秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ロシア革命

2803/R.パイプス1990年著—第14章⑨。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第五節/在独ロシア大使館とその破壊活動①。
 (01) Ioffe は、〔1918年〕4月19日に、任務を携えてベルリンに到着した。
 ドイツの将軍たちは、ロシアの外交官は主として諜報と破壊に従事するだろうと正確に予測して、ブレスト=リトフスクかドイツから離れた別の都市にソヴィエト大使館が置かれるよう望んだ。しかし、外務当局はこれを却下した。
 Ioffe は、Unter den Linden 7番地の帝制時代の古い大使館を引き継いだ。ドイツはそこを、戦争のあいだずっと、無傷のまま維持していた。
 その建物の上に彼は、鎌と槌が描かれた赤旗を掲げた。
 のちにソヴィエト政府は、ベルリンとハンブルクに領事館を開設した。
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 (02) Ioffe の館員は最初は30人だったが、その数は増加し続けた。ドイツとソヴィエトが関係を消滅させた11月には、180人になっていた。
 加えて、Ioffe は、ソヴィエトの政治的宣伝工作文書を翻訳させ、破壊活動を実行させるためにドイツの急進派を雇用した。
 彼はモスクワとの電信による通信手段を継続的に維持した。ドイツはこれを盗聴し、連絡のいくつかを暗号解読した。だが、大量であるため、公刊されていないままだ(脚注)
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 (脚注) Ioffe のレーニンあて文書を選抜したものは、I. K. Kobiliakov 編集によるISSR, No. 4(1958), p.3-p.26 で公表された。
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 (03) 在ベルリンのソヴィエト外交代表団は、ふつうの大使館ではなかった。それはむしろ、敵国の奥深くにある革命の前哨基地だった。すなわち、その機能は、革命を促進することだった。
 アメリカの一記者がのちに述べたように、Ioffe はベルリンで、「完璧な背信」(perfect bad faith)でもって行動した(45)。
 Ioffe の諸活動から判断すると、彼には三つの使命があった。
 第一は、ボルシェヴィキ政府を排除したいドイツの将軍たちの力を弱くすること。
 彼はこれを、事業や銀行の団体の利益に訴えたり、ドイツに対してロシアでの独特の経済的特権を与える通商条約の交渉をしたりすることで達成した。
 第二の使命は、ドイツの革命勢力を援助することだった。
 第三は、ドイツの国内情勢に関する情報を収集することだった。
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 (04) Ioffe は、革命的諸活動を鉄面皮の心持ちでもって実行した。
 彼はドイツの政治家や事業家たちに、つぎのことを期待した。彼らの経済的搾取に従属するロシアでの優越的な利益を増大させて、彼が冒す外交上の規範に逸脱した行為を看過するようドイツ政府を説得すること。
 1918年の春と夏、彼が主として行なったのは、独立社会主義党の極左派であるSpartacist 団と緊密に結びついた、政治的宣伝工作だった。
 のちにドイツの統合が崩れ始めたとき、彼は、社会革命の火を煽るべく金銭と武器を提供した。
 ロシア共産党の支部に変わっていた独立社会主義党は、ソヴィエト大使館と調整してその諸活動を行なった。あるときには、モスクワは、この党の大会で挨拶する公式の代表団をドイツに派遣した(46)。
 Loffe はこの任務のために、モスクワから1400万マルクを与えられた。彼はこの金をドイツのMendelssohn銀行に預けて、必要に応じて引き出した(脚注)
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 (脚注) Baumgart, Ostpolitik, p.352n.
 Ioffe は、極左から極右までドイツの全政党との接触を維持したけれども、「社会的裏切り者」の党である社会民主党との関係は意識的に避けた、と語る。VZh, No. 5(1919), p.37-38.
 レーニンの指示にもとづくこの政策は、15年後のスターリンの政策を予期させるものだった。スターリンは、ドイツ共産党にナツィスと対抗する社会民主党との協力を禁止することによって、ヒトラーの権力掌握を可能にしたとして、広く非難された。
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 (05) Ioffe は、ドイツの多くの地方諸都市に、ソヴィエトのドイツ情報センターを設けた。ソヴィエトの情報宣伝が連合諸国のメディアに伝えられるオランダでも同様だった。
 1919年、Loffe は明らかに誇りをもって、ベルリンでのソヴィエト代表部として自分が達成したことを詳しく述べた。
 「ソヴィエト大使館は、十の左派社会主義新聞よりも多くのことを指揮監督し、援助した。…
 全く当然のことだが、その情報作業ですら、全権代表の活動は「合法的目的」のものに限定されなかった。
 情報資料は印刷されたものに限られたわけでは全くなかった。
 検閲者が削除したもの全てが、最初から通過しないだろうと判断されて提示されなかった全てが、そうであるにもかかわらず、非合法に印刷され、非合法に散布されていた。
 議会で利用するためにそれらが必要になることは、きわめて頻繁にあった。そうした資料は(社会民主党の)独立会派からドイツ帝国議会の議員たちに渡された。受け取った者は議会での演説のために使った。
 ともあれ、こうして文書になっていった。
 この作業では、ロシア語の資料に限定することはできなかった。
 ドイツ人社会の全ての階層と堂々たる関係を持つソヴィエト大使館、ドイツの各省庁にいるその工作員たちは、ドイツの諸事情についてすらドイツの同志たちよりも多くの情報をもっていた。
 前者が受け取った情報は、やがては後者に伝えられた。こうして、軍部の多くの策謀は、適切な時期に公衆一般の知るところになった。//
 もちろん、ロシア大使館の革命的活動が情報の分野に限られていたのではなかった。
 ドイツには、戦争のあいだずっと地下で革命的活動を行なっていた革命的グループが存在した。
 機会が多かったのみならずその種の陰謀的活動に習熟もしていたロシアの革命家たちは、これらのグループと協力しなければならなかったし、実際に協力した。
 ドイツの全土が、非合法の革命的諸組織によって覆われていた。数十万の革命的冊子と宣伝文書が、前線と後方で毎週に、印刷され、散布された。
 ドイツ政府は一度、煽動的文書をドイツに密輸出しているとしてロシアを追及し、用いられる価値があるだけのエネルギーでもって、運搬者のカバンに、密輸入されたものを捜索した。だが、ロシア大使館がロシアから持ち込んだものはドイツ国内でロシア大使館の助けでもって印刷されたものに比べれば大海中の一滴にすぎない、ということに気づかなかった。」//
 Ioffe によれば、要するに、在ベルリンのロシア大使館は、ドイツ革命を準備すべく、ドイツの社会主義者たちとの緊密な接触のもとで継続的に仕事をした(48)。
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 (06) 在独ソヴィエト大使館は、さらにまた、他のヨーロッパ諸国に、革命的文献と破壊的資金を分配する経路として機能した。同大使館を、オーストリア、スイス、Scandinavia、オランダへ向けて外交嚢を配達するクーリエたちの、諸国の安定した流路(ドイツの予想では100ないし200)が通過していた。「クーリエたち」の中には、ベルリンに着いた後で姿を消す者もいた(49)。
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 (07) ドイツ外務省は、このような破壊的活動に関係する軍事および内政当局から、抗議を頻繁に受け取った(50)。しかし、ドイツのロシアでの高次の利益だと認めているもののために、それらを大目に見た。
 一度短いあいだ、ソヴィエト大使館側のとくに不埒ないくつかの行動についてあえて抗議したとき、Ioffe は回答を用意していた。こう説明した。
 「ブレスト条約自体が、計略を行なう機会を認めている。
 締結した当事者は諸政府であるがゆえに、革命的行動の禁止は、政府とその機関に適用されると解釈することができる。
 ロシア側からはこう解釈される。そして、ドイツが抗議している全ての革命的行動は、全てロシア共産党の行動であって同政府のそれではない、とただちに説明される。」(51)
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 つづく。

2801/R.パイプス1990年著—第14章⑧。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第四節/ドイツ大使館員がモスクワに到達②。
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 (10) モスクワでの一ヶ月後、Milbach は、ボルシェヴィキ体制の存続可能性、およびロシア政策全般の基礎になっている自国ドイツのロシアに関する知識、について、不安を感じ始めた。
 ボルシェヴィキは存続しそうだと、信じ続けはした。すなわち、5月24日に、ソヴィエト体制の崩壊は切迫していると予言するBothmer その他の軍人たちに反対する見解を書いて、外務省に警告した(36)。
 しかし、ロシアでの連合諸国の外交官や軍人たちの活動や彼らの反対少数派集団との接触を知って、レーニンは権力を失うのではないか、そしてドイツはロシアでの援助の根拠を全て失って孤立するのではないか、と懸念した。
 したがって、彼は、ボルシェヴィキへの信頼に加えて反ボルシェヴィキ少数派との会話を開始するという政治的保険をかける、という柔軟な政策を主張した。
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 (11) 5月20日、Milbach は、ソヴィエト・ロシアの状況とドイツのロシア政策にある危険性について、最初の悲観的な報告書を、本国に送った。
 彼はこう書いた。体制に対する民衆の支持はこの数週間で大きく減少した。トロツキーはボルシェヴィキ党は「生きている死体」だと語ったと言われている。
 連合諸国は泥水の中で魚釣りをしており、エスエルやメンシェヴィキの国際主義者、セルビアの戦争捕虜やバルトの海兵たちに対して寛大に資金を配っている。
 「いま以上に腐敗した賄賂のロシアは絶対にない」。
 トロツキーが共感しているため、連合諸国はボルシェヴィキに対する影響力を増している。
 トロツキーは、事態が悪化するのを阻止するために、ドイツ政府が一月に終わらせたボルシェヴィキに対する助成金を更新する金を必要とした(37)。
 ボルシェヴィキを連合国の方へ向ける、親連合国のエスエルが権力を奪取する、この二つをいずれも阻止するために、資金が必要だ(38)。
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 (12) この報告書には、より明確に悲観的な調子の報告が続いた。そしてこれらは、ベルリンで顧みられなかったのではなかった。
 6月初め、Kuhlmann は見方を変えて、ロシアの反対派との会話を開始する権限をMilbach に与えた(39)。
 彼はまた、Milbach に、裁量性のある資金を割り振った。
 6月3日、Milbach はベルリンに電報を打って、ボルシェヴィキに権力を持たせつづけるに毎月300万マルクが必要だと、伝えた。外務省は、総計で4000万マルクの意味だとこれを解釈した(40)。
 Kuhlmann は、ボルシェヴィキが連合国側へと転換するのを阻止するには「金が、おそらくは大量の金が」かかることに同意見だった。そして、ロシアでの秘密工作のために在モスクワ大使館に上記の金額を送ることを承認した(41)。
 この金がどう使われたのかを、正確に叙述することはできない。
 約900万マルクだけは、特定目的のために使われた。総額の半分はボルシェヴィキ政府に、残りは反対派に支払われたように思われる。後者の相手は主に、Omsk を中心地としたシベリアの反ボルシェヴィキ臨時政府、親皇帝派の反ボルシェヴィキ集団、Don コサックの首長、P. N. Krasnov だった(脚注)
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 (脚注) ボルシェヴィキ政府は、6月、7月、8月の毎月、ドイツから300万マルクの援助金を受け取った。Z. A. B. Zeman, ed., Germany and the Revolution in Russia, 1915-1918 (London-New York, 1958), p.130.
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 (13) ドイツが反ボルシェヴィキ少数派と接触するのを妨げたのは、ブレスト条約だった。
 ボルシェヴィキ以外の全ての政治的党派は、この条約を受容しようとしなかった。ボルシェヴィキにすら、分裂があった。
 Milbach が観察していたように、ソヴィエト・ロシアの状況は厄災的であり、かりに代償がブレスト条約を受容することだったとすれば、非ボルシェヴィキのどのロシア人も、ボルシェヴィキに対抗するドイツによる援助を受け入れようとしなかっただろう。
 言い換えると、反ボルシェヴィキ集団からの支持を得ようとすれば、ドイツは条約の実質的な改正に同意しなければならなかった。
 Milbach の意見では、反対派集団はポーランド、リトアニア、Courland の喪失を黙認する可能性があった。しかし、ウクライナ、エストニア、そしてたぶんLyvonia の割譲を容認することはなかった(42)。
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 (14) Milbach は、Rietzler に、チェカと連合諸国工作員の鼻先でロシアの反対派集団と交渉するという微妙な任務を与えた。
 Rietzler は主として、いわゆる右翼中心派(Right Center)と接触した。これは、ボルシェヴィズムはドイツ以上に悪辣なロシアの国益に対する脅威だと結論づける、そしてボルシェヴィキを排除するためにドイツと合意する心づもりのある、信望ある政治家や将軍によって、6月半ばに結成された小さな保守的グループだった。
 この集団は、財政、産業、軍事上のしっかりした交渉を要求はした。しかし、現実には顕著と言えるほどの支持者がなかった。なぜなら、ロシアの積極的な活動家の圧倒的多数は、ボルシェヴィキはドイツが生んだものだと考えていたからだ。
 右翼中心派の中心人物は、Alexander Krivoshein だった。この人物はかつてStolypin 改革の指導者で、上品な愛国者であって、かりにドイツがロシア政府を打ち立てるならば受け入れやすい首班候補だったかもしれなかった。しかし、彼は旧体制の典型的な官僚だったので、命令を下すというよりも命令に服従してきた人物だった。
 他に、1916年攻勢の英雄だったAleksei Brusilov もいた。
 Krivoshein は、媒介者を通じて、Rietzler につぎのことを知らせた。すなわち、彼のグループはボルシェヴィキを打倒する用意がある、そのための軍事的手段もある、しかし、実行するにはドイツの積極的な協力が必要だ(43)。
 このような協力を実現するには、ドイツはブレスト条約の改訂に同意しなければならなかった。
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 (15) 接触はしたけれども、ドイツは、ロシアの反対派への敬意をほとんど示さなかった。
 Milbach は君主主義者を「怠け者」と見なし、Rietzler は、ドイツの援助と命令を求める[ロシアの]ブルジョアジーについて、侮蔑的に「嘆いて愚痴を言う者たち」と語った(44)。
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 第四節、終わり。つづく。

2800/R.パイプス1990年著—第14章⑦。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第四節/ドイツ大使館員がモスクワに到達①。
 (01) 1918年の後半、ロシアとドイツの両国は、互いに大使館を設置した。Ioffe がベルリンに行き、Mirbach がモスクワにやって来た。
 ドイツ人は、ボルシェヴィキ・ロシアが最初に信認した外国使節団だった。
 彼らは驚いたのだが、ドイツ人がモスクワまで旅をした車両は、ラトヴィア人によって警護されていた。
 ドイツの外交官の一人は、ロシアによってモスクワで催されたレセプションは驚くほど温かかった、と書いた。戦勝者がこれほどまでに歓迎されたことはかつてなかった、と彼は思った(31)。
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 (02)  使節団の長のMilbach は47歳の経歴ある外交官で、ロシアの諸事情について多くの経験があった。
 彼は1908年から1911年まで、ペテルブルクのドイツ大使館の顧問として勤務し、1917年12月に、ペテルブルクへの使節団の長となった。
 Milbach は、プロイセン・カトリックの富裕で貴族的な家庭の出身だった(脚注)
 昔からの派の外交官で、同僚たちの中には「ロココ伯爵」と呼んで相手にしない者もおり、革命家たちと付き合うのは苦手だった。しかし、機転と自制心によって、外務省内での信頼を獲得していた。
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 (脚注)  Milbach につき、完全には信頼できないが、つぎを見よ。Wilhelm Joost, Botschafter bei den roten Zaren (Vienna, 1967), p.17-p.63.
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 (03) Milbach の片腕のKurt Riezler は、36歳の思慮深い人物で、やはりロシアの事情をよく知っていた(脚注)
 彼は1915年に、レーニンの協力を確保するという、Parvus の失敗した企てに一定の役割を果たした。
 1917年にストックホルムに派遣され、ドイツ政府とレーニンの代理人の間の主要な媒介者となった。彼は、いわゆるRiezler 基金からロシアへとその代理人に援助金を送った。
 Riezler は、ボルシェヴィキが十月のクーを実行するのを助けた、と言われている。但し、そこでの彼の役割は明瞭ではない。
 同僚たちの多くと同様に、彼は、ドイツを救うことのできる「奇跡」として、クーを歓迎した。
 彼はブレストでは、融和的政策を主張した。
 しかしながら、彼は、気質的に悲観論者で、どちらの側が戦争に勝ってもにヨーロッパは衰亡に向かっている、と考えていた。
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 (脚注) 彼の諸文書は、Karl Dietrich Erdmann によって編集された。Kurt Riezler, Tagebücher, Aufsatze, Dokumente (Göttingen, 1972).
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 (04) ドイツ大使館の第三の主要な人物は軍事随行員のKarl von Bothmer で、Ludendorff やHindenburg の考え方を引き継いでいた。
 この人物はボルシェヴィキを毛嫌いしており、ドイツはボルシェヴィキと縁を切るべきだと考えていた(32)。
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 (05) これら三人のドイツ人は、ロシア語が分からなかった。
 彼らと接触することになるロシア人は、全員が流暢にドイツ語を話した。
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 (06) ドイツ外務省はMilbach に対して、ボルシェヴィキ政府を支援すること、条件を設けることなくロシアの少数反対派と連絡を保つこと、を指示した。
 Milbach は、ソヴィエト・ロシアの真実の状況およびロシアにいる連合諸国の代理人たちの活動に関する情報を得ることを自らの任務とした。ブレスト条約が定めていた諸国間の通商交渉の基礎作業をするのは当然のことだった。
 20人の外交官とそれと同数の書記職員たちは、Arbat 通りから脇に入ったDenezhnyi Pereulok に贅沢な私宅を構えた。それらは、共産主義者たちから事業を守り続けたいドイツ人の砂糖事業家の財産だった。
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 (07) Milbach は数ヶ月前にペテログラードにいたことがあり、自分が何を期待されているのかを知っていたに違いなかった。そうであっても、モスクワで見たものには唖然とした。
 彼はモスクワ到着の数日後に、ベルリンへこう書き送った。//
 「通りはとても活発だ。
 しかし、もっぱら貧民たち(proletarian)で溢れている。良い衣服を着た者たちを滅多に見ることがない。—まるで、かつての支配階級、ブルジョアジーはこの地球上から消滅したかのごとくだ。…
 かつては公衆の中で富裕な層だった聖職者たちは、同様に、通りから消失した。
 店舗では、主に以前は美麗だったものの埃まみれの残物を見つけることのできるのだが、それらは狂気じみた値段で売られている。
 労働というものが欠落した状態の蔓延、愚かなままでの怠惰、これはこうした風景全体に特徴的だ。
 工場は操業を停止した状態で、土地はほとんどが耕作されないままだ。—ともかく、これが我々が今度の旅で得た印象だ。
 ロシアは、[ボルシェヴィキによる]クーによる苦難以上の、さらに大きな災難へと向かっているように思える。//
 公共の安全には、望まれるものがまだ残っている。
 昼間には自由に一人で動き回ることができるのだが。
 しかしながら、夕方に自宅から出ることは勧められない。射撃の音が頻繁に聞こえ、小さなあるいは大きな衝突がしょっちゅう起きているようだ。…//
 ボルシェヴィキによるモスクワの支配は保持されている。何よりも、ラトヴィア軍団によってだ。
 さらには、政府が徴発した多数の自動車にも依っている。多数の自動車が市中を走り回り、危険な箇所へと、必要な兵団を送り届けている。//
 このような状態が今後どうなるかを、まだ判断することができない。しかし、とりあえずは一定の安定の見込みがある、ということは否定できない。」(33)
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 (08) Riezler もまた、ボルシェヴィキ支配のモスクワに意気消沈した。最も衝撃的だったのは、共産主義官僚たちの腐敗の蔓延と怠惰な習慣だった。とりわけ、女性を求める飽くことのない要求。(34)

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 (09) 5月半ば、Milbach はレーニンと会った。
 レーニンの自信は、彼を驚かせた。
 「一般にレーニンは自分の運命に岩のごとき確信を持っていて、何度も何度も、ほとんど執拗なほどに、際限なき楽観主義を表明する。
 同時にレーニンは、彼の支配体制はまだ無傷であったとしても、敵の数は増え続けていて、状況は『一ヶ月前以上の深刻な警戒』を必要としている、と認める。
 他諸政党は現存の体制を拒否する点だけで一致しているが、別の見方をすれば、それら諸政党は、全ての方向に離ればなれになりそうで、ボルシェヴィキの権力に匹敵するほどのそれを全く持っていない。その他の諸政党ではなく支配政党たるボルシェヴィキだけが組織的権力を行使する、という事実に、レーニンの自信の根拠はある(35)。(脚注)
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 (脚注) 当時にものちにも、レーニンは私的会話では人民の支持に自分の強さの淵源を求めなかった、ということは注目に値する。彼は強さの由来を反対派の分裂に見ていた。
 彼は1920年代にBertrand Russel に、自分と仲間たちは二年前には周囲の敵対的状況の中で生き延びられるかを疑っていた、と語った。
 「彼は自分たちが生き延びたことの原因を、様々な資本主義諸国の相互警戒心とそれらの異なる利害に求める。また、ボルシェヴィキの政治宣伝の力にも」。以上、Bertrand Russel, Bolshevism (New York, 1920), p.40.
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 ②へとつづく。

2799/R.パイプス1990年著—第14章⑥。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 〈第14章・革命の国際化〉の試訳のつづき。
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 第14章・第三節/連合諸国との会話の継続②。
 (05) このような会話が行われている間の4月4日、日本は小さな派遣軍団をVladivostok に上陸させた。
 建前としては、この軍団の使命は、在留日本国民の保護だった。最近に2人の日本人が、そこで殺害されていた。
 しかし、日本軍の本当の目的はロシアの海岸地域の掌握と併合にあると、広くかつ的確に考えられていた。
 ロシアの軍事専門家たちは、輸送とシベリア地域の公的権威の崩壊によって、莫大な後方支援が必要な数十万の日本軍のヨーロッパ・ロシアへの移動が阻害される、と指摘した。
 だが、連合諸国はこの構想に固執し、フランス、イギリスおよびチェコ兵団でもって日本の派遣軍団を弱体化させることを約束した。
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 (06) 6月の初めに、イギリスはMurmansk に1200人の、Archangel に100人の、追加の兵団を上陸させた。
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 (07) レーニンは、アメリカの経済的援助を諦めなかった。それは、フランスが約束した軍事的協力を補完するものだった。
 アメリカは、ブレスト条約が批准されたあとでも、ロシアとの友好を表明しつづけた。
 アメリカ国務省は、ロシアとその国民は「共通する敵に対抗する友人で仲間だ」と日本に知らせた。ロシア政府を承認はしなかったけれども(25)。
 別のときに、アメリカ政府は、ロシア革命が惹起した「全ての不幸と悲惨さ」にもかかわらず、「最大の同情」を感じていると表明した(26)。
 このような友好的な発言が具体的には何を意味するのかを知りたくて、レーニンはRobins に対して、経済的「協力」の可能性をアメリカ政府に打診してみるよう頼んだ(27)。
 5月半ばにレーニンはRobins に、アメリカ合衆国はドイツに代わる工業製品の供給者になり得るとするワシントンあての覚書を与えた(28)。
 だが、ドイツの産業界とは違って、アメリカ人たちは関心をほとんど示さなかった。
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 (08) ボルシェヴィキの連合諸国との協力はどの程度にまで進む可能性があったか、あるいはそもそもそれはどの程度に真面目に意図されていたのか、を判断するのは不可能だ。
 ボルシェヴィキはドイツがこうした交渉の経緯を掴んでいることに気づいていたのだが、ボルシェヴィキの連合諸国との予備的な交渉は、ドイツがブレスト条約の条件履行を監視するように仕向ける可能性があった。あるいは、ロシアが連合国側に走るよう追い込む怖れもあった。
 いずれにせよ、ドイツはロシアに接近していて、敵対的な意向は持っていない、と保証した。
 4月に両国は外交使節団を交換し、通商協定に関する会談の準備を整えた。
 5月半ば、ドイツ政府は、将軍たちが主張していた強硬路線を放棄し、ドイツはいま以上のロシア領土の占領は行なわない、とモスクワに知らせた。
 レーニンは、5月14日の談話で、この保障を公式に確認した(29)。
 この保障によって、ドイツ・ロシアの友好的国家関係の基礎が築かれた。
 ドイツは(ボルシェヴィキの)打倒を意図していない、ということがドイツ・ロシア関係の推移の過程で明らかになったとき、トロツキーは、「連合諸国の援助」という考え方を捨てた(脚注)
 このとき以降、ボルシェヴィキと連合諸国との交渉は急速に途絶えていった。こうして、モスクワは、戦争に勝利しようとしていると見えたドイツ帝国の勢力範囲に入った。
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 (脚注)  Winfried Baumgart, Deutsche Ostpolitik 1918 (Vienna-Munich, 1956), p.49. 日本軍のVladivostok 上陸を正当化した確かに不用意な4月末の新聞インタビュー記事によって、連合諸国とモスクワの間に生まれつつあった協調関係を意図的に破壊したのはNoulens だ、とするHogenhuis-Seliverstoff の主張には、いかなる根拠もない。
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 第三節、終わり。つづく。

2791/R.パイプス1990年著—第14章④。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 第14章の試訳のつづき。
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 第14章第二節/赤軍創設と連合国との会話②。
 (10) 公式の政府の声明が、「国際ブルジョアジー」による攻撃を撃退するソヴィエト・ロシアの必要によるものとして、新しい、社会主義的軍隊の創設を正当化した。
 しかしこれは、公にされた使命の一つにすぎず、また必ずしも最も重要なものでもなかった。
 帝制軍と同じく、赤軍は二つの機能をもった。すなわち、外国の敵と戦うこと、国内の治安を確保すること。
 Krylenko は、1918年1月の第三回全国ソヴェト大会の兵士部会にあてて、こう宣告した。「赤軍の最大の任務は、『国内戦争』を闘い、『ソヴィエトの権威の防衛』を確実にすることだ」(注11)。
 言い換えると、赤軍の任務は、まず第一に、レーニンが行なうと決意していた内戦のために役立つことだった。
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 (11) ボルシェヴィキもまた、赤軍に対して、内戦を拡大する使命を与えた。
 レーニンは、社会主義の最終的勝利のためには「社会主義」国家と「ブルジョアジー」国家の間の一続きの大戦争が必要だ、と信じていた。
 彼らしくない率直さで、こう語った。
 「ソヴェト共和国が帝国主義諸国と並んで長いあいだ存在するというのは、考え難い。
 最終的には、どちらかが勝利する。
 その結末に至るまで、ソヴェト共和国とブルジョア諸政府のあいだの最も激烈な闘争が長く続くのは、避けることができない。
 これが意味するのは、支配階級であるプロレタリアートは、かりに支配することを欲しかつ支配すべきものならば、そのことを軍事組織でもって証明しなければならない、ということだ。」
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 (12) 赤軍を組織することが発表されたとき、<Izvestiia>は社説欄で、つぎのように歓迎した。
 「労働者の革命は、地球規模でのみ勝利することができる。そして、永続的な勝利のためには、さまざまな諸国の労働者が互いに協力し合うことが必要だ。//
 プロレタリアートの手に権力が最初に移った国の社会主義者は、腕を組んで、兄弟たちがブルジョアジーと国境を越えて闘うことを助ける、という任務に直面することになるだろう。//
 プロレタリアートの完全かつ最終的な勝利は、国内の戦線と国際的な戦線での連続した戦争の完全な勝利なくしては、考えることができない。
 したがって、革命は、自らの、社会主義の軍隊なくしては、達成することができない。//
 Heraclitus は、『戦争は、全てのことの父親だ』と言った。
 戦争を通じてこそ、社会主義への途もまた拓かれている<脚注>。」
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 <脚注> Izvestiia, No.22/286(1918.1.28),p.1. Heraclitus は実際には少し違って語った。—「(戦争でなく)対立は全てのことの父親であり王君だ。対立はある者を奴隷にし、ある者を自由にした。」
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 (13) 他に多くの見解が発表され、明示的にまたは黙示的に、赤軍の任務の中には外国での干渉が含まれる、という趣旨が述べられた。あるいは1918年1月28日の布令のように、「ヨーロッパでの来るべき社会主義革命への支援を提供する」と述べられた(注13)。
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 (14)  これら全て、将来のことだった。
 さしあたりボルシェヴィキが有していた信頼に足りる軍団は、ラトヴィア・ライフル兵団(the Latvian Rifles)だけだった。これについては、憲法会議の解散とKremlin の安全確保の箇所ですでに言及はしている。
 ロシア軍は、1915年の夏に、分離した最初のラトヴィア兵団を設立した。
 1915-16年に、ラトヴィア・ライフル兵団は、8000人で成る全員が義勇の兵団で、ナショナリズムが強い、かなりの大きさの社会民主主義の兵団だった(注14)。
 ロシアの常設軍団からのラトヴィア民族派で補強されて、それは1916年の末には、全部で3万人から3万5000人で成る8個の分団を形成していた。
 この兵団はチェコ軍団(Czech Legion)に似ていた。これはほぼ同時期にロシアで、戦争捕虜でもって編成されていた。もっとも、両兵団の運命は全く異なるものになるのだけれども。
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 (15) 1917年の春、ラトヴィア兵団はボルシェヴィキの反戦宣伝に好意的に反応し、講和と「民族自決権」原則によって、当時ドイツの占領下にあった母国に帰ることができるだろうと期待した。
 社会主義ではなく民族主義にまだ動かされていたが、彼らはボルシェヴィキの諸組織と緊密な関係を形成し、臨時政府に反対するボルシェヴィキのスローガンを採用した。
 1917年8月、ラトヴィア兵団は、Riga の防衛者として自認するようになった。
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 (16) ボルシェヴィキはラトヴィア兵団をロシア軍の他の兵団とは区別して扱い、損傷を与えないままにし、重要な治安活動を彼らに委ねた。
 ラトヴィア兵団は次第に、フランスの外国人軍団とナツィスのSSの結合体のようなものになっていった。外国の敵からと同様に内部の敵からも体制を守る、一部は軍隊で一部は保安警察のような軍団だ。
 レーニンは彼らを、ロシア人部隊以上に信頼した。
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 (17) 労働者と農民の赤軍を創設しようとする初期の計画は、無に帰した。
 入隊した者の目的は主に報酬と略奪する機会の獲得だった。前者はすみやかに月給50ルーブルから150ルーブルに上がった。
 軍の大半は、除隊されたごろつき兵士たちだった。トロツキーはのちに彼らを「フーリガンたち」と呼び、ソヴィエトの布令は「非組織者、悶着者、利己主義者」と称することになる(注15)。
 今日の新聞は、初期の赤軍兵団が実行した暴力的な「収奪」の物語で溢れている。空腹で支払いが悪かった者たちは、制服や軍備品を売り、ときには相互で闘った。
 1918年5月、Smolensk を占領した彼らは、「ユダヤを叩き出せ、ロシアを救え」というスローガンのもとで、ソヴェトの諸機関からユダヤ人を追放することを要求した(注16)。
 状況はかなり悪く、ソヴィエト当局はたまにはドイツの軍団に対して、言うことを聞かない赤軍兵団に介入することを要請しなければならなかった(注17)。
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 (18) 事態はこのように進むことはできず、レーニンはやむなく、かつての将軍幕僚やフランス軍事使節団に迫られていた職業的軍隊の構想を受け入れた。
 1918年の2月と3月初旬に党内で、労働者で構成されて民主主義的構造をもつ「純粋な」革命軍の主張者と、より伝統的な軍隊の支持者の間で、討論が行なわれた。
 討議では、労働者による工業支配の主張者と職業的経営の主張者の間で同時期に起きていたのと同じ対立があった。
 どちらの場合も、効率性の考慮が革命的ドグマに打ち勝った。
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 (19) 1918年3月9日、人民委員会議(Sovnarkom)は、ある委員会を任命した。その任務は、「社会主義的軍隊(militia)と労働者・農民の普遍的な軍事化の理念にもとづく、軍の再組織と強力な軍隊の創設のための軍事センターを樹立するプラン」を一週間以内に提示すること、だった(注18)。
 職業的軍隊に対する反対派を率いていたKrylenko は、戦争人民委員を辞し、司法人民委員部を所管した。
 彼に替わったトロツキーには、軍事の経験がなかった。ほとんど全てのボルシェヴィキ指導者と同じく、草案を考えるのを避けて以来ずっとだった。
 トロツキーが任命されたのは、敵に寝返ったり政治に干渉したりすることでボルシェヴィキ独裁に対する脅威を与えない、そのような効率的で戦闘準備のある軍隊を創設するために必要な、外国または国内についての職業的助力を獲得するためだった。
 政府は同時に、トロツキーを議長とする、最高軍事会議(Vysshyi Voennyi)を設立した。
 この会議は、将校(戦争人民委員部と海軍)とかつての皇帝軍の軍事専門家で構成された(注19)。
 ボルシェヴィキは、軍隊の完全な政治的信頼性を確保するために、軍事司令官たちを監督する「人民委員」の仕組みを採用した(注20)。
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 第二節、終わり。

 

2787/R.パイプス1990年著—第14章③。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 第14章の試約のつづき。
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 第14章第二節/赤軍創設と連合国との会話①。
 (01)  1918年3月23日、ドイツ軍は、長く待った西部戦線への攻撃を開始した。
 ロシアとの休戦以降、Ludendorff は、50万人の兵士を東部から西部へと移動させた。勝利すべく、二倍の数の生命を犠牲にするつもりだった。
 ドイツ軍は、事前の大砲の連弾なくしての攻撃、特殊な訓練を受けた「電撃部隊」の重大な戦闘への投入といった、多様な戦術上の刷新を採用した。 
 ドイツ軍は、攻撃の主力部隊をイギリス部門に集中し、それは強い圧力を受けた。
 連合国司令部内の悲観論者、とくにJohn J. Pershing は、前線は攻撃に耐えられないのではないかと怖れた。
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 (02) ドイツの攻勢は、ボルシェヴィキもまた困惑させた。
 公式の言明としては両方の「帝国主義陣営」を非難し、交戦の即時停止を要求したが、ボルシェヴィキは実際には、戦争の継続を望んでいた。
 諸大国が相互の戦闘に忙殺されているあいだは、獲得したものを堅固にすることができ、将来に予期される帝国主義十字軍を迎え打ち、さらには国内の反対勢力を粉砕するのに必要な軍事力を高めることができた。
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 (03) ボルシェヴィキは、中央諸国との講和条約の締結後ですら、連合諸国との良好な関係を維持しようとした。なぜなら、つぎのことに確信がなかったからだ。ドイツ人がボルシェヴィキを権力から排除しようとロシアへと進軍する、そのようなことを惹起する「好戦的政党」は決してベルリンを支配し続けることはない、ということの確信。
 ドイツ軍による三月のウクライナとクリミアの占領は、このような懸念を増幅させた。
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 (04) 既述のように、トロツキーは、連合諸国に経済的援助を要請した。
 1918年3月半ば、ボルシェヴィキは、赤軍の設立と、可能ならば潜在的にあり得るドイツによる侵略に対抗する介入への助力、を呼びかける緊急の訴えを発した。
 レーニンは、ソヴィエト・ロシア関係に集中しつつ、新たに任命した戦争人民委員のトロツキーに、連合諸国と交渉する任を与えた。
 もちろん、トロツキーが初めて主張した全ては、ボルシェヴィキ中央委員会によって裁可されていたものだった。
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 (05) ボルシェヴィキは3月初めに、軍隊の設置に真剣に取り組むことを決定した。
 だが彼らは、ロシアの多くの社会主義者と同様に、職業的軍隊は反革命をはぐくむ基盤になると見ていた。
 <アンシャン・レジーム>〔旧帝制〕の将校たちを幕僚とする常備軍は、自己破壊を誘引することを意味した。
 ボルシェヴィキが好んだのは<武装した国民>であり、国民軍(people’s militia)だった。
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 (06) ボルシェヴィキは、権力掌握後も、旧軍隊が残したものを解体し続けた。将校たちからは、彼らが保持した僅かなものも、剥奪した。
 ボルシェヴィキが元々指令していたのは、将校たちは選挙されるべきであり、軍隊の階層は廃止されるべきであり、兵士ソヴェトに司令者の任命権が与えられるべきだ、ということだった(注4)。
 ボルシェヴィキ煽動家の誘導によって、兵士や海兵たちは、多数の将校にリンチを加えた。黒海艦隊では、このリンチは、大規模な虐殺へと発展した。
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 (07) レーニンとその副官たちは同時に、彼ら自身の軍隊を創設することに関心を向けた。
 レーニンのもとでの初代の戦争人民委員に、彼は、32歳の法律家のN. V. Krylenko を選任した。この人物は、予備役の中尉として帝制軍に奉仕していた。
 1917年11月に、Krylenko はMogilev の軍司令部へ行った。最高司令官のN.N. Dukhonin を交替させるためだった。Dukhonin はドイツ軍との交渉を拒んでいた者で、Krylenko の兵団によって荒々しく殺害された。
 Krylenko は、新しい最高司令官に、レーニンの秘書の兄である、M. D. Bunch-Bruevich を任命した。
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 (08) 職業的将校たちは実際には、知識人たちよりももっと、ボルシェヴィキに協力するつもりである、ということが分かった。
 厳格な非政治主義と権力者への服従という伝統のもとで育ったので、彼らのほとんどは、新政府の命令を忠実に履行した(注5)。
 ソヴィエト当局は彼らの氏名を明らかにするのに気乗りでなかったけれども、ボルシェヴィキの権威をすみやかに承認した者たちの中には、帝制軍の将軍の高級将校だった、以下のような人々もいた。A. A. Svechin、V. N. Egorev、S. I. Odintsov、A. A. Samoilo、P. P. Sytin、D. P. Parskii、A. E. Gutov、A. A. Neznamov、A. A. Baltiiskii、P. P. Lebedev、A. M. Zainonchkovskii、S. S. Kamenv(注6)。
 のちに、二人の帝制時代の戦争大臣、Aleksis Polivanov とDmitri Shuvaev も、赤軍の制服を着た。
 1917年11月の末、レーニンの軍事補佐のN. I. Podvoiskii は、旧帝制軍の一員たちは新しい軍隊の中核として役立つのかどうかに関して、将軍たちの意見を求めた。
 将軍たちは、旧軍隊の健全な軍団は用いることができる、軍は伝統的な強さである130万人まで減らすことができる、と回答し、推奨した。
 ボルシェヴィキはこの提案を拒否した。新しい、革命的軍隊を作りたかったからだ。それは、1971年にフランスで編成された革命軍—すなわち<levee en masse>—を範としたものだったが、これには農民はおらず完全に都市居住民で構成されていた(注7)。
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 (09) しかしながら、事態の進行は待ってくれなかった。前線は崩壊しつつあり、今ではそれが、レーニンの前線だった。—こう好んで言ったように。「十月のあとで、ボルシェヴィキは『防衛主義者』になった」。
 新しいボルシェヴィキ軍を創設することになるよう、30万人から成る軍隊の設立が話題になった(注8)。
 レーニンは、この軍隊が集結し、一ヶ月半以内に、予期されるドイツ軍の襲撃に対応するよう戦闘準備を整えることを、要求した。
 この命令は、1月16日のいわゆる諸権利の宣言(-of Rights)で再確認された。この宣言は、「労働者大衆がもつ力の全てを確保し、搾取者の復活を阻止するために」(注9)赤軍を創設することを規定していた。
 労働者と農民の新しい赤軍(Raboche-Krest’ianskaia Krasnaia Armiia)は全員が義勇兵で、「証明済みの革命家」で構成される、と想定されていた。各兵士には一ヶ月に50ルーブルが支払われるとされ、全兵士に仲間たちの忠誠さについて個人的に責任を持たせるための「相互保証」によって拘束されるとされた。
 こう予定された軍隊を指揮するために、人民委員会議(Sovnarkom)は1918年2月3日に、Krylenko とPodvoiskii を議長とする、赤軍の全ロシア会合(Collegium)を設立した(注10)。
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2784/R.パイプス1990年著—第14章②。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 〈第14章・革命の国際化〉の試訳のつづき。
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 第14章第一節②。
 (06) 西側はボルシェヴィズムに大きな関心をもたなかったとしても、ボルシェヴィキには西側に重大な関心があった。
 ロシア革命は、その元の国に限定されたままでは存続しなかっただろう。ボルシェヴィキが権力を奪取した瞬間から、それは国際的な意味をもった。
 ロシアの地政学的位置だけによっても、ロシアが世界大戦から離れることは許されなかった。
 ロシアの多くは、ドイツの占領下にあった。
 やがて、イギリス、フランス、日本、アメリカが形だけの派遣部隊をロシアに上陸させた。東の前線を再活性化させようとの試みは失敗した。
 依然としてもっと重要だったのは、革命はロシアに限られるべきでなく、限られることもあり得ない、革命が西側の産業国家に拡大しなければロシアは破滅する、という確信が、ボルシェヴィキにあったことだ。
 ボルシェヴィキがペテログラードを支配したまさにその最初の日に、講和布令は発せられた。それは、外国の労働者たちに対して、ソヴェト政府が「労働者、被搾取大衆を全ての隷従と搾取から解放する任務を首尾よく成し遂げる」(注2)よう決起し、助けることを強く呼びかけるものだった。
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 (07) これは、新しい言葉遣いで覆われていたけれども、既存の全ての政府に対する、そして主権国家の内政問題への全ての干渉に対する、戦争の宣言だった。内政干渉は当時およびのちに頻繁に繰り返されることになる。
 そのような意図があることを、レーニンは否定しなかった。
 「全ての諸国の帝国主義的強奪に対して、我々は挑戦状を突きつけた」。
 外国での内戦を促進しようとするボルシェヴィキの企ての全て—文書アピール、助成金や援助金の提供、軍事的協力—は、ロシア革命を国際化させた。
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 (08) こうして外国の政府が彼らの国民に反乱や内戦を刺激することは、「帝国主義的略奪者」に対して、同じように報復する全ての権利を与えた。
 しかしながら、すでに述べた理由で、実際には、諸大国はこの権利を行使しなかった。いずれの西側政府も、大戦中もその後も、共産主義体制を打倒するようロシア国民に対して訴えることをしなかった。
 ボルシェヴィズムの最初の年でのこのような限定的な干渉しかしなかった動機は、もっぱら、彼らの個別的な軍事的利益のためにロシアを役立たせることにあった。
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 第一節、終わり。

2781/R.パイプス1990年著—第14章①。

 Richard Pipes には、ロシア革命期(とりあえず1917-1921)を含む、つぎの二つの大著がある。
 A/Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
   **「1899 -1919」が付くのは1997年版以降。
 B/Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime 1919-1924 (1993).
 上のA は、つぎのような構成だ(再掲。頁は追加)。
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 序説。
 第一部・旧体制の苦悶。 p.1〜p.337.
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。 p.341〜.
  第9章/レーニンとボルシェヴィズムの起源。 p.341〜.
  第10章/ボルシェヴィキによる権力の追求。 p.385〜.
  第11章/十月のクー。 p.439〜.
  第12章/一党国家の形成。 p.507〜.
  第13章/ブレスト=リトフスク。 p.567〜.
  第14章/革命の国際化。 p.606〜.
  第15章/「戦時共産主義」。 p.671〜.
  第16章/村落に対する戦争。 p.714〜.
  第17章/皇帝家族の殺害。 p.745〜.
  第18章/赤色テロル。 p.789〜p.840.
 あとがき。 〜p.842.
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 もともと第一部をしっかり読む気はなかった。第二部・第9章からこの欄への試訳の掲載を始めた(2017年)。だが、巻末まで終わっておらず、掲載済みは第9章〜第13章だ。これは、第二部の5割余、全体の3割余にとどまる。
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 Richard Pipes(リチャード・パイプス、1923〜2018)とLeszek Kolakowski(L・コワコフスキ、1927〜2009)のいくつかの書物は、2017年以降現在までの私の、大部分でも半分でもないが、重要な一部だった。2017年以降も生きていたからこそ、二人の書物にめぐり合うことができ、それまでの発想・思考方法自体をある程度は大きく変えることになった。生き物としての人間(の個体)の必然とはいえ、「知識」以上の多くのことを教えられたので、比較的近年に逝去し、今は現存していないことを意識すると、涙が滲む思いがある。
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 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990)の第14章の「試訳」を始める。
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 第14章/革命の国際化。
 休戦を達成することは、全世界を征服することだ。
 —レーニン、1917年9月。
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 第一節/ロシア革命への西側の関心の少なさ①。
 (01) ロシア革命は、やがてフランス革命以上に、世界史に大きな影響を与ることになる。だが最初は、フランス革命ほど注目を浴びなかった。
 これは二つの要因でもって説明することができる。フランス革命がより有名だったこと、二つの事件が異なる時期に起きたこと。
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 (02) 18世紀後半、フランスは、政治的かつ文化的に、ヨーロッパの指導的大国だった。ブルボン王朝は大陸の第一の王朝で、君主制絶対主義を具現化していた。また、フランス語は、文化的社会の言語だった。
 諸大国は最初は、フランスを揺さぶった革命の態様に喜んだ。しかしすぐに、彼ら自体の安定に対しても脅威であることに気づいた。
 国王の逮捕、1879年9月の大虐殺、専制王を打倒するとのジロンド(the Girondins)の諸外国への訴えからして、フランス革命はたんなる政権の変化ではないということに、全く疑いはなかった。
 一巡りの戦争がほとんど四半世紀のあいだ続き、ブルボン朝の復活によって終わった。
 牢獄に収監中のフランス国王へのヨーロッパの君主たちの関心は、彼らの権威の源が正統性原理にあり、かつ国民主権のためにこの原理がいったん廃棄されれば彼らの安全も保障されないとすれば、理解することが可能だ。
 なるほどアメリカの植民地は早くに民主制を宣言していたが、アメリカ合衆国は海外の領域にあり、指導的な大陸国家ではなかった。
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 (03) ロシアはヨーロッパの外縁にあり、半分はアジアだった。そして、圧倒的に農業国家だった。したがって、ヨーロッパは、ロシア国内の進展が自分自身に関係があるとは考えていなかった。
 1917年の騒乱は、既成の秩序に対する脅威ではなく、ロシアが遅れて近代に入ることを表明するものと、一般に解釈された。
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 (04) こうした無関心が大きくなると、つぎのようなことになる。すなわち、歴史上最大で最も破壊的な戦争の真っ只中で起きたロシア革命は、正当に評価すべき事件ではなく、その戦争の一つのエピソードにすぎないという印象を、当時の人々に与えた。
 ロシア革命が西側に生じさせたこの程度の興奮は、ほとんどもっぱら、軍事作戦への潜在的な影響と関係していた。
 連合諸国と中央諸国はいずれも、二月革命を歓迎した。但し、異なる理由で。
 前者は、人気のない帝制の崩壊はロシアの戦争遂行を再活性化するだろう、と期待した。
 後者は、ロシアを戦争から退出させるだろう、と期待した。
 もちろん、十月のクーは、ドイツでは熱狂的に歓迎された。
 連合諸国の中には入り混じった受け取り方があったけれども、確実なのは、警報は発せられなかったことだ。
 レーニンと彼の党は知られておらず、その夢想家的な計画や宣言は、誰も真面目に受け取らなかった。
 とくにブレスト=リトフスク条約後の主な見方は、ボルシェヴィキはドイツが作ったもので、戦闘が終了すれば舞台から消え去るだろう、というものだった。
 ヨーロッパ諸国の政府は例外なく、ボルシェヴィキの潜在的可能性とそれがもつヨーロッパの秩序に対する脅威を、いずれも極端に過小評価した。
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 (05) このような理由で、第一次大戦の最後の年でも、そのあとに続く休戦に際しても、ロシアからボルシェヴィキを排除する企ては、何ら試みられなかった。
 諸大国は1918年11月まで相互間での戦闘に忙殺されたので、遠く離れたロシアでの進展を気にかけることができなかった。
 ボルシェヴィキは西側文明に対する致命的な脅威だとの声は、あちこちで少しは聞かれた。この声はドイツ軍でとくに大きかった。ドイツ軍は、ボルシェヴィキによる政治的虚偽宣伝や煽動と最も直接に接する経験を有していたからだ。
 しかし、そのドイツですら結局は、直接的な利益を考慮することを、あり得る長期的な脅威への関心よりも優先した。
 レーニンは、交戦諸国は講和締結後に力を合わせて、レーニンの体制に対抗する国際的十字軍を立ち上げるだろう、と絶対的に確信していた。
 彼の恐怖は、根拠がなかった。
 イギリス軍だけが積極的に、反ボルシェヴィキ勢力の側に立って干渉した。但し、熱意半分のことで、ある一人の人物、Winston Churchill の先導によってそうしたのだった。
 その干渉は真剣には行なわれなかった。西側が用意できる軍事力は干渉が必要とする軍事力よりも強く、また、1920年代の初めにヨーロッパの大国は共産主義ロシアと講和し〔、国家承認し〕たからだ。
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 第一節②へとつづく。

