Varlam Shalamov, Kolyma Stories, translated by Donald Rayfield(The New York Review of Books, 2018)の、(ロシア語から英語への)翻訳者による序文の試訳。
 なお、<コルィマ物語>には、別に、以下の英訳書もある。
 Varlam Shalamov, Kolyma Tales, translated by John Glad(Penguin, 1980〜)。
 少なくとも翻訳の仕方は異なっているだろう。内容(対象範囲)にも違いがあるかもしれない。
 邦訳書はないと見られる。シベリア北東部の極北の<コルィマ>強制収容所のかつての存在自体が、日本ではほとんど知られていないだろう。
 一文ごとに改行し、段落の冒頭に原文にはない数字番号を付す。
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 序文(Introduction)—Donald Rayfield。
 (01) ヴァーラム・シャラモフ(Varlam Shalamov)は、スターリンの最悪の収容所での15年の稀少な生存者で、最も寒くて居住に最も適さない場所の一つであるコルィマの金鉱で、奴隷として6年間を過ごした。そのあとで、受刑者収容所の医療従事者として少しは耐えられる生活を送った。
 彼はこの収監の前に、若干の散文といくつかの詩文を書いていた。しかし、彼の七巻の散文、詩文、戯曲概要はほとんど全て、1953年のスターリンの死から1970年代後半のシャラモフ自身の身体および精神の不調の中で書かれた。//
 (02) 我々が収集して翻訳したのは短い物語から成る六冊の書物で、三冊ずつ合わせて二巻本として出版される予定だ。ほとんどは彼がコルィマにいた時期に関するものだが、北部ウラルの収容所で「矯正労働」をした1929年から1931年の初期に関する若干を含み、Vologda での青年期を思い出す一、二を含んでいる。
 自伝と虚構の間の境界はきわめて曖昧だ。つまり、これらの物語の事実上は全てを、シャラモフは体験するか、目撃した。
 彼の作品は、受刑者やその抑圧者たちの多数の実名で溢れている。
 彼自身はたんに『I』または『シャラモフ』として、ときにはAndreyev とかKrist とかの仮名で登場する。
 かくして諸物語は、彼の人生の最初の50年間の自叙伝となっている。//
 (03) シャラモフは、中世以来政治犯用の流刑地だった北部の町であるVologda で生まれた。そして、幼い少年の頃、天敵となるJoseph Stalin と一緒に小径を横切ったかもしれなかった。スターリンは、1911年と1912年に定期的に、Vologda にある宿泊所から立派な公共図書館へと歩いて通っていた。
 聖職者の子息であるシャラモフは(Anton Chekhov のように)宗教の形象と言語で充たされていたが、若いときから全ての信仰を拒否した。
 彼の父親から継承したのは、不屈の頑固さと権威に対する抵抗心だった(父親は、アリューシャン列島の宣教師を務めた非凡な人物で、政治的リベラリズムに共感し、他宗教への寛容さを説いたが、家族員に対しては専制的だった)。
 シャラモフの父親は、単純な手術を拒んだのちに盲目になった。
 父親はシャラモフにも、費用のかかる鼻腔手術を受けさせなかった。それによって、息子は嗅覚を失った。また、老年になってメニエール症にかかった原因になったかもしれない。//
 (04) Vologda は、ロシアの内戦中、とくに1918年には、ぞっとするような残虐行為が行われた舞台だった。その年に、サイコパスのMikhail Kedrov が、シャラモフの化学の教師を含む民間人の人質を射殺した。
 それにもかかわらず、シャラモフは革命に、とくにトロツキスト派に共鳴した。共産主義者によって、聖職者の子息だとして、高次の教育から排除されたとしても。
 そのとき教会から追放されていた彼の両親は、極貧の中で生活していた(『The Cross』物語を見よ)。シャラモフのときたまの稼ぎでは、生活は楽にならなかった。
 彼は皮革工場で働き、数学と物理で良い成績を挙げて、やがて(ソヴィエト法を勉強するために)モスクワ大学に入るのを許された。しかし、一人の仲間が『社会的出自を隠している』と彼を非難したことにより、追放された。
 彼は報道業界に入って不安定な収入を獲得し、レーニンの遺書の公表を(多数のトロツキストと同様に)要求する学生運動に関与したとして、初めて逮捕された。その遺書とは、スターリンを名指しして、粗雑で権力妄者だから党の総書記には任命できないとした文書だった。//
 (05) シャラモフは、コルィマと比較してのみ緩やかだと思えるような条件で、化学工場建設場で3年を過ごした。
 1931年、秘密警察の呼称だったOGPU の意向に反して釈放された。だが、嫌がらせを受けずに、モスクワで生活し、働くことができた。
 1934年、Galina Gudz と結婚した。
 1935年、娘のElena が生まれた。 
 Galina の兄のBoris Gudz はOGPU の工作員で、この結びつきに戦慄した。
 彼はシャラモフに、今ではNKVD(内務人民委員部)と称されている秘密警察に文書を書くよう圧力をかけた。
 その結果は最悪だった。シャラモフは逮捕され、反革命のトロツキスト活動をしたとして、最初はコルィマでの5年の判決を受けた。ちょうどその頃、大テロルがあり、ほとんどのトロツキストは射殺されるべきものとされていた。
 (Gudz の家族も弾圧を逃れることができなかった。シャラモフの妻と娘はトゥルクメニスタンへと追放された。Boris Gudz は秘密警察を解職され、バス運転手になった。その一番上の姉のAleksandra も抑圧された。)//
 (06) シャラモフはその散文で、結婚に伴う諸問題について言及するのを完全に避けた。
 コルィマでの体験と生存という奇跡は、諸物語の中で絵を見るように報告されている。
 解放と「名誉回復」(当局による無実の承認と二ヶ月分の俸給支払い)後に関する彼の自伝叙述は、しかしながら、会話や残っている若干の手紙類の記録によって、再構成される必要がある。
 彼の婚姻関係は、すみやかに崩壊した。
 娘は、月並みに育て上げられたスターリン主義者として、父親は死んでいるか犯罪者だと好んで考えた。
 2年後、彼はOlga Nekliudova と結婚した。
 この結婚関係は1966年まで続いたが、決して幸せなものではなかった。
 シャラモフは、多数のかつての収容所受刑者と同様に、可能な限り語らないという原則を維持した。第三者(情報提供者である可能性があった)が現存しているときには、決して語らなかった。
 いずれにせよ、自分の父親に似て、彼は女性についての父権的見方を持っていた。//
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 ②へとつづく。