており、ドイツが占領している領土をロシアから引き離すつもりだ、と知らせた。
 全ての征圧地を譲ろうというチェルニンの提案について言うと、この提案は、連合諸国が講和交渉に加わることを条件としており、かつその参加は行われなかったので、有効性を失っていた。
 1月5日/18日、マックス・ホフマン将軍は地図を開いて、不審がるロシア人に対して、両国の間の新しい国境線を示した。(31)
 それによると、ポーランドの分離と、リトアニアおよび南部ラトヴィアを含むロシア西部の広大な領域のドイツへの併合が、求められていた。
 トロツキーは、我が政府はこのような要求を絶対に受け入れることができない、と答えた。
 その1月5日/18日はたまたまボルシェヴィキが立憲会議を解散させたまさにその日だった。その日、トロツキーは無謀にも、こう言った。ソヴィエト政府は、「最も肝要なのは新しく形成される国家の運命だ、住民投票(referendom)が人民の意思を表明する最良の手段だ、という考え方になお執着する」、と。(32)
 (4)トロツキーは、ドイツが提示した条件をレーニンに伝え、その後で、政治的交渉を12日間延期することを要請した。
 彼は同日にペトログラードへと出立し、ヨッフェは残された。
 この延期についてドイツがいかに神経質だったかは、つぎのことからも知られる。すなわち、キュールマンはベルリンに情報を伝えて、ボルシェヴィキによる延期要請を交渉の決裂だと理解してはいけない、と強く要望した。(33)
 ドイツには、講和交渉の破綻は同国の産業中心地域での市民の騒擾を巻き起こすのではないかと怖れる、十分な理由があった。
 1月28日、社会主義運動の左翼が組織し、100万人以上の労働者が加わった政治的ストライキの波が、勃発した。ドイツの多数の都市で、すなわちベルリン、ハンブルク、ブレーメン、キール、ライプツィヒ、ミュンヘン、そしてエッセンで起こった。
 あちこちで、「労働者評議会」が設立された。
 ストライキ活動家たちは、併合と賠償金なしの講和と東ヨーロッパ諸民族の自己決定を要求した。-これは、ロシアの講和条件の受容を意味した。(34)
 ボルシェヴィキが直接に関与していたとの証拠資料は存在していないが、ストライキに対するボルシェヴィキのプロパガンダの影響は明白だつた。
 ドイツ当局は、強い、ときには残虐な弾圧でもって対処した。そして、2月3日までには、ドイツ政府は状況を統制下に置いた。
 しかし、ストライキは厄介なことを示す証拠となった。前線で何が起きていようとも、国内での状況を当然のこととは考えることができなかったのだ。
 人々は、平和を切望していた。そして、ロシアがそのための鍵を握っているように見えた。//
 ------------
 (28) Lenin, PSS, XXXVI, p.30.
 (29) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.183, p.190.; Fischer, Germny's Aims, p.487.
 (30) 私の Formation of the Soviet Union: Communism and Nationalism, 1917-23(Cambridge, Mass., 1954), p.114-p.126 を見よ。
 (31) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.229.; J. Weeler-Bennet, Brest-Litovsk: The Forgotten Peace(London-New York, 1956), p.173-4.
 (32) W. Hahlweg, Der Diktatfrieden von Brest-Litovsk(Münster, 1960), p.375.
 (33) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.229-p.230.
 (34) 1918年1月ストライキにつき、G. Rosenfeld, Sowjet-Russland und Deutschland 1917-1922(Köln, 1984), p.46-p.55.; Weeler-Bennet, Forgotten Peace, p.196.
 ----
 第7節・ボルシェヴィキ内の激しい対立とドイツの最後通牒〔bitter divisions among Bolsheviks and the Geman ultimatum〕。
 (1)ドイツの要求によって、ボルシェヴィキ指導部は相争う3分派に分裂した。これらは、のちの経緯で、2分派へと融合した。
 (2)ブハーリン派は、交渉をやめて、ドイツ革命の炎を煽りつつ主として遊撃部隊的戦闘によって軍事作戦を継続させることを望んだ。
 この立場は、ボルシェヴィキ党員たちの大多数派の支持を受けた。ペトログラードとモスクワのいずれの党官僚たちも、この趣旨での決議を採択した。(35)
 ブハーリンの伝記著作者たちは、のちに「左翼共産主義」と称された彼の政策方針はボルシェヴィキの多数派の意向を反映していた、と考えている。(36) 
 ブハーリンとその支持者たちは、西ヨーロッパは社会革命の瀬戸際にあると見ていた。その革命こそがボルシェヴィキ体制の存続にとって不可欠だと認められているのだから、「帝国主義者」ドイツとの講和は、彼らには反道徳的のみならず、自己欺瞞に他ならなかった。
 (3)トロツキーは、第二の派の代表だった。この派は左翼共産主義者とは、戦術上の微妙な違いだけがあった。
 トロツキーは、ブハーリンのようにドイツの最後通告を拒みたかったが、それは「戦争でも講和でもない」という耳慣れないスローガンのもとでだった。
 ロシアはブレストでの交渉をやめ、一方的に(unilaterally)戦争の終止を宣言する。
 そうすればドイツは、したいこと、つまりロシアが何をしても抑止できないことを自由に行うだろう-西部および南西前線部の広大な領土の併合。しかし、ロシアの承諾なくしてそれを行わなければならない。
 トロツキーが主張するには、こう進展することで、人気のない戦争を遂行するという重荷からボルシェヴィキは解放され、自由になるだろう。そして、ドイツ帝国主義の残虐性を暴露することとなり、ドイツの労働者を反乱へと鼓舞して立ち上がらせるだろう。//
 (4)レーニンはカーメネフとジノヴィエフに支持されて、ブハーリンとトロツキーに反対した。
 彼の切迫感覚およびロシアは取引できる立場にはないという考えは、戦争大臣のクルィレンコ(Krylenko)が12月31日/1月13日にソヴナルコムに提出した報告によって強化された。
 動員解除(復員)に関する全軍会議の代表者たちに配布されたアンケート回答書にもとづいて、クルィレンコは、ロシア軍は、あるいはそれだとして残っているものは、戦闘能力をもっていない、と結論づけていた。(37)
 レーニンは、こう思考した。紀律と十分な装備のある敵に抵抗することはできない、と。
 (5)レーニンは1月7日/20日に、「併合主義的分離講和の即時締結問題に関するテーゼ」で、彼の考え方を定式化した。(38)
 これによると、彼はつぎの諸点を挙げている。
 (1) 最終的な勝利の前に、ソヴィエト体制はアナーキーと内戦の時期に直面する。これは「社会主義革命」のために必要な時期だ。
 (2) ロシアは少なくとも数カ月の余裕が必要だ。その過程で「体制は、まずは自分の国で始めてブルジョアジーに対して勝利する」、そして自分たちの諸勢力を再組織する、「完全に自由な時間的余裕を獲得しなければならない」。
 (3) ソヴィエトの政策は、国内事情を考慮して決定されなければならない。外国で革命が勃発するか否かは不確実だからだ。
 (4) ドイツでは、「軍事党」が上層部を握った。ロシアは、領土割譲と財政的制裁金を要求する最後通告を提示されるだろう。
 政府は、交渉を長引かせるべく全力を尽くしたが、この戦術は自然消滅した。
 (5) ドイツの条件での即時講和に反対する者たちは、このような講和は「プロレタリア国際主義」の精神を侵犯すると、間違って論じている。
 彼らが望むように政府がドイツとの戦闘継続を決定するならば、別の「帝国主義陣営(Bloc)」からの助力を求める以外に選択の余地はないだろう。その協商諸国(Entente)は、フランスとイギリスの代理人へと変わるだろう。
 かくして、戦争の継続は「反帝国主義」の動きではない。二つの「帝国主義」陣営の間での選択を呼びかけるものだからだ。
 しかしながら、体制がいま果たすべき責務は、「帝国主義諸国」の間で選択することではなく、権力を確固たるものにすることだ。
 (6) ロシアは実際に外国の革命を推進しなければならない。しかし、「諸勢力の相関関係」を考慮することなくしてこれを行うことはできない。
 現時点でのロシア軍は、ドイツ軍の前進を食い止めるには無力だ。
 さらに言えば、ロシアの「農民」軍隊の大多数は、ドイツが要求する「併合主義」講和を支持している。
 (7) ロシアが現在のドイツの講和条件の受け入れ拒否に固執するならば、いずれもっと負担の大きい条件を受諾せざるを得なくなるだろう。
 しかし、これはボルシェヴィキではなくその継承者たちが行うことだ。その間にボルシェヴィキは、権力を剥奪されているだろうから。
 (8) 政府は小休止によって、経済(銀行と重工業の国有化)を組織する機会をもつだろう。経済の組織化は、「社会主義をロシアと全世界でで揺るぎないものにし、そして同時に、強力な労働者・農民赤軍を築く堅固な経済的基礎を生み出すだろう」。
 (6)レーニンには、彼の異議にもかかわらず本当は世界大戦が継続することを望んでいることを暴露してしまうだろうがゆえに明言することのできない、別の理由があった。
 レーニンは、中央諸国と協商諸国の「ブルジョアジー」が講和をすればすぐに、彼らは勢力を合体してソヴィエト・ロシアを攻撃するのは確実だと感じていた。
 彼は、ブレスト条約に関する討議の間に、この危険性を暗示した。
 「我々の革命は、戦争から産まれた。
 戦争がなかったならば、全世界の資本主義者たちの統合を目撃していただろう。この統合は、我々に対する闘いを基礎とするものだ。」(39)
 レーニンは、彼自身の政治的闘志を反映して、「敵たち」の巧妙さや果断さをきわめて高く評価していた。
 実際には、1918年11月の停戦以降に、このような「統合」は発生しなかった。
 しかし、彼は危険が本当にあると考えたので、想定される「資本主義者」の攻撃に抵抗することのできる軍隊を建設するための時間を稼ぐために、戦争を長引かせなければならなかった。
 (7)1918年1月8日/21日、ボルシェヴィキは、三つの本拠地で、党指導者たちの会議を開いた。ペトログラード、モスクワ、そしてウラル地域。
 レーニンは、ドイツの最後通告の受諾を求める決議を提案した。
 この提案は、全63票のうち僅か15票の支持しか受けなかった。
 トロツキーの「講和でも戦争でもない」妥協的決議は、16票を獲得した。
 多数派(32代表者)は、左翼共産主義者の決議に賛成投票をし、妥協なき「革命」戦争を要求した。(*)//
 (8)議論はつぎに、中央委員会に移った。
 トロツキーはここで、敵対行動の即時かつ一方的な停止およびロシア軍の一斉の動員解除の動議を提出した。
 この動議は、9対7の過半数で辛うじて通過した。
 レーニンは、ドイツの条件での即時講和を支持する情熱的な演説でこれに反応した。(40)
 しかし、レーニンは少数派のままだった。そして、翌日にボルシェヴィキ中央委員会が左翼エスエルの中央委員会と合同の会合をもったときには、さらに支持者数を減少させた。左翼エスエルは、レーニンの講和提案に激しく反対していたのだ。
 この日、ここでも再び、トロツキーの決議が通過した。
 (9)この信任を受けたトロツキーは、ブレストに戻った。
 交渉は、1月15日/28日に再開した。
 トロツキーは、意味の乏しい発言やプロパガンダ的演説を行って、時間稼ぎを継続した。
 これには、さすがの自制心のあるキュールマンですら、苛立ち始めた。//
 (10)ロシア・ドイツ間交渉が修辞学的言葉の遣り取りにはまり込んでいた一方で、ドイツとオーストリアは、ウクライナと合意に達した。
 2月9日、中央諸国はウクライナ共和国との間に分離講和条約を締結した。これはウクライナを事実上はドイツの保護国とするものだった。(41)
 ドイツとオーストリアの兵団は、ウクライナへと移動した。そこで彼らは、ある程度の法と自由を回復した。
 この歓迎されるべき行為の対価は、船によってウクライナの食糧が西方へと大量に輸送されたことだった。//
 (11)ロシア・ドイツ間政治交渉の膠着状態を破ったのは、ドイツ皇帝からの電報だった。皇帝は、将軍たちの影響をうけて、2月9日にブレストに電報を発した。
 彼はその中で、最終通告書をロシアに与えるよう命じていた。//
 「本日、ボルシェヴィキ政府はラジオで私の兵団に en clair を伝え、立ち上がって軍部上官に公然と反抗するように迫った。
 私もフォン・ヒンデンブルク元帥閣下も、このような事態をこれ以上受け入れたり、甘受したりすることはできない!
 可能なかぎり迅速に、このようなことを終わらせなければならない!
 トロツキーは、明日、(2月)10日の午後8時までに、…<遅滞なく、我々の条件での講和>に署名しなければならない。…。
 拒否する場合または遅滞その他の釈明を企てる場合には、10日夜の8時に、交渉は決裂し、停戦は終わる。
 そうなれば、東部前線部隊は、事前に定められた線へと前進するだろう。」(42)
 (12)翌日、キュールマンはトロツキーに対し、ドイツ政府の最終通告を伝えた。
 トロツキーはそれ以上の議論をすることなくまたはその他の遅延を行うことなく、講和条約のドイツ語文に署名すべきものとされた。
 トロツキーは、ソヴィエト・ロシアは戦争から離れており、軍隊の動員解除を進めていると言って、そうするのを拒んだ。(43)
 しかしながら、ペトログラードへとその間に移った経済的、法的な議論は、そう望まれていたとすれば、継続することができただろう。
 トロツキーは列車に乗り込み、ペトログラードへと向かった。//
 -----------------
 (38) Lenin, PSS, XXXV, p.243-p.252.
 =レーニン全集第26巻「併合主義的単独講和の問題についてのテーゼ」452頁~460頁(大月書店、1958)。
 (39) 同上, p.324.; Hahlweg, Diktatfrieden, p.48.
 (*) Lenin, PSS, XXXV, p.478.; LS, XI, p.41.; Winfried Baumgart, Deutsche Ostpolitik 1918(Vienna-Munich, 1966), p.22.
 レーニンを支持したスターリンは、西側での革命は見えていない、と語った。
 この会議の議事録は消失したと言われている。Isaac Steinberg は、左翼エスエルは「戦争でも講和でもない」定式を好み、それを定式化したものを手にしていた、と語る。
 Steinberg, Als ich Volkskommissar war(Munich, 1929), p.190-2.
 (40) Lenin, PSS, XXXV, p.255-8.
 (41) ロシア語文、Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.298-p.308.
 英語訳文、Wheeler-Bennett, Forgotten Peace, p.392-p.402.
 (42) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.311-2.
 (43) Soviet Declaration in Lenin, Sochineniia, XXII, p.555-8.
 ----
 第13章第6節・第7節、終わり。

2235/R・パイプス・ロシア革命第13章第4節・第5節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳をつづける。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
 ----
 第4節・ボルシェヴィキ上層部の分裂。
 (1)ベルリンとウィーンがロシアとすみやかに合意するのは望ましくないと一致していたとすると、ペテログラードでは、意見は真っ二つに分かれていた。
 細かな差違を別にすると、ボルシェヴィキ内部に、ほとんどどんな条件であっても即時の講和を望む者たちと、ヨーロッパ革命を引き起こす手段として講和交渉を用いたいという者たちの対立があった。
 (2)第一の見解の主導者であるレーニンは、しばしば少数派に属することがあり、ときには一人だけの少数派だった。
 彼は、国際的な「諸勢力の相関関係」に関する悲観的な評価から出発した。
 レーニンもまた西側での革命を期待していたが、反対者たちよりも、「ブルジョア」政府が革命を粉砕する能力を高く想定していた。
 彼は同時に、ボルシェヴィキが権力を掌握し続けることについて、同僚たちほどには楽観的でなかった。
 レーニンは、講和交渉に付随した議論の間に、ヨーロッパではまだ内乱が発生していないが、ロシアではすでに起きている、と注意深く観察していた。
 この時期に関する見通しの点では、彼は、中央諸大国にある国内事情の困難さやすみやかに妥協する必要性を低く評価するという過ちを冒していたかもしれない。つまり、こうした点でのロシアの立場は、彼が思っていた以上に強かったのだ。
 しかし、ロシアの内部情勢に関する彼の見方は、完璧に適切だった。
 レーニンは、戦争を継続すれば国内の対抗者たちかドイツかのいずれかによって権力を奪われる危険がある、と分かっていた。
 また、権力を保持し続ける欲求を現実のものにするために、小休止が切実に必要であることも、分かっていた。
 そのためには、政治的、経済的、軍事的な組織的努力が必要だったが、いかほど負担が大きくて屈辱的であろうとも、平和という条件のもとでのみそれは可能だった。
 これが当面は西側「プロレタリアート」を犠牲にすることは、たしかに本当だ。しかし、レーニンの見方では、ロシアでの革命が完全に成功するまでは、ロシアの利益こそが最優先だ。//
 (3)レーニンに反対する多数派は、ブハーリンが先頭にいて、トロツキーが続いて加わった。この多数派の見地は、つぎのように要約された。//
 「中央諸国は、レーニンが小休止するのを許そうとしないだろう。
 彼らはウクライナの穀物と石炭、コーカサスの石油をロシアと遮断するだろう。
 ロシア住民の半分を支配下に置くだろう。
 反革命運動を財政支援し、革命を転覆させるだろう。
 ソヴィエトも、小休止の間に新しい軍を建設することはできないだろう。
 ソヴィエトは、まさに戦闘中に、軍事力を強化しなければならない。そうしてのみ、新しい軍隊を誕生させることができるのだ。
 確かに、ソヴィエトはペトログラードを、ひょっとすればモスクワをすら、放棄せざるを得ないかもしれない。だが、退却して再結集するだけの区域は十分にまだある。
 人民がかつて旧体制と闘うことができたほどには革命のために戦う意欲がないと分かったとしても-そして戦争派の指導者たちがこれを承認するのを拒むとしても-、全ゆるテロルと略奪を行って進出してくる全ドイツ軍によって、人民は疲労と無気力から呼び覚まされ、抵抗へと駆り立てられ、ついには広範で真に民衆的な革命戦争の熱狂が発生するだろう。
 この熱狂の流れに乗って、新しく畏怖すべき軍隊が立ち上がるだろう。
 下劣な屈服という恥を知らぬ革命は、復興を達成するだろう。
 革命は、世界の労働者階級の精神を掻き立てるだろう。
 そして最後には、帝国主義という悪魔を放逐するだろう。」(20)//
 このような意見の対立によって、1918年初めに、ボルシェヴィキ党の歴史上最大の危機が生じた。//
 ----------
 (20) Isaac, Deutscher, The Prophet Armed: Trotsky, 1870-1921(New York-London, 1954), p.387.