2779/O.ファイジズ・レーニンの革命⑥。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991—A History(2014)。第四章の試訳のつづき。
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 第六節。
 (01) ボルシェヴィキの初期の布令の中で、10月26日のソヴェト大会で採択された講和に関するものほど、感情に訴える力をもったものはない。
 レーニンが、その布令を読み上げた。その布令は無併合、無賠償という古いソヴェトの定式にもとづいて「公正で民主的な講和」を訴える、爆弾のごとき「全ての交戦諸国の国民への宣言」だった。
 布令の趣旨が明らかになったとき、Smolny のホールには、圧倒的な感動の波が生じた。
 John Reed は<Ten Days That Shook the World>の中で、こう思い出した。「我々は立ち上がっていて、一緒に口ずさんで、滑らかに上昇してくる the Internationale の斉唱に加わった。…『戦争が終わった』と私の近くにいた若い労働者が言った。彼の顔は輝いていた。」(注15)
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 (02) しかし、戦争は少しも終わらなかった。
 講和に関する布令は希望の表現であって、現実の言明ではなかった。
 ボルシェヴィキはそれを、西側での革命の炎を煽るために使った。
 それはボルシェヴィキにある、戦争を終わらせる唯一の手段だった。—いやむしろ、レーニンが示唆したように、戦争を一続きの内戦へと転化する唯一の手段だった。その内戦で、世界の労働者はそれぞれの交戦政府に対抗して団結するだろう。
 世界社会主義革命が差し迫っているとの信念は、ボルシェヴィキの思考の中核にあった。
 マルクス主義者としてのボルシェヴィキには、ロシアのような後進的農民国家で先進的産業社会のプロレタリアートの支持なくして革命が長く持続するとは、考え難いことだった。
 権力掌握は、ヨーロッパ革命の勃発が接近しているという想定のもとで実行された。
 西側からのストライキや暴動の報告は、世界革命が「始まっている」ことの兆候として歓迎された。
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 (03) しかし、この革命が起きることがなければ、いったいどうなるのか?
 そうなれば、ボルシェヴィキは軍隊がないこと(数百万の兵士たちは講和に関する布令は解隊する理由になると理解した)に気づき、ドイツによる侵略に防衛力なくして立ち向かうことになるだろう。
 ブハーリンのような、党の左派に属する者たちにとっては、帝国主義ドイツとの分離講和は、国際的信条に対する裏切りになる。
 彼らは、侵略者ドイツに対する「革命戦争」(ひょっとすれば赤衛隊による)を行なうという考え方に賛成した。それは西側での革命を刺激するだろう、とも論じた。
 これと対照的に、レーニンは、そのような戦争を持続する可能性についてますます懐疑的になった。
 軍隊が存在しないことに直面すれば、ボルシェヴィキには分離講和を締結するしか選択の余地はなかった。そうすれば、ボルシェヴィキに必要な、権力の基盤を固める「息つぎ」の時間が与えられるだろう。
 加えて、東側との分離講和によって中央諸国は西側の前線での戦闘を長引かせることになるので、ロシアのこの政策は、革命の可能性を高めそうだった。
 レーニンは、ヨーロッパでの戦争を終わらせたくはなかった。革命の可能性が大きくなるかぎりで、戦争ができるだけ長く続いてほしかった。
 ボルシェヴィキは、戦争を革命目的のために利用する達人だった。
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 (04) 1917年11月16日、ソヴィエト代表団がドイツ軍との休戦を交渉すべく、ベラルーシの都市、ブレスト=リトフスクへ出発した。
 12月半ば、トロツキーが派遣された。講和関係文書への署名が行なわれる前に西側で革命が始まるという望みをもって、講和交渉を長引かせるためだった。
 ドイツの我慢は、まもなく切れた。
 ドイツはウクライナとの交渉を始めた。ウクライナにはロシアからの独立を達成するためにドイツと保護関係になることを受け容れる用意があった。そして、この脅威を、ロシアがドイツの頑強な要求(ポーランドのロシアからの分離、Lithuania とほとんどのLatvia のドイツによる併合等々)を受諾するための圧力として用いた。
 トロツキーは延期を求め、自分以外のボルシェヴィキ指導者たちと協議するためにペテログラードに戻った。
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 (05) 1918年1月11日の中央委員会での決定的会合では、最大多数派は、ブハーリンの革命戦争の主張を支持した。
 トロツキーは、もっと話し合おうと提案した。
 しかし、レーニンは、分離講和以外の選択の余地はない、それは早ければ早いほどよい、と執拗に主張した。
 彼は、ドイツ革命が勃発する可能性に賭けて革命の全体を遅らせることはできない、と論じた。
 「ドイツはまだ革命を身ごもっているだけだ。我々はすでに、完全に健康な子どもを産んでいる」(注16)。
 --------
 (06) ジノヴィエフと、影のごとき存在のスターリン(Sukhanov によるとこの頃は「ぼんやりした灰色」だった)を含む中央委員会内の他の4人だけの支持しかなかったので、レーニンは、ブハーリンに反対して多数派となるために、トロツキーと同盟することを強いられた。
 トロツキーは、交渉を引き延ばすためにブレスト=リトフスクへと送り返された。
 しかし、2月9日、ドイツはウクライナとの条約に署名し、1週間後に、ロシアとの戦闘を再開した。
 5日経たない間に、ドイツ軍はペテログラードに向かって150マイル前進した。—それまでの3年間にドイツ軍が前進したのと同じ距離。
 --------
 (07) レーニンは、激しく怒っていた。
 ドイツとの条約への署名を拒んだ中央委員会内の反対派ができたのは、敵が前進するのを可能にしたことだった。
 レーニンは、中央委員会での熱気ある議論の末に、2月18日に自分の意見を通過させた。
 ドイツの諸条件を受諾するとの電報が、ベルリンに発せられた。
 しかしながら、ドイツ軍は数日のあいだ、ペテログラードに向かって進み続けた。
 ドイツの航空機がペテログラードに爆弾を落とした。
 ドイツ軍は首都を占領し、ボルシェヴィキを排除することを計画していると、レーニンは確信した。
 レーニンは従前の立場を変え、革命戦争を呼びかけた。
 連合国からは、軍事的な助力が求められた。連合国はロシアを戦争にとどまり続けさせることに関心があり、そのことは、政府の性格によるとか、提供された助力を理由として、という以上のものだった。
 ボルシェヴィキは、首都をペテログラードからモスクワへと避難させ始めた。
 ペテログラードではパニックが起きた。
 -------
 (08) 2月23日、ドイツは講和のための最終文書を提示した。
 このときドイツは、その日まで5日間以内にドイツ軍が掌握していた全ての領土を要求した。
 レーニンは中央委員会で、苛酷な講和条件を受諾する以外に選択肢はない、と強く主張した。
 こう論じた。「もしもそれらに署名をしなければ、数週のうちにソヴェト権力に対する死刑判決に署名することになるだろう」(注17)。
 ドイツの提案を受諾することが決められた。
 ブハーリン派は、抗議して中央委員会から離脱した。
 --------
 (09) 講和条約は、最終的に3月3日に調印された。
 ボルシェヴィキの指導者の誰も、ブレスト=リトフスクに行かなかった。そして、国じゅうで「汚辱の講和」と見なされた条約に彼らの名前を残すことをしなかった。
 左翼エスエルは、抗議してソヴェト政府から離脱した。そしてボルシェヴィキには、自分たち自身だけの権力が残された。
 --------
 (10) ブレスト=リトフスク条約のもとで、ロシアはヨーロッパ大陸上のほとんど全ての領土を放棄することが義務づけられた。
 ポーランド、フィンランド、エストニア、リトゥアニアは、ドイツの保護のもとでの一種の独立を達成した。
 ソヴェト軍団は、ウクライナから退避した。
 最終の計算では、ソヴェト共和国は人口(5500万人)の34パーセント、農業地の32パーセント、工業企業の54パーセント、炭鉱の89パーセント(泥炭と木材は最大の燃料源になっていた)を喪失した。
 ヨーロッパの大国であったロシアは、17世紀のモスクワ公国と同じ程度の地位へと小さくなった。
 だが、レーニンの革命は、救われた。
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 第四章第六節、終わり。第四章全体も終わり。

2775/O.ファイジズ・レーニンの革命③。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991—A History(2014)。第四章の試訳のつづき。
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 第三節。
 (01) ボルシェヴィキ指導者たちのほとんどが実際のような方法と時期で蜂起するのを望んでいなかった、というのは、ボルシェヴィキ蜂起に関する皮肉の一つだ。
 10月24日の夕方遅くまで、中央委員会の多数派と軍事革命委員会は、全国ソヴェト大会の開会の前に臨時政府の打倒があることを予期していなかった。その臨時政府打倒は、24日の翌日に、Smolny 研究所—かつては貴族の娘たちの学校だったことのある黄土色の古典的な宮殿—の白い柱廊のある舞踏会場で行なわれたのだったが。ここで打倒とは、ほぼ臨時政府の大臣たち(ケレンスキーを含まない)の逮捕(身柄拘束)を意味した。
 武装したボルシェヴィキの支持者たちは、首都ペテログラードを反革命の攻撃から防衛するためだけに、街路を占拠していた。
 --------
 (02) レーニンの介入が、決定的だった。
 付け髭と頭に包帯を巻いた帽子で変装してペテログラードの隠れ場所を出発し、Smolny 研究所のかつての一教室(36番)にあるボルシェヴィキの司令部へと向かった。蜂起の開始を強要するために。
 市街を横断する途中のTaurida 宮の近くで、彼は政府の警護官の検問を受けて停止させられた。だが、その警護官たちはレーニンをホームレスの酔っ払いだと勘違いし、レーニンを通過させた。そのときにレーニンが逮捕されていたら、その後の歴史はどう変わっていただろう?
 --------
 (03) レーニンはSmolny に到着し、蜂起の開始を命令することを中央委員会に強制した。
 ペテログラードの地図が持ち出され、ボルシェヴィキ指導者たちはそれを見てじっくり研究していた。そして、攻撃をする主要なラインを引き終わっていた。
 レーニンが、ソヴェト大会に提示されるべきボルシェヴィキ政府の閣僚名簿を作ることを提案した。
 それを何と称するかという問題が生じた。
 「臨時政府」という名称は評判を落としていた。閣僚を「大臣(ministers)」と呼ぶのはブルジョア的だと思われた。
 フランスのジャコバン派に倣って「人民委員(people’s commissars)」という名を思いついたのは、トロツキーだった。
 全員がこの提案に賛成した。
 レーニンは言った。「うん、それはいい。革命の香りがする。そして、政府〔=内閣〕そのものを『人民委員会議』(the council of -)と称することができる」(注6)。
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 (04) 1917年10月25日の事件ほど、神話によって歪曲されてきた歴史的出来事は、他にほとんどない。
 ボルシェヴィキの蜂起は民衆の英雄的闘争だとする一般に共通する感覚は、歴史的事実というよりむしろ、<十月>—1927年に制作されたSergei Eisenstein の政治的宣伝映画—の影響を受けている。
 ソヴィエト同盟ではのちに称されるようになった偉大なる十月社会主義革命(The Great October Socialist -)は、実際にはクーにすぎなかった。ペテログラード市民の大多数には全く気づかれないままで推移したクーだった。
 劇場、レストラン、路面電車は、ボルシェヴィキが権力奪取に至っているあいだ、全くふつうに機能していた。
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 (05) 冬宮のMalachite ホールにはケレンスキー内閣の大臣たちが籠もっていたのだが〔ケレンスキーを含まない〕、そこへの伝説的な「突入」は、大臣たちの自宅軟禁のごときものだった。
 「突入」を指揮したのは、ボルシェヴィキのVladimir Antonov-Ovseenko だった。それは、Eisenstein の映画製作者たちが描くほどの損傷を与えなかった。
 冬宮の大臣たちを防衛する部隊のほとんどは、突撃が始まる前にすでに、腹を空かせ、意気消沈して、家路についていた。
 蜂起に積極的に参加した者の数は、大きくはなかった(多数を必要としなかった)。—たぶん、冬宮広場にいた1万人から1万5000人の間の数の労働者、兵士および海兵だ。
 しかも、それらの全員が「突入」に加わったのではなかった。しかし、多くの者はのちには、突撃に加わったと言い張った。
 冬宮が掌握されると、多数の民衆たちが関与するようになり、主としては、宮殿およびそのワイン貯蔵庫から略奪した。
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 (06) 冬宮が掌握されたことは、タバコの煙で充ちたSmolny 研究所の大ホールで行なわれていたソヴェト全国大会で発表された。
 670人の代議員たち—ほとんどがガウンやコートをまとった労働者と兵士たち—は、メンシェヴィキのMartov の提案を満場一致で可決した。その決議は、ソヴェトの全政党に基盤をおく社会主義政府を樹立しよう、というものだった。
 その直後に権力の奪取が発表されたとき、メンシェヴィキとエスエルの代議員たちのほとんどは、自分たちは「犯罪的冒険」に何の関係もないとの声明を出し、抗議してソヴェト大会から退出した。
 おそらくは会場の半分を占めていたボルシェヴィキの代議員は、口笛を吹き、床を踏み鳴らし、彼らを嘲笑する言葉を投げつけた。
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 (07) レーニンが計画した挑発的行為—先制のクー—は、成功した。
 過ちを認めた最初のメンシェヴィキの一人であるNikolai Sukhanov の言葉によれば、メンシェヴィキとエスエルは大会から退出することによって、「ソヴェトを、民衆を、そして革命を独占することをボルシェヴィキに許した」。「我々自身の非理性的な行動によって、レーニンの全ての『ほら』の勝利を保障した」(注7)。
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 (08) 直接の効果として、メンシェヴィキおよびエスエルが分離した。
 これを主導したのは、トロツキーだった。
 トロツキーは、「我々を残して去った惨めな集団」との連立を求めるMartov 提案の決議を非難して、大ホールに残っていたメンシェヴィキとエスエルの代議員に対して、つぎの記憶に残る言葉を発した。
 「きみたちは破産者だ。役割はもう終わった。行くべき所へ行け—歴史のゴミ箱へ!」。
 残りの生涯を通じて苦悶することになるのだが、Martov は、激しい怒りを瞬間に感じて、叫んだ。「では、出て行こう!」。そして、ホールから出て行った(注8)。
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 (09) 午前2時すぎだった。残っていたのは、ソヴェト権力を破壊しようとするメンシェヴィキとエスエルの「裏切り」的企てを非難する決議を、トロツキーが提案することだった。
 おそらくは行なっていることの重要性を理解していなかった一般代議員たちは、この提案を支持して手を高く上げた。
 彼らの行為は結果として、ボルシェヴィキ独裁に対して、それを肯定するソヴェトのスタンプを与えた。
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 第四章第三節、終わり。

2774/O.ファイジズ・レーニンの革命②。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991—A History(2014)。第四章の試訳のつづき。
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 第二節。
 (01) コルニロフ事件によって、レーニンは決意を固めた。臨時政府を打倒するために立ち上がるときがきた。
 しかし、すぐに蜂起をしたのではない。
 レーニンは、権力の問題を解決すると想定された9月14日の民主主義会議(Democratic Conference)の前に、ボルシェヴィキの仲間たちの努力を支持していた。エスエルとメンシェヴィキに対して、リベラル派との連立から離れ、全ての社会主義政党による政府に加わろうと説得する彼らの努力を。
 Kornilov を打倒するに際して左翼諸政党が協力したことは、政治的手段でソヴェト権力を達成できる展望を切り拓いた。
 カーメネフは、これを任務とするボルシェヴィキ活動家だった。
 彼はレーニンとは違って、党はソヴェト運動と二月革命が生んだ民主主義的仕組みの範囲内で権力を求めるべきだ、と考えた。
 したがってまた、ロシアはボルシェヴィキによる蜂起に対応できるには未熟で、段階を一つ上げるいかなる企てもテロル、内戦とボルシェヴィキ党の敗北で終わるのを余儀なくされる、と考えた。
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 (02) レーニンは、だが、民主主義会議でエスエルとメンシェヴィキがカデットと分離できなかったことを知って、武装蜂起をするという元の主張に立ち戻った。
 エスエルとメンシェヴィキは、ケレンスキーの指導の下で、9月24日に、カデットとの連立を組み変えた。このことは、その週に行なわれたペテログラード・ドゥーマ選挙で、彼らの大敗北につながった。
 モスクワでは、エスエルへの票は6月の56パーセントからわずか14パーセントに減った。メンシェヴィキは12パーセントから4パーセントに落ちた。その一方で、ボルシェヴィキは6月に11パーセントだったが、9月には51パーセントを獲得して大勝利した。カデットは、17パーセントから31パーセントへと増やした。
 この結果は国の両極化を明らかに示した。—投票者が際立った階級的主張をもつ両端の政党を支持したので、「内戦選挙」と称された。
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 (03)  レーニンは、フィンランドの新しい隠れ家から、ボルシェヴィキ中央委員会に対して、武装蜂起の開始を呼びかける、ますます苛立った手紙を矢のように送りつけた。
 彼は、ボルシェヴィキは「国家権力を自らの手中に収めることができるし、そうしなければならない」と論じた。
 できる。—党はすでにモスクワとペテログラードのソヴェトで多数派になっている。これでもって、内戦へと「民衆を連れて行く」のに十分であるのだから。
 「しなければならない」。—投票箱を通じて権力を獲得しようと憲法会議を待っていれば、「ケレンスキー商会」が、ペテログラードをドイツに捧げるか軍事独裁を樹立するかのいずれかによって、ソヴェトに対して先制攻撃をするだろうから。
 彼は同志たちに、「暴動は芸術(art)だ」というマルクスの権威ある言明を思い起こさせた。
 そしてこう結論づける。「ボルシェヴィキが『形式的な』多数派になるのを待つのは純朴すぎる。革命はそうなることを待ってくれはしない」(注3)。
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 (04) 中央委員会は、レーニンの指示を無視した。まだカーメネフの議会主義的戦術を支持して、ソヴェトへの権力の移行のために、10月に召集される予定の第二回全ロシア・ソヴェト大会まで待つ、と決議した。
 ペテログラードから120キロ離れた保養地のVyborg へと移って、レーニンは、党組織に対して矢継ぎばやに激しいメッセージを送りつづけた。それらは、ただちに—ソヴェト全国大会の<前に>—武装蜂起を開始することを迫るものだった。
 レーニンは9月29日にこう書いた。「ソヴェト大会を『待つ』ならば、我々は革命を『台無しにする』に違いない」(注4)。
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 (05)  レーニンの性急さは、政治的だった。
 権力の移行が大会での票決によって起きていれば、その結果はほとんど間違いなく、全ての社会主義政党から成る社会主義連立政府だっただろう。
 ボルシェヴィキは、少なくともエスエルとメンシェヴィキの左翼(あるいはひょっとすれば全部)に位置して権力を分有しなければならなかっただろう。
 これはレーニンの党内の最大の好敵であるカーメネフの勝利を意味し、カーメネフはおそらく、どんな社会主義連立政府であっても、ソヴェトの中心人物として登場しただろう。
 大会の前に権力を掌握してこそ、レーニンは政治的主導権を握ることができる。そして、他の社会主義政党に対して、ボルシェヴィキの行動を是認してレーニンの政府に参加することを強いることができるだろう。あるいはそれに反抗すれば、政府はボルシェヴィキだけのものになるだろう。
 レーニンの革命とは、臨時政府に対抗するのと同等に、ソヴェトに基礎をおく他の社会主義政党に対抗して行なわれたものだった。
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 (06) レーニンは我慢できなくなって、ペテログラードに戻り、10月10日に中央委員会の秘密会合を開催した。そこで、10票対2票(カーメネフとジノヴィエフ)という重大な票決でもって、蜂起を準備することを押し付けた。
 その時期は、まだ明瞭でなかった。
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 (07) ボルシェヴィキの指導者たちの多くは、ソヴェト全国大会以前のいかなる行動にも反対だった。
 10月10日の中央委員会会議で、ボルシェヴィキ軍事革命委員会その他の活動家から、つぎの報告がなされた。ペテログラードの兵士と労働者たちは党の呼びかけだけでは出てこないが、「決起を刺激する何かがあれば、積極的に飛び出す、つまり兵団から離脱するだろう」(この離脱はケレンスキーの連隊との絶縁を意味した)(注5)。
 しかし、レーニンは、即時の準備の必要を執拗に主張した。
 これは、ペテログラードの一般市民の慎重な雰囲気を無視してのものだった。レーニンが思い抱く権力奪取の方法であるクー・デタでは、少数精鋭の武力だけが必要だった。十分な武装と紀律があればよかった。
 彼には、Baltic 連隊の中のボルシェヴィキ支持者による、ペテログラードの軍事侵略としてクーを実行する、という用意すらあった。
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 (08) レーニンは聳え立つがごとき影響力を持ったので、彼は10月16日の中央委員会でその主張を貫徹し、ごく近い将来に蜂起するという提案を支持する決議を(19票対2票で)行なわせた。
 カーメネフとジノヴィエフはこの決議を支持することができず、中央委員会から脱退した。そして、10月18日に、彼らは蜂起に反対していることを新聞の記事で公にした。
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 (09) ボルシェヴィキの陰謀は今や公に知られるところとなり、ソヴェトの指導者たちは、第二回全国大会を10月25日まで延期すると決議した。
 彼らが期待したのは、これで生じた5日のあいだに、遠く離れた地方から支援者たちを集める、ということだった。
 しかし実際には、ボルシェヴィキが蜂起を準備するのに必要な時間を与えることになった。
 この延期はまた、ソヴェト大会はそもそも開会されないかもしれないとのボルシェヴィキの主張に信憑性を与え、大会を防衛するという理由でボルシェヴィキ支持者たちが街路上に出てくるのを助けた。
 ケレンスキーが巨大なペテログラード連隊を北部前線に移すという愚かな計画を発表したとき、「反革命」の噂はさらに大きくなった。
 軍事革命委員会(MRC)—〔ペテログラード・ソヴェト内にあって〕ボルシェヴィキの蜂起を先導することになる実力組織—が10月20日に設立されたのは、ペテログラード連隊の移転を阻止するためだった。
 前線への派遣に脅かされて、多数の兵士たちは将校たちに服従するのを拒み、忠誠の対象を軍事革命委員会に切り換えた。軍事革命委員会は10月21日、自分たちが連隊を統率する組織だと宣言した。
 MRC による連隊の奪取は、蜂起の最初の行為だった。
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 第四章第二節、終わり。

2770/M. A. シュタインベルク・ロシア革命⑧。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017)の一部の試訳。
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 第四章—内戦
 第一節④
 (20) 内戦の終了とともにソヴィエトの経済と社会に生じていたのは、より大きな厄災の状況だった。
 歴史家たちは、この原因は長年の戦争と社会的転覆—深い根源をもつ厄災の継続(38)—のうちにより多くあるのか、それとも、ソヴィエトの政策の特有の効果であるのか、を議論している。
 しかし、大厄災たる結果だったことについては一致がある。破滅した経済、都市部の人口減少、大量の国外逃亡という危機、農民の反乱、ストライキ、そして共産主義者の中にすらある公然たる不満。
 1921年までに、工業生産高は戦争前の20パーセントへと落ちた。
 『プロレタリアート独裁』としてソヴェト支配の基盤だと想定されていた労働者たちは、荒廃して飢えた都市から逃亡するか、兵士または行政官になった。そうして、労働者階級の規模は、戦争前の半分以下にまで縮小した。
 マルクス主義者の言うプロレタリアートの『脱階級化』は、革命の厄介で逆説的な効果だった。労働者階級出身で『労働者反対派』の指導者だったAlexander Shliapnikov が1922年の党大会でLenin をこう冷笑したように。
『存在しない階級の前衛となって、おめでとう』(39)。
 農民たちは耕作する土地で、彼ら自身が生きていくのに必要な生産しかしなくなった。
 しかし、彼ら自身の生存すら、干魃が広い地域を飢餓の縁に追い込んだときには、脅かされた。その飢饉は、1921〜22年に、大規模で襲うことになった。
 これの頂点にあるのは、疾患と病気の蔓延だった(ある歴史家の言葉では『近代史における最も過酷な公衆の健康の危機』)。また、数百万の子どもたちにとってを含む住宅欠如、都市部での暴力犯罪、地方での山賊、大量の泥酔者、生き残ろうとする、道徳意識なき民衆による放蕩しての悪態その他の、想像し得る全ての態様等々。
 Lenin が1921年3月の党大会で、ロシアは『打ちのめされて死に際にあった男のように、7年の戦争の中から出現してきた』と語ったとき、彼は強調しすぎてはいない。
 あるいは、若干の歴史家が論じてきたように、ロシアは『トラウマ』の状態で、内戦を終えた(43)。
 --------。
 (21) 民衆の反乱は、損傷を受けた革命およびトラウマとなった革命という感覚を増大させた。
 農民がもう白軍の勝利を怖れなくなったあとでは、ボルシェヴィキは、よりマシな悪魔ではなくなった。
 農民たちは穀物徴発隊を待ち伏せして襲い、国家の権威の代理人たちを攻撃した。
 1920年の遅くに、西部シベリア、中部Volga、Tambov 地方、およびウクライナで、大量の蜂起が勃発した。
 どこにでも見られた主要な要求は、同じだった。すなわち、穀物の強制取得〔徴発〕の廃止、自由取引の復活、そして農民に耕作地と生産物に対する完全な支配権を付与すること。
 このリバタリアンな考えは、農民が革命で自らの手によって獲得したと思ったものだった。
 いくつかの農民集団は、憲法会議の再招集を主張した。
 都市労働者の騒擾はさほどに拡散しなかったが、政治的にはより不安定だった。
 1921年の初め、抗議集会、示威行動、ストライキが散発して起きた。
 労働者たちの要求は主として肉体的生存の問題に関係していて、とくに食糧と衣類を要求した。
 しかし、経済的な欲求不満は、かつてと同様に、政治的不満を惹き起こした。
 労働者たちは、市民権の回復、工場の実力強制的経営の廃止を要求した。憲法会議を呼びかける者もいた。
 1921年3月、ペテログラードに近い島にあるKronstadt 海軍基地で反乱が起きた。
 Kronstadt の海兵たちは1917年の七月事件—Trotsky は当時に『ロシア革命の誇りと栄光』と賞賛した—と十月の権力奪取の際にボルシェヴィキを支援したことで有名だったが、今や、一党支配の終焉、言論とプレスの自由の回復、憲法会議の招集、全権力の自由に選出されたソヴェトへの移行、穀物徴発を含む経済の国家統制の廃止、を要求した。
 『人民委員体制はくたばれ』は、海兵と労働者たちのあいだの一般的なスローガンになった。
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 (22) この危機を複雑にしたのは、共産主義者たちの中にあった不満だった。彼らは、革命の中核的諸原理は生き延びるために犠牲にされた、と感じていた。
 不満をもつ党派は、以前にも発生していた。
 1918年、『左翼共産主義者』は、世界革命に対する裏切りだとして、ブレスト=リトフスク条約に反対した。また、労働者支配の侵奪だとして、工業への厳格な労働紀律の導入を批判した。
 1919年、『軍事反対派』は、新赤軍は伝統的紀律を採用し、帝制下の将校たちを用いるとのTrotsky の構想を非難した。
 しかしながら、内戦が終わると、党の政策に対する内部批判はより公然たる、かつより激烈なものになった。もはや勝利することはなかったけれども。
 『民主主義的中央派』は、党の権威主義的中央集権化や官僚主義化の増大に異論を唱え、諸問題の自由な討議と地方党官僚の選挙を要求した。
 『労働者反対派』は、工業での伝統的紀律、経営への『ブルジョア専門家』の利用、労働組合の国家への従属に反対した(44)。
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 (23) 1921年の春は、転換点だった。
 異論は鎮静化され、粉砕された。
 3月に開かれた第10回党大会は、党内の分派を禁止した。その結果、いかなる組織勢力の周りにも、共産主義者のあいだでの批判が合流することができなくなった。
 しかし、党内部での反対派の抑圧は、農民の蜂起、労働者のストライキ、あるいはKronstadt を粉砕するために使われた暴力に比べれば、温和だった。
 Lenin 、Trotsky その他の党指導者たちは、これを正当化した。おそらくは彼ら自身に対するものであっても。彼らは、自分たちが歴史の正しい側にいると確信していたのだから。
 同時に、こうした妥協は必要であるように見えた。多くの異論に直面したから、というだけではない。経済的には後進国であるロシアが経済的諸問題を解決し、社会主義への途を急速に進むために国際主義的な支援が必要であるところ、そのような支援を提供すると想定された、世界全体の社会主義革命が『遅れ』ていたからだ。
 1921年、『戦時共産主義』の残虐性と英雄主義は、宥和的で穏健な『新経済政策』あるいはNEP の導入によって放棄された。
 多くは、変わらなかった。
 共産党による国家の統制権は無傷で残ったままだった(他政党の公式の禁止によって強化された)。そして、党内紀律も強化された(分派の禁止等々)。
 経済については、『管制高地』の完全な支配権は国家が維持した。銀行、大中の産業、輸送、外国貿易、商業全体。
 しかし、小規模の企業、小売取引は、規制を受けつつも、再び許容された。
 そして、非難された穀物や生産物の徴発に代わって、政府は『現物税』を導入し、これをさらに現金税に変えた。
 Lenin は、NEPが社会主義への途上での『後退』であることを認めた。より急進的な者たちは耐え難いものと考えた。
 しかし、おそらくはLenin を含む多数のボルシェヴィキは、遅れた農業国家にはふさわしい、社会主義への新しい途だとNEPについて考え始めた。
 1920年代に、党内でつぎの二つの議論が激しく行なわれた。一つに、民衆の文化的、経済的レベルを向上させ、社会主義的協同の利益を民衆に理解させる、緩やかな社会主義への移行の主張、二つに、戦時共産主義の英雄的急進主義の復活であっても、より戦闘的な行進の強行の主張。
 この議論はようやく、1920年代末に、Stalin による『大転換』によって決着がついた。複雑さと妥協の中で突き進み、新しい経済、社会、文化へと跳躍しようとする、『上からの革命』。
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 第四章第一節、終わり。

2769/M. A. シュタインベルク・ロシア革命⑦。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
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 第四章—内戦
 第一節③
 (13) これは、敵の抑圧のみに関してではない問題だった。
 内戦のあいだ、政府と党〔ボルシェヴィキ、共産党〕は、全ての生活領域で、とくに経済と社会について、ますます中央集権的で、上意下達の、実力強制的な支配の手法を採った。
 学者たちは、イデオロギー的志向とは対立する状況や必要性がどの程度多く権威主義への傾斜—とくに、Lenin がのちに『戦時共産主義』と称した経済政策—を形成したのかを、議論しつづけている。
 これについて整理して論述するのは、本当にほとんど不可能だ。
 問題をさらに複雑にすることに、またロシアとボルシェヴィズム以外にも十分に適用し得る相互連関を示唆してもいるのだが、この権威主義の多くの側面は、世界大戦中にヨーロッパじゅうで見られた、経済と社会を総動員するための実践を反映し、かつ発展させた。—なかんずく、影響力が大きかった、政治的には保守の側の例である、ドイツの『戦時社会主義』(<Kriegssozialismusu>)(28)。
 『必然性の王国』は、きわめて強く、かつ苛酷になった。
 経済の状態に関する1918年春のある報告は、全部門での『組織解体』、『危機』、『衰退』、『不安定化』、『麻痺』による『崩壊の状況』を記述した(29)。
 衰退した経済を回復させ、その経済を動力として戦闘をし、建設をすることは、最も緊急性が高いの事項になった。
 しかし、これを行なう方法は、状況以上のものだった。—それゆえに、絶望的な必要性という状況のもとで解放された未来を実現しようとする『戦時共産主義』という逆説的な観念も生まれた。
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 (14) 食糧問題、とくに労働者と兵士への供給の問題は、きわめて切迫していた。
 1918年5月、政府は『食糧独裁』を宣告した。これには、全ての穀物取引の国家独占、厳格な価格統制、物不足を利用した投資だと非難される私的『袋持ち男』の規制、農民から穀物その他の農業生産物を徴発するための武装派遣隊の設置が含まれていた。
 食糧独裁は、大量の『余剰』を蓄えているとされた田園『ブルジョアジー』に対する階級闘争だと捉えれば、『革命的』側面をもった。また、社会化された農業へと向かう第一歩と理解することもできた。
 しかし、必要性こそが、それを発動させた主要な駆動力だった。
 農民革命は、市場化できる産物を生産する大規模農地による農業を生んだのではない。大部分はますます、伝統的で小規模の、最低限を充たす農業となった。
 いずれにせよ、農民には、穀物を市場に出す動機がほとんどなかった。市場には買うものがほとんどなく、金銭はますます無価値になっていたからだ。そうして農民たちは、生産物を蓄え込んだ。
 なおまた、食糧独裁は大部分で失敗だった。農民たちがしばしば暴力的に挑発に抵抗し、価格の安さに抗議した、というのみではない。加えて、政府は、経済の分野で民間部門の代わりをすることができるほどに強くはなかった(30)。
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 (15) 工業の分野では、ボルシェヴィキは、市場関係と私有財産を廃止するという歴史的目標に向かって着手した。
 しかし、今や生産の崩壊が行動を要求していた。
 国家経済最高会議〔SCNE〕が、社会主義への移行の長期計画を策定するために、1917年12月に設立された。
 若干の国有化が、内戦の前に行なわれた。だが、ほとんどは国家中央ではなく、地方ソヴェトと工場委員会による作業だった。
 経済危機と内戦の到来によって、私的経済からのより決定的な離反が促進された。
 政府は1918年6月に、大規模工業の全てを国有化した(小工場は1920年)。
 小売業の大部分は、1918年末までに禁止された。『市場のアナーキー』を制御するためだった。
 経済をめぐるこの闘いは、ブルジョアジーの抑圧に限定されはしなかった。
 政府は成人男子全員について強制労働を導入し、厳格な労働紀律を定め、『労働者支配』を独任制の経営に変えた(そして、経営と技術に関する『専門家』の俸給と権限を高めた)。また、工業の動員について労働組合を制約し、ストライキを禁止した。
 イデオロギー的に熱狂した地方の活動家や組織は、資本主義を抑圧する行動について大きな役割を果たした。そして、地方の民衆に大きく訴えることができた。とくに『ブルジョアジー』に『強制寄付』をさせるような行為、労働者住宅にするための家屋やアパートの徴発によって。
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 (16) 同時に、労働者たちの不満は増大していた。
 経済上の苦労や工場紀律の拡大への憤慨によって、メンシェヴィキ、エスエル、そしてアナキストすらの議論にあらためて関心をもつようになった。これらは、民衆の権力である強い地方機関にもとづく複数政党による民主制の回復を呼びかけていた。
 労働者たちはまた、共産党権力は十月革命の精神を喪失するか裏切った、という実体的感覚に応えようとした。
 1918年の早くにペテログラードで、社会主義者の主要な反対諸政党は、工場代議員の特別会議〔Extraordinary Assembly of Factory Delegates〕と称される、一種の反ソヴェトを設立した
 この会議は、経済的諸問題の発生は、ボルシェヴィキ国家の官僚層が原因であるというよりも、民主主義的に労働者の行動を機能させることに、労働組合、工場委員会 、地方ソヴェトが失敗したことが原因だ、と論じた。
 対照的に、ボルシェヴィキ指導部は、国家は労働者国家であるがゆえに、労働者は生産手段をもち、ゆえに、搾取される、ということはあり得ない、と議論した。
 政府が1918年5月に工場労働者へのパンの配給を増やしたとき、上記の代議員会議は労働者たちに対して、ストライキをするよう呼びかけた。その際に政府と党(ボルシェヴィキ)を、労働者を『買収』し、労働者を『民衆の別の層』と分断しようととしていると非難した。また、『人民の権力の復活』だけが飢えの問題を解決するだろうと論じた。
 これに反応した政府は、ストライキを抑圧し、この運動の指導者たちを逮捕した(31)。
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 (17) 政治的関係も、同じく、戦時危機とイデオロギー的な愛着の混合によって形成された。
 党の政治手法としてますます顕著になっていたのは、中央集権化、階層性、指令と布令による支配、異論に対する抑圧と制裁、社会全般の監視の拡大、だった。
 これらは、社会主義革命を起こすための、かつてのボルシェヴィキにあった、前衛党モデルの遺産でもあった。
 しかし、多くのボルシェヴィキが主張しただろうように、異なってもいた。とくに、政治的社会的システムの転覆ではなく、それの建設のために用いられたのだから。
 地方のソヴェトと委員会は下からの革命の特徴面だったけれども、今や統御されていた。
 工場委員会と労働組合の権限は、独任制経営と厳格な労働紀律が優勢となって、形骸化した。
 低減した工場自治は、『経済の軍事化』政策によって1920年代にさらに少なくなった。この政策に含まれていたのは『労働徴用』で、労働者たちを軍事的紀律と違反への苛烈な制裁に服従させた。
 常習的欠勤、低い生産性、製品の『窃盗』その他の非行は、とくに輸送や軍需のような基幹産業では、『犯罪的』行為、『職場放棄』、『裏切り』と見なされた。
 逮捕、すみやかな審判、労働収容所への追放その他の制裁は、通常のことになった。その際にCheka はますます、基礎的な役割を果たした。
 こうしたことは、望ましい効果を生んだ。すなわち、少なくとも公式の統計によると、1920年代に、生産性が向上した(32)。
 他方では、軍事化されたこの新しい政治的環境のもとで、かつては是認され、称讃された、1917年の逞ましい地方主義と直接民主制は、今や危険な断片化とアナーキーだと考えられた。
 --------
 (18) しかしなお、多くの共産主義者たちは、自分たちは新しい社会、新しい文化、新しい人間を創出するために—必然の王国から自由の王国と跳躍するために—闘っている、と信じていた。
 『戦時共産主義』についてのある初期のロシアの歴史家の言葉では、内戦の年月は『ロシア革命の英雄的時代』だった(33)。
 暴力は、暴力の基盤に対する高潔な闘いであるがごとく見えた。
 経済の崩壊は、資本主義の終焉であるかのごとく見えた。
 実験の時代だった。その多くは、全ての『前線』で社会的、文化的生活様式を変えるものとして、支配党と国家によって称賛された。
 一つの戦場が、家庭であり、性であり、男女関係だった。
 党の特別支部である女性部(Zhenotdel、1919年設立)は、共同台所と共同保育によって家庭生活の不平等な負担から解放された、また、人格において自由で大胆で積極的な『新しい女性』を生み出すために活動した。
 党の青年部であるKomsomol (1918年設立)は、若年層に新しい集団主義的精神を吹き込む活動をした。
 コミューンが国じゅうに組織された。とくに、都市部での学生と労働者の『ハウス・コミューン』、若干の実験的な農業コミューン。
 子どもに家がない(homeless)という恐ろしい問題ですら、理想主義者にとっては、子どもを新しい方法で育てるよい機会だった。ほとんどの両親の遅れていると見える考え方や価値観から自由なやり方で。
 労働者の文化生活を変えようとする『プロレタリ文化』運動は、1917年の末に出現した。その多くを主導したのは、労働者階級の作家、詩人、芸術家、活動家だった。そしてしばしば、『迫害された』人間性を輝く新世界、幸福と自由の楽園で『復活』させる(好まれた表現)という夢想を好む、急進的で新しい『プロレタリア文学』を生み出した。
 芸術家、建築家、作家たち—多くは国家機構、とくに啓蒙人民委員部〔文部科学省〕から支援を受けていた—は、新しい世界を想像した。そして、不可能な建築プランを描くことすらした(34)。
 この歴史的な時代では、想像不可能なことは何一つないように見えた。この時代には、最も残虐な暴力と最も急進的な理想像はいずれも、同じ行路の一部だった。1918年の公共彫刻公園を叙述する言葉を借りれば、『苦痛と悲哀を通じて、全ての拘束鎖からの解放を目ざして絶え間なく闘いながら』進む行路(35)。
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 (19) ほとんどの歴史家は、内戦時代の実力強制と暴力の文化はボルシェヴィキの行く末に決定的な影響を与えた、と見ている。Robert Tucker がスターリン主義の起源に関する影響力ある研究書で論じたところでは、それはつぎのようなものを『形成する経験』だった。『ボルシェヴィキ運動の革命的な政治文化を軍事化し』、『好戦的熱狂、革命的自己犠牲主義』と<elan>』の遺産を残し、『安易な実力強制への依存、行政的命令による支配、中央集権的行政、略式司法』の遺産も残し、『冷酷性、権威主義と「階級憎悪」』というボルシェヴィキの精神(ethos)を『残虐性、狂信、異論をもつ者に対する絶対的な不寛容』に転換し、『国家という様式を通じて社会主義が建設されるという確信を抱くのを困難にする』、そのような経験(36)。
 Sheila Fitzpatrick がこう論じたのは有名だ。内戦は『新しい体制に炎による洗礼を与え』たが、『ボルシェヴィキが危険を冒して獲得し、あえて追求すらしたかもしれない』洗礼だった(37)。
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 つづく。

