秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

レーニン

2966/R.Pipes1990年著—第18章㉔。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第十一節/ボルシェヴィキによる強制収容所の創設②。
 (05) しかしながら、1918年には強制収容所はほとんど建設されず、設置されたものは諸州のチェカまたは軍事司令部によって主導された、と思われる。
 強制収容所の建設が本格的に始まったのは1919年の春で、主導したのは、Dzerzhinskii だった。
 レーニンは、強制収容所が自分の名前と結びつけられるのを好まなかった。これを設立して構造や活動を定める諸布令は、人民委員会議の名によってではなく、ソヴェト中央執行委員会とその議長のSverdlov の名で発せられた。
 これら諸布令は、チェカの再構成に関する1919年2月17日のDzerzhinskii の報告書の中に含まれていた諸勧告を実施した。
 Dzerzhinskii は、治安妨害と闘うための現存の司法的手段は十分ではない、と主張した。
 「法廷が判決を下すこととともに、行政的な判決の言い渡し—つまり強制収容所—を保持することが必要だ。
 今日でも、拘置(under arrest)されている者の労働が公的な労働全体の中で役立っているとは、とうてい言い難い。だから私は、拘置されている者の労働を利用するために強制収容所を保持するよう勧告する。また、職業をもたず生活している者や強制がなければ労働することができない者についても。
 あるいは、ソヴィエトの諸組織に関して言えば、このような制裁の措置は、労働について無関心な態度の者、怠惰な者、遅い者、等々に適用されるべきだ。
 このような措置をとれば、我々自身の労働者をも引き上げることができるはずだ。」(注127)
 Dzerzhinskii、カーメネフ、およびスターリン(この布令の共同起草者)は、収容所を、「労働の学校」と労働の貯留庫(pool)を結合させたものと考えた。
 「全ロシア非常委員会[チェカ]は、強制収容所に限定する権能を付与された。全ロシア中央執行委員会により承認された、強制収容所への収監の規則に関する厳密な指示によって導かれる。」(注127)
 明確でない理由により、1922年およびその後、「強制収容所」(concentration camps)という用語は、「強制労働収容所」(camps of forced labor)に変更された。
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 (06)  1919年4月11日、CEC は、収容所の組織に関する「決定」を発した。これは、内務人民委員部—長は今やDzerzhinskii—の権威のもとで、強制労働収容所の網(network)の設置を定めた。
 「以下の個人または一定範疇の個人たちは、強制労働収容所に拘置される。行政諸機関、チェカ、革命審判審判所、人民法廷および布令や指令で権限を与えられている他のソヴェト機関が決定した者。」(注129)
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 (07)  画期をなすこの布令の若干の特徴について、注記が必要だ。
 1919年に装置化されたソヴィエトの強制収容所は、法廷と行政機関のいずれかによって判決を受けた、あらゆる種類の望ましくない者たちを監禁しておくための場所だと意図されていた。
 監禁される者の中には、個人だけではなく、「一定範疇の個人たち」—すなわち、全ての階級—も含まれていた。
 Dzerzhinskii は、「ブルジョアジー」のための特別強制収容所が設立されるべきだと、ある箇所で提案した。
 強制的に隔離されている被収容者たちは、ソヴィエトの行政部や経済部署が賃金を支払わないで用いることのできる奴隷労働の貯留庫になっていた。
 収容所の網状機構は、内務人民委員部によって、当初は収容所の中央管理機関を通じて、のちには一般にGulak として知られる中央収容所管理機構(Main Camp Administration、Glavnoe Upravlenie Lageriami)を通じて、運営された。
 ここで、原理としてではなく実務においても、スターリンの強制収容所帝国を感じ取ることができる。
 スターリンの強制収容所は、レーニンのそれと、規模についてだけ異なっていた。
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 (08)  強制収容所の設立を承認したCEC の諸決議は、収容所の活動を指導する詳細な指針を必要とした。
 1919年5月12日に発せられた布令は、細かい官僚的用語法を用いて、収容所の基本構成を定めた。どのように組織されるべきか、被収容者の義務と想定上の権利は何か。
 この布令は、全ての州都である都市に対して、300人またはそれ以上を収容できる強制労働収容所の建設を命じた。
 ソヴィエト・ロシアには(内戦の状況によるが)約38の州があったので、この規定は、最少で計11,400人の施設を想定していた。
 しかし、この数字は大きすぎた。布令は地区の首都にも強制収容所を建築する権限を認めており、こちらの数字は数百に達したからだ。
 収容所を組織する責任は、チェカが負った。建設されると、収容所を管理する権限は、地方ソヴェトに移ることとされていた。
 この条項は、ボルシェヴィキによる立法の一つで、ソヴェトは「最高」(sovereign)機関だという神話を維持することを前提にしていた。
 そして、実際には、機能しなかった。ソヴィエト・ロシアにある収容所の「総合的管理」の責任が、内務人民委員部内に新しく設置された強制労働局(Department of Forced Labor、Otdel Prinuditel’nykh Rabot)へと移されたからだ。そして、既述のとおり、内務人民委員部の長(人民委員)は、チェカの長官と同じ人物だった。
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 (09)  ロシアの政府には、受刑者の労働を利用するという古くからの伝統があった。「国家の経済それ自体の中で強制労働の利用が、ロシアの歴史ほどに大きい役割を果たした国はなかった。」(注131)
 ボルシェヴィキは、この伝統を復活させた。
 ソヴィエトの強制収容所の拘禁者は、1919年の最初から、つねに、拘禁施設の内部か外部で肉体労働をしなければならなかった。
 指示書は、こう定めていた。「収容所に到着するとただちに、全員が、仕事を割り当てられ、滞在中はずっと肉体労働に従事するものとする」。
 収容所当局が拘禁者の労働を完全に利用するのを促すために、また政府の財政負担を軽減させるためにも、各収容所は財政的に自立して運営していくことが、要求されていた。
 「収容所とその管理機構を運営する費用は、被収容者が定員いっぱいの場合には、被収容者の労働によって賄う必要があった。
 赤字の責任は、別の指令書が定めた規則に従って、管理者と被収容者に生じることになる。」(脚注5)
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 (脚注5) したがって、別の権威が行なったように、ソヴィエトの強制収容所はもともとは民衆をテロルにかけることに役立ったが、1927年にスターリンのもとでようやく経済的な重要性をもった、と主張するのは、正しくない。実際に、制裁的労働で元を取る、さらには国家の収入とするという実務は、帝政時代に遡る。かくして1886年に内務省は、重労働施設の管理者に対して、受刑者の労働が利益を生むことを確かめよ、と指示した。R. Pipes, Russia under the Old Regime, p.310.
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 ③へとつづく。

2965/R. Pipea1990年著—第18章㉓。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第十一節/ボルシェヴィキによる強制収容所の創設①。
 (01) チェカの最も重要な職責の中に、「強制収容所」(concentration camps)を組織し、運営することがあった。ボルシェヴィキは、この収容所を全く新しく考案したのではなかったが、新奇できわめて邪悪な意味をこれに与えた。
 強制収容所は、その完全に発展した形態では、一党国家制や全能の政治警察とともに、ボルシェヴィキが20世紀の政治実務に影響を与えた主要なものだった。
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 (02) 「Concentration Camps」という用語は、植民地戦争(colonial war)に関連して19世紀の末に生まれた。(脚注1)
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 (脚注1) この装置に関する最良の歴史書は、Kaminsky, Konzentrationslager だ。この主題を、歴史家は驚くほどに無視してきた。
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 スペイン人は、キューバ人の暴乱に対する戦いのあいだに、このような収容所(camps)を最初に設けた。
 それらは、40万人を収容した、と推算されている。
 アメリカ合衆国は、1898年のフィリピン暴乱と戦うあいだに、スペイン人に見習った。
 イギリスも、ボーア(Boer)戦争のあいだに、同様のことをした。
 しかし、これらは、名前を別とすれば、ボルシェヴィキが1919年に導入し、ナツィスその他の全体主義体制がのちに模倣した強制収容所とほとんど関係がなかった。
 スペイン、アメリカ、イギリスの強制収容所は、植民地のゲリラとの戦いのあいだに採用された非常措置だった。それらの目的は、制裁ではなく、軍事的なものだった。—すなわち、非正規軍を一般民間人から分離すること。
 初期の収容所の条件は苛酷だった、と認めざるを得ない。イギリスに監禁されて、2万人ほどものボーア人が死んだ、と言われている。
 しかし、意図的な虐待は、存在しなかった。苦痛や死は、収容所が急いで完成されたことによっていた。急いだがゆえに、居住条件、食事等の供給、医療が不適切なままだった。
 被収容者たちは、労働を強制されなかった。
 三つの場合はいずれも、戦闘が終結すると、収容所は取り壊され、被収容者は解放された。
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 (03) ソヴィエトの強制収容所や労働収容所(lageri prinuditel’nykh rabot)は、最初から、組織、活動、目的が異なっていた。
  1. 永続的な施設だった。内戦のあいだに導入され、1920年に戦闘が終わっても、消滅しなかった。
 それどころか、様々の目的をもってその場所に維持され、1930年代には途方もない割合で膨張した。その頃のソヴェト・ロシアは平穏で、表向きは「社会主義を建設していた」のだが。
 2. ゲリラを支援したと疑われた外国人を収容しなかったが、政治的反抗者だとの嫌疑を抱いたロシア人その他のソヴィエト市民は、収容した。
 元来の役割は、植民地の人々を軍事的に制圧するのを助けることではなかった。ソヴィエトでは、自国の市民にある不満を抑圧することが任務だった。
 3. ソヴィエトの強制収容所は、重要な経済的役割を果たした。被収容者は、命じられれば、労働しなければならなかった。このことが意味したのは、彼らは隔離されるだけではなく、奴隷労働者として搾取される、ということだった。
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 (04) ソヴィエト・ロシアで強制収容所が最初に話題になったのは、1918年の春、チェコ人の蜂起や従前の帝制期の将校たちの採用に関係してだった。(脚注2)
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 (脚注2) ソヴィエトの強制収容所に関する最も包括的な解説は、Mikhail Geller, Kontsen-tratsionnyi mir i sovetskaia literature(London, 1974)だ。これには、ドイツ語、フランス語、ポーランド語の翻訳書がある。英語のものはない。
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 1918年5月末、トロツキーは、武器を捨てて降伏するのを拒む
チェコ人兵士を、強制収容所への監禁でもって威嚇した。(脚注3) 
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 (脚注3) L. D. Trotskii, Kak vooruzhalas’ revoliutiia, I(Moscow, 1923), p.214, p.216. Geller によると(Konrsentratsionnyi, p.73)、これは、この用語のソヴィエトでの最も早い使用例だ。
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 8月8日、彼は、モスクワからKazan までの鉄道路線を保護するために、近傍のいくつかの地方に強制収容所を建築することを命じた。それは、「その場で」処刑されていないまたは他の制裁を受けている、「悪辣な煽動者、反革命将校、破壊工作者、寄食者、投機者」を隔離するためでもあった。(注126)
 こうして、強制収容所は、訴追することができていないが何らかの理由で当局が処刑しないことを好む、そのような市民を抑留する場所だと理解された。
 レーニンは、8月9日のPenza への電信で、この用語を上のような意味で用いた。反抗する「クラク」は「容赦なき大量テロル」—すなわち処刑—を受けさせるべきだが、疑わしい者は市の外にある強制収容所に監禁せよと、その電信は命令していた。(脚注4)
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 (脚注4) Lenin, PSS, L, p.143-4. チェカの長官代理の地位にあったPeters は、武力でもって捕えた者は「その場で射殺され」、政府に反対して煽動した者は強制収容所に監禁される、と言った。Izvestiia, No.188/452(1918年9月1日), p.3.
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 このような威嚇は、1918年9月5日の「赤色テロルに関する決定」によって、法的および行政的制裁の効果をもった。この決定は、「階級敵を強制収容所へ隔離することによってソヴェト共和国を守る」ために行なわれた。
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 ②へとつづく。

2963/R. Pipes1990年著—第18章㉒。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第十節/チェカは全ソヴェト組織に浸透する②。
 (03)  チェカは、徐々に、国家の保安に通常は影響を与えないと考えられる広い範囲の管理や監督の権能を掌握した。
 「投機」—すなわち私的取引—を取り締まる布告を執行するために、チェカは、1918年の後半に、鉄道、水路、主要道路その他の交通手段に対する統制権を握った。
 Dzerzhinskii は、この職務を効率的に実行するために、1921年4月、交通人民委員に任命された。(注121)
 チェカは、あらゆる形態の強制労働を監督かつ実施した。この義務を逃れる者や不十分にしか履行しない者に対しては、これらを制裁する裁量的権限をもった。
 銃撃による処刑は、このような目的のために使われた、一般的な方法だった。
 ある目撃者は、経済的成果を上げるためにチェカが用いた手段について、貴重な洞察を与えてくれている。この人物は、ソヴェトが雇用したメンシェヴィキの森林専門家で、レーニンとDzerzhinskii が材木生産の増大について決定したときに、たまたま在職していた。
 「あるソヴィエトの布令が公示された。この布令は、政府所有の森林の近くに居住する全ての農民に対して、1ダースの木材を用意し、輸送するよう義務づけた。
 だが、この義務づけは、森林労働者(foresters)をどうするか—彼らに何を要求するか—という問題を生じさせた。
 ソヴェト当局から見ると、これら森林労働者たちは、新政府が冷淡に処理をした妨害者的知識人の一部だった。/
 この特定の問題を議論した労働・防衛会議(the Council of Labor and Defence)の会合には、他の人民委員の中でも、Felix Dzerzhinskii が出席した。…
 彼は、しばらく聴いていたあと、こう言った。
 『正義と衡平のために、提案する。森林労働者は、農民への割当て量の達成について個人的な責任を負わされる。加えて、各森林労働者は一人ずつ、同じ量—1ダースの木材—を達成するものとする。』/
 会議の若干の構成員たちは、反対した。
 彼らが指摘したのは、森林労働者は重い肉体労働に慣れていない知識人だ、ということだった。
 Dzerzhinskii は、農民と森林労働者の間の年齢による不平等を無くす良いときだ、と答えた。/
 チェカの長官は、結論としてこう発言した。
 『さらに加えて、かりに農民が割当て量を達成できなければ、それに責任を負う森林労働者は、射殺されなければならない。
 残りの者は、真剣に仕事に取り組むだろう。』/
 森林労働者の多数は反共産主義者だと、広く知られていた。
 依然として、部屋にある、当惑した静けさを感じた。
 突然に、私は、無作法な声を聴いた。
 『この提案に、誰か反対するか?』/
 レーニンだった。彼の真似のできないやり方で、議論を終わらせようとしていた。
 当然ながら、誰もあえてレーニンとDzerzhinskii に反対しなかった。
 レーニンは、思い直したかのように、森林労働者の射殺の部分—承認されていたが—は会合の正式の議事録から削除するよう、提案した。
 これもまた、彼が望んだとおりに承認された。/
 会合のあいだ、私は気分が悪かった。
 私はもちろん、1年以上、処刑がロシアをひどく破壊していることを、知ってきていた。—だが、多数の無実の人々の運命にかかわる5分間の議論に、私自身が同席していた。
 私は、心底から動揺した。
 咳き込んだけれども、私の冬風邪の一つの咳以上のものだった。/
 1、2週間以内に森林労働者の処刑が行なわれても、彼らの死は先の事態を少しも変えないだろう、ということは、私には苦痛だった。
 このような恐るべき決定は、この非常識な措置を発動する者たちにある、憤懣と復讐の感情から来ている、と私は知った。」(注122)
 文書には何の痕跡も残さない、このような決定が多数あったに違いない。
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 (04)  チェカは、着実に、その軍事力を増大させた。
 1918年夏、その戦闘部隊(Combat Detachments)が、赤軍から分離した一つの組織となった。これは、Korpus Voisk VChK(AU-ロシア・チェカの軍団)と称された。(注123)
 帝制時代の憲兵団(Corps of Gendarmes)を範としたこの軍団は、「国内戦線」のための常備軍へと成長した。
 1919年5月、政府は、内務人民委員としての新しい権能をもつDzerzhinskii が主導して、これらの部隊の全てを、共和国の国内的保安の軍隊(Voiska Vnutrennei Okhrany Respubliki)へと統合し、戦争人民委員ではなく内務人民委員が監督するものとした。(注124)
 このとき、この国内軍には、12万人ないし12万5000人の兵士がいた。
 1920年代の半ばまでには、この数は二倍になり、全体でほとんど25万人になった。この兵士たちは、工業施設、輸送設備を守り、供給人民委員部が食料を徴発するのを助け、強制労働と強制収容所を護衛した。(注125)
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 (05)  重要なことを付言すると、チェカは、Osoby Otdel(特殊部署)として知られる、軍隊のための対抗諜報組織の事務局を設置した。
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 (06)  チェカは、こうした機能と権能をもつことによって、1920年までに、ソヴィエト・ロシアの最も強力な組織になった。
 警察国家の基盤は、かくして、レーニンがその職責にあるあいだに、その主導のもとで、築かれた。
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 第十節、終わり。

2961/R. Pipes1990年著—第18章⑳。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第九節/抵抗するボルシェヴィキ党員②。
 (07) しかし、チェカ擁護論者は、その組織を防衛しただけではなかった。「プロレタリアート独裁」の勝利のために不可欠のものとして称賛した。
 チェカは、無限の闘争であるレーニンの「階級戦争」のテーゼを発展させて、自らを赤軍と相補関係にあるものと見た。
 両者の唯一の違いは、赤軍はソヴィエト国境の外で階級敵と戦い、チェカとその軍事部隊は「国内の戦線」で階級敵と戦う、ということにある。
 内戦は「二つの前線での戦争」だとする考えは、チェカとその支持者が好んだ主題の一つになった。赤軍で働く者とチェカに勤務する者は、腕を組む同志だと言われた。それぞれのやり方で、「国際的ブルジョアジー」と戦っているのだ。(注108)
 こうした類似性でもって、チェカは、自分たちにソヴィエトの領域内で殺害が許容されていることは、軍隊の兵士が前線で目に入る敵兵を殺害するのと同じ権利のようなものだ、いやじつに、義務ですらある、と主張することができた。
 戦争は、正義の法廷でなかった。Dzerzhinskii の言葉によると(Radek の報告によるが)、無実の者も、無実の兵士が戦場で死ぬのと全く同じように、国内の前線で死ぬ。(注109)
 これは、政治は戦争だ、という前提から演繹される見方だった。
 Latsis は、両者の類似性を、つぎのような論理的な結論へと押し進めた。
 「非常委員会(チェカ)は捜査機関ではなく、判決を書く法廷または審判所でもない。
 戦闘の機関であって、内戦の内部戦線で活動する。
 敵に判決を下すのではない。打ちのめすのだ。
 バリケードの向こう側の者たちを赦すのではなく、焼いて灰にする。」(注110)
 警察テロルと軍事戦闘との間のこのような類似性は、むろん、両者の重大な違いを無視していた。すなわち、兵士は生命を賭けて敵の兵士と戦ったが、チェカ機関員は、自らについての危険を冒すことなく無防備の男女を殺害した。
 チェキストが示すべき「勇気」は、身体的または倫理的な勇気ではなく、良心を抑えつけようとする意欲だった。その「不屈さ」は、被害を受けない能力にではなく、苦痛を被らせる能力にあった。
 それにもかかわらず、チェカは、この表面的な類似性を語るのを好むようになった。これでもって、批判に反駁し、ロシア人が抱く嫌悪感を克服しようとした。
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 (08) レーニンは、論争に立ち入らなければならなかった。
 チェカを好み、その残虐性を是認した。しかし、チェカの公的イメージを改善することによってでも、とんでもない悪罵は抑制される必要がある、ということにも同意した。
 〈週刊チェカ〉の記事が拷問の使用を要求していることに慄然として、Latsis の機関の閉鎖を命じた。レーニンは、Latsis を優れた共産党員だと呼んでいたのだが。(脚注2)
 1918年11月6日、チェカは、訴追されていない、または2週間以内に訴追できない収監者全員を釈放することを、指示された。
 「必要がある」場合を除き、人質も解放された。(脚注3)
 この措置は、共産党諸機関によって「恩赦」として歓迎された。審理されて判決を受けた者だけではなく、訴追すらされていない者にも適用されたので、「恩赦」という類のものではなかったけれども。
 だが、この指示も、空文のままだった。すなわち、1919年のチェカの監獄は、明確な理由なく投獄された収監者、その多くは人質、で溢れつづけていた。
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 (脚注2) レーニンは、1918年11月7日に、チェキストの「会合音楽会」で挨拶して、チェカを批判から防衛した。彼はチェカの「困難な仕事」について語り、チェカに対する不満を「愚痴」(〈vopli〉)だとして斥けた。チェカの特性として選び出したのは、断固さ、速さ、とりわけ「忠誠さ」(〈vernost’〉)だった。Lenin, PSS, XXXVII, p.173. ヒトラーのSS の標語は「Unsere Ehre heisst Treue」(「我々の栄誉は忠誠という」)だったことが、想起される。
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 (脚注3) Dekrety, III, p.529-530. これは、チェカは訴追しないままで抱えている多数の収監者を何とかしてほしいとの、10月初めのモスクワ・ソヴェト幹部会の要請に対する反応だった。Severnaia Kommuna, No.122(1918年10月18日), p. 3.
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 (09) 政府は、1918年10月の末にかけて、心ならずも、他の国家諸機関と緊密な関係をもたせることで、チェカの独立性を制限する方向へ進んだ。
 チェカのモスクワ本部は、司法人民委員部および内務人民委員部の代表者たちを受け入れるよう命じられた。
 州の諸ソヴェトは、地方チェカ機関員の任命や解任を行なう権限を与えられた。(注111)
 しかし、チェカによる政治的な濫用をなくす意味ある措置は、1919年1月7日に行なわれた、チェカの〈uezdy〉——への吸収だった。この〈uezdy〉は、酷い残虐行為や大規模な強要行為で悪名高い、最小の行政単位だった。(注112)
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 (10) チェカの権威は、ボルシェヴィキ党モスクワ委員会から不満が示されることで、慢心を原因として揺すぶられた。モスクワ党委員会は、1919年1月23日の会議で、統制されないチェカの活動に対する強い抗議の声を聴いていた。
 チェカを廃止しようとする動議が提出された。これは、「ブルジョア的」だとして採用されなかった。
 しかし、時期が到来していた。
 1週間のち、国の最も重要な同じモスクワ党委員会は、4対1の票差で、チェカから審判所として活動する権利を剥奪し、捜査機関というもともとの活動に限定した。(注114)
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 (11) 党中央委員会は、このような不満の増大に対応して、2月4日に、1918年12月のKrylenko の提案を再検討した。
 Dzerzhinskii とスターリンは、報告書を準備するよう求められた。
 二人は、数日後に提出した勧告書で、こう提案した。チェカは、治安妨害行為を捜査し、武装反乱を鎮圧するという二つの機能を維持する。だが、国家に対する犯罪に判決を下す権限は、革命審判所に留保される。
 この原則に対する例外は、ときに国の広大な領域に及ぶことのある戒厳令の下にある地域で認められた。この地域では、チェカは従前どおりに活動することができ、死刑判決を下す権利を保持した。(注115)
 党中央委員会は、勧告書を承認し、是認を求めて中央執行委員会(CEC)に提出した。
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 (12) CECの1919年2月17日の会合で、Dzerzhinskii は主要報告を陳述した。(脚注4)
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 (脚注4) これは、39年後に初めて公にされた。IA, No. 1, p.6-p.11.
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 彼は、こう語った。チェカが存在した最初の15ヶ月のあいだ、ソヴィエト体制はあらゆる分野での組織的抵抗に対抗する「容赦なき」闘争を展開しなければならなかった。
 しかし、今では、かなりの程度はチェカの活動が、「我々の内部の敵、元将校、ブルジョアジー、帝制期の官僚たちを、打ち負かし、解散させた」。
 今後の主要な脅威は、「内部から」破壊工作を実行するためにソヴェト組織に潜入している反革命者たちにある。
 チェカが大衆テロルを展開する必要は、もうない。これからは、犯罪者を審理して判決を下す革命審判所のために、証拠を提供することになるだろう。
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 (13) 表面的には、一つの時代の終わりが画された。当時の人々はある程度は、改革を歓迎した。2月17日、CECは、敵を粉砕した「プロレタリアート」がもうテロルという武器を必要としなくなった証しとして、この改革をいつものとおり承認した。(注116)
 しかし、この改革は、ロシアのテルミドール(Thermidor)ではなかった。ソヴィエト・ロシアは、当時もその後も、テロルなしで済ますことはできなかった。
 1919年、1920年、そしてそのあと、チェカとその後継組織のGPU は、革命審判所に照会することなく、逮捕し、審理し、判決を下し、収監者や人質を処刑しつづけた。
 まさに、Krylenko が説明したように、このことは大して重要でなかった。「質的に見て」(qualitatively)、法廷と警察の間に違いはないはずだったのだから。(注117)
 Krylenko の見方は、つぎのことを考えると、正しかった。1920年の時点で、裁判官は、被告人の有罪が「明白」と見えるときは、通常の司法手続を履行することなく被告人に判決を下すことができた。これは、チェカが行なってきたことと全く同じだった。
 1919年10月、チェカは自らの「特別革命審判所」を設置した。(注118)
 それにもかかわらず、改革を目ざす努力は、実らなかったとはいえ、記憶されるに値する。その努力は、少なくともボルシェヴィキ党員の一部には、1918-19年に既に、秘密警察は体制の敵のみならず自分たちや友人たちの脅威でもある、という予感があった、ということを示しているのだから。
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 第九節、終わり。

2955/R. Pipes1990年著—第18章⑭。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第七節/赤色テロルの公式の開始①。
 (01) ボルシェヴィキは、権力を掌握した日から、テロルを実行した。権力を増すにつれて、そして彼らの人気が落ちてくるにつれて、テロルは激しくなった。
 1917年11月のカデット党員の逮捕、それに続いたカデット指導者のKokoshkin とShingarev の罰せられなかった殺害は、テロル行為だった。立憲会議の閉鎖と立憲会議を支持した示威行進者の射殺がそうだったように。
 赤軍兵団と1918年春に解散してボルシェヴィキを権力外に置こうと票決したソヴェトを都市から都市へと乱暴に扱った赤衛隊は、テロル行為をやらかしていた。
 主として1918年2月22日のレーニンの布令により与えられた権限にもとづき州および地区のチェカが実行した処刑は、テロルを新しい段階の激烈さにまで押し上げた。当時にモスクワに住んでいた歴史家のS. Melgunov は、プレスの記事から、1918年前半に行なわれた882の処刑に関する証拠資料を一冊にまとめた。(注73)
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 (02) しかしながら、初期のボルシェヴィキによるテロルは、のちの内戦中の白軍のテロルにむしろ似た非体系的なもので、また、犠牲者の多くは「投機者」を含む通常の犯罪者だった。
 ボルシェヴィキの状勢が底をついていた1918年の夏にようやく、テロルは体系的で政治的な性格を帯び始めた。
 チェカは、7月6日の左翼エスエルに対する弾圧のあとで、初めての大量処刑を実行した。その犠牲者は、その前月に逮捕されていたSavinkov の秘密組織のメンバーや、左翼エスエルの蜂起への参加者だった。
 モスクワのチェカ役員会から左翼エスエルを追放することによって、政治警察に対する最後の制約が除去された。
 7月半ば、Iaroslavl の蜂起(uprising)に加わっていた多数の将校たちが、射殺された。
 チェカは、軍事的陰謀に怖れ慄いて、旧軍隊の将校たちを探索し始め、審判手続なしで、彼らを処刑した。
 Melgunov の記録によれば、主としてチェカが、1918年7月だけで、1,115の処刑を実行した。(注74)
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 (03) 皇帝家族とその縁戚者の殺害は、テロルのいっそうの拡大を示した。
 チェカの組織員は今や、収監者や容疑者を意のままに射殺する力をもつことを誇った。但し、その後のモスクワによる苦情から判断すると、州当局は必ずしもつねに彼らの力を利用したわけではなかった。
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 (04) レーニンは、このような政府によるテロルの激化にもかかわらず、なおも満足しなかった。
 彼は、「大衆」をこのようなテロルに巻き込もうと考えていた。おそらくは、政府機関の者と民衆の両者を巻き込む組織的殺戮(pogrom)こそがこの両者をお互いに近密にするのに役立つ、と思ったからだ。
 彼は、共産党員官僚と市民たちがより断固として行動すること、殺害に対する抑制感を排除すること、を強く求めつづけた。
 他にどのようにすれば、「階級戦争」は現実のものになるのか?
 1918年の2月に早くも、レーニンは、ソヴィエト体制は「穏やかすぎる」という不満を述べていた。彼が欲したのは「鉄の権力」だった。ところが実際には、「異様に柔軟で、どの段階ででも鉄ではなくゼリーのようだ」というわけだ。(注75)
 ペテログラードの党官僚が、労働者がVolodarskii 暗殺に対する報復として虐殺を行なうのを制止した。このことを1918年6月に聞いて、レーニンは烈火のごとく憤慨し、かれの副官にに怒りの手紙を送った。
 「ジノヴィエフ同志!
 中央委員会は、今日ようやく、ペテログラードでは〈労働者たち〉がVolodarskii の殺害に対して大量のテロルでもって反応しようとしたこと、きみ(きみ個人ではなくペテログラード中央委員会または地域委員会)はそれを却下したこと、を知った。
 私は、断固として抗議する!
 我々は体面を傷つけている。ソヴェトの決議によって大量テロルで脅かしても、それを行動に移すときでも、我々は、大衆の〈全体として〉正しい革命的な主導性を〈邪魔して〉いる。
 こんなことは、許-され-ない!。」(注76)
 レーニンは、2ヶ月後に、Nizhnii Novgorod の当局に対して、「〈ただちに〉大量テロルを始め、〈数百人の〉売春婦、泥酔した兵士、元将校、等々を〈処刑し、放逐する〉」ことを指示した。(注77)
 ここでの恐ろしくも不正確な三文字—「等々(etc.)」—は、体制の組織員に対して、犠牲者を自由に選択することを認めた。それは、体制がもつ不屈の「革命的意思」表現するものとしての、大量虐殺のための大量虐殺(carnage)であるべきだった。その「革命的意思」は、脚元で崩れつつあった。
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 (05) テロルは、政府による村落に対する戦争の宣言に関連して、地方へも広がった。
 労働者に「クラク」を殺すことを奨励するレーニンの言葉を、すでに引用した。
 自分たちの穀物を食糧派遣隊から守ろうとして1918年の夏と秋に殺された農民について、その大まかな数ですら知るのは、不可能だ。
 政府の側での犠牲者の数が数千人になるとすれば、もっと少なかったということはあり得ないだろう。
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 (06) レーニンの仲間たちは、革命の教条のために民衆を殺害させ、殺害に関与させることが高貴で高揚させるものであると、明確に残酷な行為の用語法を用いて、誘い込むことについて、お互いに競い合った。
 例えば、トロツキーは、ある場合に、赤軍へと徴用した元帝制将校の誰かが背信的な行動をしたとしても、「特別な場所以外に何も残らないだろう」と警告した。(注78)
 チェキストのLatsis は、「内戦の法」はソヴィエト体制に反抗して闘う「全ての負傷者を殺戮すること」だ、と宣告した。「生か死かの闘いだ。きみが殺さなければ、殺されるだろう。だから、殺されないように、殺せ。」(注79)
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 (07) フランス革命ででも、白軍の側でも、このような大量殺戮の奨励は、聞かれなかった。
 ボルシェヴィキは、意識的に、市民を残虐にすること、前線の兵士が敵の軍服を着た者を見るのと同じように、つまり人間ではなく抽象物を見るように、仲間の市民の誰かを見させること、を追求した。
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 (08) 銃弾がUrirskii とレーニンを襲ったときまでに、殺害志向の精神状態は、きわめて高度の激烈さを達成していた。
 上の二つのテロリストの行為—判明したように関連性はないが、当時は組織的陰謀の一部と見なされた—は、形式的な意味での赤色テロルを解き放った。
 犠牲者の多数は、主に社会的背景、裕福さ、および旧体制との関係を理由として、適当に手当たり次第に、選ばれた人質だった。
 ボルシェヴィキは、こうした大虐殺は体制に対する具体的な脅威を抑圧することのみならず、市民を脅迫し、市民を心理的な屈服状態に陥らせるためにも必要だ、と考えた。
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 (09) 赤色テロルが公式に始まったのは、内務人民委員と司法人民委員の署名付きで9月4日と5日に発せられた、二つの布令によってだった。
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 ②へ。

2954/R. Pipes1990年著—第18章⑬。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第六節/事件の背景とレーニン崇拝の始まり③。
 (18) 一人の政治家についての、体制によるこのような宗教類似の崇拝(cult)は、なぜ、唯物論や無神論と適合するのか?
 この疑問に対しては、二つの回答がある。一つは、共産党の内部的な必要性にかかわる。もう一つは、共産党と同党が支配する民衆の関係にかかわる。
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 (19) ボルシェヴィキは自らを政党だと主張したけれども、実際にはそのようなものではなかった。
 彼らはむしろ、選ばれた指導者の周りに集まった部隊または軍団に似ていた。
 彼らを一緒に結合させたものは、綱領または基本的主張ではなく—これらは、指導者の意向と一致するように毎日のように変わり得るものだった—、指導者の特性(person)だった。
 共産主義者を指導したのは、指導者の直観と意思であって、客観的な原理ではなかった。
 レーニンは、「指導者」(〈vozhd〉)と呼ばれる、近代の最初の政治的人物だった。
 彼の存在は、不可欠だった。彼の指導がなければ、一党国家体制は自らを維持するものを他に何ももたないのだから。
 共産主義は、政治を再び人格化した。そして、法ではなく人間が国家と社会を指揮する時代へと政治を後退させた。
 そのためには、字義どおりではなく表象としては、指導者は不死であることが必要だった。レーニンは、その人格(person)によって指導しなければならなかった。そしてまた、彼の死後は、継承者がその名前で支配することができ、レーニンから直接に霊感を受けたと主張することができる必要があった。
 レーニンの死後に始まった「レーニンは生きている!」というスローガンは、ゆえに、宣伝のための常套句なのではなく、統治の共産主義システムに不可欠の要素だった。
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 (20) 以上のようなことで、レーニンを神格化し、ふつうの人間の日常を超越する場所に置き、不死にする必要性が、かなりの程度に説明される。
 レーニン崇拝は、彼が死の淵にあったと考えられたときに始まり、実際に死亡した5年後には装置のごときものになっていた。
 彼の霊感は、彼が創設した党と国家の活力と破壊不能性を維持するためには不可欠だった。
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 (21) もう一つは、体制に正統性が欠けていることにかかわる。
 ボルシェヴィキが世界的革命の触媒者として行動していた体制の最初の三ヶ月には、この問題は生じなかった。
 しかし、世界的革命が近い将来に起こり得ないこと、ボルシェヴィキ体制は大きな多民族国家を統治する責任を持たなければならないだろうこと、が明瞭になると、要求される前提条件が変わった。
 この時点で、ボルシェヴィキの支配下にあるソヴィエト・ロシアの7000万人余りの住民の体制に対する忠誠さが、きわめて大きな関心事になった。
 ボルシェヴィキは、通常の選挙手続によってこの忠誠心を確保することができなかった。彼らが最も支持された1917年11月に〔立憲会議選挙で/試訳者〕、投票数の四分の一以下しか獲得していなかった。そして、幻想から醒めた後では、ボルシェヴィキは確実に一つの党派であるにすぎなかっただろう。
 ボルシェヴィキは、内心では、自分たちの権威は、参画資格に疑問がありながら権力にとどまる、薄い層の労働者と兵士に具現化されている、物理的な力に依存している、ということを知っていた。
 彼らの体制が左翼エスエルから攻撃された1918年7月に、首都の労働者と兵士は「中立」を宣言して体制を助けるのを拒んだ。このことから、彼らは逃れることができなかった。
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 (22) このような条件のもとで、本当の正統性および失われている民衆による委任の代用物になる次に最もよいものとしてボルシェヴィキに役立ったのは、創建した父親であるレーニンを神格化することだった。
 古代に関する歴史家たちは、つぎのことを知っていた。正統な権威を主張することができず、さらに民族的な紐帯でもってマケドニア人にも相互にも拘束されない、そういう多様な非ギリシャ人をマケドニアのAlexander が征服したあとで初めて、中東では、制度化された指導者崇拝が大規模に始まった、と。
 Alexander、その継承者たちは、ローマの皇帝たちとともに、世俗権威では与えられない神聖な権威をもつ安全確保の装置として、自己の神格化に頼った。
 「Alexander の継承者たちは、征服の正当さ、軍事力、先住の王たちから奪い取った王冠でもって占拠した、ギリシャ人系マケドニア人だった。
 これら古代の洗練された文明をもつ諸国では、刀剣の力が全てではなく、強者の法は適切な正統性を提供しないかもしれなかった。
 統治者は一般に、自らを正統化するのを好む。それはしばしば、彼らの地位の強化を意味するからだ。
 彼らの側からすれば、神聖な権利にもとづく権力および獲得した遺産の資格ある継承者だと自己表明するのは、賢明でなかったか?
 自分たちを神々と同一視するのはよい方法ではなくとも、臣民たちの崇敬を獲得する、同じ旗のもとに民衆を統合する、究極的には、王朝的支配を強固にするのは、思うに賢明ではないか?(注71)
 王朝側にとっては、…神格化は正統化を、刀剣によって獲得した権利の合法化を意味した。
 さらには、近年に仲間になった者たちの野望を超越する王室家族へと高めること、神聖な祖先が獲得した諸特権を一つに融合することで王室の権利を強化すること、自然の感情を通じては不可能になっったので、おそらくは宗教的感情を通じてその周りに結集させることのできる表象を、全ての臣民に対して提示すること、を意味した。」(注72)
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 (23) ボルシェヴィキがこのような先例をどれほど意識していたか、彼らが「科学的」だとする建前と偶像崇拝への最も原始的な渇望に訴えることとの間の矛盾にどれほど気づいていたか、を語ることは困難だ。
 ボルシェヴィキは本能的に行動した、ということは上の問題を語る見込みを与える。
 そうであるなら、彼らの本能は彼ら自身にも十分に役立った。大衆の支持を獲得するためには、このような神聖視の主張の方が、「社会主義」、「階級闘争」、「プロレタリアートの独裁」に関する話よりもはるかに役立つ、ということが分かったからだ。
 ロシアの人々にとって、「独裁」や「プロレタリアート」は意味をもたない外国語であり、ほとんどの者は発音することすらできなかった。
 しかし、国の支配者が死から奇蹟的に回復したという物語は、即時の感情的反応を呼び起こし、政府とその臣民の間に何がしかの紐帯を生み出した。
 これは、レーニン崇拝が決してなくならなかった理由だ。かりに、しばらくの間、国家が推進した、もう一人の神格化された者であるスターリンへの崇拝によっていく分か損なわれることになるとしても。(脚注3)
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 (脚注3) 2018年8月30日の後でソヴィエトのプロパガンダによってレーニンに払われた注目にもかかわらず、全ての者がレーニンのことを知ってはいなかったようだ。Angelica Balabanoff は、レーニンが療養所にいるKrupskaia を訪問した1919年早くに起きたつぎのことを、思い出している。彼とその妹が乗っていた車が、二人の男によって停止させられた。「一人が拳銃を向けて、言った。『金を出さないと、殺すぞ』。レーニンは自分の個人識別証明書を取り出して、言った。『私は、Ulianov Lenin だ』。襲撃者は、証明書を一瞥しようとすらしないで、繰り返した。『金を出さないと、殺すぞ』。レーニンは金を所持していなかった。外套を脱ぎ、車の外に出て、妻のための牛乳瓶を手放すことなく、歩いて進んだ」。A. Balabanoff, Impressions of Lenin(Ann Arbor, Mich., 1964),p.65.
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 第六節、終わり。