 ----
 第5節・初期の交渉(initial negotiations)。
 (1)1917年11月15日/28日、ボルシェヴィキは再び、交戦諸国に対して交渉を行うことを呼びかけた。
 この訴えは、連合諸国の「支配階級」が平和布令に反応しなかったために、ロシアは積極的に反応したドイツやオーストリアと停戦にかかる即時の交渉を行う用意がある、と述べた。
 ドイツは、ボルシェヴィキの提案をすみやかに受諾した。
 11月18日/12月1日、ロシアの代表団が、ドイツの東部戦線最高司令部があるブレスト=リトフスクに向けて出発した。
 この代表団を率いたのは、元メンシェヴィキでトロツキーの親密な友人の一人である、A・A・ヨッフェ(Ioffe)だった。
 カーメネフも含まれていた。これは、兵士、海兵、労働者、農民および女性という「勤労大衆」の代表という象徴的表現だった。
 ロシアの代表団を運ぶ列車がブレストに向かっている途中ですら、ペトログラードは、ドイツ兵団に対して反乱を呼びかけた。
 (2)停戦交渉は、11月20日/12月3日に、以前はロシアの将校用クラブだった建物で始まった。
 ドイツの代表団の長はキュールマン(Kühlmann)で、この人物はロシア事情の専門家だと自認しており、1917年にレーニンと協定するに際して最も重要な役割を果たしていた。
 両当事者は11月23日/12月6日に停戦を開始すること、11日間は有効とすることに合意した。
 しかしながら、この期限が満了する前に、相互の合意にもとづいて、1918年1月1日/14日まで延長するものとされた。
 この延長の表向きの目的は、連合諸国に対して再考慮して交渉に加わる機会を与えることだった。
 しかしながら、双方ともに、連合諸国がこれに応じる危険はない、と踏んでいた。キュールマンが首相に対して助言したように、ドイツが提示した停戦条件は重たいものなので、連合諸国がそれを受け入れるとは考えられなかった。(21)
 延長の本当の目的は、双方の側に対して、講和交渉へと至るそれぞれの立場を考え出す時間を与えることだった。
 このことが進行している以前にすでに、ドイツ軍は6分団を西部前線へと配置換えし、これにより停戦条件に違反していた。(*)//
 (3)ボルシェヴィキがいかにドイツとの関係の正常化を熱心に求めていたかは、停戦後すぐにヴィルヘルム・フォン・ミルバッハ(W. v. Mirbach)候が率いるドイツ代表団をペトログラードで歓迎したという事実でも、分かる。
 その代表団は、民間人の戦争捕虜の交換や経済的、文化的交流の再開について調整することとされていた。
 レーニンは、12月15日/28日に、ミルバッハを接受した。
 ベルリンがソヴィエト・ロシアの状態に関する目撃証言を初めて得たのは、この代表団からによってだった。(+)
 ドイツはミルバッハから伝えられて初めて、ボルシェヴィキはロシアの外国債務を放棄しようとしてることを知った。
 この情報を受けてドイツ国有銀行は、ドイツの利益には最小限度の負担で、連合諸国の利益は最大限度となるように処理する覚書の草案を作成した。
 この趣旨での提案は、レーニンの古い仲間で今はストックホルムのソヴィエト外交代表者のV・V・ヴォロフスキ(Volovskii)によって概略が描かれていた。この人物は、ロシア政府は1905年以降に発生した負債だけを消滅させる、と提案していた。ロシアに対するドイツの貸付はほとんどが1905年以前に行われていたので、債務不履行(default)の大部分は、連合諸国の側の負担になるものだった。(22)(**)
 (4)ブレストでの会談は、12月9日/22日に再開した。
 キュールマンが、ドイツ代表団を再び率いた。
 オーストリア使節団の代表は、外務大臣のチェルニン(Czernin)候だった。
 トルコとブルガリアの外務大臣も、同席した。
 ドイツの講和提案は、コートランド(Courland)とリトアニアとともにポーランドのロシアからの分離も要求した。これらの地域はこのとき、ドイツの軍事占領のもとにあった。
 ドイツ側はこれらの条件は合理的だと考えていたに違いない。なぜなら、彼らは希望に充ちた宥和的な気分でブレストに来ていて、クリスマスまでには原則的な合意に達するだろうと予想していたからだ。
 しかし、彼らはすぐに失望した。
 訓令にもとづいて交渉を長引かせていたヨッフェは、曖昧で非現実的な(レーニンが起草した)対案を提示し、「併合と賠償金のない」講和と植民地と同様のヨーロッパ諸民族の「民族の自己決定」を求めた。(23)
 ロシア代表団は、事実上はまるでロシアが戦争に勝利したかのごとく振る舞い、中央諸国に対して、戦争中の全ての征圧地を放棄するよう求めた。
 この態度によって、ドイツに初めて、ロシアの意図に関する疑念が生じた。//
 (5)講和交渉は、非現実的な雰囲気の中で進められた。つぎのとおりだ。
 「ブレスト=リトフスクの会議室の情景は、誰か偉大な絵画家が描く芸術に値するものだった。
 一方には、落ち着いて警戒心を怠らない中央諸国の代表たちがいた。彼らは黒い上着を着て相当にリボンで飾っていて、輝いていてかつきわめて丁重だった。…。
 その中で注目されたのは、まずキュールマンの細い顔と油断のない眼だった。この人物の議論中の礼儀正しさはいつも変わりがなかった。
 堂々とした風格のチェルニンは、彼の無邪気な温良さのために、観測気球を上げさせらていた。また、小太りの風貌のホフマン将軍がいて、軍事上の問題に関する発言が求められたときは、しばしば顔を紅くして意気高く発言した。
 ゲルマン系(Teutonic)の代表者たちの背後には、多数の一群をなした幕僚たち、文民公務員たち、眼鏡をかけた職業的専門家たちがいた。
 各代表団は母国語を話した。そして、そのゆえに討議は長くなりがちだった。
 ゲルマン系諸代表団の反対側に、ロシア人が座っていた。ロシア人のほとんどは汚らしく、衣服が粗末で、討議の間じゅう長いパイプで煙草を吸っていた。
 討議のほとんどは、彼らの興味を惹いていないように見えた。そして、政治に関する精神の問題に入ってとりとめのない形而上学的発言を洪水のごとく行う場合を除いて、ぶっきらぼうに討議に割って入った。
 会議の雰囲気は、ある程度は、品のよい使用者たちが特別に鈍感な労働者たちの代表と交渉をしている集会のごとくだった。ある程度は、村の学校の遠足に付き添う上品な主催者が開く会合のごとくだった。」(24)
 (6)会場の雰囲気が乗ってきたクリスマスの日、ドイツ人たちを大いに当惑させたことに、チェルニン候が、連合諸国が講和交渉に加わらないならば、オーストリアが戦争内に征圧した全領土を譲渡しようと申し出た。彼は、停戦合意の決裂を何としてでも回避し、必要ならば分離した講和条約に署名する用意があることを示すよう、訓令を受けていた。(25)
 ドイツ人たちは、より強い立場にいると感じた。迫り来る春の西部攻勢によつて勝利することができると期待していたからだ。
 中央諸国は占領したポーランドやその他のロシア領域の定住者に自己決定権を認めよというロシアの要求に対して反応して、キュールマンは、その地域はすでにロシアから分離することでその権利を行使していると辛辣に答えた。//
 (7)手詰まり感に陥って、交渉は12月15日/28日まで延長された。しかし、大きくは報道されなかったが、法的、経済的な委員会の「専門家たち」の間での交渉は続いた。
 (8)ドイツは結果を評価して、ロシアは平和を望んでいるのか、それともたんに西ヨーロッパに社会不安を発生させるために時間を稼いでいるのかと、ある程度は不思議に思い始めた。
一定のロシアの行動は、こうした疑念を支えるものだった。
 ドイツの諜報機関は、トロツキーからスウェーデンの協力者に宛てた手紙を途中で盗み見した。そこには、外務人民委員〔トロツキー〕が「ロシアを含む分離講和は考え難い。最も重要なのは、一般的平和を促進する国際的社会民主主義勢力が結集するのを覆い隠すために交渉を長引かせることだ」と書いていた。(26)
 まるでこのようなことを意図しているのを示すがごとく、12月26日に、ソヴィエト政府は、国際関係では先行例のないことを行った。ツィンマーヴァルト・キーンタール政綱を支持している外国のグループに対して、公式に200万ルーブルの予算を計上したのだ。(*)
 ブレストでの政治的会談の速記録を出版してドイツ政府はロシア政府に見倣うべきだというヨッフェの主張でもって、ドイツ側の懐疑が緩和することはなかった。その速記録は、ロシアの側で、ドイツの労働者にボルシェヴィキのプロパガンダを伝えるために意図的に作られたものだった。//
 (9)この時点で、ドイツの軍部が介入した。
 ヒンデンブルク(Hindenburg)は、皇帝宛ての1月7日(12月25日)付の手紙で、ドイツ外交部がブレストで採っている「弱気の」、「宥和的な」戦術はドイツが強く講和を必要としているという印象をロシアに与えている、と不満を述べた。この手紙は、皇帝に対して、大きな影響力をもつこととなった。
 ドイツの戦術は、軍部の士気には悪い効果を持った。
 心の裡を明確に語ることをしないで、ヒンデンブルクは、ボルシェヴィキが停戦中の前線で推進している、ロシアとドイツの両兵団の「友好(fraternization)」政策がもつ驚くべき効果について示唆した。
 強力に行動するときだ。ドイツが東部で強い決意を示さないならば、ドイツの世界的地位を獲得するのに必要な講和を、どのようにして西側連合諸国に対して押しつけることを期待することができようか?
 ドイツは、将来の戦争を抑止することができるように、東部の国境線を引き直すべきだ。(27)//
 (10)ブレストでの優柔不断な外交を我慢できなかった皇帝は、同意した。
 その結果として、ドイツの態度は、明瞭に察知できるほどに硬化した。
 交渉による平和を追求する「見せかけ」は、口述されたものに従って放棄された。//
 -------------
 (21) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.153-4.
 (*) J. Buchan, A Hiatory of the Great War, IV(Boston, 1922), p.135.
 停戦協定は、その有効期間中にロシア前線から兵団を「大規模に」移動させることを禁止していた。
 (+) フランスの将軍のアンリ・A・ニーセル(Niessel)によると、連合諸国は、ペトログラードからブレストへのドイツの電信を傍聴していた。そしてそれから、ドイツが切実に講和を望んでいることを知った。
 General (Henri A.)Niessel, Le Triomphe des Bolcheviks et la Paix de Brest-Litovsk: Souvenirs, 1917-1918(Paris, 1940), p.187-8.
 (22) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.66-p.67.
 (**) ソヴィエト政府の国内および外国に対する全ての国家債務の不履行は、1918年1月28日に発表された。
 これによって消滅した外国負債の総額は、130億ルーブルまたは65億ドルと見積もられた。
 G. G. Shvittau, Revoliutsiia i Narodnoe Khoziaistvo v Rossi(1917-1921)(Leipzig, 1922), p.337.
 (23) 同上, p.59-p.60.; Fischer, Germany's Aims, p.487は、6項を挙げる。
 (24) Buchan, A History of the Great War, IV(Boston, 1922), p.137.
 (25) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.148-p.150.; Fischer, Germany's Aims, p.487-p.490.
 (26) Gerald Freund, Unholy Alliance(New York, 1957), p.4.
 (27) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.194-7, p.208.