2768/M. A. シュタインベルク・ロシア革命⑥。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
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 第四章—内戦
 第一章②
 (07) ボルシェヴィキは、社会主義者とリベラル派が民主主義革命の聖なる目標だと長らく見なしてきた民主的機構に反対する、という劇的な行動を行なった。だが、その前にすでに、対立する見解を抑圧し始めていた。
 10月後半のプレスに関する布令は、多数の新聞を廃刊させた。その中には、リベラル派および社会主義派の新聞も含まれていた。『抵抗と不服従』を刺激し、『事実の明らかに中傷的な歪曲によって混乱の種を撒く』、あるいは、たんに『民衆の気分を害して、民衆の心理を錯乱させる種を撒く』、そういう可能性があったからだ(19)。
 11月の後半に、主要な非社会主義政党、人民の自由〔People’s Freedom〕の党として公式には知られていた立憲民主党(カデット、Kadets〕を非合法化した。その指導者は逮捕され、全党員が監視のもとに置かれた(20)。
 ソヴェト指導部の中で依然として活動していた非ボルシェヴィキの僅かの者たち—とくに左翼エスエル、中でもIsaak Steinberg—は、上の布令を批判した。これに対して、伝えられるところでは、Trotsky は、階級闘争がもっと激烈になるとすぐに必要になるだろうものに比べれば『寛大なテロル』にすぎない、と警告した。『我々の敵に対しては、監獄ではなくギロチンが用意されるだろう』(21)。
 1917年12月に、政府は『反革命と破壊行為に対する闘争のための全ロシア非常委員会』を設立した。これは、Vecheka またはCheka として(イニシャルから)知られるもので、革命に対する反抗を発見して弾圧することを任務とする保安警察だった(22)。
 Cheka を設立した動機の一つは、歴史家のAlexander Rabinowich が示したように、左翼エスエルが政府の連立相手として歓迎されているまさにそのときすでに、ボルシェヴィキをその左翼エスエルによる妨害から自由にする機関が必要だったことだ。内部報告書でのCheka の幹部の一人の説明によると、左翼エスエルは、彼らの『「普遍的」道徳観、人間中心主義を強調し、自由な言論とプレスを享受するという反革命的な権利に制限を加えることに抵抗することで、反革命に対する闘いを大いに妨げている』(23)。
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 (08) 全国土にわたる『赤』と『白』の間の軍事闘争としての内戦は、1918年の夏に本格的に始まった。
 多くの点で、実際に経験されたように、内戦は1914年に始まった国家の暴力の歴史を継続させたものだった。
 ソヴェト国家は、1918年3月に『最も厄介で屈辱的な〔ブレスト=リトフスク〕講和条約』(党自身の判断)を受け入れて、ドイツとの戦争を何とか脱していた。党指導部の少数派は、軍が崩壊し前線の兵団が完全に『士気喪失』した以降はゲリラ戦争としてであっても(24)、国際的階級闘争の原理は条約の条件を拒否して、帝国主義と資本主義との戦争の継続を要求する、と主張したけれども。
 講和によって生まれると想定された『ひと息』は、かろうじて数ヶ月だけ続いた。そのあと白軍(かつての帝制将軍に率いられる反ボルシェヴィキ勢力の連合で、1918年初めに姿を見せ始めた)と赤軍(戦争人民委員であるTrotsky の指導で1918年半ばに設立された軍団)のあいだで継続的に戦闘が勃発した。
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 (09) しかし、内戦は、赤と白の単純な二進法が示唆する以上に複雑で変化が著しい経験だった(25)。
 内戦の歴史に含まれるのは、テロル、エスエルやアナキストおよびボルシェヴィキ『独裁』にも白軍が代表するように見えた右翼独裁への回帰にも反対する社会主義者たちによる武装闘争だった。赤と白の両方と闘った農民の『緑』軍は、主に農民の自治に対する大きくて目前の脅威をもたらす者たちに依拠していた。国じゅうの民族独立運動もあり、イギリス、フランス、アメリカその他の連合諸国による武力干渉もあり、ポーランドとの戦争もあった。
 1920年の末頃までに、種々多様なことから、また大量の流血を通じて、赤軍とソヴェトが状況を支配した。白軍は敗れ、ボルシェヴィキ権力に反抗するその他の運動は粉砕された(当分のあいだは)。そして、ソヴィエト諸政府が確立され、Georgia、Armenia、Azerbaijan、東部Ukraine で防衛された。
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 (10) 赤軍とソヴェト権力がいかにして勝利したかを、歴史家は多く議論してきた。
 ほとんどの歴史家は、つぎの点で一致している。すなわち、軍事、戦略、政治的立場が共産党の側に有利だった。
 軍事的には、赤軍は驚くほどに効率的な軍隊だった。とくに、白軍の指導部の淵源が帝制時代の軍隊にあったことと比較して、その起源が自由志願の赤衛隊にあったことを考えるならば。
 兵士たちの中から新しい『赤軍』指揮官を養成した一方で、政府が『軍事専門家』に赤軍に奉仕して、その権威を高めるよう強いたことはこれを助けた。赤軍は命令の伝統的階層構造を復活させた。
 戦略的には、赤軍は地理的な中心部の外側で活動することで有利になった。ソヴェト政府はロシアの中心地域を支配していたが、このことは、人口、工業、軍需備品の多くを統制できることを意味した。一方で、白軍は、別の軍隊の協力が限られている、外縁部で活動していた。
 このことは、ロシアの主要な鉄道はモスクワから放射状に伸びていたので、とくに重要だった(モスクワは1918年3月から実効的な首都になった。その頃、やがてドイツの手に落ちる可能性が出てきたので、政府はペテログラードを去った)。赤軍は、効率のよい、輸送や連絡の線を持つことになったので。
 一方で、白軍は、農業地をより多く支配した。それで、彼らの兵団の食料事情は良かった。
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 (11) だがとりわけ、白軍は、政治的有利さの点で苦しんだ。
 白軍指導者たちは、自分たちは旧秩序を復活させることができないと、と理解していた。
 しかし、彼らの背景とイデオロギーからして、民衆の多数の望みを承認することも困難だと気づいていた。
 『ロシアは一つで不可分』という帝国的理想に依拠していたので、彼らは、非ロシア民族の者たちに戦術的に譲歩を提示することすら拒んだ(非ロシア民族は辺縁地域での支持を獲得するためには不可欠だったかもしれないが)。そして白軍は、非ロシア民族の支配下の土地で、民族主義を抑圧した。
 農民たちは、内戦中にどちらの側についても熱狂的に支持することはなかった。
 赤軍と白軍のいずれも、農民たちから穀物と馬を奪い、自分たちへと徴兵した。そして、反対者だと疑われる者に対してテロルを用い、ときには村落全体を焼き払った。
 だが、農民にとって重要なのは土地であるところ、ボルシェヴィキは—賢明にも、または偽善的に、農民たちの動機いかんを判断して—、農民による土地掌握を是認した。一方で、白軍指導者たちは、法と私有財産の原理の名のもとで、村落革命のために何も行なわなかった。言うまでもなく、彼らの基盤的な後援層の一つである土地所有者たちの支持を得て。
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 (12) 内戦は、凶暴な事態だった。
 いずれの側も、大量の投獄、略式処刑、人質取り、その他の、反対者と疑われる者に対する『大量テロル』を行なった。
 どの戦争でも見られる『行き過ぎ』があったが、両方の側の指導部によって看過された。
 赤と白の暴力は、釣り合いから見て似たようなもので、お互いさまだった。
 しかし、ボルシェヴィキは、とくにCheka を通じて、この血に汚れた(blood-staind)歴史を残すのに顕著に貢献した。(『非常』措置を普通のことにして)生き延びるに必要なことは何でもするという実際的な意欲があったばかりではなく、暴力と実力強制を、世界を作り直し、歴史を前進させる手段として積極的に容認した。
 『プロレタリアート』(ほとんどは言わば、労働者階級の<名前で>階級戦争を闘っている者)の暴力は、歴史的に必要なものであるのみならず、道徳であり善だった。これこそが階級戦争を終わらせるものであり、そして、暴力の全てを終わらせ、損傷している人間性を回復し、新しい世界と新しい人類を創り出す階級戦争だった(26)。
ボルシェヴィキは、暴力と実力強制は偉大な歴史的過程、『自由の王国への跳躍』、の一部だと考えた。これは、不平等と抑圧の古い王国で利益を得る者たちとの闘争なくしては遂行することができない。
 ボルシェヴィキは、Lenin が述べたように、『民衆の大多数』の利益のために、そして『資本主義者の抵抗を破壊する』ために用いられる『ジャコバン』的手段(フランス革命時の急進派とギロチンを想起させる)を採ることを、何ら怖れていなかった(27)。
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2767/M. A. シュタインベルク・ロシア革命⑤。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
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 第四章—内戦
 第一節①
 (01) ボルシェヴィキは、革命的社会主義国家に関する矛盾する考え方を抱いて、権力を掌握した。
 一方には、一般民衆の欲求とエネルギーを解き放つことによる、大衆参加という解放と民主主義の考えがあった。
 Lenin は1917年春のペテログラードへの帰還の後で述べたのだが、ロシアを『崩壊と破滅』から救う唯一の方途は、抑圧された労働者大衆に『自分たち自身の強さへの自信を与える』こと、民衆の『エネルギー、主導性、決断力』を解き放つこと、だった。こうして、彼らは動員された状態のもとで、『奇跡』を行なうことができる(1)。
 これは、新しいタイプの国家の理想、大衆が参加する権力という『コミューン国家』(1871年のパリ・コミューンを参照している)、『大きな金額』のためではなく『高い理想のために』奉仕する『百万の人々の国家装置』だった(2)。
 コミューン国家という理想は、1918年に『ロシア社会民主主義労働者党』から『ロシア共産党(ボルシェヴィキ)』へと党の公式名称を変更したことに反映された。
 権力掌握から最初の1ヶ月間に、Lenin は繰り返して、『歴史の作り手』としての『労働大衆』に対して、『今やきみたち自身が国家を管理している』こと、だから『誰かを待つのではなく、下からきみたち自身が率先して行動する』こと、を忘れないよう訴えた(3)。
 この語りを良くて実利主義的だと、悪ければ欺瞞的だと解釈した歴史家がいた。—Orlando Figes の見解によれば、『古い政治体制を破壊し、そうして彼自身の党による一党独裁制への途を掃き清めるための』手段にすぎない(4)。
 しかしながら、多数のボルシェヴィキが解放と革命権力の直接参加主義的考えを信じていた、ということを我々が見るのを妨げないよう、慎重であるべきだ。
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 (02) しかし、以上は、ボルシェヴィキの国家権力に関するイデオロギーの一面にすぎなかった。
 Lenin がボルシェヴィキは『アナキストではない』と主張したのは正当だった。
 ボルシェヴィキは、強い指導力、紀律、強制、実力の必要性を信じてはいた。
 『プロレタリアートの独裁』と理解され、正当化された『独裁』は、いかにして革命を起こし、社会主義社会を建設するかに関するボルシェヴィキの思想の最も重要な部分だった。
 ボルシェヴィキには、権力を維持し続け、彼らの敵を破壊する心づもりがあった。そして明示的に言ったことだが、大量逮捕、略式手続での処刑、テロルを含む最も『残酷な手段』(Lenin の言葉)を使う用意があった。
 Lenin は、『裕福な搾取者たち』に対してのみならず、『詐欺師、怠け者、フーリガン』に対して、そして社会へと『解体』を拡散する者たちに対しても警告した。
 革命への脅威になるものとして『アナーキー』を非難するのは、今度はボルシェヴィキの番だった(5)。
 しかし、独裁は、必要物以上のものだった。
 それは美徳〔virtue〕でもあった。すなわち、プロレタリアートの階級闘争は、暴力と戦争を生む階級対立を克服することを意図する闘争として、歴史における唯一の闘争だった。Lenin が1917年12月に、それは『正当で、公正で、神聖だ』と述べたように(6)。
 さらに言うと、これは戦争になるべきものだった。
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 (03) 最初の数ヶ月、新しいソヴェト政府は、一般民衆に力を与え、より平等な社会を築くよう行動した。ソヴェトに地方行政の権能を与え、農地の農民への移譲による農民革命を是認した(7)。また、日常の工場生活を支配する決定に参画する労働者の運動を支持して、『労働者支配』を必要とする法制を作り(8)、『全ての軍事単位内部での全権能』を兵士委員会とソヴェトに付与して兵士の運動を支持して、全将校が民主的に選挙されるようになった(9)。さらに、民族や宗教にもとづく特権や制限を廃止して、ロシアの帝政的要素の優越に対する闘争を支持し、全ての帝国国民の『平等と主権性』を主張した。これには民族自決権も含まれていて、分離や独立国家の結成にまで及ぶものだった(10)。
 ソヴェト政府は、全ての民衆を『市民』と単一に性格づけることに賛成して、資産、称号、地位のような公民的不平等の法的な性格づけを廃止しもした(11)。既存の法的装置を『民主的選挙にもとづいて設立される法廷』に変えもした(12)。
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 (04) こうした急進的な民主主義化のほとんどは、内戦という非常の状況の中で実行されないことになる。効率的な動員と紀律を妨げる、事宜を得ないものとして、放棄された。
 しかし、ボルシェヴィキによる国家建設は、最初からすでに、ボルシェヴィキ・イデオロギーの権威主義的様相を明らかにしていた。
 一つの初期の兆候は、単一政党による政府を樹立しようとする意欲だった。これは、『全ての権力をソヴェトへ』は『民主制』の統合的代表者への権力移譲を意味すると民衆のあいだで広く想定されていた中で、それにもかかわらず、見られた。
 しかしながら、一党支配は、直接のまたは絶対的な原理ではなかった。
 新しいソヴェト政府が非ボルシェヴィキを包含することには、実際的な理由があった。とくに補充されるべき多数の政府官僚のための有能な個人が、不足していたことだ。
 政治的な理由もあった。とくに、労働者と兵士の委員会、国有鉄道労働組合(重要争点に関して全国的ストライキでもって威嚇した)、独立した左翼社会主義者たち、そして不満を抱いているボルシェヴィキ、これらからの圧力。
 上の最後の中で最も有名だったのは、ボルシェヴィキの中央委員会委員の、Grigory Zinoviev とLev Kamenev だった。この二人は、労働者や兵士の多数派の意思に反するとして、『政治的テロル』によってのみ防衛可能だとして、また『革命と国家の破壊』に帰結するだろうとして、一党政府を公然と批判した(13)。
 1917年12月、Lenin は、限られた数の左翼エスエル(エスエル主流派から離脱した党派)の党員を内閣(人民委員会議またはSovnarkom)に含めることに同意した。
 しかし、これは長くは続かなかった。
 数ヶ月のちに、ボルシェヴィキの政策に影響を与えようとして政府に参加した左翼エスエルは、不満の中で内閣を離れた。彼らが反対した、ドイツとの講和条約の締結が契機となった。
 そのあと数ヶ月、左翼エスエルはボルシェヴィキの権威主義に対する批判を継続した。—ある左翼エスエル指導者は、1918年5月に、Lenin は『凶暴な独裁者』だと非難した。そして、ボルシェヴィキは左翼エスエルの活動家に引き続いて妨害されたことに苛立ち、決定的な分裂へと至った。
 ある左翼エスエル党員が、ドイツの大使を暗殺した。これはソヴェト権力に対する『反乱』の一部だと見られたのだったが、ボルシェヴィキは、全てのレベルでの政府各層から左翼エスエルを排除〔purge〕した。そして、エスエルと同党員を厳格に壊滅させた。
 ボルシェヴィキによる一党支配はこうして完成し、永続することとなった(14)。
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 (05) 長く待たれ、長く理想化された憲法会議を散会させる決定が下された。これは多くの者によって、ボルシェヴィキの権威主義を示す、とくに厄介な兆候だったと考えられている。
 1917年11月に実施された憲法会議の選挙の結果は、革命的だった。—ロシア民衆の大多数が、公開の民主的投票でもって、将来の社会主義への道を選択した。
 エスエルが全投票数の38パーセントを獲得した(分離していたウクライナのエスエルを含めると44パーセントだった)。ボルシェヴィキは24パーセント、メンシェヴィキは3パーセント、その他の社会主義諸政党も合わせて3パーセントだった。すなわち、社会主義者たちには(分かれていても)、全投票の4分の3という輝かしい数が与えられた。
 非ロシアの民族政党は、社会主義に傾斜した党もあったのだが、多く見て全投票数の8パーセントを獲得した。
 リベラルなKadet(立憲民主)党は、5パーセント未満だった。
 その他の非社会主義諸政党(右翼主義者と保守派を含む)には3パーセントだけが投じられた。
 ボルシェヴィキは、全国の投票数の4分の1という相当大きい割合を獲得した。とくに都市部、軍隊、北部の工業地域で多かった。—ボルシェヴィキは本当に労働者階級の党だと証明された、と言うのが公正だ(15)。
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 (06) 同時にまた、選挙結果は、ボルシェヴィキによる政府の圧倒的な支配を正当化するものではなかった。—彼らが政府から去ることはほとんど期待できなかったけれども。
 Lenin は、ソヴェト権力をボルシェヴィキが握った最初の日に、憲法会議選挙は従前に予定されたとおりに11月12日に実施される、と確認した(16)。そのときですでに、Lenin の文章の注意深い読み手であったならば、つぎのことに気づいただろう。すなわち、『憲法幻想』〔constitutional illusions〕への早くからの警告、『階級闘争の行路と結果』が憲法会議よりも重要だという強い主張(17)。
 この議論は、選挙のあとで、憲法会議を『偏愛』する〔fetish〕ことに反対する公然たる主張へと発展した。—選挙の立候補者名簿は時期にそぐわない(とくに名簿登録後の左翼エスエルの立党による)。『人民の意思』は選挙後にさらに左へと変化した。ソヴェトは『民主主義の高度の形態』であって、憲法会議が設立したかもしれない政府はそれより後退したものだろう。内戦の蓋然性のゆえに緊急の措置が必要だ。
 イデオロギーとして憲法会議を攻撃する最も重要な主張は、階級闘争に関する歴史的論拠だった。すなわち、議会の正統性は、形式的な選挙によってではなく、歴史的闘争の中で占める位置によって判断されるべきだ。この位置は、どの程度において『労働者民衆の意思を実現し、彼らの利益に奉仕し、彼らの闘いを防衛する』か、によって定まる。
 憲法会議がたとえ圧倒的に社会主義派によって占められていても、この歴史的審査に耐え難い、とボルシェヴィキは結論づけて、憲法会議に機会は与えられない、と主張した。歴史と階級闘争の論理が、反革命的な憲法会議が解散することを『強い』た。それは、1918年1月の最初の会合で行なわれた(18)。
 だが、この動議に若干の穏健なボルシェヴィキは反対したこと、ほとんどの左翼エスエルは会議の閉鎖を是認したこと、は記憶しておく価値がある。
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 つづく。

2766/M. A. シュタインベルク・ロシア革命④。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
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 第三章/1917年
 第一節④
 (17) 『コルニロフ〔Kornilov〕事件』は陰謀と混乱の奇妙な混合物で、騒擾の危険性、紀律と強い国家の必要性に関して激論が交わされている中で、それに煽られるようにして起きた。
 新しい最高司令官は、自分をロシアを救う人間だと見ていた。これは、保守的プレス、右翼政治家、軍将校や事業家の組織、地主たちから勇気づけられての自画像だった。
 Kornilov は、Kerensky も、おそらく一時的な軍事独裁によって、ソヴェトとその支持者たちの言論を封じるのを望んでいると、根拠なく信じていたように思われる。
 何が現実に起きたかに関する歴史上の諸記録は、矛盾した証拠と主張で充ちている。
 我々に分かるのはつぎのことだ。Kerensky は8月26日に、Kornirov が政府全大臣の辞職、首都での戒厳令の発布、全ての公民的、軍事的権限の自分の手中への移行を要求したこと、これらの要求を支援すべく兵団を首都へ動かしていること、を知った。
 Kornilov を擁護する者たちはのちに、Kerensky 自身がこの権力集中を命令していたのであり、兵団を動かしたのは、噂されたボルシェヴィキのクーからKerensky と政府を防衛するためだったにすぎない、と主張した。
 Kerensky は国民に対して、軍事クーからロシアと革命を『救う』のを助けるように呼びかけた。
 ソヴェト指導部は、地方ソヴェト、労働組合、工場委員会、ボルシェヴィキを含む左翼諸政党(ソヴェトはボルシェヴィキ指導者たちの監獄からの釈放のための調整を助けてすらいた)を動員することでもって、首相の訴えに応えた。
 行進しているKornilov の兵団は、前進を停止するよう簡単に説得された。とりわけ、Kerensky は自分たちの行動を支持していない、と聞いたために。
 こうして、『反乱』は数日で終わった。
 しかし、危機は始まったばかりだった。
 右派は、Kerensky を、Kornilov を騙して、裏切った、と非難した。
 左派は、Kerensky は最高司令官と共謀していた、のちに反対に回った、と疑った。
 結果として、二番めの連立内閣が崩壊した。リベラル派と社会主義派の間の相互不信が深まって、分裂したのだ。
 ようやく9月遅くに、新しい連立の臨時政府が形成された。—第三の、そして最後の内閣。これを率いた首相はKerensky で、10人の社会主義者大臣(多くはメンシェヴィキとエスエルの党員。但し、公式には個人として行動した)と6人のリベラルな大臣(多くはカデット〔立憲民主党、Constitutional Democratic Party, Kadets〕)で成っていた。
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 (18) ボルシェヴィキは、政府に加わらなかった唯一の主要な左翼政党として、民衆の不満解消のための逃げ場所になった。
 そして、階級を明瞭に基礎にしたその基本政策は、ますます両極化している社会的雰囲気にうまく適合した。
 ボルシェヴィキは、富者に負担となり貧者に利益となる税の再配分が目標だ、と宣言した。また、農民の土地所有者に対する闘争、労働者の雇用者に対する闘争、兵士の将校に対する闘争を支持することも。さらに、死刑のような『反革命的』措置を採用しないことも(18)。
 とは言え、とくに魅力的なのは、彼らが繰り返したスローガンだった。すなわち、『パン、平和、土地』、『全ての権力をソヴェトへ』。—全ての不満を捉え、一つの単純な解決策を提示する化身たち〔incarnations〕。
 ボルシェヴィキの人気が増大していることは、Kornilov 事件の前にすでに明らかになっていた。工場委員会や労働組合での投票で、地区や市のソヴェトへの代議員の新または再選挙で、ボルシェヴィキの演説者や決議に対するソヴェト内部での受け入れの仕方で、そして市議会の選挙においてすら(19)。
 Kornilov 事件は、反革命への恐怖、穏健な社会主義者たちとの妥協への不満を掻き立てた。その後、ボルシェヴィキはいっそう急激に影響力を増した。もっとも、エスエルの中で同様に宥和的でない『左翼エスエル〔Left SRs〕』のそれも似たようなものだったが。
 8月31日、ペテログラード・ソヴェト代議員の多数派は、有産階層を除外した社会主義者政府を樹立しようとのボルシェヴィキの決議案を採択する議決を行なった(20)。
 9月の後半に、ボルシェヴィキは、ペテログラードとモスクワの両都市で、ボルシェヴィキを多数派とする新しいソヴェト指導部を選出するのに十分なかつ信頼できる多数派を獲得した。
 Lev Trotsky は最近にボルシェヴィキ党に加入したのだったが、ペテログラードでは彼が、議長に選出された。
 同じことは全国で起きていた。
 最も重要なことは、ボルシェヴィキは今や、大胆な政治的ギャンブルのために増大している人気を利用する用意がある、ということだった。政治的賭け—国家権力を奪取するための蜂起〔insurrection〕。
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 (19) 労働者兵士代議員ソヴェトの第二回全ロシア大会は10月25日に開催され、全国の数百のソヴェトから代議員が出席した。
 ボルシェヴィキは代議員たちの中で最大の単一党派で、左翼エスエルの支持を得れば有効な多数派を形成することができた。
 14人のボルシェヴィキと7人の左翼エスエルで、新しい幹部会が構成された。
 メンシェヴィキには4人が割り当てられていた。しかし、のちには政治的自殺と見なされた動議を出して、幹部会の議席を受け取るのを拒否した。この拒否は、ボルシェヴィキによる蜂起が街路上で進行中であることに対する抗議の意思を示す行動だった。
 大会は、ボルシェヴィキのスローガンである『全ての権力をソヴェトへ』を是認した。但し、ほとんどの代議員は、ソヴェト権力とはボルシェヴィキによる一党支配ではなく、社会主義者の民主的な統一的政府を意味すると理解していたけれども。
 メンシェヴィキの指導者のYuly Martov は、ソヴェト大会の直前に『陰謀』という手段で国家権力の問題を決着させようとするボルシェヴィキの企ては、『内戦』と反革命につながる可能性が高い、と警告し、『全ての社会主義諸政党と組織』のあいだで『統一した民主主義的政府』を樹立するための協議をただちに開始することを提案した。この提案は、満場一致で承認された。
 ボルシェヴィキですら、『展開している事態に関するそれぞれの見解を、全ての政治的党派が表明することに、多大の関心を寄せる』と宣言した(21)。
 しかしながら、複数政党による社会主義者政府、『革命的な民主主義的権威』を目ざす構想は、事態の進行に間に合わなかった。他『党派』とともに活動することに対してボルシェヴィキに深く染み込んでいた強い疑念によって、その構想は実現しなかった。
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 (20) 10月24日から25日にかけての夜、ペテログラードの労働者『赤衛隊〔Red Guards〕』と急進的兵士たちは、主要な街路と橋梁、政府関連の建物、鉄道駅、郵便局と電報局、電話交換所、発電所、国立銀行、警察署を掌握し、臨時政府の大臣たちを逮捕した。
 この武装蜂起は、ソヴェトの軍事革命委員会の秘密会議で練り上げられていた、詳細な計画に従っていた。このソヴェト軍事革命委員会をボルシェヴィキは支配しており、Trotsky が議長に就いていた。もっとも、タイミングの問題はボルシェヴィキ党内での激しい議論の対象だった。—タイミングはすぐれて政治的意味合いを持つ問題だったので。
 Trotsky は、蜂起は『ソヴェト権力』のために、そして政府による弾圧に抵抗する革命を『防衛』するために、ソヴェトの行動を正当化する外套をまとうべきだ、ということに拘泥していた。
 しかし、Lenin は、全く理性的なことに、つぎのように心配していた。ソヴェト全国大会は、全ての社会主義者政党を包含する政府、あるいは有産階層のみを排除した、より広範囲の『民主主義的政府』をすらに固執し続けて、ボルシェヴィキの手を縛るかもしれない、と。そのゆえに彼は、臨時政府の打倒を既成事実〔fait accompli〕としてソヴェト大会に提示する必要がある、そうすれば大会での議論は無意味になるだろう、と強く主張した。
 ソヴェト大会が10月25日に開会したとき、臨時政府の大臣たちがいる冬宮に対するボルシェヴィキの武装攻撃が進行していた。
 メンシェヴィキとエスエルの発言者たちは激しく怒り、ボルシェヴィキの行動は『犯罪的な政治的冒険』だ、と非難した。一つだけの政党による日和見主義的な権力ひったくりだ、その背後にはソヴェトの後援があるとし、そのソヴェトの名前でボルシェヴィキは二枚舌を使って行動している、と。
 彼らは、ボルシェヴィキの行動はロシアを内戦へと突入させ、革命を破滅させる、と予見した。
 ほとんどのメンシェヴィキと右翼エスエルたちは、ボルシェヴィキの行動の『責任を負う』ことをしたくなくて、大会の会場から退出した。—有名になったTrotsky の侮蔑の言葉がこれに投げつけられた。彼らは、『歴史のごみ箱』に入る運命だけが残る『破産者』だ。
 10月26日の夜明け前、ソヴェト全国大会は、レーニンのつぎの宣言を承認した。全ての国家権力はソヴェトの手中にある、全ての地方権力は、労働者兵士農民代議員の地方ソヴェトへと移譲される。
 大会はまた、全ての諸国に講和を即時に提案すること、全ての土地を農民委員会に移譲すること、兵士の権利を守ること、工業の『労働者支配』を確立すること、憲法会議の召集を確実にすること、を誓約した。
 ——
 第一節、終わり。

2765/M. A. シュタインベルク・ロシア革命③。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
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 第三章/1917年
 第一節③
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 (12) これは実際には、2週間後の『七月事件』に比べると『瞬時の一打ち』にすぎなかった。
 7月3日、数万人の兵士、海兵、労働者たちが、大部分は武装して、首都の街路を行進した。
 彼らは市の中心部を占拠し、自動車を奪い、警察やコサックと闘った。そして、頻繁に銃砲を空中に放つことで、彼らの蜂起のごとき雰囲気を強調した。
 午前2時頃、6万人から7万人の男性、女性、子どもたちが路上にいた。そのうちのほとんどはTauride 宮にあるソヴェト司令部の近くだった。群衆は、その規模と戦闘的気分を増大し続けた。
 大衆集会で採択された決議は、戦争の即時停止、『ブルジョアジー』と今以上妥協しないこと、そして『全ての権力をソヴェトへ』を要求した。
 いかにしてこれらの目標を実現するかについて、ほとんどの示威行為者には分かっていないように見えた。とくにソヴェト指導部は自分たちが『全ての権力』を握るという発想自体を拒絶していたので。
 七月事件の最も有名な場面で、ソヴェト指導者たちは、群衆を静めるためにエスエル〔Socialist Revolutionary〕のVictor Chernov を街頭へと派遣した。
 彼の訴えに応えたのは、拳を振ってChernov に向かって『手渡されたら権力を取れ』と叫ぶ、示威行為者の怒りだった。
 ソヴェトの穏健な指導者たちは、この事件全体についてボルシェヴィキを非難した。
 そして、ボルシェヴィキ自体が、間違いなくこの運動を助長していた。
 しかし、彼らはこの運動を権力奪取へとつなげる用意をしておらず、そうしようとしなかった。
 指導者を欠いたので、反乱は解体した。
 7月4日夕方の激しい雨が、路上の群衆の最後の一人を追い払った(11)。
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 (13) 歴史家たちは、今でも議論している。七月事件は、慎重かつ巧妙に計画され、だが失敗した、ボルシェヴィキによる権力奪取の企てだったのかどうか。
 あるいは、のちのクーのために試験をするという、ボルシェヴィキの戦術の一部だったのか。
 あるいは、躊躇している指導部を行動へと強いようとする、ボルシェヴィキ党員たちの努力だったのか。
 あるいは、急進化した兵士や労働者たちの調整済みでない行動ですら、党は最初は支援することに同意しており、のちに瞬時に権力奪取のために使おうと考えたが、成功しないことが明瞭になったので撤退した、のだったか。
 ほとんどの歴史家は、つぎの点では同意している。ボルシェヴィキの一般活動家がこの事件できわめて大きな役割を演じたこと、大多数の労働者や兵士たちは指導を求めて党を見つめていたこと。
 そして、臨時政府の打倒がボルシェヴィキの課題〔agenda〕になっていたことに、ほとんど疑いはない。
 問題は、いつ行なうか、だった。
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 (14) 地方〔provinces〕の後進性というステレオタイプ的見方とは矛盾するが、臨時政府への支持や階級を超えた統合が解体していった早さは、ペテルブルクやモスクワよりもむしろ、地方で急速だった。
 例えば Saratov では、Donald Raleigh が資料文書を示したように、地方のリベラルな新聞は6月に、『都市部だけではなく地方全体で、権力は現実には労働者、兵士の代表者の(地方)ソヴェトへと移った』と報告した。
 穏健な社会主義者と急進的なそれのあいだの断裂もまた、中心部以上に急速に進んだ。例えば、ボルシェヴィキは5月に、リベラル・ブルジョアジーとの協働に抗議して、Saratov ソヴェトから脱退した。
 同様に、地方の労働者、兵士、農民たちはもっと早くに妥協に耐え難くなり、即時のかつ直接的な諸問題の解決に賛成した。これが意味したのは、ボルシェヴィキに傾斜する、ということだった(12)。
 Kazan やNizhny-Novgorod のような別の地方の町々では、またそれらの周囲の農村地帯では、Sarah Babcock が示したように、ほとんどの民衆にとっての地方『政治』の本質は、政党への帰属や選挙への関与ではなく、経済的、社会的な必需品のための直接的な闘いだった。
 エリート全員に対する不信は、主要な諸都市で以上に、おそらく地方の一般民衆のあいだで、より強いものがあった(13)。
 紀律ある国家の最も熱烈な支持者だと広く考えられているDon 地域の多数のコサックですら、中央の権力よりも地方の権力を支持した(14)。
 このような地方主義と権力の断片化は、ペテルブルクでの政治的決定や国家権力をめぐる闘争より以上にではかりになくとも、それと同等に革命を規定した。
 臨時政府の権威は急速に低下し、地方ソヴェト、委員会、労働組合その他の諸制度の力の増大によって掘り崩された。
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 (15) ロシアじゅうの社会的権威が突如として断片化してきた。それは、直接的行動が唯一の解決方法だと思わせるような、経済的危機のさらなる悪化によって促進された。だがまた、『ブルジョアジー』とそれと結びついた政治的エリート層に対する不信によっても。
 兵士たちは将校を無視し、選出された兵士委員会にのみ耳を傾けた。
 農民たちは、自分たちが土地を奪ったり地主を追放するのを妨げるものはほとんどないと分かって、土地改革を待つのをやめた。
 労働者たちは、作業場の条件を直接に統御する直接的行動をとった。—多くの工場では、『労働者支配』—理論を適用したのではなく実践の中で生まれて発展した考え—が、進展していった。工場委員会が、管理者側の決定を監視し始めたのみならず、重要な経営上の決定を自ら行ない始めるようになるとともに。
 雇用者または経営者が例えば燃料不足を理由とする一時解雇〔lay-off〕で威嚇したとき、工場委員会は、新しい燃料供給源を探して、輸送と支払いについて取り決めすることがあり得た。また、利用可能な燃料のより経済的な使用方法を取り決めたり、会社の経費支出への監督権を要求したり、全員の労働時間を平等に削減することを裁可したり、あるいは、一時解雇される者を選定する、労働者の集団的権利を要求したりすることがあり得た。
 稀な場合、通常は雇用者が工場の閉鎖を選ぼうとした場合だが、労働者委員会は、自分たちで工場の操業を決定した(15)。
 多くの観察者にとって、こうした事態は『アナーキー』で『カオス』だった。
 多くの別の観察者にとっては、これは下からの『民主主義』だった。
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 (16) 七月の危機の後で、臨時政府は社会主義者が多数派になるよう再構成され、社会主義者で法律家であるAlexander Kerensky が率いた。この臨時政府は、このような権力の断片化と国家の弱体化を許容できなかった。
 臨時政府は、『アナーキー』に対する戦争を宣告した(16)。
 しかし、政府の、当時に称された『国家主義』〔statism〕は、状況を悪化させたにすぎなかったかもしれない。次の政治的危機を誘発し、そうしてさらに、国家の権威を弱いものにした。
 七月事件は、間違った危険を明らかにし、間違った解決策を生んだものだったかもしれない。すなわち、容易に判別できるボルシェヴィキによる騒乱の脅威によって、より大きい、より困難な、社会的、民族的、地域的な両極化と断片化の脅威が、覆い隠された。
 臨時政府は7月に、それが理解する脅威に応じて、数百人のボルシェヴィキ指導者を逮捕した(逮捕を逃れて隠れた多数の中にレーニンがいたけれども)。
 市民的自由は公共の秩序のために制限された。
 死刑が前線にいる兵士について復活した。叛逆、脱走、戦闘からの逃亡、戦闘の拒否、降伏への煽動、反抗、あるいは命令への不服従すらあったが、これらにより野戦法廷で有罪と宣告された者たちについてだった。
 ペテログラードでの街頭行進は、つぎの告知があるまで禁止された。
 そして、将軍のLavr Kornilov が、この人物は軍事的かつ公民的な紀律の擁護者として保守的界隈で尊敬されていた、屈強な気持ちをもつコサックだったが、新しい最高司令官に任命された。
 Kerensky 首相は、騒擾を克服できる強い政治的実行者だと見られるのを望んだ。
 彼は七月事件の際に暴徒と闘って殺されたコサックたちの葬儀で演説をし、こう宣言した。「アナーキーと無秩序を助長する全ての企ては、この無垢の犠牲者たちの血の名において、容赦なく処理されるだろう」(17)。
 おそらくは象徴的な動きとして、また安全上の理由から、Kerensky は、臨時政府の役所を冬宮(Winter Palace)へと移した。
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 つづく。

2764/M.A.シュタインベルク・ロシア革命②。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
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 第三章/1917年
 第一節②
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 (06) 総じて、とくに1917年の初めは、他者に対する優越をめざす闘いと同様に、権力こそが理解すべき問題だった。
 臨時政府とソヴェトはいずれも、正統性と権威の範囲について、不確かさを感じていた。
 強く正当性を信じた臨時政府のリベラルな指導者たちは、悲しくも、自分たちの本質は閉鎖されたドゥーマによる自己任命の委員会だと分かっていた。自分たちは限定的な、偏った基盤のもとで選出されていた。
 『臨時』という(新しい政府について彼らが選んだ)名前は、適正な民主的選挙が実施されるまでの一時的なものとしてのみ彼らは国家権力を受け取った、ということを完全に明瞭にしていた。民主的選挙の実施は、正統性のある国家秩序を確立する基盤を形成する憲法会議〔憲法制定会議, Constituent Assembly〕の選出のために必要だった。
 ソヴェトはそれが代表する社会集団のために政府の諸政策と行動に決まって反対し、労働者と兵士たちを街路上に送り込む力は彼らを現実的な政治的権力に変えることになる。しかし、社会主義者の指導者たちは、自分たちの役割は全国民を代表することではなく、特定の階級を擁護するすることだと、強く主張した。
 彼らにとって、『ソヴェト権力』を語ることは受け容れ難いもので、馬鹿げてすらいた。
 社会主義指導者たちの政治的躊躇を生んだのは、イデオロギー上の信念、歴史に関する思想、現実に関する見方だった。
 彼らは、革命のための自分たちの当面の任務は民主制と市民権を確立することだと考えていた。伝統的に(とくにマルクス主義の歴史観で)リベラル・ブルジョアジーの歴史的役割と想定されてきた諸任務だ。
 この階級を打倒して社会主義を樹立するという考えは、せいぜいのところ時期尚早で、自殺するようなものですらあった。進行中の戦争を考慮しても、また、そのような急進的な実験をするにはロシアは社会的、文化的にきわめて未成熟であるがゆえに。
 ソヴェトの指導者たちは、政府を支配するのではなく政府に影響を与えようとしていると明確に述べた。躊躇しているが適切に力づけられた『ブルジョアジー』を共和国の建設、市民権の保障へと、そして将来の憲法会議のための選挙の準備へ向かわせることが必要だ、と。
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 (07) 臨時政府は、市民的、政治的改革の大胆な政策を打ち出した。—数千人の政治的犯罪者や流刑者を釈放した。言論、プレス、集会、結社の自由を宣言した。労働者がストライキをする権利を是認した。笞打刑、シベリアへの流刑、死刑を廃絶した。民族または宗教による法的制限を撤廃した。フィンランドに憲法を回復した。ポーランドに独立を約束した。ロシアと帝国全土の地方行政の仕組みにより大きな権限を付与することに一般的に賛成した。女性に投票する権利や役職に立候補する権利を保障した(当初は若干の躊躇いがあったが、女性労働者の路上示威行進を含む女性たちの抗議にすみやかに屈した)。そして、普通、秘密、直接、平等の選挙権にもとづく憲法会議選挙の準備を開始した。
 こうした改革は確かに、当時の世界で最もリベラルなものだった。言葉だけではなく、行動の点でも。
 しかし、政府は、三つの深刻な問題を解決するのは、イデオロギー的と実際的の両方の理由で困難であることも分かった。
 第一に、より多くの土地を求める農民たちの要求を、ただちには満足させることができなかった。
 臨時政府はたしかに、土地改革の作業を始めた。
 しかし、財産権の再配分に関する最終的決定を行なうには本当の民主主義的権威をもつ政府の樹立を待たなければならない、とも主張した。
 第二に、経済的な不足と混乱を解消することができなかった。
 これには少なくとも、リベラル派としては受け容れられない、社会的、経済的な政府による統制をある程度は必要としただろう。
 第三に、戦争を終わらせることができなかった。
 それどころか、ロシアを戦闘から一方的に撤退させるするつもりはなかった。彼らは戦闘を、民主主義諸国のドイツの軍国主義と権威主義に対するものだと見なしていた。
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 (08) ペテルブルクはロシアではない。Nikolas 二世はそう言うのが好きだった。国内の農民や町の住民は忠実な民衆で、厄介な首都居住者のようではなかった。
 しかし、二月の革命はただちにかつ強いかたちで、ロシアと帝国じゅうに広がった。
 地方の町々では、熱狂的な示威行動者が街路を埋め尽くした(最初は地方警察とコサックが解散させた)。彼らは、革命的な歌をうたい、新しい秩序を支持する旗を掲げ、長時間の抗議集会に参加した。
 諸政党とソヴェトが設立された。
 新しい地方政府は、旧体制を維持しようとする軍隊や警察を武装解除させた。そして、地方の官僚組織を新政府を支持する行政担当者に変えた。
 帝国の非ロシア地域では、少数民族の自治を要求するという重要な事項が加わって、同様のことが展開した。
 実際のところ、首都以外での最も直接の革命の効果はおそらく、強い地方主義〔localism〕だった。その理由はなかんずく、ペテログラードにある政府には地方で権力を行使する手段がなかったことだ。
 民衆のほとんどが住んでいる村落では、農民たちは、彼らなりの支持方法と熱狂でもって、革命の報せに反応した。旧体制の役所と警察を掌握し(ときには叩きのめし)、村落委員会を組織し、とりわけ、聞こうとする者全てに対して、革命の主要な目標は現実に耕作している者たちの手に全ての土地を譲渡することであるべきだと語った(7)。
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 (09) 1917年の危機的事件のいずれにも、直接的かつ具体的な原因があった。すなわち、外交文書の漏洩、急進者による路上示威運動、軍事クーの企て、ボルシェヴィキの蜂起。
 しかし、全ての危機のより深原因は、多数の当時の人々およびのちのたいていの歴史家の見解によれば、教養あるエリート層と一般民衆のあいだの『越え難い亀裂』にあった。
 あるリベラルな軍事将校は3月半ばに、各層の兵士たちの中での経験にもとづいて家族に対して、一般民衆の考えをこう説明した。「起きたのは政治的革命ではなく社会的革命だった。そこでは、我々は敗北者で、彼らは勝利者だ。…以前は我々が支配したが、今では彼ら自身が支配しようとしている。彼らが語る言葉の中には、過去何世紀にもわたる、仕返しされていない侮蔑がある。共通する言語を見つけることはできない。」(8)
 この階級間の亀裂は、『二重権力』という編成体制をますます脅かすことになった。この体制自体がこの分裂を具現化したもので、1917年の経過と結果を形づくることになる。
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 (10) 戦争は、新しい革命政府にとって、最初の危機の主題だった。
 臨時政府は、帝制政府の併合主義的戦争遂行の放棄を求めるペテログラード・ソヴェトの圧力を受けて、3月後半につぎの宣言文を発した。「自由ロシアの目標は他国民衆の支配ではなく、彼らの財産の奪取でもなく、外国領土の力づくでの掌握でもない。これらではなく、民族自決を基盤とする安定した平和を支えることだ。」(9)
 同時に、外務大臣の Paul Miliukov は連合諸国に外交文書を送って、勝利するまで戦い抜くと決意していること、敗戦国に対しては通常の『保証金と制裁』を課すのを用意していること、を伝えた。これは多くの人々の想定では、1915年に連合諸国と協定したように、ロシアがDardanelle 海峡とConstantinople を支配することを含んでいた。
 この文書の内容がプレスに漏れ、4月20日に報道されたとき、その効果は爆発的なものだった。なぜなら、ペテログラード・ソヴェトと臨時政府自身が発した宣言が示す外交政策方針と直接に矛盾していると見えた。政府の宣言はソヴェトに対する偽善的な休止のようだった。
 武装兵士を含む、激怒して抗議する大群衆が、『Miliukov-Dardanelskii』、『資本主義者大臣』、『帝国主義戦争』を非難して、ペテログラードとモスクワの路上を行進した。
 Miliukov は辞任を余儀なくされ、内閣は社会主義者を含むように改造されなければならなかった。このことは民衆の政府への信頼を回復するのに役立った。しかしまた、ソヴェトを指導する諸政党を、政府の将来の失敗について責任のある立場に置いた。
 主要な社会主義政党の中で『ブルジョア』連立政府に加わることを全党員に許さなかった政党が一つだけあった。レーニンがまだ主流派でなかった、ボルシェヴィキだ。
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 (11) ソヴェト指導部は、彼らへの支持を高めるべく、6月18日の日曜日に、ペテログラードでの『統一』示威行進を組織した。
 掲げられたスローガンは、『革命的勢力は団結せよ』、『内戦をするな』、『ソヴェトと臨時政府を支持する』等だった。
 この反面で起こったのは、あるソヴェト指導者の回想によると、『ソヴェト多数派とブルジョアジーの顔への、ピリッとした瞬時の一打ち』だった」(10)」。
 ソヴェト支持のスローガンがあちこちにある真っ只中で、行進者が掲げる旗の多くには、ボルシェヴィキのスローガンが書かれていた。例えば、『10人の資本主義者大臣はくたばれ』、『彼らは闘う用意をするよう約束して我々を騙した』、『あばら小屋に平和を、宮殿に対しては戦争を』、そして徐々に有名になっていた『全ての権力をソヴェトへ』。
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 つづく。

2763/M.A.シュタインベルク・ロシア革命①。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
 この書物の構成・内容はつぎのとおり。
  *謝辞
  *目次
 序説—ロシア革命を経験する
 第一部・史料と物語
  第一章/自由の春—過去を歩む
 第二部—歴史
  第二章/革命・不確実性・戦争
  第三章/1917年
  第四章/内戦
 第三部—場所と人々
  第五章/街路の政治
  第六章/女性と村落での革命
  第七章/帝国を打倒する
  第八章/夢想家たち
 結語—未完の革命
  *文献
  *索引 p.371-p.388.
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 第三章から始める。
 原書にはない段落番号を付す。一行ごとに改行する。原書での” ”は『』で表現し、イタリック体強調の文字は<>で挟む。
 注記(章のあいだにある)の内容は訳さず、注番号だけ残す。
 章のあいだに「* * *」の一行が挿入されていることがある。章内の大きな区切りと理解して、前後を「節」で分ける。
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 M. A. シュタインベルク・ロシア革命 1905-1921 (Oxford, 2017)
 第三章/1917年
 第一節①
 (01) 歴史家は多様なかたちで1917年の物語を記述してきた。
 とくに、学問分野としての歴史学の進展は、1917年をどう理解し、解釈し、叙述するかを変化させてきた。—この「科学的」理性は、政治的およびイデオロギー的な好み(革命、社会主義、リベラリズム、国家、民衆の行動—むろんソヴィエト同盟自体—について歴史家がどう考えるか)や、また倫理的価値観(歴史家が例えば不平等性、社会的公正、暴力についてどう考えるか)とすら、不可分に絡み合ってきたけれども。
 我々が研究する人々にとってもそうだが、歴史家たちには、『歴史』と称している記述はどのような性格のものであるかにについて、考え方に分かれがある。
 近年に変わった主要なことは、一般の人々(とくに兵士、労働者、農民)、女性、少数民族、地方、帝国の辺境に対してもっと注意を向けるべく、政治指導者たち、国家制度、地理的中心部、男性、ロシア民族からいくぶんか焦点を逸らしたことだ。
 さらにもっと最近では、学者たちの関心は主観的なもの〔subjectivities〕へと向かっている。—人々が語る考え方や要求へとのみならず、価値観や感情という曖昧な領域へと。このことは、歴史という記述の様相をさらに豊かにし、かつ複雑にしている。
 しかしながら、学者たちは最近でも、歴史を形づくるに際しての大きな構造〔structures〕の重要性をあらためて強調している。すなわち、経済の近代化、資本主義、法制、イデオロギーや思想の世界的潮流、国際関係、戦争。
 もちろん、こうした異なる研究方法は相互に排他的なものではない。
 これらは多様なかたちで結びついてきた。—私がこの書物でそうするように。
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 (02) 1917年の大きな危機的事件、それはとくに首都ペテログラードで発生したのだったが、革命に関する標準的な記述の基礎になっている。すなわち、帝制を転覆させた二月革命、戦争継続に関する四月危機、蜂起に近かった七月事件、八月に起きたKornilov の反乱の失敗、そして、ボルシェヴィキが権力を掌握した十月革命。
 これらの事件の背後にあるのは、因果関係〔causation〕の物語だ。戦争の推移、経済の崩壊、社会的格差の拡大、政府の失敗。
 この因果関係は、我々には最も馴染みのある、歴史の記述の方法だ。—説明可能な原因と重要な結果を結びつけて諸事件を語ること。
 除外したことも含めて、このような方法に馴染みがあっても、このことは諸事件の必然性を語るのと矛盾はしない。
 のちの章では、別の観点から1917年に立ち戻ることにしよう。
 しかし、これら諸事件と諸経緯は、最も重要な構造と基盤だ。
 そして、珍しいことに、たいていの歴史家は、何が起こったか、なぜ、何が変わったかについては合意している(1)。
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 (03) 最初の危機は2月23日(3月8日)に始まった。その日、ペテログラードの数千の女性織物労働者たちが工場から路上に出た。パンと食糧の不足に抗議するためだった。また、国際女性デーを記念してだった。これに加えて、首都その他の都市のきわめて多数の男女がすでにストライキに入っていた。
 この危機は都市と国土じゅうにすみやかに広がった大混乱であり、数日を経て、政府は打倒された。このことは、権力をもつ者たちには驚きではなかったはずだ。
 首都に潜入していた秘密警察の要員たちが1917年1月頃に報告書で述べていたのは、「市民の広範囲で権限をもつ者たちに対する憎しみの波」(2)が高まっていたことだった。
 増大する民衆の怒りは、戦争による損傷により、悪化する絶望的な経済状況により、とくに食糧不足と物価高騰により、いっそう激しくなった。また、無関心であるか無能であるかのいずれかと見えた国家の諸政策によっても。
 大衆の雰囲気に敏感だった支配エリート層の中には、民衆の不満を反映した思いが生まれた。すなわち、戦争遂行や自分たちの政治的、社会的な地位の維持は下級の階層の騒擾によって危うくなる可能性がある、という恐怖。
 数を増やしつつ労働者男女が首都の街路に出てくるとき、連呼の声、旗、演説はパンを要求したが、同時にまた、戦争の終止と専制の廃止も要求した。
 学生、教師、ホワイトカラーの労働者たちが、民衆に加わった。
 暴力行使が散発して起きた。とりわけ店舗のショーウィンドウは破壊された。
 棒や金物の一部、岩石、そしてピストルをもつ者も、行動者の中にはいた。
 社会主義活動家はそうした運動を激励したけれども、彼らには現実の指導力または方向指示能力がなかった。
 運動は、不安を解消する熟慮した行動であるというよりは、不満の発現だった。
 そのようなものとして、社会主義者たちは諸行動を、『革命』ではなく『騒擾〔disorder〕』だと見なした(3)。
 あるいは、前線にいるNicholas 二世に書き送った皇妃 Alexandra の侮蔑的な見方によれば、示威行動者たちの行動は自分たちのために耳障りな騒乱を起こしている『フーリガン運動』だった(4)。
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 (04)  皇帝は情報を十分に与えられず、何が起きているかを理解することができなかったので、その反応は過信と不寛容が致命的に入り混じったものだった。
 皇帝は2月25日、ペテログラード軍事地区司令長官に対して電報を打った。それには、つぎの致命的な文章があった。—「貴君に命令する。明日、首都の騒擾を終焉させよ。この騒擾は、ドイツ、オーストリアと戦争している困難な時期には受け容れ難い」(5)。
 警察と地方連隊兵士たちはこの命令に従い、民衆を攻撃し、傷つけ、殺害した。
 政府官僚たち、そして社会主義指導者たちは、これで事態は鎮静化したと思った。
 しかし翌日、兵士たちが示威行動者たちの側に立って街路上に出現した。
 首都の軍事的権力の有効性が崩壊したとなって、権力空間にパニックが生まれた。とくに、混乱が国土じゅうの諸都市に広がり、各地方の連隊兵士たちがしばしば路上の示威運動者たちに加わったので。
 2月27日、内閣はドゥーマ〔State Duma, 議会〕を延期し、ドゥーマの指導者(政府の改革だけがロシアを鎮静化でき、戦争継続を可能にすると執拗に主張し続けた)を、大混乱の責任があると非難した。そのあと、内閣の大臣たち自身が辞職した。
 おそらく最も決定的だったのは、最上層の軍事指導者たちがこうNicholas二世を説得したことだ。ドゥーマが支配する新しい政府のみが『気分を鎮める』ことができ、『全国土に拡大する無政府状態』を止めることができる。今の状態は、軍の解体、戦争遂行の終焉、『極左〔extreme left〕分子による権力の掌握』(6)につながるだろう」、と。
 自分の将軍たちにまで反乱が及んでいる事態に直面し、Nicholas は裏切られたと感じた。だが、自分には選択の余地がないことを理解した。
 戦争を継続し、君主制を守ることを望んで、彼は3月2日に退位し、弟のMikhail を後継者に指名した。弟は妥協をより好むと考えられていたのだったが。
 Mikhail は皇位の継承を拒んだ。これが、300年続いたRomanov 王朝を劇的に終わらせ、ロシアを事実上の共和国にする、静かな意思表示だった。
 しかし、革命は始まりにすぎなかった。
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 (05) 1917年の残りの期間は、誰が権力を握り、維持するかに関する闘いが生んだ、一続きの危機だった。
 この闘いの大部分は、『二重権力』という独特の装置によって具体化された。『二重権力』とは、ペテログラードの労働者と兵士の代表者のソヴェト(評議会)と新しい臨時政府のあいだの、緊張した政治的関係を意味した。
 (前者は工場と連隊での選挙によって選出されるのだが、すみやかに労働者、兵士、農民の代表者の全国ソヴェトになった。そして、全国の地方ソヴェトによって、首都へと代議員が派遣された。後者はペテログラード・ソヴェトと協定をしたドゥーマの議員たちによって設立された。)
 しかしこれは、『二重権力』の最も主要な側面にすぎなかった。それは本当は、帝国全体の現象であり、国家のほとんど全ての政治的関係で具現化された。すなわち、軍隊では将校層と兵士委員会のあいだ、工場では経営側と労働者委員会のあいだ、村落では伝統的共同体と農民委員会のあいだ、学校では学校管理者と学生評議会(ソヴェト)のあいだ、の政治的関係。
 世代は、この物語の一部だ。つまり、委員会、これはソヴェト『階級』とも称されるが、若者で構成される傾向があり、その若者はしばしば前線から帰還した兵士たちだった。
 二重の権力は、実際にそうだったよりも単純なものに見えている。実際には、両者のあいだの協力や対立の程度は、国じゅうで、また時期によって変化したし、変更可能なものだった、というだけではない。帝国の広い部分で、地方の少数民族あるいはその他の集団を代表する団体は、以上のような政治的関係をさらに複雑にしていた。
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 つづく。