2953/R.Pipes1990年著—第18章⑫。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990)。
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第六節/事件の背景とレーニン崇拝の始まり②。
 (11) Kaplan による暗殺未遂の最も直接的な効果として解き放たれたのは、無差別の、かつ犠牲者の数に歴史上の先例のない、テロルの波だった。
 ボルシェヴィキ党員は完全に恐怖を覚え、恐怖に駆られた者たちがそうしたとEngels が言ったのとまさに同じように行動した。すなわち、自らを安心させるために、無用の残虐行為を行なった。
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 (12) 暗殺の企てとレーニンの回復は、長期的に見ればおそらく重要性に変わりのない、別の影響ももった。すなわち、レーニンを神格化する意識的な政策の始まりとなった。この政策は、レーニンの死後には、紛れもなく国家が支える東方カルトに変わることになる。
 ほとんど致命的な傷害からレーニンが急速に回復したことは、以前よりも崇拝するようになっていた彼の支持者たちに、盲信的な信仰を引き起こしたように見える。
 Bonch-Bruevich は、「運命によって選ばれた者だけがこのような負傷による死を免れることができる」というレーニンの医師の一人の言葉を、肯定的に引用している。(注60)
 レーニンの「不死性」は、のちに、大衆の偶像崇拝感情でもって機能する、きわめて世俗的な政治目的のために利用された。しかし、多数のボルシェヴィキ党員が自分たちの指導者を超自然的存在で、人間を救うために派遣された現代の神だ、と純粋に見なすに至ったことは、疑い得ない。(脚注2)
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 (脚注2) レーニン崇拝(cult)の発展は、Nina Tumarkin, Lenin Lives(Cambridge, Mass., 1983)の主題だ。
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 (13) ボルシェヴィキは、Fannie Kaplan のレーニン暗殺未遂まで、レーニンに関してさほど語ろうとはしなかった。
 個人的な振る舞いとしては、政治的指導者に通常示されるもの以上の敬意をもって、彼に接した。
 Sukhanov は、レーニンが権力を掌握する前の1917年にすでに、彼の支持者たちが、「聖杯(Holy Grail)の騎士」に対するような「全く異例の忠誠心」をレーニンに対して示しているのに、衝撃を受けた。(注61)
 レーニンの評判は、その成功ごとに高まっていた。
 1918年にすでに、教養が高く、ボルシェヴィキの幹部たちの中でも分別があったLunacharsky は、レーニンについて、彼自身のものではなく「人類」のものだった、と思い出した。(注62)
 カルトの始まりを初期に暗示するものは、他にもあった。そして、まだ神格化の過程が進行していなかったとしても、それはレーニンが止めさせたからだった。
 レーニンは、帝制時代の法令を彼の名前で施行しようとしたソヴィエト官僚を止めて、支配者を汚辱するものとして罰した。(注63)
 彼の独特の虚栄心は、運動の中へと跡形もなく溶け込んでいた。すなわち、「個人崇拝」を発生させることなく、成功によって虚栄心を満足させていた。
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 (14) レーニンは、個人的な欲求については、きわめて穏健だった。生活区画、食事、衣服類は、全く実用的だった。
 より優れたものを求めるロシアの知識人の中でそれらに全く無関心であることで極端に位置し、権力の最高地点にいたときですら、質素で、ほとんど修道士的な生活様式を好んだ。
 レーニンは、「いつも灰色のスーツを身につけ、脚の長さには少し短すぎる、管のようなズボンを穿き、同様に簡素な単列ボタンの外套をもつほか、柔らかい白カラー、古いネクタイを身につけていた。私が見たところ、ネクタイは数年間同じものだった。それは小さな白い花が付いた黒色のもので、一つの独特の染みが摩耗を示していた。」(注64)
 のちの多数の独裁者が模倣したこのような簡素さは、しかし、個人崇拝の発生を妨げるものではなかった。むしろ、たぶんそれを促進した。
 レーニンは、最初の近代的な「大衆的」(demotic)指導者だった。そのような指導者は、大衆を支配しつつ、外見や表向きの生活様式では、大衆の中の一人にとどまった。
 このことは、今日的な独裁制の特徴として注目されてきた。
 「近代絶対制では、多数のかつての専政者たちがそうだったようには、自分自身と臣民の間の『違い』によって区別される、ということがない。反対に、全員が共通して持つものを具現化した存在のようなものだ。
 20世紀の専政者は『民衆のスター』であり、その個人的な性格はどうでもよい…」。(注65)
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 (15) 1917年と1918年の最初の8ヶ月間に出版されたレーニンに関する文献は、驚くべきほどに少ない。(注66)
 1917年に書かれたもののほとんどは、彼の対立者によるものだった。そして、そのような敵対的文献はボルシェヴィキが検閲して刊行を停止させたけれども、ボルシェヴィキ党自身は、自分たちの指導者に関してほとんど何も書かなかった。レーニンは、急進的知識人の界隈の外では、ほとんど知られていなかった。
 レーニン主義者による聖人伝執筆の水門を開いたのは、Fannie Kaplan による狙撃だった。
 1918年9月3-4日にすでに、トロツキーとカーメネフが書いたレーニンを讃える書物が出版され、第一版で100万部が頒布された。(注67)
 同じ頃のジノヴィエフによる賛美の書物は、20万部が印刷された。簡単な大衆向けの伝記は、30万部が売れた。
 Bonch-Bruevich によると、レーニンは、回復するとすぐに、こうした大量の出版物の流出を終わらせた。但し、彼の50歳の誕生日と内戦の終結に関連させて、1920年には、より控えめな程度でだが、再開することを認めた。
 しかし、レーニンの健康の悪化によって政治への積極的な関与を止めることを強いられた1923年までに、レーニン主義者による聖人伝の発行は一つの産業になり、数千人を雇用した。革命前の宗教的イコン(聖像)の絵画作りと同様だった。
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 (16) こうした文献は、今日の読者には奇妙な印象を与える。ボルシェヴィキが別の生活面では影響力をもとうとした粗暴な言葉遣いとは全く対照的に、情緒的、感傷的で崇拝心に充ちた調子で書かれているからだ。
 十字架から降ろされ、復活するというキリストに似た表象を、敵に対する「容赦なき闘い」という主題と調和させるのは、困難だ。
 こうして、「ブルジョアジー」を麦藁を食うにふさわしいと嘲笑していたジノヴィエフは、一方ではレーニンを、「世界共産主義の伝道者」、「神の恩寵による指導者」と叙述することができた。これは、Mark Antony がCaesar の葬礼の式辞で彼を「天空の神」と礼賛したのと同じようだった。(注69)
 他の共産主義者たちは、このような修辞的誇張をすら上回った。ある詩人はレーニンを、「中傷のイバラを冠した、無敵の平和の伝導者」と呼んだ。
 このような新しいキリストへの引喩は、1918年遅くのソヴィエトの出版物ではよくあることだった。当局はこれらの出版物を、一方では数千人の単位で人質を殺戮しながら、大量に配布した。(注70)
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 (17) もちろん、ソヴィエト指導者の公式の神聖視があったのではない。だが、公的な出版物や声明によって彼に帰属するとされた性質—全知、無謬、事実上の不死性—は、レーニンの神聖視に他ならなかった。
 「天才へのカルト」は、ソヴィエト・ロシアではレーニンに関してさらに進んだ(のちのスターリンについては言うまでもない)。これは、レーニンが原型を提供した、のちのムッソリーニやヒトラーに対する崇敬を上回るものだった。
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 ③につづく。

2950/R.Pipes1990年著—第18章⑩。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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 第五節/レーニン暗殺未遂②。
 (10) 尋問のあと、Kaplan は短いあいだLubianka の地下室に勾留された。その部屋は、共犯の容疑でその夜遅くにチェカに逮捕されたBruce Lockhart が勾引されたのと同じ部屋だった。
 彼は、こう書く。
 「(8月31日の)朝6時に、一人の女性が部屋に送り込まれた。
 彼女は黒い衣服だった。髪は黒く、じっと凝視する眼の下には大きい黒いリングがあった。
 顔には色がなかった。強くユダヤ人系の特徴は、魅力的でなかった。
 年齢は20歳と35歳のあいだのどれかだっただろう。
 我々はこれがKaplan だと思った。
 ボルシェヴィキは疑いなく、彼女が我々に知っているという何らかの合図を送るのを期待していた。
 彼女の落ち着きぶりは不自然だった。
 窓へ向かって行き、手の上に顎を乗せて、外に日光を見ていた。
 そこにとどまり。動くことなく、話すことなく、明らかに運命を諦めていた。そして、番兵がやって来て、彼女を連れ去った。」(注57)
 彼女は、Lubianka からクレムリンの地下室の一つに移動させられた。そこは、たいていの重要な政治的犯罪者が監禁されていた場所で、生きて出た者はほとんどいなかった。
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 (11) そのあいだに、医師たちの一団がレーニンを診察した。彼は生と死のあいだを彷徨っていたが、医師たちがボルシェヴィキ党員だと確認するほどに、意識の状態を回復していた。
 血液が肺の一つに入ってはいたが、体調の回復の見込みはあった。
 レーニンの献身的な秘書のBonch-Bruevich は見守っていて、宗教的光景が浮かんだ。その光景は「突然に、聖職者、司教、金持ちに虐待されたあとで、十字架から降ろされるキリストを描いたヨーロッパの有名な絵を、私に思い出させた。…」。
 このような宗教的連想はすみやかに、レーニン崇拝(Lenin cult)の分かち難い要素になった。奇跡的な生存の物語とともに始まった。
 崇拝の気分は、ブハーリンを編集長とする〈Pravda〉9月1日付の畏敬に満ちた叙述で明らかだった。レーニンは、「世界革命の天才、プロレタリアートの世界的大運動の心と頭脳」、「世界の無比の指導者」、その分析力によって「ほとんど預言者的な予見する能力をもつ」人物だった。
 Kaplan の襲撃のあとただちに起きたことについて、現実離れした記事が書かれるにまで至った。Kaplan は、現代のCharlotte Corday—Marat の暗殺者—として、嘲弄された。
 「二度射撃され、肺を貫通され、大出血をしたレーニンは、助けを拒み、自分で進む。
 生命の危険がまだあった翌朝に、彼は新聞を読み、聴き、知り、観察する。そして、我々を世界革命へと導く車のエンジンが休まず動いているのを見る。」
 このような表象は、確実な死を免れた者の神聖さを信じるロシアの大衆に訴えかけることを意図して、用いられた。
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 (12) 8月31日付の〈Izvestia〉の第一面にSverdlov の署名付きで掲載された公式の発表は、断固として非キリスト教的な調子だった。
 この発表記事は、当局は「ここにも右翼エスエルの、…イギリスやフランスの雇われ者の指紋が発見されるだろうことを、疑っていない」と何の証拠も示すことなく、主張した。
 こうした非難は、8月30日午後10時40分の日時付きの文書で行なわれた。この時刻は、Kaplan が最初の尋問を受ける1時間ほど前だった。
 その記事は、こうつづく。
 「我々は全ての同志に対して、完璧な静穏さを維持すること、反革命分子との闘争を強化することを呼びかける。
 労働者階級は、諸力をさらに強固にし、革命の全ての敵に対する容赦なき大量テロルでもって、指導者に対する襲撃に反応するだろう。」
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 (13) その後の数週間、ボルシェヴィキのプレス(非ボルシェヴィキのプレスはこの頃までに禁止されていた)は、同様の奨励と威嚇で溢れた。しかし、驚くべきことに、殺害計画についてもレーニンの健康の実際の状態についても、ほとんど情報が提供されなかった。素人が理解できない、定期的な医療小記事は別として。
 こうした資料を読んで得る印象は、ボルシェヴィキは意識的に、レーニンに対して起きたことは全てしっかりと統制されていると公衆を納得させるよう、事件を控えめに報じた、というものだ。
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 (14) 9月3日、クレムリンの司令官、P. Malkov という名の元海兵は、チェカに呼び出され、チェカはFannie Kaplan に死刑宣告をした、と告げられた。
 彼は、ただちに判決を実行するものとされた。
 Malkov が叙述するように、彼は怯んだ。「人間を、とくに女性を、射殺するのは容易でない」。
 彼は、遺体の処理について尋ねた。
 Sverdlov に相談するように言われた。
 Sverdlov は、Kaplan は埋葬されない、と言った。
 「彼女の遺体は、跡形もなく破壊される」。
 Malkov は、処刑の場所として、クレムリンの大宮殿に隣接し、軍用車両の駐車場として使われている狭い中庭を選んだ。
 「私は自動車戦闘部隊の司令官に、囲い地から数台のトラックを動かすこと、エンジンをかけておくこと、を命令した。
 また、乗用車を見えない裏小路に移して門に向かわせるようにも、命令した。
 誰も立ち入らせないよう命じた二人のラトヴィア人兵士を門に配置し、私はKaplan を迎えに行った。
数分後、彼女を中庭に連れ出していた。…
 『車の中へ!』、私は鋭い口調で命令した。
 私は、袋小路の端にある自動車を指し示した。
 肩を発作的に捻らせて、Fannie Kaplan は一歩を踏み出した。ついで、第二歩…。
 私は、拳銃を持ち上げた。…」(脚注)
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 (脚注) P. Malkov, Zapiski komendanta Moskovskogo Kreml ia(Moscow, 1959), p.159-p.161. 1961年に出版された第2版では、この部分は削除されている。第2版では、Malkov はたんにつぎのように言わされた、になっている(p.162)。「私はKaplan に、以前から用意されていた車に入るよう命じた」。処刑に関する短い発表が、9月4日の〈Izvest iia〉(No.190/454, p.1)に掲載された。
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 (15) こうして、ロシアのCharlotte Corday と蔑まれた若い女性は、死んだ。見せかけの裁判手続すらなく、背後から撃たれた。悲鳴をかき消すように、トラックのエンジンは大きな音を出していた。死体は、生ゴミのように処分された。
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 第五節、終わり。

2949/R.Pipes1990年著—第18章⑨。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。 
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 第五節/レーニン暗殺未遂①。
 (01) ロシア皇帝ならば、いかに過激なテロリズムのもとでも、レーニンほどには生命の危険を怖れなかった。また、皇帝は、レーニンほどには十分に警護されなかった。
 皇帝たちは、ロシアや外国を旅行した。彼らは公的行事を楽しみ、姿を現わした。
 レーニンは、四六時中ラトヴィア人ライフル部隊に警護されて、クレムリンの煉瓦の壁の中に隠れていた。
 ときに市内へ行くとき、通常は事前の告知はなかった。
 1918年3月に首都がモスクワに移動したときと1924年の彼の死のあいだ、レーニンは、革命の勝利の舞台だったペテログラードをわずか二回しか再訪せず、国を見たり民衆と交流したりするためには一度も旅行しなかった。
 彼が最も遠くまで出かけたのは、モスクワの近くの村のGorki で静養するためにRolls-Royce で旅したときだった。静養したGorki の場所は、レーニンが使うために徴発されていた。
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 (02) トロツキーは、より大胆だった。司令官に話すためにしょっちゅう前線へ行き、暗殺の企てを空振りさせるために頻繁に予定と日程を変更した。
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 (03) 1918年9月以前は、レーニンやトロツキーの生命を狙う深刻な暗殺の企ては行なわれなかった。それ自体が秀れたテロリストの党であるエスエルが、ボルシェヴィキに対する積極的な抵抗に反対していたからだ。
 エスエルが皇帝やその官僚層に対抗して用いた手段に訴えようとしなかったことは、二つの考慮に由来していた。
 第一は、エスエル指導部が、時勢は自分たちの側にあり、じっと耐えて、ロシアに民主主義が復活するのを待つことが肝心だ、と考えたことだ。
 彼らの見方によれば、ボルシェヴィキの指導者を殺害することは確実に、反革命の勝利につながる。
 第二は、ボルシェヴィキによる報復と大虐殺を恐れたことだ。
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 (04) 全てのエスエル党員がこの考え方だったのではなかった。
 党中央委員会の是認を得てまたは得ないで、ボルシェヴィキに対抗して武器を取る気持ちの者もいた。
 1918年の夏、モスクワのチェカのまさに鼻先で、このようなグループの一つが形成され始めた。
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 (05) モスクワの様々な場所で、金曜日の午後か夕方に、労働者や党員に向けて演説を行なうのは、レーニンを含むボルシェヴィキの指導者たちの習慣だった。
 レーニンが登場することは、通常は事前には発表されなかった。
 8月30日、金曜日、レーニンは、二つの集会に出席する予定だった。一つは、Basmannyi 地区の穀物日用品販売所の建物で、もう一つは、市の南部にあるMichelson 工場で。
 その日の早くに、ペテログラード・チェカの主任、M. S. Uritskii が射殺された、という報せが届いた。
 暗殺者はユダヤ人の青年のL. A. Kannegisser で、穏健な人民社会党の党員だった。
 のちに、彼は友人の処刑に復讐するために自分で行動した、ということが明らかにされた。
 しかし、そのときは知らされず、おそらくはテロリストの組織的行動が進行している、という恐怖が巻き起こった。
 憂慮した家族がレーニンに出席を控えるよう迫ったが、彼はいつもと違って、危険に向き合うことを選んで、信頼する運転手のS. K. Gil が運転する車で市内へ向かった。
 彼はまず、穀物日用品販売所に現われ、そこからMichelson 工場へと進んだ。
 聴衆は半分はレーニンを期待していたけれども、彼が来るのが確実になったのは、自動車が中庭に入ってきたときだった。
 レーニンは、西側の「帝国主義者たち」を攻撃するいつもの用意された演説を行なった。
 彼は、「死ぬか勝利するかだ」という言葉で結んだ。
 Gil がのちにチェカに語ったところによると、レーニンが演説しているあいだ、白い服を着た女性がやって来て、レーニンは内部にいるのかと尋ねた。
 彼は、捉え難い曖昧な返事をした。
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 (06) レーニンが密になった群衆を抜けて出口に向かっていたとき、彼のすぐ後ろの誰かが滑って倒れて、群衆を塞いだ。
 レーニンは、数人を従えて、中庭に入った、
 まさに車に乗ろうとしたとき、一人の女性が接近して、パンが鉄道駅で没収されたと不満を言った。
 レーニンは、パンに関するその実務を止めるよう指示がなされている、と言った。
 動いている踏み板に足を乗せたとき、三発の射撃音が響きわたった。
 Gil は、振り向いた。
 彼は、数歩離れた場所から銃撃した人物がレーニンについて調べていた女性だと認識した。
 レーニンは、地上に倒れた。
 パニックに襲われた見物者たちは、四方に逃げ去った。
 Gil は、回転銃を取り出して、暗殺者を追って走った。だが、彼女を見失った。
 中庭に残っていた子どもたちは、彼女が逃げ去った方向指し示した。
 数人だけが、彼女を追っていた。
 彼女は走りつづけたが、突然に立ち止まり、追跡者に対して顔を向けた。
 逮捕され、Lubianka のチェカ本部に連れていかれた。
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 (07) レーニンは意識のない状態で車の中に運び込まれ、車は最高の速さでクレムリンへと急いだ。
 医師が、呼ばれた。
 そのときまで、レーニンは、ほとんど動くことができなかった。
 彼の心拍は微かになり、大量の血を流していた。
 レーニンは、死にかけているように見えた。
 医師の検査によって、二カ所の傷が明らかになった。一発の銃弾は比較的に無害で、腕の中にとどまっていた。もう一発は潜在的に致命的で、顎と首の連結部にあった。
 (のちに知られたが、第三の銃弾はレーニンが狙撃されたときに彼と会話していた女性に当たっていた。)
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 (08) つづく数時間、テロリストはチェカの機関員によって5つの尋問を受けていた。(脚注1)
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 (脚注1) これらの尋問の調書は、PR, No.6-7(1923年)p.282-5 に公表された。Peters によると、何を意味しているのであれ、主要な尋問者、現存する事件の記録は「きわめて不完全」だった。〈Izvestiia〉, No.194/1, 931(1923年8月30日), p.1.
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 彼女はほとんど口を開かなかった。
 名前は、Fannie Efimofvna Kaplan。生まれ名は、Feiga Roidman またはRoitblat。
 父親は、ウクライナで教師をしていた。
 少女のときにアナキストに加わっていたことが、のちに知られた。
 アナキストがKiev の知事を殺害するために彼女の部屋で組み立てていた爆弾が爆発したとき、16歳だった。
 野戦軍事法廷は彼女に死刑判決を下し、そのあと無期の重労働刑に変更した。この判決に、彼女はシベリアで服した。
 そこでSpiridonova その他の確信あるテロリストと遭遇し、彼らの影響を受けて、エスエルに加入した。
 1917年の早くに、政治的恩赦を受けて、中央ロシアに戻った。最初はウクライナ、あとでクリミアに住んだ。。それまでに、彼女の家族はアメリカ合衆国に亡命していた。
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 (09) 宣誓供述書によると、彼女は、1918年2月に、立憲会議の解散と接近しているブレスト=リトフスク条約の締結に報復するために、レーニンを暗殺することを決めた。
 だが、レーニンに対する反感は、もっと深い所にあった。彼女は、チェカにこう言った。
 「レーニンは裏切り者だと考えているので、射撃した。
 彼は、数十年で実現するはずの社会主義の考えを延期した。」
 さらに、こうも言った。どの政党にも帰属していないが、Samaraの立憲会議委員会に共鳴する、Chernov が好きで、ドイツに対抗するイギリスとフランスの同盟に賛成だ。
 彼女は、仲間の存在を一貫して否定し、誰から銃砲を与えられたかを言うのを拒んだ。(脚注2)
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 (脚注2) その銃、Browning 銃は、犯罪の場所から消失した。1918年9月1日に〈Izvestiia〉(No.188/452, p.3)は、この銃の存在場所に関する情報を求めるチェカの声明を掲載した。
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 ②へ。

2948/R.Pipes1990年著—第18章⑧。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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 第四節/チェカと司法人民委員部の対立②。
 (07) モスクワとペテログラードでは、左翼エスエルとの取決めにより、チェカは政治的犯罪者の処刑を行なうことができなかった。
 左翼エスエルがチェカの中で活動しているあいだは—つまり1918年7月6日までは—、上の両都市のいずれでも、正規の政治的処刑は起こらなかった。
 2月22日布令の最初の犠牲者は、「Eboli 皇子」という偽名でチェキストを装った通常の犯罪者だった(注54)。
 しかしながら、諸州では、チェカ機関はこのような制約に拘束されず、政治的犯罪を理由として市民を決まり事のように(routinely)処刑した。
 例えば、メンシェヴィキのGrig orii Aronson は、つぎのことを思い出す。1918年の春に、Vitebsk のチェカは、労働者全権代表者会議のポスターを配布した責任を追及して、2人の労働者を逮捕し、処刑した(脚注)
 どれだけ多くの者たちがこのような恣意的な処刑の犠牲になったかは、おそらく明らかにならないだろう。
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 (脚注) Grig orii Aronson, Na zare krasnogo terrora(Berlin, 1929), p.32. ゆえに、G. Leggett がLatis に従って、1918年7月6日まではチェカは犯罪者だけを処刑し、政治的反対者を免じていた、と語るのは、正しくない。Leggett, The Cheka: Lenin’s Political Police(Oxford, 1986), p.58.
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 (08) 帝制期の保安制度の憲兵隊を見習って、チェカは武装部隊を設置した。
 その統制下にある最初の軍事部隊は、小さなフィンランド人派遣団だった。
 他の部隊が追加されて、1918年4月に、チェカには6つの歩兵団、50の騎兵団、80の自転車団、60の機銃砲団、40の砲兵団、および3台の武装車があった(注55)。
 チェカが行なったおそらく唯一の民衆のための行動を1918年4月に実行したのは、これらの分隊だった。その行動とは、住居用の建物を占拠し、民間人にテロルを加えていたアナキストの蛮族である「黒衛団」(Black Guards)をモスクワで武装解除した、というものだった。
 基礎的なな軍事力の獲得は、政治警察が国家の内部の事実上の国家に膨張していく第一歩にすぎなかった。
 1918年6月のチェキストのある会合では、正規のチェカ軍団を設置する、あるいはチェカに鉄道および国境の安全を確保する権限を付与する、といったことが語られた(注56)。
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 (09) 設立後の最初の数ヶ月にチェカは種々の努力を行なったが、大きな部分は通常の商業活動と闘うことにまで及んだ。
 小麦粉袋の販売のような、最も日常的な小売取引業務が今や「投機」の中に分類され、チェカの任務には投機に対する闘いが含まれた。そのために、チェカの組織員は多くの時間を農民の「運び屋」を追跡することに費やした。鉄道の乗客の荷物を検査したり、闇市場を手入れしたりした。
 「経済犯罪」にかなり没頭したことで、1918年春には出現し始めていた、より危険な反政府陰謀に目を光らし続けることが妨げられた。
 この分野での1918年前半の唯一の成果は、Savinkov の組織のモスクワ本部を暴いたことだった。
 しかし、これは偶発的な出来事だった。そして、いずれにせよ、チェカは、Savinkov の祖国と自由を防衛する同盟に浸透することができなかった。これは結果として、7月にIarosravl 蜂起が起きてチェカを突然に驚かせることにつながった。
 さらに驚愕だったのは、左翼エスエルの反乱計画を知らなかったことだった。左翼エスエルの指導者たちがその意図をほとんど漏らさなかったのだとしても。
 事態をさらに悪くしたことに、左翼エスエルの陰謀はチェカ本部の内部で密かに企てられ、チェカの武装部隊に支持されていた。
 この大失態によって、Dzerzhinskii は7月8日に、その職を辞することを強いられた。Peters が暫定的に引き継いだ。
 8月22日、Dzerzhinskii は復職した。その日はまさに、もう一度屈辱的な苦難を味わう日だった。すなわち、レーニンの生命を狙うテロリストの企てがほとんど成功するのを阻止できなかったこと。
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 第四節、終わり。

2947/R.Pipes1990年著—第18章⑦。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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 第四節/チェカと司法人民委員部の対立①。
 (01) 元来の使命に制約されつつも、チェカは、政治的に望ましくない者を処断する無制限の自由を追求した。
 これによって、司法人民委員部と衝突することになる。
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 (02) 設立された最初から、チェカは、それ自体の権限にもとづき、「反革命」や「投機」を行なっている疑いのある者たちを逮捕した。
 犯罪者は、警護つきで、Smolnyi へと送られた。
 この手続に、司法人民委員のSteinberg は満足できなかった。この人物は、正義のタルムード的(Talmudic)観念に関する博士論文でドイツで学位を得たユダヤ人法律家だった。
 〔1917年〕12月15日、彼は、司法人民委員部の事前の承認がある場合を除き、逮捕された市民をSmolnyi か革命審判所のいずれかに送るのを禁止する決定を行なった。
 チェカに拘禁されている犯罪者は、釈放されるものとされた(注44)。
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 (03) レーニンによる後援があるとの自信があったようで、Dzerzhinskii は、この指令を無視した。
 12月19日、彼は、立憲会議防衛同盟の一員を逮捕した。
 Dzerzhinskii のこの行為を知るとすぐに、Steinberg はこれを取消し、犯罪者の釈放を命じた。
 この係争は、その日の夕方にあったソヴナルコムの会議の議題になった。
 内閣はDzerzhinskii の側に立ち、チェカの犯罪者を釈放したとしてSteinberg を非難した。
 しかし、Steinberg はこの敗北に怯むことなく、ソヴナルコムに対して司法人民委員部とチェカの関係を調整するよう求め、「司法人民委員部の権能について」と題する企画案を提出した(注46)。
 この文書は、司法人民委員部の事前の裁可なくしてチェカが政治的な逮捕を行なうことを禁止していた。
 レーニンと内閣の残りの閣僚たちは、Steinberg の提案を是認した。ボルシェヴィキは、この時期に左翼エスエルと争論するのを望まなかったからだ。
 採択された決議は、「顕著に政治的重要性をもつ」者の逮捕に関する全ての命令には司法人民委員部の副署が付いていること、を要求した。
 おそらくは、チェカはその固有の権限にもとづいて、通常の逮捕は行なうことはできた。
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 (04) しかし、この限定された譲歩ですら、ほとんど直ちに撤回された。
 二日のち、たぶんDzerdhinskii の不服に応えて、ソヴナルコムは全く異なる決議を採択した。
 その決議は、チェカが調査機関であることを確認しつつ、司法人民委員部その他の全ての機関に対して、重要な政治的人物を逮捕する権限を妨害しないよう言いつけた。
 チェカには、事後に司法人民委員部と内務人民委員部に知らせる必要だけがあった。
 レーニンは、すでに逮捕されている者は法廷に引き渡されるか釈放される、という条件を追加した(注47)。
 その翌日、チェカは、ペテログラードで事務職被用者のストライキを指揮していた中心部を逮捕した(注48)。
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 (05) 左翼エスエルは、1917年12月に締結されたボルシェヴィキとの協定の一部として、役員会(Collegium)として知られるチェカを運営する委員会に、代表者を出す権利をもった。
 チェカを100パーセント・ボルシェヴィキの機関とするというボルシェヴィキの意図からすると、この譲歩はそれに逆行していたが、レーニンは、Dzerzhinskii の反対を遮ってこれに同意した。
 ソヴナルコムは左翼エスエルをチェカの副長官に任命し、役員会にこの党の数人を加えた(49)。
 左翼エスエルはさらに、役員会の全員一致の同意がある場合を除いてチェカは死刑を執行しない、役員会は死刑判決に対する拒否権をもつ、という原則を受け入れさせた。
 1918年1月31日、ソヴナルコムは、発表されなかった決定で、チェカはもっぱら調査に関する任務をもつ、ということを確認した。
 「チェカは、その任務を、諜報活動全般、犯罪の抑圧と防止に集中させる。全ての調査につづく行為や事案の法廷への提示は、革命審判所の調査委員会に委ねられる。」(注50)
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 (06) チェカに対するこうした制限は、一ヶ月後に「社会主義祖国の危機!」という布令によって放棄された(注51)。
 この文書は、誰が反革命者や新しい国家に対するその他の敵を「その場で射殺する」かについて、述べていなかった。だが、この責任がチェカに譲り渡されたことに疑いはあり得なかった。
 チェカはその翌日に、「反革命者」はその場で容赦なく殺戮される、ということを民衆に警告したものだ、と確認した(注52)。
 その日、2月23日に、Dzerzhinskii は地方ソヴェトに対して電信で、反体制「陰謀」が広がっていることにかんがみ、ただちに自分たち自身のチェカを設置し、「反革命者」を逮捕し、勾引したどこででも処刑する、という途を進むよう助言した(注53)。
 上の布令はこのようにしてチェカを、公式にかつ永続的に、調査機関から完全に自立したテロルの機構へと変質させた。
 この変質は、レーニンの同意でもって、行なわれた。
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 ②へとつづく。

2945/R.Pipes1990年著—第18章⑤。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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 第二節/法の廃棄②。
 (07) まずメンシェヴィキとエスエル、ついで左翼エスエルへと、他政党をソヴィエトの組織から追放することによって、革命審判所は公共の裁判所の外装をわずかにまとったボルシェヴィキの審判所に変わった。
 1918年に、革命審判所の職員の90パーセントはボルシェヴィキの党員だった(注25)。
 革命審判所の判事に任命されるためには、読み書きできる能力以外の形式的な資格は必要でなかった。
 当時の統計によると、この審判所の判事の60パーセントは、中等教育以下の教育しか受けていなかった(注26)。
 しかしながら、Steinberg は、最も酷い犯罪者の何人かは教育を十分に受けていないプロレタリアではなく、審判所を個人的な復讐のために利用する、あるいは被告人の家族から賄賂を受け取ることを躊躇しない、そういう知識人だった、と書いている(注27)。
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 (08) ボルシェヴィキの支配のもとで生きる人々は、歴史的な先例のない状況にあった。
 通常の犯罪や国家に対する犯罪のために、法廷はあった。しかし、法廷の指針となる法がなかった。
 どこにも明確に定められていない犯罪に関する職業的資格のない判事たちによって、市民は判決を受けた。
 西側の司法を伝統的に指導してきた「法なくして犯罪はない」(nullum crime n sine lege)や「法なくして制裁はない」(nulla poe na sine lege)の原則は、役に立たない銃弾と同じように捨てられた。
 当時の人々には、こうした状況はきわめて異様に映った。
 ある観察者は1918年4月にこう書いた。これまでの5ヶ月間、略奪、強盗、殺人の罪では誰も判決を受けなかった。処刑する部隊とリンチする群衆はいた、と。
 彼は、昔の法廷は休みなく仕事をしなければならなかったのに、犯罪はどこに消えたのだろうと不思議がった(注28)。
 答えはもちろん、ロシアは法のない社会に変質した、ということだった。
 1918年4月に、作家のLeonid Andreevは、平均的市民にとってこれが何を意味するかをこう叙述した。
 「我々は異様な状況な中で生きている。カビやきのこを研究している生物学者はまだ理解できるかもしれないが、社会心理学者には受け入れられない。
 法はなく、権威もない。社会秩序全体が、無防備だ。…
 誰が我々を守るのか?
 なぜ、まだ生きているのか。強奪もされず、家から追い出されることもなく。
 かつてあった権威はなくなった。見知らぬ赤衛隊の一団が鉄道駅の近くを占拠し、射撃を練習し、…食糧と武器の探索を実行し、市への旅行の『許可証』を発行している。
 電話も、電報もない。
 誰が我々を守るのか?
 理性の何が残っているのか? 成算を誰も我々に教えてくれない。…
 やっと、若干の人間的な経験。単純な、無意識の習慣だ。
 道路の右側を歩くこと。出会った誰かに『こんにちは』と言うこと。その他人のではなく自分の帽子を少し持ち上げること。
 音楽は長らく止まったままだ。そして我々は、踊り子のように、脚を動かし、聞こえない法の旋律に向かって揺らす。」(注29)
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 (09) レーニンが失望したことに、革命審判所はテロルの道具にはならなかった。
 判事たちは気乗りしないで働き、穏やかな判決を下した。
 ある新聞は1918年4月に、判事たちは少しの新聞を閉刊させ、少しの「ブルジョア」に判決を下しただけだった、と記した(注30)。
 権限を与えられたあとでも、死刑判決を下す気があまりなかった。
 公式の赤色テロルが始まった1918年のあいだ、革命審判所は、4483人の被告人を審判し、その三分の一に重労働を、別の三分の一に罰金を課した。わずか14人が死刑判決を受けた(注31)。
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 (10) このような状態を、レーニンは意図していなかった。
 やがてほとんど全員がボルシェヴィキの党員になった判事たちは、極刑を下すよう迫られ、そうする広い裁量が認められた。
 審判所は1920年3月に、「前審段階での審問で証言が明確な場合は証人を召喚して尋問することを拒む権限、また、事案の諸事情が適切に明瞭になっていると決定した場合にはいつでも司法手続を中止する権限、を与えられた」。
 「審判所には、原告や被告が出頭して弁論する権利を行使するのを拒む権限があった」(注32)。
 こうした措置によって、ロシアの司法手続は、17世紀の実務へと後戻りした。
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 (11) しかし、このように流れが定められても、革命審判所はきわめて遅く鈍重だったので、「いかなる法にも制約されない」支配を追求するレーニンを満足させなかった。
 その結果として、レーニンはいっそう、チェカを信頼するようになった。彼はチェカに、きわめて不十分な手続ですら順守することなく、殺害する免許状を交付した。
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 第二節、終わり。

2944/R.Pipes1990年著—第18章④。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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 第二節/法の廃棄①。
 (01) ソヴィエト・ロシアへの大量テロルの導入の最初の一歩は、全ての法による制約の—実際には法それ自体の—廃止と、法を革命的良心と呼ばれるものに置き換えること、だった。
 このようなことは、他のどこでも起きたことがなかった。ソヴィエト・ロシアは、歴史上初めて、公式に法を法でなくした(outlaw)国家だった。
 この措置によって、国家当局は嫌悪する者を自由に処分できるようになり、対抗者たちに対する組織的大虐殺(pogroms)が正当化された。
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 (02) レーニンは、権力を握る前からずっと、これを構想してきた。
 彼は、パリ・コミューンの致命的な過ちの一つはフランスの法的制度を廃止できなかったことだ、と考えた。
 この過ちを、彼は回避しようとした。
 1918年後半に、プロレタリアート独裁を、「いかなる法にも制約されない支配」と定義した(注15)。
 彼は、法や法廷を、マルクス主義の流儀で、支配階級がその利益を拡大するための道具だと見なした。「ブルジョア」社会では、公平な司法という偽装のもとで、法は私有財産を守護するために役立つ。
 こうした見方は、1918年早くに、のちに司法人民委員になるN. V. Krylenko によって明確に述べられた。
 「法廷は、階級を超越する、社会の階級構造、闘争している集団の階級的利益、支配階級の階級的イデオロギー、そうしたものの本質的部分から独立した、何らかの特別の『正義』を実現することを任務とする装置だ、と主張するのは、ブルジョア社会の最も広がっている詭弁だ。…
 『法廷を正義で支配させよ』—これよりも酷い、現実についての誤魔化しを思い浮かべることはできない。…
 他にも、多数のこのような詭弁を引用することができる。すなわち、法廷は『法』の守護者だ。『政府当局』のように『人格』の調和ある発展を確保するという高次の任務を追求している。…
 ブルジョア的『法』、ブルジョア的『正義』、ブルジョア的『人格』の『調和ある発展』という利益。…
 生きている現実の単純な言語へと翻訳すれば、これが意味するのは、とりわけ、私有財産の護持だ。…」(注16) 
 Krylenko は、このような前提から、私有財産の消滅は自動的に法の消滅をもたらすだろう、社会主義はこうして、犯罪を生む心理的情動を「萌芽のうちに破壊する」だろう、と結論する。
 この見方によれば、法は犯罪を防止するものではなく、犯罪の原因だ。
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 (03) もちろん、完全な社会主義へと移行するあいだ、何らかの司法制度は残ったままだろう。しかし、偽善的な正義という目的ではなく、階級闘争という目的に奉仕するこになる。
 レーニンは、1918年3月にこう書いた。
 「我々には国家が必要だ。強制が必要だ。
 この強制を実現するプロレタリア国家の機関が、ソヴィエトの法廷であるべきだ。」(注17)
 この彼の言葉に忠実に、レーニンは権力を握ったすぐあとに、ペンによる署名を通じて、1864年以降に発展してきたロシアの法的制度全体を廃絶させた。
 彼はこれを、Sovnarkom(人民委員会議=ほぼ内閣)での長い討議のあとで発せられた、1917年11月12日の布令でもって達成した(注18)。
 この布令はまず第一に、ほとんど全ての現存していた法廷を解体させた。上訴のための最高法廷だったthe Senate までも含めて。
 さらに、司法制度に関係する職業を廃止した。行政総裁(the Proculater、司法長官のロシア版)の役所、法的職業、ほとんどの治安判事(justice of the peace)を含めて。
 無傷で残ったのは、些少な犯罪を所管する「地方法廷」(mestnye sudy)だけだった。
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 (04) この布令は、法令全書に載っている法令を明確には無効としなかった。—これは一年後に行なわれた。
 しかし、地方法廷の判事たちに、「打倒された政府の法令にもとづいて決定したり判決を言い渡すのは革命によってそれらが否定されておらず、かつ革命的良心や法的正当性についての革命的感覚と矛盾しない範囲に限られる、と指導される」とする指令を発することによって、同じ効果が生じた。
 この曖昧な定めを明瞭にする修正によって、ソヴィエトの布令のほか「社会民主労働党や社会主義革命党の最小限綱領」と矛盾する法令は無効だと明記された。
 基本的に言えば、犯罪はなおも司法手続に従って処理されたが、罪は、判事(または判事たち)が得た印象によって決定された。
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 (05) 1918年3月、ボルシェヴィキ体制は、地方法廷を廃止し、代わりに人民法廷(People’s Court、narodnye sudy)を設置した。
 この人民法廷は、全ての範疇の市民対市民の犯罪を扱うものとされた。殺人、身体傷害、窃盗、等々。
 この法廷の選任された判事たちは、証拠に関していかなる形式的な事項にも拘束されなかった(注19)。
 1918年11月に発せられた規則は、人民法廷の判事たちが1917年十月以前に制定された法令に言及するのを禁じた。
 さらには、証拠に関する全ての「形式的」規則を遵守する義務を免除した。
 判事たちは評決を出すに際して、ソヴィエトの布令に指導されるものとされたが、それがないときは、「正義に関する社会主義者の感覚」(sotsialistischeskoe pravosoznanie)によった(注20)。
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 (06) 国家とその代表者たちに対する犯罪を私人に対する犯罪と異なって扱うロシアの伝統的な実務に沿って、ボルシェヴィキは同時期に(1917年11月22日)、革命審判所(Revorutionary Tribunals)と称される、フランスの類似の制度を範とした新しい類型の法廷を導入した。
 これは、経済犯罪や「sabotage」を包含する範疇である、「反革命罪」で起訴された者を審理するものとされた(注21)。
 司法人民委員部—当時の長はSteinberg—は、これに指針を与えるべく、1917年12月21日に、追加の指示を発した。これにより、「革命審判所は制裁を課す際に、事案の諸状況と革命的良心が告げるところを指針としなければならない」と明記された。
 「事案の諸状況」をどう決定するのか、何が「革命的良心」なのかは、語られなかった(脚注)
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 (脚注) 革命前のロシア法ですら「善意」や「良心」のような主観的概念でもって機能していた。例えば和解法廷の手続を定める法令は、判事に「(彼らの)良心にしたがって」判決を提示するよう指示していた。同じような定式は、いくつかの刑事手続でも用いられた。帝制時代の法令のスラヴ主義的遺産は、ロシアの指導的な法理論家の一人のLeon Petrazhitskii によって批判されてきた。つぎを見よ。Andrzej Walicki, Legal Philosophies of Russian Liberalism(Oxford, 1987), p.233.
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 したがって、実際には、革命審判所はその設立時から、有罪に関する常識的印象にもとづいて被告人に判決を下す、カンガルー法廷として機能した。
 革命審判所には最初は、死刑判決を下す権限がなかった。
 この状態は、死刑の非公然の導入によって変わった。
 1918年6月16日、<Iavestiia>は、新しい司法人民委員のP. I. Stuchka が署名した「決定」を発表した。こう述べられていた。
 「革命審判所は、法がその制裁「以上の」という言葉を使って措置を定めている場合を除いて、反革命に対する措置を選択するに際していかなる規則にも拘束されない」。
 この複雑な言葉遣いが意味したのは、つぎのことだった。すなわち、革命審判所は自由に、適切と判断すれば犯罪者に死刑判決を下すことができる。但し、政府が死の制裁を命令したときは、そうしなければならない。
 この新しい規則の最初の犠牲者は、Baltic 艦隊のソヴィエト司令官のA. M. Shchastnyi 提督だった。トロツキーがこの人物をその艦隊をドイツに降伏させる陰謀を図ったとして訴追していたのだが、彼の例は、他の将校たちへの教訓として役立った。
 Shchastnyi は、レーニンの命令にもとづき大逆罪の事件を審理するために設置された中央執行委員会の特別革命審判所の審判にかけられ、その判決を受けた(注23)。
 左翼エスエルが死刑判決という嫌悪すべき実務の復活に抗議したとき、Krylenko は、こう答えた。「提督は、『死刑だ』ではなく、『射殺されるべきだ』と宣告されたのだ」。(注24)
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 第二節②へ、つづく。

2942/R.Pipes1990年著—第18章③。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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 第一節/レーニンとテロル③。
 (16) レーニンのJacobin 的確信の根源にあったのは、ボルシェヴィキが権力を維持してさらに拡張させるべきだとすれば、「ブルジョアジー」と烙印される「邪悪な」思想や関心が具現化したものを物理的に廃絶しなければならない、ということだった。
 ボルシェヴィキは「ブルジョアジー」という言葉を大まかに二つの集団のために用いた。第一は、工業上の百万長者であれ余剰の農地をもつ農民であれ、出自や経済上の地位のおかげで「搾取者」として機能している者たち。第二は、経済的または社会的地位とは無関係に、ボルシェヴィキの政策に反対している者たち。
 このようにして、主観的におよび客観的に、その者がもつ見解によって、「ブルジョア」に分類することができる。
 レーニンが、内閣にいた頃についてのSteinberg の回想録に猛烈に怒った、という証言が存在している。
 レーニンは1918年2日21日に、「危機にある社会主義の祖国」と称される布令案を内閣に提出した(注12)。
 これの刺激になったのは、ブレスト=リトフスク条約に署名するというボルシェヴィキの失敗につづくドイツ軍のロシアへの前進だった。
 布令案の文書は、国と革命を防衛するために立ち上がることを人々に訴えていた。
 レーニンはその中に、「その場での」—すなわち裁判手続を経ないでの—処刑を認める条項を挿入した。処刑対象とされたのは、「敵の代理人、投機者、ごろつき、反革命煽動者、ドイツのスパイ」と烙印された、広くて曖昧な悪者の範疇に入る者たちだった。
 レーニンは、布令への民衆の支持を得るために、通常の犯罪者(「投機者、押し込み泥棒、ごろつき」)に対する略式の司法手続を含ませた。民衆が犯罪に苦しんでいたからだが、レーニンの本当の狙いは、「反革命煽動者」と呼ばれる彼の政治的対立者たちだった。
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 (17) 左翼エスエルは、このような措置を批判し、政治的対立者に対する死刑の導入に原理的に反対した。
 Steinberg は、こう書く。
 「私は、この残虐な脅迫は、宣言がもつ哀れみを殺してしまう、として反対した。
 レーニンは嘲弄しつつ、こう答えた。
 『逆に、ここにこそ本当の革命的哀れみがある。
 まさに最も乱暴な革命的テロルなくして我々は勝利できると、きみは本当に考えているのか?』/
 この点でレーニンと議論するのは困難だった。我々はすぐに、行き詰まった。
 我々は、きわめて広い範囲に及ぶテロルの潜在的可能性がある厳格な警察の措置について討論した。
 レーニンは、革命的正義という語を出して私の意見に対して怒った。
 私は憤慨してこう言った。
 『では、我々は何のために司法人民委員部を置いているのか?
  率直に、<社会的絶滅のための>人民委員部と呼ぼう。そして、司法人民委員部はなくしてしまえ!』
 レーニンの顔が突然に輝いて、彼はこう答えた。
 『よし。…それはまさしく行なうべきことだ。…しかし我々は、そう言うことができない』」。(脚注)
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 (脚注) Steinberg, In the Workshop, p.145. Steinberg は間違って、この布令の草案起草者をトロツキーだとしている。
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 (18) レーニンは長い間ずっと赤色テロルを主導し、しばしばより人間的な同僚たちを甘言を用いて誘導しなければならなかったけれども、自分の名前をテロルと切り離そうときわめて大きな努力をした。
 彼は全ての法令に自分の署名を付すことに執拗にこだわった。しかし、国家による暴力行使に関係する場合はいつでも、これを省略した。この場合に彼が好んだのは、(ボルシェヴィキ)中央委員会議長や内務人民委員その他の当局者が行なったとすることだった。そのような当局者の中には、偽って皇帝家族の虐殺の責任を取らせたUral 地方ソヴェトもあった。
 レーニンは、自分が煽動した非人間的な行為が自分の名前と歴史的に結びつけられることを、懸命に避けようとした。
 あるレーニンの伝記作家は、こう書く。
 「彼は、テロルやLubianka 〔チェカ本部が所在する建物/試訳者〕その他の地下室での殺害を行なった個人的行為が自分自身とは切り離されて抽象的にのみ語られるよう、気を配った。…
 レーニンは、自分はテロルから離れていると振る舞い続けたので、彼はテロルに積極的には関与していない、全ての決定はDzerzhinskii によって行なわれた、という伝説が生まれて、大きくなった。
 これは、あり得ない伝説だ。なぜなら、レーニンはその性格上、重要な問題に関する権限を委ねることができない人間だったからだ。」(注13)
 実際に、一般的な手続に関するものであれ重要な収監者の処刑に関することであれ、重要性をおびる全ての決定には、ボルシェヴィキの中央委員会(のちには政治局)の承認が必要だった。レーニンはその中央委員会の、永遠の事実上の議長だった(注14)。
 赤色テロルは、レーニンの子どもだった。父親であることを必死で否定しようとしたのだったとしても。
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 (19) この認知されていない子どもの保護者は、チェカの創設者であり監督者である、Dzerzhinskii だった。
 この人物は、革命勃発時にほとんど40歳になっていた。Vilno の近くで、愛国的なポーランドの地主階層の家庭で生まれた。
 その家庭の宗教的、民族主義的な継承物と決別し、リトアニア社会民主党に加入した。そして、職業的な革命組織家および煽動家になった。
 帝制時代の監獄で重労働をしながら、11年を過ごした。
 これは過酷な年月であり、彼の精神に拭い去ることのできない傷跡を残した。そしてそれは、癒すことのできない復讐への渇望とともに不屈の意思を形成した。
 彼は、考え得る最も残虐な行為を、愉しみではなく理想家の義務として、行なうことができた。
 レーニンの指示を、宗教的献身さをもって、無駄なくかつ素っ気なく、「ブルジョア」や「反革命者」を射撃部隊の前に送って、実行した。その際に、同じく愉しみのない強迫意識があったのだが、それは、数世紀前であれば異端者を火炙りの刑に処すことを命じたような意識状態だっただろう。
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 第一節、終わり。