 ----
 第4節・第5節、終わり。

2232/L.Engelstein・Russia in Flames(2018)第6部第2章第3節。

 L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)。
 以下、上の著の一部の試訳。
 第6部・勝利と後退。
 第2章・革命は自分に向かう。
 ---- 
 第3節。
 (1)攻撃されると考えて、クロンシュタット臨時革命委員会は、島の奪取を計画した。
 海兵たちは、武器庫、電話交換所、行政部署の建物を占拠した。
 委員会は-公式のソヴィエト機関紙のごとく<Izvestiia>と称する-新聞を発行した。その新聞は、秩序の維持を訴え、流血に至ることを警告した。(35) 
 大衆の示威行動の3日後の3月3日、労働者騒擾がペトログラードで衰えていたときであっても、当局は市とその周辺地域に戒厳令を敷いた。
 レーニンとトロツキーがその翌日に署名した布令は、「反乱」を非難し、反抗は「法の外にある」と宣告した。
 首謀的指導者の家族の間には、人質となった者がいた。
 交渉は、拒否された。
 選択できるのは、降伏するか、戦うか、だけだった。
 3月5日、クロンシュタットの将校たち(コズロフスキのような「軍事専門家たち」)は、武装防衛を組織化して、反乱者たちを助けることに同意した。(36)
 (2)同じ日、モスクワは、攻撃する決定を下した。
 トロツキーは、「最終警告」を発した。-「社会主義祖国」に刃向かった者は全員が、「直ちに武器を捨て」なければならない。「無条件で降伏した者だけが、ソヴェト共和国の寛大な措置を期待することができる」。
 「反乱と反乱者を軍隊によって粉砕する」よう、諸指示が発せられた。
 「これによって民間住民に対して生じる損害に対する責任は、あげて白軍反乱兵たちにある」。(37)
 この警告は、ラジオでクロンシュタットに伝えられた。
 ビラ(leaflets)が飛行機から撒かれた。そのビラは、白軍とコズロフスキ将軍を非難していた。
 反乱者たちは、自分たちは「革命が獲得した自由」を防衛していると、強く主張した。
 クロンシュタット兵団のある会合は、こう決議した。
 「我々は、死んでも、屈服しはしない。
 労働者人民の自由なロシアよ、永遠なれ」。(39)
 (3)最後通牒は、24時間延長された。
 3月7日、臨時革命委員会は、「労働者大衆の革命」は「ソヴェト・ロシの顔を冒涜した卑劣な中傷者や屠殺者たちを排除する」心づもりだ、と発表した。
 「トロツキー氏よ、我々はきみたちの寛大さなど必要としない!」。(40)
 ミハイル・トゥハチェフスキが指揮をとる第七軍は、3月8日に攻撃を開始することになっていた。その日は第10回党大会がモスクワで開催される予定の日で、攻撃の成功をその大会で発表することができるようにだった。(41)
 チェカの工作員はこう警告した。「外科手術によって広がる病気を除去する」ときだ。「内科的治療では、もう遅すぎる」。(42)
 (4)クロンシュタット兵士たちは他の要求の中で、強制的徴発(forced requisitions)の中止を主張した。
 1年前の1920年2月、トロツキーは、穀物の徴発(grain levy)、すなわち<razverstka>〔穀物徴発〕に関する知見を再考するようになっていた。これは、厄災的<貧民委員会(kombedy)>に取って代わったものだった。
 ウラルでの経験が示したのは、<razverstka>は収穫物の増大をもたらさなかったこと、そして農民たちが消費高割り当て(comsumption norm)に合わせて種を撒くように自ら制限する原因になっただけだったこと、だった。
 トロツキーは、代わりに一種の現物税(<prodnalog>)、収穫される量の一定割合、を提案し、農民たちがより多く植え付ける誘因にしようとした。(43)
 しかしながら、1920年3月、レーニンは、「数百万を数える、…戦争の気構えをもつ小ブルジョア財産所有者、小規模の投機者」に対する党の方針を再確認した。
 ほとんどのボルシェヴィキは、強制の増加を呼びかけることに同意した。(44)
 1年後、1921年2月頃、レーニンと党の最上層部、およびチェカは、<razverstka>の再検討をようやく開始した。(45)
 <prodnalog>〔食糧税〕導入の問題は実際に第10回大会の議事事項だったが、クロンシュタットに対する攻撃がすでに進行するまでは発表されなかった。
 反乱者たちの要求は、あらかじめ回答が回避されていたのだ。
 問題は、力だった。
 レーニンは、こう言った。「まさに今が、我々がこの民衆たちに教訓を教え込むときだ。そうすると数十年の間は、彼らは抵抗のことなどをあえて考えつこうとすらしないだろう」。(46)
 (5)かりに2日早く、3月6日に第10回大会が始まっていれば、反乱者側は政策変更を知って、おそらくは正しさが認められたと感じて、撤退したかもしれなかった。しかしそれは、レーニンが望んだことではなかった。(47)
 農民の大量の暴動は、党が穀物徴発の方法を緩和することを強いていた。
 労働者たちの抗議は、党内の労働者反対派と呼ばれるグループが労働組合の経済問題に関する役割をより大きくすることを主張するようになる原因となった。 
 しかしながら、レーニンは、党内についてすら、政治的統制を強化する必要性に固執した。
 党の統一を擁護して「アナキストとサンディカリスト的逸脱」を非難する決議は、重大な異見を党内で、上層部内ですら、表現することのできた時代に終焉を告げるものだった。
 こうして、民衆による騒擾の影響が引き起こした経済的譲歩に伴ったのは、新たなイデオロギー上の厳格な締め付けだった。//
 (6)敵に対する党の決定への草の根的挑戦を非難するのは容易だ。敵-黒の百、白軍将校、メンシェヴィキあるいは社会革命党。
 しかし、バルト艦隊の革命的海兵たちが自分たちの信条にもとづいて行動していることは、何ら秘密ではなかった。
 しかしながら、「この民衆たちに教訓を教え込む」のはさほど容易ではなかった。
 3月8日、反乱は、外科的な整然さをもってしても鎮圧されなかった。
 その時点で、およそ1万3000人の海兵と兵士、さらに2000人の武装民間人が、攻撃を退ける準備をしていた。
 彼らはいくぶんかは、大陸と隔てる11マイルの氷の覆いで守られていた。攻撃者たちは、銃火を浴びながらそこを横断しなければならなかっただろう。
 しかしながら、彼らは長期間の包囲に耐えることができなかった。弾薬、燃料、そして食糧が限られていたからだ。(48)
 じつに、飢えこそが、彼らに対して用いられた武器だった。
 「空腹のために、クロンシュタットはボルシェヴィキの力に屈服するのを余儀なくされるだろう」と、公式の報告書は予測していた。(49)
 (7)攻撃の第一局面は、3月7日の夜から8日にかけて始まった。
 銃砲が響く音を、ペトログラードで聞くことができた。だが、雪と霧のために、すぐに戦闘行動が中止された。
 翌朝、冬仕様で身を包んだ赤軍の兵団が、明け方の雪嵐の中を突き進んだ。
 機関銃が、氷を砕いた。
 何人かの兵士が海に落ち、何人かは歩み続けるのを拒んだ。
 陽光が9時頃に輝いたとき、雪の上に死体が横たわっているのが見えた。(50)
 この夜、3月8日の未明、赤軍兵士のグループが、白旗を掲げて島に接近した。
 非武装の〔クロンシュタット側の〕指導者二人が馬から降り、彼らと会おうとした。
 その一人のS・ヴァシニン(Sergei Vershinin)は26歳の<Sevastopol>の電気技師で、明確に使者たちに対して、共産党に対する闘争に加わるよう訴えた。
 のちのあるソヴィエト文献は、ヴァシニンは「一緒になって、Yids(ユダヤ人)をやっつけよう」と言って彼らを誘った、と主張している。
 彼が本当にこの俗語を使ったのだとすれば、驚くべきことだっただろう。
 しかし、この説明が叙述しようとしているのは、彼は「遅れて」、「堕落して」いるが幻滅していない忠実な革命の息子だ、ということもあり得る。
 いずれにせよ、ヴァシニンはたたちに逮捕された。もう一人の仲間は、何とか逃げのびた。(51)//
 (8)3月10日、トロツキーは、湾の氷が解けて反乱者たちがフィンランドへ行けるようになる前に、早く攻撃せよと、主張した。
 彼は苛立っていた。「緊急的手段が必要だ。怖れることだが、党も中央委員会も、クロンシュタット問題がきわめて深刻であることに十分に気づいていない」。(52)
 問題の一つは、彼らを鎮圧するに必要な軍隊の状況に関係していた。
 どちらの側にも、士気(morale)という問題があった。-そう、じつに誰もが、二つの側ではない、と分かっていた。
 同じ者たちだった。革命の同じ戦闘部隊が、相互に対して戦闘隊列を敷いていたのだ。//
 (9)同じ日、トゥハチェフスキはレーニンに書き送った。面倒なのは、反抗がバリケードの向こう側で起きていることだ、と。
 司令官は愚痴をこう述べた。「ペトログラードの労働者は信頼できない。クロンシュタットの労働者は、海兵たちを支持している。…多数のメンシェヴィキが、スモレンスク市ソヴェトに選出された」。
 経済条件が長く困難なままなので、労働者たちはいつでも、「ソヴェト権力に反抗する」かもしれない。
 体制側には本当の、十分に訓練した軍隊が必要だ。そうした軍隊ならば、戦争の挑発、内部に対する戦争に対処することができるだろうから。
 トゥハチェフスキは、こう警告した。「平時にあるようなものではないだろう」。(53)
 (10)トゥハチェフスキのこの時点での任務は、内部からの反抗を軍事的に弾圧することだった。
 空軍と砲兵隊による爆撃が3月10日に始まり、濃霧の妨げがないときに間欠的に続いた。さらに4日間が過ぎたとき、トゥハチェフスキは再編成すべく中断させた。
 彼が気づいていたように、状況は安定していなかった。
 鉄道労働者の中には、兵団を輸送するのを拒む者たちもいた。
 ある兵団は、配置に就くことを拒否した。
 男たちは、躊躇を示していた。
 「前線に行くつもりはない」、「戦争には飽きた、パンをくれ」、そしてよく見られた、「ユダヤ人をやっつけろ」。
 彼らは、仲間たちと戦闘しようとはしなかった。(55)
 (11)兵士たちは溺死させられるために氷の上に連れて行かれる、という風聞が流れた。
 二つの連隊が兵舎から武器を手にして出てきて、「氷の上には行かない」、「村落へと展開されてくれ」、「別の一団を呼び集めよう」と叫んだ。(56)
 司令部はこのとき、外科的手段を自分たちの部隊にも適用した。
 200人の兵士が逮捕され、74人の指導者たちが射殺された。そして連隊は、秩序ある状態に戻った。
 まさにこのような場合に、「臆病さや退却の試みが生じた場合」のために、特殊部隊が至るところに配置された。(57)
 実際に、苛酷な紀律が導入された。-野戦審判所、不服従や脱走に対する死刑、公開の処刑。
 反抗的な分団は拘束され、その場で処刑された。
 兵士の男たちは、一度に30人または40人が、射殺された。(58)
 紀律が回復した。ペトログラードの労働者たちは、静かになった。(59)//
 (12)3月15-16日の夜、クロンシュタット爆撃が再び始まった。
 攻撃側が予想したように、クロンシュタットの防衛者たちには燃料、武器、衣料品が、そして食糧が乏しくなってきていた。
 圧倒的に数は多かったが、特別の食料配給を受け、電線切断機を装備し、その側では反革命者だったと責められている帝制時代と同じ将校によって指揮されている兵団と、彼らは直面していたのだ。
 3月16日夕方、<Sevastopol>が一発の砲弾を受けた。(60)
 その1日後、ペトリチェンコを含む革命委員会全体が、氷上を横切ってフィンランドへと逃亡した。
 総計で8000人のクロンシュタット兵士たちが、これを安全に行わせた。(61)//
 (13)3月18日の朝までに、赤軍が統制権を握った。
 その日は、1871年3月18日のパリ・コミューン開始の第50周年記念日と一致していた。
 ペトログラードの新聞は、喜んだ。
 二隻の裏切り戦艦は、<Marat(マラー)>および<パリ・コミューン>と改名された。
 残っている海兵たちと参加していた赤軍兵団は、再配置され、そして解散させられた。
 死者数の見積もりは、様々だ。
 死体は、街頭や氷上に放っておかれていた。
 この月の末に、ロシアとフィンランドの代表団が、解氷しつつある表面にある死体の処理について、討議した。(62)
 (14)<Petropavlovsk>と<Sevastpol>の乗員兵士たちは、とくに苛酷に扱われた。
 逮捕された者たちのうちほとんどは、この事件に何らの役割を果たしていなかった。しかし、全員が公的な審判で、反乱および武装蜂起の罪があるとして訴追された。
 1921年夏頃までに、チェカと多数の野戦審判所は、2000名以上の者に対して死刑、6000人以上の者に対して収監(懲役)を言い渡した。
 1年後、数千人の家族が要塞都市から追放され、従前の住民たちから離れた。(63)
 処刑された兵士たちの多くは、20歳代には農民だった。(64)
 ヴァシニンはクロンシュタットの使者で攻撃の第一日めに白旗を掲げた計略で拘束されていたのだが、尋問を受ける一人となり、射殺された。(65)
 (15)トロツキーには、形式的な訴訟手続の目的に関する骨格的構想などなかった。
 審判は「重要な煽動的意義」を持ち得るだろう。
 「いずれにせよ、処刑に関する報告、演説等々は、小冊子やビラよりもはるかに力強い影響力をもつだろう」。(66)
