○ R・パイプスの本を読んで訳を試みているのも、とくに二つの大著について邦訳書がないことにもよるが、単純な知的関心によるのではない。
 日本共産党、不破哲三ら、そして「左翼」学界人等々が抱いているかに見える<レーニン観(・イメージ)>を壊しておく必要があると感じているからだ。
 繰り返すが、レーニンがいなければロシアでの1917年10月「政変」はなく、ロシア共産党もなく、1919年の共産主義インターナショナル(コミンテルン)の設立もなく、したがって、1922年のその支部としての日本共産党の設立もなかった(なお、この設立の事情は不明確なところがある。月日・場所等について、在モスクワの共産主義日本人が異なる情報を寄せた可能性がある)。
 したがって、宮本顕治の日本共産党入党も在獄もなく、宮本を指導者とする1961年綱領もなく、宮本・不破哲三体制もなく、不破哲三・志位和夫体制もなかった。
 これは、たんなる時代の前後関係というのではなく、原因・結果の因果関係だと思われる。
 その日本共産党が現在もなお、ロシア革命を美化し、レーニンを原則的には擁護し、スターリンから過った、という<歴史叙述>を公然と行っている。
 つまりは、レーニン像を(そして日本共産党の「ロシア革命」観を)壊すことは現実的な意味がある。その観点からR・パイプス等々の本を捲っている。
 したがって、<実践的>または<政治的>意図・意識を持っていることを、隠そうとは思わない。
 しかし、たんなる、彼らのいう<反共デマ宣伝>をするつもりは全くなく、可能なかぎり<文献実証的に>、かつ自分自身の頭で理解して、事実を確認したいと考えている。
 ○ R・パイプスは、レーニン「陰謀家」ぶりを強調しているようだ。この人の叙述を100%信頼しているわけではなく、ロシア史、ロシア革命についての欧米の研究者にも、いくつかの傾向があることを-この欄に記してはいないが-知っている。
 だが、以下に一部紹介するレーニン自身の1922年3月の「秘密書簡」の原文(但し、英訳)を読むと、さすがにこの「ソヴェトの指導者のMentality(心性・気質)」にある「非人間的な残虐性」、「きわめて異常(exrraordinary)」さを感じざるをえない。以下以外にも多々あるが、「陰謀家」・「策謀家」あるいは「捏造家」・「煽動者」等々と評するのは、誇張では全くないだろうと思われる。
 少し上の「」内は、以下から利用した。
 ① Richard Pipes, ボルシェヴィキ体制下のロシア (1994), p.350, p.352 (「第7章・宗教に対する攻撃」)。
 これの全文は、② Richard Pipes 編, 知られざるレーニン-秘密資料から〔The Unknown Lenin, -〕(1996), p.152以下にある。
 また、① Richard Pipes, ボルシェヴィキ体制下のロシア (1994)も、ほぼ全文を1頁半にわたって引用している。但し、英訳が同じでないのは、ロシア語文の翻訳だとはいえ、興味深い。
 さらに、③ Sheila Fitzpatrick, The Russian Revolution, The New Edition (2008), p.97- は、Richard Pipes の上掲著 (1994) を参照要求しつつ、一部を原文どおりに引用している。
 ○ もちろん、背景事情をある程度は知らないと、ほとんど理解不可能なのかもしれない。しかし、「異様さ」だけは伝わってくる。
 歴史的背景については、梶川伸一の<宮地健一のホームページ>にある、以下が詳しい(むろん、上掲の①②③も、精粗はあれ触れている)。但し、原文の邦訳文はないと見られる。
 <宮地健一のホームページ/6.二〇世紀社会主義を問う/第7部・ネップ後での革命勢力弾圧継続強化/農民問題と飢餓・飢饉の関連ファイル/梶川伸一・レーニン体制の評価について/5.秘密裡の宗教弾圧
 ○ Sheila Fitzpatrick, The Russian Revolution, Tthe New Edition (2008), p.97-の一部原文引用部分だけでも、邦訳しておこう。残余も、邦訳しておく意味があると思われるので、機会があれば、試みるかもしれない。
 原文全体には、いわば前記と後記を除くと13の段落がある(1996年のR・パイプス編著による)。
 フィッツパトリックが原文引用しているのは、その中の、第4の段落の、さらにその一部だ(1994年のR・パイプス著によると思われる)。以下、その部分だけの試訳。
 『飢餓にある地方の人民が人肉(human flesh)を食べ、数千でなければ数百の死体が道路上に散乱しているときに、わけわれが著しく苛酷で容赦なき力を注いで教会〔ロシア正教〕財産の剥奪を実行することができる(ゆえに、そうしなれればならない)のは、まさしく今、そして今のみなのだ。』
 以下、Sheila Fitzpatrick の要約的説明が少し入る-「飢饉からの救済という助けを借りて教会財産を奪い取る[そして名目上は飢えた人々に分ける]運動(campaign)が暴力的示威活動を刺激して生じさせたシュヤ(Shuya, Shuia)について、レーニンは結論した。『巨大な数の』地方聖職者とブルジョアたちは逮捕されて、裁判にかけられなければならない、そしてその裁判はこう終わる必要がある、と」。再び、原文引用。
 その裁判は、『シュヤにいる巨大な数の最も影響力があり最も危険な黒い百を、銃撃隊が射殺する以外の方法で終わってはならない
 そしてモスクワを含む都市やその他のいくつかの聖職者の中心地だけではなく、…大きければ大きいほど、数多くの反動的な聖職者や反動的なブルジョアジーの代表者たちの処刑を、その理由でもって、より十分に達成することができる。
 われわれは今すぐ、これらの者たちに教訓を与えて、この数十年間は、いかなる抵抗も敢えてしようとはせず、かつまたそれを思い付くことすらしないようにしなければならない。』
 1922年3月19日、〔共産党〕政治局各メンバーに代わって同志マルトフあて。
 前記-『極秘いかなる理由でもコピーをとるな。だが、(同志カリーニンはもちろん)各政治局員は、この文書に関する何らかの意見を記せ。/レーニン』。
 これは、ちょうど一年前の党大会で<ネップ>政策導入がすでに決定され、日本共産党、不破哲三や志位和夫によれば、1921年10月のモスクワ県党会議における<確立>を経て、レーニンが問題を抱えつつも<市場経済を通じて社会主義へ>の途を「正しく」歩もうとしていた時期の文書だ。
 以上。