2940/R.Pipes1990年著—第18章②。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・『赤色テロル』」の試訳のつづき。
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 第一節/レーニンとテロル②。
 (08) トロツキーは、歩調を合わせた。
 1917年12月2日、新しいボルシェヴィキが支配する全国ソヴェト執行委員会(Ispolkom)に向かって、こう語った。
 「プロレタリアートが死にゆく階級を終焉させるときに、不道徳なものは何もない。
 これはプロレタリアートの権利だ。
 君たちは、…我々が階級敵に対して指揮した小さなテロルに憤慨している。
 しかし、注目せよ。遅くとも一ヶ月のうちに、このテロルはもっと恐ろしい形態をとるだろう。フランスの偉大な革命家を模範として。
 我々の敵が直面するのは、監獄ではなく、ギロチン(guillotine)だ。」
 彼はこのときに、ギロチンを(フランスの革命家のJacques Hebert を剽窃して)「人を頭の長さに短くする」道具と定義した。
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 (09) この証拠資料に照らしてみても、赤色テロルについて国内外の反対者によってボルシェヴィキが「強いられた」、「不幸な」政策だったと語るのは馬鹿げている。
 Jacobins にとってもそうだったように、テロルはボルシェヴィキにとって最後に依拠する手段としてではなく、ボルシェヴィキを捉え難い民衆の支持を示すものとして役立った。
 民衆の評判が落ちれば落ちるほど、ボルシェヴィキはいっそうテロルを行使した。1918-19年の秋から冬にかけて、彼らのテロルはかつてない無差別の虐殺のレベルに達するまでになった(脚注1)
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 (脚注1) 1919-20年までに、レーニンは、多数の社会主義者を投獄した。スイスの友人のFritz Platten が彼らは間違いなく反革命者ではないと抗議したとき、レーニンは、こう答えた。「もちろん、違う。…しかし、彼らが誠実(honest)な革命家にすぎないから、というのが、まさに彼らが危険な理由だ。何ができる?」 Isaac Steinberg, In the Workshop of the Revolution(London, 1955), p.177.
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 (10) このような理由で、赤色テロルは、ボルシェヴィキが決まって自己正当化のために言及する、ロシアの反ボルシェヴィキ軍によるいわゆる白色テロルと比較することはできない。また、好んでモデルだと主張した、Jacobin のテロルとも比較することができない。
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 (11) 白軍は実際に、多数のボルシェヴィキとボルシェヴィキ同調者を処刑した。ふつうは略式の方法で、ときどきは残忍な方法で。
 しかし、白軍は、テロルを政策の位置にまで高めなかったし、実行するチェカのような正規の装置を作り出すこともなかった。
 彼らの処刑は原則として、自分たちの責任で行動している野戦将校によって命じられた。そして、赤軍が退避した地域に入ったときに彼らが見た光景に対する、感情的な反応として行なわれた。
 白軍のテロルは、嫌悪すべきものだったが、赤色テロルの場合は通常だったような体系的なものでは決してなかった。
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 (12) 1793-94年のJacobin のテロルは、心理的、哲学的に類似したところがあったにもかかわらず、いくつかの基本的な点で赤色テロルと異なっていた。
 第一に、下から、街頭から、食糧不足に激怒し、代わりの責任者(scapegoats)を探す群衆から、発生した。
 これと対照的に、ボルシェヴィキのテロルは、上から、流血にうんざりしていた民衆に対して課された。
 後述するように、モスクワは、地方ソヴェトを厳しい制裁でもって威嚇して、テロル実行の指令を履行させた。
 1917-18年には多くの自発的な暴力行使が起きたけれども、群衆が社会各層全体の流血を求めた、という証拠資料は存在していない。
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 (13) 第二に、二つのテロルは、継続期間が大きく異なる。
 Jacobin のテロルは、最も短く見て10年間つづいた革命のうち、一年以下の期間内に起きた。したがって、エピソードあるいは「短い幕間」と適切に叙述することができる。
 Jacobin の指導者たちが逮捕されてギロチン台に送られたのはテルミドール第9日のことだったが、そのあとすぐに、フランスのテロルは突然に、かつ永遠に終わった。
 しかし、ソヴィエト・ロシアでは、テロルは止むことなく断続的につづいた。激烈さは様々だったけれども。
 死刑は内戦の終末期に再び廃止されるが、最低限度は裁判所の手続を尊重しつつも、処刑は以前と同じく実施され続けた。
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 (14) Jacobin のテロルとボルシェヴィキのそれの違いを最も象徴的に示すのは、おそらくつぎのことだ。
 パリにはRobespierre の記念碑は建てられず、彼の名に因んだ街路もない。一方で、モスクワには、チェカ設立者のFeliks Dzerzhinskii の巨大な像が市の中心に立ち、彼に敬意を表して名付けられた広場を圧倒している。
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 (15) ボルシェヴィキのテロルは、大量処刑以上の多くのものを巻き込んだ。
 同時代の何人かの意見では、恐ろしいテロルは、蔓延している弾圧の雰囲気ほどには抑圧的効果をもたなかった。
 その法的知識とレーニンのもとでの司法人民委員の経験によって、現象を評価する独特の立場にあったIsaac Steinberg は、1920年に、内戦が終わってもテロルは継続した、ボルシェヴィキ体制の本能に関する特質になった、と記した。
 収監者や人質の略式の処刑は、彼にとっては、「革命的な地球を支配する、陰鬱に明滅するテロルの中での、最も輝かしいもの」、「血の高峰」、「その極致」だった。
 「テロルは個人の行為、分離した偶然の行為ではなく、—頻発したとしても—政府の憤怒を表現したものだ。
 テロルとは『仕組み』(system)であり、…大衆の威嚇、大衆の強制、大衆の絶滅を目的とする、政府の合法化された計画だ。
 テロルは、命令された意思を実行するするように政府が脅迫し、誘発し、強制する手段となる、そういう制裁、報復、威嚇を、考え抜いて登録したものだ。
 テロルは、上から国の民衆全員に対して投げられる、重くて息苦しくさせる外套だ。警戒心を潜ませる不信と復讐欲で編まれた外套だ。
 誰がこの外套を手にし、誰がこの外套を通じて民衆<全体>を苦しめるのか。例外なく? …
 テロルのもとでは、実力はきわめて少数の者の手にあり、その少数者は孤立を感じ、それを怖れる。
 厳密に言えば、少数者が自ら支配し、つねに成長する多数の人々、諸グループ、諸階層を敵と見なすがゆえに、テロルは存在する。…
 この『革命の敵』は、…革命の拡張を支配するまでに拡張する。
 この観念は徐々に拡大しつづけ、国土全体、民衆全体を包括するに至り、最後には、『政府を例外とする全て』とその協力者たちを包括する。」(脚注2)
 Steinberg は、赤色テロルの宣告の中に、労働組合の解体、言論の自由の抑圧、警察官と情報提供者がどこにでもいること、人権の無視、飢餓と欠乏の蔓延、を含めた。
 彼の見解では、この「テロルの雰囲気」、つねに現存する脅威が、処刑以上にはるかに、ソヴィエトの生活を病毒で冒した(poisoned)。
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 (脚注2) I. Steinberg, Gewalt und Terror in der Revolution(Berlin, 1974), p.22-p.25. 1920-23年に書かれたこの書物(最初に1931年に出版された)は、レーニン主義のロシアを叙述しており、スターリン主義のロシアを対象としていない。
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 ③へとつづく。

2939/R.Pipes1990年著—第18章①。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳。
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 第18章・「赤色テロル」
 「大部分のテロルは、恐怖を抱いた人々が自分を安心させるために行なう無意味な残虐行為だ」。
 F·エンゲルスからK·マルクスへ(注01)。
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 第一節/レーニンとテロル①。
 (01) 国家による体系的なテロルはボルシェヴィキが発明したものだ、とは言い難い。その先例は、Jacobins に遡る。
 そうであったとしても、この点でのJacobins とボルシェヴィキが実際に行なったことの差異は大きいので、ボルシェヴィキがテロルを発明した、と考えてよい。
 フランス革命はテロルで頂点に達したが、ロシア革命はテロルとともに始まった、と言うにとどめよう。
 前者は「短い幕間」、「逆流」と称されてきた(注02)。
 赤色テロルは最初から体制の本質的要素であり、強くなったり弱くなったりしつつも、決して消失しなかった。そして、ソヴィエト・ロシアの上に永遠の暗雲のごとく掛かっている。
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 (02) 戦時共産主義や内戦その他のボルシェヴィズムの評判が悪い問題についてと同様に、ボルシェヴィキの代弁者や擁護者は、テロルの責任の所在を反対派に求めるのを好む。
 遺憾なことだったが、反革命に対する避けられない反応だった、と言われる。言い換えると、機会が別に与えられれば、避けただろう、と言うのだ。
 典型的であるのは、レーニンの友人だったAngelica Barbanoff の見解だ。
 「不幸なことかもしれないとしても、ボルシェヴィキが開始したテロルと抑圧は、外国による干渉や、特権を維持して旧体制を再建しようと決意したロシアの反動活動家によって強いられたものだった」(注03)
 このような釈明は、いくつかの理由で却下することができる。
 かりにテロルが実際に「外国の干渉主義者」や「ロシアの反動家」によってボルシェヴィキに「強いられた」ものだったとすれば、ボルシェヴィキがこれらの敵を決定的に打ち破るとすぐに—すなわち1920年に—、テロルを放棄しただろう。
 ボルシェヴィキは、そんなことを何もしなかった。
 内戦が終了するとともにボルシェヴィキは1918-19年の無差別の大虐殺をやめたけれども、彼らは、それまでの法令や制度を無傷で残した。
 スターリンがソヴィエト・ロシアの紛うことなき主人になると、彼が比類のない巨大な規模でテロルを再開するのに必要な手段は、すぐ手の届く所にあった。
 このことだけでも、ボルシェヴィキにとってテロルは防衛的武器ではなく、統治の道具だった、ということが分かる。
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 (03) ボルシェヴィキによるテロルの主要な装置であるチェカは、1917年12月早くに設立された。それは、ボルシェヴィキに対する組織的な反対派が出現する機会を得る前で、「外国の干渉主義者」がまだせっせとボルシェヴィキに言い寄っていたときだった。これらのことも、上述のような解釈の適切さを確認している。
 チェカの最も残酷な活動家の一人、ラトビア人のKh. Peters がこう言ったことに、我々は依拠することができる。すなわち、1918年の前半にチェカがテロルを開始したとき、「これほどの反革命の組織は、…かつて観察されなかった」(脚注1)
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 (脚注1) PR, No. 10/33(1924), p.10. Peters は、副長官として勤務した。1918年7-8月には、チェカの長官代理として。
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 (04) 証拠資料によると、最も決然たる煽動者のレーニンは、テロルを革命政府の不可欠の手段だと見なした。
 彼はテロルを予防的に—すなわち彼の支配に対する積極的な反対行為が存在しなくとも—行使するつもりでいた。
 彼がテロルを用いたのは、自分の教条の正しさと真白か真黒か以外に多彩に政治を見ることができないことについての、深い所にある自信に根ざしていた。
 それは、Robespierre を駆り立てたのと本質的には同じ考えだった。トロツキーは1904年に早くも、レーニンをRobespierre と比較した(04)。
 フランスのJacobin のように、レーニンは、もっぱら「良い市民」が住む世界を建設しようとした。
 こういう目標があったので、Robespierre のように、「悪い市民」を肉体的に排除することを道徳的に正当化することができた。
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 (05) レーニンが「Jacobin」という名を冠するのを誇るボルシェヴィキ組織を作ったときから、彼は、革命的なテロルの必要について語った。
 1908年の小論「コミューンの教訓」で、この主題に関する意味深い観察を行なった。
 この最初の「プロレタリア革命」の成果と失敗を挙げたあとで、その重大な弱点をレーニンは指摘した。すなわち、プロレタリアートの「行き過ぎた寛容さ」—「道徳的影響力を行使」しようとするのではなく、「敵を絶滅させておくべきだった」(注05)。
 この言明は、政治上の文献で、通常は害虫に対して使われる「絶滅」(extermination)という言葉を人間に対して用いた、最も早い例の一つであるに違いない。
 これまでに叙述してきたように、レーニンは、自分の体制の「階級敵」と定めた者たちを、有害動物の駆除に関する語彙から借りてきて、叙述した。クラクを例えば、「吸血虫」、「蜘蛛」、「蛭」と呼んだ。
 1918年1月に彼は、民衆が組織的虐殺(pogrom)を実行する気になるよう、感情を掻き立てる言葉遣いを用いた。
 「コミューン、村落や都市の小さな細胞は、金持ち、詐欺師、寄生虫を実際的に評価し支配する数千の形態と方法を実行し、試さなければならない。ここでの多様性こそが、成功と唯一の目標の実現を保障する。唯一の目標—ロシアの土壌から、全ての有害な虫を、悪辣なノミを、南京虫を—金持ち等々を—一掃すること。」(注06)
 ヒトラーならば、ドイツの社会民主党の指導者に関して、このような例に倣うだろう。彼はこの党の指導者たちは主としてユダヤ人だと考えていて、その著<Mein Kampf>で、絶滅させることだけがふさわしい<Ungeziefer>あるいは害虫と呼んだ。(注07)
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 (06) 国家の長になった最初の日に起きた出来事ほど、レーニンの心理にテロルへの狂熱が深く組み込まれていることを示すものはない。
 ボルシェヴィキが権力奪取していたとき、カーメネフは第二回全国ソヴェト大会に対して、ケレンスキーが1917年半ばに再導入した前線での脱走兵への死刑の廃止を求めた。
 大会はこの提案を採択し、前線での死刑を廃止した。(注08)
 レーニンは他のことに忙しくて、この出来事を見逃した。
 トロツキーによると、レーニンがこれを知ったとき、「完全に激怒した」。そして、こう言った。
 「馬鹿げている。死刑なしで、どうやって革命ができるのか?
 自分を武装解除して、きみの敵を処理できると思っているのか?
 他に弾圧のためのどんな手段があるのか?
 監獄か?
 両方ともが勝とうとしている内戦のあいだに、誰が監獄に意味を認めるのか? …
 彼は繰り返した。間違いだ、容赦できない弱さだ、平和主義者の幻想だ。」(注09)
 こう語られた時期は、ボルシェヴィキの独裁が辛うじて始まった頃、ボルシェヴィキが継続するとは誰も思わなかったために組織的反対運動が起きていなかった頃、まだ僅かにでも「内戦」の兆候がなかった頃だった。
 レーニンの強い主張に従って、ボルシェヴィキは死刑に関するソヴェト大会の行動を無視し、次の6月に死刑を再導入した。
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 (07) レーニンは舞台の背後でテロルを指揮するのを好んだけれども、チェカの「無実の」犠牲者についての苦情には我慢できないことをときたま知らしめた。
 無実の市民の逮捕を批判したメンシェヴィキの労働者に対して、1919年に、こう答えた。
 「有罪であれ無罪であれ、意識的であれ無意識であれ、数十人または数百人の煽動者を収監するのと、数千人の赤軍兵士や労働者を失なうのと、どちらがよいのか?
 前者の方がよい。」(注10)
 このような理由づけによって、無差別の迫害は正当化された(脚注2)
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 (脚注2) これを、Poznan での1943年の一演説でのSSに対するHeinrich Himmler の訓戒と比較せよ。
 「戦車障害濠の建設中に1万人のロシア女性が消耗して死ぬかどうかは、ドイツのための戦車障害濠が建設されているかぎりで、私の関心外だ。…
 誰か私のところにやって来てこう言う。『女性や子どもたちで戦車障害濠を建設することはできない。非人間的で、彼らは死ぬだろう』。
 私はこう言ってやる。『戦車障害濠が建設されなければドイツの兵士は間違いなく死ぬのだから、きみは自分の血縁の殺害者だ』」。
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 第一節②へとつづく。

2936/R.Pipes1990年著—第17章⑳。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第13節/ニコライ処刑をモスクワが発表(1)③。
 (13) 7月20日、Ural ソヴェトは発表の原稿を書き、モスクワに対して、公にすることの許可を求めた(注96)。
 発表原稿は、こうだった。
 「特報。Ural 労働者農民兵士代表ソヴェトの執行委員会と革命的幕僚の命令により、前の皇帝、専制君主は、その家族と一緒に、7月17日に処刑された。
 遺体は埋葬された。
 執行委員会義長、Beloborodov、Ekaterinburg にて。1918年7月20日午前10時。」(脚注)
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 (脚注) この文書のテキストは、むしろ疑わしい状況のもとで、西側で利用できるようになった。1956年春に、西ドイツの大衆紙の週刊<七日>の編集部に、自分をHans Meier と名乗る人物が、現われた。彼は、戦争捕虜として、1918年に皇帝家族処刑する決定にEkaterinburg で直接に関与した、この問題について記した文書を書いたが、東ドイツで生活している18年のあいだ隠してきた、と主張した。
 事件について彼が記したことは、詳細だがきわめて風変わりだった。主要な目的は、西側でもう一度生き延びていると流布し始めた物語である、そのAnastasia は家族と一緒に死んだ、ということに関する疑いを除去することにあったようだ。
 Meier の文書は、一部は真実で、一部は捏造だと見られる。最もあり得る説明は、彼はソヴィエトの秘密警察のために働いた、ということだ。彼の文書は、<七日>, No.27-35(1956年7月14日-8月25付)にある。
 Meier の「証拠資料」について、P. Paganutstsi, Vremia i my, No.92(1986)を見よ。著者は、ドイツの裁判所は自称Anastasia によって提起された訴訟に関連してMeier の文書を取り調べ、偽造だと判断した、と述べている。
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 モスクワは、これを発表するのを禁止した。ニコライの家族の死について言及していたからだった。
 この文書の唯一知られている複写では、「その家族と一緒に」とか「遺体は埋葬された」とかは、読みにくい署名をした誰かによって、抹消されていた。この人物は、「公表禁止」と走り書きしていた。
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 (14) Sverdlov は7月20日に、自分が原稿を書いた承認する発表文をEkaterinburg に電信で送り、モスクワのプレスで公にした(注97)。
 7月21日、Goloshchekin は、Ural 地方ソヴェトに、報せを伝えた。その報せについて知らなかったようだが、このソヴェトは一週間前に前皇帝を射殺する決定をした。この決定は今では、予定どおり実行されていた。
 Ekaterinburg の住民は、7月22日に配達された新聞でこれについて知った。翌日には<The Ural Worker>(Rabochii Urala)で改めて報じられた。
 この新聞は、つぎの見出しで伝えた。「白衛軍、前皇帝と家族の誘拐を企て。陰謀は暴露さる。Ural 地方ソヴェト、犯罪企図を予期し、全ロシア人の殺戮者を処刑。最初の警告だ。人民の敵、王君に手を差し伸べる以外に専制君主制を復活できず。」(注98)
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 (15) 7月22日、Ipatev 邸の警護者たちは退去した。Iurovskii は、全員で分けるよう8000ルーブルを渡し、前線へ動員されるだろうと告げた。
 その日、Ipatev は義理の妹から電報を受け取った。「居住者は出て行った」(注99)。
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 (16) 目撃証人たちは、民衆は—少なくともEkaterinburg の住民は—、前皇帝の処刑について知らされても何の感情も示さなかった、ということで一致している。
 死者を追悼して、モスクワの教会で若干の儀礼が行なわれた。だが、それ以外に反応はなかった。
 Lockhart は、「モスクワの民衆は、驚くべき無関心さでもって、報せを受け取った」と記した(注100)。
 Bothmer も、同様の印象をもった。「民衆は皇帝殺害を、冷淡な無関心さで受け入れた。上品で冷静な人々ですら、恐怖に慣れすぎていて、自分たちの心配と欲求に心を奪われすぎていて、特別なことと感じることができなかった。」(注101)
 前の首相のKokovtsov ですら、7月20日にペテログラードの路面電車に乗っているときに、肯定的な満足感を感知した。
 「哀れみや同情のわずかな痕跡すら、どこにも観察しなかった。
 報道は声を出して読まれた。にやにや笑い、冷笑、嘲笑とともに。あるいは、きわめて心なき論評とともに。
 きわめてうんざりする言葉も聞いた。「とっくになされるはずだった」。「やあ、ロマノフの兄貴、おまえの踊りは終わりだ」(注102)。
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 (17) 農民たちは、思いを胸にしまい込んだ。
 しかし、独特の論理で表現された、彼らの反応を一瞥することができる。ある老農夫が、1920年に某知識人に打ち明けた思いからだ。
 「今、地主の土地は皇帝のNicholas Alexandrovich によって我々に与えられた、と確実に知っている。
 これのために、大臣たち、ケレンスキー、レーニン、トロツキー、その他の者たちは、皇帝をまずシベリアに送り、そして殺した。子どもたちも同じ。
 その結果、我々には皇帝はおらず、彼らが永遠に民衆を支配することができた。
 彼らは我々に土地を与えようとはしなかった。だが、子どもたちは、彼らが前線からモスクワやペテログラードに戻ったときに、彼らを止めた。
 今は、彼ら大臣たちだ。彼らは我々に土地を与え、抑えつけなければならないからだ。
 しかし、我々を締め殺すことはできない。
 我々は強くて、持ちこたえるだろう。
 そして、いずれは、老いぼれ、息子たち、孫たちが、誰でもよい、我々は彼らボルシェヴィキの始末をつけるだろう。
 心配するな。
 我々の時代がやって来る。」(注103)
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 第14節/ニコライの処刑をモスクワが発表(2)。
 (01) つづく9年間、ソヴィエト政府は、頑なに公式のウソにしがみついた。Alexandra Fedorovna と彼女の子どもたちは安全に生きている、というウソだ。
 Chicherin は1922年に、ニコライの娘たちはアメリカ合衆国にいる、と主張した(注104)。
 このウソは、皇帝家族全員が一掃されたということを受け入れられない君主制主義者たちに擁護された。
 Solokov は、西側に着いたあと、君主制主義者たちに冷遇された。ニコライの母親、Dowager Marie 皇妃、Nikolai Nikolaevich 大公、こうした生存中の著名なロマノフ家の者たちは、Solokov と会うことすら拒否した(注105)。
 Solokov は無視され、貧困の中で、数年後に死んだ。
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 (02) ソヴィエト協力者のP. M. Bykov は、Ekaterinburg で1921年に出版したこの事件に関する初期の説明書で、皇帝家族に関する真実を語っていた。
 しかし、この本は、すみやかに流通から排除された(注106)。
 元来の版を維持しないものがパリで出版されたあとで、Bykov はようやく1926年に、Ekaterinburg の悲劇に関する公式の共産党版説明書を書くことを認められた。
 モスクワが主要なヨーロッパ言語に翻訳したこの書物は、ついに、Alexandra と子どもたちが前皇帝とともに死んだ、ということを認めた。
 Bykov はこう書く。
 「遺体が存在しないことについて、多くのことが書かれた。
 しかし、…死者の遺体は、焼却されたあとで、鉱床から遠く離れた場所へ持っていかれ、泥地の中に埋葬された。そこは、有志や調査員たちが掘り出さなかった地域にあった。
 遺体はそこに残っており、今までに自然に従って腐敗している。」(脚注1)
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 (脚注1) Bykov, Poslednie dni, p.126. 家族の死を初めて認めたのは、つぎだと言われている。P. Iurenev, Novye materialy o rasstrele Romanovykh. Krassnaia gazeta, 1925/12/28(Smirnoff, Autour, p.25).
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 (03)  Iurovskii は、Ekaterinburg からチェコに向かって逃亡したのち、やがてのちにモスクワへ移った。そこで、政府のために働いた。
 職務に対する報奨として、チェカの役員団の一人に任命されるという栄誉を受けた。
 1921年5月に、レーニンに温かく迎えられた(脚注2)
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 (脚注2) Leninsksia Gvardiia Urala(Sverdlovsk, 1967), p.509-514. 皇帝家族の運命に関心をもったあるイギリスの将校は、1919年にEkaterinburg の彼を訪問した。Francis McCullagh, Nineteenth Century and After, No.123(1920年9月), p.377-p.427. Iurovskii は、Ipatev 邸の指揮者だったあいだ日記をつけていた。その日記は、つぎの中にある短い断片的文章を除いて、未公刊のままだ。Riabov’s article in Rodina, No. 4(1989年4月), p.90-91.
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 彼がニコライを殺害した回転銃は、モスクワの革命博物館の特別の保管庫の中に置かれている。
 1938年の秋にクレムリン病院で、自然の死を遂げた(注107)。
 彼は、チェキストかつ「ジェルジンスキの片腕の同志」として、小さいボルシェヴィキの英雄で成るpantheon に、適切な位置を占めた。小説や伝記の対象人物でもあった。それらは彼を、「典型的」なチェキストで、「閉鎖的で厳格だが、柔らかい心をもつ」と叙述した(108)。
 Ekaterinburg の悲劇に関係するその他の主要人物は、Iurovskii ほどうまくは生きなかった。
 Beloborodov は最初は、経歴を早く昇った。1919年3月には、中央委員会と組織局の一員として受け入れられた。そののち、内務人民委員の地位を得た(1923年-1927年)。
 しかし、トロツキーとの友情関係によって破滅した。1936年に逮捕され、その二年後に射殺された。
 Goloshchekin も、スターリンの粛清の犠牲者になり、1941年に殺された。
 二人とも、のちに「名誉回復」した。
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 (04) Ipatev 邸は長い間、クラブの建物や美術館として役立ってきた。
 しかし、当局はその建物を見るためにEkaterinburg(Sverdlovsk に改称)に来る訪問者の数の多さに不安になった。訪問者の中には、見たところ宗教巡礼者もいた。
 1977年秋、当局は取り壊しを命じた。
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 13節・14節、終わり。

2927/R.Pipes1990年著—第17章⑬。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第八節/モスクワによる殺害決定とチェカ②。
 (07) Iurovskii がIpatev 邸に責任をもったあと最初にしたのは、警護者による窃盗をやめさせることだった。
 窃盗は、安全確保の観点からして危険だった。窃盗をする警護者は、チェカの連絡網の外で、囚人たちへの、および彼らからの文書を運ぶよう、さらには彼らが逃亡するのを助けるようにすら、贈賄されることがあり得た。
 職務の最初の日に、彼は、皇帝家族が所有している貴重品を全て提出させた(彼は知らなかった、女性たちが下着の中に縫い込んだものを除く)。
 彼は目録を作成したあとで、宝石類を封印された箱の中に入れ、家族がそれを持ちつづけるのを許した。但し、毎日、点検した。
 Iurovskii はまた、家族の荷物が保管されている物置に鍵を付けた。
 つねに他人を良いように考える性格のニコライは、こうした措置は家族のために行なわれた、と信じた。
 「(Iurovskii と助手たちは)我々の家で起きた不愉快な出来事について説明した。彼らは我々の持ち物の紛失に言及した。…
 Avdeev には部下たちが物置のトランクからという窃盗するのを阻止できなかったという責任があることについて、彼に気の毒だった。…
 Iurovskii と助手たちは、どのような種類の者たちが我々を囲んで警護し、窃盗をしているかを、理解し始めた。」(脚注1)
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 (脚注1) Alexandra の日記によると、Iurovskii は7月6日に、窃盗された時計をニコライに返却した。
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 (08) Alexandra の日記によって、7月4日に内部警護者が新しい要員と交替したことが確認される。
 ニコライは、新しい彼らはラトビア人だと思った。また、警護者の班長も、Solokovの尋問に対して同じように答えた。
 しかし、当時は「ラトビア人」という言葉は、緩やかに親共産党の全ての外国人を指していた。
 Solokov は、Iurovskii が新しい要員の10人のうち5人とドイツ語で話した、ということを知った(注69)。
 彼らが戦争捕虜のハンガリー人だったことに、ほとんど疑いはない。ある者はMagyars (マジャール人)で、ある者はマジャール化したドイツ人だった(脚注2)
 彼らは、チェカ本部から移って来て、American ホテルに居住した(注70)。
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 (脚注2) Sokolov は、Ipatev 邸の壁にハンガリー語での言葉があるのに気づいた。「Verhas Andras 1918 VII/15e—örsegen」(Andras Verhas 1918年7月15日—警護者)。Houghton Archive, Harvard Uni., Sokolov File, Box 3.
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 (09) これは、処刑部隊だった。
 Iurovskii は、彼らに低層階を割り当てた。
 彼自身はIpatev 邸に引っ越さず、妻、母親、二人の子どもたちと一緒に住むのを選んだ。
 指揮官の部屋へは、彼の助手のGrigorii Petrovich Nikulin が入った。
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 (10) 7月7日、レーニンはEkaterinburg に指示して、Ural 地方ソヴェトの議長のBeloborodov にクレムリンと直接に電信連絡をすることを認めた。
 「事態の異常な重要性にかんがみて」そのような連絡方法をとることについての、Belonorodov の6月28日の要請に対して、レーニンが行なった反応だった(注71)。
 Ekaterinburg がチェコ軍団の手に落ちた7月25日まで、軍事問題およびロマノフ家の運命に関するその市とクレムリンとの間の全ての連絡は、この電信の方法で、しばしば暗号を用いて、行なわれた。
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 (11) Goloshchekin は、殺害のための保障を得て、7月12日にモスクワから帰った。
 その同じ日、彼はソヴェト執行委員会に対して、「ロマノフ家の処刑に関する中央当局の態度」に関して報告した。
 彼は、モスクワはもともとは前皇帝を審判にかけるつもりだったが、戦線の場所が近接していることを考慮して、これを実行することをやめた、そしてロマノフ家は処刑されるものとすると決めた、と言った(注72)。
 ソヴェト執行委員会は、モスクワの決定に対してゴム印を捺した(注73)。
 今では、その後と同じく、Ekaterinburg が処刑についての責任を引き受けた。皇帝家族がチェコ軍団の手に落ちるのを阻止するための非常措置だ、と見せかけることによって(脚注3)
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 (脚注3) Iurovskii は、1920年に書かれ、だがようやく1989年に公にされた回想録で、ロマノフ家の「絶滅」(extermination, istreblenie)に対する暗号の命令を7月16日にPerm から受けた、と語った。Perm は、モスクワがUral 地方の通信センターとして用いた州都だった。彼によると、最終的な処刑命令は、同じ日の午後5時にGoloshchekin によって署名された。Ogonek, No.21(1989), p.30.
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 (12) 翌日の7月15日、Iurovskii の姿が、Ekaterinburg の北にある森で見られた。
 彼は、遺体を処理する場所を探していた。
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 (13) 皇帝家族は、何も疑っていなかった。Iurovskii は厳格な手順を維持しており、細心な態度で、皇帝家族の信頼すら獲得していた。
 ニコライは、6月25日/7月8日にこう書いた。「我々の生活は、Iurovskii のもとで、いかなる点でも変わらなかった」。
 実際に、いくつかの点では、彼らの生活は良くなった。今では修道女から全ての物を提供されていたからだ。但し、その一部はAvdeev の警護者によって盗まれた。
 7月2日、作業員が唯一の空いた窓に鉄柵を取り付けた。これもまた、皇帝家族は異様だと感じなかった。Alexandra は、「いつものように、昇ることに疑問はなかったし、見張り番と接触することもそうだった」と記した。
 今ではチェカはニセの逃亡計画を放棄していたが、Iurovskii は、本当に逃亡する機会を与えなくなかった。
 7月14日日曜日、彼は、聖職者が来てミサの儀式を行なうのを許した。
 聖職者が去るとき、彼は、皇女の一人が「ありがとう」とつぶやくのを聞いた(注74)。
 7月15日、若干の医学的知識をもっていたIurovskii は、寝たきりのAlexis と、彼の健康について議論しながら、時間を過ごした。
 彼はその翌日に、Alexis に卵を持って来た。
 7月16日、二人の女性が清掃するためにやって来た。
 彼女たちはSokolov に、家族は健全な精神状態にあると思えた、皇女たちはベッドを整えるのを手伝った際に笑った、と語った。
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 (14) この頃ずっと、皇帝家族はまだ、救出者から連絡が来るのを望んでいた。
 ニコライの、6月30日/7月13日付の、日記への最後の記入はこうだった。
 「我々には、外部からの報せがない」。
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 第八節、終わり。

2926/R.Pipes1990年著—第17章⑫。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第八節/モスクワによる殺害決定とチェカ①。
 (01) 共産党当局のいつものやり方だったけれども、皇帝家族を処刑する責任をUral の地方ソヴェトに負わせるというのは、レーニンを免責するためとはいえ、確実に誤解を生じさせる。
 ロマノフ一族を「絶滅」するという最終決定が個人的にレーニンによって、おそらくは7月初めになされたことは、確定することができる。
 中央から明確に権限付与されることなく、地方のソヴェトがこのような重大な問題について行動することはないだろう、ということからも、上のことは相当程度確実に推測され得ただろう。
 Solokov は、委員会による調査結果を公表した1925年に、レーニンの責任について、確信をもった。
 しかし、トロツキーという権威ある者による、争う余地のない積極的な証拠資料が存在している。
 トロツキーは1935年に、ある亡命者用新聞で、皇帝家族の死に関する記事を読んだ。
 彼は記憶を呼び覚まし、日記にこう書いた。
 「私のその次のモスクワ行きは、Ekaterinburg がすでに落ちた後のことだった[すなわち7月25日以後]。
 Sverdlov と話した際に、ついでにこう尋ねた。『ああそうだ、皇帝はどこにいる?』
 彼は、『終わった』、『射殺された』と答えた。
 私は『家族はどこにいる?』、『家族も彼と一緒にか?』と、驚き気味で尋ねた。
 『全員だ。どうして?』とSverdlov は答えて、私の反応を待った。
 私は、返答しなかった。
 『では、誰が決定したのか?』と私は追及した。
 答えはこうだった。『我々が、ここで決定した。Ilich〔レーニン〕は、とくに現在の困難な状況のもとでは、白軍に生きている旗印として残してはならない、と考えた』。
 私はそれ以上質問せず、この件はもう打ち切りだと考えた。」(注64)
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 (02) Sverdlov の素っ気ない言葉は、公式の見解はつぎのようだったにもかかわらず、一瞬に問題を片付けた。すなわち、ニコライとその家族は、逃亡するかチェコ軍団に捕らわれるかを阻止するために、Ekaterinburg の当局の主導によって、処刑された。
 決定は、Ekaterinburg でではなく、モスクワで行なわれた。それは、ボルシェヴィキ体制が基盤を失っていると感じ、君主制の復活を怖れたときだった。—これは一年後にはすでに狂信的すぎて考慮に値しなくなった考えだったが (脚注1)
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 (脚注1) Kolchak 提督が立ち上げた調査委員会によって詳細が知られるようになると、Ekaterinburg の虐殺は、反ユダヤ主義文献が不快にも溢れるという事態を生んだ。それらは何人かのロシアの文筆家や歴史家によって書かれ、西側にも反響があった。
 こうした文献の多くは、Ekaterinburg の虐殺についてユダヤ人を非難し、それを世界的な「ユダヤの陰謀」の一部だと解釈した。
 ロンドンの<Times>特派員のイギリス人、Robert Wilton の記事で、および彼のロシアの友人すらの説明では、ユダヤ人恐怖症のDiterikhs 将軍は、精神病理上の異常を呈した。
 おそらく、当時に反ユダヤ主義の拡散や偽作の<シオンの賢人の議定書(Protokols of the Elders of Zion)>の普及に役立った、という以上のことは何もなかった。
 これらの著作者たちは悲劇についてユダヤ人を断固として非難するが、都合よく、死刑の宣告はロシア人のレーニンによって裁可されたことを忘れていた。
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 (03) 6月の末、Ural の最有力のボルシェヴィキでSverdlov の友人のGoloshchekin は、Ekaterinburg からモスクワに向かった。
 Bykov によれば、彼の任務は、ロマノフ一族の運命について、共産党中央委員会および全国ソヴェト中央執行委員会と討議することだった(注65)。
 Ekaterinburg のボルシェヴィキ、とくにGoloshchekin は、邪魔なロマノフ一族を排除したかった、ということは、十分に確定されている。このことから、彼は処刑へと進むことについてモスクワの承認が欲しかった、ということを合理的に導くことができる。
 レーニンは、この要請を是認した。
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 (04) 前皇帝を、そして可能であれば彼の直接の家族をも処刑するという決定は、7月の最初の数日のあいだに行なわれた、と見られる。7月2日夕方のソヴナルコム〔人民委員会議=ほぼ内閣〕の会議で、というのが最もありそうだ。
 この仮説を裏付ける二つの事実がある。
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 (05) ソヴナルコムの会合の議題の一つは、ロマノフ家の資産の国有化だった。
 この趣旨の布令の草案を策定する委員会が、設置された(注66)。
 この問題が緊急を要するとは、共産党支配のもとで生きているロマノフ一族は監獄の中にいるか国外追放中で彼らの財産はとっくに国家に奪われているか農民に配分されていたとすれば、危機的な状況のもとでは考えられなかっただろう。
 したがって、ニコライを処刑する決定と関連付けられて、議題設定や布令案作成が行なわれたと言えそうだ。
 ロマノフ一族の資産を公式に国有化する布令は、殺害の三日前、7月13日に施行された。だが、不思議にも一般的な実務から逸脱して、6日後まで公表されなかった。—この日は、殺害という事実の情報が公にされた日だ(注67)。
 この論脈を支持するもう一つの事実は、すぐのちにある。すなわち、7月4日に、皇帝家族を警護する責任は、Ekaterinburg からチェカへと移された。
 この7月4日に、Beloborodov は、クレムリンに電報を打った。
 「モスクワへ。Goloshchekin に代わって〔全国ソヴェト〕中央執行委員会議長のSverdlov あて。
 中央の指示に合致して事態を調整すべくSyromorotov が出発したところだ。…<中略>(脚注2)
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 (脚注2) Solokov, Ubiistvo, Photograh No.129, p.248-p.249の間。Avdeev の助手のA. M. Moshkin は、皇帝家族の持ち物を盗んだ責任で逮捕された。
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 (06) Ekaterinburg のチェカの長のIakov Mihailovich Iurovskii は、革命の相当前に通常の犯罪で有罪判決を受け、シベリアへの流刑となったユダヤ人の、孫だった。
 不十分な教育を受けたあと、Tomsk で時計職人の見習いになった。
 1905年革命のあいだに、ボルシェヴィキに加入した。
 のちにベルリンでしばらく過ごし、そこでルター主義へと改宗した。
 ロシアに帰ったとき、Ekaterinburg へと追放され、写真スタジオを開いた。そこはボルシェヴィキの秘密会合の場所として役立った、と言われている。
 戦争中は、準医療従事者の訓練を受けた。
 二月革命が勃発したときにやめて、Ekaterinburg へ戻った。そこで兵士たちの中に入って戦争反対を煽動した。
 1917年十月、Ural 地方ソヴェトは、彼を〔Ural 地方の〕「司法人民委員」に任命した。そのあと、彼はチェカの一員になった。
 Iurovskii は、どの文献を見ても、邪悪(sinister)な人物だった。憤懣と挫折感でいっぱいの、当時のボルシェヴィキに惹かれるようなタイプで、第一の応募先は、秘密警察だった。
 Solokov は、彼の妻と家族に対する尋問から、つぎのような人物像を描いた。すなわち、尊大で、意欲的な人間で、傲慢で、残虐な気質の持ち主(注68)。
 Alexandra 〔前皇妃〕は、すぐにこの人物を嫌いになり、「下品で不愉快だ」と形容した。
 チェカにとっては、彼を価値あるものにするいくつかの長所があった。すなわち、国有財産を扱う際の実直さ、慎みのない残虐さ、相当の心理的洞察力。
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 ②へとつづく。