 目標は、トロツキーがクロンシュタットの事態と一体視していた社会革命党の影響を排除することだった。そして、元々はマフノ(Makhno)と連携していたが、海兵たちの反乱にも関係したアナキストたちの残滓のそれをも。
 革命家仲間の内部から共産党の権威に反対すること-あるいはそれを疑問視すること-は、率直かつ明快に論証されなければならない。これが、この事態の帰結だった。//
 ----
 第3節、終わり。

2224/R・パイプス・ロシア革命第13章第1・第2節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 試訳をつづける。第13章に入る。第1節に当たる部分に目次上の表題がないので、たんに「序」とする。
 ----
 第13章・ブレスト=リトフスク。
 「党の煽動活動家は、わが党はドイツとの分離講和を支持している、という資本主義者が投げつける汚い中傷に対して、何度も、何度も、抗議しなければならない」。
 レーニン、1917年4月21日。(1)
 **
 第1節・序。
 (1)十月以降のボルシェヴィキの主要な関心は、その権力を確固たるものにし、全国土へと拡張することだった。
 彼らはこの困難な任務を、現実的な外交政策の枠組みの中で行わなければならず、その中心に位置したのは、対ドイツ関係だった。
 レーニンの判断では、ロシアがすみやかにドイツとの停戦に署名しなければ、自分が権力を維持することのできる機会は皆無に近い。
 逆に言えば、停戦とそれに続く講和は、ボルシェヴィキが世界制圧を始めるドアを開けるだろう。
 1917年12月、ほとんどの支持者がドイツが提示した条件を拒否していたとき、レーニンは、ドイツの言うがままにする以外の選択の余地は党にはない、と論じた。
 問題は、きわめて単純だ。ボルシェヴィキが講和をしなければ、「戦争に耐えられないほど消耗している農民軍は、…社会主義労働者政権を打倒するだろう」。(2)
 ボルシェヴィキには、権力を堅固にし、行政運営を管理し、自分たち独自の軍隊を建設するために、<peredyshka>あるいは休息時間(breathing spell)が必要だ。
 (2)このような想定から進めて、レーニンには、自分に権力基盤が残されるかぎりはどんな条件でも中央諸国と講和を締結する心づもりがあった。
 党員たちの抵抗は、ボルシェヴィキ政府は西ヨーロッパで革命が勃発する場合にだけ生存し続けることができるという考え(レーニンも同じ)や、 それは今にも発生するに違いないとの確信(レーニンは完全には同じでない)によっていた。
 「帝国主義」中央諸国との講和、とくに屈辱的な条件でのそれは、レーニンの反対者たちからすると国際社会主義に対する裏切りだった。
 講和は、長期的には革命ロシアの死を意味するだろう。
 彼らの見方では、国際プロレタリアートの利益よりも、ソヴェト・ロシアの短期的でナショナルな利益を優先させてはならない。
 レーニンは、これに同意しなかった。
 「我々の戦術は、どうすれば、自らを強固にし、あるいは他諸国が加わるまで<一国で>あっても生き抜く可能性を、社会主義革命に関して、より信頼できより希望がある方途で確実なものにすることができるか、という基本的な考えにもとづいている。」(3)
 ボルシェヴィキ党は、1917-1918年の冬、この問題で、真っ二つに分かれた。
 (3)ボルシェヴィキ・ロシアの中央諸国との関係の歴史、とりわけ十月のクー以降の12ヶ月間のドイツとの関係の歴史は、そのときに共産主義者がその外交政策の戦術と戦略を理論上定式化し、実務で作り上げていくものだったため、きわめて興味深いものだ。
 --------------
 (1) Lenin, PSS, XXXI, p.310.
 (2) 同上, XXXV, p.250.
 (3) 同上, p.247. <>は挿入した。
 ----
 第2節・ボルシェヴィキと伝統的外交。
 (1)西側諸国の外交の起源は、15世紀のイタリア都市国家に遡る。
 そこから外交実務が残りのヨーロッパに拡がり、17世紀には国際法の編纂が見られた。
 外交は主権国家間の関係を調整し、紛争を平和的に解決することを意図するものとされた。
 外交が失敗して武力行使に訴えられれた場合には、国際法の任務は暴力の程度を可能な限り小さいものにし続け、敵対関係をすみやかに終わらせることだった。
 国際法が成功するか否かは、全ての当事者が一定の原理を受け容れているかによる。
 1.主権国家は、生存の権利を疑いの余地なく有することが承認される。どんな見解の差異が諸国家にあろうとも、それぞれの存在自体は決して問題になり得ない。
 この原理が1648年のウェストファリア条約を支えた。
 この原理は18世紀の終わりにポーランドの第三次分割によって侵犯され、国の消滅をもたらしたが、例外的な場合とされた。
 2.国際関係は、政府間の接触に限定される。ある政府が別の政府の頭越しにその国民に対して直接に訴えるのは、外交上の規範を侵犯する。
 19世紀の実務では、国家は通常は外務省を通じて意思や情報を連絡し合う。
 3.外務当局間の関係は、正式合意の尊重も含めた、一定レベルの誠実さと善意を前提とする。これらなくして相互信頼はなく、信頼がなければ、外交は無意味な活動となるからだ。
 (2)15世紀から19世紀の間に発展したこうした原理と実務は、キリスト教諸国の超国家的共同社会の存在はむろんのこと、自然法の存在を想定している。
 自然法に関するストア派の観念は永遠で普遍的な正義の規準を想定しているが、H・グロティウス(Hugo Grotius)以降のその国際法の理論家たちが、国家間関係にその観念を適用した。
 キリスト教徒の共同社会という観念は、どんな差異があってもヨーロッパ諸国とその海外地は一つの家族の一員だ、ということを意味した。
 20世紀以前に、国際法の観念は、ヨーロッパ共同社会の外にいる人々に適用されるとは考えられていなかった。-この姿勢が植民地征服を正当化した。
 (3)明らかに、こうした「ブルジョア」概念の全複合体が、ボルシェヴィキには不快だった。
 革命家は既存の秩序を転覆しようと決意しているので、国際的国家システムの神聖さを承認するとはほとんど期待されていなかっただろう。
 政府の頭越しにその国民に訴えることは、革命戦略のまさに根本だった。
 かつまた、国際関係での誠実さと善意について言えば、ボルシェヴィキは、その他のロシア急進派と共通して、道徳という規準は運動内部でのみ、同志間の関係についてのみ義務的なものになると見なしていた。すなわち、階級敵との関係には、道徳ではなく戦争の規則が当てはまる。
 戦争の場合と同じく革命では、重要な原理はただ一つ、<kto kogo>、誰が誰を喰うか、だった。//
 (4)十月のクー以後の数週間、ほとんどのボルシェヴィキは、ロシアの例がヨーロッパ全域に革命を始動させると期待していた。
 産業ストライキや暴動に関する外国からの全ての報告が、「始まり」だと歓迎された。
 1917-1918年の冬、ボルシェヴィキの<Krasnaia gazeta>やこれと類似の党機関紙は、毎日のごとく、横大見出しで、西ヨーロッパでの革命的爆発を報告した。
 ある日はドイツ、つぎはフィンランド、そして再びフランス。
 このような期待が生き続けているかぎりは、ボルシェヴィキには、外交政策を作り上げる必要がなかった。
 しなければならないのは、いつもやってきたことの繰り返しだった。つまり、革命の炎を燃え立たせること。//
 (5)しかし、この希望は、1918年春に、いくぶんか衰えた。
 ロシア革命にはまだ、競争する仲間相手がいなかった。
 西ヨーロッパでの反乱やストライキはどこでも弾圧され、「大衆」は「支配階級」を攻撃しないで、お互いに殺戮し合った。
 このような事態を認識しはじめたとき、革命的な外交政策を作り出すことが喫緊となった。
 この点で、ボルシェヴィキには指針がなかった。マルクスの書物も、パリ・コミューンの経験も、大した助けにならなかったからだ。
 この困難さは、主権国家の支配者としての利益と世界革命の自認の指導者としての利益と、これら二つの矛盾する条件があることからも生じていた。
この後者の点での理解では、ボルシェヴィキは他の(「非・社会主義的」)政府の存在する権利を否定し、外交関係を国家の長や閣僚たちに限定する伝統を拒否した。
 ボルシェヴィキは、ナショナルな「ブルジョア」国家の構造全体を完膚なきまで破壊するのを欲した。そうすることで彼らは、外国の「大衆」が反抗するように激励しなければならなかった。
 だが、しかし、彼ら自身が主権国家を今では率いているために、他の政府との関係を避けることはできなかった。-少なくともその政府が世界革命によって打倒されるまでは。
 そして、他政府と関係をもつには、「ブルジョア」国際法の伝統的基準に合致して行動しなければならなかった。
 彼らはまた、自分たちの内部問題に外国が干渉することを排除するため、こうした基準による保護を必要とした。//
 (6)共産主義国家の二重性(dual nature)、つまり党と国家の形式的分離、が有用だと分かるのは、まさにこの点だ。
 ボルシェヴィキは、二つのレベルの外交政策を構築することで、問題を解決した。一つは、伝統的。二つは、革命的。
 「ブルジョア」諸政府と交渉する目的で、外務人民委員部を設立した。部員は全員が信頼できるボルシェヴィキで、党中央委員会からの指令に服従した。
 この機関は、少なくとも表面的には、外交に関する受容された規範に合致して、機能した。
 相手国で許されるかぎりで、ソヴィエトの外交使節団の長は「大使」や「公使」ではなく「政治代表者」(polpredy)と呼ばれ、旧ロシアの大使館の建物を受け継ぎ、cutawayを着用し、シルク・ハットを被り、「ブルジョア」大使館の仲間たちとよく似た振る舞いをした。(*)
 革命的外交-厳密に言えば、用語法上の矛盾がある-は、コミュニスト・インターナショナル(コミンテルン)のような、党が自らまたは特殊機関の工作員を通じて行う場所になった。
 工作員たちは革命を刺激し、外務人民委員部が適切な関係を維持している、まさにその外国政府に反対する地下活動を支援した。//
 (7)このような機能の分離はソヴェト・ロシア内部での党と国家の類似の二重性(duality)を反映しており、スヴェルドロフ(Sverdlov)はボルシェヴィキ第七回党大会で、ブレスト=リトフスク条約の方向に関して述べた。
 署名国が敵対的な煽動活動やプロパガンダを行うことを禁じる条項に言及して、こう言う。
 「我々が署名した、そしてすみやかにソヴェト大会で批准させなければならない条約から、つぎのことが完全に明確になる。すなわち、政府、ソヴェト権力の権能者として、我々は今まで行ってきた広範な国際的煽動活動をすることができなくなるだろう。
 しかし、これは、我々が煽動活動を微小なりとも削減しなければならないことを意味していない。
 今からはたんに、ほとんどつねに、人民委員会議の名前によってではなく、党中央委員会の名前によって行わなければならない。…」(4)
 党を私的組織と見なすというこの戦術によって、悪辣な行動については「ソヴィエト」政府には責任がなく、ボルシェヴィキは、むしろ興味深い決定を着実に押しすすめた。
 例えば、1918年9月にベルリンがロシアの新聞(その頃まで完全にボルシェヴィキが統制していた)による反ドイツ・プロパガンダについて抗議したとき、外務人民委員部は、いたずら気に、こう回答した。
 「ロシア政府は、ドイツの検閲部とドイツの警察が、ロシアの政治的組織-つまりソヴェト制度-について悪意ある煽動活動をしているとして…ドイツの新聞を訴追していないことを、遺憾には思っていない。…
 ソヴィエト諸制度についての政治的社会的な反対意見を自由に表現しているドイツのプレスに対して、ドイツ政府の側がいかなる抑圧的な措置もとっていないことを、十分に許容し得るものだと考えるならば、ドイツの制度に関するロシアの私人や非公式新聞の同様の行動も、同等に許容し得るものだ。…
 最も断固として抗議する必要があるのは、ドイツ総領事館が、つぎのように提示していることだ。すなわち、ロシア政府は警察的手段によってロシアの革命的プレスをあれこれの方向へと指揮することができ、官僚機構の影響でもってその中にあれこれの見方を注入することができる、と頻繁に述べている。」(5) //
 (8)ボルシェヴィキ政府は、外国がロシアの内部問題に干渉したとき、きわめて多様に反応した。
 早くも1917年11月、外務人民委員のトロツキーは、同盟国の大使たちがロシアの正統な政府の所在に確信がなくて軍最高司令官のN・N・ドゥホーニン(Dukhonin)に外交書簡を送ったあとで、ロシアの問題に関する同盟国の「干渉」に抗議した。(6)
 ソヴナルコムは、機会があるごとに、内政不干渉の原則を侵犯していると諸外国に対して抗議した。まさにその原則を自らがくり返して侵犯しているときにあってすら。//
 -------------
 (*) 最も早いロシアの<polpredy>は、中立国に配置された。ストックホルムにV. V. Vorovskii、ベルンにIa. A. Berzin。
 ブレスト条約が批准された後、A. A. Loffe がベルリンでの任務を受け継いだ。
 ボルシェヴィキは、先ずリトヴィノフを、次いでカーメネフをイギリス(The Court of St. James)に任命しようとしたが、いずれも拒否された。
 フランスもまた、内戦の後まで、ソヴィエトの代表を受け入れようとしなかった。
 (4) Sed'moi Ekstrennyi S"ezd RKP(b)(Moscow, 1962), p.171.