2762/ChatGPTとロシア革命本。

 ChatGPT-4o というものを利用している。あるいは、利用できる状態にある。
 「Generative」=「生成」と言っても、蓄積している情報の「収集」・「検索」が前提になる。したがって、ある主題について、いったい何をどの程度に蓄積しているかによって、質問に対する回答の正確さ・適切さも異なる。
 一般に、自然科学系の、かつ各種「辞書」類に記述されているような情報については相当に正確だと思える。
 例えば、ヒトの「DN A」も「ゲノム」(ヒトゲノム)も(各個体で)「99.9パーセント同じ」というのは「正しい」と、瞬時に回答してくる。「0.1パーセントの違い」が重要な違いをもたらすとも、付記してくる。「エクソン」と「イントロン」の違いも知っている(但し、この二つが「遺伝子」を構成するとの説明は適切だったか?)。細胞分裂時に二倍化した「染色体」群が「赤道」上に整列して両極に引っ張られる場合の上下(または左右)は一方が父親由来でもう一方が母親由来なのかという素朴な確認的質問には、「否」とこれまた瞬時に回答してくる(どちらに由来かは偶然または「なりゆき」だ)。
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 一方で、人文系・社会系問題または主題については、それこそ「収集」し「検索」対象としている情報の内容・範囲に依存してしまうので、正確なまたは適切な回答を期待するのはそもそも無理があるだろう。
 例えば、Leszek Kolakowski の「マルクス主義の主要潮流」の日本語翻訳書が出版されていない理由は何か、と問うてみても、想定または期待しているような回答は得られず、外国語著の日本語翻訳書がない事情一般に傾斜した回答しか出てこない。ChatGPTの情報が英米語中心でLeszek Kolakowski がポーランド人であることによるのかもしれないが、この人物がアメリカ連邦議会図書館が授与するKluge賞の第一回受賞者だったと知っているか(その情報を蓄積しているか)も疑わしい。
 なお、とくに日本での事情として<冷戦後にマルクス主義への関心が低下した>ことを理由の一つにしていたので、1970年代後半(英米語・ドイツ語翻訳書あり、フランス語の1-2巻翻訳書あり)に出版された上掲書にはあてはまらない(「的はずれ」)と再度書き送ったら、一部に「的はずれ」なことを書いて「お詫びします」と反応してきた。なんと、ChatGPT-4oと「会話」、「議論」ができるのだ。少なくとも<ヒマつぶし>には十分になるだろう。
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 ロシア革命に関する英米語文献で代表的なものは何か、邦訳書が存在していなくてよい、と質問してみたときの回答は興味深いものだった。
 ①Richard Pipes②Orlanndo Figes、の著書(大著)に加えて、③Mark D. SteinbergのThe Russian Revolution 1905-1921(2017)の三つだけが挙げられていた。
 ①と②は原書を所持していて、この欄に一部または相当部分の「試訳」を掲載したこともある。これらが英米語圏で代表的・標準的とされている書物であることに間違いないだろう。Orlanndo Figes の著は、"A Peoples Tragedy: The Russian Revolution: 1891-1924 "(1996)。
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 ③のMark D. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921(2017)を入手してみると(この本はいわゆる編年的な概説書ではない)、「1917」と題する章(第二部/第3章)の冒頭の最初の注記にこうある。
 「私の記述は1917年に関する多数の学術的文献による」、「それらの文献の多くは、注記で参照を示す」。
 「英語による、革命に関するとくに影響力のある概説書(general histories)には、つぎがある」。
 そのあとに著者だけが8名挙げられている。以下のとおり(たぶんABC順)。
 ①O. Figes、②Sheila Fitzpatrick、③Bruce Lincoln、④R. Pipes、⑤Alexander Rabinowitch、⑥Christpher Reed、⑦S. A. Smith、⑧Rex Wade
 ①O. Figes、④R. Pipes は上記。②Sheila Fitzpatrick の本(日本の新書2冊分くらいか)はたぶん全部の試訳をこの欄に掲載した(1931年頃の「大テロル」期まで扱う)。⑦S. A. Smith の著は1917年刊で、所持しているが一部しか読んでいない。あとの4名(4冊)は知らない。
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 具体的な著者名・文献名も興味深いが、日本と日本人にとって重要なことは、つぎのことだ。
 ChatGPT による三冊にせよ、Mark D. Steinberg によるこの本人以外の8名の著書にせよ、日本語翻訳書=邦訳書は、(おそらく)まったくない。
 山内昌之・歴史学の名著30(ちくま新書、2007)は、ロシア革命に関する文献としてトロツキー・ロシア革命史(角川ほか/原著・1931)を挙げる。
 出口治明・教養が身につく最強の読書(PHP文庫、2018)は、100冊以上の本のうち、ロシア革命に関するものとして、ジョン·リード・世界をゆるがした十日間/上下(岩波文庫/原著・1919)を挙げる。
 上は若干の例にすぎないが、日本のロシア革命の歴史に関する翻訳書の出版状況は、英米語が通用する諸国に比べて、相当に異様、異常だと考えられる。
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 一部の例とはいえ、1919年や1931年に出版された本等の翻訳書しか挙げられないようでは、戦後あるいは1989-1991年以降の英米語通用諸国ではより定着しているだろう<ロシア革命>の具体的イメージが枯渇していてもやむを得ないだろう(なお、E. H. カーの本を山内は敢えて避けた旨を書いている)。一方で、1917年に資本主義からの離脱が始まったとか、レーニンは1921年の「ネップ」によって新しい社会主義への路線を確立したとかの、<日本共産党・「ロシア革命」観>が平然と語られているのもむろん異常・異様だ。
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2619/B. Rosenthal・ニーチェからスターリン主義へ(2002)第三編序⑤。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(2002).
 /B. G. ローゼンタール・新しい神話·新しい世界—ニーチェからスターリン主義へ(2002年)。
 一部の試訳のつづき。p.179-。
 第三編/新経済政策(NEP) の時期でのニーチェ思想—1921-1927。
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 第四節①。
 (01) ニーチェの思想は、いくつかの導管を通ってNEP 文化に入った。
 Lunacharsky、トロツキー、ブハーリン、Kerzhentsev、およびIaroslavsky (1918年に左翼共産主義者の一人)は、自分たちの文化戦略のためにニーチェを利用した。
 啓蒙人民委員としてのLunacharsky の権力は、1920-21年に減少した。だがなおも、重要ではあった。
 Gorky が執筆したものは広く知られたままで、彼はソヴィエトの仲間たちとの交際を維持した。
 Mayakovsky の詩の朗読は、多数の聴衆を引き寄せた。
 新しい美学理論の支持者は、ニーチェ主義の要素をもつ前革命期の「isms(主義)」に反応し、お互いにも反応し合った。まだ残っているニーチェ的課題(Nietzschean agenda)の諸問題を新たに解決しようとしていたので。
 1917年以降に成人になった世代にとっては、ニーチェを読んでいる者、ニーチェ思想を間接的または間々接的に知っている者、広まっているニーチェ思想をたんに取り上げているにすぎない者が誰々なのか、を知るのは困難だった。
 ニーチェの書物は人民図書館から排除されていたが、全ての図書館からではなかった。そして個人的に所持されていた本は、手渡しされた。
 新しい、または再発行されたニーチェに関する書物は、私的事業者によって出版されていた。//
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 (02) 文学は、ニーチェ思想の主要な導管だった。
 Merezhkovsky の歴史小説、Artybashev の〈Sanin〉、Verbitskaia の〈幸福への鍵〉は新しい世代の読者を魅了した。
 Merezhkovsky の〈Peter とAleksis〉は、1919年に映画化された。
 Verbitskaia の〈幸福への鍵〉の映画版(1913年)は1920年代半ばに再発表され、大人気を博した。
 表象主義は、若い文筆家に有益な影響を与え、夢想的神話学に対する刺激となった。(注14)
 労働者劇場で生まれていた風刺文は、表象主義の著作から文章を具体化したものだった。
 Ilia Ehrenderg の小説〈Julio Jurenito〉(1922年)の主人公は、大まかにはツァラトゥストラ(Zarathustra)をモデルにしており、Merezhkovsky やBerdiav に倣ってモデル化された登場人物もいた。
 作家のIury Olesha(1899-1960)は、超人、重力に勝つ飛行士、張綱上の歩行者を描いた(Z, p.41,43,48)。(注15)
 歴史小説家たちは、Stenka Razin その他のコサック指導者たちを、合唱団にとどまりつつそこからはみ出し、そして言ってみれば、理性よりも本能に導かれているような、非個人的な神話的人物として叙述した。
 酔っ払いの大騒ぎや指導者と大衆の間の合唱に似た対話の情景は、反乱がディオニュソス的性格を持つことを強調した。
 Stenka Razin は、未来主義者の詩人のKamensky が好んで取り上げた主題だった。//
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 (03) 初期のソヴィエトの作家たちが好んだ主題である内戦は、動物的行動、残虐性、非道徳主義を強調する、俗悪なニーチェ的、またはニーチェ・ダーウィン的接近方法に適応したものだった。
 Boris Pilniaks の〈引き剥れた年〉(1922年、1919年刊)の中の一人物は、「強者だけを生き延びさせよ、…人間性と倫理感をもつ悪魔(devil)だけを」と宣言する。
 Isaac Babel の〈赤い騎兵隊〉は、ニーチェ的意味を読みとる文芸批評家たちに対して、力の美しさを提示した。Babel は権力に関して曖昧で、留保なしで権力を称賛することはやめたけれども。(注16)
 その書物はひどく残酷な情景を、例えば、養豚者が過去の悪事に復讐するために以前の主人の顔を踏みつける場面を、含んでいた。
 Vsevolod Ivanov の〈装甲列車 14-19〉(1922年)は、ソヴィエトの古典になった。
 当時の人々は彼を「革命+Gorky」だと見なし、Gorky はIvanov の「自然(elemental)の人間」の描写を支持した。
 Ivanov を称賛すべく使われた言葉—「愉快な」、「活力のある」かつ「新しい創造的エネルギー」—は、著者と批評者を結びつけるニーチェ的糸筋を示唆していた。
 Ivanov はニーチェの主要作品の全てを読んでおり、それらの書物のほとんどを所持していた。(注17)
 少ししか名を挙げないが、Iury Libedinsky の〈一週〉(1923年)、Ilia Selvinsky の〈鉄の氾濫〉(1924年)のようなその他の内戦小説は、(ディオニュソス的)動乱または鉄の男、またはこれら両者を描いた。//
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 (04) Katherina Clark は、自然発生性と意識性の弁証法はソヴィエトの小説にある「大筋」の構造的焦点だと見る。(注18)
 この弁証法は、アポロ的なものととディオニュソス的なものとしても叙述することができる。レーニンにおける対極性がこれらに対応しているがゆえにだけではなく。
 「アポロ的」と「ディオニュソス的」は語彙の中にきちんとした位置を占め、新しい出版物はこれらに関してソヴィエトの読者たちに説明した。
 Evgeny Braudo は〈ニーチェ、哲学者と音楽家〉(1922年)で、ニーチェの「悲劇」はニーチェの科学的関心(アポロ)とその芸術的霊魂(ディオニュソス)を均衡させようとした過ちだった、と書いた。そして、苦痛を甘受するディオニュソスの能力を強調した。これは、長く苦しんでいるロシアの民衆の最近の試練を婉曲に指摘していた。(注19)
 このBraudo の書物は、何回も再版された。
 Evreinov (芸術監督)はその書物の〈アザゼルとディオニュソス〉(Azazel i Dionis、1924年)で、ディオニュソスをイエスと微妙に関連づけた。悲劇はユダヤ人の間から生まれた、ディオニュソスはユダヤ出自だ、と論じることによって。
 Veresaev は〈アポロとディオニュソス〉で、ディオニュソスを悲観主義や頽廃主義と同一視し、彼自身の「生きる人生」(Dostoevsky の言葉)の哲学を発展させた。 
 Veresaev は、表象主義者とニーチェはアポロについて忘却したとし、「かくして我々は死ぬ」と主張した。ホメロスはギリシャ文化の頂点を代表しており、それはアポロによって象徴化されている、と。//
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 序・第四節①、終わり。

2613/B. Rosenthal・ニーチェからスターリン主義へ(2002年)第三章序。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(2002).
 /B. G. ローゼンタール・新しい神話·新しい世界—ニーチェからスターリン主義へ(2002年)。
 「第一編/萌芽期・ニーチェのロシア化—1890-1917」の「第3章・ニーチェ的マルクス主義者」の「序」の試訳。邦訳書は、ない。
 以下に名が出てくるA. Lunacharsky は、1917年「十月革命」後の初代の<啓蒙(=文化·教育)人民委員(=大臣)>。
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  第一編/萌芽期・ニーチェのロシア化—1890-1917。
  第3章・ニーチェ的マルクス主義者。
  序。
  (01) George I. Kline は、「ニーチェ的マルクス主義」という用語を作って、その中に、Aleksandr Bogdanov(出生名はAleksandr Malinovsky、1873-1938)、その義弟のAnatoly Lunacharsky(1875-1933)、Maxim Gorky(Aleksei Peshkov、1868-1936)、V. A. Bazarov(V. Rudnev、1874-1939 )、Stanilav Volsky(Andrei Solokov、1880-1936)を包摂した。(注1)
 私は、Aleksandra Kollontai(1872-1952)も含める。
 これらのマルクス主義者たちは、マルクスとエンゲルスが軽視した問題—倫理、認識論、美学、心理学、文化、その他の諸価値—を強調した。そして、神話がもつ政治心理的(psychopolitical)有用性を承認した。//
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 (02) 彼らは全てが芸術的文化的創造性の問題に敏感で、自由な発意と意欲を強調した。しかし、意欲や創造性がとる形態は個人なのか集団なのかに関しては一致していなかった。
 彼らにおける集団性は、義務的なものを意味してはいなかった。
 彼らは、人々が義務の意識から集団に従属するのではなく、自分たちを集団と一体視することを望んだ。
 ニーチェが助けたのは、Plekhanov がほとんど抹消して革命的人民主義の精神の中に含めてしまった、マルクス主義の「英雄的」で主意主義的(voluntaristic)な側面を取り出すことだった。//
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 (03) ニーチェが〈平等への意思は、権力への意思だ〉と言ったとき、論理(logic)について語っていたが、彼の観察は、政治と社会に適用することができるものだった。「平等への意思」が既存の権威を廃して代わりに新しい権威を就かせる、という意味を含んでいる場合には。
 ニーチェ的マルクス主義者は、プロレタリアートを権威に就かせることを望んだ。
 彼らは、「ロマン派革命家たち」、「ボルシェヴィキ左派」としても知られている。Gorky が公式にはボルシェヴィキではなく、Kollontai は1915年まではメンシェヴィキだったとしても。
 レーニンは、Bogdanov の「マッハ主義」認識論に因んで、彼らを「Machians」(ときどき「マッハ主義者」(Machists)と翻訳される)と称した。//
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 (04) ニーチェ的マルクス主義者は、第一章と第二章で叙述した表象主義者や哲学者たちと議論した。
 思想についてBerdiaev が意欲の重要性を強調したこと(意欲は人間の行動を喚起する)は、Bogdanov の認識論への関心を掻き立てた。
 Bogdanov とLunacharsky は、新観念論者の雑誌〈哲学と心理学の諸問題〉にいくつかの初期の論考を発表した。
 Bogdanov は〈観念論の諸問題〉を論評し、〈実在論的世界観に関する小考〉(1904)という対抗シンポジウムを組織した。(注2)
 Gorky とLunacharsky は、宗教哲学学会の会合やIvanov の社交的集まりに出席した。
 他に多くの交流の例を挙げることができる。//
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 (04) Bogdanov は、Gorky とLunacharsky が行ったほどに頻繁には、ニーチェに言及しなかった。そして、無味な「科学的」語彙を用いた。そのために、彼に対するニーチェの影響はより分かりづらい。
 しかしながら、芸術と神話がもつ意識を変革する力についての彼の信念、神話創造の自分自身の試み、そして文化革命の呼びかけには、プロレタリアートの立場からする「全ての価値の再評価」が含まれていることが明らかだ。
 最もよく分かるのは、Bogdanov は「イデオロギー」という語を肯定的に用いており、「イデオロギー」は虚偽の意識であって支配階級の利益のための現実の神秘化または歪曲を意味したマルクスやエンゲルス(MER,p.154-5.)とは大きく違っていた、ということだ。 
 Bogdanov は、「社会におけるイデオロギーの客観的役割、イデオロギーがもつ不可欠の社会的機能を不明瞭な」ままにした、「イデオロギーは組織する形態だ、同じことだが、全ての社会的実践のための組織的手段だ」として、マルクスとエンゲルスを批判した。(注3)
 イデオロギーはたんに社会経済的構造を反映するのではなく、社会を「組織する」、ゆえに創造するに際してきわめて重大な役割を果たす。
 イデオロギーは、正当化する形態であるだけではない。それは構築的な現象だ。
 Bogdanov の著作においては、イデオロギーは神話とほとんど同義だ—合理的に構成された神話。
 彼はときおり、Ivanov の語である「神話創造」(myth-creation)を用いた。しかし、理性的な意識の役割を強調した。//
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 (05) Bogdanov の小論である「人間の集結」(〈Sobiranie cheloveka〉,1904)は、つぎの三つの標語でもって始まる。
 「社会的存在が意識を規定する」(マルクス)。「神は自ら自身の像で人間を創造した」(創世記I、27)。「人間は橋渡しであって、目標ではない」(ニーチェ)。(注5)
 〈Sobiranie〉は、「集団」または「集合」と翻訳することもできる。そして、認識論的には〈Sobornost〉という観念と結びついている。
 考え得る他の訳語の「統合」を用いると、〈Sobiranie〉はスラヴ人好みの全体(wholeness)という観念をその意味に含んでいる。
 Bogdanov にとって、進歩とは「意識的な人間生活の全体と調和」を意味した。(注6)
 彼は、職業上の専門化と労働の区別がそうしているように、個人主義は、個人と社会の調和を破壊する、と考えた。
 とくに、精神労働と身体労働の分離に反対した。—これは、青年マルクス、Mikhailovsky、そしてFedorov が思考した主題だった。
 彼が疎外の克服を強調したのは、まだ知られていなかった1844年のマルクスの草稿を先取りしていた。 
 Bogdanov がとくに好んだ言葉の中に、「調和」があった(ニーチェの語彙の一部ではなく、Fourier その他の夢想的社会主義者たちによって多くは使われた)。また、「支配」や「支配すること」(mastery, to master)(〈ovladenie〉,〈ovladet〉)もあった(これは、「把握(すること)」または「所有(すること)」とも翻訳することができる)。
 彼の用語法での「支配」およびこれに関連する言葉は、複数の意味を含んでいた。知識や技術をmasterしている労働者、自然をmaster している専門家(〈chelovechestvo〉)、奴隷がmaster になる、地上の新しい主人としてのプロレタリアート。
 彼が最も好んだ言葉である「組織化」はLavrov の戦略に立ち戻るものだったが、Bogdanov の用語法では、Apollo 的側面があった。
 Apollo は統合し、構造化する。
 Bogdanov は、「組織化への意思」によって駆り立てられていた、と言っても誇張ではないだろう。
 ——
 第一編第1章「序」、終わり。

2608/R・パイプス1994年著結章<省察>第九節(了)。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 結章・ロシア革命に関する省察。試訳の最後。原書、512頁。
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 第九節・歴史からの道徳的示唆。
 (01) 科学的方法を人間の諸問題の管理に適用することはできないことを例証したことに加えて、ロシア革命は、政治の性格の問題、すなわち彼らの委任なくして、いや彼らの意思に反してすら、人間を作り直し、社会を再様式化しようとする政府の権利という、きわめて深大な道徳的問題を提起した。すなわち、初期の共産党のスローガン、「我々は力ずくで人類を幸せに向かわせる」、の正当性だ。
 レーニンと懇意にしていたGorky は、レーニンは人間を鉱石に対する金属加工者だと見なした、とするムッソリーニに同意した。(注24)
 レーニンの見方は、至るところにいる急進的知識人たちに共通する見方を表現したものにすぎなかった。
 これは、道徳的に優れていて同時により現実的なカントの原理的考えに逆行している。カントは、人間は決して他者の目的のためのたんなる手段になってはならず、自分自身に目的があるとつねに考えられなければならない、と説いた。
 この優れた見地からすると、ボルシェヴィキの過剰さ、自分たちの目的のために無数の人々の生命を簡単に犠牲にすることは、倫理と良識のいずれをも醜怪に侵害するものだ。
 ボルシェヴィキは、手段は—人々の福利および生命すら—きわめて現実的なものであり、それに対して目的はつねに漠然としていて、しばしば達成し難い、ということを黙殺した。
 この場合に適用する道徳的原理は、カール・ポパー(Karl Popper)によってこう定式化されてきた。
 「全ての人間が、価値があると自分が考える目的のために自分を犠牲にする権利をもつ。
 誰一人として、ある目的のために他者を犠牲にしたり、他者が彼らたちを犠牲にするよう誘発したりする権利をもたない。」(注25)//
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 (02) フランス革命に関するその記念碑的研究から、Hippolyte Taine は、彼自身は「たわいもない」(puerile)と表現した教訓を、すなわち「人間社会は、とくに近代の社会は、巨大で複雑なものだ」という教訓を導き出した。(注26)
 このような観察を、つぎのような推論でもって補足する誘惑に駆られる。
 まさに近代社会は「巨大で複雑な」ものであり、したがって把握して理解するのがきわめて困難であるがゆえに、社会を再構築しようとするのはもちろん、管理の諸様式を社会に押し付けるのは、適切ではなく、実現可能でもない。
 把握して理解することができないものを、統御することはできない。
 ロシア革命の悲劇的で醜悪な物語—現実にそうだったものであり、人類を向上させる高貴な企てと見た外国の知識人たちの想像ではそう思えたものではない—が教えるのは、政治的な権力(authority)は、イデオロギー上の目的のために用いられてはならない、ということだ。
 人々はあるがままに任せるのが、最善だ。
 Oscar Wilde が中国の賢人が語ったとした言葉によると、こうだ。人間にそのまま任せるべきものは、ある。—しかし、人間を統治(govern)するようなことは、かつてなかった。//
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 後注
 (24) NZh, No. 177/171 (1917.11.10), in H. Ermolaev, ed., Maxim Gorky, Untimely Thoughts (1968), p.89.
 (25) Frankfurter Allgemeine Zeitung, No. 291 (1976.12.24), Section VI, p.1.
 (26) Hippolyte Taine, The French Revolution, II (1881), Preface, p. v.
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  第九節、結章全体が終了。

2607/R・パイプス1994年著結章<省察>第八節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 結章・ロシア革命に関する省察。試訳のつづき。
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 第八節・共産主義の失敗の不可避性。
 (01) それ自体がもった願望から判断すると、共産主義は記念碑的(monumental)な失敗だった。共産主義は、ただ一つのことだけに、成功した。—権力にとどまること。
 しかし、ボルシェヴィキにとっては権力はそれ自体が目標ではなくその目的のための手段だったのだから、たんなる権力保持だけでは、実験は成功したと評価することはできない。
 ボルシェヴィキは、その目的を何ら秘密にしていなかった。すなわち、私的財産を基礎にする全ての体制を打倒し、それらを世界的な社会主義社会の同盟で置き換えること。
 ボルシェヴィキは、第一次大戦の終わりまでに拡張していたロシア帝国の国境の内部でのみ成功した。第一次大戦終焉のとき、赤軍はドイツの降伏によって生まれた東ヨーロッパの真空に踏み込んだ。中国共産党は日本から自分たちの国の支配を奪った。そして、モスクワの助力を受けた共産主義独裁制が、新しく解放された地域に設立された。//
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 (02) 共産主義を輸出することが不可能だといったん判ると、ボルシェヴィキは1920年代に、自国での社会主義社会の建設に取り組んだ。
 この尽力も、失敗した。
 レーニンは、強制的没収とテロルを結合させることで、自国を数ヶ月のうちに世界の指導的な経済大国に変えるのを期待した。実際には反対に、彼が継承した経済を破滅させた。
 レーニンは、共産党がnation に対する紀律ある指導力を持つことを期待した。実際には反対に、国全体で弾圧した政治的不満や、自分の党内部の変化に遭遇した。
 労働者たちが共産主義者に背を向け、農民たちが反乱を起こしたとき、権力にとどまるには、断固として警察的手段に訴えることが必要だった。
 膨らんで腐敗した官僚機構は、体制の行動の自由を妨げた。
 諸民族の自発的な同盟は、抑圧的な帝国に変わった。
 最後の二年間のレーニンの演説と文章が明らかにしているのは、建設的な思想の衝撃的な少なさと経済に関する無能力さだ。テロルでさえも、古い国に染み込んだ習慣を克服するには役に立たないことが判った。
 ムッソリーニは、初期の経歴がレーニンのそれにきわめて似ており、ファシスト独裁者としてであれ共産主義体制を共感をもって観察していた。その彼は1920年7月にすでに、ボルシェヴィズムという「巨大で、恐ろしい実験」は失敗した、と結論づけた。
 「レーニンは、他の芸術家が大理石や金属の上で仕事をするように、人間の上で仕事をした芸術家だった。
 しかし、人間は花崗岩よりも硬く、鉄ほどには可塑的でない。
 傑作は生まれなかった。
 芸術家は、失敗した。
 その仕事は彼の力量を超えることが判明した。」(注22)/
 70年と数千万人の犠牲者のあとで、レーニンとスターリンのロシアの長としての継承者であるBoris Yeltsin は、アメリカの連邦議会に対して、多くのことを承認した。
 「世界は、安心して嘆息することができる。
 至るところに社会的衝突、敵愾心、人間性に注入する無比の残忍さを蔓延させた共産主義という偶像は、崩壊した。
 崩壊した。二度と生まれることはない。」(注23)//
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 (03) 失敗は不可避だった。失敗は、共産主義体制の前提そのものの中に組み込まれていた。
 ボルシェヴィズムは、歴史上最も無謀な、国の生活全体を総合計画に従属させ、全ての人間と全ての事物を合理化しょうとする企てだった。
 ボルシェヴィズムは、人類が数世紀にわたって蓄積してきた智恵を、無用のごみくずのごとく捨て去った。
 その意味で、科学を人間の諸問題に適用しようとする、独特な作業だった。
 それは、知識人層という種族に特徴的な熱情をもって追求された。知識人たちは、自分たちの理想に抵抗があることはその理想が健全であることの証拠だと考えた。
 共産主義は、啓蒙主義の誤った教理から出発したがゆえに、失敗した。これは思想の歴史でおそらく最も有害な、人間はたんなる物質的合成物で、精神や生得の思想を欠いている、という考え方だ。人間は、無限に鍛造可能な社会環境の産物のごときものだ、と見なす。
 この教理によって、個人的忿懣をもつ人々が社会にそれを向けること、自分たちではなく社会に解消させようとすること、が可能になった。
 経験が何度も確認してきたように、人間は生命のない物体ではなく、自らの願望と意思をもつ生物だ。—機械的存在ではなく、生物的存在だ。
 かりに最も凄まじい調教を受けたとしても、人間は、学ぶよう強制された教訓を自分の子どもたちに伝えることができない。子どもたちは絶えず新しくこの世に生まれてきて、最終的に解決されたと考えられている疑問を投げかけるのだ。
 この常識的な真実を例証するために、数千万人の死者、生き残った人々の甚大な苦しみ、そして一つの大国の破滅が必要だった。//
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 (04) このような欠陥のある体制が、どのようにして長く権力を維持し続けることに成功したのか。この疑問に、我々が何を思いつこうとも、体制の人々自身が支持したからだ、という答えで対処することはできない。
 市民からの明示的な委託にもとづかない政府の耐久性をその言うところの人気(popularity)で説明する者はみな、同じ弁明をその他の全ての、ツァーリズムを含む権威主義的体制にも行なわなければならない—ロシアのそれは70年ではなく7世紀も生き残った。そして、どうやらとても人気があったツァーリズムがどのようにして、数日のうちに崩壊したのか、を説明するという、面白くない仕事にさらに直面しなければならない。//
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 後注
 (22) Benito Mussolini, Opera Omnia, XV (1954), p.93.
 (23) NYT, 1992.6.18, p. A18.
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 第八節、終わり。つづく。

2606/R・パイプス1994年著結章<省察>第七節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 結章・ロシア革命に関する省察。試訳のつづき。
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 第七節・革命の人的犠牲(human cost)。
 (01) 革命はロシアに、途方もない人的損失を負わせた。
 統計資料はきわめて衝撃的で、疑問を生じさせるほどだ。
 しかし、誰かが別の数字を示すことができないかぎり、歴史家はそれを受け容れざるを得ない。共産主義者と非共産主義者の人口統計学者たちが似たような数字を提示しているので、いっそうそうなる。//
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 (02) 以下の表は、1926年の国境内部でのソヴィエト同盟の人口を示している(単位は100万人)。
  1917年秋/147.6
  1920年初/140.6
  1920年初/136.8
  1922年初/134.9 (注19)
 人口の減少—1270万人—の原因は、まず、戦闘と感染症による死亡だった(それぞれ約200万人)。また、脱出(約200万人)。そして、飢饉(500万人以上)。//
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 (03) しかし、これらの数字は物語の半分しか伝えていない。通常の条件のもとでは、人口は静止したままではなく、明らかに増加するだろうからだ。
 ロシアの統計学者の推算が示すのは、1922年に人口は1億3500万ではなく、1億6000万以上を数えたはずだった、ということだ。
 この数字を考慮するならば、脱国者(エミグレ)の数を除いても、ロシアでの革命の人的犠牲者は—現実のそれと出生の減少とで—、2300万人以上に達する。(*) これは、第一次世界大戦の全交戦諸国が被った戦死者数の二倍半で、当時のスカンジナヴィア4カ国にオランダを合わせた人口数にほぼ匹敵する。
 現実の死亡者は16歳〜49歳の年代集団で最も多く、とくにその世代の男性に多い。彼らのうちの29パーセントが、1920年8月までに死んだ。つまり、飢饉が起きる前に。(20)//
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 (04) このような前例のない厄災を、平静に見ることができるか? 平然と見なければならないのか?。
 我々の時代の科学の威厳はきわめて高いので、少なからぬ学者たちは、調査に関する科学的方法とともに、道徳的かつ情緒的な冷静さという科学者の習慣を、別言すれば全ての現象を「自然な」ものと、ゆえに倫理的に中立的なものと見る習癖を、身につけてきた。
 彼らは、歴史的事象に人間の意欲を入り込ませるのを嫌う。自由な意思は予測できないので、科学的分析に馴染まないからだ。
 歴史的「不可避性」は、彼らには科学者にとっての自然の法則なのだ。
 しかし、科学の対象と歴史学の対象は大きく異なることがこれまでに知られてきた。
 我々は正当に、医師による病気の診断や、冷静で感情を交えない治療方法の提示を期待する。
 会社の財務状況を分析する会計士、設備の安全性を検査する技師、敵国の能力を評価する情報将校は明らかに、感情に左右されないままでいなければならない。
 その理由は、彼らの調査の目的は適切な決定に到達するのを可能にすることにあるからだ。
 しかし、歴史家にとっては、決定は他者によってすでになされており、冷静さがあっても理解に何も付け加えはしない。
 実際には、理解を妨げる。なぜなら、熱情の火の中で生み出された事象を、どうやって熱情なくして理解することができるのか?
 「Historiam puto scribendam esse et cum ira et cum studio」—「私は、歴史は怒りと熱狂でもって書かれるべきだ、と主張する」と、ある19世紀のドイツの歴史家は述べた。
 全ての問題について中庸を説いたアリストテレスは、「怒りを欠くこと」が受容し難い状況がある、と書いた。「怒るべき事物に対して怒らない者たちは、馬鹿だと見なされるからだ」。(注21)
 関連性のある事実を集めることは、たしかに、冷静に、怒りや狂熱なくして、行なわれなければならない。歴史家の仕事のこの側面は、科学者のそれと異なるところはない。
 しかし、これは、歴史家の任務の始まりにすぎない。なぜなら、これらの事実を分類すること自体が—どれが「関連性がある」かに関する決定なのだから—、判断を必要とし、そしてこの判断は、価値に依存する。
 事実それ自体には、意味がない。事実を選択する指針を与えはしないし、命令しもしない。そして、強調すれば、過去の「意味を理解する」ためには、歴史家は何らかの原理的考え方に従わなければならない。
 歴史家は通常は、原理的考え方を持っている。意識していようといまいと、最も「科学的な」歴史家ですら、諸前提を置いて仕事をしている。
 総じて言えば、この諸前提は、経済的決定論に根ざしている。経済的、社会的な基礎資料は、統計学的な論証を導き、この論証は公平さという幻想を生むからだ。
 歴史的事象に関する判断を経るのを拒絶することも、道徳的諸価値にもとづく。すなわち、起きることは全て自然であり、ゆえに正しい(right)という暗黙の前提に立っている。これは、たまたま勝利を獲得した者たちを弁明することにつながる。//
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 後注。
 (19) Iu. A. Poliakov, Sovetskaia strana posle okonchaniia grazhdanskoi voiny (1986), p.94.
 (20) S. G. Strumilin, Problemy ekonomiki truda (1957), p.39.
 (21) Aristotle, Nicomachaean Ethics, IV, p.5.
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 第七節、終わり。つづく。

2605/R・パイプス1994年著結章<省察>第六節(レーニンとスターリン)。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 結章・ロシア革命に関する省察。試訳のつづき。
 つぎの第六節は、2017年・2018年に試訳を掲載・再掲している。
 2017/04/09(1490/日本共産党の大ウソ33)、2018/11/08(1490再掲/レーニンとスターリン—R·パイプス1994年著)。
 これに依りつつ、あらためて原書を見て少し修正した試訳を掲載する。
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 第六節・レーニン主義とスターリン主義。 
 (01) ロシア革命に関して生じる最も論争のある問題の一つは、レーニン主義とスターリン主義の関係、-言い換えると-スターリンに対するレーニンの責任、だ。
 西側の共産主義者、その同伴者(fellow-travelers)および共感者たちは、この二人の共産党指導者の間のいかなる連関も否定する。そして、スターリンはレーニンの仕事を継承しなかったのみならず、それを転覆したと主張する。
 1956年に第20回党大会でニキータ・フルシチョフが秘密報告をしたあと、このような見方をすることは、ソヴェトの公式の歴史叙述の義務になった。これはまた、軽蔑されるスターリン主義の先行者から、その後の体制を切り離すという目的に役立った。
 興味深いことに、レーニンの権力掌握は不可避だったと叙述する全く同じ者たちが、スターリンの叙述に至ると、その歴史哲学を捨て去る。彼らは、スターリンは歴史からの逸脱だ、と叙述するのだ。
 彼ら〔西側共産主義者・その同伴者・共感者〕は、その言う先立つ行路のあとで、歴史がいかにして(how)そしてなぜ(why)、30年の迂回をたどったのかを説明できなかった。//
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 (02) スターリンの経歴を検証すれば、彼はレーニンの死後に権力を掌握したのではなく、最初からレーニンの支援を受けて、一歩ずつ権力への階段を昇っていったことが明らかになる。
 レーニンは、党の諸機構を管理するスターリンの資質を信頼するに至っていた。とくに、民主主義反対派により党が引き裂かれた1920年の後では。
 歴史の証拠資料が示すのは、トロツキーが回顧して主張するのとは違って、レーニンはトロツキーに依存したのではなくその好敵〔スターリン〕に依存して、統治にかかわる日常の事務を遂行したこと、国内政策および外交政治の諸問題に関して彼〔スターリン〕にきわめて多くて多様な助言を与えた、ということだ。
 レーニンは、1922年には、病気によって国政の仕事からますます身を引くことを強いられた。その年に、レーニンの後援があったからこそ、スターリンは党中央委員会を支配する三つの機関、政治局、組織局および書記局、の全てに属することになった。
 スターリンはこれらの権能にもとづいて、実質的には全ての党支部や国家行政部門への執行的人員の任命を監督した。
 レーニンが組織的反抗者(「分派主義」)の発生を阻止するために導入していた諸規則のおかげで、スターリンは自分が執事的地位にあることへの批判を抑圧することができた。その批判は自分ではなく、党に向けられている、したがって定義上、反革命の教条に奉仕するものだ、と論難することによって。
 レーニンが活動できた最後の数ヶ月に、レーニンがスターリンを疑って彼との個人的な関係が破れるに至ったという事実はある。しかし、これによって、そのときまでレーニンが、スターリンが支配者へと昇格するためにその力を絞ってあらゆることを行ったという明白なことを、曖昧にすべきではない。
 かつまた、レーニンが保護している子分に失望したとしてすら、感知したという欠点-主として粗暴さと性急さ-は深刻なものではなかったし、スターリンの人間性よりも大きく彼の管理上の資質にかかわっていた。
 レーニンがスターリンを共産主義というそのブランドに対する反逆者だと見なした、ということを示すものは何もない。//
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 (03) しかし、一つの違いが二人を分ける、との議論がある。つまり、レーニンは同志共産主義者〔党員〕を殺さなかったが、スターリンは大量に殺した、と。但しこれは、一見して感じるかもしれないほどには重要でない。
 外部者、つまり自分のエリート秩序に属さない者たち-レーニンの同胞たちの99.7%を占めていた-に対してレーニンは、いかなる人間的感情も示さず、数万の(the tens of thousands)単位で彼らを死へと送り込み、しばしば他者への見せしめとした。
 チェカ〔政治秘密警察〕の高官だったI. S. Unshlikht は、1934年にレーニンを懐かしく思い出して、チェカの容赦なさに不満を述べたペリシテ人的党員をレーニンがいかに「呵責なく」処理したかを、またレーニンが資本主義世界の <人道性> をいかに嘲笑し馬鹿にしていたかを、誇りを隠さないで語った。(注18)
 二人にある上記の違いは、「外部者」という概念の違いによる。
 レーニンにとっての内部者は、スターリンにとっては、自分にではなく党の創設者〔レーニン〕に忠誠心をもち、自分と権力を目指して競争する、外部者だった。
 そして彼らに対してスターリンは、レーニンが敵に対して用いたのと同じ非人間的な残虐さを示した。(*)//
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 (脚注*)  実際に、他の誰よりも長くかつ緊密に二人と仕事をしたViacheslav Molotov は、レーニンの方がスターリンと比べて「より苛酷(harsher)」だった(< bolee surovyi >)と語った。F. Chuev, Sto sorek besed s Molotovym (1991), p.184.
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 (04) 二人を結びつける強い人間的関係を超えて、スターリンは、その後援者の政治哲学と実践に忠実に従うという意味で、真のレーニニスト(レーニン主義者)だった。
 スターリニズムとして知られるようになるものの全ての構成要素を、一点を除いて-同志共産党員の殺戮を除いて-、スターリンは、レーニンから学んだ。
 レーニンから学習した中には、スターリンがきわめて厳しく非難される二つの行為、集団化と大量テロルも含まれる。
 スターリンの誇大妄想、復讐心、病的偏執性およびその他の不愉快な個人的性質によって、スターリンのイデオロギーと活動様式(modus operandi)はレーニンのそれらと同じだったという事実を曖昧にしてはならない。
 わずかしか教育を受けていない人物〔スターリン〕には、レーニン以外に、諸思考の源泉になるものはなかった。//
 論理的には、死に瀕しているレーニンからトロツキー、ブハーリンまたはジノヴィエフがたいまつを受け継いで、スターリンとは異なる方向へとソヴェト同盟を指導する、ということを思い浮かべることはできる。
 しかし、レーニンが病床にあったときの権力構造の現実のもとで、<いかにして> 彼らはそれができる地位におれたか、ということを想念することはできない。
 自分の独裁に抵抗する党内の民主主義的衝動を抑圧し、頂点こそが重要な指揮命令構造を党に課すことによって、レーニンは、党の中央諸装置を統御する人物が党を支配し、そしてそれを通じて、国家を支配する、ということを後継者に保障したのだ。
 その人物こそが、スターリンだった。
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 (後注18)  RTsKhIDNI, Fond 2, op. 1, delo 25609, list 9。
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 結章第六節、終わり。つづく。

2604/R・パイプス1994年著結章<省察>第五節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 結章・ロシア革命に関する省察。試訳のつづき。原書、p.502〜。
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 第五節・共産主義とロシアの歴史の遺産。
 (01) 多くの不一致があるにもかかわらず、現在のロシア民族主義者たちと多数のリベラルたちは、帝制と共産主義ロシアの間の連結関係を否定する点では、一致している。
 前者が連関を承認するのを拒否する理由は、外国人、とくにユダヤ人を攻撃するのを好んだことについて、共産主義ロシアは自分自身の不運に対する責任を負う、というものだ。
 この点で彼らは、ドイツの保守派に似ている。ドイツ保守派は、ナツィズムをヨーロッパの一般的現象の一つと描く。その目的は、ドイツの過去に先例があったことを否定すること、あるいはドイツ人が特別に責任を負うこと、の否定だ。
 このような考え方は、間違ったことの責任を他者に転嫁することができるので、その影響を受けた人々の心を容易に掴んでいる。//
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 (02) リベラルたちや急進的知識人—ロシアには外国ほど多くないが—は、共産主義とツァーリズムとの間の親近関係を、革命全体が犠牲が多い無意味な大失敗になってしまうという理由で否定する。
 彼らが好むのは、共産主義者たちの宣せられた目標に焦点を当てて、それを帝制時代の現実と対比させることだ。
 こうすれば、瞠目すべき対照が生まれる、という。
 もちろん、共産主義時代の現実と帝制時代の現実を比較すればほとんど直ちに、描いた構図は変化する。//
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 (03) レーニンの体制と伝統的ロシアの類似性を、少なからぬ現代人は、とりわけ歴史家のPaul Miliukov、哲学者のNicholas Berdiaev、老練社会主義者のPaul Akseirod は(注10)、および小説家のBoris Pilniak は、気づいている。
 Miliukov によると、ボルシェヴィズムには二つの側面がある。
 「第一に、国際的だ。第二に、純粋にロシア的だ。
 ボルシェヴィズムの国際的側面は、きわめて先進的なヨーロッパの理論を起源としていることによる。
 その純粋にロシア的側面は、主としてその実践に関係している。ボルシェヴィズムの実践的側面はロシアの現実に深く根ざしていて、『アンシャン・レジーム』からの離反では全くなく、ロシアの過去を現在に再現(reassert)するものだ。
 我々の惑星の初期の時代の証拠として、地質の変化は地球の下の地層から表面に達しているのだが、ロシアのボルシェヴィズムは、薄い、社会の表層だけを取り除くことによって、ロシアの歴史的生命の非文化的で非組織的な基層は全くそのままに残した。」(注11)
 革命を主として精神の観点から検討したBerdiaev は、ロシアに革命があったことすら否定した。
 「過去の全てが繰り返されており、新しい仮面(masks)に隠れて動いている」。(注12)//
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 (04) ロシアに関して全く無知の者でも、たった一日の1917年10月25日に、武装蜂起の結果として、数千年の古い歴史をもつ巨大で人口の多い国が完全に変革され得たという推移を理解することができない、と感じるに違いない。
 同じ人々、同じ領土に居住する人々、同じ言語を話す人々、共通する過去の継承者たちが、政府の突然の交替によって異なる人間に作り上げられることは、ほとんどあり得なかった。
 このような劇的な、自然界には存在しない変形が可能であると信じるためには、物理的な実力に裏打ちされている布令(decree)についてにすら、その布令の力に対する大きな信頼が必要だ。
 人間は環境によって完全に塑型される自立性なき物体だ、と考えてのみ、このような非条理なことを思いつくことができるだろう。//
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 (05) 二つのシステムの間の継続性を分析するには、家産主義(patrimonialism)という概念を参照しなければならない。この家産主義はモスクワ公国の統治の基礎にあり、多くの態様で旧体制の終焉までロシアの制度や政治文化に存続してきた。(注13)
 帝制家産主義は、四つの支柱に依拠した。
 第一に、独裁政。すなわち、憲法にも代表的機関にも制約されない個人的支配。
 第二に、専制者による、国の資産の所有。すなわち私的財産の事実上の不存在。
 第三に、臣民に無制限の奉仕を要求する、専制者の権利。これは、集団的と個人的のいずれの権利も存在しないことに帰結した。
 第四に、国家による情報の統制。
 絶頂期の帝制支配を共産主義体制を比較すれば、レーニンの死の頃までに見られたように、間違いようのない類似性が明らかになる。//
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 (06) まず、独裁政から。
 伝統的に、ロシアの君主は、立法と執行の権力を完全に掌握し、外部の組織による干渉を受けないでそれらを行使した。
 君主は、民族または国家ではなく彼個人に忠誠を誓う奉仕貴族や官僚たちの助けを借りて統治した。
 レーニンは、役職に就いたその初日から、本能的にこのモデルに倣った。
 民主主義の理想への譲歩として立憲制や代表的機構を認めたけれども、それらは全く儀礼的な機能しか果たさなかった。立憲制は国家の真の支配者である共産党を拘束する力を持たず、議会は選挙されず、同じ政党によって選抜されたのだから。
 職責の履行に関して、レーニンは、最も独裁的なツァーリのピョートル一世やニコライ一世に似ていた。レーニンは、国はあたかも自分の私的所有物であるかのごとく、国家事務のきわめて詳細な事柄にも個人的に関与するのを執拗に主張した。//
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 (07) モスクワ公国の先行者がそうだったように、ソヴィエト支配者は、国の生産的、収益作出的な富への権益を要求した。  
 土地と工業の国有化に関する布令を皮切りに、政府は、純粋に個人的に使用される物品を除く全ての資産を奪い取った。
 そして、政府は一党の手中にあり、その党は今度はその指導者の意思に服従したがゆえに、レーニンは、国の物質的資産の事実上の所有者だった。
 (法的な所有権は「人民」にあったが、これは共産党と同義だと見なされた。)
 工業は、国家が指名する管理者によって運営された。
 その生産品と、1921年以前は土地からの生産物は、クレムリンが適切と判断したように処分された。
 都市部の不動産は、国有化された。
 私的な商取引は(1921年以前と1928年以降は)非合法化され、ソヴィエト体制は全ての合法的な卸売りと小売りの取引を統制した。
 こうした措置はモスクワ公国の実務を超えていたが、ロシアの主権者は国を支配するだけではなく所有しもするという原理を永続化するものだった。//
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 (08) 君主は、その住民も所有した。
 ボルシェヴィキは、国家に奉仕する義務を再び制度化した。これは、モスクワ公国・絶対主義の際立つ特質の一つだった。
 モスクワ公国では、皇帝の臣民は、微少な例外を除いて、軍隊や官僚機構で直接的にか、臣民の土地を耕作することでまたは従僕に条件付きで賃貸することで間接的にか、皇帝のために労働しなければならなかった。
 結果として、全国民が王君に繋がれた。
 奴隷状態からの解放は1762年に始まった。その年、郷紳(gentry)たちは私的な生活へと隠退することが認められ、99年後には奴隷解放の結果に至った。
 ボルシェヴィキはすみやかに、モスクワ公国時代の、全ての市民に国家のために労働することを義務づける実務を復活させた。これは、どの外国にも見られなかったことだった。
 処刑の威嚇でもってレーニンの指示に従って1918年に導入され、実施された、いわゆる「一般的な労働義務」は、17世紀のロシアには完璧に理解可能なものだっただろう。
 農民に関しては、ボルシェヴィキは、〈tiaglo〉、木材とりと運搬のような強制労働、の実務を復活させた。こうした労働には手当は支払われなかった。
 17世紀のロシアのように、どの住民も、許可なくしては国を離れることができなかった。//
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 (09) 共産主義官僚機構は、党と国家のいずれに採用された者であれ、全く自然なかたちで、帝制時代の先輩たちの生活様式へと滑り込んだ。
 義務と特権をもつが世襲の権利のない奉仕階級は、もっぱら上級者に対してのみ責任を負う、閉鎖的で細かく等級分けされた階層を形成した。
 帝制時代の官僚機構のように、彼らは法を超越した。
 〈glasnosti〉、つまり外部からの監督なしで働き、秘密の通牒を手段にして時間の多くをつぶした。
 帝制時代には、官僚機構内の上位階層への昇格によって、相続可能な貴族特権が授与された。
 共産主義官僚にとっては、最上位階層への昇進は、〈nomenklatura〉の名簿に含み入れられるという褒賞を伴った。これは、一般の人々は言うまでもなく—共産党員であること自体が奉仕貴族と同義だった—、ふつうの勤労者の手に届かない諸特権をもたらした。
 ソヴィエトの官僚機構は、帝制時代のそれのように、行政諸団体がその統制の外にあるのを容赦せず、すみやかに「国家化される」(statefied)こと、すなわちその指揮権の連鎖の中に統合されることを確実にした。
 これを、新体制の表面的な立法機関であるソヴェトのために、同様に表面的な「支配階級」の機関である労働組合のために行なった。//
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 (10) 共産主義官僚機構が古い様式に迅速に適合すべきだったことは、何ら驚きではない。新しい体制は、多くの点で古い習慣を継続したのだから。
 この継続性を促進したのは、ソヴィエトの管理的職位の相当に大きい部分が元は帝制時代の働き手によって占められていたことだった。彼らはかつての習癖を持ち込み、帝制時代の職務で得た習慣を共産主義の新加入者たちに伝えた。//
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 (11) 治安警察は、ボルシェヴィキが帝制から採用した、もう一つの重要な組織だった。ボルシェヴィキは、全体主義の中心的な制度になるものの手本を他に持っていなかったのだから。
 帝制ロシアは、それだけが二種の警察機構をもっていたことで独特だった。一つは、市民から国家を守るための、もう一つは市民が相互に守り合うための。(*)
 国家犯罪は、意図と行為の間に明確な区別をしないで、きわめて緩やかに定義された。(注14)
 帝制時代の国家警察は、監視の精巧な方法を練り上げていた。雇った情報提供者の網状組織を通じて社会に浸透し、職業的な工作員の助けを借りて反対諸党派に入り込むことによって。
 帝制時代の警察部門には、政治制度の変化を望む気持ちを表現するような、他のどのヨーロッパ諸国でも犯罪ではなかった行為を犯罪だとして、行政的に追放する制裁を課す独特な権限があった。
 アレクサンダー二世の暗殺後に与えられた多様な特権を使って、帝制警察は、1881年から1905年までのロシアを実質的に支配した。(15)
 その手段は全て、ロシアの革命家たちにとってよく知られていた。彼らは、権力へと到達するや、それを採用し、彼らの敵たちに向けた。
 チェカとその後継組織は、帝制の国家警察の実務を吸収した。そして、1980年代の後半には、KGB がほとんど一世紀前にOkhrana が作った手引書を部員に配布するほどになっていた。(16)//
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 (脚注*) 多くのヨーロッパ諸国には政治警察部門があった。しかし、その機能は、調査して容疑者を裁判にかけることだった。帝制ロシアにおいてのみ、政治警察が裁判権をもった。この権能によって、逮捕して、裁判所に頼ることなく容疑者を追放(exile)することができた。
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 (12) 最後に、検閲に関して。
 19世紀の前半、ロシアは、ヨーロッパ諸国の中で唯一、予防的検閲を実施した。 
 検閲は、1860年代に緩和され、1906年に廃止された。
 ボルシェヴィキは、自分たちの体制を支持しない全ての出版を閉鎖し、全ての形態の知的および芸術的表現を予防的検閲の対象にした。最も抑圧的だった帝制時代の実務を再制度化したのだ。
 ボルシェヴィキはまた、全ての出版事業を国営化した。
 こうした方法は、モスクワ公国時代の実務にさかのぼる。ヨーロッパ人は、これに該当するものを知らなかった。(+)
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 (脚注+) 「書物印刷が出現したときから活版印刷が私人の手にあり、書物の出版の主導性が私人にあった西側諸国とは対照的に、ロシアでは、書物の印刷は最初から国家が独占した。このことは、出版活動の方向を決定づけた。…」
 C. P. Luppov, Kniga v Rossi v XVII veke (1970), p.28.
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 (13) ボルシェヴィキは、これら全ての事柄のモデルを、マルクス、エンゲルス、あるいはその他の西側の社会主義者の文献にではなく、彼ら自身の歴史のうちに見出した。かつまた、書物に叙述された歴史というよりも、彼らが皮膚感覚で経験した歴史だった。革命的知識人の発生と活動を予防すべく1880年代に制度化された強化・臨時防止措置の体制のもとで、自分たちが帝制と闘った経験だった。(注17)
 ボルシェヴィキは、こうした実務を、社会主義者の文献から借りた論拠でもって正当化した。諸文献からは、帝制時代に知られていたものをはるかに凌ぐ残虐さと呵責なさをもって行動せよとの命令を受け取っていた。
 ツァーリズムは、ヨーロッパから好ましく見られたいという願いをもっていたが、ボルシェヴィキにとってはヨーロッパは敵だったのだから。//
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 (14) ボルシェヴィキは帝制の実務を真似た、というのではない。逆に、彼らは帝制と何ら関係がないようにしようと、全く反対のことをしようと望んだ。
 彼らは、状況を考慮してやむなく見習った。
 いったん民主主義を拒否すると—これは1918年1月に立憲会議の解散で決定的になった—、独裁的に統治する他に選択肢がなくなった。
 そして、独裁的に支配することは、人々が慣れ親しんできた仕方で彼らを支配することを意味した。
 レーニンが権力掌握をして導入して体制には、最も反動的な帝制ロシアの統治に直接の先行例があった。アレクサンダー三世のそれであり、そのもとで、レーニンは育って大人になった。
 異なる名称をもったとしても、1880年代と1890年代の「反改革」をレーニンがいかに多く繰り返したかは、不思議なことだ。//
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 (15) ロシア革命が実際にそうだったように終焉したのは、何ら驚きではない。
 革命家たちは、人間と社会を再構成するという急進的な思想をもったかもしれない。しかし、過去をモデルにして、人間という素材で成る新しい社会を構築しなければならなかった。
 こうした理由で、彼らは遅かれ早かれ、過去に屈服することになる。
 「革命」(revolution)はラテン語の〈revolvere〉に由来し、この観念は元来は惑星の動きを表現するために用いられたが、中世の占星術者によって、人間界の事象の突然で予期しない転回を説明するために使われた。
 そして、revolvere する対象は、出発地点へと回帰する。//
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 後注。
 (10) SV, No. 6 (1921.4.20), p.6.
 (11) Paul Miliukov, Bolshevism: An International Danger (1920), p.5.
 (12) Jane Burnbank, Intelligentsia and Revolution (1986), p.194 から引用。
 (13) この主題については、私の Russia under the Old Regime (1974) を見よ。
 (14) 同上、p.109.
 (15) 同上、第11章。 
 (16) Oleg Kalugin, Vid s Liubianki (1990), p.35.
 (17) Pipes, Russia under the Old Regime, p.305-p.310.
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 第五節、終わり。つづく。