2922/R.Pipes1990年著—第17章⑨。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第六節/観測気球としてのMichael 殺害。
 (01) 1918年の春、ニコライとその家族をEkaterinburg に、残りのロマノフ一族をPerm 地方の別の街に幽閉したとき、ボルシェヴィキは、安全だと見られる場所に、彼らを置いていた。ドイツの前線と白軍からは遠く離れており、ボルシェヴィキの本拠地の真ん中だった。
 しかし、チェコ軍団による反乱が勃発して、この地域の状況は劇的に変化した。
 6月半ばまでに、チェコ軍団は、Omsk、Chelia binsk、Samara を支配した。
 チェコ人の軍事行動によって、これらの都市のすぐ北に位置するPerm 州は危険に晒された。そして、ロマノフ一族がいる場所は、ボルシェヴィキが後退している戦場の近くになった。
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 (02) 彼らをどう扱うべきか? トロツキーは6月に、見せ物的になる〔革命審判所での〕審理をまだ支持していた。
 「私がモスクワを訪れた何度かのうちの一つの時期に—ロマノフ家の処刑の数週間前だったと思う—、政治局へ行っていたとき、Ural の悪い状況を考えて、皇帝の裁判を急ぐ必要があることに気づいた。
 私は、〔前皇帝の〕全治世の絵(農民政策、労働者、諸民族、文化、二つの戦争等々)を広げることができるように、公開で審判を行なうことを提案した。
 審判の経緯は、ラジオで全国土に放送されるだろう。
 Volosti では、審理の過程に関する記事が、毎日、読まれ、論評されるだろう。
 レーニンは、実現できるととても良い、という趣旨の答えをした。
 しかし、…時間が十分でなかったかもしれない。…
 私が提案に固執せず、別の仕事に集中していたので、議論は起きなかった。
 そして、政治局には、三、四人しかいなかった。私自身、レーニン、Sverdlov、…。思い出すに、カーメネフはいなかった。
 レーニンはそのとき、むしろ陰鬱で、成功裡に軍を建設することができるかどうか、自信をもってなかった。…」(注49)
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 (03) 1918年の夏までに、〔前皇帝を〕審判にかけるという考えは、現実的でなくなっていた。
 チェコ人の蜂起のすぐ後に、レーニンはチェカに対して、「逃亡」が仕組まれていたとの言い分を使って、Pern 州のロマノフ一族を全員殺害する準備をする権限を与えた。
 レーニンの指示にもとづいて、チェカは、3つの都市で、徴発を捏造した。その3都市、Perm、Ekaterinburg 、Alapaevsk では、ロマノフ一族は幽閉されるか、監視のもとで生きるかのいずれかの状態にあった。
 計画は、Perm とAlapaevsk ではうまくいった。
 Ekaterinburg では、放棄された。
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 (04) 皇帝とその家族の殺害の予行演習が、Perm で行なわれた。Perm は、Mihael 大公が追放された場所だった(注50)。
 3月に、秘書である英国人Nicholas Johnson を同行させてPerm に到着したとき、Mihael は監獄に入れられた。
  しかし、彼はすぐに釈放され、Johnson、侍従、運転手とともにホテルに住居を構えることが認められた。そこで彼は、比較的に快適かつ自由に生活した。
 チェカの監視下にあったが、かりに彼が逃亡しようと思ったならば、大した困難なくそうできただろう。自由に街の中を動くことが許されていたからだ。
 だが、他のロマノフ一族と同じく、彼は服従の意向を示した。
 彼の妻は、復活祭の休日期間に訪れた。彼の望みに従って、ペテログラードに戻り、そこからのちに逃亡して、イギリスへ行った。
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 (05) 6月12-23日の夜、5人の武装者が三頭馬車に乗ってきてMihael のホテルに入ってきた(注51)。
 彼らはMihael を起こし、衣服を身に着けて、従うよう告げた。
 Mihael は、彼らの身分証明を求めた。
 彼らが何も提示できなかったとき、Mihael は現地のチェカに確かめるよう要求した。
 この時点で(と、処刑される前に侍従は仲間の在監者に言った)、訪問者たちは我慢できなくなり、実力行使に訴えて威嚇した。
 一人がMihael かJohnson の耳に何かを囁いて、二人は疑いを解消したように見えた。
 彼ら3人が、救出の使命をもった君主制主義者を装ったことは、ほとんど確実だ。
 Mihael は服を着て、Johnson に付き添われながら、ホテルの正面に停まっていた訪問者たちの車に入った。
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 (06) 三頭馬車は、Motovilikha の産業居留地の方向へと過ぎ去った。
 町を出て、森の中に入り、停まった。
 乗っていた二人は出るように言われた。従ってそうしたとき、この当時のチェカの習慣だったように、二人は弾丸で撃ち倒された。おそらくは背後から射殺された。
 遺体は、近くの溶鉱炉で焼かれた。
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 (07) この殺害のすぐ後で、Perm のボルシェヴィキ当局は、ペテログラードと地域の諸都市に対して、Mihael は逃亡しており、探索中だと伝えた。
 同時に、Mihael は君主制主義者に誘拐された、という噂を拡散した(注52)。
 地方新聞紙の<Permskii Izvestiia>は、出来事についてつぎの報告記事を掲載した。
 「5月31日[6月12日]の夜、偽造の命令書をもった白軍の組織立った一隊がMihael Romanov とその秘書のJohnson が住むホテルに現われて、二人を誘拐し、不明の目的地へと連れ去った。
 探索隊は、夜のため痕跡が分からない、と発表した。探索は継続している。」(注53)
 これは、連続したウソだった。
 Mihael ら二人は実際には、白軍に誘拐されたのではなく、元錠前屋で職業的革命家であり、Motivilikha ソヴェトの議長であるG. I. Miasnikov が率いるをチェカによって誘拐された。
 彼を手伝った4人の共犯者は、同じ都市の親ボルシェヴィキの労働者だった。
 「白衛軍」の陰謀という神話は、翌年にMihael ら二人の遺体の場所がSokolov 委員会によって突き止められると、維持することができなくなった。
 そのあとの公式の共産党の見解は、〔チェカの〕Miasnikov と共犯者たちは、モスクワからも現地のソヴェトからも権限を与えられることなく、自分たちで勝手に行動した、というものだった。—これは、最も騙されやすい者ですらその軽信さを疑問に感じるであろうような説明だ(脚注1)
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 (脚注1) Bykov, Poslednie dni, p.121. Miasnikov はのちに労働者反対派の一人になり、そのために党を1921年に追放され、1923年に逮捕された。1924-25年にパリに現われ、Mihael 殺害を叙述する原稿を売り歩いた。それを1924年にモスクワで出版した、と言われている(Za svobodu!, 1925)。
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 (08) 6月17日、モスクワとペテログラードの新聞は、Mihael の「行方不明」を報告し(脚注2)、ニコライはIpatev の家宅に押入った一人の赤軍兵士によって殺されている、との風聞が同時に広がっている(注54)、と伝えた。(脚注2)
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 (脚注2)例えば、NVCh, No.91(1918 年6月17日), p.1. 一ヶ月後にソヴナルコムのプレス局は、Mihael はOmsk へと逃亡し、おそらくロンドンにいる、との声明を発表した。NV, No.124/148(1918年7月23日), p.3.
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 この風聞はもともとは自然発生的なものでもあり得たが、つぎのことの方がはるかに大いにありそうだ。すなわち、ニコライの殺害とそのために進行している準備に対するロシア民衆と外国諸政府の両方の反応を試してみるために、ボルシェヴィキが意図的に流布した。
 このような仮説に信憑性を付与するのは、レーニンの異常な振舞いだ。
 レーニンは6月18日に、日刊紙<Nashe slovo>のインタビューを受けて、こう語った。すなわち、Mihael の逃亡を確認することはできるが、政府は前皇帝が死んでいるか生きているかを決定することができない、と(注55)。
 レーニンが<Nashe slovo>のインタビューを受けたのは、きわめて異例のことだった。この新聞紙はリベラル派で、状況が許す範囲内でボルシェヴィキ体制に批判的であって、ボルシェヴィキはこれとは通常は接触しなかったのだ。
 同様に不思議であるのは、前皇帝の運命についての無知を弁明していることだった。なぜなら、政府は簡単に事実がどうであるかを確定することができたからだ。6月22日、ソヴナルコム(人民委員会議)のプレス局は、Ekaterinburg と毎日交信していることを認めつつ、ニコライの運命に関してはまだ分からない、と述べた(注56)。
 政府のこうした行動によって、企てている前皇帝の殺害に対する公衆の反応を試すためにモスクワが風聞を流布した、という仮説は、強く支持される(脚注3)
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 (脚注3) P. Bulygin, Segodnia(Riga), No.174(1928年7月1日), p.2-3. ようやく6月28日、ソヴィエト当局は、ニコライとその家族は安全に生存していることを確認した。その際、Ekaterinburg にいる北部Ural 戦線の最高司令官から、6月21日にIpatev 邸を調査して、生存している居住者たちを見つけた、という電信を受けた、と表向き主張した。NV, No.104/128(1918年6月29日), p.3. つぎを参照。M. K. Diterikhs, Ubiistvo tsarskoi, sem’i i chlenov doma Romanovykh na Ural e, I(Vladivostok, 1922), p.46-48. この情報が一週間遅れたことは、意図的な偽装という文脈を除外しては説明不可能だ。
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 (09) 貴族制や君主制に親近的な者たちは別として、ロシアの民衆、知識人層、「大衆」は同様に、ニコライの運命に関する一方あるいは他方の立場を示さなかった。
 外国の諸見解も、紛糾したものではなかった。
 London の<Times>紙のペテログラード特派員が6月23日に送り、7月3日に公にされた通信文は、不吉な暗示を伝えていた。
 「ロマノフ一族がこの種の公的な著名さを与えられるときはいつでも、人々は何か重要なことが起きている、と考える。
 退位があった王朝に関して頻繁にこのような驚きが生じることに、ボルシェヴィキはますます我慢できなくなっている。そして、ロマノフ家の運命の解決が賢明であるかについて、そしてきっぱりとロマノフ一族の問題を処理してしまうことについて、そのような問題が再び提起されている。」
 もちろん、「ロマノフ家の運命の解決」とは、彼らを殺害することのみを意味している。
 このむしろ粗雑な問題提起は、すげなく無視された。
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 (10) ロシアと外国での、このような風聞への無関心さによって、皇帝家族の運命は話題にされなくなった、と思える。
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 第六節、終わり。

2911/R.Pipes1990年著—第17章①。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳。
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 第一節/ロシアの国王殺しの独特さ。
 (01) 1918年7月16-17日の夜、およそ午前2時半、ウラル地方のEkaterinburg で、チェカの一隊が、前皇帝のニコライ二世、妻、子息と4人の娘たち、家族の医師、3人の召使いを、地下室で、殺害した。
 これに関する多くのことが、確実さをもって知られている。
 しかしながら、この悲劇へと至った歩みは、莫大な文献があるにもかかわらず曖昧で、適切な全ての文書資料が公にされるまで、研究者たちに残されたままだろう(脚注)
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 (脚注) Kolchak 提督が犯罪の調査のために任命した特別委員会の長のNicholas A. Sokolov に関する、基礎的な文書は残っている。Ubiistvo tsarskoi sent’i(Paris, 1925)(仏語と独語でのみ利用できる).
 二次文書のうち最良なのはつぎだ。Paul Bulygin, The Murder of the Romanovs(London, 1935); S. P. Melgunov, Sud’ba Imperatova Nikolai a II posle otrecheniia(Paris, 1957).
 その他のロマノフ一族の運命について、主要な資料はつぎだ。Serge Smirnov, Autour de l’Assassiant des Grands-Ducs(Paris, 1928).
 P. M. Bykov のボルシェヴィキ文書の最初の版・‘Poslednie dni poslednego tsar ia’ in Rabochaia revoliutiia na Urale(N. L. Nikolaev, ed.)(Ekaterinburg, 1921), p.3-p.26 は役立つ。
 Harvard Uni. のHoughton 図書館に預託されたSokolov 委員会の関係資料一式は、不可欠だ。
 学術上の選集には、Nicholas Ross により編集されたつぎがある。Gibel’
tsarskoi sem’i (Frankfurt, 1987).
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 (02) 二人のヨーロッパの君主が、革命的激変の結果として生命を失なった。1649年にCharles 1世、1793年にLouis 16世。
 だが、ロシア革命に関する多くがそうであるように、皇帝家族の殺害に関する表面的なことはよく知られているが、多くのその他のことには独特なところがある。
 Charles 1世は、公式に責任を提示し、彼に防御の機会を与えた、特別の司法裁判所によって尋問を受けた。
 審理は公開で行なわれ、その記録は審理が進行中でも公にされた。処刑も公衆の目の前で行なわれた。
 同じことは、Louis 16世についても言えた。
 彼は国民公会の面前で審判され、法律家が王を弁護する長い審理の後の過半数以上の票決によって、死刑に処せられた。
 審理の記録も、公刊された。
 パリの中央部で昼間に、処刑は実行された。
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 (03) ニコライ二世は、訴追もされず、裁判にかけられもしなかった。
 彼に死を宣告したソヴィエト政府は、関係する文書記録を一度も公刊しなかった。事件に関して知られている事実は、主として、一人の熱心な調査者の努力の結果だ。
 ロシアの場合は、犠牲者は退位した君主だけではなく、妻、子どもたち、補佐者たちもそうだった。
 真夜中に実施された殺害行為は、正規の処刑以上に、ギャングが実行する虐殺のごときものだった。
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 第二節/ボルシェヴィキ支配の最初の一ヶ月の前皇帝と家族。
 (01) ボルシェヴィキが権力を奪取しても最初は、Tobolsk で生活する前皇帝、その家族と補佐者たちに大きな変化はなかった。そこに追放したのは、臨時政府のケレンスキーだった。
 1917-18年の冬、知事の居宅とその別館での生活は以前と同様に送られていた。
 一族は、散歩、近くの教会での宗教活動への出席、新聞の受け取り、友人との文通が許された。
 1918年2月、政府からの補助金が削減され、受け取る額は一ヶ月に600ルーブルへと減った。だがそれでも、彼らはなお相当に快適に生活していた。
 より切迫した問題を多数抱えていたボルシェヴィキは、全員が公的案件から離れていたロマノフ一家について、考えを及ぼすことがほとんどなかった。
 彼らは1917年11月初めに前皇帝の扱いを議論したけれども、何も決定しなかった。
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 (02) ブレスト=リトフスク条約の締結と結びついて、状況が変わり始めた。
 条約はボルシェヴィキ体制に対して、激しい憎悪をもたらした。
 この雰囲気の中では、皇位復活の企てを排除することができなかった。ボルシェヴィキがドイツ人将校のあいだにある親君主主義感情に気づいたので、なおさらそうだった。
 混乱を避けるために、ロマノフ家を舞台から引き下ろす用意がなされた。
 3月9日、レーニンは、ロシアの王位と噂された相続人であるMichail大公を追放する布令を発した。
 Michael は、1917年3月にニコライから提示された王位を拒否して以来、政治には何の関心も示さなかった。
 彼は、ペテログラード近くのGatchina にある所有地で、静かに暮らしていた。政治を避け、公衆の目から離れるようにしながら(注02)。
 政治的出来事に関係しなかったことは、王位を断ったあとで驚くペテログラード・ソヴェトの役人たちの前に姿を現し、自分の土地で猟をする許可を求めた、ということからも理解できるかもしれない(03)。
 1917年の夏、彼はイギリス大使館に英国へのヴィザの発給を求めた。しかし、「閣下の政府は、皇帝家族の一員が戦争中に英国へ行くのを望んでいない」との説明とともに却下された(脚注1) (注04)。
 1917年の末、彼はレーニンに、自分の貴族名を妻のBrasoba 伯爵夫人のものに変えたいと申し出た。だが、返答はなかった(注05)。
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 (脚注1) Michail の友人のO. Poutianine がつぎのように主張するのは、ゆえに、不正確だ。Michail は、ロシアの民衆は自分を害さないだろうと信じて、イギリスへの政治的亡命を希望しなかった、と。Revue des Deux Mondes, XVIII(1923年11月15日), p.297-8.
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 (03) Michail は、今は拘禁されていた。最初はSmolnyi で、のちにはチェカ本部で。
 3月12日、レーニンと政府の残余がモスクワに出発したあとで、彼は、Tobolsk から遠くないPerm へと、警護付きで送られた。
 ボルシェヴィキは、ドイツ軍がペテログラードを占領して皇帝家族を捕まえるのを怖れて、この無防備の地域から移すことに決めたのだ。
 3月16日、ペテログラード・チェカの長のUritskii は、ペテログラードとその近傍にいる一族全員に、登録するよう命じた(06)。
 その月ののち、彼は、これら全員をPerm、Vologda、Viatka の各州のいずれか好きな所に追放する、と命令した。
 いずれかに到着すれば、彼らは、その地方のソヴェトに報告し、住居に関する許可を受けなければならなかった(注07)。
 のちに判ったように、在監中の者やボルシェヴィキ支配の外部での生活者を除く全てのロマノフ家一族は、Perm で死んだ。
 この地域にはペテログラードとモスクワに次いでボルシェヴィキ党員が集中していたので、信頼して皇帝一族に厳しい目を向けさせ続けることができた。
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 (04) これらは、予防的措置だった。ボルシェヴィキ指導層は、前皇帝とその親戚をどう扱うかについて、まだ決めていなかった。
 レーニンは1911年に、「少なくとも100人のロマノフたちの首を刎ねるのが必要だ」と書いていた(8)。
 しかし、このような大量殺戮は危険だっただろう。村落には、強い君主主義心情があったからだ。
 一つの可能性は、ニコライを革命審判所で審理させることだった。
 司法人民委員として当時に知り得る立場にあったIsaac Steinberg は、こう書く。君主制の復活を阻止するために、1918年2月にそのような審判が考慮された、と。—復活すれば、一般に歓迎された退位から一年後に、不人気のニコライが、ボルシェヴィキを煩わせる訴えをロシア人にするのを暗黙に承認することになる。
 Steinberg によると、中央執行委員会の会議で、Spiridonova は、Tobolsk からの経由地でニコライはリンチに遭うだろうという理由で、審判に反対した。
 レーニンは、前皇帝に対する法的手続を進めるのはまだ早すぎる、と決定した。但し、審判のための資料を集めておくように命じた(脚注2)。
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 (脚注2) Steinberg, Spiridonova, Revolutionary Terrorist(London, 1935), p.195. 1918年1月12日/25日に、Vechernii Chas は、Steinberg へのインタビュー記事を掲載した。そこで彼は、審判が行なわれることについて自信を表明した。「知られているように、前皇帝は立憲会議で裁かれることが提起されていた。しかし今では、彼の運命は人民委員会議で決定されるように思われる」。これは、人民委員会議が1918年1月29日にニコライ二世を裁判所に引き渡す決定を採択して以降、確認されてきた。G. Ioffe, Sovetskaia Rossiia, No. 161/9,412(1987年7月12日), p. 4.
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 (05) 4月半ば、ロシアの新聞は、「ニコライ・ロマノフ」の審理が始まりそうだ、との報告記事を掲載した。
 これは、最高調査委員会の長としてKrylenko が準備していた、旧体制の重要人物に対する一連の審判の最初だろう、と言われた。
 前皇帝は、国制上の支配者として—つまり1905年10月17日以降に—冒した「犯罪」についてのみ訴追されるだろう。
 それらの諸「犯罪」の中に、選挙法を恣意的に変更して基礎的諸法律を侵犯した、いわゆる1907年6月3日のクーデタが含まれるだろう。予算の「予備」部分を用いた国費の不適切な支出その他の、権力濫用(注09)。
 しかし、4月22日、プレスは、ニコライが審理されることをKrylenko は否定した、と伝えた。
 Krylenko によると、風聞は誤解にもとづいている。政府が本当に意図したのは、ロマノフの名前を使って、諜報徴発者を裁判にかけることだった。
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 第二節、終わり。第三節へつづく。

2909/R.Pipes1990年著—第16章⑯。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第七節/軍事行動作戦の評価。
 (01) 村落に対するボルシェヴィキの軍事行動作戦の結果を査定するならば、村落が勝者だったと宣しなければならないだろう。
 ボルシェヴィキは若干の政治的目標を達成したが、農民層を分裂させること、農民から意味ある量の穀物を奪いとることのいずれにも、失敗した。
 政治的成果ですら、すぐに消えた。赤軍部隊が1919年に白軍の脅威に備えて召喚されたとき、村落は再び元の状態に戻ったからだ。
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 (02) 食料の調達も、体制側をほとんど満足させなかった。
 共産党側の文献は、実力による手段で獲得した食料の量に関して、珍しく口が重い。だが、それらが提示する証拠資料によると、きわめて少なかった。
 1918年の収穫期(8月半ばから11月初めまで)のあいだ、赤軍に助けられた食料派遣隊と貧民委員会は、12の州から、穀物の余剰3500万pud あるいは57万トンを調達した、と言われている(脚注1)
 1918年の収穫は30億pud あるいは4900万トンだったので(注123)、努力と残忍さの全てをもってしても—機関砲を撃つ兵団、戦闘、首を吊っての死刑判決付きの人質—、収穫のわずか100分の1しか得られなかったことになる。
 当局は、田園地帯を襲撃する政策の失敗を認めた。1919年1月に、現物課税(prodovol’stvennaia razverstka あるいはprodrazverstka)を導入したときには。この現物税導入によって、余剰分全ての没収は、農民が引き渡すべき量を明記する厳格な規範に変更された。
 この量は、生産者の配送能力とは無関係に、国家の需要に応じて決められた。
 政府は配送を確保するために、地区と下部地区に割当て量を課し、ついで負担分を村落や農村共同体に配分する、中国・モンゴル制度に変更した。
 後者は、すでに帝制時代にそうだったように、義務に応じる集団責任制(krugovaia poruka)で拘束されていた。
 少なくとも何らかの順序を導入するこの制度は、もともとは穀物と飼料に適用されたが、のちには事実上全ての食料を含むよう拡張された。
 引き渡すよう強いられた物品について、農民は金銭を受け取ったが、それでは何も買えなかった。レーニンは1920年に、訪れているBertrand Russel に対して、くすり笑いをしながら、政府がいかにしてmuzhik に穀物の対価として無価値の紙幣を受け取らせているかを叙述した(脚注2)(注124)。
 だが、こうしたことがあっても、レーニンは、穀物の自由取引を認めるよりも全員を餓死させると言ったことがあったものの、ほとんど2年後の1921年春には、確固たる現実に屈服し、非を認めて、穀物独占を放棄しなければならなかった。
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 (脚注1) LS, XVIII, p.158n. しかし、レーニン(PSS, XXXVII, p.419)は、体制は6700pud を獲得した、と主張した。
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 (脚注2) Bertrand Russell, Unpopular Essays(New York, 1950), p.73-p.111.「私が[レーニンに]農業の社会主義について質問したとき、彼はほくそ笑みつつ、いかにして貧農を富農に対して煽動したかを説明した。『そして、彼らはすぐに最も近くの樹木に首を吊らせた。—ハ、ハ、ハ』。虐殺された者たちを考えての彼の高笑いは、私の血を冷たくさせた。」
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 (03) ボルシェヴィキ体制はまた、村落で階級戦争を巻き起こすこともできなかった。
 少数派の「富裕な」農民と同じく少数派の「貧困な」農民は「中層」農民の広い海に溺れ、三層の農民は仲間で殺し合う戦争をするのを拒んだ。
 ある歴史家の言葉によれば、「クラクは村落の側に立ち、村落はクラクの側に立った」(注125)。
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 (04) 二ヶ月のうちに、ボルシェヴィキは誤りに気づいた。
 レーニンとTsiurupa は、1918年8月17日に、中層農民を説得し、彼らを貧農と一緒に富農に対抗して統合させる積極的努力を命じる特別の指令を発した(注126)。
 レーニンはその後に繰り返して、体制は中層農民の敵ではない、と主張した(注127)。
 しかし、このような言葉だけの譲歩は、ほとんど意味がなかった。中層農民は食料をもっており、したがってボルシェヴィキの食料奪取政策の主要な犠牲者だったのだから。
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 (05) 農民たちは、ボルシェヴィキの農業政策によって、完全に混乱させられた。
 彼らは、「革命」とは国家に対する全ての義務から自分たちを解放する、voia あるいはアナーキーを意味すると理解していた。
 農民たちがこう言うのが聞かれた。「彼らは、全ての土地を引き渡すと約束した。税金を徴収するとは、軍隊に徴兵するとは言わなかった。そして今は何を…?」(注128)。
 実際に、共産主義国家に対する農民の義務は、帝制時代よりもはるかに苛酷だった。すなわち、共産党員研究者たちの計算によると少なくとも二倍重かった。義務には税だけではなく、強制労働、および木材を伐採して運搬するなどの、きわめて負担になるその他の義務があったのだから(注129)。
 農民たちが称した<sutsilism>は都市の煽動者たちが彼らに課そうとしたものだったが、この語彙は農民たちにはさっぱり分からなかった。そして、彼らはつねに、外国語を馴染みのある言語に再翻訳して、類似の環境のもとでそれを行なうように反応した。
 農民たちは与えられたものを疑い始めたが、それでも保持するつもりでいた。自分たちは必要不可欠であり、そのゆえに、侵され得ない者たちなのだ。
 そのうちに、「常識」が彼らに告げた。余剰の穀物を自由市場で処分することができないかぎり、余剰を生産しても何の利益にもならない、と。
 この意識こそが、食料生産が着実に減りつづけ、1921年に飢饉が発生する大きな原因になることになる。
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 (06) ボルシェヴィキは、村落に彼らが指揮するソヴェトの網の目を持ち込むことで最後には村落に浸透した、という功績を主張することができた。
 しかし、これは、ある程度は幻想だった。
 1920年代初めに行なわれた研究は、村落は共産党のソヴェトを無視したことを明らかにした。
 その頃までに、権威は、家族の長によって運営される村落共同体の組織へと移っていた。まるで村落には革命はなかったかのごとくに。
 村落ソヴェトは、それらの決定への同意を共同体から獲得しなければならなかった。それらには自分たちの予算すらなかった。
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 (07) こうした事実に照らして見ると、村落に対する軍事行動作戦は完全な成功であるばかりか、歴史的重要性において十月のクーを凌駕する、とレーニンが主張したのは、驚くべきことだ。
 彼は1918年12月に、「以前の革命では社会主義を目指す作業に対する大きな障害だった」問題を、この一年間で解決した、と豪語した。
 こうも言った。ボルシェヴィキは革命の初期の段階で、地主に対する貧農、中農、富農の闘いに加わった。
 これらの同盟は、村落「ブルジョアジー」を無傷なままに残した。
 この状況が永続するのを認めれば、革命は中途で止まり、後退するのは必至だろう。
 このような危険は、「プロレタリアート」が貧農を覚醒させ、貧農とともに村落ブルジョアジーを攻撃することによって、回避される。
 かくして、ロシア革命は、西側のブルジョア民主主義革命を超えて進化し、都市と村落のプロレタリアートの合同の基盤を生み出し、ロシアに集団農業を導入する基礎を築いた。
 レーニンは、つぎのように勝ち誇った。
 「こうしたことが革命の意義だ。そして、今年の夏と秋に村落ロシアの人里離れた箇所のほとんどで起きたことだ。
 このことは、昨年の十月革命ほどには騒がれず、明瞭には語れれず、誰もの注目を受けているのではない。しかし、比較できないほど大きい、深い重要性がある。」(注131)
 これはもちろん、狂気じみた誇張だった。
 レーニンが誇った村落のボルシェヴィキ化は、ようやく10年後に、スターリンによって達成されることになる。
 しかし、その他の多くの面でそうであるように、スターリンの路線は、レーニンによってあらかじめすでに、概略が描かれていた。
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 第七節、終わり。第16章全体も終わり。つぎの章は皇帝家族の殺害
 

2908/R.Pipes1990年著—第16章⑮。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第六節/“貧民委員会”②。
 (09) ボルシェヴィキは、怯むことなく、軍事作戦行動を進めた。
 数千人のボルシェヴィキ党員とボルシェヴィキ同調者が、煽動し、組織し、そして村落ソヴェトの抵抗を抑えるために、田園地帯に送られた。
 この手段がどのように機能したかを、つぎの出来事が示している。
 「1918年7月26日に開催された、 volost’ および村落ソヴェトのSaransk 地区大会の議事概要から。
 決定された。貧民委員会の機能は、volost’ および村落ソヴェトに委ねられるものとする。
 票決後に、Kaplev 同志(副議長)は、共産党・ボルシェヴィキ地方委員会の名で大会に対して、大会出席者の明らかに多数派は、誤解によって中央の権威に反対する票決を行なった、と伝えた。
 この理由で、この問題に関する布令と指示を基礎にして、党は地方組織に、代表者たちを派遣するだろう。この代表者たちは民衆に対して、貧民委員会の意義を説明し、(政府の)布令に適合してこれを組織するに至るだろう。」(注110)
 このようなやり方で、党官僚たちは、貧民委員会の設立を拒否する農民の投票を無効化した。
 このような強引な方法を用いて、ボルシェヴィキは1918年12月までに、12万3000のkombedy(貧民委員会)を組織した。この数は、2村落ごとに1つを僅かに上回っていた(注111)。
 これらの組織が現実に機能したか、あるいはそもそも存在したのか、を語るのは不可能だ。ある者は、多くの場合は紙の上でのみ存在した、と疑っている。
 多くの場合、貧民委員会の議長は、党員であるか、自らを「同調者」だと称する者だった(注112)。
 後者は、外部者、主として都市部の<apparatchiki>の言いなりに行動した。この頃には、共産党の中に農民はほとんどいなかったからだ。中央ロシアの12州についての統計調査は、村落地域には共産党員が1585人しかいなかったことを、示している(注113)。
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 (10) ボルシェヴィキは、貧民委員会を過渡的な制度だと見ていた。それをソヴェトへと改変させるのが、レーニンの意図だった。
 1918年11月に、彼はこう宣告した。
 「貧民委員会をソヴェトと融合させる。我々は、貧民委員会がソヴェトになるように、準備するだろう。」(注114)
 ジノヴィエフはその翌日に、この問題に関してソヴェト大会に向けて書き送った。
 彼は、こう述べた。村落のソヴェトを都市のソヴェトに似ているものに、すなわち「社会主義の建設」の機関になるように再形成するのが、貧民委員会の任務だ。
 このためには、中央執行委員会が決定する規則にもとづく、国土全般にわたる村落ソヴェトの「再選挙」が必要だった(注115)。
 この規則は、12月2日に発表された。
 そこでは、村落ソヴェトは「社会主義革命」が田園地帯に到達する前に選出されているがゆえに、「クラク」によって支配され続けている、と述べられた。
 今や必要になったのは、村落ソヴェトを都市ソヴェトと「完全に調和する」ようにさせることだった。
 村落およびvolost’ レベルでの全国土的再選挙は、貧民委員会の監督のもとで行なうこととされていた。
 新しい村落ソヴェトが適切な「階級的」性格をもつのを確保するため、州の都市ソヴェトの執行部は、選挙を監督し、必要な場合には、望ましくない者を排除することになる(脚注1)
 クラクおよびその他の投機者や搾取者は、選挙権がないものとされた。
 国家の全ての権力はソヴェトに帰属するとの1918年憲法の条項を無視して、布令は、新たに選出された村落ソヴェトの「主要な任務」は「ソヴェトの権威のうちの対応する上級機関の全ての決定を実現すること」にある、と明言した。「ソヴェトの権威」とはすなわち、中央政府のことだ。
 村落ソヴェト自体の権威—帝制ロシア時代の<zemstva>のそれをモデルにした—は、各々の地域の「文化的、経済的水準」を高めることに限定されるとされた。統計資料を収集する、地方の工業を推進する、政府が穀物を獲得するのを助ける、といった手段によって。
 言い換えると、村落ソヴェトは、第一に官僚による決定の連絡者に、第二に民衆の生活条件の改善に責任をもつ機関に、改変されることになった。
 こうした使命が達成されるとすぐに、貧民委員会は解体されるともされた(脚注2)
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 (脚注1) これは、帝制時代の知事に付与された権限に似ている。この権限によって、「信頼性」という帝制の規準を満たすことのできない、選挙されたzemstvo の役人を排除することができた。
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 (脚注2) E. H. Carr(The Bolshevik Revolution, II, London, 1952, p.159)がこう述べるのは、したがって、誤りだ。貧民委員会は最初から過渡的な組織として意図されていたのだから、解散命令は貧民委員会の失敗を証明した、と。
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 (11) 1918-19年に実施されたvolost’ と村落のソヴェトの再選挙は、以前にボルシェヴィキが都市部で形成したやり方を、ほとんど踏襲していた(注117)。
 全ての執行部の職は、共産党員、「同調者」、「非党員」(partyless)に予め割当てられていた。
 農民が自分たちの候補者を頑なに選出し、さらに再選出したので、政府は望んだ結果が得られるように、方法を修正した。
 ほとんどの地域で、投票は公開で行われ(注118)、脅迫的な効果をもった。指示されたとおりに投票しない農民は、「クラク」との烙印を捺される危険があったからだ。
 共産党以外の政党は、参画が許されなかった。これは、「ソヴェトの権威の基盤に立つ」政党や党派だけが候補者を擁立することができる、と定める条項によって保障されていた。
 1918年憲法はソヴェトの選挙に参加できる政党については何も言及していない、との異議は、すげなく却下された(注119)。
 多くの地域で、共産党の細胞は、立候補した者全員の承認を強く主張した。
 こうした事前の警戒にもかかわらず、「クラク」その他の望ましくない者が、依然として執行的職を獲得することがあった。これはしばしば起きたと思われるのだが、そのような場合、共産党は、選挙を無効と宣言し、再選挙を命じる、という彼らが好んだ技巧に頼った。
 これは、望ましい結果が得られるまで、必要な回数だけ行なわれることがあった。
 あるソヴィエトの歴史家は、三回または四回あるいはそれ以上の「選挙」が連続して行なわれることは異例でなかった、と述べている(注120)。
 それでもなお、農民たちは「クラク」を選出しつづけた。「クラク」、すなわち非ボルシェヴィキや反ボルシェヴィキ。
 かくして、Samara 州では1919年に、新しいvolost’ ソヴェト構成員の40パーセントを下回らない数の者が「クラク」であことがあった(注121)。
 共産党はこのような不服従を終わらせるために、1919年12月27日、ペテログラード地域の党組織に対して、「承認された」候補者たちの単一名簿に村落ソヴェトを服従させることを指示する命令を発した(注122)。
 やがて他の地域へも拡大されたこの方法が実施されることによって、自治機関としての村落ソヴェトは終焉を迎えた。
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 第六節、終わり。

2905/R.Pipes1990年著—第16章⑬。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第五節/食料調達派遣隊が抵抗に遭遇・大量の農民反乱③。
 (10) 調達派遣隊の残忍な行動があったにもかかわらず、僅かばかりの食料しか諸都市には供給されなかった。彼らがどうにかして調達した少量の食料は、隊員たちによって消費された。
 食料派遣隊が組織されて二ヶ月後の1918年7月24日、レーニンはスターリンに対して、食料はまだペテログラードにもモスクワにも届いていない、と伝えた(注96)。
 考えられ得る最も残忍な政策が大失敗を喫して、レーニンは、激怒の感情に陥った。
 収穫の時期が近づき、村落「前線」へ派遣された者たちが失敗を継続していたとき、レーニンはボルシェヴィキの司令官たちの優柔不断さを難詰し、さらに苛酷な復讐を行なうことを命令した。
 8月10日、彼はTsiurupa に電報でこう伝えた。
 「1. Saratov にはパンがあり、我々がそれを徴集することができないのは、酷い、気狂いじみた醜聞だ。…
 2. 布令案。全てのパン生産地区に、<富者>の中から25-30人の人質を取る。この人質たちは、<全ての>余剰の収集と配送について、<生命>でもって答える。」(注97)
 Tsiurupa は、こう答えた。「現実の力があって初めて、人質を取ることができる。そんな力は存在するのか? 疑わしい。」
 レーニンは、こう返答した。「私は人質を『取る』ことではなく、『指名する』ことを提案している」(注98)。
 これは、人質取りを行なうことに、最も早く言及したものだった。そして、4週間のちに、「赤色テロル」のもとで、大規模に実行されることになる。
 レーニンがこの野蛮な政策に真剣だったことは、農民反乱が進行中のPenza 州に対する彼の指示から、明白になる。
 「5つの地区での蜂起を弾圧するあいだ、全ての穀物の余剰を所有者から奪うために、全ての努力を傾注し、全ての措置を採用せよ。そうして、蜂起の弾圧と同時にこの目的を達成せよ。
 この目的達成のために、全ての地区で人質を指名(人身拘束をするのではなく指名)せよ。氏名を明確にして、クラク、富者、搾取者の中から。そして、この者たちに、指定された施設または穀物集積地点への徴集と配送について、および例外なく全ての穀物の余剰の当局への引渡しについて、責任を負わせるものとする。
 人質たちは、この引渡し物の正確で迅速な提供について、自分たちの生命でもって答えることができる。…」(注99)
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 (11) 1918年8月6日、レーニンは、「ブルジョアジー」の「反革命」部分に対する「容赦なき大量テロル」および飢えを「武器」として用いる「裏切り者の容赦なき根絶」に関する布令を発した。
 余剰の穀物の奪取に抵抗する全ての者は、「運び屋」を含めて、革命審判所へと送致するものとされた。また、かりに武装したままで逮捕されれば、その場所で射殺されるものとされた(注100)。
 レーニンは、憤怒の感情に魅せられたごとく、「クラク」からはその余剰穀物のみならず、翌年の収穫のために必要な穀物〔種〕も剥奪せよ、と命令した(注101)。
 彼のこの時期の演説や文書による指示は、農民の抵抗に対する怒りによって理性的に思考する力をなくしている、ということを示している。
 このことは、1918年8月の工業労働者に対する訴えによっても明確だ。その中で彼は、つぎのように、「最後の、決定的闘争」に立ち上がることを呼びかけた。
 「クラクは狂って、ソヴィエトの権威を嫌悪し、数十万の労働者を窒息させ、切り刻もうとしている。…
 クラクが無数の労働者を切り裂くか、労働者たちが、勤労者の権力に反抗する、民衆の中の不正な少数派の蜂起を容赦なく粉砕するか、のいずれかだ。
 ここには、中間の立場はあり得ない。…
 クラクは、最も野獣的で、最も粗暴で、最も苛酷な搾取者だ。…
 この吸血鬼たちは、戦争中に民衆の欠乏に乗っかって富を固めてきた。こいつらは、幾千万も蓄えてきた。…
 この蜘蛛野郎たちは、戦争で困窮した農民と飢えた労働者を犠牲にして太ってきた。
 この寄生虫は、勤労者の血を吸っており、都市や工場の労働者が飢えるほどに豊かになってきた。
 この吸血鬼たちは、地主の土地をその手に集めたし、集め続けている。そして、貧しい農民を繰り返して隷従させている。
 これらクラクに対する容赦なき戦争に決起せよ! クラクに死を!」(脚注)
 ある歴史家が適切に観察したように、「これはおそらく、近代国家の指導者が、民衆をジェノサイド〔集団虐殺〕と社会的に同義のものへと掻き立てた、最初の例だった」(注102)。
 攻撃的行動を自衛活動と偽装するのは、レーニンに特徴的なことだった。この場合には、「クラク」が肉体的に労働者階級を殲滅するという、完全に空想上の脅威に対する自己防衛だ。
 この問題に関するレーニンの狂信的考えには、際限がなかった。
 1919年12月に、彼はこう言った。「我々」は—この代名詞はこれ以上明確化されていないが、彼自身やその仲間たちを含んでいそうにない—、穀物の自由取引を許容すれば「すぐに死に絶えるだろう」(注103)。
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 (脚注) Lenin, PSS, XXXVII, p.39-41. ロベスピエールのつぎの言葉を参照せよ。「富農が執拗に民衆の血を吸いつづけるならば、我々は民衆自体を彼らに引き渡そう。裏切り者、陰謀者、不当利得者に対して正義を実行するのにあまりに多数の障壁があるならば、民衆に彼らを処断させよう。」Ralph Korngold, Robespierre and the Forth Estate(New York, 1941), p.251.
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 (12) 農民の抵抗に対処するため、ソヴナルコム〔人民委員会議〕は8月19日に、戦争人民委員のトロツキーに、民間人派遣隊を含めて、関係する全ての部隊に関する責任を委ねた。このときまでは、これらの部隊は供給人民委員部に従属していた(注104)。
 Tsiurupa はその翌日、食料徴発活動を軍事化する指令を発した。
 食料派遣隊は、州と軍事当局の司令下に置かれ、軍事紀律に服した。
 各派遣部隊は最少で75人の隊員と2または3の機関砲を有するものとされた。
 これらは、近傍の騎兵部隊との連絡を維持し、農民の抵抗の強さに応じて必要とあれば、複数の部隊は一つに合同されるべく編成変えするものとされた。
 正規の赤軍部隊に対してと同じく、これらの各部隊には政治委員が任命された。貧民委員会(the Committees of the Poor)を組織することは、この政治委員の責任だった。
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 第五節、終わり。