 (5) Sovetsko-Germanskie Otnoshennia ot peregovorov v Brest-Litvske do podpisaniia Rapall'skogo dokovora, I(Moscow, 1968), p.647-9.
 (6) C. K Cumming & W. W. Pettit, eds., Russian-American Relations 1917年3月-1920年3月(New York, 1920), p.53-p.54.
 ----
 第1節・第2節、終了。

2223/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第2節。

 L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)
 以下、上の著の一部の試訳。
  序説
  第1部/旧体制の最後の年々, 1904-1914  **p.1-p.28.
  第2部/大戦: 帝制の自己崩壊。      **p.31-p.99.
  第3部/1917年: 支配権を目ざす戦い。  **p.104-p.233.
  第4部/主権が要求する。       **p.238-p.359.
  第5部/内部での戦争。        **p.363-p.581.
  第6部/勝利と後退。         **p.585-p.624,
  結語
  「注記(Note)・「Bibliographic Essay」・「索引(Index)
                      **p. 633ーp.823.
 第6部・勝利と後退(Victory and Retreat)
 第2章・革命は自分に向かう。**p.606~
 ----
 第2節。
 (1)さて、クロンシュタットでは、装甲戦艦の<Sevastopol>と<Petropavlovsk>(主要戦艦、系譜上の戦艦)が、不安な状態にあった。
 乗組兵たちは1918年にすでに、ボルシェヴィキの政策を支持しないことを主張していた。その際、ブレスト=リトフスク条約に対する社会革命党の批判の仕方を採用し、政治委員が自分たちが選んだ委員会に取って代わったことに怒っていた。
 彼らは、自由なソヴェト選挙を呼びかけた。
 1920年12月、怒りの雰囲気が満ち、脱走兵が増えた。
 海兵たちは、劣悪な条件について不満を言うためにモスクワに代表者団を派遣した。
 代表者たちは、逮捕された。(19) 
 1921年1月、不満がさらに増した。
 <Sevastopol>と<Petropavlovsk>の乗員たちは、最近に行われたペトログラードからクロンシュタットへの移転に憤慨していた。また、それに続いた、上陸許可の延期を含むより厳格な紀律の導入に対しても。
 もっと根本的に彼らが憤慨していたのは、不平等な配給制を含む、特権に関する新しい階層制だった。
 農村地帯からの報せも、不満を増した。
 馬も、牛も、最後の一頭まで、家族や隣人から略奪されていた。(20)
 (2)ペトログラードでの操業停止を聞いて、<Sevastopol>と<Petropavlovsk>の乗員たちは、調査のための代表団を送った。
 3月1日、海兵たちは、政治方針を定式化した。
 それは、一連の政治的要求から始まる。
 まず、秘密投票による、かつ予備選挙運動を行う権利を伴う、ソヴェトの再選挙を呼びかけた。現在のソヴェトは「労働者と農民の意思を表現していない」からだ。
 政治方針はまた、言論、プレス、および集会の自由を要求した。-だが、「労働者と農民、アナキスト、および左翼社会主義政党」によるものだけの。
 単一の政党がプロパガンダを独占すべきではない、とも強く主張した。
 「社会主義諸党の全ての政治犯たち、および全ての労働者と農民、そして労働者と農民の運動に関係して逮捕された赤衛軍兵士と海兵たち」の釈放を要求した。また、収監や強制収容所に送る事例の見直しも。
 共産党による政治的統制と武装護衛兵団の除去も、要求した。
 労働者を雇用していないかぎりは、農民たちは土地と家畜に対する権利をもつ、とも主張した。(21)
 (3)クロンシュタット・ソヴェトに召喚されて、1万6000人の海兵たち、赤軍兵士、市の住民が二月革命記念日を祝うべく、島の中央広場に集合した。
 二月革命は、時代の変わり目だった。 
全ロシア〔ソヴェト〕中央執行委員会のM・カリーニン(Mikhail Kalinin)は特別の登場の仕方をした。音楽と旗と、軍事上の名誉儀礼で迎えられた。
 手続を始めたのは、クロンシュタット・ソヴェトの議長のP・ヴァシレフ(Pavel Vasil'ev)だった。
 カリーニンとバルト艦隊委員のN・クズミン(Nikolai Kuz'min)は演壇に昇って、海兵たちに対して、政治的要求を取り下げるよう強く迫った。
 彼らの言葉は、叫び倒された。
 S・ペトリチェンコ(Stephen Petrichenko)という名の戦艦<Petropavlovsk>の書記が、海兵たちの政治方針にもとづく投票を呼びかけた。
 広場にいる海兵たちは、「満場一致で」これを承認した。(22)
 (4)革命側に立った他の有名な指導者たちの多くと同様に、ペトリチェンコは、ボルシェヴィキが培養した草の根活動家の横顔にふさわしかった。
Kaluga 州の農民家庭に生まれ、ウクライナの都市、ザポリージャ(Zaporozhe )に移った彼は、2年間の学修課程と金属労働者としての経験を得た。
 1914年、22歳の年に、海軍へと編入された。
 1919年、共産党に加入した。(23)
 彼は熟練労働者の典型的な者の一人で、とくに技術的分野でそうだった。
 海軍の反乱では指導力を発揮した。このことはすでに、1905年に知られていた。(24)
 (5)指導性のみならず動員の過程もまた、標準的な革命のお手本に従うものだった。
 草の根的ソヴェトの伝統で、海兵たちは代表を選出し、選挙を組織し、元来の参加モデルに回帰することを要求した。
 3月2日、ペトリチェンコは、海兵代議員たちの会合を呼び集め、代議員たちは幹事会を選出し、全ての社会主義政党が参加するよう招聘するクロンシュタット・ソヴェトの新しい選挙を計画した。
 30人の代議員グループがペトログラードに派遣されて、工場での彼らの要求について説明した。
 彼らは、逮捕された。そして、行方不明になった。(25)
 (6)クズミンは海兵たちの不満に対応しようとせず、警告を発した。
 彼はこう発表した。ペトログラードは、静穏だ。あの広場から出現しつつあるものについて、支持はない。しかし、革命それ自体の運命が重大な危機にある。
 ピウズドスキ(Pilsudski)は境界地帯で待ち伏せしており、西側は、襲撃をしかけようしている。
 代議員たちは、「その気があれば彼を射殺できただろう」。
 彼はこう言ったと報告されている。「武装闘争をしたいのなら、一度は勝つだろう。-しかし、共産主義者は進んで権力を放棄しようとはしないし、最後の一息まで闘うだろう」。(26)
 海兵たちの側は、当局との妥協を追求すると言い張った。
 クロンシュタットのボルシェヴィキは、事態の進行から除外されていなかった。
 しかしながら、神経を張りつめていた。
 武装分団が島へと向かっている、との風聞が流れた。
 武力衝突を予期して、会合は、ペトリチェンコの指揮のもとに、臨時革命委員会(<Vremennyi revoliutsionnyi komitet>)を設立した。(27)
 (7) 海兵たちは、ペトログラードの不安は収まっているとのクズミンの主張を、信用しなかった。
 彼らは、自分たちで「第三革命」と称しているものへの労働者支持が拡大するのを期待した。
 大工場群のいくつかは、これに反応した。しかし、ペトログラードの労働者のほとんどは、控えた。
 ペトログラードの労働者たちは、戦争と対立にうんざりしていた。そして、テロルが新しく増大してくるのを恐れた。
 彼らは、海兵たちがすでに特権的地位にあると考えているものを自分たちのそれと比較して、不愉快に感じた。
 彼らは、断固たる公式プロパガンダを十分に受け入れて、クロンシュタット「反乱」は「白軍」のA・コズロフスキ(Aleksandr Kozlovskii)将軍の影響下にあると非難していたかもしれなかった。
 工場地区全域に貼られたポスターは、コズロフスキといわゆる反革命陰謀を非難していた。(28)
 労働者たちは、逮捕されるのを怖れて、公式見解に挑戦するのを躊躇した。(29)
 島には実際に、将軍コズロフスキがいた。
 コズロフスキは帝制軍の将軍の一人で、1918年に、「軍事専門家」として赤軍に加入した。
 クロンシュタット砲兵隊の指揮官として、蜂起の側を支援した。しかし、彼にはほとんど蜂起の心情はなかった。-そして、「白軍」運動への共感を決して示していなかった。 彼はこう述べた。「共産党は私の名前をクロンシュタット蜂起が白軍の陰謀だとするために利用した。たんに、私が要塞での唯一の『将軍』だったことが理由だ」。
 ペトログラードに帰ると、彼の家族は身柄を拘束され、人質となった。(31)//
 (8)反乱者たちは、要求を拒否した。
 彼らは、「我々の同志たる労働者、農民」にあてて、こう警告した。
 「我々の敵は、きみを欺いている。クロンシュタット蜂起はメンシェヴィキ、社会革命党、協商国のスパイたち、および帝制軍の将軍たちによって組織されている、と我々の敵は言う。…厚かましいウソだ。…
 我々は過去に戻ることを欲しはしない。
 我々は、ブルジョアジーの使用人ではなく、協商国の雇い人でもない。
 我々は、労働大衆の権力の擁護者であって、単一政党の抑制なき専制的権力の擁護者ではない。」
 ボルシェヴィキは、「ニコライよりも悪い」。
 ボルシェヴィキは、「権力にしがみつき、その専制的支配を維持するだけのために、全ロシアを血の海に溺れさせようとしている」。(32)
 クロンシュタットの不満の背後に、白軍の陰謀はなかった。しかし、反乱者には社会革命党が用いる言葉遣いがあった。
 しかしながら、ペトリチェンコは社会革命党員ではなく、反乱者のほとんどは特定政党帰属性を否定しただろう。
 それにもかかわらず、彼らは、社会主義と民衆の解放に関する言葉遣いを共有して受け容れていた。//
 (9)「同志たち」による「共産党独裁」に対する戦闘だった。
 革命の現実の敵は、この戦闘を歓迎したかもしれなかった。だが、指導者たちは、「反対の動機」からだと兵員たちに説明した。
 「きみたち同志諸君は、…真のソヴェト権力を再建するという熱意でもって奮起している」。労働者と農民に必要なものを、彼らに与えたいという願いによってだ。
 対照的に、革命の敵は、「帝制時代の笞と将軍たちの特権を回復しようとの願い」でもって喚起されている。…。
 きみたちは自由を求め、彼らはきみたちをもう一度隷従制の罠に落とし込むことを欲している」。(33)//
 (10)報道兵は、闘いの目的をこう説明した。
 「十月革命を達成して、労働者階級は自分たちの解放を達成することを望んだ。
 結果は、個々人の、いっそうひどい奴隷化だった。
 憲兵(police-gendarme)支配の君主制の権力は、その攻撃者の手に落ちた。-共産党(共産主義者)だ。共産党は労働大衆に自由をもたらさず、帝制時代の警察体制よりもはるかに恐ろしい、チェカの拷問室に入ることへの恒常的な恐怖をもたらした」。
 海兵たち自身の「第三革命」は、「なお残存する鎖を労働大衆から取り去り、社会主義の創建に向かう、広くて新しい途を開くだろう」。(34)
 社会主義は、なおも目標ではあった。//
 ----
 第2節、終わり。

2220/R・パイプス・ロシア革命第12章第10節②。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
 ----
 第10節・労働者幹部会の運動②。
 (18)もちろんこれは、メンシェヴィキが待ち望んでいたことだった。ボルシェヴィキに幻滅した労働者たちが、民主主義を求めてストライキしようとしている。
 メンシェヴィキは元々は、労働者幹部会の運動を支持していなかった。その指導者たちは政治家たちに懐疑的で、諸政党からの自立を欲していたからだ。
 しかし、4月頃までにメンシェヴィキは十分に感心して、運動の背後から支援した。
 5月16日、メンシェヴィキ中央委員会は、労働者代表者たちの全国的な会議の開催を呼びかけた。(*)
 社会革命党が、これに続いた。//
 (19)かりに状況が反対だったならば、つまり社会主義者が権力を握っていてボルシェヴィキは反対派だったとすれば、疑いなくボルシェヴィキは労働者の不満を煽り、政府を転覆させるためにあらゆることを行ったことだろう。
 しかし、メンシェヴィキと社会主義派の者たちは、そのような行動を断固として行わない、という気風だった。
 彼らはボルシェヴィキ独裁を拒否したが、しかしなお、それに恩義を感じていた。
 メンシェヴィキの<Novaia zhizn>は、厳しく批判する一方で、ボルシェヴィズムの生き残りには重大な関心があることを読者に理解させようとした。
 このテーゼを、彼らはボルシェヴィキが権力を奪取した直後に表明していた。
 「とりわけ重要なのは、ボルシェヴィキのクーを暴力的に廃絶することは同時に、ロシア革命の全ての成果を廃絶することに不可避的に帰着するだろう、ということだ。」(152) 
 また、ボルシェヴィキが立憲会議を解散させたあと、ボルシェヴィキ機関紙は、こう嘆いた。
 「我々は、ボルシェヴィキ体制の賛美者ではなかったし、現在も賛美者ではない。そして、ボルシェヴィキの国内および外交政策の破綻を、つねに予見してきた。
 しかし、我々の革命の運命がボルシェヴィキ運動のそれと緊密に結びついていることを、我々は忘れなかったし、一瞬たりとも忘れはしない。
 ボルシェヴィキ運動は、広範な人民大衆の、歪んで退廃した一つの革命的戦いを表現している。…」。(153) //
 (20)このような姿勢はメンシェヴィキの行動する意欲を麻痺させたばかりではなく、ボルシェヴィキとの同盟へと、すなわち、民衆の憤慨を煽り立てるのではなく、消し止めるのを助ける方向へと、向かわせた。(**)
 (21)労働者幹部会の会合が6月3日に再開催されたとき、メンシェヴィキと社会革命党の知識人たちは政治的ストライキという考えに反対した。それは、お決まりの、階級敵の手中に嵌まってしまう、という理由でだった。
 彼らは労働者の代表者たちにその決定を再考して、ストライキではなく、類似の組織をモスクワで創立する可能性を探るために、そこに代表団を派遣するように説得した。//
 (22)6月7日、派遣委員の一人がモスクワの工場代表者たちの集まりで挨拶して発言した。
 彼は、反労働者、反革命的政策を追求しているとしてボルシェヴィキ政府を非難した。
 このような語りかけは、十月以降のロシアでは聞かれないものだった。
 チェカは、事態をきわめて深刻に受け止めた。モスクワは今や国の首都であり、モスクワでの騒擾は「赤いペトログラード」でのそれよりも危険だったからだ。
 治安維持機関員が、演説を終えたペトログラードの派遣委員の身柄を拘束した。但し、仲間の労働者たちの圧力によって、解放せざるを得なかった。
 モスクワの労働者たちは、同情的ではあるものの、自分たちの労働者幹部会を設立する用意がまだない、ということが判明した。(154)
 モスクワとその周辺の労働者たちは、ペトログラードよりも、戦術に長けておらず、労働組合の伝統が少なかった、ということで、これは説明することがてきるかもしれない。//
 (23)労働者がソヴェトから離脱していく過程は、ペトログラードで始まり、国の残りの都市へと拡がった。
 多くの都市で(モスクワはすぐにその一つとなった)、地方ソヴェトは選挙を実施するのが阻止されるか、または選挙の適格性が否定された。それに対して、労働者たちは、政府の統制が及ばない、かついかなる政党とも関係がない「労働者評議会」、「労働者会議」、「労働者幹部会議会」等を設立した。//
 (24)不満の高まりに直面して、ボルシェヴィキは反撃した。
 モスクワで6月13日、、ボルシェヴィキは、労働者幹部会運動に加担している56名を拘禁した。そのうち6ないし7名以外は、労働者だった。(155)
 6月16日、ボルシェヴィキは、2週間以内に第五回ソヴェト大会を招集すると発表し、これに関連して、全ソヴェトに対して、ソヴェトの選挙を再度実施するように指令した。
 この再選挙でもやはり確実にメンシェヴィキと社会革命党が多数派を形成し、政府はソヴェト大会では少数派に追い詰められる立場になるだろう。そこで、モスクワは、社会革命党とメンシェヴィキを全てのソヴェトから、そしてむろんその執行委員会(CEC)から排除することを命じることで、対抗派には被選出資格がないとすることを提案した。(156) CEC 内のボルシェヴィキ議員団総会で、L. S. ソスノフスキ(Sosnovskii)は、つぎの論拠で、その趣旨の布令を正当化した。すなわち、メンシェヴィキと社会革命党は、ボルシェヴィキが臨時政府を転覆させたのと全く同じように、ボルシェヴィキを転覆させるつもりだ。(***) 
 したがって、投票者に提示された唯一の選択肢は、正規のボルシェヴィキの候補者、左翼エスエル、そして「ボルシェヴィキ同調者」として知られる帰属政党のない幅広い範疇の候補者たちの間にだけあった。
 (25)このような歩みは、ロシアでの自立した政党の終焉を画すものだった。
 君主制主義政党-オクトブリスト、ロシア人民同盟、国権主義者-は1917年の推移の中で解散しており、もはや組織ある実体としては存在していなかった。
 非合法とされたカデット〔立憲民主党〕は、その活動を境界地域に移しており、そこにはチェカの網は届かなかったが、ロシアの民衆の気分からも離れていた。あるいはまた、地下活動に潜って、国民センター(the National Center)と呼ばれる反ボルシェヴィキ連合を形成していた。(157)
 6月16日の布令は、明示的にはメンシェヴィキと社会革命党を非合法化していなかったが、政治的には無力にするものだった。
 白軍に対する戦いへの彼らの支援のご褒美として、この両党はのちに元の地位を回復し、限られた数だけソヴェトにもう一度加わることが許された。しかし、これは一時的で、政略的なものだった。
 本質的には、ロシアはこの時点で一党国家になった。ボルシェヴィキ以外の全ての組織に対して政治的活動を行うことが禁止される、そのような国家だ。//
 (26)6月16日、すなわちボルシェヴィキがメンシェヴィキと社会革命党のいずれも出席することができない第五回ソヴェト大会を発表した日、労働者幹部会会議は、労働者の全ロシア会議の開催を呼びかけた。(158)
 この組織は、国家が直面している最も緊要な問題を討議し、解決しようとするものとされていた。緊要な諸問題とは、①食糧事情、②失業、③法の機能停止、および④労働者の組織。
 (27)6月20日、ペトログラード・チェカの長官、V・ヴォロダルスキ(Volodarskii)が殺害された。
 殺人者を捜査する中で、チェカは工場での抗議集会を始めていた何人かの労働者を拘引した。
 ボルシェヴィキはネヴァ(Neva)労働者地区を兵団で占拠し、戒厳令を敷いた。
 最も厄介な工場であるオブホフの労働者たちは、閉め出された。(159)
 (28)ペトログラードでソヴェトの選挙が行われたのは、このきわめて緊張した雰囲気の中でだった。
 選挙運動の間、ジノヴィエフは、プティロフやオブロフでブーイングを受け、演説することができなかった。
 どの工場でも、労働者たちはソヴェトに二政党が参加することが禁止している布令を無視して、メンシェヴィキと社会革命党に多数派を与えた。
 オブロフでは、社会革命党5名、無党派3名、ボルシェヴィキ1名だった。
 セミアニコフ(Semiannikov)〔ネヴァ工場群〕で、社会革命党は投票総数の64パーセントを獲得し、メンシェヴィキは10パーセント、そしてボルシェヴィキ・左翼エスエル連合は26パーセントだった。
 その他の重要地区でも、同様の結果だった。(160)//
 (29)ボルシェヴィキは、こうした結果に縛られるのを拒否した。
 彼らは、多数派を獲得するのを欲し、獲得した。それは、通常は選挙権(franchise)を不正に操作することで行われた。ある範囲のボルシェヴィキたちには、1票について5票が与えられた。(****)
 7月2日、「選挙」結果が、発表された。
 新しく選出されたペトログラード・ソヴェトの代議員総数650のうち、ボルシェヴィキと左翼エスエルに610が与えられ、40だけが社会革命党とメンシェヴィキにあてがわれた。この両党を、ボルシェヴィキの公式機関紙は「ユダ(Judases)」だと非難していた。(+)
 このペトログラード・ソヴェトは、労働者幹部会会議の解散を票決した。
 その集まりで演説しようとした会議の代表者は、話すのを阻止され、肉体的な攻撃を受けた。
 (30)労働者幹部会会議は、ほとんど毎日、会合をもった。
 6月26日、会議は、7月2日に一日だけの政治ストライキを呼びかけることを満場一致で決定した。そのスローガンは、「死刑の廃止!」、「処刑と内戦をするな!」、「ストライキの自由、万歳!」だった。(161)
 社会革命党とメンシェヴィキの知識人たちは、再び、ストライキに反対した。
 (31)ボルシェヴィキ当局は市内全体にポスターを貼り、ストライキ組織者を白軍の雇い人だとし、全参加者を革命審判所に送り込むと威嚇した。(163)
 その上にさらに、市〔ペトログラード〕の重要地点に、機関銃部隊を配置した。
 (32)同情的な報告者は、労働者は動揺していると記述した。
 すなわち、カデットの<Nash>は6月22日に、彼らは反ボルシェヴィキだが識別できない、と書いた。
 国内および世界情勢の困難さ、食糧不足、明確な解決策の不在によって、彼らには、「極端に不安定な心理、ある種の抑うつ状態、そして全くの当惑」が発生した。
 (33)7月2日の事件は、こうした見通しを確認するものだった。
 帝制が崩壊して以降ロシアで最初の政治ストライキは、巻き起こり、そして消失した。
 労働者たちは、社会主義知識人たちに失望し、ボルシェヴィキによる実力行使の顕示に威嚇され、自分たちの強さと目的に自信がなく、そして心が折れた。
 ストライキ組織者は、1万8000人と2万人の間ほどの労働者がストライキの呼びかけに従うだろうと予想していた。この数は、ペトログラードに実際にいる労働者数の7分の1にすぎなかった。
 オブホフ、マクスウェル(Maxwell)、およびパール(Pahl)は、ストライキをした。
 他の工場群は、プティロフを含めて、しなかった。//
 (34)この結果が、ロシアの自立した労働者組織の運命を封じた。
 すみやかに、チェカは地方の支部とともにペトログラードの労働者幹部会会議を閉鎖させ、目立った指導者のほとんどを、牢獄に送った。//
 (35)こうして、ソヴェトの自主性、労働者が代表者をもつ権利、そしてなおも多元政党制らしきものとして残っていたものは、終わりを告げた。
 1918年の6月と7月に執られた措置でもって、ロシアでの一党独裁制の形成が完了した。
 -------------
 (*) 労働者議会(Congress)という発想は、1906年にAkselrod が最初に提起した。そのときは、メンシェヴィキとボルシェヴィキのいずれも、これを却下した。
 Leonard Schapiro, The Communist Party of the Soviet Union(London, 1963), p.75-p.76.
 (151) Aronson, "Na perelome, ", p.7-p.8.
 (152) NZh, No. 164/158(1917年10月27日), p.1.
 (153) NZh, No. 20/234(1918年1月27日), p.1.
 (**) 公平さのために、つぎのことを記しておかなければならない。古きメンシェヴィキの小グループ、ロシア社会民主党の創設者たち-プレハノフ(Plekhanov)、アクセルロード(Akselrod)、ポトレソフ(Potresov)、およびV・ザスーリチ(Vera Sasulich)-を含むそれは、異なる考えだった。
 そして、アクセルロードは、1918年8月に、ボルシェヴィキ体制は「陰惨な(gruesome)」反革命へと堕落した、と書いた。
 そのような彼ですら、ジュネーヴのかつての彼の同志とともに、レーニンに対する積極的な抵抗にも反対した。その理由は、権力を取り戻そうとする反動分子たちを助けることになる、というものだった。
 A. Asher, Pavel Axelrod and the Development of Menshevism(Cambridge, Mass., 1972), p.344-6.
 プレハノフの姿勢につき、Samuel H. Baron, Plekhanov(Stanford, Calif., 1963), p.352-p.361.
 ポトレソフは、そのときおよびのちに、メンシェヴィキの仲間たちを批判した(V plenu u illiuzii(Paris, 1937))。しかし、彼もまたやはり、積極的な反対活動に参加しようとはしなかった。
 (154) NZh, No. 111/326(1918年6月8日), p.3.
 (155) Aronson, "Na perelome, ", p.21.
 (156) Dekrety, II, p.30-p.31.; Lenin, PSS, XXXVII, p.599.
 (***) NZh, No. 115/330(1918年6月16日), p.3.
 NV, No. 96/120(1918年6月19日), p.3.によれば、CEC のボルシェヴィキ会派は、ソヴェトからメンシェヴィキと左翼エスエルを排除するのを拒否した。しかし、CEC からこれらを追放(除斥)することに同意した。
 (157) W. G. Rosenberg, Liberals in the Russian Revolution(Princeton, N.J., 1974), p.263-p.300.
 (158) NZh, No. 115/330(1918年6月16日), p.3.
 (159) W. G. Rosenberg in SR, XLIV, No. 3(1985年7月), p.235.
 (160) NZh, No. 122/337(1918年6月26日), p.3.
 (****) Stroev in NZh, No. 119/334(1918年6月21日), p.1.
 ある新聞(Novyi luch。NZh, No. 121/336(1918年6月23日), p.1-p.2.が引用)によると、ペトログラード・ソヴェトへと「選挙され」た130名の代議員のうち、77名はボルシェヴィキ党から、26名は赤軍部隊から、8名は供給派遣部隊から、43名はボルシェヴィキ職員の中から、選び抜かれていた。
 (+) NZh, No. 127/342(1918年7月2日), p.1.
 少し異なる数字が、つぎの中にある。Lenin, Sochineniia, XXIII, p.547.
 これによると、代議員総数は582で、そのうちボルシェヴィキが405、左翼エスエルが75、メンシェヴィキと社会革命党が59、無党派が43だ。
 (161) 例えば、Stroev in NZh, No. 127/342(1918年7月2日), p.1.を見よ。
 (162) NV, No. 106/130(1918年7月2日), p.3.
 (163) NV, No. 107/131(1918年7月3日), p.3. およびNo. 108/132(1918年7月4日). p.4.; NZh, No. 128/343(1918年7月3日), p.1.