2603/R・パイプス1994年著結章<省察>第三節・第四節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 結章・ロシア革命に関する省察。試訳のつづき。原書、p.500〜。
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 第三節・「ユートピアン」ではないボルシェヴィズム。
 (01) 1991年以後はもはや争いようのなくなった共産主義の失敗の原因は、それは以前のソヴィエト同盟の指導者たちも認めているのだが、言うところの高貴な理想に達することのできない人間の欠点にあった、としばしば指摘されている。  
 釈明論者たちは、努力が報われなかったとしても、その意欲は高貴であって、企てには価値があった、と言う。彼らはこのような主張を支えるために、ローマ時代の詩人であるPropertius の言葉、「In magnis et voluisse sat et」ー「偉大な企ては、そう意欲するだけで十分だ」—を引用し得るだろう。
 しかし、ふつうの人間の望みとはまるで合致しないために、追求するには最も非人間的な手段に依拠しなければならない、そのような企てがいかほどに偉大だったのか?//
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 (02) 共産主義の実験は、しばしば「夢想的」(ユートピアン、utopian)と称される。
 かくして、ソヴィエト同盟に関する最近のある歴史書は、決して同情的にでなく、〈権力のユートピア〉(Utopia in Power)という書名を用いている。
 しかしながら、この言葉は、エンゲルスが用いた限定的な意味でのみ用いることができる。彼は、マルクスの「科学的」教理を受容しない社会主義者たちの見解は歴史的かつ社会的な現実を考察していないとして、彼らを批判するために、この言葉〔「空想的」(「夢想的」〕)を用いた。
 レーニン自身が、その生涯の最後に、やむなくこう認めることを強いられた。すなわち、ロシアの文化的現実を無視し、ボルシェヴィキが課そうとした経済的社会的秩序を形成する用意がロシアにはないことを無視したという罪責がボルシェヴィキにはある、ということを。
 ボルシェヴィキは、その理想が達成不可能であることが明白になると、無制限の暴力に訴えることによってその企てを継続した。
 ユートピアン共同体がいつでも想定していたのは、「共働的共同社会」(cooperative commonwealth)を創出するという任務について、党員たちに一致がある、ということだった。
 対照的にボルシェヴィキは、そのような一致を獲得しようとしなかったのみならず、個人や集団の主導による全ての見解表明を「反革命」だとして拒絶した。
 ボルシェヴィキはまた、虐待や弾圧に関する見解を除けば、彼ら自身とは異なる全ての見解を立憲主義的に検討する能力のなさを晒け出した。
 ボルシェヴィキは、こうした理由から、ユートピアンたち(Utopians)ではなく、狂信者たち(fanatics)と見なされるべきだ。
 彼らは目の前でそれを凝視した後でも、敗北を認めるのを拒んだ。これは、目標を忘れるという努力を倍加させるという、Santayana による狂信者の定義を充足している。//
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 (03) マルクス主義とボルシェヴィズムは、その誕生そのものが、暴力に取り憑かれたヨーロッパの知的生活の産物だった。
 自然選択に関するダーウィン理論は、中心では妥協なき闘いが行なわれるという社会哲学へと、すみやかに翻訳された。
 Jacques Barzun は、こう書く。「1870年-1914年の文学の手ごろな部分を渉猟しなかった者は、誰一人として、血を追い求めた大きさの程度を理解しなかった。また、ヨーロッパの古代文明について啓発されている市民が別々にかつ矛盾して執拗に求めた血は、多様な党派、階級、民族、人種の血だったことを、思い抱けなかった。」(注9)
 ボルシェヴィキ以上に熱狂的にこの哲学を吸収した者たちはいなかった。
 「呵責なき暴力」、全ての現実的または潜在的な対抗者の破壊を目ざして突き進む暴力は、レーニンにとって、最も有効だったばかりか、問題を処理するための唯一の方策だった。
 そして、その非人間性に彼の仲間たちの一部が怯んだとしても、その彼らもまた、自分たちの指導者の退廃的影響力から逃れることができなかった。//
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 (後注09) Jacques Barzun, Darwin, Marx, Wagner: Critique of a Heritage (1941), p.100-1.
 ——
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 第四節・イデオロギーの機能。
 (01) ロシアの民族主義者たちの考えでは、共産主義は、ロシアの文化や伝統には疎遠なもので、西側から輸入された一種の疫病だった。
 ウイルスだとする共産主義に関するこの意識は、僅かばかりの検証にも抵抗することができなかった。
 知識人たちの運動は国際的には広く見られたけれども、共産主義はまずロシアで、ロシア人のあいだで、定着した。
 ボルシェヴィキ党は、革命の前も後も、圧倒的にロシア人で構成されており、その初期の基盤は、ヨーロッパ・ロシアと境界諸国のロシア人移住者にあった。
 疑いなく、ボルシェヴィズムの基礎にあった〈諸理論〉、とくにカール・マルクスのそれは、西側出自のものだった。
 しかし、ボルシェヴィキの〈諸実践〉が独自のもので、西側のどこでもマルクス主義はレーニン主義=スターリン主義という全体主義の過剰へと行き着かなかった、ということも同様に疑い得ない。
 ロシアで、そしてのちには同様の伝統のある第三諸国で、マルクス主義は、自治、法の遵守、私的財産の尊重という伝統を欠く土壌で育った。
 異なる環境で異なる結果が生じる原因は、満足な説明としてはほとんど役立たない。//
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 (02) マルクス主義は、権威主義の傾向とともにリバタリアン(libertarian)的なそれをもつ。そしてこの両者への影響はいずれも、国の政治的文化に依存している。
 マルクス主義の教理にあるこれらの要素はロシアでは次第に優位を獲得して、ロシアの家産的(patrimonial)な遺産にぴったりと適合した。
 中世以来のロシアの政治的伝統では、政府は—より正確には支配者は—客体であって、「国」(the land)が主体だった。
 この伝統は容易に「プロレタリアート独裁」というマルクス主義の観念と融合した。この観念のもとで支配党は、国の住民と資源に対する不可分の支配権を要求した。
 「独裁」に関するこのマルクスの考えは十分に漠然としたものだったので、最も手近にあった家産主義というロシアの歴史的遺産の内容でもって充填された。
 全体主義を生み出したのは、ロシアの家産的遺産という頑丈な幹への、マルクス主義イデオロギーの移植だった。
 全体主義は、マルクス主義の教理とロシアの歴史と、そのいずれかに論及することだけでは説明することができない。これら両者の統合の結果だったからだ。//
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 (03) しかしながら、イデオロギーとして重要であっても、共産主義ロシアの形成におけるその役割は、強調されすぎてはならない。
 かりに個人または集団が一定の信念を表明し、自分の行動を誘発するものとしてその信念に言及するとすれば、その思想の影響を受けて行動している、と言ってよいかもしれない。
 しかしながら、思想というものは、説得と強制のいずれかによって他者に対する支配を正当化できるほどには、自分の個人的行為を指揮するために用いられはしない。そうだととすれば、問題は複雑になる。なぜなら、説得と強制力のいずれが思想に役立つかを決するのは不可能であり、反対に、思想はこのような支配を確保または正当化するために役立つからだ。
 ボルシェヴィキの場合は、上の後者を継続した。ボルシェヴィキはあらゆる考え得る仕方でマルクス主義を歪曲し、まず政治権力を獲得し、ついでそれを維持し続けたからだ。
 かりにマルクス主義が何かを意味しているとすれば、つぎの二つだ。すなわち、第一に、資本主義社会はその成熟とともに内部矛盾から崩壊する宿命にある、第二に、その崩壊(「革命」)は工業労働者(「プロレタリアート))によって遂行される。
 マルクス主義理論に喚起された体制は、少なくともこの二つの原理に執着していただろう。
 ソヴィエト・ロシアに、我々は何を見るか?
 「社会主義革命」は、資本主義がまだ幼年期にある、経済的には後進国で実行された。そして、労働者階級の意欲は非革命的なままだという見解を抱く党によって、権力が奪取された。
 やがて、歴史の全段階で、ロシアの共産主義体制は、マルクス主義のスローガンでその行動を覆っているときですらマルクス主義の教理を考慮することなく、何でも全てのことを挑戦者を打倒するためにならば行なった。
 レーニンは、まさにメンシェヴィキならば躊躇しただろうマルクス主義の良心から自由だったがゆえに、成功した。
 こうしたことを考えれば、イデオロギーは補助的な要因として扱われなければならない。
 新しい支配階級の願望や思考様式はおそらく、その行動を決定する、あるいは後世にその理由を説明する、そのいずれかを行なう一体の諸原理で成ってはいなかった。
 概して言って、ロシア革命の現実の行程を知らなければ知らないほど、マルクス主義思想がもった支配的な影響力に要因を求めたがるものだ。(*)
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 (脚注*) 歴史における思想の役割に関する議論は、ロシア歴史学に限られはしない。イギリスでもアメリカでも、この問題については激しい論争が行なわれてきた。イデオロギー学派の擁護者は、とくにLouis Namier の手によって、顕著な敗北を喫した。Namier は、18世紀のイギリスの思想は、全体として見れば、個人的または集団的な利害によって喚起された行動を合理化するために奉仕した、と論証した。
 〔Louis(Lewis) Namier、1888年〜1960年、現在のポーランド出身のイギリスの歴史学者。—試訳者。〕
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 第三節・第四節、終わり。つづく。

2602/R・パイプス1994年著結章<省察>第二節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 結章・ロシア革命に関する省察。試訳のつづき。原書、p.497〜。
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 第二節・ボルシェヴィキの権力掌握
 (01) ロシア革命で社会的経済的要因が果たした役割が相対的に小さかったことは、1917年二月の事件を考察すれば、明らかになる。
 二月は、「労働者」革命ではなかった。工業労働者たちは合唱隊の役を演じて、本当の主演者である軍隊に反応し、その活動を増幅させた。
 ペテログラード守備連隊の暴乱は、物価上昇と物資不足に不満な市民たちのあいだでの混乱を刺激した。
 ニコライが4年後にレーニンとトロツキーがKronstadt 蜂起と国土じゅうの農民反乱に直面した際に用いた、それと同じ残忍な鎮圧方法を選んでいたならば、暴乱は落ち着いていただろう。
 しかし、レーニンとトロツキーの関心は権力を握り続けることにあったのに対して、ニコライはロシアのことを気に懸けた。
 将軍とDuma 政治家たちが、軍隊を救い、屈辱的な降伏を避けるために退位すべきだと説得したとき、彼はおとなしく従った。
 権力にとどまり続けることが至高の目標であったならば、ニコライは容易にドイツと講和条約を締結し、軍隊を暴乱者たちに対して解き放っただろう。
 ツァーリは労働者と農民の反乱によって退位を迫られるという神話がまさに神話だったのは、記録からも疑いの余地はない。
 ツァーリが屈服したのは、反乱する民衆にではなく、将軍と政治家たちに対してだった。そして、愛国的な義務意識からそうした。//
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 (02) 社会的革命は退位に先行したというよりも、むしろその後に続いた。
 連隊兵士、農民、労働者、民族少数派は、各グループがそれぞれの目標を追求し、そのために国は統治不能になった。
 秩序を復活させる可能性は、臨時政府ではなくてソヴェトこそが正統な権威の淵源だと主張する、ソヴェトを動かす知識人層の主張によって挫折していた。 
 民主主義の敵は左翼の側にはいないと考えたケレンスキーの適確でない企てによって、政府の失墜は加速した。
 国全体が—その資産とともに政治的実体が—〈duvan〉、つまり略奪品の分配の対象になった。その進展が行き着くまで、誰にも止める力がなかった。//
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 (03) レーニンは、この無政府状態の中で権力へとつき進んだ。この状態をむしろ大いに促進したのだ。
 彼は、全ての不満グループに、それらが求めるものを約束した。
 農民たちの支持を得るために、社会主義革命党の「土地の社会化」綱領を吸収した。
 労働者たちには、工場の「労働者による統制」に関するサンディカリスト的傾向を激励した。 
 兵士たちに向けては、講和の展望を約束した。
 民族少数派に対しては、民族自決権を提示した。
 実際には、これら全ての誓約は彼の基本方針に反しており、それらの提示が目的を達成するとすみやかに破られた。このことは、国を安定化させようとする臨時政府の努力を無為にすることになった。//
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 (04) 同様の欺瞞は、臨時政府の権威を落とすためにも用いられた。
 レーニンとトロツキーは、ソヴェトと立憲会議への権力の移行を呼びかけるスローガンを用いて、一党独裁制の願望を隠蔽した。そして、問題を孕んだソヴェト大会の開催でもって、それを正当化した。
 ボルシェヴィキ党の一握りの指導者たち以外の誰にも、こうした約束やスローガンの背後にある真実が分からなかった。
 したがって、1917年10月25日の夜にペテログラードで起きたことを、ほとんど誰も気づかなかった。
 いわゆる「十月革命」は、古典的なクー・デタだった。
 その準備はきわめて内密に行なわれたので、カーメネフが事件の一週間前の新聞インタビューで党は権力奪取を意図していると暴露したとき、レーニンは、彼を裏切り者と宣告し、除名を要求した。(注5)
 もちろん、本当の革命であれば、予定表はなく、裏切られることもない。//
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 (05) ボルシェヴィキが臨時政府を打倒した容易さ—レーニンの言葉では「一枚の羽毛を持ち上げる」ようだった—によって、多数の歴史家は十月のクーは「不可避」だったと納得してきた。
 しかし、そう思えるのは、過去を振り返って見たときに限ってだ。
 レーニン自身が、きわめて不確かな(chancy)企てだと考えていた。
 1917年9月と10月の隠れ場から中央委員会に宛てた切迫した手紙で、成功は武装蜂起を実行する速度と決断に完全にかかっている、と彼は主張していた。
 10月24日に、こう書いた。「蜂起を遅らせるのは死ぬことだ。全てが間一髪に(on a hair)かかっている」。(注6)
 これは、歴史の趨勢を信頼する心構えのある、そのような人物が抱く感情ではない。
 トロツキーは、のちにこう主張した。—他のいったい誰がよりよく知る立場にいただろうか?
 もしも「レーニンと自分がペテルブルクにいなければ、十月革命は存在しなかっただろう」。(注7)
 わずか二人の個人の存在に依拠している、「不可避の」歴史的事件を、想定することができるか?//
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 (06) こうした証拠でもまだ確信を得られないならば、ペテログラードでの1917年十月の事件を精細に見るだけで足りる。「大衆」は観衆として振る舞って、冬宮への突撃を訴えたボルシェヴィキを無視したことを知るだろう。冬宮では、臨時政府の年長の大臣たちが外套で身を包み、若いカデットたち〔立憲民主党員〕、女性兵団、個人の小隊によって守られていた。
 我々はトロツキーの権威に従うことができる。彼自身によると、ペテログラードの十月「革命」は「せいぜい」2万5000人から3万人によって達成された。(注8)—この数字は、全国土に1億5000万人がおり、都市部には40万人が、連隊兵士たちが20万人以上いた、という中でのものだ。//
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 (07) 独裁的権力を掌握した瞬間から、レーニンは、のちに「全体主義的」(totalitarian)と名付けられた体制の基礎を掃き清めるために、全ての既存の制度を根絶し続けた。
 この「全体主義的」という用語は、冷戦期のものだと考えて用法を避けようと決めた西側の社会学者や政治学者に嫌悪されてきた。
 しかしながら、検閲機関がこの用語の使用禁止を解除したとき、いかにすみやかにソヴィエト同盟でこれが好まれるに至ったかは、注目に値する。
 かつての歴史には知られないこの種の体制は、私的だが全能の権力を国家に押し付け、全ての組織生活を例外なく自らに従属させる権利があると要求し、その意思の履行を無制限のテロルでもって強要した。//
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 (08) 全体を総合的に見れば、レーニンの歴史的な著名さは、きわめて劣っていた政治家たる資質によるのではなく、その統率の手腕によっていた。
 彼は、歴史の大きな征圧者の一人だった。この特質は、彼が征服した国は自分自身の国だけだったということで損なわれることはない。(*)
 レーニンの考えの新しさ、そして成功した理由は、政治を軍事化したことにあった。
 彼は、内政や外交を言葉の文字通りの意味での軍事行動として扱った、最初の国家の長だった。その目的は敵を服従するよう強いることではなく、殲滅することだった。
 レーニンはこの新しい考えによって、対抗者たちに対して顕著な有利さを獲得した。対抗者たちにとっては、軍事は政治の反対物であるか、そうでなければ異なる手段によって追求される政治だったからだ。
 彼は、軍事化した政治、そしてその結果としての政治化した軍事行動によって、先ず権力を掌握し、それを維持し続けることができた。それによって、まともに生育する社会的、政治的秩序の形成が助けられたのではない。
 彼は、ソヴィエト・ロシアとロシア依存国に対する争いの余地なき権威を主張したあとですら、闘って破壊すべき新しい敵を見出さなければならなかった。今は教会、つぎは社会主義革命党、そのつぎは知識人層。このようだったのは、全ての「前線」へと突撃することにきわめて習熟するに至っていたからだ。
 この好戦性は、共産主義体制の不変の特質になった。そして、スターリンの悪名高いつぎの「理論」で絶頂を極める。すなわち、共産主義が最終的な勝利に接近すればするほど、社会的対立はそれだけいっそう強くなる。—これは、空前無比の残忍さによる大量虐殺を正当化する考えだった。
 かくして、レーニン死後60年のうちに、ソヴィエト同盟は国内および外国での不必要な闘争でもって消耗し尽くし、自らを肉体的にも精神的にも破滅させた。 
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 (脚注*) Clausewitz はすでに1800年代の早くに、ヨーロッパ文明をもつ大国を獲得するのは、さもなくば内部的分割以上に不可能」になる、と書いていた。Carl von Clausewitz, The Campaign of 1812 in Russia (1843), p.184.
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 後注
 (05) RR〔=Richard Pipes, Russian Revolution〕, p.484-5.
 (06) Lenin, PSS, XXXIV, p.435-6.
 (07) Lev Trotskii, Dnevniki i pis'ma (1986), p.84.
 (08) Lev Trotskii, Istoriia russkoi revoliutsii, II, Pt. 2 (1933), p.319.
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 結章・第二節、終わり。第三節へと、つづく。
 

2601/R・パイプス1994年著結章<省察>第一節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 結章・ロシア革命に関する省察。試訳のつづき。原書、p.493〜。
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 第一節・革命の原因②。
 (08) 農奴制の伝統と農村ロシアの社会制度—共有の家族資産とほとんど一般的な共同体による土地保有の制度—は、農民層が近代的市民性のために必要な性質を発展させるのを妨げた。
 農奴制は奴隷制ではなかったけれども、農奴は奴隷と同じく法的権利をもたず、ゆえに法の感覚がなかった点では共通していた。
 ロシアの指導的な古典的古代の歴史家で1917年の目撃者だったMichael Rostovtseff は、こう結論づけた。農奴制は、自由を全く知らず、そのことで農奴が真の市民たる性質を獲得するのが妨げられたという点では、奴隷制よりも悪かった、と。彼の見解では、これは、ボルシェヴィズムの主要な教条だった。(注4)
 農奴にとっては、権威とはまさにその性質からして恣意的だ。そして、それから自衛するために彼らは、法的権利や道徳上の権利への訴えに頼らないで、策略に依拠した。
 彼らは、原理にもとづいて政府を理解することができなかった。彼らにとっての生活は、ホッブズの全てに対する全ての者の戦いだった。
 このような姿勢は、専制主義(despotism)を助長した。内的な紀律と法への敬意が不在であれば、外部から課されるべき秩序が必要になるからだ。
 専制主義が作動するのを止めたとき、無政府状態が発生した。
 そして、いったん無政府主義が行路を進み始めるや、それは不可避的に、新しい専制主義を生み出すことになった。//
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 (09) 農民層は、ある一点でのみ、革命的だった。すなわち、農民層は、土地の私的所有を承認しなかった。
 彼らは革命の前夜に国の耕作地の10分の9を保有していたけれども、地主、商人、共同体に属さない農民がもつ残りの10パーセントを強く欲しがった。
 経済的な議論も法的なそれも、彼らの意思を変えなかった。彼らは、その土地に対して神から付与された権利をもつ、いつかは自分たちのものになる、と感じていた。
 そして、自分たちという言葉で意味させたのは、構成員に公正に土地を分与する共同体だった。
 ヨーロッパ・ロシアで共同体による土地保有が優勢だったのは、農奴制の遺産であるとともに、ロシア社会の歴史の基礎的な事実だった。
 これが意味したのは、法の感覚が微小にしか育たなかったことのほか、農民もまた個人的な私的財産をほとんど尊重しない、ということだった。
 急進的知識人たちは、農民層を現状に対抗させようとする彼らの目的のために、こうした傾向をいずれも利用した。(*)//
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 (脚注*) 1880年代に革命家の経歴を開始し、レーニンの独裁を目撃したVera Zasulich は、1918年に、ボルシェヴィズムを支持する社会主義者の責任は財産を奪おうと労働者—農民層をこれに加えることができよう—を扇動したが、市民の義務については何も教えなかったことにある、ということを承認した。NV, No. 74/98 (1918.4.16), p.3.
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 (10) ロシアの工業労働者たちが潜在的に不安定だったのは、革命的イデオロギーを吸収したがゆえにではなかった。—そうしたのは彼らのうちごく少数で、その者たちですら革命的諸政党の指導的地位からは排除された。
 そうではなく、彼らのほとんどは一世代前に、またはせいぜい二世代前に、農村から移り住み、表面的にだけ都市化していたので、彼らは工場へと農村的態度を持ち込み、ごく僅かにだけ工業の環境に適応していたからだ。
 彼らは社会主義者でななく、サンディカリスト(syndicalist)だった。彼らの村落が全ての土地について権利を与えられたように、彼らも工場について権利がある、と考えた。
 彼らが政治に関心をもったのは、農民層と同じような程度でだった。この意味でも、彼らは、原始的な、イデオロギー性のない無政府主義の影響下にあった。
 さらに、ロシアの工業労働者は、数の上で取るに足らず、革命で大きな役割を果たさなかった。せいぜい300万人の労働者では(彼らの多くは季節雇用の農民でもあった)、全国民の僅か2パーセントを代表しているにすぎなかった。
 教授たちに指導された大学卒業生の多数は、西側、とくにアメリカ合衆国でと同様にロシアでも、革命以前のロシアの労働者に急進主義の証拠があったことを探し出そうとして、せっせと歴史的資料を調べた。
 その結果として学術書ができたが、ほとんどが無意味な出来事や統計資料で充たされた。そして、歴史はつねに興味深いが、歴史書は空虚でも退屈でもあり得るということを、あらためて証明した。//
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 (11) 革命が起きた主要で、議論の余地はあるが決定的な要因は、知識人層(the intelligentsia)だった。ロシアの知識人たちは、他のどこよりも大きな影響力をもっていた。
 帝制時代の公務員の独特な「階位」制度は外部者を管理部門から排除した。最高の教育を受けた者を遠ざけ、西ヨーロッパでは構想されたが実行されなかった、社会改革のための空想的計画を、その者たちが受け入れやすいようにした。  
 代表的〔準議会〕制度と自由なプレスが1906年までなかったことで、教育の普及と結びついて、文化的エリートにはもの言わぬ民衆に代わって発言する権利がある、という主張をすることが可能になった。
 知識人が「大衆」の意見を実際に反映していた、とする証拠資料は存在していない。反対に、証拠が示しているのは、革命の前も後も、農民と労働者たちは知識人に対して強い不信の念をもっていた、ということだ。
 このことは、1917年とそれに続く数年で明確になった。 
 しかし、民衆の本当の意思はそれを表現する回路がなかったので、ともかくも1906年に短命の立憲的秩序が導入されるまでは、知識人たちは民衆の代弁者であるとの虚像を作ることができた。//
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 (12) 政治機構を正当化するものが存在しない他諸国のように、ロシアの知識人は自分たちで一つの階層を構成した。そして、思想が彼らに一体性と団結を与えたので、彼らは、極端な知的偏狭さを身に付けた。
 人間は環境により塑形される物質的実在にすぎないという、またその帰結として環境の変化は不可避的に人間の本性を変化させるという、啓蒙主義の考え方を採用して、知識人たちは、「革命」はある政府を別の政府に変えることではなく、比較にならないほどに大がかりなものだ、と見た。人間の新しい種を生み出すという目的をもつ、人間の環境の全体的な大変造なのだ。—むろんロシアでのことだが、他のどこでも同じだ。
 現状の不公平さを強調するのは、民衆の支持を獲得する手段にすぎなかった。こうした不公平さをどんなに是正しても、急進的な知識人たちはその革命的熱意の放棄を説得されなかっただろう。
 このような信念は、多様な左翼党派を結合させた。アナキスト、社会主義革命家〔エスエル〕、メンシェヴィキ、そしてボルシェヴィキ。 
 科学的用語を使っても、彼らの見解は矛盾する根拠に気づいておらず、そのゆえに宗教的信仰にきわめて近いものだった。//
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 (13) 知識人層は、我々は権力を渇望する知識人と形容したのだが、既存の秩序に全的かつ非妥協的に敵対した。
 自殺をするなら別として、ツァーリ体制が行うことができたもので、彼らを満足させるものは一つもなかっただろう。
 彼らは、民衆の条件を改良するためにではなく、民衆への支配を獲得して、民衆を自分たちのイメージに作り変えるために革命家になった。
 だが、帝制に立ち向かったにせよ、のちにレーニンが持ち込んだような手段を使う以外には、挑戦し、攻撃する方法をもっていなかった。
 諸改革は、1860年代のであれ1905-6年のであれ、急進派の欲求を強めただけで、革命的な過度の行動へといっそう彼らを刺激した。//
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 (14) 農民の要求に苦しめられ、急進的知識人層から直接の攻撃を享けて、崩壊を避けるためには帝制には一つの手段しかなかった。それは、社会の保守的要素と権力を分有し、権威の基盤を拡張することだった。
 歴史の先例が示すのは、成功した民主政体はもともとは権力分有を上位階層に限っていた、それがやがてその他の国民の圧力を受けるに至り、その結果として上位階層の特権がふつうの権利になった、ということだ。 
 数の上では急進派よりもはるかに多い保守層を巻き込むことは、政策決定と行政の両面で、政府と社会の間に有機的紐帯のようなものを作り出すだろう。そして、大変動の事態のときには帝制への支持を保障し、同時に、急進派を孤立させるだろう。
 帝制に対して、このような行路の選択が、何人かの先見の明のある官僚や私人から強く勧められた。
 大改革のあった、1860年代にこれが採用されるべきだっただろう。だが現実には、そうされなかった。
 ついに1905年に、民衆全体に広がる反乱によって議会制の導入を余儀なくされたとき、君主制の側はもうこの選択肢を利用しなかった。合同したリベラル派と急進派の反対勢力が、民主主義的参政権に近いものを認めるよう強いたからだ。
 この結果として、議会(ドゥーマ、Duma)での保守派は、戦闘的な知識人と無政府主義の農民に覆い隠されてしまった。//
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 (15) 第一次世界大戦は全ての交戦諸国に甚大な負担を課した。その負担は、愛国主義の名のもとでの政府と市民層の緊密な協力によってのみ克服することができた。
 ロシアでは、このような協力関係は一度も実体化されなかった。
 軍事的失敗によって元々の愛国的熱狂が消散し、国が消耗戦争を遂行しなければならなくなったとき、ツァーリ体制は民衆の支持を動員することができないことを知った。
 崇敬者ですら、それの挫折の時点で君主制は漂浪していることに同意した。//
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 (16) 政治権力を支持者たちと分有するのをツァーリ体制は拒否し、そしてそれを強いられたときには不承々々かつ欺瞞的にそうした。その動機は、複雑だった。
 心の奥底で王室、官僚機構、職業的将校たちに浸透していたのは、ロシアはツァーリの私的領有物だと見る因習的考え方だった。
 18-19世紀のモスクワ公国の推移の中で伝統的制度は次第に廃止されていったけれども、精神性は生き残った。
 そして、官僚層のみならず、農民層もまた伝来的な語句でもって思考して、強くて不可分の権威の存在を信じ、土地は帝制の財産だと見なした。
 ニコライ二世は、その継承者として専制を維持することを当然視した。無制限の権威は彼にとって受託した権能であって、弱める権利があるはずのない財産権と同等のものだった。
 彼は、皇位を守るために1905年に国民が選出した議員たちと権威を分かち合うのを同意したことについて、罪の感覚を拭い去ることができなかった。//
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 (17) ツァーリとその補佐者たちはまた、社会の少数部分とすら権限を分有するのは官僚制機構を混乱させ、民衆がさらなる参加を要求することになるだろうと怖れた。
 上の後者の場合、主要な受益者は、ツァーリとその補佐者たちが全くの無能だと考えている知識人層になるだろう。
 加えて、このような譲歩を農民たちが誤解して、暴動に進むという懸念もあった。
 また最後に、ツァーリに対してのみ責任を負い、その裁量によって国の行政を行ない、そこから多数の利益を得ている官僚機構が改革に反対している、ということもあった。//
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 (18) このような要因は君主の側が政府への発言権を保守派に付与することを拒んだことの説明にはなるが、正当化はしない。それが直面した問題の多様さや複雑さによって、いずれにせよ官僚機構が多くの効果的な権限を奪われたとしても、そうだ。 
 19世紀の後半に資本主義的諸制度が出現して、国の資源の統制権の多くは私人の手に移った。これは、家父長的財産制の残余を破壊した。//
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 (19) 要するに、帝制の崩壊は不可避ではなかったが、それは、ツァーリ体制が国の経済的文化的成長に適応するのを妨げた文化的および政治的欠陥が、そして第一次大戦により生まれた圧力のもとでは致命的な欠陥が、根深いところにあったことによる、と言えそうだ。
 このような適応の可能性が存在したとしても、政府を転覆させてロシアを世界革命の跳躍台として用いようと決意する戦闘的知識人層の活動によって、挫折しただろう。 
 ツァーリ体制の崩壊の原因となったのはこうした性格の文化的、政治的欠陥だったのであり、「抑圧」や「窮乏」ではなかった。
 我々はここで、原因はこの国の過去に遠く遡る民族的悲劇を論述している。
 経済的、社会的苦難は、1917年以前にあった革命の脅威に大きく寄与したのではなかった。
 「大衆」が—現実的にであれ夢想的にであれ—どのような不満を抱いていても、彼らは革命を必要としなかったし、革命を望みもしなかった。
 革命に関心を寄せた唯一のグループは、知識人層だった。
 言うところの民衆の不満や階級の対立の強調は、現実にある事実にではなく、イデオロギー上の先入観に由来した。すなわち、政治的進展はつねにかつどこでも社会経済的対立によって駆り立てられている、それは現実に人間の運命を動かしている潮流の表面にある「水泡」にすぎない、という信用の措けないないイデオロギーにだ。//
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 後注
 (04) Michael Rostovtseff in NV, No. 109/133 (1918.7.5), p.2.
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 結章・第一節、終わり

2600/R・パイプス1994年著結章<省察>第一節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 結章・ロシア革命に関する省察。
 この最後の章はこの欄に試訳を全て掲載したと思っていたが、間違いで、掲載済みは<第六節・レーニニズムとスターリニズム>だけだった。
 →2018/11/08(1490再掲)→2017/04/09(1490・日本共産党の大ウソ33)
 最初の第一節から試訳を掲載する。第六節も含める。「結章」という趣旨の言葉は使われていない。
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 結章/ロシア革命に関する省察。
 第一節・革命の原因①。
 (01) 1917年のロシア革命は一つの事件ではなく、一つの過程ですらなかった。そうではなく、多かれ少なかれ同時期に起きた、だが異なる、ある程度は矛盾する目標をもつ関係行動者たちを巻き込んだ、一続きの破壊的で暴力的な行動だった。
 ロシア革命は、ロシア社会の最も保守的な要素の反乱として始まった。その保守的要素は、王室のRasputinとの親交関係や戦争遂行の不手際にうんざりしていた。
 反乱は、保守派から、君主制が残れば革命が不可避になるという怖れから君主制に反対していたリベラル派へと、広がった。
 君主制に対する攻撃は、もともとは、広く信じられているように厭戦気分からでななく、戦争をより効果的に遂行させようという望みから、行なわれた。革命を起こすためではなく、革命を防ぐためだった。
 1917年2月、ペテログラード守備連隊が群衆市民に発砲するのを拒んだとき、将軍たちは、議会〔または準議会)の政治家たちの同意を得て、騒乱が前線にまで波及するのを阻止しようと、皇帝ニコライ二世に退位を承服させた。
 軍事的な勝利のために行なわれた退位は、ロシアが国家であることを示す殿堂全体を引き倒した。//
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 (02) 元来は社会的不満分子も急進的知識人たちもこうした出来事に重要な役割を何ら果たさなかったけれども、いずれも、今まであった帝制の権威が崩壊する最前部へと移っていた。
 1917年の春と夏、農民たちは共同体に属さない資産の奪取と自分たちへの配分を始めた。
 次に、反乱は前線の兵団へと広がり、彼らは戦利品の分け前を奪い合って脱走した。また、工業企業体の指揮権を握った労働者へと、自治の拡大を望む民族少数派へと広がった。
 各グループは、それぞれの目標を追求した。しかし、国の社会的経済的構造に対する攻撃が積み重なることによって、1917年の秋までに、ロシアにアナーキー(無政府)の状態が生まれた。//
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 (03) 1917年の諸事件が明らかにしたのは、広大な領域と強い権力があるにもかかわらず、ロシア帝国は脆弱な人為的構造物であり、支配者と被支配者を結びつける有機的紐帯によってではなく、官僚制、警察および軍隊が提供する機械的な連結関係によって一つにまとまっている、ということだった。
 ロシアの1億5000万の住民は、強い経済的利害によっても、民族的一体性(national identity)によっても、結びついていなかった。
 大部分は自然経済である国の数世紀にわたる専制的支配は、強い水平的紐帯が形成されるのを妨げた。帝国ロシアは、ほとんど布地のない縦糸だった。
 このことを、ロシアの指導的な歴史家であり政治家であるPaul Miliukov は、当時に指摘していた。
 「ロシア革命の特殊な性格を理解するためには、我々自身がロシアの歴史の全過程を通じて形成した特有の性質に、注意を向けなければならない。
 私には、これら全ての特質は一つに収斂している、と思える。
 ロシアの社会構造を他の文明諸国のそれと区分けする根本的差異は、社会を構成する諸要素の強い結合または接合の弱さまたは欠如だ。
 ロシアの社会集団の統合の欠如は、文化生活の全ての諸側面に観察することができる。政治的、社会的、心理的、そして民族的諸側面。/
 政治的観点からは、ロシアの国家制度はそれが支配している民衆一般との結合と融合を欠いていた。…
 こうした様相の帰結として、東ヨーロッパの国家制度は、不可避的に西側のそれとは異なる一定の形態を採用した。
 東側の国家には、有機的な進化の過程を経て内部から発生する時間的余裕がなかった。
 それは、外部から東ヨーロッパへともたらされたのだ。」(注1)/
 こうした要因を考慮すると、革命はつねに社会的(「階級的」)不満から生じる、というマルクス主義の考え方を支持することはできない、ということが明確になる。
 どこでもそうであるように、そのような不満は帝国ロシアにも存在した。しかし、体制の崩壊とその結果としての混乱を生み出した決定的で直接的な要因は、圧倒的に政治的なものだった。//
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 (04) 革命は不可避だったか?
 何事も全て起きるべくして起きる、と考えるのは自然だ。そして、この幼稚な信念を似非科学的な論拠でもって合理化する、そのような歴史家がいる。過去を予言すると主張するがごとくに適確に未来を予言できるならば、そのような者はいっそう確信をもつだろう。
 お馴染みの法的格言を言い換えると、心理学的には、起きたこと自体が歴史的正当化の十分の九を提供する、と語り得るかもしれない。
 E・バーク(Edmund Burke) は、フランス革命を疑問視したことで、狂人だと当時は広く見なされた。70年のちにも、Matthew Arnord によると、バークの考え方はなおも「時代遅れで、ゆえに事象によって克服される」と考えられていた。—歴史的事象に関するこのような合理性への、そのゆえに不可避性への信仰は、きわめて根深い。
 歴史的事象が壮大で重要であればあるほど、それだけ、その帰結は疑問視するのが不可能な事物の自然な秩序の一部であるように、ますます思えてくる。//
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 (05) 最も語り得ることは、ロシアでの革命の蓋然性はなかった、といよりもあった、ということだ。これにはいくつかの理由がある。
 もちろん、おそらく最も重要なのは、不可侵の権威によって支配されることに慣れていた—まさに、この不可侵性のうちに正統性の標識を見ていた—民衆から見て、帝制の威厳が着実に衰退していたことだった。
 軍事的勝利と拡張の一世紀半のち、19世紀半ばから1917年まで、ロシアは、連続する屈辱を外国によって経験してきた。自分の領域内での敗北であるクリミア戦争、トルコに対する勝利の戦果のベルリン会議での喪失、日本との戦争での大失敗、そして、第一次大戦でのドイツへの大敗。(注2) 
 このように連続して敗北すれば、どんな政府であっても評価を落とすだろう。ロシアでは、致命的だった。
 ツァーリ体制の恥辱と同時期に併せて発生したのは革命運動で、過酷な弾圧に訴えたにもかかわらず、体制は鎮圧することができなかった。
 社会と権力を分け合うという1905年の気乗り薄い譲歩によっては、ツァーリ体制は反対派の人気を博することもなく、民衆全体から見てその威厳を高めもしなかった。一般民衆は、支配者はどのようにして政府機構に関する公的議論の場で嘲弄されるがままに放っておけるのか、理解することができなかっただろう。
 T'ienming、あるいは天命(Mandate of Heaven)という孔子の原理は、その元来の意味では道理ある行動をする支配者の権威と結びついているが、ロシアでは、力強い行動に由来した。弱い支配者、「敗北者」はそれを失うのだ。
 ロシアの国家の主を道徳性や大衆性を基準にして判断することほど、誤解を招くものはないだろう。重要なのは、皇帝が味方や敵に恐怖を掻き立てることにあった。—イワン四世に似て、ニコライ二世は「畏怖すべき」との異名に値した。
 ニコライ二世は、憎悪されたためではなく、軽蔑されたがゆえに退位した。//
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 (06) 革命が起きた要因の中には、政治的構造に一度も統合されなかった、ロシアの農民層の心性(mentality)があった。
 農民たちはロシア住民の80パーセントを占めた。
 彼らは、消極的な性質で変化の邪魔者のごとく、国家の問題に関係する行動にほとんど積極的には関与しなかった。しかし、同時に現状(status quo)に対する永続的な脅威でもあり、きわめて不安定な要素だった。
 ロシアの農民は旧体制のもとで「抑圧された」と言われるのは通例のことだが、いったい誰が彼らを抑圧していたのかはさっぱり明瞭でない。
 農民たちは、革命の直前には、十分な市民的権利、法的権利を享有していた。完全にか共同体としてかのいずれかで、彼らは国の農地の10分の9と、同じ割合の家畜を所有していた。
 西ヨーロッパやアメリカの標準からすると貧しかったが、父親の世代よりは豊かで、おそらくは農奴だった可能性が高い祖父の世代よりは自由だった。
 農民たちは、仲間たちから割り当てられた分与農地を耕作しながら、アイルランド、スペインまたはイタリアの小作農民たちよりは、確実により大きな保障を享けていた。//
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 (07) ロシアの農民に関する問題は、抑圧ではなく孤立だった。
 彼らは国の政治的、経済的、文化的生活から隔絶しており、そのゆえに、ピョートル大帝がロシアの西欧化の路線を設定したとき以降の変化の影響を受けなかった。
 当時の多数の者たちは、農民層はモスクワ公国時代の文化に浸ったままだ、と観察した。
 彼らは文化的には、イギリスのアフリカ植民地の元々の住民たちがヴィクトリア朝の英国と共通性がある以上には、ロシアの支配エリートや知識人と共通性がなかった。
 ロシアの農民の大部分は、農奴に出自があった。君主制が大地主と官僚層の気紛れに任せて以降、彼らは臣民ですらなかった。
 結果として、農村の住民にとっては、解放の後でも、国家は税を徴収し兵を募るがその代わりには何もしない、異質で悪意のある実力体だった。
 農民たちは、望んだ土地を受け取るのを期待した遠く離れたツァーリに対する漠然とした傾倒を除けば、愛国心を持たず、政府への執着もなかった。
 農民たちは本能的に無政府主義的で、national な生活に統合されることはなく、急進的反対派からと同様に保守的権益層からも疎遠だった。
 彼らは、都市や髭を生やしていない男たちを見下した。Marquis de Custine は、早くも1839年に、ロシアではいずれ髭のある者による剃った者に対する反乱が起きるだろう、ということを耳にした。(注3)
 疎遠にされ、潜在的には爆発的なこの農民大衆の存在は、政府を動けなくした。政府は、農民たちは怖れるがゆえに従順だと考え、いかなる政治的譲歩も弱さと反逆だと解釈するようになった。//
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 後注
 (01) Paul Miliukov, Russia To-day and To-morrow (1922), p.8-9.
 (02) この点につき、Willoam C. Fuller, Jr., Strategy and Power in Russia, 1600-1914 (1992) を見よ。
 (03) Marquis[A. de]Custine. Russia (1984), p.455.
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 第一節①、終わり。②へと、つづく。

2572/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第四節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき、第四節の②。
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 第四節・クロンシュタット暴乱②。
 (10) トロツキーは、3月5日にペテログラードに着いた。
 彼は暴乱者たちに、直ちに降伏し、政府の処置に委ねよと命じた。
 他の選択は、軍事的報復だった。(注56)
 少し変更すれば、彼の最後通告は、帝制時代の総督が発したものになっていただろう。
 反乱者に対する呼びかけの一つは、抵抗を続けるならばキジのように撃ち殺されるだろう、と威嚇した。(注57)
 トロツキーは、ペテログラードに住んでいる暴乱者たちの妻や子どもたちを人質に取るよう命じた。(注58)
 彼は、ペテログラード・チェカの長がKronstadt 反乱は自然発生的なものだと執拗に主張するのに困って、解任させるようモスクワに求めた。(注59)
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 (11) 反抗的なKronstadt 暴乱者たちは、トロツキーの行動を知って、1905年の血の日曜日での治安部隊への命令を思い出した。その命令は、ペテルブルク知事だったDmitri Trepov によるとされるものだった。—「弾丸を惜しむな」。
 反乱者たちは誓った。「労働者の革命は、行動で汚れたソヴィエト・ロシアの国土から、卑劣な中傷者と攻撃者を一掃するだろう」。(注60)//
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 (12) Kronstadt は島で、冬以外の季節に力でもって奪取するのはきわめて困難だった。だが、3月では、周囲の水は、まだ固く凍りついていた。
 このことが、猛攻撃を容易にした。大砲で氷を破砕しておくべきとの将校たちの助言を反乱海兵たちが無視していたために、なおさらそうなった。
 3月7日、トロツキーは、攻撃開始を命じた。
 赤軍は、Tukhachevskii の指揮下にあった。
 Tukhachevskii は、常備軍は信頼を措けないことを考えて (注61)、その中に、内部的抵抗と闘うために形成された特殊選抜分団を散在させた。(*) //
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 (脚注*) 1919年に、モスクワは反革命と闘う特殊な目的で、元々は共産党の将校と「特殊任務部隊」(〈Chasti Osobogo Naznacheniia, ChON〉)として知られる徴募された将校とが配属された選抜(エリート)軍を創設した。これらは1921年に3万9673名の幹部兵と32万3373名の徴集兵を有した。G. F. Krivosheev, Grif sekretnosti sniat (1993), p.46n.
 追記すると、内部活動軍(〈Voiska Vnutrennei Sluzhby, VNUS〉)があり、これは、同様の目的で1920年に設立され、1920年遅くには36万人が所属した。同上、p.45n.
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 (13) ペテログラードの北西基地からの攻撃が、本土要塞からの大砲発射とともに、3月7日の朝に始まった。
 その夜、白いシーツで包まれた赤軍兵団が、氷上に踏み出し、海軍基地に向かって走った。
 彼らの背後には、チェカの機銃部隊が配置されていて、退却する兵士は全て射殺せよとの命令を受けていた。
 兵団は海軍基地からの機銃砲で切断され、攻撃は大敗走となった。
 一定数の赤軍兵士たちは、義務の遂行を拒んだ。
 およそ1000人の兵士が、反乱者側へと転じた。
 トロツキーは、命令に背いた5分の1の兵士たちの処刑を命じた。//
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 (14) 第一砲が火を噴いた後のその日、Kronstadt の臨時革命委員会は、綱領的な声明を発表した。「何のために闘っているのか」、それは「第三の革命」を呼びかけることだ。
 アナキスト精神が滲むその文書は、知識人がこれまで書いてきた全ての特性をもっていたが、しかし、進んで闘って死ぬという意思でもって防衛者の気持ちは証明される、と表現してもいた。
 「労働者階級は、十月革命を実行することで、その解放が実現することを望んだ。
 その結果は、人間のいっそうの奴隷化ですらあった。
 権力は、警察と憲兵を基礎にした君主政から「奪取者」—共産主義者—の手に渡った。その共産主義者は労働者たちに、自由ではなく、チェカの拷問室で死に果てるという日常的な不安を、帝制時代の憲兵による支配を何十倍も上回る恐怖を、与えた。//
 銃剣、弾丸、〈oprichniki〉(+) の、チェカからの乱暴な叫び声、これが、長い闘争の成果であり、ソヴィエト・ロシアの労働者が被ったものだ。
 共産党当局は、労働者国家という栄光ある表象—槌と鎌—を、実際には、銃剣と鉄柵に変え、新しい官僚制の平穏で呑気な生活を守るために、共産主義人民委員部と役人機構を生み出した。//
 しかし、これら全ての最基底にあり、最も犯罪的であるのは、共産主義者によって導入された道徳的奴隷制だ。すなわち、彼らは、労働人民の内面世界へも手を伸ばし、彼らが思考するとおりに思考することを強制している。//
 国家が動かす労働組合という手段によって、労働者は自分たちの機構に束縛され、その結果として、労働は愉楽ではなく新しい隷属の淵源になっている。
 自然発生的な蜂起で表現された農民たちの異議申立てに対して、また、生活条件がやむなくストライキに向かわせた労働者たちのそれに対して、彼らは、大量処刑と、ツァーリ時代の将軍たちのそれをはるかに超える血への渇望でもって対応した。//
 労働者のロシア、労働者解放の赤旗を最初に掲げたロシアは、共産党支配の犠牲者の血で完全に浸されている。 
 共産主義者は、労働者革命という偉大で輝かしい誓いとスローガンを全て、この血の海へと溺れさせた。//
 ロシア共産党がその言うような労働人民の守り手ではないこと、労働人民の利益は共産党には異質なものであること、いったん権力を握ればその唯一の恐れは権力を失うことであること、そしてそのゆえに、(その目的のための)全ての手段—誹謗、暴力、欺瞞、殺戮、反乱者の家族への復讐行為—が許容されること、これらはますます明らかになってきており、今や自明のことだ。//
 労働者の長い苦しみは、終わりに近づいた。//
 いたるところで、抑圧と強制に対する反乱の赤い炎が、国の空の上に光っている。…//
 現在の反乱は最後には、自由に選挙された、機能するソヴェトを獲得して、国家が動かす労働組合を労働者、農民、および労働知識人の自由な連合体に作り変える機会を、労働者に提供する。
 最終的には、共産党独裁という警棒は粉砕される。」(注62)//
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 (脚注+) 1560年代に、想定した敵に対するテロル活動(〈Oprichnina〉)で、イワン四世に雇われた男たち。
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 (15) Tukhachevskii は、つぎの週に増援部隊を集め、その間ずっと、守備兵に夜間の襲撃に耐えられるよう警戒を続けさけた。
 島の士気は、本土からの支援の欠如と食料供給の枯渇によって低下した。
 このことを赤軍司令部は、Kronstadt にいる、反乱者から活動の自由と電話の使用を認められていた共産党員から、知らされた。
 仲間を攻撃するのに気乗りしない、自分たちの意気を高めるために、共産主義者は、反乱は反革命の愚かな手段だとプロパガンダするいっそうの努力を開始した。//
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 (16) 5万人の赤軍兵団による最終攻撃は、3月16-17日の夜間に始まった。このときは、主要兵力は南から、Oranienbaum とPeterhof から出発した。
 防衛者たちの人数は1万2000〜1万4000で、そのうち1万人は海兵、残りは歩兵だった。
 攻撃者たちは、何とか這い上がって、気づかれる前に島に接近した。
 激烈な戦闘が続いた。その多くは白兵戦だった。
 3月18日の朝までに、島は共産主義者が支配した。
 数百人の捕虜が殺戮された。
 敗北した反乱者の何人かは、指導者も含めて、氷上を横断してフィンランドへと逃げて、生きながらえた。但し、そこで抑留された。
 生き残った捕虜たちをクリミアとコーカサスに割り当てるのが、チェカの意図だった。しかし、レーニンはDzerzhinskii に、彼らを「北方のどこかに」集中させる方が「便利だろう」と告げた。(注63)
 これが意味したのは、ほとんどの者が生きて帰還することのない、白海上の最も過酷な強制労働収容所に彼らを隔絶させる、ということだった。//
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 (17) Kronstadt 蜂起が壊滅したことは、一般民衆に良く受け入れられたのではなかった。
 そのことはトロツキーの声価を高めなかった。トロツキーは彼の軍事的、政治的勝利を詳しく語るのを好んだけれども。しかし、彼の回想録では、この悲劇的事件で自分が果たした役割には、何ら触れるところがない。//
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 後注
 (56) Berkman, Kronstadt, p.31-32; L. Trotskii, Kak vooruzhalas' revoliutsiia, III/1 (1924), p.202.
 (57) Petrogradskaia pravda, No. 48 (1921.3.4). N. Kronshtadskii miateyh (1931), p.188-9 に引用されている。
 (58) Berkman, Kronstadt, p.14-15, p.18, p.29.
 (59) RTsKhIDNI, F. 76, op. 3, delo 167.
 (60) Pravda o Kronshtadte, p.68.
 (61) RTsKhIDNI, F. 76, op. 3, delo 167: Cheka report.
 (62) Pravda o Kronshtadte, p.82-84.
 (63) RTsKhIDNI, F. 76, op. 3, delo 167.
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 第四節、終わり。