2902/R.Pipes1990年著—第16章⑩。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第四節/村落への軍事作戦の開始・1918年5月②。
 (07) エンゲルスはこう言った。貧しく土地をもたない村落プロレタリアートは、一定の条件のもとで、工業労働者階級の同盟者になり得る。
 レーニンは、この考え方を採用した(注65)。
 この前提を今、用いようとした。
 1918年8月、彼は、ロシアの村落の階級構造について、恐ろしい結末となる統計に大まかに取り組んだ。
 レーニンは、こう言った。
 「強奪者が我々からウクライナなどを引き離す前に、従前のロシアを考慮するとロシアにはおよそ1500万の農民がいる、と認めよう。
 この1500万のうち、約1000万人は確実に貧農だ。そして、彼らの労働力を売るか富農に隷属するかして生きているか、それとも、l余剰の穀物をもたず、とくに戦争の負担で破滅してきたかのいずれかだ。
 約300万は、中農として計算されなければならない。
 そして、ほとんど200万を超えないのが、クラク、富者、パン投機者だ。」(注66)
 これらの数字は、現実とは少しの関係もなかった。レーニンが革命前にロシアの村落の「階級分化」に関して行なった計算を、概数で繰り返したものにすぎなかった。
 1899年に彼は、富農、中農、貧農の割合を2—2—4と計算していた。
 1907年には、農民世帯の80.8パーセントが「貧農」、7.7パーセントが「中農」、11.5パーセントは裕福(well-to-do)だ、と結論づけた(注67)。
 レーニンの最も新しい数字は、農業革命の結果として貧農と富農の数は減少した、という事実を無視していた。
 彼は半年後には農民の三分の二は「貧農」だと宣告し、中層農民は「最も強力な勢力」だと叙述した(注68)。
 明らかに、彼の数字は統計上のものではなく、エンゲルスに由来する政治的スローガンだった。エンゲルスは1870年に、ドイツについて、「農業労働者は田園地方での最多数の階級を形成している」と述べた(注69)。
 このような一般化が19世紀後半のドイツについていかに有効であろうとも、1917年以降のロシアについては何の意味もなかった。ロシアでは、「田園地方での最多数の階級」は、自己雇用の中層農民だった。
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 (08) ロシアの村落での「階級分化」が吹聴されたが、それは、統計上の抽象概念から情報を得た都市部の知識人の想像力による幻想だった。
 村落の資本主義をどのようにして明確にしたのか?
 レーニンによると、農業における資本主義の主要な兆候でありそれを指し示すものは、被雇用労働だった(注70)。
 だが、1917年の農業統計によれば、情報が利用された19の地方では、ほとんど500万の農業世帯のうち10万3000だけが労働者を雇用していた。これは、村落の「資本主義者」の割合は2パーセントに等しいことを示している。
 しかし、この数字ですら、この10万3000世帯が総計で12万9000人の労働者、つまり世帯当たり1人以上を雇用していたことを考慮すると、重要性を失う(注71)。
 この労働者たちは、世帯のうちの誰かが病気になったり軍に徴兵されたりしたのが理由で、雇用されたのかもしれない。
 いずれにせよ、農業世帯の2パーセントだけは平均して一人を雇用していたので、これを最大限に拡張したとすれば、ロシア村落への「資本主義」の浸透を語ることができるだろう。ましてや、200万人のクラクが1000万人の「貧農」を雇用していたと主張することはできる。
 別の基準を用いて—村落共同体の土地に行けなかったので—、共産党員統計学者は、村落人口の4パーセント以下が「貧民」だと決定した(注72)。
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 (09) レーニンは、こうした経験的証拠資料を無視した。そして、都市と村落の間の「階級戦争」を開始すると決めた。その際に、村落地帯を侵攻する口実とするために、村落の社会経済的状態について、現実離れした構図を描いた。
 村落で誰が「ブルジョア」かを決定する彼の本当の規準は、経済的でななく政治的なものだった。彼の目からすると、全ての反ボルシェヴィキの農民はクラクと性格づけられた。
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 (10) ボルシェヴィキが1918年の5月と6月に発布した農業布令は。四つの目的をもっていた。
 1. 政治的に積極的な農民を破壊すること。エスエルに忠実な農民のほとんどに「クラク」というラベルを貼ることによって。
 2. 村落共同体の土地保有を切り崩して、国家が運営する集団農業の基礎を築くこと。
 3. エスエルを排除して村落ソヴェトを改造し、都市のボルシェヴィキや非党員支持者と交替させること。
 4. 都市と工業中心地のために食料を徴発すること。
 食料を集めることは、政府のプロパガンダで最大の重要性をもった。しかし、ボルシェヴィキの計画では優先順は最後だった。煙が晴れてみると、農民からの食料徴発の量は、瑣末な問題だった。政治的な効果が、別の重要性をもった。
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 (11) 村落に対する軍事力を伴う攻撃は、軍事作戦と同じく正確さと残虐さをもって行なわれた。
 主要な戦略的決定は、ソヴナルコム〔人民委員会議〕の是認を5月8-9日に得た。これはおそらく、その前に、ボルシェヴィキの中央委員会で票決されていた。
 ソヴナルコムは、穀物の国家独占を再確認した。
 供給人民委員であるTsiurupa は、5月13日の布令の諸条項を実施する臨時の権限を得た(中73)。この布令は、全農民に、固定価格の支払いに応じて余剰穀物を指定された集積地点へと運ぶよう、要求した。
 これをしないで余剰を隠蔵したり、密造酒を作るために用いたりした農民たちは、「人民の敵」だと宣告された。
 レーニンは大衆に対して、「農民ブルジョアジーに対する容赦なきテロル戦争」を展開することを呼びかけた(注74)。
 この軍事作戦行動は、「クラク」に対する二方向の攻撃として構想された。内部からは貧民委員会(<kombedy>)へと組織された貧農で構成される第五列(潜在破壊者)による、そして外部からは、村落を行進して、クラクに銃を突きつけて隠蔵物を強制的に吐き出させる武装労働者で成る「食料派遣隊」(prodovol’stvennye otriady)による攻撃として。
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 (12) 5月13日の布令の前文は、戦争で富裕さを増やし、投機的価格で闇市場で食料を処理することができるように政府に売ることを拒んでいる、と非難した。
 主張された富農の狙いは、穀物取引における国家独占の放棄を政府に強いる、ということだった。
 布令はさらに言う。かりに政府がこの脅迫に屈服するならば、供給と需要の関係を無視して、パンの価格は急上昇し、食料は完全に労働者の手に届かなくなる。
 村落の「クラク」の「頑強さ」を破壊しなければならない。「次の収穫時まで、種を撒いたり家庭が食べたりするのに必要な穀物を除いては、1 pud の穀物であれ、農民に残してはならない」。
 穀物を奪い去る方法については、詳しい手続が案出された。
 全農民は例外なく、布令から一週間以内に余剰の穀物全部を運び込むこととされた。
 これをしない者は、革命審判所に送られるものとされていた。審判所で農民たちは、10年以上の刑、全財産の没収、村落共同体からの追放といった制裁を受ける危険に晒された。
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 第四節、終わり。

2900/R.Pipes1990年著—第16章⑨。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第四節/村落への軍事作戦の開始・1918年5月①。
 (01) Sverdlov は、1918年5月20日に、新しい政策を発表した。
 「革命的ソヴィエトの権威が都市部で十分に強いと言えるとしても、…同じことは村落については言うことができない。…
 この理由で、我々は、村落を分裂させるという問題、村落に二つの対照的で敵対的な勢力を作り出すという問題に、最大限に真剣に、立ち向かわなければならない。…
 村落を二つの回帰不能の敵対的陣営に分裂させることに成功すれば、最近まで都市部で起きていたのと同じ内戦を村落で燃え上がらせることができれば、…その場合にのみ、我々は、都市部でできていたものを村落との関係でも行なうことができる、と言えるようになるだろう。」(注57)
 この異常な声明は、つぎを意味した。ボルシェヴィキは、隣り合って平穏に過ごしている農民のあいだに内戦を解き放つことによって、村落にこれまでは存在しなかった権力基盤を獲得するために、村落住民の一部が別の部分に対抗するよう誘い込むことを決定したのだ。
 この軍事作戦のために指定された攻撃兵団は、都市労働者および貧しく土地を持たない農民で構成されるとされた。「敵」は、富裕な農民、あるいはクラク、村落「ブルジョアジー」だった。
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 (02) レーニンは、ヒトラーのユダヤ人への憎悪と完全に等しい破壊的な感情でもって、彼が「ブルジョアジー」と感知するものを憎悪した。肉体的に消滅させれば、レーニンはきっと満足しただろう。
 都市部の中間層—職業人、金融業者、貿易商人、実業家、年金生活者—は、レーニンをほとんど煩わせなかった。彼らはすぐに従ったからだ。彼らは、東に行くほどブルジョアジーは無関心になるという、1898年のロシア社会民主党の創設綱領の命題の正しさを証明していた。
 彼らは、雪を掻くよう言われれば、雪を掻いた。写真のためにポーズをとるときでも、弱々しく微笑んだ。
 「寄付」が求められれば、忠実に支払った。
 彼らは意識的に、反ボルシェヴィキ軍隊や地下組織との接触を避けた。
 彼らのほとんどは、奇跡が起こることを望んでいた。おそらくは、ドイツの介入、あるいはおそらくは、ボルシェヴィキの政策が「現実主義」へといっそう向かうこと。
 そのうちに、彼らの本能は、身を隠すよう告げた。
 1918年春に、ボルシェヴィキが生産性を高める努力の一つとして、彼らを工業企業に再雇用し始めたとき、彼らの希望は高まった。
 <prauda>が述べたように、このような「ブルジョアジー」を恐れる必要は何もなかった(注58)。
 同じことは、ボルシェヴィキが「プチ・ブルジョア」と呼んだ社会主義知識人についても言えた。彼らもまた、自分たちの理由で、抵抗するのを拒んだ。
 彼らはボルシェヴィキを批判したが、闘う機会が提示されるといつも、別の方向を向いた。
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 (03) 状況は、村落地域によって異なっていた。
 西側の基準では、ロシアにはもちろん「村落ブルジョアジー」がおらず、数ヘクタールの追加の土地、追加の馬または牛、いくばくかの現金および臨時の労役提供のおかげで、僅かに暮らしが良い農民という階級だけがあった。
 しかし、レーニンは、ロシアの村落での「階級分化」というイメージに取り憑かれていた。
 彼は若いときに<zemstvo>の統計を研究し、種々の村落世界の経済的状況の僅かな変化に注目した。
 いかに些細であれ、富裕な農民と貧困な農民の間の分岐が大きくなっていることを示す統計資料は、彼にとっては、革命が利用することができる社会的紛争の潜在的にあることを示すものだった(注59)。
 村落に浸透するために、彼は、村落地域で内戦を起こさなければならなかった。そうするためには、階級敵が必要だった。
 その目的のために、「プロレタリアート」を破壊しようとしている、強力で多数の「反革命的」なクラクという階級を、彼は作り出した。
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 (04) 困惑することに、ヒトラーはユダヤ人か否かを決定する血統上の(「人種」的な)標識を作ることができただろうが、レーニンにはクラクを明確に区別する規準がなかった。
 クラクという術語には、厳密な社会的または経済的な内容がなかった。実際に、革命時代を村落で過ごしたある観察者は、農民たち自体がこの用語を用いない、ということを知った(注60)。
 この言葉は1860年代にロシア語の語彙の中に入ってきた。当時はその言葉は、経済的範疇ではなく、個性によって村落共同体の多数の農民から傑出している農民の一類型を指し示していた。クラクという語は、アメリカ人の俗語では「やり手」(go-getter)と呼ばれる者たちを表現するために用いられた。
 このような農民が村落集会や<volost’>の法廷を支配する傾向にあった。
 彼らはときには金貸しとして行動したが、これは、彼らの明確な属性ではなかった。
 理想的な完全に平等な社会に夢中になった19世紀遅くの急進的な文筆家や小説家は、クラクという語を、村落の搾取者という悪い名称として用いた。
 しかし、仲間の農民たちがこの語が当てはまる者たちを敵意をもって扱った、という証拠資料は存在しない(注61)。
 実際に、1870年代に「人民へ」と向かった急進的な煽動者たちは、全ての農民がクラクになることを心の奥底から切望していることを、発見した。
 ゆえに、1917年の以前も以後も、何らかの客観的基準を使って中間農民をクラクと区別するのは不可能だった。—誠実である瞬間には、レーニンも認めざるを得ない事実(注62)。
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 (05)  「クラク」という術語に厳密で有効な意味を与えることがいかに困難であるかは、ボルシェヴィキが村落地域で階級戦争を開始しようとしたときに、明確になった。
 クラクに抗して「貧困な」農民を組織する任務を与えられた人民委員たちには、これはほとんど不可能な仕事だった。なぜなら、彼らが接触すべく入った村落共同体には、この概念に対応する農民がいなかったからだ。
 そのような官僚の一人は、Samara 地方では農民の40パーセントがクラクだ、と結論づけた(注63)。
 一方、Veronezh 地方のボルシェヴィキ官僚は政府に対して、「民衆の多数を占めているために、クラクや富裕者たちに対する闘争を展開するのは不可能だ、と報告した(注64)。
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 (06) しかし、レーニンは、村落の階級敵を作らなければならなかった。村落がボルシェヴィキによる支配の外にあり、かつエスエルの支配下にあるかぎりは、都市部でのボルシェヴィキの政治基盤は、きわめて脆弱だった。
 農民たちは、固定価格で食料を譲り渡すのを拒んだ。このことは、都市部の民衆を農民層に対抗して結集させる機会を、レーニンに与えた。表向きは食料を引き出させるための、しかし実際には、農民層を屈服させるための好機を。
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 ②へとつづく。

2899/R.Pipes1990年著—第16章⑧。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第三節/食糧徴発政策と都市の飢餓④。
 (16) ボルシェヴィキの中には、このような方法を支持する者もいた。
 国家計画委員会の長のRykov は、強制的な穀物配送と、村落協同組合や私的企業との協力を結び付けることを主張した(注46)。
 別の者たちは、政府が市場価格に近い価格(最低で1pud 60ルーブル)で購入し、国民に割引して販売することを提案した。
 しかし、これら全ては、政治的理由で、却下された。
 メンシェヴィキの<Socialist Coulier>が説明することになるように(注48)、穀物の国家独占は、共産主義者独裁が生き残るには必要不可欠だった。ボルシェヴィキは大量の村落労働者を統制外に置いていたので、穀物生産を支配することに頼らざるを得なかった。
 実際に、この資料によると、1921年の初めまでにボルシェヴィキは、農民を国家の被用者にするというOsinsky の提案について、討議していた。この国家被用者は、あらかじめ当局が決めた土地に種を播き、余剰の全てを国家に引き渡す、という条件のもとでのみ土地の耕作が認められることになる。
 但し、この提案は、Kronstadt 暴乱の発生と新経済政策の採用によって、棚上げされざるを得なかった。
 かりに穀物の取引が自由になっていれば、農民はすぐに富を蓄積し、より大きい経済的自立性を獲得し、かつ深刻な「反革命」の脅威を示していただろう。
 このような危険性を含む措置は、体制が疑いなくロシアを征圧したあとでのみ採られることができた。
 レーニンの政府は、国家権力を保持するために必要であるならば。数百万分人の生命を犠牲にする飢饉に、国を委ねる心づもりでいた。
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 (17) 政治的現実はこうであったので、ボルシェヴィキが1918年の前半に食糧事情を改善しようと執った全ての経済的措置は、役に立たなかった。
 ボルシェヴィキは布令を発しつづけた。食料の収集と配送の過程を修正するか、食料「投機者」を威嚇するかのいずれかだった。
 ボルシェヴィキは執拗に、食料「投機者」を、食料不足の結果ではない、最も過酷な制裁を課すべき原因だと見なした。
 このような布令の中で最も見当違いだったのは、レーニンが1917年12月末に草案を作成した布令だった。レーニンは、こう書いた。
 「食料供給の危機的状況、投機を原因とする飢饉の危険、資本家や官僚層の妨害行為、広く覆う混沌が必要とするのは、悪魔と闘う革命的な非常措置だ。」
 しかし、この「措置」は食料不足とは何の関係もなかった。そうではなく、ロシアの銀行の国有化とロシア政府の国内および国外債務の不履行の宣言を内容としていた(脚注)
 Alexander Tsiurupa によれば、供給人民委員部の1300人の職員のストライキはボルシェヴィキ独裁に抗議するもので、仕事を知らない官僚たちと交替させされたために、状況をいっそう悪化させた(注49)。
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 (脚注) Dekrety, I, p.227-8. これの最後に発せられた版では、財政措置についてのレーニンの怪しい理由づけは、割愛された(p.230).その馬鹿々々さをレーニンですら知ったように見える。
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 (18) ボルシェヴィキは穀物の国家独占を放棄するつもりがなく、当時のプレスが予見していた飢饉を防止するための措置をいっさい何も執らなかった。
 国内の危機に直面した帝制時代のように、官僚機構の改造や手続の変更に頼った。
 これらは彼らが本当に関心をもつ問題に直面した際に採用したものではなかったので、飢餓は彼らの関心対象に含まれないとの結論から脱するのは困難だった。
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 (19) 2月13日、トロツキーが、供給非常委員会の長に任命された。
 彼の任務は、「供給独裁者」として、革命的な非常措置によって都市への食料の流路を整えることだった。この場合に「革命的」とは、婉曲に軍事力の行使を意味していた(注50)。
 しかし、彼が戦時大臣に任命されていたとき、ほとんど責任を負わなかった。供給非常委員会で彼が何かをしたとの記録は、残っていない。
 体制は、国じゅうに、飢えているペテログラードとモスクワを助けよとの訴えを発しつづけた(注51)。国内および外国の「ブルジョアジー」が食料不足の責任があるとする激しい非難で彩られた訴えだった。
 1918年2月、政府は、「運び屋」に対する死刑を命じた(注52)。
 3月25日には、交換の助けで村落地域から食料を引き出そうと試みた。
 政府は、200万トンの穀物と交換に消費用品を購入するために、11億6000万ルーブル—ソヴィエトの出版業の産額の二週間分—を計上した(注53)。
 しかし、この計画が想定する消費用品を見つけることができなかったので、この企ては失敗した。
 4月、現実主義に多少は似た考えから引き出して。政府は、余剰がある地域から穀物を運ぶ新しい鉄道線路を建設する計画を立てた(注54)。
 だが、1メートルの線路も敷かれなかった。かりに敷設されていても、何の違いにもならなかっただろう。
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 (20) 1918年5月の初めまでに、ボルシェヴィキは食料不足の解消のためにもう何もすることができなかった。都市部や工業地域での供給の状況は、警告を発する段階にまで達していたからだ。
 最も多い配給を受けていた労働者たちが飢えてきている、と報告する電報が、クレムリンにどっと届いた(注55)。
 ペテログラードで、1月には自由市場で5ルーブルだった一塊の1ポンド・パンは、今では6〜12ルーブルを要した(注56)。
 何かがなされる必要があった。
 専門家は主張し、工業労働者が要求したのは、穀物の取引を市場の力の自由な働きに委ねることだったが、これは政治的理由で、受け入れ難かった。したがって、別の解決方策を見出す必要があった。
 解決策は、軍事力を用いて村落を侵略し、征圧することだった。
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 第三節、終わり。第四節「村落への軍事作戦の開始・1918年5月」へ。

2890/R.Pipes1990年著—第16章①。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳。
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 第16章・
 1918年春まで、村落共同体は、二月革命以降に手にした資産をその構成員に分配した。
 その後の分配は、ほとんどなかった。動員解除された兵士や遅れて到着した工業労働者たちは、土地割当てを稀にしか受けることがなかった。
 しかし、奪取した土地を平穏裡に享有することができると期待した農民たちは、やがて間違っていたと知った。
 ボルシェヴィキにとっては、1917-18年の「大分配」(Grand Partition)は、集団化への迂回路にすぎなかった。
 ボルシェヴィキは、農民たちが自分たちの消費と播種用に必要とする量以上の穀物は国家のものだとするかつての勅令を依り所として、収穫物についての権利を主張した。
 穀物についての自由市場は、廃止された。
 農民たちは、予期していなかった状況の変化に当惑し、その資産を守るために激しく戦った。暴乱となって立ち上がったのだが、それは、数と領域の点で、帝制ロシアで見られたものを超えていた。
 だが、ほとんど役に立たなかった。
 農民たちは、「強奪する」と「強奪される」はたんに同じ動詞の異なる様態にすぎないことを知るようになった。
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 第16章・第一節/農民を階級敵とするボルシェヴィキの見方。
 (01) 十月のクー・デタの最大のパラドクスは、おそらく、一国での「プロレタリアートの独裁」を確立するためにそれが追求されながら、労働者(自己使用の職人を含む)は有給の被用者のせいぜい10パーセントを構成するだけで、十分に80パーセントは農民だったことだ。
 そして、社会民主党の見方では、農民層—土地のない農業労働者という少数者を除く—は、「ブルジョアジー」の一部であり、そのような者として、「プロレタリアート」の階級敵だった。
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 (02) 自己雇用の(または「中間の」)農民の階級的性格の認識は、社会民主党と社会革命党の間で一致していない中核的問題だった。後者の社会革命党は、「勤労者」(toilers)として工業労働者に随行する農民と位置づけた。
 しかしながら、マルクスは、農民を労働者の階級敵、「古い社会の防波堤」と定義した(注01)。
 カール・カウツキーは、農民層の目標は社会主義のそれとは反対だ、と主張した(注02)。
 1896年に社会主義インター大会で提起された農業問題に関する声明で、ロシア社会民主党代表団は、農民は社会主義思想に閉ざされた遅れた階層で、放っておくのがよい、と述べた(注03)。
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 (03) レーニンも、このような評価に賛成だった。
 1902年に、こう書いていた。
 「小生産者で小耕作者の階級は、<反動的>階級だ」(注04)。
 しかし、彼は、何らかの理由で現状に不満をもっている全ての集団と階級を革命の過程へ引き込むという彼の一般的な政策方針に沿って、「プロレタリア」の教条を助ける「プチ・ブルジョア」の農民層を許容した。
 この点で—戦術の問題にすぎないのだが—、レーニンは他の社会民主党員と違っていた。
 レーニンは、ロシアの村落は大部分はまだ「封建的」関係に支配されている、と想定した。
 農民層がこのような秩序と闘うかぎりでは、「進歩的」役割を果たした。
 「我々は、完璧で無条件の、改革的ではない革命的な、農奴制の残存の廃止と破壊を要求する。
 我々は、地主政府が奪い取って彼らを今日まで事実上の農奴制のもとに置き続けている土地は農民のものだ、と承認する。
 このようにして、我々は、—例外を設け、特殊な歴史的状勢を理由として—小資産者の擁護者になる。
 しかし、我々は、『旧体制』を残存させるものに対する闘争のかぎりでのみ、農民層を防衛する。…」(注05)
 レーニンが1917年にエスエルの土地綱領を採用し、ロシアの農民に私的に所持している土地を奪い取るよう勇気づけたのは、このような純粋に戦術的な考慮からだった。
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 (04) しかし、この戦術の目的—「旧体制」と「ブルジョア」継承者の崩壊—が達成されると、レーニンから見れば、農民層は、「プチ・ブルジョア」反革命という伝統的役割へと立ち戻った。
 反動的な農民の海で溺れている、ロシアでの「プロレタリア」革命の危険性が、ロシアの社会民主主義者に強迫観念を植え付けた。彼らは、フランスの農民層がとくに1871年に都市の急進主義を抑圧したような役割を、ロシアの農民層が果たしている、と意識していた。
 可能なかぎり早く西側の産業諸国に革命を拡散しようとするボルシェヴィキの強い主張は、相当な程度で、このような運命に陥るのを避けたいという思いでもって掻き立てられていた。
 農民を土地の永続的な所持者の地位に置いたままにすることは、都市部への食糧供給者、革命の要塞として管理するのと同じことを意味した。
 レーニンは、ヨーロッパの諸革命は「村落ブルジョアジー」を排除しなかったがゆえに失敗した、と記した(注06)。
 より狂信的なレーニン支持者の何人かにとっては、レーニンがエンゲルスに従って同盟者と見なそうとした土地を所持しない村落プロレタリアですら、信頼することができなかった。彼らもまた、結局は農民だった。—つまり、潜在的には、クラク〔富農〕だった(注07)。
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 (05) レーニンは、歴史を繰り返させない、という気でいた。
 彼が西側での革命の勃発を強く当てにしても、彼が支配することのできない外国での情勢発展にロシアの革命を依存させようとはしなかった。
 彼は、ソヴィエト・ロシアでの農民問題を熟慮して、二段階の解決方法を考えた。
 長期的には、唯一の満足し得る結果は、集団化だった。—すなわち、全ての土地と生産物の国家による収奪および農民の賃労働者への移行。
 この措置だけが、共産主義という目標と最初に権力に到達したという社会的現実のあいだの矛盾を解消するだろう。
 レーニンは、1917年の土地布令とボルシェヴィキが十月後に導入したその他の農業上の措置を一時的で便宜的なものと見なした。
 情勢が許すかぎりで速やかに、村落共同体は土地を剥奪され、国家が運営する集合体に変わるだろう(脚注)。
 この長期の目標には、何ら秘密がなかった。
 1918年と1919年の多くの場合に、ソヴィエト当局は、集団化は不可避だと確認した。1918年11月の<prauda>の一記事は、体制がそうできるようになると、「中間農民」は「叫んで蹴飛ばす」(volcha i ogryzaias)集団農業へと引き摺り込まれるだろう、と予見した(注08)。
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 (06) そのときまで、レーニンの考えでは、1. 厳格に実施される穀物取引の独占による、食糧供給への国家統制を主張すること、2. 村落地域に共産主義者の権力基盤を導入すること、が必要だった。
 これらの目標を達成するために要求されたのは、村落への戦争に他ならなかった。
 ボルシェヴィキはこの戦争を、1918年夏に開始した。
 農民層に対する活動は—西側の歴史文献では事実上無視されているが—、ボルシェヴィキによるロシアの征圧の、最も重要な段階だ。
 レーニン自身が、農民との闘争が村落反革命を防止し、西側の先行者と違って、ロシア革命が中途で終わって「反動」へと後退することを阻止するだろう、と信じていた。
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 第二節へとつづく。 

2885/R.Pipes1990年著—第15章⑱。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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 第15章・第八節/反労働者立法③。
 (13) どのように経済的に正当化しようとも、強制労働の実際はモスクワ公国時代の<tiaglo>への回帰を意味した。それによってかつて、農民層その他庶民である全ての成人男女を、国家のための辛い仕事をするよう召喚することができた。
 そして今では、主要な仕事は、物品運搬、材木切断、建築作業になった。
 燃料提供という1920年代に農民に課された義務がつぎのように叙述されたことは、モスクワ公国のロシア人には完全に理解できることだっただろう。
 「政府が期待した一種の労働役務として…、農民たちは、指定された森林で木材から多数の丸太を切断することを…命じられた。
 家屋を所有する農民は全て、一定の量の木材を輸送しなければならなかった。
 この木材は農民によって、河川の突堤、諸都市、そして最終地点へと配送されなければならなかった。」(注135)
 モスクワ公国時代の強制労働である<tiaglo>と共産主義のロシアでのそれとの違いは、主につぎにあった。すなわち、中世では特定の需要を充足させるために課された散発的(sporadic)な義務だったが、今では永続的な義務になった。
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 (14) 1919-20年の冬、トロツキーは、「労働を軍事化する」という野心的な構想を抱いた。それによって、制服着用の兵士は生産的な経済作業を行ない、民間人労働者は軍事紀律に服するだろう。
 一世紀前にAlexander 1世とArakcheev によって開始された悪名高い「軍事植民地」へのこの後戻りは、懐疑心と敵愾心でもって迎えられた。
 しかし、トロツキーは固執し、思いとどまるよう説得されはしなかった。
 内戦での勝利から帰還し、自分の重要性の感覚に満ちて、また新しい栄誉を得たいと熱望して、彼は、赤軍が外部の敵に打ち勝ったのと同じ大まかな手段によってのみロシアの経済問題を解決することができる、と強く主張した。
 1919年12月16日、トロツキーは、中央委員会のために一組の「テーゼ」を起草した(注136)。
 彼は、経済の諸問題は、十分な紀律のない労働者の軍隊によって処断されなければならない、と主張した。
 ロシアの労働者は、軍隊の様式でもって編成されなければならない。義務の忌避(割当てられた仕事の拒否、長期欠勤、仕事中の飲酒、等)は、罪悪として、軍事法廷へと送られるべき犯罪として扱われなければならない。
 トロツキーはさらに、赤軍の分団はもう戦闘する義務を負わず、動員が解除されて故郷に戻るのではなく、「労働軍」(<trudarmii>)へと改変されるべきだ、と提案した。
 こうした「テーゼ」は、公表されることが意図されてはいなかった。だが、<pravda>の編集長のブハーリンは、不注意で(彼の主張では)またはトロツキーを貶めるために(他者が信じたところでは)、機関紙に印刷した。
 1920年1月22日付の<pravda>で公表されたトロツキーの「テーゼ」へへは、激しい抗議の声が上がった。その中にはたいてい、「Arakcheebsh 陶器」という添え句が付いていた。
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 (15) レーニンは、説得された。国の経済のいっそうの悪化を阻止するという切迫した必要があったからだ。
 1919年12月27日、彼は労働義務委員会の設置に同意した。これの委員長は、戦時人民委員部の長官の地位を維持していたトロツキーだった。
 トロツキーの構想には、2組の手法が含まれていた。
 1. 前線にはもはや不要な軍団は、動員解除されない。そして、平時の労働軍へと改変され、線路床の改修、燃料の輸送、農業機具の修理のような任務が割当てられる。
 ウラルで戦闘をしていた第三軍団は、この改変が行なわれる最初の軍団だ。のちに、その他の軍団が、改編される。
 1921年3月には、赤軍の四分の一が、建設と輸送に雇用された。
 2. 同時に、全ての労働者と農民が軍事紀律に服する、とされた。
 この政策が激しい異論を生じさせた1920年の第9回党大会で、トロツキーは、政府は、必要な場合はいつでも、民間の労働者を自由に使えなければならない、と強く主張した。軍隊でと全く同じく、労働者の個人的な選好は考慮してはならない。
 「動員された」労働者は、労働人民委員部を通じて、要請している企業へと配置される。
 1922年にこの実験を振り返って、労働人民委員部のある官僚は、こう述べた。
 「我々は、計画に応じて、従って労働者の個別的な特性やあれこれの種類の仕事をしたいという希望を考慮することなく、労働力を供給した」(注137)。
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 (16) 労働軍も軍事化された労働者たちも、この政策の主唱者たちの期待を満足させなかった。
 元兵士の労働者たちは、訓練された民間人と比べてごく僅かの生産しかしなかった。彼らは、群れをなして脱走した。
 政府は、軍事化された労働者を管理し、食料を与え、輸送するということを企画するのに、克服し難い技術的な困難に直面した。
 したがって、スターリンやヒトラーによる奴隷労働の組織化の原型だったこの政策は、放棄されざるを得なかった。工業への動員は1921年10月21日に廃止され、労働軍も数ヶ月のちに解体された(注138)。
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 (17) この実験はトロツキーの信用を傷つけ、レーニンの後継者争いでの彼の地位を弱めた。失敗したという理由によるだけではなく、「ボナパルティズム」という追及に彼が傷つきやすくなったことにもよった。
 実際に、ロシアの経済がかりに軍事化されていれば、トロツキーに従った官僚たちは、民間部門で支配的な地位を獲得していただろう。
 悪態の言葉としての「トロツキズム」は、このような企図と関連して1920年代に頻繁に用いられた。
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 第八節、終わり。

2883/R.Pipes1990年著—第15章⑰。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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 第15章・第八節/反労働者立法②。
 (08) 強制労働を導入する公式の理由は、計画化経済の必要条件だったことだ。
 経済計画は、決して気まぐれに議論されたのではないが、労働が他の全ての経済資源と同じ統制を受けるのでなければ、達成することができなかった。
 ボルシェヴィキは、権力掌握前の1917年4月にすでに、強制的労働義務の必要を語っていた(注126)。
 戦争中の資本主義国ドイツでは強制労働の導入は労働者に対して「不可避的に制裁的な軍事上の労働役務(katorga)を意味した」のに対して、ソヴィエトによる支配のもとでは、同じ現象は社会主義に<向かう巨大な一歩>を示すものだ(注127)。こう言うことに、レーニンは何ら矛盾を感じていなかったようだ。
 ボルシェヴィキは、彼らの言葉に忠実に、その最初の日に役所での労働徴用の意図をもっていることを宣告した。
 1917年10月25日、臨時政府の打倒を発表したのとまさにほとんど時を措かずに、トロツキーは、第二回全国ソヴェト大会でこう言った。
 「普遍的な労働義務の導入は、本当に革命的な政権の最も直近の目標のひとつだ」(注128)。
 おそらく代議員のほとんどは、この言明は「ブルジョアジー」にのみ適用されると考えた。
 そして、実際に、その独裁の最初の数ヶ月、レーニンは、個人的な敵愾心に駆られて、「ブルジョアジー」に屈辱を与えることから出発し、人々に慣れないまま退屈な雑用的手作業をすることを強いた。
 銀行を国有化する布令(1917年12月)の草案に、彼はこう書いた。
 「第6条: 普遍的労働義務。第一歩—消費者労働、富者のための安価労働による小冊子、彼らの統制。彼らの義務—指示どおりに働くこと、その他—『人民の敵』」。
 欄外にこう付け加えた。「前線への派遣、強制労働、没収、逮捕(射撃による処刑)」(注122)。
 のちに、着飾った者たちが監視されながら単調な義務を履行するのを見るのは、モスクワやペテログラードでの普通の光景になった。
 こうした強制労働の利益はたぶん無に近かった。だが、「教育」目的に役立つこと、つまり階級憎悪を掻き立てることが意図されていた。
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 (09) レーニンが示したように、これは第一歩にすぎなかった。
 やがて、強制労働の原理は別の社会階層へも拡張された。
 これが意味したのは、全ての成人が生産活動に従事しなければならないということだけでなく、全ての男女が命令を受けながら働かなければならない、ということだった。
 ロシアを17世紀の実務へと戻すこの義務は、1918年1月に「労働者、被搾取階級の権利の宣言」として布令された。
 これには、次の条項があった。
 「民衆の中の寄生虫的分子を破壊するために、普遍的労働義務が導入される」(注130)。
 この原理は1918年の憲法に挿入され、国の法となり、それ以来ずっと、「寄生虫」として国家による雇用を回避する者に対処する法的基礎として機能した。
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 (10) 労働徴用の原理は、1918年の末には、実際的な詳細にまで練り上げられた。
 1918年10月29日の布令は、「労働力を配分する」ための機関の全国的な網を定めた(注131)。
 1918年12月10日、政府は詳細な「労働法典」を発した。これは、16歳から60歳までの間の全ての男女について、若干の例外はあるが、「労働役務」を履行すべきことを定めた。
 すでに常勤の仕事に就いている者は、それにとどまるものとされた。
 その他の者は、労働割当て部署(ORRS)に登録するものとされた。
 この機関は、適当と考える誰をも、どこにでも割り当てる権限をもった。
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 (11) 強制労働に関する布令は少数者(16歳から18歳までの子ども)に適用されたのみならず、特別の命令が、国家に対して特別の重要性をもつ工業または企業に雇用されている子どもたちに、超過労働をさせることを認めた(注132)。
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 (12) 1918年の遅くまでに、ボルシェヴィキ当局が労働者や多様な分野の専門家をちょうど赤軍入隊者を徴兵するように動員することは、日常的な実務になった。
 このような実務は、政府が労働者や経済の特定の分野の技術的専門家を「軍務のために動員」し、軍事裁判所に服させると発表することを意味した。つまり、割当てられた仕事を放棄した者は脱走兵として扱われた。
 きわめて重要な分野の技術を持っているが今はそれを使わうことのできない仕事に雇用されている者は、登録して、召喚を待たなければならなかった。
 「動員」されるべき最初の民間人は、鉄道労働者だった(1918年11月28日)。
 その他の範疇は、つぎのとおり。
 技術の教育と経験がある者(1918年12月)、医療従事者(1918年12月20日)、河川や海洋の船舶の被雇用者(1919年3月15日)、石炭労働者(1919年4月7日)、郵便・電信・電話の被雇用者(1919年5月5日)、燃料工業の労働者(1919年6月27日と11月8日)、綿工業労働者(1920年8月13日)、金属労働者(1920年8月20日)、電気工(1920年10月8日)。
 このようにして、工業関係職業は徐々に「軍事化」され、兵士と労働者のあいだ、軍役者と民間人のあいだの区別は不明確になった。
 工業労働者を軍隊を範型にして組織しようとする努力は、この問題に関する大量の布令があったことを見れば、十分に達成され得ることはなかったのだろう。氏名の公表から強制労働収容所への拘禁にまで及ぶ、「労働脱走者」に対するかつてない新しい制裁を設定したのだったが。(注134)
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 ③へつづく。

2881/R.Pipes1990年著—第15章⑯。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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 第15章・第八節/反労働者立法①。
 (01) 1917年十月、ボルシェヴィキは「プロレタリアート」の名において、ペテログラードで権力を奪取した。
 この経緯のために、ボルシェヴィキは労働政策を大きく改善すると期待されたかもしれなかった。かりに、「ブルジョア」的帝制と臨時政府のもとでのそれと、産業労働者の経済的な、そして確実に社会的で政治的な地位を比較する必要が必ずしもなかったとしても。
 しかし、この点でも、結果は、宣せられた意図とは全く反対だった。つまり、ロシアの労働者階級の地位は、象徴性以外の全ての点で顕著に悪化した。
 とくに、彼らは今や、やっと手にした団結し、罷業をする権利を失った。これら二つは、労働者の自己防衛のための不可欠の武器だったが。
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 (02) もちろん、革命と内戦のもとで経済を稼働させ続けるべく、ボルシェヴィキは労働者の権利を制限する以外に選択の余地はなかった、と論じることはできるし、そのための論拠も示されてきた。「プロレタリア」革命を救うために、ボルシェヴィキは「プロレタリアート」の権利を停止しなければならなった、というのだ。
 こう解釈すれば、戦時共産主義の残りがそうであるように、ボルシェヴィキの労働政策は遺憾なものだが、避けることのできない便宜的な措置だったことになる。
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 (03) ボルシェヴィキ体制がその生存を賭けて闘っているときに導入された反労働者的諸措置は、一時的にだけ考案されたものではなく、情勢が緊急措置として正当化したが緊急事態を超えて永続する社会哲学全体を表現したものだった。このことは、上のような解釈を困惑させる。
 ボルシェヴィキは、強制労働、ストライキ権の廃止、労働組合の国家機関への移行を、内戦勝利に必要なものみならず、「共産主義の建設」に不可欠のものだと考えた。これが、内戦に勝利して体制への危険はもうなくなった後でも、ボルシェヴィキが反労働者政策を維持した理由だ。
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 (04) 強制労働という観念は、マルクス主義の中に埋め込まれている。
 1848年の<共産主義者宣言>第8条は、「労働に対する全ての者の責任、とくに農業のための産業軍の設立」を謳った。
 明らかに、自由な商品市場のない規整された経済では、労働に関する自由な市場を存続させるのは馬鹿げている。
 この主題にしばしば言及したトロツキーは、心理学的意味を加えた経済的根拠を強く主張した。すなわち、人間は元来的に怠惰で、餓死の恐怖によってのみ労働へと駆り立てられるのだ、と。国家が市民に食糧を与える責任を引き受ければ、この恐怖は消失するので、強制に頼ることが必要になる。(脚注)
 トロツキーは基本的に、強制労働は社会主義の分離し難い特質だという見方を提示した。彼はこう言った。
 「人間はむしろ怠惰な生物だと言ってもよい。一般論としては、人は労働を避けようと懸命になる。…
 経済的任務にために必要な労働力を惹きつける唯一の方策は、<強制労働役務>を導入することだ。」(注120)
 強制労働は危機が存続しているあいだの経過的手段だと勘違いされないように、トロツキーは、そうではないと注意したうえで、上のように述べた。
 「もちろんこれは、強制という要素を排除することを意味していいない。
 強制という要素が歴史の記述から消えることはない。
 いや、強制は、歴史の重大な時期に、重要な役割を果たすだろう。」(注121)
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 (脚注) 人間は飢餓を避けるためにのみ労働するとの考え方を、トロツキーはマルクスから採用した。トロツキーは、Reverend J. Townsend のthe poor of laws:Das Kapotal I, Chap.,25, Sect. 4 の記述にそれを見出した。
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 (05) トロツキーは、1920年4月の第三回労働組合大会で、とくにあからさまに、この主題を語った。
 自由な労働よりも生産性が低いという理由で強制労働の廃止を訴えるメンシェヴィキの動議に応えて、トロツキーは隷属労働を擁護した。
 「メンシェヴィキがその決議で強制労働はつねに生産性が低いと言うとき、彼らは、ブルジョア・イデオロギーに囚われており、社会主義経済のまさに基盤を拒否している。…
 農奴制の時代には、強制労働は全ての農奴に対してそびえ立つ憲兵ではなかった。
 農奴が慣れるようになる、一定の経済的様式があった。それを当時は公正なものと見なし、ときどきだけ反抗した。…
 強制労働は非生産的だと言われる。
 経済の中心機関による、全国的経済計画の要求に合致した労働力全体の割当てによる以外に社会主義を達成する方法は存在しないのだから、そういう言明は、社会主義経済全体を解体させるものだ。」(注122)
 要するに、強制労働は社会主義に不可欠であるのみならず、実際上有益なものだ。
 「強制的隷従労働は、封建階級に悪意があったゆえに出現したのではない。それは、進歩的な現象なのだ。」(注123)
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 (06) 労働者は「社会主義」国家の無賃従僕者に—つまり表向きは、国家の「主人」だとされているのだから、自分自身の奴隷に、—にならなければならない、という考え方は、中央集権的で組織的な経済および人間の本性に関する悲観的な見方というマルクス主義の中に嵌め込まれていた。また、ボルシェヴィキ指導者たちがロシアの労働者について抱く極端に低い評価によって強化された。
 ボルシェヴィキは、革命の前は、ロシアの労働者を理想化していた。しかし、労働者たちと接触して、たちまちのうちに幻想に変えた。
 トロツキーは農奴制の良さを称揚した一方で、レーニンは、ロシアの「プロレタリアート」を却下した。
 1922年3月の第11回党大会で、レーニンはこう語った。
 「『労働者』と言うときしばしば、この言葉は『工場労働者』を意味すると考えられている。
 戦争以降のわが国では、工場や工場施設群に働きに行く者たちは少しもプロレタリアではなく、戦争から逃げるためにそうしていた。
 そしてまた、我々は、本当のプロレタリアートを工場や工場施設群に働きに行く気にさせる社会的、経済的条件をもっているだろうか?
 そのような事情にはない。
 マルクスによれば適正な言辞だが、しかしマルクスは、ロシアについてではなく、15世紀から始まる資本主義全体について書いた。
 600年間は適正だったが、今日のロシアについては適正でない。
 工場に行く者たちは、徹頭徹尾プロレタリアートではなく、あらゆる種類の偶然的要素で成っている。」(注124)
 この驚くべき告白が意味していることは、ある程度のボルシェヴィキたちも共有していた。
 レーニンにとって、上のような言明は、十月革命は『プロレタリア』によって成し遂げられたのではなかった、かつ『プロレタリア』のためになされたのですらなかった、という意味に他ならなかった。
 Shriapnikov にだけは、この点を明言する勇気があった。
 「Vladimir Ilich 〔レーニン〕は昨日、マルクスが認めた意味でのプロレタリアートは存在しない、と言った。…
 存在しない階級の前衛であることに、きみたちをお祝いさせてくれ」(注125)。
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 (07) レーニンとトロツキーが抱いていたような、一般には人間の本性についての、特殊にはロシアの労働者についての見方からすると、かりに他の考慮によれば反対するに至らなかったとしても、自由な労働や自立した労働組合は耐え難いものだった。
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 ②へとつづく。

2874/R.パイプス1990年著—第15章⑫。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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 第15章・第五節/工業生産の低下
 (01) 戦時共産主義のもでのソヴィエト工業の狭い意味での目標は、もちろん、生産性の向上だった。
 しかし、統計上の証拠が示しているのは、この政策の効果は反対だった、ということだ。
 ボルシェヴィキによる経営のもとで、工業生産性はたんに低下したのではなかった。すなわち、かりに同じ過程が進行していたならば、1920年代半ばまでにソヴィエト・ロシアにはどんな工業もなくなってしまうことを示唆する、そのような割合で落ち込んだ。
 このような現象を示す、いくつかの統計資料がある。
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 「I. 全国の大工業生産(脚注1)
  1913 100
  1917 77
  1919 26
  1920 18」
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 「II. 1920年の特定工業製品の生産量(1913=100)(注94)
  石炭 27.0
  鉄鋼  2.4
  綿糸  5.1
  石油 42.7」
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 「III. ロシアの労働者の生産性(固定のルーブルで)(注95)
  1913 100
  1917 85
  1918 44
  1919 22
  1920 26」
 ----
 「IV. 被雇用工業労働者数(脚注2)
  1918 100
  1919 82
  1920 77
  1921 49」
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 (脚注1) Kritsman, Geroicheskii period, p. 162. Narodnoe Khoziaistvo SSSR v 1958 god u(Moscow, 1959), p. 52-53 の数字によると、1921年の全工業生産は1913年比で69パーセント減少し、重工業生産は79パーセント減少した。
 (脚注2) A. Alu f, cited in S. V Olin, DeiateVnosf menshevikov v profsoiuzakh pri sovetskoi vlasti, Inter-University Project on the History of the Menshevik Movement, Paper No.13(New York, 1962),p. 87. もちろん、ここで基礎年にしている1918年までに、被雇用労働者の数は、1913-14年と比べて、相当に減少していた。
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 (02) 要するに、戦時共産主義のもとで、ロシアの「プロレタリアート」数は二分の一に、工業生産高は四分の三に落ち、工業生産性は70パーセントが失われた。
 この破滅を見て、レーニンは1921年にこう叫んだ。
 「プロレタリアートとは何だ?
 大規模工業に就労する階級だ。
 そして、どこに大規模工業があるのか?
 どんな種類のプロレタリアートなのか?
 おまえの(原文ママ)工業はどこにあるのか?
 なぜ、怠惰なのか?」(注96)
 これらの修辞的質問に対する回答は、レーニンが承認していたユートピア的構想が、ロシアの工業を破壊し、ロシアの労働者階級を殺した、ということだった。
 しかし、この工業力低下の時期のあいだに、経済に責任を負う官僚機構の維持のための出費は、飛躍的に増大した。1921年までに、それは予算の75.1パーセントを占めた。
 ロシアの工業を管理した最高経済会議の人員について言えば、それはこの期間に100倍に増えた(脚注)
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 (脚注) Buryshkin, EV, No. 2(1923), p. 141. 最高経済会議の被雇用者の数字は、1918年3月に318人、1921年に3万人だ。
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 第六節につづく。