 ----
 第10節、終わり。第12章も終わり。つづく章の表題は、つぎのとおり。
 第13章・ブレスト=リトフスク、第14章・国際化する革命〔革命の輸出〕、第15章・「戦時共産主義」、第16章・農村に対する戦争、第17章・皇帝家族の殺害、第18章・赤色テロル、そして「結語」。

2218/R・パイプス・ロシア革命第12章第10節①。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
 ----
 第10節・労働者幹部会の運動①。
 (1)そして、ボルシェヴィキはなお一層、残忍さに訴えなければならなかった。権力掌握後わずか数カ月だけ経つと、彼らへの支持が浸食されはじめたからだ。
 ボルシェヴィキが民衆の支持に依拠していたのだとすると、臨時政府と同じ途をたどっただろう。
 秋には連隊兵士たちとともに最も強い支持基盤だった工業労働者たちは、たちまちに幻想から醒めるようになった。
 このような雰囲気の変化にはいくつかの理由があったが、主要なものは、食料事情の悪化だった。
 穀物やパンの私的取引を全て禁止した政府は、呆れるほどに安い価額を農民に支払ったので、農民たちは収穫物を貯蔵するか、闇市(black market)で売った。
 政府は都市住民たちに、ぎりぎりの最小限度だけの食糧しか供給できなかった。
 1917-18年の冬、ペトログラードでのパンの配給量は、一日につき4から6オンスの間を行き来した。
 闇市場で1ポンドのパンを買うには3ないし5ルーブルを要したが、それはふつうの民衆の手の届く額ではなかった。
 大量の失業者も生まれたが、それは主としては燃料不足のためだった。
 1918年5月には、ペトログラードの労働人口の12-13パーセントだけが、職に就いていた。(138)
 (2)飢えと寒さから逃れるために、数千人の市民が、縁戚者がいて食料および燃料事情がまだましな地方へと、疎開した。
 ペトログラードの労働人口は、この集団移住が原因で、1918年4月頃には二月革命の直前の57パーセントに低下した。(139)
 地方移住にしないで残った、腹が空いて、寒い、しばしば失業中の人々には、不満が沸き立った。
 このような事態を生んだボルシェヴィキの経済政策に、彼らは怒った。しかしまた、立憲会議の解散、中央諸国との屈辱的な講和条約(1918年3月に署名)、ボルシェヴィキの人民委員たちの生意気な態度、および政府の最上層部以外の全ての官僚たちの醜悪な汚職にも腹を立てた。
 (3)このような展開はボルシェヴィキにとっては危険な兆しで、さらに悪化するならば、これまでは信頼していた軍部も春が近づくにつれてほとんど離れて行きそうだった。
 故郷に帰らなかった兵士たちは、民衆にテロルを加え、ときにはソヴェトの役人たちを襲撃する略奪団を結成した。//
 (4)幻滅気分や堅くボルシェヴィキの手中にある現存諸機構からは救済を得られないという感情の増大によって、ボルシェヴィキとそれが支配している諸機構(ソヴェト、労働組合、工場委員会)から自立した、新しい組織をペトログラードの労働者たちが設立しようとする動きが促進された。
 1918年1月5日/18日-立憲会議が開会した日-、ペトログラードの諸工場の代表者たち、または「幹部会」委員たち(plenipotentiaries)は、目下の情勢を議論するために会合をもった。
 ある者は、労働者の態度の「分裂」を語った。(140)
 「幹部会」委員たちは、定期的に会合を開催し始めた。
 不完全な証拠資料だが、それによると、会合は3月に1回、4月に4回、5月に3回、6月に3回、開かれている。
 記録が存在する(141)、56の工場を代表する委員たちの3月の会合には、強い反ボルシェヴィキの言葉が見られる。
 その会合は、労働者と農民のために統治をすると主張している政府は独裁的権力を行使し、ソヴェトの新しい選挙の実施を拒んでいる、と抗議していた。
 また、ブレスト=リトフスク条約の拒否、ソヴナルコムの解散、および立憲会議の即時召集を呼びかけていた。//
 (5)3月31日、ボルシェヴィキは、チェカに労働者幹部会会議の本部を捜査させ、そこにあった諸文献を押収させた。
 別の状況であれば、おそらく労働者の動揺を刺激するのを怖れて、そのような介入はまだしなかっただろう。//
 (6)都市労働者は自分たちに反対していることを知って、ボルシェヴィキは、ソヴェト選挙の実施を遅らせた。
 いくつかの独立派ソヴェトが無視して選挙を行い、非ボルシェヴィキが多数派を形成したとき、ボルシェヴィキは実力でもってそれを解体させた。
 ソヴェトを用いることができないことは、労働者の欲求不満を醸成した。
 5月初め、多くの者が、自分たちで問題に対処しなければならない、と結論づたけた。
 (7)5月8日、二つの火急の問題を議論すめるために、プティロフ(Putilov)とオブホフ(Obukhov)工場群で、労働者の集会が開かれた。二つとは、食糧と政治だ。
 プティコフでは、1万人以上の労働者たちが、政府を非難した。
 ボルシェヴィキの発言者は反発を受け、諸決議に敗北した。
 その集会は、「社会主義かつ民主主義の勢力の即時の再合同」、パンの自由取引の制限の撤廃、立憲会議の再選出、および秘密投票によるペトログラード・ソヴェトの再選挙を要求した。(142)
 オブホフの労働者たちは、事実上の満場一致で、同様の決議を採択した。(143)//
 (8)翌日、ペトログラード南方の工業都市であるコルピノ(Kolpino)で、労働者の不満に油を注ぐ事件が発生した。
 コルピノへの政府機関による供給の状況は、とくに悪かった。この都市の1万の労働人口のうち300人だけが雇用され、闇市場で食料を買う金をほとんど持っていなかった。
 さらに、食糧配達の遅延によって、女性たちの市域全体の抗議運動が発生した。
 ボルシェヴィキの人民委員はうろたえて、兵団に対して示威行進者に対して発砲するように命じた。
 それによって生じた恐慌状態の中で、のちに判明したのは1人が致命傷で6人が負傷したのだったけれども、多数の者が死んだ、という印象が広がった。(144)
 この時期の標準からすると、とくに異常なことではなかった。
 しかし、ペトログラードの労働者たちが鬱積した怒りの捌け口を見出すのに、大した理由は必要ではなかった。//
 (9)コルピノで起こったことについて使者から知らされたペトログラードの大工場は、稼働を停止した。
 オブホフの労働者たちは、政府を非難し、「人民委員による支配」(komissaroderzhavie)の廃止を要求する決議を採択した。
 ペトログラード(3月に政府はモスクワに移っていた)の長〔ソヴェト議長〕のジノヴィエフが、プティロフに現れた。
 労働者に対して、彼は語った。
 「誤った政策を追求しているとして政府を非難する決議がここで採択された、と聞いた。
 しかし、いつ何時でも、ソヴェト政府を変更することはできない!」
 この言葉を聞いた聴衆に、大きな騒ぎ声が起こった。
 「ウソだ!」
 Izmailov という名のプティロフの労働者が、文明世界全体の目からすればロシアの労働者を馬鹿にしながら、ボルシェヴィキは労働者のために語るふりだけをしていると、非難した。(145)
 軍需工場での集会は、1500対保留2で、立憲会議の再招集を求める動議を可決した。(146)//
 (10)ボルシェヴィキは、背後にいて、なおも慎重さを維持した。
 しかし、このような煽情的な決議が伝搬されるのを阻止すべく、無期限にまたは一時的に、多数の新聞を廃刊させた。そのうちの4つは、モスクワの新聞だった。
 この諸事態を広く報道していたカデットの<Nash vek>は、5月10日から6月16日まで、停刊となった。//
 (11)ボルシェヴィキは7月初めに第五回ソヴェト大会を開催しようと計画していたので(第四回大会はドイツとの講和条約を批准するために3月に開かれていた)、ソヴェト選挙を実施しなければならなかった。
 この選挙は、5月と6月に行われた。
 その結果は、彼らの最悪の予想以上のものだった。
 労働者階級の意思に対する敬意をボルシェヴィキが持っていたならば、彼らは権力を放棄していただろう。
 どの町でも続いて、ボルシェヴィキは、メンシェヴィキと社会革命党に敗れた。
 「選挙があって数字資料のある、欧州ロシアの全ての州都で、メンシェヴィキと社会革命党は、1918年春の都市ソヴェトで多数派を獲得した」。(147)
 モスクワ・ソヴェトの投票では、ボルシェヴィキは、選挙権に関する明白な操作やその他の不正選挙によって、見せかけの過半数を達成した。
 観察者たちは、迫っているペトログラード・ソヴェト選挙でもボルシェヴィキは少数派になり(148)、ジノヴィエフは議長職を失うだろうと、予想した。
 ボルシェヴィキも、悲観的な見通しを持っていたに違いなかった。彼らは、ペトログラード・ソヴェト選挙を可能なかぎり遅くに、6月末に延期したからだ。//
 (12)この驚くばかりの展開は、ボルシェヴィキを拒絶するメンシェヴィキと社会革命党への称賛を大して意味してはいなかった。
 支配党から権力を奪おうとした選挙民たちには、社会主義諸党に投票する以外に選択肢はなかった。社会主義諸党だけが、反対派候補者の擁立が許されていたのだ。
 諸政党全ての中から完全に選択することができていればどういう投票行動になったかは、もちろん確定的に言うことはできない。//
 (13)レーニンが最近に「民主主義の本質的条件」だと叙述していた「リコール」の原理を実行に移す機会が、ボルシェヴィキにやって来ていた。その場合には、ボルシェヴィキ代議員をソヴェトから引き上げて、メンシェヴィキと社会革命党で埋め合わさせることになる。
 しかし、彼らは、結果を操作するのを選択した。つまり、指名委員会を利用して、選挙は違法だと宣言させた。
 (14)労働者の関心を逸らせるために、当局は階級敵を持ち出した。今度は、「田舎のブルジョアジー」に反対するように誘導した。
 5月20日、ソヴナルコムは、「食糧供給派遣隊」(prodovol'stvennye otriady)の設立を命じる布令を発した。その派遣隊は武装労働者で構成され、村落を行進して「クラク〔富農〕」から食料を徴発することとされていた。
 この手段によって(もっと詳細は第16章で述べるだろう)、当局は、食糧不足に対する労働者の怒りを自分たちから農民に転化させるのを望んだ。そして同時に、まだ社会革命党の強い支配のもとにあった田園地帯に地盤を築くことも。//
 (15)ペトログラードの労働者たちは、関心を逸らされることがなかった。
 5月24日、彼らの労働者幹部会は、労働者と農民の間に「深い亀裂」を生じさせる原因になるという理由で、食糧供給派遣隊という考えを拒否した。
 ある発言者たちは、その派遣隊に加わるような労働者はプロレタリアートの隊列から「追放(expell)される」と主張した。(149)//
 (16)5月28日、ペトログラードの労働者たちの昂奮は、さらに最高度にまで大きくなった。プティロフの労働者たちが、国家による収穫物の独占の廃棄、自由な言論の保障、自立した労働組合を結成する権利、そしてソヴェトの再選挙、を要求したときのことだ。
 同様の決議を採択する抗議集会がモスクワや多数の地方都市でつづいた。その中には、トゥラ、ニージニ(Nizhnii)、ノヴゴロード、オレルおよびトヴェリ(Tver)も含まれていた。//
 (17)ジノヴィエフは、経済的な譲歩をすることでこの嵐を沈静化させようとした。
 彼はおそらくはモスクワに対して、ペトログラードへの食糧輸送の追加を要請した。5月30日に、労働者へのパンの配給は8オンスへと引き上げられると発表することができたからだ。
 このような素振りでも、目的を達成することができなかった。
 6月1日、労働者幹部会の会合は、市域全体の政治的ストライキを呼びかける決議を下した。//
 「ペトログラードの工場や工場群の代表者たちから労働大衆の気持ちと要求に関する報告を聞いて、幹部会会議は、労働者の政府だと僭称する政府からの労働者の大量離反が急速に進行していることに、喜びをもって留意する。
 幹部会会議は、政治的ストライキの訴えに従おうとする労働者の意欲を歓迎する。
 幹部会会議は、現在の体制に反対する政治的ストライキを、ペトログラードの労働者が力強く準備することを、呼びかける。現体制は、労働者階級の名のもとで労働者を処刑し、牢獄に投げ込み、言論、プレス、労働組合、およびストライキの自由を圧殺している。また、民衆の代表者機関を絞め殺してきた。
 このストライキは、権力の立憲会議への移行、地方自治諸機関の復活、ロシア共和国の統合と独立のための闘いを、スローガンとするだろう。」(150)
 -------------
 (138) Dewar, Labour Policy, p.37.
 (139) A. S. Izgoev in NV, No. 94/118(1918年6月16日), p.1.
 (140) G. Aronson, "Na perelome, " Manuscript, Hoover Instituion, Nikolaevskii Archive, DK 265.89/L2A76 が、これらの事件に関する最良の史料だ。
 (141) Kontinent, No. 2(1975年), p.385-p.419.
 (142) NV, NO. 91/115(1918年5月9日), p.3.
 (143) NV, NO. 92/116(1918年5月10日), p.3.
 (144) NS, NO. 23(1918年5月15日), p.3.
 (145) NV, NO. 92/116(1918年5月10日), p.3.
 (146) 同上。
 (147) Vladimir Brovkin, in PR 1983年, p.47.
 Aronson, "Na perelome, " p.23-p.24. はこの見通しを確認している。
 (148) B. Avilov in NZh, No. 96/311(1918年5月22日), p.1.
 (149) 同上, No. 96/311(1918年5月22日), p.4.
 (150) Otro, 1918年6月3日。"Na perelome, ", p.15-p.16.が引用する。
 ----
 第10節②へとつづく。

2216/R・パイプス・ロシア革命第12章第9節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
 第9節・影響と意味(effects and implications)。
 (1)立憲会議の解散は、驚くべき無関心さで迎えられた。
 1789年には、バスティーユ襲撃を予期してルイ16世が国民議会を解散しようとしているとの風聞は、大きな憤激を生じさせた。しかし、そのようなものは、どこにもなかった。
 一年の無秩序状態(anarchy)のあと、ロシアは消耗していた。人々は、どのような方法で獲得されようとも、平和と秩序を乞い願っていた。
 ボルシェヴィキはそのような雰囲気に賭け、そして勝った。
 1月5日以降、権力を放棄するようレーニンを説得することができるとは、もはや誰にも考えられなかった。
 またそれ以降、ロシアの中央部には、影響力ある反ボルシェヴィキの武装対抗派が存在しなかった。そして、社会主義知識人は言いたくないことだが、常識的には、ここにボルシェヴィキ独裁が定着した、と叙述することができる。
 (2)直接の結果は、各省庁や民間企業の事務系就労者たちのストライキが終わったことだった。彼らは1月5日以降は、仕事へと押し戻された。ある者たちは個人的な必要に迫られて、ある者たちは、内部から事態に影響を与えることができる方がよいと考えて。
 反対派たちの心理はこのとき、致命的に砕かれていた。
 まるで、残虐性と国民の意思の無視が、ボルシェヴィキ独裁を正当化しているかのごとくだった。
 国全体が、混沌の一年のあとでやっと「本当(real)」の政府ができた、と感じた。
 このことは確実に農民や労働者大衆については言えたが、しかし、逆説的にも、<プラウダ>の言う「資本のハイエナ」や「人民の敵」である富裕層や「保守」的な人々についても当てはまった。この人たちは、ボルシェヴィキを軽蔑する以上に、社会主義知識人や街頭の群衆を侮蔑していたからだ。(*)
 ある意味では、ボルシェヴィキは1917年10月にではなく1918年1月にロシアの政府となった、と言ってよいかもしれない。
 当時のある者の言葉によると、「真正の、純粋なボルシェヴィズム、広範な大衆のボルシェヴィズムは、1月5日の後で初めて生まれた」。(130)
 (3)実際に、立憲会議の解散は、多くの点で、「全ての権力をソヴェトへ」という煙幕に隠れて実行された十月のクーよりも重要な意味をもった。
 ボルシェヴィキ党員を含むほとんど誰に対しても十月の目的は隠されたままだったとすると、その一方で1月5日以後に関するボルシェヴィキの意図は、疑いようがなかった。そのとき、人民の意思には気を配らないと考えていることを、ボルシェヴィキは間違いなく明確にしていたのだった。
 彼らは、字義通りの意味で、人民は「人民(people)」であるがゆえにその声を聴く必要がなかった。(**)
 レーニンの言葉によると、こうだ。「ソヴェト権力による立憲会議の解散は、革命的独裁の名による形式的民主主義の、完全なかつ公然たる廃絶だった」。(131)
 (4)民衆一般および知識人のこの歴史的事件に対する反応が予兆したのは、国の将来の悪さだった。
 もう一度事件を確認するならば、ロシアに欠落していたのは国民的結束の感覚だった。この意識があれば、善なる共通利益のために当面のかつ個人的な利益を断念しようと、国民は奮い立つだろう。
 「人民大衆」が示していた気持ちは、私的で地域的な利益、<duvan>の昂奮する愉しみだけを理解することができる、それらは当分の間はソヴェトと工場委員会によって充足されている、というものだった。
 「棒切れをひっ掴む者は伍長だ」というロシアの箴言と合致するように、彼ら人民大衆は、最も大胆で最も残虐な要求者に、権力を譲り渡した。//
 (5)証拠資料から明らかになるのは、ペトログラードの工業労働者たちは、ボルシェヴィキに投票した者たちであってすら、立憲会議が開かれて国の新しい政治的経済的諸制度を策定していくだろうと期待していた、ということだ。
 <プラウダ>が労働者の支持について不満を書いてはいたが、立憲会議防衛同盟の多様な請願書への彼らの署名によっても、このことは確認される。(132)また、立憲会議が招集される直前にボルシェヴィキが労働者に向けて発した、脅威と結びつける逆上しているがごとき訴えによっても。
 だがしかし、火を噴くことを躊躇しない銃砲に支えられて立憲会議を殺そうとする、ボルシェヴィキの断固たる決意に直面したとき、労働者たちの気持ちは挫けた。
 これは、抵抗するなと熱心に説いた知識人たちに裏切られたのが理由だったのだろうか?
 かりにそうであれば、帝制に反対した革命での知識人たちの役割は、思い上がった慰めだった、ということが際立ってしまうことになる。つまり、自分たちの刺激によらなければロシアの労働者は政府に立ち向かおうとしない、という思い上がりがあったように見える。//
 (6)農民たちについて言えば、彼らは大都市で進行している事態について全く関心がないというわけではなかった。
 社会革命党の煽動活動家たちが投票するように言い、そして彼らは投票をした。
 だが、「白い手」の別のグループが奪取したのであったとして、どんな違いがあっただろうか?
 彼らの関心は、その<volosti>の境界内の外には広がっていなかった。
 (7)こうして、社会主義知識人たちは選挙で確実な勝利を獲得してきたので国は従ってきていると自信をもって行動することができたのだが、その知識人たちが取り残された。
 トロツキーはのちに、社会主義知識人たちを嘲弄した。彼らはタウリダ宮に、ボルシェヴィキが権力を投げ棄てた場合に備えてキャンドルを、食料を奪われた場合に備えてサンドウィッチを持って来ていた。(133)
 だが、彼らは銃砲を携帯しようとはしなかった。
 立憲会議の招集の直前に、社会革命党のP・ソロキン(Pitirim Solokin)(のちにハーヴァード大学の社会学教授)は、立憲会議が実力でもって解散される可能性について論じて、こう予言した。
 「開会した会議が『機関銃』に遭遇すれば、我々はそのことを知らせる訴えを発し、我々を人民の保護の下に置くだろう」。(134)
 しかし、彼らには、そのような素振りについてすら、勇気が欠けていた。
 立憲会議の解散のあと、兵士たちが社会主義派代議員に近づいて来て、武装した実力行使でもって回復しようと提示したとき、恐れ慄いていた知識人たちは、その種のことは何もしないで欲しいと懇願した。
 ツェレテリ(Tsereteli)は、内戦を引き起こすよりは、立憲会議が静かに死んだ方がよかっただろう、と言った。(135)
 危険を冒そうとしない者たちは、つぎのようだ。すなわち、革命と民主主義について際限なく語る、しかし言葉と素振り以外によっては自分たちの理想を防衛しようとはいない。
 このような矛盾する行動、歴史の勢いに服従するふりを装う無気力さ、戦って勝利しようとする気がないこと、これらを説明するのは簡単ではない。
 その合理的な答えはおそらく、心理学(psychology)の領域に求めなければならない。-すなわち、チェーホフが巧みに描いた古いロシア知識人の伝統的態度であり、成功することを怖れ、非能率は「主要な美徳であって、光輪(halo)だけには勝つ」という信条をもっていることだ。(136)
 (8)1月5日の社会主義知識人の屈服は、その知識人たち自身の崩壊の始まりだった。
 武装抵抗の組織化を試みてできなかったある人物は、こう観察した。
 「立憲会議を守ることができなかったことは、ロシアの民主主義の最も深刻な危機だった。
 これが、分岐点だった。
 1月5日より後では、理想主義に執心するロシア人知識人がそのために存在する場所は、歴史上、ロシア史上に存在しなかった。 
 過去の存在として葬られたのだ。」(137)
 (9)対抗派の者たちとは違って、ボルシェヴィキはこの事件から多くのことを学んだ。
 武力で統制下に置いた地域では、組織されていない武装抵抗を怖れる必要がある、と分かった。
 彼らの対抗者たちは、民衆の少なくとも4分の3から支持されてはいたが、団結をせず、指導者がおらず、そして何よりも、戦う気概がなかった。
 この経験は、ボルシェヴィキが暴力に訴えるのに慣れさせることとなった。その暴力行使はもちろん、抵抗に遭遇すればいつでも、その抵抗を惹起した者を肉体的(physical)に殲滅することによって問題を「解決」する、ということを意味した。
 機関銃は、ボルシェヴィキが用いる主要な政治的説得の道具となった。
 彼らがそれ以来ロシアを支配した抑制なき残忍性は、相当の程度で、1月5日に彼らが得た、安心してこれを用いることができる、という知識から生じた。//
 -------------
 (*) 1918年5月1日、最も反動的な革命前からの政治家のV・プリシュケヴィチ(Vladimir Purishkevich)は公開書簡を発表して、こう書いた。ソヴェトの牢獄で半年過ごした後で、自分は君主制主義者のままであり、ロシアをドイツの植民地に変えたソヴェト政権に対して何ら釈明することはない。
 彼は続ける。「ソヴェト権力は堅固な権力だ。-ああ、しかし、私がロシアに作ろうとした堅固な権力の方向から生まれたものではない。ロシアの惨めで臆病な知識人層が、我々が蒙っている屈辱の主犯者だ。また、ロシア社会に統治の識見をもつ健全で堅固な権力を生み出すことができない、その主犯者だ。
 1918年5月1日付手紙、VO, No. 36(1918年5月3日), p.4. 所収。
 (130) Solokov in ARR, XIII, p.54.