2559/O.ファイジズ・スターリンによる継承②。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 第8章の試訳の続き。
 第7章、第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
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 第8章/レーニン・トロツキー・スターリン②。
 第二節。
 (01) 第12回党大会は、ついに1923年4月に開催された。
 遺書は、レーニンが意図していたようには、代議員たちに読み上げられなかった。
 三人組は、そのように取り計らった。
 トロツキーは、その決定に反対しようとはしなかった。
 彼は、中央委員会での自分の力は弱いことを知っていた。//
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 (02) トロツキーは、その代わりに、指導部の「警察体制」に対抗する一般党員の代弁者を任じた。
 10月8日、彼は「中央委員会への公開書簡」を書き送り、党内の民主主義の抑圧を追及し(内戦中のトロツキー自身の超中央志向性からすると偽善的主張だ)、そのことが原因でソヴィエト・ロシアでの最近の労働者のストライキや、労働者が共産党に幻滅したドイツでの革命運動の失敗、が生じていると述べた。
 1923年から1927年までに三頭制に反対した左翼反対派の基礎を成す宣言を書いたPiatakov やSmirnov を含む「グループ46」というボルシェヴィキ指導者たちに、トロツキーは支持されていた。
 だが、彼の敵たちは、彼を「分派主義」だとして追及するのに必要な証拠を得た(「分派主義」は1921年3月の分派禁止以降、最悪の犯罪だった)。
 彼らはトロツキーを「ボナパルティズム」としても責め立てた。これは、専横だというトロツキーへの評価にもとづく責任追及だった。//
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 (03) 10月の党総会で、トロツキーは、高い役職をというレーニンの申し出を何度も固辞したことを思い起こさせて、自己を防衛した。—一度は、1917年10月で(内務人民委員のとき)、もう一度は1922年(ソヴナルコム副議長のとき)。固辞した理由は、ロシアに反ユダヤ主義の問題があるので、そのような地位にユダヤ人が就くのは賢明ではない、ということだった。
 前者の場合、レーニンは彼の異議を却下したが、後者の場合は同意した。
 トロツキーは、党内での自分への反感はユダヤ人であるからだと示唆すべく、レーニンの権威を持ち出していた。
 党の前に非難されて立っているという生涯のこの重大な瞬間に、ユダヤ出自の問題を振り返らなければならないのは、トロツキーにとって、悲劇だった。—革命家としてのみならず、人間としても。
 自分はユダヤ人だと一度も感じてこなかった者にすれば、これはトロツキーがいかに孤独だったかを示していた。//
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 (04) トロツキーの感情的な訴えは、代議員たちにほとんど感銘を与えなかった。—彼らのほとんどは、スターリンによって選抜されていた。
 総会は、102対2の票決でもって、「分派主義」を理由とするトロツキー非難の動議を採択した。
 カーメネフとジノヴィエフは、党からの除名を主張したが、スターリン(つねに中庸の意見の主張者として立ち現れたかった)はこれには反対し、この主張による動議は否決された。
 いずれにせよ、スターリンは急ぐ必要がなかった。
 トロツキーは、ソヴィエト同盟での大きな政治勢力の一つとして終わった。
 左翼反対派は三頭制に対する口うるさい批判者であり続けたが、いっそうスターリンの手中に入りつつある党機構を前にしては、無力だった。//
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 (05) このことは、第13回党大会の前の会議で、確認された。1924年のレーニンの死後数ヶ月後のことで、Krupskaya の要求にもとづいて、亡き夫の遺言が中央委員会その他の代議員たちに読み上げられた。
 スターリンは辞任すると申し出たが、ジノヴィエフとカーメネフはスターリンを排除すべきとのレーニンの助言を無視するよう会議を説得した。その理由は、スターリンの何らかの行為が犯罪としての罪責があろうとも重大ではなく、彼はそれ以降に償いをしてきた、というものだった。
 トロツキーは、人々を他に納得させる機会はもうないということを疑いなく意識しつつ、その会合で発言しなかった。
 レーニンの遺書を各地域の代議員別に読み上げることが決定されたが、党大会でそれに関して議論するという決定はなかった。
 実際には、遺書はレーニンが意図したスターリンを指導層から排除させるという効果を奪われていた。
 その代わりに、党大会〔2024年〕は、スターリンを指導者とする党の統一の呼びかけにもとづいた、トロツキー非難の合唱に転じていた。
 トロツキーは、抵抗することができなかった。
 敗北した人間として、党大会を去った。//
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 (06) 1925年1月に人民委員部の役職を退任したあと、トロツキーは1927年11月12日に、党を除名された。
 彼は十月の権力掌握10周年を祝う独立したデモ行進を組織した。だが、警察によって解散させられた。
 彼の支持者のほとんどもまた、1927年12月の第15回党大会での決議に従って、排除された。この党大会では、「反対派」の見解は党員であることと両立しない、と宣言された。
 このときに、ジノヴィエフとカーメネフも、党から除名された。
 二人は1925年にスターリンと不仲になり、トロツキーの左翼反対派や従前の労働者反対派の若干の指導的人物と勢力を合同して、1926年に党内の表現の自由の増大を要求する統合反対派を結成した(実際に分派の禁止へと結末した)。
 分派を構成したとして追放されたあと、二人はいずれものちに、誤りを認め、党に再加入した。
 しかし、トロツキーには戻る途はなかった。
 Kazakhstan に追放され、1929年にはソヴィエト同盟から国外追放となった。//
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 (07) スターリンはいつ、「権力に到達」したのか?
 正確に語るのは困難だ。レーニンの承継問題について、彼が残した複雑さのゆえに。
 レーニンの指導者性は、個人的な権威—ボルシェヴィキは〈彼の〉党だった—にもとづいていた。そして、その権力を是認するために、いかなる職位も彼は必要としなかった。
 彼の死後、同じ権威を誰かの指導者個人が継承することはただちに可能ではなかった。
 スターリンは、レーニン死後わずか一週間後の追悼会合でレーニンが始めた革命を完成させることを誓う演説を行なった。そのとき彼は、自分はレーニンの唯一の継承者だとする初期の主張を行なっていた。
 しかし、本当は、スターリンは集団指導制の中で行動せざるを得なかった。
 スターリンがその独裁に対する最後のくびきから自由になったのは、1930年代に入ってからだった。//
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 第三節
 (01) レーニンの死は、レーニン個人崇拝を復活させた。ボルシェヴィキ体制は、それ自体の正統性の感覚を、ますますこの個人崇拝に求めるようになっていく。
 レーニン記念碑が、至るところに建立された。
 指導者の巨大な肖像写真が、街頭に出現した。
 ペテログラードは、レニングラードと改称された。
 工場、役所、学校は、「レーニン区画」を作った。—彼の偉業を示す写真や遺品で成る聖なる場所。
 レーニンは人間として死に、神として生まれた。
 レーニン全集の第一版(〈Leninskii sbornik〉)づくりが始まった 。十月革命の聖典だ。//
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 (02) ジノヴィエフはレーニンの葬礼のとき、「レーニンは死んだ。だが、レーニン主義は生きている」と宣告した。
 「レーニン主義」という用語が、かくして初めて用いられた。
 三人組は、自分たちは「反レーニン主義者」のトロツキーに対抗する本当の防衛者だと描こうとした。
 このときから、指導部は、その政策—それが何であれ—を正当化するために「レーニン主義」を援用して、批判者を「反レーニン主義者」だと非難するようになる。
 レーニンの現実の思想は、つねに進化し、変転していた。
 その思想は、しばしば矛盾していた。
 聖書のように、彼の著作は多数の多様な事柄を支持するために用いることができた。そして、レーニンを支持する者たちはその事柄に適した部分を選抜するようになる。
 スターリン、フルシチョフ、ブレジネフ、ゴルバチョフ—彼らは全て「レーニン主義者」だった。
 しかし、変わらない原理が一つあるとすれば—四分の三世紀にわたるボルシェヴィキ独裁の基盤—、それは「党の統一」だった。つまり、人格を集団に融合させて、指導部の判断に服従するという全党員の「レーニン主義的義務」。
 党の方針に疑問をもつことは、それが何であれ、「反レーニン主義」と見なされるということは、この絶対的な原理にもとづいていた。//
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 (03) レーニンは、ペテログラードにある母親の墓の隣に埋葬されるのを望んでいた。
 しかしスターリンは、遺体を防腐処理させることを強く主張した。
 レーニン個人崇拝を生きたままにするためには、遺体は展示されなければならなかった。聖人の遺物のように、それは腐敗してはならないものだった。
 レーニンのアルコール漬けされた遺体は、木製の地下堂に置かれた。—のちに花崗岩の霊廟に移され、それは現在も赤の広場のクレムリンの内壁のそばに存在する。
 一般民衆に公開されたのは、1924年8月だった。//
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 (04) レーニンの脳は身体から除去され、新しく設置されたレーニン研究所に移された。
 脳は3万の断片に薄切りにされ、観察できる状態にすべくガラス板の間に保たれた。将来の世代の科学者たちが、それを研究して、「彼の天才性の実体」を発見するだろう。//
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 (05) かりにレーニンがあと数年生きていれば。どうなっていただろうか?
 スターリンは権力を握っていただろうか?
 革命は実際と同じ途を歩んでいただろうか?//
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 (06) スターリン主義体制の根本的要素—一党国家、テロルのシステム、指導者崇拝—は、1924年にはすでにあった。
 党機構は、すでに大部分は、スターリンの手中の忠実な道具だった。
 レーニンは、この全てが生じるのを許容していた。
 政治改革をしようとの彼の遅れた努力は。ボルシェヴィキ独裁制の本性や、内戦で確固たるものになっていた一般党員の政治的姿勢を、いずれも変えるまでには至らなかった。//
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 (07) しかし、レーニンの体制とスターリンのそれの間には。大きな違いがあった。
 レーニンのもとでの初期には、〔党内では〕わずかの者しか殺されなかった。
 彼による分派禁止にもかかわらず、レーニンが生きている間は、党には、激しいが同志的な議論を行なえる余地がまだあった。—そして1930年代初頭までは、諸政策に反対し続けていたことだろう。
 1930年代初頭になってスターリンは、反対する者を殺害するという効果を伴う厳格な党の方針を課した。
 レーニンは、革命への反抗者を殺害するのに何の躊躇も持たなかった。だが、党内の同志については、彼らの政治的見解を理由として収監したり殺害したりはしなかった。//
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 (08) レーニンがスターリンと異なるのは、とりわけ、農民層に関する政策だった。
 レーニンならば、スターリンが指導者となったときのような暴力的方法で農業の集団化を実施するのを、許さなかっただろう。
 NEP でのレーニンの革命の見通しは、より農民に友好的で、より多元主義的で、より寛容だった。1928-29年にNEP を覆したときにスターリンが約束した「大分岐」と、長い期間で見れば、同様にユートピア的だったとしても。
 さて、最後に、レーニンと革命の運命に関する問題は、NEP の成り行きにかかっている。そして、つぎの章で扱うのは、この問題だ。//
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 第8章、終わり。

2554/O.ファイジズ・内戦と戦時共産主義①。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 この著のうち、第7章の試訳。
 第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
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 第7章・内戦とソヴィエト・システムの形成①。
 第一節。
 (01) ブレスト=リトフスク条約によって、Czech とSlovak の兵士たちの大勢力—戦争捕虜とAustro-Hungary 軍からの脱走者—は、ソヴィエト領域内に取り残された。
 ナショナリストたちは自分たちの国のAustro-Hungary 帝国からの独立のために戦うと決心したので、戦争でロシア側に付いた。
 しかし、今ではフランスで戦っているチェコ軍の一部として戦闘を継続したかった。
 彼らは、敵の戦線を横切る危険を冒すのではなく、東方へと進み、世界をまさに一周して、Vladivostok とアメリカ合衆国を経てヨーロッパに着こうとした。
 〔1918年〕3月26日、ソヴィエト当局とPenza で合意に達した。それによれば、チェコ軍団の3万5000人の兵士は、自衛のための明記された数の武器をもつ「自由な市民」としてシベリア横断鉄道で旅をすることが認められた。//
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 (02) 5月半ばまでに、ウラルのCheliabinsk にまで到達し、そこで、地方ソヴィエトやその赤衛隊との戦闘に巻き込まれた。後者は彼らの銃砲を没収しようとした。
 軍団は、自由ソヴィエト・シベリアを通過して進もうと決め、グループに分かれ、軍備も紀律も乏しい赤衛隊から次から次へと町々を奪取した。赤衛隊は、よく組織されたチェコ軍団を見るやパニックに陥ってただちに逃げ去った。
 6月8日、チェコ軍団の8000人がヴォルガのSamara を奪った。そこは右翼エスエル(the Right SRs)の要塞地で、指導していたのは立憲会議〔憲法制定議会〕の閉鎖の後に当地へと逃亡した者で、Komuch(立憲会議議員委員会)という政府を形成していた。その政府で、チェコ軍団は力を握った。
 右翼エスエルは、フランスとイギリスがボルシェヴィキを打倒してドイツとオーストリアに対する戦争に再び戻るのを助けるつもりだ、と約束した。
 こうして、内戦—赤軍と白軍の間の軍事隊列で組織されていた—は、新しい段階に入った。それには最終的には、14の連合諸国が関わることになる。//
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 (03) 南ロシアのドン河地方で、すでに戦闘は始まっていた。その地方で、Bykhov 修道院を脱出していたコルニロフ(Kornilov〉と彼の白軍は、4000人の義勇軍を設立した。ほとんどは将校たちで、2月に氷結した平原を南へKuban 地方へ退却する前に、赤軍からRostov を短期間で奪った。
 コルニロフは4月13日に、Ekaterinodar 攻撃の際に殺された。
 将軍Denikin が指揮権を受け継ぎ、白軍を再びドン地方に向かわせた。そこではコサック農民たちがボルシェヴィキに対して反乱を起こしていた。ボルシェヴィキは銃で脅かして食料を奪い取り、コサック居住地で大暴れしていた。
 6月までに、4万人のコサック兵が将軍Krasnov のドン軍に合流した。
 その軍は、白軍とともに、北のヴォルガ地方を睨む強い位置にあり、モスクワを攻めるべくチェコ軍団と連係した。//
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 第二節。
 (01) 内戦の物語はしばしば、白軍と連合諸国のロシアへの干渉によってボルシェヴィキが闘うことを強いられた戦闘だった、と語られている。
 事態に関するこのような左翼史観では、赤軍は「非常手段」の行使について責められるべきではない、そのような措置は内戦で用いるよう余儀なくされたのだ—専断的命令とテロルによる支配、食糧徴発、大衆徴兵、等々—、なぜなら、ボルシェヴィキは反革命に対して革命を防衛するために決然とかつ迅速に行動しなければならなかったからだ、ということになる。
 しかし、このような見方は、内戦の全体像や内戦のレーニンとその支持者にとっての革命との関係を把握することができない。//
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 (02) レーニンらの見方では、内戦は階級闘争の必要な段階だった。
 彼らにとっては、内戦は革命をより激しく軍事的な態様で継続させるものだった。
 トロツキーは6月4日にソヴェトに対してこう言った。
 「我々の党は、内戦のためにある。
 内戦、万歳!
 内戦は、労働者と赤軍のためにあった。内戦は反革命に対する直接的で仮借なき闘いの名において行われた。」(注1)//
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 (03) レーニンは、内戦に備えており、おそらくは歓迎すらした。自分の党の基盤を確立する機会として。
 この闘争の影響は予見し得るものだっただろう。「革命」側と「反革命」側への国内の両極化。国家の軍事的および政治的な権力の拡張、反対者を抑圧するテロルの行使。
 レーニンの見方では、これら全てがプロレタリアート独裁の勝利のために必要だった。
 彼はしばしば、パリ・コミューンが敗北した理由はコミューン支持者たちが内戦を起こさなかったことにある、と言った、//
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 第三節。
 (01) チェコの勝利の平易さによって、今は戦争大臣のトロツキーに明らかになったのは、赤軍は、赤衛隊に代わる常備軍、職業的将校、指揮系統の中央集権的階層制を備え、帝政時代の徴兵軍をモデルにして再編成されなければならない、ということだった。
 この政策方針には、多数の反対が党員内部にあった。
 赤衛隊は労働者階級の軍と見られたが、ボルシェヴィズムの見方では、大衆徴兵は敵対的な社会勢力である農民層に支配された軍をつくることになる。
 党員たちはとくに、トロツキーの考えにある帝制時代の元将校の徴兵に反対した(内戦中に7万5000人がボルシェヴィキによって徴兵されることになる)。
 党員たちはこれは古い軍事秩序への元戻りであって、「赤軍将校」として彼らが昇進するのを妨害するものだと見た。
 いわゆる軍部反対派は、下層部にある不信と職業的将校やその他の「ブルジョア専門家」へのルサンチマンをあちこちで明確にしていた。
 しかし、トロツキーは、批判者たちの論拠を嘲弄した。革命的熱狂では、軍事的専門知識の代わりにならない。//
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 (02) 大衆徴兵は、6月に導入された。
 工場労働者や党活動家は最初に召集された。
 地方には軍事施設がなかったので、農民たちを動員するのは予想したよりもはるかに困難だった。
 最初の召集による募兵で想定していた27万5000人の農民のうち、4万人だけが実際に出頭した。
 農民たちは、収穫期に村落を去りたくなかった。
 徴兵に対しては農民蜂起が発生し、赤軍からの大量脱走もあった。
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 (03) ソヴィエトの力が地方で強くなるにつれて、農民の徴兵の割合は改善した。
 赤軍は、1919年春までに100万人の兵士をもち、1920年までに300万人に大きくなった。
 1920年の内戦の終わりまでには、500万人になった。
 赤軍は多くの点で大きすぎて、効率的でなかった。
 赤軍は荒廃した経済が銃砲、食糧、衣類を供給できる以上の早さで大きくなった。
 兵士たちは士気を失い、数千人の単位で、武器を奪って脱走した。その結果、新規の兵士たちが、十分な訓練を受けることなく、戦闘に投入されなければならなかった。そのことだけでも、脱走兵をさらに増やしそうだった。
 赤軍はこうして、大衆徴兵、供給不足、脱走の悪循環に陥っていった。これはつぎには、戦時共産主義(War Communism)という苛酷なシステムを生んだ。この戦時共産主義というシステムは、命令経済を目指すボルシェヴィキの最初の試みで、その主要な目的は全ての生産を軍隊の需要に向かって注ぎ込むことだった。//
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 (04) 戦時共産主義は、穀物の独占で始まった。
 しかし、包括的射程で経済の国家統制を含むように拡大した。
 戦時共産主義は、私的取引の廃止、全ての大規模産業の国有化、基幹産業での労働力の軍事化を目指した。そして、1920年のその絶頂点では、金銭を国家による一般的な配給制に換えようとした。
 これはスターリン主義経済のモデルだったので、その起源を説明し、どの点が革命の歴史に適合するかを判断することは、重要なことだ。//
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 (05) 一つの見方は、こうだ。戦時共産主義は内戦という緊急事態への実践的な対応だ。—推測するにレーニンが1918年春に構想し、1921年の新経済政策で回帰することになる混合経済からの一時的な逸脱だ。
 この見方は、この二つの時期にボルシェヴィキが追求した社会主義の「ソフト」な範型は、内戦期やスターリン時代の「ハード」な、または反市場・社会主義と対置される、レーニン主義の本当の顔だ、と考える。
 別の見方は、こうだ。戦時共産主義の根源はレーニンのイデオロギーにある。—布令によって社会主義を押し付ける試みであり、ボルシェヴィキが大衆的抗議を受けて1921年にやむなくようやく放棄したものだ。//
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 (06) どちらの見方も、正しくない。
 戦時共産主義は、内戦へのたんなる反応ではなかった。
 内戦を闘うための手段であり、農民その他の社会的「敵」に対する階級闘争のための一体の政策体系だった。
 こう説明することで、この政策が白軍を打倒したあと一年間も維持された理由が明らかになる。
 ボルシェヴィキは明確なイデオロギーを有していた、と言うこともできない。
 ボルシェヴィキは政策方針に関して分かれていた。—左翼は資本主義システムの廃棄へと直接に向かうことを望んだが、レーニンは、経済の再建の為に資本主義の手段を用いることを語った。
 この分裂は、内戦のあいだを通じて何度も浮上し、そのために戦時共産主義の政策は絶えず中断し、党の統一という関心に変わった。//
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 (07) 戦時共産主義は本質的には、都市部の食料危機と彼らの権力の基盤があった都市部の飢餓からの労働者の脱出に対する、ボルシェヴィキの政治的反応だった。
 ボルシェヴィキ体制の最初の6ヶ月間で、およそ100万人の労働者が大きな工業都市から脱出し、食料供給地で生活することのできる農村地帯へと移動した。
 ペテログラードの金属工業は最も悪い影響を受けた。—この6ヶ月間で、その労働者数は250万からほとんど5万に落ちた。
 ボルシェヴィキがかつては最強だったNew Lessner とErickson の工場施設には、10月にはそれぞれ7000人以上の労働者がいたが、4月までに200人以下になった。 
 Shliapnikov の言葉によれば、ボルシェヴィキ党は「存在していない階級の前衛」になっていた。(注2)//
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 (08) 危機の根源は、紙幣を使って買えるものは何もないときに、農民たちは紙の金のために食糧用品を売ろうとはしないことにあった。
 農民は生産を減らし、余剰を貯え、家畜を太らせるために穀物を用いるか、都市部からやって来る商売人との間の闇市場でそれを売った。
 都市部の商売人は農民たちと取引するために農村地帯を旅行した。
 彼らは、衣類や家庭用品を詰めた袋を持って都市部を出発し、地方の市場でそれらを売るか交換し、今度は食料を詰めて帰っていった。
 労働者たちは、彼らが工場で盗んだ道具類で農民たちと取引をし、あるいは物々交換すべく、斧、鋤、簡易ストーブ、煙草ライターのような簡単な用具を製造した。
 このような大量の「袋運び屋」によって、鉄道は占められた。
 モスクワと南方の農業地帯の間の主要な接合地であるOrel 駅では、毎日3000人の「袋運び屋」が通り過ぎた。
 彼らの多くは、列車を乗っ取った武装集団とともに旅行した。//
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 (09) ボルシェヴィキは、5月9日に、穀物を彼らが独占することを発表した。
 農民たちの収穫の余剰は全て、国家の所有物になった。
 武装集団が村落へと行って、穀物を徴発した。
 (余剰がないために)穀物を見つけられない場合に彼らが想定したのは、「富農」(クラク、kulak)—ボルシェヴィキが考案した「資本主義」的農民層という正体不明(phantom)の階級—が隠している、「穀物を目ざす戦争」が始まった、ということだった。//
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 (10) レーニンは、衝撃的な激烈さをもつ演説で、戦いの火蓋を切った。
 「クラクは、ソヴィエト政権に対する過激な敵対者だ。…
 この吸血鬼どもは、人民の飢えにもとづいて富裕になった。…
 仮借なき戦いを、クラクに対して行え!」(注3)
 部隊は、必要な穀物量が手放されるまで、村民たちを打ち叩いて、苦痛を与えた。—しばしば、次の収穫のために絶対不可欠の種苗までが犠牲になった。
 農民たちは、貴重な穀物を部隊から隠そうとした。
 徴発に抵抗する数百の農民蜂起が発生した。//
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 (11) ボルシェヴィキは政策を強化することで対応した。
 1919年1月に、穀物独占に代えて、一般的な食糧賦課(Food Levy)を導入した。これによって、独占は全ての食糧品に拡大され、地方の食料委員会は収穫見込み量に従って賦課する権限を剥奪された。これ以降、モスクワは、農民たちの最後の食料や種苗を奪っているのかどうかについて何ら考慮することなく、必要としたもの全てを農民たちから剥奪することになる。//
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 (12) 食糧賦課の目的は、赤軍の増大する需要に合わせることだけではなかった。
 カバン人の商売を根絶することで、労働者たちが工場にとどまり続けるのを助けた。
 労働力の統制は、戦時共産主義の本質部分だった。—トロツキーはこう言った。「国家の計画に適合するために必要とされる場所へと全ての労働者を配置するのは、独裁者の権利だ」。(注4)
 この計画経済に向かう一歩が、1918年6月の大規模産業の国有化だった。
 国家が指名する管理者に、工場委員会と労働組合の権限(1917年11月の布令で工場が担った)が移し換えられた。これは産業との関係に混乱をもたらし、1918年春のボルシェヴィキに対する労働者反対運動の契機となった。
 国有化布令は、ペテログラードで計画されていた総ストライキの3日前に発せられた。これは新しい工場管理者に、行動につき進む労働者に対しては解雇でもって威嚇することを許した。//
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 (13) 配給制度は、戦時共産主義の最後の構成内容だった。
 左翼ボルシェヴィキは、配給券発行は共産主義秩序を創設する行為だと見た。—金銭の代替物。彼らは間違って、金銭の消滅は資本主義システムの終焉を意味すると考えた。
 配給制度を通じて、ボルシェヴィキ独裁制はさらに、社会の統制を強めた。
 配給のクラス分けは、新しい社会階層秩序での人の位置を明らかにした。
 赤軍兵士と官僚層は第一等級の配給を得た(粗末だが十分だった)。
 ほとんどの労働者は第二等級だった(十分ではなかった)。
 一方で階層の底にいる〈ブルジョア(burzhooi)〉は、第三等級の配給で対応しなければならなかった(ジノヴィエフが回想した言葉によると、「匂いを忘れない程度のパンだけ」だった (注5))。//
 ——
 第四節。
 (01) 全体主義国家の起源は、戦時共産主義にあった。戦時共産主義が行ったのは、経済と社会の全ての側面の統制だった。
 ソヴィエト官僚制度は、この理由で、内戦のあいだに劇的に膨れ上がった。
 帝制時代の国家の古い問題—国の大多数の上に位置する能力のなさ—は、ソヴィエト国家では継承されなかった。
 1920年までに、540万の人々が政府のために働いた。
 ソヴィエト・ロシアにいた労働者数の二倍の数の役人がいた。そして、この役人たちは、新しい体制の主要な社会的基盤だった。
 プロレタリアート独裁ではなく、官僚層の独裁制だった。//
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 (02) 党に加入することは、官僚制の階位を通って昇進するための最も確実な方法だった。
 1917年から1920年までの間に、140万人が入党した。ほとんど全員が下層または農民の背景をもち、多くが赤軍出身者だった。赤軍での経験は、数百万の徴兵者たちに、紀律ある革命的前衛の下級兵士であるボルシェヴィキの思考と行動の様式を教えた。
 党指導部は、この大量の流入が党の質を落とすだろうと懸念した。
 識字能力の水準はきわめて低かった(4年間の基礎学校の課程以上の教育を受けていたのは、1920年に党員の8パーセントだけだった)。
 党員たちの政治的能力に関して言うと、未熟だった。文筆業のための党学校では、学生の誰一人としてイギリスやフランスの指導者の名前を言うことができず、何人かは帝国主義とはイギリスのどこかにある共和国だと思っていた。
 しかし、別の観点からは、この教育不足は党指導部にとっての利益になった。教育不足は支持者の自分たちへの政治的従属性を支えるものだったからだ。
 教育が不足する党員たちは党のスローガンを鸚鵡返しで言ったが、全ての批判的思考を政治局と中央委員会に委ねていた。//
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 (03) 党が大きくなるにつれて、党は地方ソヴェトを支配するようにもなった。
 これが意味したのは、ソヴェトの変質だった。—議会によって統制される地方的革命組織からボルシェヴィキが全ての現実的権力を行使する党国家(Party-State)の官僚制的機構への変質。そこでは執行部が優越的地位をもった。
 上級のソヴェトの多く、とくに内戦で重要と見なされた地域でのソヴェトでは、執行部は選挙で選出されなかった。モスクワの党中央委員会が、党官僚の中からソヴェトを管理させるべく派遣した。
 田舎の(rural, 〈volost'〉)ソヴェトでは、執行部は選挙で選出された。
 この場合は、ボルシェヴィキの勝利は部分的には、投票制度と投票者の意向に依存していた。
 しかし、ボルシェヴィキの意思の貫徹は、第一次大戦で村落を離れて内戦中に帰郷した、青年やより学識のある村民たちの支持をも理由としていた。
 この者たちは、軍事技術や軍事組織に近年に熟達し、社会主義思想もよく知っていて、ボルシェヴィキに加入する心づもりがあり、内戦が終わるまでには田舎のソヴェトを支配していた。
 例えば、この問題が詳しく研究されているVolga 地域では、〈volost'〉ソヴェトの執行部構成員の三分の二は、35歳以下の識字能力ある農民男性で、1919年秋にボルシェヴィキ党員として登録されていた。その前の春には、この割合は三分の一だった。
 この意味で、独裁制は農村地帯での文化革命に依拠していた。
 農民世界の至るところで、共産主義体制は、公務階層(official class)に加わりたいとする、教養ある農民の息子たちの野心にもとづいて築かれていた。//
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 第五節以下へ、つづく。

2538/O.ファイジズ・ソ連崩壊のあと③。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第20章の試訳のつづき。
 —— 
 第20章・判決(Judgement)。
 第二節①。
 (01) ロシアが必要としたのは、おそらく裁判ではなく、真実と和解に関する委員会だった。それは、アパルトヘイト(apartheid)の犠牲者に公開の聴聞の機会を与え、暴力行使の加害者から恩赦の訴えを聴く、そうした目的のために設置された南アフリカの委員会のようなものだ。
 以前の党官僚の特定のグループを訴追したり禁止したりするのが不適切であれば、公開の聴聞や過去に冒された犯罪に対する国家の謝罪を通じて、ロシア人が自分たちの過去に向き合い、ソヴィエト体制の犠牲者が被った悪夢を認識することが、議論の余地はあるとしても正当で、治療法になっただろう(「復古的正義」)。//
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 (02) 限られたかたちではあるが、この過程はGorbachev のもとでのグラスノスチによって始まっていた。
 抑圧の犠牲者たちは名誉が回復され、氏名を明らかにすることが認められた。
 ソヴィエト・システムの崩壊のあと、Yeltsin には、新しい民主主義と市民社会のために必要だった制度設計の一部として、このシステムを解明する機会があった。
 彼は、この機会を掴まなかった。
 そのための説明の一部は、つぎのように政治的だった。
 KGB の力は強すぎて、その文書資料を公共の調査のために開示するよう強いることができない。憲法裁判所は新しいものなので、民主主義的役割を有効に果たすことができない。Memorial のような公共的団体はその力が依然として弱すぎる。
 そして、西側からは何ら圧力が加えられなかった。西側は、経済の自由化にだけ関心があったのだ。
 しかし、歴史は、一つの説明でもあった。
 ソヴィエトの過去によって、国は二分された。
 革命の歴史に関する合意はなく、nation が真実と和解を探求して統合することのできる、同意された歴史物語もなかった。
 南アフリカでは、アパルトヘイトに対する決定的な道徳的勝利があり、退いた体制の歴史に対して統一した物語を課すことができた。
 しかし、ロシアでは、1991年に、そのような勝利はなかった。
 多くのロシア人が、ソヴィエト同盟の崩壊を、おぞましい敗北だと見た。//
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 (03) 真実と和解は、歴史的判断を意味する。
 しかし、ロシアの人々が自分たちの国の歴史について、どのような評決を下し得ただろうか?
 彼らは、ソヴィエト・システムは世界で最良でないとしても「正常な」(normal)ものだと信じて(少なくともある程度は受容して)自分たちの人生を生きていたのだ。//
 ----
 (04) ナツィ・ドイツとの比較が、ときおり行われた。
 西ドイツは、1945年以降、彼ら自身の近年の歴史に照らして、長くて痛々しい自己点検の作業を行ってきた。
 ナツィ体制は、12年間だけつづいた。
 しかし、ソヴィエト・システムは、四分の三世紀に及んだ。
 1991年までには、ロシアの住民の全体がそのシステムのもとで教育され、そのもとで経歴を積み、彼らの子どもたちを育てた。彼らの人生をソヴィエトの偉業を達成するために捧げたのであり、それは彼ら自身と当然に一体だった。//
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 (05) ロシアの人々は、信念と実践のシステムとしての共産主義を喪失して、混乱した。
 彼らは、道徳的空虚を感じた。
 ある人々にとっては、宗教が空隙を埋めた。
 正教は、マルクス・レーニン主義に代わる既成の選択肢だった。
 正教は、1917年以降に失われたロシア的生活様式との再連結、祖先を抑圧したことについての後悔、ソヴィエト体制に関与してしまった道徳的妥協からの清浄化を提供した。
 別のある人々にとっては、君主制主義が代替物だった。
 1990年代初頭には、ロマノフ家へのロシア人の関心が復活するということがあった。
 国外逃亡していたロマノフ家の子孫が帰ってきて、ロシアが立憲君主制になる、ということが語られた。
 君主制主義者の復活は、ニコライ二世とその家族が1998年7月17日、彼らがボルシェヴィキによって処刑された後ちょうど80年後に、St. Petersburg のPeter & Paul 聖堂に再埋葬されたときに絶頂に達した。
 二年後、皇帝一族は、モスクワの総主教によって聖人とされた。//
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 (06) 歴史で分裂したロシア人は、nation または国家の象徴のまわりで統合することができなかった。
 ロシア帝国の三色旗(白・青・赤)が、ロシア国旗として再び採用された。
 しかし、ナショナリストや君主制主義者たちは帝国軍隊の外套を好み、共産党員たちは赤旗に執着した。
 ソヴィエトの戦時中の国歌は、19世紀の作曲家のMikhail Glinka が作った「愛国歌」に換えられた。
 しかし、この「愛国歌」は人気がなかった。
 この歌はロシアの競技者やサッカー選手を鼓舞せず、彼らの国際舞台での成績はnational な恥辱の原因になった。
 Putin は、2000年に大統領に選出されてすぐ後に、87歳の作家のSergei Mikhailkov が1942年に元の歌詞を書いていた言葉に新たに戻した。
 彼はこの復活を、歴史的な敬意と継続性について語って正当化した。
 彼はこう言った。この国のソヴィエトの過去を否定することは、古い世代の人々から彼らの人生の意味を奪うことになるだろう。
 民主主義者はスターリン時代の国歌の復活に反対した。一方で、共産党員は支持し、ほとんどのロシア人もこの回帰を歓迎した。//
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 (07) 十月革命を記念することも、同様に分裂の元になった。
 Yeltsin は、「対立を消滅させ、異なる社会階層の間に和解を生むために」革命記念日を調和と再和解の日(Day of Accord and Reconciliation)に変更した。
 しかし、共産党員たちは伝統的なソヴィエト的様式で革命記念日を祝いつづけ、多数の党員が旗を掲げてデモ行進をした。
 Putin は、11月4日を国民統合の日として設定することで、対立を解消しようとした(1612年にポーランドによるロシア占領が終わった日)。
 その日は、2005年から公式のカレンダーで11月7日の祝日となった。
 しかし、国民統合の日は、理解されなかった。
 2007年の世論調査によると、住民のわずか4パーセントだけが何のための日かを語ることができた。
 人々の十分の六は、革命記念日がなくなることに反対していた。
 ——
 第二節②へと、つづく。
 

2537/O.ファイジズ・ソ連崩壊のあと②。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第20章の試訳のつづき。
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 第20章・判決(Judgement)。
 第一節②。
 (09) このことはたしかに、従前の共産党員で構成されているロシア政府にとっては役に立った。
 しかし、ソヴィエト体制の悪行を処理する法的枠組なくしては、共産党エリートたちがトップへと復活するのを防ぐことができなかった。
 ソヴィエト時代の活動を本当に吟味されることが省略されて、KGBはYeltsin によって1991年に、連邦反諜報活動部として再生するのが許され、4年後には、連邦治安機構(Federal Security Service, FSB)となった。人員には実質的な変化がなかった。
 民主主義政治家や人権運動家のGalina Starovoytova が提案した浄化法案は、ロシア議会によって却下された。党の一等書紀とKGB官僚が政府の官職に就くのを一時的にだけ制限するものだったが。(この却下のあとでは、KGB員の存在は国家機密と見なすことによって、浄化を導入するさらなる努力が排除された。) 
 Starovoytova は、1998年に暗殺された。言われるところでは、FSB によって。//
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 (10) 彼女の浄化法案を成立させなかったことで、Yeltsin 政権はソヴィエトの過去ときっぱりと決別して民主主義の文化を促進する機会を失った。—最良の機会だっただろうが。
 独裁制から出現する民主政では、正義がすぐに現れるか、または全く現れない。
 実際に生じたように、かつての共産党エリートたちは、1991年の衝撃から新しい政治的一体性をもってすぐに立ち直り、政治、メディア、経済を支配する力を回復した、それは、ソヴィエト時代に—またはその後に—彼らが行ったかもしれない全てについて何がしかの説明をさせようとする試みを阻止するのに十分だった。//
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 (11) しかし、どのロシアの裁判所や検察官も、どのようにして誰を訴追したり、誰に官職就任を禁止したりするかを決定するのだろうか?
 おそらくロシアの状況は、何らかの判断が下されるためにはあまりにも複雑だった。
 東ヨーロッパとバルト諸国では、共産党独裁制は外国人によって課されていた。
 これらではナショナリスト指導者たちがソヴィエト時代の悪行を理由としてロシアを(かつロシア革命を)非難するのは容易で、かつ便利だった。
 彼らは、自分たちをロシア人と区別することで、新しい国家と民族的一体性(national identity)を構築することができた。(エストニアとラトヴィアでは、人数は多いロシア少数民族派は公民権に関するきわめて厳格な法制によって公的生活から排除された。)
 しかし、ロシア人には、非難することのできる外国勢力がいなかった。
 革命は、ロシアの土壌から成長した。
 数百万のロシア人が共産党員であり、事実上は全ての者が何らかのかたちでソヴィエト体制に協力していた。
 「抑圧の犠牲者たち」を代表する最大の公的組織であるMemorial の構成員の中には、ボルシェヴィキ・エリート、収容所の幹部、ソヴィエト官僚—自分たちを抑圧したスターリン主義体制の活動家たち—の子どもたちがいた。
 この意味では、党の裁判で判決が下される必要があったのは、革命の犯罪を実行した者たちだけでなく、その者たちに寄り添ってきた全国民(whole nation)だった。
 Alexander Yakovlev が当時に述べたように、「我々は、党ではなく、我々自身を裁いている」。(後注4)
 ——
 第一節、終わり。

2535/O.ファイジズ・ソ連崩壊⑥。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第19章の試訳のつづき。
 ——
 第19章・最後のボルシェヴィキ。
 第六節。
 (01) ソヴィエト同盟の崩壊は、完全な革命ではなかった。
 Gorbachev の改革によって社会は活性化し、政治化したけれども、ソヴェト体制が瓦解したのは、Gorbachev の改革努力によってではなかった。
 かりに今後に歴史が何かを明らかにするとすれば、ロシアにおける長年にわたる民主主義の弱さだ。—民衆が現実的な変化を達成することができないこと。//
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 (02) Gorbachev は自分の挫折を導いた諸事態の鍵となる登場人物だった。
 改革を通じてソヴィエト同盟を救おうとする元来の計画から判断すると、彼は失敗する運命にあったに違いない。
 しかし、彼の意図は自分の見解が進展するにつれて変化し、この期間に多数のことを達成したと評価されるべきだ。とりわけ、ロシアに民主主義の基礎を築いたこと、ソヴィエトの支配からnationsを解放したこと、冷戦を終結させたことで。
 おそらく彼の主要な功績は、ボルシェヴィキが平和的に権力を放棄する舵取りをしたことだ。ボルシェヴィキの権力は、ほとんど4分の3世紀のあいだ、テロルと強制力に依拠していた。
 Gorbachev は、内戦や大きな暴力なくして、ボルシェヴィキの独裁を廃止することができた。これは容易ならない可能性しかなかったことで、これゆえにこそ、彼は現代史上の偉大な人物の一人だという、西側での彼の評価と地位に値する。
 出発したとき、革命を終わらせることは、彼の意図ではなかった。
 Gorbachev は、レーニン主義者として、ソヴィエト・システムを改革することで社会主義を建設するのは可能だと信じていた。
 彼は後年には、共産主義から民主政への行路を指揮するのがつねに自分の計画だという、異なる考えを抱くことになった。
 しかし、真実を言えば、彼は政治上のコロンブスだった。約束された土地を見出すべく出発したが、別の異なる土地を発見したのだ。//
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 (03) 成功した革命かに関しては、政治的エリートを交替させたかが本当の検査対象になる。
 大まかには、これは東欧の諸革命が実現したことだった。
 しかし、ロシアでは、1991年の事件の結果として多くの変化があったのではなかった。
 Yeltsin 政権は、共産主義体制の権力悪用に加担したり高位の職にとどまり続けたりした役人たちを暴いた東ヨーロッパの多くと比べると、浄化するための法制を何ら作らなかった。
 政治家や成功した事業家の大部分は、Yeltsin のロシアでは、ソヴィエト・ノメンクラトゥーラ(nomenklatura)(党指導者、議会議員、工場管理者、等々)の一部だった。 
 Yeltsin の大統領府の4分の3の職、ロシア政府のほとんど4分の3の職が、1999年時点での従前のノメンクラトゥーラ構成員でもって占められていた。
 地域政府では、その割合は80パーセントを超えた。半分以上が、Brezhnev のもとでのノメンクラトゥーラの一員だった。//
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 (04) 1990年代のビジネス・エリートたちも、以前のソヴィエトや党の官僚の出身だった。
 Gorbachev 時代の法的混乱によって、彼らは国有資産を私的な財産に変更することができた。
 1986年以降、コムソモール(Komsomols,共産主義青年同盟)は商業取引をすることを法的に認められ(輸出入業、店舗、そして銀行すら)、書類上の収益を流動的現金に変えた。
 これは、Mendeleev 化学・技術研究所にいるコムソモールの役員から最初の民間銀行の一つのMenamap の総裁になるという、Mikhail Khodorkovsky が歩んだ途だった。
 役員たちは、裕福になった。西側企業との共同事業を立ち上げることにより、またロシアでの銀行市場での現金取引から個人的利潤を得るべく外国債権を用いることにより。
 1987年から、ソヴィエトの公務員は国有資産を購入し始めた。これは、残りの民衆が国有資産から何がしかの分配を受け取ったときよりも、ずっと前のことだった。
 諸省庁は商業化し、一部は上級官僚が営む事業体として経営された。彼らは、自分たちが管理してきた資産を最低価格で自分たちに売った。 
 工場と銀行は、同じように売り払われた。//
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 (05) ソヴィエト・システムの崩壊は、ロシアの富や権力の配分を民主主義化しなかった。
 1991年のあと、ロシア人は、何も大きくは変わらなかったと考えるのを許されてきた。少なくとも、良い方向には変わらなかったと考えるのを。
 疑いなく、ロシア人の多くは、1917年の後と多くは同じことだと思っていた。//
 ——
 第六節、終わり。第19章も終わり。第20章(書物全体の最終章。表題は<Judgement>)へと進むかは未定。