2870/R.パイプス1990年著—第15章⑪。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第15章・“戦時共産主義“>の試訳のつづき。
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 第15章・第四節/最高経済会議の設立③。
 (13) 外国には、この巨大な「社会主義建設」の企ては、大きな印象を与えた。
 西側でのソヴィエトの政治宣伝は、全てを見通す政府の慈悲ある目のもとでのロシア産業の「合理化」について、熱情的に語った。しかし、強調されたのは実績ではなく、内容だった。
 ロシアの産業がいかに規整されているかを示す図表は、戦後世界の混乱に対処している多くの西側の人々の称讃を掻き立てた。
 しかし、ロシアの内部では、新聞や雑誌、そして党大会での報告から、全く異なる像が浮かび上がった。
 経済計画という主張は、茶番劇だったと判った。すなわち、1921年に、トロツキーは、中央計画は存在しないこと、「中央化」はせいぜい5-10パーセントしか実現されていないこと、を確認した(注83)。
 1920年遅くの<プラウダ>上の一論考は、明け透けに、こう認めた。<khoziaistvennogo plana net>(「経済計画は存在していない」)(注84)。
 最高経済会議の<glavki>は、それが責任をもつべき産業の諸条件について、きわめて漠然とした考えしかもっていなかった。
 「一つの<glavka>または<tsentr>ですら、国の産業と生産を正しく規整することを可能にする適切で包括的なデータをきちんと処理していない。
 数十の組織が、似たような情報を収集するという平行で同じ作業を行なっている。その結果として、全体としては、似ていないデータを掻き集めている。…
 会計は不正確に行なわれ、ときどきは記帳された物品の80-90パーセントが、関係する組織の管理を免れている。
 会計処理がなされていない物品は、乱暴で無制限の投機の対象になり、最終的に消費者に届くまで、何十回も手から手へと渡される」(注85)。
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 (14) 最高経済会議の地域支部については、これらとモスクワの本部との間には恒常的な摩擦がある、と言われていた(注86)。
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 (15) 要するに、当時の説明文書によると、最高経済会議は、管理されずに干渉し合う、主要な役割は数千人の知識人への生活の糧の提供である、そのような奇怪な官僚制的混乱物だった。
 1920年の初頭に、会議の地域支部と地方ソヴェトの経済担当部署は、ほとんど2万5000人に雇用を提供していた(注87)。その圧倒的大部分は、知識人だった。
 官僚制的膨張のそのままの例は、ベンゼン・トラスト(Glavanil)だった。これの職員名簿には、150人の労働者を雇用する工場施設を監視するための、50人の官僚たちが載っていた(脚注)
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 (脚注) Litvinov, in Prau da, No. 262(1920年11月21日), p.1. Scheibert 教授(Lenin, p. 210)は間違って、「ヴァニラ・トラスト」を意味する頭文字だと解読している。
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 最高経済会議の官僚の一人は、彼が所属した部署の類型について、彩り豊かな叙述を残した。
 共産主義政府の他の機関については知られていない叙述なので、引用しておくに値する。
 「下級の職は、主として多数の若い女性、男性、以前の帳簿係、店員、書記、あるいは大学、高校や『外部の』学生に占められていた。
 この若者たちの集団は、比較的に高い給料でかつ要求される労働量の少ない業務に魅かれていた。
 彼らは一日じゅう、大きな建物の多数の廊下でぶらぶらしながら過ごした。
 彼らはいちゃつき、共同施設でキャンディやナッツを買うために走り出し、1人だけが何とか手にするだけの劇場券や肉の煮付けを仲間うちで配り、こうした商業的行為に付きもの一種として、ボルシェヴィキを呪った。」…
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「つぎの最も数の多い[被雇用者の]類型は、帝制時代の省庁の一時的な官僚で成っていた。
 ソヴィエトの業務に加わるに際しての彼らの動機は、物質的必要か、それ以上に、手慣れた仕事をしたいという願望か、のいずれかだった。そのような仕事に、彼らは人生の10年間以上を捧げてきたのだ。
 『発出』または『受取』の素材、『備忘録』、『報告書』、書記上の些細な知恵に、彼らはどのような情熱を持って取り組んだのかを、把握しなければならない。パンや靴がないままで生活することよりも、事務作業の雰囲気がない所で生きていくことの方が困難だと彼らは知ったということを、理解しなければならない。
 このような人々は、実直に業務を遂行しようとした。
 彼らは、最も早く来て、最も遅く去る人々だった。彼らは、鎖で縛られているように、その職に執着した。
 しかし、おそらく正確には、信じ難い愚かさ以外に彼らの仕事の実直さは存在しなかった、という理由でだろう。
 上級機関の無秩序と衝動性が、彼らが取り組んだ『受取』素材や『備忘録』等の全てに、愛情溢れた気配りを混ぜ込んだ、という理由でだろう。…」
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 「最後に、中間層の官僚たちのうちの非共産党多数派やより上級の官僚たちの一部は、さまざまなタイプの知識層で成っていた。
 そこには、いわばロマンティックな性質があり、そのために敵の要塞の中で行なう業務には、大きな冒険の風味があった。
 原理をもたず、自分たち自身の幸福以外には世界の全てに無関心な人々が、そこにはいた。
 暗黒と混乱の覆いのもとで、価値があるもの全てを略奪することができるように、ボルシェヴィキの混沌に身を寄せる、そのような普通のいかがわしい人々が、そこにはいた。
 別のタイプの人々もいた。貴重だと考える仕事を回収することを望む専門家たち。また、私自身のように、『体制を柔和にする(soften)』ことを目的として、加わった者たち。」(注88)
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 (16) レーニンの、「単一計画」にもとづき作動する「単一の巨大な機構に国家の経済機構全体を変える」という考えについては、多くのことを語り得る。
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 (17) ボルシェヴィキは、労働者支配の広がりのあとの経営者による混乱を、いくぶんかうまく克服するのに成功した。
 1917年十月直前および直後の、体制のサンディカリズム的政策は、労働者をメンシェヴィキから切り離す道具だった。これは、ボルシェヴィキが工場委員会で多数派になるのを助けた。
 ブレスト条約の調印のあとでは、「ブルジョア専門家」を雇用しての個人による工業経営という伝統的手法へ回帰することが、決定された。
 トロツキーは1918年3月に、レーニンは5月に、これについて語った(注89)。
 実際に、以前の所有者や経営者の多くは彼らの仕事を決して捨てなかったが、1918年6月28日の国有化布令の条件で、それは禁止された。
 最高経済会議は、これらの人々で充ちた。
 シベリアからのある訪問者は、つぎのことに気づいた。
 「多くのモスクワの<tsen try>や<glavki>の長には、以前の雇用者、経営者および権限ある官僚が就いている。…」。
 「個人的に従前の商業や工業の世界を知っていた、準備のない訪問者は、従前の皮革工場の所有者がGlavkozh[皮革シンジケート]にいること、大製造業者が中央織物組織にいること、等々を見て、驚いただろう」(注90)
 --------
 (18) レーニンとトロツキーは、「社会主義」の信条で「ブルジョア専門家」の技巧を利用する必要性を主張しつづけた。しかし、これは、左翼共産主義者、労働組合官僚、工場委員会からの抵抗に遭遇した、
 かつての「資本主義」エリートたちが彼らの専門性のゆえにソヴィエトの産業界で享有している権力や特権を不愉快に感じて、彼らは、旧エリートたちに嫌がらせを行ない、彼らを威嚇した(注91)。
 --------
 (19) 内戦が終了するまで、政府には、個人による管理という原則を実施するのに多大の困難があった。
 1919年に、工業施設の10.8パーセントだけに、個人の管理者がいた。
 しかし、1920-21年に、政府は力強く運動を再開し、1921年末には、ロシアの工場の90.7パーセントは、個人管理者のもとで稼働していた(注92)。
 しかしながら、「合議制の」管理を擁護する主張は消え去ることがなかった。その主張者たちは、個人の管理は労働者を体制から遠ざける、「資本主義者」が、国家に奉仕しているという偽装のもとで、収用された工場施設の支配権を保持するのを許している、と議論した(注93)。
 やがて、こうした議論は、いわゆる労働者反対派によって全国レベルにまで高められることになる。
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 第四節、終わり。

2865/R.パイプス1990年著—第15章⑦。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
  <第15章・“戦時共産主義“>の試訳のつづき。
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 第15章・第三節/通貨廃止の試み②
 (11) レーニンは、財政問題についてはかなり保守的だった。その立場を主張し続けていれば、ソヴィエト・ロシアは最初から、徴税と予算策定制度について伝統的な手法を採用していただろう。
 彼は、予算上の混乱を心配した。
 1918年5月に、何であれ今ある実業界の重要性をいつものように強調して、次のように警告した。
 「財政政策をうまく実施しなければ、全ての我々の急進的な改革は失敗だと非難される。
 社会主義のモデルによる社会の再組織について我々が想定する莫大な努力が成功するか否かは、まさにこの〔財政上の〕任務にかかっている。」(注36)
 しかし、レーニンはこの問題に時間を割く余裕がなかったので、異なる考え方をもつ仲間たちにこれを委ねた。
 同僚たちは、貨幣と財政をすっかり廃止しようとした。国家支配の生産と配分にもとづく経済を創出するためだった。
 1918年の後半、ソヴィエトの出版物には、このような経済観を促進する多数の論文が掲載された。それらは、ブハーリン、Larin、Osinskii、Preobrazhenskii、A. V. Chaianov のようなボルシェヴィキの論客たちの支持を受けた(脚注)
 彼らの考え方は、紙幣を無制限に発行することで、通貨を無価値にすることだった。
 貨幣に代わるのは、1832年にRobert Owen の<労働交換銀行>で発行されたものに類似した、「労働単位」だとされた。これは相当する商品とサーヴィスの量について資格がある者が使用した労働量を示す代替券(token)だった。
 Owen の実験は、1848年の革命時にフランスで導入されたLouis Blanc の<ateliers sociaux>がそうだったように、無惨に失敗した(Owen の銀行は2週間後に閉鎖された)。
 ロシアの急進的知識人たちは、怯むことなく、この途を歩んだ。
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 (脚注) 企てられた貨幣なき経済の理論的基礎を概観したものは、次に見出され得る。Iurovskii, Denezhnaia poli tika, p. 88-125. この主題に関するボルシェヴィキの考え方に圧倒的な影響力をもったのは、ドイツの社会学者、Otto Neurath だった。
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 (12) ボルシェヴィキ党(共産党)は、1919年3月に採択した新綱領で、通貨の廃止を目標とすると宣言した。
 新綱領では、貨幣の廃止はまだ実現可能ではないが、党はこれを達成することを決意している、と述べられた。
 「計画に従って経済が組織される程度において、銀行は廃止され、共産主義社会の中央記帳局に変わるだろう」(注37)。
 これに応じて、ソヴィエトの財務人民委員部は、自分たちの任務は余計なものになる、と宣言した。
 「社会主義の共同社会では、財政は存在しない。ゆえに私は、この主題について語るのを詫びなければならない」(脚注)
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 (脚注) S. S. Katzenellenbaum, Russian Currency and Banking, 1914-1924(London, 1925), p. 98n. この証拠からすると、ロシアの通貨の全面的な価値下落へと至るボルシェヴィキの財政政策は、計画や政策の結果ではなく、絶望的な需要に対する反応の結果だった、とするCarr の主張(Revolution, II, p.246-7, p.261)に同意するのは不可能だ。
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 (13) その結果は、最後には「色の付いた紙」に変わるまで、ロシアの貨幣の価値下落を加速することだった。
 ソヴィエト・ロシアで1918-22年に起きたインフレは、ヴァイマール・ドイツがすぐのちに経験することになる、もっとよく知られてているインフレにほとんど匹敵するものだった。
 このインフレは、意図的に、印刷機が吐き出すことのできるだけの紙幣が国じゅうを埋めつくすことによって、発生した。
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 (14) ボルシェヴィキがペテルブルクで権力を奪取したとき、ロシアで流通している紙幣は、総額196億ルーブルだった(注38)。
 大量のそれは、「Nicholaevsky」として一般に知られた、帝政期のルーブル紙幣だった。
 臨時政府が発行した、「ケレンスキー」または「Dumki」と呼ばれたルーブル紙幣もあった。
 後者は、片面だけに印刷された簡素な札で、通し番号、署名、発行者名はなく、ルーブルの価額と偽造に対する制裁を示す警告だけが記載されていた。
 1917年と1918年初頭、「ケレンスキー」は帝制ルーブルよりも少し割り引かれて流通していた。
 ボルシェヴィキは、国立銀行と国庫を奪取した後でも、「ケレンスキー」をその外形を変更することなく発行しつづけた。
 一年半のあいだ(1919年2月まで)、ボルシェヴィキ政府は、それ自身の通貨を発行しなかった。これは主権が持つ通貨発行の伝統的権利を行使しないという驚くべきことだった。そして、一般国民が、とくに農民が、それを受け入れるのを拒むだろうという恐怖によってのみ、説明することができる。
 1917年十月以降は徴税制度は完全に破綻し、租税以外の収入では政府の需要を充たさなかったので、ボルシェヴィキは印刷機に頼った。
 1918年の前半、人民銀行は毎月20-30億ルーブルを、信用保証は何もなく、発行した(脚注1)
 1918年10月、ソヴナルコムは、従前に臨時政府が公認していた165億ルーブルから335億ルーブルにまで、信用保証なき銀行券の流通量を引き上げた。これは長く続いた。
 1919年1月、ソヴィエト・ロシアには、613億ルーブルが流通していた。そのうち三分の二は、ボルシェヴィキが発行した「ケレンスキー」だった。
 その翌月、政府は、「会計券(accounting token)」と呼ばれる、最初のソヴィエト紙幣を発行した(脚注2)
 この新しい通貨は、「Nicholaevki」や「ケレンスキー」と並んで流通した。但し、これらに比べて大きく割り引かれた。
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 (脚注1) この無責任な財政政策について金融市場がほとんど注目しなかったことは、そしてじつに、それがボルシェヴィズムに順応する用意が相当にあったことは、驚くべきほどだ。当時の新聞(NV, No.102/126, 1918年6月27日, 3頁)によると、1918年6月に、1ドルにつき12.80ルーブルで、ロシアでアメリカ通貨を購入することができた。これは、1917年11月と同じ交換比率だった。
 (脚注2) 革命期のロシア通貨を再現したものは、N. D. Mets, Nash rub V(Moscow, 1960)で見られる。Katzenellenbaum によれば、最も早いソヴィエトの通貨は、1918年半ばにPenza で現れた(Russian Currency, p. 81)。
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 (15) 1919年初め、インフレはますますひどくなっていたが、先にある醜悪な次元にはまだ達していなかった。
 1917年と比較して、物価の指標は15倍に昇った。1913年を100とすれば、1917年10月には755、1918年10月には10,200、1919年10月には92,300 と増大した(注40)。
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 (16) そして、ダムは決壊した。
 1919年5月15日、人民銀行には、その見解によれば国民経済が必要とするだけの貨幣を、発行する権限が与えられた(注41)。
 そのとき以降、「色の付いた紙」の印刷は、ソヴィエト・ロシアで最大の産業に、そしておそらくは唯一の成長産業になった。
 1919年の末、貨幣製作所は1万3616人を雇用していた(注42)。
 貨幣の発行を唯一制約するものは、用紙とインクの不足だった。政府はときには、印刷用品を外国から購入するための金塊を割当てなければならなかった(注43)。
 そうであってすら、印刷は需要に追いつくことができなかった。
 Osinskii によれば、1919年の後半、「国庫の活動」—換言すると「貨幣の印刷」—は、予算上の歳出の45から60パーセントまでの間を消費した。このことは、予算を均衡させる手段として!迅速に貨幣を排除しなければならないという彼の主張の論拠として役立った(注44)。
 1919年のあいだに、流通している紙幣の量はほとんど4倍になった(613億ルーブルから2250億ルーブルへ)。
 1920年には、そのほとんど5倍になった(1兆2000億ルーブルへ)。
 1921年の前半には、さらにその2倍になった(2兆3000億ルーブルへ)(注45)。
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 ③につづく。

2864/R.パイプス1990年著—第15章⑥。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
  <第15章・“戦時共産主義“>の試訳のつづき。
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 第15章・第三節/通貨廃止の試み①。
 (01) このような性質は、通貨のない経済の導入を意図した初期のボルシェヴィキの財政実験に、最もよく表れていた。
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 (02) マルクスは、貨幣の性格と機能に関して、大量の、込み入った馬鹿げたことを書いた。彼はその際、Feuerbach の「投影」と「物神」(fetisches)という概念を採用した。
 マルクスは通貨を「人類の疎外された能力」、「人間の自然の本性」の全てを「混乱させる」もの、「労働の結晶」、人間から離れて支配するようになる「怪物」と、さまざまに定義した。
 こうした考えは、貨幣を持たず、それを稼ぐ方法を知らないが、貨幣がもたらす影響と充足を切望する知識人たちにはきわめて魅力的だった。
 知識人たちが経済史にもっと通暁していたならば、「貨幣」と称するかは別として、労働の分配や商品およびサービスの交換を実際に行なっている全ての社会に、一定の測定単位が存在したことに気づいただろう。
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 (03) このような考えの魔法のもとで、ボルシェヴィキは、貨幣の役割を高く評価しすぎ、一方で低く評価しすぎた。
 「資本主義」経済の観点では高く評価しすぎた。それを彼らは、財政装置によって全体的に支配されているものと考えた。
 「社会主義」経済の観点では低く評価しすぎた。それを彼らは、貨幣なしで済ませることができるものと信じた。
 ブハーリンやPreobrazhenskii が述べたように、「共産主義社会は、金銭について何も知らないだろう」(注29)。
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 (04) ロシアの諸銀行を掌握すれば一瞬にして国の産業と取引の支配権を握ることが可能になる、というのは、Hilferding の理論に由来した(脚注1)
 これによって、ロシアはすみやかに社会主義になる—銀行の国有化は「社会主義の十分の九」を達成するだろう—とのレーニンの楽観主義が説明される。
 Olenskii も同様に、銀行は最も重要な唯一の手段だと宣告した(脚注2)
 このような方法によるロシアの資本主義経済の迅速で簡単な克服という見込みは完全に幻想だった、と判明した。しかし、ボルシェヴィキ党は頑なに、Hilferding の理論に執着した。
 1919年に採択した新しい綱領は、ロシアの国立および商業銀行の国有化によって、ソヴィエト政府は「銀行を金融資本主義の支配センターから労働者の活力の武器、経済革命の梃子に変える」(注30)、と主張した。
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 (脚注1) Hilferding によると、1910年にベルリンの大銀行のうち6銀行が、ドイツの産業のほとんどを支配していた。
 (脚注2) ドイツの銀行のように、ロシアの銀行は、工業、商業上の起業に直接に関与し、これら企業が発行する有価証券や社債で相当の金融資産を有していた。こうしたことは、彼の見解に、信頼できそうだとの印象を与えた。
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 (05) ボルシェヴィキの理論家たちは、「色付き紙」に価値を下げ、配給券による商品の配分の総合的制度に置き換えることで、貨幣を完全に一掃してしまうことを望んだ。
 1918-20年のソヴィエトの公刊物では、多数の論文が、貨幣の消失は不可避だと論じた。
 以下は、恰好の例だ。
 「社会化された経済の強化と配分に関する包括的計画の導入と並んで、金銭券(つまり通貨)の必要は消滅するに違いない。
 社会化された経済での流通が徐々に消失して、通貨は、私的生産者に対する政府の直接の影響力の外にある資産に変わる。
 通貨の量が継続的に増加してその発行の必要が継続するにもかかわらず、通貨は、国民経済の全体的動向の中では、つねに消滅していく役割しか果たさなくなる。
 このいわば、客観的な通貨の価値下落は、さらに勢いづいて、社会化された経済が強化され、発展して、小さな私的生産者たちの拡大する分野がその軌道内に抑え込まれるまでになる。そして、ついには、私的生産性に対する国家の生産性の決定的な勝利のあとで、通貨の着実な、流通からの撤退が、移行期を経て通貨なき配分へと至る可能性が現出するだろう(注31)」。
 マルクス主義者が好んだ専門術語で、著者は、通貨はまだ失くならない、「小さな私的生産者」(農民と読む)が国家統制の外になおも残っており、彼らにまだ支払わなければならないから、と言っていた。
 通貨は、「私的生産」に対する「国家生産」の決定的な勝利によってのみ余分なものになる。—言い換えると、農業の完全な集団化のあとでのみ。
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 (06) ボルシェヴィキが通貨を排除するのに失敗した理由として挙げていた標準的なものは、ほとんど全ての食糧生産を含む経済の多くは、国有化のための種々の布令を発したあとですら、私人の手に残ったままだ、というものだった。
 Osinskii によると、「二重経済」の存在—国有と私有—は、「不確定な時期」のための貨幣制度の維持を余儀なくさせていた(注32)。
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 (07) しかしながら、実際には、農民は彼らの生産物を滑稽なほどに低価格で売却していたので、このような考察には、公式の説明と言えるほどの真摯さが欠けていた。
 レーニンは、1920年の夏に、財務部によって印刷される大量の紙幣は、食糧を購入するためではなく、労働者や公務員の給料を支払うために使われていることを認めた。
 彼の推定では、ソヴィエト・ロシアには1000万人の賃金労働者がおり、毎月に平均4万ルーブルを受け取っていた。総計では4000億ルーブルになる。
 この数字と比べると、食糧の代償として農民たちに支払われる金銭は微細なものだった。
 Larin は、固定価格(1918-20年)で得られる食料全部のために、政府は200億ルーブルも使っていない、と見積もった(注33)。
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 (08) ボルシェヴィキがペテログラードで権力を掌握したあとすぐに銀行を国有化できなかったのは、ボルシェヴィキを正当な政府だと承認するのを、銀行界がほとんど満場一致で拒んだからだった。
 既述のように、この反対の立場は、やがて崩れた。
 1917-18年の冬の終わりに、全ての銀行が国有化された。
 国立銀行(the State Bank)は人民銀行(the People’s Bank)と改称され、他の信用機関の責任も負わされた。
 1920年までに、人民銀行と決済機関として機能したその支店を除き、全ての銀行が閉鎖された。
 金庫は開放が命じられ、そこから発見された金は、大量の現金や有価証券とともに、没収された。
 こうした措置は、ボルシェヴィキの期待をほとんど満足させなかった。結果としての収穫は、信用から排除するためにロシアの事業界を政府が統制できるほどに大きくはなかったからだ。
 これは、新しい体制にとって、苦い失望だった(注34)。
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 (09) ボルシェヴィキ政府は、財政上は、長いあいだ混乱の状態にあった。
 1917年の十月後に租税制度はほとんど破綻し、歳入はごく僅かになった。
 政府は、できるかぎりのことをして切り抜けた。
 流通貨幣として政府が頼ったのは、ケレンスキーの「自由ローン」に由来するクーポン券だった。
 通常の予算に僅かにでも似たものは、何もなかった。
 1918年5月の財務人民委員部の推測(原文ママ)では、政府はそれまでの半年間に200-250億ルーブルを費やし、50億ルーブルを入手した(脚注)
 政府は、地方の行政機構からの要求を充たすことができなかった。
 それで、地方の「ブルジョアジー」に金銭を強要することを、<guberniia>〔帝制下の地方行政区〕や地区ソヴェトに対して、許したのみならず、命令した。
 レーニンはこれは、全ての地方のソヴェトが自らを「自立した共和国」と見なすのを励ますことになる悪い先例だと考えた。
 そして、1918年5月に、財政上の中央集権化を要求した(注35)。
 しかし、中央に金銭がないならば、財政を中央に集中させることはできなかっただろう。
 政府は結局は、地方ソヴェトに対して、助成金を懇願するのをやめて、自分たちで何とか処理するよう伝えた。
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 (脚注) E. H. Carr, The Bolshevik Revolution, 1917-1923, II(New York, 1952), p.145. 彼は、「これらの数字のいずれかを推測にすぎないと見なすことは困難だ」と述べる。たしかに、1918年7月にソヴナルコムが承認した国家予算は、遡及して以前の6ヶ月間、歳出を176億ルーブルに、歳入を28.5億ルーブルに固定していた。NV, No. 117/141(1918年7月14日), p.1. 当時の別の推計では、1918年前半の歳出は205億ルーブル、歳入は33億ルーブルだった。Lenin, Sochineniia, XXIII, p. 537-8.
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 (10) 臨時の出費の資金を増やし、同時に「階級敵」の経済力を削ぐために、ボルシェヴィキはときどき、「寄付金」というかたちでの差別的な徴税を行なった。
 そうして、1918年10月に、特別の一時限りの、100億ルーブルの「寄付金」が、国の有産階層者に課された。
 この臨時の徴税は、モンゴルが中世のロシアに導入した中国の例に従ったもので、都市部と地方の割合を定め、その範囲内で、支払いの配分をそれらに委ねた。
 モスクワとペテログラードは、それぞれ30億ルーブルと20億ルーブルが要求された。
 その他の地方ソヴェトには、支払いに責任を負う個人のリストを用意することが求められた(脚注)
 類似の「寄付金」が、地方ソヴェト自身の主導によって、課された。ときには、当面の出費のための金銭を徴集するために、ときには、制裁として。
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 (脚注) Piatyi Sozyv VTsIK: Stenographcheskii Otchet(Moscow, 1919), p.289-p.292. しかし、望んだ金額の一部だけが実際に徴集されたように思われる。
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 ②へとつづく。

2852/R.パイプス1990年著—第15章④。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
  <第15章・“戦時共産主義“>の試訳のつづき。
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 第15章・第一節/起源と目標④
 (20) この時期、レーニンは、資本主義の経営と技術を新しい国家で利用する、国家資本主義を擁護して、確信をもちつつ、但し十分には支持されなかったのだが、論述した。
 資本主義が提供する最良のものを採用してのみ、ロシアは社会主義を建設することができる、と。
 「国家資本主義の最も具体的な例を挙げよう。
 誰もがこの例を知っている。ドイツだ。
 ここに我々は『決定句』を見る。<ユンカー・ブルジョア的帝国主義に従属した>、近代的な大規模の資本主義運営と計画的組織化のうちに。
 強調部分を削除し、軍国主義、ユンカー、ブルジョア、帝国主義国家の箇所に<国家>を挿入する。この国家は、異なる社会類型の国家であり、異なる階級内容をもつ国家だ。—<ソヴィエト国家>、すなわち、プロレタリア国家だ。そうすれば、社会主義に必要な条件の<総計>を我々は得るだろう。
 近代科学の最新の研究成果にもとづく大規模の資本主義の技術がなければ、社会主義を構想することはできない。
 生産と産物の配分の統一的標準を数百万の人民に正確に観察させる、そのような計画的な国家の組織化がなければ、社会主義を構想することはできない(注22)。」
 --------
 「ソヴィエト権力のもとでの国家資本主義とは何か?
 現時点において国家資本主義を達成することは、資本主義諸階級によって実行されている計算と統制を実践に移すことを意味する。
 国家資本主義の例を、我々はドイツに見る。
 ドイツは我々よりも優れていることを、我々は知っている。
 しかし、ほんの僅かでもつぎのことを考えれば、何が意味されるだろうか。かりにその国家資本主義の基礎がロシア、すなわちソヴィエト・ロシアで確立されるならば、正当な感覚を失わず、書物の知識の断片で頭を充たしていない者は誰でも、国家資本主義は我々を救済するものだ、と言わなければならないだろう。
 <私は、国家資本主義は我々を救済するものだ、と言った。
 ロシアがそれを達成すれば、完全な社会主義への移行は容易になるだろう。我々の理解では、国家資本主義とは、中央集権化され、計算され統御され、社会主義化された何ものかであって、それはまさに、今の我々に欠けているものだ。>…」(注23)
 --------
 (21) レーニンが好んだ経済の問題はかくして、ボルシェヴィキが実際には採用することになるものよりも、はるかに穏健なものだった。
 レーニンがそのまま進んでいたら、「資本主義」セクターは基本的には無傷のままで残され、国家の監視のもとに置かれただろう。
 外国資本(主にドイツとアメリカ)の流入を想定した協力関係が結果として生じ、そのことは、政治的な副作用なくして先進「資本主義」の利益の全てをボルシェヴィキ経済にもたらすことを意味しただろう。
 こうした提案には、3年後の<新経済政策>と共通する多くの特徴があった。
 --------
 (22) しかし、これは、現実にはならなかった。
 レーニンとトロツキーは、多くのグループから狂信的な反対を受けた。グループの中の<左翼共産主義派>の反対は、最も激烈だった。
 左翼共産主義者たちは、ブハーリンによって指揮され、党内エリートの重要部分と妥協していたが、ブレスト=リトフスク条約に関しては屈辱的な敗北を喫していた。
 しかし彼らはボルシェヴィキ党内の分派として活動をし続け、彼らの機関紙<共産主義者>の紙面で、自分たちの主張を議論し続けた。
 このグループの中には、Alexandra Kollintai、V. V. Kuibyshev、L. Kritsman、Valerian Obolenskii(N. Osinskii)、E. A. Preobrazhenskii、G. Piatakov、Karl Radek)がいた。そして自分たちは「革命の良心」だと考えていた。
 このグループが十月以来信じていたのは、レーニンとトロツキーは「資本主義」や「帝国主義」との機会主義的な順応へと滑り込んでいる、ということだった。
 レーニンは<左翼共産主義者>を、夢想家かつ狂信者で、「社会主義の幼年期の病気」の犠牲者たちだと見なした。
 しかし、この党派は、労働者や知識人から力強い支援を受けた。とくに、レーニンとトロツキーの提案によって「資本主義」の方法が導入される危険があると感じる、モスクワの党組織内の彼らによって。
 提案されたのは、責任をもつ個人による経営に戻すために工場委員会の解体、「労働者支配の放棄」を求めるものだった。この変化は不可避的に、党官僚たちの力と特権を減少させる。
 レーニンは、ボルシェヴィキがブレストのために論争しており、全てのソヴェトで多数派でなくなっていたときには、これら知識人と労働者内のその支持者たちを無視することができなかった。
 また、ある金属労働者がMeshcherskii との交渉に関してこう言うのを聞いたとき、常識が彼に勧める方向を強く主張することができなかった。「レーニン同志、この分野でも息つぎ時間を考慮しているなら、あなたは偉大なご都合主義者だ」(脚注)
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 (脚注) Vechernaia zvezda, April 19, 1918, in: Peter Scheibert, Lenin an der Macht(Weinheim, 1984), p. 219. この参照は、もちろん、ボルシェヴィキがブレスト=リトフスク条約で確保したと主張した、一般には知られない「息つぎ時間」に関してだ。
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 (23) 実際に現実化した戦時共産主義の諸要素は、1918年4月にLarin が発表した小論の中で考察されていた。
 Larin は、1917年11月に彼の論文で発表した諸原理を綿密にしたものにすぎないと装っていたけれども、新しくて異なる経済綱領を提示していた。
 ロシアの全ての銀行は国有化されなければならない。
 工業についても、全ての分野でそうしなければならない。国家と私的トラストの間に協力の余地はない。
 「ブルジョア」専門家は、技術的要員としてのみ経済のために働くことができる。
 私的取引は廃止され、国家の監督のもとでの協同的作業に変えられなければならない。
 経済は、単一の国家計画に従うべきだろう。
 ソヴィエトの諸制度は、通貨とは関係させないで、会計処理を維持する。
 やがて、国家の統制は、旧地主の未使用土地を皮切りに、農業へと拡張されるだろう。
 私的資本に対する唯一の譲歩は、外国の利権だ。これは、技術的人員を提供し、備品の輸入のための借款を認めることで、ソヴィエト・ロシアの経済発展に参画することが許される(注24)。
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 (24) このような綱領的計画でもって、左翼共産主義派は1918年4月に、レーニンを抑えて圧倒した。そして、即席の社会主義というユートピアへと、向こう見ずにも突進していくことになった。
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 第一節、終わり。

2851/R.パイプス1990年著—第15章③。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
  <第15章・“戦時共産主義“>の試訳のつづき。
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 第15章・第一節/起源と目標③。
 (14) 1917年10月25日に—つまり、第二回全国ソヴェト大会からも政府を形成する権威を与えられる前に—、レーニンは元メンシェヴィキで最近にボルシェヴィキに変わったIuri Larin に近づいた。
 社会主義者界隈では、Larin はドイツの戦時経済に関する専門家だと考えられていた。
 レーニンは彼に言った。「あなたはドイツ経済の組織化の問題に没頭している。シンジケート、トラスト、銀行、これらを我々のために研究してほしい。」(注15)
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 (15) のちにすみやかに、Larin は<Izvestiia>に、ボルシェヴィキの経済綱領に関する印象的な概要を発表した。
 この論文が中心に据えていたのは、原料生産、消費産業、輸送、銀行、各々が総合的国家計画に従属したものだが、これら全ての義務的なシンジケート化だった。
 諸企業内の私的部分は、シンジケート部分と交換されるだろう。この取引は公開の市場で行なわれる。
 地方では、自治規則をもつ機関(おそらくソヴェト)は、小売取引や住宅区画をシンジケート化するか、自治体のものにするだろう。
 農民層もまた、食糧や農機具の配分のために「シンジケート化」するだろう(注16)。
 この綱領のもとで、政府は、私的企業を統制することになる。廃止するのではない。
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 (16) レーニンの要請に応えて、Larin とその仲間たちは、ロシアの最も有力な産業家の一人のAlexis Meshcherski との討論を開始した。
 たたき上げのMeshcherski は、旧体制のもとでは典型的な「進歩的」起業家で、官僚制を軽蔑し、ロシアが自由で民主主義的な国になることを望んでいた。そして、ロシアがもつ潜在的な莫大な生産力を実現できる能力があった(注17)。
 Meshcherski は個人的には裕福でなかったけれども、巨大なSormova-Kolomna 金属工業の取締役として、相当に大きい経営上の責任を有していた。この企業の資本金はロシア人と外国人、主としてドイツ人がもち、6万人の労働者を雇用していた。
 Larin の誘いで、Meshcherski は、私企業とボルシェヴィキ政府の合弁企業のための青写真を描いた。
 彼は、半分は民間の投資者が、半分は国家が提供する10億ルーブルの資本金をもち、民間部門が60パーセントを占める委員会によって経営される、ソヴィエト冶金トラストの設立を想定した。
 30万の労働者を雇用するこのトラストは、炭鉱や鉄鉱とともに工業企業群のネットワークを管理し、とりわけ、傷んでいるロシアの鉄道制度に車両を供与するものとされていた(注18)。
 春に共産党当局は、Stakheev グループの役員たちとの類似の合弁企業について討議した。Stakheev グループは、Ural にある150の工業、金融、商業企業を支配していた。
 それの経営陣は、ソヴィエト政府とロシア人、アメリカ人の関係者による基金から資金が提供される、Ural の鉱物を開発するトラストを提案した(注19)。
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 (17) この提案が実現すれば、ソヴィエト経済を混合型へと押し進めただろう。だが、ボルシェヴィキ内の「純粋主義者」によって、未熟なままになった。
 彼ら「純粋主義者」の圧力を受けて、政府の交渉担当官は、提案されている冶金トラストでの政府割合が最大になるよう要求した。民間部門には何も残されないほどまでにだった。
 Meshcherski とその仲間たちはボルシェヴィキ体制との交渉に熱意があったので、トラストの100パーセントの割合すら政府に譲ることに同意した。政府がそれを売却すると決定した場合に彼らに第一順位が約束されていることが条件だった。
 この最も穏健な提案ですら、却下された。
 1918年4月14日に、国家経済最高会議は、討議を終息させる、と票決した。ある共産主義者の説明によると、「投票数の過半数近く」という不思議な表現の叙述が付いていた(脚注)
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 (脚注) Meshcherskii, NS, No. 33(1918年5月26日), p.7; M. Vindekbot, NKh, No.6(1919年),p.24-32.
 NV, 101/125(1918年6月26日),p. 3によると、Meshcherskii は6月に逮捕された。彼はのちに脱国して外国に移住した。
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 (18) 結果を何も残さなかったけれども、こうした交渉をしたという事実だけであっても、体制に対峙するロシアの実業界の奇妙な冷静さを説明するのを助けるだろう。ボルシェヴィキ体制は、経済的破綻でもって、ときには肉体的な破壊でもってすら、ロシアの実業界を公然と威嚇していたのだったが。
 ロシアの銀行家や工業家たちは、ボルシェヴィキの諸声明を、革命的レトリックだと見なしていた。
 彼らの見方では、ボルシェヴィキは崩壊している経済を回復させるための助けを求めて彼らに向かいあうか、それともボルシェヴィキ自体が崩壊するか、のいずれかだった。
 さて、1918年の春、大戦勃発以来公式に閉鎖されていたペトログラード証券取引所が突然に復活し、証券や銀行株の店頭販売を再開する、ということが起きた(注20)。
 大企業界隈でのボルシェヴィキに対する楽観主義は、ボルシェヴィキとの交渉や、政府はロシアをドイツ資本に開く通商協定の交渉をドイツと行なっているという知識によって、強められた。そしてこのことは、白軍の将校たちが財政的援助を求めてきても聞く耳を持たない原因になった。
 1918年の春に白軍運動がドイツの実業家たちにどう見えていたかと言うと、ボルシェヴィキ政府と協力する可能性と比べて、見込みのない賭け、というものだった。
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 (19) ブレスト=リトフスク条約が批准されるとすぐに、ボルシェヴィキ指導者たちの注意は経済に向かった。今や権力は彼らにあり、彼らはもはや、国の富を農民や労働者に渡してそのあいだで分配させることによって、国富を無駄に費やそうとは考えなかった。
 合理的で、効率的な「資本主義」の態様で、生産と分配を組織するときがきた。労働紀律、会計責任の再導入、そして最も近代的な技術と経営方法の採用を通じてだ。
 トロツキーは、1918年5月28日の演説で、方向性の変化について合図を送った。それには、不思議な「ファシスト」的表題が付いていた。—「労働、紀律、秩序が、ソヴィエト社会主義共和国を救うだろう」(注21)。
 彼は労働者たちに対して、「自制心」を働かせること、ソヴィエト諸産業の経営は専門家たちに委ねなければならないことを受け入れること、を訴えた。その専門家は、従前の「搾取者」たちの中から選ばれるのであっても。
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 ④につづく。

2849/R.パイプス1990年著—第15章②。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
  <第15章・“戦時共産主義“>の試訳のつづき。
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 第15章・第一節/起源と目標②。
 (07) 戦時共産主義には、いくつかの源泉となる着想があった。
 商品と労働の生産・配分の国家統制(国家所有でなかったが)は、第一次大戦中のの帝政ドイツで導入されていた。
 「戦時社会主義」(Kriegessozialismus)として知られるこの緊急措置は、レーニンとその経済助言者のIurii Larin に深い印象を与えた。
 商品の自由市場を国家経営の分配センターで置き換えるというのは、Louis Blanc の思想と彼の影響のもとで1948年にフランスに導入された<ateliers>に倣っていた。
 しかしながら、精神では、戦時共産主義が最も似ていたのは、中世ロシアの父権的体制(tiagloe gosudarstvo)だった。父権的体制のもとでは、君主制は、住民や資源も含めて、国全体を君主の私的領域のごとく扱った(注08)。
 西欧の文化に本当に全く接したことがなかったロシアの大衆にとって、経済の統制は、抽象的な財産権や「資本主義」と称される複合現象全体よりも、はるかに自然だった。
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 (08) かりに1918年と1921年の間のソヴィエトの経済布令を額面どおりに理解すれば、この時期の終わりには国家の経済は完全に国家が管理するものになると、おそらく間違いなく結論づけるだろう。
 実際には、ソヴィエトの布令群は、しばしば意図を示したものにすぎなかった。法と現実との不一致はより大きくはならなかった。
 恒常的に膨大化する国家セクターと並んで、その廃止の企てに抵抗する私的セクターが盛んに活動していた証拠は、豊富に存在する。
 通貨は、言うところの「貨幣なき」経済においてすら流通しつづけた。
 そして、パンは、体制は穀物独占を主張しているにもかかわらず、公開の市場で販売された。
 中央経済計画は、実施されなかった。
 言い換えると、戦時共産主義が放棄されなければならなかった1921年に、それはきわめて不完全ながらようやく実現していた。
 戦時共産主義が失敗した理由は、ごく一部は、法令を政府が実施できなかった、能力のなさにある。
 これ以上に、可能であったときですら、厳格に強制的に施行すれば経済的大厄災をもたらしただろう、と気づいていたことによる。
 共産主義者の文献は、パンの総量の三分の二の多さを都市住民に提供していた非合法の食物取引がなければ、都市は飢餓に陥っていただろう、ということを認めていた。
 新しい名前とスローガンにあった戦時共産主義は、ようやく10年後に現実になった。スターリンが、レーニンが中止させていたときに経済的編成を再開したからだ。
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 (09) 戦時共産主義の目標は、社会主義だった。あるいは、共産主義ですらあった。
 唱導者たちはいつも、社会主義国家は私有財産と自由市場を廃止し、中央集権化した、国家が経営する、計画経済システムがそれらに代わる、と信じていた。
 ボルシェヴィキがこの構想を実現しようとして直面した主要な困難さは、マルクス主義は資本主義の発展の長期の経緯の結果として私有財産と市場を廃棄することを想定していた、ということに由来していた。資本主義の発展こそが、法令によって国有化することができるまでに生産と配分を集中させることができたのだ。
 しかし、ロシアでは、革命の時点で、資本主義はまだその幼年期にあった。
 ロシアの圧倒的な「プチ・ブルジョア」経済は数千万の自己雇用の自治組織の農民と職人に支配されていたのだが、それは、農民に配分し、労働者に工業企業の統制権を付与するために大規模の資産を破壊するというボルシェヴィキの政策によってさらに強化された。
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 (10) レーニンが十分に証明しているのは、異常に明敏な政治家だったということだ。しかし、こと経済問題については、きわめて未熟だった。
 彼の経済に関する知識は、全体として、ドイツの社会主義者のRudolf Hilferding の諸著作のような文献に依拠していた。
 影響力ある<金融資本論>(1910)でHilferding は、資本主義はその最も発展した段階、「金融資本主義」の段階に入った、それは全ての経済力を銀行の手に集中させる、と主張した。
 その段階に到達した資本主義の論理的帰結はこうだ。
 「この趨勢は一銀行または銀行群が貨幣資本全体を支配する状況を生むだろう。
 このような『中央銀行』はそれによって社会的生産の全体に対する支配を確立する。」(注09)
 「金融資本主義」という観念と結びついていたのは、シンジケートやトラストの役割に関する誇張した見方だった。
 レーニンとその仲間たちは、ロシアではシンジケートやトラストが事実上は産業と取引を支配すると信じ、市場の力には小さいかつ消失していく役割しか認めなかった。
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 (11) このような前提からは、銀行やシンジケートを国有化することは国の経済の国有化と同じことである、という帰結が生じ、そのことは次いで、社会主義の基礎を築くことを意味する。
 レーニンは、ロシアでの銀行制度とカルテルの手への経済諸力の集中によって、金融と商業の布令による国有化を可能にする次元を獲得した、と論じた(注10)。
 彼は、十月のクーの直前に、単一の国有銀行を創設すればそのこと自体だけで「<社会主義>制度の十分の九」が達成されるだろう(注11)、という驚くべき言明を述べた。
 トロツキーは、レーニンのこのような楽観主義を確認している。
 「1918年早くに書いた『平和に関するテーゼ』で、レーニンは、『ロシアでの社会主義の勝利には、一定の期間が、<数ヶ月程度(no less than)> が必要だ』と述べる。
 現在〔1924年〕では、この言葉は完全に理解し難いように思える。
 これはペンのすべりだったのか、彼は数年または数十年を意味させたかったのではなかったか?
 だが、否だ。これは、ペンのすべりではなかった。…
 私はとても明瞭に憶えている。最初の時期の、Smolnyi での人民委員会議の会合で、レーニンはいつも変わらずに、我々は半年で社会主義を達成し、最強の国家になるはずだ、と繰り返した。」(注12)
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 (12) 権力を掌握していた最初の6ヶ月のあいだに、レーニンは、彼が「国家社会主義」と呼んだシステムをロシアに導入することを考えた。
 これはドイツの「戦時社会主義」を範としたものだったが、直接に戦争遂行に関連性があるセクターや「資本主義者やユンカーたちの利益となる作業のみならず、「プロレタリアート」のための利益となる作業も包括する、という違いがあった。
 1917年9月、十月のクーの直前に、かくしてレーニンはこう考えていた。
 「常備軍、警察、官僚制の圧倒的に『抑圧的な』諸装置に加えて、現在の国家には、とくに緊密に銀行やシンジケートと結びついて、言ってみれば、大量の会計や記帳の作業を実行している諸装置が存在している。
 これらの装置を粉砕できないし、粉砕してはならない。
 これらは、資本家たちに対する服従から解放されなければならない。影響力をもつ資本家たちから切り離されなければならない。
 プロレタリア・ソヴィエトに対して服従させなければならない。
 そうなれば、諸装置はより総合的に、より多くを包括するものに、より国民的なものになる。
 そしてこのことは、大規模の資本主義によってすでに成し遂げられている達成物に依拠して、行なうことが<できる>。…
 銀行、シンジケート、商業社会等々の大量の被雇用者は、(資本主義と金融資本主義のおかげで)技術的にも、<ソヴィエト>による統制と監視のもとで政治的にも、十分に「国有化」を行なうことができる。」(注13)
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 (13) 1917年11月、レーニンは、経済綱領の概略を、こうメモした。
 「経済政策の諸問題。
  1. 銀行の国有化。
  2. 義務的なシンジケート化。
  3. 外国取引の国家独占。
  4. 略奪と闘う革命的手段。
  5. 金融や銀行の略奪の公表。
  6. 金融産業。
  7. 失業。
  8. 動員—軍の?、工業の?
  9. 供給。」(注14)
 この案は、国内取引の国家独占や工業または輸送の国有化、そして貨幣なき経済については、何ら言及していない。これらは、戦時共産主義の特徴になるはずなのだけれども。
 この時期のレーニンは、金融制度の国有化と工業、商業企業のシンジケート化で、社会主義経済をその途上に乗せるには十分だ、と信じていた。
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 ③につづく。 