 (**) このような姿勢をマルトフは1918年春に指摘した。そのときスターリンは誹謗中傷罪だと彼を非難して、革命審判所の前に立たせた。
 革命審判所はもっぱら「人民に対する罪」を裁くために設置されたと通告されて、マルトフは、「スターリンへの侮辱は人民に対する罪だと考えられるのか?」と尋ねた。
 そして自分でこう回答した。「スターリンは人民だと考える場合にだけだ」。
 "Narod eto ia", Vpered, 1918年4月1日/14日, p.1.
 Leonard Schapiro, The Communist Party of the Soviet Union(London, 1963), p.75-p.76.
 (131) Trotsky in Pravda, No. 91(1924年4月20日), p.3.
 (132) E. Iganov in PR, No. 5/76(1928年), p.28-p.29.
 (133) Trotsky in Pravda, No. 91(1924年4月20日), p.3.
 (134) Znamenskii, Uchreditel'noe Sobranie, p.323.
 (135) V. I. Ignatev, Nekotorye fakty i itogi chetyrekh let grazhdanskoi voiny(Moscow, 1922), p.8.
 (136) D. S. Mirsky, Modern Russian Literature(London, 1925), p.89.
 (137) Sokolov in ARR, XIII, P.6.
 ----
 第9節、終わり。次節・最終節の目次上の表題は、<労働者幹部会の運動>。

2215/Laura Engelstein のロシア革命通史 (2018年)。

 Laura Engelstein, Russia in Flames: War, Revolution, Civil War, 1914-1921 (2018年).という書物がある。
 著者(ローラ・エンゲルシュタイン)はアメリカの大学のロシア史専門の教授(名誉教授?)。
 書名を訳すのはむつかしいが、燃えるロシア、燃えさかるロシア、炎の中のロシア、炎上するロシア、といつた意味だろう。
 書名よりも、2018年出版のこの書は<ロシア革命>の通史を叙述している、ということが重要だろう。
 巻末に参考文献または参照文献に言及する<Biographic Essay>というのがあって、たんなる文献列挙に終わってはいない。
 ロシア語に習熟しているようで、先にロシア語文献に言及がある。
 そのあと英米語文献に移っている。ドイツ語・フランス語文献は出てこない。
 英米語文献として、個別事件・特定時期・特定主題のものが多数挙げられている。
 <ロシア革命>通史と言えそうなもので、かつ1990年以降の刊行の、ある程度長い単著としては、つぎの4つだけが挙げられている。
 ①Richard Pipes, Russian Revolution(New York, 1990)。
 ②Orlando Figes, A People's Tragedy: Russian Revolution: 1891-1924 (London, 1996)。
 ③Sheila Fitzpatrick, The Russian Revolution, 3rd ed.(Oxford, 2008)。
 ④S. A. Smith, The Russian Revolution: An Empire in Crisis, 1890-1928(Oxford, 2017).
 このうち①のパイプス著の一部はこの欄に試訳中で、③のフィツパトリク著は第4版のものを、この欄でいちおう全て、試訳した。
 ②は長く所持だけはして、ときに眺めている。この②の著者はこの欄で言う<レフとスヴェトラーナ>の執筆者でもある。
 ④には、一度か二度この欄で言及したが、まとまった試訳を始めてはいない。
 2017年(ロシア革命100年)という近著のためもあってか、上の書の④への評価は高いようで、「…諸問題と…その解釈に関するおそらく最良の入門書」と記している。
 これら以外の通史ものとして列挙されている単著は、つきの3つで、いずれも戦前のものだ(1997年の編著=複数の者の共著が1つ挙げられているが、単著でないので省略)。
 ①John Reed, Ten Days that Shook the World(1919)。
 ②Leon Trotzky, History of the Russian Revolution(1932)。
 ③William H. Chamberlin, The Russian Revolution, 1917-1921(1935, 再1965)。
 これらの中に、E. H. Carr のものがないのが興味深い。
 今日では、かつてのようには、E. H. Carr の<ロシア革命>本は基本書では全くなくなっている、ということなのだろう。
 **
 ロシア革命といっても-日本の「明治維新」も同様だろうが-、その始期と終期の捉え方は論者、執筆者によって一様ではない。
 ③S・Fitzpatrickはその著で「二月革命」が始期であることには一致があるとたしか書いていたが、<ロシア革命>概念に含まれるか否かを問わず、それ以前から書き起こすことは少なくないだろう。
 L・Engelstein の著は書名に「1914-1921」と付けているので、第一次大戦辺りから始めている。
 ①Richard Pipes の著はのちの別の大著(1994年)の刊行後に「1899-1919」と書名に追記したようで、この記載のとおり、もっと早くから始めている(元々は十月「革命」以前のStruve あたりが彼の最初の研究主題だった)。
 ②Orlando Figesの著も書名の副題に「1891-1924」とあるように、やはり旧帝制時代から始める。
 上に挙げられていないが、岩波書店刊行の邦訳書(2005年)がある、Robert Service, The Russian Revolution 1900-1927(3rd ed., 1999) は(初版は1986)は、書名のとおりで大戦前の1900年辺りからのようだ。
 なお、このRobert Service 著はレーニン・ボルシェヴィキらにまだ寛容だ。岩波が邦訳書を発行するような内容のためか、他のものよりも分量が少ないためか、L. Engelstein がこの著に言及していない理由ははっきりしない。
 終期も上のとおりで、S・Fitzpatrickは1936-37年辺りの「大テロル」までを叙述するが、Richard Pipes の著は別著にかなり譲って、1919年までとしている。したがって、ネップ(新経済政策)は前者・Fitzpatrickの対象に含まれ、後者・ Pipes には含まれない。
 ②・④のOrlando Figes、S. A. Smith の著もN.E.Pも含めて、前者と同じだ。
 1921年の「新経済政策」導入決定からスターリンへの権力移行までを<レーニン時代>とすると、1921-24年あたりまで、従って内戦・戦時共産主義の時代(+対独講和・コミンテルン結成・飢饉)を含めるのが、当欄の執筆者のような者には分かりやすい気もする。
 但し、一般の歴史書ではないが、L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第二巻・第三巻(1976、英訳1978)では、ネップ(新経済政策)は<スターリン時代>の最初の方に出てくる。
 以上、この機会に追記しておいた。 
 

2214/R・パイプス・ロシア革命第12章第8節②。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
 ----
 第8節・立憲会議(憲法制定会議)の解散②。
 (9)ボルシェヴィキは、単純な戦術をとった。
 実質的には立憲会議の正統性を否定する決議によって、会議に対決しようとする。
 ほとんど確実にそれがうまく行かなければ、退出する。そして、正式には解体することなく、立憲会議がそれ以上議事を進めるのを不可能にする。
 クロンシュタット選出のボルシェヴィキ軍人、F・F・ラスコルニコフ(Raskolnikov)は、この戦術に従って、動議を提出した。
 「勤労被搾取大衆の権利の宣言」と呼ばれたが、1789年の先例とは違って、権利よりも義務について多くを語るものだった。
 ボルシェヴィキが普遍的な労働の義務(obligation)を提示したのは、これだった。
 ロシアは「ソヴェトの共和国」だと宣言される。また、ボルシェヴィキがそれまでに通過させた多数の措置があらためて確認される。とりわけ、土地に関する布令、生産に対する労働者による統制、銀行の国有化。
 立憲会議に求められた重大な条項は、その立法(legislate)する権限を放棄することだった。-この権能のためにこそ、立憲会議は選出されていたのだが。
 こういう文章だ。「立憲会議は、社会主義にもとづく社会の再組織化のための基礎的な原理(fundamental base)を一般的に策定することに、その任務が限定されることを、承認する」。
 立憲会議は、ソヴナルコムが以前に発した全ての布令類を採択し、それらの効力を延長させるものとされた。(125)
 (10)ラスコルニコフの動議は、136対237で却下された。
 この票決が示すのは、ボルシェヴィキ代議員の全員が、そして彼らだけが賛成し、左翼エスエルは保留したと見られることだ。
 この時点でボルシェヴィキ議員団は、会議は「反革命者たち」に支配されていると宣告し、退出した。
 左翼エスエル代議員たちは、当分の間は座席にとどまっていた。//
 (11)レーニンは、午後10時までは彼の「政府席」にいたが、そのときに彼も退出した。
 彼は、いかなる正統性の外装も与えないように、会議に対して発言をしなかった。
 ボルシェヴィキ中央委員会がタウリダ宮の別の部屋で開かれ、立憲会議を解散する決議が採択された。
 しかしながら、左翼エスエルに敬意を表して、レーニンは、タウリダ宮護衛兵に対して、暴力を行使しないよう指令した。
 タウリダ宮から離れようとする代議員たちは全員が立ち去らされ、戻ってくるのを許されなかった。(126)
 午前2時、状況が統制されていることに満足して、レーニンはスモルニュイに帰った。//
 (12)ボルシェヴィキが立ち去ったあと、タウリダ宮には際限のない発言が飛び交った。それらを中断させたのはしばしば護衛兵たちで、彼らは、バルコニーから降りてきて、ボルシェヴィキが空にした座席を占めていた。
 彼ら護衛兵の多くは、酔っ払っていた。
 何人かの兵士たちは、発言者に銃砲の照準を定めて愉しんでいた。
 午前2時30分、左翼エスエルが退出した。そのときに、安全を保つ責任がある人民委員のP・E・ドゥィベンコは、護衛兵の指揮官である海兵でアナキストのA・G・ジェレズニャコフ(Zhelezniakov)に、会議を閉鎖(close)するよう命令した。
 午前4時少し過ぎ、議長のV・チェルノフが土地の私的所有権の廃棄を宣言しているとき、ジェレズニャコフは舞台の上に昇って、彼の背中を軽く叩いた。(*)
 つづく光景は、議事録につぎのように記録されている。
 「海兵、『護衛兵が疲れているので、今ここにいる者はみな会議ホールを去らなければならない、と指令されました』。
 議長、『どんな指令? 誰からの?』
 海兵、『私はタウリダ宮護衛兵の指揮官です。人民委員から指令を受けました』。
 議長、『立憲会議代議員たちも疲れている。だが、疲労があるからといって、ロシアの全てが待っている法を我々が宣言するのを、中断することはできない』。
 (騒がしい声。『もういい、もういい!』)
 議長、『立憲会議は、実力行使の脅迫のもとでのみ解散することができる』。
 (騒音。)
 議長、『貴方たちは宣言する』。
 (騒がしい声。『チェルノフ、降りろ!』)
 海兵、『会議ホールからただちに立ち退く(vocate)よう、要請します』。」(**)
 (13)このようなやり取りが行われている間に、多数のボルシェヴィキ兵団が群をなして、きわめて威嚇的に、会議ホールに入ってきた。
 チェルノフは何とか、もう20分間、会議を続行しつづけた。そして、その日(1月6日)の午後5時までの延会(adjourn)を宣言した。
 しかし、会議は二度と開かれなかった。午前中にスヴェルドロフが、ボルシェヴィキが提案した立憲会議を解散させる決議を、CEC〔ソヴェト中央執行委員会〕に採択させたからだった。(127)
 その日の<プラウダ>は、つぎの大きな見出しつきで発行された。
 「銀行家、資本家、そして地主、カレーディンとドゥトフ一派、アメリカ・ドルの奴隷たち、裏切り者たち-右翼社会革命党-が、立憲会議で自分たちとその主人-人民の敵-のために全ての権力を要求する。
 土地、平和、(労働者による)統制という人民の要求に口先だけで好意を示しつつ、しかし、彼らは実際には、社会主義権力と革命の首の周りを、縄で縛ろうとしている。
 しかし、労働者、農民、兵士たちは、社会主義の最も邪悪な敵がつくウソの罠に落ち入りはしない。
 社会主義革命と社会主義ソヴェト共和国の名のもとに、彼らは公然たるまたは隠然たる殺し屋どもを全て一掃するだろう。」(128)//
 (14)ボルシェヴィキは従前から、ロシアの民主主義勢力を「資本家」、「地主」および「反革命者」と結びつけてきた。だが、この見出しで、彼らは初めて、外国資本とも連結させた。
 (15)ボルシェヴィキは2日後に彼らの対抗集会を開き、「第三回ソヴェト大会」との名称を付けた。
 ボルシェヴィキと左翼エスエルで94パーセントの議席を占めたのだから、この名称に反対することのできる者はいなかっただろう。(129) この割合は、立憲会議選挙の結果で判断すれば、しかるべき資格者数よりも3倍の人数にあたる。
 残り僅かは、左翼反対派に割り当てた。-悪態をついて馬鹿にするにはちょうどよい数だった。
 その会議は予定通りに、政府代理人が提出した全ての議案を採択した。その中には、「権利の宣言」もあった。
 ロシアは、「ロシア・ソヴェト社会主義共和国」として知られる、「ソヴェト共和国連邦」になった。この名称は1924年まで維持されたが、その年に「ソヴェト社会主義共和国同盟」と改称された。
 会議はソヴナルコムを国の正統な政府として承認し、その名前から「臨時の」という形容詞を削除した。
 また、普遍的な労働の義務という基本的考え方(principle)も是認した。//
 ------------
 (125) Dekrety, I, p.321-3.
 (126) Lenin, Khronika, V, p.180-1.; Malcevskii, Uchreditel'noe Sobranie, p.217.
 (*) ジェレズニャコフは前年にPeter Dunomovo 邸を占拠し、この人物の逮捕が1917年6月のクロンシュタット海兵たちの反乱を引き起こしていた。
 Revoliutiia, III, p.108.
 (**) I. S. Malchevskii, Vserossiiskoe Uchreditel'noe Sobranie(Moscow-Leningrad, 1930).
 ジェレズニャコフは翌年に、赤軍と戦闘をして、殺された。
 (127) Bunyan & Fisher, Bolshevik Revolution, p.384-6.
 (128) Pravda, No. 4/232(1918年1月6日/19日), p.1.
 (129) NV, No. 7(1918年1月12日/25日), p.3. in Bunyan & Fisher, Bolshevik Revolution, p.389.
