秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ロシア関係

2881/R.Pipes1990年著—第15章⑯。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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 第15章・第八節/反労働者立法①。
 (01) 1917年十月、ボルシェヴィキは「プロレタリアート」の名において、ペテログラードで権力を奪取した。
 この経緯のために、ボルシェヴィキは労働政策を大きく改善すると期待されたかもしれなかった。かりに、「ブルジョア」的帝制と臨時政府のもとでのそれと、産業労働者の経済的な、そして確実に社会的で政治的な地位を比較する必要が必ずしもなかったとしても。
 しかし、この点でも、結果は、宣せられた意図とは全く反対だった。つまり、ロシアの労働者階級の地位は、象徴性以外の全ての点で顕著に悪化した。
 とくに、彼らは今や、やっと手にした団結し、罷業をする権利を失った。これら二つは、労働者の自己防衛のための不可欠の武器だったが。
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 (02) もちろん、革命と内戦のもとで経済を稼働させ続けるべく、ボルシェヴィキは労働者の権利を制限する以外に選択の余地はなかった、と論じることはできるし、そのための論拠も示されてきた。「プロレタリア」革命を救うために、ボルシェヴィキは「プロレタリアート」の権利を停止しなければならなった、というのだ。
 こう解釈すれば、戦時共産主義の残りがそうであるように、ボルシェヴィキの労働政策は遺憾なものだが、避けることのできない便宜的な措置だったことになる。
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 (03) ボルシェヴィキ体制がその生存を賭けて闘っているときに導入された反労働者的諸措置は、一時的にだけ考案されたものではなく、情勢が緊急措置として正当化したが緊急事態を超えて永続する社会哲学全体を表現したものだった。このことは、上のような解釈を困惑させる。
 ボルシェヴィキは、強制労働、ストライキ権の廃止、労働組合の国家機関への移行を、内戦勝利に必要なものみならず、「共産主義の建設」に不可欠のものだと考えた。これが、内戦に勝利して体制への危険はもうなくなった後でも、ボルシェヴィキが反労働者政策を維持した理由だ。
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 (04) 強制労働という観念は、マルクス主義の中に埋め込まれている。
 1848年の<共産主義者宣言>第8条は、「労働に対する全ての者の責任、とくに農業のための産業軍の設立」を謳った。
 明らかに、自由な商品市場のない規整された経済では、労働に関する自由な市場を存続させるのは馬鹿げている。
 この主題にしばしば言及したトロツキーは、心理学的意味を加えた経済的根拠を強く主張した。すなわち、人間は元来的に怠惰で、餓死の恐怖によってのみ労働へと駆り立てられるのだ、と。国家が市民に食糧を与える責任を引き受ければ、この恐怖は消失するので、強制に頼ることが必要になる。(脚注)
 トロツキーは基本的に、強制労働は社会主義の分離し難い特質だという見方を提示した。彼はこう言った。
 「人間はむしろ怠惰な生物だと言ってもよい。一般論としては、人は労働を避けようと懸命になる。…
 経済的任務にために必要な労働力を惹きつける唯一の方策は、<強制労働役務>を導入することだ。」(注120)
 強制労働は危機が存続しているあいだの経過的手段だと勘違いされないように、トロツキーは、そうではないと注意したうえで、上のように述べた。
 「もちろんこれは、強制という要素を排除することを意味していいない。
 強制という要素が歴史の記述から消えることはない。
 いや、強制は、歴史の重大な時期に、重要な役割を果たすだろう。」(注121)
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 (脚注) 人間は飢餓を避けるためにのみ労働するとの考え方を、トロツキーはマルクスから採用した。トロツキーは、Reverend J. Townsend のthe poor of laws:Das Kapotal I, Chap.,25, Sect. 4 の記述にそれを見出した。
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 (05) トロツキーは、1920年4月の第三回労働組合大会で、とくにあからさまに、この主題を語った。
 自由な労働よりも生産性が低いという理由で強制労働の廃止を訴えるメンシェヴィキの動議に応えて、トロツキーは隷属労働を擁護した。
 「メンシェヴィキがその決議で強制労働はつねに生産性が低いと言うとき、彼らは、ブルジョア・イデオロギーに囚われており、社会主義経済のまさに基盤を拒否している。…
 農奴制の時代には、強制労働は全ての農奴に対してそびえ立つ憲兵ではなかった。
 農奴が慣れるようになる、一定の経済的様式があった。それを当時は公正なものと見なし、ときどきだけ反抗した。…
 強制労働は非生産的だと言われる。