2478/ニーチェとロシア革命—Rosenthal ⑥。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002).
 =B. G. ローゼンタール・新しい神話、新しい世界—ニーチェからスターリニズムへ(2002)。総計約460頁。
 第二部・ボルシェヴィキ革命と内戦期におけるニーチェ、1917-1921。
 「Nietzschean」は、ニーチェ的、ニーチェ主義的(・ニーチェ主義者)、またはそのまま「ニーチェアン」と訳す。
 第5章/現在の黙示録:マルクス、エンゲルスおよびニーチェのボルシェヴィキ的融合。 
 参照されているレーニン全集(LCW)の巻数は日本語版(大月書店)と同じ。該当箇所を確認したものは頁を追記したが、訳文をそのまま模写してはいない。
——
 第一節・レーニン:正体を隠したニーチェアン?②。
 (09) レーニンは「党組織と党文化」(1905年)で、「文学上の超人」や「ブルジョア的なアナーキー個人主義」(ニーチェと関連していた)を非難した。
 党の文学は「プロレタリアートの共通する信条の〈一部〉、プロレタリアートの前衛が作動させる単一の偉大な社会民主党機構のネジと歯車、でなければならない。」(LA,p.148-152.)
 換言すれば、党の文筆家は、レーニンが指揮する革命的合唱団の一部になるだろう。//
 (10) レーニンは1906年のあと、その神話を、英雄的なプロレタリアートへと注目させるよう修正した(〈何をなすべきか〉からの変化〉、また、ソヴェト(労働者評議会)やパリ・コミューンに対しても。(全集9巻p.141,8巻p.206-8.)
 こうした変化によって、神の建設(God-building)のような「精神的大酒飲み」には汚染されていないマルクス主義の系譜に連なるものに、彼の神話はなった。
 マルクスやエンゲルスにとって、革命的暴力は助産婦だった(マルクスには実際の出生の血と痛みは生々しかった)。
 レーニンにとっては、バクーニンやソレル(Sorel)にもそうだったように、暴力は心理を変革する体験だった。
 「ロシアの人民は、1905年より前とは同じではない。
 革命は彼らに闘うことを教えた。
 プロレタリアートは彼らに、勝利をもたらすだろう。」(全集16巻p.304.)=(日本語版全集16巻「革命の教訓」,p.321.)
 大衆自身による武装闘争だけが、彼らの解放を実現することができる。
 1905年の革命は、プロレタリアの革命だった(漸進主義のマルクス主義者たちが主張するブルジョア民主主義的なそれではない)。特殊プロレタリア的な「闘争形態」—ストライキ—でもって、プロレタリアートの前衛が指導したものだからだ。
 闘争は、大衆に新しい精神を吹き込んだ。
 それ以降、彼らは止まりはしないし、誰をも期待しない。彼らが選ぶのは、勝利か死か、だ。
 漸進主義のマルクス主義者は臆病な日和見主義者であり、「停滞し、気後れし、無力の、そして崩壊寸前のブルジョア社会の心理と決裂する能力のない」人間たちだ。(全集16巻p.307-9,p.311-2.)
 ニーチェ的な用語では、彼らは、「奴隷の道徳」の持ち主だ。//
 <一行あけ>
 (11) Bogdanov 派と論戦するための理論的情報を求めて、レーニンは、彼が読書会に所属するGeneva 〔スイス〕やSorbonne 〔パリ〕の図書館で、当時の西洋哲学書を読んだ。
 ニーチェの著作のフランス語訳は、Geneva 図書館の一般には流通していない収集物の中にあった。
 レーニンはニーチェ、モーパッサン(Maupassant)その他を読むために、約二週間、毎日そこへ通った。(注12)
 なぜ、Maupassant だったのか?
 おそらくレーニンは、ショーペンハウアーの底流を拾い上げたのだ。そのSchopenhauer 的底流は、Lunacharsky、August Strindberg、Joseph Conrad、Gabriele D'Annunzio、Isaac Babel のようなニーチェにも魅惑されている知識人たちを惹き付けていた。
 Lunacharsky はとくに、Maupassant をニーチェと関連させていた。//
 (12) レーニンの〈哲学草稿〉でニーチェへの言及がほとんど隠されているのは、少なくとも表面的には、ニーチェの思想にすでに通じていたことを示している。
 Ludwig Stein の〈現代哲学の潮流〉(1908年)を概約してレーニンが一覧表にしている10の範疇のうち7番目は、「個人主義(ニーチェ)」だった。(全集38巻p.54.)=(日本語版全集38巻・哲学ノートp.37.)
 ついで参照したものはレーニンのノートにあり、「道徳の問題」という表題が付けられていた。//
 「ゆえに、新しい哲学は、まずは道徳の諸原理だ。
 その諸原理は、〈行動の神秘主義(mysticism)〉と定義できるように思われる。
 〈この考え方(attitude)は新しいものではない。
 ソフィストたち(Sophists)が採用した考え方であり、彼らには真実も過ちもなく、ただ成功(success)だけがあった。〉 …。
 Stirner やニーチェのような知的アナキストの諸原理は、これと同じ前提に立っている。…。/
 〈LeRoy のようなある種の近代主義者が実用主義(pragmatism)からカトリシズムの正当化を導くとき〉、彼らはたぶん、一定の哲学者たち—実用主義の創設者たち—が得ようとしたものを実用主義から導かない。
 〈しかし彼らは、正当に引き出し得る結論を、それから導いた。〉 …。/
 〈実用主義の特徴は、成功するものは全て正しい(true)ということであり、どんな方法であれその瞬間に適合しているものは全て正しいのだ。すなわち、科学、宗教、道徳、習慣、決まり事。〉
 全ての事物が、真摯に受け取られなければならない。そして、目標を達成し、行動を可能にしてくれるものを、真摯に受け取らなければならない。」(全集38巻p.454-5.)=(日本語版全集38巻・哲学ノート421-2頁)。//
 言い換えると、真実(truth)とは実用主義的観念であり、組織化する原理だ。
 レーニン は、William James について多数のメモを書いた。
 モスクワのたいていの神探求者たち(Godseekers)は、James の実用主義をニーチェの反道徳主義と結びつけた。(注13)
 レーニンも、そうしたかもしれない。
 しかしながら、公式には、James をBogdanov やマッハ(Mach)に関連づけた。彼らは全て、真実を仮説にしていたからだ。(注14)//
 (13) レーニンは〈唯物論と経験批判論〉(1909年)で、政治でと同じく、哲学には中立の地点は存在しない、と主張した。
 全ての哲学が、階級利益に奉仕する。
 客観的現実と客観的真実の存在を否認することによって、「マッハ主義者たち」(Machians)はマルクス主義の敵のための道を掃き清めていた。 
 Bogdanov 派は、(現実とマルクス主義に対峙する)不可知論(agnosticism)と信仰主義(fideism)(「神の建設」への暗示)であるために有罪だった。
 レーニンは、マルクスはFeuerbach を新しい宗教を作ろうとしているとして非難した、と記した。 
 Bogdanov 派は、Dietzgen が唯物論者である以上に、彼の「錯乱」に従っていた。(p.254.)
 さらに、かりに「組織」が問題となる唯一のことならば、一つの「真実」は別のものと同じく有効だ。
 「真実が人間の経験を組織する唯一の形態であるならば、言ってみれば、カトリシズムの教えもまた、真実だ。
 カトリシズムが『人間の経験を組織する形態』であることに、微塵の疑いもないからだ。」(p.122)
 さらに加えて、Bogdanov の「認知(cognitive)社会主義」は、「正気ではない。…。」
 「社会主義がそのように見なされるのならば、イェズス会修道士は『認知社会主義』の熱狂的な支持者だ。彼らの認識論上の基礎にあるのは、『社会的に組織された経験』としての神学(divinity)だからだ。
 それだけでは客観的真実を反映しない(Bogdanov はこれを否定するが、科学が反映する)。そうではなく、特定の社会諸階級による大衆の無知の利用を反映している。」(p.234)//
 (14) 〈唯物論と経験批判論〉にはニーチェへの言及がない。しかし、「マッハ」が「ニーチェ」の代わりに用いられているなら、レーニンの論述の基本的趣旨は、見事に変わらないままだ。
 では、レーニンはなぜ、ニーチェを語らなかったのか?
 推測するに、論述を「科学的」次元に保つことで、検閲を免れ、争点になっている権力政治上の問題をごまかそうとしたのだろう。
 レーニンにとって、「真実」とは、ボルシェヴィキが勝利するのを可能にするものだ。—〈成功するものは全て正しい。〉
 要するに、マルクス主義はニュートンの法則のごとく絶対に不変の真実だ、とレーニンは論じていた。
 心理学的には、彼は正し(right)かった。
 活性化するイデオロギーは、確実性を必要とする。
 民衆は、仮定の真実のために収監されたり死んだりする危険を冒そうとはしない。//
 (15) レーニンは追加の論文で、「神秘主義の流行」はもちろん〈Landmark〉や「マッハ主義」という従来のマルクス主義者によって伝えられた「従順」と「後悔」のイデオロギーについて論じた。そしてこの現象の原因は、社会的政治的状況の異様で強く突然の変化に対する無思考の(つまり自然発生的な、ゆえに非合理的で非科学的な)反応にあるとした。
 「『全ての価値の再評価』、根本的諸問題の新しい研究、理論、基礎的原理や政治のABCへの新しい関心が生じるのは、当然のことで、避けられない」。
 このことの理由は正確には、「マルクス主義は生命のないドグマではなく、行動のための生きている指針」だからだ。
 あるマルクス主義者たちは、マルクス主義の規準を理解することなく「決まりきった一定の『スローガン』」を学んできた。
 彼らの「全ての価値の再評価」(この句をレーニンは繰り返す)は、「マルクス主義の最も抽象的で哲学的な根本部分の修正」へと、「空虚な文句の頒布」へと、そして党内での「マッハ主義の蔓延」へと、導いた。(全集17巻p.39,p.42-43.)=(日本語版全集17巻「マルクス主義の歴史的発展の若干の特質について」p.26-p.30.)//
 (16) レーニンは1917年4月に、ボルシェヴィキ党に対して名称を(「ブルジョア的」社会民主党と区別するために)共産党に変更するよう迫った。これは翌1918年の3月に行われた。
 レーニンはまた1917年に、新しいスローガンを作った。—「全ての権力をソヴェトへ」、「搾取者を搾取せよ」。これは再び、彼の言葉への敏感さを示していた。
 ボルシェヴィキ政権の存続が危機にあった内戦の真只中に、レーニンは新しい<ロシア言語辞典>四巻本の発行を支援した。革命がもたらした社会的変化は「言語の前線」での直接的行動を要求する、と考えたからだった。(注15)//
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 (注12) Venturelli, Nietzsche Studien 1993, p.321-4. レーニンが調べた書物の一覧がp.322 にある。
 (注13) Rosenthal.
 (注14) Lenin,唯物論と経験批判論,p.355n.
 (注15) Michael G. Smith, Language & Power in the Creation of the USSR (1998), p,42.
 ——
 第一節③へとつづく。
  

2476/ニーチェとロシア革命—Rosenthal ⑤。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002).
 =B. G. ローゼンタール・新しい神話、新しい世界—ニーチェからスターリニズムへ(2002)。総計約460頁。
 第二部・ボルシェヴィキ革命と内戦期におけるニーチェ、1917-1921。
 第二部の最初の章の「序」のあとの本文へと進む。
 なお、「Nietzschean」は、ニーチェ的、ニーチェ主義的(・ニーチェ主義者)、またはそのまま「ニーチェアン」と訳す。
 ——
 第二部・第5章/現在の黙示録:マルクス、エンゲルスおよびニーチェのボルシェヴィキ的融合。
 第一節・レーニン:正体を隠したニーチェアン?
 (01) 疑問符を付しているのは、意図的だ。レーニンの「ニーチェ主義」(Nietzscheanism)の証拠は間接的だから。
 レーニンのレトリックには、確かにニーチェ的な響きがある。
 「意思」、「権力」および「紀律」(これはニーチェに関するApollo的解釈と符合する)は、彼の好みの言葉だ。
 レーニンは政治における「感傷」を嫌い、ほとんど生活様式のごとく闘争に喜びを感じた。
 このような嗜好に加えて革命的人民主義の「英雄的」伝統の称賛、1904年から1907年までのBogdanov との連携、Gorky との友人関係、ニーチェが染み込んだ一般的文化状況があったので、ニーチェがレーニンのマルクス主義解釈に影響を与えた(inform)、という高度の蓋然性はある。
 レーニンは自分のノートでニーチェに言及しており、クレムリンの執務室に一冊の〈ツァラストゥラ〉を置いていた。(注5)
 Gorky は、解放を目ざす大衆の闘いを指導するロシアの超人(Superman)を探していた。
 レーニンは自分がその役割を果たすと、または少なくとも「世界的な歴史的個人」(ヘーゲルの観念)だと考えたかもしれない。
 彼はブハーリンの、ニーチェ的要素のある帝国主義に関する書物に自分のその主題の本で回答し、プロレタリア国家の描写をして左翼ボルシェヴィキの「アナーキズム」に反論した。
 もちろん、レーニンはニーチェを読んで彼の権力への意思を得たのではなかった。しかし、ニーチェはおそらくそれを強めた。//
 (02) レーニンの全集は決して完全なものではない。
 彼または彼の信条を当惑させそうな文書は、排除されていた。
 彼自身がいくつかを破棄し、または手紙の場合には、破棄するよう受取人に指示した。(注6)
 レーニンの公刊著作にはマルクス、エンゲルス、プレハノフおよびカウツキーへの言及が豊富にあり、より少ない程度で、Chernyshevsky、Herzen、Belinsky、および彼がマルクス主義の先駆者と見做した「70年代の輝かしい星座のごとき革命家たち」(Tucker 編,レーニン選集=LA,p.20)への言及がある。
 彼は、自分の思想に対する非マルクス主義の影響については寡黙だった。
 そのノートから明らかであるのは、ヘーゲル、クラウセヴィッツ、アリストテレスがレーニンのマルクス主義解釈と革命戦略を磨くのを助けた、ということだ。
 ダーウィンとマキアヴェリ(Machiavelli)も、そうだった。
 レーニンは執務机の上にダーウィン像を置いていた。しかし、マキアヴェリについては名前を出してはほとんど言及しなかった。だが、私的な連絡文書でもそうだったのではない(注7)
 政治局の指導者たちに対する(読後に破棄すべきものとされた)手紙で、レーニンはこう書いた。
 「政治手腕(statecraft)の問題に関するある賢人[マキアヴェリ]は正しく、一定の政治目標を実現するのと同じことのためには一定の残虐さに訴えることが必要であるならば、最も激しいやり方でかつ可能なかぎり短時間のうちに、実行されなければならない、なぜならば、大衆は長期間の残酷さの利用に耐えることができない、と言った。」(注8)//
 (03) マキアヴェリもそうだがニーチェもおそらく、レーニンのエリート主義と革命的反道徳主義を促進した。
 レーニンは、プロレタリアートは自分たちで解放する力を持たないというTkachev の見方を共有しており、革命は「タフな事業だ」と叙述した。
 「白い手袋をはめた、きれいな手では革命をすることができない。…。
 党は女学校ではない。…。
 悪人はまさに悪人であるがゆえに、我々が必要とするかもしれない。」
 彼は、Nechaev の同時代人は「組織者、陰謀家としての特殊な才能を持ち、衝撃的な明瞭さでまとめ上げる技巧を持つことを忘れていた」と観察した。(注9)
 レーニンの世代の最大原理主義者たちは、Nechaev は「ニーチェより前のニーチェアンだ」と見なした。
 おそらくレーニンも、そうした。//
 (04) レーニンは、ボルシェヴィズムの基礎的文献である〈何をなすべきか〉(1902年)で、前衛政党に関するマルクスの考えを超える、革命的エリート主義を提示した。
 「階級的政治意識は労働者に対して〈外からのみ〉、すなわち経済的闘争の外部からのみ、もたらすことができる」(LA,p.50)
 プロレタリアートは自分たちでは、労働組合主義の意識だけを持つことができる。
 潜在的には、プロレタリアートは間違った方向へと慌てて逃げることになる大きな群れだ。
 この書物でレーニンは、「Tkachev の説示が用意し、現実に威嚇する『威嚇的な』テロルの手段により実行された『壮大な』権力奪取の企てと、たんに滑稽なだけの、とくに平均的な人々の組織化という考えで補完された場合には滑稽な、小Tkachev の『刺激的な』テロル」とを区別した。(LA,p.107.)
 彼は、マルクス主義者は革命的人民主義者の過ちを繰り返さないということに関係して、職業的革命家、意識が高くて自己紀律をもつ革命的エリートの組織を強く主張した。//
 (05) レーニンの「意識性」(〈soznatel'nost〉)と「自然発生性」(〈stikhinost'〉)という両範疇は、ニーチェのApollon 的衝動とDionysus 的衝動に対応している。
 これは偶然ではないかもしれない。〈悲劇の誕生〉の1901年のドイツ語版は、レーニンの個人的蔵書の中にあった。(注10)
 〈Stikhinost'〉は〈stikhinyi〉、「自然的」(elemental)という形容詞に由来しており、思考のない(mindless)過程を含意している。
 レーニンは「自然発生性」の危険に警告を発し、それを奴隷性や原始性と結びつけた(LA,p.27,32,46,63)
 彼が術語を用いるとき、「意識」はたんに知覚だけではなく、権力を獲得するための戦略でもあった。
 レーニンは、Bogdanov のように、マルクス主義を活性化するイデオロギー、あるいは動かす神話(mobilizing myth)だと見なした。
 そのいずれも、組織のApollon 的原理を強調するものだった。//
 (06) ニーチェ的マルクス主義者たちとの論争で、レーニンはニーチェ的用語を使い、自分の動的神話を発展させた。
 1905年の革命の間、彼とBogdanov は(フィンランドの)同じ建物に住んだ。そこで彼らは、政治理論、文化、哲学、革命の戦略と戦術を論じ合った。(注11)
 確実に、ニーチェはその討論に入ってきていた。
 レーニンの動的神話は、新しい目標、新しい道徳、新しい政治形態を伴っていた。新しい政治形態—職業的革命家で構成される前衛政党、訓練されて意識が高い陰謀家的エリート、そして資本主義から共産主義の第一段階への直接的移行を指揮するプロレタリアート独裁。
 マルクスは、どの時代にも特有の幻想(あるいは神話)がある、と書いた(Tucker 編,マルクス.エンゲルス読本=MER,p.165)
 レーニンは科学的であれと主張したが、社会主義という対抗神話を生み出していた。
 「『唯一の』選択肢は、ブルジョア・イデオロギーか社会主義イデオロギーか、のどちらかだ。
 中間の経路はない。…。
 非階級の、または階級を超えたイデオロギーなど決して存在し得ない。」(LA,p.29.)//
 (07) レーニンは「社会民主党の二つの戦術」(1905年6-7月)で、〈革命的民主主義的なプロレタリアートと農民の独裁〉を提起した。プロレタリアートだけでは権力を奪取するのに十分でなかったからだ。
 この戦術変更を正当化するために、彼は弁証法的形態で論拠を言い表した。
 「全ての事物は相対的だ。全てのものは流動する。全てのものは変化する。…。
 抽象的な真実なるものは存在しない。
 真実は、つねに具体的だ。」(LA,p.135.)
 Bogdanov も、同じ言葉遣いをすることができただろう。//
 (08) レーニンは同じ論文で、「革命は被抑圧者たちの祭典だ」と宣告した。
 ボルシェヴィキは、「大衆の祭典のための活力、および直接の決定的行路を目ざす仮借なき自己犠牲的闘いを繰り広げる彼らの革命的熱情」を利用しなければならない」(LA,p.140-1)
 「熱情」(ardor)や「活力」(energy)という言葉は、ニーチェ的マルクス主義者たちに好まれた。
 彼はまた、ボルシェヴィキには新しいスローガンが必要だ、と言った(「新しい言葉」のレーニン版)。
 「言葉も、行動だ」。
 「行動に移す必要のある〈直接的スローガン〉に進むことなくして、〈古いやり方で〉「言葉」に閉じ込める」のは裏切りだ(LA,p.134)
 言葉遣いに対するレーニンの繊細さは、ニーチェやそのロシアでの崇拝者たちと共通している、もう一つの分野だった。
 ボルシェヴィキ指導者は、終生にわたって古典文献学に関心をもった。//
 (09) 現実的にであれ潜在的にであれ、反抗に関するレーニンの定番の言葉は、「粉砕せよ」、「麻痺させよ」、「壊滅せよ」、「破壊せよ」だった。
 彼は、このような乱暴な言葉は「憎悪、反感、そして侮蔑心、…を読者に掻き立てるように、納得させるのではなく敵の隊列を破壊するように、敵の誤りを訂正するのではなく破滅させて敵を地球の表面から一掃するように、計算されている」と語った(レーニン全集第12巻p.424-5)=(日本語版全集12巻「ロシア社会民主労働党第5回大会にたいする報告」433頁.)
 Bogdanov の好きな言葉の一つである「調和」は、レーニンの語彙の中にはなかった。
 Gorky は、レーニンの言葉を「鉄斧の言語」と呼んだ。//
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 (注5) Robert Service, Lenin -A Biography, p.203.
 (注6) Ricard Pipes, ed, The Unknown Lenin, p.4.
 (注7) Service, p.203-4, p.376.
 (注8) In Pipes, p.153.
 (注9) Dmitri Volkogonov, Lenin, p.22 から引用。
 (注10) Aldo Venturelli, in "Nietzsche Studien" 1993, p.324.
 (注11) Service, p.183.
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 第一節②へとつづく。

2472/ニーチェとロシア革命—Rosenthal ③。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002).
 =B. G. ローゼンタール・新しい神話、新しい世界—ニーチェからスターリニズムへ(2002)。総計約460頁。
 第二部・ボルシェヴィキ革命と内戦期におけるニーチェ、1917-1921。
 「前記」の試訳のつづき。
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 (前記)②
 (08) Proletkult の指導者の一人のPavel Kerzhentsev(P.M.Lebedev、1881〜1940)は、プロレタリア文化の理論家だと自負し、1904年以降はボルシェヴィキ党員だった。彼は、その書物と同名の「創造的劇場」(〈Tvorcheskii teatr〉)を提案したが、これは、「創造的自己活動」(〈samodeiatel'nost'〉)と階級意識を特徴とするニーチェ/ワーグナー/Ivanov 症候群のプロレタリア版だった。
 Kerzhentsev のような活動家たちにとって、中心となるニーチェ思想は、「権力への意思」だった。
 彼らの何人かは戯曲を書いたが、それらでは革命は独りの強い個人によって推進され、どの場合でも最も有効な影響力をもったのは〈ツァラトゥストラ〉だった。
 「自己活動」(Self-activity)は決まり文句になったが、それが何を意味し、どうやってそれを促進するかについては、一致がなかった。
 Kerzhentsev が求めたのは、プロレタリア演劇は全日働く労働者が書いた戯曲によるものに限られ、労働者の役者と労働者の演出家と労働者の音楽家(職業人ではない者)だけを用いることだった。
 彼は、オペラやバレェは時代遅れになったと主張して、明確なプロレタリア芸術の一様相として新しい劇場の形態を労働者たちが発展させるのを期待した。//
 (09) Lunacharsky とIvanov は、芸術家とApplo やDionysus の人々が一つになったものが大衆祭典だと考えた。 
 Lunacharsky は大衆祭典は扇動のための力強い手段だと見なし、扇動を「聴衆と読者の感情を掻き立て、彼らの意思に直接に影響を与えること」と定義した。プロパガンダの全内容を「真白い心に」運び、「全ての色で輝かせる」ものだ。
 彼は党に対して、ポスター、写真、彫像、「音楽の魔力」で「党を装飾する」こと、映画やリズムの新しい芸術様式を用いること、を強く要求した。
 資金を利用できるようになったとき、彼は、「社会の霊魂(soul)」に影響を与えるべく大きな教会寺院を建設するのを望んだ。
 彼は1919年に、心理的には単純な分野でのプロパガンダ作品を生むために、メロドラマ・コンテストを行うことを発表した。//
 (10) Evreinov は、最も多くの大衆祭典を監督した。そのうち「冬宮への突撃」は革命三周年記念のものだった。これには6000人の「配役」があり、ペテログラード軍事地区(PUR)の政治局の後援を受けていた。
 その他の大衆祭典もあった。それらは、祝ったあとで、「解放された労働の神秘」、「第三インターナショナル」、「専制政打倒」、および「プロメテウスの炎」と冠された。
 祝典のいくつかは、世界じゅうの諸国に示すために新しいテープに録音された。
 大衆祭典は「自己活動」を特徴とするものと想定されていた。しかし、演技者の役割は演出者によって削ぎ落とされ、大量の厳しい統制があった。
 Lunacharsky は、こう呟いた。「一般的軍事指令の方法で、数千、数万の人民がリズム正しく動く大衆祭典を我々は創る。そのときに、どんな人物が祝祭儀礼を引き受けるかをまさに考えよ。—大衆は群衆ではなく、一つの明確な思想(idea)を真摯に有する、厳格に統制された、集団的で平和的な軍隊だ」。//
 (11) 政治的演劇と宣伝列車、宣伝船は、国じゅうに革命のメッセージを運んだ。
 赤軍の演劇団が、一つの特殊単位として構成された。
 役者が、前線での上演のために派遣された。
 演劇化された模擬裁判または「扇動裁判」が、赤軍で始まった。
 それらは1920年までに、定期的な政治的儀式になった。
 「弁護人」、「訴追官」と「証人」は、各自の文章を朗読するというよりも、即興で歌った。
 Julie Cassiday によると、「扇動裁判」は劇場に関するIvanov の考えを適用したものだった。
 熱心な赤軍劇場組織者のAdrian Piotrovsky(1898〜1938)はTadeuz Zelinski の非嫡出の息子で、いく人かのニーチェの学問的崇拝者の一人だった(Zelinski はモスクワ大学の古典文献学の教授だった)。
 Meyerhold は、政治教育のために新聞の切り抜き、ラジオ速報および特定の政治的英雄や悪役の仮面を用いた。
 政治的演劇が求めたのは、極端な光と暗闇、自由と隷属、善と悪、救世主と悪魔だった。//
 (12) 政治的活動家たちは、芸術と科学の民衆化や労働者の創造性の奨励によって創出される「プロレタリアのアテネ」について語った。
 ポスター、詩、戯曲は、典型的に省略したニーチェの観念であるプロレタリアの超人(superman)を称賛した。この観念は、民俗伝承上の巨人(giant)のような大きさや力の強さではなく、偉大な文化的創造性をもつ人物を指していた。
 以前は〈Miriskusnik〉(芸術の世界運動の会員)だったBoris Kustodiev の「ボルシェヴィキ」(1918年)は、よく知られている例だ。
 Vladimir Lebedev の「ロシア前線を防衛する赤軍と艦隊」(1920年)の特徴のない顔は、〈太陽に対する勝利〉の強人たち(strongmen)のそれを思い出させる。
 Lazar el Lissitzky は、彼のポスター「赤の楔で白をやっつけろ」(1919年)で、政治的プロパガンダに幾何学的様式を採用した。//
 (13) 赤軍の学校の研修講師の中には、銀の時代(the Silver Age)に広がった知識人たちがいた。
 カリキュラムの特徴は、政治的用語(闘争術)、文学、演劇、音楽、身体文化(競技)にあった。
 カリキュラム開発者のNikolai Podvoisky(1880〜1948)は、啓蒙人民委員部およびProletkult と緊密に連携した。
 大衆祭典や大衆競技の熱狂者であるPodvoisky は、子ども用の居住区画を経営することもした。そこでは、「思弁家に死を」という彼の非難が連呼された。
 新時代の全ての文筆関係者と同じく彼は言語に敏感で、「我々の言葉は我々の最良の武器だ」と公然と述べた。
 「言葉は敵の隊列を爆破し、追い散らす。敵の気分を解体し、神経を麻痺させ、敵の戦陣に追い込んで、階級の内部争いへと分解させる。」
 共産主義青年同盟(Komsomol)の同盟員たちは自分たちを前衛の前衛だ、新しい文化の勇敢な創造者だ、と見なした。
 ニーチェの戦士の気風(ethos)は共産主義青年同盟の詩や散文に充満しており、それらには、ニーチェ的な因習破壊主義や若者崇拝(cult)が伴っていた。
 赤軍の学校と共産主義青年同盟は、青年たちに対して重要な知識情報上の影響力を持った。//
 (14) レーニンは、ワーグナー好き(Wagnerophile)だった。
 1920年に彼は、倒れた革命の英雄たちのための花輪置き儀式を主宰した。そのときには、Peter & Paul 要塞からの礼砲を背景にして、Siegfried の葬送行進曲(〈神々の黄昏〉より)が演奏された。
 レーニンはそのように劇化して、第8回ソヴェト大会(1920年12月)でロシアの電化を発表した。
 その大会は寒くて薄暗いBolshoi 劇場で催されたのだが、陰影の中にまばゆい光が舞台をこうこうと照らし、代議員たちの視線を巨大な地図に向けさせていた。その地図には、10年後までに電化されるロシアが描かれていた。
 モスクワの発電能力は、表示装置がどこかで切れてしまうほどに小さかった。
 紙が不足していたにもかかわらず、GOELRO(ロシアの電化に関する国家委員会)の50頁の梗概文書が、代議員に対して5万部、配布された。
 レーニンが、しばしば引用される「共産主義とは(=)ソヴェト権力プラス(+)全国土の電化だ」という声明を発したのは、このときだった。
 彼は、電化によってロシアが経済的、政治的、そして文化的に変革されることを期待した。 
 GOELROの電化(electrification)の計画はあまりに壮大なものだったので、反対派は「電気作り話」(electrofiction,〈elektrofiktsiia〉)と称した。//
 <一行あけ>
 (15) ソヴィエト史の「英雄の時代」(革命と内戦)が終わるまでに、文化は完全に政治的なものになった。
 「前線」、「司令」その他の軍事用語が、言葉の世界を覆った。
 文筆家や芸術家たちは、政府の資金援助を求めて、国有化された印刷媒体の利用を求めて、紙の配給を求めて、競い合った。
 対抗する全ての芸術学校が、プロレタリアートのために発言した。
 未来主義者たちは芸術への政府介入の廃止を要求したが、自分たちが動かす「芸術に対する独裁」を欲していた。
 Proletkult の熱狂者たちもまた、同じだった。
 Lunacharsky は、異なる諸グループの調整を試みた。それを理由として、Kerzhentsev は彼を「右翼主義」だとして非難した。
 政治への無関心は、受け入れらることではなかった。//
 (16) 論者たちは、ボルシェヴィキ革命は根源的な力だと叙述した。そしてしばしば、Blok が「根源と文化」(1908年)でそうしたように、「根源的」なものをDionysus 的なものと関連づけた。
 頑強さ、大胆さおよび意思が、寛容性、人格的統合、自己発展および侮辱を忘れる能力といったその他のニーチェ的美徳を表現した。
 敵に対する残忍さは、神聖な義務となった。
 レーニン、ブハーリン、トロツキーは、マルクス主義とニーチェの新しい融合形態を生み出した。
 ボルシェヴィズムを超えて進むことを望む芸術家や知識人たちは、「精神」革命や「文化」革命の必要性を説いた。これら二つの言葉は、相互交換が可能だった。//
 ——
 第二部・「前記」終わり。前記(見出しなし)は、p.117〜p.124。
 

2470/ニーチェとロシア革命—Rosenthal ②。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002).
 =B. G. ローゼンタール・新しい神話、新しい世界—ニーチェからスターリニズムへ(2002)。総計約460頁。
 第二部の最初から試訳する。
 第一部「要約」は、→No.2454
 ——
 第二部・ボルシェヴィキ革命と内戦期におけるニーチェ、1917-1921。
 (前記)①
 (01) 戦争での損失が増大し、前線での被害者が増加し、政府の醜聞が次から次へとつづいた。これに伴い、革命が予期されるようになった。
 しかしながら、ツァーリ体制の終焉は、突然にやって来た。
 二月革命(東方暦1917年2月26-29日、西暦同年3月8-11日)は、「二重権力」を生み出して終わった。立憲議会が選出されて招集されるまで支配するとされた臨時政府と、ペテログラード・労働者農民代表者ソヴェトだ。
 秋までに兵士たちはぞろぞろと戦線離脱しており、農民たちは大土地所有者の土地を奪っており、労働者たちは諸工場を掌握していた。
 ボルシェヴィキ革命(東方暦1917年10月26-27日、西暦同年11月7-8日)はプロレタリアートの独裁を打ち立て、ボルシェヴィキの権力を強化し、戦争から離脱しようとしていた。
 1918年3月、ロシア政府はドイツの条件を受諾した。
 ブレスト=リトフスク条約によって、ロシアは、バルト諸国、ウクライナの大部分(穀物地帯)、ベラルーシ、ポーランド、およびトランス・コーカサスの一部を失い、金での賠償金を課せられた。
 ドイツ軍はつぎの11月に撤退し(西部戦線での停戦で要求されていた)、空白が生まれ、「赤」軍と「白」軍が内戦を繰り広げた。
 それが過ぎ去るまで、経済は止まったままで、1300万人が死んだ。その原因のほとんどは、飢餓と伝染病蔓延だった。
 数百万の孤児や遺棄された子どもたちが田園地帯を徘徊し、生き延びるために犯罪に手を染めた。//
 (02) 遡及して「戦時共産主義」と呼ばれた政策は、全面的な内戦の開始の前に部分的には始められており、内戦が終焉するまで続いた。
 いわゆる「戦時共産主義」は、私的な経済取引を禁止した。そして、テロル、強制労働、階級憎悪の煽り立て、階級に従った配給、強制的な穀物徴発を特徴とした。
 「赤」の勝利が間近になるや、反対派が党内に現れ、ロシアじゅうで農民反乱が勃発した。そして、ペテログラードの労働者たちは叛乱する瀬戸際のいるように見えた。
 1921年3月、クロンシュタット海軍基地の兵士たちは「第三革命」を呼号し、「共産主義者のいないソヴェト」や「人民委員制」廃止を要求した。
 クロンシュタット叛乱は鎮圧されたが、レーニンが新経済政策(NEP)を発表するのを早めた。
 穀物の強制徴発に代わる最も重要な手段になったのは、生産を促すための現物税だった。
 徴税後の余剰は全て、地方の市場で販売することができるようになった。
 この変更を理論的に正当化するために(レーニンは数週間にわたってこれを馬鹿にしていたのだが)、彼は失敗した政策を「戦時共産主義」と名づけた。
 NEPを採択した同じ(第10回)党大会は、全ての党内分派を解散するか、さもなくば追放されるべきことを命じた。//
 (03) Bogdanov はどうやら、1917年11月に早くも「戦時共産主義」という語を、侮蔑的な意味で作ったようだ。
 彼はボルシェヴィキ政権をプロレタリアートの独裁と呼ぶのを拒み、新しい〈Arakcheevshchina〉(アレクサンダー一世の統治の間にArakcheev により樹立された悪名高い軍事植民区の喩え)を警告した。
 彼は、党への再加入のいくつかの誘いと、Lunacharsky による、Namprokoms との頭文字語で知られる啓蒙(〈Prosveshchenie〉)人民委員部の職の提示を固辞し、人民委員になる義兄弟〔Lunacharsky〕を批判した。
 Prosveshchenie は「教育(education)」をも意味したが、「啓蒙(enlightenment)」がボルシェヴィキの使命的考えをより伝えていた。 
 Lunacharsky は1905年にレーニンと和解し、1917年8月に再入党していた。
 ボルシェヴィキ革命の1週間前、Lunacharsky はペテログラードに最初のProletkult(プロレタリア文化)会議を招集した。
 Bogdanov は翌年3月にモスクワで同様の会議を組織した。そして9月にそこで、第一回の全国プロレタリア文化会議が開催された。
 Proletkult は党と国家に対して自主的団体だったが(形式的には分離していた)、啓蒙人民委員部によって設立されていた。
 Lunacharsky は一度も党の中央委員会に選出されず、内部者が有する権力を持たなかった。しかし、所管の範囲内で、啓蒙人民委員部による資金の拠出に関して、相当の裁量権を持った。
 ヨーロッパが大戦という野蛮行為へと向かったことは、啓蒙思想への批判が正しかったことを証明していると思われた。
 すなわち、人間は「自然ながらに」理性的でも、善なるものでもない。
 ロシア、ドイツ、イタリアでは、古い秩序の崩壊によって、全ての確立された価値と制度に対するニーチェの挑戦が切実な重要性をもち、完全に新しい秩序の渇望へと至り、それは大胆で勇敢な「新しい人間」によって創出されると考えられた。//
 (04) ニーチェは、ボルシェヴィキたちのマルクスやエンゲルスの読書を彩り、権力を掌握するというボルシェヴィキの決意を補強し、維持させた。そして、一方では「戦時共産主義」、他方では精神的革命の筋書という、全体的な変革を目ざすユートピア的展望をはぐくんだ。
 芸術家や文筆家たちは、ニーチェやワーグナーから拾い集めた技巧を用いて、ボルシェヴィキの扇動や情報宣伝に利用した。
 A・ワリッキ(Andrzei Walicki)は、「戦時共産主義」はエンゲルスの考えから直接に喚起された「偉大な社会的実験」だったと、考察する。その考えとは、必然の王国から自由の王国への跳躍は市場の「無政府状態」を中央集権的計画の「奇跡的な力」に変え、そのことで「人間を自ら自身の主人に」する、というものだった。
 ニーチェは、ボルシェヴィキにこの「跳躍」をする意思を吹き込むのを助けた。
 「戦時共産主義」は、経済問題に限定されなかった。すなわち、新しい人間と新しい文化を生み出すことが想定されていた。
 ニーチェ的な言葉を用いると、「戦時共産主義」は「偉大な文化事業の計画」だった。ボルシェヴィキは数千年ではなく数年以内に完了させようとした、という点を除いては。//
 (05) 初期のソヴィエトの教育や文化の制度は、ニーチェの思想のための導管だった。 
 Lunacharsky は、政府でともに仕事をする芸術家や文筆家を招聘した。
 初めは、Blok、Mayakovsky、Meyerhold、彫刻家のNatan Altman(1889〜1981)、および詩人のRiurik Ivnev(Mikhail Kovalev、1891〜1981)だけが受け入れた。
 他の者たちは、納得して、または政府が唯一の雇い主であるために、あるいは両方の理由で、後からボルシェヴィキへやって来た。
 Meyerhold は、啓蒙人民委員部の劇場部門(TEO)の長になった。
 Ivanov、Bely とBlok は、そこと文学部門(LITO)で仕事をした。
 絵画部門(IZO)は未来主義者たちの仕事領域で、〈コミューンの芸術〉という自分たち用の新聞を持った。
 〈コミューンの芸術〉の編集人でIZO のペテルブルク支部長だったNikolai Punin(1888〜1953) の日記は、ニーチェとの「愛憎」(love-hate affair)を晒け出している。
 象徴主義者と未来主義者たちは、Proletkult の学校やスタジオで教育した。//
 (06) 1918年4月、レーニンは、帝政時代の記念碑を解体する「記念碑プロパガンダ」運動を布令し、革命の英雄、偉人や五月の大衆祭典の記念碑を立て、公共広場を装飾した。
 レーニンはLunacharsky に、Tommaso Campanella の〈太陽の街〉(1602年)から着想を得た、と語った。
 Gorky はその本をイタリアで読み、レーニンとLunacharsky にそれに関して伝えていた。
 最初の記念碑は粘土その他の安価な材料で作られた(レーニンの狙いはプロパガンダであり、永久化することではなかった)。しかし、雨がそれらを洗い流してしまった。
 「鉄の巨像計画」は長持ちする素材を求め、その規模自体で驚愕させることを意図した。
 Tatlin の塔は、その司令部を指示する機能をもつことはもとより、第三インターナショナル(1919年3月結成のコミンテルン)のための巨大な規模の記念碑になるものとされた。
 その大きさ(塔は建設されなかった)は窓から重々しさを放つモデルとなり、バベルの塔を想起させることを意識したものだった。
 その他の神を拒絶する塔も、計画された。
 Proletkult の劇の登場人物は、古い神が死んだことを知ろうと望む者ならば我々の塔に昇らなければならない、と語る。//
 (07) 劇場に関するIvanov の考えは、大衆祭典や政治演劇のかたちで「ブーメランのように返って」きた。
 大衆祭典のための着想には他に、祝典としての劇場というGaideburov のもの、未来主義者の路上演劇、遊戯としての演劇観というEvreinov のもの、Zarathustra(ツァラトストラ)の〈新しい祭典が必要だ〉との言明、ワーグナー好きのR・ローラン(Romain Rolland)やJulian Tiersot がドレフュス事件後にフランスを再統合する方法として再生させようとしたフランス革命時の大衆祭典、などがあった。
 Lunacharsky は〈人民の劇場〉(1903年)というローランの書物を翻訳し、Gorky の会社がそれを1910年に出版した。
 その本は、1919年に、Ivanov の序文付きで再発行された。 
 Tiersot の〈フランス革命の祝祭と歌〉という書物(1908年)も、翻訳された。
 レーニンは、元のフランス語でそれを読んだ。//
 ——
 第二部・前記②へとつづく。

2454/Rosenthal によるNietzsche ①。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Mith, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002).
 =B.G.ローゼンタール・新しい神話、新しい世界—ニーチェからスターリニズムへ(2002)。総計約460頁。
 No.2436に上掲書の目次を掲載している。全体がニーチェに関係しているが、表題から見て関心を惹くのは、とくに以下だ。原書での総頁数も示す。
 第一編/萌芽期・ニーチェのロシア化—1890-1917。
  第3章・ニーチェ的マルクス主義者。…計27頁。
  要約・1917年のニーチェ的課題…計4頁。
 第二編/ボルシェヴィキ革命と内戦におけるニーチェ—1917-1921。
  (前記)…計8頁。
  第5章・現在の黙示録—マルクス・エンゲルス・ニーチェのボルシェヴィキへの融合。…計25頁。
 第四編第二部/ウソとしての芸術—ニーチェと社会主義リアリズム。
  第11章・社会主義リアリズム理論に対するニーチェの寄与。…計24頁。
 第四編第三部/勝利したウソ、ニーチェとスターリン主義政治文化。
  第14章・力への意思(Will to Power)の文化的表現。…計28頁。
 第一編第3章(ニーチェアン・マルキスト)等々も興味深そうだが、長さからして試訳しやすそうな、かつ第一編全体の「要約」とされる第一編の最後の「要約」を、以下に試訳してみる。節名の番号数字はない。
 ——
 第一編/要約・1917年におけるニーチェ的課題(Nietzschean Agenda)。
 前記(見出しなし)
 1917年までに、Nietzsche はロシア化され、象徴主義、宗教哲学、「左翼」ボルシェヴィスム、および未来主義へと吸収されていた。
 これらの間で、またそれぞれの内部で重要な違いがあったにもかかわらず、これらの運動、これらによるNietzsche 的課題の「解決」、は多くの点で共通していた。取り上げてすでに論じた人物たちは全て、人間の心理におけるDionysian 要素に関心を持ち、彼ら自身の価値が浸透した新しい文化、新しい社会を創ることを望んだからだ。
 --------
 第1節・新しい神話(Myth)。
 彼らの神話の特徴は、終末論的な(eshatological)、必然から自由への跳躍、人間や世界の改造(transfiguration)だった。
 神話創造に際しての最も重要な試み、神話的アナキズムと神の建設(God-building)、は大衆を結集させることができなかったが、彼らの定式者たちは、経験からつぎのことを学んだ。
 すなわち、新しい神話は馴染みのある用語で語られなければならない。それは明瞭に理解されなければならない(「新しい宗教統合体」または「集団的人間性」はあまりにも漠然としている)。そしてそれは、Apollonian 心象、偶像または崇拝人物像を必要とする。
 Bogdanov は、世界を変革する主要な力は技術だと考えたが、神話がもつ心理政策的(psychopolitical)な有用性を肯定的に評価した。
 Berdiaev の創造性の宗教は、新しい崇拝人物像を含んでいた。
 Florensky の神話は、教会性(ecclesiality)と(抽象的観念よりも)具体的経験を強調する、再生された正教だった。
 未来主義者の神話である太陽に対する勝利(Victory over the Sun)は、人間の創造性のための無限の地平を持っていた。
 この者たちの聖像破壊主義は、崇拝人物像の発生を許さなかった。//
 --------
 第2節・新しい世界。
 Nietzsche の諸用語—「Apollonian」、「Dionysian」、「全ての価値の再評価」、「超人」、「権力への意思」—は、知識人界によってのみならず、大衆読者層に向けた出版物でも、引用符なしで、頻繁に用いられた。
 Nietzsche の影響を受けた知識人のほとんどは、正しい(right)言葉は意識を変革し、無意識の感情と衝動を活気づけることができる、と考えていた。
 象徴主義者たちは、潜在意識下(subliminal)の意思疎通(communication)を強調した。
 未来主義者たちは音を知性よりも重視したが、また、書いた言葉の視覚上の効果にも大きな関心を寄せた。
 Kruchenykh とKhlebnikov は、人々に衝撃を与えて古い思考様式から抜け出させようとした。
 未来主義者と象徴主義者のいずれも、言葉と神話を結びつけ、新しい言葉は新しい世界を発生させることができると信じた。
 Bogdanov は、言語は実際に現実を変化させると結論づけ、神秘的ではない態様で言葉と神話を結びつけた。//
 --------
 第3節・新しい芸術様式。 
 象徴主義者たちは、芸術は「より高い真実」へと、「現実的なものからより現実的なもの」へと導くと信じ、美学的創造性は世界を変革(改造)する儀礼的(theurgic)活動だと見なした。
 Ivanov は、ロシア社会を再統合し、演技者と観客の分離をなくして受動的な観衆を能動的な上演者にし、そして芸術と生活を一つにする方法として、Dionysian 演劇、神話創造の崇拝演劇を提唱し、「集団的創造性」を主張した。 
 Ivanov 理論を緩和した見方は劇場監督たちに採用され、それはBriusov、Meyerhold、Sologub によって擁護された「在来的劇場」のような純粋な劇場性〈劇それ自体のための劇場)に対する対抗理論を生んだ。
 「生の創造」という、ほとんどの象徴主義者が主張するに至った大きな拝礼計画は、部分的には、自由、美と愛の新しい世界を創造するための、政治的革命の失敗(1905年の革命)に対する反応だった。
 未来主義者たちは、直接的感知の詩論についての象徴主義者のPlatonic な側面を拒絶した。
 彼らは、劇場と美術館を街頭と公共広場に取り出して芸術を民主主義化し、文化的遺産を放擲することを望んだ。そして、新しい展望をもち、例えば、世界は退化していると見た。
 Bogdanov の観点主義は、階級に基礎があった。
 心理的に解放されるためには、プロレタリアートは自分たち自身の芸術様式を創造し、文化的遺産を(放擲するのではなく)自分たちの価値と必要性に照らして再評価しなければならないだろう。
 彼は、芸術、道徳および科学の〈階級〉的性格を強調した。
 Florensky は、ルネサンス以降のヨーロッパの芸術と思想を支配している個人主義的な観点主義を拒否した。//
 --------
 第4節・新しい男と女。
 新しい男は美しく、英雄的で、勇敢で、創造的で、努力をするということ、そして、高貴な理想のための戦士であること、は当然視されていた。
 新しい女については、合意がなかった。
 Kollontai、Bogdanov、Gorky は女性に、勇敢さ、自立性、理性のような「男性的」特質を認める一方で、女性の母性的な役割を承認し、強く主張すらした。
 象徴主義者たちは、ソフィアと「永遠の女性的なもの」を賛美し、家族や性別に関する伝統的意識を非難した。
 彼らの理想の人間、かつBerdiaev のそれは、親ではなく中性(androgyne)だった。
 Florensky は、男性と女性を存在論的かつ社会的に区別した。
 彼の〈教会儀礼(ecclesia)〉は、男性二人で構成されていた。
 未来主義者もまた、家族と性別に関する伝統的考えを批判したが、彼らの公的立場は攻撃的な男性主義だった。//
 --------
 第5節・新しい道徳。
 四つの運動全てが、感情の解放、自由な発意、熱烈な確信を擁護すべく、義務というキリスト教的・カント的・人民主義的な道徳性を、カントの命令も含めて、拒否した。
 美しさ、創造性、そして(一定の場合の)困難さは、美徳だと見なされた。
 憐れみ(pity)は弱さの兆しであり、「最も遠いものへの愛」が隣人愛や実際的改良よりも優先した。
 「Nietzsche 的」個人主義は、自己超越という精神を随伴し、犠牲と苦痛を理想とするキリスト・Dionysus の原型が表象する、「個人性」への賛美にとって代わられた。
 Berdiaev、Florensky およびほとんどの象徴主義者は、愛を法に置き換え得る、キリスト教的・ユートピア的な幻想を伴うNietzsche 的な不道徳主義と結びついた。
 政治的な最大原理主義者たちは、革命的人民主義の「英雄的」伝統(テロル)を復活させ、目的は手段を正当化するとの革命的不道徳主義を実践した。
 全ての新しい道徳から欠落したのは、日常生活の規範(ethic)だった。
 この欠落は、意図的なものだった。
 宗教的であれ世俗的であれ、終末論者たちは、ありふれた生活(〈byt〉)の諸側面は改造されるだろう、と想定していた。//
 --------
 第6節・新しい政治。
 これまでに論じた人物のほとんどは、政治を超越することを望んだ。
 彼らの理想は、自己利益や社会契約とは反対の、情熱的紐帯と共通の理想によって強固となる社会だった。
 彼らは、右側寄りのリベラリズムや議会主義的政府を侮蔑した。または、侮蔑するに至った(Frank の見解は微妙に異なる)。
 裕福さはペリシテ人(philistine)の価値だと見なされ、(貧困の廃絶とは別の)大衆の裕福さは、彼らの目標の一つではなかった。
 象徴主義者、未来主義者、および宗教哲学者は、経済を無視した。Berdiaev とFrank はマルクス主義者から出発し、Shestov の学位論文は工場法に関するもので、Frank は〈Landmarks〉で富を商品として扱ったのだったけれども。
 Gorky、Lunacharsky、Kollontai は貧困は社会主義のもとでは消滅すると想定していた。しかし、経済学そのものにはほとんど注意を払わなかった。
 Bogdanov、Bazarov、およびVolsky は、経済学に関して執筆した。しかし、彼らが公刊した大量の著作は、哲学に関するものだった。
 しかしながら、つぎのことは、記しておくに値する。
 第一に、Bogdanov は労働者向けの一般的な経済学の教科書を執筆し(1897年、初版)、その書物はソヴィエト時代に入っても用いられた。(I. I. Skvortsov とともに)〈資本論〉を再翻訳しもした。
 彼はまた、1917年までに経済学者としての声価を確立していた。
 第二に、Volsky は、Capri 学校で、農業問題を講義した。
 新しい文化的アイデンティテイを明確にしようとする試みは、新スラヴ主義または文化的ナショナリズムへと次第に変化してゆき、そして政治的ナショナリズムになった。
 Nietzsche に影響を受けたち知識人のほとんどは、第一次大戦の勃発を歓迎するか、それを終末論的用語法で見るようになるか、のいずれかだった。//
 --------
 第7節・新しい科学。
 Bogdanov だけが明示的に、新しい科学の誕生を呼びかけた。
 科学的「真実」を含む「真実」は特定の階級に奉仕するので、プロレタリアートは集団主義的方法と実践的な目標でもって、自分たちの科学を発展させなければならなかった。
 認識論をめぐるBogdanov とレーニンの間の争論には、科学にとっての示唆があった。論点は客観的真実は存在するか否か、誰がそれを明らかにするに至るのか、だったからだ(第5章を見よ)。
 Bely とFlorensky は、象徴主義が新しい非実証主義的科学を導くのを期待した。これは、Florensky が1920年代に発展させた主題だった。//
 --------
 後記(見出しなし)
 影響の「萌芽期」に文化に植え込まれたNietzsche の思想は、すでに論じた人物や新しく登場する人物によって、ボルシェヴィキ革命後に再循環し、再作動した。
 レーニン、ブハーリン、トロツキーによる革命のシナリオは、承認されていないNietzsche の思想を含んでいた。//
 ——
 以上。