2845/R.パイプス1990年著—第14章㉜。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第19節/ロシアがドイツ敗戦と決定。
 (01) ボルシェヴィキは1918年の9月末まで、友人であるドイツの勝利を信じていた。
 その9月末、その考えを変更せざるを得ないことが起きた。
 9月30日に宰相Hertling が辞任し、数日後にHinze が解任された。これらにより、ベルリンにいるロシアに最も忠実な支持者たちが排除された。
 新宰相のMaximilian 公はアメリカ大統領Wilson に対して、アメリカ政府が停戦に向けて調整するよう要請した。
 これは、崩壊が切迫していることの紛れなき兆候だった。
 暗殺の企て(後述参照)による負傷から回復するために当時はモスクワ近郊の別荘〔dacha〕にいたレーニンは、ただちに行動に移った。
 彼はトロツキーとSverdlov に、中央委員会を開催するよう指示した。外交政策上の緊急問題を議論するためだった。
 10月3日、レーニンは〔ソヴェト〕中央執行委員会に、ドイツの情勢の分析文を送った。そこで、ドイツで革命が切迫していると熱烈に語った(注216)。
 彼の勧告にもとづき、10月4日に中央執行委員会は、決議を採択した。それは、全世界に対して、ドイツの革命政府を助けるためにソヴィエト・ロシアは全力を捧げる、と宣言する、というものだった(注217)。
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 (02) ドイツの新宰相には、転覆を求めるこのような鉄面皮の訴えは我慢できなかった。
 今や外務省ですら、ボルシェヴィキにうんざりしていた。
 10月の省庁間会合で、外務省は初めて、ボルシェヴィキと決裂することに同意した。
 その月の末までに外務省の官僚たちが作成した覚書は、政策変更をつぎのように正当化した。
 「ボルシェヴィズムを発明したことやそれをロシアに対して自由にさせたことについて評判が悪い我々は、今は最後の土壇場で、将来のロシアに対する共感を完全に失わないためにも、少なくとも、ボルシェヴィキを保護するのをやめるべきだ」(注218)。
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 (03) ドイツには、ロシアと断絶するのを正当化する十分な根拠があった。1918年の春と夏にすら領土内で破壊工作活動行っていたIoffe が、今や公然と革命の火を煽り立てているのだから。
 のちにIoffe が誇って書いたように、この時期に彼の大使館が行なっていた煽動的な政治的虚偽宣伝活動は、「武装蜂起のための決定的な革命的準備活動の性格をいっそう帯びてきている」。
 「スパルタクス団という陰謀集団は別論として、ドイツ、とくにベルリンには、[1917年]1月のストライキ以降、—むろん非合法に—労働者代議員ソヴェトが存在している。…
 大使館はこれらソヴェトとの連絡関係を継続的に維持した。…
 [ベルリンの]ソヴェトは、ベルリンの全プロレタリアートが十分に武装していてこそ蜂起は時宜にかなったものになる、と想定していた。
 我々は、これと闘わなければならない。
 そのようなときを待っていれば蜂起は永遠に生起せず、プロレタリアートの前衛だけが武装するので十分だ、と主張しなければならない。…
 それにもかかわらず、ドイツのプロレタリアートの武装しようとの努力は全体として合法的で、分別があり、大使館はそれらをあらゆる面で援助した。」(注219)
 この援助は、金銭と武器の供与のかたちで行なわれた。
 ロシア大使館がドイツから離れたとき、不注意で一つの記録文書を忘れて残していた。その文書は、大使館が9月21日と10月31日の間に10万5000ドイツマルクを払って210の短銃と2万7000の銃弾を購入したことを、示していた(注220)。
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 (04) ドイツでの革命政府の勝利を援助することを目ざすとのソヴィエトの最高立法機関〔ソヴェト中央執行委員会〕の宣言やこの意図を実現しようとするIoffe の努力は、ロシアとの外交関係を断絶するには十分であるはずだった。
 しかし、ドイツの外交当局は、もっと議論の余地のない根拠を求め、そのためにある事件を引き起こした。
 ソヴィエトのクーリエは数ヶ月間、ドイツで散布する扇動文書を大使館に持ってきていた。このことをドイツ外務当局は知っていて、ロシアからの外交箱がベルリン市内の鉄道駅で下ろされるあいだに偶然にのごとく落ちて壊れるように、手筈を整えた。
 11月4日の夕方、これが行なわれた。
 壊れた箱枠から、ドイツの労働者と兵士が決起してドイツ政府を打倒するよう激励する多数の煽動文書が出てきた(注221)。
 Ioffe は告げられた。ただちにドイツを去らなければならない、と。
 彼は適度の憤慨を示したけれども、モスクワに向かって出立する前に、〔ドイツ〕独立社会主義党のOskar Cohn 博士、実質的にソヴィエトの使命をもつ在住者に、50万ドイツマルクと15万ルーブルを残すことを忘れなかった。これらの金銭は、「ドイツ革命の必要のために」従前から配分されていた総計1000万ルーブルを補充するものだった(脚注)
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 (脚注)  Ioffe, VZh, No. 5 (1919), p.45. トロツキーとの親密な関係を理由として、Ioffe はのちに屈辱を受けた。彼は1927年に自殺した。Lev Trotskii, Portrety revoliutsionerov (Benson, Vt, 1988). p.377-p.401.
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 (05) 11月13日、西部戦線の停戦から二日後、ロシア政府は一方的に、ブレスト=リトフスク条約と補完条約を廃棄した(注222)。
 連合諸国もまた、Versailles 合意の一部として、ドイツにブレスト条約を廃棄させた(注223)。
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 第20節(最終節)へとつづく。
 

2840/R.パイプス1990年著—第14章㉙。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第17節/ボルシェヴィキがドイツに干渉を求める。
 (01) しかし、全ては将来のことだった。
 8月1日にクレムリンがArchangel に連合国が上陸したとの報せを受けたとき、状況は見込みがないように見えた。
 東部では、チェコスロヴァキア軍団が次から次に都市を占拠し、中央 Volga 地域を完全に支配していた。
 南部では、Denikin の義勇軍が、Krasnov将軍が指揮するDon コサックに率いられて、Tsaritsyn へと前進していた。そこが掌握されれば、チェコスロヴァキア軍団との連絡線ができることになり、妨害のない反ボルシェヴィキ戦線が中部Volga からDon 地域まで生まれるだろう。
 そして今、相当規模のアングロ・アメリカ軍が北部に集結しており、明らかにロシアの内部へと攻撃を開始しそうだった。
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 (02) ボルシェヴィキには、苦境を脱する一つだけの方法があった。それは、ドイツによる軍事干渉。
 これを要請することを決定したのは8月1日で、Helfferich がChicherin に、継続してロシアを支援することを告げた後だった。
 この決定を下した会合は、共産主義者の文献によると、ソヴナルコムの一会議だった、と叙述されている。
 しかし、その日に内閣の会議があったとする記録は存在しないので、レーニンがおそらくChicherin と協議して、個人的に決定した、というのが事実上は確実だ。
 ロシアは、連合諸国軍と親連合国軍に対抗するドイツとの共同軍事作戦を提案した。当時は基本的にはラトビア人兵団で構成されていた赤軍は、モスクワの北西部に位置を占めることになる。予期される連合諸国軍の急襲からモスクワを守るためだ。一方で、ドイツ軍は、アングロ・アメリカの遠征隊に対抗してフィンランドから、また義勇軍に対抗してウクライナから前進することになる。
 我々はこの決定を、主としてHelfferich の回想録によって知っている。Helfferich は、8月1日の遅くにもう一回、Chicherin の予期せぬ訪問を受けていた。
 外務人民委員のChicherin はHelfferich に対して、内閣の会議の後で直接に、内閣を代表して、ドイツによる軍事干渉を要請するためにやって来た、と言った(脚注)
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 (脚注) この出来事に関する短い回想で、Chicherin はこう述べる—ソヴィエトの文献の中で唯一の言及のようだ。Helfferich の説明を確認しつつ、案件はレーニンによって個人的に解決された、と。「Lenin i vneshniaia politika」, Mirovaia politika v 1924 godu (Moscow, 1925), p.5. 彼の論考も見よ。Izvestiia, No.24/2059 (1924 年1月30日), p.2-3.
 ——
 Helfferich によると、Chicherin は、こう言った。
 「世論の状態に鑑みると、ドイツとの公然たる軍事同盟は可能ではない。
 可能であるのは、現実的な平行的作戦行動だ。
 ロシア政府は、モスクワを守るためにその戦力をVologda に集中しようとした。
 ペテログラードを占拠しないことが、平行的な行動の条件だった。同様に我々はPetropavlovsk も避けるのが望ましかった。
 実際上、この方策が意味するのは、モスクワを守ることができるように、ロシア政府は、我々に対して、ペテログラードを防衛するよう要請しなければならなかった。」
 ボルシェヴィキの提案が意味したのは、バルト海地域と(から)フィンランドにいるドイツ軍はソヴィエト・ロシアの領域に入り、ペテログラードの周囲を防衛する戦線を構築する、そして、連合諸国を排除すべくMurmansk とArchangel へと前進する、ということだった。
 しかし、これで全てではなかった。
Chicherin は「南東部についてひどく心配していた。
 私の質問に答えて、彼はついに、我々に求められた干渉の性格を述べた。
 『Alekseev に対する積極的な猛攻撃。Krasnov のドイツによる支援は問題外。』
 この点だ。北部の場合のように、そして同じ理由で、可能であるのは公然たる同盟ではなく、事実上の協力にとどまる。だが、これこそが必要だった。
 このように判断して、ボルシェヴィキ体制は大ロシアの領土でのドイツによる武装干渉を要請した。」(注197)
 -------- 
 (03) Helfferich は、この要請をベルリンへと送った。彼はこの要請を、「我々の干渉への(ボルシェヴィキによる)静かな受容と現実的な平行的作戦行動」と要約した。
 彼はこれと一緒に、ロシアの情勢の悲観的な見通しを書き送った。
 彼はこう書いた。ボルシェヴィキの権威の主要な源は、ドイツの支援を受けている、という信頼の広がりだ。
 しかし、このような感覚は、政策を遂行するための適切な基盤にならなかった。
 彼が推奨したのは、親協商国ではない反ボルシェヴィキのグループとの会話を追求することだった。とりわけ、右派センター、ラトビア人、およびシベリア政府との(注199)。
 彼の意見は、かりにドイツがボルシェヴィキへの支援を抑制するならば、反ボルシェヴィキの者たちは立ち上がり、転覆させるだろう、というものだった。
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 (04) ドイツのモスクワ大使館の助言は、再び却下された。今度は、Hinze によって。
 Hinze はボルシェヴィキは友人ではないことを認めたけれども、彼らはロシアを軍事的に無力にすることによって、ドイツへ利益を「豊富に」もたらしている、と考えた(注200)。
 彼は、Helfferich の推奨文書に不満だったので、8月6日に彼をベルリンへと召喚した。
 大使のHelfferich は二度とその職に就かなかった。在任期間は二週間に満たなかった。
 Hinze はこうして厄介なドイツ大使館を弱体化し、ドイツ・ロシア関係に二度と介入しないよう、モスクワから帰ることを命じた。
 Helfferich が出立後数日を経て、大使館は荷造りを終え、最初はPskov へ、次いでRevel へと向かった。いずれも、ドイツの占領下にあった。
 在ロシアのドイツ代表部がなくなって、ロシア・ドイツ関係の中心はベルリンへと移った。ベルリンにはIoffe がおり、ドイツ政府の広報官、および8月末に両国が締結した通商かつ軍事協定の主要な交渉人として務めていた(脚注)
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 (脚注)この時点で舞台から消えていたKurt Riezler は、戦争後にFrankfurt で教授職に戻った。ヒトラーが権力を奪取したとき、アメリカ合衆国に移住し、1955年に死ぬまで、New York 市の社会研究の新しい学校で教育職に就いた。
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 (05) ボルシェヴィキを打倒しようと虚しい努力をしたドイツ人について、一つの後日談がある。
 9月初め、在モスクワのドイツ領事の将軍、Herbert Hauschild は、Vatsetis の訪問を受けた。
 ロシア軍の最高指令長官に任命されたばかりのラトビア人将校はHauschild に対して、自分はボルシェヴィキではなくラトビア民族主義者だ、彼の兵士たちの恩赦と本国送還が約束されるならば、自分たちはドイツが自由にするままに任せる、と言った。
 Hauschild はベルリンに知らせた。ベルリンは彼に、問題にしないよう命じた(脚注)
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 (脚注) Baumgart, Ostpolitik, p.315-6. Vatsetis は、1919年夏までソヴィエトCIC として務めた。そのあと、「反革命的陰謀」に関与したとの罪で逮捕された。釈放されたのち、ソ連軍事アカデミーで教えた。1938年、教室の休み時間のあいだに再び逮捕され、のちに処刑された。Pamiat’, No.2 (1979), p.9-10.
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 第17節、終わり。

2834/R.パイプス1990年著—第14章㉖。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第15節/Riezler によるドイツの政策転換の失敗①。
 (01) ドイツ大使館の責任者になっていたRiezler は、同僚の何人かから、混乱していて上の空だと見なされていた(注167)。
 彼は日常的な外交事務にはほとんど時間を使わず、ロシアの対抗グループとの交渉に多くの時間を費やした。その仕事を、ドイツ政府は、7月1日でやめるよう指示した。
 彼は指示に従ったが、ボルシェヴィキは長く続かず、ドイツはボルシェヴィキの潜在的な後継者とのあいだの接触を必要とする、という変わらない信念があった。
 Mirbach 殺害への彼の最初の反応は、ロシア政府との関係を切断することを促すことだった(注168)。
 この助言は、却下された。そして、ボルシェヴィキを助けるのを継続するよう指示された。
 彼は1918年9月に、十分に考察することなく、こう述べることになる。ドイツは、ボルシェヴィキを救うべく、三つの場合に「政治的」手段を用いた、と(注169)。
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 (02) Riezler は、ドイツ政府からの命令を履行しながら、外務当局を、ボルシェヴィキは消耗し果てた軍隊だ、と電信で伝えて責め立てた。
 7月19日の電信では、こう送った。
 「ボルシェヴィキは死んでいる。
 埋葬すべき者に墓掘り人が同意できないがゆえに、ボルシェヴィキの遺体は生きている。
 協商国とともに現在わが国がロシア領土で展開している闘争は、もはやこの遺体のためになってはいない。
 この闘争は、後継に関する闘争へ、将来のロシアの方向に関する闘争へと変わっている。」(注170)
 ボルシェヴィキはロシアを無害にしてドイツに譲り渡した、ということに彼は同意したが、同様に、ボルシェヴィキは、無益なものにしてそうした(注171)。
 彼が推奨したのは、ドイツが「反革命」を担当し、ロシアのブルジョア勢力を援助することだった。
 このためには、ボルシェヴィキを排除する最小限度の努力が必要だ、と彼は考えた。
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 (03) 自分一人で考えて、Riezler は、反ボルシェヴィキのクーのための基礎作業を設計した。
 第一段階は、モスクワに制服を着たドイツ人の大隊を駐屯させることだった。
 この大隊の表向きの任務は、大使館を将来のテロリズム行為から防御すること、新しい反乱が起きたときにボルシェヴィキを助けること、になるだろう。
 本当の目的は、ボルシェヴィキの権力が崩壊する、またはドイツ政府がボルシェヴィキを権力から排除すると決定するときが来る場合に、モスクワの戦略的地点を占拠することだろう(注172)。
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 (04) ドイツ政府は、大隊をモスクワに派遣することに同意したが、それはソヴィエト政府がそれを承認する場合に限られた。
 ドイツ政府はまた、Riezler に、ラトビア人ライフル兵団の意図を探るために彼らとの控えめな会話を開始する権限を与えた。
 ラトビア人と良好な関係を築いていたRiezler は、寝返る用意はあるか、と尋ねた。
 ある、というのが答えだった。
 ラトビア人の司令官のVatsetis は、1918年の夏の彼の考えを次のように叙述している。
 「奇妙に感じられるかもしれないが、当時、つぎのことが語られていた。中央ロシアは内戦の舞台になるだろう。ボルシェヴィキの権力保持はほとんど不可能だろう。飢餓に陥る犠牲者が発生し、国の内部に一般的な不満がある。
 ドイツ軍、Don コサック、チェコ人の白軍がモスクワで行動する可能性を排除することはできなかった。
 この最後の見方は、当時にとくに広がった。
 ボルシェヴィキはその権力のもとに、戦闘可能な軍事力を有しない。 
 最高軍事会議の軍指導者のM. D. Bonch-Bruevich が知的かつ賢明にその編成を作り上げた部隊は、ヨーロッパ・ロシアの西部地域の飢餓のために、食糧を求めて散在し、ソヴィエトの権威にとって危険な強盗団に変わっている。
 このような軍隊は—かりにこの立派な言葉を使うとすれば—、ドイツ兵のヘルメットを見るや否や逃亡した。
 西部国境では、反抗的な赤色部隊を鎮圧するためにドイツ軍が求められるという事例が起きた。…
 このような考察や風聞の全てとの関係で、私は、ドイツの介入がさらにあれば、またコサックと白軍がロシア中央部に出現すれば、ラトビア人兵団にはいったい何が起きるのかという問題にひどく苦悩していた。
 このような可能性は、当時は真剣に考慮されていた。
 ラトビア人ライフル兵団は完全に壊滅するに至るかもしれなかった。…」(注173)
 Riezler は彼が語ったことから、以下を知った。すなわち、ラトビア人はドイツが占領する彼らの故郷に帰還することを不安に感じている、そして、恩赦と本国帰還が保証されれば、ドイツがボルシェヴィキに反対して介入した場合に、彼らは少なくとも中立を維持する(注174)。
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 (05) Riezler は右派センターとの会話も再開した。
 新しい代表者のGrigorii Trubetskoi 公—帝制ロシアの戦時中のSerbia 大使—は、ロシアからレーニンを排除するためのドイツの迅速な援助を要請した。
 彼はそのグループの協力について、いくつかの条件を付けた。
 第一。ドイツは、ロシアがウクライナに軍事力を集結させることを許容すべきだ。そうしてこそ、モスクワはドイツ人によってでなくロシア人によって解放される。
 第二、ブレスト条約の改訂。第三、ボルシェヴィキに替わる政府に圧力を加えないこと。第四、世界戦争でのロシアの中立(注175)。
 Trubetskoi は、そのグループには、武器だけを必要とする、戦闘意欲のある4000人の将校がいる、と主張した。
 時間の問題が、最重要だった。ボルシェヴィキは、定期的な将校の「人狩り」を行なっており、毎日数十人を処刑していた(注176)。
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 (06) Mirbach の後継者のKarl Helfferich がモスクワに着く(7月28日)までに、Riezler は、本格的なクー・デタの計画を立てていた。
 いったんドイツの大隊がモスクワを掌握すれば(市を警護するラトビア人ライフル兵団は恩赦と本国帰還の誓約があるので中立化している)、ボルシェヴィキ政府の崩壊をもたらすには大した時間を要しない。
 これに続くのは、ウクライナのHetman Skoropadski 体制に範をとった、完全にドイツに依存したロシア政府の樹立だ(注177)。
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 (07) Riezler の計画は、無に帰した。
 計画の重要な事前想定であるモスクワへのドイツの大隊の配置は、レーニンに拒否され、ドイツ政府によって中止された。
 Hindenburg の圧力に屈して、ドイツ政府はソヴィエト政府に対して、一通の覚書を送った。それは7月14日夕方に、Riezler からChicherin に手渡された。
 覚書は、制服を着た大隊をモスクワに派遣することを提案するにあたって、ドイツにはソヴィエトの主権を侵害する意図はない、ということを保証した。派遣の唯一の目的は、ドイツの外交人員の安全を確保することだ。
 覚書は、さらにつづく。新たな反ボルシェヴィキ蜂起が生起すれば、ドイツの大隊はロシア政府がそれを鎮圧するのを助ける(注178)。
 Chicherin は、街の外で休んでいるレーニンにドイツの覚書を伝えた。
 レーニンはすぐに、ドイツの策略を見抜いた。
 その夜にモスクワに戻り、Chicherin と協議した。
 これはレーニンが譲歩することのできない問題だった。彼は、ドイツが自分の権力を脅かすことをしないかぎりでこそ、望むものはほとんど何でもドイツに与えただろう。
 レーニンは翌日、中央執行委員会で覚書を発表した(注179)。
 そして、ロシアはその領土内に外国の兵団を認めるよりもそれと戦うことを欲するのだから、ドイツはその提案に固執しないことを望む、と言った。
 彼は、ドイツ大使館の安全を確保するために必要な全ての人員を提供することを約束した。
 そして、広範囲の通商関係という餌を提示した。それは、ドイツの事業界の利益が影響を受けるように彼に代わって誘導するするための手段だった。それを実体化したのは、翌月に締結された補足条約だった。
 ドイツが本当に決意していた場合に、レーニンが抵抗できたかどうかは疑わしい。今では、ドイツの全ての要求に応えていた2月よりも、さらにレーニンは弱かった。
 しかし、レーニンは試されなかった。ドイツの外務当局は、彼の反応を知らされて、すぐにRiezler の提案を却下したからだ。
 ドイツ政府はRiezler に、「ボルシェヴィキを支援することを継続し、それ以外の者たちとはたんなる『接触』を維持する」よう命令した。
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2820/R.パイプス1990年著—第14章㉑。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第12節/左翼エスエルの反乱の抑圧②。
 (11) 午後11時30分頃、レーニンは、Vatsetis の司令部付きのラトビア人政治委員を自分の役所に呼びつけ、政治委員たちは司令官の忠誠性を保証できるか否かと尋ねた(注121)。
 肯定する回答があったので、レーニンは、Vatsetis を左翼エスエルに対する戦闘作戦の任務に就かせることに同意した。
 だが、警戒を加えるために、通常は2名のところ、4名の政治委員をVatsetis 付きにした。
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 (12) Vatsetis は深夜に、レーニンと逢うようにとの電話を受けた。
 この出会いがどのようなものだったかを、彼は以下のように叙述している。
 「クレムリンは真っ暗で、空っぽだった。
 我々は、人民委員会議〔=内閣〕の会議室へと導かれた。そして、待つよう言われた。…
 私が今初めて入った本当に広大な部屋は、一つの電灯で明るく照らされていた。その電球は天井のどこかの隅から吊るされていた。
 窓のカーテンは下りていた。
 その雰囲気で、自分が軍事作戦という舞台の正面にいることを思い起こした。…
 数分後に、部屋の反対側の端の扉が開き、同志レーニンが入ってきた。
 彼は早足で歩いて私に近づき、低い声で私に訊いた。『同志、我々は朝まで耐えられるだろうか?』
 そう尋ねているあいだ、レーニンは私を見つめ続けた。
 私はその日に、予期しない出来事に慣れてきていた。しかし、レーニンの問いは、その鋭い言葉遣いでもって私を困惑させた。…
 朝まで持ちこたえることが、なぜ重要だったのだろう?
 我々は最後まで耐えられないのか?
 我々の状況はたぶんきわめて不安定だったので、私の政治委員たちは、私に本当の事態を隠蔽していたのだったか?」(注122)
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 (13) レーニンの問いに返答する前に、Vatsetis は、情勢を概観する時間が欲しいと言った(注123)。
 クレムリンを除いて、モスクワは反乱者の手の内にあった。クレムリンは、包囲されている要塞のごとくだった。
 Vatsetis がラトビア人分団の司令部に着いたとき、補佐官の長は彼に対して、「モスクワの連隊の全部」がボルシェヴィキに反対する側に回った、と言った。
 いわゆる人民の軍隊(People’s Army, Narodnaia Armiia)、すなわちモスクワの連隊のうち最大で、フランスおよびイギリスの軍団とともにドイツ軍と戦うべく訓練を受けてきた分団は、中立を維持すると決定していた。
 別の部隊は、左翼エスエルを支持すると宣言していた。
 ラトビア人兵団は、何とか残っていた。すなわち、第一連隊の一つの大隊、第二連隊の一つの大隊、そして第九連隊。
 第三連隊もあった。但し、忠誠心には疑問もあった。
 Vatsetis はまた、ラトビア人砲兵隊や若干のより小さい部隊を計算に入れることもできた。後者の中には、Bela Kun が率いた、親共産主義のハンガリー戦争捕虜の一団もあった。
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 (14)  Vatsetis は、このような情報を得て、翌朝早くまで反攻を遅らせることに決めた。その頃には、ラトビア人分団がKhodynka から戻ってくることになっていた。
 彼は、中央逓信局を奪い返すべく、第九ラトビア人連隊の二つの中隊を派遣した。しかし、能力がなかったか、欠陥があった。左翼エスエルは、何とか彼らを武装解除した。
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 (15)  午前2時、Vatsetis はクレムリンに帰った。
 「同志レーニンは同じ扉から入ってきて、同じ早足で私に近づいた。
 私は数歩だけ彼に向かい、報告した。『我々は、7月7日の正午までに、全線にわたって勝利するはずです』。
 レーニンは私の右手を彼の両手で掴み、強く握りながら、こう言った。
 『ありがとう。君は私を喜ばせた』。」(注124)。
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 (16) 午前5時に、湿った霧の気候の中で反攻を始めたとき、Vatsetis の輩下には3300人の兵士がおり、そのうち、ロシア人は500人もいなかった。
 左翼エスエルは激しく闘い抜いた。それで、ラトビア人兵団が反乱の中央を降伏させ、無傷でジェルジンスキ、Latsis、その他の人質を解放するには、ほとんど7時間を必要とした。
 Vatsetis は、首尾よく済ませた仕事への特別手当として、1万ルーブルを受けた(注125)。
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 (17) 7月7日と8日、ボルシェヴィキは反乱者たちを逮捕し、尋問した。反乱者の中には、Spiridonova、その他の全国ソヴェト大会の左翼エスエル代議員もいた。
 Riezler は、左翼エスエル中央委員会メンバーも含めて、ドイツ大使の殺害に責任のある者全員を処刑するよう、政府に要求した。
 政府は二人の委員を任命した。一人は左翼エスエル蜂起を捜査し、もう一人は、連隊の非忠実な行動について調査する。
 650人の左翼エスエル党員が、モスクワ、ペテログラード、地方諸都市で勾留された。
 数日後、それらのうち200人が射殺された、と発表された(注126)。
 Ioffe は、ベルリンにいるドイツ人に、被処刑者の中にはSpiridnova もいた、と語った。
 このことはドイツ人を大いに喜ばせ、ドイツのプレスは処刑のことを大きく取り上げた。
 この情報は間違いだった。しかし、Chicherin が否定したとき、ドイツの外務当局は、その影響力を使って、その否定の報道を彼らの新聞紙から閉め出した(注127)。
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 ③へつづく。

2819/R.パイプス1990年著—第14章⑳。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第12節/左翼エスエルの反乱の抑圧①。
 (01) 暗殺犯たちは、逃げたときに文書を忘れていた。その中には、大使館への入館許可書があった。
 Riezler から提供されたこの資料と情報から、ジェルジンスキは、銃撃者はチェカの代表者だと名乗ったことを知った。
 彼は完全に驚愕し、Pokrovskii 営舎へと急いだ。そこに、Bol’shoi Trekhsviatitel’skii Pereulok 1番地のチェカ闘争分団があった。
 営舎は、Popov の指揮下にあった。
 ジェルジンスキは、Bliumkin とAndreev を自分の前に突き出すよう命じた。その際、左翼エスエル党の中央委員会全員を射殺させると威嚇した。
 Popov の海兵たちは、服従しないで、ジェルジンスキを拘束した。
 彼は人質となって、Spiridnova の安全を保障するために役立つことになっていた。彼女は、ロシアはMirbach から解放されたと発表すべく、ソヴェト全国大会へと行っていた(注109)。
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 (02) この事件は、雷鳴が伴なう激しい雨の中で起きた。モスクワはやがて、濃い霧に包まれた。
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 (03) レーニンは、クレムリンに戻る途中で、ジェルジンスキがチェカで捕えられたことを知った。Bonch-Bruevich によると、彼がこの報せを聞いたとき、「レーニンは青白くならなかった。白くなった」(注110)。
 レーニンは、チェカが自分を裏切った、と疑い、トロツキーを通じて、チェカの解体を命じた。
 M. La. Latsis が新しい治安警察を組織することになった(注111)。
 Latsis はBolshaia Lubyanka のチェカ本部へと急いで行き、建物もまたPopov の統制下にあることを知った。
 Latsis をPopov のいる本部まで護送した左翼エスエル党員は、その場で彼を射殺しようとした。だが、左翼エスエルのAleksandrovich が間に入って、救われた(注112)。
 役割が逆になってAleksandrovich がチェカの手に落ちた数日後にLatsisが返礼しようとしなかったのは、仲間としての素ぶりだった。
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 (04) その夕方、左翼エスエル党員の海兵と兵士たちは、人質を取ろうと街路に出た。自動車が止められ、それらから27人のボルシェヴィキ活動家が排除された。
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 (05) 左翼エスエルが利用できたのは、2000人の武装海兵と騎兵、8台の大砲、64本の機関銃、4ないし6の装甲車だった(注113)。
 モスクワのラトビア兵分団が郊外で休憩しており、ロシア人連隊の兵士は反乱者側にいるか中立であるかだったことを考えると、このような武力は、恐るべきものだった。
 レーニンは、かつての十月のケレンスキーと同じ屈辱的な苦境に陥っていると感じた。国家の長でありながら、自分の政府を防衛する武力をもっていなかったのだ。
 この時点で、左翼エスエルが望んでいたならば、彼らがクレムリンを掌握し、ボルシェヴィキの指導部全員を逮捕するのを妨げるものは何もなかっただろう。
 左翼エスエルは、武力を行使する必要すらなかった。彼らの中央委員会構成員は、クレムリンへの通行証を携行していたからだ。かつまた、それによって、レーニンの役所と私的住宅へも入ることができた(注114)。
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 (06) しかし、左翼エスエルにはそのような意図がなかった。ボルシェヴィキを救ったのは、左翼エスエルの権力に対する嫌悪だった。
 彼らが狙ったのは、ドイツを挑発し、ロシア人「大衆」の意気を掻き立てることだった。
 左翼エスエル指導者の一人は、捕えられているジェルジンスキに、こう言った。
 「君の前には既成事実がある。
 ブレスト条約は無効だ。ドイツとの戦争は回避できない。
 我々は、権力を欲しない。ウクライナのようになるとよい。
 我々は、地下に入る。
 君たちは権力を維持し続けることができる。だが、Mirbach の下僕であるのはやめなければならない。
 ドイツにロシアを、 Volga まで占領させろ。」(注115)
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 (07) こうして、P. P. Proshian が率いた左翼エスエルの軍団は、クレムリンへと行進してソヴィエト政府を打倒しないで、中央逓信局へと進んだ。そこを彼らは無抵抗なままで占拠し、そこから、ロシアの労働者、農民、兵士ならびに「全世界」に対して、訴えを発した(脚注)
 この訴えは混乱し、矛盾していた。
 左翼エスエルはMirbach 殺害について責任があるとし、ボルシェヴィキを「ドイツ帝国主義の代理人」だと非難した。
 彼らは、「ソヴェト制度」を擁護すると宣言したが、他の全ての社会主義政党は「反革命的」だとして拒絶した。
 一つの電報では、「権力にある」と宣言した。
 Vatsetis の言葉では、左翼エスエルは「優柔不断に」行動した(注116)。
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 (脚注) V. Vladimirova in PR, No. 4/63(1927), p.122-3; Lenin, Sochi neniia, XXIII, p.554-6; Krasnaia Kniga VChK, II (Moscow, 1920), p.148-p.155. Proshian は、その年の前半、逓信人民委員だった。
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 (08) Spiridonova は、午後7時にボリショイ劇場に到着し、大会に対して、長い、散漫な演説を行なった。
 別の左翼エスエルの演説者が、それに続いた。
 彼らは、完全に混乱していた。
 午後8時、代議員たちは、武装したラトビア人兵団が建物を包囲し、入り口を封鎖していることを知った。その入り口から出て、ボルシェヴィキは去っていた。
 Spiridonova は、支持者たちに対して、休憩して二階に集まるよう求めた。
 そこで彼女は、テーブルに跳び上がって、叫んだ。「ヘイ、君たち、国よ、聞け!、君たち、国よ、聞け!」(注117)。
 劇場の一翼に集まったボルシェヴィキ代議員たちは、自分たちが攻撃しているのか、それとも攻撃されているのかを、判断できなかった。
 ブハーリンはのちに、Isaac Steinberg にこう言った。
 「我々は君たちが我々のいる部屋に来て、我々を逮捕するのを待っていた。…
 君たちはそうしなかったので、我々は代わりに、君たちを逮捕することに決めた。」(注118)
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 (09) ボルシェヴィキが行動する好機だった。しかし、数時間が過ぎ去り、何も起きなかった。
 政府は恐慌状態にあった。信頼できる真面目な実力部隊がいなかったからだ。
 政府自身の推測によると、モスクワに駐在していた2万4000人の武装兵士のうち、三分の一は親ボルシェヴィキで、五分の一は信頼できず(つまり反ボルシェヴィキで)、残りは不確定だった(注119)。
 しかし、親ボルシェヴィキ兵士たちですら、動員することができなかった。
 ボルシェヴィキ指導部は絶望的な苦境にあり、クレムリンから避難することを考えた。
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 (10) ラトビア人ライフル兵団の司令官、I. I. Vatsetis は、モスクワ軍事地区司令官のN. I. Muralov から、司令本部へと召喚された。
 Podvoiskii もそこで、彼を待っていた。
 二人は状況を要約して伝え、作戦計画を立案するよう求めた。
 同時に、衝撃を受けているラトビア兵団長に対して、別の将校に作戦実行の任務を課すつもりだ、と言った。
 このように信頼が措かれていなかった理由は、確実に、クレムリンの側のVatsetis に関する知識にあった。彼はドイツ大使館と接触していると考えられていたのだ。
 別のラトビア人に指揮権を委ねるという試みに失敗した後で、Vatsetis は、彼の兵団に、「自分の長」とともに勝利することを保障した。
 このことは、クレムリンに報告された(脚注)
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 (脚注) ドイツ大使館は左翼エスエルに反対して行動するようラトビア人兵団に賄賂を送らなければならなかった、ということが、Riezler の回想録から知られている(Erdmann, Riezler, p.474.)。
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 ②へとつづく。

2817/R.パイプス1990年著—第14節⑲。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第11節/左翼エスエルによるMirbach の殺害。
 (01) 全国ソヴェト大会がボリショイ劇場で始まったとき、左翼エスエルとボルシェヴィキはすぐに互いに激しく非難した。
 左翼エスエルの発言者は革命を裏切ったとしてボルシェヴィキを責め、都市と農村の間の戦争を扇動した。一方でボルシェヴィキは、ロシアとドイツの戦争を挑発しているとして、左翼エスエルを非難した。
 左翼エスエルは、ボルシェヴィキ政府の不信任、ブレスト=リトフスク条約の廃棄、対ドイツの戦争宣言を呼びかけて動議を提出した。
 ボルシェヴィキは多数でこれを却下した。このあと、左翼エスエルは会場から退出した。
 --------
 (02) Bliumkin によると、7月4日の夕方にSpiridonova が彼に会いたいと言ってきた(注104)。
 彼女は、党は彼がMirbach を暗殺するのを望んでいる、と言った。
 Bliumkin は、必要な準備のために24時間の猶予を求めた。
 彼とAndreev に必要だったものの中には、二人がドイツ大使に聴取することを依頼する、ジェルジンスキの偽造署名のある文書、二本の回転式拳銃、二発の爆弾、Popov が運転手を雇う、チェカの自動車、があった。
 --------
 (03) 7月6日の午後2時15分から30分頃、チェカの二人の代表者がDenezhnui Pereulok にあるドイツ大使館に姿を現した。
 一人は、Iakov Bliumkin、チェカ反対諜報局の職員だと自己紹介した。
 もう一人は、Nicholas Andreev、革命審判所の職員だと。
 二人は、信用証明書を提示した。それらにはジェルジンスキとチェカの書記の署名があり、「大使に直接の関係のある問題」を議論する権限を二人に与えていた(注105)。
 その問題とは、チェカがスパイ行為の嫌疑で勾留した、大使の親戚だと信じられた、Robert Mirbach 中尉の事案のことだと分かった。
 訪問者二人は、Riezler と通訳のL. G. Miller 中尉に迎えられた。
 Riezler は、自分はMirbach 公に代わって語る権限をもつ、と言った。だが、ロシア人たちは、ジェルジンスキから大使と個人的に話すよう指示されていると強く主張して、Riezler を相手にするのを拒んだ。
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 (04) 在モスクワ・ドイツ大使館は、しばらくの間、暴力が加えられる可能性があるという警告を受けてきていた。
 差出人不明の手紙がきた。また、完璧に機能している照明設備を点検するという電気技師の訪問とか大使館の建物の写真を撮っている者などの怪しい出来事があった。
 Mirbach は、訪問者と逢うことに気乗り薄だった。しかし、チェカの長からの信用証明書が提示されたので、彼らと逢うために降りて来た。
 ロシア人二人は大使に対して、Mirbach 中尉の事案に興味を持たれるだろう、と言った。
 大使は、情報は文書でもらう方がよい、と答えた。
 このとき、Bliumkin とAndreev は、それぞれの鞄に手を伸ばし、回転式拳銃を取り出した。銃は、Mirbach とRiezler を目指して火を噴いた。
 どの銃弾も、命中はしなかった。
 Riezler とMirbach は、床に倒れ込んだ。
 Mirbach は立ち上がり、居間を通って階上へと逃げようとした。
 Andreev は追いかけて、後頭部に向かって発射した。
 Bliumkin は、部屋の中央へと爆弾を投げた。
 二人の暗殺企図者は、開いた窓から跳んで外へ出た。
 Bliumkin は負傷したが、何とかAndreev に追いつき、大使館を取り囲む二メートル半の高さの鉄屏を昇り、エンジンを噴かせて外で待つ自動車に乗った。
 大使のMirbach は、意識を回復することなく、午後3時15分に死亡した(注106)。
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 (05) 大使館の館員たちは、大使への急襲はより一般的な攻撃の前兆ではないかと怖れた。
 軍事要員が、安全を保つ責任を引き受けた。
 ソヴィエト当局に連絡しようと試みたが、無益だった。電話線が切断されていたからだ。
 軍事担当官のBothmer は、外務人民委員部が所在しているMetropole ホテルへと走った。
 そこで、Chicherin の副官であるKarakhan に、起きたことを告げた。
 Karakhan は、クレムリンに連絡した。
 レーニンは3時30分頃に報せを受け、ただちにジェルジンスキとSverdlov に知らせた(注107)。
 --------
 (06) その日の午後遅く、ボルシェヴィキの要職者の一行が、ドイツ大使館を訪れた。
 最初に到着したのは、Radek だった。彼は武器を携行しており、それをBothmer は、小さな攻撃用拳銃と叙述した。
 続いたのは、Chicherin、Karakhan、そしてジェルジンスキだった。
 一団のラトビア人ライフル兵たちが、ボルシェヴィキ要職者の後に来た。
 レーニンは、クレムリンにとどまった。だが、大使館に責任をもつRiezler は、説明と謝罪をするためにレーニン自身が現れるよう強く主張した。
 外国の外交官が国家の長に対して要求するのは、きわめて特異なことだった。だが、これは、レーニンが従わなければならなかった当時のドイツの影響力を示していた。
 レーニンは、Sverdlov を伴なって、午後5時頃にやって来た。
 ドイツ側の目撃者によると、レーニンは事件について純粋に技術的な関心を示し、殺害の場所、家具の正確な配置、爆弾による被害を示すよう求めた。
 彼は、死者の遺体を見るのは固辞した。
 レーニンは、あるドイツ人の言葉では、「犬の鼻のように冷たく」詫びの言葉を発し、犯罪者は罰せられると約束した(注108)。
 Bothmer は、ロシア人たちはきわめて怯えているように見える、と思った。
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 第11節、終わり。