 経済の中心機関による、全国的経済計画の要求に合致した労働力全体の割当てによる以外に社会主義を達成する方法は存在しないのだから、そういう言明は、社会主義経済全体を解体させるものだ。」(注122)
 要するに、強制労働は社会主義に不可欠であるのみならず、実際上有益なものだ。
 「強制的隷従労働は、封建階級に悪意があったゆえに出現したのではない。それは、進歩的な現象なのだ。」(注123)
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 (06) 労働者は「社会主義」国家の無賃従僕者に—つまり表向きは、国家の「主人」だとされているのだから、自分自身の奴隷に、—にならなければならない、という考え方は、中央集権的で組織的な経済および人間の本性に関する悲観的な見方というマルクス主義の中に嵌め込まれていた。また、ボルシェヴィキ指導者たちがロシアの労働者について抱く極端に低い評価によって強化された。
 ボルシェヴィキは、革命の前は、ロシアの労働者を理想化していた。しかし、労働者たちと接触して、たちまちのうちに幻想に変えた。
 トロツキーは農奴制の良さを称揚した一方で、レーニンは、ロシアの「プロレタリアート」を却下した。
 1922年3月の第11回党大会で、レーニンはこう語った。
 「『労働者』と言うときしばしば、この言葉は『工場労働者』を意味すると考えられている。
 戦争以降のわが国では、工場や工場施設群に働きに行く者たちは少しもプロレタリアではなく、戦争から逃げるためにそうしていた。
 そしてまた、我々は、本当のプロレタリアートを工場や工場施設群に働きに行く気にさせる社会的、経済的条件をもっているだろうか?
 そのような事情にはない。
 マルクスによれば適正な言辞だが、しかしマルクスは、ロシアについてではなく、15世紀から始まる資本主義全体について書いた。
 600年間は適正だったが、今日のロシアについては適正でない。
 工場に行く者たちは、徹頭徹尾プロレタリアートではなく、あらゆる種類の偶然的要素で成っている。」(注124)
 この驚くべき告白が意味していることは、ある程度のボルシェヴィキたちも共有していた。
 レーニンにとって、上のような言明は、十月革命は『プロレタリア』によって成し遂げられたのではなかった、かつ『プロレタリア』のためになされたのですらなかった、という意味に他ならなかった。
 Shriapnikov にだけは、この点を明言する勇気があった。
 「Vladimir Ilich 〔レーニン〕は昨日、マルクスが認めた意味でのプロレタリアートは存在しない、と言った。…
 存在しない階級の前衛であることに、きみたちをお祝いさせてくれ」(注125)。
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 (07) レーニンとトロツキーが抱いていたような、一般には人間の本性についての、特殊にはロシアの労働者についての見方からすると、かりに他の考慮によれば反対するに至らなかったとしても、自由な労働や自立した労働組合は耐え難いものだった。
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 ②へとつづく。

2847/R.パイプス1990年著—第14章㉝。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第20節/外国の「干渉」の問題。
 (01) ロシア革命は、ロシアという一国に限られた出来事ではなかった。
 二月革命の勃発から、そしてとくにボルシェヴィキがペテログラードを掌握した後では、ロシア革命は国際化するようになった。そしてこれには、二つの理由があった。
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 (02) ロシアは、戦争の大きな舞台だった。
 ロシアが一方的に戦争から撤退したことは、二つの交戦ブロックのいずれにも、致命的な利害に大きな影響を与えた。
 中央諸国にとっては、勝利への期待が高まった。
 連合諸国にとっては、敗北する不安の根源になった。
 そのゆえに、戦争が継続しているかぎり、どちらの側も、ロシアに起きていることに無関心ではおれなかった。地理的な位置だけでは、ロシアは世界的な激動から免れることができなかったのだ。
 ボルシェヴィキは、相互に交戦する二大ブロックから離れることによって、この対立へのロシアの関与に影響を与えた。
 1918年の春、ボルシェヴィキは、反ドイツの多民族軍を領土内に形成することを連合諸国と議論した。そして、Murmansk の占領に同意し、赤軍設立への助力を求めた。
 1918年の秋、北部の港湾を連合諸国から解放し、ロシアの義勇軍を粉砕するために、ドイツの軍事干渉を要請した。
 ドイツは何度も何度も、ボルシェヴィキ体制が崩壊しないように、政治的支援や金銭によって介入しなければならなかった。
 Helfferich は、1918年7月-8月のソヴィエト体制の危機について、その回想録で、「意識的でなくまた意図的でもなかったとかりにしても、この危機的期間のボルシェヴィキ体制の最大の支援者はドイツ政府だった」ということを認めた(注224)。
 この事実に鑑みれば、1917-1918年の外国のロシアへの干渉はボルシェヴィキを権力から下ろすために行なわれた、などと真面目に主張することはできない。