2436/ニーチェとロシア革命・スターリン②。

  西尾幹二・歴史の真贋(新潮社、2020)p.354-5。
 「私はニーチェ研究者ということにされているが、それは正しくない。
 ニーチェの影響を受けた日本の一知識人に過ぎない。
 それでよいという考え方である、
 専門家でありたくない、あってはならないという私の原則が働いている。//
 それでも、ニーチェが私の中で特別な位置を占めていることは、否定できない」。
 なお、ニーチェの生没は、1844年〜1900年。第一次大戦もロシア「革命」も知らない。
 以下は、秋月瑛二。
 西尾幹二はニーチェ研究者でないことは、間違いない。
 かりにニーチェの文学的<評伝>の一部の著述者であったとしても、<ニーチェの哲学>の研究者だとは、到底言えない。
 但し、<評伝>を書いている過程でニーチェの哲学的?文章そのものを読むことはあっただろう。
 そして、そのことがあって、西尾幹二は85歳の年に、「ニーチェの影響を受けた」、「ニーチェが私の中で特別な位置を占めていることは、否定できない」と明記しているわけだ。
 若いときにレーニンの文献ばかり読んでいたらどうなるかの見本は白井聡だろう旨、この欄に書いたことがある。
 「哲学」科的ではない「ドイツ文学」科的な研究であれ、若いときに(とくに20歳代に)ニーチェばかりに集中していると、どういう日本人が生まれるか。西尾幹二のその後の著作・主張・経歴は、その意味で、興味深い素材を提供していると感じられる。
 素人として書くが、<ニーチェ哲学(思想)>は、①フランスの実存主義、さらに構造主義、②ドイツの〈フランクフルト学派〉に何がしかの影響を与えており、これらと関係がある。後者につき、機会があれば、ハーバマス(Habermas)の文章を紹介する。
 さらに、③ロシアの思想・ロシア革命・スターリン主義へも一つの潮流として影響を与えたらしいことを今年(2021年)に入ってから知った。
 幼稚に想像し、単純にこう連想する。ニーチェの<反西洋文明・反キリスト教>(「神は死んだ」)は変革または新しい「哲学」を目指す「左翼」と親和的であり、<権力への意思>・<超人(Supermann,Übermensch)>は、権力への「強い意思」をもつ「超人」による政治・文化の全面的な(全体主義的な?)支配という理想と現実に親和的だ(かつてはニーチェとナツィスの関係だけはしばしば言及された)。
 --------
  ニーチェがロシアの文化、ロシア革命後のロシア(・ソ連)社会に与えた影響について、一部によってであれ、関心をもって研究されているようだ。
 その例証になり得る三つの文献とそれらの内容の概略を「2424/ニーチェとロシア革命・スターリン」で紹介した。
 以下は、第三に挙げたつぎのBernice Glatzer Rosenthal の単著(副題/ニーチェからスターリニズムへ)の概要の、より詳細なものだ。
 前回では、以下でいう「編」と「部」しか記載していないが、以下ではさらに「章」題まで含める。
「編」=Section、「部」=Part で、これらの英語の前回の訳とは異なる。太字化部分と適当に引いた下線は、掲載者。
 なお、著者は現在、Fordham大学名誉教授(Prof. Emeritus/歴史学部)。
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 Bernice Glatzer Rosenthal, New Mith, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002). 単著、総計約460頁。
 第一編/萌芽期・ニーチェのロシア化—1890-1917。
   第1章・象徴主義者。
   第2章・哲学者。
   第3章・ニーチェ的マルクス主義者。
   第4章・未来主義者。
   要約。
 第二編/ボルシェヴィキ革命と内戦におけるニーチェ—1917-1921。
   第5章・現在の黙示録—マルクス・エンゲルス・ニーチェのボルシェヴィキへの融合。
   第6章・ボルシェヴィズムを超えて—魂の革命の展望
 第三編/新経済政策(NEP) の時期でのニーチェ思想—1921-1927。
   第7章・神話の具体化—新しいカルト・新しい人間・新しい道徳。
   第8章・新しい様式・新しい言語・新しい政治。 
 第四編/ スターリン時代におけるニーチェの反響(Echoes)—1928-1953。
  第一部/縄を解かれたディオニュソス(Dionysos)、文化革命と第一次五カ年計画—1928-1932。
   第9章・「偉大な政治」のスターリン型。
   第10章・芸術と科学における文化革命。  
  第二部/ウソとしての芸術、ニーチェと社会主義リアリズム
   第11章・社会主義リアリズム理論へのニーチェの貢献。
   第12章・実施される理論。
  第三部/勝利したウソ、ニーチェとスターリン主義政治文化
   第13章・スターリン個人崇拝とその補完。
   第14章・力への意思(Will to Power)の文化的表現。
  エピローグ/脱スターリン化とニーチェの再出現。
 以上。

 ——

2430/左翼人士-民科法律部会役員名簿・第26期(2020年11月~2023年10月)等。。

 左翼人士-民科法律部会役員名簿・第26期(2020年11月~2023年10月)等。
  役員
 理事長/三成美保(奈良女子大学)
 副理事長/小沢隆一(東京慈恵医科大学)、豊島明子(南山大学)、本多滝夫(龍谷大学)
 全国事務局事務局長/清水雅彦(日本体育大学)
 理事(50名、50音順)/愛敬浩二(名古屋大学)、安達光治(立命館大学)、飯孝行(専修大学)、板倉美奈子(静岡大学)、大河内美紀(名古屋大学)、大沢光(青山学院大学)、岡田順子(神戸大学)、岡田正則(早稲田大学)、緒方桂子(南山大学)、小川祐之(常葉大学)、奥野恒久(龍谷大学)、小沢隆一(東京慈恵会医科大学)、金澤真理(大阪市立大学)、神戸秀彦(関西学院大学)、桐山孝信(大阪市立大学)、胡澤能生(早稲田大学)、近藤充代(日本福祉大学)、榊原秀訓(南山大学)、佐藤岩夫(東京大学)、篠田優(北星学園大学)、清水雅彦(日本体育大学)、白藤博行(専修大学)、新屋達之(福岡大学)、清水静(愛媛大学)、鈴木賢(明治大学)、高田清恵(琉球大学)、高橋満彦(富山大学)、只野雅人(一橋大学)、立石直子(岐阜大学)、塚田哲之(神戸学院大学)、徳田博人(琉球大学)、豊崎七絵(九州大学)、豊島明子(南山大学)、中坂恵美子(中央大学)、永山茂樹(東海大学)、長谷河亜希子(弘前大学)、張洋介(関西学院大学)、人見剛(早稲田大学)、本多滝夫(龍谷大学)、増田栄作(広島修道大学)、松岡久和(京都大学)、松宮孝明(立命館大学)、三島聡(大阪市立大学)、水谷規男(大阪大学)、三成美保(奈良女子大学)、村田尚紀(関西大学)、本秀紀(名古屋大学)、矢野昌浩(名古屋大学)、山下竜一(北海道大学)、山田希(立命館大学)、吉村良一(立命館大学)、和田真一(立命館大学)、亘理格(中央大学)。
 監事(4名) 今村与一(横浜国立大学)、川崎英明(元関西学院大学)、小森田秋夫(神奈川大学)、三成賢治(大阪大学)
  上記以外で会員であることが明らかな者〈学会・研究会報告者、機関誌執筆者・機関誌編集委員)。
 前田達男(金沢大学)、山形英郎(名古屋大学)、河上暁弘(広島市立大学)、太田直史(龍谷大学)、市橋克哉(名古屋経済大学)、岡田知弘(京都橘大学)、稲正樹(元国際基督教大学)、木下智史(関西大学)、秋田真志(弁護士)、大島和夫(神戸市外国語大学)、渡邊弘(鹿児島大学)、松井芳郎(元名古屋大学)、渡名喜庸安(琉球大学)、奥野恒久(龍谷大学)、中村浩璽(大阪経済法科大学)、根本到(大阪市立大学)。
 以上
 出所-同会機関誌『法の科学』の末尾(日本評論社刊)。
 ……
 参考
 一 理事と監事を合わせて、2名以上が選任されている大学。
 国立/名古屋大学4、大阪大学2、琉球大学2
 公立/大阪市立大学3
 私立/立命館4、早稲田3、関西学院2、専修2、中央2、南山2、龍谷2。
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  稲子恒夫(1927〜2011)、長谷川正安(1923〜2009)、室井力(1930〜2006)
 いずれも故人で、かつて名古屋大学教授だった。専門科目はそれぞれ、社会主義法またはソヴィエト法、憲法、行政法。
 そしていずれも、少なくとも在職中はれっきととしたかつ著名な日本共産党員で、当然に民科法律部会の会員だった。
 稲子恒夫は、1969年の時点で日本共産党名古屋大学教職員支部の支部長で、自宅で会議を開催したりして、「全共闘」派に対する日本共産党名古屋大学「総支部」?の判断等を決定していた。事実上、当該大学の学生・大学院生支部をも拘束した、と見られる(400人の党員学生、1000人の民青同盟員が当時いた、という)。
 但し、ソ連が解体した1991年12月以降に、名古屋大学の同僚だった水田洋(文学部)に「私のロシア革命・レーニン認識は根本的に間違っていた」と告白した、という。名古屋大学退職は1990年。
 そしておそらくはすみやかに日本共産党を離れ、ソ連の新しい資料も豊富に用いて、総計1100頁に近い、実質的に単独編著の『ロシアの20世紀』(東洋書店、2007)を刊行した。死の4年前、80歳の年。レーニンに対しても、明確に批判的だ(客観的資史料によるとそうならざるをえないとも言える)。
 以上につき、参照→1989/宮地健一による稲子恒夫
 民科=民主主義科学者協会は「民主主義」で結集しているので、自由にロシア革命について考えてよいとも言える。しかし、日本共産党員でもある同会員は、日本共産党に固有のロシア革命観があるので、そうもいかない(はずだ)。少なくとも名古屋大学関係党員には、上の稲子著は必携、必読であるべきだろう。
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 稲子恒夫もやや広義での「公法」部門に属していただろうが、稲子を別としても、憲法・長谷川正安、行政法・室井力を両トップおする<名古屋大学公法部門>には、他の大学には見られない特徴があった。すなわち、民科法律部会会員の数の多さだ。
 機関誌『法の科学』の最新号でも、松井芳郎(国際法、名古屋大学名誉教授)が森英樹(2020年死亡。憲法・元名古屋大学)への追悼文のなかで、「名大公法」という語を何度か使っている。
 1990年から30年以上、2000年から20年以上経つ。大学生時代から共産党員だった者も中にはいるかもしれないが、指導教授—大学院生という指導・被指導、就職の世話をする・受ける等々の人的関係・人間関係のつながりは、今日でもなお、健在のようだ。
 現在の所属大学だけでは分からないが、上に氏名を挙げた者のうち、少なくとも以下は、すべて<名古屋大学公法部門>出身者・関係者だと推定される。順不同。
 本多滝夫(龍谷大学)、愛敬浩二(名古屋大学)、大河内美紀(名古屋大学)、市橋克哉(名古屋経済大学)、榊原秀訓(南山大学)、渡名喜庸安(琉球大学)、本秀紀(名古屋大学)、緒方桂子(南山大学)、矢野昌浩(名古屋大学)、山形英郎(名古屋大学)、豊島明子(南山大学)、松井芳郎。
 以上だけで、12名。他に、少なくともかつて、鮎京正訓もいた。
 鮎京正訓はベトナム法研究者。市橋克哉もソ連解体前はソ連の行政(法)制度の研究をしていた。
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2428/F・フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)⑧。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20 th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012)  第5章・革命の過去と未来①。
 本文はつぎの9の主題・表題からなる。順に、①思想と情動、②世界の終わり?、③ネイション—普遍的なものと個別的なもの、④社会主義運動・ネイション・戦争、⑤革命の過去と未来、⑥歴史家による追求、⑦ボルシェヴィズムの魅惑、⑧全体主義論、⑨過去から学ぶ。
 連続しているのではないが、便宜的に各「章」として、さしあたりまず、第5章を試訳する。2回で完了の予定。
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 第5章・革命の過去と未来①。
 (序)ロシアの社会は、1917年と1921年の間に粉々に破壊された。
 テロルと強制収容所を考案したのは、スターリンではなかった。
 党内の分派が禁止されたのは、1921年の第10回党大会でだった。
 我々は、レーニンがほとんど絶望の中で死んだことを、知っている。
 このことは、彼の著作物、最後の論考、病気が緩和していた間の考えから知られる。
 つまり、レーニンは状況を多大なる悲しさをもって見ていた。そして、たしかに、レーニンとスターリンとの間には、違いがあった。
 しかし、レーニンが先にいなかったとするなら、いったい誰がスターリンのことを考え得るだろうか。
 (1)「うそ」という言葉の意味について、一致はない。
 ソヴィエトのうそについて語るとき、私は、レーニンまたはトロツキーにあるどんな積極的なうそについても語ってはいない。
 私は、客観的なうそについて語っている。
 ソヴィエトと労働者の権力に関するうそは、ソヴィエトはいやしくも労働者の権力だとか、あるいは民主主義的な権力ですらあるという、間違った考え(false idea)だ。
 このうそは、言葉と事実のあいだの、公式に裁可された矛盾を指し示す。//
 (2)ジャコバン主義(Jacobinism)は、ソヴィエトに先行した超革命的経験だった。しかし、ソヴィエトは、まるで自分たち自身の革命の初期の形態のごとく、それを取り込んだ。
 ボルシェヴィズムの魔術の一つは、ブルジョアジーを廃絶したがゆえに急進的で新しい革命は、革命的主意主義(voluntarism)の歴史に先行者を持つ、というものだった。
 そうして、ボルシェヴィキは両面の役割を果たした。まず、過激で新しいけれども、伝統に則っていると主張する。そして、ジャコバン主義は独裁、テロル、主意主義、新しい人間の称揚、等々をボルシェヴィキが見出したところだったので、その伝統はジャコバン主義にのみあり得た、と主張する。
 魅惑的なことは、フランス革命以降の革命は政治的な伝統になってもいた、ということだ。それは、1917年十月のために役立った。//
 (3)十月とレーニンは復活するだろうと、私は思う。
 スターリンは消滅し、捨てられるだろう。
 しかし、レーニンはなおも、輝かしい将来を当てにすることができる。とくに、トロツキストの途を通じて。トロツキーは、スターリンの犠牲者としての立場によって—最終的には—利益を得た。
 テロルの犠牲となったテロリストたちの処刑は、処刑者としての彼らの役割を拭い去ることだろう。
 フランス革命期のダントン(Danton)に、少し似ている。
 我々はいま、彼らが再生されるのを見ている。彼らは、最終的にスターリニストたることを免れ、神話を再び新しく作っているがゆえに、姿を大きくしている瞬間にある。
 十月はつねに、その最初にあった魔術の何がしかを維持し続けるだろう、と私は思う。そして、創建の契機、夢、歴史から引き裂かれた一瞬にとどまり続けるだろう。//
 (4)これら全ての背後には構築主義思想(constructivist idea)があることを、忘れてはいけない。
 永続的に作出される対象としての社会、という考え方。
 驚くべきことは、この思想はその起源をロシアにもったに違いない、ということだ。驚くべきというのは、ロシアは、その思想が具現化されるのに最も適していない国だからだ。
 これはロシアの異質性(foreignness)に関係がある、と私は思う。
 西側は数世紀にわたって、ロシアは何かが出現しそうな、神秘的な国だという考えを抱いて生きてきた。
 このような感覚は、近代の始まりの時期にあった。
 ソヴィエトの神話が誕生するに際して、この神秘さは少なからぬ役割を果たした。
 全ての出来事ははるか遠くで起きた、奇妙なものだった。
 西側には、ロシアについての、一種の終末論的見方があった。共産主義よりも古い見方だ。//
 (5)もっと注目すべきなのは、多数の人々が共産主義思想を理由として、ロシアはヨーロッパの一国であるばかりかヨーロッパ文明の前衛(avant-garde)だと想像している、ということだ。
 ロシアが共産主義の覆面を剥ぎ取られた今日ですら、ヨーロッパの人々にはロシアをどう理解すればよいかが分からない。 
 ヨーロッパ人は、習慣と対比の両方から、もう共産主義でないのだから「リベラル」だ、と見なす。
 これは明らかに、馬鹿げている。
 我々が痛々しく再発見しているのは、ロシアはヨーロッパにとっていかに異質(foreign)か、ということだ。//
 ——
 第5章①、終わり。英訳書本文、p.31〜p.34。
 

2424/ニーチェとロシア革命・スターリン。

  西尾幹二は、2020年にこう明記した。
 私はニーチェの「専門家でありたくない、あってはならない」。
 「それでも、ニーチェが私の中で特別な位置を占めていることは、否定できない」。
 以上、同・歴史の真贋(新潮社、2020)p.354-5。
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  かつてのソ連および現在のロシアで、ニーチェ(Friedrich Nietzsche)がロシアの文化、ロシア革命後のロシア(・ソ連)社会に与えた影響について、一部によってであれ、関心をもって研究されているようだ。
 例えば、ロシア10月革命直後のレーニン政権の初代啓蒙(=文部科学)大臣=人民委員だったLunacharskyはニーチェを読んでおり、影響をうけていた、という実証的研究もある。
 以下は、現在の時点で入手し得た、ニーチェとロシア・ソ連の関係(主としては哲学、文化、人間観についてだろう)に関する、英語文献だ。
 資料として、中身の構成も紹介して(直訳)、掲載しておく。
 (1) Bernice Glatzer Rosenthal(ed.), Nietzsche in Russia(Princeton Univ. Press, 1986). 総計約430頁、計16論考。
  ・第一部/ロシアの宗教思想に対するニーチェの影響。
  ・第二部/ロシアの象徴主義者(Symbolists)と彼らのサークルに対するニーチェの影響。
  ・第三部/ロシアのマルクス主義に対するニーチェの影響。
  ・第四部/ロシアでのニーチェの影響のその他の諸相。
 (2) Bernice Glatzer Rosenthal(ed.), Nietzsche and Soviet Culture -Ally and Adversary(Cambridge Univ. Press, 1994/Paperback 2002). 総計約420頁、計15論考。
  ・第一部/ニーチェとソヴィエト文化の革命前の根源。
  ・第二部/ニーチェと芸術分野でのソヴィエトの主導性。
  ・第三部/ソヴィエト・イデオロギーへのニーチェの適合。
  ・第四部/不満著述者・思索者のあいだでのニーチェ。
  ・第五部/ニーチェと民族性(Nationalities)—事例研究。
 (3) Bernice Glatzer Rosenthal, New Mith, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002). 単著、総計約460頁。
  ・第一部/萌芽期、ニーチェのロシア化—1890-1917。
  ・第二部/ボルシェヴィキ革命と内戦におけるニーチェ—1917-1921。
  ・第三部/新経済政策(NEP) の時期でのニーチェ思想—1921-1927。
  ・第四部/ スターリン時代におけるニーチェの反響(Echoes)—1928-1953。
   //第一章・縄を解かれたディオニュソス(Dionysos)、文化革命と第一次五カ年計画—1928-1932。
   //第二章・ウソとしての芸術、ニーチェと社会主義的リアリズム。
   //第三章・勝利したウソ、ニーチェとスターリン主義政治文化。
  ・エピローグ/脱スターリン化とニーチェの再出現。
 以上
 ——

2406/O.ファイジズ・人民の悲劇(1996)第15章第2節⑤。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924。
 ——
 第四部・内戦とソヴィエト体制の形成(1918-1924)…第12章〜第16章。
 第15章/勝利の中の敗北。
 第2節・人間の精神の技師⑤。
 (18)革命の「夢想家たち」(dreamers)は、新しい芸術形式とともに、社会生活の新しい形態についても実験をしようとしていた。
 これもまた人類(mankind)の本性を変えるために利用できる、と想定されていた。いや、正確に書けば、女性人類(womankind)のそれも。//
 (19)女性解放は、新しい集団的生活の重要な側面だった。党の指導的なフェミニストたち—Kollontai、Armand、Balabanoff—が予想したように。
 地域共同の食事室、洗濯場、保育室は退屈な家事労働から女性たちを解放し、革命での積極的な役割を与えることができるだろう。
 あるソヴィエトのポスターには、「ロシアの女性たち、鍋を投げ棄てよ!」と書かれていた。
 婚姻、離婚、堕胎に関する法制のリベラルな改革によって「ブルジョア的」家族は次第に解体され、女性たちを夫たちの専制から解放する、と想定された。
 1919年に設置された党中央委員会書記局女性部(Zhenotdel)は、女性たちを地方の政治的業務に動員して教育的情報宣伝をすることで、「女性を再様式化 (refashion)」することを任務とした。
 1920年のArmand の死によって書記局女性部長になっていたKollontai もまた、女性を解放するために性の革命を主張した。
 彼女は、二人の対等な仲間としての男女間の「自由恋愛」や「エロティックな友情」を説き、女性たちを「婚姻という隷従」から、両性を一夫一婦制の重みから、解放しようとした。
 これは、長く継続した夫や愛人たちとともに彼女自身が実践してきた哲学だった。夫や愛人の中には、1917年に結婚した17歳年長のボルシェヴィキ軍人のDybenko がおり、とりわけ、1930年代に在Stockholmの(最初かつ女性唯一の)ソヴィエト大使として彼女を採用したスウェーデン国王がいた。//
 (20)Kollontai は、社会福祉人民委員として、この新しい性的関係の条件づくりをしようとした。
 売春を撲滅し、子ども手当を増大させる試みがなされたが、どちらの分野でも、内戦中はほとんど進展がなかった。
 不幸なことに、いくつかの地方人民委員部は、Kollontai の仕事を導入する意味を理解することができなかった。
 例えばSaratow では、地方福祉部署は「女性の国有化に関する布令」を発した。これは婚姻を廃止して、公認の売春宿で性的要求を充たす権利を男たちに与えるものだった。
 Kollontai の部下たちはVladimir に「自由恋愛事務局」を設置し、18歳から50歳までの全ての未婚の女性たちに彼女たちの性的交際相手を選択して登録することを義務づける布告を発した。
 この布告は、18歳以上の全ての女性は「国有財産」であり、男たちに「事態の利益」に応じた生殖行為のために、彼女たちの同意がなくても登録した女性を選択する権利を与えた。(25)//
 (21)Kollontai の仕事のほとんどは、現実には理解されなかった。
 性的革命という彼女の展望は多くの点できわめて理想主義的だったが、一方で現実には、1917年以降のロシアじゅうを風靡した乱れた性的関係と道徳的アナーキーを促進しているものと広く受けとめられた。
 レーニンはこのような問題に時間を割く余裕がなかった。そして、彼自身は上品ぶる人物で、Kollontai によるものとされた性的問題に関する「一杯の水」論—共産主義社会では、人の性的欲求の充足は一杯の水を飲むことのように率直で正直なものでなければならない—を「完全に非マルクス主義的」だと非難した。
 レーニンはこう書いた。「確かに、渇きは癒されなければならない。しかし、ふつうの人間が排水溝で横たわってその水溜まりで水を飲もうとするだろうか?」
 地方のボルシェヴィキたちは「女仕事」を軽侮していて、
Zhenotdel(党書記局女性部)のことを(農民の妻の意味の「baba」から)「babotdel」と呼んだ。
 女性たち自身も、とくに男性優位的考えが依然としてあった農村部では、性的解放という理想に懐疑的だった。
 多くの女性たちは、地域の共同保育室は自分たちの子どもを奪い去って国家の孤児にしてしまうのでないか、と怖れた。
 彼女たちは、1918年の離婚自由化法は男性が彼らの妻や子どもたちに対する責任から免れるのを容易にしただけだ、と不満を言った。
 統計も彼女たちを支持していた。
 1920年代初頭までに、ロシアの離婚率はヨーロッパで抜群の高さに達した。ーブルジョア的ヨーロッパの26倍になった。
 労働者階級の女性たちは、Kollontai が説いた自由な性的関係に強く反対し、男たちが自分たちを粗末に扱う公認書を与えるようなものだと見なした。
 彼女たちがより大きな価値を置いたのは農民家庭の家計に根ざした旧様式の結婚観念であり、その家計とは家庭を維持するための労働を両性で分け合う共同経営だった。(26)
 (22)レーニンが同意しなかったのは性的問題だけではなかった。
 彼は芸術問題について、19世紀のブルジョアと全く同様に保守的だった。
 レーニンには、アヴァンギャルドのための時間はなかった。
 彼はその前衛芸術の革命上の地位は社会主義の伝統を<嘲って歪曲するもの〉だと考えていた。
 四頭の象の上に立つマルクス像建立が企画されたとき、レーニンは激怒した。また、mayakovsky の有名な詩の「15億人」を「とても無意味で愚かな馬鹿さかげんと自惚れ」だとして却下した(多数の読者は同意するかもしれない)。
 レーニンは、内戦が終わると、Proletkult の活動を立ち入って検討した。ーそして、閉鎖することに決定した。
 1920年の秋に、それに対する財政援助が劇的に削減された。
 Bogdanov は指導部から解任され、レーニンはその原理的考え方に対する攻撃を始めた。
 ボルシェヴィキ党指導者は、Proletkult の因襲打破的偏見に苛立ち、過去の文化的成果を基礎にして形成していく必要を強調した。また、それがもつ自立性によって政治的脅威は大きくなると判断した。
 彼が見たのは、Proletkult はBogdanov 一派だ、ということだった。
 確かにProletkult は労働者反対派と多くの点で共通しており、「ブルジョア専門家」の雇用によりまだ示されているようなブルジョアジーの文化的主導性を打倒する必要を強調した。そしてじつに、NEP の直後でもそうしていた。
 この意味では、Proletkult の反ブルジョア感情とスターリン自身の「文化革命」との間には直接の連結関係があった。
 レーニンの目からすると、Proletkult の閉鎖はNEP への移行のための不可欠の要素だった。
 NEP は経済分野でのテルミドールだったが、「ブルジョア芸術」に対する闘争のこの中断は、文化分野でのそれだった。
 どちらの由来も、ロシアのような後進国では古い文化の成果は維持されなければならず、その基礎の上に社会主義社会は建設される、という認識にあった。
 共産主義への近道などは存在しないのだ。//
 (23〉レーニンはこの時期に、「文化革命」の必要性について何度も執筆した。
 彼は、労働者国家を生むだけでは十分でない、と論じた。社会主義への長い移行のための文化的条件もまた、生み出さなければならない。
 文化革命という概念で彼が強調したのは、プロレタリアの文学や芸術ではなく、プロレタリアの科学と技術だった。
 Proletkult は芸術を人間の解放の手段として位置づけたのに対して、レーニンは、科学こそを人間の変革の手段だと見た。人間の変革とは、人々を国家の「歯車」に変えることだ。(*)
 〈 (*)原書注記ースターリンはしばしば、人々は国家という巨大な機械の「歯車」(vintiki)だと述べた。〉
 レーニンは、「悪質で」「識字能力のない」労働者たちが「資本主義の文化で教育される」ことを—そして技能をもち紀律のある労働者となって子供を技術学校へ通わせることを—望んだ。そうすれば、社会主義への移行に際してこの国の後進性を克服できるだろう(27)。
 ボルシェヴィズムとは、近代化のための戦略でないとすれば、何物でもなかった。//
 (24)レーニンが入念な科学的訓練の必要を強調したことは、1920-21年の間の教育政策の変化を反映していた。
 ボルシェヴィキは、教育を人間の変革の主要な道筋だと見なした。学校や子供たちと青年のための共産主義同盟(Pioneer とKommsomol〉を通じて、次の世代へと新しい集団的生活様式が教え込まれるだろう。
 ソヴィエトの教育の率先者の一人だったLitina Zinoviev が、1918年の公教育大会で、こう宣言したとおりだ。/
 「我々は、若い世代を共産主義の世代へと作り込まなければならない。
 子どもたちは柔らかい蝋のごとくきわめて柔軟かつ従順であって、良い共産主義者へと鋳造されるに違いない。……
 我々は、家庭生活の有害な影響から子どもたちを救わなければならない。……
 我々は、彼らを国有化(natinalize)しなければならない。
 小さな生命の最も早い時期から、共産主義の学校の愛情溢れた影響のもとにいることを知らなければならない。
 彼らは、共産主義のABCを学習するだろう。……
 母親に子どもをソヴィエト国家に捧げることを義務づけること—これが我々の任務だ。」//
 (25)ソヴィエト式学校の基本的モデルは、1918年に設立された統合労働学校(Unified Labour School)だった。
 この学校は、子どもたち全員に対して14歳になるまで自由な普通教育を与えることを意図していた。
 しかしながら、内戦による実際的な困難があったため、その目的は現実にはごく僅かの学校で達成されたにすぎなかった。
 1920年に多数のボルシェヴィキ党員と労働組合指導者たちは、幼年期から職業訓練を行う限定された制度づくりを主張し始めた。
 彼らは、トロツキーの軍事化計画の影響を受けて、教育制度を経済的需要に従属させる必要を強調した。ロシアには熟達した技術者が必要であり、それを生み出すのは学校の仕事だ、と。
 Lunachartsky はこれに反対し、この主張は自分がVpered 主義者だった時代から追求してきた革命の人間中心主義的目標を放棄する誘因となる、と見なした。
 彼はこう主張した。
 労働者の名のもとで権力を奪取したボルシェヴィキは、「産業の支配人」になれる知識人のレベルにまで引き上げる子どもたちの教育を強いられている。だが、見習う前に読み書きの仕方を教えるだけでは十分ではない。
 そうすれば、資本主義の階級分化、知識をもつという力により分離される支配人と男たちの文化を再生産してしまうだろう。
 Lunachartsky の力により、1918年の科学技術の考え方は基本的には維持された。
 しかし、実際には、狭い職業訓練教育の考え方が増大した。それによって子どもたちは、とくに孤児たちは、9歳か10歳の早い時期から工場の実習生になることを強いられた。//
 ——-
 ⑥へとつづく。

2398/O·ファイジズ・人民の悲劇-ロシア革命(1996)第15章第2節④。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924。
 第一部・旧体制下のロシア…第1章〜第4章。
 第二部・権威の危機(1891-1917)…第5章〜第7章。
 第三部・革命のロシア(1917.2-1918.3)…第8章〜第11章。
 第四部・内戦とソヴィエト体制の形成(1918-1924)…第12章〜第16章。
 ——
 第15章/勝利の中の敗北。
 第2節・人間の精神の技師④。
 (14)通常の「ブルジョア的」設定を取り払って街頭、工場、兵舎に舞台を移すことで劇場を大衆にとってより身近なものにする、類似の試みが行われた。
 劇場はこうして、アジプロ(agitprop、煽動的宣伝)の一形態になった。
 その意図は、演者と観客の間の障壁を破壊し、劇場を現実と分ける舞台と客席の境界線(proscenium)を消し去ることだった。
 これら全ては、のちにBrecht が好んだMax Reinhardt によって開拓された、ドイツの実験劇場の技巧を採用していた。
 Meyerhold やその他のソヴィエトの監督たちは、観衆が演劇に対する反応を声に出すよう勇気づけることによって、観衆の感情を革命の教訓的寓話へと引き込もうとした。
 新しい演劇は、国家的次元と私的な人間生活の局面の両方での革命的闘争に光を当てて、強調した。
 登場人物は粗雑で非現実的な徴標だった。—山高帽をかぶる貪欲な資本家、Rasputin 的鬚を生やした極悪な聖職者、そして誠実で簡素な労働者。 
 こうした演劇の主要な目的は、革命の「敵」に対する大衆の憎悪を掻き立てて、人々を体制のもとへと結集させることだった。
 1924年にEisenstein が上演した、そのような演劇の一つの<モスクワのことを聞いているか?>は、ドイツの労働者がファシストの牙城へと突撃する場面が演じられる最終幕で、観衆たち自身がそれに参加しようとする感情を掻き立てる、というものだった。
 殺害されるファシストたち全員が、激しい喝采で迎えられた。
 観衆の一人は、ファシストの愛人役の女優に向かって、銃砲を弾こうとすらした。隣席の者たちが彼を正気に戻らせたけれども。//
 (15)街角劇場の最も壮麗な例は、十月蜂起三周年を記念して1920年に上演された、<冬宮への突撃>だった。
 この大衆的な見せ物は、—いずれにせよつねに混同されていた—演劇と革命の区別を消滅させた。
 1917年の革命劇が演じられたペテログラードの街路は、今や劇場に変わった。
 重要な光景が、宮廷広場の巨大な舞台で再演された。
 冬宮の多数の窓には、内部の異なる場面を順番に明らかにできるように、照明が灯された。そして、冬宮自体が、舞台の一部となった。
 <オーロラ>〔戦艦・巡洋艦〕は主役を演じた。ネヴァ(河)から大砲弾が放たれて、宮廷急襲を開始する合図となった。あの歴史的な夜に、実際そうだったように。
 実際の蜂起に参加した数よりもおそらく多い、1万人の役者たちがいた。彼らは、古代ギリシャの劇場の合唱団のように、革命という偉大な考えを人民の一つの行為として具現化すべく登場した。
 概算で10万人の観衆は、宮廷広場から、繰り広げられる行動を見つめた。
 彼らはケレンスキーのおどけた人物を嘲笑し、宮廷への攻撃中は大いに喝采を浴びせた。
 これが、偉大なる十月の神話の始まりだった。—Eisenstein が「記録ドラマ」映画の<十月>(1927年)で見せかけの事実(pseudo-fact)へと変えた神話。
 この映画の中の諸映像は、今なおロシアと西側の両方で、革命の本当の写真だとして、書物の中で再生産されている。//
 (16)芸術もまた、街頭に持ち出された。
 構成主義者たちは、芸術を美術館から取り出して日常生活に送ることについて語った。
 Rodchenko やMalevich を含む彼らの多くは、衣類、家具、事務所、工場を彼らの言う「産業スタイル」を強調してデザインすることに努力を傾注した。—単純な意匠、原色、幾何学的模様、直線。彼らは、これら全てが人々を解放しかつより理性的にするだろうと考えた。
 「対象だけではなく家庭の生活様式全体を再建設する」ことが自分たちの狙いだ、と彼らは言った。
 Chagall 、Tatlin のような何人かの指導的なアヴァン-ギャルド絵画家、彫刻家は、「煽動芸術」(agitation art)へと手を伸ばした。—建物や電車の装飾、五月一日や革命記念日のような多数の革命的祝祭のためのボスターのデザイン。このような祝祭日に、人々は、集団的な喜びと感情を示す公開の展示物によって団結するものと想定されていた。
 街じゅうが文字通り赤く塗られた(ときには樹木すら)。
 彼らは、彫像や記念碑を通じて、街路を革命の美術館に、新体制の力とその威厳の生ける聖像に、変えようとした。それらは文字能力のない者にも感銘を与えるだろう。
 国家による自己神聖化のためのこのような行為には、何も新しさはなかった。つまり、帝制体制も全く同じことをした。
 ロマノフ家により1913年に王朝300年を記念して建設されたクレムリンの外側のオベリスクは、レーニンの指令にもとづいて維持された。これは、じつに見事に皮肉なことだった。
 ツァーリ体制の碑文は、16世紀にまで遡る「社会主義的」祖先たちの名前で書き換えられた。
 その中に含まれていた名前には、Thomas More、Campanella、Winstanley があった。(*23)//
 (17)言い得るかぎりで、こうしたアヴァン-ギャルド芸術の実験のいずれも、心性や精神を変えるには少しも有効でなかった。
 左翼芸術家たちは、例えば大衆のための新しい美意識を創出していると考えたかもしれない。しかし、自分たちのための新時代的な美的感覚を作り出していたにすぎなかった。たとえ、「大衆」のうちにある何かを、彼ら自身の理想の象徴として表現していたのだとしても。
 労働者や農民たちの芸術的嗜好は、本質的に保守的だった。
 実際に、芸術問題についての農民の保守性を過大評価するのはむつかしい。1920年にボリショイ・バレェ団が地方を巡回旅行したとき、「<コルフェイ(coryphee)>が剥き出しの腕と脚を見せていることに深い衝撃を受け、呆れて上演から歩き去った」と言われている。
 現代主義芸術のこの世のものでない印象は、芸術を見知るのは聖像(icon)に限られていた人々にとっては、疎遠なものだった。(原書注記+)
 (+1930年代の社会主義リアリズムは、明らかにアイコンの性質をもち、宣伝としてははるかにより有効だった。)
 最初の十月蜂起記念日にVitebsk の街頭が飾られていたとき、Chagall は、共産党の職員からこう尋ねられた。「なぜ雌牛は緑色をしていて、なぜ馬は空を飛んでいるのか、どうして?
 マルクスとエンゲルスの結合とはいったい何のことだ?」
 1920年代の民衆の読書習慣に関する調査によると、労働者や農民たちは、アヴァン-ギャルド文学よりも、革命以前から読んできた、探偵小説や恋愛小説を好みつづけた。
 新しい音楽もまた同様に、成功しはしなかった。
 ある「工場コンサート」でのことだが、全てのサイレンと警笛が生み出す不協和音の騒音がひどかったために、労働者たちは、インターナショナルの旋律を識別することができなかった。
 コンサート会館や劇場は、最近に豊かになった、ボルシェヴィキ体制のプロレタリアたちで満たされた。—モスクワのボリショイ劇場には毎晩、彼らが噛んだヒマワリの種の殻が散らばっていた。だがなお彼らは、Ginka やTchaikovsky を聴きにやって来ていたのだ。(*24)
 芸術的趣味の問題となると、半ばの教養しかない労働者たちが望んだものは、ブルジョアジーにとって物まね芸がそうだった以上のものは何もなかった。//
 ——
 ⑤へとつづく。

2397/O·ファイジズ・人民の悲劇-ロシア革命(1996)第15章第2節③。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924。
 ほとんど行ってきていない試訳者自身のコメントを例外的に付す。試聴してみた Dmitri Shostakovich, Symphony #2 in B op.14("To October")のCDのクライマックス以降に労働者らしき人々の(途中から女声も入る)合唱があるが、下記の記述にある「口笛」は聴き取れなかったた。原作者による操作・変更なのか等は不明だ。「皮肉」と言うのも、適訳かは自信がないが、著者の判断・解釈だと思われる。
 ——
 第15章/勝利の中の敗北。
 第2節・人間の精神の技師③。
 (9)1917年の革命は、ロシアのいわゆる銀色の時代の半ばに起こった。銀色の時代とは今世紀の最初の30年間で、全ての芸術でアヴァン-ギャルド(avant-garde、前衛)が人気を博した。
 この国のすぐれた作家と芸術家たちはProletkult に参加し、その他の文化活動家たちは、内戦中にまたはその後で加わった。
 Belyi、Gumilev、Mayakovsky、Khodasevich は、教室で詩を教えた。Stanislavsky、Meyerhold、Eisenstein は、劇場で「十月革命」を実践した。Tatlin、Rodchenko、El Lissitsky、Malevich は、視覚的芸術の先駆者となった。
 一方で、Chagall はVitebsk の郷里の町で芸術人民委員にすらなり、のちにはモスクワ近郊の孤児の区画で絵画を教えた。
 こうした人民委員と芸術家の連結は、部分的には共通する原理的考え方から生まれた。すなわち、芸術には社会的課題があり、大衆と気持ちを合わせる使命がある、という考えだ。古いブルジョア的芸術に対する新時代的(modernist)な拒否感もあった。
 しかし、便宜的な恋愛関係でもあった。
 というのは、文化的活動家たちは、最初はあった条件にもかからわらずほとんど自立性を失っていたので、味気ない近年にはひどく必要となった追加的な配給や作業素材の供給は言うまでもなく、アヴァン-ギャルドに対するボルシェヴィキの経済的支援を、好都合なものだと見なしたからだ。 
 Gorky は、ここでの中心人物だった。—彼は芸術家たちにはソヴィエトの人間として、ソヴィエトに対しては指導的芸術家として振る舞った。
 1918年9月、Gorky は、Lunacharsky が率いる人民委員部による芸術や科学の分野の処理に協力することに同意した。
 Lunacharsky の側では、「ロシアの文化を救う」ためのGorky の種々の取り組みに最大限の支援をした。レーニンは、多くの困窮した知識人を雇っていた世界文学出版所から、歴史的建造物や記念碑の保存に関する委員会についてまで、そのような「些細な問題」に苛立っていたけれども。
 Lunacharsky は、Gorkyは革命の突風によって貴重なものが破壊されるという見込みを信用も恐れもしないで、不満を言いつつ完全に知識人層の陣営の中にいることが判ったと、愚痴をこぼした。//
 (10)アヴァン-ギャルドの虚無主義的な部分は、とくにボルシェヴィキに魅せられた。
 彼らは喜んで、古い世界の破壊にいそしんだ。
 例えば、Mayakovsky のような未来主義(Futurist)詩人たちは、ボルシェヴィキに身を投じて、ボルシェヴィキを「ブルジョア芸術」に対する彼らの闘いの同盟者だと見た(イタリアの未来主義者は、同じ理由でファシストを支持した)。
 未来主義者は、Proletkult 運動の内部で急進的な因習打破の方向を追求し、レーニンを激怒させ(文化問題についての彼の保守性)、Bogdanov やLunacharsky を当惑させた。
 Mayakovsky は、こう書いた。「胡椒博物館に弾丸を打ち込むときだ」。
 彼は「古い美的な屑」だとしてクラシックを拒否し、Rastrelli は壁にぶつけなければならない(ロシア語のrastrelli は処刑を意味する)と駄洒落を言った。
 Proletkult の詩人であるKirillow は、こう書いた。
 「我々の明日の名前で 我々はラファエル(Raphael)を燃やす。
 美術館を破壊し、芸術の花を押しつぶす。」
 これはおおよそは、知識人の空威張りであり、自分たちの才能がはるかに乏しいことに衝撃を受ける第二級の作家たちの、ヴァンダル人的(vandalistic、破壊者的)素振りだった。//
 (11)スターリンは、作家のことを「人間の精神の技師」(engineer of human souls)と叙述したことがあった。
 アヴァン-ギャルド芸術家たちは、ボルシェヴィキ体制の最初の数年の間に人間の本性の偉大な変革者になるものと想定されていた。
 彼らの多くは、人間の精神をより集団主義的にするという社会主義の理想を共有していた。
 19世紀の「ブルジョア」芸術の個人主義的前提を彼らは拒否した。そして、芸術表現の現代的様式を通じた異なるやり方で世界を見るように、人間の心性を鍛えることが自分たちはできると考えたのだ。
 例えば、モンタージュ(montage、合成)は断片的だが結合した映像でコラージュ(collage、寄せ集め)の効果をもち、見物者に対してサブリミナルな(subliminal、潜在意識上の)教育的効果をもつものと考えられた。
 Eisenstein は1920年代の三大宣伝映画で—<ストライキ>、<戦艦ポチョムキン>、<十月>—この技巧を用い、その技巧の上にその映画理論の全体を築いた。
 映画が生み出すと想定された「心理(psychic)革命」が、大いにもてはやされた。<特に優れた>現代芸術の様式は、現代人についての心理学のように、「直線と直角」および「機械の力強さ」を基礎にしていた。(*21)//
 (12)アヴァン-ギャルド芸術家たちは、「心理革命」の先駆者として、多様な実験的形態を追求した。
 このときにはまだ芸術に対する検閲はなく—ボルシェヴィキには他に多くの切実な関心事があった—、芸術には相対的に自由な領域があった。
 そのゆえに、警察国家で芸術上の爆発が起きるという逆説が生じた。
 こうした初期のソヴィエト芸術の多くには、現実的で永続的な価値があった。
 とくにRodchenko、Malevich、Tatlin といった芸術家たちのような構成主義者(Constructivist)は、現代主義様式に大きな影響を与えた。
 このことは、ナツィの芸術については、あるいはスターリン時代の芸術に流行した、社会主義リアリズムのぞっとするほどに途方もない悪趣味については、言うことができない。
 だがしかし、ほとんど不可避的に、アヴァン-ギャルド芸術家たちが抱いた実験的精神をもつ青年たちの熱い感情があったので、彼らの製作物の多くは、今日ではむしろ滑稽に(comical)思われるかもしれない。//
 (13)例えば、音楽の分野では、指揮者のいない交響楽団があった(リハーサルでも本演奏でも)。そうした交響楽団は、自由な集団的作業を通じて平等と人間性を実現するという考え方による社会主義様式の先駆者だと自認していた。
 工場でサイレン、蒸気原動機(turbine)や汽笛を道具として使ったり、電気的手法での新しい音響を創り出したりする演奏会を催す運動があった。これらは、労働者に近い新しい音楽的美意識を生み出すだろう、と考えた人々がいたようだ。
 Shostakovich は、疑いなくいつものように皮肉でもって、彼の交響曲第二番(「十月に捧げる」)の絶頂部に工場での口笛の音を加えることをして、楽しんだ。
 同様の奇矯さ(eccentric)は、社会主義的にするために著名なオペラの名前を変えたり、オペラの台詞を作り直したりすることにも見られた。
 <Tosca>は<コミューンのための闘い>となり、舞台は1871年のパリへと移された。<Le Huguenots>は<十二月主義者(Decembrists)>となり、ロシアが舞台とされた。一方、Glinka の<ツァーリのための生活>は、<槌と鎌>として書き換えられた。//
 ——
 ④へとつづく。

2394/O·ファイジズ・人民の悲劇-ロシア革命(1996)第15章第2節②。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924
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 第15章/勝利の中の敗北。
 第2節・人間の精神の技師②。
 (6)Gorky、Bogdanov、Lunacharskyは1909年に、Capri 島の作家の別荘にロシアの労働者用の学校を設立した。
 13人の労働者(うち一人は警察のスパイ)が多大の費用を払ってロシアを密出国して、社会主義の歴史と西側文学に関する退屈な課程の講義を聴くべく座らされた。
 時間割以外の唯一の娯楽は、Naples(ナポリ)美術館へのLunacharskyの案内付旅行だった。
 1910年設立の二つめの労働者学校は、Bologna(ボローニャ)にあった。
 これらの教育の目的は、自覚のあるプロレタリア社会主義者のグループ—一種の「労働者階級知識人」—を作ることだった。このグループは、彼らの知識を労働者たちに普及し、革命運動が自分たちの文化革命を創出するのを確実にするだろう。
 学校の創始者たちはVpered(先進)グループを形成したが、ただちにレーニンと激しい対立をした。
 革命に関する先進グループ(Vperedists)の考え方は、労働者階級の文化の有機的発展に成功が依存する、という意味で本質的にメンシェヴィキだった。
 これに対して、レーニンは、独自の文化的勢力としての労働者の潜在的能力を無視していて、紀律を受けた党のための一員としての役割を強調した。
 先進グループは、知識は、とくに技術は、マルクスが予言した歴史の駆動力であり、社会階層の相違は資産ではなくむしろ所有する知識による、とも主張した。
 かくして、労働者階級は、生産、配分と交換の手段の統制によるのみならず、同時に生起する文化革命によって解放されるだろう。文化革命は、労働者階級に知識の力それ自体をも付与するのだ。
 だからこそ、自分たちは労働者階級の啓蒙を行う。
 先進グループは最後に、異端派の装いすらもって、マルクス主義は宗教の一形態だと見なさなければならない、とも論じた。—神聖な存在としての人間性と聖なる精神としての集団主義を伴う宗教だ。
 Gorky は、その小説の<告白>(1908年)で、この人間主義的(humanistic)主題を強調した。その小説では、主人公のMatvei は、仲間たちとの同志愛を通じて神を見出す。//
 (7)1917年の後、指導するボルシェヴィキは以前よりもプレス関係の権力を持っていたが、文化政策は、党内のこれらかつての先進グループに委ねられた。 
 Lunacharsky は、啓蒙〔Enlightenment,文部科学〕人民委員になった。—この名称は、目標として設定した文化革命の発想を反映していた。そして、教育と芸術の両方を所管した。
 Bogdanov は、プロレタリア文化を発展させるために1917年に設立されたProletkult 機構(プロレタリア文化機構)の長となった。
 1919年までには8万人の構成員をもった工場の同好会や工房を通じて、この機構は、素人の劇団、合唱団、楽団、美術教室、創造的文筆場、労働者のためのスポーツ大会を組織した。 
 モスクワのプロレタリア大学と<社会主義百科事典>とがあった。
 Bogdanov は後者の出版物を将来のプロレタリア文明を準備するものと見ていた。彼の見方では、Diderotの<百科事典>が18世紀のフランスの勃興するブルジョアジーが自分たちの文化革命を準備する試みだったのとちょうど同じように。(*19)//
 (8)Proletkult 知識人たちは、Capri やBologna の学校でと同様に、育てようとする労働者たちに対して経済的支援をする姿勢をときおり示した。
 Proletkult がもつ基本的前提は、労働者階級は自発的に自分たち自身の文化を発展させるべきだ、というものだった。この点に、彼らが労働者たちのためにする意味があった。
 加えて、彼らが促進する「プロレタリア文化」は、労働者たちはこうあるべきだと想定する彼らの理想と比べて、労働者の現実の嗜好とはあまり関係がなかった。—大部分は寄席演芸(vaudeville)やウォッカで、彼ら知識人は俗悪なものだとしてつねに軽蔑していた。 
 彼らの理想たる労働者は、ブルジョア個人主義に毒されていない。生活や思考の様式が集団主義だ。冷静かつ真剣で、自己啓発的だ。科学とスポーツに関心をもつ。要するに、知識人たちが自ら想像する社会主義的文化の先駆者でなければならない。//
 ——
 ③へとつづく。
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
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  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
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  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
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  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
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  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
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  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
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  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
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  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
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  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
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  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
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