2815/R.パイプス1990年著—第14節⑱。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第10節/左翼エスエルの暴動企図②。
 (06) 決定の直後に、左翼エスエルは動き始めた。
 モスクワとその郊外の連隊に煽動者を派遣した。いくつかでは党の側に引き込み、残りは中立化することに成功した。
 チェカ内部で活動する左翼エスエル党員は、ボルシェヴィキが反攻した場合に闘う軍事部隊を集結させた。
 ドイツ大使に対するテロリズム行為を実行する準備が行なわれた。ドイツ大使の暗殺は、全国民的な決起の合図として役立つものとされた。
 十月前夜のボルシェヴィキの戦術を模倣して、左翼エスエルは、その計画を隠さなかった。
 6月29日、機関紙の<Znamia truda>は第一面で、活動可能な党員全員に対して、7月末までに党の地域事務局へ報告するよう訴えた。党地域委員会は、軍事訓練を行なうよう指示された(注101)。
 その翌日、Spiridonova は、武装蜂起のみが革命を救うことができる、と宣言した(注102)。
 ジェルジンスキ〔Dzerzhinskii〕とそのラトビア人仲間がなぜ、この警告を無視して、7月6日に突然に身柄を拘束されたのかは、不可解な謎のままだ。
 --------
 (07) この問題に対する部分的な、かつ部分的だけの回答は、陰謀者たちの何人かはチェカの指導機関で働いていた、ということだ。
 ゼルジンスキーは彼の代理人として、左翼エスエル党員であるPetr Aleksandrovich Dmitrievskii —一般にAleksandrovich として知られた—を選んでおり、この人物を完全に信頼して広い権限を与えていた。
 チェカに雇用され、陰謀に関与した他の左翼エスエル党員には、逆スパイとドイツ大使館への浸透を責務としていたIakov Bliumkin、写真家のNicholas Andreev、チェカの騎兵軍団の長官のD. I. Popov がいた。
 これらの人物が、秘密警察の本部の内部で、陰謀を企てた。
 Popov は、ほとんどが親左翼エスエルの海兵である、数百人の武装人員を集めた。
 Bliumkin とAndreev は、ドイツ大使のMirbachを暗殺する責任を請け負った。
 この二人はドイツ大使館の建物をよく知っており、大使殺害の後で辿る逃走経路の写真を撮っていた。
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 (08) こうした準備を監督していた<三人組(troika)>は、7月4日夕方に予定されていた第五回全国ソヴェト大会の第二日か第三日のいずれかに、蜂起を実行しようと計画した。
 Spiridonova は、ブレスト=リトフスク条約の廃棄と対ドイツの宣戦布告を呼びかける動議を提出することとされた。
 大会での発言を決定する幹事委員会は、左翼エスエルに、寛大に議席の40パーセントを割り当てていた。また、多くのボルシェヴィキ党員がブレスト条約に反対していることが知られていた。これらの理由で、左翼エスエル指導部は、自分たちが多数派となる十分な可能性がある、と考えた。
 しかしながら、かりにそれに失敗するならば、ドイツ大使に対するテロリズム行為でもって反逆の旗を掲げることになるだろう。
 7月6日は偶然に聖ジョン日(<Ivanov den’>)だったので、行動には好都合だった。この日はラトビアの祝日で、ラトビア人ライフル兵団はモスクワ郊外のKhodynka 広場へと遠足して祝うことになっていた。そして、クレムリンには最小限の同僚のみを残すのだった(脚注)
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 (脚注)  彼らの指揮者のI. I. Vatsetis によると、その頃、ラトビア兵団のほとんどは、Volga-Ural の戦線へと派遣されていた。Pamiat’, No. 2(1979)
, p.16.
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 (09) 引き続く事態が進行したとき、モスクワの状況は弱々しいものだったので、左翼エスエルが権力奪取を望んだならば、ボルシェヴィキが十月にそうだった以上にはるかに簡単に、それができただろう。
 しかし、左翼エスエルは、断固として、統治する責任を負いたいと考えなかった。
 彼らの反逆は、クー・デタではなく、クー・劇場(coup de theatre)、すなわち、「大衆」に衝撃を与え、彼らの沈滞している革命精神を活性化するための、大規模の政治的示威行為、だった。
 左翼エスエルは、過ちを冒した。その過ちをレーニンは、彼の支持者に対して永遠に、革命で「演劇する」ことの過ちとして警告し続けた。
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 第10節、終わり。

2800/R.パイプス1990年著—第14章⑦。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第四節/ドイツ大使館員がモスクワに到達①。
 (01) 1918年の後半、ロシアとドイツの両国は、互いに大使館を設置した。Ioffe がベルリンに行き、Mirbach がモスクワにやって来た。
 ドイツ人は、ボルシェヴィキ・ロシアが最初に信認した外国使節団だった。
 彼らは驚いたのだが、ドイツ人がモスクワまで旅をした車両は、ラトヴィア人によって警護されていた。
 ドイツの外交官の一人は、ロシアによってモスクワで催されたレセプションは驚くほど温かかった、と書いた。戦勝者がこれほどまでに歓迎されたことはかつてなかった、と彼は思った(31)。
 --------
 (02)  使節団の長のMilbach は47歳の経歴ある外交官で、ロシアの諸事情について多くの経験があった。
 彼は1908年から1911年まで、ペテルブルクのドイツ大使館の顧問として勤務し、1917年12月に、ペテルブルクへの使節団の長となった。
 Milbach は、プロイセン・カトリックの富裕で貴族的な家庭の出身だった(脚注)
 昔からの派の外交官で、同僚たちの中には「ロココ伯爵」と呼んで相手にしない者もおり、革命家たちと付き合うのは苦手だった。しかし、機転と自制心によって、外務省内での信頼を獲得していた。
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 (脚注)  Milbach につき、完全には信頼できないが、つぎを見よ。Wilhelm Joost, Botschafter bei den roten Zaren (Vienna, 1967), p.17-p.63.
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 (03) Milbach の片腕のKurt Riezler は、36歳の思慮深い人物で、やはりロシアの事情をよく知っていた(脚注)
 彼は1915年に、レーニンの協力を確保するという、Parvus の失敗した企てに一定の役割を果たした。
 1917年にストックホルムに派遣され、ドイツ政府とレーニンの代理人の間の主要な媒介者となった。彼は、いわゆるRiezler 基金からロシアへとその代理人に援助金を送った。
 Riezler は、ボルシェヴィキが十月のクーを実行するのを助けた、と言われている。但し、そこでの彼の役割は明瞭ではない。
 同僚たちの多くと同様に、彼は、ドイツを救うことのできる「奇跡」として、クーを歓迎した。
 彼はブレストでは、融和的政策を主張した。
 しかしながら、彼は、気質的に悲観論者で、どちらの側が戦争に勝ってもにヨーロッパは衰亡に向かっている、と考えていた。
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 (脚注) 彼の諸文書は、Karl Dietrich Erdmann によって編集された。Kurt Riezler, Tagebücher, Aufsatze, Dokumente (Göttingen, 1972).
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 (04) ドイツ大使館の第三の主要な人物は軍事随行員のKarl von Bothmer で、Ludendorff やHindenburg の考え方を引き継いでいた。
 この人物はボルシェヴィキを毛嫌いしており、ドイツはボルシェヴィキと縁を切るべきだと考えていた(32)。
 --------
 (05) これら三人のドイツ人は、ロシア語が分からなかった。
 彼らと接触することになるロシア人は、全員が流暢にドイツ語を話した。
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 (06) ドイツ外務省はMilbach に対して、ボルシェヴィキ政府を支援すること、条件を設けることなくロシアの少数反対派と連絡を保つこと、を指示した。
 Milbach は、ソヴィエト・ロシアの真実の状況およびロシアにいる連合諸国の代理人たちの活動に関する情報を得ることを自らの任務とした。ブレスト条約が定めていた諸国間の通商交渉の基礎作業をするのは当然のことだった。
 20人の外交官とそれと同数の書記職員たちは、Arbat 通りから脇に入ったDenezhnyi Pereulok に贅沢な私宅を構えた。それらは、共産主義者たちから事業を守り続けたいドイツ人の砂糖事業家の財産だった。
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 (07) Milbach は数ヶ月前にペテログラードにいたことがあり、自分が何を期待されているのかを知っていたに違いなかった。そうであっても、モスクワで見たものには唖然とした。
 彼はモスクワ到着の数日後に、ベルリンへこう書き送った。//
 「通りはとても活発だ。
 しかし、もっぱら貧民たち(proletarian)で溢れている。良い衣服を着た者たちを滅多に見ることがない。—まるで、かつての支配階級、ブルジョアジーはこの地球上から消滅したかのごとくだ。…
 かつては公衆の中で富裕な層だった聖職者たちは、同様に、通りから消失した。
 店舗では、主に以前は美麗だったものの埃まみれの残物を見つけることのできるのだが、それらは狂気じみた値段で売られている。
 労働というものが欠落した状態の蔓延、愚かなままでの怠惰、これはこうした風景全体に特徴的だ。
 工場は操業を停止した状態で、土地はほとんどが耕作されないままだ。—ともかく、これが我々が今度の旅で得た印象だ。
 ロシアは、[ボルシェヴィキによる]クーによる苦難以上の、さらに大きな災難へと向かっているように思える。//
 公共の安全には、望まれるものがまだ残っている。
 昼間には自由に一人で動き回ることができるのだが。
 しかしながら、夕方に自宅から出ることは勧められない。射撃の音が頻繁に聞こえ、小さなあるいは大きな衝突がしょっちゅう起きているようだ。…//
 ボルシェヴィキによるモスクワの支配は保持されている。何よりも、ラトヴィア軍団によってだ。
 さらには、政府が徴発した多数の自動車にも依っている。多数の自動車が市中を走り回り、危険な箇所へと、必要な兵団を送り届けている。//
 このような状態が今後どうなるかを、まだ判断することができない。しかし、とりあえずは一定の安定の見込みがある、ということは否定できない。」(33)
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 (08) Riezler もまた、ボルシェヴィキ支配のモスクワに意気消沈した。最も衝撃的だったのは、共産主義官僚たちの腐敗の蔓延と怠惰な習慣だった。とりわけ、女性を求める飽くことのない要求。(34)

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 (09) 5月半ば、Milbach はレーニンと会った。
 レーニンの自信は、彼を驚かせた。
 「一般にレーニンは自分の運命に岩のごとき確信を持っていて、何度も何度も、ほとんど執拗なほどに、際限なき楽観主義を表明する。
 同時にレーニンは、彼の支配体制はまだ無傷であったとしても、敵の数は増え続けていて、状況は『一ヶ月前以上の深刻な警戒』を必要としている、と認める。
 他諸政党は現存の体制を拒否する点だけで一致しているが、別の見方をすれば、それら諸政党は、全ての方向に離ればなれになりそうで、ボルシェヴィキの権力に匹敵するほどのそれを全く持っていない。その他の諸政党ではなく支配政党たるボルシェヴィキだけが組織的権力を行使する、という事実に、レーニンの自信の根拠はある(35)。(脚注)
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 (脚注) 当時にものちにも、レーニンは私的会話では人民の支持に自分の強さの淵源を求めなかった、ということは注目に値する。彼は強さの由来を反対派の分裂に見ていた。
 彼は1920年代にBertrand Russel に、自分と仲間たちは二年前には周囲の敵対的状況の中で生き延びられるかを疑っていた、と語った。
 「彼は自分たちが生き延びたことの原因を、様々な資本主義諸国の相互警戒心とそれらの異なる利害に求める。また、ボルシェヴィキの政治宣伝の力にも」。以上、Bertrand Russel, Bolshevism (New York, 1920), p.40.
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 ②へとつづく。

2787/R.パイプス1990年著—第14章③。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 第14章の試約のつづき。
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 第14章第二節/赤軍創設と連合国との会話①。
 (01)  1918年3月23日、ドイツ軍は、長く待った西部戦線への攻撃を開始した。
 ロシアとの休戦以降、Ludendorff は、50万人の兵士を東部から西部へと移動させた。勝利すべく、二倍の数の生命を犠牲にするつもりだった。
 ドイツ軍は、事前の大砲の連弾なくしての攻撃、特殊な訓練を受けた「電撃部隊」の重大な戦闘への投入といった、多様な戦術上の刷新を採用した。 
 ドイツ軍は、攻撃の主力部隊をイギリス部門に集中し、それは強い圧力を受けた。
 連合国司令部内の悲観論者、とくにJohn J. Pershing は、前線は攻撃に耐えられないのではないかと怖れた。
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 (02) ドイツの攻勢は、ボルシェヴィキもまた困惑させた。
 公式の言明としては両方の「帝国主義陣営」を非難し、交戦の即時停止を要求したが、ボルシェヴィキは実際には、戦争の継続を望んでいた。
 諸大国が相互の戦闘に忙殺されているあいだは、獲得したものを堅固にすることができ、将来に予期される帝国主義十字軍を迎え打ち、さらには国内の反対勢力を粉砕するのに必要な軍事力を高めることができた。
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 (03) ボルシェヴィキは、中央諸国との講和条約の締結後ですら、連合諸国との良好な関係を維持しようとした。なぜなら、つぎのことに確信がなかったからだ。ドイツ人がボルシェヴィキを権力から排除しようとロシアへと進軍する、そのようなことを惹起する「好戦的政党」は決してベルリンを支配し続けることはない、ということの確信。
 ドイツ軍による三月のウクライナとクリミアの占領は、このような懸念を増幅させた。
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 (04) 既述のように、トロツキーは、連合諸国に経済的援助を要請した。
 1918年3月半ば、ボルシェヴィキは、赤軍の設立と、可能ならば潜在的にあり得るドイツによる侵略に対抗する介入への助力、を呼びかける緊急の訴えを発した。
 レーニンは、ソヴィエト・ロシア関係に集中しつつ、新たに任命した戦争人民委員のトロツキーに、連合諸国と交渉する任を与えた。
 もちろん、トロツキーが初めて主張した全ては、ボルシェヴィキ中央委員会によって裁可されていたものだった。
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 (05) ボルシェヴィキは3月初めに、軍隊の設置に真剣に取り組むことを決定した。
 だが彼らは、ロシアの多くの社会主義者と同様に、職業的軍隊は反革命をはぐくむ基盤になると見ていた。
 <アンシャン・レジーム>〔旧帝制〕の将校たちを幕僚とする常備軍は、自己破壊を誘引することを意味した。
 ボルシェヴィキが好んだのは<武装した国民>であり、国民軍(people’s militia)だった。
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 (06) ボルシェヴィキは、権力掌握後も、旧軍隊が残したものを解体し続けた。将校たちからは、彼らが保持した僅かなものも、剥奪した。
 ボルシェヴィキが元々指令していたのは、将校たちは選挙されるべきであり、軍隊の階層は廃止されるべきであり、兵士ソヴェトに司令者の任命権が与えられるべきだ、ということだった(注4)。
 ボルシェヴィキ煽動家の誘導によって、兵士や海兵たちは、多数の将校にリンチを加えた。黒海艦隊では、このリンチは、大規模な虐殺へと発展した。
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 (07) レーニンとその副官たちは同時に、彼ら自身の軍隊を創設することに関心を向けた。
 レーニンのもとでの初代の戦争人民委員に、彼は、32歳の法律家のN. V. Krylenko を選任した。この人物は、予備役の中尉として帝制軍に奉仕していた。
 1917年11月に、Krylenko はMogilev の軍司令部へ行った。最高司令官のN.N. Dukhonin を交替させるためだった。Dukhonin はドイツ軍との交渉を拒んでいた者で、Krylenko の兵団によって荒々しく殺害された。
 Krylenko は、新しい最高司令官に、レーニンの秘書の兄である、M. D. Bunch-Bruevich を任命した。
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 (08) 職業的将校たちは実際には、知識人たちよりももっと、ボルシェヴィキに協力するつもりである、ということが分かった。
 厳格な非政治主義と権力者への服従という伝統のもとで育ったので、彼らのほとんどは、新政府の命令を忠実に履行した(注5)。
 ソヴィエト当局は彼らの氏名を明らかにするのに気乗りでなかったけれども、ボルシェヴィキの権威をすみやかに承認した者たちの中には、帝制軍の将軍の高級将校だった、以下のような人々もいた。A. A. Svechin、V. N. Egorev、S. I. Odintsov、A. A. Samoilo、P. P. Sytin、D. P. Parskii、A. E. Gutov、A. A. Neznamov、A. A. Baltiiskii、P. P. Lebedev、A. M. Zainonchkovskii、S. S. Kamenv(注6)。
 のちに、二人の帝制時代の戦争大臣、Aleksis Polivanov とDmitri Shuvaev も、赤軍の制服を着た。
 1917年11月の末、レーニンの軍事補佐のN. I. Podvoiskii は、旧帝制軍の一員たちは新しい軍隊の中核として役立つのかどうかに関して、将軍たちの意見を求めた。
 将軍たちは、旧軍隊の健全な軍団は用いることができる、軍は伝統的な強さである130万人まで減らすことができる、と回答し、推奨した。
 ボルシェヴィキはこの提案を拒否した。新しい、革命的軍隊を作りたかったからだ。それは、1971年にフランスで編成された革命軍—すなわち<levee en masse>—を範としたものだったが、これには農民はおらず完全に都市居住民で構成されていた(注7)。
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 (09) しかしながら、事態の進行は待ってくれなかった。前線は崩壊しつつあり、今ではそれが、レーニンの前線だった。—こう好んで言ったように。「十月のあとで、ボルシェヴィキは『防衛主義者』になった」。
 新しいボルシェヴィキ軍を創設することになるよう、30万人から成る軍隊の設立が話題になった(注8)。
 レーニンは、この軍隊が集結し、一ヶ月半以内に、予期されるドイツ軍の襲撃に対応するよう戦闘準備を整えることを、要求した。
 この命令は、1月16日のいわゆる諸権利の宣言(-of Rights)で再確認された。この宣言は、「労働者大衆がもつ力の全てを確保し、搾取者の復活を阻止するために」(注9)赤軍を創設することを規定していた。
 労働者と農民の新しい赤軍(Raboche-Krest’ianskaia Krasnaia Armiia)は全員が義勇兵で、「証明済みの革命家」で構成される、と想定されていた。各兵士には一ヶ月に50ルーブルが支払われるとされ、全兵士に仲間たちの忠誠さについて個人的に責任を持たせるための「相互保証」によって拘束されるとされた。
 こう予定された軍隊を指揮するために、人民委員会議(Sovnarkom)は1918年2月3日に、Krylenko とPodvoiskii を議長とする、赤軍の全ロシア会合(Collegium)を設立した(注10)。
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2779/O.ファイジズ・レーニンの革命⑥。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991—A History(2014)。第四章の試訳のつづき。
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 第六節。
 (01) ボルシェヴィキの初期の布令の中で、10月26日のソヴェト大会で採択された講和に関するものほど、感情に訴える力をもったものはない。
 レーニンが、その布令を読み上げた。その布令は無併合、無賠償という古いソヴェトの定式にもとづいて「公正で民主的な講和」を訴える、爆弾のごとき「全ての交戦諸国の国民への宣言」だった。
 布令の趣旨が明らかになったとき、Smolny のホールには、圧倒的な感動の波が生じた。
 John Reed は<Ten Days That Shook the World>の中で、こう思い出した。「我々は立ち上がっていて、一緒に口ずさんで、滑らかに上昇してくる the Internationale の斉唱に加わった。…『戦争が終わった』と私の近くにいた若い労働者が言った。彼の顔は輝いていた。」(注15)
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 (02) しかし、戦争は少しも終わらなかった。
 講和に関する布令は希望の表現であって、現実の言明ではなかった。
 ボルシェヴィキはそれを、西側での革命の炎を煽るために使った。
 それはボルシェヴィキにある、戦争を終わらせる唯一の手段だった。—いやむしろ、レーニンが示唆したように、戦争を一続きの内戦へと転化する唯一の手段だった。その内戦で、世界の労働者はそれぞれの交戦政府に対抗して団結するだろう。
 世界社会主義革命が差し迫っているとの信念は、ボルシェヴィキの思考の中核にあった。
 マルクス主義者としてのボルシェヴィキには、ロシアのような後進的農民国家で先進的産業社会のプロレタリアートの支持なくして革命が長く持続するとは、考え難いことだった。
 権力掌握は、ヨーロッパ革命の勃発が接近しているという想定のもとで実行された。
 西側からのストライキや暴動の報告は、世界革命が「始まっている」ことの兆候として歓迎された。
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 (03) しかし、この革命が起きることがなければ、いったいどうなるのか?
 そうなれば、ボルシェヴィキは軍隊がないこと(数百万の兵士たちは講和に関する布令は解隊する理由になると理解した)に気づき、ドイツによる侵略に防衛力なくして立ち向かうことになるだろう。
 ブハーリンのような、党の左派に属する者たちにとっては、帝国主義ドイツとの分離講和は、国際的信条に対する裏切りになる。
 彼らは、侵略者ドイツに対する「革命戦争」(ひょっとすれば赤衛隊による)を行なうという考え方に賛成した。それは西側での革命を刺激するだろう、とも論じた。
 これと対照的に、レーニンは、そのような戦争を持続する可能性についてますます懐疑的になった。
 軍隊が存在しないことに直面すれば、ボルシェヴィキには分離講和を締結するしか選択の余地はなかった。そうすれば、ボルシェヴィキに必要な、権力の基盤を固める「息つぎ」の時間が与えられるだろう。
 加えて、東側との分離講和によって中央諸国は西側の前線での戦闘を長引かせることになるので、ロシアのこの政策は、革命の可能性を高めそうだった。
 レーニンは、ヨーロッパでの戦争を終わらせたくはなかった。革命の可能性が大きくなるかぎりで、戦争ができるだけ長く続いてほしかった。
 ボルシェヴィキは、戦争を革命目的のために利用する達人だった。
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 (04) 1917年11月16日、ソヴィエト代表団がドイツ軍との休戦を交渉すべく、ベラルーシの都市、ブレスト=リトフスクへ出発した。
 12月半ば、トロツキーが派遣された。講和関係文書への署名が行なわれる前に西側で革命が始まるという望みをもって、講和交渉を長引かせるためだった。
 ドイツの我慢は、まもなく切れた。
 ドイツはウクライナとの交渉を始めた。ウクライナにはロシアからの独立を達成するためにドイツと保護関係になることを受け容れる用意があった。そして、この脅威を、ロシアがドイツの頑強な要求(ポーランドのロシアからの分離、Lithuania とほとんどのLatvia のドイツによる併合等々)を受諾するための圧力として用いた。
 トロツキーは延期を求め、自分以外のボルシェヴィキ指導者たちと協議するためにペテログラードに戻った。
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 (05) 1918年1月11日の中央委員会での決定的会合では、最大多数派は、ブハーリンの革命戦争の主張を支持した。
 トロツキーは、もっと話し合おうと提案した。
 しかし、レーニンは、分離講和以外の選択の余地はない、それは早ければ早いほどよい、と執拗に主張した。
 彼は、ドイツ革命が勃発する可能性に賭けて革命の全体を遅らせることはできない、と論じた。
 「ドイツはまだ革命を身ごもっているだけだ。我々はすでに、完全に健康な子どもを産んでいる」(注16)。
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 (06) ジノヴィエフと、影のごとき存在のスターリン(Sukhanov によるとこの頃は「ぼんやりした灰色」だった)を含む中央委員会内の他の4人だけの支持しかなかったので、レーニンは、ブハーリンに反対して多数派となるために、トロツキーと同盟することを強いられた。
 トロツキーは、交渉を引き延ばすためにブレスト=リトフスクへと送り返された。
 しかし、2月9日、ドイツはウクライナとの条約に署名し、1週間後に、ロシアとの戦闘を再開した。
 5日経たない間に、ドイツ軍はペテログラードに向かって150マイル前進した。—それまでの3年間にドイツ軍が前進したのと同じ距離。
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 (07) レーニンは、激しく怒っていた。
 ドイツとの条約への署名を拒んだ中央委員会内の反対派ができたのは、敵が前進するのを可能にしたことだった。
 レーニンは、中央委員会での熱気ある議論の末に、2月18日に自分の意見を通過させた。
 ドイツの諸条件を受諾するとの電報が、ベルリンに発せられた。
 しかしながら、ドイツ軍は数日のあいだ、ペテログラードに向かって進み続けた。
 ドイツの航空機がペテログラードに爆弾を落とした。
 ドイツ軍は首都を占領し、ボルシェヴィキを排除することを計画していると、レーニンは確信した。
 レーニンは従前の立場を変え、革命戦争を呼びかけた。
 連合国からは、軍事的な助力が求められた。連合国はロシアを戦争にとどまり続けさせることに関心があり、そのことは、政府の性格によるとか、提供された助力を理由として、という以上のものだった。
 ボルシェヴィキは、首都をペテログラードからモスクワへと避難させ始めた。
 ペテログラードではパニックが起きた。
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 (08) 2月23日、ドイツは講和のための最終文書を提示した。
 このときドイツは、その日まで5日間以内にドイツ軍が掌握していた全ての領土を要求した。
 レーニンは中央委員会で、苛酷な講和条件を受諾する以外に選択肢はない、と強く主張した。
 こう論じた。「もしもそれらに署名をしなければ、数週のうちにソヴェト権力に対する死刑判決に署名することになるだろう」(注17)。
 ドイツの提案を受諾することが決められた。
 ブハーリン派は、抗議して中央委員会から離脱した。
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 (09) 講和条約は、最終的に3月3日に調印された。
 ボルシェヴィキの指導者の誰も、ブレスト=リトフスクに行かなかった。そして、国じゅうで「汚辱の講和」と見なされた条約に彼らの名前を残すことをしなかった。
 左翼エスエルは、抗議してソヴェト政府から離脱した。そしてボルシェヴィキには、自分たち自身だけの権力が残された。
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 (10) ブレスト=リトフスク条約のもとで、ロシアはヨーロッパ大陸上のほとんど全ての領土を放棄することが義務づけられた。
 ポーランド、フィンランド、エストニア、リトゥアニアは、ドイツの保護のもとでの一種の独立を達成した。
 ソヴェト軍団は、ウクライナから退避した。
 最終の計算では、ソヴェト共和国は人口(5500万人)の34パーセント、農業地の32パーセント、工業企業の54パーセント、炭鉱の89パーセント(泥炭と木材は最大の燃料源になっていた)を喪失した。
 ヨーロッパの大国であったロシアは、17世紀のモスクワ公国と同じ程度の地位へと小さくなった。
 だが、レーニンの革命は、救われた。
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 第四章第六節、終わり。第四章全体も終わり。

2778/O.ファイジズ・レーニンの革命⑤。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991—A History(2014)。第四章の試訳のつづき。
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 第五節。
 (01) ロシアの国民的議会の閉鎖に対して、全民衆的な反応はなかった。
 エスエルを支持する伝統的基盤である農民層には、無関心があった。
 エスエルは自分たちの憲法会議への敬意を農民たちは共有してくれている、と考えていたが、これは間違っていた。
 教養のある農民たちにとってはおそらく、憲法会議は「革命」のシンボルだった。
 だが、自分たちの政治的思考の及ぶ範囲が彼ら自身の村落に限定されていた農民大衆にとっては、憲法会議は、都市的政党が支配する遠く離れた議会であり、評判の悪い帝制期のドゥーマを連想させるものだった。
 彼らには、自分たちの考えに近い村落ソヴェトがあった。実際には、より革命的形態での村落集会にすぎなかったけれども。
 あるエスエルの宣伝活動家は、農民兵士たちの集団がこう言うのを聞いた。「何のために憲法会議が必要なのか?、我々のソヴェトがすでにあり、我々の代表者は、集まって、何でも決定できるというのに」(注12)。
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 (02) 農民層は、村落ソヴェトを通じて、地主たち(gentry)の土地と財産を自分たちに分けた。
 そうしたのは社会正義に関する彼らの平等主義的規範に沿ったからで、10月26日に全国ソヴェト大会が採択した土地に関する布令による制裁(sanction)を必要としなかった。
 いかなる中央の権力も、彼らがすべきことを語りはしなかった。
 村落共同体(commune)は、各世帯の「食べる者」の数に従って、没収した耕作地の細片を割り当てた。
 土地所有者には、農民がするように自分で労働するならば、通常はそのための区画が残された。
 村落共同体の意識の中核にあった土地と労働の権利は、基本的な人間の権利だと理解されていた。
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 (03) 左翼エスエルは、ペテログラードでの敗北の後で、民主主義回復への支持を集めるべく、彼らの元々の、地方の根拠地に戻った。
 そのことは、地方の生活の新しい現実について、新たな教訓を明らかにすることになった。
 都市部では次から次に、穏健な社会主義者たちが、ソヴェトの支配権を極左へと譲り渡した。
 ボルシェヴィキと左翼エスエルが、準工業的農民の大部分とともに労働者と兵士たちの支持をあてにすることができた北部と中央の工業地域では、地方ソヴェトのほとんどは、たいていは投票箱を通じて、10月の末までに、ボルシェヴィキの手に握られた。そして、Novgograd、Pskov、Tver でのみ、若干の激しい戦闘が起きた。
 さらに南部の農業地方では、権力の移行は長くかかり、主要な都市の路上の戦闘によって血が流れた。
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 (04) ソヴェト権力の確立にしばしば伴なっていたのは、「ブルジョア」の財産の没収だった。
 レーニンは地方ソヴェトの指導者に対して、復讐によって社会正義を実現する形態として、「略奪者からの略奪」を組織することを推奨した。
 ソヴェトの役人たちは、薄い令状を持ちつつ、ブルジョアの家宅を周りに行き、「革命のために」貴重品や金銭を没収することになる。
 ソヴェトは<burzhooi>〔ブルジョア〕から税金を徴収し、納入を強制するために人質を監獄に入れた。
 こうして、ボルシェヴィキのテロルが始まった。
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 (05) 報復と復讐は、革命の力強い駆動力だった。
 巨大な数のロシアの民衆にとって、全ての特権の廃止が革命の基本的原理だった。
 ボルシェヴィキは、この特権に対する闘争に制度的形態を与えることによって、自らの運命に何ら良いことがなくとも富者や強者が破壊されるのを見ることに満足する、そのような貧しい、多数の民衆から革命のエネルギーを引き出すことができた。
 ソヴェトの政策で民衆に訴えることができたのは、つぎだった。昔の豊かな階級がその持つ広い家屋を都市の貧しい民衆と分かち合うよう、あるいは路上で雪やゴミを清掃するような単調かつ退屈な作業をするように強いること。
 トロツキーはこう述べた。「何世紀にもわたって、我々の父親や祖父たちは、支配階級の汚物やゴミを清掃してきた。だが今は、我々が彼らに我々の汚物をきれいにさせよう。我々は彼らの生活を快適でないものにして、ブルジョアにとどまるという希望を失わせるようにしなければならない」(注13)。
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 (06) ボルシェヴィキは、<ブルジョア>を「寄生虫」、「階級の敵」だと描いた。
 そして、大規模に彼らを破壊するテロルを行うことを奨励した。
 レーニンは、1917年12月に「競争を組織する仕方」を書いて、それぞれの町や村には「ロシアの大地からノミ、シラミ—ごろつき、狂人—、金持ち、等々を一掃する」それぞれに独自の手段が残されるべきだ、と提案した。
 「ある所では、10人の金持ち、12人のゴロつき、仕事を怠ける6人の労働者が、監獄に入れられるだろう。
 二つめの場所では、彼らはトイレ掃除をさせられるだろう。
 三つめの場所では、一定の時間を務めた後で『黄色い切符』が与えられるだろう。そうすると、彼らが直るまで、<有害な>者たちだと誰もが警戒し続ける。
 四つめの場所では、全員のうち10人ごとの怠け者の中から1人が、ただちに射殺されるだろう。」(注14)
 「ブルジョアジーに死を!」は、チェカ(Cheka)の建物の壁に書かれていた。
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 (07) 財産を奪われ、名誉を傷つけられ、「かつての人民」は生き残りのためにもがいた。
 彼らは、食っていくだけのために最後の所有資産を売ることを強いられた。
 Meyendorff 男爵夫人は、5000ルーブルでダイアモンド製ブローチを売った。—一袋の小麦を買うことができた。
 貴族の御曹司たちは、街路上の売り人へと格落ちした。
 多数の者が全てを売り払い、外国へと逃亡した。—およそ200万のロシア人エミグレが1920年代の初めまでに、Berlin、Paris、New York にいた。あるいは、南へと、ウクライナやKuban へ逃げた。そこは、反革命の白軍が勢力の主要な基盤としていた地域だった。
 白衛軍は、帝制軍、コサック、地主やブルジョアの息子たちで成る義勇部隊で、ボルシェヴィキに反抗する闘争でもって統合された。
 彼らの明瞭なただ一つの目標は、時計の針を1917年十月の前に戻すことだった。
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 第四章第五節、終わり。

2777/O.ファイジズ・レーニンの革命④。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991—A History(2014)。第四章の試訳のつづき。
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 第四節。
 (01) 新しい体制が長く続くとは、ほとんど誰も考えなかった。
 「一時間のCaliphs 〔アラブの指導者〕」というのが、多くのプレスの判断だった。
 エスエル指導者のGots は、ボルシェヴィキに「数日間」だけを認めた。
 Gorky は2週間、Tsereteli は3週間だった。
 多くのボルシェヴィキは、それ以上に楽観的ではなかった。
 教育人民委員〔文部科学大臣〕のLunacharsky は10月29日に、妻にこう書き送った。「事態はまだ不安定なので、手紙から離れるときいつも、私の最後のものになるのか否かすら分かっていない。私はいつでも、牢獄に投げ込まれる可能性がある」(注9)。
 ボルシェヴィキは首都を辛うじて掌握していた。—ペテログラードには主要な官署の全てがあったが、国有銀行、郵便と電信は権力奪取に抗議してストライキに入っていた。一方、地方については何の統制も効かせていなかった。
 ボルシェヴィキは、ペテログラードに食糧を供給する手段を持ち合わせていなかった。鉄道への支配を失っていたので。
 パリ・コミューン—「プロレタリアート独裁」の原型—の運命と同様になるように見えた。それはフランス全土から切り離されていたので、1871年のフランス軍の攻撃に耐えることができなかった。
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 (02) 最も早い軍事的脅威は、ケレンスキーがもたらした。
 彼は10月25日に冬宮から逃げ、ペテログラードのボルシェヴィキと闘うために北部前線から18のコサック団をかき集めた。ペテログラードでは、カデットと将校たちの小さな部隊が、彼らを支援すべく決起することになっていた。
 一方でモスクワでは、ケレンスキーに忠実な連隊が、10日間、ボルシェヴィキと戦闘した。
 最も激烈な戦闘はKremlin の周りで起き、モスクワの貴重な建築上の財産の多くが損なわれた。
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 (03) 最初の内戦は、Vikzhel つまり鉄道労働組合の介入によって複雑になった。
 全社会主義政党の労働者で成っていたVikzhel は、鉄道輸送を停止すると脅かして、戦闘を中止し、社会主義連立政府樹立に向けた政党間交渉の開始をするようボルシェヴィキに強いようとした。
 首都への食糧と燃料の供給が切断されれば、レーニンの政府は存続できなかった。
 モスクワとペテログラードでのケレンスキー部隊との戦闘は、鉄道に大きく依存していた。
 ボルシェヴィキは10月29日に、メンシェヴィキとエスエルとの協議を開始した。
 しかし、レーニンは、いかなる妥協にも反対した。
 ケレンスキー兵団との戦闘の勝利が確実になるや、彼は政党間協議を潰し、それは最終的には11月6日に決裂した。
 ボルシェヴィキによる権力の奪取は、ロシアでの社会主義運動を分裂させた。それは取り返しのつかないものだった。
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 (04) 権力奪取は全ロシア・ソヴェト大会の名において実行された。しかし、レーニンには、ソヴェト大会または常設のその執行部〔ソヴェト中央執行委員会=ソヴェトCEC〕を通じて統治する意図は全くなかった。ソヴェト執行部では、左翼エスエル、アナキストと少数のメンシェヴィキが、レーニンの独裁を実施する機関である人民委員会議(Sovnarkom)を議会のごとく恒常的に制約しようとしていた。
 人民委員会議は11月4日に、ソヴェトによる同意なくして立法(legislation)をする権限が自らにある—これはソヴェト権力の原理を侵犯していた—、そして、その観点からしてソヴェトの意見を聴くことなく立法できる、と布告した。
 ソヴェト執行部は、12月12日に初めて2週間の会合を行なった。
 人民委員会議はそのあいだに、中央諸国との和平交渉を開始し、ウクライナでの戦争を宣言し、モスクワとペテログラードに戒厳令を敷いた。
 --------
 (05) レーニンは、権力を握った最初の日から、それに反対する「反革命」的政党の破壊に着手した。
 10月27日、人民委員会議は反対のプレスを廃刊させた。
 カデット、メンシェヴィキ、エスエルの指導者たちは、軍事革命委員会によって逮捕された。
 11月の末までに監獄はこれらの「政治犯」で満ちたので、空き部屋を増やすためにボルシェヴィキは犯罪者たちを釈放し始めた。
 --------
 (06) ゆっくりと、しかし確実に、新しい警察国家の姿が見え始めていた。
 12月5日に軍事革命委員会は廃止され、2日後にその任務は、Cheka (反革命と破壊活動に対する闘争のための非常委員会)へ移された。これは新しい保安機関で、やがてKGBになることになる。
 Cheka を設置した人民委員会議の会合で、そのボスのDzerzhinsky は、その任務を、内戦の「内部戦線」にいる革命の「敵たち」とそれらを死に至らせるまで闘うことだと説明した。
 「我々は、革命を防衛するためには何でもする用意のある、決然たる、頑強な、ひたむきの心をもつ同志たちを、あの前線—最も危険で厳しい前線—へと送る必要がある。
 私は革命的正義の形態を追求している、と考えるな。我々には、正義は必要ではない。
 今は戦争だ。—直接に向かい合った、決着がつくまでの戦争だ。
 生か死だ。」(注10)
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 (07) 反対諸政党は、憲法会議に彼らの希望をつないだ。
 憲法会議は確かに民主主義の本当の機関だった。成人の普通選挙でもって選出され、階級に関係なく全ての公民を代表した。
 一方で、ソヴェトは、労働者、農民、兵士だけを代表した。そして、ボルシェヴィキはソヴェトにあえて挑戦しているように見えた。ボルシェヴィキは実際には、分けられていた。
 --------
 (08) レーニンはつねに、形式的な民主主義原理を侮蔑していた。
 彼がその四月テーゼで明瞭にしていたのは、ソヴェト権力を憲法会議よりも高次の民主主義の形態と見なす、ということだった。
 ソヴェトには「ブルジョアジー」のための場所はなかった。そして、彼の見方では、プロレタリアート独裁にはソヴェトのための場所はなかった。
 しかし、ボルシェヴィキによる権力掌握は、部分的には憲法会議の召集を確実にする手段として正当化された。—レーニンは七月事件以降、「ケレンスキー商会」は憲法会議を開かせようとしないだろうと論じていた。したがって、面目を失うことなくして、彼の約束にたち戻ることはできなかっった。
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 (09) さらに加えて、ボルシェヴィキの中の穏健派は、憲法会議のための11月の選挙運動に関与していた。
 カーメネフのような者たちは、地方レベルでソヴェト権力を国民的議会としての憲法会議と結びつけるという考え方に賛成すらしていた。
 憲法会議は、当時のロシアの革命的状況に適した、直接民主制の興味深い混成(hybrid)形態になっただろう。そしておそらく、ソヴェト体制の暴力的発展に進む全ての帰結と結びついた、内戦への螺旋状の下降へと国が向かうのを阻止することができただろう。
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 (10) 11月の選挙は、ボルシェヴィキに関する国民投票(referendum)だった。
 その評決は、不明確だった。
 エスエルが最大多数の票を獲得した(38パーセント)。だが、投票用紙は十月の権力奪取を支持する左翼エスエルと支持しない右翼エスエルを区別していなかった。
 エスエル党の分裂は最近だったので、印刷を変更することができなかった。
 ボルシェヴィキは、ちょうど1000万票(24パーセント)を得た。その多くは、北部の工業地帯の労働者と兵士によって投じられた。
 南部の農業地帯では、ボルシェヴィキは振るわなかった。
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 (11) ただちにレーニンは、宣言した。結果は不公正だ、と。理由はエスエルに分裂があったことだけではなく、十月の蜂起は人々の「頭の中に階級闘争意識を吹き込んだ」、よって国民一般の意見は選挙後に左へと動いているがゆえにだ。
 レーニンは強く主張した。「当然のことながら、革命の利益は憲法会議の形式的諸権利よりも高い位置にある」、憲法会議という「ブルジョア議会」は「内戦」の中で廃棄されなければならない(注11)。
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 (12) 1918年1月5日、憲法会議の開会日のペテログラードは、包囲された状態にあった。
 ボルシェヴィキは公共の集会を禁止していた。そして、市街地を兵団で溢れさせた。その兵団は、憲法会議を防衛するために労働組合が組織した5万人の示威行為者の大群に対して発砲した。
 少なくとも10人が殺害され、数十人が負傷した。
 政府の兵団が非武装の群衆に発砲したのは、二月革命の日々以降で初めてのことだった。
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 (13) タウリダ宮のCatherine ホールで午後4時に、憲法会議は召集されていた。緊張した雰囲気だった。
 すでに代議員とほとんど同数の兵士たちが入っていた。
 彼らはホールの背後に立ち、階廊に座り込んでいた。ウォッカを飲み、エスエルの代議員たちに悪罵の声を発しながら。
 レーニンは、帝政期の大臣たちがドゥーマの会期中に座っていた古い政府用特別室から、情景を眺めていた。
 彼には、決定的な戦闘が始まる前の瞬間の将軍のごとき印象があった。
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 (14) Chernov が議長となり、エスエルが討論を開始した。—彼らエスエルは、立法上の遺産として残したく、土地と講和に関する諸布令を憲法会議で採択させたかった。
 しかし、兵士たちのヤジが激しくて、誰も聞き取ることができなかった。
 しばらくして、ボルシェヴィキは、この憲法会議は「反革命者たち」の手中にあると宣言して、退出した。のちに左翼エスエルが、これに従った。
 そして、午前4時、赤衛隊が閉鎖の手続を始めた。
 赤衛隊の一員だった海兵が演壇に上り、Chernov の肩をそっと叩いた。そして、「警護兵が疲れたので」全員がホールから出て行ってほしい、と宣告した。
 Chernov は数分間、会合を続行した。だが、警護兵が威嚇したので、やむなく会議を延期することに同意した。
 代議員たちは出て行き、タウリダ宮は閉鎖された。
 これとともに、ロシアの12年間の民主主義の歴史は終焉した。
 代議員たちが翌日に再びタウリダ宮に戻ったとき、宮殿の建物に入るのを阻止された。そして、憲法会議を解散するとの人民委員会議(Sovnarkom)の布告を提示された。
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 第四章第四節、終わり。

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