 ----
 第8節、終わり。次節の目次上の表題は、<影響と意義>。

2213/R・パイプス・ロシア革命第12章第8節①。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
 ----
 第8節・立憲会議(憲法制定会議)の解散①。
 (1)1918年1月5日、金曜日。ペトログラード、そしてタウリダ宮周辺は、野戦場のようだった。
 社会革命党のM・ヴィスニャク(Mark Vishniak)は、代議員たちで行列してタウリダ宮に向かって歩いているとき、つぎのような光景を目にした。//
 「我々は、正午に、進み始めた。およそ数百人が広がった列をなして、通りの真ん中を歩いた。
 代議員たちに同行していたのは、報道者、友人、妻たちで、タウリダ宮への入館券をあらかじめ得ていた。
 タウリダ宮までの距離は、1キロメートルを超えていなかった。
 近づくほどに、見ることのできる歩行者の数は減り、兵士、つまり赤軍および海兵たちが増えた。
 彼らは、完全武装をしていた。肩に銃砲を結びつけ、爆弾、手榴弾、弾丸を持っていた。タウリダ宮の正面と両側の至る所に配置されるか、入り込んでいた。
 舗道を歩いていた一人の通りすがりの者は、見慣れない行列に遭遇した。そしてほとんど叫び声が上げられることなく、むしろしばしば同情的な目で迎えられ、急いで進んだ。
 誰が何処に行っているのかと尋ねたかったので武装兵士たちが接近したが、元の停留地に戻った…。」//
 「タウリダ宮の前の広場全体が、大砲、機銃および戦場用炊事車両でいっぱいになっていた。
 機銃用弾丸装着ベルトが、乱雑に積み上げられていた。
 タウリダ宮の全ての入口は閉鎖されていたが、最も左端にくぐり門があり、人々はそこを通って入館させられた。
 武装監視兵たちは、入場を許す前に注意深く顔を調べた。背後を探索し、背中に触った。…。
 左扉から入った後で、もっと厳しい検査があった。…。
 監視兵は代議員たちに、前室とカテリーヌ大広間を通って会議場に行くように指示した。
 至るところに武装した兵士たちがいて、そのほとんどは海兵かラトヴィア人だった。
 彼らは街頭の兵士たちと同様に武装していた。銃砲、手榴弾、軍隊袋、回転式連発銃。
 武装兵士や武器の数多さやガチャガチャという金属音のために、防衛するか攻撃するかをしようと準備している野戦地帯のごとき印象があった。」(116)//
 (2)レーニンが率いるボルシェヴィキ代議員団は、午後1時にタウリダ宮に着いた。
 レーニンは、状況が展開するのに応じてすみやかに決定を下せるよう、近くに居るのを望んだ。
 会議の間は「政府席」と呼ばれた場所に座って、つづく9時間のボルシェヴィキの行動を指揮した。
 ボンチ=ブリュエヴィチは、つぎのように彼を思い出す。
 「彼は緊張して、死体のように蒼白だった。…。
 顔と首は極端に青白かったが、大きくすら見え、目は拡がって、揺らがない火のごとく燃えていた。」(117)
 じつにそのときが、ボルシェヴィキの独裁が運命の岐路に立つ、決定的な瞬間だった。
 (3)会議は昼頃に始まった。しかし、レーニンは、ウリツキを通して、外で起きていることが分かるまでは手続を開始するのを許さなかった。外のペトログラードの街頭では、ボルシェヴィキの命令に果敢に抵抗して、午前中ずっと、大規模の示威行動が行われていたのだ。
 示威行進の組織者は、「平和的」行動であって対立は避けるべきだと訴えの中で強調していた。(118)
 しかし、レーニンは、大衆が抵抗する最初の兆候を示した場合に彼の実力部隊を発動させないとは、何ら保証しなかった。
 示威行動者たちが彼の実力部隊を圧倒する場合に備えての非常時対応策を、レーニンは用意していたに違いなかった。
 社会革命党のソコロフは、かりにそういう事態になれば、レーニンは立憲会議と妥協するつもりだろうと、考えている。(119)
 (4)立憲会議防衛同盟は参加者たちに、ペトログラードのいくつかの場所に9時までに集合するよう指令していた。そこから、中央集会場であるChamp de Mars〔シャン・ド・マルス公園〕へと進む。
 正午に、一団となって動きはじめることになっていた。「全ての権力を立憲会議へ」と呼びかける旗のもとで、Panteleimon 通りに沿って。その後すぐに右に曲がってKirochnaia 通りに入り、つぎに左へPotemkin 通りをLiteinyui Prospectへと、さらに右に曲がってShpalernaia 通りを進む。そこはタウリダ宮正面に通じている。
 タウリダ宮を過ぎたあとで、右に曲がってタウリダ通りに入り、ネフスキー(Nevskii)へと向かう。ここで解散することになっていた。
 (5)午前中にペトログラード全域から集まった群衆は、相当のものだった(ある者は5万人ほどだと計算した)。しかし、その規模も、その熱狂感も、組織者が期待したほどではなかった。
 兵士たちは兵舎にとどまり、出てきた労働者たちは、予期したよりも少ない数だった。その結果として、参加者は主として、学生、公務員およびその他の知識人たちになった。彼らはみな、意気消沈していた。
 ボルシェヴィキの脅かしと実力部隊の顕示が、影響を与えていた。(120)//
 (6)示威行動組織者が広く喧伝していたため、ポドヴォイスキーは、隊列がとろうとしているルートを知っていた。そして、部下たちをその進行を妨げるよう配置した。
 弾丸を詰めた銃砲や機銃で武装したその兵団の先遣部隊は、各通りに、そしてPanteleimon 通りがLiteinyui に入る地点の屋根上に、配置についた。
 示威行進の隊列の先頭がこの交差点に近づいたとき、叫び声が上がった。
 「立憲会議、万歳!」
 このとき、兵団の火が噴いた。
 何人かが倒れ、何人かが遮蔽物を目指して走った。
 しかし、示威行進参加者は隊列を再び整えて、歩きつづけた。
 Kirochnaia 通りに接近するのをもっと数が多い兵団が妨害したため、示威行進はLiteinyui 通り沿いに進んだ。
 そのとき、Shpalernaia 通りへとまさに曲がろうとしていたときに、銃火による一斉射撃が始まった。そのの中に彼らは嵌まり込んだ。
 ここで混乱が発生した。
 ボルシェヴィキの兵士たちは示威行動者の後を追って、旗を奪い取り、それを細切れに引きちぎって、かがり火の中に放り込んだ。
 ペトログラードの別の箇所の隊列は、ほとんどが労働者たちだったが、やはり銃火を浴びた。
 もっと小さないくつかの示威行進も、同じ運命に遭った。(121)//
 (7)1917年の二月に、ロシアの兵士たちは公共的集会の禁止を無視する群衆を武力で解散させた。その運命的な日以降、ロシアの兵団は非武装の示威行進者に対して発砲することはなかった。
 暴力(violence)が暴動と反乱に火をつけ、それが革命の始まりになったのだった。
 それ以前には、血の日曜日と1905年に、暴力が用いられた。
 このような経験からして、〔1918年1月の〕示威行動の組織者が、そのような大量殺戮につながる暴力は再び全国民的な抗議を招来するだろうと想定したとしても、非合理ではなかった。
 犠牲となった死者たち-ある者たちによれば8名、別の者によれば21名(122)-は、血の日曜日の記念日の1月9日に、厳粛な葬儀を受け、プレオブラジェンスキ墓地の、その時代の犠牲者たちの傍らに埋葬された。
 労働者代議員たちが花輪を運んだ。そのうちの一つには、こう書かれていた。
 「スモルニュイ独裁者による専横の犠牲者たちのために」。(123)
 ゴールキは怒りの論説を書いて、血の日曜日の暴力になぞらえた。(*)
 (8)示威行進者は解散された、市の街路はボルシェヴィキの統制下にある-これらは午後4時頃に起きた-、という知らせが届くやいなや、レーニンは、会議の開会を命じた。
 選出された代議員のうち僅かに過半数の463名が在席していたが、そのうち社会革命党259名、ボルシェヴィキ136名、そして左翼エスエルが40名だった。(+)
 開会のベルが鳴ったときから、ボルシェヴィキ代議員と武装護衛兵たちは、非ボルシェヴィキの発言者たちに向かって野次り、ブーイングを浴びせた。
 通路とバルコニーを埋めていた武装兵の多くは、無理して騒ぎ立てる必要はなかった。食事棚に置かれていたウォッカを、勝手気侭に飲んでいたからだ。
 この立憲会議の議事録は、つぎのような光景から始まる。
 「社会革命党の立憲会議議員団の一人が、その座席から叫ぶ。
 『同志たち、もう午後4時だ。
 最長老の議員が立憲会議を開会するよう提案する。』
 (左側から大きな騒ぎ声、中央と右側から拍手、…。聴取不能。…。
 左側から口笛が続き、右側が拍手する。)
 立憲会議の最長老議員ミハイロフ(Mikhailov)、(壇上に)昇る。//
 ミハイロフ、鐘を鳴らす。
 (左側に騒ぎ声。『無権限者は、どけ!』
 騒ぎ声と口笛が継続し、右側からは拍手。)//
 ミハイロフ、『休憩(intermission)を宣告する』。」(124)
 --------------
 (116) M. V. Vishniak, Vserossiiskoe Uchredotel'noe Sobraine(Paris, 1932), p.99-p.100.
 (117) V. D. Bonch-Bruevich, Na boevykh postakh feural'skoi i oktiabr'skoi revoliutsii(Moscow, 1930), p.256.
 (118) DN, No. 2/247(1918年1月4日), p.2.
 (119) Sokolov in ARR, XIII, p.66.
 (120) A. S. Izgoev in ARR, X, p.24-p.25.; Znamenskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.340.
 (121) DN, No. 4(1918年1月7日), p.2.の叙述。Griaduiushchi den', No. 30(1918年1月6日), p.4.; Pravda, No. 5(1918年1月6日/19日), p.2.
 (122) NZh, No. 7/23(1918年1月11日/24日), p.2. および、Sheibert, Lenin , p.19.
 (123) NZh, No. 7/23(1918年1月11日/24日), p.2.
 (*) NZh, No. 6/220(1918年1月9日/22日), p.1.
 ボルシェヴィキは、反発を怖れて、射撃に関する調査を命令した。
 リトアニア人連隊の兵士たちが示威行進者に発砲した、それはそのことで立憲会議を「妨害者」から防衛すると信じたからだった、ということが明らかになった(NZh, No. 15/229, 1918年2月3日、p.11)。
 調査委員会は、報告書を公刊することなく、1月末には仕事を停止した。
 (+) Znamenskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.339.
 出席していた代議員の正確な人数は、知られていない。
 同上のp.340では410名とされているようだ。 
 (124) I. S. Marchevskii, ed., Vserossiskoe Uchreditel'noe Sobraine(Moscow, 1930), p.3.
 ----
 第8節②へとつづく。

2212/R・パイプス・ロシア革命第12章第7節②。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
 ----
 第7節・立憲会議から抜け出す(rid of)決定②。
 (9)一部の社会主義者たちは、それでは十分でない、と考えた。
 その意見は社会革命党の下部から上がってきたもので、帝制に対抗するために用いた方法-テロルと街頭暴力-だけが民主主義を回復させるだろうと感じていた。
 そうした意見の代表者のF・M・オニプコ(Fedor Mikhailovich Onipko)は、スタヴロポル(Stavropol)選出の社会革命党代議員で、立憲会議防衛同盟執行委員会の一員だった。
 オニプコは、経験のある共謀者に助けられて、スモルニュイに入り込み、役人や運転手を偽装した4人の活動家をそこに撒いた。
 レーニンの動きを追跡し、妹を訪れるために頻繁にスモルニュイから抜け出していることに気づいて、その妹の家に用務員を装った工作員を置いた。
 オニプコは、レーニンを、そしてトロツキーを、殺したかった。
 行動は、クリスマスの日に予定された。
 しかし、オニプコが承認を求めた社会革命党中央委員会は、そのような行動を大目に見るのを断固として拒絶した。
 オニプコは、こう言われた。かりに社会革命党がレーニンとトロツキーを殺戮すれば、労働者たちのリンチに遭い、革命の敵だけが有利になるだろう、と。
 彼は、テロリスト集団を即座に解散させるよう命じられた。(108)
 オニプコは従った。しかし、社会革命党とは関係をもたない何人かの共謀者たちは(中には、ケレンスキーの親しい同僚だったネクラソフ(Nekrasov)もいた)、1月1日、レーニンの生命を狙って結果的には不ざまな試みを行った。
 その暗殺の試みは、レーニンと一緒に乗車していた、スイス急進派のF・プラッテン(Fritz Platten)に軽傷を負わせただけだった。(109)
 レーニンはこの事件のあと、スモルニュイからあえて外出する際にはいつでも、回転式連発銃を携帯した。
 (10)オニプコはつぎに、予期されるボルシェヴィキの立憲会議襲撃に対抗する、武装抵抗隊を組織しようとした。
 立憲会議防衛同盟とともに練り上げた計画は、親ボルシェヴィキ兵団を威嚇し、立憲会議が解散されないよう確実に守るために、1月5日にタウリダ宮の正面で、大衆的な武装示威行動を行うことを呼びかける、というものだった。
 彼は何とかして立派な後援を確保することができた。
 プレオブラジェンスキー(Preobrazhenskii)、ゼミョノフスキー(semenovskii)、およびイズマイロフスキー(Izmailovskii)の各護衛連隊で、およそ1万人の兵士たちが、武器を持って行進し、銃砲を放たれれば戦闘すると自発的に志願した。
 主としてはオブホフ(Obukhov)工場施設や国家印刷局からのおよそ2000人の労働者も、それに加わることに合意した。//
 (11)この計画を実施に移す前に、軍事委員会は社会革命党中央委員会に戻って、権威づけを求めた。
 同党中央委員会は、再び拒絶した。
 中央委員会はその消極的な姿勢を曖昧な説明でもって正当化した。しかし、結局は、最終的に分析するならば、理由は恐怖にあった。
 誰もかつて、議論はしたが、臨時政府を防衛しなかった。
 ボルシェヴィズムは大衆の病いなのであって、治癒するには時間がかかる。
 危険な「冒険」をしている余裕はない。(110)//
 (12)社会革命党中央委員会は、1月5日に平和的な示威行動を行うことを再確認した。諸兵団は歓迎されるが、非武装で参加しなければならない。
 同委員会は、新しい血の日曜日を惹起する怖れからボルシェヴィキが示威行動参加者に対してあえて銃火を放つことはないだろうと予測した。
 しかしながら、オニプコとその仲間たちが兵舎に戻って新しい知らせを伝え、武装しないで参加するよう兵士たちに求めたとき、オニプコたちは嘲弄された。//
 「兵士たちは信用できないで、こう反応した。
 『同志よ、我々を愚弄しているのか?
 貴方たちは示威行動に参加することを求め、かつ武器を持って来ないように言っている。
 では、ボルシェヴィキは?
 彼らは小さな子どもたちか?
 ボルシェヴィキはきっと、非武装の民衆に火を放つだろう。
 そして、我々は? 我々は口を開けて、頭が彼らの目標になるようにすると思っているのか?
 そうでなければ、ウサギのように早く走って逃げよと、命令するつもりか?』」(111)
 兵士たちは、素手でボルシェヴィキのライフル銃や機銃砲と対決するのを拒み、1月5日には兵舎の外で日向に座っている、と決定した。
 この活動に勢いを得たボルシェヴィキは、機会を逃さず、戦闘をする決定的な日の準備をした。
 レーニンが、個人的な指揮を執った。
 (13)最初の任務は、軍連隊に打ち勝つか、少なくとも中立化させることだった。
 兵舎に派遣されたボルシェヴィキの煽動者は、立憲会議には人気があるとを考慮して、あえて直接にそれを攻撃しようとはしなかった。
 その代わりにボルシェヴィキ煽動家たちは、「反革命の者たち」はソヴェトを廃絶するために立憲会議を利用しようとしている、と説いた。
 彼らは、このような論拠でもって、フィンランド歩兵連隊に対して「全ての権力を立憲会議へ」とのスローガンを拒否するよう、そして立憲会議がソヴェトと緊密に協力する場合にのみ立憲会議を支持することに同意するよう、説得した。
 ヴォルィーニ(Volhynian)連隊とリトアニア連隊は、類似の決議を採択した。(112)
 これが、ボルシェヴィキが達成した限度だった。
 どの規模のどの軍団も、立憲会議を「反革命」だと非難しなかっただろうと思われる。
 そのため、ボルシェヴィキは、急いで組織された赤衛軍と海兵たちの軍団に依存しなければならなかった。
 しかし、レーニンはロシア人を信頼せず、ラトヴィア人を取り込むよう、指令を発した。
 彼は、「<muzhik>〔農民〕は何かが起これば動揺する可能性がある」と語った。(113)
 このことは、ボルシェヴィキの側に立ったラトヴィア人ライフル銃部隊が革命に大きく関与したことを、さらに示した。//
 (14)1月4日、レーニンは、ペトログラードで十月のクーを実行したボルシェヴィキ軍事組織の前議長であるN・I・ポドヴォイスキー(Podvoiskii)を、非常軍事スタッフに任命した。(114)
 ポドヴォイスキーはペトログラードに再び戒厳令を施行し、公共的集会を禁止した。
 この趣旨の宣告文は、市内じゅうに貼りめぐらされた。
 ウリツキは1月5日の<プラウダ(Pravda)>で、タウリダ宮周辺での集会は必要とあれば実力でもって解散させる、と発表した。//
 (15)ボルシェヴィキはまた、工業の重要地点に煽動活動家を派遣した。
 そこで彼らは、敵意と無理解で迎えられた。
 最大の工場群-プティロフ、オブホフ、バルティック、ネフスキ造船所、およびレスナー-の労働者たちは、立憲会議防衛同盟の請願書に署名をしていた。そして、彼らの多数が共感をもつボルシェヴィキがなぜ、今や立憲会議に対する反対に回ったのかを理解できなかった。(*)//
 (16)決定的な日が接近するにつれて、ボルシェヴィキはプレスに、警告しかつ脅かす、定期的なドラム音を鳴らさせ続けた。
 1月3日、ボルシェヴィキは一般公衆に、1月5日に労働者は工場で、兵士は兵舎でじっとしている見込みだ、と知らせた。
 同じ日にウリツキは、ペトログラードにはケレンスキーとサヴィンコフが組織する反革命クーの危険がある、と発表した。この二人は、その目的でペトログラードに秘密裡に戻ってきている、とした。(*)(115)
 <プラウダ>の一面見出しは、こうだった。
 「本日、首都のハイエナと雇い人たちが、ソヴェトの手から権力を奪おうとする」。//
 -------------
 (108) B. F. Solokov in ARR, XIII(Berlin, 1924), p.48.; Fraiman, Forpost, p.201.
 (109) V. D. Bonch-Bruevich, Tri pokusheniia na V. I. Lenina(Moscow, 1930), p.3-p.77.
 (110) Solokov in ARR, XIII, p.50, p.60-p.61.
 (111) 同上, p.61.
 (112) Pravda, No.3/230(1918年1月5日/18日), p.4.
 (113) トロツキー, in 同上, No.91(1924年4月20日), p.3.
 (114) Znamenskii, Uchreditel'noe Sobranie, p.334-5; Fraiman, Forpost, p.204.
 (*) E. Ignatov, in PR, No.5/76(1928年), p.37. この著者は、これら労働者の署名は捏造されたもので、証明力をもたない、と主張する。
 (*) ケレンスキーは実際、このときにペトログラードにいた。しかし、彼が反ソヴェト実力部隊を組織しようとした証拠はない。
 (115) Pravda, No. 2/229(1918年1月4日/17日), p.1, p.3.
 ----
 第7節、終わり。第8節の目次上の表題は、<立憲会議の解散>。
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
アーカイブ
記事検索
カテゴリー