 諸外国は、まず第一には、西部戦線での均衡状態を自分たちに有利に変更するために、干渉した。連合諸国の場合にはロシアでの戦線を活性化することによって、中央諸国の場合はロシアでの戦線を静穏なままにしておくことによって。
 ボルシェヴィキはこうした諸外国の干渉に積極的に関与し、あるときはこちらの勢力から、あるときは別の勢力から、干渉を招来した。そのときどきのボルシェヴィキの利益にとって何が必要かに依存していたわけだ。
 ボルシェヴィキが歓迎し懇願したドイツの「干渉」は、ボルシェヴィキが臨時政府の運命を辿るのを阻止した蓋然性が高い。
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 (03) 第二に、ボルシェヴィキは最初から、社会主義革命と国際的階級戦争の時代には国境は無意味になった、と宣言した。
 ボルシェヴィキは、外国の国民に対して、立ち上がって自国政府を打倒しようとの訴えを発した。この目的のために彼らは、各国家に資金を配分した。
 そして、外国の国民がそうできる状態にあれば—当面は主としてドイツだったが—、ボルシェヴィキは積極的に革命を促進した。
 全ての外国政府の正統性に挑戦することによって、ボルシェヴィキは、全ての外国政府がボルシェヴィキ政府に挑戦するよう招来した。
 かりに現実にはいずれの国もその権利を行使しなかったとすれば、どの国にもそうする利益がなかったからだ。
 ドイツはボルシェヴィキが自分たちのために役立つと考え、ボルシェヴィキが苦境に陥ったときはいつでも、彼らをを支えた。
 一方で連合諸国は、自国の生存のために励んでいた。
 ある歴史家が問題を提起した。—「人類史上最も破壊的だった戦争のまっ最中に重大な軍事力を失ったソヴィエト政権が、いかにして、革命の最初の年を生き延びることができたのか?」(注225)
 自ら答える。すなわち、この最も破壊的な戦争が、ロシアの出来事をすっかり覆い隠した。
 ドイツはボルシェヴィキ体制を支援した。
 連合諸国には、他に関心があった。
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 (04) したがって、1917-1918年のロシアへの外国の関与を敵対的な「干渉」という言葉を使って理解するのは、誤っている。
 ボルシェヴィキ政府は、この干渉を招くとともに、自分自身のために積極的に介在しもした。
 元の状態への回帰を切望していた諸大国は承認しようとはしなかったけれども、ロシア革命は決してロシアの純然たる国内的事件ではなく、戦争の結末に影響を与えるというだけでも重要なものだった。
 ロシアの新しい支配者は、世界じゅうに影響を及ぼすだろうと明確に述べた。
 1918年11月の停戦によって、ボルシェヴィキには、ドイツ、オーストリア、ハンガリーおよびそれが可能な国で、革命を組織するというかつてなかった機会が与えられた。
 この闘いは当面は失敗したけれども、彼らが確実にしたのは、世界には休止期間はなく、1914年以前の生活に戻ることはできない、ということだった。
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 (05) ロシア国内への1918年の外国の干渉については、もう一つ書いておく必要があることがある。
 連合諸国がロシア<において>何をしたかに関する議論—それは大して多くはないが—では、ロシアの<ために>何をしたか—通常はきわめて多かった—、ということが忘れられている。
 ロシアが戦争に参加するという約束を破り、ドイツと自分たちだけで戦闘するよう離れた後で、連合諸国は、莫大な人的および物質的損失を被った。
 ロシアが戦争から脱落した結果として、ドイツ軍は不活発な東部戦線から撤兵し、西部戦線での実働兵力をほとんど四分の一(150分団から192分団へ)増加させることができた(注226)。
 この勢力増強によって、ドイツ軍は激烈な攻撃を行なうことができた。
 1918年の春と夏の西部戦線での大きな戦闘—St.Qentin、Lys、Aisne、Matz、Marne、Chateau-Thierry—で、イギリス、フランス、アメリカの各軍は総計数十万の兵士を失った。
 こうした犠牲は、ついにはドイツの降伏をもたらした。
 ドイツの敗北にボルシェヴィキは何ら寄与しなかったが、ドイツの敗北は、ソヴィエト政権にブレスト=リトフスク条約を廃棄して、ブレストで放棄を強いられた領土のほとんどを回復するのを可能にしただけではない。ドイツの敗北によって、ソヴィエト・ロシアは、ドイツはそうなることを意図していたのだが、一つの植民地、一種のユーラシア・アフリカ、になる運命から救われもした(脚注)
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 (脚注) この点を、Brian Pearce, How Haig Saved Lenin (London, 1987) は熱心に、かつ説得的に論述している。
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 第20節、終わり。第14章全体も終わり。<第15章・“戦時共産主義”>へとつづく。
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